烙印を継ぐ者達 Tale.05









/1


 聖杯戦争の渦中にあり、それでも今まで通りの日常から逸脱するつもりは毛頭なかった遠坂凛と桜も、そんな生温い事を言っていられる程この戦いは甘くはないと痛感した昨日より約一日。

 自由奔放な己がサーヴァントが今日もまた街中で遊興に勤しむ頃、彼女達は自らに出来る事を成すべくしてこなしていた。

 魔術の教練から情報の整理、これからより一層の混迷を極めるであろう戦いに勝ち抜く為の下準備。特に凛などは正しく遠坂の魔術を継いでいる為、宝石の準備の有る無しでその戦闘能力に大きく差が出る。

 桜の場合は、彼女は遠坂の魔術との相性は凛ほどに良くはないものの、類稀な能力を持つが故に凛のバックアップを勤める事になる。半分に分けた魔術刻印は二人の特性を最大限引き出す一助となる。

 それぞれがアーチャーの召喚からこっち、まともに準備の出来なかった様々なものを完全に整えるのに半日。アーチャーに啖呵を切った敵サーヴァントの居場所、あるいは情報に目処をつけ具体案を形にするのに数時間。

 その頃には夕刻も間近に迫っており、凛と桜は、休憩も兼ねた夕食の買出しに赴く事にした。

「はぁ……肩凝るわねー」

 茜色に染まり行く空に腕を伸ばす凛。逸らされた胸を見やり桜が呟く。

「えっ!? 姉さんって肩凝るんですか!?」

「…………」

「やぁですね、冗談ですよ冗談。そんなに睨まないで下さいよ。そうですよね、胸がなくたって肩凝りますよね。男の人だって凝りますもんね。だから姉さんも安心して肩を凝らせて下さい」

「……ここ最近のアンタのその下世話なトークにも大分慣れてきたけど、アンタは一体何処を目指してるわけ? エロキャラ?」

「何を言っているですか姉さん。私はただ日々の姉さんの戯言に突っ込むべく精進しているだけなのに、言うに事欠いてエロキャラだなんて……」

「人の言葉尻を捉えて無理矢理にもそっち方面の話題に持っていくアンタのネタ振りは突っ込みじゃなくてボケでしょうが。つうか、アンタがボケるからわたしがいつも突っ込んでるじゃない」

「突っ込む突っ込むって下品ですよ姉さん。こんな往来で恥じらいもなく……全くもう、妹として恥ずかしいです」

「そうか……突っ込んだら負けだったのね……」

「え? 待ってください姉さん。突っ込みのないボケなんて寒いだけのギャグじゃないですか。姉妹漫才に姉さんの突っ込みは必須ですよ!」

「…………」

「えぇ!? 本当に突っ込んでくれない!? そこは誰が姉妹漫才の突っ込み役かっ! と突っ込む場面です!」

「…………」

「ああ……そうですよね……こんな年中ボケばっかり考えている妹なんて姉さんにはいりませんよね。完璧超人である遠坂凛最大の汚点ですよね。
 分かりました、さようなら姉さん。姉さんと過ごした日々は本当に楽しかったです。お互いの髪を梳きあったりお風呂で洗いっこしたり一緒に寝たりした思い出を大切にして桜は独りで生きていきます」

「長っ! 長いわっ! 突っ込む隙がないくらい長すぎる! そしてちょっぴり切なくなるからそんな事を言うんじゃない!」

「わたしは……ここにいてもいいんですか? 姉さんはわたしのボケに突っ込んでくれるんですか?」

「後者は全く肯定したくないけど面倒だから良いわよ。でもあれよ、これ以上度の過ぎるヤツやっても無視するから。前言っていた姉妹漫才レベル3までなら、頑張って返して見せるわ」

「あはは、姉さんったらあんなの本気にしてたんですか? 漫才にレベルの格付け出来るほどわたし達のは洗練されていませんよ。思い上がりも甚だしいです」

「……ねえ、ここ、わたし怒っても良い場面よね……?」

 ぷるぷると拳を震わせる凛と朗らかに笑う桜が坂道を下る。夕食の近いこの時間帯では遠出も出来ない。商店街での買い物になるだろう。様々な食材が安く手に入るので二人も重宝しているから別段普段と変わらないのだが。

 夕焼けに染まり長く影法師を伸ばす。昨日の曇天は嘘のように晴れ渡り、薄く広がる白い雲が茜色とコントラストを描いている。
 その刻限は、俗に逢魔ヶ刻と呼ばれる時間。日の世界が黄昏ゆきて夜の世界に切り替わる境界線。

「おや」

 そんな時分であったが故なのか、前方に空を見上げて佇む人影が、二人の気配に気付き振り向いた。

「……アンタ、この間の……!」

 街に溶け込むロングコート。フードを目深に被り素顔を覆い隠す男とも女ともつかないその魔術師を、二人は知っている。
 余りにも自然にその場所にいたせいで全く気付く事の出来なったその不気味さに、けれど二人は視認と同時に身を固くした。

「血気盛んですね、若さとは良いものです。ですが、魔術師であるのなら時と場合を選ぶべきだとは、以前にも進言した筈ですよお二人共」

 敵意も害意も欠片も見せず手振りで愉快な仕草を示すフードの魔術師。それでもいつでも動ける体勢を解かない凛達を見やり、やおら頷いた。

「ああ、大丈夫ですよ。今日はサーヴァントを連れていませんので。奇襲なんて真似をするつもりは毛頭ありません。
 そんな事をするほど野暮ではありませんし、私のサーヴァントも、そして貴女達のサーヴァントもそんな無粋な行いは望んではいないでしょう」

「へぇ……随分と余裕じゃない。ここで私達がアーチャーを嗾けるとは思わないわけ?」

「本当に嗾けるつもりならばその言葉は有り得ません。それに、あの王の気性と前日のやり取りを鑑みれば、彼が標的としているサーヴァントと組んでいる私を今消すメリットなどありませんからね」

「サーヴァントの意向の問題じゃなくわたし達がアンタを狙うと言っているの」

「ふむ……ああ、確かに。それならば有り得ますが……本当にやりますか? 覚悟があるのならお相手して差し上げますが」

「…………」

 くるりと身体を反転させたフードの魔術師と二人は向き合う。その風体からは何も読み取れず、先の言葉もまるで頓着なく放たれたせいで不気味な余裕を演出している。二人の魔術師を相手にしてなお勝利は易いと思っているのか……

「いいわ、止めましょう」

「そうですか、それは助かります」

 時間も場所も良くはないし、手の内を知らない相手に突貫を決めるにしては不気味に過ぎる。いつかはかち合う相手であっても、今日この場で無理にやり合う必要性もまた存在はしない。

 それならばまだ、情報を引き出す方が有意義だろう。

「それで、アンタはこんな場所で何してたわけ? サーヴァントも連れていないなんて、無用心にも程があるでしょう」

 人に言えた事ではないが、と内心では思ってもいた。

「いえ、ただの観察ですよ」

 そうして男が見えない視線の先に示したのは、更地だった。住宅街の一角を切り取る広大な更地。かつて、間桐の屋敷が建っていた場所だ。

 御三家の一家である間桐、あるいはマキリ。十年前、魔術師としてではなく父としての責務を果たすべく桜の救出に赴いた時臣の手によって焼き払われた土地。
 今は焼け落ちた家屋こそ撤去されているものの、後に建物が建つ事もなく半ば放置されている。

「今更こんな場所に観察? 意味がないにも程があるわ。間桐はもう終わっているもの。十年前に潰えた家系なのよ」

「ええ、知っていますよ。しかし哀れだ、悲願とした聖杯には終ぞ届かず、嘆きと共に葬られたかつての名門。さぞ悔いているのでしょうね、このような幕引きによって終わらなければならなかった事を」

「はん、それが戦い──戦争ってものでしょう。弱かったから負けた。ただそれだけよ。死人に口なしってね、後悔してるかどうかなんてのは、誰も分かるわけがない。そんな想像は所詮生きてる人間の勝手な感傷よ」

「なるほど、貴女の考えはもっともだ。魔術師としては、その冷徹さこそが相応しい。それは強さだ。
 生者は死者に意味を求めたがる。葬送などの儀式も、故人に対する敬意はあれど、究極的には生き延びた人間の心の整理の為の通過儀礼に過ぎない」

 死者は何も語らない。想いも無念も何もかもが、残された側の勝手な言い分だ。そう思う事によって、送る者が自らに折り合いをつける為の。

 凛自身、父である時臣の葬儀の折に自らの意思をこそ貫いた。父の無念も想いの丈も分からないからこそ、その父が望むであろう強い自身である為に。桜もまた同様に、自らと姉の意思を尊重した。

「しかし……」

 フードの魔術師はわざとらしく会話に間を作る。

「死人に口なしですか。この国にはなんとも巧い表現がありますね。けれどもし、死者に口があればどうでしょう。
 語るべき口を持たない者が語れるとしたら。あるいは、その死者は朽ちてなどいなかったとすれば?」

 闇に覆われたフードが坂上にいる凛達を見る。逆光で見えない筈の口元に、微かに笑みの形を見た気がした。

「何が、言いたいの?」

 それは不穏、恐怖と言い換えてもいい感情の揺れ。紡ぎ出されるであろう次なる言葉に有り得ない想像がよぎるも、問わずにはいられなかった。
 凛は隣に立っている桜を見た。凛と同様に、険しい視線を下方にいる異様な魔術師に向けている。固く引き結んだ唇からは、吐息さえも漏れていない。

「いいえ、そんなに大層な事ではありませんよ」

 軽く手を振る魔術師。くるりと凛達に背を向け、振り返りながら、

「簡単な事です。一度囚われた闇を払拭する事など出来はしない……ただそれだけの事ですよ。ねえ──間桐桜さん?」

 そんな言葉を、風に乗せた。

「アンタ……っ! なんで……!」

「ああ、失礼。今は遠坂桜さんでしたね。では私はこれで。次こそは、真っ当に戦えたらいいですね」

 乾いた靴音をアスファルトに響かせながら、フードの魔術師は去っていく。二人はその後姿を見送るだけ。追いかけて肩を掴み問い質す事さえ出来なかった。

「桜……?」

 何故ならば、桜が顔を青くし目を見開き、唇を震わせていたからだ。

「姉、さん……」

「大丈夫よ、あんなのただのハッタリよ。どうせ何処かでわたし達と間桐の関係を調べて鎌かけてきただけなんだから」

 凛は間桐の真実の全てを知っているわけではない。桜は語りたがらないし、母も口を噤んでいた。凛もまた、無理に聞き出すものではないと理解していた。それほどの事があったのだとは察せたのだから。

 だが、あの魔術師の言動は何だ? 確信があるかのような物言い。凛でさえ知り得ない桜の闇を知る者なのか? いや、有り得ない。間桐が根絶した以上、葬られた真相を知る者はいない筈……

『──けれどもし、死者に口があればどうでしょう。語るべき口を持たない者が語れるとしたら。あるいは、その死者は朽ちてなどいなかったとすれば?』

「……嘘よ」

 桜には聞こえないように小さく呟く。振り払った筈の闇。払拭した筈の影。けれど気が付けば、それはいつでも、足元に存在している。今、地平に沈み行く夕焼けに照らされて伸びる影法師のように。

「ハッ──馬鹿らしい」

 凛は笑い飛ばす。

「姉さん?」

「馬鹿らしいって言ったの。アイツが何者なのかなんてのは知らないし、知る必要もない事だわ。次に会ったらぶっ飛ばす。それで全部解決よ」

「あはは……姉さんらしいです」

「ぶっ飛ばすのがわたしらしいってどういう意味よ!? まあ、ともかく! うだうだ考えるの止めてほら、買い物行きましょう!」

「うわっ、と、姉さん!?」

 沈みながらも軽口を返してくれた妹の手を引いて姉は坂道を駆けて行く。この手を二度とは離さない。もう、理不尽に引き裂かれるのなんてごめんなのだ。強く妹の手を握り、笑みを浮かべる。桜もまた握り返して小さく微笑んだ。

 ……守るんだ、絶対に。

 その意思は揺るぎなく。確固たる決意を想いに変えた。


/2


「ん……くっ……」

 沈んでいた意識が覚醒する。酔いによりズキズキと痛む頭を振り、ぼやけた視界を鮮明にしていく。

 次いで浮上する記憶。ロード・エルメロイU世はライダーと共に衛宮邸を訪れた。その真意は第四次聖杯戦争の真実を知る為だ。
 言峰綺礼より幾らかの話は聞いたが、その全てを鵜呑みにする事は出来ない。だからもう一人、真相を知る者に話を聞ければ確信が得られると踏んだのだった。

 が。

 そこから後の記憶が酷く不鮮明だ。十年前の当事者がもう一人、この街に住んでいる事を調べ上げ、その日の内に赴いたまではいい。
 広大な武家屋敷に不釣合いなインターホンを何度か押しても人の気配はなく、タイミングも悪く留守だったのも、まあいい。

 その後。あの女と出会ったせいで、彼は酒を無理矢理に飲まされたような……

「くっ……ライダァめ……なんて事をしてくれ、る……?」

 意識や記憶と共に戻った視界に、彼が捉えたものが更なる混乱を呼び起こす。畳を敷いた床。周囲に散乱していた筈の酒瓶やゴミの類は一切が除去されており、あるべき居間の様相を呈している。

「おぅ、ようやくお目覚めか寝ぼすけめ。まさかあの程度の酒で酔い潰れるとは余も思い至らなんだぞ。全く以って嘆かわしい限りだ」

 卓について手酌で今なお飲み続ける大男。テーブルには出来合いの惣菜やお菓子類ではない、ちゃんとしたつまみまで完備されている。
 しかしロード・エルメロイU世が瞠目したのはそこではなく。その隣にいる──小柄な少女だった。

「セイ、バー……? 何故ッ!」

 酔いなど一瞬で醒め、エルメロイU世は身を引きながら立ち上がる。ダークスーツに身を包んだ少女はけれど、動じる事なく瞼を伏せていた。

「座りなさいライダーのマスター。今この場で私が貴方を害する事はない。害するつもりならば寝込みを襲っていますし、ライダーを放置もしていません。しかし、貴方が私を害するのならその限りではない事を覚えておくと良い」

「……。どういう事なんだ、ライダー。状況を説明しろ」

「何、坊主が酔い潰れた後、こやつらが戻ってきただけの事よ。この屋敷に住んでいるのはおまえが捜していた男だけではないという事さ」

「…………」

 エルメロイU世の頭が、ようやく回転をし始める。この家の家主は衛宮切嗣に間違いはない。だがその家族構成までは調べ上げてはいなかった。
 つまり、昨晩倉庫街にいた赤毛の少年と銀髪の少女のどちらかがセイバーのマスターであり、どちらもがこの家に住む者、ということだろう。

「…………」

 何たる迂闊。まさか既に一線を退いた魔術師殺しに子がおり、その子らが魔術師として成長しているなどとは、考えもしなかった。
 この家の有り様は魔術師のそれではない。こんな家に住む者が魔術師である筈がないという先入観。エルメロイU世の忌避する魔術師らしい魔術師としての思考が、あわや生死を左右する致命的なミスを犯していたのだ。

「それで、あの女性はどうした? それにセイバーのマスターも見当たらないが」

「大河ならば私のマスターが自宅へと運んでいきました。私は貴方達のお目付け役というわけです」

「あの赤毛の坊主は中々の手腕よな。これほどのつまみを饗し、瞬く間にこの部屋を片付けてしまうとは。余の召使いとして欲しいくらいよ」

「ライダー、我がマスターを侮辱するのなら、相応の覚悟を持っていような?」

「馬鹿め、余は賛嘆しておるのだ。マケドニアの宮廷給仕達と比してなお肩を並べる兵だとな」

「……。ところで、ライダーのマスター。私のマスターが戻る前に一つ、聞いておきたい事がある」

「……なんだ?」

「おまえ達の目的は何だ? 何故敵地に乗り込み酒盛りなどをしていたのだ?」

「…………」

 全く以って正論だが、そんな事、エルメロイU世も知りはしない。ただ情報を得る為に訪れた衛宮邸の前で、偶然にも出会った衛宮切嗣の知人だという女性に半ば無理矢理に屋敷の中で待つよう誘われ、どんな化学反応が起きたのかは知らないが、意気投合したライダーと大河が酒盛りを始め、エルメロイU世はそれに巻き込まれただけだ。

「……有り得ん」

 そう自分の記憶を掘り返して、エルメロイU世は渋面を浮かべる。あの女性とは一度、過去に面識があった。すぐさま思い出せはしなかったが、消去した筈の記憶を薄ぼんやりと覚えているような素振りを見せた彼女を良く見る事で、記憶は繋がった。

 その場は誤魔化し、事無きを得たが、やはり十年前の失敗を見せられているようで良い気分のするものではなかった。
 しかし、今はもうそんな事はどうでもいい。退場した彼女と今一度面を合わせることなどないだろう。

「私達……というよりも、私の目的はこの家の家主に会う事だよ」

「切嗣に……?」

「セイバー、別におまえでも構わん。十年前の真相を知っているのなら教えてくれ」

「……それが、貴方の目的か」

「ああ。ただ私は知りたいだけだ。知らなければならないだけだ。十年前、冬木市民会館のあった場所で起きた事の真相。街を包み込んだ大火の原因。聖杯の真贋をな」

 十年前の当事者として。此度の戦に招かれた者として。有り得る筈のない二度の招来。それに意味があるのならば、知りたいと思う気持ちを誤魔化す事は出来ない。十年前よりの続き。この戦いが前回の続きであるのなら……

「生憎と、私も詳しくは知らない。十年前、切嗣が参加者であったいう事だけは聞かされているが、戦いの結末までは聞き及んでいない」

「そうか……」

 返答は期待していなかっただけに落胆もない。けれどセイバーは何かを思案し、やおら意を決して口を開いた。

「しかし……一つだけ。貴方達に頼みがある」

 エルメロイU世は訝しむ。ライダーは酒をグラスに注ぎながら沈黙を保っている。

「十年前の事を、私のマスターに尋ねる真似はしないで欲しい」

「何故だ?」

「私のマスターは何も知らない。真実の全てを知っているのは切嗣だけだ。切嗣本人に問わなければ貴方達の知りたい事は知り得ない。それだけだ」

「…………」

 訊きたい事があるのなら衛宮切嗣本人に訊け──その言葉に間違いはないが、セイバーの説明は説明になっていない。
 彼女のマスターが何も知らないというのなら、問い質す事もまた何も問題がない筈だ。それをあえて問うなという以上、そこに何かしらの疑惑があると自分で語っているようなものだ。

 ……怪しいな。

 そうエルメロイU世が思うのも無理なき事だ。納得のいく説明がなければ問わない保障はしない、と口にしかけた時、

「合い分かった。お主のマスターに無理に問う真似はせんでおこう」

「ライダー!?」

「良いではないか、他に坊主の知りたい事を確実に知っている人間がおるのなら、その程度の頼み事を聞いてやってもな」

「しかし──」

「事を急くな。何を焦っている?」

「別に、焦ってなど……」

「急いていないのというのなら、別段構わんだろう。なあ?」

 急いているつもりも、焦っているわけでもなかったが、心の何処かでは感じていたのかもしれない。エルメロイU世自身、何故これほどまでに焦りを滲ませているのか分からなかったが、ライダーの言も一理ある。

 ここでセイバーを突っぱねては衛宮切嗣に話を聞く事さえ難しくなるかもしれない。ならば、話に乗っておくのも条理の一つだ。

「……分かったよ」

「感謝する、ライダーとそのマスター」

「いやいや、感謝にはまだ早いぞセイバー? そっちの頼み事を聞くのだ、こちらも相応の要求を呑んで貰おうではないか」

 ライダーの考えがエルメロイU世には分からない。いや、この男の考えを一度として理解した事があっただろうかと思い悩み、思考を停止する事で諦めた。傍若無人、豪放磊落な王の真意を完璧に理解するには、まだ足りない。

「……要求の内容次第では引き受けよう。聖杯戦争の勝利を譲れ、などと戯けた事をのたまうのなら、斬って捨てるが」

「そんなつまらん真似をするもんかいっ。余の要求は唯一つ。セイバー──余と酒を酌み交わせ」

「……は?」

 セイバーもエルメロイU世も、二人が二人して瞠目した。何を目的とするか分からない要求。けれどこの王ならば、何を言っても無理はないと、エルメロイU世は自らを無理矢理に納得させた。

「貴様ときたら王たる余が酒を飲んどる間も酌の一つもせず、仏頂面で知らぬ顔を続けおって、せめて相伴するくらいの気概を見せよ」

「……何故私がおまえの酒に付き合わなければならない? 我らサーヴァントは戦う為に招かれたのだ、断じて遊興に身を窶す為ではない」

「かぁー、かったい頭だなぁおい。貴様まさか生前もそのような堅物だったわけではなかろうな?」

「…………」

 セイバーの瞳に微かな動揺が生まれる。その揺れを見逃す王ではない。

「ふん、まあ良い。この場はとりあえずこれまでだ。それで、セイバー。余の要求を受け入れるか?」

「断言は出来ない。マスターがおまえを討てと命ずるのなら、私はその意に従わなければならないのでな」

「あの坊主共が少なくともこの場でそんな真似をするとは思えんが……おう、ならその坊主共を説得すればいいわけだな」

 ライダーはぐいっとグラスの中にあった純度の高い澄んだ日本酒を一息に呷り、喉が灼熱する様を思う存分愉しんだ後、廊下に繋がる襖の方を向いた。

「セイバー、藤ねえは送り届けて──」

 隣家の藤村邸へ泥酔し暴れる一人娘を送っていった、士郎とイリヤスフィールが居間に顔を見せる。一瞬の間隙を縫うように、

「おう、セイバーのマスター。今晩この屋敷に泊めてくれ」

「……え?」

 赤毛の王は、そんな有り得ない提案を口にした。

×

「今日は目まぐるしい一日だな」

 蛇口より零れる水流に洗剤のついた皿を晒して汚れを洗い流していく。大河とライダーの酒盛りで使われた酒器類や食器の片付けは、当然の如く士郎の仕事だった。士郎より渡された食器は、傍らのイリヤスフィールの手により布巾できちんと磨かれていく。

「そうね、攫われてた私が言う事じゃないけど、本当、おかしな一日だったわ」

「……そういえば、聞くに聞けなかったんだけど、イリヤは大丈夫なのか?」

「ええ、特に何かをされたって事はないわ。と言っても、ずっと眠ってたみたいだから記憶はないんだけどね」

「まあ、何にせよ無事ならそれでいい。出来ればもう少し詳しい話とか、聞いておくべきなんだろうけど、今の状況じゃあそれも難しいかな」

 アインツベルンの森でのセイバーの敗戦からこっち、落ち着いて話す時間すらなかったのだ。森の中ではセイバーの治療と薄暗い道程を延々と歩み、帰って来たらきたで大河達が騒いでいたのだから。

 居間に踏み込んだ瞬間こそ忘我したが、要領を得ない大河の説明とライダーの補足で状況を類推し、とりあえずは大河を自宅に戻らせる事を優先した彼らだったが、今度はライダーが藪から棒に泊めろと言い出したのだから始末に負えない。

 セイバーを残していた状態でどうしてそんな結果に結びついたのかは分からないが、結局流され押し切られライダー達に一晩の仮宿を貸す事になった。
 エルメロイU世は世界の終わりを見たかのような渋面を浮かべていたが、今はライダーを伴い一旦外に出ている。セイバーは自室に戻っていた。

「あと、セイバーの傷はどうなんだ?」

 一応の治療は施したし、先程の居間で見た分には帰り着いた頃ほど蒼褪めた顔色ではなかった。なので心配はいらないのだろうが、気にならないと言えば嘘になる。

「そっちも多分大丈夫。セイバーに治癒能力が戻ってるみたいだからね」

「……? その言い方じゃ治癒能力がなくなったみたいな感じだな」

「一時的にね。最低限の延命機能だけは何とか残っていたけど、あの直後のセイバーは間違いなくその能力を削がれていた。それが致命傷を受けたが故なのか、他の要因なのかはセイバー本人にしか分からないんだろうけど」

「あの正体の分からないサーヴァントが何かをしたかもって事か……」

 全身を不定形の闇色の霧で覆い隠したサーヴァント。セイバーの剣戟の一切を無効化した異常なる防御能力の持ち主。更にセイバーの治癒能力を奪う何らかの力……宝具を所有しているとしたら、

「セイバーの天敵……か」

「相性は良くはなさそうね、聞いた話だと。でも、アインツベルンは手抜かりを犯した。それだけの異能を晒しておいてセイバーを倒せなかったのは不始末以外の何物でもない。鉄壁の防御力というだけでも、正体は結構絞れるもの」

 世に無敵、あるいは不死身と謳われた英雄は数あれど、真に不死身で無敵な者は存在しない。この世は常に誕生と終焉を繰り返すもの。人ならば誰もが一度は望む永遠の命は、今以ってなお存在を認められていない。

 故にあのサーヴァントがいかに無敵に近い能力を所有していようとも、弱点は必ず存在する。存在しない筈がないのだ。

「……なあイリヤ。イリヤは、それでいいのか?」

 食器と水流がぶつかり弾ける音だけが台所に響く。

「何の事?」

「あいつら……アインツベルンは、袂を別ったとはいえイリヤの家族だろ。そんな人達と敵対する事に、思うところはないのかって話だ」

 闇色のサーヴァントと共にいた白い侍女。感情の欠落した人形めいた美貌の持ち主。あれがアインツベルンのホムンクルスだという事は知っていた。人に似せた人ならざる──けれど人よりも貴いもの。

 どんな理由であれ、彼女達……あるいは彼女達を繰る者がイリヤスフィールの家系に連なる者である事に変わりはない。
 我が子にも等しい存在を攫う暴挙は決して許せるものではないが、それでも、あの者達はイリヤスフィールにとっての家族に違いはないのだ。

「バカね。私の家族はシロウとキリツグだけよ。アインツベルンは聖杯を望む事だけに囚われた狂信者。もしキリツグが十年前、私を助け出してくれなかったら、私は彼らの道具にされていた筈だもの──母さまと同じように」

 士郎は手を止めイリヤスフィールを見る。紅玉の瞳は何も映してはいなかった。

「私が今でもアインツベルンを名乗っているのはあくまで母さまの意思を継ぐっていう意思表示みたいなもの。
 だから、今の私と彼らに関係なんて何もないわ。彼らがシロウ達を傷つけるっていうのなら、私は決して彼らを許さない」

「イリヤ……」

「それに、血縁や血筋だけが全てじゃないって、シロウなら知ってるでしょう? こんなに弟を愛している姉なんて、他にいないんだからっ!」

 腕に抱きつき笑みを零す小さな姉を、士郎は優しい瞳で見下ろした。粉雪のようにさらさらの髪を撫でれば、擽ったそうに身を竦めた。

「そうだな、イリヤは家族だ。その家族を害する相手なら、誰であれ、許しちゃいけないんだ」

 拳を固く握る士郎。昨日今日と己の無力さを痛感させられるばかりの日々。何かを成す為に必要なのは力だ。
 セイバーの代わりになって戦うなんてのは、無謀に過ぎる事だって分かっているつもりだが、それでも、少しでも力になりたいと望むのは、決して悪いことじゃない。

「シロウ」

 そんな折、一度自室へと戻っていたセイバーが再度居間に姿を見せた。

「セイバー、傷は大丈夫なのか?」

「はい、お陰さまで。完治とは言い難いですが、通常戦闘を行う分には問題はないかと」

「でも危うかったわね。もしライダー達がその気なら、セイバーはやられていたかもしれない」

 屋敷に戻った時、セイバーは真新しいダークスーツで傷を隠してはいたが顔色だけはどうしようもなかった。
 何処か目聡い風のあるライダーならば、セイバーの身体状況をそれだけで察せてもおかしくはなく、絶好の機会を逃さないという意味ではあの瞬間こそがセイバーを打倒する最善だった筈だ。

 それでもライダーはセイバーを討つ真似はしなかった。不意打ちを良しとしない性格なのか、ただ単純に何も考えていないのか、あるいは全快のセイバーを相手にしてもなお勝てるという絶対の自信があるからなのか……

 判然としないまでも、今のところライダー達に敵対の意思はないと三人は見ていた。

「それで、どうするの? 何だかんだで泊める事になっちゃったけど、彼らが敵である事に変わりはないのよ?」

 洗い物を終えて三人は座卓について状況の整理を始める。イリヤスフィールの正論が場を切り開いた。

「うーん、まだ会って間もないからかもしれないけど、いまいち何考えてるか分からないんだよな、特にライダー」

「話を聞くに、マスターの方はライダーに振り回されている節があります。征服王イスカンダルを名乗ったあの男の考えは、私にも良く理解出来ません」

「まあ、無駄に裏表のありそうな人種には見えないけど、警戒しておくに越した事はないわよね。それで、なんでライダー達を泊める事になったのか、まだ聞いてないんだけど、セイバー、説明してくれる?」

「はい。実は──」

 セイバーは士郎達が大河を送って行っている間に交わした会話から必要な部分だけを抽出し話して聞かせた。

「酒に付き合えって……アイツ、ほんとにサーヴァントか?」

 およそサーヴァントの思考ではない。他のサーヴァントについて詳しく知っているわけではない彼らだが、セイバーを基準に考えるのなら、何処までもライダーの思考は常軌を逸していた。

「それに付き合おうと思ったセイバーもセイバーだけどね」

「……別に好んで付き合うわけではありません。ならば命令を。この場でライダーを斬り伏せよと命じるのなら、今すぐにでも戦いを始めましょう」

「何拗ねてるのセイバー?」

「別に拗ねてなどいません。ただ私がライダーと同格の酒類好きに見られるのが我慢ならないだけです」

「別にそんな事は言ってないけど。セイバー、お酒好きなの?」

「まあまあ。とりあえず落ち着けよ二人とも。セイバーもまだ完全な状態じゃないんだ、無理はするな」

「しかし……いえ、そうですね、今の状態で未だ底の知れないライダーとやり合うのは巧くはない」

「酒に付き合うだけなら問題ないだろ。俺達も同席した方がいいのか?」

「その必要はない」

 開け放たれた襖の先、廊下に立つのは長身の男──ライダーのマスターであるロード・エルメロイU世だった。

「おう、セイバー。待たせたな、酒を調達して来たぞ」

 遅れて姿を見せたライダーは、一抱えもある樽を肩に担いでいた。大河と散々飲んでおきながら、まだそれほどの量を飲もうというらしい。

「必要はないって、どういう事なんだ?」

 士郎が問う。エルメロイU世の瞳には先程までの外に出る前までのうんざりとした色が消えていた。

「酒を飲みたいだけの大男に付き合う必要はないって事だ。せっかくこうしてマスター同士が顔を突き合わせたのだ、私達はもう少し有意義な話し合いをしよう」

「ふぅん、そうね、私もそっちの方が建設的だと思うわ」

 イリヤスフィールが同意する。そうなれば、最早士郎が口を挟む余地はない。

「ん、分かった。じゃあセイバーとライダーの二人、それから俺とイリヤと……えっと、エルメロイU世さん? に分かれればいいんだな」

「一つだけ確認しておく。私達にはおまえ達を今夜、この場で害する気はない。同様にもおまえ達にも我々を害する気はないと、そう思っても構わんのだな?」

「ああ。少なくともそっちが仕掛けて来ない限りは手は出さない。セイバーもそれでいいよな?」

「はい、マスターがそう言うのであれば。しかし、努々忘れぬ事だ、ライダーとそのマスター。口約束とはいえ取り結んだその約定、反故にすれば相応の報いを受けてもらう事になると観念しておけ」

「心配するな、余にはその気は欠片もない。明日になればまた話は別だがな」

 とりあえずの場は繕われた。およそ有り得る筈もない敵対者同士が会す不自然な卓上。マスターとサーヴァントの双方に分かれての、誰にも終着点の見えない議場が今此処に開かれる。

「よぉし、ならばセイバー、我らは移動するか。勝手は知らん、相応しい場へと案内せい」

「望むところだ。星見の出来る縁側辺りでいいだろう」

「何処でも構わん……ああっと、忘れておった、セイバーのマスター。一つ頼みがあるんだが」

「何だ?」

「うむ、先程のつまみ、真に美味であった。出来ればもう一つばかり腕を振るって欲しいんだがのぅ」

「そんな事か、ん、いいよ。藤ねえが適当に持ってきたっぽい材料もあるし、ぱぱっと作っちまうよ」

「あー、じゃあついでにシロウ、私達の御飯もよろしく。そういえば丸一日何も食べてなかったわ」

「あ、そっか。オーケー、簡単なもので済ますけど、いいよな?」

「ええ、お願い。意識したらお腹ペコペコになってきちゃった」

「……なんて緊張感のない連中だ」

 和気藹々と雑談する己がサーヴァント達を尻目にエルメロイU世は項垂れる。幾ら一夜限りの不戦協定結んだとはいえ、これは些か緩過ぎるだろう。そんな事は詮無い事だと知っていても、思わずにいられなかった。


/3


 縁側より望む月は満月を過ぎ、徐々にその姿を翳らせている。それでも今だ燦然と夜空に輝くその姿は、月見を行うには充分に足る光輝だった。

「ふむ、中々良い眺めではないか。この国ならではの風情を感じるぞ」

 手入れの行き届いた庭園と、宝石をばら撒いた星空。その中心に穴を穿つ月。冬の澄んだ空気の下、それら全てが美しく瞬いている。

「うむうむ。ではまあ、始めようか」

 セイバーとライダーの間に酒樽と士郎手製のつまみを置き、ライダーは何処から調達したのか柄杓で樽を満たしていた血色のワインを掬い、一息に呷る。
 飲み干した杯をセイバーに差し出し、彼女もまた、動じる事なく、なみなみと杯を満たした酒を呷り上げた。

「ほっほぅ、ただの小娘かと思いきや、その意気や良し。飲めぬのなら酌でもさせようかと思っとったんだが、とんだ杞憂だったな」

「舐めるな。そもそもからして一滴すら飲めないのなら、おまえの要求を受けはしない。それで、何用だライダー。まさか本当に杯を交わす為だけにこの場を用意したわけではないだろう?」

「ふむ……聡い奴は好ましいぞセイバー。その通り、酒に付き合わすのもまあ、嘘じゃあないが、折角こうして世に招かれたサーヴァント同士が巡り会ったのだ、剣を交えるも杯を交わすも同じ事。
 故にこそ、余は問おうではないか。貴様が聖杯に賭ける望みをな」

「……それは意味のない問いだ。サーヴァントは誰しもが譲れぬ願いを携えて世に召喚される。他者の願いを聞き、揺れる程度の祈りしか持たぬ輩は存在しまい」

「だろうな。まぁ、ちょっとした余興だ。酒の肴には丁度良かろうて」

 士郎の用意したつまみを手掴み、大口の中に放り込むライダー。言葉を交わしながらも互いに杯を飲み干しあっている。

「いいだろう、別段誰にも語れぬ願いというわけでもない」

「よぉし、ならばまずは、言い出した余から語ろうか。余の願い──すなわち聖杯に託す願いは唯一つ、『受肉』だ」

「…………」

 その言葉を聞き、セイバーは無意識にライダーの面貌を仰いだ。

 征服王イスカンダル。その異名と名立たる栄光は、聖杯から与えられた知識から検索し理解している。
 大帝国を築き上げた覇王。世界征服に最も近づいた王の一人。その終わりこそは誇れるものではないにせよ、彼が勝ち取った栄華は今なお伝説として語り継がれている。

 そんな男が奇跡と呼ぶに相応しい聖杯の使い道として選んだ受肉という瑣末な願い。セイバーはその真意を測りかねた。

「受肉……おまえ程の男がその程度の願いを聖杯に捧げると言うのか?」

「その程度……おう、まさにその程度よ。奇跡などに頼りたい願いなど余にはその程度しかありはせん。
 しかし、まさにそれこそがどうしても欲しい願いだと言うのは、皮肉以外の何物でもないわなぁ」

 サーヴァントとして現界するライダーにとって、その身はマスターと聖杯の補助により繕われた仮初めの身体だ。地は踏めても、天は望めても、確固とした肉体が現実にあるわけではない。

 その身はあくまで聖杯を勝ち獲る為だけに存在を許された虚像。聖杯戦争の終焉と共に消え去る一種の幻のようなものだ。

 赤毛の王は、それをこそ許し難いと断じた。

 生前は思いすらしなかった二度目の生。たとえそれが仮初めの生であったとしても、現実の生へと成る手段があるのなら死力を尽くす。
 聖杯に託す奇跡の用途。征服を覇とする王の基点。確固たる我が身を以って、かつて果たせなかった世界征服を成し遂げるのだと、豪胆なる王は諳んじた。

「……なるほどな。おまえの気性を思えば、聖杯に世界を獲らせるなどとは言わないのが道理か」

「応とも。征服は余の信念。余の道よ。聖杯などから下賜されたところでそんなものは何の価値もない。自らの手で勝ち取るものにこそ意味がある」

「理解はし難い。納得も出来かねる。だがそれでも、おまえの言いたい事は分かった」

 静やかに飲み干した柄杓をライダーに差し出しながらセイバーは呟いた。

「ふむん、そうかそうか。ならば貴様もまた余の旗下に加わらんか? この世の悦楽を共に分かち合おうではないか」

「戯言を。聖杯を手にするのが唯一人であるのなら、それは私に他ならない。故におまえの願いは叶わない」

「はっは、剣も交えぬ内に勝ちを謳うとは早計だなセイバー! ならば問おう! 貴様の願いの何たるかを!」

 ライダーは樽からワインを掬い上げながら問う。セイバーは毅然として言い放った。

「私は祖国の救済を願う。万能の願望機を以って、国の滅びの運命を変える」

×

「シロウー、お醤油とってー」

「はいよ」

「んー、やっぱりシロウの御飯は美味しいー。お腹空いてたから余計に美味しく感じるわねー」

「そんなに手の込んだもの作ってないけど、イリヤに喜んで貰えたのなら何よりだ。しかしあれだな、イリヤ、なんだか藤ねえっぽいな」

「え、やだ、うそ、私、タイガみたいっ!? お代わりはまだ二杯目よ!?」

「別にお代わりの回数が藤ねえっぽいとは言ってないが……」

「でもそっかぁ、私、タイガみたいかぁ……」

「いや、そんなに落ち込んでやるなよ。藤ねえが可哀想に見えてくるだろ」

 一方その頃の居間はといえば、士郎の即興の料理が食卓に並べられ、囲む士郎やイリヤスフィールが舌鼓を打っている。

「…………」

 唯一人、呆けた顔をしているエルメロイU世はまるで自分の存在などないかのようににこやかに食事を進める二人を冷めた目で見ていた。イリヤスフィールとの会話の切れ間に、ふと士郎はそんな視線に気が付いた。

「……? 口に合いませんか?」

「いや、そんな事はない。むしろ美味い部類だろう」

 エルメロイU世はイギリスの食事にさして思うところはないのだが、これらの食事はかつてこの地で寄生していた邸宅の味を、少しだけ思い出させた。その感傷は即座に心の内に溶け、味噌汁に口をつけながら話を続けた。

「私が怪訝に思っているのは食事の問題ではなく、君達の問題だ。幾ら約定を結んだとはいえ、こうまで和やかにされては拍子抜けするなという方が無理がある。君達からはとても魔術師としての在り方を感じられない」

 この緩さは何処となく彼が預かっている生徒達を髣髴とさせる。魔術を学びながら魔術師としての本質を何処かに忘れてきた者達。魔術師として最も欠落してはならないものを持っていない異端者。

「食事は楽しむのが礼儀でしょう? それに警戒ばっかりしてたら息が詰まるもの。更に言えばこっちは二人、そっちは一人。優位はどちらにあるか明白でしょう?」

 イリヤスフィールの赤い瞳に好奇の色が宿る。獲物を前にした猫のような、それでいて外見に似つかわしくない艶やかな視線。それを向けられ、エルメロイU世は無意識に視線を逸らした。

「確かにな。打算の上での緩さなら理解出来なくもない……が、そっちの少年も同じとは限らない」

「え? ああ、そうだな。戦わないって決めたんだから、気張る必要なんてないだろ?」

 箸を止めた士郎はそう言い、イリヤスフィールとエルメロイU世は呆れた。

「私が言うのも何だけど、シロウはもう少し警戒心を持ちなさい」

「純粋無垢なのは結構だが、それではその内足元を掬われるぞ」

「え……なんで俺が責められる展開に?」

「ともかくだな、もう少し緊張感を持て。もし私が悪意ある魔術師であったのなら、君達はこの場で消し飛んでいるぞ」

「自分でそう言うって事は、悪意はないんですよね?」

「…………」

 指摘されて墓穴を掘ったと後悔した。何故こんな見ず知らずの少年にアドバイスなどしているのだろうか。長年教職についていた弊害か、ずれた生徒達を受け持っていたせいで余計なお節介癖でもついたかと、エルメロイU世は内心で苛立った。

「……まあいい。もう少し建設的な話をしよう。こう言っては何だが、君達は本当に聖杯を狙うマスターか? 私の知る連中に比べれば、何処か必死さに欠けている」

 今回のマスターはまだ良くは知らないが、十年前のマスター達は誰もが必死だった。渦巻く策謀、悪意、奇襲。勝利を掴み取らんとした彼らは、持てる全てを用い戦場を駆け抜けていた。

 目の前の二人からはその必死さを感じない。聖杯に執着しているとは思えない違和感。そう、それはまるで……

「そうね、私達は別に聖杯を求めてはいないもの」

「なに……?」

「聖杯が欲しいのはセイバーだけ。私達は必然に駆られて彼女を喚んだわけだけど、どうしても聖杯に希わなければならない願いなんてものは、持ってない」

「…………」

 それは本来、有り得ない言葉だった。聖杯が令呪を託すのは、聖杯という奇跡を必要とする者だけだ。令呪を受ける者は間違いなく願いや祈りを持っていなければおかしい。あるいは、もう一つの可能性としてただの枠埋めも有り得るが。

 どちらにせよ異端だろう。無自覚の願望を持つにしろ、持たないにせよ、聖杯を目の前にちらつかされてなお願う祈りを抱かない者は。
 手の届く場所に奇跡があるのだ。およそ考えられる全てを叶える万能の願望機が。普通の者ならば、どんなに安くちっぽけなものであろうと、願いを抱く筈なのに。

「魔術師としての大成が欲しくはないのか? 身に余る奇跡。本来届かない場所に至る事さえ不可能ではないというのに」

「深淵を覗こうなんて思ってもいないわ。貴方も察しはついているでしょう? こんな家に住む者が真っ当な魔術師であるわけがないって事に」

「魔術を修めながら目的とはしない者……か。ああ、呆れるほどの異端だ。ならば君達は魔術師でさえ有り得ない」

 魔術を手段する者──それは魔術師ではなく、魔術使いと呼ぶべき存在だ。在るべき魔術師から見ればその呼称は侮蔑の意味も孕んでいるが、本人達がそれで良しとしているのなら意味のない事だ。

 衛宮切嗣が我が子に施した唯一の魔術教練。それこそが魔術師ではない魔術使いの在り方だった。

「そういう貴方はどうなの? 私達から見れば貴方も充分必死さに欠けてると思うけど」

「私自身も聖杯に託すような願いは……まあ、あるにはあるが、その前に知りたい事があってね。イリヤスフィール……と言ったか。その姓がアインツベルンである君ならば、知っているのかもしれないが」

 衛宮切嗣も未だ帰宅した様子がなく、セイバーに釘を刺されている以上、迂闊に踏み込んだ事も訊けない。だがしかし、ならばその一線を踏み越えられる状況を作り上げれば良いだけの話だ。

「ところで君達は現状をどう見ている。特に昨日の倉庫街での一戦、アーチャーの実力をどう考えている?」

 圧倒的な物量による戦力。有り得る筈のない無尽の宝具を有する魔弾の射手。三騎のサーヴァントを相手取ってなお揺るぎない優位を保ち続けた黄金の騎士。あのサーヴァントの共通認識は、規格外という言葉に集約される。

「はっきり言ってあれは怪物だ。英霊という存在すら超越した何かを感じさせる魔人だ。あの場に居た三人のサーヴァントも全力は見せてはいないのだろうが、あの黄金の男もまた底を見せていない雰囲気があった。
 そんな相手に、単独で戦いを挑むのは馬鹿げていると思わないか?」

「……ふぅん、そういう事」

「それはつまり──」

 士郎もイリヤスフィールもエルメロイU世の言いたい事を察した。

「ああ。一夜限りの休戦協定を、アーチャーの打倒まで引き伸ばさないか、という提案だ」

×

 ライダーは柄杓を満たす赤いワインに口につける寸前で、その腕を止めていた。面貌は無表情、瞳は虚空を睨んだまま。

 その異常をセイバーは訝しんだ。ライダーの自らだけを是とする、受肉などという瑣末な願いと比してなお尊い己が祈りを聞いたライダーが、そんな無様を晒す意味が分からなかったからだ。

「……運命を変えると、そう言ったかセイバー」

 低く、重い声音。それは豪胆なライダーが初めて発する鬼気迫る音を孕んでいた。

「そうだ。それが、何だという?」

「もう一つ問おうか。貴様は一介の騎士でその夢を見たのか? あるいは、何処ぞの王の身であるのか?」

 答える義務はない。自らの素性を秘すという観点から見れば、嘘を並べるべきだ。僅かとはいえ糸口を晒すのは巧くない……のだろうが、恥じ入るもののないセイバーは、己が誇りを以って実直に答えた。

「そうだ。私はある国の王だった」

 その答えを受けて、ようやく、ライダーは血色の酒を飲み干した。

「おまえも王だったのなら理解出来るだろう、自らの治世で滅び行く国を救いたいと願う気持ちが」

「分からんな、ああ、全く以って貴様の夢想は理解し難いぞセイバー」

 空となった杯をセイバーに渡す事なく、ライダーは小柄なセイバーを見下ろした。その瞳に、憤怒の色を滾らせて。

「運命を変える? 滅び行く国を救う? 馬鹿げた事を。王であると讃えられ、王として君臨した者が、よもやそのような戯言を謳うなど思いもせなんだわ!」

「なんだと?」

 場の空気が変遷する。酒宴の場は、剣を交えない闘争の場へと化す。

「貴様は王というものが何であるかを履き違えておるのか? 国を救う為に王はあるのではない。王は国を喰らう為にあるのだぞ」

「何を……そんなものは統治者にあるまじき暴論だ。王は国を統べる者。国に、民に尽くす存在だ」

「断じて違う。王が国に尽くすのではなく、国が王に尽くすのだ」

「馬鹿な……それは治世ではない、暴君による独裁だ」

「然り。余は暴君であるが故の英雄だ」

 交じり合わない二人の王論。かたや国の為に身命を賭し、かたや国の力を喰らい己が欲望を満たした王。対極に位置する二つの道。

「救済を求める意味。自らの治世を、その結末を悔やむ王がいるとすれば、それはただの暗君だ。暴君よりなお始末が悪い」

「私は悔やんでなどいない。悔やむ事さえ許されていないのだ。貴様らのように既に過ぎ去った者とは違う、私は未だ故国の王なのだから」

「なに……?」

 セイバーが霊体化出来ない原因。それが未だ死者に成り切れない、時間の上に留まり続ける存在である事だ。
 聖杯を獲得した暁には、セイバーは在るべき己が時空へと舞い戻る。たとえ死の淵、死の間際に立たされていようとも、生ある限り彼女は王であるのだから。

「貴様にどんな事情があるかは知らん。だが同じ事よ、自らの手による治世で滅び行く国を聖杯の力などで救済しようというのなら、それは貴様が築き上げた所業を否定している事に変わりはない」

「だからどうした。滅びの華を誉れとするのは武人だけだ。民は救済をこそ望んでいる。国の繁栄を願っている」

「国は、滅びるぞ」

 凍てつく視線と言葉とで、ライダーはセイバーの白熱を断ち切った。

「国は滅び、人は死ぬ。世に遍く万物がそうして流転するものだ。貴様の言う救済は一体何を示す? 一時的な救いを齎す事が、貴様の王道か?」

「確かに国は滅びよう。人は何れ死に行こう。永遠も永劫もありはしないと知っている。ただそれでも、せめて自ら治世を行った国と民を守りたいと願う想いは嘘ではない」

「それは貴様のエゴだ。滅びを肯定出来ない貴様の弱さが見せる幻だ。貴様を慕った臣下の死を無碍にし、貴様を王と崇めた臣民の声を黙殺し、ただ自らが救われたいが為に救済を願うエゴに他ならない」

「私は自らの救済など願ってはいない! 聖杯を獲得し、救うべきは我が国と民達だ! たとえその後の私の死が約束されていようとも、その祈りは不変なのだから!」

「それこそが独り善がりのエゴだと言っておるのだ。自らの治世は繁栄と栄光で幕を閉じるという、結果が欲しいだけに過ぎん」

「貴様には分からぬ。我が祈りの尊さは。我欲を満たす為だけに王となった貴様に、私の心が解せる訳がない」

 祖国の救済による栄華など、セイバーは心底望んでいない。だからこそライダーは理解が出来ない。王は欲を持つという絶対の不文律を信じるが故に、セイバーの無心が分からないのだ。

「分かるものか。無欲な王など飾り物にも劣るわい。貴様の統治は救済という理想の偶像を民に見せるだけの治世だ。誰もが崇め奉るのは、民の理想と貴様の理想とが合致している間だけの夢想だ。
 脆くもずれた歯車は歪を大きくし、後に残るのは目的を失った民と瓦解した国よ」

「…………」

 自らが死の淵に沈む赤い丘。落日の丘から見下ろした光景は、ライダーの指摘する全てが崩壊した世界ではなかったか。

「救いだけを齎し何をも残さぬ王に、誰がついて行くものか。王のあるべき姿は民や臣下の導となる事。
 王を見上げ、王の欲を目の当たりにし、我もまた王足らんとする憧憬は、胸に芽吹く羨望は、たとえ国が滅びようとも皆の心に火を灯す」

 自らの生き様を以って国を率いる者。自らの在り方を以って国を救う者。平行線ですらない二つの道。背中合わせの覇道と王道。

「なればこそ、貴様の体現する理想はただの夢想。いかに民を想い、国を憂おうと、己が理想だけで国を救おうなどとは片腹痛いわ」

「……ッ! 我が祈りが夢想だと? それ以上の侮辱は許さんぞ」

 セイバーが腰を上げる。ライダーは動じる事なく、手にしたままだった柄杓で今一度酒を掬い上げた。

「それだけならばまだ話し合う余地があったのやも知れんがな。貴様はそこから更に踏み外し、聖杯による運命の逆転を望んだのだろう。
 余は己が欲を満たす為に王となった。征服を信とし、他国を蹂躙し何人もの臣下や民を犠牲にした。けれどそこに悔いはない。涙は流そう、悼みもしよう、けれど後悔だけはしてはならん。それは散っていった者達に対する侮辱だからだ」

「…………」

「ましてやそれを覆す? その結果に、王の為に死んでいった者達が何を思うか考えた事があるか?」

「……私の祈りがエゴであるのなら、貴様のそれも同様だ」

「そうだ。だが余のものと貴様のそれは決定的に違うものだ。民の為に尽くし、国の為に身を捧げた貴様は、その守りたかったものを守り通せなかったが故の悔恨だ。
 余は違う。余にもしも悔いがあるとすれば、同じ夢を胸に抱き、共に戦場を駆け抜けた朋友達と見た夢を叶える事が出来なかった悔いよ」

 だからライダーは受肉を願う。かつて果たせなかった夢を今一度叶える為。やり直しで叶えるのではなく、ここより始め叶える為に。
 王であり、そして人であった男の一途な夢。王としての己に悔いはなく、あくまで一人の人としての悔いだけを残している。

 逆にセイバーは個としての悔いではなく、王としての悔いだけを残している。救いたかったもの、救えなかったもの。滅び行く国を目の当たりにし、死に呻く民を見下ろし、その結末を肯定出来なかったが為に。

 誰かの為と、自らの為。どちらが正しいのかは分からない。セイバーもライダーも、己が道を信ずるが故に譲らないのだから。

「正しき治世、正しき統制。そうして作られる平穏に価値がないとは言わん。だがそうして生まれた貴様の治世は、だからこそ滅びの道を歩んだのではないのか? 国に尽くしたが故に貴様は国に滅ぼされたのだ」

 救いを齎す正しさの奴隷。ライダーの王道と真っ向から対立する、聖君にして殉教者の誉れ。聖者は人は救えても導く事は叶わない。

「ならば言葉を返そう。暴君としての治世を行ったが故に、貴様は国を滅ぼしたのだ」

「ああ、そうとも。だが余はその滅びを肯定しよう」

 たとえ死後に残ったものが、己が築き上げた大帝国を四つに引き裂く禍根だけだったとしても、王の背に憧憬を抱き、自らが王足らんと争うのならば是非もない。
 生の過程で培われた彼らの想いを無駄にしない為に。そして駆け抜けた悠久の日々に悔いがないからこそ、必定の滅びを受け入れる事が出来るのだ。

「ふん、まあ、言い争うだけ無駄か。どれだけ在位していたか知らんが、頑ななまでにその王道を信じるのなら、余の王道を解せぬのも無理なき事よ」

「当然だ。私は誰の理解も求めてはいない。ただ祖国の救いだけを求め続ける」

「臣下や民にすら理解されずとも?」

「……ああ」

 一瞬だけ、死の淵で見た屍の丘と、離反し、王に言葉の刃を衝き付けた騎士の姿を思い出した。

「そうだ」

 無辜の民を犠牲にし、多くの臣下の命を散らし、国を守ろうとした一人の王の意地。血を流し、屍を積み上げ、失った全てに報いる為には、絶対の救済しか有り得ないと、半ば彼女は妄信していた。

「私は是が非でも聖杯を勝ち獲る。勝ち獲らなければならないのだ」

 死後を世界に預けてまで望む希望。自らの対極に位置する王の諫め言程度で揺らぐほど彼女の決意は甘くはないのだ。

「ふむ……そうか」

 ライダーは樽の中に柄杓を放り投げる。何時の間にか満たされていたワインは底を尽いており、からん、と軽い音を立てて柄杓は転がった。

 赤毛の王は立ち上がり、庭園の中心へと歩いていく。最中に、現代衣装を戦装束で覆い隠し、煌々と冴え渡る月の下に立った。

「セイバーよ」

 戦いの気配を感じないまでも、ライダーが武装した以上はセイバーもまた武装を行わなければならなかった。
 アインツベルンのサーヴァントに砕かれた白銀の甲冑も既に修復され、月光を照り返している。

 蒼い月の下──赤い王と、白銀の王が向かい立つ。

「理想に取り憑かれた王よ。貴様は余が下してやろう。そうしてやるのが、せめてもの慈悲だ」

「望むところだ。我が理想に対峙する者は全て、この剣に賭けて打ち倒す」

「ふん。だがまあ、今宵は止めておけ。今の貴様を下したところで同じ事の繰り返しよ。肉を断ててもが心が折れねば意味がない。その傷が癒えた後に、最高の状態に戻した上で真っ向から勝負を挑もう」

「…………」

 やはりライダーには気付かれていた。セイバーが負傷している事を。

「剣による問答に引き分けはない。余と貴様の勝負は互いの信念を賭ける闘争よ。正面からのその戦い、余が勝ったのなら、その理想もまた捨てていけ」

「いいとも。私は負けない。私の正しさを、必ずや証明してみせる」

 セイバーは武装を解き背を向ける。未だ明かりの灯る居間には向かわず、闇に没する自室へと足を向けた。
 その心に、揺るぎない意思と確固たる決意を秘めて。いつか訪れる、真逆の王道を征く王と向き合う時を想って。

「…………」

 庭に残されたライダーは月を仰ぐ。真円を過ぎた月は、けれど一欠片もその美しさを損なってはいなかった。

「……あのような小娘には荷が重過ぎる理想よ。理想に殉じた王。王と呼ぶのもおこがましいが、それでも彼奴は王であるのなら──その踏み外した道を正してやるのもまた、王であり英雄である余の務めよ」

 聖杯を巡る一人の敵対者ではなく、真なる肉体を得る為の障害物を排除するという名目でもなく、セイバー個人を己が手で倒さなければならない敵であると、この時、ライダーは断じた。

 共に王を頂く者達の決戦は、今は遠く、静かに──来るべき時を待ち侘びていた。


/4


 暗い回廊。闇に閉ざされたビル内部。無人を思わせる静謐な空間。居並ぶ窓から振り注ぐ月光だけが微かに廊下を照らし上げ、そして、二人の少女──魔術師と対峙する異形の姿を映し出す。

「こりゃまた大勢でお出迎えね。人気者は辛いわねぇ」

「きっと全部姉さんが狙いですから、囮、よろしくお願いします」

 深夜、凛と桜が踏み込んだのは、新都に構える一つのオフィスビルだった。今朝方ニュースで見た新都を中心に発生しているガス漏れ事件の真相を探る為、魔力の残り香を追ってこのビルへと到達した。

 そんな彼女達を待ち受けていたのは、骨作りの人形兵達。廊下を埋め尽くすほどの異形の群れ。意思などなく、操り人形の如く繰られる骸骨は、肉を持つ侵入者を敵と判断したらしかった。

 緩やかに歩を進めてくる異形達を前に、凛と桜は普段と変わらない口調で会話する。

「冗談じゃないっての。わたしの宝石はこんな雑魚共に使うような代物じゃないの。雑魚の相手はアンタの役目でしょ」

「じゃあボスがいたら姉さんにお任せしますね」

 凛は悠然と構えたまま、桜はその腕に刻まれた魔術刻印を会話の前より既に回転させていた。二人で一人の魔術師であると覚悟したその時より、いつも互いの役目は明白だった。美味しいところ掻っ攫うのが凛で、割を喰うのが桜だ。

Es befiehlt(声は 遙かに)────Mein Atem schliest alles(私の檻は 世界を 縮る)

 詠唱の完了と共に蠕動する影。月明かりに照らされて浮かび上がった桜の影は果てしなく伸び、廊下の床を覆い尽くす。
 一面の黒に覆われた回廊の床。蟠った闇は蠢き伸び上がり、絡み串刺し自由を奪う。足元を掬われた異形の骸骨達は、為す術もなく影の中に沈んでいく。

「うふふ……さあ、虚数(かげ)世界(うみ)で溺れなさい」

 それは幽世より這い出た亡者どもを容易く彼岸へと還す暗黒の渦、目に見えぬ不確定を以って対象を拘束する、虚数の魔術特性だ。

 外法によって繰られた死せる者達に、その闇より逃れる術などありはしない。囚われたが最後、自由も何もかもを剥奪されて、何処とも知れぬ暗黒空間に引き摺られ、一滴の存在すら残さず呑み尽くされる。

「相変わらずアンタのそれ、えげつないわね」

「ごちそうさまでした」

 ものの数秒。それだけで、回廊に犇めいていた異形達は姿を消し、月明かりの差し込む何の変哲もないビルの廊下を取り戻した。

「さってと、んじゃ上へ行きましょ。どうも厭な匂いを感じるわ」

「はい、姉さん」

「…………」

「……? 何ですか?」

「いや……アンタがボケないのも珍しいなって思って」

「失礼ですね。わたしだって時と場合くらい考えます。どう見てもシリアスなこの状況で余計な事は言いませんよ」

「それを言っちゃった時点で色々と台無しな気がするけど……前もこんな会話した気がするけど、まあいっか。行きましょう」

×

 異常は最上階の一室で見つかった。会議室として作られたのか、広々としたオフィスにあったのは、夜の闇よりも濃く、そして不自然な一面の黒だった。

 見渡す限りの人。ざっと数えても四十人以上の人間が、絨毯の代わりだと言わんばかりに倒れ伏している。うつ伏せの者、仰向けの者、折り重なる者。体勢に違いはあれど、その全てに一つの共通項がある。

 倒れている人間は、一人残らずその口より吐血していた。

 時折呻き声のようなものも聞こえる。まだ死んではいないのだろう。これまでのガス漏れ被害でも、一人として死者は出ていなかった。
 それを手を下した者の慈悲と考えるのは早計だ。生かさず殺さず、見つからず。神秘の露見を最小限に抑えた上での大規模な搾取。全てが計算であるのなら、

「吐き気がするわ」

 目の前の惨状に。この地獄を作り上げた悪魔に。

 予想以上の被害。味を占めたのか、ここ最近は敵の動きが活発化し被害も徐々に拡大している。その内街全土から搾取を行う事も考えられる。死者が出る事も、可能性としては有り得る。

「……ふん」

 だがそのお陰で足取りが掴めた。これほどの規模の搾取を毎夜行い、奪った魔力を蓄えられる場所はこの街でもそう多くはない。魔力の流れと偽装の正体。全てを鑑みれば、集約される場所は唯一つ。

「柳洞寺ね。そこが、キャスターの根城よ」

 先日の奇襲といい街中からの搾取といい、今回のキャスターのクラスはよほど高位な者が喚ばれたようだ。このまま放置しておけば、何れ被害がより拡大し、取り返しのつかない事になりかねない。

 聖杯戦争の一参加者として、冬木を預かる者として。何より吐き気のするこんな真似をするくそったれをぶっ飛ばす為に、凛は決意を秘めた。

「桜、とりあえず換気。通報は……あんまり意味がないか。明日の朝に発見されても、とりあえず生きてはいられそうね。でも一応綺礼には伝えておくか」

 周囲の状況を把握した凛は動き出すも、後ろにいた桜からの返事はなかった。

「桜?」

「あ、え、何ですか?」

 凛に再度声を掛けられ、はっとしたように桜は顔を上げた。

「窓開けてって言ったの。どうしたの? 気分悪いなら外出てていいけど」

「いえ、大丈夫です。換気ですね、やっておきます」

 そろそろと動き出した桜を視線で追う。その動きは普段の彼女と何ら変わるところのない動作だ。

「…………」

 しかし、凛にしてみればおかしなところが多すぎる。やはり夕方に出会ったあの男との会話が、桜に何らかの影を落としているのか。この惨状もまた、桜にとってはただ不快なだけではない何かを想起させるものなのだろうか。

 ……詮無い事ね。桜が話したくなれば、きっと話してくれるから。

 その時まで凛は待つ。妹が、その裡に抱え続けているという闇を晒してくれる時を。姉を頼りとしてくれる時を。

×

 出来る限りの後始末を済ませた凛と桜は、屋上へと上がった。天に瞬く星々と、地上に煌く星々の狭間に立つ。その場所は街で最も暗い海の底だ。

 微かに鼻腔を擽る鉄錆の匂い。惨状の会議室を始末している間に衣服に匂いが移ったらしい。袖から鼻を離し、一つ舌打ちをして、凛はくるりと振り返った。

「ようやく仕事を一つ果たしたか」

 後方、凛達の潜った扉の更に上。このビルで最も高い場所に、黄金の姿を見咎めた。

「来てるのならもっと早く姿を見せなさいよねアーチャー」

「貴様ら程度で事足りる雑事に我が手を割く理由はない」

「はいはい、分かってるわよそんな事。で、敵の居場所分かったんだけど、どうする?」

 遥か彼方に見据えるのは柳洞寺。悪の潜む森厳なる寺院。闇に没した円蔵山からは、何一つ窺えない。

「刻限としては良い頃合だ。どれ、一つばかり遊んでやるとするか」

 アーチャーは飛び降り、凛達と同じ地を踏む。そのまま屋上の端まで寄り、眼窩に灯る街並みの光を見下ろした。
 その瞳に何が映っているのか、凛には分からない。黄金の王。世界の全てを手中とした英雄王の目に映る情景は。

「先に行く。貴様らは好きにするがいい」

 アーチャーの姿が消える。夜の闇に飛び込んだのか、霊体化したのか、いずれにせよ黄金の光輝は夜の狭間より消え去った。

「先に行くって言っておいて好きにしろってのもおかしな話よね」

 どうせ追ってくると踏んでいるのだろう。互いの意思疎通は僅かながらに果たせているようだ。もっとも、マスターを置き去りにするサーヴァントだという事実は未だ根付よく残っているので一概に喜べないが。

「はぁ……ったく。じゃあ行くわよ桜」

「はい姉さん。着地はお任せしますね」

 コートの裾を翻し、二人は肩で風を切って駆け出した。目前に迫る虚空に動じる事なく完璧な踏み切りから夜の闇の中に飛び込んだ。

 目標は柳洞寺。その場所で再び戦乱が幕を開ける。


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『今一度キャスターを調査せよ』

 そう指令を下した言峰綺礼の真意はランサーには分からなかった。

 ランサーはキャスターと以前、一度矛を交えている。聖杯戦争の正しい開幕の前、言峰綺礼がマスターとなる前の話だ。

 その時のキャスターは、お世辞にも強い英霊だとは思わなかった。見るからに怯えを抱いていた三流魔術師と、逃亡の隙を窺うだけの魔女。
 ランサーの側も様子見だったとはいえ、いつ倒せてもおかしくはない程度……聖杯戦争最弱の名に偽りのない弱さだったと回想する。

 だからこそ、先日の奇襲は確かに異常だった。サーヴァント最速の脚力を持つランサーでなければ巻き添えを喰いかねなかった天空よりの一撃。

 あれ程の大魔術が使える高位魔術師であるのなら、ランサーとの戦闘の時ももっと効率的に戦えた筈。逃げに回れば他の追随を許さない魔女ならば、それこそエンカウントすら避けられてもおかしくはなかった筈だ。

 あの時と今現在の違い。それが今や冬木を俄かに賑やかせるガス漏れ事件が魔力蒐集行為であり、蓄積させた魔力を自由自在に操る事が可能となっているのなら、確かに、納得も行く話だ。

 魔術師の力の源たる魔力。それが湯水の如くあるのなら、そして膨大な魔力を扱えるだけの叡智と技量があるのなら、最弱の名を覆すに足る脅威になる。
 真っ向勝負を苦手とするが故の搦め手。手段を選ばない戦闘ならば、キャスターも他のサーヴァントと充分に肩を並べられる。

「ま、んな事オレには関係ないか」

 見上げるのは長い石段。周囲を覆い尽くす木々はざわめき、気分を害する魔風が吹く。高く天に灯る光は紫紺の魔力。魔力自身に意思があるかのように胎動し、怨霊の如き呪詛が聞こえそうだ。

 ……確かにこりゃ以前のキャスターじゃねぇな。

 水面下で行われていた魔女による大規模な魔力蒐集。昨日の奇襲も準備が万端整ったからこその行動だろう。これより踏み込む地は魔術師の工房。魔術師の全てがあり、そして侵入者を許さない魔窟。

 遠く空に口を開く入り口目掛けて、ランサーは一気に加速する。石段を蹴り上げ、風よりも速く天へと駆け上がる。

 彼にとって、言峰綺礼の下す命令の内容や、他のマスター、サーヴァント連中の考えなど眼中にない。ただ黙々と仕事をこなすだけだ。
 ランサー自身には彼なりの考えや目的もあるのだろうが、それを口外するような男でもない。

 彼の胸にある想いがなんであるか、それを察せられる者はいない。誰一人。それを出来たかもしれない女は、既に、この戦地を去ったのだから……

「……おいおい」

 修復途中の山門を超え、石畳に埋め尽くされた境内へと躍り出る。視線の奥には巨大な伽藍が聳えており、その威容を変わらず誇っている。

 しかしランサーが踏み込むと同時に口端を歪に吊り上げた原因は、無論そんなものではない。灯る魔力の火の膨大さに驚いたわけでも、ない。

「こりゃ一体何の冗談だ……?」

 そこではたと、この一見意味のありそうで真意の知れない命令を下した男の顔がちらついた。
 ランサーが綺礼より与えられている大目的は、他のサーヴァント達の調査と絶対の生存のみ。元より生き延びる事に特化したランサーに後者は苦もないものだが、前者はそれなりの苦労と幾つかの前提がある。

 未交戦のサーヴァントのいる現状で、キャスターの再調査を命令した言峰綺礼の真意。あの男がどれだけの事を知り、何を目的としてランサーを強奪し、監督役という立場から俯瞰しているのかは知らない。

 だが、今この状況があの男の仕組んだものであるとするのなら、

「あのクソ神父……帰ったら覚えてやがれ」

 視線は固定。水平に伸ばした腕で虚空より赤い魔槍を掴み取った。

「よお。なんでアンタが此処にいる?」

 軽い声。けれど猛禽の瞳は鋭く伽藍の前に立つ人物を見据えている。構えはなく。そして返る声もまたなく。静かに、二つの視線は交錯する。

「なあ……バゼット・フラガ・マクレミッツ!」

「…………」

 鳶色の髪と瞳。耳に飾られた銀色のピアス。スーツに身を包む女性──ランサーの元マスターが、元サーヴァントの前に立ちはだかる。













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