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Scar Red
1/発端
2/決心
3/訣別
4/姉妹
5/渡英
6/条件
7/入学
color.1/発端
──────1X years before.
収束する魔力の渦。咲き乱れた多大な魔力はその使命を終え、世界へと返還される。粒子のように肌理細やかな光の粒となって、青い空に透けていく。
ここは深い森の中。乱立する木々を切り拓き、スプーンで抉り取ったかのような広場の中心に人の姿があった。
肩口まで伸びた絹のような滑らかさのある黒髪。シックな装いの衣服を身に纏う十代後半の女性。その出で立ちはまだ幼さを残しており、美少女と呼んで差し支えないほどの人形めいた美貌を持つ女の子。
名を蒼崎橙子。
魔導の名門にして異端。根源に到達した人物を祖にもつ名家であり、掘り当てた魔法を代々継承する一族の名を持つ者である。
「…………ふう」
消え去ったエーテルを見つめ、橙子は額に浮かんだ汗を拭う。彼女の目の前には大きな魔法陣が敷かれていた。師であり祖父である人物にこの魔術式の組み立てから起動を命じられて七日。ようやくカタチになったソレに彼女は満足そうな笑みを浮かべる。
蒼崎橙子は蒼崎の魔法を継承するべく祖父と共に山奥にある祖父の工房に住んでいた。
魔法を伝える一門であっても時の流れには逆らえないのか、橙子の両親の代でその身の魔術回路はゼロになった。けれどもその反動か、蒼崎の中にあって類稀なる精密さと圧倒的な美しさで形作られた魔術回路を持った者が生まれた。それが彼女、蒼崎橙子である。
それ故に幼い頃より厳しい鍛錬を積み、蒼崎の名を絶やさぬよう、魔法を失わせぬよう魔術の修練にだけ彼女は没頭してきた。
彼女には二つ下の妹がいる。奔放に生きる彼女を羨ましいと思ったことはあるが、これが自分の使命だと自分にしか出来ないことだと言い聞かせて……いや、その自負を持って祖父の期待に応えるべく泣き言一つ漏らさず生きてきた。
既に自分には当たり前の日常は有り得ない。それでもこの生活に不満はないし、体験したことのない日常など彼女にとっては非日常と大差ないものである。
「さてと。御爺さまに報告に行かないと」
準備に要した数々の道具をバックに詰め込み、祖父の待つ工房へと向かう。
蒼崎の中にあって特別とされる橙子でさえ祖父には畏敬の念を抱いている。アレは怪物だ。その存在自体が既に人の域にあるものではない。けれどもその祖父の言う事に今まで一度たりとも間違いはなかった。だからこれからも祖父の言うとおりにすれば、必ず魔法を習得できる。そう信じて苦難を乗り越えていく。
「御爺さま、ただいま戻りました」
工房の扉を開き、中で待っていた祖父に恭しく頭を下げる。顔を上げた時、祖父の顔にいつもと違う感情が垣間見えた気がするのは思い違いか。
「うむ。……七日か。疲れたであろう、汗を流して来るが良い。そのあと、お主に話しておくことがある」
「はい、分かりました」
再度礼をし、リビングとして作られた部屋を後にする。
脱衣所に行き汗を吸った衣服を脱ぎ去り温かいシャワーを浴びる。
……生き返るようだ。魔術にのみ生きてきた橙子といえどその中身は年頃の女の子。身だしなみには気を使いたい。祖父の申し出は素直に有り難かった。
肌を打つ雨粒のような温水に心地よさを感じながら思索を巡らせる。
祖父の用、話しておくこととはなんなのだろうか。いつもなら魔術式の出来を確かめるところなのに、今日はそれがなかった。
いや、いつもこの工房に戻る時は完璧なまでに完成されてからだったから、見るまでもないと思ったのだろうか。サボタージュするような性格ではない事は祖父が誰よりも知っているだろうし。
パシャパシャと音を立て、潤っていく体と心が充足感に包まれる。
いつもなら次の課題が出されるには数日の猶予があった。その時が妹の青子と話したり、少しこの工房を離れて有珠に会いに行く魔術師蒼崎橙子ではない、一人の人間として与えられた自由な時間だった。
だが今回はそれがない。こんなことは過去に例を見ない。ならば──
「ついに……魔法に────?」
言葉にして心臓がドクンと跳ねる音を身体全体で実感した。
十八年。生まれてこの方それだけを目標に生きてきた自分がとうとうその到達点に挑む日が来たのか。そう思うだけで心が震える。身体が震える。
怖いワケじゃない。嬉しくて。今までの自分が間違っていなかったとようやく証明できる日が来たのだと、喜びに打ち震えていた。
「……あ、そういえば青子の誕生日だ」
不意に脳裏を掠めたその事実。妹は数日前に十六の誕生日を迎えているはずだ。だが今回は間が悪かった。大魔術の習得と重なるなんて、どうしようもないけど。
「まあ……ちょっと遅れても、許してくれるわよね」
呟きは雨音にかき消される。
魔法への挑戦と青子の誕生日。二つの良い事が同時に起こるなんて、これほど嬉しいこともない。
キュっ、とシャワーを止めて脱衣所に戻る。まずは祖父の話を聞かないといけないから。
────だが祖父より告げられた言葉は、彼女の思惑と正反対のものだった。
□□□
「────蒼崎の後継者は青子とする」
リビングへと戻り告げられた言葉は、橙子には理解できない言語で発させられた。
「え、……御爺、さま? 今……なんて────?」
呆然としたまま橙子は目の前の祖父に問い返す。何かの間違いだと、聞き間違いだと思いたくて。でもそれは叶わぬ願い。
「聞こえなかったか。蒼崎の後継者は、魔法の継承者は青子だと言ったのだ」
────祖父は
「既にアレには生誕の日に告げている。有無は言わせぬ」
────いったい何を
「だがアレは魔術師としての教育をまるで受けていない。よって下働きとして久遠寺の家へ修行に出した」
────言っているのか
「聞いておるのか橙子。お主は既に用済みだということだ」
────理解できない。
「……何故、ですか」
搾り出した声はそんなどうしようもなく凡庸なものだった。生まれて初めての思考停止と言っていい程の衝撃を祖父の言葉は孕んでいた。そんな状態ではろくに思考も回ってくれない。だから、それでも確信だけを衝ける言葉を紡ぎ出せたのは僥倖だろう。
「是非もない。お主よりアレの方が優れていた。それだけの話じゃ」
「そんな────!? 御爺さまだって言ってたじゃないですか! 私の魔術回路は特別だって! 私は蒼崎の中でも優れた者だって!
私はそんな期待に応える為に頑張ってきたのに、なんで、なんでここまで来て青子が後継者だなんて言うんですか──!?」
悲鳴にも似た叫びは普段の橙子からは考えられない声色だった。怯え、震え、いつもの優雅さは微塵も存在しなかった。それでも、言葉を吐き出さなければならなかった。問い詰めなければならなかった。
そうしないと───蒼崎橙子が崩れてしまいそうだったから。
「判らぬか。お主は器ではなかったという事だ。確かにお主は天才だ。蒼崎の歴史の中でもこれだけの才を持つものは他にいまい。だがそれはあくまで魔術師としてのモノじゃ。
お主では魔法に手をかけられん。どれだけ学ぼうと、どれだけ知識を深めようと届かぬ。
その頂に到達しえるのはお主ではなく──青子だ」
ガラガラと。音を立てて何かが崩れる音がした。
私は魔法を習得する為にだけにこの十八年を生きてきた。辛くなかったわけではない。それでも、それが自分に与えられた使命だと、天命だと信じてそれだけの為に邁進してきた。
──それが、こんなところで潰えてしまった。
今までの人生を……いや、蒼崎橙子という存在自体を否定するには充分すぎる言葉だった。
だってそうだろう。それだけの為に生きてきたのに、おまえでは届かない、おまえには無理だと、誰よりも信用と尊敬の念を抱いてきた祖父に言われたのだ。
祖父の言葉に間違いはない。それは橙子が一番身を以って知っていること。なら、青子が魔法に到達出来るというのも嘘じゃないだろう。
────でも私は、どうすればいい?
存在理由を否定され、生まれた意味を否定され、後に残ったものはカタチにもならない知識と魔の業だけ。
世界に干渉する大魔術より、もっと細やかでカタチに残るモノを作りたかったのに我慢して。視力が落ちたのも隠し通して、頑張ってきたのに。
「橙子。お主はもうここに来る必要はない。あの不出来な親の元に戻るもよし、一人で生きるもよし。
お主は既に“蒼崎”に不要な存在ゆえにな。何処へなりと好きに行け」
────不要────
おまえはもういらない。
その言葉で、蒼崎橙子を構成する歯車が完全に外れる音を聞いた。
「そう……ですか」
糸の切れた人形のように橙子は膝をつく。生きる意味を失った橙子には、既に何かをする気力などなくなっていた。
「去ぬがいい、橙子。なに、心配はいらん。おまえはまだ死んでおらぬ。ただこれまで生きてきた世界とは違う世界で生きるだけだ。わしとて孫は可愛いからの。お主にも幸せになって欲しいのだ」
カカカ、と嗤う祖父の声だけが、厭に耳にこびりついた。
□□□
それからの事は橙子自身、あまりよく覚えていない。空ろな瞳と幽鬼のような足取りで祖父と共に自宅に戻ったような気がする。自宅といっても人生のほとんどを祖父の工房で過ごした橙子にとってみれば両親の顔さえ曖昧だ。
それでも迎え入れてくれた両親はひどく真摯に身を案じてくれたように思う。魔導の家系に生まれていながらその資格を持たない父と母。それ故に、その人となりも一般の親という存在と変わらない。
その場所は確かに、陽だまりのような暖かさのある場所だった。他愛もない話で笑いあったり、何でもない事に一喜一憂する、日常をただ延々と廻し続けるだけの日々。
青子はこんな世界でずっと生きてきたんだろうな、と与えられた部屋で橙子は一人ごちる。
でも今はその立場が逆だ。青子は橙子の代わりに魔術師としての生を歩み、橙子は青子の代わりに凡庸な生を歩む。
「私は……本当にそれでいいの?」
自らに問いかけても答えは出ない。祖父の言葉はあまりにも重かった。
おまえでは届かない。おまえでは辿り着けない。
ならばこの十八年は一体なんだったというのか。敷かれたレールの上を走るだけの人生だったが、それでもその道に誇りをもって生きてきた。今では既に遠い場所にあるレール。それが、まるで憧れのように感じられる。
悩んでも、答えは────ない。
color.2/決心
数日、両親の家で過ごした橙子であったが暫くして礼園女学院に通うことになった。
自分から事を起こそうとしない橙子自らの申し出に両親は喜んだが、橙子の思惑は両親の思い描くものとは異なるものだった。
確かに何かと気をかけてくれる両親の存在は有り難いものだったが、それ故に煩わしくもあった。
一人になれる時間と場所が欲しい。
そう思い立った橙子はいつか聞いた礼園へと通う事を決意した。
礼園女学院は世間より隔離された秩序によって構成されている。外壁は高く容易な侵入脱出は困難であり、正規の手続きを以ってしても相応の信頼や強いコネクションがなければ親兄弟であろうと訪問を認められない。更には電話でのやりとりすら監視され、教師であるシスター達の了承を得た場合のみ生徒たちは外部との連絡が可能となる。
一度中に入ったが最後、指定の時期以外は両親に会う為の外出すら不可能な、さながら監獄のような学び舎である。
しかしそんな過度で徹底した管理体制と校則は、世間の秩序ではないこの学院内だけで適応される秩序を生み、生徒達を良い意味でも悪い意味でも守っていた。
橙子が目をつけたのはまさにその管理体制。学校という今まで知らなかった表の常識の中に身を置きながら、今後の身の振り方を十分に考えられる場所。礼園女学院は橙子にとってこの上ない場所のように思えた。
□□□
それから約半年、橙子は礼園で過ごすこととなる。これまで狭く深かった人間関係は浅く広がり、見たこともない世界での生活は新鮮だった。
もとより深窓の令嬢、と言った言葉がよく似合う橙子の出で立ちは、礼園内でも一際目を惹くものだった。多くの生徒はクリスチャンであるこの場所では編入者はいい目で見られないのが常だったが、それ以上に橙子の在り方は規範にして完璧だった為か、それほど摩擦もなく淡々と日々は過ぎていった。
五ヶ月が過ぎた頃、橙子は一人、礼拝堂にいた。
基督教系の学園である礼園さながらの大きな礼拝堂。橙子自身はそれほど敬虔な信徒ではなかったが、この場所は好んでよく訪れていた。
まるで調度のように整えられた一つの空間。荘厳な造りはある種の圧迫感を生み、偶像として祀られた主に否が応でも神々しさを感じずにはいられない。
「………………」
橙子は無数に並べられた長椅子の一つに腰掛け、ステンドグラスから溢れる光を見つめていた。この広い場所には他に誰もいない。この頃橙子は一人になれる時間がなによりも好きだった。
それもひとえに橙子の容姿のせいであろう。ただ歩いているだけで黄色い歓声があがっては、橙子でなくともたまに一人になりたいと思うはずだ。
「蒼崎さん」
そこへ後ろよりかかる凛とした声。誰も来ないような時間を見計らって訪れたつもりだったが、なるほど、この相手では仕方ない。と居住まいを正し振り向く。
「はい。何か御用でしょうか、マザー・リーズバイフェ」
礼園に勤めるシスターの一人、リーズバイフェ。次期学長と目されるほどの傑物だ。
何かとお堅いシスターの中にあってこの人物だけは違った。目端が利き、どんな些細な悩みさえも親身になって聞いてくれる、まるで聖母のような在り方は生徒の間でも人気が高い。橙子自身も彼女に対してはそれなりに心を許していた。
「隣、いいかしら」
「ええ、どうぞ」
腰掛けたリーズバイフェと共に橙子は今一度ステンドグラスを見つめる。描かれた絵は鮮やかな色彩で飾られて、幾重にも折り重なった異なる光を映し出す。
「蒼崎さん、よくこの場所に来てるわね」
「……やっぱりバレてましたか」
「ええ。他のシスターは知らないだろうけど、私にだけはバッチリと」
クスクスと笑うシスターにつられて橙子も笑みを零す。本当に絵になる。このままあのステンドグラスに飾ってしまいたいほどだ。
「貴女がこの学園に編入して以来、ずっと訊きたかった事があるんだけれど。訊いてもいいかしら」
「はい」
「いったい何を悩んでいるの?」
「………………」
やはり見透かされている。
学園への編入より以前から抱え続けていた問い。何度自問しようとも決して答えなど出なかったモノ。あるいは答えなどないのかと思い始めていた事。
「貴女、誰から見ても優等生だから気づかないのかもね。皆の前じゃ特に優雅に振舞ってるし、悩みなんかとは無縁に見えるから。それに生徒はもちろん、シスター達からの信用も厚いのに誰かに自分から話しかける事って少ないようだしね。
でも一人じゃ解決できない悩みだってあるわ。だからいっそのこと、吐き出してみない?」
どうせほら、ここなら見てるのも聞いてるのも我らが主だけだから。とリーズバイフェは笑う。
シスターがそんなことを言っていいのだろうか、思った橙子であったがあまりに軽やかな口調で話すものだから、僅かに苦笑しただけで言葉は飲み込んだ。
「そうですね……マザーだけが気づいてくれたのならマザーにだけは話してみるのもいいかもしれません」
すぅと一つ深呼吸。
自分の弱さを露呈する事に抵抗がなくもなかったが、この相手なら、と橙子は意を決する。
「──私は、私が生きている意味が分かりません」
魔導に生きていた筈の自分がこんな場所で一体何をしているのか。新しい生として選んだこの場所も、目新たらしくはあったが退屈でつまらないものでしかなかった。
以前は“魔法”という大きな目標があったから、その為に邁進する事に理由は要らなかった。けれど今はどうだ。一体何の為に生きて、何を成す為に生きているのか。
きっとそれは誰もが抱く迷いのはずだ。けれども橙子はその迷いを許容できない。今歩いているこの道の先に本当に望むものがあるのか。
祖父の命の通りに生き、祖父の言いなりだった過去の自分。たとえそれが傀儡のモノであったとしても、最終地点への到達は既に橙子の望みとなっている。
与えられた生がそんな、受動的な意味を持っていたとしても。
今の自分は、確かな願いを望んでいる。
滾々と話す橙子の言葉にリーズバイフェは耳を傾け続ける。魔術に関する部分は省いての呟きだったが、
「ふぅん、蒼崎さんにもそんな人並みの悩みがあったのね」
「────え?」
「だってほら、蒼崎さんていつもきちんとしすぎてるじゃない。それこそ遠くから見てる分には人形みたいに見えちゃうし。でもこうやって話しているとちゃんとした人間なんだなぁって」
橙子は少しむっとする。
確かに大衆の前では規範たらんとしてはいるが、人形はないだろう。ちゃんと血は通っているし、感情だってある。たとえそれが誰かの手によってカタチ作られたものであったとしても、今の自分は間違いなく自分のものだ。
「でも……そんなに難しく考える必要はないんじゃないかな」
「え……?」
「生きている事に意味を見出したいって蒼崎さんの悩みも分かるわ。でもね、意味なんてものは後からついてくるものだと思うの。生涯を終えるとき、これまで歩いてきた道に意味があったかどうかはきっとその時に分かるんじゃないかな」
「………………」
「だからまずは踏み出してみたらどう? 迷うってことは行き先を決めかねてるって事でしょう? とりあえず進んでみて、間違ってるって思ったらまた違う道を行けばいい。じゃないと、一歩も進めないままでしょう?」
確かに、今の自分はあの時から止まったままだ。行き先も不確かで、一歩すら踏み出せずにいる。迷いとはすなわち、それが感情では正しいと思っているのに邪魔をするものがあるから。
たとえば常識。たとえば理性。たとえば不安。
その先へ進みたいという感情を邪魔するもの。
橙子にとってのはそれは────祖父の言葉に他ならない。
「くっ────!」
「蒼崎さん!?」
「……大丈夫です。ちょっと、眩暈がしただけですから」
胸を掻き抱くように項垂れた橙子はシスターを手で制し、深呼吸を繰り返す。落ち着きを取り戻した心で、胸に絡みつくトラウマを直視する。
“お主は器ではなかったということだ”
「……さい」
“お主では魔法に手をかけられん”
「……るさい」
そうだ。祖父の言葉を妄信してきた自分。けれどもそれは、確かなものか? 祖父が無理だと言ったら諦めるほど、その目標は軽いものだったのか?
違う。断じて違う。たとえその思いが借り物だったとしても。この意思だけは間違いなく蒼崎橙子のもの。やるまえから諦めて、怠惰なまま、空虚なまま意義のない生を過ごすくらいなら。やって諦める方がずっといい。
いや、私は自分の力を信じている。この十八年間は決して無駄じゃなかった証明を、生まれた意味を自分の力で掴み取る。その為には────
「マザー・リーズバイフェ。ありがとうございました」
「蒼崎さん……?」
立ち上がり、橙子はきちんと礼をする。
覚悟は出来た。この人の言葉が、死人同然だった私に息吹を与えてくれた。選んだ道を、望んだ道を私は私の意志で歩む。
この先の苦難も罪も罰でさえも、全て背負って歩いていこう。人は道を選ぶことが出来る。自らの意思で選んだ道なら、後悔の欠片もきっと──ないから。
「少しは、力になれたかしら?」
「はい、十分に」
柔らかい笑みを交し合う。
頭上より零れ落ちる淡い光がいっそう二人の笑顔を美しくさせる。
「じゃあ私はそろそろ戻るわ。業務も残っていることだし」
「はい。お時間をとらせてしまって申し訳ありません」
「いいえ。貴女の力になれたのなら幸いよ」
言ってリーズバイフェは立ち上がり、礼拝堂を後にする。
と、扉の前で彼女はこちらを振り向き、
「蒼崎さん」
「はい」
「────貴女の選んだ道に、我らの主の加護のあらんことを」
そう、祈るように胸の前で手を組んだ。
それに橙子はもう一度深く深く礼をする。橙子は一生、彼女のことを忘れないだろう。
腐りかけた心に光を与えてくれた────聖母の名を。
color.3/訣別
────三月の終わり、四季は巡る。
約半年間の日常での日々を終え、橙子は礼園女学院を卒業する。短い時間ではあったが、意義のある時間だった。
季節が長い冬を終え、やがて暖かな春を迎えるように。橙子の心もまた、雪解けのように凍った時計の針は動き出し、確かな時を刻んでいる。
この場所で出会えた母なる者に心からの感謝を。もし御身がこの身を必要とするのなら必ず、いかなる時でも貴女の力となりましょう。
惜しみない感謝と惜しむ別れを告げ、隔離された日常と訣別する。この先に続くのは己の信じた道、望んだ道だ。もう陽だまりには戻れない。歩み道は血に塗れ、無数の屍によってのみ築かれる。
それが何だと言うのだ。
魔導とはもとよりそういうもの。ならばその道を征くと決めた私は、血の河を渡り屍の丘を踏み越えよう。幾千幾万の瑕の上にのみ聳える摩天楼。その頂に待つものこそが、願ってやまないものであるから。
橙子が卒業証書を受け取ったその足で向かうのはいつかの自宅ではなく、山奥に立つ祖父の工房。
そこに待ち受けるは怪物。最初に乗り越えなければならない試練。心に咎を残したままでは前に踏み出せない。新しい自分と向き合う為に、今までの自分を清算する。
過去との訣別の為、
────この日、蒼崎橙子は祖父を殺す。
□□□
深い森を抜け、辿り着いたのは長い時を過ごした祖父の工房。半年前と何一つ変わらず佇む懐かしい我が家。
「………………」
それを視界に収めたまま大きく息を吸い、吐き出す。心は穏やかに呼吸は正しく。内界へと意識を向け、己が身に宿る魔力を認識する。
生まれ落ちた時より身体に深く刻まれた魔術回路。二十あまりのそれを見つめ、緩やかに魔力を通す。久々の魔術行使であるというのに、淀みの一つすらなく続いていく。
紡ぐ言葉は自分自身へと語りかけるもの。世界へ訴える大魔術には準備が要る。再会の挨拶にはこれくらいで丁度いい。
「────はぁ……!」
両手を前へ。突き出された掌より巻き起こる突風。魔術の初歩。ただ風を起こすという、しかし蒼崎の魔術特性に則る風の魔術。生み出された風は工房へと叩きつけられ、木造の建物を揺らし、窓を破砕する。
ギチギチと軋みを上げる柱の音と、砕け散ったガラスが地へと落ちる音。二つの旋律が奏でられ、橙子は宣戦布告とする。
「ほう……どこぞの鼠が入り込んだかと思えばお主か、橙子」
しかし声は背後よりかかった。瞬時の判断で木々の立ち並ぶ右方へと跳躍を果たす。そのまま身体を捻り、現れた人影を視界に収める。しわがれた顔と四肢。見知った風貌。間違いなく、橙子の祖父である。
「お久しぶりです、お爺さま。貴方を殺しに来ました」
「開口一番えらく物騒な事を口走りよる。して、それは真か」
「はい。これはけじめです。私ではなく青子を選んだ貴方への報復であり、私がその先へと進む為の通過儀礼」
吐き出す言葉はいつにも増して冷静だという自負がある。けれど面と向かい合うだけで背筋を冷やすこの重圧。……果たして、勝てるのか。
祖父はふむ……と唸り、顎を擦る。
「わしを殺す……か。フン、大きくでたな橙子よ」
こん、と手にした杖が大地を穿ち、巻き起こる風。祖父を守護するように発生した嵐じみた風を前に、橙子は僅かに息を呑む。
「ならば超えてみよ。届かぬと識ってなお挑もうとするその気概は嫌いではない。
しかし残念でならん。言わなかったか? わしとて孫は可愛い。故に別の道を用意してやったというのに。
それが、このように楯突かれては────」
風が勢いを増し、橙子の場所まで砂塵を運ぶ。気圧されそうな風圧と重圧。負けないと橙子は祖父を睨み付ける。
「────殺したくなってしまうではないか」
「くっ────!」
圧縮された風の塊が撃ち出される。それを魔力を篭めた目で目視した橙子は背後の森へと身体を投げ出す。平地での戦いはあまりにも分が悪い。相手は怪物。ならば少しでも自分に有利な場所に戦場を移す。
乱立する木々の隙間を抜けながら橙子は思考を巡らせる。背後から祖父が追ってくる様子はない。身体能力ではこちらが有利。魔術師の外見年齢ほど当てにならないものもないが、いくら誤魔化そうと肉体は朽ちていく。
おそらく百年以上生きている祖父の身体では、まだ年若い橙子の身体についていける術はない。
『戦いを挑みながら逃げ出すとはの』
「っ──!」
虚空より響く祖父の声。
何処だ? 足を止めぬまま探りを入れても居場所が掴めない。
『しかし、甘い。そのような能無しに育てた覚えはないが』
ざわめきの中を駆ける黒い尼僧服。その服よりもなお黒い髪を揺らしながら橙子は走り続ける。神経を尖らせ、反響する声の元を探る。それに加え突然の攻撃に対する備えも忘れない。
刹那、左方より奔る風の弾丸。それを橙子は同じように掌に収束させた魔力の障壁で防ぐ。
『全く、勿体のない才能よな。長く才を伸ばせばそれこそ随一の魔術師となろうに。その才を刈り取らねばならぬとは』
「うるさいっ。貴方が、貴方が私を捨てたくせに!」
『呪うなら己が出生を呪え。この家系でなければ主の才能は誉れ高いものとなっただろうに、よりにもよって蒼崎に生まれた事をな』
「ならば何故最初から青子を選ばなかった……!? 知らなければ、知らなければこんな思いはせずに済んだのに!」
何処にいるかすら分からない祖父に橙子は己が心情を吐露し続ける。鬱積された思いが堰を切り、絶え間なく流れていく。
『……今なお分からぬか。そうだな、それが故の主である』
ワケの分からないことを呟く祖父の言葉を振り払い、左右より迫る弾丸の悉くを迎撃する。一発受ける度に吹き飛ばされそうになる身体を堪え、橙子はただ走り続ける。
『────橙子。主は完璧に過ぎる』
「…………? 何を」
完璧で何が悪い。祖父の出す課題は須らくクリアしてきたし、人間としても正しくあろうと努力してきた。いい姉であろうと努め、いい娘であろうとし、良き後継者足らんとしてきた。いったいそれの何処が不服だというのか。
『何れ気づこう。尤も、この場を生き延びられたらの話だがな』
言葉の終わりと共に現れる無数の弾丸。それも前後左右より現れ、完全に包囲されている。まったくの同時に撃ち出された弾丸を認識し、橙子は急ブレーキをかけ斜め前に向かって大きく跳ぶ。
まだ眼前に残る風塊を両手で制し、残りの弾丸は各々がぶつかり弾け、木々にめり込み四散する。
『ほう。あれも躱すか。しかし────』
橙子が駆け出そうとした、その、瞬間、
「────この場所は、わしの工房だと知れ」
「────!?」
音も匂いも気配すらもなく、突如目の前に現れた祖父。
しまった、と思ったときには既に遅い。
「ぐっ──がはっ…………!」
一際大きな風を腹に撃ち込まれ、橙子の身体は吹き飛ばされた。
「ぁ……ぐっ……」
一体どれだけの距離を飛ばされたのか。身体は枝葉に擦れた痕と思しき切り傷が無数に刻まれている。
立ち上がろうとして、身体の動きが酷く鈍っている事に気がついた。祖父の風弾の直撃を被った腹部がズキズキと傷んでいる。これは……肋骨が折れているかもしれない。
それでも生きている視界で自分の置かれた境遇を理解しようとする。深かった森はそばにはなく、いつの間にか拓けた場所にいた。ここは────
「詰みじゃな、橙子」
ゆらりと現れる祖父。
そう、この山一帯が祖父にとっての工房であった。敵の魔術師の工房で事を起こしては不利。あの家に踏み込む事は拙いとは思っていたが、最初から、橙子は籠の中の鳥であったというわけだ。
「さて、どうする。まだ抵抗するか?」
「くっ……ぁ、……ぅ……ごふっ」
血の塊を吐き出す。予想以上に傷は深い。ひゅーひゅーと細い呼吸を繰り返し、それでも祖父を睨む視線には敵意を篭める。
今更引けるものか、たとえ殺されようと殺してやると。
「……そうか。下らん感情に絆されおって。お主は初めから間違っていた。わざわざこの場所を訪れずとも、好きに生きれば良かったものを」
「そんなこと……出来るものか」
歩み寄ってくる祖父を睨んだまま、橙子は精一杯の言葉を紡ぐ。
「貴様を殺して、私は私として生きるんだ。貴様に囚われたままで、歩める道では、ないのだから」
籠の鳥のままでは大空には飛び立てない。トラウマという名の檻を破壊して、初めて蒼崎橙子は空に飛び立つ資格を得る。
だからこれは必然なのだ。橙子ではなく青子を選んだ祖父の罪であり、それを許容できなかった橙子の罰。
「世俗に染まったか。誰に吹き込まれたかは知らんが、これまでよ」
天頂にある太陽より降り注ぐ陽光が祖父の影によって遮断される。突きつけられた杖ではなく、濁った瞳を見つめ続ける。
そうだ。選んだ道に後悔はない。たとえこの道が間違いであったとしても、それが己の意思で選んだ道であるのなら。その全てを受け入れて、胸を張って生きられる。
「────舞え、炎よ!」
「ぬ────!?」
ごう、と音を立て舞い上がる焔。円環状に沸き立った炎は橙子と祖父とを包んでいる。
橙子は吐き出した血に手を乗せて、更に呪を紡ぐ。
そう……この場所は半年前、橙子が最後の大魔術を施行した場所。幾度となく修練に励んだ場所。ここはその中心。祖父の工房にあってただ一箇所、橙子のテリトリーと呼べる世界。
足りない陣を血で補い、高速で呪を紡ぐ。自分に訴え、世界に干渉する。
橙子が祖父に叩き込まれた魔術が一。ならば、その焔に焼き尽くされる事こそ、祖父の末路にはふさわしい。
「お主……まさか────!」
祖父の目の色が変わる。なぜなら円陣の中央には祖父だけではなく橙子自身もいるのだ。この状態で魔術を使うということは即ち。
「────さようなら、お爺さま。一緒に死んでください」
その言葉と共に。
紅蓮の炎は二人の頭上より降り注いだ。
color.4/姉妹
静寂が支配する深緑の中、ただ一点、その場所にのみ異端が存在している。
更地の中央に猛る赤き炎。煌々と輝き、炎は渦となって円を描く。その中央、球形となった炎は組み込まれた魔術式に従い、中心点へと帰結する。術式の発動と共に炎は踊り、内在するモノを残さず塵へと還す大魔術。
捕らわれた者に逃げ場はない。ただ終焉の時を待つのみ……である筈が、
「ぐっ……ぬぅぅぅぅぅぅぅ!」
この時、未だ橙子と祖父は人の形を保ったまま存在していた。
頭上より降る焔を祖父は掲げた杖で受け止めている。否、杖本体ではなく媒介としたそれより発する風呪の魔術。橙子に放った弾丸より強力な、最大出力での抵抗である。
その祖父の様を橙子は身体を横たえたまま見つめていた。老いたとはいえ流石は祖父と言ったところだろうか。タイミングは完璧。術式に若干の不備はあるものの、並の魔術師では入念な準備でもなければ押し留めることさえ叶わない切り札を、祖父は僅か一工程の魔術で受け止めている。
怪物と称されるだけのことはある。魔法に至っただけのことはある。だがしかし。その抵抗でさえも読みの内。
勝敗は決した。
────お爺さま。この勝負、私の勝ちです。
腰元より引き抜くは儀式用の短剣。橙子は痛んだ身体を起こして、祖父の心臓目掛けて突きつける。その、後一押しで絶命に至らしめる銀の刃を見つめ、祖父は笑う。
「して、橙子よ。どこからが貴様の策か」
「……どこから? そんなもの、初めからに決まっています」
「だろうな。でなければお主は動かんだろう」
祖父は風呪を織り続けたまま喉を鳴らす。
そう、橙子は最初から必勝の策を用意してこの場所を訪れた。元より橙子にあるのは蓄えた知識と植え付けられた魔の業のみ。
しかしそれらを補助すべき道具がない。触媒によるバックアップのない橙子では大した魔術も使えない。ならば今在るものだけで勝てる策を橙子は組んだ。橙子にとっての最大の切り札とは、その頭脳に他ならない。
闇雲に走っていたわけではない。半年前、既に組まれていた魔法陣へと誘き出す。もし陣に欠落があれば己が血で補えばいい。血を吐き出すという行為ですら、橙子にとっての策の一つだったのだ。
「ならばこの状況、わしが焔を受け止めていることでさえ、お主の思惑の内か」
「はい」
「カカ! そうかそうか。やはりお主は類稀な才の持ち主よ。
しかし……わしも衰えたな。この程度の魔術、全盛期であれば瞬きの内に吹き飛ばせただろうに」
知っていた。祖父には既にそんな力などないことを、橙子は誰よりも知っていた。祖父を一番近くで見てきたのは自分なのだ。生まれてからずっと眺めてきたその背中を、測り間違える事など有り得ない。
だから祖父は早急に青子を後継者とした。手塩にかけて育て上げた橙子のように自らの力で育てるのではなく、久遠寺に修行に出したのもその為だ。ならば既に、魔の法でさえ青子に渡っているだろう。
魔術師とは受け継がれるもの。役目を終え、継承を果たし、後は己の死期を悟った動物のように緩やかな死を待つだけだった祖父に、以前の力など微塵もない。それでもこの劫火を遮断する力は、怪物と呼ぶに相応しい。
「そうさの。さて、橙子よ。その刃でわしを殺す前に、訊いておくことはあるか」
「…………」
訊きたい事は、それこそたくさんある。何故、と。湧き出る疑問は尽き止まない。それでも。
「────いいえ。私はここで貴方の命を奪う。それ以上、敗者より貰い受けるものなどありません」
もし勝者が敗者より何かを貰い受ける権利などというものがあるのなら、橙子はその中で最も大きなものを奪うのだ。ならばそれ以上のものを奪い、辱めることなど、どうして出来ようか。
それが、橙子が未だに畏敬の念を捨てきれない祖父に対する最大の礼である。
「そうか」
息を吐いて祖父は降り注ぐ炎を見る。風の障壁に遮られ、それでも己が使命を貫かんとする紅蓮を見つめ、
「では最後に、呪いを残そう」
そう呟いた。
□□□
炎が消え、目の前には青空が広がっている。仰向けに空を見つめたまま、橙子は遠く手を伸ばす。そのまま掌を開けば、からん、とナイフが地に落ちた。
手にはまだ、その感触が残っている。ずぷりと肉を切り裂く実感。人の機能を停止させた感覚。命の音が消えていく瞬間。
初めて、人というものを殺した。
「…………」
掲げた手は、確かな血に濡れている。その赤い紅い掌を、空の青さに透かすように手を伸ばして。ふわりと大地に下ろした手を見つめ、それがもう二度と消えないものなのだと思い知った。
頬を雫が伝う。感傷……感傷だ、こんなもの。でもこれがきっと最初で最後だ。この先に流すものは涙などではなく、この手を穢すものなのだから。だから今だけは、この想いに浸っていく。
────此処に、蒼崎橙子の訣別は成った。
□□□
主のいなくなった工房で傷の手当てを済ます。物の配置も、自分の為に用意されていた部屋も、何一つ変わることなく記憶の場所にあった。
コーヒーを淹れて一息つく。さて、これからどうしようか。
歩む先は決まっているが、手段をまだ決めていない。これまで習得した魔術は蒼崎の魔法を継承する為のものである。それではおそらく、至れない。
「……私のしたいこと。私がしたかったこと……」
これから先は蒼崎ではなく、橙子として魔導に生きる。ならば己に合った魔術を模索することから始めようか、と思索の渦に囚われていた時。
「────なに……!?」
一際大きな、さながら砲音のような轟きと共に、何かが工房を揺らした。
それはまさに橙子が祖父に行った宣戦布告と同じ行動。
敵。
そう認識した橙子は身を潜めて破壊された窓より音源の方角を盗み見た。
「え……?」
窓の外の人物を見て、疑問の声を漏らす。確信を得ないまま、橙子は扉より外に飛び出した。
「はぁい、姉貴」
軽やかな挨拶と朗らかな笑顔を振り撒く茶髪の女性。
「こんにちわ。久しぶりね、橙子」
そしてもう一人。先の少女と同じくらいの年齢ではあるが、年に似合わない落ち着きを漂わせる女性。
どちらも橙子が深く見知った相手だった。
「青子に……有珠? 貴女達……なんで?」
姉と呼んだ快活な女性が橙子の実の妹、事の発端たる蒼崎青子。澄ました雰囲気の女性は橙子の十年来の友人である久遠寺有珠。
そんな二人の突然の訪問に橙子は疑問を口にすることしか出来なかった。
「何でも何もないわよ。姉貴、あのジジィ殺したでしょ?」
「────!?」
「あー、やっぱりね。で、私がこの場所の管理者だってのも知ってるわよね?」
それは知っている。祖父が青子を後継者としたのなら、蒼崎の霊地であるこの町の管轄を任されるのもまた青子であるのは自明の理であるのだから。
いや、今はそんなことなど心底どうでもいい。重要なものは唯一つ。
この二人は“一体何を目的としてこの場所に訪れたのか”……その一点。
「その様子じゃ、世間話をしに来た……わけじゃなさそうね」
態度こそ橙子の良く知る二人に違いないが、話の内容から察するにどうもそうではないらしい。
「もっちろん。今日は蒼崎の管理者として姉貴に会いに来ましたー」
「……そう。青子、貴女あっさりと受け入れているのね」
橙子とは違い、十六年間魔導に関わりなく生きてきた青子が、いとも簡単にその人生を受け入れている。橙子のように前の道に未練など感じていないように。それが少し……恨めしい。
「じゃあ面倒な世間話はこれくらいにして。行くわよ、アリス」
「……貴女達の姉妹喧嘩に関与したくはないのだけれど。まあ、今回だけよ」
翳された二人の手に光が集う。紡がれる呪。攻性魔術ではない……これは、呪い!?
「貴女達、何を……!」
「────蒼崎の管理者として告げる。
汝、蒼崎橙子。我が霊地での騒動の罪を此処に処す。刑罰は即時退去、我らの許可なくして、二度とこの地へと踏み入る事を禁ず──!」
完成された呪怨の詩。黒い、呪詛の如き弾丸を拳に纏わせ、橙子目掛けて全速で駆け出す青子。予期せぬ行動に一瞬視界が白くなり、
「……あ、ぐっ!?」
咄嗟に回避しようとした身体は祖父とのやり取りで疲弊消耗した体が拒絶を示し、障壁を張る時間とてなかった。
青子の拳が橙子を捉える。その瞬間、漆黒の呪いが弾けた。体内へと入り込んだ凶つ呪印は橙子の神経、命令系統へと強制的に干渉する。青子は言った。即時退去。この霊地へと踏み入る事を許さないと。それはとどのつまり、己の意思に反し、込められた命令を完遂させる呪い。
「青子……キサマァ!」
「あれ、まだ逆らえるんだ? 流石は姉貴ってところか。私一人じゃ無理だったかも。やっぱりアリスに頼んで正解だったわ」
「……私の意思なんてまるで無視していたくせに。早く帰りたいわ」
「有珠……貴女まで……ッ!」
「ごめんなさい橙子。私はこんなことしたくなかったのだけれど。苦情は青子にお願いね」
勝手に歩き出そうとする足を抑え付けて橙子は二人を睥睨する。確かに、少なからず非はこちらにもある。たとえ姉妹であろうとも、管理者の土地で勝手な行いを成した魔術師は罰則の対象と成り得る。
いや、橙子が気に入らないのはそこではない。たとえ有珠のサポートがあろうとも、こうして青子に遅れを取った事だ。青子に劣る自分。それは、絶対に認めてはいけない橙子の矜持。
「これでも温情を図ったのよ? あの偏屈なジジイがいなくなったのは清々したし」
「は……ぁ、く……!」
単一な命令であればあるほど効果は増大する。出て行け、というだけの命令はこの上もなく上等だ。
呪いの解呪には術者を倒すか、解呪の条件を満たさなければならない。しかし、青子がこの霊地に居続けるのであれば、入る事の出来ない橙子に成す術がなくなる。
解呪するのであれば今しかない。命令に逆らい、目の前に術者がいる今を置いて機会はない……のだが。この呪い、思いの外強力だ。レジスト……しきれない!
「ぐぅ……!」
ずるずると。勝手に足が歩んでいく。青子も有珠も橙子のその様を眺めているだけで、干渉して来ない。二人の横を通り過ぎ、山を降りようと橙子の足は進む。
ただ自由な首を回して、こちらを見つめる二人を……いや、青子を呪い殺さんとばかりに射抜く。
「青子……この屈辱、忘れないぞ。必ず、報いを受けさせてやる……!」
「うわ、なんで私だけ? アリスも共犯なのに。つーか、姉貴性格変わってない?」
「貴女が主犯で私は援護しただけだもの。それもしたくもないのに無理矢理に。頑張って橙子、貴女ならなんとか出来ると思うわ」
「すっごい他人事。ま、いっか。これで目的は達したし。じゃあねー、姉貴ー。ばいばーい」
手を振る二人を網膜に焼き付け、橙子は三咲町を無理矢理に後にさせられた。
color.5/渡英
「くそっ、青子のヤツ!」
らしくない悪態をついて、橙子は肩で息をする。ようやく足が歩みを止めたのは隣町に入ってすぐの事だった。
幸いにもこの場所に至るまでの人通りは少なく、呪いに抗う様を他人に見られなかったのは僥倖と呼んでいいのだろう。
呼吸が落ち着いたところで橙子は町と町との境界線に立った。三咲町へと一歩踏み出してみる。すると身体が拒絶し、あらぬ方向へと関節を曲げ、気が付けば三咲町を背にしている形だった。
「……やっぱり。この呪いは強力だ」
どうにかして解呪しない限り、橙子は二度と故郷の地を踏めそうに無かった。
それでも橙子の怒りは収まらない。あの青子にしてやられたという事実がなんとも気に食わなかった。魔術を習い始めてまだ一年足らずの妹に、十八年の歳月をかけたこの身が劣ったという事実。
祖父との戦闘による負傷は余りに大きく、そして有珠の支援があったお陰もあるだろう。もし万全の状態だったのなら、この結果は有り得なかった。
それでも、許せない。何より自分自身が。今までの研鑽をしてやられた事に。
「よしっ!」
ぱぁんと自らの頬を叩いて気合を入れる。終わってしまった事はしょうがない。青子にはいずれ借りを返すとして、今考えるべき事は自身の今後の身の振り方だ。
慣れ親しんだ故郷を追われ、今手にあるものはこの礼園の制服と幾許かの預金だけ。これからは一人で生きていかなければならず、橙子が自分だけの魔導を往こうというのなら、充分な資金と工房が必要になる。
もちろん今の橙子にそれだけの財産は無い。当初の予定では祖父の工房に身を置いて、それから個人的な伝を頼りに資産の確保と研究に打ち込もうと思っていたのだが、もう無理だ。
歩きながら思案する橙子は目に留まった小さな公園へと入っていき、こじんまりとしたベンチに腰を下ろした。意思とは関係なく進む足に逆らっていたせいか、普通に歩くよりも明らかに疲労している。
そのまま呆と空を見上げ、流れていく雲を見つめていた。
先立つものはなく、腹の傷も癒えていない。さてどうしたものかと考えている内に、結論なんて一つしかない事に気が付いた。
自分だけの工房が持て、かつ充分な研究資料と資金を与えてくれる場所。そんな都合のいい場所が、この世界には幾つもあった。
無論、橙子が選ぶのはその中でも最高学府に位置する場所だ。が、それだけに敷居は高い。後ろ盾を失った小娘が、いかに高い才覚を持ちえたところで学徒として入学する事は困難を極める。
それでも橙子には当てがあった。かつての修行時代、知り合った名門魔術師は数知れない。彼らのうちの誰かが橙子に推薦状を書いてくれれば、試験をフリーパスで通過し更には特待生として招かれる可能性だってある。
先行きの明るくなった未来予想図を脳内でちゃくちゃくと完成させ、もう一度気合を入れ直して橙子は足早に行動を開始した。
□□□
傷の手当の為に日本のホテルに滞在すること五日。その間に主だった知り合い達にエアメールにて挨拶と嘆願の旨をしたためて発送しておく。流石にいきなりの訪問は憚られるからだ。
更にこれから必要になるであろう物資の買出し、航空チケットの手配に更に数日。向こうでの滞在費などを考慮すれば、決して多くはなかった貯蓄は目減りしていき、後戻りを許さない状況になってくる。
けれど構わなかった。元より戻る道などない。これより先は、ただ前を向いて進むだけなのだから。
最終的に手元に残った資金は日本へと帰国するだけの数万円。計ったかのように残されたその金額に、厭な想像をしてしまう。渡英に失敗し、すごすごと日本へと逃げ帰る自分の姿。
頭を振って想像を拭い去る。引き返す道などない。もしもう一度この地を踏むとするならば、その時は凱旋だ。求め欲した全てを手に入れ、あの妹に、あの祖父に見せ付けてやるのだ。
おまえ達は間違っていた。私は正しかったのだと。
そんな、かつてなら考えもしなかった俗世間に流布されるような小さな矜持が芽生えていた事に橙子自身が驚いた。箱入り娘だった自分が、こうまで変わったのは良くも悪くもこの一年間の出来事のせいだろう。
変化とは成長だ。ならばこれからも、変わって行けるだろう。
これより始まる新生活に想いを馳せ、橙子は故郷の地を離れ、海を渡った。
□□□
────夢見た新生活は、およそ橙子の期待したものと掛け離れていた。
「主人はあいにく外出しております。お引取り下さい」
「そんな……! 私の名は蒼崎橙子。先日面会の手紙を出しました。届いていませんか?」
「存じ上げておりません。また、主人からそのような言伝も承っておりません。どうかお引取りを」
慎ましやかな礼とは裏腹の、頑なな拒絶の意思を伴って音もなく門扉は閉ざされた。
ロンドンに渡って早三日。日本からエアメールを送った魔術師達の住居へと顔を出したのは、既に十件にも及んでいた。が、色よい返事どころか面会すら許可して貰えた試しがなかった。
閉ざされ、決して開く事のない門扉を睨むのにも飽き、橙子はその場を去った。
「帰ったかね」
「はい。お申し付けの通りに」
二階の窓に掛けられたカーテンを僅かに揺らし、こちらに背を向けて去ってゆく未だ幼さを残した少女の姿を盗み見る。
やがてその姿も見えなくなると、やれやれと言った具合に彼は書斎の椅子に腰を落とした。
かなりの規模の敷地を持つ彼の魔術師は、時計塔においてもそれなりに名を馳せている名門の魔術師だった。彼自身の才覚は平凡よりやや上、程度のものであったが、脈々と伝えられた血の滾りを協会は高く評価し優遇していた。
「やれやれ、困ったものだね。身の程を知らぬ小娘というものは」
彼の手の中で遊んでいる一通の手紙は、数週間前に橙子がしたためたものであった。
「協会で異端とされるアオザキの者に推薦状を出すなどと……そんな酔狂な事をする輩が居る筈もあるまい」
僅か三代で魔法を掘り当てた異端なる家系。それが類稀なる才ゆえか、あるいは神の気紛れかは計り知れないところではあるが、何より血統を重視する時計塔において、その血の浅さは異端だった。
けれども魔術師ならば誰もが悲願とする魔法を体現している以上、無碍に扱うわけにもいかず、名門の末席に加えられる事となった蒼崎という家系。これを快く思っていない輩は少なくない。
何故なら蒼崎の可能性を肯定するということは、他の魔術師らが築き上げてきた全てのものを否定することに他ならない。
知識を重ね、研鑽を積み、血を流し、それでも辿り着けぬ理想郷を次代へと託し続けてきた彼らにとって、易々と地位と名誉、更に彼らが喉から手が出るほどに欲したものを手に入れてしまった彼の家系は憎しみにすら値する。
いや、それでも魔法を体現する者ならば相応の敬意を払おう。血はともかくとしても、決して届かなかった場所へと至った者ならば畏敬の念さえ覚えよう。
だが。
その“落第者”に払うべき敬意など、彼らは持ち合わせていなかった。
「アオザキの正統後継者……魔法を受け継いだ者は姉のトウコではなく妹のアオコだと聞く。
推薦状……? 馬鹿げている。よりにも拠って血を同じくする者に後継を奪われた者に、書いてやるべきものなどない。
むしろ返して欲しいものだね。我らが十年前に払った、君に対する敬意を」
彼の手の中にあった手紙は破り捨てられ、中空を舞い、生み出された炎によって跡形もなく消し去られた。
□□□
その日のうちに、事前にエアメールを出した魔術師達への訪問を終えた。結果は惨敗だった。
僅かな対応の差こそあれ、誰しもが橙子の要請を受け入れてくれることはなかった。
日も暮れ始め、茜色の空が窺える。血のように濃くなっていく空を、橙子は公園のベンチでぼんやりとした瞳で見つめていた。
門前払いの原因の推察は既に済んでいた。彼らの見ているもの……見ていたものは“蒼崎の後継者”であり、この“蒼崎橙子”ではない。
既に橙子ではなく青子が後継者なのだと伝わっているのだろう。かつては恭しく礼をとった彼らが、手の平を返したように冷たくあしらうのは、当然と言えば当然だった。
魔法を受け継ぐが故の礼。確かに橙子自身の才覚は優れていても、魔法のそれと比較しては形無しだ。至上にあったはずの宝石が、気が付けば手の届く場所まで落ちてきたのだ。それに異端とされる蒼崎ならば尚更の事だろう。
行く先の当てを失くした橙子は小さく溜め息をついて、ベンチの上で身を丸めた。
結局、これまでの実績は祖父の、ひいては蒼崎の名前の七光りに過ぎなかった。橙子自身では決して何も評価されない。やれば出来るという自信はある。任せてもらえば要求以上の成果を出す自信がある。けれど、その機会さえ与えられないのでは意味がなかった。
この場所にいるのはあくまでまだ二十歳になったばかりの小娘だ。何のコネクションもなく、後継を外されたという事実があっては誰も取り合ってはくれない。
ポケットの中には僅かな路銀。日本へと帰るには足る、片道分のチケット代。敗走が現実味を帯び、抱えた膝をなお強く抱え直した。
彼女がこれまで味わった挫折は唯一度。祖父より言い渡されたあの言葉だけだ。しかし、それに比べれば今の状況なんて屁でもない。
橙子にはまだ足がある。前に進む足がある。たとえ門前払いを食らおうと、何でも食い下がろう。もう負けない。挫折は一度で充分だ。ガラスの心なんて持ち合わせていない。砕け散るには、余りに橙子の心は頑強になっていた。
それが今の彼女の強さ。最大の挫折を乗り越えた、蒼崎橙子の強さだった。
「トウコ? 君、アオザキトウコかい?」
そんな折、公園の入り口付近から彼女の名を呼ぶ声を聴いた。
振り向けば、一人の男が立っていた。夕闇に照らされる中、怪訝そうな顔でこちらを窺う優男。てくてくと歩み寄って来る男は確認するように言った。
「トウコ……だろ?」
「……ええ。私は蒼崎橙子だけど」
「やっぱり! いやぁ、前に会ったのは結構前だからね。こんな美人になっているから、一目して判らなかったよ!」
ぱぁっと明るくなる男の表情。嬉しさの余りか、飛び跳ねてまでいる。
そんな男を尻目に、値踏みするように橙子はじろじろと男を疑った。歓喜も一区切りしたのか、男は柳眉を寄せている橙子の表情に気付いて問いかけた。
「ん? どうかしたのかい?」
目と目がかち合う。橙子は見上げた姿勢のまま言った。
「……貴方、誰?」
color.6/条件
「それにしてもちょっとショックだったよ。全く、僕のことを覚えていなかったなんて」
「それは……ごめんなさい。どうも私は覚えるのは得意なんだけど、思い出すのは苦手らしくて」
「ああ、いや。責めているわけじゃないんだ。僕も君が君であると確信して話しかけたわけじゃないからね」
どうぞ、と差し出された紅茶にありがとうと礼を返しながら、つい先程の公園での出会いを振り返る。
彼の名はアンセルム・ヴォーレン。かつて幼少の頃、橙子と共に修行に励んだ仲……らしいのだが、当の橙子は彼の事を全く覚えていなかった。
神童と謳われた橙子にも苦手分野はあり、また十年近くも前に、それも数日から数週間同じ時間を共にしていただけでは覚えていないのも無理はない。
相手がこちらを覚えていてくれただけに、ばつが悪いのもまた今の彼女の心情ではあるのだが。
だがそれもこの屋敷……アンセルムの住まう家に招かれて、幾らかの会話を交わすうちに鮮明になりつつある。頭の中の引き出しから、ようやく彼と合致する人物像を見つけ出したのは、ほんの数分前の事だった。
「そう、アンセルム。覚えているわ。確か以前はロードの方と一緒に私のところへ来ていたわよね」
「ああ、そうだ。彼は今でも僕の恩師さ。いや、それにしても君と出会ったあの瞬間の感動を超えるものはこれまでの人生の中でも他にないね。
高貴でありながら力強く、可憐でありながら美しい。この世の果てに産み落とされた奇跡の花。神の創りたもうた芸術品のようだった」
「相変わらず口が良く回るのね」
「何を言う。全て僕の本心さ。受け取ってくれるかい?」
掲げられた彼の掌の中から生まれる一輪の薔薇。魔術ではなく手品の類を思わせる仕草ながら、恭しく差し出されたそれを橙子は受け取り、くすりと微笑む。
「ありがとう。けどこれは、棘があると言いたいのかしら?」
「はは、これはまいったね」
アンセルム・ヴォーレンという男は実に魔術師らしくない立ち振る舞いをする男だった。軽薄な印象を受ける言動はきっとイタリア人の血が濃いのだろうと橙子は偏見まみれの目で見ていた。
それとは別に、橙子の知る彼の性能は良くも悪くも平均的、何でも卒なくこなせるが、故に秀でているものがなかった……というのがかつての印象だ。
ただ彼の家系もその血は古く、詳しくは知らないが時計塔の貴族階級と独自のコネクションを持つまでの長い歴史と研鑽を積んでいるのは確かだった。
それだけの縁と血統を持つ者に、橙子が時計塔との橋渡しを事前に頼もうとしなかったのは……前述の通りに彼の存在自体が記憶の彼方だったからだ。
「ところで、貴方は今時計塔に?」
「ああ。最近あそこも色々と慌しいよ。なんでも極東で行われる儀礼にアーチボルト家の神童が出るとかで。そういえば、トウコの邸宅もニホンじゃなかったかな」
「ええ、そうよ。その儀礼も……話だけは聞いたことがあるけど。まあ、今の私には関係のない事ね。で、貴方は何を専攻しているの?」
「いや、専攻は特にない。手広くやってる。ただ最近興味を持ち始めたのは、攻勢魔術系のものだね」
「へえ。なに、前線での活躍が好みなの? 悪霊退治とか、死徒殲滅とか」
「いや、興味はない。悪霊はそれ系を専門とするヤツらがいるし、死徒に至っては当代のバルトメロイ卿がご活躍中さ。ま、最近それも行き過ぎて、結構な重症を負わされたという噂だけど」
「じゃあ、何故貴方はそんな魔術に?」
「これさ」
アンセルムが袖を捲くり、右腕を露にする。何事かを呟くと、淡い燐光と共に浮かび上がる幾何学模様。
魔術刻印。肉体に刻まれる魔導書にして、持ち得る人物の家系の者が代々積み上げてきた魔術的財産。相続から外された……橙子には持ち得ない貴重な遺産だった。
「あいにく、僕の先祖達が築き上げてきたこの刻印の中には、主だった攻撃手段が存在しない。鉱石学、呪学、降霊学。その他多岐に渡る知識はあるけれど、それだけが存在していなかった。
だから僕が刻むのさ。この刻印に、新たなる一ページを」
通常、魔術師の家系は血が濃くなる程にある一分野に特化していく。浅く広く了見を広げたところで、根源へと至る事が出来ないからだ。ただ一つのものを極め、かつて存在した筈の原初へと到達する。そうする事こそ、悲願へと至る最短経路だというのが通説だった。
「この選択が間違いなんだって事は判ってるつもりさ。だけど、これでいいと思ってる。トウコ、君から見た過去の僕の力量どうだった?」
「……はっきり言ってしまえば、際立ったものは見られなかったわ。あくまで貴方が私に披露した分野での判断だけど」
「いや、君の目は正しい。どの分野でもそれなりの結果は残せるけど、絶対の頂点に至る事がない。そんな僕ではきっと、我らが目指すものへは至れない」
少し、憂いを秘めた瞳で彼は続けた。
「だから僕は礎になろうと思っている。過去、血を繋いできた者達がそうしたように。いつか、類稀なる才を持つ何者かが生まれるその時に、僕の生きた証が確かな意味を持てばいいと」
橙子は静かに彼の決意を聞き届けた。
やはりこの男は、変わり者だ。数年ぶりにあった橙子に対し、これ程までにペラペラと内情を暴露するのもさることながら、その考えすらも在るべき魔術師としての形から逸脱している。
誰も彼もが根源を目指し、道半ばで倒れてゆく中で、この男は初めから諦観の念を抱いている。それが正しいとは思わないが。間違っているとも言えなかった。
「そう、それが貴方の考えならば、私は応援するわ」
だから肯定でも否定でもなく、後押しする事を選んだ。
「ありがとう。君にそう言って貰えるのは心強いよ」
「ただそんなに簡単に打ち明けていいものじゃないとは思うわ。魔術師は秘匿が大原則でしょう」
「なに、誰にでもこうして話すわけじゃない。君だから、さ」
最後の最後まで気障ったらしく、アンセルムは自身の話を終えた。
□□□
「そういえば」
冷め始めていた紅茶を淹れ直したところで、アンセルムが思い出したかのように呟いた。
「なに?」
「君、目を悪くしたのかい?」
言ってアンセルムは橙子の顔を見た。今彼女は眼鏡を掛けていた。日本のホテルに滞在していた頃、時間を見て作成したものだった。
「ええ、少し。特別悪いわけじゃないから心配しないで」
「そう、良かった。ただ眼鏡を掛けた君もチャーミングだ」
元より生まれついての魔眼保持者であった橙子だが、長い修練の中で段々と視力を落としてしまっていた。今もある程度の能力を保持している為、その抑制の為の出来合いの魔眼殺しであり、また或る別の要因も関与して橙子は眼鏡をかけるようになっていた。
それきり僅かの沈黙が流れた。橙子は赤い色をした液体で喉を潤しつつ、視線を窓の外へと投げかけた。
イギリスはロンドンの郊外に建てられた、ヴォーレン家が代々暮らしてきた古い洋館。権力を誇示するように広大な敷地を有しながら、手入れが行き届いているのは使用人の為せる業であろう。
潤沢な資金と理想的な研究環境。時計塔もさほど遠くないこの場所は、立地条件としては最上級だ。
ただ、こうして時計塔の近辺に邸宅を構える魔術師はそう多くない。名門と呼ばれる者達は古くから継承する独自の土地を持つ。橙子にしても蒼崎の霊地を有し、日本に住んでいたのだから。
時計塔へと編入する多くの者は寮へと入る。それなりの大きさの個室が、彼らに与えられた工房となるのだ。もっとも、結果を出せば学院内に専用の工房を持つ事が可能となり、外では決して行えない研究環境を手に入れることが出来る。
たとえば塔外持ち出し禁止の書物を工房へと持ち込めたり。独力では手に入りにくい機材などを借り付けられたり。その余りに優遇されすぎる環境であるが故に、一度入学した者の多くは野に下る決意を渋る事となるのだ。
橙子の当面の目的は二つ。最優先が時計塔への入学であり、次に求めるものは学院内での自分だけの工房を手に入れる事だった。
そんな思索に耽る橙子を知ってか知らずか、アンセルムはさて、と前置きをして口を開いた。
「トウコ。君がこのロンドンを訪れた理由はなんだい? まさかただの観光、というわけじゃないだろう」
橙子にとっての勝負はまさにこれからだった。多くの名門魔術師達に門前払いされた橙子にとって、この偶然とも呼べる再会は蜘蛛の糸に等しい。
たぐい間違えばそれで終わり。全ての伝を失い、それこそ門前払い確実な時計塔正門へと乗り込むくらいしかもう手段は残されていなかった。
ただ、これでいいとも思う。順風満帆な人生はもう望むべくもない。苦難こそが成長への足掛かりであり、一人で生き抜くと決めた橙子にとっての初めての試練であるのだから。
橙子は自身の置かれた境遇を端的にアンセルムに話した。
「……そう。そんな事が……それは、大変だったね」
微笑んでいるように見えるアンセルムの表情の奥に、乾いたものがあるのを橙子は目聡く認めた。それはこれまで橙子の要請を断ってきた貴族連中が同様に持っていた、憐憫にもならない無なる感情。
「だが、僕では力になれそうにないな」
結果は予想の通りだった。アンセルムは貴族との伝を持っていても、彼の家系は貴族ではない。確固たる地位と名誉、実力を兼ね備えた一派こそが時計塔の上層部を占めるロード達であり、アンセルムの血統は決して悪いものではなかったが、その高みには届いていなかった。
そして、それ以上に痛感する。魔法使い候補でなくなった者を見る、その目を。
ただ優秀な魔術師であるのならばそれでいい。貴族達も優秀な弟子を向かえる事自体が師の評価を向上させるし、その弟子が良い結果を残せば更なる上乗せも期待できる。
しかし今の橙子は“落ちた者”だ。魔法使いから直々に、おまえでは至れないのだ、と烙印を押されているようなものなのだから。
いかに彼女が優秀であっても、その烙印は決して消し去ることが出来ない。あるいはそんな彼女を弟子に取るという事は、己の評判を下げる結果に直結しかねないのだから。
アンセルムの言葉が橙子に暗い影を落とす。負の刻印がある限り、抜け出せない泥沼なのかと思わずにはいられなかった。
しかし。
「……いや、トウコ。一度僕の師に相談してみよう」
天啓に等しい言葉だった。
「本当に?」
喜びを隠し切れない様子で橙子が身を乗り出した。アンセルムは腕と脚を組んだ姿勢のまま頷いて見せた。
「ああ。恐らく、いくら僕が君を推薦したところで師は聞いてはくれないだろう。君がその身に受けている烙印は、想像以上に重く大きい」
「…………」
「ただそれは、師が他の貴族連中と変わらない環境下にあるのなら。という前提でだけど」
「どういうこと?」
橙子は思わず首を捻った。
「残念な事に、今僕の師は時計塔内で立場を悪くしていてね。いつその座を追われるとも判らない状況だ。彼が何をやったのかは知らないし、それでも僕は師を信じている。
彼が、引いては彼の一族がこのまま没落していく様は見るに忍びない。彼の没落は、引いては僕自身へも影響を及ぼしかねないのだから。
本来喜ぶべきではない状況だけれど────君にとっては例外だ」
橙子は頭の中で整理する。
彼……アンセルムの師に当たる人物が現在、何らかの事情で没落の危機に陥っているらしい。権力闘争の場と化している上層部の内情を知りえる機会はないが、それが彼にとって好ましくない状況ではないのだと理解できた。
師の没落は弟子達にも悪影響を及ぼしかねない。そしてそれ以上に、アンセルムは師と呼ぶ人物を慕っており、彼の境遇を良く思っていないのだ。
橙子はアンセルムが続けるのを待った。
「一度揺らいだ足場はそう簡単には戻らない。ヘドロと化した上の考えなんて知りたくもないが、あらゆる手段で師の持つ全てを奪い去ろうとするだろう。
そんなものは認めない。が、僕自身の力では、どうしようもない状況なんだ。財力で躱せる問題でなければ、信用だなんて曖昧なものにはなお頼れない。
僕が……ひいては僕の師が求めるもの。いや、周りが彼を再評価するものは──結果でしかない」
確たる結果。紛う事なき証明。それこそが身の潔白とその人物への評価を決定付ける。誰もが覆しようのない結果を周りに提示すれば、納得せざるを得なくなる。そしてその状況を作り出すのは……
「その為に、私にどうして欲しいと?」
「流石に話が早いね。僕はね、君と出会ってからこれまで、君以上の才覚の持ち主を見た事がない。相続を外された理由も僕にはさっぱり判らないくらいだ。
だからこれは綱渡りさ。僕にとっても、師にとっても。そして、君にとってもね」
ああ、と絵心がいったように橙子は頷いた。つまり。
「私を推薦する代わりに、結果を出せ。という事ね」
「ああ。君を推すという事は、師は更に立場を悪くする可能性がある。が、君にはそれ以上の結果を出す能力があると僕は思っている。
君がとある分野で本来有り得ない程の成果を形にすれば、君自身の評価は無論のこと、推薦した師の判断も周りは認めざるを得なくなるだろう」
アンセルムの語る条件は決して生温いものではない。比類なき成果を世に残せるものなど数限られている。アンセルムの師の状況がどれ程のものかは判らないが、橙子を推すからには最大級の結果が求められるだろう。それこそ、称号を賜る程の成果を。
アンセルムは橙子に、そのレベルの結果を出して欲しいと言っているのだから。
「どうだい? 返事は余り遅くならなければじっくり考えてくれて構わない。ただ、これらはあくまでも僕自身の構想だ。師が全てを受け入れてくれるとは限らないし、更なる条件を衝きつけてくる可能性もあるだろう。
もしそうなった時、僕は君の味方にはついてやれない。緩やかに没落の道を行き、奇跡を待つか。それとも自らの手で希望を掴み取るのか。それは僕自身には判断のしようもないのだから」
そこまで話し終えて、さあ、どうする? と挑みかかるようにアンセルムは橙子を睥睨した。
思案するように俯いた橙子は、知らず拳に力を込めていた。後のない状況からの逆転劇。最後の最後で天から賜れた余りにも細い蜘蛛の糸。
月を見上げるように天井を仰ぐ。白く、細い糸が月の涙のように垂れている幻視をする。この糸を掴むか否か。
────心など既に、あの日、祖父を殺した時から決まっていた。
color.7/入学
結果として、橙子はアンセルムの師に時計塔への推薦状を書いて貰う事に成功した。
アンセルムの仲介の元、橙子とロードは直接の面談を経て、双方の同意を以って契約は受理された。橙子の望んだものは当然、時計塔への編入であり、ロードが望んだものはアンセルムの構想の通りの確たる成果だった。
橙子にとって、この契約内容は余りに不利なものである。一筆したためるだけのロードに対し、橙子は数年の内に、時計塔内で認められるだけの結果を残さなければならないのだから。
それでもロードにとっては危険な橋を渡りかねないものであり、橙子の失敗はロードの失墜に繋がるだろう。彼自身も、魔術師としての蒼崎橙子の実力は以前目にしている。評価もしていた。が、やはり後継を外されたという事実が決断を渋らせた。
このままでは決裂しかねないと思った橙子は、自身にとって更に不利になりかねない条件を提示して見せた。
曰く、三年で結果を提示してみせると。
橙子の提案には、ロードだけでなくアンセルムまでもが驚愕と呆れとが混じった表情を浮かべていた。
これまで魔術師が築き上げてきた各分野の成果は、橙子が提示した程の短時間で形に出来るものではない。何代も続く名門魔術師が過去の遺産と自らの研鑽、それこそ血が滲む程の努力の成果として形に成り得るのだ。
魔術刻印という古くから積み上げられた知識はなく、橙子が現在持っているのは十九年間の研鑽と、自己の可能性だけである。
法螺を吹くのも大概だ。ロードは一笑に付した橙子の言を、アンセルムが否定した。
『マイロード。トウコなら、それくらいやりかねません。いや、きっとやり遂げてくれるでしょう』
弟子の一言を受け、ロードは深く頭を悩ませた。現状、彼自身の置かれた窮地というのもそう易々と取り戻せる状況にはない。今すぐに全てを失う事はなくとも、時間と共に風化していく可能性は極めて高い。
彼の一派が築き上げてきた地位と財産、権力と共に彼自身の名前すらも。
魔術師とて人である。一度手に入れた座を、軽々しく手離したいと思うものなどそうはいまい。
いつの日にか夢見た魔導の探求を忘れ、権力の維持に努め上げる。そんな妄執めいた確執が上層部の権力闘争に拍車をかけているのは間違いないなく、彼もまたそんな形のない怨念に取り憑かれた一人だった。
彼は思案する。今目の前に座す少女に自らの保身を賭けられるだけの価値があるのか。異端なる蒼崎の家系に生まれ落ち、そして魔法使いに見捨てられた彼女の価値。ただ彼自身もまた、過去の橙子の実力は知っており……
打算。彼の決断を決定付けたのは、どうしようもない打算だった。
□□□
──かくして、橙子は時計塔への編入を果たした。
最終的な契約条件は、橙子自身が断言した三年以内の確たる結果と、その結果をロードが講師を勤めるルーン学科で果たす事。
現在時計塔において、ルーンは廃退の一途にある。恐らくは彼の地位を危ぶませている一端はこの辺りにあるのではないと橙子は睨んでいた。
しかし橙子に彼の進退は関係ない。入学という最初の関門を突破したのだから、後は要求されただけの成果を提出してしまうだけだ。背負った負債は決して易いものでないが、それだけに橙子にとっても価値あるものだ。
ここで確たる成果を上げられれば、ロードとの契約を果たした上で橙子自身のレッテルを払拭出来る可能性がある。失われかけているルーンを限りなくオリジナルに近い形にまで持っていければ、独自の工房を手に入れる事とて不可能ではない。
その為にはこの三年間は橙子自身が以前から取り組みたいと思っていた創作系の魔術に手を出す暇など一切ないだろう。
それこそ、血を吐く思いで契約の達成を行わなければならない。三年というタイムリミット。刻限は決して遠すぎるという程ではないのだから。
期待と不安の入り混じった面持ちで、橙子は時計塔の表の顔である大英博物館の門を叩いた。広大な敷地に古今東西、数多の美術品や骨董品が展示されている。日がな多くの人が訪れ、感嘆と感心を寄せるロンドンの誇る世界最大級の博物館である。
時計塔の表の顔……と呼ばれるように、その運営には協会の息がかかっており、所属するキュレイターの中には寮で生活する学徒達も少なくはない。
当の橙子の今後は表向きの職としてこの博物館に所属する手筈になっている。個人的資産のほとんどを失った状態にある橙子にとって、当面の生活費を調達する手段は必要不可欠なものなのだ。
受付の女性にロードがしたためた書簡を手渡す。恐らくは既に話が通っていたのだろう、橙子の容姿と書簡を確認した後、中身を改めないままに女性は一度席を外し、別の人物を連れて来た。
「待っていたわ、期待の新入生」
柔らかな声で、その女性は微笑んだ。
□□□
「私はエレオノーラ・カルヴェイ。エリーでいいわ」
「私は──」
「トウコ・アオザキ。極東の島国、ニホンから身一つで時計塔に殴り込みを掛けに来た優等生……ってのが専らの噂だけど、どこまでが本当なの?」
エリーに案内され、大英博物館を通り抜け本当の顔である時計塔を目指す途中、彼女はそんな事をのたまった。
橙子が編入を決定してからまだ三日足らずだというのに、もうそんな風評が流れているとは。ロード自身が流したものか、それを揶揄したものなのか。どちらにしても時計塔の者達も暇なのだなと橙子は思った。
「さあ、どうかしら。私はただ、最高学府と謳われるこの学院で自らの研鑽を積みたいだけよ」
「はは、周りの噂なんて気にしないってね。ならアンタはやっぱり優等生だよ」
からからと笑うエリーはどうやら快活な少女のようだった。外見年齢は橙子よりやや上に見える。少し長い髪をアップで結い、今はキュレイターとしての仕事中なのかスーツを身に着けている。
怜悧な瞳と端正な顔立ちのせいか、遠目に見れば細身の男性のようにも見えなくもなかった。
「ところでアンタ、ここは初めて?」
「ええ。風聞は耳にしてるけど、直接訪れたのは初めてね。貴女の目から見て時計塔はどんな場所?」
「そうねぇ……端的に言えば、化物の巣窟って感じかな。私もここに来てもう二年ぐらいだけど、上は全然見えそうにないよ。それどころか、自分が常に一番下にいるような気さえしてくる」
真っ当な手段で入学してくる者は総じて名家の子息・息女であり、特待生として招かれるのは優秀と認められた者達ばかり。金の卵がこぞって集う場所……それが魔術協会最大にして本部でもある時計塔であった。
「それは……面白そうね」
「はは、アンタも化物の仲間なのかい。せいぜい私も足元掬われないように努力するとしよう。……と、そうこうしてる内に着いたね」
大英博物館の裏に秘された時計塔の門の前に立つ。表向きはそう特徴的な部分のないこの建築物が、これより始まる新生活の舞台となる。
「私の案内はここまでさ。後は中の人間に聞くといい。アンタも博物館で働くんだろ? そん時はまた声かけてよ」
じゃ、と手を上げて去るエリーの背中に感謝の言葉を贈る。エリーは足を止めて、振り向いた。
「気をつけなよ。アンタにとって、その先は本当に化物の巣窟だろうから」
□□□
エリーの最後の台詞に特に戸惑った様子もなく橙子は門に手をかけた。これより先が、どんな場所かは判っているつもりだ。アンセルムやエリーのような温和な魔術師はそう多くはない。
相手を蹴落としてでも一歩先んじようと考える輩がいて当然の場所。向けられる視線は全て敵意を孕み、一瞬の油断は取り返しのつかない結末を生むかもしれない。
これから踏み込む場所はそういう場所だ。そしてその場所は、橙子自身が望んだものであるのだから。
「ようこそ、我らが時計塔へ」
門を抜けた先、吹き抜けとなっている広間の中央に、恭しく頭を下げる男を認めた。
赤味がかった金髪に、翠を思わせる双眸。カジュアルな服装とは裏腹の、規律を重んじた静かな礼。誰あろう、橙子とロードを仲立ちしたアンセルム・ヴォーレンである。
「アンセルム」
「やあトウコ。ここからの案内はこの僕だ。師より言付かっているからね」
大股に橙子へと近づき、その細く麗しい手を取り口付ける。相も変わらず、何処か垢抜けている男だった。
「さて。その門を超えた時点で君も僕らの仲間入りだ。共に勉学に励む同士でありライバルでもある。
まずはこれから、君が生活の大部分を過ごすこの内部を案内しよう」
時計塔とはその名の通りの建築物である。ただ、市井に隠れて研究を続ける現代魔術師にとって、塔内部での研究施設、機関の建造は危険性を孕んでいる。
よって、塔の一階より上層は大英博物館の各部門を統括する者達の執政活動がメインであり、その他は学院上層部の私室などが大半を占めていた。
橙子やアンセルムのような学徒が主に活動の範囲とするのはその地下にある。講堂、図書室、研究室。大英博物館の地下に建造された広大な空間。魔術師が生活を営むに際し、必要と思われる全てのものがこの地下に埋蔵されている。
まず初めに案内された講堂は大学のそれとほとんど変わらない面積だ。あくまで学院という体裁を持っている以上、学徒に配慮された造りとなっているらしい。ただ講堂の数だけでいえば、地上に存在するいかなる学府にさえ見劣りしていないであろう。
圧巻だったのは図書室だ。図書室……などという形容は生温く、図書館という言葉の方がしっくりとくる広大な空間。一フロアの全てに整然と巨大な棚が陳列され、その棚には数多くの蔵書が眠っている。
流石に一国が建造するような、建物一つを丸ごと図書館に仕立て上げたものには及ばないが、目に映る全ての書物が魔術に関連するものであると考えるのなら、この蔵書量は筆舌に尽くし難い。それが二階分もあれば、壮観としか言いようがなかった。
「ここにあるものはあくまで僕達用に配慮されたテキスト類だ。古今東西、ありとあらゆる魔導に精通する蔵書があるけど、本当に価値ある魔導書は多分ない。
そういうのは、講師連中がとっくに押さえているからね。閲覧したければ彼らに頼み込むしか方法はない」
アンセルムが多分、と口にしたのは、恐らく収められた全ての本を閲覧したわけではないからだろう。これだけの蔵書、人が一生かかっても読み切れるかどうか判らない。それだけに、価値を見出されていない“本物”が眠っている可能性もなくはないだろう。
詰まるところ、時計塔が大英博物館の運営に携わっているのはこれらの収集の為である。
表立って展示されている美術品や蔵書の数々は、歴史的価値はあれど魔術師にとっては無意味なものがほとんどであり、彼らが必要とするものは全て歴史から隠匿されこうして地下深くに保管される。
その閲覧を認められるのは同じ魔術師だけであり、あくまで合法的に世界各地の名品、遺産を収集出来る大英博物館という存在は、時計塔が数ある協会の中でもトップに立てた一つの証明とも言えるだろう。
「確かに、これだけの蔵書は圧巻ね。野にいては決してお目にかかれない宝の山。……なるほど、協会が表向きに支配者を公言しない理由が良く判るわ」
「だろう。これ程のものを見せられて、わざわざ何も無い外の世界に身を置こうとは考えない。いや、考えられなくなる。研究者である僕達にとって、この景観自体が猛毒だ」
「せいぜいその猛毒に犯されないように注意するわ」
その後見て回ったのは簡易な資料室。貴重な研究物や資料の類は、図書以上に厳重に保管されている。見て回れたのはそれこそ地上にあるそれらと相違ないレベルのものばかりだった。
「とりあえずはこんなところかな。この階層より下は個人の研究室になっていてね。学院に認められた者だけが所有できる工房だ。
ここから先は僕もあまり足を踏み入れた事はない。噂では、下に行けば行くほど魔窟となっているらしい。眉唾だけどね。
で、まずこの学院に入学した者は、この工房を手に入れる事を目標とする。君もそうだろう?」
「ええ。工房と講師達の評価。どちらも手に入れて、その過程で負債も完済する。それが当面の私の目標ね」
「ああ、君なら出来るよ。じゃあ一度、上に戻ろうか」
言って二人は最初に落ち合ったロビーへと戻った。ちらほらと見える人影は、同じ魔術師なのであろう。それとなくこちらに視線を向けてくる者や、目に入っていないかのように通り過ぎる者もいる。
「僕が君の力になれるのは本当にここまでだ。これからは唯一人の魔術師として君と接していく事になる」
「ええ、充分よ。本当にありがとう。貴方がいなければ、私はこの学院へは入れなかったかもしれないし」
「それは卑下しすぎだよ、トウコ。君ならきっと、僕が手を貸さずとも何とかしていたと思うよ」
「ふふ、ありがとう。今度何かお礼をさせて。ロードには対価を払う契約をしたけれど、貴方には何の見返りも要求されていないから」
魔術師の大原則は等価交換。差し出されたものがあるのなら、相応の対価を払うべきなのだ。たとえそれが、友人知人の間柄であろうとも。
ふむ、と頷きを見せたアンセルムは、ぴっと人差し指を立てた。
「じゃあデート一回で」
橙子は笑った。心から。そんな、およそ魔術師がする筈のない要求を真顔で衝き付けてくるこの友人に。
「ええ、喜んで。この街には余り詳しくないから、案内してもらえると助かるわ」
「本当かい、そいつはいい。ま、君もこれから忙しくなるだろうから、落ち着いてからで構わないよ。そしてもしその時は、忘れられない日となる事を約束しよう」
最後まで軽口を叩きあい、二人は別れた。何処かへ向かったアンセルムを見送り、橙子は一つ吐息を零す。
今一度、これから自らの学び舎となる場所を眺めた。目に留まったのは一人の青年。目を引く金髪に、更に目を引く真っ赤なコートに真っ赤なシルクハット。自己主張が服を着て歩いているような男だった。
相手もこちらの視線に気付いたのか、にやりと笑みを浮かべたように見えたが、遠くて良くは見えなかった。天才と変人は紙一重というが、あれはきっとその類のものだろう。係わり合いになるべきじゃないな、と橙子は思った。
何にしても、ようやく辿り着いたこの場所こそスタート地点。ゴールは遥か先、きっと目視出来るような距離じゃない。
しかし、これが橙子自身が望んだ道であるのだから。退く事も戻る事も決してない。
さあ、始めよう。ここから魔法使いの継承者ではない、蒼崎橙子の物語を。
──春を過ぎ、初夏を迎える五月初頭。
蒼崎橙子は魔術協会の誇る最高学府である時計塔への編入を果たした。
希望があったので再アップ。
橙子さんの昔話。
続きの構想はあったりなかったりしますが、まほよが発売されそうなので微妙。
なのでとりあえず続きの予定はないです。先にあっち書かないと。
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