Fairy Tale 1 「ごめんね、シロウ」 小さな手が、士郎の頭を撫でていた。 「……え?」 顔を上げる。イリヤスフィールは心配そうな顔で、士郎を覗き込んでいた。 「……イリヤ。おまえ、怒らないのか……?」 「怒らないよ。だってシロウ泣きそうだよ? 何があったかは知らないけど、わたしまできらっちゃったらかわいそうだもん。 だからわたし、シロウが何したってシロウの味方をしてあげるの」 「────」 目の前が真っ白になる。たった一言。それだけの言葉で、ガツンと、頭の中をキレイさっぱり洗われた。 「俺の、味方──?」 「そうよ。好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから」 誰かの味方。 何かの味方をするという事の動機を、あっさりとイリヤスフィールは言った。 「────」 ……それが正しいのかどうか、本当は分かっている。 今まで守ってきたモノと、今守りたいもの。そのどちらが正しくて、どちらが間違っているのか判断くらいはつく。 それを承知した上で士郎は──── 「ああ、そうだよな。好きな子を守るなんてのは、この上なく当たり前の事だった」 そんな事にすら気付かない振りをして誤魔化し続けてきた。衛宮士郎の守りたいもの。正義の味方が味方すると決めたもの。 そんな──当たり前の感情に、ようやく気が付いた。 「うん。だからシロウはちゃんと──」 何かを言おうとしたイリヤスフィールの言葉を遮るように士郎は手を伸ばした。 「え?」 ぽかんとする少女の手を取り、士郎は少しだけ強く力を込めた。淡雪のような白い掌。脆くも握り潰してしまいそうな繊細な腕を取り、 「ああ、だから俺は──イリヤを守りたい」 きっぱりと、自分の意思を口にした。 「────」 イリヤスフィールは蝋を塗ったように固まったまま。士郎の言葉に理解が追いついていないのか、彼女らしくもない隙だらけの格好だった。 「な、なななななななな……ッ!」 硬直を脱したイリヤスフィールは狼狽を露にし、掴まれた腕を振り払おうして、けれど士郎は掴んだ掌を決して離そうとしなかった。 「シ、シロウ!? あなた、本気で言ってるの!?」 「ああ。こんな事で嘘を吐けるほど器用じゃない。それに、仮に嘘を吐けたってそんな酷い事出来る筈もない。 だからこれは俺の偽りのない本心だ。俺の味方でいてくれると言ってくれたイリヤを守りたいっていう……な」 「だ、だって、そんなの、ありえない……ありえるわけない。わたしはシロウとキリツグを殺しに来たんだよ? それが、なんで──」 「逆に訊くけど、じゃあなんでイリヤは俺の味方をしてくれるって言ったんだ。これまでだって俺を殺せる機会なんて、それこそ幾らでもあったのに殺さなかった事もだ」 「そ、そんなの……シロウなんて隙だらけだから殺すのなんていつでも出来るし、あの、えと、その……」 顔を紅潮させしどろもどろになるイリヤスフィールの手を掴み、しっかりと大きな赤いルビーの瞳を見据えて、 「俺は、アインツベルンを裏切った切嗣の息子だ。だからイリヤに恨まれる事も理解できるし、殺されたって仕方ないとも思ってる。 それでももし──イリヤが俺にチャンスをくれるのなら、俺はイリヤを守りたい。切嗣の息子としてとか、罪滅ぼしとかじゃなくて、衛宮士郎っていう男として、イリヤを守りたいんだ」 臆面もなくそんな事を言ってのける士郎に直視され、イリヤスフィールは彷徨わせていた視線を俯けた。耳まで真っ赤にして、耐えるように小刻みに震えている。 「ずるい……ずるいよシロウ。そんなの……そんな事言われちゃったら、断れるはず、ないのに」 イリヤスフィールがこの街を訪れ、戦争に参加した意義はアインツベルンの裏切り者とその子を殺す事に他ならない。 「わたしは、シロウとキリツグを殺さなきゃいけないのに……殺したいのに……」 けれど少女は、少年と出会い理解を深める内に、少しずつ──少しずつ凍てつかせた心を氷解させていっていた。 「イリヤスフィールはシロウを殺さなきゃいけないの……いけないのに、イリヤは……」 アインツベルンとしての責務と、一人の少女としての葛藤。ずるずるとこんな関係をここまで引っ張ってきたツケを払わなければならない時が来た。 「イリヤ……いつか言ってたよな。俺にイリヤの事好きかって。あの時は嫌いじゃないとか言ったけど、本当はきっと好きだった。照れ臭かったから、そんな事言っちまったんだと思う。 だから今度は俺に教えてくれ。イリヤは、俺の事嫌いか?」 「……ほんとう、シロウって卑怯なんだから。そんな事、答えなくても分かってるくせに」 「ああ。それでもやっぱり、イリヤの口から聞きたいんだ」 俯き震えていた少女の面が上がる。赤く染め上げた頬はそのままに、目尻に少しだけ涙の粒が浮かんでいた。 「イリヤは──シロウのこと好きだよ。誰よりも……きっと他の誰よりも、シロウの事が大好き──!」 寒風の吹き荒ぶ公園の中──少女は欲したぬくもりを手に掴む為、少年の胸へと飛び込んだ。少年もまた、守りたかったものを守り通す為に──強く強く、幼き少女の身体を抱き締めた。 「……それで、シロウは結局こんなところで一体何をしていたの?」 一頻り士郎の胸の中でぬくもりを堪能したイリヤスフィールは身体を離し照れ臭そうそっぽを向いてそう訊いた。 「ああ。実は──」 士郎はことの一部始終をイリヤスフィールに語って聞かせる。桜の身体に巣食う刻印蟲の存在。このまま放っておけば明確な敵となって世界を呑み込みかねない事。 そして選択を迫られていた事。これまで通りの理想を貫き通し正義の味方として悪を討つか、理想を放棄し悪を容認して桜を守るか。 だからこそイリヤスフィールの味方をすると決めた士郎の決断は何ひとつ解決を見ていない。イリヤスフィールの手を取ったのなら、そのどちらをも放棄する事と同義ですらあるのだから。 「違うよシロウ。シロウがわたしの味方をしてくれるように、わたしもシロウの味方をするんだから」 「え? それは──」 「シロウにとって、サクラは何? どんな存在なの?」 問われるまでもない。 「大切な家族だ。血の繋がりなんかなくったって、桜は俺の大切な家族なんだ」 だからこそ苦悩する。悪に成り切る前の桜を犠牲にするという事は理想の為に一を切り捨てるという事。 全てを守りたいとほざく無能な正義は、その結末を容認した瞬間──ありとあらゆる価値観を崩壊させ、ただ理想を廻すだけの歯車になるしかない。 同様に桜を守る事を選んでしまえば今までの理想を否定する事になり、唯一人の彼女を守る為に全てを犠牲にするしかなくなる。 二律背反。どちらかを選べば確実にどちらかを犠牲にしなくてはならない。道の両端にある到達点のどちらにも踏み込みたいなどと謳うには、衛宮士郎は余りにも平凡で無力なのだから。 「それは今までのシロウの話でしょう? でもシロウはわたしを選んでくれた。わたしを守る為にシロウが何かを犠牲にするなんてこと、わたしは許さない」 かつて理想を守る為に大切なものを切り捨てた男がいた。そんな男を許せない少女は、だから同じ選択をこの少年にはして欲しくなどないのだ。 「要はサクラが悪でなくなればシロウの理想は破綻しないんでしょう? ならわたしが──サクラをこっちに引き戻してあげる」 「なっ──イリヤ、そんな事出来るのか!? あの言峰でさえ分が悪いと言っていたのに」 「あんな男と同列に見られるなんて、それこそ心外だわ。わたしはアインツベルンのマスターなんだもの。それくらい簡単よ。 それにね、好きな子の家族が危ない目に遭っているのなら、助けるのも当然でしょ」 「イリヤ……」 「だからいいこと、シロウは一人で全部抱え込まないで。シロウに出来ない事だって、わたしになら出来るかもしれない。わたしに出来ない事も……まあ偶にはシロウが出来るかもしれないし」 「偶にはって……結構酷いなイリヤ……」 「ふふ。でもそんな子を好きになっちゃったんでしょう? じゃあ最後までちゃんと付き合ってね」 「ああ。俺は最後までイリヤを守るよ。じゃあ行こう。イリヤの手を貸してくれ。手遅れになる前に」 士郎がベンチより立ち上がり駆け出す。その背をすぐには追わず、イリヤスフィールは悲しそうに目を細めた。 「でもねシロウ。その在り方は今まで以上に危ういんだって、気付いてる? 全部を守るなんて事、不可能なんだよ。 今はそれで良くても、いつかきっと決断を迫られる。ハッピーエンドなんて、きっと何処にもないんだから」 少女は少年の後を追う。今だけの幸福を噛み締めて。いつか訪れる決断の時を、少しでも遠く置き去りにしたいが為に…… 軋む音を響かせて、教会の門扉は開かれる。 「────イリヤ……?」 綺礼の手術が終わるのを先に戻り待っていたらしい凛は険しい表情を士郎に向け、傍らにあるいる筈のない少女に表情を困惑へと変えた。 「久しぶり、かしらねリン」 「なんで貴女がここに来るのかしら。士郎、どういう事?」 睨み付ける凛の瞳には敵意が見え隠れしている。覚悟を以ってこの場所に舞い戻ったであろう凛にとって、イリヤスフィールはイレギュラーでしかなく、そんな少女を連れてきた士郎は害悪にも相当する。 「待ってくれ遠坂。イリヤを連れて来たのには理由があるんだ」 「はん、一体どういう理由? 桜に関してはわたし達の問題だっていうのに。そんな部外者──しかも敵を連れてくるなんて。もしかして士郎、そのガキに操られてる?」 「……遠坂。幾ら遠坂でも今の言葉は聞き捨てならない」 「何、わたしとやりあうって言うの?」 ポケットへと手を滑り込ませる凛の表情には余裕の欠片もない。それほどまでに、追い詰められており──そして覚悟を決めているのだ。 「血気盛んなのは結構だが、こう五月蝿くては敵わん」 「綺礼!」 静かに奥の扉より姿を現した言峰綺礼は、普段と何ひとつ変わる事のない能面を貼り付けていた。 「言峰、桜は──!?」 「綺礼、桜は──!?」 士郎と凛がほぼ同時に詰問する。けれど綺礼は、 「私に言える事は、出来る限りの処置を施したという事だけだ」 その真意はつまるところ、士郎達の望むような結果には成り得なかったという事。言峰綺礼の霊媒手術を以ってしても、桜の完全な解呪は行えず──それだけ根が深いのだと語っていた。 「────」 その結末を最初から受け入れていたのか、覚悟していたのか。凛は士郎達に視線を向ける事すらなく、桜の安置されている部屋へと向かおうとして、 「待ってくれ遠坂。桜は、殺させない」 凛が足を止め、凄惨な視線を突き刺す。 「何故──と問うのは無粋なんでしょうね。けれど、その言葉がどういうものかちゃんと理解してる? 外道に堕ちた魔術師に処罰を下すのは、この土地の管理者である遠坂の役目なの。もう戻らない……戻れないのなら、桜はわたしの手で……」 「桜は救える。まだ手遅れなんかじゃない」 目を剥くほどの驚愕で、凛は士郎を見た。 「士郎……いい加減にして。桜はもう戻れない。たとえ戻れたところで、あの子が自分のした事を許せる筈がない。 気付いているでしょう? あの子は貴方を傷つけた。その意味するところを」 「…………」 綺礼にも言われた事だった。衛宮士郎を傷つけた事をきっかけに、桜は自傷により自らの心を殺した。 間桐の闇に、桜の叫びに気付けなかった士郎に今更何かを言える義理はない。桜の心につけられた咎の傷痕を、舐めてやる事さえ許されない。 「それでも俺は桜を救う。目の前に苦しんでいる人がいて、助ける術があるのなら──誰が止めたって助けてみせる」 何処までも残酷な正義。死によって罪科に目を瞑る事すら許さず、生きる事で咎を果たせと謳う余りにも理不尽で暴虐な正義の在り方。 助けた後のメンタルケアも出来ないくせに──けれど生きているのなら叶えられるものがあるからと、正義の味方を張り通す味方を得た士郎は口にする。 「ここで殺してあげた方が桜の為だったとしても、士郎は桜を助けるの?」 「ああ」 「酷い人ね、士郎は。そう……なら好きになさい。救えるものなら救って見せて。でももし失敗したら──」 「その時は、遠坂に従おう」 遠坂凛は非情ではあるが残酷ではない。助けられるものなら桜を助けたいという想いは士郎にすら劣らない。ただ、彼女には助けるだけの手段がなかったから。そして放置すればより桜が苦しむ事になるのは分かっていたから、死を遣わす覚悟を決めた。 だが衛宮士郎は残酷に生を突きつける。その後に待つ過酷から目を背けて、ただ目の前にある苦難に立ち向かう強さで、苦しみに喘ぐ少女に掌を差し出す。 「それで。間桐桜を救う手段というのがおまえか、イリヤスフィール」 問いかける綺礼。 「ええ。貴方の手には余る事態でも、わたしなら何とか出来るわ」 「大層な自信だな。流石はアインツベルン製ホムンクルスの最高傑作というわけか」 「皮肉のつもりならお生憎さま。別に誇りに思ってるわけでもないけれど、そんな挑発で怒るほどお子さまじゃないわ」 「そうか。別に皮肉のつもりでもなかったのだが。気分を害したのなら謝罪しよう」 薄い笑みを浮かべる綺礼をイリヤスフィールは疑いの眼差しで見やる。謝罪すると口にする男の態度ではない。 「あー……まあそこまでにしてくれ。今は早く、桜を助けたい」 士郎が場を執り成す。言峰綺礼と相容れない存在というのは別段珍しいものではないがイリヤスフィールも御他聞に漏れずその類らしかった。 「では処置室に案内しよう。イリヤスフィール、君だけの方が好ましいか?」 「いいえ。来たい人はついて来ても構わないわ。むしろわたし一人だけだと安心出来ない人や邪魔しそうな人とかいそうだし。何よりサクラ自身が拒絶しかねないもの」 「ふむ……。ならば衛宮士郎、おまえだけはこの場に残れ」 「なっ……!」 「理由については先程と同じだ。おまえがいては成功するものも成功すまい。間桐桜を救いたいのなら、おまえはこれ以上彼女に近づくな」 間桐桜を救いたいと口にしながら、決定的に見限ったその意味を士郎は解さない。 「…………」 沈黙に身を沈め、士郎はただ礼拝堂の奥へと消えていく綺礼達を見送るしかなかった。 「気分はどうだ、間桐桜」 診療台に横たわったままの桜へと声を投げる。閉じられていた瞳が薄っすらと開かれて綺礼、イリヤスフィール、凛と順繰りに見た。 「はい……悪くは、ないです」 「私はてっきり逃げ出す算段でもつけているのかと思っていたのだがな。思いの他従順だったか」 「どういう事よ、綺礼?」 「何、この部屋は少し特別な造りになっていてな。礼拝堂での話し声が聞こえるのだ。構造的欠陥という奴だが、凛が間桐桜を殺すと口にしていた以上、恐怖に怯えて逃げ出すものと思っていたのだが」 「なっ……綺礼、アンタそれを分かってて……!」 「憤る程のものでもないだろう? わざわざ魔術刻印の全てを消費し尽くしてまで延命を施した患者をみすみす殺されるのは忍びない。 私自身の手で逃がす事は出来んが、患者自らがその足で逃げ出すのなら止める術も謂れもあるまい」 「いけしゃあしゃあとアンタってヤツは……」 凛とて綺礼の身から魔術刻印が消えていたのは承知していた。凛の身に刻まれた刻印とは違う、消費型の刻印である綺礼のそれは桜の治療の為に全てを使い切った。 魔術刻印の重要性を理解する者なら決して有り得ない用途。そこまでして、綺礼は桜を助けようとしてくれたのだから、凛はそれ以上何も言えなくなった。 「そこまでしても根深い刻印蟲は除去できなかったみたいね」 桜の身体を一瞥しただけでイリヤスフィールは桜の置かれている現状を理解した。 「ああ。私に出来たのは神経に絡んでいない蟲の除去までだ。通常の術式でこれ以上の除去を行おうとするのなら、それこそ心臓を引き抜くくらいの事をしなければ不可能だ。だがそんな事をして、生きていられる人間などいまいよ」 真の意味での凡庸なレベルの術式であれば綺礼までにも届かない。綺礼が霊媒治療を得手とし、魔術刻印を使い潰したからこそ可能だった領域の治療なのだ、これは。 「しかしこれではただの延命に過ぎん。間桐桜に根付く刻印蟲は未だ胎動し、間桐臓硯の意思一つで生死を左右出来る状況下にある。 間桐桜が望もうが望むまいが、あの妖怪の望むままに生を喰らい死を司るモノに変わるのはそう遠くはない」 「まあそれも、わたしがいなければ──の話だけど」 イリヤスフィールは一歩歩み出る。横たわったままの桜と視線を交わす。 「サクラ、一つだけ教えて。貴女にとってシロウは何?」 「…………」 それは何処までも悪辣な問い。今の桜の心は硝子よりも脆く壊れやすい。その後押しをしかねない問いかけだ。 「先輩は……わたしの、好きだった人……です」 桜は士郎を傷つけた。たとえ自らの制御を離れたところの行為であっても、その結末に変化はない。 そして桜は士郎に決して知られたくないところを見られてしまった。魔術師であった事をひた隠しにし、醜い闇を押し込め続け、暖かな日溜まりに居座り続けた。 だがそれももうお仕舞いだ。どこまでも愚直な士郎に対し、桜の罪は晒された。嘘で塗り固めてきた仮面は剥がれ落ち、内に潜むどす黒い闇を見られてしまったのだ。 そんな彼女が、どんな顔をして彼の傍に居続けられるというのだろう。どんな顔をして彼と向き合えばいいのだろう。 無理なのだ。間桐桜にそこまでの強さはない。そんな強さがあったのなら、初めからこんな末路はなかったのだから。 「じゃあ今は好きじゃないの?」 「…………っ」 そんな筈がない……そんな筈があるものか。間桐桜にとって、衛宮士郎は唯一つの光だった。闇に塗り固められた人生の中で、ようやく見つけた小さな光。 振り向いて欲しくても、そこまで多くは望めなかった。愛して欲しくても、そこまで深くは望めなかった。 こんなにも穢らわしい自分が……どうしてあの人の寵愛を受ける資格があると言うのだろうと。 そして今ではもう──ただ隣にいられればいいという儚い願望さえも潰えた。もうあの人の傍にはいられない。あの人の傍では生きられない。 あの人ならば、こんな自分でもきっと受け入れてくれるだろう。でも、無理だ。何より間桐桜が自分自身を許せないのだから。 好きだった人を傷つけた自分には、もう──光を望む事さえ許されないのだから。 「は、い。わたしは、先輩が、好きなんかじゃ……ないんです……」 搾り出した声音は何処までも弱々しかった。自らの手で光を切り捨てた。唯一つの希望を摘み取った。 だがこれでいい。こうしなければ、間桐桜は生きる事も許されない。自分の闇と罪を知ってなお死に逃避する事すら出来ず、告白する事すら出来なかったその弱さ。 ただその最後に。 衛宮士郎が間桐桜を救いたいと口にした言葉だけを胸に秘めて。 深き闇に囚われ己の弱さに負けた少女は独り──絶望の淵へと舞い戻る。 「そう……サクラがそれで良いというのならわたしには何も言えないわ。ただ、一つだけお節介を焼くとね、シロウはサクラを大切な家族だって言ってた」 「え……それは──」 「それと。サクラの闇の深さなんて知らないけど。その程度でわたしのシロウを測ろうなんて、見縊るのにも程があるわ」 桜が何かを口にする前に、イリヤスフィールの翳された掌から光が溢れ、横たわる少女の意識を刈り取った。 「イリヤ……」 「大丈夫よリン。ちょっと眠らせただけだから。サクラは必ず助けて見せる。シロウがサクラを助けたいって言うんだもの、全力でやるわ」 イリヤがその両手を桜に向けて掲げ、目を閉じて深呼吸を刻む。一瞬の後、掌から生まれた白い光が桜の全身を包み込むように広がり、蝋燭の灯りだけが揺れていた石造りの室内を染め上げる。 正義の味方の味方をすると決めた少女の決意。 自らの存在価値さえも秤に賭けて、 「……ほお。アインツベルンの聖杯が、まさか肩入れするとはの」 じくじくと蠢く深い闇の底で、皺枯れた声が呟いた。間桐邸の地下工房。闇と黒しか存在し得ない非業の奈落。その中心地で倉の主が小さく哭いた。 「良いのか魔術師殿」 闇に溶け込む白面が囁く。 「うむ。確かに桜に植え付けた刻印蟲が除去されるのは手痛い失態であるが、流石にこの状況下では手出しのしようがあるまいて。 それともお主は、バーサーカーとアーチャー、更にはライダーまで敵に廻して勝てると豪語するか?」 「状況さえ整えられれば不可能ではない。が、同時に三体を相手にするのは不可能だ。時間を掛けて一体ずつ刈り取るのならともかくな」 「ふむ。ならばやはり静観しかあるまい。よもやあの娘を誑し込むなど、衛宮の小倅もやりおるの。 物の数にも入らぬ塵かと思えば、予想外の手札を切ってきおったわ」 呵々と老獪は嗤う。その笑みは追い詰められている者の浮かべるものではなく──純粋に状況を愉しむかのようだ。 「魔術師殿の計画ではあの娘を聖杯とする手筈であったのだろう。だというのに、その余裕は何だ? あの娘が魔術師殿の手を離れたのなら、確実に奴らはこの屋敷に踏み込むというのに」 「良い良い。全てが順風満帆に進むのも面白くはあるまいて。多少の困難は大望の成就には必要なものよ。 ふん。手札を一枚失う代わりに山より一枚引けるのなら、まあそれほど悪くはない。後はその札をどう活かすかよ」 蟲が哭く。キィキィと耳障りな音を奏で、闇の中に不協和音を響かせる。 深まり行く夜の中、衛宮士郎は礼拝堂の長椅子に腰掛け祈りを捧げるように手を組んだまま延々と沈黙に落ち続ける。 「────」 イリヤスフィール達が礼拝堂の奥へと消えてどれだけの時間が経過したのかすら定かではない。刻々と過ぎていく時間の中で、何処までも無心に祈りを捧げるばかり。 人は都合の良い時だけ神に縋る。自らの拠り所を失くした者ほど熱心に、救われたいが為に祈りを捧げる。満たされている時は見向きもしないくせに、喘ぎに苦しむ時だけ藁を掴む勢いで神という名の鏡像に。 その意味で言えば、士郎の祈りの対象は違っている。士郎が祈るのは間桐桜の無事と、自らが味方をすると決めた少女だけだ。 神の否定も肯定もしないが、無神論者である士郎にとって、祈るほどに頼りたいものなど目に映るものでしかないのだから。 瞼を閉じ、微動だにすらしていなかった士郎の耳朶に響く音。立て付けの悪い蝶番が擦れる音は、扉が開かれた音だった。 「イリヤ……!」 がばりと身を起こす士郎の視界にはイリヤスフィールと凛の姿があった。白い少女の顔には疲れの色が見え隠れしており、赤い少女は何処か憮然としている。 「イリヤ。桜は、桜は助かったのか……!?」 「ええ。サクラの身体に巣食っていた蟲の全てを除去できたわ。これでもう桜が誰かに操られるなんて事はないと思う。 今はまだ寝てるけど、あの神父が一応の確認と治療の具合を見ているわ」 「そ、そうか……」 ほっと胸を撫で下ろす士郎を余所に、視界の端に止まる凛はそっぽを向いて顔を顰めていた。 「なんだよ遠坂。桜は助かったんだろう? なんでそんなに機嫌悪そうなんだ」 凛にとって桜は実の妹だ。それが救われて嬉しくない筈がない。助け出す手段がなかったから外道を討つべく非道の魔術師足らんと己を戒めていたのだ。 桜の無事がほぼ確定した今、士郎と同じように喜びに打ち震えても良さそうなものだったが…… 「はあ……ほんと、アンタは気楽でいいわね。こっちは色々と後始末があって頭が痛いっていうのに。 それにしてもイリヤ。アンタ何者なわけ。あんな治療、見たことないわ」 それ以上突っつかれたくなかったのか、露骨に話題を転換した。 「何者も何もわたしはただのマスターよ」 「ただのマスターにあんな真似出来る筈ないじゃない。あんなの……聖杯レベルの魔術行使だってのに」 イリヤスフィールが施した術式は綺礼が行ったような小難しいものですらなく、単純に祈りを捧げただけに過ぎない。 間桐桜の身体に巣食う蟲の摘出。神経の一切を傷つけず蟲だけを切り取るなど、有り得ない程に高位な術をイリヤスフィールは祈るだけで叶えて見せた。 通常の魔術が踏む手順である起動、過程、結果の『過程』をすっ飛ばし、純粋にして膨大な魔力で結果だけを提示する力技。ただ願うだけで祈りを叶える小さな奇跡。聖杯の家系にして聖杯を司る彼女だからこそ可能とした御業だった。 「何にしても、これで桜は助かったんだろ? ならいいじゃないか。ありがとうイリヤ、桜を助けてくれて」 「ふふん、当然。シロウのお願いだもの。ちゃんと叶えるわよ」 「うわ、ちょ、イリヤ……!」 「えへへー」 急に抱きついてきて頬を摺り寄せるイリヤに慌てふためく士郎と、それを見つめる凛。 「衛宮くんて……ロリコンだったのね」 そりゃあの子じゃ分が悪いわ、とどうでも良い呟きは、当人達には聞こえていなかった。 「じゃあ本題よ。まだ桜を完全に解放できたわけじゃないって事、分かってる?」 士郎とイリヤスフィールのいちゃつきを醒めた目で見ていた凛が一頻り落ち着いたところでそう切り出した。 桜自体に植え付けられていた刻印蟲の除去はイリヤスフィールの手により成されたが、それも一時的な処置でしかない。あの蟲は桜が望んで植え付けられたものではなく、他者の手により刻み込まれた烙印であるのだから。 「間桐──臓硯か」 「そ。十年の歳月をかけて桜に植え付け根を張らせた以上、同じだけの深度で術式を再度植え付けるには同じだけの時間がかかるわ。 だけど仮の処置でいいのなら、植え付けるだけならそう難しい事じゃない。桜を完全な意味で間桐から切り離す為には間桐臓硯を殺さなければ終わらない」 士郎達にしてもいつでも何処でも桜を守りきれるわけじゃない。ならば桜を付け狙う原因にして根本、元凶の駆除こそが最善だ。 「まさかとは思うけど衛宮くん。あんな外道まで助けたいなんて言わないわよね」 「……ああ」 正義の味方。誰をも救うその理想と矛盾する感情。悪だから駆逐されなければならない道理はない。だけど桜をあんな目に遭わせ何ひとつ心を痛めていないであろうあの妖怪は、捨て置いていい存在ではない。 誰かの味方をする以上は誰かを見捨てなければならない。桜の場合は奇跡にも等しい幸運があったから犠牲にせずに済んだのだ。 そしてその幸運を完全な形にする為には、明確な悪を討たなければならない。 「分かってる。間桐臓硯は斃さなきゃいけない敵だ」 「ならいいわ。ま、別に反対されてもこればっかりは押し通すつもりだったから構わないんだけど。 臓硯の居場所は分からないけど、多分自分の住処に引っ込んでると思うわ。だからこの好機に一気に奇襲をかける」 刻印蟲が除去されたという情報は臓硯にも伝わっているだろう。だが──だからこそこの数時間は好機足り得る。 よもや完全に駆除されるとは臓硯自身も思ってはいなかっただろう。その危険性があるのなら、この場所に桜が運び込まれる事を容認する筈がないのだから。 「臓硯にとってイリヤの存在はイレギュラーだった筈。今頃は立て篭もる準備か逃げ出す算段をつけている筈だわ。だから相手が後手に廻らなければならないこの状況下での奇襲は最善にして必須。今を逃せばあの爺は闇に潜りかねないから」 「……そうか。じゃあ早速行こう」 「ダメ。行くのはわたしとアーチャーだけ。士郎とイリヤは留守番よ」 「なっ……!?」 そんな真似を士郎が許容する筈がないと分かっていながら凛はそう提案した。 「そんな、おまえにだけ任せるなんて──!」 「違うわ。これだけはわたしがやらなきゃいけない事なの。遠坂の魔術師として。桜の姉として──ね」 「遠、坂」 「それに、ただじっと留守番してろってわけじゃないわ。貴方達に桜を任せるって言ってるの。可能性としては低いけど、臓硯が逆に桜を奪おうと奇襲をかけて来ないとも限らないんだから」 それは凛なりの信頼だった。守るべき妹を士郎とイリヤスフィールに託すという、凛なりの精一杯の信頼の証。背中を任せるも同然の願いだ。 「遠坂。おまえ──」 「分かった? 分かったのならわたしはもう行くわよ。じゃ、ちゃんと桜見てないと酷いんだからね」 ぷいとそっぽを向いたまま外へと通じる扉へと向かう凛に、 「本当、素直じゃないんだから」 イリヤスフィールのそんな声が聞こえて。 「そうよ。だからわたしは遠坂凛なの」 そんな呟きが、イリヤスフィールにだけ聞こえていた。 扉を潜り闇の中に躍り出た瞬間に総身を舐め尽くす寒風に混じり振り出した雨粒が頬を叩く。けれど憎悪という炎を滾らせた凛の心に、その風雨は届かない。 「凛、少し落ち着け。君の怒りは分からないでもないが、激情に身を任せた状態で斃せる相手でもないだろう」 ゆらりと具現化したアーチャーが嗜める。けれど凛は、表にまるで出て来ない激昂を視線にだけ乗せて、冷徹なまでに冷やかにアーチャーを見据えた。 「分かってる。分かってるわよそんな事。でもね、この怒りだけは収められない。桜を弄んだあの妖怪が憎くて堪らない。そして何より──そんな事に気付けなかったわたし自身が許せないの」 桜の身に降り注いだ不幸と呼ぶには余りに凄惨な行いは、たった一言の『助けて』とさえ言えなかった桜自身にも非はある。 体内に蟲を寄生され、四六時中監視下に置かれていたとしても、それでも救いを求めるだけの努力をするべきだったのだ。 しかし桜は自らの堕ちた闇より抜け出す選択の一切を放棄し、ただ恐れから一歩を踏み出す事すら拒絶した。 そんな人間を、どうして救えるというのだろう。いつも何処でも明るく振舞い、笑顔を装い、闇の欠片すら覗かせなかった少女の声なき声。 確かに遠坂凛は間桐桜と距離を置いていた。従う価値もない古い盟約に従い相互不可侵の教えを貫いた。それでもいつも、見ていたのだ。弓道場で弓を射る姿を。廊下で先生に頼まれたプリントを運ぶ姿を。 そんな姿を見続けてなお、凛は桜の異常に気付けなかった。気に掛けてなお気付けなかったのだ。 たとえ桜が悟られまいと振舞っても、細部に渡りちゃんと見ていれば、違和感には気付けていた筈なのに。 「わたしはね、アーチャー。桜も間桐の家でしっかりと魔術を学んでいると思ってた。だからそんな桜に負けないようにって、いつも努力してきた。 わたしが見てきた桜はそういう一面でしかない。桜の置かれている現状を憂慮していなかった時点で、わたしには桜の異常を見抜ける筈もなかった」 「……それを卑下する必要はないだろう。間桐桜自身がひた隠しにしていた以上、凛に落ち度はない。 救いの手を差し伸べられるのはその手を望む者だけだ。伸ばした手を掴み取る意思が相手になければ、どれだけ伸ばそうとも届かない」 助けて欲しいと言えない環境であろうとも、助けを望む事自体を諦める理由にはなりえない。どれだけの地獄の底であろうとも、一縷の希望を望む事さえ忘れたのなら、それはもはや地獄の肯定と同義だ。 桜は自らその底に蹲る事を容認していた。衛宮士郎にだけは、小さな、ほんの小さな希望を夢見ていたのかもしれないが、それは凛には関わりのない話だ。士郎を責めて何が変わるわけでもない。 だから凛はどこまでも強く自分を戒める。桜を想う気持ちがそれだけでしかなかったのだと。きっと何処かで見せていたメッセージを見逃していたのだと。 噛んだ唇から血の雫が線となって零れ落ちる。握り締めた拳は爪が皮を抉り、白く変わり果てる。 「終わった事を後悔しても遅い。だからわたしは前だけを見続ける」 ようやく、自分にも出来る事があるのだ。外道に堕ちてなお引き摺り上げられた妹を救う手立てが確かにある。 もう己を殺す真似をする必要は一切ない。何処までも正直に、この殺意を元凶に向けられる。 イリヤスフィールの言葉が思い出される。遠坂凛は素直じゃない。魔術師足らんとしながら、女の子としての一面も正しく持っている。 今手元に手鏡でもあれば、凛は己の形相を見て鏡を割り砕いていたかもしれない。それほどまでに凄惨にして酷薄な表情を浮かべ、怨敵に尽きる事のない憎悪を想う。 「こんな感情……誰にも見せられないっての」 だから凛は一人で立ち向かう。たった一人で、妹を貶めた悪を殲滅する。 「ふむ……ならば私にだけはソレを見せてくれたという事は、それだけ信頼されていると受け取っておくべきか」 「そうね。貴方の真名も宝具もわたしは知らないけど、パートナーとしてはこの上なく信頼してる」 「…………」 「なに、その顔。愕然とか驚愕とか、そういう言葉が似合いそうな顔なんだけど」 「いや何、まさか君からそこまでストレートな情愛の証を貰えるとは思っていなかったのでね。ふっ、これは手加減出来んか」 小さく笑みを刻んだアーチャーを一瞥し、凛はもう二度と後ろを振り返る事無く前だけを見据える。 駆け出す足に力を込める。今日ほど誰かを憎いと思った事はない。今日ほど感情を露にした事はない。 たった一時の激情。自らの未熟さと誰かへの復讐の念に胸を焦がし、少女は己が心に刃を刺して決意に変える。 ────遠坂凛は、間桐臓硯を殺し尽くす。 「行くわよアーチャー。もうわたしを止めない事ね」 「ああ。冷静に狂っているのならもはやどんな言葉も届くまい。やれやれ、君はもう少し理知的だと思っていたのだがな」 「お生憎さま。そこまで冷徹になりきれるほど遠坂凛は終わっちゃいないわ。憎いものは憎いし、嫌いなものは嫌いなの。それが肉親の出来事なら尚更よ。たった一人の、大切な妹を弄んだクソ野郎をぶっ飛ばす」 「ふん、だがまあいいだろう。そんな主を諌めるのもサーヴァントの務めだ。これ以上藪を突いて蛇に噛まれるのも始末が悪い。君の望むように、敵を駆逐する事が怒りを収めさせる最善の策だ」 赤き主従が闇に走る。 たった一人の少女に本当の意味での救いを与える為に。奈落から手を伸ばす事すら諦めていた少女を無理矢理に引き摺り上げる為に。 凛より留守を任された士郎とイリヤスフィールは言葉もなく長椅子に座していた。士郎は凛や桜の無事を想い黙々と思索に耽り、イリヤスフィールはウトウトと船を漕ぎはじめていた。 「……イリヤ? 眠いのなら少し眠ってもいいぞ」 イリヤスフィールは綺礼にすらこなせなかった桜の治療をやり遂げたのだ。士郎にはそれがどれだけの労力と魔力を使うものかは分からなかったが、見るからに疲れの色を残すイリヤスフィールを見れば一目瞭然だ。 「う……ん。大丈夫よ、シロウ。ふわぁ、これは別に疲れとかじゃなくていつもの事なんだから」 「?」 士郎にはイリヤスフィールの言葉の意味が良く理解できなかったが、それでもなお瞼を閉じかけているイリヤスフィールを流石にそのままにしておくのは拙いと思い、綺礼に毛布の一枚でも借りに行こうとした矢先── 「言峰」 神父がゆらりと姿を見せた。 「事情は理解している。凛とアーチャーは間桐臓硯の討伐に赴いたのだろう?」 「ああ。それで、桜は?」 「私の見立てでは異物の除去は確実に済んでいる。これで間桐桜を苦しめていた刻印蟲はなくなり、彼女を縛るものは消えたというわけだ」 「当然じゃない。誰が……処置したと思ってるの」 「流石にあれだけの処置を行えば疲れも見えるか。ベッドならば貸し出すが? それとも帰るか? おまえ達がこの場に居て出来る事などもうあるまい」 「何言ってる。事情が分かってるのなら帰れるわけないだろう。俺達は遠坂から桜を任されたんだ、それを──」 「ふん、凛らしくもない失態だな。いや、それ程切羽詰っていたという事か。ならば代わりに答えよう、御門違いだ衛宮士郎。何度も言わせるな、おまえにはもう間桐桜に対し何をもする権利はない」 「なっ──」 緩やかな足取りで祭壇へと上がる綺礼を士郎は息を呑んだまま見つめるしかなかった。イリヤスフィールは薄くだけ開いた瞳で、虚空を見つめるばかり。 「どういう意味だ、それは」 そう搾り出した声は掠れている。何か、決定的な何かが士郎の胸に重く圧し掛かる。 「いいか、衛宮士郎。おまえは間桐桜を救った。イリヤスフィールの手を借りたとしても確かに救った。だがそれはただ救っただけだ。命を繋いだだけだ。 それは決して間桐桜を守った事にはならない。おまえは間桐桜を敵と断じず、味方とすら想わず、ただの救うべき者として救ったに過ぎない」 「…………」 「そんなものは路肩に蹲る者の背中を擦った程度の情念だ。衛宮士郎を傷つけた間桐桜を容認せず、闇の底より引き揚げた事にすら成り得ない。 おまえは間桐桜の味方足らんとせず、正義の味方を貫いたのだ。あるいは、イリヤスフィールの味方かもしれんが、何れにせよ間桐桜を選ばなかったのなら、これ以上彼女に対し行える事は何ひとつ有り得んだろう」 拒みながらも何処かで欲していた救い。望みながらも願えなかった一つの想い。間桐桜が衛宮士郎という少年に求めたものを提示しなかった以上、その先に向けて手を伸ばす権利はない。 間桐桜は生き永らえた。だがそれはただそれだけの事なのだ。これまでと同じように生活していけるかと問われれば否であり、これまでと同じように生きていけるかと問われれば否であるのだ。 衛宮士郎に求められた間桐桜に対する本当の救いは死を回避し生を続ける事ではなく──何を置いてもその手を取る事だった。 全てを犠牲にしてでも唯一人の少女を守り通す──その決断を下せなかった時点で、二人の距離は深い溝を刻んでいる。 士郎は正義の味方として桜を救った。それは身近にある大切な人と顔も知らない赤の他人の境界線を越えた行い。間桐桜だから救ったのではなく、目の前に苦しんでいる人がいて助ける術があったから救ったのだ。 等価の命。命の貴賎でも利己的な感情でもない……無数に存在する内の一つの命を掬い上げただけの話。 そんな人間が、どうして今更大切な人だからと手を伸ばす事が許されるだろう。命を等価に扱っておきながら、救ったからともう一度特別な椅子に乗せるなんて真似、出来る筈も無い。 衛宮士郎にそれが可能であったとしても間桐桜にはそれが出来るわけもないのだから。 「正義の味方。おまえはその言葉を正しく理解しているか? 誰かの味方ではなく正義の味方をするという意味を。その理想の裏にある残酷な決意を。 正義しか守れないおまえが、今更間桐桜に手を差し出す事は出来ない。正義の味方の出番は既に終わっている。これより先は彼女の味方に成り得る者だけが踏み込む事を許される領域だ」 士郎の胸に綺礼の言葉が重く圧し掛かる。これまでにない程、言葉の刃が深く心を抉っていく。誰かを守るという事は、誰かを守らないという事。 衛宮士郎はイリヤスフィールを守る事を選んだ。その上でなお正義の味方を貫けているのは彼女の支えがあってこそ。 正義の味方が個人的な想いで手を差し伸べる事を許されるのは唯一人──その手を取った少女だけ。彼女以外には、正義の味方としてしか手を差し伸べる事は許されない。 でなければ矛盾する。正義の味方でもなくイリヤスフィールの味方でもない、それこそ人類の味方とでも言うような遠大な妄想に身を窶す。いかに士郎が甘い理想に身を浸す存在であろうとも、そこまで馬鹿げた存在にはなれない。 人がその手に掴めるものは限られている。イリヤスフィールという存在を選び、正義さえも強欲に掴んだのなら、残る全てはその掌から零れていくのみ。 衛宮士郎は決して──間桐桜を守る者にはなれない。 「…………」 そんな事にすら気付いていなかった士郎は一人項垂れる。正義の味方に選ばれた少女もまた口を挟む真似をしない。出来る筈もない。少女は一人、落ちゆく意識の中で一つの問いかけを想う。 ────ねえシロウ。シロウはわたしがシロウの正義を支えきれなくなった時、どっちを選ぶの? その理想を貫くの? 理想を捨てて、わたしを助けてくれるの? 迷いなくわたしを選んでくれるのかな? 届かない声で少女は謳う。いつか必ず訪れる別離の時に向けて。 「理解したのなら去れ。おまえがいては迷惑だ。間桐桜も目覚めるに目覚めれん」 「っ……それでも」 顔を上げる。一縷の望みを見て。 「それでも、俺は桜を守る。遠坂に頼まれたんだから」 「必要ない。彼女を守る存在は未だあるのだからな」 綺礼が視線を投げる先。雨粒が叩く窓ガラスの外に士郎もまた気配を感じる。間桐桜を守る存在。幽世より喚び戻された英霊。騎兵の座を受けるサーヴァント・ライダー。桜を守る為に士郎達に刃を向けた彼女は確かにその場所にあった。 確かに士郎などよりライダーは余程強力な守護者になる。桜が眠っている間も常に様子を窺っていたに違いない。もし桜を傷つける事になっていれば、彼女は他の全てを擲ってでも桜を救い出しただろう。 間桐桜を守る存在において、彼女以上の心強い味方もいまい。彼女がいるのなら、士郎の出る幕すらない。 「……分かった。桜の事は、任せる」 結局、伸ばしかけた手の落としどころはそこしかない。衛宮士郎が手を差し伸べるべきは間桐桜ではなく、イリヤスフィールであるのだから。 先ほどまで眠気に耐えていたイリヤスフィールもいよいよ耐えられなくなったのか、今はもう起きているのか眠っているのか曖昧な境目にあった。 「イリヤ、帰ろう。そんなところで寝てたら風邪引くぞ」 「ぅ……ん」 それが返事だったのかどうかは分からなかったが、士郎は驚くほどに軽いイリヤスフィールを背負い教会の門扉に手をかけた。 「凛にはこちらから説明しておく。必要なら事の成り行きを聞き次第伝えるが?」 「ああ、頼む。番号は──」 「調べればすぐにでも分かるだろう。 ──衛宮士郎、おまえは何ひとつ気に病む必要はない。おまえは確かに間桐桜を救ったのだからな、それだけは誇ってもいい筈だ」 士郎は返す言葉もなく雨粒の落ちる暗闇の中へと踏み込む。 背に眠る少女を守ると決めた正義の味方は、大切だった誰かを そして一つの問いを想う。 衛宮士郎の夢見た理想は、こんなにも残酷なものであったのか──と。 「……畜生……ちくしょう、あの馬鹿がッ!」 降り頻る雨が閉ざされた窓を叩くその内側で、間桐慎二は深夜にも関わらず声を殺さず暗闇の中で怒りを露にする。 桜を盾に学校に士郎を誘い出したまでは良かったものの、凛の介入や桜の造反により慎二は一人煮え湯を飲まされた。 慎二を魔術師足らしめていた偽臣の書も燃え尽き、ライダーを従える事すら出来なくなった彼に残されたものは、魔道の家系に生まれながらに無能であったという耐え難い烙印だけでしかない。 「畜生……あの野郎がちゃんと一人で来てれば、遠坂なんて来なければ……何より、あの愚図があんな真似をしなければ……ッ!」 間桐慎二にとって魔を継ぐ事は誇りでさえあった。特別な存在。そこらの一般人よりも秀でた存在であるという事は、この上のない優越感であった。 自らが魔道の継承者として相応しいと信じ込み、その頭にありとあらゆる知識を詰め込んだ。けれど彼の思惑は桜によって奪われる。 魔術回路のない慎二は魔術師足りえず、養女として迎えられた桜が間桐を継ぐ。 それは慎二にとって許し難い侮辱であった。特別な家に生まれながら凡庸でしかないその無様。そんな体たらくであるのなら、いっそ普通の家に生まれられていればまだ救いがあったに違いない。 けれど慎二は五百年の歴史を持つ間桐に生を受けたのだ。 だからこそ求めた。凛や桜、士郎でさえも持ち得る特別なものを。慎二だけが持ち得なかった当たり前のものを。 「それがなんで……こんな事になってんだよ……誰が悪い何が悪いどれが悪い。ああ、あぁあぁ決まってる。あの愚図が僕に従わないから悪いんだ。あの愚図がもっと上手くやらなかったから失敗したんだ。 後一つしか令呪がなくても知るもんか。なら無理矢理アイツを従わせて──」 これからの余りにも拙い展望に思いを馳せる慎二の耳朶に、突如として飛び込んできたのは、轟音。身を揺るがすほどの爆発めいた衝撃が、夜の闇を裂いて木霊する。 「なっ……ぁ?」 駆け寄った窓辺から外を見やれば、玄関口が白煙に包まれていた。一体どんな方法で破壊を行ったのか、凄惨な爆発により舞い上げられた木屑や金属片が雨に濡れた地面へと落ちていく。 間桐慎二は呆然とその様を見つめるしかなかった。彼には何がどうなっているのか理解が追いつかない。そして、何者かが間桐邸に襲撃をかけたのだと理解した時──全てが遅かった。 階段を踏み締める音。死刑囚が昇る断頭台へと続く降りない奈落へのカウントダウンのように、それは間違いなく慎二の部屋を目指して近づいて来る。 「ひぃ……ぁ、……な、なんで……」 何故慎二の部屋を目指してくるのか。一体誰がこんな馬鹿な真似をしたのか。核心に至る一切を知り得ない慎二は逃げ場もなく扉から最も遠い部屋の隅に一人追い詰められ── 「────」 軋む音を立ててドアノブが廻される。暗闇から暗闇へと踏み込む何か。けれど慎二にはその鮮烈なまでの赤がどうしようもなく理解出来て。 「とお、さか──?」 良く見知った少女。 赤いコートを羽織った黒髪の魔術師。 だからこそ、慎二は困惑した。 ────あれは、本当に遠坂か? まるで感情の一切を消し去った瞳。その奥に滾る焔の色は澄み渡る黒。強く美しい、憎悪のカタチ。 いつも優雅に振舞っていた凛らしくない──いや、普段の凛を上回るほどに圧倒的な“何か”を纏い少女は立つ。 こんな凛を慎二は知らない。こんな遠坂凛は、有り得ない。 「慎二」 「ぎぇ……!?」 いつの間に距離を詰められたのか、驚くほど間近に少女の顔があり、そして細く繊細な白い腕がそこらの男にも勝る力で慎二の襟元を掴み締め上げる。 「これは嘆願でも命令でもないただの忠告よ。死にたくなければ一刻も早くこの家から去りなさい。そして全てを忘れてただの人間として生きなさい」 「…………っ!」 威圧的な物言い。上からの忠告。そう、これは忠告だ。間桐慎二を敵と見做していない凛からの最後の警告。 その警告に従うかどうかは慎二の意思だ。けれどもし受け入れなければ即座に凛は慎二を敵と認め駆逐する。 そこに容赦はない。ある筈がない。やると決めた遠坂凛に情けなど有り得ないのだ。何かの偶然で生き残れば見逃してもらえるかもしれないが、戦闘の最中にそんな下らない感情を差し挟む女ではない。 「理解したのなら消えなさい。でなければ纏めて消すわよ」 本能的にそれが嘘偽りのない言葉であると悟った慎二は、するりと離れた凛の手すら振り払うほどの勢いで駆け出す。ここで逃げなければ命はない。少なくとも凛は慎二を敵と見ていない。今はまだ。 しかしこの場に留まれば確実に死ぬ。避けえない現実が待っている。 逃げ出す惨めささえ噛み殺し、不出来な自分と完璧な少女との違いをまざまざと見せ付けられた少年は一人──行く当てもなく夜の中に飛び出していく。 「アーチャー、敵の位置は分かる?」 ほんの数秒前まで慎二の相手をしていたとは思えない程に冷静な凛の声。目の前より消えた少年の事など綺麗さっぱり脳裏から掻き消して、今はただ怨敵だけを想う。 アーチャーはぐるりと視線を巡らせる。鷹の慧眼を持つアーチャーの瞳に何が映っているのかは凛には知り得ないが、確かにその眼差しは千里を見通し心さえも見透かされかねない色をしていた。 「何時ぞや見つけた地下工房だな。匂いはそこから吹いている」 この屋敷に踏み込んだ瞬間から薫る微かな腐臭。罠か何かかと勘繰ったが、そういう類ではなく恐らく挑発のつもりであると凛達は理解していた。 「行くわよ」 アーチャーに先導させ、凛は間桐邸を練り歩く。ポケットに滑り込ませたままの手は宝石を握り締め、いつでも放てる準備がある。 広げた感覚の糸は些細な物音すら逃さず感知し、奇襲に対する備えは万全。 他の魔術師の工房に挑むその無謀を、けれど凛は断固とした決意の下に決行する。己が命を秤にかけて。 二階から直接地下へと通じる隠し階段を降りた先に待っていたのは深い闇。純粋な黒よりもなお濃い色をした緑色の闇だった。 間桐の工房。修練場。魔術の教導の場という名でありながら、その実叡智を身に着ける為ではなく身体に業を刻む為だけに存在する奈落。これまで間桐桜が閉じ込められ続けていた牢獄だ。 凛は以前一度この場所に踏み込んでいる。その時は倉の主に出会うことはなかったが── 「早かったな遠坂の」 「間桐、臓硯」 工房の中心に立つ皺枯れた老体。背を折り、杖をつくその様から想像出来ないほどの不快感を迸らせている。酷く濁った水を被せられたような不愉快な思いが凛の喉元よりせり上がる。 「良くもこの場所で待っていたわね、間桐の当主。逃げ出す算段をつける時間さえもなかったのかしら?」 「カカッ! 囀るなよ小娘が。何故お主程度の相手にわしが逃げ出さねばならんのだ」 「ふぅん、覚悟はあるって事。じゃあ今更問答も必要ないわよね。アンタは桜を弄んだ。桜がもう人質として機能しない以上、わたしがアンタを見逃す理由はない。 堕ちた外道、間桐臓硯。冬木の管理者──遠坂に連なる者としてアンタを滅す」 「出来るものならな。この場所がわしの工房と知ってなお噛み付くのなら、その命を以って償いとせぃ!」 固着していた闇が──否、闇に擬態していた蟲が一斉に戦慄く。重なり合う金切り声。不協和を奏で、まるで指揮者に繰られるように列を成し壁を成し蟲の大群が降り注ぐ。 「アーチャー!」 凛が後方へと跳び、入れ替わりアーチャーが走る。手には双剣、白と黒の夫婦剣を携え堆く積み上げられた蟲の波へと突貫する。 「──── 手に掴んだ宝石を放る。アーチャーの脇をすり抜け、降り注ぐ蟲の群へと着弾した瞬間に生じる白光。凝縮されていた極大の魔力が弾け、穴を穿つ。 凛の作り上げた道を駆け抜けたアーチャーはその奥に立つ妖怪目掛けて一直線に迫る。しかし、ぞぷりと音を立てて崩れる臓硯の姿。 形を失くし有象無象の蟲へと変態した臓硯はその肉ごと無数の蟲の中へと紛れ込み、気配を殺す。 「はん、結局身を隠す事しか出来ないわけ。木を隠すなら森の中って言うけど、じゃあその森ごと焼き尽くしてあげる!」 取り出すは三つの宝石。凛が幼少より溜め込んだ十の宝石の内、虎の子の三つを同時解放する禁呪。 「 Der 一点凝縮出来る筈の弾丸をまるで散弾のように放ち、弾けた魔力が色を得て赤い炎を形作り、禁呪とされる相乗の力を以って膨れ上がり闇色の蟲倉を蹂躙する。 耳を劈く爆音と視界を染める赤が一気に生まれる。広大な地下工房を残らず包囲蹂躙する炎の渦。数の暴力であり一匹一匹の力など高が知れている蟲など、この炎に焼かれればたちどころに死滅する。 「っ──ぁ、はぁ……ふっ──」 宝石の同時使用、しかも禁忌にまで手を出した凛の身体に反動が押し寄せる。咽喉にまでせり上がった血の塊を無理矢理に飲み下し、ズキズキと痛む身体の節々を抑え付け、何処かにいる筈の臓硯に視線を配る。 「隠れんぼなんてさせないわよ。飛び逃げ回るしかない能のない蟲を焙り出すには、これくらいの火が丁度良いでしょう?」 『流石は遠坂の当主か。おまえの才は父をも超えておるやもな』 反響する声は出処が分からない。蟲達の断末魔に混じり、あくまで余裕の体を崩さない臓硯の呵々大笑が木霊する。 「しかし爪が甘い」 「────っ!?」 凛がその気配を感じ取った瞬間、弾けるように振り仰ぐ。まるで気配を感じさせる事なく背後に具現化した臓硯は、手にした杖を既に振り上げ、魔力を込められた鋭利な先端で凛の身体を刺し貫く。 「ガッ──ァ!?」 かと思われたが、何処から出現したのか、突如として空より降った一振りの剣が、臓硯の身体を文字通り串刺しにしていた。 「アーチャー……ごめん、助かった」 床へと縫い付けられた臓硯より距離を取り、凛が呟く。 「気を抜くな。この程度で死ぬ筈もない」 その言葉と共に生じる剣の群。周囲に踊る炎を受けて白銀に煌く怜悧な刃が間桐臓硯を──今度こそ本当の意味で串刺しにした。手足は元より咽喉に頭蓋、果ては心臓に至るまで刃の雨が降り注いだ。 流石にやりすぎではないかと訝しんだ凛に対し、アーチャーは足りないとばかりに更なる注文をつける。 「無数の蟲に分離出来る以上、この程度の攻撃が意味を成すとも思えん。それこそ聖言による洗礼でもなくばこの妖怪の魂は消し去れまい。 よって凛、君の魔術で間桐臓硯の身体を炭すら残さず焼き尽くせ」 魂は肉体の檻によって括られる。いかな不滅の魂も、完全なまでに肉体を消し去れば行き場を失い消滅する。 それほどの行いをしなければ殺せない相手だとアーチャーは踏んだ。妄執に生きる吸血蟲を完全に消し去る為に。間桐桜を救う為に。 「……分かった」 肉体的なダメージはなくとも痛みや衝撃は伝播する。でなければソレはもう肉体ですらない。身体を滅多刺しにされ意識を飛ばしかけている今こそが最大の好機。この機を逃せば臓硯は確実に生き延びる。 「──── 静かに紡がれる呪。ピン、と親指に弾かれた宝石が弧を描いて仰臥した間桐臓硯へと着弾する。瞬間、巻き上がる炎。 剣の墓標を染め上げる赤。渦を巻いた炎が間桐の執念を焦がしていく。 「ォ、ォォォォォォォォ────!」 息を吹き返した臓硯が腕を伸ばす。けれど開いた掌は何を掴む事無く地に落ちる。皮や骨や肉、繊維どころか肉体を構成していたのであろう無数の蟲がバラけて奇声を上げて溶けていく。 「────っ」 凛は目の前の光景に息を呑む。これは人の死ですらない。人肉が焼け爛れてもこれほどの匂いは発しまいと思えるほどの異臭が鼻を衝く。 じくじくと爛れ、溶け落ちていく蟲の身体。やがてそれは、死体すら残さず消し炭へと回帰した。 「……終わってみれば、呆気ないわね」 時間にして五分にも満たない刹那。戦いとは元来そういうものだ。そして凛は惜しげもなく宝石を用い、サーヴァントまで動員したのだ。いかな魔術師の工房内であろうと人外の英霊を相手取って勝てる道理はない。 周囲に揺らめき立っていた炎もやがて収束する。緑色の闇の中に残るのは二人の影。部外者である凛とアーチャーだけが残り、この蟲倉にいた数えるのも馬鹿らしい蟲のほとんどは死滅した。 「アーチャー、この屋敷ごと吹き飛ばせる?」 ほとんどが炎に焼かれたとはいえ逃げ出そうとする蟲はいるだろう。念の為と屋敷に踏み込む前に結界を敷設してあるので、すぐにでも起動すれば退路すら絶てる。 だがそれでは完全な勝利ではない。一匹残らず消滅させなければ本当の意味での勝利ではないのだから。 「周囲への配慮を考えなければ簡単だ。この地下工房も埋めてしまうのがいいだろう」 「そうね。じゃあもう少し手伝って」 「承知した」 感慨もなく二人は後始末に着手する。臓硯を斃すに要した時間に数倍する手間と労力がかかるだろう事は明白だった。 結局凛達が教会へと戻れたのは夜が白み出すような時間だった。 「ようやく戻ったか」 「綺礼。何、まさか寝ないで待ってたの?」 「仮眠は取らせてもらったがな。間桐桜の容態も念の為見ておく必要があったから、別段おまえ達を待っていたわけではない」 そういう綺礼には確かに疲れの色らしきものは見当たらない。どんな超人かとさしもの凛も訝しむ。 「まあいいわ。それで、桜の様子は?」 「変わりない。穏やかに眠っているよ。そちらは?」 「臓硯は滅ぼしたわ。間桐の屋敷も潰させて貰った。慎二が帰ってきたら目を剥くだろうけど、その時はアンタ紹介しとくから宜しく」 「……。それはまあいいとして、流石にやりすぎではないか? いや、あの吸血蟲の特性を思えばそのくらいは必要か」 「そ。ぶっちゃけこれでも安心出来ないくらいよ。数百年を生きた化物なんて早々簡単に死なないだろうし。今も何処かで囀ってるかと思うと吐き気がするけど」 「…………」 「とりあえず出来る限りはやったわ。仮に生き延びていたとしても相当に消耗させた筈。一日二日で回復するようなレベルではないのは確かよ」 「ならばこれで聖杯戦争はあるべき形に戻るか」 間桐臓硯により狂わされていた聖杯戦争。臓硯の死と共に異変は収束し残った者達は以前と変わりなく戦いに身を窶し聖杯を巡る。 「念の為に確認しておくが、間桐桜の処遇をどうする。彼女自身の身体の無事を確認できれば我が教会で預かり続ける事は出来ん。現状ではな」 「今日はわたしが連れて帰るわ。その後はまだ分からないけど、もうこんな戦いに関わらせないようにしたいとは思ってる」 そこで凛は辺りを見回す。いるべき筈の人間が二人──少なくとも一人足りない。 「ねえ綺礼、士郎は?」 「先に帰した。あの少年がこの場に留まって出来る事など何もなかったからな」 「…………」 疲れがあるとはいえ、この教会を飛び出した時より深く思慮出来る状態にある凛は綺礼の言葉を吟味し、納得と共に頷いた。 「まあ、そうか。チッ、綺礼に貸し一つなんて、とんだ無様ね」 「別におまえに恩を売りたかったわけではないのだがな。勝手に思う分には自由だが」 「早めにきっちり返してやるわよ。じゃあ桜は預かるわ」 ああ、と綺礼は頷き凛を伴い桜の眠る部屋と連れ立って入る。そこには穏やかな寝息を立てる桜の姿があった。あの苦しげな呻きは今はもう微塵もない。 桜は救われた。少なくとも身体に不自由はなくなるだろう。ただ一連の出来事の中で崩れた心だけは、容易には修復出来ないであろうが。 終わったものと始まったもの。これまであってなきものであった桜の意思はようやく一つの形を得る。変わる事を恐れていた桜にあってもこれからは変わらないものはなく、その変化をどう受け止め生きていくかは本人次第だ。 ────ま、わたしも出来る限りサポートするつもりだけど。こればっかりはこの子次第か。 人は支えあう事は出来ても、立ち上がるのは自らの意思だ。立ち上がる意思なき者を無理矢理に立たせても力なく崩れ落ちるだけ。だからこそ、立ち上がる為の助力を凛は惜しまない。 「よ、っと」 流石に少し重いか、と本人には決して言えない事を思いながら、けれどその重みこそが救ったものであるのなら、凛にとっては苦にもならない重さだった。 「じゃあお世話になりました。もうこんな場所に来なくて済むようにしたいわ」 「おまえに限ってはそんなヘマは有り得まい。間桐臓硯により乱されたせいでサーヴァントも残り少ない。順当に勝ち上がるのならおまえで間違いはないだろう」 「ふん……妙なおべっかはいらないわよ」 「厳然たる事実だ。私的な意見を述べるのなら、おまえが勝ち上がるのが最善であると思っている。戦え凛。遠坂の悲願は目の前だ」 綺礼の激励とも取れる言葉に怖気を覚えながら凛は礼拝堂を横切り外へと出る。夜の闇から朝の光が顔を覗かせる刻限が、新しい一日の到来を告げていた。 「ライダー、いるんでしょ。出て来てくれる?」 間桐桜より刻印蟲が除去されたとしても未だライダーを統べるマスターである事には変わりはない。彼女を守るサーヴァントは確実にいると思い、凛はその名を呼んだ。 「…………」 一言すらなく実体化するライダー。紫紺の髪が朝日を浴びて輝く。武器を手にしていないのは凛に敵意がないと分かっているからだろう。 「とりあえず桜をうちに連れて行こうと思うんだけど、異存はない?」 「はい。貴女が間桐の屋敷を破壊したのなら彼女には行く宛てがありませんから」 「そう、じゃあ一緒について来て。一旦戻ってから貴女にも話さなきゃいけない事があるから」 返事を聞かず凛は歩き出す。背中に十一年も昔に別たれた妹の感触を確かめながら。もう二度とはこんな風に接する事は出来ないと想っていたから、余計にそのぬくもりが柔らかく感じた。 長い一日が──ようやく終わりを告げようとしていた。 web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |