正義の烙印 Act.12









/Waver Velvet


 原因不明の街を呑み込む大火から数日の時が過ぎ、平穏の中に身を埋めていた人々は先の災厄の原因究明よりも死者の追悼や救済に奔走している。

 火災の原因を知る数少ない証人足り得る魔術師達は、誰一人として真相を語る事無く、誰一人救われる事無く、自らの傷痕と向き合う事を余儀なくされていた。

 その中の一人であるウェイバー・ベルベットは、火災の中心地であった冬木市民会館跡に何度と無く足を運んでいた。

「……本当、未練がましいよな」

 一人自嘲の笑みを吊り上げる。倒壊した建築物跡は既に撤去されており──恐らくはこの場所だけは教会の手の者が作業を行ったのだろう──ウェイバーの眼前に広がるのはただの更地でしかない。

 ただそれでも、この場所に来ればもう一度あの男と会えるような気がしていた。空より降り注いだ黒い汚泥に呑み込まれ、志半ばで潰えた王の世界征服。今なお詳しい原因の分からないウェイバーは、だからこそあの結末が受け入れ難かった。

 本当に王は死んだのか分からない。濁流に呑み込まれ何処かに流されただけで、ここにいればひょっこり顔を出すのではないか……などと夢想をした。
 しかし既に聖杯戦争が終了した現状、仮に生きていたとしてもウェイバーの魔力程度ではライダーを支え切るなど不可能で。そして何より──右手を焦がしていた令呪から色が失われている事に、気が付きたくなんかなかった。

 あの不実の別離の時、何故ライダーが微笑んでいたのかと、ここのところずっとウェイバーは考えていた。世界征服どころか足掛かりである受肉すら果たせず消えていったというのに、何故、その終わりに笑えるのだろうか。

 仮にウェイバーがあの時呑まれていれば、笑うなど絶対に不可能だ。理不尽な終わり。予期しない終焉。
 まだまだ見たいものがある。まだまた知らなければならないものがある。この世の未練を残した状態で、死の間際に微笑むことなどどうして出来ると言うのだろう。

 ならばあの男は世に未練などなかったというのだろうか。否──断じて否の筈だ。世界征服をすると言って憚らないあの男が、夢半ばで潰えて笑って終わりを享受する筈がない。あの男なら、最後の最後まで足掻き続けてくれる筈なのだから。

「分かんないぞ……この馬鹿。ちゃんとその意味を教えていけよ……」

 悪態をついても、返って来る大笑は既にない。額を張り飛ばす野太い指は、この世にはない。傍らにあった巨躯の威圧感。最初はどこまでの畏怖を感じていたあの男の存在が、いつしか心地良くなっていた。

 だけどもう──二度と王は朋友の傍らに立つ事はない。

 聖杯戦争という奇跡が生んだ巡り逢わせ。本来ならば交わる事などなかった筈の道を交差させた奇跡の大儀礼は、次開かれるとしても六十年の後だ。
 その頃ウェイバーは既に年老いており、仮に召喚できてもそれはウェイバーの知るイスカンダルではない──別人だ。

 それでは意味がない。ウェイバーを朋友と呼んだ男はあの王だけなのだ。姿形がそっくりで、性格も何もかも同じであっても、ウェイバー・ベルベットの朋友は既にこの世の何処にも存在しないのだから。

 泡沫の夢。死の間際に見る走馬灯。

 そんな不現実と変わらない。ある筈の無いモノ。有り得ない奇跡。そんな不実が生んだ欠片でしかないのだから。

 ただ──それでも。あの男が確かに存在した証明は此処にある。ウェイバーという生き証人があり、あの男が愛用した詩集と地図が残されている。何より、ウェイバーの心の中ではまだあの男は生きているのだから。

「やっぱりさ、ボクには分からないよ。オマエがなんで最期に笑ったのかなんて……分からない。分からないから、探してみようと思う」

 それがあの男の残したウェイバーへと問いならば、その答えを探してみよう。ウェイバーの知る世界は余りに狭窄だ。
 あの男の描いた世界に比して余りにもちっぽけな世界でしかない。だから、自分からのその殻を突き破ってより大きな世界を目指してみようと考えた。

 果ての無い世界の東端を目指し、偉大なる王が駆け抜けたように。ウェイバーもまた、見果てぬ夢を胸に抱きながら、ある筈の答えを探す為に。

「だからボクはもう此処には来ない。これが、最後だ」

 空に穿たれていた黒い太陽は既に無く、遥か天空には街並みをいつも通りに照らす輝かしい光だけ。まるで悪夢のようだった一夜に、最後の想いを馳せて──ウェイバー・ベルベットは瞳を閉じた。

 思い返せば幾らでも浮かんでくる巨躯の背中。豪快な笑い声。勇ましい雄叫び。──そして、最後の優しい微笑み。

 瞳に、心に深く刻みつけた王の憧憬を抱きながら、見開いた瞳で空を高く見上げ、ウェイバーはその場所に背を向けた。

 ──じゃあな、ライダー。

 歩き出す為に。これより続く道程をしっかりと踏み締める為に。一人の王との出会いが生んだ、或る少年の物語。終わる事無く続いていく彼だけの物語を紡ぎ続ける為に、少年は走り出した。

 いつの日か、その背中に追いつく為に。かつて、彼の臣下達が同じように王の背中に憧れを抱き走り出したように。

 少年は──奇跡により巡り逢った王と結んだ誓いを胸に、遥かな世界を目指して駆け出したのであった。


/Kirei Kotomine


 半年後。

 しとしとと降る雨の中──葬送は静かに行われていた。

 喪主を務めるのは故人の妻ではなく、その娘達。その意味するところは参列者の全てが承知していた。つまり、志半ばで敗れた先代──遠坂時臣の後を継ぐ二人の少女こそが、魔術師であった彼を送る者としては相応しいが故だった。

 綺麗に響いていく幼き少女の歌声。二人が奏でるメロディは、寸分の狂い無く重なり響き合い、相乗のように高らかに降り頻る雨の中に溶けていく。

 少女達が歌う傍ら、時臣の妻たる葵は毅然とした娘達とは違い、一人零れ落ちる涙を止める術を失ったかのように泣き腫らす。娘達がしっかりと立っているというのに、自らがより地に足をつけなければいけないこの場所で、けれど涙は止め処なく溢れるばかり。

 その雫こそが葵が時臣へと寄せていた愛の証明。魔道に嫁ぎ、時には理不尽な命令に絶望を受けてなお、涙を見せず弱さを見せなかった女の流す、唯一人の男を愛した唯一人の女の涙。

 許されるものではない。誰よりも強く在らねばならないと思ってはいても、亡くなった存在が余りに大きすぎて、葵には耐え切れるものではなかった。
 これより彼女が引き受けるものの重みは余りにも重い。これからは誰よりも強く在らねばならないのだから──だからせめて今だけは、涙を零す事を許して欲しいと、懺悔するように、葵は枯れるほどに頬を濡らす。

 その更に後方──幼き少女の後見人を言い遣わされ快諾した時臣殺害の張本人たる言峰綺礼は、亡き人を悼みながらも、別の事も考えていた。

 当初綺礼は聖杯戦争終結の直後に時臣の埋葬を行うつもりであったが、葵や凛、桜が実家に帰宅した後に発見された綺礼宛の書簡がその葬送をこの時まで遅らせた。

 書簡に記されていたのは時臣自らの死後に関するものだった。彼がその時まだ身体に刻んでいた魔術刻印の扱いや、遠坂家における遺産の分配などなど、まるで死期を予期していたかのように綴られていた。

 ……流石に、綺礼に裏切られるとまでは勘繰っていなかったようだが。

 察していたのなら綺礼宛に書簡を残す筈もない。御丁寧に恐らくは時間さえあればフュルベールの起こした災厄の後にでも渡そうと思っていたのであろう、見習い卒業の証としてアゾット剣まで添えていてくれたのだから。

 何れにせよ時臣の書簡は完璧であり、一分の抜かりさえも有り得なかった。ただ、時臣を殺害した時の綺礼はそこまで考えを巡らせていたわけではなく、後に奪い取ったセイバーが時臣の遺体を燃え尽きる前に間桐邸より引き揚げてくれたのは、僥倖だったが。

 そしてこんな時期まで時臣の葬送が遅れた最大の原因が、彼が持っていた魔術刻印──その移植だった。

 手抜かりの無い時臣の書簡に任せ、時計塔に在籍している時臣の知人に全てを託し──、一悶着あったが──少女『達』の腕には遠坂の刻印が刻まれている。
 まだ全てを移植しきれてはいないが、一割ほどが既に刻まれている。残すところも徐々に移植していけばいい。

 刻印は時計塔に厳重に保管されており、冬木へと戻った時臣の遺体を、ようやくこうして丁重に埋葬する事が出来たのは、実に半年もの後の事だった。

 綺麗に響き合っていた歌声が途切れ、棺は大地へと送られていく。最後の祈りの言葉を以って、遠坂家五代頭首──遠坂時臣の葬儀は終了した。

 一人、また一人と参列者が立ち去っていく中、肩を震わせる葵の横を通り過ぎて、綺礼は『二人』の六代頭首の傍らに立つ。

「今更ではあるが、今一度訊こう。本当に、おまえ達は二人で遠坂を継ぐのか?」

 それは絶対に有り得ない決定であった。魔道の秘蹟を相続する者は常に一人と定められている。脈々と続く家系を途絶えさせぬ為に二子をもうける事はあっても、必ずどちらか一人を選ばなければならない。

 十ある秘蹟を仮に二子に分け与えれば、単純に五に成り下がり、目指す極地への道のりは倍にも遠くなる。そんな迂遠で面倒な事を好む魔術師は存在しない。
 初めから二子相続を常とする、北欧に構える天秤の家系ならいざ知らず、通常の魔道においては有り得ない出来事であった。

「本当に今更ね綺礼。わたし達はもう決めたの。わたしと桜で、お父様の跡を継ぐって」

 綺礼に託された書簡にも、どちらを真の後継とするかは記されていなかった。本来ならば揺らぐ事無く凛への相続で事無きを得るところだが、あの時点で既に時臣は揺らいでいたのかもしれない。

 ただ一筆認めれば済んでいた後継者の名を記さず、あえて残る者達に託す──あるいは自らが生き延びた先に決定を下すつもりであったのなら、今となってはどうしようもない事であるが。

「しかし凛。それは導師の意思を蔑ろにする事になるのではないか? 遠坂の悲願は変わらない。だがおまえ達が二人で分ければ、確実に道のりは遠くなるだろう」

「それでも、よ。わたしはお父様の意思を蔑ろにしたつもりなんてない。お父様は桜を助け出す為に命を賭けた。ならその意思を無駄にするなんて事、出来ない」

 時臣が何を想い、そして救い出した後にどうするつもりだったのかは今となっては分からない。だから凛は一つの結論を自らの中で導き出した。
 遠坂凛と遠坂桜を残し、どちらを選ぶ道を記さなかった父の想い。どちらをも選べなかったのだとしたら、ならば全部選んでしまえばいいと。

 余りの暴論であり、無策かつ無謀な試みであるのは凛とて承知しているだろう。しかし本来自らに全てが相続される筈だったものであるのなら、それを別の者に分け与えても誰に咎められる筋合いはないと。

「わたしはね、綺礼。これが遠回りだなんて思わない。一人では出来ない事なんて幾らでもあるでしょう? だけど、二人なら出来る事は幾らでもあるんだから」

「お姉ちゃん……」

 傍らの妹の手を握り、凛は微笑む。

「だからわたしは、わたし達は二人で遠坂を継ぐの。お父様の意思がどういうものかなんてもう分からないから、勝手に解釈して前に進む。足踏みする事こそ、きっと望んでなんていないだろうから」

 決然とした強い瞳を向けられ、綺礼は静かに瞼を伏せた。つまらない。この少女は、綺礼が思うよりも強すぎる。葵のように泣き腫らせばまだ可愛げがあるというのに、父の遺志よりも自らの意思を以って前を見据えている。

 それに引っ張られる形で、妹の桜も強くあろうと努めている。間桐の地獄がどれほどのものであったかなど綺礼には知る由も無いが、彼女の強さはきっとその地獄から這い上がった事と、姉の輝きに負けたくないと思っているからだろう。

 確かに、凛の言葉には一理ある。魔道に染まりきった者ならば絶対にしない選択。姉と妹に遺産を分配するその無謀。けれどその選択だけは、面白いと綺礼は思う。
 理屈からいえば確実に遠坂の悲願から遠のくだろう。だがもし、互いが互いを研鑽し、高みへと登り詰めていくのなら、あるいは奇跡のような頂へと這い上がる事もあるかもしれない。

 無謀な賭け。一枚しかないチップを半分に割り、二人の少女は欠けた半分に命を賭ける。

「桜。おまえも凛と同じか?」

「はい。わたしもお姉ちゃんと、一緒に歩みます」

 強すぎる才覚は魔道の保護なくして生きられない。時臣の知古を頼れば桜の引き受け先など五万とありそうなものだが、彼女達が自らの意思でその決定を下すのならば。

「……そうか。それがおまえ達の決定ならば是非もない。私はただの後見人でしかない。ただおまえ達の行く末を見届けよう」

 左腕に刻印を刻む凛と右腕に刻印を刻む桜。勝気な凛と控えめな桜。対称の少女達がこれより歩み行く道程は、決して平坦なものではないだろう。
 だが、だからこそ価値がある。見届ける意味がある。一対の翼を引き千切り、互いに片翼の羽根を背中に担った幼き少女達の歩む道。

 誰もが彼女達の辿り着く場所を知らぬのなら、この言峰綺礼だけが見届けよう、と。

 そしてその強さがいつか砕けた時、禍根を残す事を良しとしたこの結果に絶望した時。突きつけるべき真実を以って、我が身を愉悦に浸せるのだから。

「じゃあ戻りましょう。やらなきゃいけない事は山ほどあるんだから」

「あ、お姉ちゃん。お母さんと、先に帰っててくれる?」

「? 何かあるの? 別に付き合うけど」

「ううん。これはわたしの問題だから」

 そこまで言われて、凛は静かに微笑んだ。

「分かったわ、じゃあ先に戻ってる。風邪引かないように、早めに帰って来なさいよ!」

 凛は桜の闇を知らない。父が命を賭けて桜を救い出したという事実しか知らない。知らなくていいと、桜は思う。凛が光であるのなら、桜は影であればいい。自らの消えない闇を無理矢理に光の下に照らし出して欲しくはないから。

 それでも気を利かせてくれたのだろう姉に感謝して、桜は綺礼に向き直った。

「じゃあ、えと、神父さん。お願いしていいですか?」

 ああ、と頷いて、綺礼は桜を伴い雨粒の降る墓地を行く。時臣を埋葬した光ある場所よりも奥まったところにある小さな十字架。
 森に程近い場所にひっそりと作られたその墓所は、

「カリヤおじさん……」

 桜は膝を折り、腕を組んで祈りを捧げる。

 今は亡き間桐雁夜の墓。間桐の全てをその背に負い、業火に焼かれ死んだ人。その墓の中には雁夜の遺体は存在しない。
 後に間桐邸の地下工房は綺礼の手により暴かれたが、遺体は見つからなかった。恐らくは時臣の炎により灰も残さず焼き尽くされたのだろう。

 それでも桜は綺礼に頼み込み、雁夜の為の墓を作って貰った。時臣と同じく、桜を救う為に命を賭けた人。たった一人の少女を救う為に、男が二人も犠牲なったのは余りにも重い咎だった。

 かつての間桐桜はその身に己が闇を封じ込める事で耐え忍んで来たが、遠坂桜に衝き付けられた十字架はその闇よりもなお重かった。
 自らの闇から目を背ける事は簡単でも、誰かを背負う事は難しい。救われたこの命。今一度日の当たる場所に連れ出してくれた時臣と雁夜に、桜は長く長く祈りを謳う。

 ありがとう、と。そして──ごめんなさい、と。

 そして強く生きる事を誓いにする。この命ある限り、救ってくれた彼らに恥じない自分で在り続ける為に、桜は凛と共に歩んでいく。

 誰かを拠り所として生きるのはもう終わらせる。これからは、唯一人で生きていかなければならないのだから。
 傍らにあっても、姉に寄りかかる事は許されない。この足がある限り、立ち上がる足がある限り、遠坂桜は──自らの意思で強く、在り続けたいと願うから。

「もういいのか?」

 すっと目を開き立ち上がった桜に綺礼はそう声をかける。

「はい、ありがとうございます、神父さん。わたしの我が侭を聞いてもらって」

「何、気にする事は無い。死者を悼むのは聖職者の職務だ。君が気に病む必要など何処にもない」

「ありがとう、ございます」

 この墓の費用は綺礼の負担であった。勿論何れ返すつもりではあるが、雁夜の死をわざわざ誰かに伝える気にはなれなかったから。ただあの人の事をずっとずっと覚えていると誓って、桜は碑銘なき墓に背を向けた。

 ──また、来ます。

 そう心の中で呟き、桜は綺礼と共に墓地を後にする。姉と母の待つ陽だまりへ。二人の大切な人が桜に与えてくれた陽の当たる場所を目指して。

 頬を濡らす熱き雫を拭う事もせず、ただ雨の中に溶けていく事を望みながら──遠坂桜はこれまでの自分に訣別をした。

 その少しばかり後ろで言峰綺礼は声もなく嗤う。これより続く過酷の中で悲鳴を上げる事も許されず、耐えて耐えて耐え抜いて高みを目指す少女達の軌跡を思い浮かべて。いつか来る残酷な現実を前に、どのような顔を見せるのかと思いを馳せて。

 そして自らもまた、探し求めると決めた生まれた意味を目指し──歪を肯定した聖職者は独り、静かに笑んでいた。


/Kiritsugu Emiya


 コツ、コツ、と靴底が大理石の床を打つ。目の前につい今し方生まれ広がる血溜まりの中にあっても、機能性を失わない革靴が滑る血の溜め池を構う事無く踏破する。

 その男の後ろに続く回廊には、そこかしこに血の痕跡が綴られていた。床は勿論のこと壁面やガラス窓、果ては天井に到るまで、白亜によって染められた絢爛な通路を血の赤と黒で塗り替え、それでも男は止まる事無く前へと進む。

 一際大きな扉の前に立ち、男は口に咥えていた煙草を指で弾き、血の池に放り捨てて火を消した。緩慢な動作で血のこびりついた黒鉄の銃身を折り、新たなる弾丸を装填し、片手で重く仰々しい扉を押し開けた。

 目の前に飛び込んできたのは壮麗な礼拝堂。さながら中世の古城に拵えられた謁見の間を彷彿とさせる巨大な空間。
 立ち並ぶ神殿の様式を思わせる支柱。白で統一された壁面。遥か眼前、祭壇の奥には神々しいまでのステンドグラスが雪の合間に降り注ぐ光を受けて輝いていた。

 祭壇まで一直線に伸びる金の刺繍をあしらったレッドカーペットを血に染め上げられたブーツで踏み抜きながら、男はその先に待つ者を目指して歩いていく。

 男には焦りの一つもない。手にした銃とその身に刻んだ業で、これまで全ての敵を駆逐してきた。もはや止まる術を失った男は──唯一つ残されたものを救い出す為に、単身この城へと踏み込んだ。

「久しいな、衛宮切嗣よ」

 祭壇に立つ年老いた者こそ、この古城の主たるユーブスタクハイト・フォン・アインツベルン。千年の妄執に囚われ、ただ聖杯を、ただ第三魔法の成就に一族の全てを賭けた者。衛宮切嗣を招き、四度目の戦に投じさせた張本人。

「……ふむ。その様子では、城の者全てを殺し尽くしたか?」

「立ちはだかった者だけだ。僕の歩みを邪魔する者だけに消えてもらったに過ぎない」

 但し、全ての者が立ちはだかっていたのなら、両者の言い分に矛盾は何一つとして有り得ないのだが。

「イリヤを渡せ」

 最小限の要求にて切嗣は銃を向け突きつける。

 あの大火災より数ヶ月。ようやく自由の身となった切嗣が求めたものはただそれだけだった。
 切嗣の瞳にはもう、あの黒くも輝いていた理想の火はない。あの戦いの中で、あの大火の中で切嗣の理想は全て燃え尽きた。

 今切嗣を動かしているのはただの感情。理想を廻す歯車は瓦解し、その奥底に秘められていた唯一人の人間としての感情だ。
 妻を自らの手で引き裂いた切嗣に、その身をただの犠牲に貶めた切嗣に、その子であるイリヤスフィールを抱き締める資格などないだろう。だがそれでも、あの子に母と同じ道を歩ませるわけにはいかないと、切嗣はこの場所に立つ。

「……渡さぬと言うのなら?」

「おまえを殺して奪うまで。アインツベルンの妄執ごと、この僕が消してやる」

 この城に生きている者は切嗣とユーブスタクハイト、そして何処かに幽閉されているイリヤスフィールのみ。
 切嗣は持てる全てを用い、数多いたアインツベルン製のホムンクルスの全てを銃殺爆殺絞殺刺殺皆殺しにした。

 唯一つの我が子を救うという願いを胸に、かつての理想──多くを救う為に小には死んでもらう理念を捨て去り、ただ子を想う父としてこの城に乗り込んだ。
 今この場にいるのは衛宮切嗣の残骸だ。壊れた機械が偶然にも動き続けているだけに過ぎない。

 余りにも頼りなく揺れる命の灯火を無理矢理に強く灯し、人として最低限の機能として動いているだけの残骸。
 あの炎の中で衛宮切嗣は確かに死んだ。その理想と共に。身体は無事でも心が確実に死んだのだ。

 ただそれでも。あの絶望の中で掴み取った希望があった。掬い上げられた命があった。その頼りない命を生かす為に切嗣は奔走し、そして今──もう一つの希望を救い出す為にアインツベルンの妄執に銃を向ける。

「……腐ったな、魔術師殺し。この城に招いた時のお主は、我らとは相容れぬまでも何処か似た輝きがあったというのに」

 世界の救済を夢見て、聖杯という奇跡に祈りを託すほか無かった切嗣と、千年の悲願を賭けるアインツベルン。その存在は確かに似たところがあるとも言えなくはないだろう。だが既にそんなものは、過去の出来事でしかない。

「答えろユーブスタクハイト。イリヤは何処だ。そして渡せ」

 突きつけられる氷の瞳と火の灯る魔銃。在りし日の魔術師殺しよりもなお凄惨な一人の男の姿がそこにある。

「それは、イリヤスフィールの父としての言葉か?」

「無論だ。あの子は僕の娘だ。おまえ達の玩具にはさせない」

 アイリスフィールのように。ただ聖杯の顕現の為だけに生かされ生きるなんてのはもう沢山だ。切嗣は妻に約束していた。アイリスフィールには見せられなかった世界の美しさをイリヤスフィールに見せると。

 この醜き世界にあっても、なお尊いと誇れる自然の優美を。夫としての約束。父としての責務。理想に燃えた男は既になく──ただ燃えカスだけが動いていた。

「……良かろう。ならば連れて行くがいい」

 そう言って、ユーブスタクハイトは手の中から鍵を放った。その鍵を掴み取り検める。この城の構造は把握済み。鍵と一致する部屋もすぐさま脳裏に思い浮かべられた。それでもはや用はないと切嗣はユーブスタクハイトに背を向けて、

「一つだけ教えろ」

 足を止めそう訊いた。

「おまえは聖杯があんなものだと知っていて僕とアイリを向かわせたのか。それとも知らなかったのか」

 空に顕現した黒い太陽。この世を呑み込む悪意の塊。街の一角だけを焼き払うだけで済んだのは奇跡に等しい出来事だった。もしあの悪意が完全に目覚めていれば、街一つどころか世界が喰らい尽くされたに違いないのだから。

「無論」

 翁はそう答える。

「聖杯の担い手である我らが知らぬ筈がないだろう。前回の折、我らが起こした過ちにより無色の力は汚染された。
 だがそこに一体何の意味がある? 我らの悲願は第三魔法の顕現のみ。汚れようが穢れようが、確かにそれが成るのなら、何ら問題など有り得まい」

「……そうか。それを聞いて、安心した」

 下衆め。

 内心で吐き捨て、切嗣は怒りを露にする真似はしなかった。それならばいい。知らずに事を起こすよりも、知っていて起きた悲劇の方がなお良かった。

 切嗣は既に仕込みを済ませていた。聖杯戦争の基盤となる大聖杯の眠る円蔵山の地下に持ち越した爆薬を遣り繰りし、魔術の行使を以って仕掛けを施した。
 六十年の後再開される第五次聖杯戦争は起こらない。それに先んじて切嗣の仕掛けが作動し、大聖杯を内包する円蔵山を崩壊させるだけの仕掛けを組み上げていた。

 その結末を見届ける事が出来るかどうかは分からないが、あくまで自然災害を装うその仕掛けならばユーブスタクハイトも気付けまい。
 おまえ達も絶望すればいい。悲願を求めて更なる再演を望むその直前、奇跡により造り上げられた大聖杯は崩れ落ちる円蔵山に呑み込まれ瓦解する。

 悲願の成就を目前に絶望するその過酷──切嗣もまた味わった煉獄を、おまえ達も喰らえばいい。

 そんな事実は何ひとつ告げる事無く、切嗣は礼拝堂を後にする。その足で向かうはイリヤスフィールのいる一室。遥か魔城に閉じ込められたお姫様を救うが如く、血塗れの回廊を歩き、目的の場所へと足早に辿り着く。

 差し込んだ鍵はカチリと音を立てて、難なく開かれる。その先には、椅子に腰掛け項垂れた我が子の姿が──少しばかり成長の色が窺えた、イリヤスフィールの姿があった。

「イリヤ」

 その言葉にぴくりと反応を示し、淡雪のような髪が揺れ、赤いルビーの如き瞳が切嗣を見る。

「ぁ、ぇ……キリ、ツグ?」

 まるで幻でも見るかのように呆然と呟くイリヤスフィール。切嗣は出来る限り優しく微笑み頷いた。

「ああ。待たせて悪かったな、イリヤ。迎えに来たよ」

「キリ、ツグ……キリツグ!」

 座していたイリヤは飛び上がり、血の付着した父の衣服にも構うことなくその胸の中へと飛び込んだ。

「遅い……遅いよキリツグ! ずっと待ってたのに! すぐ帰って来るって言ってたのにどうして……!?」

「ああ、ごめん。ちょっと大切な用があってね。遅くなった。イリヤには悪いとは思ってたけど、こうしてちゃんと迎えに来たんだ、出来れば許してくれないかな?」

 ぷぅーと頬を膨らませるイリヤスフィールの顔を優しげな瞳で見つめる切嗣。幼子はぷいとそっぽを向いて、こんな事を言った。

「……仕方ないから、許してあげる。お母さまの言ったとおり、ちゃんと迎えに来てくれたから」

「アイリ……?」

 その言葉を聞いて、どくんと心臓が跳ねた。

「お母さまは言ってたの。キリツグは絶対にイリヤを迎えに来てくれるから、ちゃんと待ってなさいって。
 だからわたしはちゃんと待ってたよ。キリツグとお母さまとの約束を守って。まさかこんなに遅くなるとは思ってなかったけど」

 じと目で見つめられて、苦笑いを浮かべる。ただ、イリヤスフィールの言った事が気になった。いつアイリスフィールはイリヤスフィールにそんな事を言ったのか。彼女達ユスティーツァの流れの汲む聖女には切嗣の与り知らぬ力がある事だけは知っていたが。

 ただ気に掛かったのは、それは理想を成し遂げてイリヤスフィールを迎えに来るという意味合いではなく。まるでこの状況を知っていたかのような想いが込められた一言だったという事。

 ……考えたところで分かるわけもない。

 そう、既に亡きアイリスフィールの想いはもう分からない。アーチャーがあの屋上で切嗣を助ける真似をした事も、切嗣を殺すとは一言も言わなかった意味も分からない。

 ただ今は──許されるのなら、この手に掴んだ温もりを、いつまでも抱き締めていたかった。

「行こう、イリヤ。新しい家があるんだ。もうこんな寒い城に居続ける必要も無い。そして──イリヤにも紹介したい子がいるんだ」

 あの火災の中で拾い上げた幼子。全てを焦がす炎の中で、必死に空に向けて手を伸ばしていた男の子。その手を掴む事で、切嗣は救われた。恐らくは、あの少年よりも救われたに違いない。

 今こうして切嗣が動けているのはあの少年のお陰だ。絶望に塗り固められた理想の中、掬い上げられた唯一つの希望。
 その小さな灯火が、今の切嗣が生きる理由であるのだから。

「紹介……?」

「ああ。年は……イリヤより少し下かな。孤児だったんだけど、僕が引き取った。その子も入れてこれから三人で暮らそうと思うんだけど、イリヤは構わないかい?」

 その少年の容態が安定するまでにこれまで時間が掛かっていた。本当はすぐにでもイリヤスフィールを助け出したかった切嗣だが、少年もまた蔑ろにするわけにも行かず、我が子にはこれだけの辛い思いをさせてしまった。

 本当にダメな人間だと切嗣は自戒する。それでもこの手には、まだ希望が残っている。切嗣の生は既に潰えたも同然だが、我が子らの為にその生を使えるのなら、生き抜ける限り精一杯足掻こうと決めていた。

「イリヤは……そうだな、お姉ちゃんになるんだ」

 お姉ちゃん、という響きが気に入ったのか、ぱぁと花開くように笑顔が咲いた。

「うん、いいよ。たくさんの方がきっと楽しいもの。それで──その子はなんていう名前なの?」

 衛宮切嗣の物語は既に終わっている。あの炎の中で全てが焼き尽くされ燃え尽きた。だがこの手の中に残った二つの小さな希望の為に、理想を捨てた男は醜くも足掻き続ける。

 世界の全てを救うなんて真似はもう出来ず。ただ残された小さな世界だけが、切嗣に許された贖いでもあった。

 母とは同じ道を歩ませぬ為に、こんな僻地に乗り込み救い出した実子──イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 そして──

「──士郎。その子の名前は、衛宮士郎と言うんだ」

 炎の中で救い上げた儚い命。その二人の為だけに──衛宮切嗣は生きる事を誓い。煉獄の炎を生み出した咎人に許された贖いで。

 残された──余りに小さな、希望であり救いだった。

 失ったものがあって、けれど掴んだものがある。大きすぎる代償と、僅かに残っただけの光の粒。救われないものがあって、救えなかったものがあった。
 けれどあの悲劇を生き延びた以上は、その咎から目を背ける事は許されない。立ち上がる足がある限り。命がある限り。終わっていない物語を、何処までも無様に紡いでいく。

 掌に残った小さな希望を頼りに──人はそれでも、強く生きていくしかないのだから。









執筆期間:2008/08/22〜2008/11/07 了



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