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scene.09












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 厚く空を覆う灰色の雲。
 冷たい夜気が肌を刺し、疎らに灯る街灯だけが街を照らしている。

 静寂に包まれた冬木市。出歩く人間の数はいつにも増して少なく、誰もが今宵開かれる惨劇に脅えるように、家の中へと閉じ篭っている。

 平穏の裏で行われている魔術師の宴の事など露とも知らない彼らであっても、街を包む気配……雰囲気とでも言うのだろうか。そんな異常を無意識に感じ取り、防衛本能を働かせている。

 ……そんなものは、逃避に過ぎないと知らず。圧倒的な暴威の前に、背を向けたところで何の意味もないのだと彼らが知るのは、まさに今この瞬間だった。

 衛宮切嗣がセイバーを伴い冬木市民会館へと辿り着いた時、既に異変の兆候は人知れず発動されていた。

 街に漂う魔力さえも霞む程の圧倒的な魔の気配。都合六騎。今宵倒された英霊の魂は水となって器に注がれ、黄金の輝きによって満たされている。
 市民会館の入り口を潜り、正面、扉一枚隔てた向こうに求め欲した聖杯がある。人の形をした器──愛娘の姿が。

「────」

 されど切嗣の心はもう動じる事はなかった。長き年月の果て、見果てぬ夢を抱いた男の終着点。多くのものを走り抜けた道の轍と変えてきた男が、今更、娘一人の命を惜しんで夢を諦める事など許されない。

 それは強迫観念にも近い衝動。理想という名の軋み。この胸を打つその音に従い、衛宮切嗣はとうとう、道の果てへと辿り着く。

 そして、扉を押し開け、コンサートホールへと踏み入ろうとしたその時──

「────っ!?」

「なっ───!?」

 二人に走る戦慄。

 切嗣が扉に触れるその直前、扉を突き破り、溢れ出したのは黒い汚泥のようなもの。真正面にいた切嗣を呑み込み、濁流となって押し流す。

「マスター……っ!!」

 手を伸ばすセイバーの掌は何も掴めず、汚泥の海に飛び込もうとした彼女を突如脳裏に閃いた直感が危機を告げる。これに触れてはならないと。指の一本でも触れてしまえば跡形もなく溶かされ、目前に迫った聖杯を掴む事さえ叶わなくなるのだと。

「…………っ!!」

 サーヴァントでは決して抗えない黒き呪い。それを直感にて感じ取ったセイバーは一足の内に飛び退き、コンサートホールより流れ出る汚泥から距離を取った。

 汚泥の海は止め処なく溢れ出し、刻々とその規模を拡大していく。泥の海の向こうに消えたマスターを追うべきか、状況の把握を優先するべきかを逡巡したセイバーへと、今度は頭上より滝となった泥が降り注ぐ。

「……くっ、これでは……!」

 直前で察知したセイバーが回避するも、天井は各所が溶けて泥が降り注ぎ、崩落もまた起き始めている。泥はやがて火へとその姿を代え、足元を炎の海に、視界を黒い煙で閉ざしていく。

 もはや聖杯や己がマスターどころの話ではない。一刻も早く離脱しなければ何も出来ないうちに泥と炎と崩落に巻き込まれる。

 ……マスター、どうかっ……!

 切嗣の身を案じながらも、セイバーは泥を避けて市民会館を離脱する。マスターを救うにはまず自分自身が生き延びなければ不可能なのだ。その背に崩落の足音を聞きながら、少女騎士は手を伸ばせば届く距離にあった聖杯に背を向けた。

 斯くして。

 最優のセイバーと、悪名高き魔術師殺しは分断された。この結末を願った本人ですら想定外の、大規模な災害を巻き起こしながら。


+++


 暗い海の底で目を覚ます。

 手足の感覚は曖昧で、上下の感覚は不確か。上も下もない場所で、水面に横たわるように見通せない無明の闇の中に浮かんでいる奇妙な感覚。今は、自分は浮上しているのか、沈んでいるのか、それすらも分からない。

「僕、は……」

 覚えているのは、コンサートホールの扉を押し開けようとした瞬間、視界を埋め尽くすタールのような、ヘドロのような黒い何かに抗う暇もなく呑み込まれたという事だけ。気が付いた時にはもうこの場所にいた。

 あの黒い汚泥がなんであったのかは分からないが、推察する事くらいは出来る。あんなものを宝具とするサーヴァントは今回の戦いの中にはいない。聖杯降臨の地。奪われたイリヤスフィール。今宵消えた幾体ものサーヴァント。

 アレは、聖杯より溢れ出たもの。

 誰が何を願ったのかは知らないが、黒い汚泥は間違いなく聖杯より零れ落ちたものに他ならない。無色の力、万能の奇跡。聖杯がそういうものであるのなら、アレもまた一つの願いの形なのだろう。

“いいや違う。アレは最初からそういうカタチをしたものであり、アレ以外のカタチなどないものだ”

 何もない闇の中に響く誰かの声。聴いた事のある声のような気がするが、咄嗟には思い出せない。

「……どういう、意味だ」

 だから切嗣はそう問い返す。声の相手が誰であれ、声の主よりも言葉の意味の方に酷く不穏なものを感じたからだ。

“それを知りたいのなら、さっさと目を覚ますがいい。その時おまえは答えを知り、私もまた答えを得るだろう”

 それで声は途切れた。

 ああ、言われなくとも目を覚ますさ。こんな場所で寝ている暇なんかありはしない。もう目の前に、手を伸ばせば届く距離に長い旅路の果てがある。後少しで、踏みつけてきた全てに報いる事が出来るんだ。

 眠るのなら、全てを終わらせた後に。
 世界の変革を見届けた後で、泥のように眠るのだ。

 ホルスターから引き抜いたのは愛銃であるコンテンダー。既に弾丸を装填されているそれを、虚空へと向ける。
 目を開けながら寝ているのなら、このくらいの荒療治は必要だろう。

 引き鉄は引かれ、撃鉄は落とされ、発射された弾丸は闇へと突き刺さる。ガラスに罅が入るように闇に亀裂が走り、砕け散った闇の向こうには────

「────な……」

 ────地獄が、広がっていた。

 見渡す限りの赤い地平。地を走る炎は道を、木々を、家屋を、空を、一切の容赦なく焼き尽くし、立ち昇る黒煙は薄暗い夜をなお黒く染め上げる。
 ほんの少し前までは静けさに閉ざされていた街並みが、今は赤い炎に包まれ、轟々と音を立てて燃えている。

 衛宮切嗣は、ただ立ち尽くしたまま呆然とその光景を眺めた。

 ──僕はまだ、夢を見ているのか……?

 そんな益体もない考えが脳裏を掠めるほどに、目の前の惨劇は現実離れしていた。

「目を背けるな衛宮切嗣。これは間違いなく現実だ」

 その声は、闇の中で聴いた声と同じもの。視線を傾けた先、胸に輝くロザリオを握り僅かに目を伏せた男が、そこに立っていた。

「言峰……綺礼……」

 切嗣が最も警戒していた男。時臣の影からサーヴァントを操り、監督役という立場から戦場を俯瞰していた男。そんな男が遂に、戦場へとその姿を現し、慄然と切嗣の前に立ちはだかった。

「混乱したおまえと戦うのは私にとっても不本意だ。必要ならば状況を説明しよう」

 そうして綺礼は語った。既に六騎のサーヴァントが消滅した事。あの泥は聖杯より溢れ出たものである事。そしてその泥が、今街を焼き焦がしているのだと。

「正直、私もまさかこんな事態になるとは想像だにしていなかった。私が聖杯に願ったのはおまえとセイバーの分断、欲を言えば目晦まし、それだけの事だ。
 ただそれだけの願いを、聖杯は周囲一帯を焼き尽くす事で実現した。この意味が、おまえには分かるか?」

 万能の奇跡、無色の力の渦。聖杯はそういうものであるとされている。行き場のない膨大な魔力に指向性を与えるのは願った者の祈りだ。
 切嗣との一対一での対面を望んだ綺礼の心に偽りはないのだろう。けれど事実として綺礼が聖杯に願った結果がこの災厄であるのなら、この光景は言峰綺礼の願望の結果に他ならない。

「違うな、間違っているぞ。この災厄は私の願いなどではない。私には、そもそも願いを持つだけの理由がないのだから」

「…………」

 そう、言峰綺礼という男からは何の情熱も感じられない。あらゆる分野で相応の結果を残すが、全て極める前に次の分野へと移る事は、以前見た調書に記されていた綺礼の過去がそう物語っている。

 何かに入れ込む事はなく、何かを求めているわけでもない。この男には、人にあるべき熱がどうしようもなく欠落している。
 淡々と与えられた任務をこなし、そこに理由や意味を求めない。考え得る最大の結果を残そうとも、人々の賛辞ではこの男の心の空虚は埋められない。

 信仰に縋っても、己が肉体を痛めつけても、魔の門徒となっても、綺礼は何の感慨も覚えなかった。あらゆる出来事に、関心を抱けなかった。

 だからこその不可思議。何も求めないこの男に、聖杯は何故令呪を託したのか。奇跡にさえも興味のない男の何を見出し、この戦争へと駆り立てたのか。

「その得心を、実際に聖杯に触れる事で私は得た。おまえとの邂逅こそが私が求めたものだと思っていたが、この聖杯には、より明確な答えが潜んでいた」

 綺礼は膝を折り、地を焼き焦がす泥を掬い上げた。掬い上げた端から零れていく汚泥は綺礼の掌を焦がしはしなかった。

「先にも言ったように、この黒い泥や街を焼く火災は私の願いによって生まれたものではない。最初から聖杯を満たしていたものが零れ落ちただけであり、そして──おまえ達が求めた奇跡の正体だ」

 万能の願望器の中に渦巻く黒い泥。無色と信じられていた力の渦は、この泥によって黒く汚染されている。
 今や聖杯の奇跡は指向性のない渦ではなく、この泥によって一定の指向性によってしか願いを叶えられないものへと変貌している。

「──即ち、破壊。この聖杯は願った者の祈りを破壊によってのみ叶える。私がおまえ達の分断を願った結果、聖杯は周囲一帯ごと焼き尽くす事でその実現を図った。
 本来ならば転移程度で済ませられる願いを、聖杯は、こんな形でしか叶えられなかったのだ」

「馬鹿な……」

「目の前の現実を見るがいい、衛宮切嗣。今おまえの目に映っているものはなんだ。何よりも明確に、雄弁に、私の言葉を真実だと告げているだろう」

 腕を広げた綺礼の向こうで、焼け焦げた家屋が崩落する。遠く聞こえるのは誰かの声。救いを求める声か、嘆きの声か、倒壊と火の爆ぜる音で良く聞き取れないが、それが慟哭から生まれたものだという事だけは分かった。

 それでも。

「……ほう?」

 泰然とした姿勢を崩さない綺礼へと切嗣は銃を突きつける。

 確かに目の前の現実は本物だ。街を包む大火は真実で、聖杯が綺礼の願いを聞き届け、火災を巻き起こしたのは事実だろう。けれどそれは、聖杯が泥に汚染されているなどという話の根拠にはなりえない。

 聖杯に眠る力は無色だと信じられてきた。それが今更になって破壊でしか願いを叶えられないだなんて戯言を信じられる筈がない。
 この火災は綺礼の願いが生んだもの。聖杯がこの男の深層意識を読み取り巻き起こした破壊に違いない。

「僕はおまえの言葉を信用しないし認めない。そんな戯言で惑わそうというのなら甘く見られたものだ。そこをどけ。僕は是が非でも聖杯を手に入れる」

「……まあ、そうだろうな。何を聖杯に求めているのかは知らないが、縋るほどの祈りがあるのなら私の言葉などに耳を傾けないのも当然か。
 いいだろう、ならば私は此処でおまえを倒し、その後で生まれ出でるものを祝福するとしよう」

 僧衣の裾を払い引き抜かれたのは左右三対の黒鍵。十字架を模したその刃は、教会代行者でも最近は得物とする者の少ない概念武装。

 魔術師殺しの手にする魔銃の照星が言峰綺礼を捉える。
 願いなき求道僧は腰を沈め足に力を深く込める。

 切嗣が撃鉄を撃ち落とすのと、綺礼が地を蹴ったのは全くの同時。

 此処に最後の幕が開く。
 共にその最初から互いを敵視していた者同士が遂にその戦端を切る。


+++


 セイバーが泥を避けるようにして市民会館の外へと離脱して程なく、今し方まで威容を誇っていた建造物は音を立てて崩れ落ちた。
 猛る炎に巻かれ噴煙は一層燃え広がり、視界は覆われ、建物が瓦解する音は軋みの如くセイバーの耳朶に轟いた。

 マスターである切嗣の安否も心配だが、それ以上にイリヤスフィール……引いては聖杯の行方が気に掛かる。
 この身を構成するエーテルが解けていないところから見ても、聖杯は無事であると思われる。ただ、この会館の中にイリヤスフィールがいたのだとしたら……。

「浮かない顔をしておられますね。ですが貴方の心配は杞憂だ、無謬の王よ」

 煙る視界の向こうから、聴き慣れた声が響く。崩れ落ちた瓦礫を踏み荒らす具足の音。未だ開けぬ視界の先にいるのは、

「モードレッド……」

 足音が鳴り止む。距離を置いた場所で同じ顔を持つ少女は立ち止まった。

「既に戦いは最終局。残るサーヴァントも私と御身だけ。さあ、今度こそ決着を着けましょう、王よ。この──カムランの丘の上で」

 一閃。

 噴煙を斬り裂く白銀の刃。暴風を巻き起こしたモードレッドの一刀は、覆い尽くされていた視界を鮮明にする。

「ああ……」

 開かれた視界の先にあったのは、赤い世界。
 地に突き立つは焼け落ちた家屋の柱や破片。
 空を染めるのは、洛陽の赤ではなく炎の赤。

 細部は違えど、この光景を知っている。
 血塗れの丘の上で、剣を支えに細めた瞳で、何度となく見渡した風景。

 胸に鋭い痛みが走る。
 時代を経ても、戦場が変わっても、この身が行き着く先はいつも此処なのか、と。

「そこをどくがいい、モードレッド。私は聖杯を手に入れなければならないのだ」

 歩みを止める事は許されない。この血染めの丘の向こうに願ったものがあるのなら、尚の事。
 もうすぐそこにあるのだ、全てを叶える奇跡が。あの忌まわしい終わりを打ち消せるものが。

「邪魔をするのなら、今一度斬り捨てよう。あの時のように」

「────ハハッ!」

 悲痛に決意を滲ませ、剣の握りを強くする少女とは裏腹に、同じ顔の少女は愉快げに口端を歪めた。

「ええ、出来るものなら。ですが私をあの時と同じと思ってもらっては困る」

 片手で器用に剣を振り回していたモードレッドが、剣を下段に構えて両の手で握る。その構えは正面に立つセイバーと同じ。鏡写しのよう。

 型に縛られない戦い方を得手とするモードレッドであるが、それは騎士としての正道の剣を扱えない事と同義ではない。
 彼女の剣技はどんな立ち振る舞いをしようと、勝つことを前提としたもの。相手の裏を掻き、翻弄し、勝つ為に手段を選ばないが為の無縫の剣。

 されど今、眼前に立つのはその剣を破りし者。かつて一度、あの落日の丘でモードレッドの命を奪い去った者。同じ手段で立ち回れば、同じ結果に行き着くのは当然。であれば、裏を掻く事を信条とするのなら、これもまた彼女の流儀。

「……付け焼刃の見様見真似で、私に届くと思い上がっているのなら浅はかだと、忠告しておこう」

「これでもキャメロットの剣術は修めておりますので心配は無用。私の心配などより御身の心配をされよ。
 御身の手に私の腹を裂いたロンゴミニアドはない。同じ結末は、ありえない……!」

 地を蹴り、突風となってモードレッドが走る。対するセイバーは腰を落とし、迎撃の構えを取る。
 ぶつかり合う剣と剣。咲き誇る極大の火花。二人が身体に帯びる多大な魔力が絡み合い、電撃のように鎧を擦過し、陣風のように大気を震わせる。

「今一度問いましょう、王よ。貴方は何故聖杯を求めるのです」

 ギチリと軋む剣の向こうで、静かな声でモードレッドが問いかける。

「全てをやり直す為だ。あの終わりを覆す為だ。私は王になどなるべきではなかった。だから、聖杯に選定のやり直しを請う」

 全ての悲劇を、アルトリアが王であったが故に起こった惨劇をなかった事にする。

 忠義の騎士は赫怒に塗れ、失意の内に死する事もなく、騎士の中の騎士として歴史にその名を残し。
 理想の騎士は人々の誉れとしてあり続け、無念を抱くことなく最愛の人とその生涯を共にする。

 国の崩壊で憂き目を見た民の嘆きを消し去り、より長く国の平穏を保つことの出来る王を願う。
 その果てには、目の前の背徳の騎士にもまた、救いがあるだろう。

「……誰が、そんな事を貴方に願ったというのです」

 搾り出したかのような声。俯いたモードレッドは、唇を震わせ口火を切った。

「なに……?」

「太陽の騎士がそう言いましたか。理想の騎士がそう請いましたか。貴方にあの破滅の責任を取れと。民がッ! 歴史のやり直しを求めたことがありましたかッ!」

「そんなものは必要ない。誰しもが救いを求めて、理不尽な終わりに涙した筈だ。こんな終わりは認められない、と」

 だからこそガウェインは今一度現世に蘇り、今度こその忠義をと求めた。だからこそランスロットは狂気に身を委ね、不甲斐無き王に断罪の剣を振り下ろす為にこの己の前に姿を現した。

「滅びを華する武人である彼らがそうであるのだ、力なき無辜の民が彼ら以上に嘆き、悲しみ、絶望した事は想像に難くない。
 だからこそ私は救いを求める。己が巻き起こした悲劇の責任を取る。何故それが、貴方達には分からない……?」

「分かっていないのが貴方だからでしょう……!」

 裂帛の気迫と共に剣を払う。風を帯びた不可視の剣を握る王は地を滑り後退を余儀なくされる。それほどに、今の一撃には全霊の力が込められていた。まるで、彼女の怒りを表すかの如く。

「民は、騎士は貴方に理想であれと願ったでしょう。それは事実だ。そして貴方は本来なら有り得ない理想として在り続けた。いつか破綻すると誰もが思った理想のまま、貴方はその最期まで誰もの理想で在り続けた」

 なのに。

「何故それを否定しようと言うのです……何故全てを消し去ろうと言うのです……何一つを間違えていなかった貴方が……何故……ッ!」

「モードレッド……」

 悲痛に顔を歪ませるモードレッドの姿に、セイバーはただ驚きを覚える他ない。

 彼女の知るモードレッドという騎士は、同輩の騎士を扇動し、民を唆し、国を崩壊へと導いた逆賊そのもの。
 守りたかったものを守りきれず、聖杯などという荒唐無稽な奇跡を欲する浅ましさを嘲笑うものと思っていたが、あの森の戦いでも、今この時でも、彼女は、

「モードレッド。何故貴方がそのような顔をするのです」

 それは今にも泣き出しそうな幼子の顔のよう。生前、唯の一度垣間見ただけの相手とはいえ、その面貌は自身と瓜二つのもの。どう見間違えようと、王の無様な足掻き冷笑しているようには見えない。

「私の理想を打ち砕き、玉座を簒奪せんと目論んだのは他ならぬ貴方だ。事実、遠征の隙を突き玉座と騎士の半分を掌握もした筈。
 何故今更……貴方も聖杯に願うのは王の選定であるなら、私が私を否定したところで貴方にとって何の関係もないでしょう」

「────……ッ!!」

 その言葉に、モードレッドは下を向いていた顔を上げる。宿るは様々な感情が綯い交ぜとなった得も言われぬ顔。

「……私がただ、玉座欲しさに叛逆を企てたとお思いか」

 モードレッドの手にする剣が奇怪に蠢く。国の宝として宝物庫に収められていた名剣クラレント。王位簒奪の証にモードレッドが持ち出した見目麗しい白銀の剣。
 それが今、赤黒く染まっていく。刀身は歪み、より長大に、禍々しく変貌していく。彼女の心を、その上澄みを汲み取るように。

「私を息子(むすめ)と認めなかった貴方への憎しみだけで、全てを敵に回したのだと、本当にそう思っているのなら──」

 炎が染める地面に血の脈動が走る。それはあの落日の丘の再現。多くの騎士が零した血が頂より流れ、血の河となって大地を赤く染めていく。

 不実の子。妖妃モルガンの姦計により生まれしアーサー王のクローン体(ホムンクルス)。それがモードレッドの正体だ。

 モルガンからの推薦状だけを手に、王城キャメロットへと訪れたその時より、己の正体を知り、王に詰め寄ったあの時まで、清廉潔白な騎士であったモードレッド。

 ホムンクルスであるという歪な生まれゆえに普通の人間に対する妬みはあったが、理想とされた王への強い憧憬がそれに勝り、誰よりも騎士の模範足らんと務めた。母であるモルガンが彼女に課した、玉座簒奪の目的を忘れたまま。

 全てが狂い出したのは、己の出生の秘密を知ったあの時。

 それでも完璧と謳われた王の血を引く己を誇り、ホムンクルスである事もまた受け入れようと思っていた彼女が、王に父としての愛を求めたのは当然の事であり、けれど返答は無慈悲なものだった。

 彼女にとっての叛逆とは、つまり────

「────王は、人の心が分からないッ……!」

 王にそう吐き捨て、城を去ったのは誰だったか。

 けれどそれは王城に集いし騎士達の総意。
 たった一言に込められた糾弾。

 誰しもがそれぞれがそれぞれに王という存在の理想を見て、現実とのギャップから生まれし弾劾の剣。
 ある騎士は軍備を整える為に村を滅ぼす必要などないと言い、ある騎士は余りにも無慈悲な王の断罪に埋められない溝を感じた。

 モードレッドがその言葉に込める意味とは、たった一つ。

 不実により生まれしこの身が求めたものを終ぞ与えてくれなかった誰かへの叛逆。たった一つ、たった一言願ったものが与えられていたのなら、あの結末も、こんな戦いも、きっとなかった筈なのに……!

「“我が麗しき(クラレント)────”」

 紐解かれる真名。
 血に染まった丘の上で、王を討つ剣が明かされる。

「“約束された(エクス)────”」

 迎え撃つセイバーもまた最強の聖剣を以って応えるしかない。

 此処は戦場……されど住宅地にも程近い街の中心点。聖杯の泥が巻き起こした火災があろうと、まだ生きている者もいる筈。そんな状況下で大規模な破壊を撒き散らす宝具を放てば被害はより甚大なものとなる。

 セイバーの狙いは相殺だ。クラレントの放つ赤雷を相殺し、これ以上の被害拡大を食い止めた後、白兵戦にてモードレッドを下す。

 聖杯を手に入れる為ならば如何なる犠牲も払うと覚悟したこの身が、何を悠長な事をと誰かは嘲笑うかもしれない。けれど、この一撃は止めなければならないと、彼女の内なる何かが警鐘を鳴らしている。

 高まり行く赤き雷光と黄金の輝き。
 最強の聖剣と、王を討った剣とがその煌きを極限まで高め────

「“────父への叛逆(ブラッド・アーサー)……!”」

「“────勝利の剣(カリバー)……!!”」

 極光となって、ぶつかり合う。

 直線状に放たれる血色の雷光。触れる全てを焼き尽くす、憎悪の稲妻。
 射線上に存在する全てのものを押し流す光の波濤。気高き黄金の一閃。

 『最強の幻想(ラスト・ファンタズム)』とも称されるセイバーの剣、エクスカリバーの出力に勝る聖剣はこの世には存在しない。魔剣であっても同格に近いものはあっても上回るものなど有り得ない。他の武装を見渡しても、一握り以下だろう。

 人々の想いによって形作られ、星が鍛え上げた神造兵装。他を寄せ付けぬ頂点の一つ。それと曲がりなりにも打ち合えるクラレントの異常性は、彼の剣の来歴に由来する。

 装飾の美しい、言ってしまえばただの名剣でしかないクラレントが、エクスカリバーと同等の出力を獲得しているのは、この剣がアーサー王に対する特効性を有しているからに他ならない。

 聖槍ロンゴミニアドにその腹を貫かれながら、それでもモードレッドは最後の力を振り絞り、王に致命傷を与えた。
 王を討った剣、アーサー王を倒したにも等しい剣は、持ち主が英霊となる事で彼の王に対してだけは本来の格以上の性能を発揮出来るようになった。

 本来ならば力負けする筈のエクスカリバーと、対等に競い合えるほどに。

 王の手に聖槍が残っていたのならまた話は別だったのだろうが、剣の英霊として招かれたアーサー王に槍の武装はない。
 どのような威力を誇ろうと、『アーサー王と同等』というある種の概念に守られたクラレントの一閃は、裏を返せばエクスカリバーは破り得ないという事に他ならない。

 下回りはしないが、上回る事も出来ない不実の剣。されど、モードレッドにとってはそれで必要充分に過ぎた。

 赤雷と光波がぶつかり合い、弾け、相殺し合おうと、周囲への被害は完全にはゼロにはならない。地を削った砂礫が舞い、巻き起こった風が視界を奪い去る。

 極大の一撃を放ったが故に生じる一瞬の隙。
 両者共に抗えぬ筈の硬直を、

「アァァァァァサァァァァアア……!!」

 この瞬間を最初から狙っていたモードレッドは打破し、煙る砂塵を引き裂きながら、セイバーに先んじて動き間合いを詰める。

「……くっ!」

 脱せない硬直に足を絡め取られたセイバーは、魔力放出の噴射によって無理矢理に腕を動かし、

 両者の剣が、交差し────

 鎧を斬り裂く音と共に、

 ────血の華が、咲いた。


+++


 衛宮切嗣は言峰綺礼の戦闘方法を人づての情報でしか知り得なかった。

 それも当然、聖杯戦争の監督役にして中立を謳う教会所属のこの男は、今まで一度たりとも戦場に姿を見せた事はなく、これが言わば初戦。
 曲がりなりにも手の内を晒し、此処まで勝ち上がってきた切嗣とでは情報の差に開きがある。

 故に切嗣の取るべき初手は明白。
 遠坂時臣に対しそうしたように、まずはこちらの最大戦力で仕掛ける。

 ただ時臣の時と明確な違いがあるとすれば、最早手の内を隠す段にはないという事。残る敵はこの男だけ。目の前の怨敵を撃滅すれば、後は聖杯の頂へと駆け上がり、胸に抱いた祈りを叶えるだけだ。

 出し惜しみはない。
 これまで秘して来た衛宮切嗣が秘奥──起源弾を初手から撃ち放つ。

 対象に着弾した時の魔術回路の励起具合によっては一撃で致命傷を与える起源弾。最大励起状態でなくとも、それは高圧電流の流れる回路に一滴の水を落とすようなもの。
 防御不能のスプリングフィールド弾で肉体を破壊し、起源弾で魔術回路を止め、次の一手で止めを刺す。

 引き鉄が引かれ、撃鉄が落ちる。破砕音と共に撃ち出された弾丸は、迷い違わず一直線に切嗣へと迫る綺礼へと吸い込まれていく。
 されど相手も一流の代行者。踏んだ場数は切嗣にも劣らない。銃口が己を向いた瞬間、綺礼は目を見開き、弾丸が発射されたその刹那、左方への跳躍で必死の魔弾を回避した。

 生身の人間が銃弾が撃ち出された後に躱すなどという芸当は到底不可能だ。けれど綺礼は銃口の向き、指先の動きから行動を予測し、鍛え上げた肉体と、積み上げた経験で躱せぬ筈の一撃を回避した。

「────」

 切嗣の動きが一瞬止まる。滑らせた視線の先には即座に体勢を整え、高速で疾駆する獣の姿。右手が動く。指の間に挟み持つように握られていた三本の黒鍵が振り抜かれ、宙を走り空を裂く。

「──固有時制御(Time alter)三倍速(triple accel)

 それに先んじ、常に最悪を想定する魔術師殺しは無論、銃弾が弾かれる、ないし避けられる可能性を初めから考慮しており、綺礼が回避した後に地を蹴った直後には、詠唱が紡がれていた。

 起源弾が魔術師殺しとしての秘奥であるのなら、こちらは魔術師衛宮切嗣が秘奥。体内時間を加速させ、常時を凌駕する加速を手に入れる。
 体内にアヴァロンという規格外の治癒能力を宿す宝具を隠し持つ切嗣ならば、生身での限界である二倍を超える三倍での加速を可能とする。

 高速で振り抜かれた黒鍵は綺礼の手を離れ、切嗣を串刺しにせんと接近する。死徒を容易く駆逐する黒鍵投擲も、その速度が三分の一となれば回避など容易。

「…………っ!?」

 だが……そう。この一手は、既に一度、戦いの中で使ったもの。綺礼自身はその戦いを直接見ていなくとも、相手が三倍に加速すると分かっているのなら、それに対する処方もまた幾らでも覚悟出来る。

 切嗣が迫る三本の黒鍵を回避しようとしたその後ろ、勢いを落とすことなく迫る綺礼の手の中にはあるべき残り三本の黒鍵がない。右手の黒鍵を切嗣に向けて放った次の瞬間、綺礼は左の黒鍵もまた既に抜き放っていた。

 投げた先は正面ではなく、頭上。切嗣の回避行動を事前に予測し、逃げの道を封じる為の牽制の一手。正面の黒鍵を回避しようと左右に避ければ頭上より貫かれる。避けなければ正面の黒鍵により串刺しだ。

 切嗣は既に動きを縫われた。これまで駆け抜けた戦場の中で晒した情報は全て綺礼の戦術予測に利用され、こうして追い詰められている。

 だが、だからと言って易々と刺されてやるわけにはいかない。この先には願い縋ったものがある。こんなところで燻っている時間はない……!

「…………なっ!?」

 綺礼の驚きは切嗣が全く予想外の一手を打った事に対するもの。

 如何なる動きをしようと、黒鍵による被弾の避けられない状況であるのなら、ダメージを最小限に抑える為に左右への回避を選択する筈。それが最も賢く、綺礼はその直後を狙い撃つべくもう一手を仕込んでいたが、

「ああああ……!!」

 切嗣はあろう事か、正面の三本の黒鍵の雨の中にその身を投げ出したのだ。

 如何にその動きが目で追えているとはいえ、完全な回避は不可能だ。そうさせない為に綺礼は投擲しているし、事実、一本目の黒鍵は切嗣の腹を裂いた。

 けれどそれでも魔術師殺しは止まらない。血を脇腹から吐き出しながら、それでも猛然と前進し、残る二本の黒鍵をもまたダメージ覚悟で突き進む。

 二本目の黒鍵は左腕をぱっくりと切り裂き、三本目の黒鍵は腿を過たず貫いた。

「ぐっ……!」

 それでも、切嗣は止まらない。痛みに目眩を起こしそうダメージを受けてなお、愚直に前へと進み続ける。

 開けた視界の先、突破した刃の雨の向こうには、徒手空拳の綺礼の姿。綺礼の戦術予測をダメージ覚悟で突破したのだ、敵が無防備であるのは当然の事。

 切嗣は右手に握ったコンテンダーを振り上げる。三倍の勢いに任せ銃底で殴りつければそのダメージは計り知れない。

 しかし。

「──────」

 綺礼は、その更に先を行く。

 徒手空拳。無防備。無手。ああ、そうだろう。綺礼の策は左右へと逃げた切嗣を追撃する事で完遂を見る筈だった。よもや、敵がわざわざ最も危険の大きい正面を突破して来るとは思いもしなかった。

 それでも綺礼には見えている。常人を軽く凌駕する三倍速も、黒鍵の被弾によって勢いを僅かであれ落としているし、切嗣自身の肉体強度は綺礼には遠く及んでいない。

 振り上げられたコンテンダー。迫る銃底。受ければ腕の一本も持っていかれるだろう。ああ、ならばくれてやろう。ただしその代償は、その命で償って貰う……!

 綺礼は回避行動を取ることなく、迫る切嗣に向けて更に疾駆、肉薄し、振り下ろされるコンテンダーには左腕を差し出し、直後、骨の砕ける音を聴く。

「────」

 それでも、綺礼には微塵の動揺もない。最初から覚悟したダメージなど、既にして思慮の外。踏み込みを強く、体幹は揺らぎなく。生み出す力は捻転を呼び、生まれた力は全て右の拳へと集束する。

「────破ぁッ……!」

「…………ッ!」

 胸の中心を穿つ衝撃。綺礼の縦拳は切嗣の胸の中心を捉え、胸部諸共その内臓をも粉砕する。
 吹き飛ぶ切嗣。地面を跳ね、倒壊した家屋の柱へと叩きつけられ、噴煙の中にその屍骸を晒す。

 中国武術、八極拳の流れを汲む綺礼独自の殺人拳法。教会代行者という先入観が、初手が黒鍵であったという事実もあり、切嗣には綺礼がこの手の武門を習得しているなどとは予想だに出来なかった。

 その結果がこの結末。綺礼の手には確かな感触。胸を貫き、骨を砕き、臓腑を破壊した感触が確かに残っている。

 戦いの決着など所詮、一瞬で決するもの。長く宿敵と思い込んできた男もまた、その一瞬の交差によって倒れ伏した。幕切れとしては呆気なく。綺礼の心には他の全てと同じく、何の感慨も生まれない。

「……やはりおまえは、私とは違うのだな」

 聖杯に渇望する祈りのない綺礼と、縋らねばならない何かを持つ切嗣。その事に気が付いたのはごく最近の事であり、心に同じ空虚が仮にあったのだとしても、それは綺礼とは違う寂寞の証なのだろう。

 ……私の答えは、聖杯の中にこそある。

 聖杯に触れた瞬間、電撃のような理解と共に得た回答への道筋。聖杯の中に蠢くもの、無色の力を汚染した黒い汚泥その正体。
 悪であれと願われたもの。最初から人々に生まれを望まれぬもの。その生誕と行く末こそが、綺礼の心に答えを齎す。

 長きに渡る旅路の果て。聖杯がこの言峰綺礼をマスターとした理由。それが己が誕生を手助けさせる為のものだったのなら、全ての涜心と共に、その誕生を祝福しよう。

 綺礼は終わった戦いに背を向ける。
 目指す先には聖杯の眼前。
 空に高く昇る暗黒の太陽。

 その下で、この意味なき生に意味を求めよう────

「────固有時制御(Time alter)四倍速(square accel)

「何……っ!?」

 瓦礫の山を蹴破り、先の三倍を越える加速で以って猛然と切嗣は襲い掛かる。砕けた筈の心臓は再生し、穿たれた胸は既に閉じている。

 切嗣自身、己自身の蘇生には驚きを禁じえなかった。戦いの前に冬の森で鍛錬と平行しアヴァロンの性能はある程度確かめたつもりであったが、流石に死からの蘇生を試す事など出来なかったからだ。

 それ故に先程までの切嗣の限界認識は三倍速。身体へのダメージは深刻だが、死にはしないというレベル。しかしその先、死からの蘇生が可能であるのなら、不可能を可能とし、限界を凌駕する四倍速を可能にする。

 切嗣自身が理解していなかった死の先。ならば当然、綺礼の驚愕はその更に上を行く。確実に心臓を砕いた筈の敵が猛然と迫って来るのだ、恐慌し錯乱してもおかしくはないほどの異常だ。

 振り返る。目視。既に敵は目前。駆ける最中に秒を切る速度で再装填は行われ、魔銃には必滅の魔弾が装填されている。
 向けられる銃口。敵を正面に捉える。直後。視界から消失。左方。綺礼の腕の損傷を利用し、守りの薄い左方から切嗣が迫る。

 その直前、切嗣はコートの裾から引き抜いたナイフを投擲しており、今度は綺礼が追い詰められる。正面には高速で迫るナイフ。左方には魔銃携えし魔術師殺し。目では動きを追えても、肉体が思考に追いつかない。

 ナイフを避ける時間はない。切嗣に対応する時間もない。どちらかに対処すれば、どちらかに貫かれる。ならば当然、切嗣がそうしたように、綺礼もまた最大の脅威に対処しようとしたその時、

「…………なっ!?」

 今度の驚愕は切嗣のもの。綺礼が切嗣へと向き直り、ナイフがその身を切り裂こうとした瞬間、足元に燻っていた炎の下にあった泥が蠢き、まるで、綺礼を守護するように盾となってナイフを呑み込んだ。

 さしもの切嗣もそんな異常を目にしては、追撃をかけられない。蠢き蔓のように伸びた泥から逃れるように、地を強く踏み込み、一足の内に間合いを離す。

「ほう……聖杯よ、おまえは私の勝利を願うのか」

 じくじくと蠢く闇。
 綺礼の足元に蟠る汚泥は触手のように立ち昇り、綺礼の周りで踊る。

 切嗣にはその光景が信じられなかった。無色の力。意思なき力の渦が、自らの意思によって勝者を選定するなどと。

 ……ならば、本当に聖杯は……。

 あの黒く禍々しい何かによって汚染されているのか。聖杯の力をその何かは利用し、そして綺礼に味方している。

「私としても驚きを禁じえないが、これで分かっただろう、衛宮切嗣。意思なき力の渦に宿る黒き意思。汚染の原因、聖杯の正体。そしてどうやら、聖杯は私に勝者となる事を望んでいるようだぞ?」

「…………」

 認めない。

 そんな強固な意志を込めて切嗣は睨みつける。ああ、別に構うものか。聖杯が綺礼に味方しようと何ら関係がない。勝つのはこちらだ。聖杯を掴むのは衛宮切嗣だ。だからこんなところで膝を屈するわけには行かない。

 ただ、それでも。

 聖杯が、求め欲した奇跡が、切嗣の願いを叶えられないものであったとしたら。
 これまでの道程が、犠牲としてきた全てのものが無為に落ちるのだとしたら。

「…………ッ」

 ギチリと奥歯を噛み、切嗣は心に沸いた弱音を噛み砕く。全ての答えはこの戦いの向こうにある。聖杯の正体を知るのは、この敵を下したその後。今は、目の前の敵を突破する。

「覚悟は決まったか? では来るがいい。この世全ての悪意でその身を焦がし、生まれ出ずるものの贄としよう……!」

 綺礼が腕を振るう。その意思に呼応し、泥が一斉に切嗣へと殺到する。触れた全てを焼き焦がし、跡形もなく呑み込む不可避の汚泥。
 市民会館から溢れ出た泥に切嗣が溶かされなかったのは、それが綺礼の願いによるものだからだ。

 あくまで綺礼が聖杯に願ったのは切嗣とセイバーの分断、そして切嗣との対峙。泥の海に溶かされては綺礼の望みは叶わない。

 けれど今回は別だ。綺礼にも、聖杯にも切嗣に情けをかける理由はない。綺礼の望みは聖杯の完成と内なるものの誕生であり、聖杯の望みと合致する。数十、数百にも上る悪意の触手が切嗣を飲み込まんと襲い掛かる。

固有時制御(Time alter)────」

 既に二度、固有時制御の揺り戻しのダメージを被っている切嗣は、三度目の詠唱を開始する。如何にアヴァロンがどれほどの傷もダメージも修復するとはいっても、ダメージそのものがなかった事になるわけではない。

 黒鍵に貫かれた傷み、時間流の調整による揺り戻しのダメージ。何より、胸を貫いた綺礼の拳のダメージは色濃く残り、精神にはより多大なる負荷が生じている。

 常人ならば発狂するほどの痛みに耐え、噛み殺し、それでも切嗣はまっすぐに立つ。その胸に秘めた理想を違えないが為、踏みつけて来たものの全てに報いる為、残る全ての力を振り絞り、この敵を越える……!

「────十倍速(last accel)

 死を超越する時間加速。一秒を裁断し、繋ぎ合わせて十秒へ。十秒を切り刻み、繋ぎ合わせて十分へ。裁断の時針、紡がれる時。全てのものを置き去りに、限界のその先へと加速する。

「…………なん、だと……!」

 乱舞する悪意の触手。五月雨のように降るそれを、切嗣はいとも容易く突破する。加速についていけない肉が断裂し血を撒き散らしながら、骨が軋み、砕ける音を何度となく聴きながら、白熱する視界で見通せない闇の中を、それでも過たず前へと。

 傷の全てはアヴァロンが回復する。耐えるべきは痛みだけ。気が狂いそうになる死の連続を乗り越え、蘇生し続けて疾駆する。

 流石の綺礼も余りに異常すぎるその突貫に瞠目する。死徒とてこれほど並外れた回復能力を有してはいない。今この一瞬、衛宮切嗣はこの世に生きるあらゆる生物を凌駕する怪物として存在する。

「そうまでして何を求める……衛宮!」

 乱れ舞う触手は切嗣に毛ほどの傷もつけられない。そもそも、傷をつけるまでもなく切嗣は勝手に自傷し自滅している。
 死んでいるのか生きているのか分からないその狭間で、たった一つ胸に抱いたものを叶える為、前へ前へと進み続ける。

 触手のままでは捉えられないと悟ったのか、泥は形を変え壁となる。どんな速度を得ようとも、越えられない壁に阻まれては速度を落とし迂回するしかない。その隙を狙い撃とうという目論見は、

「…………」

 真正面から悪意の壁を突き破る、規格外の獣によって破られる。

 最早絶句という他にない。衛宮切嗣は止まらない。全てを溶かす筈の泥を被ってなお、その足は止まらない。焼け焦げた肌はすぐさま蘇生し、こびりつく泥を払うことなく距離を詰める。

 既に敵は眼前。
 しっかりと握り締める銃把と腕はまだ動く。
 疾走を阻むものは既になく。
 間合いを離す隙も与えぬまま、

「ぼく、は───……」

 至近距離。
 逃げる事の叶わぬ零距離から、魔弾が放たれ、言峰綺礼の胸を貫いた。

 仰臥する綺礼。同時に泥も形を失くし、地に落ちて水のように広がった。聖杯に意思があるとはいっても、それはまだ担い手がなくば何も為せない無垢の形。言峰綺礼という拠り所がなくなった汚泥が、制御を失うのも当然だろう。

「がっ、……は、ぁ──」

 口元から血を吐き出しながら、持ち前の身体能力でほんの僅かに命を永らえた綺礼が視線を滑らせる。真横には伏臥した切嗣の姿。綺礼を撃滅した直後、糸が切れたように彼もまた倒れ伏していた。

 限界を超えすぎた代償。力の限りを尽くした衛宮切嗣は、もう、立ち上がる事さえ出来ないだろう。

「……それでも、おまえは、立つのだろうな……」

 アヴァロンの加護がある限り、切嗣は死なない。そんな事を知らない綺礼だが、此処で切嗣が止まるとは到底思えなかったのだ。

「フン……結末を、見届けられないのは……不本意だが……」

 遠く霞む空の彼方に輝く暗黒の太陽。
 周囲に燃え盛る炎は彼の者の産声のよう。

 もう間もなく。
 内なるものが這い出るだろう。

 最初から悪であれと望まれたもの。
 望まれず生まれ落ちるもの。
 言峰綺礼の人生に、明確な答えを齎すもの。

「……おまえの勝ちだ、衛宮切嗣。後は、好きにするがいい」

 敗者は大人しく去る。求め欲した答えを前に、求道の果てを目前に、言峰綺礼はその息を引き取った。
 その死に顔は、望みを前に倒れる事の絶望に染められてはおらず、むしろ、穏やかでさえあった。


+++


 そして決着の鐘は鳴る。

 赤き雷光と黄金の輝きの衝突の直後、死力を尽くした両者の一刀は、

「ああ……」

 互いにその腹を裂き、崩れ落ちたのはモードレッドの方だった。

 勝利を分けたのは、この戦いに至る前の傷だ。セイバーは十全の状態、無傷のまま最終決戦へと臨み、モードレッドはランサーに貫かれた胸をそのままに臨んだ。

 共に腹を裂いたエクスカリバーとクラレント。皮肉にも、かつて王の手に握られた槍で刺し貫かれた時と同じ箇所を、また、モードレッドは貫かれ、倒れ伏した。

 仰臥した後、彼女の胸に去来したのは悔しさでも、絶望でもなく、悲しみだった。

 運命は繰り返す。足に巻きついた枷は永遠に彼女を捕らえて離さない。求めたものを目前に、手で掴みかけたそれは、滑るように零れ落ちて行った。

「は、はは……」

 そして納得する。ランサーの因果の槍を乗り越えられたのも、全てはこの結末へと収束する為のものでしかなかったのだと。
 彼女自身がその実力で槍の運命を乗り越えたのではなく、この時に至るまでの全ては、此処で倒れる為に描かれた筋書きに過ぎなかったのだと。

「ぐっ……」

 セイバーは腹に刺さったままだったクラレントを引き抜き、大地に突き立て、エクスカリバーを杖に震える足を支える。その視線は倒れたモードレッドへ。空を睨みつける彼女へと向けられていた。

「王よ……運命は変えられません。あの結末を、貴方にはなかった事には出来ない……」

 それが負け惜しみだとは、セイバーは思えなかった。酷く真摯で、穏やかな声音で告げられた言葉に、吸い寄せられるように問いを返す。

「何故、そう思うのですか」

「貴方には、あの聖杯は使えない……使う事を、認める事が出来ないからですよ……」

 それは聖杯を知っている口ぶりであり、事実聖杯の眼前にまでモードレッドが迫っていたのだとすれば、知っていてもおかしくはない。そうセイバーは解釈し、そうするしかなかった。

「どうか、お考え直しを……貴方は何一つを間違えなかったではないですか……何故、それを過ちだと思うのです……」

 栄光の日々。
 崩壊の足音。

 永遠に続く理想郷はない。この世のあらゆる全ては崩壊と新生を繰り返し、一つ一つを積み上げていく事で出来ている。
 セイバーが王であったブリテンも、その流れに逆らう事が出来なかっただけの話で、別の誰かが王となったところでこの現代まで続く王国など夢物語に過ぎない。

 それでもセイバーは願ったのだ。あの余りにも救いのない結末を変えられる誰かを。たとえ全てが消えてなくなるのだとしても、慟哭の涙しか残らない結末では、あまりにも無残ではないかと。

 王としての責務。悲劇を齎した者としての義務。そんな強迫観念が彼女を衝き動かし、とうとう此処まで辿り着いてしまった。

 モードレッドが倒れた今、彼女の歩みを妨げるものは何もない。セイバーが“モードレッドと同じように”、他の何に変えてもその願いを叶えなければならないと思ってしまえば──

 ──悲劇はまた、繰り返される。

 だからモードレッドは、全てを金繰り捨てて諫めの言葉を口にする。ガウェインやランスロットの遺志を汲んだのではなく、ブリテンの民を思ってのものでもなく、彼女自身の──心からの願いによって。

 それを願ってしまったら、本当に王に理想を夢見た者達の死が無為になってしまうから。
 いいや、そんな上辺の気持ちではなく。

「父……うえ……」

 伸ばした腕は何も掴めない。
 望んだものは全てこの掌から零れ落ちていく。

 何が願いを叶える聖杯だ、そんなもの、嘘っぱちではないか。

 モードレッドはその最期まで、何も手に入れる事なく。
 ただ──王の決断を信じ、胸に抱いたたった一つの言葉も口に出来ぬまま、静かに、風に攫われて行った。

「モードレッド……貴方は……」

 消える間際、モードレッドの眦に浮かんでいたのは一粒の雫。それが敗れた悔しさによるものなのか、別の何かだったのかは、彼女には分からない。
 人の心が分からないと謗られた王は、今以って誰かの心を理解など出来ないのだから。

 ああ、それでも。

「モードレッド……貴方の言葉は理解出来た。それでも私は聖杯を手に入れなければならないのです」

 だから。

「その真贋は、私自身の目で見定めましょう。貴方の言うように、それが、私の願いを叶えられないものであったのなら──」

 遍く騎士達の王は剣を支えに前へと進む。

 クラレントの刻んだ傷はすぐさま修復してはくれない。彼女にとっての死因となる彼の一撃は、深く、その身に傷を刻んだのだから。


/45


 ──そして、全ての終わりの地へと辿り着く。

 セイバー達の戦場が外縁にも等しかったのだとしたら、此処はその中心点。泥の被害が最も大きな地点だ。

 外縁部では焼け落ちた家屋などがまだ残っていたが、この場所にはもう、何もない。見渡す限りの赤い地平。遠く霞む空の向こうに、唯一、夜に輝く暗黒の太陽を見る。

「っ……あれは……」

 その直下、中空には磔にされた一人の少女の姿。暗黒の太陽を背負い、黄金の輝きを放つその様は、無事を喜ぶよりも先に理解が生じた。

「イリヤスフィール……貴女自身が、聖杯だったのですね……」

 そう考える事で全てに納得がいく。召喚直後の会談での発言も、間桐臓硯がイリヤスフィールを拉致した理由も、衛宮切嗣がその救出に積極的でなかった理由も。

 イリヤスフィールの無事に安堵の息をつく暇もなく、その後ろに輝く暗黒の太陽を望む。

 それは世界に穿たれた穴。響くのは軋みのような音。濁流の如く吐き出される黒い汚泥は、周囲を焼き焦がす炎の源。

「あれが……聖杯……?」

 困惑は極まる。こんな姿をしたものが、セイバーの求めた聖杯だというのか。あらゆる願いを叶える万能の願望器だと。

「……そうだ、それが、聖杯だ」

「マスターッ……!」

 背後。遅れて到着した切嗣は、憔悴した顔を天へと向ける。アヴァロンによって傷という傷は癒されているが、完治には程遠い。数秒の間で幾度となく死と再生を繰り返した代償は今なお色濃く切嗣に残っている。

「僕達が求め、欲したもの……その正体。汚染された黒の杯……僕は、僕は……こんなものの為に……ッ!」

 崩れ落ちる切嗣。見渡す限りの大災害。積み上げられた犠牲の上には、何の結果も残らなかった。
 破壊によって願いを叶える異端の聖杯。そんなものは、切嗣が望んだ聖杯ではない。望んだのは、痛みのない世界。痛みの伴わない変革だ。

 この聖杯に願ったが最後、どんな形で祈りが叶えられるかなど誰にも分からない。人の争いを止めるという切嗣の願いを叶える為ならば、それこそ全人類を皆殺しにしたとしても何らおかしくはない。

「ああ……」

 此処に来て、旅路の終着点に来て、切嗣の心が折れる。弱い心を覆っていた鉄の意志は削げ落ち、剥き出しの惰弱な心が晒される。

 今まで必死に走って来られたのは、その最後に救いがあると信じていたからだ。犠牲としたものに報いられると、踏みつけて来たものに顔向けが出来るようになると、そう信じて果てのない道を歩んで来た。

 でもそれも終わり。
 道の果てに待っていたのは黒く染まった絶望だけ。
 何の救いもない現実。

 伸ばした手が掴めるものは希望と呼ぶにもおこがましい、最悪の災厄を呼ぶ地獄の釜の蓋だけだ。

 衛宮切嗣の理想は、奇跡を以ってしても叶わない。
 突きつけられたのは、そんなどうしようもない現実だった。

 衛宮切嗣は人間だ。どうしようもなく弱い一人の人間に過ぎない。どれだけ強固な理想で心を固めていても、剥き出しの心は脆弱でしかない。
 いつだって逃げ出したかった。全てを捨てて逃げてしまいたかった。あの城で過ごしていた頃、妻と娘の手を引いて逃げようと思った事など、幾度だってあったのだ。

 それでも、自らが心に誓った理想に背を向けずにいられたのは、この場所に救いがあると信じたから。世界の全ての変革の果てにこそ、望んだものを掴める世界があると、そう信じていたのに。

 目の前の土を掴み。爪が割れる事も厭わず、強く、強く、握り締める。溢れる涙はすぐに枯れ落ち、逆巻く炎に消えていく。

 ああ……此処は地獄だ。何一つ救いのない、地獄なのだ。

 最早立ち上がる力すら失った切嗣の前へと、一人の少女が歩み出る。

「マスター、確認しますが。本当に、我らの願いは叶わないのですね?」

「……いいや。願いは叶えられるだろう。ただし、その過程には破壊を伴う。おまえが何を願うのかは知らないが、望んだ結果とはかけ離れた形で、コレは願いを叶えるだろう」

「分かりました……」

 モードレッドが言っていたのはこの事だろう。セイバーの願いをどのような形で叶えるかは分からないが、この黒き聖杯に願う事で、彼女の祈りが正しく叶えられる可能性は極めて低い。

 ああ、ならば……

「切嗣。聖杯を──破壊しましょう」

 あの暗黒を。
 今なお街を焼き焦がす炎を食い止める為に。

 ただしその行いは、自らの願いの否定に他ならない。

 渇望した祈り。是が非でも叶えなければならないと願ったもの。その祈りの為に踏みつけて来たものの全てを無為に落とし、自らの理想をも切り捨てる。それがどれほどの痛みを伴うものであるのかは、当事者である彼らにしか分かりえない。

 その時、自らの所有者による自らの否定を悟ったのか、聖杯は暗黒の虚無より吐き出す泥の勢いを増した。濁々と吐き出される泥の前へ、マスターを庇うようにセイバーは立ち塞がる。

「ぐっ……」

 足元に絡み付く泥はセイバーの身を焼き焦がす。サーヴァントである限り決して抗えない呪いの奔流。それに耐えながら、それでも穏やかな声でセイバーは問いかける。

「切嗣、貴方の目には見えないのですか。そこにある命が。まだ、救える命が、この地獄の中にも残っているでしょう」

 何もかもを焼き尽くす炎。既に泥が吐き出されてから随分と時間が経っている。少なくとも泥を被った者達のその多くは、生きてはいまい。
 理不尽な炎に焼かれながら、出口を探し逃げ惑う幼子。子の命だけでも救いたいと、助ける求める母親の叫び。

 そんな幻聴が、怨嗟の声が聞こえる。この地獄を生み出したにも等しい彼らへと。既に亡き者達の怨恨が、炎の中に揺らめいている。

 そんな中で──唯一人、生き残る者を空に見る。

 七つの魂をその器に収め、聖杯は完成した。もう幾許もなくその内に潜む者が本格的に溢れ出す。これはその発端に過ぎず、本当に穴が開ききればそれこそ世界の全てをこの泥が覆い尽くし呑む込むだろう。

 その前に、まだ、出来ることがある。
 この、何も掴めなかった掌で、掴めるものがある。

 なら、立ち上がらないと。

 目の前にある巨悪へと、立ち向かわなければ……


──ケリィはさ、どんな大人になりたいの?──


 ……それこそ、本当に、犠牲としてきたものに顔向けが出来ない。

「…………セイバー」

 目の前に立つ少女から風が吹く。その手にした黄金の輝きが紐解かれ、汚泥の海の中にたった一つの煌きが灯る。

「────聖杯を、破壊してくれ」

 手に宿る令呪が白熱し、昇華される。黄金の刀身はその輝きをより強め、世界を照らす光を生む。

「…………ッ」

 逆巻く風と黄金の光の中、切嗣はその拳を握り締めた。

 理想の終わり。
 道の果て。

 衛宮切嗣に課せられた罰は、その理想を自らの手で破壊する事に他ならない。

 多くの犠牲に報いられなかった無様を恥じながら。
 踏みつけて来たものを無為に落とした事に涙を零しながら。

 それでも、たった一つ。

 目の前にある、小さな命を救う為に────

「セイバー……お願いだ、イリヤを助けてくれ…………ッ!!」

 振り上げられた黄金の剣は、過たず暗黒の太陽を両断した。

 黄金の光が空を染める中、切嗣は頽れそうな膝を叱咤し、イリヤスフィールの下へと駆け寄った。

 ふわりと、腕の中に収まった娘の軽い身体を抱きながら、膝をつき、声を上げて男は泣いた。

 何も掴めなかった掌の中に残ったものを抱き締めて。
 振り出した雨粒を気にもかけず。

「……ありがとう」

 誰にともなく。
 感謝の言葉を述べ、強く娘を抱き締め続けた。

 その様を見やりながら、セイバーもまた足元より消えていく。

 聖杯は破壊され、令呪は全て消費され、自らを繋ぎ止めていた楔はなくなった。この場所に留まり続ける理由もなく、セイバーは静かに、その終わりを受け入れた。

 彼女の旅路は此処では終わらない。通常の英霊とは逸する特殊な契約を結ぶ彼女は、今一度その死の間際へと舞い戻る事となる。
 現代に再現されたカムランの丘ではなく、本当のその場所へ。

 この戦いの中で得たものは何だろうか。
 願い求めた奇跡を自らの手で破壊した彼女は今、何を思うのだろうか。

 その、答えは────


+++


 ────こうして。

 十年遅れで始まった第四次聖杯戦争の幕は閉じる。
 多くの悲劇と爪痕を残し、誰に救いを与える事もなく。

 降り頻る雨が、全てを洗い流して……













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