正義の烙印 Act.XX









 静寂に閉ざされた室内。朝日の柔らかな日差しがカーテンにより遮られ、薄暗い沈黙の降るとある屋敷の一室に、静けさを突き破る電子音が木霊する。

「ん……ぅん……」

 部屋に備え付けられた天蓋つきの大きなベッドの中でもぞもぞと動く人影が一つ。朝日の眩しさも気にならないくらい熟睡に興じていた人影は、いつまでたっても鳴り止まない不快な電子音を聞き、仕方なく温かな空間より手を這い出す。

 伸びた手は傍らにあった目覚まし時計をぺちぺちと叩くが、一向に音は止まない。それもその筈、甲高い音を響かせているのは目覚まし時計ではなく電話であるのだから。

「もう……一体何なのよ、こんな朝っぱらから……」

 重く閉じようとする瞼を擦り、延々と木霊し続ける電話機を忌々しげに見やるベッドで眠っていた少女。元より朝は弱い性質である彼女は、しかしその不快感のせいか普段よりも少しだけ目覚めが早かった。

「ったく……」

 ぶつぶつと文句を言いながら、肌を擦り合わせて寒さに耐えながらに電話機の元に歩み寄る。古めかしいその機器にはナンバーディスプレイなどという利器はついておらず、たとえ付いていても少女には一体全体この数字は何なのかと、一人小一時間頭を悩ませるだけだろう。

 都合五分以上鳴り響いても鳴り止まず、家主が取る事を前提にけたたましく叫んでいた受話器を、ようやく少女は掴み取り、

「お待たせしました、遠坂です」

 先程までの幽鬼の如き声音は何処かへと消え去り、毅然とし、なおかつ凛と鈴を鳴らすかのように透き通る声が応答した。

「遅いぞ凛。まさか今の今まで寝ていたのか、おまえは」

「ゲッ。やっぱりアンタなの、綺礼……」

 相手が分かるや否や、少女は嫌悪も隠さず一瞬前までのそれこそ淑女じみた声音をそこらのチンピラレベルにまで落とし、相手に顔が見えないのを良い事に露骨なまでに顔をしかめた。

「何なのこんな朝っぱらから。昨日徹夜して眠いんだけど」

「おまえは今日も学校があるだろう。モーニングコールとしては充分だ」

「あらあら。冬木教会を預かる綺礼神父は一体いつからそんなホテルマンじみたサービスを行ってくれるになったのかしら。つか、アンタのモーニングコールなんざ金貰ってもお断りよ」

「……ふむ。それだけ悪態がつけるのなら、一応目は覚めているようだな」

 少女の容赦ない言葉をさらりと受け流し、言峰綺礼は静かに息を吐いた。

「……で、また催促の電話? 分かってるわよ、もう時間がない事くらい」

「ならば急げ。聖杯戦争に参加する気があるのならな」

「はいはい」

 投げやりな態度だが、彼女は心の内ではその戦いに深い高揚感を抱いている。十年前より焦がれた儀式。聖杯を巡る闘争。
 先代にして父である遠坂時臣が命を落とした魔術師達の狂宴。

「というか、なんでこんな朝から電話掛けてくるわけ。まだ──六時半じゃないの」

 目覚まし時計に目をやった 凛はぐったりと肩を落とす。昨夜は午前三時近くまで物品漁りやら研究の確認やら礼装の準備やらでてんてこ舞いだったのだ。全ては間もなく幕を開ける闘争の為の準備だ。

 電話の向こうの人物は何かと口喧しい神父ではあるが、それでも一般的な常識くらいは心得ている筈の男なのだ。こんな朝っぱらからわざわざこんな何度となく告げられた言葉をまたも投げ掛けるだけに電話してきたとは思えなかった。

「ああ、それについてだがな。凛、おまえは何か触媒となるものを見つけたか?」

「うっ……」

 凛は一人顔を顰める。昨日何かないかと探し回ったのだが、結局それらしいものは何も見つからなかった。代わりと言っては何だが、父の遺したであろう特大の宝石を一つばかり発見できたのだが、今はそれよりも触媒が欲しかった。

「サーヴァントを召喚する為には、英霊に縁あるもの──俗に聖遺物に該当するものが必要だ。おまえの父──導師が召喚に用いたものでも転がっていなかったか?」

「なかったわよ……そんなもの。というか、聖遺物とは言ってもそうじゃないものでも喚び出せるでしょう。礼装足り得る剣とかならともかく、身に着けていた鎧の破片とかでも触媒になるのなら、見分けなんか付く筈もないじゃない」

 それらしきものは確かに幾つか見つけていたのだ。ただそれがどんな英霊の所有物で何のクラスに該当するか分からないもので、一世一代の英霊召喚を執り行うほど遠坂凛は間抜けではない。

 適当なものでそれこそ目に余るほどの格の低い英霊が喚び出されたとするばもう目も当てられない。どんな英霊を、どのクラスで召喚するか──その段階から既に戦いは始まっている。

「……まったく。だから何度も催促していたというのに。何でもそつなくこなすくせに、何故そんな妙なところで抜けているのだおまえは」

「うっ、うっさいわね綺礼! わたしだってちゃんとやってんのよ! それでもたまーにちょーっとだけ抜ける事だってあるわよ!? 人間いつもいつも気を張り続けるなんて無理なんだから!」

 彼女の場合、その気の抜けるタイミングが致命的に悪いのはもはや遺伝──呪いの類ではないかと思えるほどに悪かった。今回などまだマシな方だ。

「いざとなったら触媒なんかなくても召喚してやるわよ。ハン、この遠坂凛を甘く見ない事ね。最高に最強なセイバーを召喚してやるんだから!」

「触媒なら用意してある」

「……は?」

 声高に宣誓した凛の意気を裂くように、綺礼は静かに告げた。

「触媒なら私の手元に一つばかりある。これはまあ偶然の産物ではあるのだが」

「……どういう事?」

「十年前の戦争直前、導師は目当ての英霊を召喚する為の触媒を欲し、捜索させた。その結果、目的としたものは確かに発見されたのが、不運にも移送の途中で紛失されてしまったのだ。
 それが何故か今頃になって出てきてな。おまえ達の後見人である私の元に届けられたというわけだ」

 結局時臣は別口から予備としていた触媒を手配し、無事召喚に成功して戦いに臨めたものの、彼は本来今現在綺礼の持つ聖遺物を用いてサーヴァント召喚の儀を行うつもりであったのだ。

 つまり時臣にとっての本命はそちら。彼が戦った第四次聖杯戦争において召喚されたサーヴァントは苦肉の策──それでも最高峰に位置する英霊を招く事に成功したが──でしかなかった。

「父さんの、用意していた触媒。もちろん、相当に名のある英霊の所有物だったんでしょうね」

「これが所有物だったかどうかは定かではないが、確かにこの触媒を用いれば最強の英霊が喚び出せるだろう。何より、導師が手に入れた一品であるのだからな」

 それは凛にとってこの上のない天啓だった。触媒のない凛に齎された──父が使う筈だった最強の英霊の依り代。それを使い召喚を行えば、その瞬間に彼女の勝利は確定するも同然だ。

「欲しければ早めに取りに来い。既に何騎かのサーヴァントの召喚を確認している。時間はない。戦いを始める前に脱落するなどという下らない末路を迎える事のないよう、さっさと召喚してしまえ」

 言うだけ言って向こうから通話は切られた。凛もまた、静かに受話器を置いてとりあえずの準備に取り掛かる。目を向けた時計が指し示す時刻は六時四十分。少しばかり早く──そして本来目覚まし時計が告げるべき起床の合図はなく。

 つまるところ、昨日はめざまし時計のセットさえ忘れており、確かに綺礼からの電話は凛にとってのモーニングコールとなった。



 今日も学校がある。凛は手早く寝間着から制服に着替え、リビングを無視して脱衣所へ。少しばかり跳ねた髪を整え、ツーテイルに結い、顔を洗ってもう一度おかしなところはないか確かめる。

 よし、と頷いて少女は寒々しい廊下を足早に駆け、リビングへと飛び込んだ。

「はぁ……暖かい」

 広々としていて、格調高い家具で誂えられたリビングには既に暖房器具の火が入れられており、室内を仄かに暖めている。

「あ、おはようございます、姉さん」

 微かに室内に漂っていた料理の薫りの元であるキッチンより顔を覗かせたのは、もう一人の少女だった。

「おはよう桜。今日も早いわね」

「何言ってるんですか姉さん。先週ジャンケンに負けたせいでわたしが今週の朝食当番になったっていうのに」

「あははー。わたしは別に朝食抜いてもいいんだけどね。こうして部屋が暖かければもう他に何も望まないわ」

 もはや既に習慣化しているが、凛はそれでも朝食は余り好んでいなかった。別段食べるのが嫌なわけではなく、早朝の空気というか、寝起きが悪いせいで全てが億劫になるのだ。まあ、桜が作る分には美味しく頂けるのだが。

「ダメですよ姉さん。朝食はちゃんと食べないと。パワーが出ません!」

「パワーねえ……」

 チラリと凛が視線を投げたのは、胸の前でぐっと握り拳を作った桜の奥にあるその胸自体だ。ほぼ同じものを食べて同じ生活をしている筈なのに、何故に我が妹はあんなに発育が良いのだろうと朝っぱらから親父臭い思考をする。

 そっと視線を下ろした自分の胸と見比べて、ばれないようにこっそり溜め息。食べた分だけ胸に栄養に行く我が妹君が恨めしい。その分、身体全体のバランス、スレンダーさでは凛が圧倒しているのだが。

「パワーと言えば姉さん。今日はやけにすっきりしたお目覚めですね」

「あーあー。まあ朝っぱらからあの陰険神父の声を聞けば嫌でも目が覚めるってものよ。それより桜ちゃん。起きてるのなら何で電話に出てくれないのかしら?」

 にっこり笑顔を浮かべる凛を直視し、桜は一歩後ずさり頬を引き攣らせる。

「だ、だってこんな朝早くにこの家に電話掛けてくるのなんてあの人くらいしか思い浮かびませんし。わたし未だにちょっと苦手で……」

「ほーぅ? じゃあその苦手な神父を姉であるわたしに押し付けたというわけね」

「いや、ほら、そういうわけではなくてですね。わたしが出るより姉さんが出た方がいいかなーとか、どうせ中々起きないんだし目覚まし代わりになればいいかなーと思ってその通りになってガッツポーズだったりするんですけど、あっ! お鍋が吹いてますっ!」

 言うや否や、そそくさとキッチンへと引っ込んでいった桜。

 ……逃げたわね。

 内心で凛は呟きつつ、まあいいかと欠伸を噛み殺した。もう間もなく朝食も出来上がるだろう。そして今日も変わらない平穏の中にある学校で一日を過ごす。

 けれどその平穏だけの世界も今日終わりを告げる。明日からは日常と非日常の交錯する世界が待っている。どちらも切り捨てず、どちらをも手に掴む。
 それが遠坂凛の決定だ。あの時──父の墓前で告げた言葉は守り続けなければならない約束であり誓いだ。何より──そんな自分が好きだから、遠坂凛は今ある自分を変えず戦いへと赴く。

 ふと視線を落とし、右腕に浮かぶ赤い紋様に目を向ける。

「……皮肉なものね。聖杯は、わたし達の決意を受け入れてくれたという事かしら」

 誰にともなく呟いて。
 彼女の視線の先には──半分に欠けた赤い令呪が刻まれていた。


T



 時間は約一週間ほど前に遡り、場所もまた移りイギリスはロンドンに居を構える魔術協会の総本山である時計塔のとある教室で、

「おまえら、いい加減にしておけよ……」

 仏頂面を顔面に貼り付けた長身の男が、目の前の良く分からない惨事を見つつ呟いた。

「あ、エルメロイ講師」

「げ、エルメロイ講師」

「あ、でも、げ、でもねぇよこの大馬鹿共がっ! 一体貴様らは何度教室を壊せば気が済むんだ!」

 大股にずかずかと近寄っていき、両の拳を振り上げて脳天に一発ずつ。いたぁっ!? とかげぇ!? とかいう悲鳴はもはや気にしない。

「いや、だって俺ら別に喧嘩も失敗もしてないっすよ」

「そうだそうだ、何で殴るんですか女生徒が選ぶ時計塔で一番抱かれたい男講師」

「本人目の前にわけの分からん渾名で呼ぶんじゃねぇよ!」

 妙な渾名を呼んだ方をもう一発殴り、それで二人の生徒は落ち着いたのか、じと目でエルメロイ講師と呼ばれた男をこっそり睨む。
 睨まれた男はガンをくれかえしてやりながら、懐から葉巻を取り出し火をつけ肺に吸い込んだ煙を吐き出しながら、教室の惨状を見渡した。

 教室の一角に何やら焼け焦げた跡があり、それが教室に悲鳴を齎した原因であった。

 そして原因の元凶であるつい先程殴り飛ばした二人の男子生徒は、ある意味で悪くはないが、ある意味では途轍もなく悪いという妙な状況だ。
 別段彼らは心の衝突により殴り合いから魔術戦に発展したというわけでもなく、ただ単に実験に失敗したというだけの話。

 それもただの失敗ではなく──成功を超えて、失敗したのだ。

 実験自体は簡単なものであったが、講師である男の下にある弟子達は妙に素養の高い連中が多かった。無意識なのか自覚してなのかは本人しか知り得ないが、講師の男は人の才能を見抜く事に長けていた。

 そんな彼の弟子達だが、大抵は能力と性格面で一致するほどの優秀な生徒達なのだが、偶にこのように素養だけは高いくせに力の制御の下手なもの、制御も上手いくせに魔術師としての螺子を忘れた者などがいる。

 力があり制御も出来て、頭も特別に良い連中は放っておいても勝手に成長しその内巣立っていく。これまでもそんな感じだった。
 だが今彼の目の前にいる二人のように、妙なところで抜けている阿呆共がいつもいつも厄介事を起こすせいで、彼の心労が絶える事はなかった。

 はぁ、と溜め息をつき、彼は手早く指示を出しとりあえず場を収める。優等生達はてきぱきと指示通りに動き、あっという間に場はそれなりの体裁を取り戻した。
 そしてそのまま今日は解散の旨を伝え、じゃあ俺達も──と逃げ出そうとした二人組の首根っこを引っ掴んだ講師の男は、ずるずる引き摺りながら執務室へと放り込んだ。

「ったく、おまえ達もいい加減学習しろ。何度同じ失敗を繰り返せば気が済むんだ?」

「いや、だってですね。悪いのはあの教室の強度っすよ。もっとこう、パァッと魔術の花火を打ち上げられるような設備が欲しいっすね」

「そうそう。実験なんだから最大の結果を求めるのは研究者として当然だと思うんですよ、プロフェッサー・カリスマ講師」

 顔の筋肉をぴくぴくさせる講師の男だったが、今更こいつらにこんな説教しても無駄かと息を吐いた。

「いやぁ、それにしてもすごいっすね講師。聞きましたよ、俺」

「ぁん? 何の事だ?」

 何の事か分からない講師の男は煙を吐きながら始末書の用紙は何処にやったかと探しながら答えた。

「マスター・V講師は十年前までただの学徒──しかも落ち零れだったって話じゃないですか。それが今じゃ色々な異名持ちで誰もが講師の弟子になりたがってるんですからスピード出世もここまでくれば相当ですよ。
 いやぁ、憧れるなぁ。俺も講師みたいな人生歩んでみたいなぁ」

 それが御機嫌取りのおべっかなのか、本当に単純な好奇心からなのかは分からないが、彼らの言葉で講師の男が喜ぶことなど有り得なかった。

「そら。さっさと始末書書いて出て行け。いつまでもおまえ達に付き合ってられるほど私も暇じゃないんだ」

「えー、なんでっすか。いつもゲームしてるくせに。あ、新作あったらやらせて下さいよ」

「仕事とプライベートを分けるくらいの分別はあるつもりなんだがな。おら、さっさと書いて出て行かないともう一発ずつ殴るぞ」

 うわ、今日の講師機嫌わりーと小声で言い合いながら、二人組の男子生徒はそそくさと始末書を書き上げ、提出し、退出するその前。

「あ、そうだグレートビッグベン☆ロンドンスター講師」

「……なんだ、まだ何かあるのか?」

「その右手の“刺青”──格好良いですね。今度どこで入れたのか教えて下さいよ」

 ぱたん、と扉が閉じられ、講師の男だけが一人部屋に取り残された。

 彼は短くなった葉巻を灰皿に押し付け、書かせた始末書もその辺りに放り、安物の椅子に腰掛けてから、己の腕に浮かんでいる刻印──生徒が刺青だと思ったソレを見た。

「……本当、一体何の因果かね」

 彼は魔術師としての素養がない。それこそ先程までこの部屋にいた二人と比して、数段劣る程度のものだ。本来彼のような者が講師という椅子につく事など有り得ない。人にものを教える人間が、教える側より劣っているなど笑い話にもならないからだ。

 ただ彼の妙な才能と、数奇な巡り会わせが今の状況を生んでいるだけの話。彼は講師の椅子などに満足していない。何処までも高く、何処までも遠くにある魔術の頂を今なお目指し欲している。

 たとえ自らの才覚がその場所へと辿り着くどころか、それなりの才能と人並の努力で辿り着ける場所にすら手をかけられない凡才でしかなくとも。遠い夢──届かない場所を諦める事だけは許されていなかった。

 だからこそ、おかしかった。納得などしていなかった。彼の物語は既に一区切りをついている。後は死ぬまで足掻き続けるだけの無様な生でしかないというのに。

 何故──ロード・エルメロイU世……ウェイバー・ベルベットの右腕に、令呪が宿っているのだろう。

「まだ終わるなって言うのかよ、ライダー。それとも、これから始めろとでも言うつもりなのか……?」

 聖杯戦争に招かれるべきは七人のマスターと七騎のサーヴァント。この魔窟──時計塔には彼以上の魔術師など五万といるというのに、聖杯はまたもウェイバーを選んだ。

「あるいは……まだ何も終わっていないのか。これはただの、十年前の続きなのか?」

 右腕に浮かんだ赤い紋様を眺めながら、あの頃より幾分成長した若輩魔術師は一人思索に耽る。どうするべきなのか、その答えを出すことが出来なくて。どうしたいのか、その答えが余りにも難しくて。

 いつまでも、その赤い絆を見つめていた。


U



 時間は戻り、現在は学校を終えた夕暮れ。赤い夕日が街並みを染め上げる頃、一人の少年は足早に商店街へと走っていた。

「っと。ちょっと遅くなったけど、タイムセールには間に合いそうだ」

 赤毛の少年はつい先頃まで生徒会長の友人に随伴し、学校の備品の修理などという無償の奉仕を終えたところだった。
 昨夜のうちに冷蔵庫に詰めていた食材の大半を消費してしまったので、今日は気合を入れて買い込みに望む所存だった。

 靴を滑らせ立ち止まる先に待つには一件のスーパー。大量に買い込むときに利用する場所だが、この時間、この場所は激戦区だ。一円でも安い品物を求める主婦の方々が行われるタイムセールの値引きに耳を澄まし目を光らせる刻限。

 限りある資源を巡っての押し合い圧し合いの戦いが、この自動ドアを潜り抜けた先に待っている。ごくりと喉を鳴らし、家で待つ者共の為に出来る限り多くの戦利品を持ち帰るぞと意気込んだ矢先──

「シーロウッ!」

「うおっ!?」

 突如背後より飛び掛ってきた何かに背中に抱きつかれ、士郎と呼ばれた少年はそれでも踏鞴を踏む事無く踏ん張った。

「……イリヤ。こんなところで何してるんだ?」

「あーもうっ。シロウ、何度言ったら分かるの!? 私はシロウの姉なんだから、イリヤお姉さまと呼びなさい!」

「いや……イリヤって姉って感じしないんだよなぁ。背丈もそうだし、その挙動とか」

「ううっ! でもでもタイガの事はフジネエって呼んでるじゃない!」

「藤ねえは一応あれでも教師だしなぁ。背も普通だし。時々しっかりしてるし。まあ、子供っぽいところが玉に瑕なんだけど」

 というかそこが全てなんだけど、と士郎は呟いた。

「で、イリヤは何でここにいるんだ?」

 結局士郎に姉と呼ばせる事の出来なかったイリヤスフィールは、ニヤリと擬音の聞こえそうな妖艶な笑みを浮かべ言った。

「あら。シロウはもう忘れちゃったのね。今朝の約束」

「やくそ──はっ!?」

 今朝の出掛けに士郎はイリヤスフィールと一つ約束をしていた。それは別段深い内容のものではなく、学校が終わったら一緒に買い物に行こう、という極々普通のものだった。

「だって言うのにシロウったら、こんな美人なお姉ちゃんをほったらかしにしてあのメガネとどっか行っちゃうし」

「いや、あの、それは……って、なんかミシって! 手が、頭蓋骨にメリメリッ……!?」

「あーあ。お姉ちゃん嫉妬しちゃうなぁ。そんなにあの男と一緒に居る方がいいだなんて。これじゃシロウとイッセイがデキてるってのも案外嘘じゃないのかもねー」

「ぶっ!? 俺と一成がそんな関係なわけないだろうっ! って痛ッ? イリヤ、どこにそんな力っ!?」

「まあいいわ。さっさっと買い物して帰りましょ。詳しい事は後でじっくり聞かせて貰うから。お布団の中か、お風呂ででも」

「いや待って。そんなバカな事できるわけ──ぎゃあああ!?」

「はいはーい。タイムセールの波の中へレッツゴー」

 ニコニコ笑顔の小柄な姉であるイリヤスフィールと、子牛の如く引き摺られていく赤毛の弟の変わらない日常風景。商店街に集う主婦の方々はまたあの姉弟ね、オホホと生暖かい目で見つめるばかり。

 店内に響く格安お徳品の叫びに混じり、少年の悲鳴が木霊していた。



「ただい、ま……」

「ただいまー」

 ぐったりとする士郎の両手には買い物袋が左右合わせて五つ。元気なままのイリヤスフィールの片手には一つと、余りに理不尽な仕打ちに涙の出そうな士郎は毎度の事だと諦めてだらりと下がる腕を引き摺り屋敷へと上がった。

「おかえり士郎、イリヤ」

 のそりと家の奥より現れたのは無精ひげを剃りもせず、跳ねた髪もそのままの、何処からどう見てもだらしのない中年にしか見えない一応の家主──衛宮切嗣だった。

「こりゃまた随分と買い込んで来たね」

「はは。まあウチは食い扶持多いし。これくらいあっという間になくなるだろ」

「キリツグ! 今日は鍋だよ!」

「お、いいね。随分を冷え込んできたし、炬燵で鍋を突きながら熱燗でも……」

「キリツグ、親父臭いわ」

 娘のしらっとした言葉の刃を心にぐさりと刺され、オーバーアクション気味によろめいた切嗣の傍らを、士郎の腕を引いてイリヤスフィールは駆けていく。

「ちょ、イリヤ! 引っ張るなって!」

「ほらほら、遅くなっちゃったんだし急いで作らないと。またタイガにぶちぶち文句言われるわよー」

 わいわいと叫びながら居間へと消えていく我が子らを見やり、切嗣は薄く微笑みを零す。

「あれからもう、十年か……」

 誰もいなくなった廊下で、一人呟く。

 衛宮切嗣が理想に燃え、執着して臨んだ戦いより十年。あの炎の中で全てを焼き尽くしてなお、今もまだ無様にも動いている己に自嘲を謳う。
 世界を救いたいとほざき、結局世界を焼き尽くした正義の味方を夢見た愚者は、今はもうただの父親としてこの場所にある。

 その父親という役すら、己には相応しくないとは知っている。けれどあの子らが自らの足で立ち上がるその日まで、この命を断つ真似は出来ない。

「……本当はもう、必要ないのかもしれないな」

 あの子達は既に自らの足で立っている。親の目など必要なく、自らの信ずるものの為に立ち向かう強さがきっとある。
 そう理解してなお切嗣が未だこの場所に留まり続けるのは──ただの未練なのだろう。

 世界を救うという大望。手にかけたものを、失くしたものを無駄にはしたくなくて足掻き続けた遠い日々。けれど切嗣が本当に守りたかったものはきっと、こんな小さな平穏でしかなかったのだ。

 だからこそ無様なのだ。目的をすり替え、手段を履き違え、ただただ理想に固執した結果──本当に欲したものを自らの手で殺し尽くしていた事に、全てが終わるその時まで気付けなかったのだから。

 その未練。その執着。失くしたものの上に立つ資格のないこの自分が、けれどこの暖かな場所にいつまでも居座り続けたいが為に、全てを誤魔化して生きている。

 それを滑稽と言わずなんと呼べばいいのだろう。

 背中に背負った余りにも大きな十字架の咎。その重さを抱え続け、死すら甘受出来ぬままに生にしがみ付く切嗣に、けれど静かに──忍び寄るように悪意は迫る。

 衛宮切嗣の物語は既に終わりを告げている。けれど、今度は我が子に刻まれる烙印の名を未だ彼は知り得ない。

 十年前の続きを求め、聖杯は今一度この地に顕現する。

 新たなる舞台役者と、前回を生き延びた全ての者を巻き込んで。終わった者を今一度呼び起こし、次代を担う者を呼び覚まして。

「キリツグー! 何してるのー?」

 遠く我が子の声を聞き、終わった筈の暗殺者は歩を進める。既に予兆の降りる冬木市でこれより起こる儀式を未だ知らず。
 平穏に身を埋めたまま、来る闘争のその瞬間まで、無様な父親を演じ続ける。

 ────第五次聖杯戦争は、もう間もなく幕を開く。









正義の烙印後書きの最後に載せていたオマケです。
後書きなんて見ねえぜな人は見てないと思うのでこっそりこっちに移動しておきました。



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