Fairy Tale 2









 言峰綺礼が浅い仮眠の後、執務室にてレポートと格闘している時分。

「また下らないモノに手間を取られているのか、言峰」

 蝋燭の灯りだけが頼りなく揺れる室内に、心底つまらなそうに呟いたその男が入ってきただけで雰囲気が一変する。石造りの部屋がまるで豪奢な王室であるかのように、男の黄金の髪に似た輝きが溢れたように錯覚する。

 そう、そんなものは真実錯覚だ。部屋の装飾は何ひとつ変わっていないし、灯りも蝋燭だけしかない。けれど間違いなく、男の登場で何かが塗り替えられた。それほどの何かを持つ男だった、その神秘的な青年は。

「……ほう? 今度はとうとう死者が出たか」

 綺礼が無言のまま書類に向き合って振り向かないのをいい事に、男はその中から一枚を掠め取り流し読む。紙に書かれた文を読めば、これまでは昏睡程度で済んでいた街の被害が昨夜ついに犠牲者を出したのだ。

「で、言峰。これは一体どう処理されるのだ?」

 そこでようやく綺礼は男の方を見た。

「別段何も。協会や教会が関与するのは神秘が露見した時だけだ。この殺人がマスターによるものであれ、サーヴァントのものであれ、秘匿されるべきものが秘匿されている以上は直接的な関与はしない。多少の隠蔽工作くらいならば手を出すかもしれんがな」

「ふむ……心臓を奪って殺すか。猟奇殺人にしては度が過ぎる。誰かは知らんが、あざといな」

「……? まさかおまえ自ら始末に乗り出す気か?」

「さてな。我はあくまで我の意思で動くまで。誰に命令も指示もさせん」

 それがその男の唯一つの行動原理。絶対の孤高にして君臨者。この世の頂点に立つ者の意思。

「それはともかく、妙な事を聞いたな。おまえはこの連日の事件の主犯について目処を立てていたのではなかったのか?」

「間違っているぞ言峰。昨日までの昏睡事件の犯人と、この殺人の犯人は別人だ。その程度も分からぬほど愚鈍ではあるまい?」

「…………」

「何よりだ、昨日貴様らがこの教会でしていた事を我が知らぬとでも思っているのか。だとすれば、安く見るにも程があるぞ」

 男の紅玉の瞳が細められる。刃の如き怜悧さで視線を刺す。それは見るもの全てを釘付けにし、縛り付ける魔眼にも似た輝きだった。
 しかし綺礼にとって男の視線など慣れたものなのか、怖気づく事も怯える事もなく見返した。

「ではこの犯人は何者だ。間桐臓硯は凛によって消された以上、こんな真似をする者など──」

「下らん三文芝居に付き合わせるなよ言峰。分かっていて問うほど無駄なものもあるまい」

「ふむ……遊びが過ぎたか。いや、気を悪くしたのなら許せ」

「構わん。その程度の戯れで気を乱すほど愚かではない。それよりもだ、貴様は何故あの女を帰した?」

 あの女、という言葉に綺礼が僅かに目を細める。

「以前も言ったが、私には望みはない。望みなき者があの少女を匿い続ける理由はないだろう。あるいはとも思ったが、どうやら私の望むものは生まれそうにもないのでな」

 その流れを変えたのは間違いなく衛宮士郎だろう。あの少年がイリヤスフィールを連れて来なければ、あの少年が違う結末を選択していれば、変わる未来もあっただろう。

 元より傍観者を気取る綺礼に直接的関与は出来ない。綺礼は監督役として戦いを見届け神父として祝福するのみ。
 下らない結末を迎えるのならば、あるいは自ら戦地へと赴く事も一考に値するが、このまま事が運んでもそれはそれで面白い結果が見られるのだから。

「つまり貴様はもうこの戦いに未練はないと」

「元より何に対しても未練などないがな。ただ普通過ぎる結末が待っているだけだ。それでも多少は私を愉しませる何かはあろうが」

 コツ、と青年の靴が床を打つ。

「────では貴様はもう、ここで死んでおけ」

 ずん、と音を立て綺礼の背後より剣が降る。寸分違わず心臓を撃ち貫いた白銀の刃を伝って赤い雫が零れていく。

「アーチャー……貴様……」

「十年か、言峰。あの時より十年だ。この我を退屈させぬかとこれまで生かしておいたのだが、そのような達観を得た貴様は詰まらん。
 これではあの苦悩に満ちてなお、無様に滑稽にもがいていた頃の貴様の方が余程生き生きとしていたぞ」

「ぐっ──ぁ」

「あの頃の情熱はどうした。自らの手で結末を塗り替えるくらいの事をして見せろよ。輪の外側より俯瞰するだけなど、神気取りか。下らん、ああ……まったくもって下らんよな言峰綺礼」

 剣が降る。綺礼の腕に刻まされた令呪を抉り、もう片方の手を床に縫いつけ、足でさえ磔の如く動きを封じられる。尋常ではない血の池が僅かな間に生まれていた。

「我は十年前に受肉を済ませている。貴様の用意する肉も貴様という楔も必要ない。雑種に成り下がった貴様に、我の手綱を握らせておくなど失笑ものだ。
 見ておけ雑種。我がこの下らない劇をもう少しばかり面白可笑しく変えてやる。その果てに、人間という種の粛清というオマケ付きでな」

「ぁ──、が、……っ」

 仰臥した綺礼の動きが完全に停止する。この青年にとって最大のネックはこの言峰綺礼であったが、最後の抵抗すら見せず息絶えたところを見ると、その結末すら容認していたかのようだ。

「……フン。いつか貴様自身が言っていた事だろう。苦しみに呻く生よりも、我は救いある死を遣わすと。
 貴様の願望が叶わぬものであるのなら、我が手での介錯をせめてもの餞と思え」

 そうして青年は教会を去る。地に伏した神父をそのままに。十年の時を超えて、今再び表舞台へと繰り出した。

×


「────」

 イリヤスフィールが目を覚ましたのは、朝日が射す頃合だった。彼女が一日に必要とする睡眠時間を思えば明らかに少ないきらいがあったが、寝心地が悪かったのか、はたまた慣れない場所で落ち着かなかったのか、ともかく彼女は深い眠りより目覚めた。

「あれ……ここって……」

 瞼を擦りながら周囲を見回すと、いつも見慣れた洋風式の荘厳な佇まいを見せる城の一室ではなく、和によって統一された比べるべくもない小さな部屋だった。

 イリヤスフィールは自分が何故こんな場所で眠っていたのかと追想する。記憶が確かなのは教会で間桐桜の治療を終えた辺りだ。その後は──

「まあ、単純に推測すればシロウが運んでくれたのかな」

 惜しい事をした、とこっそり舌打ちをする。恐らくは背負われて運ばれたのだろうが、シロウをおちょくるチャンスをみすみす逃してしまった。

「ま、いっか。昨日はシロウも色々大変だったし。うん、勘弁してあげましょう」

 よいしょ、と布団より這い出す。温かな毛布より抜け出すと、朝の肌寒さが身を包み、身体を抱えるように腕を廻した。
 そのままイリヤスフィールは部屋を辞し、片面がガラス張りの縁側を通り抜け、微かに漂ってくる匂いの元を探り当てた。

 そこは居間。居間の向こうにある台所から芳しい香りが流れ、一人の少年が給仕に勤しんでいた。

「シロウ」

「お、イリヤ。おはよう」

「うん、おはようシロウ」

「昨日は良く眠れたか?」

「ええ。起きた時少しだけ事情が飲み込めなかったけど」

「ああ、悪い。それは後で纏めて話すよ。イリヤ、朝飯食べるだろ? 一応何が好きか分からないから洋食っぽいのを選んでみたんだけど」

「え!? シロウ料理作れるの!?」

 パタパタパタと駆け足にイリヤスフィールは台所に駆け込み、すわどんな奇想天外なものが見られるかと興味半分で覗き込んだが、鍋の中で踊っているのは匂いに違わない綺麗な琥珀色をしたスープだった。

「うわー、きれいー、おいしそうー」

「もうちょっとだけ待っててくれよ。あとちょっとだから」

「何か手伝うことはないの?」

「うん……?」

 見るからにお嬢様然としたイリヤスフィールにとても料理など出来そうにもない。何よりもう仕上げの段階に差し掛かっているので別段手伝ってもらう必要性のあるものはないと思った士郎は、

「じゃあ、料理運ぶの手伝ってくれるか?」

「うん!」

 彩り鮮やかに並べられたサラダやオムレツなどの皿を居間の食卓へと二人は運び、食事を開始した。

×


「ごちそうさまでした! おいしかったー!」

「お粗末さま。満足してくれたのなら何よりだ」

 家にある食材で適当に、それでもいつもより気合を入れて作ったものだったとしても、一般家庭の料理などとは比べ物にならないものを食べているであろうイリヤスフィールの口に合うか不安だったが、そんな心配は杞憂に終わって良かったと士郎は安堵した。

 食後のお茶に舌鼓を打った後、士郎は昨夜の顛末をイリヤスフィールに説明した。

「ふぅん……じゃあリンがどうなったかはシロウも知らないんだ」

「ああ。まあ遠坂に限ってヘマしたって事はなさそうだし、言峰の連絡待ちだな」

 そんな会話をしている時、その電子音は鳴り響いた。

「電話か」

 まだ朝も早いこの時間、この家に電話をかけてくる者は少ない。
 ならばその相手は今話題にしていた、昨夜の報告を頼んだ言峰綺礼神父かと思い受話器を取った士郎だったが、

「はい、衛宮です」

『え、あれ? アー……いや、そちら衛宮士郎くんのお宅で合ってますか?』

 響いたのは、少女の声だった。

「はあ、そうですけど。ってか、この声、遠坂か?」

『なんだ、やっぱり士郎か。もう、紛らわしいわね』

「は? 何が?」

『こっちの話。朝早く悪いわね。悪いついでに単刀直入に用件を言うわ。今からウチ、来てくれない?』

×


 簡潔に、まさにその用件だけを言い、有無を言わせず士郎の了承を取った凛は通話を一方的に断ち切った。
 何の用件で遠坂邸まで出向けと言ったのか、その真意が判然としないまま、士郎はイリヤスフィールを伴い早朝の深山町を歩いていた。

 実際のところ、凛の用件についての予想はついている。イリヤスフィールも同意してくれた。
 昨日の深夜に行われた凛とアーチャーによる間桐邸強襲。その結果。桜の容態。桜は、間桐臓硯の魔の手から逃れられたのか。逃れていたのなら……

 と、そんな思考をしている間に、目的地である遠坂邸は目の前にまで迫っていた。隣を歩くイリヤスフィールもその古めかしくも立派な洋館を見上げている。

「なんだかオバケやしきみたい。リンにはぴったりね」

「イリヤ……それ、本人の前で言うんじゃないぞ?」

 何処か人を寄せ付けぬ雰囲気のある洋館。イリヤスフィールの言も完全な的外れではないような気もすると思いながら、士郎はチャイムのベルを鳴らした。

「待ってたわ。お茶淹れるから、先にリビング行ってくれる?」

 応対に出た凛に通され二人はアンティーク調に整えられたリビングへと案内される。そこには壁に寄りかかるアーチャー、そしてライダーが待っていた。士郎は広いリビングに目を配ったが桜の姿は見当たらなかった。

「間桐桜がそんなにも気にかかるのか?」

 声は赤い外套を纏い、壁際で腕を組んでいた男より放たれた。

「当然だ。桜は、大事な家族なんだから」

「……未だそんな世迷い事を口にするのか、貴様は」

「なに……?」

 士郎の心臓にちくりと痛みが走る。アーチャーと対峙する時、いつも感じていた嫌悪ではなく、もっと別の何か……得体の知れない、知りたくない感情の残滓。

「間桐桜の味方ではなく、正義の味方として彼女を救った貴様が今更どの面を下げてそんな言葉を口走る。
 大切な一ではなく、無数の中の一として彼女を救った正義の味方(エミヤシロウ)に彼女の身を案じる資格などある筈がないだろう?」

「……っ!」

「貴様がした事はただ救っただけ……命を繋いだだけだ。彼女の心は救われていない。救われる事はもう、ない。そう理解していながら、理解してもなお、その無様な理想を貫き通そうとしたんだろう。
 ならばそんな虫唾の走る言葉を口走るな。もはや衛宮士郎に出来る事は、その理想に溺れ続ける事だけなのだから」

 言い返したい憤怒があった。怒りに任せて吐き出したい暴言があった。だがその何れもが士郎の声帯を震わせるには至らない。
 言峰綺礼に宣告された正義の味方が背負うべき呪いとアーチャーにぶつけられた衛宮士郎に許された無様。どちらもおそらくは真実であると士郎の中で理解が出来ているから。納得は出来ずとも、理解は出来てしまっているから声は出せず、言葉にはならない。

 衛宮士郎は間桐桜ではなくイリヤスフィールを選び──白雪の少女の助けを借りて荒唐無稽な理想を貫き通すと決めたのだから。

 切り捨てられた(えらばれなかった)もう一人の少女に今更差し伸べられる掌など、ある筈がない。差し伸べたところで傷つくのは差し伸べられた少女の方なのだから。

「それでも」

 唇を噛み言葉の全てを飲み込んでいた士郎の下に、

「その無様の中、掴んだものがあるのなら、決して離すな」

 そんな、皮肉に満ちた言い回しをする男の言葉とは到底思えない、真っ直ぐな言葉が投げかけられた。

「アーチャー、それはどういう──」

「はいはーい、雑談はそこまで。お茶の用意も出来たし本題に入りましょ」

 キッチンでお茶の準備を済ませた凛が、ティーポットの載ったトレイを抱えてリビングに戻ってくる。
 士郎はアーチャーに先の言葉の真意を問い質したかったが、今は本題──この屋敷を訪れた本当の目的──の為に言葉を飲み込んだ。

 差し出された紅茶を一口含む。紅茶に関する造詣が深いわけではない士郎でさえも、素直に感心してしまうほどに美味しく淹れられた赤く澄んだ液体が、アーチャーとのやりとりで昂ぶった心を落ち着かせる。

 最後に一つ深呼吸をし、士郎は切り出した。

「それで、桜は?」

 士郎の所作を黙って眺め、その後に自分も口をつけた凛は嚥下した後に言葉を返す。

「今はわたしの部屋で眠っているわ。今は、というよりも、あれからずっと目を覚ます気配がないんだけど」

「目を覚ます気配がない……? 遠坂、それってまさか……?」

「いいえ、臓硯は滅ぼした。だからあの妖怪が何かをしてるって線はないわ。ただ単純に十年の歳月をかけて馴染ませられた(モノ)をいきなり摘出したから、その反動というか、身体があるべき状態に馴染んでないだけだと思うわ」

 そこで言葉を切りチラリとイリヤスフィールを見る凛。当の銀髪の少女は優雅な所作で紅茶に口をつけるばかりで、凛の視線など意に返さない。

「ま、蟲に無理矢理搾り取られてた魔力が回復して、肉体が正常に機能し始めればすぐにも目は覚めるでしょう。もうあの子を害す悪魔はいないんだから」

「そう……か。良かった……」

 ようやく、士郎は安堵の息を吐き出した。だらしもなくソファーに身を埋め天を仰ぐ。

「まあ、まだ問題は残ってるんだけど」

 士郎ががばりと身を起こし、凛の視線の先を伺う。そこには、紫紺の髪を靡かせる、表情の伺えない人外の美女──サーヴァント・ライダーの姿があった。

 間桐桜の体内に寄生していた刻印蟲は除去され、諸悪の根源である間桐臓硯は凛とアーチャーによって駆逐された。これで桜は自由を取り戻せた。しかし、彼女は未だマスターのままなのだ。

 その手には赤き令呪が燦然と輝き、彼女を守護する騎兵の英霊もまた健在。間桐桜という少女の肉体の問題は解決された。呪縛もまた消え去った。けれど彼女が魔術師であり、マスターであり、ライダーを統べているという事実は変わらない。

 サーヴァントを従えるマスターは聖杯を巡り戦う事を余儀なくされる。未だ健在のマスターの二人は、この遠坂邸に集っているのだから。

「遠坂っ! おまえまさか──!」

 凛はイリヤスフィールを見、

「イリヤ。おまえは違うよな!?」

 少女もまた、紅茶のカップをソーサーに戻し、凛を見た。

「ねえシロウ。サクラの問題とマスターの問題は別の問題でしょう? サクラがマスターであり続ける限り、私達は敵同士」

「そ。今わたし達がこの場に集まっているのに戦わないのは、聖杯戦争をあるべき状態に戻す為に必要だった、一時的な休戦状態だからでしょ。
 臓硯によって狂わされた戦いは正常化し、桜の無事も確保された。その上であの子が自らの意思でわたし達に立ち向かってくるのなら、それは対等という事よ」

 対等。

 聖杯を巡り戦う敵手。その身を救っておきながら、間桐桜を救う為にそれぞれが成すべき事を成しながら、その上で戦う事を決意する。
 それが彼女達の覚悟。覆る事のない意思。既に脱落者となった士郎の言葉など、何の抑止力にもなりはしない。

「いいえ、サクラは貴方達の敵にはなりえません」

 そう、士郎の言葉では。

「ライダー」

「サクラは自ら進んで戦ってきたわけではありません。戦わざるをえなかったのです」

 それは臓硯の指示であり思惑。マスターとして戦い続けなければ、桜の体内に潜む刻印蟲は蠕動を繰り返し彼女の肉体を蝕み続ける。
 故に戦わざるをえなかった。それでも最後の抵抗として慎二に令呪を譲渡して、体裁を取り繕っていたのだ。

 暗き蟲倉の底で耐え難い苦痛に喘ぎ、助けを求める心さえ殺さなければ立ってすらいられなかった少女が、魔術を、魔術師を、マスターというものに嫌悪を抱かない筈がない。マスターであり続ける筈がない。

 戦わなくていいという選択肢が与えられるのなら、桜は必ず戦う事を放棄する──そうライダーは語った。

 凛やイリヤスフィールにもそうなるであろう事は予想出来ていたのか、ライダーの弁にもそれほど驚きは見せなかった。士郎もまた、桜が戦いに巻き込まれないのならそれでいいと安堵した。けれど同時に疑問もまた湧き出した。

「ライダーは、それでいいのか?」

 サーヴァントがマスターの召喚に応じるには相応の理由がある。遥か格下のマスターに付き従い、共に聖杯の頂を目指す理由──サーヴァント達もまた、彼ら自身に聖杯に託すべき願いがあるのだ。

 桜がマスターとしての権利を放棄するとはすなわち、サーヴァントたるライダーの消滅を意味する。楔としての役割を失い、魔力供給さえも断たれてしまえば、数時間と待たずに消え去る事は必定だ。

 消滅までの間に他者の魂を喰らう者(ソウルイーター)としての本懐を成せば幾ばくかの存命くらいは出来るだろうが、ライダー自身の言葉を思えば、それは己の消滅を肯定しているとさえ受け取れよう。

 故に士郎は問い質した。ライダーはそれでいいのか、と。おまえ自身の祈りを放棄してしまっていいのか、と。

「はい」

 短く、けれどはっきりと。たった一言の言葉が、どんな言い訳よりもなお雄弁に彼女の決意を物語る。瞳を隠し本当の表情は窺えなくとも、小さく刻まれた笑みが、一層の強い意志を裏付ける。

 同時にじゃらり、という金属音。騎兵のサーヴァントの手の中に具現化するは、鎖によって繋がれた一対の短剣。釘にも近い殺傷武器。

「ライダーっ……!」

「いいの? 桜に別れを告げなくて」

 士郎が何かを言おうとする前に、凛が割って入る。淡々と、冷静に。

「サクラの無事が確保された。それが分かっているのなら、不要です。サクラならば、何も言わずとも理解してくれるでしょう」

 別れを告げれば引き止められてしまうかもしれない。躊躇してしまうかもしれない。桜が戦いから身を引くもっとも簡潔な方法は事後承諾しか有り得ない。

 どんな言葉をかけられようと、ライダーならば自らその命に手を掛けよう。けれど彼女にこれ以上の死を目の前に見せる必要はない。辛い別れを強いる必要はない。
 一時は涙を流そうとも、いずれ心の傷は癒えて塞がる。桜ならばいつか必ず、自らの足で立ち上がる日が来るだろう。ライダーの真意を理解してくれる、その日が。

 マスターとサーヴァントの間にある絆。信頼の証。言葉は不要。今はまだ、理解もいらない。ただ、納得だけをしてくれるのなら、それでいい……

「さようなら、サクラ」

 誰が止める間もなく、ライダーは己が心臓に刃を突き立てる。噴出する血は地に落ちることなく霧となり散っていく。
 ごぽりと喉元よりせり上がり、口元に沸いた鉄の味を飲み下し、ライダーは今一度笑みを刻み、愛おしい少女を想う──

 ──どうか、貴女の未来に幸あらん事を……

 そうして。紫紺の騎兵は、己が主に看取られる事無く。けれど、幸福の夢の内に消えていった。

×


「士郎?」

 ライダーの消滅より数分。各々が彼女の死の意味の納得を済ませた頃合。一人欠けたリビングで、衛宮士郎は立ち上がった。

「桜に会って来る」

「……まだ目覚めていないかもしれないわよ?」

「それならそれでもいい。でももし起きているのなら、話したい事が、話さなきゃならない事があるんだ」

 刻印蟲の除去。マスター権の消滅。これで桜は名実共に聖杯戦争より脱落した。彼女はもう、一介にすら及ばぬ魔術師でしかない。
 彼女を害するものはなくなった。外敵は、いなくなったのだ。だからこそ、士郎には桜に話さなければならない事がある。謝らなければならない事がある。

「そ。好きになさい。イリヤスフィール、わたし達の休戦協定は、いつまで?」

「安心していいわリン。シロウがこの屋敷にいる限り、私からは手を出さない」

「そう、こっちとしてもその方が助かるわ。じゃ、衛宮くん。いってらっしゃい」

「ああ」

 イリヤスフィールと凛達を残し、士郎は一人廊下に出て、階段を上る。程なく桜の眠る場所──凛の寝室の前へと辿り着く。

「…………」

 耳を澄ませてみても物音はない。完全な無音。静寂だけが辺りを包んでいる。
 士郎は意を決して扉を三度、ノックした。

「…………」

 返事はなく、物音もしない。未だ昏睡状態から目覚めていないのか。ならば出直さなければならないが、

「桜、起きてるか?」

 最後に声を掛け、これでも返答がないのならリビングに戻ろうと思った矢先──

「……せん、ぱい?」

 儚く、ちいさな、けれど懐かしい少女の声音が耳朶に届いた。

「ああ、俺だ。衛宮士郎だ。桜、身体はもう大丈夫か?」

「はい……先輩達が、助けてくれたんですか?」

「俺は何もしちゃいないけどな。礼なら遠坂とイリヤに言ってやってくれ」

「…………」

「……桜?」

「どうして、助けたんですか……?」

 それは、士郎にとって予想すらしていなかった問いだった。

「どうしてって……桜は、苦しんでいたんだろう? 辛かったんだろう? 誰にもそれを言えなかったんだろう?
 でも俺は、俺達は知ってしまった。なら、それを助けるのに理由なんか必要か?」

 それは衛宮士郎の本心からの答え。

 困っている人がいる。苦しんでいる人がいる。助けを求めている人がいる。ならば彼らを救う事に、いったいどんな理由が必要だと言うのか。
 見返りなんて求めていない。打算も何もない。ただ目の前にある不幸を取り除く事で、一つでも笑顔が咲くのなら、ただそれだけでいいという──歪な理念。

 衛宮士郎に科せられた──呪い(ツミ)のカタチ。

 だから士郎は気づかない。救われる事が喜びであると、信じて疑わない彼には到底及びもつかない。生きている事が、苦痛である人間がいるなんて事に。

「私は……救われるべきなんかじゃなかったんです」

「桜、何を──」

「だって私、先輩を傷つけたんですよ……? いっぱい、嘘ついてたんですよ……? そんな汚れた……こんなにも汚い人間が、どうして救われてしまうんですかっ……!」

 魔術師である事をひた隠しにし、温かな日溜りに居座り続けた。何も知らない一学生として振舞い続けた。
 醜い自分を隠す為。闇の底にいる自分を見られたくないから、それでも士郎の傍にいたいと願ってしまったから、桜は嘘を吐き続けた。

 だがそれは、最悪の形で露呈した。

 一番見られたくないものを、知られたくないものを、一番見て欲しくない人に見られてしまった。
 あまつさえ、そこに桜の意思が介在しなくとも、一番大切な人を傷つけたのだ。

 許容できる筈がない。許される筈がない。たとえ士郎が許そうとも、桜自身が許せない。もう隣にはいられない。日溜りには、戻れない……

「私はあのまま、死ぬべきだったんです。救われても、もう居場所なんて何処にもないんだから……」

「さく、ら……」

 扉一枚隔てた向こうに、大切な家族がいる。失意に沈む彼女に面と向かって投げかけてやりたい言葉が山ほどある。伝えなければならない言葉があった。けれど、士郎には扉を開けられない。
 鍵など掛かっていないだろう。ドアノブを回せば、それだけで薄い扉の一枚などすぐにも開くというのに、開けられない。

 桜からの明確な拒絶。救われた事の否定は、衛宮士郎の理想の否定。ただの扉の一枚が、今はどんな壁よりも高く、厚い。

「桜……」

「先輩、もう、帰ってください。私はもう、先輩に会えません」

「…………」

 震える声。搾り出したであろう拒絶の意思。瞳に涙すらにじませて、決別の言葉を桜は口にした。
 そこにどんな葛藤があるのか、士郎には分からない。分かったつもりにはなれても、本当の意味での理解は出来ない。何故なら士郎は、イリヤスフィールの味方である事を選んだのだから。

 かつて切嗣が口にしていた言葉──正義の味方は味方したものしか守れない。

 幼心に切嗣に反論した事を覚えている。自身の理想とする正義の味方から、そんな現実に則したどうしようもない事実なんて聞きたくなかったから。

 でも、今ならば理解出来る。選ばないという事は、切り捨てるという事で……全てをその手で掴み取るなんて事は、決して出来ないのだと。
 そうして扉一枚隔てた距離が、正義の味方でいる事を選んだ士郎と、選ばれなかった少女との、絶対的な溝であるという事に。

 士郎にはもう、告げるべき言葉が見つからない。掛けてやれる言葉なんて、何処を探してもありはしない。

 だけど──

「……分かった」

「────っ」

「でも、これだけは聞いてくれないか。桜──おまえが無事で、本当に良かった」

「……っ、……ぁ」

 士郎は扉に背を向け、歩き出す。遠く残響のように聞こえる、少女の嗚咽を、振り払うかのように。

×


「シロウ……」

 リビングに戻ってきた士郎に真っ先に声を掛けてきたのはイリヤスフィールだった。その顔が、僅かに曇っている事に気がついた。

「どうしたんだ、イリヤ。そんな顔をして」

「ううん、なんでもない」

「それで、衛宮くん。桜とは話は……出来たみたいね」

 士郎の顔色から察したのだろう、凛はそう声を上げた。

「ああ。遠坂、悪いけど、後の事は頼む」

「貴方に言われるまでもないわ。それで、貴方はどうするの?」

「イリヤはどうしたい?」

「……もうここでの用は済んだんでしょ。なら、私の城に行きましょ。リン、まだ戦うつもりならしっかりと準備をして挑んで来る事ね」

「はっ、誰にものを言ってるのかしらね。その余裕の顔を歪ませてあげるんだから」

 軽口を交し合い、イリヤスフィールは士郎の手を引いてリビングを後にする。

 聖杯戦争も既に大詰め。もう残っているサーヴァントの数は限りなく少ない。イリヤスフィールと凛、どちらかが勝者となるのは、明白だ。

 しかし今のイリヤスフィールにとって、聖杯を巡る闘争などどうでもいい。一番大切なものは手に入れた。欲しかったものは手に入ったのだ。
 たとえこの先、避けようのない別離が彼女達の前に待ち受けていようとも、その時に後悔のないように、今この瞬間を生き抜いていく。

 だけど、いやだからこそ、イリヤスフィールには問わねばならない事があった。

「シロウ」

 遠坂邸から郊外の森に立つアインツベルン城までの道程の途中。イリヤスフィールは切り出した。

「なんだ、イリヤ?」

 士郎の声色は変わらない。普段と全く、変わらない。それが異常だと、本人だけが気づかない。

「シロウはサクラを救ったわ。貴方自身が何もしていなくとも、私の手を取った事で間接的にサクラを救ったの」

「…………」

「シロウはサクラを救いたかったんでしょ? 私はあの子の事がキライだけど、シロウのお願いだから助けてあげたんだから」

「ああ、イリヤには感謝してる」

「別に感謝なんていらないけど……じゃなくて」

 士郎は桜を救った。本来ならば救える筈のない少女の命を救ったのだ。正義の味方を標榜する少年にとって、それは初めて決定付けられていた死を覆した瞬間だ。
 諦めるべき命を、死すべき命を救い上げたのだ。衛宮士郎にとっての理想はここに、一つの結果を成し遂げた。

 衛宮士郎にとってそれは喜ぶべきものであり、喜んでしかるべきであるもの。
 だというのに、

 ──ねえ、何で士郎はそんなに悲しそうな顔で笑うの……?

 その言葉を飲み込んで、イリヤスフィールは士郎を見上げた。
 向けられる表情は笑み。だけど何処か儚く、もの悲しい笑み。例えるのなら、それは今にも泣き出しそうな子供が、精一杯の笑顔を作っているみたいだった。

 イリヤスフィールが言葉にしなかったのは、問わずともその笑みの真意を理解出来てしまったから。
 正義の味方が掬い上げた命。その結果に待っていたのは果てのない悲しみだけ。

 一度壊れてしまったものはもう二度と同じ形には戻らない。復元出来たとしてもそれは何処か歪で同じ形をした別物だ。桜の真実を知らなかったあの頃に、何も知らなかったあの時に戻る術なんて何処にもない。

 けれど少年は止まらないだろう。仮に掬い上げた命にどれだけ罵倒されようとも、貶されようとも、裏切られようとも、命を救う事を諦めない。
 諦められる筈がない。諦観の先に待つのは、衛宮士郎の崩壊だけなのだから。

「イリヤ……?」

「ううん、やっぱりなんでもない! シロウもかなり疲れてるでしょ。ゆっくり歩いていきましょ」

「ああ、そうだな」

 それでも少女はこの少年と共に歩いていくと決めたのだ。少年が壊れるか、少女が壊れるその日まで。
 少年は自らを騙したまま果てのない道を行き、少女はそれに寄り添うと決めた。たとえ少年が世界の敵になろうとも、世界に裏切られようとも……

 ──ああ……お母さま。お母さまも、きっと同じ気持ちだったのかな?

 大切な一を切り捨て、無数の見知らぬ誰かの為に刃を振るい力尽きた衛宮切嗣と、その道程に殉じたアイリスフィール・フォン・アインツベルン。
 既に亡き父母の道筋を、その息子と娘が辿っているとしたら、それは滑稽なのか、誇るべき事なのか。

 ただ分かっている事は、今はもう、イリヤスフィールの胸の内に、切嗣に対する感情が褪せている事だけ。

 裏切られた事は許せない。待ち続けた時間は戻ってこない。
 けれど先を行く赤銅色の髪の少年の辛そうな顔を思えば、そんな顔をしてまで自らの理想を貫き通そうとする姿を見てしまえば、どんな恨み言も、口をついては出てこない。怒りもまた、行き場を失くして霧散するだけ。

 少女は少年の背に在りし日の父の姿を見て、少女はその隣で、在りし日の母のように振舞い続ける。

 いつの日か──別離の時が来る、その刻限まで。

×


 衛宮士郎が遠坂邸を去って数時間。ただ無意味に過ぎていく時間を、遠坂凛は己が自室の扉の前に座り込んで過ごしていた。

 考えなければならない事がある。イリヤスフィールとそのサーヴァントを如何にして打倒するか。他に残っているマスターは何人いるのか。
 未だ継続中の聖杯戦争、無為に過ごせる時間などない。勝利を手にする為には一刻の無駄もなく情報の収集と今後の作戦展開について頭を悩ませるべきなのだろう。

 だが凛はそうしなかった。何も考えず、ただ時計の針が進んでいく様をぼんやりと見守るだけ。何もせず、何も言わず、ただ、その場所に在り続けた。

「遠坂、先輩……」

 そう──寝室で一人、声を殺して泣いていた少女が、話しかけてくるこの時まで。

「なに? 桜」

「…………」

 沈黙が続く。話しかけたはいいが何を話せばいいのか、何から話せばいいのか迷っているのだろう。凛は何も言わない。ただ、桜が話してくれるのを待ち続ける。

「わたし、先輩を傷つけちゃいました」

「そう」

「わたし、先輩にたくさん嘘ついてたんです」

「そう」

「でも……こんなわたしを、先輩は助けてくれました……」

「そう」

「でもわたし……! また、先輩を傷つけた……! 謝らなきゃいけなかったのに好き放題言ってしまった! 助けてくれてありがとうございますって言いたかったのに、逆に先輩を責め立てた……! わたしは……!」

 本当は、助けて貰えた事が嬉しかったのに、突き放す以外に方法が思い浮かばなかったのだと、桜は己が心を告解した。

 何も知らなかった頃には戻れない。一介の後輩にはもう戻れないから。

「朝、先輩の家に行って朝食の準備をして、土蔵で眠っている先輩を起こすなんて事、もうわたしには出来ないんです。
 こんな醜いわたしを知られてしまったから。一番見られたくないものを見られてしまったから、もう、先輩の傍にはいられないんです。だから、ああいうしかなかった……!」

 衛宮士郎は間桐桜には眩しすぎる存在で。それでも傍に居たくて自らを偽り、仮面で覆い隠し、ただの後輩を演じ続けた。
 三文芝居は暴かれ、間桐の闇は曝された。それでも士郎ならば大切な家族として桜を迎え入れてくれるだろう。きっと、迎え入れてくれただろう。

 だけどそれを、桜自身が許容出来なければ意味がない。

 生きている事は嬉しい。助けられた事は素直に嬉しい。だけど同時に、死んでしまいたかったというのも嘘ではない。
 唯一の光の下に曝された濃艶の闇。その闇を抱え続けたまま、光の傍には寄り添えない。

 そして何より──桜は知っている。知ってしまった。士郎はイリヤスフィールの手を取った事を。自分が選ばれなかった事を。

 選ばれる事なんて望んでいなかった。いや、本心は違えど、そこまでは望めないと諦観していた。だから傍にいられればそれでいいと納得した。そしてそうする事さえ、許されなくなった。

 ならば桜はこれから、何を支えに生きればいい。

 間桐に養子に出され、地獄すら生温い煉獄で這い蹲りながら生きる事を諦めていた少女。
 その少女の下に照らし出された、たった一つの小さな光。

 その光に縋る事で少女は生きる力を得た。生きる活力を取り戻した。そして今また、光は失われた。自らの手で、突き放した。

 そうするしかなかった。そうする以外に方法はなかった。どの面を下げて、今更かつての関係に戻れるというのだろうか。

 だから桜には、元より選択肢など存在していなかった。士郎に全てを知られてしまった時点で、こうなる事は明白だったのだ。
 唯一、士郎が違う選択を選んでいたのだとしたら、違う結末もあったのかもしれないが。

 故に生きている事は嬉しくとも、同時に生きている事が苦痛である。あのまま死んでいたら、この苦痛はなかったのだと思えば、それもまた良いと思えてしまうほどに桜の心は疲弊していた。

「で、あんたはわたしにどうして欲しいの?」

 黙って桜の独白を聞いていた凛が、やおらそう切り出した。

「あんたはそうするしかなかったんだって慰めて欲しい? 馬鹿な事をしたって諌めて欲しい? それとも下らない事に悩んでるなって罵倒して欲しい?」

「下らない事……? そうですよね、遠坂先輩には、わたしの悩みなんて下らない事ですよね。貴女には分かりません、欲しいもの全部手に入れられる、遠坂先輩には……!」

「そうね、わたしは欲しいものは全部手に入れるわ。それが遠坂凛という女だもの。だけど桜、知ってる? わたしは最初から何でも出来て何でも手に入れられる天才なんかじゃないってこと」

「え……?」

 眉目秀麗、成績優秀、学園生の憧れの的。
 その裏では魔術師としてこの冬木の管理者としての任に就き、同時に魔術師として類稀な才を以って更なる高みを目指し修練を続けている才女。

 けれど遠坂凛は、最初から“そう”であったわけではない。

 魔術の教練など父の死後以降、ほぼ全て独学だ。魔術刻印の助けと父の遺した文献を頼りに、毎日血を吐く思いで修練を続けた結果が今の彼女だ。死に掛けた事など、何度あるか分からない。

「…………」

 学園生としての顔もそうだ。魔術師としての修行の合間を縫っての勉強。幾ら寝不足であろうとも優雅である事を忘れず振る舞い、皆の憧れであり続けるその様は、そうあり続けるだけでかかる負担など、考えるだけで辟易する。

 ただ遠坂凛はその全てをやってのけたというだけの話。自らに鞭打つ事など厭わず、自らがそう在りたいと願い、実行し続けたからこそ今の彼女は存在している。

 それを上辺だけを見て疎ましく思うものはいるだろう。大抵、そういう連中は凛の苦労など知ろうとせず、自分自身にそういうあり方を許容しない。

 その裏にある苦労や苦悩を思わず、ただ全てを簡単に手に入れられる才能を持っているのだと、的外れの敵意を向ける。

「支えがなくちゃ生きていけない? そうね、以前のあんたなら、そうだったのかもしれない。間桐での環境を知らないわたしが容易く口出し出来るものじゃない。
 でも今は違う。望もうが望むまいが、あんたは命を救われた。自由を手に入れた。その足で立つ事が出来るのなら、自分自身で立ち上がりなさい」

 何かに縋る事でかろうじて生きていられた以前とは違う。支えがなくては生きていけないなんてのは、ただの甘えでしかない。
 生まれたての小鹿とて、自らの足で立ち上がるのだ、

「……このっ、遠坂凛の……、い、妹がっ! 立ち上がれないわけないじゃない……!」

「────」

 そう、その身は遠坂凛の妹だ。辛い別離を経たとはいえ、その事実は消え去らない。古い盟約も、父の教えもこの時だけは糞食らえだ。

 凛は自身の言い放った言葉を思い返しそっぽを向く。今ほど扉越しであったことを感謝した事はない。こんな顔、誰にも見せるわけにはいかないのだから。

 背後でかたん、と音がした。扉一枚隔てた向こうに桜がいる事を感じ取れた。薄い扉一枚を隔てて、背中合わせに座る二人。

「厳しいですね──姉さんは」

「……そりゃそうよ。なんたってわたしは──」

「遠坂凛だから」

 くすくすと桜が笑う声が聞こえる。先ほどまでの悲しみに暮れていた声ではない。

「そうですね、わたしもちゃんと、自分の足で立ち上がらないと。先輩達がせっかく救ってくれた命なんだから。
 でも、もう少し──ほんの少しだけ、寄り掛からせて貰ってもいいですか?」

「当たり前でしょ。でも本当に、今だけなんだからね」

「あはは……本当に厳しいなぁ、姉さんは」

 間桐桜の問題に、これで決着がついたとは思わない。しかし折り合いをつける事くらいは出来ただろう。
 立ち上がる足がある事の喜びを、生きている事の素晴らしさを実感出来るようになるにはもう少し時間が掛かるだろう。

 でももう、決めたのだ。立ち上がると。自らの足で立ち上がるのだと。そして、その立ち上がった足でまず始めにする事も決まっている。

 この足をくれた少年に、感謝と謝罪を告げに行こう。許されるとは思っていない。許されていい筈がない。でも、精一杯のこの気持ちだけは、伝えておかなければいけないと思ったから。伝えたいと、桜自身が思ったのだから。

 ────その時。

 ずん、と一瞬、屋敷全体が震えた。

「地震……ですか?」

「アーチャー……!」

 魔術師として未熟にすら達していない桜は気づかなかったが、この屋敷の主たる凛は真っ先に異常を察知し己がサーヴァントに呼びかけた。
 即座に傍に実体化する赤い外套。その表情の険しさが、状況が尋常な事態ではない事を物語っていた。

「なに? まさかイリヤスフィールがバーサーカーを嗾けて来たっての?」

「それはありえん。いや、それよりもなお最悪と言った方が正しいか」

 瞬間、階下より響く爆音。どのような攻撃手段を行ったのかは知らないが、その襲撃者であり侵入者でもある何者かは、玄関の扉を無造作に破壊して屋敷の中へと踏み入った。

 ここは遠坂の工房だ。数えるのも馬鹿らしいくらいの数の対侵入者用トラップは仕掛けてあるし、状況もまた俯瞰するかのように、手に取るように把握できる。しかし破壊の規模が物語る。これは、一介の魔術師程度が襲撃をかけてきたのではない、と。

「何者……? っていうかサーヴァント……? でも一体誰の?」

 セイバーは飲まれ、ライダーは消え去った。キャスターも既に亡く、臓硯が駆逐された以上アサシンも存在を許されない。
 唯一未確認なのがランサーの生死だが、なら彼が……?

 その推察は、階下を覗き込んだ瞬間霧散した。

 眩いばかりの黄金の髪。
 血のように赤い紅玉の瞳。
 白く透き通った肌。
 身を包む黒のライダースーツ。

 その身なりは一般人のそれだが、その出で立ちと纏う気配の異質さが、人外の存在だと告げている。本能が、逃げろと警鐘を鳴らしている。

 アレとは戦ってはならない。戦いにすらならないと。

「フン、小娘とアーチャーか。残念ながら今は貴様らに用はない。その奥に居る女だけを頂いていく」

「……っ!? 桜を!?」

 この男が何者なのか。何故桜を狙うのか?

 そんな疑問を口にする余裕すらなく、黄金の男は片手を無造作に上げ、背後に生まれた赤い歪曲より無数の剣を呼び出した。

「下がれっ凛!」

 瞬時に一対の夫婦剣を具現化させたアーチャーが前へと躍り出る。そんな動きに微塵の関心すら見せず、男はそれが合図であるかのように僅かに腕を動かした。

 瞬間、撃ち出される無数の刀剣。狭い階段という空間の全てを埋め尽くすほどの勢いで剣は際限なく撃ち出される。
 それを捌くは弓兵の二刀。頭上の有利という立地すら何の役にも立たないほどの煌くばかりの剣の爆撃。その全てをアーチャーは無心のままただひたすらに撃墜していく。

 しかしそれも長くは続かない。男の剣の射出に限りはないかのように、それこそ湯水の如く剣や槍、斧に戟と数多に及ぶ武器が吹き荒ぶ。
 逃げ場なき迎撃戦。攻撃すら届かない、攻撃の間隙すら与えられない死地。その中でアーチャーの身は着実に削られていく。

 情報も何もなく、一方的に攻撃されるだけのこの状況。誰の目に見てもアーチャーの不利は揺るがない。故に彼のマスターである凛の取るべき手段は一つしかなかった。

「アーチャー……!」

「一分だ!」

「充分……!」

 その短いやり取りだけで互いに成すべき事は明白になった。階段の手前で剣を振るい続けるアーチャーに背を向け、凛は自室へと駆け込んだ。

「桜……! 逃げるわよ!」

「えっ? えっ……?」

 体勢を整えなければ話にならない。相手が桜を何故狙っているのかは分からないが、桜を連れ出せば相手もまた追跡してくる。だがこの狭い屋敷内で一方的な防戦を強いられるよりは何処であろうと充分にマシだ。

 少なくともアーチャーが自由に戦える状況を作らなければ文字通りに話にさえなりはしないのだから。

 状況が理解できず疑問符を浮かべるばかりの桜の手を取る凛。桜はパジャマのままだが贅沢を言っていられる時間はない。
 アーチャーは一分と言った。あの男が一分と言った以上、間違いなく一分は時間を稼いでくれるだろうが、裏を返せばそれ以上はもたないという事の証左でもある。

 余りにも短すぎる六十秒という刹那。この刹那に出来るだけの距離を稼いでおかなければならない。

「桜っ行くわよ……!」

「あっ……」

 手を引き駆け出そうとする、その瞬間、桜の身体がバランスを崩したのか、膝から崩れ落ちた。
 無理もない。昏睡より覚めてまだ丸一日すら経っていないのだ。意識を取り戻してはいても、身体の自由が完全に利くほどの回復は成されていない。

 仕方がないと、桜の身を背負おうとした、その時──

「あっ……ぇ……?」

 凛の赤い服にじわじわと広がる紅い染み。それは背後より突き立てられた刃によって、凛の体内より溢れ出た血液だった。

「なん……」

 言葉尻は声にはならず、凛はその身を絨毯の上へと投げ出した。朦朧とする意識。その最後に見たのは、茫洋とした瞳を湛える──間桐桜の姿。

 その手を姉の血で染め上げた──妹の姿だった。

×


 凛には知る由もなかった。その時の間桐桜の異常性を。

 黄金の男が襲撃を仕掛けてきた瞬間、桜の心臓は鼓動した。生存の為の鼓動ではなく、それは蠢動とも呼ぶべき産声だ。

 やがて白が黒へと塗り変わるように、間桐桜の意識は切り替わる。

 後は単純、凛が桜を背負おうと背を向けた時、凛が腰に差していた短剣を引き抜き、軽く一押しするだけ。それだけで魔術師とはいえただの人間でしかない凛は、多量の血を噴出し自らの血溜りへと落ちていった。

 結果、残るのは姉の心臓を背後から突き刺した妹という図式のみ。

 悪意はキィキィと啼きながら、心を今一度黒より白へと塗り替えた。

×


「────────え……?」

 意識を取り戻した桜の目に映るのは、血溜りに倒れ伏した姉の姿。
 自らの手を染めるは熱く滑る赤いもの。姉の体内より零れた血。
 姉の背には装飾の施された短剣が突き刺さったまま。
 それも今は真っ赤に染まりその美しさを一層際立たせている。

「え、え……っ?」

 無論、桜に状況の理解など出来ない。
 意識がなかったのだから、出来る筈もない。

 しかし目の前には確固とした結果がある。
 血濡れの短剣。
 血濡れの自分。
 伏臥した姉の姿。

 結論──

「わたしが、姉さんを……?」

 それ以外に有り得ない。それ以外の答えなんて、何処を探しても見つからない。

「なっ……なん、なんで……?」

 カタカタと手を震わせ、とりとめもなく泳いだ掌は空を切る。何を掴む事無く手は踊る。

「……っ、……は、…………っっぁ」

 理解が出来ない。思考が現実に追いつかない。呼吸すら巧く、刻めない。

「わたっ、わたしが、姉さんを……ころ……した?」

 やがてその答えに辿り着く。当然、それ以外の答えがないのだから、その答えに辿り着かないなんて事は有り得ない。今一度立ち上がる意思を手に入れた間桐桜に、理由のない現実逃避は許されないのだから。

 だから目の前の現実を受け入れざるを得ない。
 受け入れなければならない。
 意識がない間の出来事。
 そんな都合の良い現実は塗り替わる──“塗り替えられる”

 声なき声が罪を問う。

『おまえが殺した』

 ──誰を?

『実の姉を』

 ──何故?

『憎しみ故に』

 遠坂凛の苦悩は理解した。だが、それが何だという。自らを自らで戒める事で培ったものなど、あの地獄を思えば何でもない。
 他者よりの責め苦、他者よりの罵倒、他者よりの呪縛。呼吸をする事にさえ了解の要る地獄を知らない、生温い平穏で全てを手に入れてきた姉を憎いと思わない筈がない。一歩違えば互いの立場が逆になっていたのだと思ったのなら、羨望は憎悪へと姿を変える。

 ────違う

 否定したところで事実は何も変わらない。間桐桜が遠坂凛に抱いていた複雑な感情の中に負の想念がなかったなどと嘘は吐けない。

 ────それでも、違う

 殺したくて殺したわけではない? ならば目の前の現実をどう説明する。その手を染める鮮血を、弁明するだけの何かがおまえにはあるのか。

「それ、は……」

『ないのなら、儂が教えてやろうぞ、桜よ』

「────────────っっっっっっっ!?」

 自らの内より響く、見知った声。二度とは聞かぬと安堵した、死者の声。
 皺枯れた声はカカと嗤い、桜の全てを嘲笑う。

「あ、ああ、ああああっ……!」

 間桐桜は忘れていた。

 いつだって絶望は希望のすぐ後ろで待ち構えている事を。
 喜びを手にした瞬間、奈落へと突き落とす事を至上とする悪魔がこの世にはいる事を。

 自らを辱め、穢し尽くした妖怪の、生に対する執着の貪欲さを。悪辣さを。狡猾さを。

「いやあああああああああああああああああああああああああああああっ……!!」

 間桐桜はその手で衛宮士郎を傷つけ、今また姉の命に手をかけた。
 折れかけた心は士郎によって一度救われ、今一度凛によって支えられた。しかし今、それは完全に朽ち折れた。

 大切なものに手を伸ばせば、触れたその瞬間足を引っ張る悪魔がいる。
 夢見ることなどもう出来ない。
 立ち上がることさえ不可能だ。

 もはや全ての希望を手放すことでしか、意識を手放すことでしか、桜は自身を保つ術はなかった。

×


 とうに一分の刻限など過ぎ、それでもアーチャーは決死で耐え抜いた。しかしそれも限界を超えた瞬間、耳朶に届いたのは少女の絶叫。マスターの窮地を告げるシグナル。転がるようにアーチャーは凛の自室に飛び込んだ。

「…………っ」

 そしてその惨状を目の当たりにする。
 血に伏した凛の身体からは、今なお濁々と血が流れ続け、慟哭の悲鳴を上げた少女は手を姉の血で染め上げたまま、涙を流しながら横たわる。

 状況の完全な理解など不可能。だが凛が瀕死だという事実だけが、明確にアーチャーには理解が出来た。

 猶予はない。助かるかどうかも不確か。刃は心臓に到達している可能性すらある。だがアーチャーには彼女を見捨てる事など出来なかった。

「……すまない」

 それは誰に対する謝罪だったのか、アーチャーは語らず、凛の身体を腕に抱いて、窓より外界へと飛び出した。その室内に、間桐桜の姿を残して。

×


 ゆっくりと、室内に踏み込む黄金の青年。赤い双眸は真紅に染まった部屋を見回し、中央付近に倒れ伏した少女へと無造作に近寄った。

「面白いものを飼っているようだな、紛い物」

 青年の瞳に何が映っているのかは、本人以外に理解し得ない。ただ細められた瞳は、桜ではなくその奥をこそ見通しているようだった。

「利用価値がある内は生かしておいてやろう。余計な事をすれば、いつでも我は邪魔者を排除するぞ?」

 桜に既に意識はない。問いかけは誰にも届いていない。だが青年は、くつくつと笑いながら少女の身柄を抱えあげた。

「さぁて、これで状況は整った。後はこの茶番劇を終わらせるだけだ」

 黄金の青年は心を閉ざした少女を抱え屋敷を去る。
 此度の祭壇へと供物(せいはい)を運び、残りの生贄(サーヴァント)を刈り取る為に。

 自らの目的の為。
 醜く下らぬこの世を粛清する為。

 愉悦と快楽の全てを貪った黄金の王の歩みが、戦いを最終局面へと誘って行く────













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