烙印を継ぐ者達 Act.02









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 時計塔。

 倫敦でその名を聞けば、誰もが有名な観光名所を思い浮かべるが、魔術師達にとっては全く別の意味合いに受け取られる。

 世界に点在する魔術協会にあって、最大規模を誇る総本山。若輩魔術師にとっての最高学府。卓越したそれにとっても脱け出る事を忘却させる程研究の為の環境を整えられた、およそ魔術師にとっての理想の地。

 それが時計塔。血統と実力、そして権力の渦巻く、知られざる世界に君臨する魔窟の名だった。

 その時計塔にある学院の薄暗い廊下に男の姿があった。男は眉間に皺を寄せ、今日も今日とて不機嫌な態度を崩しもせずに歩を進める。

「エルメロイ講師!」

 背後より声を掛けられ、エルメロイ講師と呼ばれた不機嫌な男は振り向いた。そこには駆けてきたのだろう、息を切らせた女子生徒が三人居た。どれも見知った顔だった。

「……なんだ」

「もー、教授ってば何でそんないつも不機嫌そうなんですか? ほらほら、もっともっと笑って下さいよー」

「先生ー、わたしとお付き合いしませんかー?」

「こ、講師! ちょっと聞きたい事があるんです!」

「ファック! 貴様ら一辺に喋るじゃねぇ! エリス、私をこんな顔にさせているのが誰なのか、分からん君でもないだろう。アニー、残念だが君と私の関係は講師と生徒だ。それ以上でもそれ以下でもない。カティ、生憎下らない質問に答える余裕などない。せめて授業に関係のあるものなら別だが」

「わ、すごーい教授。私達わざと一辺に喋ったのに全部分かったんですか?」

「……君達はあれか。私をおちょくる為に引き止めたのか?」

「違いますー。先生に交際を申し込む為です!」

「私は純粋にさっきの授業で訊きたい事があったんですけど……」

「…………」

 男は天を仰いだ。

 誰が呼んだか、この男、現代の時計塔を代表する講師であり、『時計塔で一番抱かれたい男』などと持て囃されているが、当の本人はそのふざけた異名を耳にする度に表情をより顰めていった。

 別段魔術に造詣が深いわけでもない。血統が優れているわけでもない。実力を備えているわけでもないこの男──ロード・エルメロイU世が講師の座につく理由が、その名前にこそあった。

「とりあえず、アニー。君は夢の見すぎだ。魔術師ならば魔術師らしくもっと位階の高い相手を選べ。私などの血を取り入れたところで君の家系に齎される益はない」

 それは古い考えだ。エルメロイU世がもっとも毛嫌いする考えだ。だがそれが、魔術師という人種にとって確かな歴史に裏付けされた事実である事も理解していた。

 だからその言葉は正しい。正しくないのは、エルメロイU世を娶る事で得られる益が何もない……というその一点のみ。

「えー、先生その考え方古いですよ。そりゃ両親はそういうのを未だに重要視してるけど私にとってはどうでもいい事なんです。意中の相手と添い遂げる事……それが一番重要なんですから!」

「あー……まあ別にその考えは否定しないが、何故だろうな。何故私の生徒はどいつもこいつも魔術師としての自覚が欠けてやがるのかなぁ、こんちくしょう!」

 悪態をついて懐に手を伸ばす。葉巻を取り出し生徒の目の前で火を付け吹かした。

「あー、教授、ここ禁煙ですよ」

「どうせもうすぐ私の部屋だ。はっ、世知辛い世の中になったものだ。煙草の一つや二つ好きに吸えやしない。
 ……とりあえずカティ、君は付いて来なさい。真面目に質問があるのなら、私も無碍にはしない」

「はいっはいっはい教授! 私も! 私も今質問が出来ました!」

「先生わたしもー。先生が好きな女性のタイプってどんな人ですか?」

 男はうんざりした顔で背を向けた。

「とりあえず、生徒じゃない女性が好きなのは間違いないな」


+++


 結局、先の三人の生徒は誰もが譲らずエルメロイU世の執務室に押しかけてきた。押しに弱いのか、男は柳眉を曲げに曲げながらも三人を執務室に迎え入れ、さらには茶の準備までし始めた。

「全く……何故私が茶坊主の真似事など……」

「いやぁ、ほんと、教授優しいですねぇ。それならモテる理由も分かるってなもんですよ」

「生徒にモテたところで何一つ嬉しくないがな。ほら、さっさと茶を飲んで帰れ」

 いただきまーす、と元気の良い声を上げる三人。その対面に座りエルメロイU世もまたティーカップを傾ける。

「教授、教授に抱かれると魔術回路が一本増えるって本当ですか?」

「ぶばぁっ!?」

「きゃっ、もうっ、教授ってばきたなーいー」

「げほっげほっ、こほっ……おい、おい待てエリス。なんだその根も葉もない根拠もない支離滅裂な噂は」

「いやぁ、多分教授の異名から発展した噂だと思うんですけど。出所までは知りません」

「ファック、そんな道理があるか。そんな事で魔術師の生命線たる魔術回路が増えたのなら魔術師の歴史が引っ繰り返るぞ。彼らの試行錯誤が全くの徒労だ」

「ですよねー、まあ訊いてみただけです」

「あ、先生、わたしも質問というか、確認したい噂があるんですが」

「……なんだ。とりあえず悪い予感しかしないが言ってみろ」

「はい。何でも先生の異名がまた一つ増えるとか」

「……いや、聞いた覚えはないぞ。何より私についた異名なぞ誰とも知らぬ連中が勝手につけたものだ。私自身が襲名した名は今の名以外にない。で、今度は何だ? 最早私には皆目検討もつかんぞ」

「はあ。確か『絶対領域マジシャン先生』とか」

「…………。ところでアニー、その異名をつけようとしているアホに心当たりは?」

「いえ、わたしはさっぱり……」

「あ、それ私聞いた事あるよ教授。クラスの男連中が話してた。んー、確かフラットだったかなぁ、言い出したの」

「ファーック! またアイツか! あのアホか! アイツは一体幾つ下らん異名をつければ気が済むのだ!? あのアホに伝えておけ! 今度の授業は最初から補習だとな! 逃げ出せば倍率ドンだっ! 更に倍だっ!」

「倍率ドンって何ですか先生? でもそんな先生も格好良いです!」

 そんな支離滅裂なやり取りの後、唯一人真面目に質問に来ていたカティの問いに答え、彼女達が飽きて帰った事で、ようやく、彼は人心地つけた。

「……全く」

 革張りの椅子に身を埋める。柔らかな座り心地は、先程までの心労と気苦労を若干軽くしてくれた。
 そのままエルメロイU世は室内に目を配る。広々とした部屋。埃一つない重厚な机。備え付けられた家具はどれもが一級品。教鞭を執る上で必要とされるあらゆる全てが用意された自室を見やり、男は鼻で笑った。

「茶番だな……本当に。私は、こんなものを手に入れたかったわけじゃない」

 事の起こりは十年前に遡る。蒙昧な自己の確立の為に聖杯を巡る闘争に参戦し、命辛々生き延びた。
 その後、幾らかの時間を日本で過ごし、ほとぼりが冷めたであろう頃に時計塔へと戻ったのは良かったが、その当時の時計塔は荒れに荒れていた。

 当時最高峰の栄誉を手にしていたケイネス・エルメロイ・アーチボルトが──己が師事していた人物が、己を貶めてくれた憎き男が、聖遺物を横取りしてやった相手が死んだ事を知ったのは、そんな時の事だ。

 戦争の最中、結局エルメロイU世は件の男と出会う事はなかったのだから、それも仕方のない事だったのだろう。だがその時の時計塔は、本当の意味での魔窟だった。

 類稀なる才を持つアーチボルト家の頭首の訃報。しかも彼の研究成果は形を得ない状態で放置されており、それを何処で聞きつけたのか、耳聡い権力階級は彼の家の全てを貪り尽くそうと争い始めた。

 最早勉学や研究どころの話ではない。誰もが疑心暗鬼に陥り、互いが互いを牽制し、いかにして、誰がどれだけ多くの利を得るか──より多くの富と権力を手に入れるか……ただそれだけを考える妄執が渦巻いていた。

 その醜い争いを治めたのが、このロード・エルメロイU世だった。

 別に負い目があったわけじゃない。もしあの時、ケイネスの聖遺物を奪わなかったら、などという推測は全くの意味がない。同じ戦いに赴き、自分だけが生き延びた幸運を盾に取る気もない。あえて言うのなら、それでも師事した男だったからだ。

 あの男はエルメロイU世の全てを見下していたが、それでも一時師事した人物には違いない。ついでに言えば自分に出来る事があったから、やっただけだ。その清算を以って彼らとの縁を切る筈が──何がどうなったのか、今の地位だ。

 アーチボルトを立て直した男──と持て囃されても、エルメロイU世の気は晴れない。

 努力をした。積み重ねた。あの戦いを生き延びた事によって得た強さを信じ、出来る限りの事をやった。否、今なお続けているというのに──この男には、どうしようもなく魔術師としての才能がなかった。

 講師しては一流でも、魔術師としては三流だ。そんな事実を衝き付けられてなお、彼は未だ自分の才を信じ続けている。

「ま、それはともかく……何の因果かね。これは……」

 目の前に右手を掲げ、手の甲に刻まれたものを見ようとした時──正面、入り口の方からノックの音が木霊した。

「開いている。入ってくれ」

 エルメロイU世は目に映しかけたものを視界の隅に追いやり、訪れた客人に目を向けた。

「失礼しますロード。ご壮健そうですな」

「ああ。お陰様でね」

 現れたのはスーツを着た年老いた男だった。けれどその背はしっかりと伸び、顔にも老いを感じさせない生気がある。身なりとその動作を見るものが見れば、彼が一流の執事であると知れるだろう。

「それで、本家の方が私に何用だ? 来訪の約束も聞いていないと思うのだが」

「いえいえ、今回の訪問は私情にございます。我らが主とは一切関係のない私事。端的に申し上げれば、ロードと雑談に興じられればと」

「ほう。アーチボルト家の執事長はそんなにも暇なのか?」

「耳に痛いですな。ええ、確かに。ロードが我が家を持ち直して下さったお陰で我々は閑暇な日々を送らせて頂いております。全ては、貴方のお陰でしょう」

「もう何年も前の事だろう。今となってはどうでもいい。それから、腹の探り合いは止めたまえ。不愉快だ。用件だけを言え」

 老年の執事の目が細く怜悧になる。

「では単刀直入に申し上げましょう。ロード、その手に令呪を宿したという噂は真実でしょうか」

「…………」

 エルメロイU世は無言のままに右腕を眼前に差し出した。手の甲には、十年前に刻まれた紋様と同じ形の、翼を思わせる赤い印が浮かんでいる。

 執事は僅かに目を伏せ、それから、より真摯な瞳で告げた。

「無礼を承知で申し上げる。ロード、その証を今すぐに放棄して頂きたい」

「……何故だ?」

「貴方ならば分かりましょう。我らは、その証印を刻んだ頭首の逝去により失墜した。今また、貴方に死なれるわけにはいかないのです」

「はっ、それでは私が今度こそ死ぬみたいではないか」

「はい。偶然は二度起きませぬ。失礼ながら、ロードの講師としての手腕は誰もが認めるところですが、魔術師としては一介のそれにすら及ばない。
 今一度凄惨な闘争の場に赴けば、その死は必然の結果となって貴方を……引いては我々を襲う事になります。今や我らが頭首よりも名を馳せる貴方が失われれば、今度こそ本当の意味でアーチボルトはお終いです」

「…………」

 執事の言は全てが正論だった。今やエルメロイU世の名は時計塔に轟いている。今現在のアーチボルトの頭首は祭り上げられただけの年端もいかぬ少女だ。
 実質的な権力を握っているのは取り巻きの連中であり、このエルメロイU世が表向きの旗振り役をやらされている。

 別段、エルメロイU世はその事に興味がない。権力が欲しくて復興に手を貸したわけではないし、表向きの顔役にされる事も、今の生活を思えば、当然の対価であると割り切っている。

 ただ彼らにとって、エルメロイU世という人物は相当に扱いにくい存在なのだ。没落を救いし救世主、と持て囃してはいても、彼自身には確固たる実力や血統、成果があるわけでもない。
 偶然にも講師という席につけるだけの才覚──というには些か非凡な才だったが──を有していたが故に、今の形を取り繕っているだけだ。

 名門一派を率いるには足りない部外の人間。けれど事実としてアーチボルトを立て直した以上無碍にも出来ず、かと言って彼に死なれてはかつての再来を予感させるに足るほど、彼自身の名声は重くアーチボルトに圧し掛かる。

 だからこそ、彼はこの学院で教鞭を執る。執っている。執らされている。執り続けなければならない。

 利権に目を眩ませた悪意ある者がアーチボルトを内部より掌握するか、未だ幼い頭首が一族を率いるに足る者に成長するまで。

 籠の中の鳥として。飼い殺しにされ続ける。

 そして目の前の男は後者。あるべき頭首を頭首足らしめる為、アーチボルトを守る為、自ら悪役を演じる事すら辞さない本物の執事の鑑だ。

「貴方の言いたい事は理解が出来た。大変だな、執事というのも。すまし顔で悪役を演じるなど、到底私には出来るものではない」

「恐れ入ります。しかし、我らの情勢もご理解頂きたい。外部にも内部にも、隙を見せるわけにはいかないのです」

 ケイネスの研究がエルメロイU世の手により一冊の本となり、アーチボルトを安泰に導いたというのは表向きの話だ。この場所は策謀渦巻く時計塔。何食わぬ顔で研究を続けるその裏で、誰が何を画策しているかなど分かったものではない。

 上に登れば登るほど、敵は多く強くなる。一度崩壊しかけたアーチボルトにあっては、その敵味方の区別もまた慎重に慎重を期さざるを得ないのだろう。
 だから今、表向きの権力者であるエルメロイU世が堕ちては困る。虎視眈々と牙を研ぐ獣を近づけさせぬ篝火を失うわけにはいかないのだ。

「ああ、分かっている。分かっているが、私にも事情というものがある。未練もな。だからもう少しだけ考える時間が欲しい」

「……分かりました。確か開幕までにはまだ時間がありましたな。では一週間、待ちましょう。それまでに充分お考え頂きたい。
 私としましては、色好い返事を頂きたく存じますが……頂けない場合は、それなりの処置を取らせて頂く事になるとは思いますので」

 それでは失礼します、と慇懃な礼をし、執事は去っていった。

「はっ、本当、執事の鑑だね。どちらにしろ逃がす気はないって事か。今が軟禁のような生活なら、今度は監禁されてもおかしくはないのだろうな」

 それがあの男の本気だろう。アーチボルトに尽くす為ならば、いかなる手段にも是非を問わない。

 令呪の刻印がエルメロイU世の手に現れたのはほんの二日前の事だ。その事実は特段誰に話したわけでもないし、時計塔の、しかも学院内では令呪どころか聖杯戦争の事すら知っている者は数少ない。

 一体何処から情報が漏れたのか、あるいは掴んだのかは不明だが、余りに迅速すぎるその行動が、彼らがエルメロイU世を失う事を恐れているのと同時に、厄介な存在だとも認識している証左であった。

 現頭首はそこまで賢しく頭を巡らせてはいないだろうが、だからこそ周囲の人間が出来る限り最大限の警戒と情報の操作を行っている。

 とっくの昔に終わったものとばかり思っていた聖杯戦争という大儀礼との因縁。もう関わり合いにすらならないと思慮の外に追いやっていたというのに、運命とやらは彼を今一度その輪の中に引き摺り込みたいようだった。

 しかしその決断を彼だけのものと出来るほど、今の彼は自由ではない。考える暇もなく衝き付けられた己が背負うものの現実と強制的な決断の意思。

「抗うのならこちらも相応の覚悟を要求されるが……さて、どうしたものか」

 右手の甲を掲げて見つめる。
 かつての色を取り戻した赤い刻印。
 とある王との絆。

 不本意な別れによって引き裂かれた、その続きを見る事が叶うのなら……


+++


 五日後。執事との約束の期限を二日後に控えたエルメロイU世は、普段と変わらぬ不機嫌な表情を浮かべて学院の廊下を闊歩する。その隣を歩く、カティという名の女子生徒が声を潜めて訊いてきた。

「……講師、誰かに狙われてるんですか?」

「いや。狙われているというより見張られているという方が正しい」

 あの執事との会話以降、エルメロイU世には常に監視の目が付き纏っている。それも露骨に隠す事無く。現に彼らの後方にはスーツを着た男がおり、今日一日中後を尾行けてきている。
 約束の期限の前に逃亡する可能性など、最初から考慮の内らしい。

「その、事情とかって、訊いても、大丈夫ですか?」

「別に大した事じゃない。私に死なれては困る連中がいて、私が時計塔を抜け出す事を恐れている連中が居る。ただそれだけだ」

 実際ありのまま事実だが、真実ではない。だからこの程度の会話では、要領を得ず首を捻るばかりなのだが、

「……講師は、抜け出したいんですね」

 彼の生徒の誰もが、それなり以上に頭が回る連中ばかりで厄介だった。

「別に。籠の中の鳥もいいものさ。必要なものを全て与えられる生活というのは、魔術師だけでなく人としても理想の生活だろう」

 無論、最低限の仕事は要求されるがね、と続ける。

「空の青さを知っていても、空を飛ぶ術を知っていても、同時に空には恐ろしい化け物がいる事も知っているのなら、鳥は飛び立つ事を躊躇うだろう」

 その籠の中で幸せが完結しているのなら、それ以上を望む必要が何処にあるというのだろうか。

「でも……講師は……いえ、私、少し用事思い出しましたっ! 失礼します!」

「あっ、おい、質問は……いいのかよ」

 全く……と呟き、姿の見えなくなった廊下の奥から目を前に向け、何事もなかったの如くエルメロイU世は次の講義のある教室へと向かう。
 その講義を取っている筈の例の三人組の女生徒が一人も出席していなかった事が、少しだけ気になった。


+++


 二日後。約束の日。

 アーチボルトの執事はエルメロイU世の執務室を訪れ、決断を求めた。

「ではロード、決断の程を」

「ああ。おまえ達の望むがままだ。私は、この時計塔を脱し冬木に赴く気はない」

「然様ですか。いやはや、これで私の荷も少しは軽くなりましたかな。それでは、その令呪を放棄すべく手筈を……」

「必要あるまい。期限を迎えてもサーヴァントも喚び出さぬマスターがいれば、聖杯も愛想を尽かして別のマスターを求めるだろう。これはその内自然に消えてなくなる。なくならなくとも冬木へと渡る気がない以上は意味のないものだ」

「…………」

 執事は疑いの目を向ける。当然の反応だ、とエルメロイU世は笑った。

「だから件の戦いが終わるまで、あるいは私の手から令呪が消えるまで、今までのように監視をつけておけばいい。それならば文句もないだろう?」

「気付いておられましたか」

 白々しい、と思いながらもそんな無粋な指摘はしない。皮肉を言って通用する相手でもないし、わざわざ事を荒立てるメリットがエルメロイU世には何一つとしてない。澄まし顔で話を続ける。

「ああ。あそこまで露骨な手段に訴えてくるとは思ってもいなかったがね。それほど私の命に価値があるとは、私自身どうしても思えないのだが」

「それこそ軽視というものでしょう。アーチボルトだけではなく、この時計塔には貴方を慕う者は数多く在籍していると存じ上げております。故にこそその御命、大事になさいますよう」

 執事は最後に監視の続行の旨を残して立ち去った。

「…………」

 エルメロイU世は長く息を吐いて背凭れに寄り掛かる。実際、彼らの監視下にあってはエルメロイU世ではその監視網を破れない。
 アーチボルトに仕える腕の立つ連中が四六時中見張っているのだ。せいぜいが四階位程度の、どれだけ高く見ても平凡な魔術師でしかないエルメロイU世では彼らを出し抜くなど不可能だ。

「これで良かったのかな……ライダー……」

 愛おしく右手の絆を撫でる。行けるのならば行きたいと思った。今すぐに。駆け出したいと思った。
 だが十年前の自分と今の自分は違う。何も失うもののなかったあの頃と、権力と地位を得て、誰かの責任をも受け持つ今では自由の度合いが違い過ぎる。

 令呪が浮かんだ直後、当惑と焦燥に駆られはしたが、どれだけ見つめたところでその紋様は消えはしなかった。
 これが初めてであったのならもっと取り乱したのだろうが、彼にとって令呪の発現は二回目だ。一日もあれば充分に事態を呑み込み、頭の整理も出来ていた。

 だがそれでも、彼は即座に飛び出す真似はしなかった。

 籠の中の鳥。扉を閉ざされるその前、空を望む事を許されているその間隙に、彼は羽ばたく自由を押し込めた。
 彼に絡みつく柵との折り合い。空を目指す意思を縛り付けたのは、己が積み上げた鎖なのだ。

 あの頃のように全てを擲ち、無謀と勇気を履き違えて走り出せる自由は、大人になって何処かに置き忘れてしまったのだから。大人になるとはつまり、そういう事だ。
 アーチボルトの執事が言っていた事も理解が出来る。出来るからこそ、苦悩した。苦悩して、決断した。

 だが。それでも。

 あの偉大なる王の背に憧れた彼にしてみれば、今の己を酷く滑稽に思えてしまう。あの王ならば全ての柵を抱えて空を飛ぶだろう。何の迷いもなく、自らの求めるものを手に入れる為に。

 だから。

「それでも僕は……行きたいと、願っている……」

『よく言ったっ!』

「────っ!?」

 飛び上がる程にエルメロイU世は驚いた。目を剥くほどに背筋を何かが駆け抜けた。腰を浮かして周囲を見回す。
 何もない。室内に何の変化もない。ならばあの声は幻聴だったのか──と思った矢先、

「き、貴様ら……」

 広い部屋の一角、壁際からまるで蜃気楼のように、複数の男女が姿を見せた。

「講師っ! やっと言ってくれましたね!」

「もう教授ってばじれったいんだからさー」

「でもわたしはそんな先生を愛してます!」

 例の三人組の女生徒が好き勝手に喚いていた。エルメロイU世には、何が何だか分からない。

「いや……なんで……どうしておまえらがここに……一体何時から……いや、それより、後ろのおまえらは」

「ご無沙汰しております教授。奇遇ですね、こんな場所で出会うとは」

「き、ぐうだと……? 何故卒業した筈のおまえらが私の執務室に潜んでおり、さも偶然会ったような挨拶を交わさねばならんのだ!?」

 彼女達の後ろにいた数人の男女は皆かつてエルメロイU世に師事し、そして卒業していった者達だ。今ではそれぞれが独自の研究に打ち込んでいる筈で、こんな場所にいていい者達ではない。

「おい、エリス。これは一体どういう事だ? というかおまえら、どうやって隠れてた。私の結界が張ってあるこの部屋で、しかも私とあの男の目を欺いて居座るなど……」

 言いかけたところで、現役生徒と元生徒達は『結界?』と首を捻った。

「やだなぁ教授。こんなの(・・・・)結界って呼びませんよ」

「…………」

 その言葉にエルメロイU世は打ちひしがれた。その後に聞こえてきた彼の結界に対する品評は耳を千切りたくなるほど的を得た正論で暴論だった。

「ファーーック! ええい貴様ら、一体何なんだ!? 何しにきやがった!? あぁ、あれか、わざわざ私の技量にケチつけにきやがったのか。余計なお世話だくそったれ、さっさと帰りやがれこの優等生ども!」

「講師講師、優等生は罵倒の意味にはなりません!」

「喧しいっ!」

 荒く息を吐いて柔和な笑みを浮かべる生徒達を睨みつける。呼吸が大分落ち着いたところで、仕切り直しに咳払いを一つ刻んで、冷静を装った。

「で、どういう事だ? 私はおまえらを不法侵入で訴えれば良いのか?」

「先生落ち着いたように見せかけて全然落ち着いてません。でも好きです!」

「アニーはちょっと黙ってなさい。あー、教授。私達全部知ってるんです。カティから聞いて」

 そういえば先日問われて適当にお茶を濁した事があったな、とエルメロイU世は今になって思い出した。
 だがあの程度の会話で一体何を理解しどうやって全てを知ったというのか。

「やだなぁ教授。私達、誰の生徒だと思ってるんですか?」

 考えるまでもなくエルメロイU世の生徒だ。元、もいるが。

「だから私達はちょーっと色んな結界にハッキングして事情を盗み聞きして、私達だけじゃ荷が重そうかなーって思ったので先輩達にも協力をお願いしたんです」

「ええ。まさか教授が困っていると聞いて放って置ける筈もないでしょう。私達が今こうしていられるのは、全て貴方のお陰なのですから」

「…………」

 とりあえずエルメロイU世は話を整理してみる事にした。

 エルメロイU世とカティが廊下でしていた話がエリスとアニーに伝わり、今現在彼が置かれている現状を正しく知る為に各所の結界に干渉して盗み聞きし、恐らくは聖杯戦争や令呪についても知り得たのだろう。

 それでいざ事情を詳しく分析して見ると、未だ生徒の身分である彼女達にとっては荷が重いと判断された。なので、エルメロイU世に恩のある卒業生に事情を説明し、仲間内に引き入れたと。

「……で、大体あってるか?」

「はい。流石教授! ちゃんと頭も回るんですね!」

 それから何を思ってかエルメロイU世は天を仰ぎ、懐から葉巻を取り出し、安物のライターで火をつけて、煙を吐く。言った。

「おまえ達はあれだな、特級のバカだろう」

「そんなっ! 先生ひどい! でも愛してます!」

「あー……で、なんだ。おまえ達は何がしたいんだ?」

「だから教授の手助けですってば。教授、見張られてるんでしょ? でも外に行きたいんですよね? だからそのお手伝いを──」

「アホか」

 一蹴した。

「何処の世界に自分の生徒に助けを求める講師がいる。これは私の問題で、おまえ達には全く以って関係のない事だ。見聞きした事全部忘れてさっさと帰れ」

「教授……」

 そう、これはエルメロイU世の問題だ。彼の生徒達を巻き込んでいい問題ではない。

「はあ……まあ教授なら、そういうと思ってました」

「ならば早く帰れ」

「思ってたので、帰りません。是が非でも教授を時計塔の外に放り出します」

 コイツは一体何を言っているんだという目でエルメロイU世は生徒を見た。

『それでも僕は……行きたいと、願っている……』

「────っ!?」

 突如聞こえてきた自分の、けれど自分が今発声したものではない声にエルメロイU世は目を見開く。

「だってねぇ教授ぅ、ちゃぁんと言質頂いてますからぁ」

 エリスの手の中でボイスレコーダーが揺れていた。

「先生って、僕って言うんですね。ステキです! 結婚しましょう!」

「え、エリスちゃん、それ、後で私にもダビングを……」

「こ、このっ、お、おまえらは……っ!」

 怒りの沸点など当に超えたエルメロイU世は、最大級の怒声を放ってやろうと大きく息を溜めて、

「教授。とりあえず落ち着きましょう」

 ふわりと何かが鼻先を掠める。鼻腔を擽る甘い匂い。それが即効性の催眠魔術の匂いだと気が付いた時には、遅すぎた。

「おまえらっ、何を……!」

 元生徒の一人が一歩前に出る。

「何度も言っていますが、僕らはあくまで教授のお役に立ちたいだけなんですよ。教授がこの監視網をどうにも出来ないのなら、僕達が連れ出します」

「だからそんなものっ、私は望んで……っ!」

「それならばそれでも構いません。とりあえず時計塔の外に連れ出すので、戻りたければ戻ってください。行きたければ、行ってください」

 余りにも強引な暴論。エルメロイU世の意思など既にあってなきものだ。

「貴方の柵についても理解しています。アーチボルト家との折衝も、まあ僕達なら何とか出来るでしょう」

 彼の元生徒の数人は名家の生まれで協会上層部に強いコネクションを持っている。更に卒業した者全てが王冠グランドを称するという前代未聞の成績を収めている。

 どうしようもなく魔術師としての自覚に欠けている事──無論随分と改善はされているが──を除けば、彼らは時計塔でも上位に位置する存在だ。
 そんな彼らが結束し、行動するのなら、大抵の無理を通せるだろう。それだけの実力と血統、権力を持つ者達なのだ。

 だからこそ、気に食わない。エルメロイU世は納得しない。何故ならそれは自分自身の力ではないからだ。
 講師としての力などに興味はない。他者を従える、『王の力』は必要ない。ただ彼が欲したのは、『王の傍らにある為の力』だ。

 だから己の不肖を歯噛みする。生徒に遅れを取る己を罵り続ける。

「ファック……だから私は……おまえらが……気に、食わないんだ……」

 落ちる瞼を止める術はない。膝を付き、身体をも横たえて、意識が完全に途切れるその瞬間。

「知ってます。でも教授。それでも私達は──教授の事が好きなんですよ」

 くそったれ、と最後に吐き捨てたつもりだったが、それがちゃんと声になっていたかどうかは、彼自身には分からなかった。


+++


「…………くっ」

 身体に痛みを覚えて意識が目覚める。開いた瞼が最初に捉えたのは、梢の間より降り注ぐ陽光だった。
 ギシギシと軋む身体を酷使して身を起こす。周囲を見渡せば、どうやら森の中にいるようだった。

「おい……何処だここは」

 無論返る声など無い。

「あいつら……本当に人を放り出しやがった」

 何も森の中に捨てて行く事はないだろうに。せめて街中の安ホテルとかであればまだマシだった、と思った矢先、自らが背凭れにしていたものに気が付いた。

「旅行鞄に衣類に財布、パスポート……一体何処から持ってきたんだ……私はやはりあいつらを住居不法侵入で訴えればいいのか?」

 だがこれだけでは足りない。これではただの旅行者だ。冬木に渡るのなら、絶対に持っていかなければならないものがある。あれがないのなら、どの道行く理由がなくなる。だから時計塔に戻るべきだと判断して、

「──ハッ、本当、あいつらの頭の中はどうなってやがるんだ」

 あった。エルメロイU世が執務室の戸棚の奥に厳重に保管しておいた筈のケース。物理的に魔術的に封をしておいた筈のもの。とある王の、マントの切れ端。

「ああ……まあ、私程度の封印など、あいつらには算数くらいのものなのだろうな」

 ファック、と誰かを罵り腰を上げる。

「…………」

 行く事と戻る事。その選択を許された。

 力を得ると同時に絡みついた柵。力も柵も、望んで手に入れたものではない。望んでいたものですらない。だが途中で放棄するという事だけはしたくなかった。その内に名講師などと呼ばれ、多くの生徒を輩出してきた。

 それは結局責任だ。投げ出す事を許されない鎖だ。十年前、何一つ持たなかった少年が培った努力の証。認める認めないに関わらず、その事実は覆せない。

 ならば今、この場より戻る事が逃げなのか。進む事が放棄なのか。どちらが正しい選択であるのか……

「ハッ──くそったれ。そんな小難しい事を考えるように、私の頭は出来ちゃいないんだ」

 頭に浮かぶ現役生徒の顔と元生徒の顔。最後の瞬間、確かな笑みをくれたその顔を、今更になって克明に思い出した。

「ああ……理由は単純だ。今戻れば、あいつらに馬鹿にされる。だから私は冬木に渡る。理由としちゃ、それで上等だ」

「お待ちください」

 エルメロイU世の決意を寸断するような低い声。梢の間からその声は届いた。

「おまえは……」

「このような場所で出逢うとは奇遇ですな、ロード」

 アーチボルトの執事長。かっちりとしたスーツと、老いを感じさせない精悍な顔。以前と何も変わらないその姿に、酷く不釣合いなものが、腰にぶら下がっている。

「ハッ、本当だな。で、一つ訊きたいんだが、執事というのは散歩をする時に帯剣するものなのかね?」

「そういう時もありましょう。なにせ此処は魔窟と呼ばれる時計塔の膝元。如何なる外敵が潜んでいるか分かりませんからな」

「ならばその剣は君にとっての敵にだけ向けられると思っても?」

「いいえ。我が剣が討つはアーチボルトの敵に御座いますれば」

 執事の手が剣の柄に掛けられる。怜悧な視線がエルメロイU世を捕らえて離さない。

「……つまり。アーチボルト家に仇なそうとしているこの私は、君の剣に掛かる資格があると、そういうわけか」

 エルメロイU世は存在しているだけでアーチボルトの厄介者なのだ。死んで貰っては困るし、生きていても下手を打たれては困る。
 そして今、目の前の執事との口約束を反故にし冬木へと向かおうとしている彼の行動は間違いなくアーチボルトに敵対する行為だ。

「どうかお考え直し下さいませ、ロード。籠の中の平穏はそれほどまでに気に入りませんでしたか?」

「いいや。おまえ達には本当に良くして貰った。別段私自身が望んだものじゃないが、それでも分不相応なほど手厚く持て成されたと思っている」

「ならば何故──」

「もう嘘を吐くのは嫌なんだ」

 令呪の刻印が浮かんだ時、困惑したのは間違いない。だが同時に、もう二度と会うことの叶わないと思っていた存在に、今一度見えられると思い歓喜したのも事実だ。
 ただ彼自身に科せられた柵が、鎖が、首輪が。その感情をすぐに押し殺しただけの話。

「なあ、自分の生徒にいらんお節介を焼かせてしまうような講師は、講師失格だとは思わないか?」

 あの連中は彼自身より彼の心を深く理解していた。外に放り出せば彼がどういう行動に出るか手に取るように分かっていたに違いない。
 せっかく押し込めた心が今一度開かれた。余計なお節介のせいで、自分の本心を認識してしまった。いや、そんなこと、本当は最初から知っていた筈なのに。

 きっと、怖かったんだと思う。今一度出逢う王がかつての、彼の知る王である保障は何処にもなく。また王が召喚に応じる絶対の保障もない。
 でも最早腹は決まった。決めさせられてしまった。もう自分自身の心に嘘を吐けない。吐きたくないと願うから──

「全く以って気に食わない奴らだが。ああ──本当に、私は良い生徒を持った」

 瞬間、音のない森を吹き抜けていく微風。それはエルメロイU世の後方より吹いて森の中を駆け抜ける。

「私自身の心が命じるんだ。今一度、と」

 再演を。
 十年前の決着を。
 夢の続きを。

 忘れていた激情が、律動となって胸を焦がしていく。

「もう逃げない。いや、そんなコト、ずっと前に決意していた筈だった!」

 差し出された右腕。刻まれた刻印。赤い翼の紋様は、煌々と光を放つ。

「ロードッ!」

 執事が腰を落とし手に掛けた剣をそのままに一息に踏み込む。常人を凌駕する加速で影は森を駆ける。当然、魔術師に仕える執事が常人である筈がない。彼が執事達の長であるのなら、その実力もまた折り紙つきだ。

 平凡以下の魔術師でしかないエルメロイU世では彼の剣に一息の間に切り伏せられてしまうだろう。相手がこちらの命ではなく無力化を狙っているとしても、恐らく、手も足も出まい。

 令呪は光を放ちその輝きを増していく。だがこの場には召喚に用いる陣の用意などある筈もなく、詠唱の時間もまた許されない。
 けれど何の問題もない。契約ならば十年前に済ませている。後はただ、己が心を祈りに変え、口にすればそれでいい。

「来いッ、ライダァァァァァァァ!!」

 ──僕はもう一度、おまえとその夢を見たいんだ!

 逆巻く風を吹き飛ばす程の発光。エーテルの乱舞は鋼と鋼がぶつかり合う金属音によって吹き散らされる。
 森を染める白い靄が晴れた先、執事の剣を受け止める無骨な剣があり──それを担うは赤いマントを羽織る大きな背中。

「ああ──」

 その存在を、覚えている。その背中を、記憶している。この(つながり)を、確かに思い出した。

「ぬっ……ぐっ……!」

 圧倒的な膂力に打ち払われ、執事は僅かに後退した。赤い巨漢は、剣を携えたまま振り向き、

「問おう──貴様が、余を招いたマスターだな?」

 契約の言葉を口にした。

「ああ、私がおまえのマスターだ。征服王イスカンダル」

「うん? 余の名を知っているのか。そいつは重畳。ならばこちらも問わねばなるまい。貴様は名をなんという?」

「…………」

 覚悟していた。召喚される王は、かつて共に戦場を馳せ、共に同じ夢を見ると誓った王ではないかもしれない、と。
 だから落胆はない。むしろ、口端を吊り上げるくらいの気概が沸く。

「私はロード・エルメロイU世と呼ばれている。好きに呼べば良い」

 忘れたというのなら思い出させてやる。共に培った全てを。このロード・エルメロイU世の、本当の名を。

「ふぅむ。ま、良いか。で、坊主」

「誰が坊主だ誰がッ!」

「好きに呼べと言ったのは貴様だろう。少なくともただ背のでかいだけで、あの程度の相手に余を召喚せざるを得ない奴は坊主で十分だ。
 てっきり相手はサーヴァントかと思っとったのに、まさかただの人間であったとはなぁ」

「…………」

 別に嫌味を言っているつもりなどないのだろう。結局それらは純然たる事実なのでエルメロイU世は黙る他なかった。

「で、どうする人間。まだ余とやりあうか?」

「いえ、まさか」

 事の成り行きを見守っていた執事は既に剣を鞘に納めている。その手には何やら小型の機器。サーヴァントが召喚されてしまった以上、並の人間では相手にすらならない。結果の見えている無駄を好むような男ではなかった。

「サーヴァント召喚の儀が為され、ロードはマスターとしての資格を得、あの闘争の参加者となってしまわれた。ならばもう私に為せる事は御座いませぬ。向こうもまた、決着が着いたようですからな」

 彼の言う向こう、とはアーチボルト家とエルメロイU世の元生徒達の折衝だろう。執事の目的はそちらでの契約が果たされる前にロード自身の意思──多少は強要をしようとも──で時計塔に戻って貰う事だった。

 本家がどのような契約を結んだのかは知らないが、エルメロイU世が冬木へと赴く事を是とするのなら、その家に仕える執事には口出しする事も手出しする事も出来ない。
 これは間隙を衝いた執事長の我侭。もっとも事を穏便に済ませられると判断しての独断専行だったのだから。

「すまないな」

「いえ。本家の意向こそが我が意志。私個人に出来る事は、ロードの無事を祈る事ぐらいのものです」

 エルメロイU世は赤毛の王を伴い背を向ける。長い時間を過ごした時計塔に。この背中を押してくれた生徒達に。そして折り目正しく腰を折る執事長に。

「──行って来る」

「行ってらっしゃいませ──我らが主(マイロード)

 男は今一度戦地へと向かう。十年前の続きを見る為に。見る事の叶わなかった、夢の続きを見届ける為に──

 籠の中の鳥は、今再び大きく羽ばたく。誰かの手によって破壊された籠より抜け出し。自らを縛り付けていた枷を振り解き。
 青く澄み渡る、空という名の大いなる居場所を求めて。

 右手に刻まれた赤い約束が、静かに煌きを放っていた。


/2


「で? 此処は何処なのだ?」

 森を抜け、とりあえずは見覚えのある場所に出た二人。現在地を把握しているのはエルメロイU世だけであり、ライダーには分からない。
 聖杯により知識を与えられているとはいえ、戦場である冬木市以外の地理などそれこそ知識でしか知りえない情報に過ぎないのだから。

「ここはイギリスだ。戦場は遥か東の地──日本の冬木だ」

「んな事言われても分からん。地図か何かないのか?」

「少なくとも自分の慣れ親しんだ土地で地図片手にうろうろするような輩はそうはいないだろうよ。というか、ライダー。さっさと霊体化してくれないか。もうすぐ人目につく場所に出る」

「嫌だ」

「何……?」

「せっかく実体を手に入れたというのに何故霊体などにならねばならん。もう少し楽しませろ」

「…………」

 エルメロイU世は忘れていた。この男の自由奔放さを。豪放磊落さを。
 そして同時に思い出した。ここでどれだけ言い争おうともいずれこちらが折れる破目になるのは目に見えている。ならば問答など無駄にしかならない。

「分かった。服は買い与えてやる。だからせめてそれまでは霊体化していてくれないか」

「おぅ? なんだ、魔術師なんて連中はどいつもこいつも頭が固そうだと思っとったが、坊主は中々柔軟ではないか」

 ──そりゃおまえの性格を知ってるからだよ。

 口にはせず、エルメロイU世は歩みを再開した。

「じゃあ、とりあえずは街に出るか。くれぐれも実体化するんじゃないぞ?」

 釘を刺し、霊体化したライダーを連れてエルメロイU世は街の中へと繰り出した。


+++


 ライダーに服を買い与え、その途中に本屋に寄りホメロスの詩集と世界地図を購入。冬木へと発つ準備は既に完了している。エルメロイU世は地図片手に町並を物珍しそうに眺めているライダーを伴い空港へと向かった。

 途中で拾ったタクシーから降り、次に出る日本行きの飛行機はどれかと電光掲示板を眺めていた時、ふと、脳裏に良くない想像が過ぎった。

 後ろに視線を傾ければ並べられた椅子に座りホメロスの詩集を読む大男。余りにも巨躯なせいか、二席分ほどを一人で占領している。ロビーにいる観光客らしき者達が、物珍しそうに見たりカメラで写真を撮ったりしているのも、まあいいだろう。

 問題は。そう、問題は。

「アイツのパスポート……どうしよう」

 そんな基本的な事を失念していた己が不肖に歯噛みする。てっとり早いのが霊体化して貰う事だが、大見得切って実体化を許可した以上は言いにくい。何より空を飛んでいる最中にもし実体化でもされてはパニックが起こる。穏便に済ませるのならこのまま連れて行くしかない。

 だが無論、サーヴァントがパスポートなど持っている筈がなく。審査など当然のように通らないだろう。

「あの、エルメロイU世様でしょうか?」

 本気でどうするかと頭を悩ませていた男の元に、そんな言葉が掛けられる。仰いでいた視線を下ろせば、空港の従業員らしき女が話しかけてきたようだった。

「……そうだが、何か?」

 空港の従業員に知り合いなどいないし、増してや、目の前の女の顔に覚えなどある筈もない。しかしこちらの名前を知っている相手を無碍にも出来ず、そう答えるのが精一杯であった。

「ああ、やはりそうでしたか。既に出立の準備は済んでおりますので、こちらにどうぞ」

 言って背を向け歩いていく従業員。何が何やら分からぬままに、ライダーに声をかけとりあえず付いていく事にしたエルメロイU世の目に入ったのは、

「ハッ──なるほどね」

 彼の為だけに用意された貸切航空(チャーター)機だった。

 確かにこれならば足が付かない。というよりも、こいつを貸し切った時点で既に根回しは終わっている筈だ。

「アーチボルトのお情けか、あるいは元生徒達(アイツら)のお節介か?」

 どちらにせよこればかりは感謝せねばなるまい。こんなものを手筈する考えはさしものエルメロイU世にもなかった。何よりそんな金がない。イギリスから日本への片道だと考えても、莫大な金額が必要になる。

「ま、使えるものは使わせて貰うとしよう。行くぞライダー」

「ほう、コイツが飛行機とかいうやつか。鉄の塊が飛ぶなど信じられんが、まあものは試しか。どれ、空からの眺めというものを満悦させて貰うとしよう」

 長身の平凡以下の魔術師と。
 赤毛の大巨漢のサーヴァントは。

 一路──戦場(ふゆき)へと旅立った。


+++


 ────斯くして。

 ロード・エルメロイU世はどうにか期日前に冬木市入りする事に成功した。

「はっはっはっはっはっ、おう、凄いな坊主! あの飛行機というヤツは! 本当に空を飛ぶとは思っとらんかったぞ!」

 未だ興奮冷めやらぬライダーにバンバンと背中を叩かれエルメロイU世は顔を顰める。飛行機に乗っている間中、ライダーは常に騒いでいたせいで碌な睡眠も摂っていない身の上には堪える。

 まあ、ライダーが興奮する理由も分かる。世界が閉じた輪になっているという実感をその目で見たのだ。地上を駆け抜け、その果てを目指す事しか出来なかった王は、現世にて余りにも簡単に世界に果てはない事を知ってしまったのだから。

 遥か高空より見下ろす海と大地。何処までも続く地平線、水平線は世界が球形である事の証明に他ならない。
 王が目指した世界の東端など何処になく、仮に果てまで行けたとしても、辿り着くのはスタート地点なのだ。

「ああ、全く。世界の有様をこうもまざまざと見せ付けられては、流石の余も少々堪えるわい」

 同じ夢を背負った騎士達と共に目指した場所。その道程で夢半ばで潰えていった者達を思えばこその言葉だ。
 在るかないか知れぬもの、を目指した結果、その場所は存在せず。そして今更真相を知ってしまったのだから、尚の事。

 その背に掛けるべき言葉はない。それは王自身が呑み込み背負うべきもの。肩代わりしてやるべきものではない。

「世界に果てはなくても、その分世界の広さも知っただろう」

 しかし共に背負うくらいなら、きっと出来ると信じている。

「ならおまえの夢は潰えてはいない。世界を征す夢は、まだその胸に灯っているだろう」

「……ふん。ああ、そうとも。余が臣下達と見た夢はまだ道半ばだ。その夢を阻む者はたとえ神でも打倒しよう。
 そしてまずはこの地で、その足掛かりを手に入れねばな」

「ん……じゃあまずは軽く街を見て回るか」


+++


 まず向かった先は先の戦いの終戦の地──冬木市民会館跡だ。

 今はその場所は公園へと姿を変えている。といっても申し訳程度にベンチが置かれているだけで、特に手入れもされず半ば放置に近い状態で捨て置かれている。

 冬も半ばの今日、公園は足の短い草と葉の枯れ落ちた木々が連なるだけ。そこには声を上げて笑い駆け回る子供の姿やそれを見守る母親などは存在しない。

 この街に生きる者にとって、この場所は禁忌にも近い場所だ。どれだけ周囲が発展しようとも、どれだけ時が過ぎようとも、あの大火を体験した者にとってこの地は忌避せざるを得ない土地。

 たとえあの炎にその身を焼かれずとも、その焔に友人や家族、大切な誰かを奪い去られた人は、それでもこの街で生きているのだから。

「変わったな……この街も」

 タクシーより降りて今歩く深山町はともかく、新都の方は十年前より大きく発展を遂げていた。未だ建造途中であったセンタービルは完成し、駅前広場も雑多に賑わう街の中心部となっていた。

「十年か……そりゃ私も老けるわけだ」

 自嘲を謳いながらエルメロイU世は長い石段を登る。

「おい坊主。貴様は何処を目指している? この上にあるという寺に用があるのか? 神頼みなら神社だぞ」

「……誰が神になんて頼むか。それに寺にも用はない。用があるのは……まあ、ちょっとした知り合いに会いに行くだけだよ。面倒なら下で待っていても構わないが」

「いや良い。こうしてただ歩くだけで今の余は心地良い。坊主の道楽に付き合うのも悪くはない」

「だから道楽じゃないって……まぁ、いいか」

 途中、山門を修理している業者の人間がいた。迂回する時、ちらりと見ただけだが、何者かの手によって破壊されたような痕跡が窺えた。
 今のこの街の事情を慮れば、それが聖杯戦争の余波であると考えるのは当然だ。しかしこの程度の被害など最小と言っても過言ではない。

 どの道今は関係のない事だと割り切って、エルメロイU世は境内を抜け、林道を奥へと歩いていく。

 もう来る事はないと思っていた。もう会う事もないと思っていた。過去を振り返らないとあの時、確かに誓ったから。
 ただそれでも、この街を訪れた以上は、顔を出しておくべきだと思ったのだ。

「────」

 結構な時間を歩き通し辿り着いたのは、空を一望し、山々の景観が美しく映える小高い丘の上。その片隅に、それは十年前から変わらずあった。

「……なるほど。この寺の僧は、中々に気が利くらしい」

 こんな場所に足を運ぶ人間はいないと思っていたが、世界には奇特な人種というのはいるようだ。
 少しだけ盛り上がった土。十字架を模した簡易な墓標。十年前に作り上げたそれが、その間の風雨に晒されて無事である筈がない。

 元よりこの場所には何もないかもしれないという覚悟で顔を出したが、見知らぬ者を悼む事の出来る人間というのは、思いの他世界には多いようだった。花まで添えてあるとは、完全に予想外だった。

 誰とも知らぬ者に感謝を告げ、エルメロイU世は目を伏せて黙祷した。

 ──リディア……。

 それは十年前、あの凄惨な戦いの犠牲となった少女。何も知らず、ただ傀儡のように操られ、何故己が死ぬべき運命となったかすら理解出来ずに亡くなった少女。

 彼は彼女に強さを貰った。今こうしてある自分の幾らかは、彼女の影響と言っても過言ではない。

 ──君のような犠牲はもう出さない。それも、私の目的の一つだ。

 戦いに覚悟を以って臨む者が死を受け入れる事に異論はない。だが、何も知らない者が巻き込まれる事を容認出来るほど、エルメロイU世は狂ってはいない。
 だから今度は、あの悲しみを生み出させない。過去は教訓となり、彼の心に刻み付けられている。

 彼が目を開くと、傍らにはライダーがいた。王もまた、静かに目を伏せていた。

「殊勝な心がけだな。おまえにも誰かを悼む心があったのか」

「貴様は余を血も涙もないただ強欲な王と勘違いしとるんじゃないだろうな。死者に罪はない。罪を背負うは生者の業よ。涙も流すし悼みもする。だが決して、後悔だけはしてはならん」

「ああ……知っているさ。そんな事、十年前から知っている」

 向き合う強さ。引き摺らない強さをくれたのは、他ならぬおまえ達なのだと、エルメロイU世は言葉にはせず想いを綴った。

「さて。ここにはもう用はない。戻ろう」

 行きの時に上ってきた林道を降りていく。魔術師としては多少成長していても、あの頃と比べ体力面ではほとんど変わらないエルメロイU世にとってこの道程はそこそこに過酷なものだった。

「なんじゃいこの程度で。軟弱にも程があるぞ」

「うる、さいな……魔術師は頭を使うんだ、身体を使う必要性はないッ」

「それでも程度というものがあろうよ。で? それはそれとしてだな、今後はどうするつもりなのだ?」

「ぁん? 何だ、藪から棒に」

「余がサーヴァントで貴様がマスターであるのなら、そのマスターに今後の行動方針を問うのは別段おかしなものではなかろう」

「他のサーヴァントならな。おまえがそんな殊勝なものだったなんて初耳だぞ。実体でなければならないと駄々を捏ねたのは何処のどいつだ」

「余に言わせれば霊体で居る奴の気が知れん。ああ、確かに魔力の温存という面では利があろうが──」

 瞬間、木々がざわめく。刹那、王の手の中にはキュプリオトの剣が具現化し、風──質量を持った破壊の風──をその剣で両断した。

「なっ──」

「っと、このように。火急の事態に咄嗟に反応する為には実体の方が何かと都合が良い」

 霧散した風は行き場を失い嵐を生む。暴風は梢を揺らし砂埃を舞い上がらせる。その異常……状況の変化にようやく思考の追いついたエルメロイU世は、

「敵かッ──!」

 身構え、周囲への警戒を強めた。

「何時から尾行けられてた……?」

「さぁて。余が気付いたのは結構前だがな」

「気付いたんなら言えよッ!」

「刃を差し向けてくるなら敵と断じられるが、周囲から窺うだけの連中ならばそうとは言い切れん。まあ、ちょっと突いただけでこうもあからさまに攻撃を仕掛けてくる連中ならば程度が知れると言うものよ」

 剣を握ったまま、その姿は戦装束へと変える。今の言さえも恐らくは挑発。ライダーは既にこちらを窺う者を敵と断じている。

「おう者共。物陰から盗み見なんていうのは、盗人のする事よ。それともあれか? 貴様らは盗み見る事しか出来んような小者か? ならば致し方ないが、それでも王たる余に敵意を向けて、ただで帰ろうなどとは、思っとらんよな?」

 手にしたキュプリオトの剣。鋼の輝きが薄暗い林の中で輝き、獰猛なる王の面貌を映し出す。

 刹那、風が渦を巻いて王へと迫る。

「ふんっ!」

 それをただの一刀にて両断するライダー。舞い上げられた枯れ葉ごと斬り裂いた剣閃は豪快にして鋭利。セイバーのクラスにも引けを取らない太刀筋だった。

 先ほどとは違い今度はしっかりとその様を見た。

 エルメロイU世は過去に何度もその剣筋を見ている。驚きはない。むしろ悠然と傍らに立ち、周囲の気配に探りを入れる。

 ……十……いや、二十近い人数。それと遮音の結界。ふん、中々上手く張る。風呪も予備動作なしで放てる……か。

 エルメロイU世は魔術の実践能力はからきしだが、魔術の構造把握能力と研究者としての洞察力には並々ならぬ才がある。
 十年前は己のそんな才能の片鱗にすら気付いていなかったが、その十年の間で磨き上げた慧眼は、彼にとって唯一つとも言える武器である。

 たとえその場所が戦場であっても、王の隣に立つ為の努力を積み重ねてきたつもりなのだから。

「ライダー、敵は約二十。全員魔術師だ。それもそれなり以上には腕が立つと見える。サーヴァントの気配は?」

「少なくとも余の知覚範囲にはおらんようだな」

「そうか。ならば宝具はいらん。敵の狙いが見えない内は迎撃だけをこなしておいてくれ」

 的確な指示だった。どんなに手練であれ、魔術師であるのならサーヴァントを打倒するのは難しい。四方八方からの同時攻撃も、マスターを狙い撃つ可能性も、この王ならば全て問題なく潰せるという判断だった。

 それは信頼にして確信。歴史上の人物として知るのではなく、実際に戦う姿を見た事があり、共に戦場を馳せたからこそ置ける絶対の信頼だ。
 あの頃……ただ王の後ろで震え、それでも気丈に振舞う事しか出来なかった少年ではもうないのだ。

 マスターとしての能力はあの頃と大差はない。魔術師としての能力も他の連中と比べれば明らかに劣るだろう。だが、彼に出来る事は確かにある。
 この十年で積み上げた賢しい頭脳は彼の武器。研究者として秀でた能力は、王の隣に立つ事で、軍師のそれとして機能する。

『おや、これは中々冷静ですね。流石は時計塔に名を馳せるロード・エルメロイU世その人ですか』

 虚空より声が響いた。幻覚がかけられているのは分かったが、声の元までは探れない。

「私を知る者か。なんだ? まさかアーチボルトの手の者か?」

 有り得ないとは思いつつも問いかける。あの憎らしくも優秀な生徒達がそんな落ち度を残す筈も無い。あの執事長もそんな無粋を許す筈がない。可能性として考えるのなら、エルメロイU世を疎ましく思う敵対勢力の刺客……の方がまだ高い。

『いえいえ、全く別口の人間ですよ。それにしても……なるほど。貴方を見かけた時は何事かと思いましたが、時計塔を抜け出して来たのですか』

「そいつは違うな。私は生徒に放り出されただけだ。全く、最近の若者は目上を敬う姿勢がなっていない。そうは思わないか?」

『心中お察ししますが、はて……私と貴方ではどちらが年上なのか……まあ、そんな事はどうでもいいでしょう』

「目的は何だ、私の令呪か? であるのなら、少々片手落ちと言わざるを得ないが」

 マスター権限を得られなかった魔術師がマスターを打倒し令呪を奪う、というのは有り得そうな想像だ。実際にそんな真似をした者がいるかどうかは知らないが、やってやれない事もない。

 ただ条件として、サーヴァント召喚前のマスター、という大前提が必要になってくるが。

『心配には及びません。生憎と令呪はもう既に一つ持ってますので』

 ……やはりマスターか。

 ただこれだけの会話をしてもなお相手の目的は見えて来ない。周囲を囲んでいる連中の位置くらいは把握出来ているが、距離が遠い。
 攻撃を当てる事を念頭に置いた距離ではなく、いつでも逃げ出せる事を前提としたような距離だ。

 これだけ間合いが離れていては、さしものライダーでも全員を討ち取るのは難しい。宝具に頼れば可能だろうが、相手がマスターと知れた以上、無闇に手の内を晒すのは戦略上巧くない。

 更に厄介なのはこの声の主──リーダーと思しき人物の居場所が特定出来ない事。集団は通常、頭を潰せば瓦解するものだがこれではそれも不可能。
 彼らにとっての上策は相手の出方を待つ事。立場的に優位にある今、こちらから先に手札を切るなど論外だ。

『そうですね、我々の目的はサーヴァントとの交戦なのですが……一応、訊いておきましょう。そちらのサーヴァントの真名、教えては頂けませんか?』

「何を馬鹿な……」

 敵サーヴァントの情報。その中でも真名と宝具は最重要な情報だ。どちらかが知れれば残りも知られてしまう。そして素性を知られるとはすなわち手の内の大半を暴かれる事態に他ならない。

 マスターならば喉から手が出るほど欲しい敵手の真名。それを堂々と問うその真意は計り知れないが、これはまずい。

 何がまずいかって、

「……余の真名を知りたいだと?」

 他のサーヴァントならばともかく。こいつにだけは、ライダーにだけはそんな実直な問いをしてはいけない……!

「別段隠し立てするつもりなど毛頭ない。故に天地に憚る事無く謳い上げよう。
 ──聞け者共ッ! 余こそは世界を征す……全てをこの手中とする征服王イスカンダルであるッ!」

 ……ああ、本当に。こいつは正真正銘のバカだ。

 林の中、謳い上げられたその真名。エルメロイU世は辟易とせざるを得ない。戦場で堂々と名乗りを上げるような男なのだ、遅かれ早かれ知られてしまうとは思っていたが、まさかここまで早くばれるとは流石に思いもしなかった。

『…………』

 相手にしても同様だろう。せめて何かしらの情報が引き出せれば御の字、程度の鎌掛けのようなもので、まさか本当に名乗りを上げるサーヴァントがいるなどとは夢にも思っていなかったに違いない。
 現に先ほどまでの饒舌がなりを潜めてしまっている。

『なるほど。その大器に見合う器量をお持ちのようだ』

 呆れの声でも返ってくるかと思えば、届いたのはむしろ賛嘆の誉れだった。

『……失礼をお許し下さい征服王。私は未だ、貴方の面貌を仰ぐに足る資格を有しておりません』

 それはサーヴァントを従えていないという事。この王者に敵対するに足る強者をまだ引き当てられていないという事。故に姿を見せない。見せる事が出来ない。見せるとすればそれは──

『故にこの場は退かせて頂きたく存じます』

「何……?」

 エルメロイU世の怪訝な声にも応じる事は無く。姿の見えない魔術師は最後の言葉を告げる。

『では御機嫌よう、ロード。そして征服王、もし我々が貴方以上の英霊に巡り会う事がなければ、その時は本気で戦いを挑ませて貰います。それでは──』

 まるで漣が引いていくように、魔術師達の気配が遠ざかっていった。

「ふぅむ……」

 何やらしたり顔で頷き手にした剣を鞘に収める征服王。

「余の真名を聞き出しておいて逃げ出すとは……まあ、サーヴァントを従えておらんのなら潔い退き際だな」

「聞き出しておいて……じゃねぇよ。自分から名乗ったくせになに言ってンだ」

「問われたのなら答えねばなるまい? 隠し立てするようなものでもない。知られたところで不利もない。ならば堂々と謳うまでよ」

「……そうかよ」

 それを言ったところで今更だ。十年前から身に沁みて知っている。

「それにしてもおかしな連中だ、令呪を持ちながら召喚を行わず、サーヴァントに喧嘩を売る理由が分からない。最後の言葉の真意も」

 ライダー以上のサーヴァントがいなければ本気で挑む……というのも、サーヴァントを従えてから、と解釈すると何処かしっくりと来ない。あの言葉は、今の状態のまま戦いを挑むような口ぶりだった。

 並の魔術師ではサーヴァントには敵わない。幾人の魔術師を引き連れようとその結果に揺るぎはない。そんな事、あのリーダー格の魔術師ならばきっと分かっているだろうに。ならばその真意は?

 ……いや。そう理解した上で挑むだけの理由がある、のか?

 どれだけ思考を続けようとも全ては推測の域を出ない。また挑んでくるかもしれないのなら、その時にまた問い質せばそれでいい。

「しかし……厄介な連中もいたもんだ」

 集団で動くマスターとその取り巻き。包囲の早さ、位置取り、魔術の運用レベル。かなり場慣れしているのも間違いなく、その戦闘能力は決して侮って良いものではない。
 しかし今は済んだ事に思考を割いても意味がない。頭を切り替え、今後の事を話し合うべきだ。

「さて、ライダー。少し今後の事について話がある」

「あん?」

 既に戦支度を解いた大男は己がマスターに怪訝な視線を送る。

「ただ馬鹿正直に敵を倒していくってのは芸がない。だから先に調査を行いたい」

「調査? 何のだ?」

「聖杯について。そして前回の決着についてだ」

 前回の最後に街を包み込んだ大火が聖杯の仕業であるのなら、その真相を知らねばならない。そしてあの大火に聖杯以外の原因があるのなら、それも。

「聖杯は願いを叶えるもの。そういう触れ込みだが、私は少し疑っている。だからそれを調査したい。
 無論、調査は基本的に昼に行うし、夜は敵を探す。仮に真相に辿り着けるのが勝者だけであるのなら、敵は倒さなければならないんだから」

 十年前の続きはこうして見る事が出来る。ならばその十年越しの戦いの決着をこそ、エルメロイU世は望む。あの結末の真相を。そして王が死に行く最期に残した笑みの正体を知りたいのだ。

「うーむ、まあ悪くはないんじゃないか? 聖杯の正体、というのが何やらキナ臭いが、それもその内見えてこよう。
 良し。そうと決まれば街に繰り出すとしよう!」

「……。……はぁ?」

 一体何の話だとエルメロイU世は鼻白む。

「ぅん? この場所へ参ったのは坊主の用件。それに従った余であるのなら、次は余の用件に坊主が付き合うが道理ではないか?」

「んな破綻した道理があるかッ! もう宿だって取ってあるんだ、飛行機からこっち、私はほとんど睡眠を摂れていないんだ、少しは眠らせてくれ!」

 十年前に世話になったマッケンジー邸を今一度訪れる事は出来ない。あの時は赤の他人だからこそ利用できたが、今は既に見知った人達だ。彼らに迷惑を掛ける訳にはいかない。彼らに会うとすれば、それは全てが終わった後になる。

 その為事前に新都にあるホテルに予約を入れておいたのだが、このままではそこに辿り着く前に倒れかねない。

「さぁて、世界の見聞を開始するか。さしあたってはここに来る時に通った商店街というものが気に掛かる。
 随伴を許すぞ坊主。いざ参ろう!」

「はぁ!? 私は付き合わないぞ……って、ちょ、おい、待て、待って……待てって言ってるだろこのばかぁあああ! 人の話を聞けぇええええ!」

 懐かしい声が林道に響く。王は肩で風を切り、従者は憧れた背を追いかける。いつか夢見た図式。郷愁が胸を焦がす。

 彼らの戦いが今、再び幕を開けた。


/3


 冬木市の北西部には広大な森林地帯が広がっている。灰色の樹木と乾いた土に覆われた森は、遥かな時代より人の手が一切入る事無く放置されており、およそ人が近づくような場所ではない。
 それでも年間に数人、あるいは数十人がこの森の中に迷い込み、生還した者の中には奇妙な幻影を見たとする者がいる。

 曰く──その森の奥には、古めかしくも巨大な城が聳え立っていたと。

 無論、そんなものが実在していれば発見されない筈がない。たとえ前人未踏の奥地であっても、航空機の発展した現代にあって、その空よりの目から逃れる術はない。そう……普通ならば。

 その城は普通ではない。その城を目撃したという者達は、狐に化かされたわけでも幻を見たわけでもない。その古城は、確かに実在している。
 ただその城を正しく認識出来る者が、極端に少ないというだけの話だ。

 夜。

 凍る程に蒼い月が見下ろす深い森の奥。幻と謳われる城には明かりが灯っていた。外装は中世の古城を思わせながらも、内装は豪奢にして絢爛の様相を呈している。

 白磁で統一された回廊。金の刺繍をあしらったレッドカーペット。燦然と輝くシャンデリア。室内も同様にしてなお豪奢であり、調度品一つとっても破格の値のつく代物であるのは間違いのない事だった。

 この城に明かりが灯るのは通常六十年に一度だけ。だが今回は、十年という早期にその城は再び拠点としての役目を全うする事となった。

 アインツベルン。

 聖杯の獲得……ひいては第三魔法の顕現に一族郎党の生涯を費やす狂信者。千年の願いは最早、妄執という名の狂気に成り代わり果てている。

 そしてその城の最上階。彼らの本拠地のある北欧の城を模したこの城にも、その広大な空間は存在していた。

 礼拝堂。闇に覆われた礼拝堂。

 教会のそれに勝るとも劣らない峻厳な一室。明かりが灯っていれば、その荘厳な造りに誰しもが息を呑んだであろう礼拝堂も、今現在は闇の中に没している。ただ輝くのは、最奥に飾られた巨大なステンドグラスのみ。

 そのステンドグラスは、周囲の完璧な調和を乱すが如く粉砕されていた。否、それは恐らく、故意に破壊されたものだ。

 遠坂、アインツベルン、マキリの始まりの御三家の魔術師が、遥か天空にある黄金の杯に手を伸ばす構図。
 その美しい絵は、今や遠坂とマキリの魔術師の部分が完全に砕き割られ、夜の闇を直接映している。

 ステンドグラスの役割を果たしているのは、中央のアインツベルン……『冬の聖女』であるユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンが聖杯を掴もうとしている部分だけだった。
 けれどこの図式こそが完成形であると示すように、黄金の杯は月の光で満たされ、尊い輝きを放っていた。

 その下──礼拝堂にある筈の祭壇には、本来あるべき祭壇はなく、まるで謁見の間のようにぽつねんと、けれど威圧を放ち存在する玉座があった。

 巨大な扉を開け放ち、一人の女が礼拝堂へと入る。同時に、玉座へと伸びるレッドカーペットの周りに蝋燭の火による道が出来上がる。
 脇に控えていたのは白い衣装を着たメイド達。燭台を持ち、一分の隙もなく居並ぶ彼女らは、まるで王を迎える騎士の如く凛然と立ち尽くす。

 本来ならばそれだけで尻込みをしそうな光景。けれど女は悠然と肩で風を切り、正しく己が王であると主張しながら歩を進める。

 無音の世界。ただ広大な空間を威圧感だけが支配する。

 女は玉座に辿り着き、くるりと振り返る。月明かりを受けるステンドグラスの輝きは、彼女だけを照らしていた。

「全ての準備は整ったわ。マスターもサーヴァントも出揃った。この街に集ったのは過去類を見ないつわもの達。誰が聖杯に手を掛けてもおかしくはない……」

 女は艶やかに微笑む。

「けれど我らの優位は揺るがない。そうでしょう?」

 四度の闘争に悉く敗れた彼らは、この五度目の戦いを最後にする意気込みで、これまでありとあらゆる準備を尽くしてきた。
 他家が衰退し新たな地盤を構築している最中、最も早くこの早期の開幕を予期し下積みを行った彼らに、今度こそ抜かりはない。

 女の言葉を受けて、その集大成が姿を現す。

 黒と闇の埋め尽くす空間に、なお黒い闇が生まれ落ちる。玉座の下手に夜の闇が具現化したような漆黒が渦を巻き、その中から、一人の人間と思しき者が姿を見せる。当然、顔など窺い知る事が出来ない。

「…………」

 闇は何かを口にした。言葉だったが、その声を聞き届けたのは玉座に座る女のみ。

「ええ、大丈夫。貴方は何も心配しなくていい。貴方の望みは、聖杯が必ず叶えてくれるでしょう」

 闇は静かに姿を消し、黒は黒によって埋め尽くされた。

 その時、世界を震わせる唄が城を覆った。地を沸き立たせ、天を貫く咆哮。それでなお優しく世界を包む母なる唄。それは遥か彼方──冬木市の中心で奏でられた唄だったが、彼女達は確かに聞き届けた。

 静かに目を伏せ、何処とも知れぬ場所より届けられた唄声に耳を傾けていた女は、瞼を細く開いた。

「……良い唄ね。そして、良い開幕だわ」

 七人の魔術師(マスター)と、七騎の使い魔(サーヴァント)を駒に見立てた戦争(ゲーム)の開幕を告げるファンファーレ。それが今、高らかに鳴り響いたのだ。

「始めましょう、私達の戦いを。聖杯を巡る戦いを。悲願を遂げる──戦いを」

 聖杯を担う血族。

 不本意ながらに手を結んだマキリも遠坂も今や堕ちた。このアインツベルンこそが、勝者となる時。運命の采配により定められた刻限。
 今度こそ、聖杯を取り戻す。今度こそ、第三魔法(ヘブンズフィール)へと至るのだ。

 揺るぎのない決意と、『無敵』のサーヴァントを従えて。
 悲願を手中とする為に。

 彼女達は、最後の戦いに臨む。


/4


 夜に響く唄声。騒音とすら認識されない清廉なる音が戦いの舞台を包み込む。朋友との再会の喜びを示し、戦いの幕が上がった事を告げて。

「────……」

 唄声はやがて止み、夜の帳が降りる街に静けさが戻り、次いで、手を打ち鳴らす音が響いた。

「いやはや、これほどに美しい唄声を聴いたのは初めてだ。素晴らしい」

 何時の間にか半刻ほどの時間が過ぎていたらしい。仲間であった魔術師の弔いに赴いたコートの男は、無手のままで再度姿を見せた。

「例えるのなら、大地の産声。人に奏でられる音ではない」

「大袈裟だね、君は。それより、用件は済んだのかな」

「ええ、滞りなく。私自身の手で彼らを手厚く葬る事が出来ました。貴方との契約も、彼らがいなければ果たせなかった。故に私は、彼らの死を無駄にしない為に、是が非でも聖杯を掴み取らなければならない」

 目深にフードを被っているお陰で、男の表情は窺い知れなかったが、言葉の力強さからこの戦いに賭ける意気込みを聞いた。けれど、若草色の英霊は柔和な笑みを浮かべてそっけなく言った。

「そう。でも僕は余り聖杯には興味は無いかな」

 コートの男はその程度で腹は立てない。むしろその為にこそ彼を喚んだのだから。

「貴方の目的は、やはり?」

「ああ。彼との決闘……あるいは語らい。この戦いが聖杯戦争である以上、彼と僕が出会えば戦う以外には道はないと思うけど、別の可能性も有り得るからね」

 英雄王ギルガメッシュを触媒としての英霊召喚。彼の叙事詩にて語られる王に比肩する神の造りし泥人形。

 逸話が違えば強さの正当な比較など不可能だ。ギリシャ神話と北欧神話に登場する人物を比べられるのは、実際に喚ばれた彼らが対峙したその後でしかない。

 それでは最強を称する英雄王に勝てる可能性はほとんどない。故にこそ、コートの男は彼の者を招いた。唯一人、英雄王に比肩し得る存在。実際に対峙せずともその力量を把握できる唯一の者を。

「良いでしょう。では私は彼の英雄と貴方が共に最高の状態で戦える舞台を作り上げる為に動きましょう。
 その結果が恐らく、聖杯を掴む者を決める最終局となるでしょうから」

「そうかな? そう簡単にいくとは、僕には思えないけどね」

「……と言いますと?」

「君も覚えておいた方がいい。『最強』に勝てるからといって、『最弱』に負けないなんて道理はないと思うよ。
 彼も僕も『無敵』ではないんだ。刺されれば血を流すし、心臓を貫かれれば死ぬ。ただ単純に少し強い力を持っているだけなんだ。特に僕の場合は、その色合いが濃い」

「…………」

 男は己がサーヴァントの真意を測りかね、沈黙する。若草色の英霊はくすりと笑った。

「まあそれでも、僕も負けるつもりは無いよ。最低でも、彼ともう一度会うまでは」

「いえ、それだけ分かっていれば充分です。目的は違えど、行き着く先は同じです。目下最大の敵は彼の英雄に違いはありませんからね」

「ああ」

 そこで一度話を区切り、更に互いの情報をより良く知る為に言葉を紡ぐ。

「では幾つか訊いておきたい事があります。確認するまでもありませんが、その真名を筆頭に、クラス、宝具などを」

「構わない。僕は────……」

 若草色の英霊は語る。自らを招いたマスターに。

「なるほど……先程の貴方の言葉が良く理解出来ました。確かに、道理です。それと、まさかイレギュラークラスとは……」

 聖杯の定めるサーヴァントを収める七つの器。一度の闘争において通常の七クラスの代替として、一つか二つ、イレギュラークラスが紛れ込む事がある。今回の場合、この若草色の英霊がそのクラスに該当したらしい。

「しかし……では私は貴方を何と呼べばいいのでしょう?」

「好きに呼んでくれて構わない。サーヴァントとでも、真名でもね」

 イレギュラークラスである事を他のマスターに知られるのは巧くない。かといって真名を呼ぶのは論外で、サーヴァントを物扱いするのも彼の信条に反する。面と向かって呼ぶ場合は二人称で事足りるが……

「まあ、それは追々。適当な呼び名を考えて、他のマスターを揺さぶるというのも面白そうだ」

「うん。その辺りは任せるよ。それで、僕は君を何と呼べばいいのかな? マスターで構わないのならそう呼ばせて貰うけれど?」

「ええ、構いませんよ」

「じゃあマスター。最後に、君の名を教えてくれるかい?」

 コートの男は、目深に被ったフードの奥で口端を僅かに吊り上げた。

「ゾォルケン……私の事はマキリ・ゾォルケンと……そう記憶して頂きたい」


+++


 夜の闇が沈んでいく。
 開幕前の前提(プロローグ)は語り終えた。

 この夜を越えて始まる闘争こそが、本当の意味での戦いだ。
 凄惨にして悲惨、何一つとして救いの無かった殺戮の終焉(グランギニョル)より綴られる御伽噺。

 本物の救いを求めて。
 過ぎ去った者と未来ある者とが錯綜し、一つの結末へとひた走る。

 闇の底で燻る悪意が産声を上げる。
 誰とも知らぬ者が謳う。

 ────さあ、十年前の続きを始めよう。













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