烙印を継ぐ者達 Tale.00









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 朝靄に煙る外界より薄いカーテン越しに柔らかな光が降り注ぐ。電灯の消えた室内には規則正しい呼吸音が一つだけ刻まれている。

「ん……」

 室内を俄かに照らし出し始めた光が煩わしいのか、天蓋付きのベッドで眠りに落ちていた一人の少女は寝返りを打ち、直後──起床の時間を告げる目覚まし時計がけたたましく響き渡った。

「…………」

 最大音量で自らの役目を全うする目覚まし時計はしかし、肝心の主に心地よい目覚めを提供するには至らない。どころか、少女はもぞもぞと温かな毛布の中で蠢くばかりで、音を止める為の手すら伸ばそうとしなかった。

 二月も迫る真冬の最中、それも余人に比べ朝が滅法弱いと自覚さえもしている少女は、更に昨夜の徹夜がたたり、睡眠時間僅かに二時間ともなれば熟睡していても何ら可笑しくもない時分だ。
 それでも毛布の中でもぞもぞと蠢いているのは、自らを常に律し優雅足らんと魂に刻み込んだ性根故に、朝の光を浴び意識を僅かに呼び起こし、目覚まし時計にも無意識の内に感付いていたからだった。

 が。

「あと……五分……」

 どうにか温もりから這い出た腕は余りの寒さに一度引っ込みかけたが、音を止める事を優先したのか、そんな余りにありきたりな台詞を吐き出しながらのそのそと目覚まし時計を叩いた。

 無音を取り戻した室内で少女は更に深く毛布の中へと埋没する。今の彼女にしてみれば外の世界は吹雪の吹き荒ぶ氷河もいいところであり、自らが蹲る空間こそが天国にして極楽だった。

 誰が、どうしてそんな楽園より奈落へと進んで突き進みたいと思うのか。今この瞬間こそが幸せの絶頂であるのなら、その後に来る多少の苦難には目を瞑ろう。
 平たく言えばとにかく眠い。朝方まで父の遺した物品漁りに追われていたこちらの身にもなって欲しい。たった五分、たった五分の睡眠時間を温もりを、誰が彼女より奪い去れようか──

 その時二階にある少女の寝室の外、扉の向こう側より静かに響く足音があった。別段何かを咎めるように一際大きな地響きを轟かせているわけでも、忍びの如く抜き足を用いてもいない普通の足音。

 もし彼女がいつもの姿勢で眠っていたのなら、あるいはその足音に気付けたのかもしれない。だがさもありなん、今の彼女を包み込むのは、冬の冷気を遮断し睡魔を助長する悪魔の檻。無論の事、扉一枚隔てた向こう側の雑音など用意にシャットアウトしてしまう。

 だから少女は気付かない。その足音こそが、彼女を地獄へと誘うものである事を。

 コンコン、と軽く扉を叩く音。少女はまるで気付かない。堪えようもない睡魔はとうに彼女を眠りの淵へと突き落としている。

 もう一度響くノックの音。先程より若干強めに叩かれたが、それでも少女は目を覚ます気配はない。

 数秒ほど待った後、扉は音もなく開かれた。その場所に立っていたのは、この部屋で眠る少女とほとんど年の変わらない少女だった。
 毛の長い絨毯の上をまるで滑るように移動した少女はぷっくりと膨れ上がった毛布の傍らに立ち、鳴り止んだ目覚まし時計を見た。

 現在時刻六時三十五分。

 部屋に訪れた少女は顔を僅かに毛布の方へと近づけた。ぱさりと零れた髪を耳に引っ掛けるように掻き分け、優しく囁いた。

「姉さん、朝ですよ」

 その声は眠りに落ちている者を起こそうとするには些か小さすぎた。文字通りの囁き。むしろ完全に眠っている事を確認するかのような声音だった。

「姉さん?」

 もう一度呟いて、けれど毛布の中の少女からの応答はなかった。

「……もう、本当に仕方のない人ですね」

 咎めるような言葉とは裏腹に、誰も見ていないと知っているからか、起こしに来た少女は唇の端を僅かに舐めた。

 人を眠りより呼び覚ます上で行う事の一般的な方法論を考えれば、揺するか、声を大に張り上げるか、毛布を剥ぎ取る事などが考えられる。
 けれど後から来た少女はそのどれでもなく、ベッドの足元の方より腕を差し入れ僅かな空間を作り出し、暗闇の中で唐突に空いた穴より吹き込む寒さに無意識の内に足を擦り合わせる少女の下へと、自身の身体ごと滑り込ませた。

「ひぃぅ──!?」

 眠っていた少女は有り得ざる異物感に覚醒する。柔らかな毛布と自身の間。覆い被さるように侵入したその少女と、闇の中で目があった。

「な、え、あ、さ、桜っ!?」

「おはようございます、姉さん」

 にっこりと微笑む妹の顔が僅かにだけ差し込む光の下に照らし出される。余りに数奇で突飛な出来事の前に、姉と呼ばれた少女は朝の弱さも手伝ってまだ完全に状況を理解し切れていない。

 妹の方もそんな姉を見て取ったのか、

「まだ目が覚めていないみたいですね。じゃあ──」

「え、ちょ、なんで、顔を近づけ──っ!?!?」

 そう叫んだ時にはもう遅い。声を上げる口は、完全に塞がれていたのだから。

×

「あー……」

 美貌を台無しにしかねない程の幽鬼めいた表情を貼り付けた黒髪の少女──遠坂凛はソファーの上で項垂れていた。

「朝からやる気ないですね姉さん。顔は洗いましたか? 歯は磨きましたか? なんならラジオ体操でも始めますか?」

「一人でやってなさいこのバカ妹。一体誰のせいでこんな体たらくになってると思っているの」

 凛が睨めつけた眼光をさらりと交わして、妹──遠坂桜は手にしていた朝食をテーブルへと並べていった。

「誰のせいって、それは姉さんのせいじゃないですか? 徹夜したあげく寝坊なんて、才色兼備、眉目秀麗、優等生の名を欲しいままにする遠坂凛の名が泣きますよ?」

「どう見てもアンタのせいでしょうよ。起こすんならもっと普通に起こしてよ。いつもはもっとすごく普通じゃない。なんで今日に限ってあんな事すんの」

「あれ、今わたしの優等生うんぬんの台詞に突っ込み入りませんでしたね」

「そんな細かい事はどうでもいいのよ」

「はあ、そうですか。まあいいです。で、ですねぇ、いい加減朝起こすのも面倒になってきたからですね。わたしがいつも先に起きてるからって姉さんはだらけ過ぎです。
 分かりますか? 毎日毎日早起きして朝食の準備をして学校に行く支度をして姉さんを起こして。姉さんは自分の準備で終わりなんて理不尽じゃないですか。だから強硬手段に出れば次から自分で起きてくれるかなって」

「かなって、じゃない。なら先に口でその旨を伝えなさいよ。ああ、まあわたしが悪いから強くは言えないんだけど……。
 あ、それと朝食は別にいらないって言ってるのに作るのは桜じゃない。早く起きるのはアンタがジャンケンに負けたせい」

「あーもうまだ朝御飯いらないって言ってるんですか。そんなんだからいつまで経っても発育が無いんですよ」

「ちょ!? ない!? ないってなんなの! わたしだってちゃんと成長してるわよ! どっかの牛みたいにでっかいのをぶら下げたって邪魔なだけじゃない! 見なさい! このスレンダーなボディを!」

「ただの負け惜しみですね」

 くすりと嗤う妹。

「あーら、大きな事に慢心して腰やお尻まで大きくなっちゃった人は何処の誰だったっけ」

 嘲笑う姉。

「…………」

「…………」

 沈黙が降る事一分弱。互いに視線を譲らぬまま、呆れたように同時に溜め息が漏れた。

「さ、御飯食べましょうか」

「そうですね。姉さんの調子も戻ったみたいですし」

 いただきます、と声を合わせて二人は洋風の朝食に手を付け始めた。

「……毎回思うんですけど、結局姉さんって朝御飯食べてくれるんですね」

「そりゃ出されたものは食べるわよ。朝食はいらないってのも、わたし自身が作るのが面倒って部分が大きいし。作ってくれるのなら喜んで食べるわよ、美味しいしね……って何、その満面の笑顔」

「いやー何だか嬉しくて。いつも仏頂面な姉さんなので無理して食べてるんじゃないかって危惧してました」

「単に朝が弱いだけ。というか、ずっと二人で住んでるっていうのに、今更、今までそんな事気にしてたわけ……」

 呆れるわ、と呟いて、凛はトーストに齧りついた。

「そこまで気にしてたわけじゃないですけれど。まあどうせなら美味しく食べて欲しいですし、食卓は楽しんで貰いたくて。あ、勿論姉さんの作る料理もわたし、大好きですよ」

「ありがと」

 さほど量の多くない朝食を二人は談笑しつつ食べ終え、桜が食器の後片付けをし凛が出掛ける準備をし、並んで屋敷を後にする。

 遠坂の家は外観だけを言えば西洋の館に似ている。この住宅地の一角が同じ西洋建築で統一されているのでそれほど目立つ代物ではない。が、よくよく見れば、年季の入ったその風貌と、何処か無意識の内に怖気のようなものを感じ取れる。

 そんな状況に相まって、噂に尾ひれがついたのか、遠坂家の風聞は、仲の良い姉妹が二人で暮らす家──ではなく、家の見た目そのままの幽霊屋敷だった。

 無論、当の二人はそんな事は一切気にもしていないし、夜な夜な魔術の実験、勉強、習得に勤しんでいるので、強ち的を外した噂でもない。

 魔術──他と彼女らを区切る一つの言葉。

「んー、いい天気ね」

 一月も終わりに迫れば寒さも厳しくなるものだが、温暖な気候下にある冬木市ではコートを一枚羽織れば然したる寒さでもなくなる。それでも吐き出す息は白いし、けれど澄み切った空気が突き抜ける蒼天を仰げば、この冷気もまた良いものだと感じられる。

「そうですね。冬なんだから雪も少しくらい降って欲しいなって思ったりもしますけど」

「降らないなら降らない方がいいじゃない。雪なんか降ったら雪掻きしなくちゃならなくなるじゃない。朝の早くからスコップ片手に腰曲げて掘るなんて……。北国の人達は尊敬に値するわ」

「本当、朝が弱いですね」

「毛布の暖かさが悪いのよ。あれこそまさしく悪魔の所業ね」

 あはは、と乾いた笑みを浮かべる桜。どうしてこんな自堕落な姉になっちゃったんだろうと心の中で思ってしまう。きっと一人暮らしであったのなら、凛は外で演じる優等生の仮面を家の中でも多少は被り続けていただろうに。

「……あれ、そうするとわたしのせい?」

「なに?」

「あ、いえ、何でもないです。何でも」

「ふぅん……まあいいけど。あんまり挙動不審だと距離置くわよ」

 そんな事はすまい、と桜は思いながら、凛と肩を並べて歩いていく。そんな中、ふと凛は空を仰ぎ質問を投げ掛けた。

「あれ、すごく今更なんだけど、桜今日朝錬ないんだっけ?」

「昨日言ったじゃないですか、今日から当分はお休みさせて貰うって」

「あーそういえばそうだっけ。何だか普通に一緒に出てきたから今更違和感覚えたわ。ふぅん、そう、まあ、懸命な判断ね。それこそ昨日まで以上に部活に精を出す時間なんてなくなるんだもの」

「…………」

 相槌がなくなり、ふと隣に目を向ければ、感情の読み取れない、表現のし難い表情をした妹の顔があった。だから凛は努めて楽観的にその言葉を口にした。

「怖い? 嫌? それとも逃げたい? 前にも訊いたと思うけど、貴女の分をわたしが受け持っても──」

「それは言わない約束ですよ姉さん。わたし達はあの時二人でいる事を選んだんです。姉さんは選んでくれて、わたしは望んだんです。だから不都合な事だけ姉さんに押し付けるなんてのは、嫌だから」

 この妹ならば、まず間違いなくそう返すだろうと思ったが故の軽口。今更一人には戻れない。二人で歩くと、二人で決めたのだから。

「そう。ならしゃきっとしてなさい。貴女がそう望んでわたしの隣に立つのなら、せめて背筋くらい伸ばしなさい」

「はい、姉さん」

 微笑みを浮かべ、一歩分姉へと歩み寄る桜。肩すら触れ合う程の距離。この場所こそが少女の望んだ居場所。絶望の底で渇望した暖かな陽だまりだ。

 ……遠いなあ。

 隣にあるのに姉の背はこんなにも遠い。だからこそ張り合いがある。努力を惜しまず立ち向かえる。この場所を守り続ける為ならば、きっとどんな事でも出来るだろうし、どんな苦難にも立ち向かえる──

「えへへ」

「な、何その笑い。そんな変な笑い方する奴見たことないわよ……え、ちょ、なんで腕組んでくるの、なんで頬擦りしてるの、なんで首筋に息を吹きかけるの、誰かに見つかるってばぎゃーーーーーー!」

 幸いにも二人が家を出たのは普通の学生と比べて随分と早い時間だ。余裕を持って優雅たれ──遠坂家の家訓を体現すべく、跳ね起きてトーストを咥えて全力ダッシュなどという無様は行わない。

 のんびりと、朝の空気を肌で楽しむように学校へ向かう。踏み締める一歩を感じ、何気ない会話で笑い合い、いつまでも続いて欲しい日常を噛み締めるように。二人は並んで歩いていく。

 当たり前の日々の終わりが近い事を──二人は知っているのだから。

 学校へと近づけば、流石に人の姿が疎らに見えてくる。流れゆく風景の中、桜は左手の袖をきゅっと引き、手の甲が隠れるようにした。

「……やっぱり気になる?」

「ええ、まあ。だってこんなの見つかったら不良だって思われちゃいますよ」

「だったら包帯でも巻いておけばいいのに。わたしと違ってアンタは弓道部に所属してるんだし、怪我したって言い訳が使いやすいでしょうに」

「そうですけど……あんまり嘘は吐きたくないので」

「結構な事ね。ところでそれは誰に嘘を吐きたくないのかしら。自分に? わたしに? 見知らぬ他人に? ──それとも、特定の誰かさん?」

 人波を背にして酷薄な笑みを桜にだけ見せる凛。桜は僅かに目を見開いて、そっぽを向いた。

「知りません」

「なーに、やっぱりそういう相手がいるわけ? わたし達の事情を考えれば部活なんてしてる暇そんなにないのに一年も続けてるのは……ははーん、やっぱり部員の誰かか。それって先輩? 後輩……はいないか。じゃあ同い年?」

「知りません。わたしは何も存じ上げておりません」

「いいじゃない、減るもんでもなし。わたしの御眼鏡に適えば応援だってしてあげるわよ」

「そんな無理な事言って。分かってますよ、許されない事だって。わたし達は今を選んでこうしていられるんです。だからそれ以上を望んじゃいけないって」

「……そこまでは言わないけどね。何処の馬の骨とも知れない野郎に可愛い妹を任せられないってだけ。良い相手がいるんなら、止めはしないし。多分、きっと、半殺しくらいで許してあげられると思うわ」

 けどね……と言って、凛は僅かに歩を早め、

「──アイツだけは、止めておきなさい」

 反論は許さない、とばかりに坂道を登っていった。

 赤いコートを翻す一つ年上の姉──遠坂凛の背中を見つめたまま、桜は緩慢な足取りでその姿を追いかける。
 先ほどまでの気勢は既になく、俯き前髪で隠れた影の下で唇を噛む。手にした鞄の取っ手を強く握り締めて。

「……分かってますよ姉さん、そんな事。でもいいじゃないですか、夢を見るくらい。想うだけなら、誰にも迷惑はかけないんだから」

 呟く声は誰にも届かず、冷たい朝の空気に溶けていった。

 けれど桜は理解していた。想うだけでは済まされないと。想ってしまい、対峙してしまったのなら──その手に握る刃に迷いを生んでしまう事を。その懊悩こそが許されないものなのだと、凛は指摘していたのだから。

×

 校門に辿り着く頃には二人はまた肩を並べており、先ほど一瞬だけ凛が見せた剣呑な雰囲気も霧散していた。桜もまた、藪を突くような真似はしなかった。

「あ、姉さん。わたし一応、弓道場に顔出してきますね」

「そう。あー、うーん、わたしも行くわ」

「部長にでも用があるんですか?」

「いいえ。でもアイツがいるならあの子もいるでしょう。ちょっと探りをね」

「……はい」

 浮かない面持ちで歩く桜と校門を抜ける前より既に優等生の仮面を被っている凛。美人姉妹と評判高い彼女らを遠巻きに眺める者も少なくはない。

 そんな彼女らが向かう先が鬱蒼とした雑木林の手前に建てられた弓道場だ。部活動に無所属である凛とは違い、桜は弓道部に所属している。
 いつもなら朝錬のあるこの時間、静謐な空間に張られた弦が軋む音や、矢が風を切る音だけが木霊する。

 桜が弓道場を訪れるのは別段不可思議な事など何もないが、凛が一緒となれば事情も変わる。凛は弓道部部長と知己の仲だが、今回の訪問に彼女への面通しは入っていない。

 凛が探す相手。それは──

「おー、穂群原の美人姉妹が揃ってどうかしたのかい?」

 弓道場の入り口前でそんな声をかけてきたのは、件の弓道部部長──美綴綾子だった。

「おはようございます、部長」

「おはよう、美綴さん。部長がこんなところで油売ってるなんて、もう朝錬は終わってしまったの?」

 水の入ったペットボトルを傾ける綾子の姿はまだ制服ではなく弓道着だ。それから察するに、朝錬はまだ終わってはいないのだろう。

「おはようさん二人とも。練習はまだやってるよ。朝錬は厳しくやるつもりもないし、部長のやる事なんざ監督以外にないからね。それも藤村先生がいるから問題ないし。油売ってて平気ってわけ」

「ふぅん、そう。わたしにはどうにも、ただサボっているだけのようには見えないのですけれど?」

「……あのさ、遠坂。その妙な口調止めてくんない。アンタを知らない人間ならともかく知ってる側だとそのお嬢みたいな喋り方、ぞくぞく来るんだよね」

「あらいやだ美綴さん。美綴さんにそんな性癖があっただなんて」

「……あのね」

 頭を抱える綾子と作り物めいた微笑を湛える凛との間で、桜がくすくすと笑う。

「本当、仲が良いですねお二人とも。ちょっと妬けちゃいますよ」

「誰もアンタのお姉ちゃんをとって食ったりはしないから安心しな。つか、コイツを食おうなんて奴はゲテモノ食いか上っ面に騙された可哀相な子羊だね。さながら食虫植物だわ」

「言うに事欠いて食虫植物とは言うわね綾子。どうせなら薔薇にしておきなさい」

「綺麗な薔薇には棘があるって? 馬鹿言うなよ、アンタの場合は棘しかないっての。遠目には棘が花弁の形に見える奇怪な花さ。性質が悪いったらありゃしない」

「じゃあ綾子はどんな花になるのかしら。……そうね、かぐや姫ね」

「……はぁ? そりゃもう花の名前じゃないだろ。それとも何か、アンタにゃ私が男を手玉に取る悪女に見えるってオチか?」

「いいえ。竹を割ったら出てきたかぐや姫。美綴さんにぴったりじゃない」

「あ、なるほど」

 桜がぽん、と拍手を打った。

 確かに綾子は女性にしては気風が良く、竹を割ったような性格の持ち主だが、それはあんまりではないかと桜は思ったりした。
 凛のそんな迂遠な言い回しが理解出来たのか、綾子はにこにこと微笑んだままの凛をじと目で見やり、手にしたペットボトルを一口煽って、それから一つ息を吐いた。

「はあ。アンタと喋ってると楽しいは楽しいんだけど、疲れるのは頂けないな。弓を引いてる時以上にくるっては、なんだかやるせないね。何より口でアンタに勝てないのが最高にムカつく」

「その分腕っ節は負けてるんだし、おあいこよ。なんでもかんでもやられっぱなしじゃ遠坂凛の名が泣くわ。立つ瀬がなくなるもの」

「はいはいそうですかっと。で、今日はどうしたんだ。アンタが朝から来るのは珍しい事だし、妹の方も欠席の届出は受けちゃいるけど、こんな時間に顔出すくらいには余裕があるなんてさ。別に私と雑談する為ってわけじゃないだろう?」

「お察しの通り。ちょっと用のある奴がいてね。いる?」

「どちらを御所望かは知らないけど、いるよ。つか、そいつのせいで私はここにいるんだけどね」

「ははぁん、なるほど。そうね、アンタ程そつなく物をこなす人間でも、特化した化物を見れば打ちひしがれるってわけか」

 得心がいった、と凛は頷いた。桜は耳を澄まし、建物の奥から響く弓を切る音に耳を傾けていた。

「じゃ、お邪魔するわね。桜、行くわよ」

「あ、はい。失礼しますね、部長」

「はいよ。私ももう少ししたら行くよ。逃げてても勝てないし、盗めるものは盗んでおきたいから。あー遠坂、本当に邪魔はするなよー」

 邪魔にすらならないわよ、と返し、凛は桜と共に弓道場へと足を運んだ。

 扉を潜り靴を脱ぎ、一歩射場へと入ったその瞬間、余りの静けさに二人は息を呑んだ。人がいないわけではない。むしろ部員のほとんどが射場にいる。けれどその皆が、唯一人の少年に視線を集めている。

 少年は弓を構え、矢を引いている最中にあった。同じく弓を射ろうとしていたであろう者でさえ、腕を止めて吸い込まれるみたいに魅入っていた。

 基本的に騒がしい弓道部にあって、その静けさは何処か異常ですらあった。まるで本物の競技場で行う射を見守るが如く、誰もが言葉を失い見守る。

 少なくない人間の視線を独り占めにする少年はしかし、他者の目などまるでないかのように規定の動作を遂行する。一糸の乱れもない型。理想を体現する模倣。
 張り詰めた弦の軋みさえも耳朶に響き、呼吸すら忘却しかねない静寂の中──寸分の迷いなく、一瞬の躊躇もなく、矢は中空へと放たれた。

 ──中る。

 誰もがそう予言し、その直感に狂いはなく、矢は的のど真ん中へと吸い込まれて突き刺さった。
 まるで的に矢が中ったのではなく──的の方が矢を導き呼び込んだように。

 少年の残心が終わり、息を吐いたのと同時に喧騒が戻ってくる。誰も彼を持て囃したりはしない。ただ感嘆の息を吐くだけ。彼自身も驚いたりはしなかった。
 それも当然、少年にとって今の一連の動作は当たり前の所作であり、部員にとっても──空恐ろしくはあれど──何ら変わる事のない日常の一風景でしかないのだから。

「はっ──本当、気味が悪い」

 しかし部外者である凛はそうもいかない。数えるほどしか見てはいないが、それでもあの男が射を外したところなど見た事がなかった。
 自然零れる言葉には棘が生まれる。それ程に、少年の射は異形かんぺきだった。悪態は自らが呼吸を忘れるほどに見惚れていた事への、裏返しでもあったのだ。

「どうしたのリン? そんな呆けたような顔をして」

「……イリヤスフィール」

 凛に声を掛けてきたのは、およそ弓道場とは無縁に見える銀髪の少女──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンだった。

「私の弟に見惚れるのはまあ分かるけど、ダメよ。シロウは私のなんだから」

「はいはい。ブラコンなお姉ちゃんは敵が多くて大変そうね。その小さな身体で大好きな弟くんを守ってあげてね」

「小さい言わないで! あと子供扱いも禁止!」

 一応凛より一つ年上であり先輩に当たるイリヤスフィールだが、凛は彼女に対し敬意も尊敬の念も持っていない。持つ必要のない間柄であるのだから。

「で、何の用なのかしら。ここは部外者立ち入り厳禁よ」

「アンタだって部員じゃない部外者でしょうが」

「何言ってるんだか。私はシロウの姉として、シロウを見守る必要があるの。だからこの場に居ても何ら不思議なんてないわ。むしろ居なきゃダメな部類よ」

「じゃあわたしも不思議はないわね。可愛い妹が部員だし、綾子にも許可取ってあるんだから。お生憎様ねイリヤスフィール」

 はん、と鼻で笑う凛を見上げ、イリヤスフィールはぷぅ、と頬を膨らませた。

「……このシスコン」

「何よブラコン」

 むぅ、と睨み合い、不毛な争いを続ける二人はしかし、どちらともなく視線を外し、座間へと上がり腰を下ろした。
 少年の射が終わり、喧騒の戻っている今、教員である藤村大河が何やら騒いでいるのでこの辺りならばこちらの声が向こうに届く事はない。

 口火を切ったのは凛だった。

「単刀直入に聞くわ。イリヤスフィール、貴女、令呪は?」

「ないわ」

 返答は簡潔にして単純だった。

「前にも言った気がするけど、私は魔術師じゃないし、アインツベルンとも切れてるの。聖杯が私を選ぶとすれば、一番最後。時期になっても適格者が現れなかった場合の補欠要員でしかないわ」

「じゃあ父親は?」

「そっちもハズレ。あの人にはもう聖杯に託す望みなんてないもの。聖杯は動機はどうであれ、聖杯を望む者にしか参加権を与えない。過去一度否定したキリツグに令呪が浮かぶ要因は、私以上にないわね」

「……そう。じゃあ──アイツはどうなの」

 凛の視線の先には先ほど射を放った少年がいた。息を呑み、息を呑まれるほどの人間離れした射を放った男が。

「うーん、どうだろ」

 これまで間髪入れずに答えを返してきたイリヤスフィールが、首を傾げた。

「まだ兆候はないけど、私達三人の中じゃ一番可能性が高いのはあの子よね。まあ最たる欠点として、未熟者であるのがまあ、頂けないわけだけど」

「つまりアイツには聖杯を望む理由があるって事? 未熟な分を差し引いても」

「さあね。そういう会話はつまらないからしないもの。あるかもしれないし、ないかもしれない。でも開幕の近いこの時期にもなって令呪が浮かんでないのなら、可能性は低いでしょうけどね」

「そう。ならいいわ」

「それを確認する為にわざわざここへ? リンも案外暇なのね」

「失敬ね。予定なんて詰まりまくりよ」

「敵の確認……いいえ、敵と成りえる者の偵察、か。じゃあそれは警告? 忠告? それとも宣戦布告かしら」

「あえて言うのなら忠告ね。このまま貴女達が無関係でいるのなら、わたしは何もする気はない。でももしわたしの、いいえ──わたし達の敵となると言うのなら」

「その時は容赦しないって事。あはは、リンってばバカね。それはもう宣戦布告みたいなものじゃないの。
 うん、でもそんな貴女は嫌いじゃないわ。変に気を回されて迂遠な物言いをする子って苦手だもの」

「それは一体誰の事かしら──って、あら。いいのイリヤスフィール、貴女の大事な弟にちょっかい出してるのがいるわよ」

「あぁー! ちょっかいって、この、アレ貴女の妹じゃない! あ、こら、サクラ! 待ちなさい! 勝手にタオル渡さ、なっ、汗を拭うなんて!? 更にはドリンクまで!? むぅぅぅ、シロウにはこのお姉ちゃん特製のドリンクがあるんだからー!」

 バタバタと駆けて行く小柄な少女を凛は視線で追う。その後姿には何の気負いも見られない。自分達は無関係でいられると思っての事か、あるいはたとえ巻き込まれようとも生き抜くだけの覚悟があるのか。

「……どっちにしても、厄介よね」

 凛には凛の覚悟がある。譲れない決意がある。ただそれだけの事だった。

×

 その後は練習が終わるのを見届け、着替えのある部員達を残し凛と桜はそれぞれの教室へと入った。

 教室で教えられる当たり前の事。学生の身分である者が半ば義務付けられている教養の習得。当たり障りのない平穏。享受すべき日常。
 その日常の只中にあってなお、凛や桜は片足を──否、半身以上を非日常へと突っ込んでいる。

 魔術師。

 その一言で以って事足りる違う世界を生きる者。普通にはもう戻れない──戻るつもりもない彼女らの総称にして誇りある呼称だった。

 午前の授業が終わり、柔らかな微笑の似合うほんわかしたクラスメイトの昼食の誘いをやんわりと断り、凛は屋上へと足を運ぶ。
 寒風吹き荒ぶこの時期に遮蔽物すらほとんどない屋上で昼食を摂ろうなどという猛者はそう多い筈もなく──

「や、待たせたわね」

「はい、待ってましたよ、姉さん」

 当たり前の如く彼女達の独占であった。

「ちょっと寒いわね、流石に」

「時期が時期ですし。でもほら、こうして肩を寄せ合えば……」

 せめてもの遮蔽物を背に、身を寄せ合う二人。朗らかに笑いながらくっついて来る妹に凛はしょうがないわね、と思いながらもしたいようにさせていた。

 今日の昼食は桜の手製の弁当だった。彩り鮮やかな料理に舌鼓を打ちつつ、談笑を交わしているその最中──

「ひぅ!?」

 全くの突然に、その電子音は木霊した。

「あれ、姉さん。携帯鳴ってますよ」

 小首を傾げる桜とは裏腹に、凛は得も言われぬ程に顔を顰め、心底嫌そうにスカートのポケットから赤い携帯電話を摘み上げた。文字通り、ストラップを指先でちょこんと摘む──さながら汚いものでも触るかのような所作だった。

「姉さん、まだ携帯苦手なんですか……」

 魔術師という特殊な生き方をする人間は、得てして科学の産物を嫌う傾向にあるが、彼女らはそれほど毛嫌いしているわけではない。電気は使うし風呂も釜なんてものを使うわけもなく、日常的に扱う電子機器類は使うべくして使っている……のだが。

「だってこれ、ボタン多すぎじゃない。ねえ桜、どれが通話ボタンだっけ……?」

「はあ……家の電話なら普通に使えるのに、なんで携帯は使えない姉なんでしょうか」

「うっさいわね。家の電話は受話器取るだけで使えるじゃない。掛けるのだってボタン押すだけじゃない。携帯は無駄な機能が多すぎるのよ。これだってアンタが持ってろって言うから持ってるだけじゃない。
 使う機会だってほとんどないのに。あ、あどれす? ってやつの登録もアンタの他にはしてないし、この携帯の番号知ってるのなんて──」

 あ、とそこまで言ってから、電話を掛けてきた人物についての心当たりが生まれた。生まれてしまった。恐る恐るディスプレイを見やれば、桜が登録してくれた人物名がまざまざと輝いていた。

「あー、やっぱりアイツか……。出たくないなぁ」

「出なきゃダメですよ。あの人の事だから、切っても何度でも掛けてきますよ」

「絶対嫌がらせよね。あーもう、仕方ないか」

 延々と鳴り続けていた無機質な電子音が、通話ボタンのプッシュによって遮断された。

『遅いぞ凛。電話に出るだけで何分掛かっている』

 その声音を聞いた瞬間、凛は露骨に顔を歪め、まるで自然な動作で通話を切った。

「あ、ね、姉さん! もう、何してるんですか!」

「いや、だって、その、条件反射?」

「声を聞いたら通話を切るなんていう反射はないです!」

「えー、だってアイツの声なんてもう一生聞きたくないんだもの。なんでわざわざ電話に出てやったっていうのに第一声が苦言なのよ」

「姉さんはあの神父さんに爽やかな挨拶でも期待してるんですか? そっちの方が怖いと思いますけど」

「……言うわねアンタも。それにどうせ、本当に必要な要件ならすぐにまた掛けて──ほら来た」

 今度は僅かな逡巡の後に通話ボタンを押した。

『おまえは私が余程暇を持て余していると勘違いしているようだが、これでも忙しい身なのだ。電話一つで煩わせるな』

「はいはい、それはどうもすみませんでした。で、何、何の用なの。わざわざわたしの携帯に掛けてくるなんて嫌がらせ以外の何物でもないじゃない。桜の番号も知ってるんだからそっちに掛けなさいよ」

『それではつまらん。おまえの反応の方が余程面白い。おまえが浮かべているであろう渋面がまざまざと思い浮かぶぞ』

 何処からどう見てもこの神父は暇人に違いない……と凛は思った。

「で、何。こっちだってアンタの遊びに付き合ってるほど暇じゃないのよね。用件だけ簡潔に述べなさい」

『相変わらず性急な奴だ。まあいい。用件は一つ。触媒に関する事だ』

「…………」

 事此処に至るまで、なんとか考えないようにしていた現実を、最も言われたくない人物より言われてしまった。

『その様子では見つけられなかったようだな。少なくとも十年前、おまえ達の父親が使用した触媒はある筈なのだが』

 数日前より凛が続けていた作業。家中を引っ繰り返し夜を徹しての捜索はしかし、結実する事無く本日を迎えていた。朝の寝坊もこの辺りが最たる原因だ。
 しかしそんな事をわざわざ電話で言われる筋合いはない──とばかりに、すぅと呼吸を溜めて解き放つ。

「……あのね、そりゃ父さんは触媒を触媒として探し出して用いたから問題ないんでしょうけど、わたし達は場合が違うの。そりゃね、それっぽいものは幾つか見つけたわよ。魔的なものを感じるものとか、えらく年代の古いものとかね。
 それが由緒ある名剣だとか名のある鎧なら良かったのよ。でもね、見つかるものって大体その破片とかなの。わたしにそんなものの真贋を見分ける目なんてないし、コネだって持ってない。
 ならそんな曖昧な基準で、一世一代の、一度限りのサーヴァント召喚の触媒に使えるわけ無いでしょう。狙いの英霊の縁の品、あるいは壮大な英雄譚を持つ英霊の所有物っていう確固たる証明が無ければ、どんなものが喚び出されるかわかったものじゃないじゃない」

『ならばそれと分かるものを用意しようとしなかったおまえの落ち度だな』

「ぐっ……くぅ」

 捲くし立てた持論をたったの一言で説き伏せられて、さしもの凛も唸る他なかった。

「だからわたしは最初に言ったじゃないですか。神父さんに手を貸して貰おうって」

 聞き耳を立てていた桜が呟くように言った。

 彼女らの父は魔術協会にコネクションを持ってより、独自のルートさえも所有していたからこそ貴重な聖遺物の一つを探り当てる事が出来た。
 しかし当の彼女達は一家の当主でありながら、未だ学を修める最中にある身。自らの事で手一杯であり、魔術師としての横の繋がりどころか最高学府への切符すら手にしていないのが現状だ。

 言うなればまだまだ若輩者であるという事。それが故に、後見人である電話先の神父──言峰綺礼にとやかく言われる立場と相成っていた。

「アイツに借りなんてこれ以上作りたくなかったの。父さんの遺したものに絶対あった筈なんだから。それにあの時、アンタだってそこまで強く反対しなかったじゃないの」

「そりゃわたしも姉さんと同じで、あの人にこれ以上の借りは作りたくなかったですし」

『姉妹で囁き合うのは結構だが、全てこちらに筒抜けだぞ。まったく、姉が姉なら妹も妹だな。性格の向きは違えど、おまえ達は何処までも似た者姉妹だな』

「あー、もう、嫌味は結構よ綺礼」

『そうか。で、どうするつもりだ。こちらでは既に数騎のサーヴァントの召喚を確認している。時間は余り残されていない。よもや異例の令呪を刻まれながら、サーヴァントを喚ぶ間もなく敗退などという目だけにはあって欲しくないものなのだが』

「そんなつもりは毛頭ないわ。はん、いいじゃない。触媒がないならないで、ないなりのやりようってものを見せてあげるわ。
 この遠坂凛が召喚するのよ。触媒なんてなくったって、間違いなくセイバーのサーヴァントを召喚してあげるわ」

「姉さんそれは流石に自意識過剰です」

『同感だな。おまえはもう少し慎みを覚えた方がいい』

「ぐっ……もう、何なのよ二人して。そうよ、意地張って綺礼に頼らなかったわたしが悪いのよ! はいはいわたしが悪かった、ごめんなさい。
 で、そんな嫌味を言う為だけにわざわざ電話して来たんじゃないわよね、暇じゃない神父さんは」

『無論だ。どうせおまえ達の事だからと、その程度の失敗談は織り込み済みだ』

「姉さんと一緒くたにされました……」

 一人で落ち込む桜をさらりと無視して凛は綺礼に続きを促した。

『最初に言っただろう、用件は一つだと。こちらに一つ、触媒に関して心当たりがある』

 その言葉には、さしもの凛と桜も数秒沈黙せざるを得なかった。

「……どういう風の吹き回しかしら。そんなお膳立てをしてくれるなんて」

『別におまえ達の失敗を見越して私自身が用意したものではないから、感謝の謂われなどないのだがな』

「誰も感謝なんてしてないじゃない。つかなんで、アンタが触媒なんて持って──あ、そうか。アンタ十年前の参加者だったっけ。それ?」

『それも違う。これは十年前、おまえ達の父親が喚び寄せようとした、本命の英霊に纏わる聖遺物だ』

 言峰綺礼の語るところに拠れば、彼女達の父である遠坂時臣は、本命とした英霊の聖遺物を確保はしたのだが、運搬の途中で紛失してしまったらしい。
 その為、予備として確保しておいた──それでも名のある英霊縁の品だったが──聖遺物を用い召喚し、第四次聖杯戦争へと赴いたらしかった。

『それが今頃になって見つかってな。おまえ達の後見人である私のところへ届いたのもほんの数日前の話だ。
 おまえ達が自力でサーヴァントを選び召喚出来るのならそれはそれで問題なかったが、今の状況を鑑みれば、導師の導きか、神の愛か、あるいは何かしらの運命のようなものを感じてしまうな』

「……はっ、ど腐れ神父のくせに思ってもいない事を」

「わわっ、姉さん言いすぎですよ!」

『構わん。凛の口の悪さには慣れている。それで、どうする。欲しいのなら譲るが。いや──譲るという言葉は御幣があるか。これが導師の所有物であったのなら、つまりおまえ達の物でもあるのだからな』

「…………」

 凛は沈黙し、思考を巡らせる。数秒の後、口を開いた。

「そうね。考えておくわ」

『そうか。ああ──私は別にどちらでも構わんのでな。しかし取りに来るのなら今日中に来い。開幕の迫るこの時期に、監督役が一参加者に余り肩入れする事は良くはない。おまえ達の評価にも裁定は及びかねん』

「そう、分かったわ」

『私個人としてはおまえ達に期待している。詰まらん幕引きにだけはしてくれるな』

 それだけを言って、通話は綺礼の側より切られた。

 桜は姉と後見人との遠慮のないやり取りに疲れたのか、溜め息を吐いた。それから凛の方を見やれば、いつになく険しい表情があった。

「……姉さん?」

「ねえ桜。今の話、どう思う?」

「え? そりゃ願ったり叶ったりじゃないですか。お父さんが喚び寄せようとした本命の英霊の触媒ですよ。きっと凄い──」

「上手すぎるとは思わない?」

「え?」

「タイミングが良すぎるって事。幾ら探してもそれらしき物しか見つけられなかったわたし達の下へと降って沸いた父さんの触媒の話。それも恐らくは強力な英霊に縁の品で、綺礼の下に届けられたのは数日前? はん、都合が良すぎるにも程があるっての」

 話として出来すぎていた。それならばまだ綺礼が時臣に渡さない為に隠し持っていたとかの方が信憑性がある。それはそれでまた心中穏やかではいられない類の話ではあるが。

「……じゃあ姉さんは、神父さんを疑ってるんですか?」

「当然よ。アイツほど底の知れない男をわたしは知らない。何考えてるさっぱり分からないもの。日常会話すら疑念を持って望むくらいよ」

 その言葉の真偽はともかくとしても、桜も流石にそこまで言われれば疑わざるを得なかった。都合の良い展開に目を奪われ、その裏にあるかもしれない罠に気付けなかった己を恥じながら。

「まあ、でも、興味はあるのよね。父さんの触媒」

 当然と言えば当然だった。まともな触媒の無い今の状態ではどんな英霊が喚ばれるのか分かったものではない。
 言峰綺礼という人物は疑って掛かるべき男ではあるが、嘘は言わない男だ。ただ、語たるべき事を黙し、言葉の全てを疑ってなお見えない裏を隠し持っているのは確かであり、一筋縄ではいかない人間には間違いない。

「純粋な厚意か……何かしらの罠か……どっちかしらね。どっちだと思う?」

 そう桜に問いかけながら、凛は壮絶な笑みを浮かべた。

×

 放課後。

 校門の前で待ち合わせをした凛と桜は行きと同じく肩を並べ坂道を下る。夕焼けに染まる町並みを見下ろしながら、いつもとは違う帰路を行く。

 別に商店街で学校帰りの買い食いをするわけでも、夕食の買出しに行くでもない。目的地は彼女らの住居のある深山町から冬木大橋を渡った先にある新都だ。

 今なお開発の続けられている新興都市。古い町並み──良く言えば昭和の面影を残す深山町とは違い、新都は近代的な造りが目に留まる。車線の多い道路、見上げるほどの高さがあるビルディング。
 丸い世界を四角く切り取る箱庭。現代日本の街並みだ。駅前広場には多くの人達が行き交っており、今日も街を賑やかす。

 無論、そんな新しい都でウィンドウショッピングに勤しむ事などまるでなく、二人は駅前を中心に開発の顕著なエリアを奥へ奥へと進んでいく。

 すると見えてくるのは閑静な住宅街。新都がいかに発展目覚しい街であっても、人が住む区画ともなればそれなりに穏やかな風景があって然るべきなのだ。

 並木の坂道を上り、高台へ向かうその途中。

「あの、姉さん。ちょっと寄り道していいですか?」

 桜の言いたい事がすぐに分かったのか、凛は頷いた。

「ええ。そうね、必勝祈願でもしておきましょうか」

「もう。姉さん。不謹慎ですよ」

 言って二人は坂道の途中で脇道に逸れ、共同墓地へと踏み込んだ。

「父さん……母さん……」

 光の良く当たる場所に立てられた墓。その碑銘には遠坂時臣、そして葵の名が刻まれていた。

 十年前、第四次聖杯戦争にマスターとして臨んだ父──時臣。その結果は敗戦にして命をも失う結果に終わったが、彼が最期に成し遂げた事こそが、桜を間桐の闇より救い出す事だった。

 今こうして凛と桜が肩を並べられているのは父のお陰だ。いや、大本を正せば時臣自身の罪でもあるが、それは既に終わった事。少女達は、今此処に二人で肩を並べられる事をこそ誇りに思う。

 そして妻である葵もまた、時臣の後を追うように亡くなった。心より愛していた者の死を衝き付けられ、そして遺された二人の子を一人で支え続けなければならない責任を負い、彼女の肩に掛けられた重責は、誰が思うよりも重かったに違いない。

 そんな彼女はけれど、いつも笑っていた。凛と桜に、変わらぬ愛を注いでくれた。しかし孤独に枕を濡らす日があった事を、二人はそれとなく知ってもいた。

 だから彼女達は自らの足で立つ事を望んだ。母に無用の心配を掛けぬよう、精一杯に生きた。ただそれは、少しばかり遅かったのか、あるいは時臣の死が、葵に齎した影響は計り知れないほどに大きかったのか、今となっては知る術もない。

「わたし達は大丈夫だから。二人で一緒に、待っててね。まあ、まだそっちに行く予定はないんだけど」

「お父さんが遺してくれた物……お母さんがくれた物……大切にして、わたし達は精一杯に生きてます」

 胸に掛けた赤いペンダントを握り締めて微笑む凛。桜もまた、胸の前で手を組み熱心に祈りを捧げた。

「良し」

「あれ、姉さん。必勝祈願は良いんですか?」

「冗談に決まってるでしょ。それに、こればっかりは父さんにも母さんにも頼めない。わたし達が自分の力で掴み取るものだもの」

「そうですね。これ以上心配掛けちゃダメですよね」

「そういう事。ほら桜、もう一つ、行くところあるんでしょ」

「はい」

 二人はそのまま墓地の奥へと歩いていく。すると、小さな十字架の立てられた墓が目に留まった。

「雁夜おじさん……」

 間桐雁夜──間桐の宿業と共に燃え尽き、桜を絶望より救い上げてくれた人。

「桜も人が悪いわね。なんであの時、わたしにも教えてくれなかったの」

「え、えーっと、それは……」

 それは桜の闇を晒す行為に繋がるとは、凛には言えない。凛は知らなくていい。桜の内に潜む闇の正体など。

「まあいいけど。わたしだってちゃんとお礼くらい言いたいの。雁夜おじさんに。ありがとう、桜を救ってくれて」

 そうとも。凛はたとえ桜の闇を知っても彼女を軽蔑したりはしないだろう。そんな当たり前の事、知っていたのに。それでも桜はやはり、知られる事が怖かったのだ。
 でも今は、これで良かったと思う。桜だけでなく、凛もまた共に祈ってくれる。その想いだけで、救われる。

 二人は長く黙祷を捧げ、それから墓地の出口で振り向いた。

『行って来ます』

 今二人が共にある事を望み、祝福してくれた人達への挨拶。その言葉を決意に変えて、二人は再度坂道を上り始めた。

×

 そうして、やがて辿り着くのは高台だ。その頂に立てられている建物こそ、この街に一つしかない教会──冬木教会。別名、言峰教会。

 言うまでもなく、凛と桜の後見人にして一戸の教会を預かる神父──言峰綺礼の運営する教会だった。

「……はぁ、いつ来ても気が滅入るわね」

 凛はあからさまに肩を落とす。桜も似たようなものであり、この場所はあまり好きではなかった。
 高台の上にあるので空は近く、街並みも見下ろせる良い立地であり、周囲に生い茂る木々しかないというのが教会という荘厳な建築物を強く引き立たせる。

 信心深い者ならばその威容を仰いだだけで恭しく礼を取るのかもしれないが、生憎と二人には信仰の心はない。二人が信じているものは、己と、そして互いのみだ。

「本当、無駄に良い物件よね。アイツが神父じゃなけりゃもっと良いんだけど」

「でもこの教会、結構流行ってるらしいですよ? 特に年末年始は大盛況らしくて。入っていって出てきた人達は皆晴れやかな顔をしているとか」

「うげ。それって洗脳とか、そういう類じゃないの?」

「あはは、まさか。流石の神父さんも仕事くらいはきちっとこなしますよ。……たぶん、きっと」

 それくらいに、二人にとっての言峰綺礼という人物は評し難いものであった。

「うし。じゃあそろそろ行きましょうか。桜、準備は良い?」

「はい」

 たかだか教会の門扉を叩くだけにしては、些か気合の入りすぎた所作で二人は扉に手を掛ける。その後ろ──頭上で、遥かな空を染める夕焼けの赤を受け、十字架が黄金色に煌いていた。

「来たか」

 門扉を開けてすぐ、礼拝堂の祭壇に、その男の姿があった。

「久しぶりね、綺礼」

「ああ。おまえ達は用がなくばこの教会に寄り付こうともしないからな。さて、何時振りの再会だったか」

「そんなに前じゃないと思うけど。十年前──あの頃に比べれば、アンタは随分とこの街に留まって、いらない世話を焼いてくれるからね」

「世話……? ああ、誕生日の事か。何、気にすることはない。あれは私なりの誠意だ」

「誠意? 嫌味の間違いでしょう、あんなもの。何で毎年毎年同じ服ばっかり持ってくるのよ。しかもその年のわたしの身体にぴったり合うとか、逆に気持ち悪いわ」

「ほう? おまえはあれを着たのか?」

「着るわけないでしょう! 最初の頃ちょっと身体に当ててみて大事にしてたら、翌年同じもの渡されて、その次も同じだったら流石のわたしも感づくわ! 心の篭ってない嫌がらせだってね!」

「何を言う。いかな良品であっても衣服は消耗品だ。特に未だ成長期にあるおまえ達ならば一年もあれば同じ服を着れなくなるのは当然の事。だから私は毎年同じ衣服を、違う採寸で渡していたというのに」

「同じ服である必要性が全くないでしょう、このアホ神父!」

「なんと……おまえはあれを気に入っていなかったというのか!?」

「あったりまえでしょうが!」

 荒く息を吐く凛に対し、神父は神妙な面持ちで思索に耽り、ふむ、と頷いてから、

「それならばそうと、もっと早くに言ってくれれば、おまえ用にコーディネイトした赤と黒の同じ服を用意したものを……」

「いや、違うから。カラーリングが気に食わないとか、そういう話じゃないから」

 心底残念がる綺礼を呆れ顔で見やった凛は、仕切り直しとばかりに声を張り上げた。

「あー、はいはい、バカはここまで。ほら、アンタが下らない事言うから、桜が置いてけぼりじゃない」

「あ、あはは。相変わらず阿吽の呼吸ですね。神父さん、こんにちは、お久しぶりです」

 そう言って桜は小さく頭を下げた。

「ああ。おまえも壮健そうで何よりだ。凛に釘を刺されたからな、私もこれ以上の無駄口は止めておこう。
 すぐにでも本題に入りたいところだが、先に一つ、伝えておくべき事がある」

「なに?」

「最近、この街に複数の魔術師が侵入している」

「別段不思議な事でもないでしょう。聖杯戦争に参加する権限を持つのはこの街に住む魔術師だけじゃないんだから。セカンドオーナーたるわたし達のところに挨拶に来ないのは気に食わないけど」

「そうではない。いや、その類の人間だが、如何せん数が多すぎる」

「どういう事?」

 曰く、その者達は数日前に冬木市に侵入し、集団として活動しているらしい。通常、聖杯戦争にマスターとして参加しサーヴァントを得られるのは七人だけ。それも聖杯の設ける枠がある。

 一つに聖杯戦争を形作った御三家が優先され、次に協会からの参加枠。残りに外来や、期限を間近に控えても参加者の足りない場合の穴埋めなどがある。

「おまえ達は言うに及ばず、協会からの枠も既に押さえてある。つまるところ、その者達はその他の部類の魔術師という事になるのだが」

「あの、神父さん。そういう場合、令呪の発現って早い者勝ちなんですか? その集団の魔術師の複数に令呪が浮かんだら──」

 最初から手を組む事を目的として複数人で行動し、その全てに令呪が浮かぶ──極論すれば、御三家と協会枠以外の三つを押さえる事が可能なのかどうか。

「いや、不可能だろう。その集団が一つの意思によって動くものであれば、その内の一人にしか令呪は刻まれない。でなければ、二百年以上の昔から、おまえ達御三家に連なる者が別口の人間を用意しようとしなかった筈がない。
 十年前の闘争時も、血の入らない外来を招いた家があったが、それも正しく一つの枠として埋まり、その家の別の人間に令呪が刻まれる事はなかったからな」

 あくまで過去の統計から見る推論だが、と付け加えて綺礼は語りを終えた。

「ふぅん、じゃあそいつら、何が目的なわけ? マスター候補が一人いて、残りはサポートとか?」

 基本的に一対一を常とする聖杯戦争に、その戦い方は少しばかりおかしい。たとえ補佐に努めようと、願いが叶えられるのは唯一人。その他の人間は無駄骨だ。

 魔術師という偏屈な人種が、そんな無駄を踏むとは思えない。脅されているのか、心酔しているのか、操られているのか、あるいは地位や金に雇われているのか。何れにせよ、異端なやり口には変わりない。

「行動原理までは分からん。目的もな。ただ情報によれば、その魔術師達はサーヴァントを捜しているようだ」

「はぁ? 魔術師……マスターじゃなくて、サーヴァントを?」

「ああ。マスターを打倒し令呪を奪い、サーヴァントをも奪い取るというのなら話は簡単だが、その魔術師達は、サーヴァントとの交戦を目的としている」

「なっ……!」

 有り得ない。二人の脳裏を掠めたのはそんな言葉だ。

 それもその筈、サーヴァントとは過去英雄と呼ばれ、世界に祀り上げられた存在だ。規格外の力を持ち、世界をすら一変させる人ならざるヒト。今なお語り継がれる、数多の御伽噺の主役。物語に登場する主人公。
 そんな化け物を相手に、たかだか魔術を修めた……修める道半ばの魔術師などが太刀打ち出来る筈もない。

 それでなお戦おうとするなど、余程の戦闘狂バトルマニアか、死に急ぐ人間に他ならない。

「確かに、並の魔術師では歯も立たん。熟練のそれでも防衛戦が良い所だろう。だがそれはあくまで、一対一を想定した場合の話だ」

 綺礼は続ける。

「複数人で囲み、且つ戦いを避け・・逃げ惑えば・・・・・、全滅はせずに済むだろう。いや、上手くやれば最小限の被害に抑えられる」

 意味が分からない、と凛も桜も首を傾げた。

「えっと、つまりその人達は、自らサーヴァントを捜し出し、見つけても戦う振りをしながら逃げ惑い、全滅を避けてるって事ですか?」

「そうだ」

「ただの馬鹿なんじゃないの?」

 一刀両断だった。

「リスクしかないじゃない。その行動に何のメリットがあるって言うの? 形だけ戦いの様相を呈したところで絶対に勝ちを拾えない。そいつらの中にマスターがいれば別だけど、その口振りだといないんでしょう?」

「マスターはいる可能性はあるが、少なくともその者達に組するサーヴァントの姿は未確認だ」

「だったら、ただの馬鹿でしょう。意味がない事この上ないわ」

 如何に犠牲を抑えようと、サーヴァントと生身の人間が交戦する以上は間違いなくダメージを被る。相手から挑まれての応戦ならばまだしも、自分達から向かって行き、そして退却を繰り返すなど、その行動にどれだけの意味があるのか分かる筈もない。

「でも、絶対何か意味がある筈ですよね。でなきゃ、そんな真似出来ません」

「そう考えて間違いはない。が、それをこの場でどれだけ議論したところで詮無い事だ。他人の頭の中など覗けるわけでもないのだから。
 つまりはそういう類の魔術師が、この街に跋扈している……そういう認識を持ってさえいれば、今はそれでいい」

「ふぅん……ねえ綺礼。監督役が一参加者に肩入れするのは拙いんじゃなかったっけ」

「何の事だ? 私はこの街の教会を預かる者として、冬木を預かる者セカンドオーナーであるおまえ達に話を通しただけに過ぎない」

 さらりとそんな事をのたまってから、さて──と綺礼は切り出した。

「ではそろそろ、本題に入ろうか」

 綺礼は予め凛達が訪れる事を予期していたのか、祭壇の下から一つの箱を取り出した。凛達もまた、今し方得た情報をとりあえず頭の片隅に留め、思考を切り替えた。

 祭壇の上へと置かれたそれは何の変哲もない普通の箱だった。違いがあるとすれば、幾つもの鍵やベルトによって厳重に封を施されている点だ。

「それが、父さんの?」

「ああ。箱はただの入れ物だ。中身にこそ意味がある」

 厳重に封のされた箱の鍵を一つ一つ外していく綺礼。その様を二人は神妙な面持ちで見ている。父の用いようとした英霊の触媒。それも強力な英霊に縁の品ともなれば、一体どんな物なのか……期待するなという方が無理な話だった。

「…………は?」

 だからこそ、蓋を開けられた先に収められたものが、理解の及ばないものに見えた。

「これ……何ですか?」

 凛も桜も、由緒ある武具か、あるいはその破片、でなければ装飾品の類ではないかと予想していたが、箱の中にあったのは──どう見ても、金属の光沢を持たない……自然物の、しかも、何かの木乃伊のようだった。

「何かと問われれば、蛇の抜け殻だ。しかもその化石のな。ただし、これは世界で初めて脱皮した蛇のそれだがな」

 およそ予期していなかった触媒の登場に二人は唖然とする。英霊に縁ある物……それは大抵、その人物の所持品だったり逸話があったりするものだが、これは違う。
 こんなものを所有した人間は居ない。けれど──関わりを持った人物については、二人も心当たりがあった。

「蛇の脱皮の起源。とある王が探し求めた不死の妙薬を口にしたそれが、その起源だと言われている」

「つまり……これを用いて召喚を行えば、その王が?」

「あるいは王に妙薬を渡した魔術師の可能性もゼロではないが、どちらがより縁近い者かと言えば、やはり王だろう。叙事詩にすらその逸話は語られているからな」

「ふぅん……」

 凛は目を細め、胡散臭そうに蛇の抜け殻の化石を見つめた。

「これが本物だって言う証拠は? だってこれ、本物なら何千年も前の代物でしょう。父さん一体どういうツテでこんなもの見つけ出したんだか……」

「真贋については十年前に済んでいる。どういう鑑定をしたのかは知らないがな。私にも導師の情報網の全てが把握出来ている訳ではないが、それは確かに本物だ。
 ふむ……今思えば、これは世紀の大発見ではないか? 大々的に公表し、オークションにでも掛ければ相当な値がつくかもしれん」

「…………」

「姉さん、唾飲まないでください。喉鳴らさないで下さい。目を輝かせないで下さい。漫画みたいに目の中にドルマークとか、いらないですから。
 下手したら国宝級のものですよ。足がついちゃ拙いです。こっそり持ち逃げして闇ルートで捌きましょう」

「アンタの方がよっぽどえげつないと、わたしは今改めて思ったわ。というか、わたし達そんなルート持ってないでしょ」

 そんなどうでもいいやり取りを経て、凛がもういいわ、と綺礼を促し、箱は再度厳重に封をされた。

「ではこれを持っていけ。使う使わないはおまえ達の自由だ。現れる者が王ならば、その気性は荒いだろう。サーヴァントという身分に堕ちる事を良くは思わないかもしれん」

「そういう奴らを御する為に、この令呪があるんでしょう」

 凛の右手の甲、そして桜の左手の甲。その場所に、本来一人分の魔術師に浮かぶ三画の令呪が──二つに分かれて刻まれている。

 過去例のない現象。彼女達は──二人で一人のマスターだ。

「じゃあ有難く貰っておくわ。次に会うのは、何時かしらね?」

「戦争の最中に置かれる我々の立場は、ただの監督役とマスターだ。そこに情を差し挟む余地はない。他の参加者と同じ扱いだ。
 サーヴァントを失ったら駆け込んで来い。どんなに重傷でも死なずにこの場所まで辿り着ければ、一命くらいは取り留められるだろう」

「はっ──冗談。じゃあアンタに次会うのは全部終わった後ね。アンタが生きていれば、だけれど」

 箱を受け取り、入ってきた扉に向かう二人。その背中に、綺礼は囁いた。

「凛、そして桜。おまえ達の手に刻まれたもの──それがおまえ達の決意の証であるというのなら、必ずや勝ち残れ」

「うわー、アンタに純粋に励まされると、ちょっと背中寒くなるわね。ええ、綺礼に言われるまでもない。誰の為でもなく、わたし達の為にわたしは勝ち抜くわ」

 それが凛の覚悟。十年前より続く決意。

「わたしも同じです。わたしは姉さんほど純粋にはなれませんけど、それでもわたし達の──今わたしが此処にある為に、力を尽くしてくれた人達の為に戦います」

 それが桜の覚悟。十年前から紡ぐ決意。

「ならば良い。健闘を期待している。汝──聖杯を欲するのならば、己が最強を以って証明せよ」

 十年前の続きを。託された想いを胸に、少女達は己が道を征く。

「ねえ、綺礼」

 その最後。扉を潜り後ろ手で閉める、その隙間から、視線と声だけが、光に交じって祭壇へと届けられる。

「────貴方、わたし達を殺そうとしたでしょう?」

 そんな、理解を得ない言葉を残し、片翼の魔術師は教会を去った。

×

 二人の去った礼拝堂で、言峰綺礼は空を仰ぐ。

「はっ──底が知れるなエセ神父。テメェの本性、あの嬢ちゃん達はきっちり見抜いてるじゃねーか」

 その背中へ、そんな言葉がかけられた。礼拝堂の奥──綺礼の私室や執務室などがある場所へと通じる扉から、その男は現れた。

「で、どうなんだ神父さんよ。オレにゃあテメェがやる気には見えなかったが、本当のところはどうなんだ」

「おまえの言葉通りだ。私には彼女達を手に掛けるつもりなど微塵もなかった。だからあれは、ただのブラフに過ぎん」

 鎌掛け、あるいは疑いの目を向けているという警告の意味すらある。その裏づけに、

「尤も、向こうがそう思っていないのは本当で、私に妙な動きがあれば即座に反応するだけの準備はあったようだがな」

 凛は巧妙に隠していたが、指の隙間に宝石を幾つか挟み隠し持っていた。桜は桜でいつでも最速で腕を振り抜ける準備をし、且つ凛に話の主導を任せ、綺礼の死角になるポイントに位置取っていた。

 この場に来てから行った準備ではない。恐らくは昼間に電話を掛けた直後より、この教会を訪れると決めたその瞬間に、心では既に意思を固めていた筈だ。

「信用ねぇな。ふん、じゃあテメェ、純粋な善意から……んなもんねえと思うが……あの嬢ちゃん達にアレ渡したのか? 渡すだけのつもりだったのか? オレをわざわざ待機させておいてよ」

「いや、状況次第では別の選択肢もあっただろう。だが凛達が私の想像通りの成長を遂げているのなら、戦いに望む明確な覚悟があるのなら、その心を摘み取るのは」

 まだ早い、と──呟いた。

「実際、想像以上だな。あの性根は如何ともし難いが、奥底はまだまだ純真だ。とてもよく真っ直ぐに伸びている」

 十年の昔から、目を掛けてきた者。妹弟子にして実際の弟子。師の娘達。手塩に掛けたつもりはないが、良く学び健やかに成長した。父の死や、母の死さえも乗り越えて。たった二人で、世界に二人だけの家族であり姉妹だけで。

「割れた令呪など、過去四度の戦いの中でさえ有り得なかった事態だ。それだけを見て取っても、此度の戦争が荒れるのはまず間違いない」

 過去四度の失敗を経て五度目の闘争に賭ける杯の血。
 既に失われた蟲の血。
 そして分かたれてなお一つに戻った、けれど完全には戻らない宝石の血。

 原初の血さえも既に過去の栄光は何処にもない。暗中模索。ただ優先的に参加権を与えられるだけの、一参加者に変わりない。
 そこに更なる不穏分子が絡むのなら、闘争が行き着く先など誰の目にも分かるまい。

 戦争は、対等な条件イーブンからの開戦だ。

「本当、趣味が悪ぃ。あの嬢ちゃん達が気の毒だな」

「おまえに心配されるほど落ちぶれてはいないだろうよ。さて……ではおまえはおまえの仕事を続けろ。今夜、少なくとも一騎召喚されるのは間違いないからな」

 へいへい、と投げやりな返事を寄越し、男は教会の奥へと消えていった。

 一人になった礼拝堂で、綺礼は静かに黙祷を始めた。荘厳な空気の漂うこの場所にあってなお、より密度の高い、緊張感のようなものが支配する。

 静かに瞼を開けたその時、言峰綺礼は確かに──嗤っていた。

「始めよう、十年前の続きを」


/2


 深夜。夜の闇が支配する刻限。真宵の深淵。

 煌々と冴え渡る真円の月の下、深海に沈む街並みの一角にて、その儀式は行われていた。

 薄暗い闇の底。石造りの地下工房。中心には赤い輝きを放つ魔法陣が敷かれ、主たる二人の少女の歌声は厳かに、高らかに木霊する。
 透き通るほどに響く声。声は此方と彼方を結ぶ道を作り、言葉は彼の地より求める者を喚び起こす。

 相乗の歌。二人の少女──孤独である事よりも姉妹である事を選んだ異端の魔術師であるうら若き乙女。一対の翼を引き千切り、互いに片翼を担う少女達の腕には、半分に欠けた証が煌いている。

 聖杯戦争という大儀礼に臨む際、マスターとしての資格を有する参加者に配られる令呪の刻印。都合三画で描かれる印を少女達は有り得る筈のない形──たった一つの令呪を半分ずつ宿していた。

 過去例のないその異常を、けれど少女達は自らの選択に間違いはなかったとの確信に変えた。聖杯でさえ認める少女らの決意。

 十年の昔に綴られた想いを紐解き──今此処に彼女らの意思の証明を為す。

『抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!』

 重なる声。打ち鳴らされた音。最後の謳い上げと共に重ねられた少女らの掌は、別たれた印を一つに重ね翼を描き最大級の光を放つ。

 魔法陣上に吹き乱れたエーテルの嵐は詠唱の完了と共に収束し、白光が煌いて視界を奪い去り、ようやく目を開けられる程度に奔流が落ち着いた頃合に、その存在の強さを確かに認識した。

 瞼の裏でさえ感じる威圧感。網膜さえも焼き切るほどの黄金の輝き。冷徹な意思を秘めた紅蓮の双眸が、少女らの全身を射抜く。

「……ふん、今一度この我を俗世に舞い戻らせるなど、度し難い。些事に我が手を煩わせようと言うのなら、無論のこと覚悟は出来ていような小娘共?」

 絶対の光輝を纏った、最古の王が降臨する。

×

 言峰綺礼より触媒を受け取った時点で──否、教会を訪問すると腹を決めた時点で彼女達は父の遺した聖遺物を用い召喚する事を決めていた。

 およそ人類史に残る最古の王。
 世界が未だ一つであった頃、その全てを手中とした王の中の王キング・オブ・キングス

 彼の逸話について、例えば英雄に付随する宝具にまでは理解が及ばなかったが、その名は遍く世界に轟いている。

 無策で無謀な召喚を行うより余程確実な英霊の召喚。サーヴァントとして招く上で、これ以上の大物も滅多にいまい。
 更に言えば、これは父である時臣が招来しようとした英霊だ。それが、弱い筈がない。

 理由としてはそれで充分。斯くして──彼女達の思惑通り、期待通りに、その英霊は幽世よりこの現世へと招かれた……のだが。

「…………」

 余りに不遜なその物言い。装飾華美なその出で立ちは、彼女達の期待を裏切り、度肝を抜いて余りあった。

「おい。この我が問いに答えず阿呆のように口を開けているとは何事か。万死に値するぞ」

「ちょ、ちょっとタイム!」

 あからさまな不機嫌を浮かべていた黄金の男の物言いをとりあえず無視して、凛はそんな事を口にして、桜の腕をひっぱり部屋の片隅で小声で声をかけた。

「ちょっと、ねえ、何なのアレ。何なのよ。何あの金ぴか。あれが本当にわたし達が喚ぼうとした英霊?」

「はぁ、わたしに聞かれても何とも。どうせなら本人さんに聞いてみたらいいんじゃないですか? あ、ほら。明らかにこっちを見て殺気立ってますよ。このまま放置しておくのは拙いです」

 腕を組んで律儀に召喚陣の中心に立っている男は、けれどその眼に尋常ならざる鬼気を乗せていた。流石に危険を感じたのか、桜の助言に従い凛は改めて居住まいを正し男の前に立った。

「あっ、あー、あー、えー、その」

「一度ならず二度までもこの我を虚仮にするとは。はっ、雑種の分際で大きく出たな。その命、いらぬというのなら刈り取るぞ」

 その圧倒的な上からの物言いに凛も流石に腹が立ってきた。マスターとサーヴァントの関係は上と下。マスターが上でサーヴァントが下なのだ。だというのにこの男は、その自覚が微塵も見られなかった。

「へぇ、何処のどちら様かは存じませんが、偉く横暴な口振りね。そんなに他者を見下してると、器が知れるわよこの小者」

「え、姉さん?」

 まさか凛が応戦するとは思ってもいなかった桜は、冷や汗を掻きながら場を見守った。見守る事しか許されなかった。

「……ほう? 我の面貌を仰ぎ見てなおその名に思い至らぬとは……なるほど、己が愚を晒す事を厭わぬとは、貴様、人の皮を被った豚か何かか? 家畜ならばそれらしく、我の足元の跪き頭を垂れろ」

「あーら、すみませんね何処のどちら様とも存じませぬ成金趣味の悪趣味野郎。人の言葉が理解出来ないようなら分かりやすく言ってあげるわ。
 わたし達は貴方のマスターで、貴方はわたし達のサーヴァント。まず先に、真っ先にアンタが口にすべき言葉はわたし達への忠誠と名乗りでしょうが!」

「生憎豚に名乗る名など持ち合わせはない。忠誠? 度し難いにも程があるな。この我を顎で使う腹で喚び出したのなら、ふん、貴様らの儚き生もこれまでだ」

 瞬間、風を切る音を聞いた。

「…………」

 凛の首筋を擦過して行った銀の閃き。それが中空より放たれた剣だと認識したのは、扉へと無常にも剣が突き刺さった後だった。

「姉さん……」

 余りにも速く鋭利な攻撃。それを凛は首の皮一枚で繋いだ──否、凛は一歩の身動ぎもなく男を睥睨していた。男には、少なくとも今はまだ凛を殺す意図はなく、たとえ殺す気であったとしても、凛はその場を動こうとはしなかっただろう。

 視線を逸らしたのなら負け……そんな愚に吐かない勝負を、少女は一人戦っていた。

「ふん……腹は据わっているようだな。良かろう、我が名を拝聴する栄誉を許す。しかとその耳で聞くがいい」

 不遜な態度はそのままに、けれど男は名乗りを上げた。厳かに。高らかに。圧倒的な威圧をその言の葉に乗せて。

 最古の王──英雄王ギルガメッシュの、その名を。

 それから、己が目的とした英霊を喚び出せた事に一応の安堵を見せる二人の少女を、王は僅かな視線の傾きだけで見やり、そして、さも面倒臭そうに『義務』を遂行した。

「貴様らが、不遜にも王の光輝に縋らんとする魔術師に相違ないな」

 その言葉に、二人は確かに頷いた。

「ええ、間違いないわ。じゃあ早速──」

 自らの喚び出した英霊についての委細を本人の口から聞き出そうとしたその声を遮り、

「この場所はどうにも小汚い。我が座するに値する部屋へ案内せよ」

「…………」

 この男の性根は、たとえマスターとサーヴァントという枠組みの中でさえ、一切変わりはしない……そんな確信を経て、凛はこれからの前途多難を思い溜め息をついてから、上を指した。

「いいわ。上へ行きましょう」

 黄金の具足を打ち鳴らす王は凛の先導で階上へと上る。その後姿を、桜は見やりながら、

「あはは。お父さん、アレを喚び出さなくて成功だったんじゃないかなぁ」

 そんな事を、誰にも聞かれないように囁いていた。

×

 その夜の事を、二人は克明には覚えてはいなかった。

 サーヴァントの召喚には多量の魔力を必要とする。幾ら二人掛かりで支えようと、相手が超一級の英霊ならば、召喚の直後は眩暈を起こすほどの疲労感に襲われる。

 しかし凛は身体に圧し掛かるその倦怠感をどうにか表情に見せないままに黄金の王をリビングへと案内し、まず最初に上下の関係をきっちりと決めておくべきだと息巻いて己がサーヴァントに挑みかかったが、王は地下室でのやりとりのように言葉を返すでも、静かに耳を傾けるでもなく、何処か上の空で凛の言葉を聞き流していた。

 それに気づいているのかいないのか、ヒートアップする凛の論調はすわ、令呪さえも行使しかねない域に達し、そこでようやく桜が仲介に入り、今日のところはここまでにしておきましょう、と場を執り成した。

 凛も凛で疲労には抗えず、暖簾に腕押し柳に風では埒が明かないと、桜の進言を受け入れた。

 勝手な行動は許さない──と、最後に釘を刺し、二人は自室へと入った。ただしその釘が突き刺さった先が、糠だという事に彼女達が気付いたのは、朝焼けが町並みを染める明朝の事だった。


/3


 前日の徹夜も災いし、凛が目を覚ましたのは既に学校の始まっている時間──午前も十時に差し掛かろうかという時刻だった。

 流石に身体の倦怠感は消えたが、朝が弱い事には変わりない。いつもの寝ぼけ眼で廊下を徘徊し、顔を洗い歯を磨き、髪を結って身支度を整えた後、ようやくあるべき遠坂凛が見えてきた。

 この時既に凛は臨戦態勢だ。昨日の続きを開口一番続ける腹だった。リビングへの扉に手を掛け、勢い良く開け放った先に、あの不遜な男の姿が──

「……ないじゃないの」

 いつも通りの風景。あの目も眩むほどの黄金鎧は影も形もなく、他者を見下した紅の双眸は何処にも光っていなかった。

「あ、姉さん、おはようございます」

 キッチンより顔を出した桜も、いつもと変わらない笑顔だった。

「おはよう、桜。ねえ、いきなり質問で悪いんだけど」

「何ですか?」

「あの金ぴか、何処行ったの?」

 桜はんー、と唸った後、

「さあ」

 曖昧に言葉を濁して微笑んだ。代わりに凛の頬が引き攣った。

「さあって……いえ、ちょっと待って。アンタが起きた時、アイツは?」

「もういませんでしたね。姉さんよりちょっと早く起きただけですし」

「それで?」

「はあ……あ、わたしも一応捜してみたんですよ。姉さんの部屋以外の部屋とか、庭とかも見てみましたけど、やっぱりあの金ぴかさんはいませんでした」

「で、じゃあアンタは、キッチンで何してたの?」

「何って決まってるじゃないですか。朝食の準備です。あ、でもそろそろお昼ですね。うーん、姉さん、この場合軽めのものと重めのもの、どっちがいいと思います?」

「きっちり現実逃避してるんじゃないわよこのばかぁあああああああああ!」

 凛の怒声が、近隣ご近所中に響き渡った瞬間だった。

×

「何処の世界にサーヴァントに逃げられるマスターがいるってのよ……」

「何処って、それはもう私たちしかいないんじゃないですか?」

 とりあえず桜にきついお仕置きをした後、朝食の準備など放棄させて一応の着替えも済んでいたからコートを一枚羽織って即座に家を飛び出した。家の中にいないのなら、まず間違いなく好き勝手に街を徘徊しているに違いないのだから。

「ていうか、アンタなんでそんな落ち着いてんのよ。もうちょっとこう、取り乱したりしなさいよ」

「いえー、そういうのは姉さんにお任せです。わたしの役どころは熱くなる主人公を冷静に諫める親友のポジションです」

「何で自分から脇役宣言してんのよ。あと何勝手にキャラ作ってんのよ。というかアンタわたしの妹でしょうがって、突っ込みどころ多すぎるわ!」

「あはは。そうそう、そんな感じです。わたしは天然ボケキャラでありたい」

「自分で自分を天然っていう女は総じて天然じゃないってのが通説よ。天然は自分がボケてる事にすら気付いていないから天然なの。覚えておきなさい」

「はあ、姉さんの雑学は本当どうでもいい事ばっかりですね」

「アンタが話振ったんでしょうがっ!」

 そんな下らないやり取りをしつつも、二人は周囲に気を配りながら昼間の町中を駆け抜ける。学生の身分にある者が私服で走り回っていればどうしても目に付くものだが、幸いにも人影はそう多くはなかった。

「ったく、何処行ったのよあの金ぴか。あんな甲冑着て歩いてたら通報されるわよ」

「流石にそれはないんじゃないんですか? サーヴァントって一応区分としては霊体ですよね。実体化の出来る幽霊みたいなものなら、わざわざあんな格好で出歩く真似はしないんじゃないかと」

「そりゃ普通ならね。でもあの金ぴかならその程度の事は平然とやってのけそうだって話」

「ははあ、確かに。むしろ自分から注目を集めたがるタイプの人間ですね。でなきゃあんなピカピカの鎧を着てるなんて有り得ないですよ。
 戦場であんなもの着て闊歩するなんて狙ってくれって言ってるようなものですよ。的が自己主張して歩いてるようなものですよ。仮に部屋着だったとしたら、そっちの方が怖いですけど」

「……アンタ、それアイツの前で言うんじゃないわよ。多分、本当に首飛ばされるから」

 闇雲に走り回り、小一時間が経った頃、とりあえず深山町のめぼしい場所は回り終えたがその姿を捉えるには至らなかった。

「本当、前途多難だわ。くそっ、一体何処ほっつき歩いてるんだか……存在すら感知出来ないなんて、余程離れてるとしか考えられないわ」

「じゃあやっぱり、新都の方でしょうか。深山町で人の寄り付きそうなところって、商店街くらいしかないですし」

「あー、これは本格的に拙いかも」

 新都の人出は深山町より明らかに多い。元より外国人の住居のあるこの冬木市ならば人混みに紛れ込んでも目立ちにくくはあるが、あれほどの金髪と赤目の持ち主で、容貌も悪くないと来ればどうしたって人目を引く。そこにもし黄金の鎧など着ていれば、もはや注目の的でしかない。

「ちっ……」

 内心で悪態をつきながら、凛は桜を伴い冬木大橋を渡る。やはり昨晩、彼我の立場を明確にしておくべきだったのだ。
 有耶無耶に済ませた結果がこれだ。手痛い失態。たとえそれが、令呪による強制によるものであろうとも──

「あ」

 と、雑踏を駆け抜けていたその時、桜が不意に足を止めて、あらぬ方向に視線を投げていた。

「なに? いたの?」

「ええ、うん……多分」

 要領の得ない返事をする桜は、とりあえず見ろとばかりに視線の先を指差した。凛も遅れて振り向けば、そこには、確かに金髪の青年の後姿があった。けれど無論の事、凛達の知る黄金鎧の出で立ちではなかったが。

「……いや、ないでしょう、あれは。確かに似てるけど、アイツ現代っぽい服なんて持ってない筈だし。それにあの場所ってパチンコでしょ? ないない。まさか現代に召喚されてギャンブルに興じるサーヴァントなんていたああ!?」

 凛の語りの途中、青年は換金を終えたのかこちらを振り返り──確かに目があった。黒いライダースーツを身に纏った、人にあっては美し過ぎる風貌の男。黄金の王。まず間違いなく、二人の喚び出したサーヴァントだった。

「ちょっとアンタ、こんなところで何してんの」

 肩を怒らせ歩み寄った凛を前にしても逃げ出すところか怯む様子もなく、どうでも良さそうに見やった男は、

「ああ、貴様等か」

 今気付いたとでも言うように、鼻で笑って見せた。

「何だ? わざわざこの我を捜しにでも来たのか?」

「ええ、そうよ。逃げ出したサーヴァントをひっ捕らえる為にね」

「逃げ出す? 鍵もついていない檻に閉じ込めていたつもりだったのなら阿呆もいいところだな。何より、我は貴様等に下った覚えなどない。我が何処に行こうが我の自由だ。よって逃げ出したなどと言われる筋合いは毛ほどもない筈なのだがな」

「……言うに事欠いてそれ。いいじゃない、受けて立とうじゃない。そこまで言うんだったら強制的にでも従わせて──」

「はい、ストップです姉さん。場所を考えましょう。それから、令呪の無駄使いもダメですよ。わたし達は、他のマスターとは違うんですから」

 振り上げた拳を掴まれ窘められた凛は、それでも桜を睨み返すが、桜は譲らないとばかりに凛の腕をきつく締め上げた。女の細腕だが、だからこそ桜の意思は本気なのだと凛には伝わった。

「オーケー、桜。ごめん、熱くなりすぎた。もう大丈夫だから」

 大きく深呼吸を繰り返して、それから今一度男と向き合った。

「場所を変えて、ちゃんと話をしましょう。さしもの貴方も、召喚されてすぐに還されたくはないでしょう?」

「それで脅しのつもりか小娘。貴様等とて、何かしらの目的があって我を喚び出したのだろう。我を還すという事は、貴様等の思惑も絶たれるという事だが?」

「承知の上よ。好き勝手暴れるじゃじゃ馬を制御し切れないのなら、どの道わたし達に勝利なんてないんだから。それなら貴方が無駄な被害を出す前に、わたし自身の手で送り還してあげるわ」

「……ふん。そんな暇を、与えると思うか」

 剣呑な雰囲気が場を支配する。道行く人々も遠巻きに見つめるばかりで近づこうとすらしない。
 絡み合う二つの視線。折れず譲れないもの。令呪が先か、男の妨害が先か……と、男は僅かに、凛ではなく桜のいる方へ視線を投げた。

「────はっ、貴様を抑えてもあちらが動くか。いいだろう、貴様の話を聞いてやる」

「そう。じゃあついて来て」

 凛と桜に宿る令呪。通常のマスターならば一人にしか宿らないそれを、この二人は分割して所有している。凛と男がやり取りをしているその間に、桜は雑踏に身を埋め好機を窺っていた。

 サーヴァントがマスターに反逆する際、最も邪魔な存在である令呪を、二人が宿しているというその数奇な現象が男の手を止めた。たとえ一人を殺害せしめても、もう一人が自由ならば一瞬の隙を衝かれてしまうから。

 ……いや、男ならば二人を同時に屠る手段もあったのかもしれないが、何を思ったか折れたのだ。
 それでも、この男を縛る上で、分割された令呪は確かに機能していた。見えない鎖は細くなった分、二重に使い魔を締め上げる。

 凛達が男を連れ立って向かった先は海浜公園だった。昼間のこの時間、人影は疎らにしかない。より人気の少ないベンチに男を座らせ、二人は立ったまま話を切り出した。

「で、貴方一体どういうつもり? マスターの命令無視してほっつき歩くとか、有り得ないでしょ。サーヴァントとしての自覚ないの?」

「さあな、そんな事はどうでもいい。我が我の庭を歩くのに、誰かの許可を得る必要などないだけの話だ」

「は? 庭?」

「当然。この世界は全て我のものだ。故に許可など必要あるまい? しかも今の世界は我が君臨した頃よりも醜悪と聞く。その検分も含めての、まあ、言わば散策だ」

 ほんのちょっと買い物に行く──という程度の心構えでマスターの命令を無視し、しかも世界は自分のもの宣言をするサーヴァントに、凛は頭が痛くなった。

「……そう。ああ、じゃあそれはもういいわ。本題はこっち。貴方、聖杯戦争を戦う気があるの?」

「世界の全てが我のものであるのと同じく、世に散逸した宝物という名の付く物もまた我の所有物だ。
 別段聖杯などに興味もないが、奪われるのもまた気に食わん」

「じゃあ一応聖杯を巡る戦いに身を投じる気はあるのね」

「ああ。だがそれも、我が手ずから誅するに足る輩がいればの話だ。そこらの英雄気取りの有象無象を間引いたところで無聊の慰めにもならん。
 雑魚共が喰らいあう様を眺め、暫くはこの世界の検分で退屈凌ぎというところか」

「……やっぱりアンタ、サーヴァントの自覚ないでしょ。誰と戦うも何するも勝手に決めてるんじゃないっての。わたし達の意向を尊重し重用しなさい」

 小綺麗なベンチがさも豪奢な玉座であるかのように尊大に座る男は視線を上げ、口角を吊り上げた。

「では訊こう。貴様の言うその意向とやらはどういったものだ? 既に相手の目星がついており戦う準備が済んでいるとでも言うのか?
 でなくば、我を納得させるだけの、我を従わせるだけの理由が貴様等にあるとでも言うのか」

「理由? わたし達が聖杯を狙う理由? 馬鹿にしないで。わたし達だって別に聖杯が欲しい訳じゃないわ」

 その言葉に、男の目が僅かに細くなる。

「……ほう。その矮小な命を賭け、わざわざ王たる我を喚び寄せておきながら、それでなお聖杯になど興味はないと?」

「ええ。わたし達がこの戦いに臨むのは、ただそこに戦いがあるからよ。聖杯なんてものは勝ち残ったら貰えるってだけの景品でしかない。ま、貰える物は貰っておくけど」

「そっちの貴様も同じか?」

「はい。わたしは姉さんほど純粋じゃないので、もう少し色んな柵とかありますけど、概ね似たような感じです」

 目の前に戦いがあるから戦う。父の遺言だとか、家系の義務だとかは付随する理由でしかない。目の前に舞台を用意され、参加権を与えられながら、それを放棄して逃げ出すなんて真っ平だ。

 立ち向かうと決めた。逃げないと覚悟した。どんな事にも、どんな些細な事にでも、二人で共に挑むと決めたのだ。だからたとえ戻れる道があろうとも、二人はただ前に進む。己自身の意思を以って。

「ふん。理由としては面白くもないが、欲に目を眩ませた道化よりはマシか」

「……意外ね。アンタなら、人の決意を鼻で笑い飛ばすと思ってたのに」

「見縊るなよ小娘。王の器をその小さき眼で測りきれると思い上がるな」

「ふぅん……で、どうするわけ。まだアンタ好き勝手に歩き回る気?」

「無論だ。ただ座して待つなど退屈に過ぎる。それとも貴様等が、退屈を紛らせる一芸でも披露するか?」

「嫌よ。アンタを笑わすのも笑われるのも御免だわ。ああ、もう、いいわ。とりあえずアンタに戦う気があるのなら今日のところは良しとしておくわ。でもね、一人で出歩くのは許さないわよ。わたし達もついて行くから」

「好きにしろ」

 言って男は立ち上がる。毅然とした立ち姿で、歩いていくその背に、

「あ、一個忘れてた。アンタ、一体何のクラスのサーヴァント?」

「アーチャーだ」

 弓兵のクラス──主武装に弓を用い遠距離よりの狙撃を得意とするクラス。

「え……マジ? 剣使ってたからセイバーだと思ったのに」

「剣を飛ばせるからアーチャーなんじゃないんですか? およそ考え得るアーチャーらしくないアーチャーのようですけれど」

 先を行くサーヴァントに聞こえないように二人は小声で言葉を交わす。

「はあ……全く。本当、どうするのよこれ。全然想定と違うじゃないの。つか、まだアイツの宝具も確認してないし、強さも知らないし」

「自信はあるみたいですね。流石は王様です。言う事だけは一人前」

「だから殺されるってばアンタ。もう、なんでこっちがサーヴァントの顔色窺わなきゃいけないわけ。令呪で縛り付けたいわ」

「姉さんはSを装っておきながらいざって時はMになる典型ですよね」

「何の話よ!?」

「まあともかく。令呪はダメです。少なくともまだ意思疎通は出来ますし明確な反逆を受けたわけでもありません。ここで強制的に命令すれば、きっともっと取り返しのつかない事になりますよ」

「分かってるわよ……分かってるけど、しょうがないじゃない」

 彼女等のサーヴァントは些か気位が高すぎる。もし一方的な命令で縛り付ければ軋轢は深まるだけで改善の余地もなくなるだろう。
 そうなれば最早外の敵だけでなく内にも敵を抱える状況になりかねない。それでは聖杯を巡る戦いどころの話ではない。

 それに凛達の令呪は異例の令呪だ。通常のものと同様の効果は発揮するだろうが、はっきりとした証左はない。
 更に言えば、凛が一画分を使ってしまえば、凛自身の意思ではもう令呪は使用出来なくなる。そうなればマスターとしての抑止力の大半を失する事に繋がりかねない。

 だからこそ桜の言は正しい。他のマスターの誰よりも、彼女達は令呪の“未使用状態の抑止力”を大切にしなければならなかった。

「全てを上手く運ぶには、まずはアイツをやる気にさせる事が肝要よね」

 だがそれが最も難しい事であると凛も理解していた。サーヴァントは生前叶えられなかった望みを聖杯に託す為にマスターに協力する──というのが一般的な両者の関係だが、そこで既に破綻している。

 アーチャーは聖杯が自分の物であるが故に他者に奪われるのを嫌うだけだ。喚び出された理由も、喚び出されたから仕方なく出てきてやったと言われても何の不思議もないくらい戦いに向ける意欲が乏しい。

 凛達と似たような理由でありながら、ベクトルの向きが決定的に違う。あの男にとっては街の散策も敵との戦闘も同一の退屈凌ぎなのかもしれない。

「世界を手に入れた王──か。そりゃ退屈にもなるか」

 人の好奇心を刺激するのは未知の出来事だ。世界を手中に収め、ありとあらゆる財宝を手に入れた王にとって、未知なるものは一体どれだけの数残っているのだろうか。あの男が本当に心躍らせるものはあるのだろうか──

「姉さん恋する乙女の目になってますよ」

「なってないわっ! いい加減な事言うんじゃないの!」

「もう、姉さんも結構余裕ないですね。もっと心にゆとりを持ちましょう。ほら、今日の晩御飯何にします?」

「アンタはもうちょい緊張感を持ちなさい……あ、そういえば、結局朝御飯食べ損ねてたわね」

「もうお昼過ぎてますけど」

「じゃあ何か食べ……たいけど、ああ、もう、本当迷惑なサーヴァント! こら、ちょっとアンタ!」

 新都へと戻り街並みをさもどうでも良さそうに眺めていたアーチャーは足を止め、面倒臭そうに振り向いた。

「何だ。ついて来る事は許したが、邪魔をするのなら──」

「ねえ、お腹空かない? わたし達朝から何も食べてないの」

「……勝手に食えば良かろう。サーヴァントは腹など減らぬ」

「でも別に食べられない事もないんでしょ。ただぶらぶらほっつき歩いてるだけなら何か食べたって問題ないじゃない。アンタの時代になかった食べ物、沢山あるわよ」

「む……」

 多少興味を惹かれたのか、アーチャーは言葉を噤んだ。

「ほらほら、何処に何があるか知らないでしょ。お勧めのお店教えて上げるから来なさい」

「おい、貴様っ! 無礼者、誰の許しを得て我が手に触れる!」

「一体何処のお殿様だっての。それとも何、女の子と手を繋いだ事もないとか?」

「愚か者め。抱いた女の数など覚えておらんわ」

「はいはい、流石王様すごーい。じゃあ行くわよー」

「…………ちぃ」

 引き摺られて行くアーチャーを見やりながら、

「……姉さん、流石です。もう手玉に取るだなんて、妹のわたしは姉さんの将来が心配でなりません」

 桜は一人呟いて、突っ込み役は勿論不在だった。

×

 凛が連れて来たのは最近出来たばかりの喫茶店だった。喫茶店と言っても重めのメニューも数を取り揃えている。
 窓際の席についた三人は適当な注文をし──アーチャーは言葉を発する間もなく凛が勝手にオーダーした──そして運ばれて来た料理を口にした瞬間、

「どう? 結構いけるでしょう?」

「…………」

 アーチャーは無反応だった。

「何、不味いの? 数千年前の食べ物に現代の食事って劣るわけ?」

 彼の時代にどういったものが饗されていたのかは知らないが、少なくともこの数千年で食文化は大きく進化している筈だ。好みや慣れ親しんだものとの差こそあれ、不味いわけがないのだが。

「……ふん、下賎の民の食事が我の口に合うわけがなかろう。我の舌を唸らせたければ世界で最も腕の立つ料理人を連れて来い」

「……どんだけ尊大なのこの金ぴか」

「まあ何だかんだで食べて続けてるのでそこまで嫌いではないようですね」

 桜の言う通り、物珍しいのは確かなようで、アーチャーはそれ以上、無謀な要求などせず黙々と食べ、二人もそれに倣い静かに食事を続けた。食後のコーヒーを味わっている時、桜がふと、こんな事を言った。

「あの、アーチャーさん。ずっと気になってたんですけど、その服、どうやって手に入れたんですか?」

「あ、そういえばそうよね。昨日喚ばれたばっかりのサーヴァントがなんでもう現世に馴染んでんのよ。というかどうやってお金を工面したの。わたし達の財布から抜き取った? それともそれ、盗品?」

「馬鹿を言え。これはちゃんと金を払って購入した代物だ」

 妙なところで律儀だった。

「だからそのお金をどうやって手に入れたかって話。あ、そういえばアンタ、パチンコしてたわよね。あれ、でもその時もうその服だったわよね。それに元手もないのにどうやって遊んでたのよ」

 いい加減質問攻めにうんざりして来たのか、アーチャーは何も言わず懐から紙の束を取り出しテーブルに置いた。札束だった。

「なっ、ちょ、これ……!」

「姉さん姉さん、落ち着いてください。本当に目の色が変わるなんてのはもう、人間じゃないですよ。お金色の瞳とか、ちょっと気持ち悪いです」

「いや、だってこれ、どうやってこんなに……!」

 そこで凛はようやく、サーヴァントとの繋がりを認識したその時に手に入れた脳裏に浮かぶパラメーター表を勢い良く流し読み、スキル欄にあった“黄金律”という言葉をこの上なく真剣に理解した。

「へ、へぇ、凄いじゃない。一生金に困らないなんて、凄いじゃない」

「姉さん語彙が単調になってますよ」

 凛の脳裏では目まぐるしい計算が行われていた。遠坂の魔術はとかく金銭を消耗する。宝石を年に何十個と必要とする魔術など、燃費が悪い事この上ない。
 幸いにも桜の魔術特性が凛とは正反対の性質を持っていた為そちらには余り金はかからなかったが、凛一人で遺産を食い潰しかけているのが現状だ。

 遠坂の人間は代々、先代の遺す遺産を食い潰す前に大成し貯蓄を作り、次代へと引き継いでいく。そのプロセスが凛の代で終わりを迎えようとしていたこの時に、このサーヴァントと契約出来たのは最早天啓に違いなかった。

 ──このサーヴァントは、金ヅルだわ……!

 そんなヒロインにあるまじき思考は、けれど一切が凛の脳内で処理され、こほん、と小さく咳払いをした後、こう切り出した。

「ねえアーチャー? 良い話が──」

「断る」

「まだ何も言ってないじゃない!」

「この状況で話の展開が分からぬほど愚かではないぞ、戯けめ」

「ぐっ……くぅ。何よ、いいじゃない、ほっといてもお金寄って来るんでしょ。ちょっとそのお零れに預かろうとしただけじゃない」

「姉さんはもうちょっと人の尊厳とかを大事にした方がいいと思います」

「何言ってんの。先立つものはお金よ。それはお金に余裕のある人だけが言える単なる詭弁よ。アンタだってウチの財政状況、把握してるでしょう」

「姉さんの浪費が激し過ぎるのは理解してますけど。せっかくなので言わせて貰うと、無駄遣いが多すぎです。手当たり次第に宝石を買い占めてればそりゃ底を突きますよ。
 必要なものとそうでないものを、懐具合と相談してしっかりと取捨選択しないとダメじゃないですか」

「うぅ……でも良い物は買っておかないと流れて行っちゃうし……」

「それでも、です。湯水の如くお金は沸いて来ないんですから。借金なんかしたら、わたしにだって考えはありますよ?」

「だからっ! だから今こそが好機でしょう! この機会に増やせるだけ増やしておけば遠坂家は安泰間違いなしよ!」

「もうなんというか、負けるのが見え見えの勝負に大金を突っ込むギャンブラーみたいな台詞です」

 はぁ、と大袈裟に桜は溜め息を吐いた。

「何にしても、アーチャーさんが拒否する以上は姉さんにはどうする事も出来ませんし、話はこれで──」

「いいだろう」

 終わりを告げる筈の話題を、アーチャーが引き継いだ。

「そんなに金が欲しいのならばくれてやろう。貴様等の屋敷に詰め込んでもなお足りぬ程の金だ」

「え、ホント?」

「ああ。金など放って置いても向こうから飛び込んで来る。我にはさしたる使い道などないからな、舞い込んだその全てを貴様等にくれてやる」

「あぁ……」

 凛は手を組んで天を仰いだ。今初めて──生まれて初めて、神に祈りを捧げたい気分だった。青い空の向こうで言峰綺礼がほくそ笑んでいた。悪い予感がした。

「ただし、条件がある。貴様等もタダで何かを得ようとするほど傲慢ではあるまい?」

「……言ってみなさいよ」

「これより先、我の行動に関知するな」

「却下」

 凛の返答は、桜も驚くほどに早かった。

「あーはいはい、どうせそんなこったろうと思ってました。冗談じゃないっての、馬鹿らしい」

「……ほう。溢れるほどの金を手放すと言うのか?」

「そりゃ惜しいけどね。それとこれとは話が別。たとえどんな大金だって、アンタを放置する代わりの条件なんだったら、呑める筈がないわ。何より──この遠坂凛を金で買おうとするな」

「…………」

「ね、姉さんが、あの守銭奴の姉さんが、お金に靡きませんでした……」

「いや、あのね桜。わたし今ちょっと良い事言ったかなぁとか思ったんだけど、台無しにしないでくれる?」

「その台詞を自分で言った時点で全部台無しです」

「……まあ、そういうわけよ。じゃ、この話はこれでお終い」

「と、言いつつ、本当はお金お金と脳内でリピートし続け、禁断症状のように腕を震わせる姉でした」

「震えてないっ! ねえ、ねえなんなの、アンタとりあえずわたしを貶めておかないと気が済まないの!?」

「はい」

「冷静に返事してんじゃないわよ、このすかぽんたん!」

「くく……くはははは!」

 突然、アーチャーが声を上げて笑い出した。

「え、うそ、今のやりとりコイツに受けたの?」

「いやぁ、流石にそれはないんじゃないかと。今のは姉妹漫才レベル2の芸です。くすりとくれば儲けもののレベルです」

「3とか4とかあるの!? わたし知らないわよ!?」

「クク……そうか。欲に目を眩ませる阿呆ではなかったのだったな。ふん、その気概だけは買ってやる」

 言って、アーチャーはテーブルの上に投げ出されていた札束を懐に戻した。

「あ……」

「姉さん姉さん、今が我慢の時ですよ。ここで物欲しそうな目をしたらもうなんだか全てが台無しです」

「多分もう誰かさんのおかげで台無しになってるような気がするけど……ふん、わたしだって未練はもうないわ」

「そう口にする人って大概未練たらたら何ですよね」

「…………」

 未練たらたらだった。はぁ……勿体無い事、したかなぁ……と内心後悔気味の凛であったが、そんな心中は誰にも察されず、アーチャーは腰を上げた。

「行くぞ。金を受け取らなかった以上、ついて来る気なのだろう?」

「当然よ。ここでアンタを逃がしちゃ、何の為に断腸の思いで涙を呑んだかわかりゃしないわ」

「好きにしろ」

 一万円札をレジに放り投げたアーチャーは一人店外へと出て行く。無論、凛はしっかりと御釣りを受け取った。

「やっぱり姉さんは姉さんでした……」

「うっさい」

 ただ、その後の散策は、喫茶店に入る前より、アーチャーの歩みが心なしか緩やかになった気がした。


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 その後も結局目的もなくぶらぶらと歩き回るアーチャーを追いかける形で二人は冬木市中を歩き回った。
 その間にロクな会話もない。凛と桜は時折囁きあっていたが、前を歩く王の背中からは話しかけるなというオーラが出ていたからだ。

 気が付けば日も落ち、夜の帳が支配し始める時分、流石に耐えかねたのか、凛がアーチャーの背に声を掛けた。

「ねえ、そろそろいいんじゃない? 何の目的……というか、散策自体が目的なんだろうけど、いい加減飽きて来たでしょう。そろそろ一度戻らない?」

 何故こうも下手に出なければならないのかという憤慨はとりあえず押し込めて、冷静に訊いてみた。けれどアーチャーは振り向きもせず、歩みを止める事さえなかった。

「もう、何なのよ。あー、イライラする……」

「そういえば姉さん、今日は寝起きの牛乳飲んでないですね。だからきっとカルシウム不足なんです」

「一杯飲まなかったくらいでなるかっ! んー、でも本当、いい加減にして──」

 そこではたと、凛は何かに気付き目を見開き、すぐさま普段通りの自分を装った。さながら、学園で優等生の仮面を被るように。

「──迂闊。そうよね、わたし達はもう、そっちの世界に踏み込んだんだった。桜、尾行られてるわ」

「みたいですね」

「あら、先に気付いてたの? ならもっと早く教えなさいよ」

「いえ、わたしも姉さんとほとんど同時に気が付きました。というか、これは気が付かされた……という方が正しいのかもしれません」

 令呪を宿し、サーヴァントを召喚し、契約を交わした時点で闘争の渦の只中に飛び込んだも同然だ。昨日、あるいは今日も何処か平穏に満たされていたせいで、そんな事さえも忘れかけていた。

 そしてそこまでの理解を得たのなら、目の前を行く王の行動原理にも納得が行く。最初は確かに散策が目的だったのだろうが、いつしかそれは、敵を誘き出す為の道程に様変わりしていたに違いない。

「本当、ムカつくわ。気付いてるんなら一言言いなさいよね」

 悪態をつきつつ、凛はそれとなく周囲を探る。けれど何処から監視の目を向けられているのか分からない。今歩いているのは大通り。未だ人通りも多く、紛れ込まれてしまえば探りようもない。

「桜。行ける?」

「はい」

 言葉はそれで充分だった。歩く動作に一切の澱みを見せる事無く、桜の右腕に刻まれた魔術刻印が静かに回転数を上げていく。遠坂桜の持つ魔術特性。その力を用い探りを入れようとしたのだが、

「小細工を弄するな。これは我の獲物だ」

 前方より棘を滲ませた声が響く。確かに、向けられる視線は凛や桜はついでのような感じで見張られているだけだ。街中に潜む敵が見据えているもの──それは黄金の王に他ならない。

「無遠慮に我の面貌を視姦するとは、不届きにもほどがある。野良犬は野良犬らしく、残飯でも漁っていればいいものを」

 相手にとってアーチャーはそれだけ上質の獲物に見えているのだろう。普段ならば見向きもしない相手だが、このアーチャーを知りつつも挑みかかってくる者ならば、相応の裁きを下す事に遠慮は不要だった。

 監視を受けつつも徐々に人通りの少ない方へと歩いていく。相手もまた、人混みの中で騒ぎを起こそうとするほど愚かではない……と思った矢先。

「遠坂凛さんと桜さん……ですね」

『っ!?』

 背後。何の気配もなく、微塵の殺気すらなく掛けられた声に、凛と桜はほぼ同時に飛び退いた。

 そうしてそこにいたのは、街中に溶け込む冬物のロングコートを羽織り、目深にフードを被った……恐らくは男だった。
 何故恐らくなのかと言えば、身体的特徴はコートに隠れて窺えず、声もまた中性的、あるいは何かしらの魔術で変声しているらしく、掴みどころのない声色だったからだ。

「おやおや、いけませんね。魔術師足る者、この程度で驚かれては。ほら、他の人達が何事かとこちらを見ていますよ。さあ、笑顔を振り撒いて何事もなかったかのように歩き続けましょう」

 衆目を集めるのは二人にしても得策ではない。臨戦態勢を取り繕い、コートの男と並んで雑踏を行く。

「まさかこんな場所で接近してくる馬鹿がいるとはね」

 棘のある言葉で機先を制す。

「いやいや、こちらに害意がない事はお二人もお分かりでしょう? 街中で神秘を晒しかねない戦闘行為を行う者はただの愚か者ですが、魔術師同士が会話をすらしてはいけない、という取り決めはありませんからね」

 男はさらりと躱して見せた。

「それで、何。今わたし達……というか、ウチのサーヴァントに目をつけてる連中、アンタの差し金?」

 凛がついと視線を滑らせた先には、凛達の様子など全く鑑みていないアーチャーが悠然と肩で風を切って歩いていく姿がある。
 この程度、自分達でなんとかして見せろという事か、あるいは本当に単純に、興味の欠片すらもないのか……分からなかった。

 分かっている事は、アーチャーの助けはないというただその一点のみ。

「差し金……というのは些か御幣がありますが、概ね似たようなものです。セカンドオーナーである貴女達なら聞き及んではいませんか? サーヴァントとの交戦を目的とする魔術師達がいる、と」

「ああ、やっぱりそれがアンタ達なのね。通りで」

 場慣れしている。この男にしても、周囲から窺う連中にしても。それでもサーヴァントを相手取るのは不可能だろうが、日常的に戦いを肯定する者、戦いという行為が身に染み付いている人種の匂いがした。

「ええ。私達はこれまで数騎の……ああ、正確な数は教えられませんけどね……サーヴァントと直接的な戦闘を行って来ました。まあ単刀直入に言えば、次は貴女達のサーヴァントが我々のターゲットだと言う事です」

「ふぅん……物好きね。せっかくだから訊いておくけど、貴方達の目的は何? まさか馬鹿正直にサーヴァント相手の力試しとかじゃあないでしょう?」

「勿論です。いえ、その手の戦闘狂も仲間内にいたとは思いますが、残念な事に、そういう者から脱落していくのは力こそが絶対である闘争の場の常でしてね。
 今数戦を行い生き延びている我々は、自らの命大事さに逃げ延びた無力な者達ですよ」

 だから安心して下さい、と男は柔和な声色で言った。

「頭に血の上った馬鹿連中と、正確に戦況を把握し、格上相手に最小限の被害で撤退を行える連中……怖いのはどちらかしらね桜?」

 妹に水を向けて、姉は肩を並べる男を今一度見た。

「それで、もう一度だけ訊くわ。貴方達の本当の狙いは?」

「サーヴァントですよ」

 男の答えは、変わらなかった。

「ああ、いえ。最終的な目的を言えば、やはり聖杯という事になるのでしょうが、今現在の目先の目的という意味では、やはり前者がしっくり来ます。
 ええ、それでその目先の目的の中でも最たるものを確認する為に、私は貴女方に接触した訳なのですが……」

 僅かにフードが揺らめき、男は視線を前方を行く黄金の王を見た。

「貴女達のサーヴァントの真名、あるいは宝具を教えては頂けませんか?」

 およそ予期していなかった質問に、凛は一瞬身を硬くした。それもその筈、何処の世界にマスター相手に己がサーヴァントの真名を問い質す馬鹿がいるのだろう。宝具にしても同様だ。

「それに、わたし達が答えるとでも?」

「いえいえ、そうは思ってはいません。けれど、可能性は試しておかないと。無用な被害を避けられるのなら、それに越した事はありませんからね」

 サーヴァント相手に戦いを挑む連中が言っても信憑性の欠片もない言葉ではあったが、凛は鼻で笑って──

「じゃあやる事は決まってるってね」

 圧倒的速さで機先を制し、男の腹へと一撃を捻じ込んだ。

『おやおや、血気盛んな事ですね。まあ、いいでしょう。この先でお待ちしていますよ』

 はらりとコートが地に落ちる。中身など、最初から存在しなかったかのように。周りを歩いていた人が、目を瞬かせていた。

「姉さん」

「はっ──あちらさんもやる気満々らしいわね」

 今までの一連の会話は全て決闘の場へと誘う為の招待状だ。未だ止まない監視の目を放置して、屋敷に戻る事など出来る筈もない。
 対峙する敵を明確とし、あわよくば僅かでも情報を得ようとし、無論、自らを危険に晒す愚は犯さない。

 戦いを心得る者の心理戦。挑発。

「アーチャー、分かってるわよね」

 悠然と歩いていたアーチャーに肩を並べ、視線を上げて問い質す。王は憮然と答えた。

「たかが魔術師程度が我の退屈凌ぎになるとは思えんが……この視線は不快に過ぎる。消し去る事に異論はない」

「そう、アンタが戦う理由にしちゃ、上等よ」

 三人は風を切る。新都の中心部を離れ、人混みを抜け、いつしか街の灯りも遠ざかり、辿り着いた先は、海に面する埠頭も近き工場地帯だった。

 気配がある。それも無数の。先ほどの男の言葉には嘘はなく、そして既に戦闘態勢が整っている事が示された。

 そんな事を知ってか知らずか、広い車線の中央に両手をポケットに突っ込んだまま、武装すらせず立ち尽くすアーチャーは、視線だけを的確にばら撒いた。

「存外多いな。が、不遜にも王を辱めたその重罪、貴様等の命で雪ぐとしよう」

 無造作に右腕が上がる。ただ前を見据えたまま、王は指を鳴らし──

「がぁ……!?」

 直後、あらぬ方向より悲鳴が上がった。

 凛と桜はちょうどアーチャーの後方に陣取っていた為、何が起きたのかを正しく理解していた。
 アーチャーが指を鳴らした途端、何もない筈の空間が赤い歪みを生み、その中心より銀色の光が放たれ、姿の見えぬ敵を貫いた。それは召喚直後、アーチャーが凛の首を狙い打った剣閃と同じ光だった。

 仲間がやられた事に相手も気が付いたのか、次の一手は迅速だった。居場所がばれている事にも感づいたのだろう、敵は姿を晒し、瞬く間に包囲網を敷いた。

 ……予想より、多い。

 凛がそう思考するのも当然。広い道路の中央、アーチャーを中心に据え、円状に蔓延る敵魔術師の数は、確認出来るだけで二十を超える。しかもその全てが同一のフード付きの黒コートを身に纏い、妙な仮面を被っているから、なおの事不気味さが際立った。

 圧倒的な数的不利な場に置かれ、凛も桜もロクに身動きが出来ない。敵もまた、相手にサーヴァントがいる以上は下手に仕掛けてくる事はなかった。けれどこの場には唯一人──誰の命令も受け付けない、不遜なる王がある。

「野犬が何匹群れようと王には勝てぬ。そんな当たり前の事も知らぬとは、育ちの悪さが滲み出るな魔術師共」

 囲む魔術師達から僅かに殺気が滲み出る。王はせせら笑うように、開幕の合図を告げた。

「良かろう、退屈凌ぎだ。王の手を煩わせるのだ、せめて一分程度は持たせてみよ!」

 ぱちん、と王が指を鳴らす。刹那、王の背後の空間に、先ほどと同じく、けれど圧倒的な数の赤い歪みが生じ、そこから古今東西、ありとあらゆる武具という名称を持つ銀光が顔を覗かせ、王の号令に従い、一斉に解き放たれた。

 寸分の狂いなく魔術師へと放たれた剣の群れは、反応の出来なかった数名の魔術師の命をただの一撃で絶命に至らしめ、なんとか回避した者達の内の更に数名もまた、回避の方向すら予測されていたように放たれた第二撃に、その命を刈り取られた。

 この時点で残り約半数。この間僅かに五秒。

「うそ……これが、サーヴァント……」

 凛をして驚愕せずにはいられなかった。あの男──アーチャーはただの一歩をその場から動く事無く、瞬きの間に十近い魔術師を瞬殺してのけた。

 これが世界に祀り上げられし英霊の真価。その中でも、英雄の王を称する男の比類なき力だった。

「遠巻きに眺めるだけが貴様等の戦か? 魔術師など所詮その程度よな」

 降り止む事無く続く剣群の雨。圧倒的速力と威力で猛威を揮う王の宝具を前に、魔術師達は無謀にも障壁を展開し、破壊され、命を吸い上げられていく。逃げ惑う者達もまた、追尾弾の如く飛翔する剣に背後より撃ち抜かれていった。

 そうして、姿を見せた魔術師の全てが物言わぬ屍に変わり果てたのは──戦闘開始より五十秒後の事だった。

「存外持ったか。誇れよ雑種、王自らの手で死ねた事を」

 退屈を噛み殺して王は視線を前方に投げた。その場所には、先ほどまではいなかった筈の男──凛達に接触してきたらしき男の姿があった。

「これはこれは……正しく圧倒的だ。サーヴァント相手に辛くも逃げ延びてきた我々が、全く手も足も出せずに全滅とは……」

 呆れ半分、感嘆半分といった声色でコートの男は言った。

「しかし、彼らの死は無駄にはしません。黄金の王……その素性について、充分以上に看破させて頂きました」

 遍く宝物をその蔵に収めた原初の王。古今東西、ありとあらゆる武具を、宝具を乱射するなどという常軌を逸した戦闘方法を行える英霊など、彼以外に有り得ない。

「へえ、博識ね貴方。たった一分足らずでアーチャーの真名を見破るなんて」

「いえいえ、聖杯戦争という、かつての英雄を召喚する儀式に臨む者としての当然の知識でしょう。特にそれほど奇異な能力の持ち主であれば、ある程度の理解力さえあれば誰にだって分かるとは思いますよ」

 男は続ける。

「更に言えば、私は極度の蒐集癖持ちビブリオマニアでしてね。洋の東西、内容の貴賎を問わず、およそ読めるだけの書物に目を通した、そのお陰でしょう」

 そうして男は、恭しく礼を取った。

「お初にお目に掛かります、王よ。そしてこれまで今回のサーヴァントを見定めて来た我々が評価しましょう、貴方こそが最強だ」

 言って、男は手と手を打ち鳴らす。直後、男の手の中に現れたのは、革張りの装丁の、分厚い本だった。

「雑種の分際で王を評するとは、はっ、猪口才にも程がある。礼を弁えよ無礼者」

 出現した直後よりばらばらと風に流れて行く本のページ。
 それが最終ページに至り、ぱたんと閉じられた時、王の背後より致命傷を与える剣が射出され、男を刺し貫く──筈が、突如横合いより現れた、先ほど王に殺された筈の魔術師が剣閃をその身で受け止めた。

「なっ……!?」

 だらりと下がった四肢。腹腔を貫かれて濁々と吐き出される血液。身体に二つの大穴を空けた仮面の魔術師はけれど、倒れ伏す事無くコートの男を守る為に立ちはだかる。

「アイツ……死霊媒師ネクロマンサー!?」

「流石は遠坂の子女ですね。理解が早い。堕ちてなお聡明だ」

「誰が堕ちたっての! わたし達はアンタ等より一歩先行く存在よ!」

「でも姉さん、わたし達単品じゃ多分弱いですよ?」

「アンタ一体どっちの味方よ……」

「いえいえ、凛さんの言葉も一理あると思いますよ? 貴女方は我々がしようともしない事を、やろうとしてさえなお出来ない事を実践されているのですからね」

「姉さん何だか褒められました!」

「あー、もう、何なのこの展開!」

 そんな下らないやり取りをしている間に、倒れ伏していた魔術師達が一人、また一人と起き上がり、アーチャーを中心とした円状に、ぐるぐると回り出した。

「……? 今度は一体何するわけ」

「一つ、話をしましょう。この聖杯戦争に招かれる数多の英雄──彼らが登場する御伽噺は世界に無数に存在しますが、その話の中には、一つの共通項があります。
 それは大抵の物語において、主人公とされる英雄の対になる存在……端的に言えばライバルと目される存在です」

 屍の魔術師達はぐるぐる回る。凛も桜も怪訝な表情でその様を眺め、王は白けた顔で男の声に耳を傾けていた。

「逸話が実話にしろ創作にしろ、主人公の対になる存在というのは物語を引き立てる。時には敵対し、時には手を取り合いより強大な悪に立ち向かう。
 敵だった者が味方になる……あるいはその逆……というのは、安直ですが今なおコミックでも描かれる常套手段ですからね」

 男は謳う。屍は回る。

「それはかつての英雄譚においても同義だ。例を挙げるとすれば、光の御子クー・フーリンとフェルグス、騎士王アーサーにランスロット、日本で言えば剣豪宮本武蔵と佐々木小次郎辺りでしょうか。
 強大な英雄に匹敵する実力を持つ存在。英雄の影。英霊の裏。日の目を浴びない彼らであれど、その実力だけは一線級です」

 男の手の中には二冊目の本が浮かんでいた。

「ではここからが本題です。この聖杯戦争、ただ単純に強き者を招来すれば、それで勝てるとお思いか? 否、どれだけ強力な英霊であっても、それよりも強い英霊など無数に存在します。
 その点から言えば、貴女方は最良の英霊を召喚した。およそ彼に勝てる英霊など、世界には存在しない」

 だが、と男は言い、王は僅かに、口角を吊り上げた。凛と桜だけが、未だ状況を把握出来ていなかった。

「……なるほど。それが貴様の狙いか魔術師」

「流石は英雄王。理解が早くて助かります。ええ、私が……私達が求めていたもの、それこそ最強の英霊に比肩する存在です」

「まさか……」

「ええ、我々がこれまでサーヴァントと交戦して来たその理由こそ、サーヴァントの実力や真名、宝具を見極め、此度の戦いにおいての最強を見定める事。そしてその最強に勝ち得る英霊を、私が従える事にあります」

 言って男は左腕の袖を捲くった。腕の中心には確かに、赤い紋様……閉じた鎖を思わせる令呪が刻まれていた。

「…………」

 凛は息を呑んだ。それも当然、男の目的が理解の上を行っていたからだ。かつて、こんな手段で喚び寄せる英霊を選別した魔術師などいまい。
 誰しもが自らが最強と信じるサーヴァントを召喚する。そこには主観しか存在しない。招かれる他の六騎のサーヴァントの全てを見定め、それからそれらの全てに勝てる英霊を召喚しようとするなどと……

「異常……だけど、理に適ってるわ。その分、リスクも相当高いけれどね」

 現に男は配下の全てを失った。サーヴァントを見極める為に命を賭ける……聖杯を掴み取る為の妄執にも似た執念がなければ不可能な作戦だ。

「いやしかし、此処で最強に当たったのは僥倖でした。未だ交戦していないサーヴァントが存在するのがまあ、不安ですが……流石にこれ以上は望めないでしょうし、私も腹を決めます」

 男の周囲に魔力の風が吹き荒れる。そして踊り狂っていた屍が動きを止め、糸の切れた人形の如く地に倒れ伏し──彼らの描いていた円陣が、発光を始めた。

「……ちょっ、これって……!」

 見覚えのある光。屍が回り描いていたもの。それは自らより流れ出す血で描かれた、巨大な召喚陣だった。

「彼らの命を無駄にはしません。私は此処に、最強に対抗する最強を招きます」

 男は二冊目の本を手に取り朗々と謳い上げる。サーヴァント召喚の祝詞。かつて凛と桜が謳い上げた儀礼の言の葉を。

「アーチャー、アイツを止めて! あの男はアンタを触媒にしてサーヴァントを召喚する気よ!」

 サーヴァントを触媒としてのサーヴァントの召喚。そんな事が可能なのか、それすらも凛には分からない。何もかもが常軌を逸する男の行動。それは緻密を装った妄執だ。そんなものを、許容できる筈がない。

 けれどアーチャーは、円陣の中央より動く事はなかった。

「アーチャー!?」

「囀るな雑種。黙って見ていろ」

 アーチャーの口許が歪なまでに吊り上っている事を凛はその時初めて認識した。世界の全てを手に入れ、退屈を持て余していた王が──心躍らせている。

「だったら自分で止めるわよ……っ!?」

 瞬間、降り注ぐ剣。凛と桜を召喚陣の外へと追い出すように剣は放たれた。

「黙れと言っているのが聞こえないのか。今邪魔をするのなら、全力で殺すぞ」

 アーチャーの殺気は本物だった。内臓を鷲掴みにし、背筋を凍らせ、足を震え上がらせるに足る殺意の炎。アーチャーはそれを眼前の敵魔術師にではなく、己がマスターに向けて放っていた。

「何のつもりなのよ……」

 凛も桜も、手出しが出来ない。出来る筈がない。令呪を使い止める事は可能でも、もし行使すれば反逆を行ってでも殺害するだけの意思がアーチャーにあるのは明白だ。それほどまでに、アーチャーは今の状況を望んでいる。

「雑種にしては良い余興だ。これで思惑を外してみろ、八つ裂きでは済まさんぞ」

 瞬時にして王の身を纏う黄金の鎧。垂れていた前髪を逆立てる。恋焦がれる乙女のように王は胸躍らせる。

 膨れ上がる光。紡がれる歌。声は彼方への道を開き、言葉は此方への導を成す。

 王は笑う。声無き声で。
 王は嗤う。胸の内で。

 召喚されて僅か二日。既に退屈を持て余していた王が心よりの微笑で以ってこれより来る者を迎え撃つ。

 早く来い。
 速く来い。

 ──早く、
 ────速く、
 ──迅く、
 ────疾く、

 今すぐ我の前に姿を現せ────!

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」

 光の奔流。エーテルの乱舞。地より天へと立ち昇る魔力の渦が、何処までも高く空を染め上げ──

 突如、視界を覆い尽くす霞の中から響く衝突音。何かがぶつかり合う音が木霊し、その衝撃は白靄を一気に晴らしていく。

 その中央には、拳と拳をぶつけ合った体勢の──二人の英霊の姿があった。一人は無論の事、黄金の王であるアーチャー。
 もう一人は、コートの男によって招かれた、若草色の長い髪を靡かせた、貫頭衣を羽織った中性的な顔立ちの男とも女とも思える人だった。

「────」

「────」

 言葉は必要なかった。両者の顔には焦燥と戸惑い。それから、圧倒的な歓喜によって染め上げられ、周囲を包み込んだ。

「焦がれたぞ、我が朋友よ」

「ああ、久しぶりだね」

 獰猛な笑みと優しげな微笑を交し合った王と英霊は、再度拳を交し合う。衝突は衝撃波を生み大気を震わせ焼き焦がす。それは最早、規格外ながらもストリートファイトにも似た拳の応酬。
 技も道理もない力だけの炸裂。まるで互いの存在をその拳で確かめ合うように、苛烈にして無意味な闘争が繰り広げられた。

「もう、何がなんだか分かんないわ」

 凛は項垂れたように首を振る。正常に頭を回す自信もなく、今はただ目の前の喧嘩を眺めているばかりだった。

「でもアーチャーさん、楽しそうですね」

 互いの頬を穿つ拳。けれど王は笑い、英霊もまた笑う。無邪気な子供が戯れるように。そしてその拳の乱打は唐突に、終わりを告げた。

「何? もう終わり?」

 投げやりに問う凛の声は無視され、王と英霊は、同時にある一点を振り仰いだ。
 直後、王の背後に浮かび上がる波紋より五挺の宝剣が視線の先へと飛翔し、若草色の英霊は獣よりも速く、鳥よりも高く舞い上がる。

 王達の視線の先には、工場の屋根に尖塔の如く突き立つ煙突の影に潜むようにして彼らの様子を窺っていた者の姿があった。
 青いボディスーツを着込んだ獣を思わせる赤い目の男は、向かい来る剣群を虚空より掴み取った深紅の槍で迎撃する。

 二十もの魔術師を瞬殺してのけた爆撃を、男は類稀なる槍捌きにて撃ち落す。けれどその直後、同時に迫っていた若草色の英霊が男の眼前に現れ、深い捻転を生み、全身をバネに変え、鞭を思わせるしなやかで伸びのある回し蹴りを放った。

「がっ……ぎぃ……!?」

 両手で槍を担う男との衝突。けれど勢いと全身を余す事無く用いた完全な蹴りを前に、為す術も無く吹き飛ばされた。
 そのまま槍の担い手は空を飛び、少しばかり距離のある場所に立ち並ぶ煙突の群れへと衝突した。

 堅い煙突を幾つも粉砕するほどの威力の蹴りを、その細身で放ったとは思えない若草色の英霊は、何事もなかったかのように屋根の上に着地した。

 遥か彼方、立ち上る白煙。青い豹はけれど、最小限のダメージに抑え立ち上がり、未だ屋根にて待つ若草色の英霊に迸る殺気を向けたが、何を思ったか、苦々しい表情を浮かべ、霊体となって消えていった。

「何……? 何が起きてたの?」

 余りにも一瞬で唐突な終わり。英霊達による極僅かな時間繰り広げられた本当の戦い。理解の及ばない、そして何が起きたのかも良く分からない凛はただ、舞い降りる若草色の英霊を見やるばかりであった。

 若草色の英霊は召喚者であるコートの男の方へ歩み寄り、王もまた戻ってくる。その美貌は傷痕を残し、そして少しばかり不満気であった。

「無粋な輩のせいで興が削がれた。今宵はこれまでだ」

 王は武装を解いて英霊と向き合う。

『────』

 王と英霊の視線が交錯する。別れの言葉など不必要。偶然にして必然の再会を果たした二人が、今一度見える事に何の疑いの余地もない。陳腐な言葉を借りるのなら、それは最早運命だ。

 王と英霊は、出会うべくして再び出会う。語るべき事はその時に。その出会いの果てが殺し合いに発展しようとも、ただの一度の凄惨な闘争などで、二人の間に織り成された綿布はものともすまい。

 この出会いこそが全て。
 仮初めの舞台の上で出会った朋友は、ただ自らの信を以って駆け抜ける。

「では遠坂凛さん、桜さん。御機嫌よう。これで我々は同じ舞台に立つ演者です。再び見える事もあるでしょう。その時は、私自らが貴女方のお相手をさせて頂きます」

 最強に比肩する英霊を侍らせ、男は柔和に微笑んだ。

「あっそ。そっちも覚悟しておく事ね。今夜みたいな例外は、もう二度とないから」

「心得ておきましょう」

 魔術師と英霊の姿が朧と霞んでいく。やがて夢幻のように、二人は夜の闇の中に溶けて消えた。

「本当、何だったのかしら。まるで悪い夢を見てたみたい」

 全てはあの男と、そしてアーチャーの思惑通りなのだろう。問い質すのはとりあえず後回しだ。

「クク……クハハハハハ!」

 王は高らかに笑う。今まで抑えに抑え込んでいた感情の全てを笑い声に変えて、高く高く哄笑を空に響かせた。

「喜べ小娘共。此度の戦、我が本気となる価値になったようだ。貴様等が望むよう、ある程度は意を汲んで戦ってやる」

「そ。それは助かるわね……って、え、マジ?」

「無論。再びヤツと見える為、残る有象無象は速やかに間引くのみ。我等の間に余計な横槍などくれぬようにな」

「ふぅん……じゃあ全部が全部無駄だったってワケじゃないのか。それならまあ、いっか」

 所詮まだ前哨戦もいいところだ。全てのサーヴァントが出揃い、本格的な戦いが始まるまでにもう暫くの猶予はある。その前に、このサーヴァントがやる気になったのなら儲けものだろう。

「骨折り損の草臥れ儲けにならなくて良かったですね」

「わたし的には充分草臥れてるんだけど」

「まあ確かに。最近姉さん肌艶が悪い感じがしますね」

「そんな話じゃないっての」

「夜更かしばっかりしてちゃダメですよ?」

「だから、アンタは、人の話を聞きなさい……ほら、もう行くわよ。アーチャーも」

 凛と桜は肩を並べ、アーチャーはその後ろを行く。王は一人、暗黒の夜空に煌く星々を眺め、喜悦に浸っていた。

×

 工場地帯を一時の戦場とした場から姿を消し、充分な距離を離れた寂れた公園に今一度姿を現したコートの男は、自らの喚び出した英霊に視線を投げた。

「申し訳ない。私は今一度、あの戦場へと戻らなければなりません。貴方との正式な契約はもう少々お待ち頂きたい」

 若草色の英霊は柔和な笑みを浮かべるばかり。

「……それは、あの場所で死んでいた彼らの弔いかな?」

「ええ。彼らはその身命を擲ち、我等の目的の完遂の犠牲となりました。なればこそ、教会の手の者に後を任せるというのは、私の信条に反します」

「そう……じゃあ僕は、此処で待っていても構わないかい?」

「勿論です。半刻程で戻りますので」

「うん。じゃあ、いってらっしゃい」

 恭しく礼をし、コートの男は霞んで消えた。残された若草色の英霊は、呆然と立ち尽くしたまま、空を見上げる。

「空は少し狭くなったかな。緑も、随分と減ったみたいだ」

 街中から見上げる星空と、人口の灯りの一切ない山奥から見上げる星空は、圧倒的に美しさが違う。この英霊は、自然だけが映し出す風光明媚な光景こそを愛していた。
 彼がいた時代に比べれば、現代の星空など本当の闇の中で眺めてさえその美しさは違うのかもしれない。

 時代の変遷により、自然は人の手によって切り開かれ、地上を征服するだけでは飽き足らず、街並みはより高く空へと昇る。
 その移り変わりは仕方がない事。彼自身も、人のそんな営みを侮蔑するような心は持ち合わせていない。

 今も昔も、彼の心を包み込むのは、唯一人の朋友だけだ。

「君は、何一つ変わらないね。この変わり行く世界の中でさえ」

 だからこそ二人は朋友になれたのだと、そう唄うように。

「君と再び出会えた、この運命に……」

 果てのない想いを。終わりのない郷愁を。尽きる事のない願いを込めて。

 ──いつかの続きを、君と共に綴る為に……

 万感の想いの込められた唄が、深海に沈んだ街並みに響く。
 調べは高らかに。
 旋律は柔らかに。

 人知れず、開幕の合図を告げるように。
 人ならざる英霊は、夜の闇を晴らす唄声を一人、奏で続けた。













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