Fairy Tale 3









 月明かりさえ遮る灰色の闇が降りる。

 冬木市は郊外に打ち棄てられたように広がる森の中──その中心部付近に打ち立てられた近代には似つかわしくない古城には、十年ぶりの明かりが灯っていた。

 アインツベルンが聖杯戦争における拠点とする為だけに本拠地である北欧より移送してきた中世の城。
 絢爛豪華な内装は権力の誇示であり、矜持の為の作り物。十年間誰も踏み入ってないにも関わらず、その内部は埃の一粒さえも存在を許されないほどに綺麗に整えられていた。

 今代のアインツベルンのマスターであるイリヤスフィール・フォン・アインツベルンが従えてきたたった二人の侍従により、この城の清潔さは保たれている。

 その内の一人──セラと呼ばれるメイドは火の灯った燭台を手に、深夜の見回りを行っていた。

 一室一室、何もいる筈も、変わったものなど何一つありはしない数えるのも馬鹿らしいくらいの部屋を見回り続ける。
 そしていつしか、主の部屋の前で足を止め、ドアノブに手を伸ばすでもなく、廊下より窓の外を見た。

 黒々とした闇が地の底を覆い隠し、枯れ果てた灰色の木々が僅かな風に揺れざわめいている。乱立する樹木より高い位置から見上げた空には、煌々と冴え渡る蒼白い月が浮かんでいる。

「……厭な月」

 知らずそんな呟きが零れる。

 怖気を覚えそうなほど蒼白な色をした月。まるで闇に浮かぶ骸骨だ。
 人ではないホムンクルスの自分がそんな、不確かな感情を抱いた事に、セラは少しばかり驚いた。

 けれど、ああ……と一人納得する。
 きっと自分はあてられたのだ。己が主であるイリヤスフィールと、彼女が連れてきた衛宮を名乗る者に。

 十年前、アインツベルンを裏切った不届き者である衛宮切嗣。その名を継ぐ者を、アインツベルンの侍従たるセラが許容出来る筈がない。本来ならば、その場で斬って捨てる事さえ厭わぬほどの嫌悪と憎悪を内包している。

 『アイリスフィール様だけでは飽き足らず、今度は我が主にまで手を出すか』と迫りかかるほどの鬼気を霧散させたのは、己が主の浮かべた笑顔に他ならない。

 生まれる前より聖杯としての機能を付与され、幼少の頃よりマスターとして機能する為に調整をされ、おまえの父親はおまえを見捨てたのだと刷り込みのように言われ続けてきた少女の生。

 その短き生の中、彼女は幾度笑っただろうか。心の底から笑えたのは、何回くらいだろうか。恐らく……数えるほどしかあるまい。

 そんな彼女が笑っていたのだ。心の底から、楽しそうに。

 この身はイリヤスフィールの為だけに存在を許されたもの。打ち棄てられる筈だったものが、彼女の為に生きる事を許された。
 彼女と共に過ごした時間は長くはない。幼少の頃や十年前の事を知っているのだって、ただの与えられた知識に過ぎない。

 それでも、その中のイリヤスフィールは笑っていなかった。自らが道具である事を諦観しているかのように、淡々と言われた事をこなしていただけだった。
 それは生きているとは言わない。言えない。ただ、人の形をした何かが動いているだけだった。

 でもそんな彼女が笑っていた。

 復讐を果たせると嗜虐の笑みを浮かべたのではなく、血塗れになりながら微笑んだのでもなく──ただ、そこにあるだけで笑っていたのだ。

 ああ──ならばどうしてその笑顔をくれたであろうものをセラの一存で奪い去れよう。たとえ相手が憎き裏切り者の息子であろうとも、イリヤスフィールが笑っているのなら、全ての清濁を合わせ呑み込んで見せよう。

 それがアインツベルンの侍従──否、イリヤスフィール・フォン・アインツベルンのメイドとしての使命だと、セラは一人己の心に納得をしてみせた。

 同時に、浮かんだのは哀切の表情。

 イリヤスフィールの辿るべき道筋を知っている。逃れ得ない運命を識っている。その道より外れる事は叶わない。それはイリヤスフィールの生まれた意味を否定する事になるのだから。

「ああ、どうか──」

 その時が訪れるまで──彼女が笑っていられますように……

 そう、セラは一人、今はこの城にいない主に向けて祈りを捧げた。

×


『夜の散歩をしよう』

 そう言ったのはイリヤスフィールだった。士郎に異存などある筈もなく、二人は森の中を歩いていく。

 灰色をした森を染める黒い夜。見通しのきかない闇の中を手にした灯りを頼りに少年と少女は進んでいく。
 目的地などない、ただの散歩。イリヤスフィールが飽きるまで、付き合おうと士郎は決めていた。

 軽くステップを踏むように前を歩く少女を見る。何が楽しいのか、その顔は笑みを刻んでいる。

「なあ、イリヤ。何がそんなに楽しいんだ?」

 お世辞にもこの森は夜の散歩に適しているとは思えない。枯れ果てた木々。乾いた土。風が木々の間を通り抜ける音は、金切り音のように耳朶に響く。動物の息遣い一つすら聞こえてこない、神秘さを通り越して不気味さの漂う森だ。

「楽しいよ? だってシロウと一緒だもの」

「────」

 ガツン、と。ハンマーで横から殴られたくらいの衝撃。

「シロウはわたしといて楽しくないの?」

「そんなわけ、ないだろ」

 少女の笑みが崩れる前に、士郎はそう告げる。

 この少女は、いつだって無邪気に無垢に真実を口にする。お互いがいること、手を取り合った相手が傍にいること──ただそれだけで楽しいと、それが楽しくないわけがないと少女は言う。

 ああ、全くその通りだ。イリヤスフィールがいるのなら、たとえ今にも崩れ落ちそうな廃墟だって、何一つない荒野だって、笑いながら歩けるだろう。

 そこでようやく、士郎はイリヤスフィールが散歩に誘った真意に気が付いた。

 この森についてから──いや、遠坂邸を後にしてから、士郎はずっと上の空だった。イリヤスフィールの声は聞こえていたし、自分が何処を歩いていたのかも覚えている。招待された城で殺気紛いの視線を向けてきた白頭巾のメイドの事も、記憶している。

 現状はしっかりと把握出来ていた。それでも何処かで、頭の片隅では、常に別の事を思考していた。

 桜の事。自らの選んだ道の事。切り捨てたものの事。
 掴み取ったものではなく、手離したものの事ばかり、考えていた。

 後悔はしていない。でも本当にこれで良かったのかと自問ばかりしていた。答えなど、出る筈もないのに。答えなど、とっくに手の中にあるというのに。

「悪いな、イリヤ。俺はおまえの傍にいながら、別の事ばかり考えてた」

「そうね。レディの手を取っておきながら、別の女の事考えてるなんてサイテーね」

「ぐっ……」

「でもいいわ、許してあげる。だってシロウは大事な弟で、大切な恋人だから──」

 歩みを止める事無く進んでいた先──闇の中に僅かばかりの光が浮かぶ。

「ほらっ、行こっシロウ!」

「え、ちょ、走ると危ないぞイリヤ──!」

 イリヤスフィールがその光に溶け込むように駆けていき、士郎もその後を追う。

「ここは──」

 そこは光溢れる小さな広場。乱立する灰色の木々は空を遮る事無く、蒼白い月が天頂に輝いている姿が見えた。

 月明かりの射す広場の中心で、イリヤスフィールがくるりと回りこちらを向く。恭しくスカートの裾を摘み、一礼。
 何事かと士郎は目を白黒させていたが、

「わたしを選んでおきながら、他の女の事を考えてるダメなシロウを許してあげる。でもタダじゃダメなんだから。
 ね、シロウ──踊ってくれる? 今だけは、わたしだけを見てくれる?」

 差し出された白雪の掌。月光に透けて一層白く美しく見える、少女の手。触れれば壊れてしまいそうなその手を、士郎は迷いなく取った。

「……俺、ダンスなんて出来ないんだけど」

「だいじょうぶ。お姉ちゃんがちゃんとリードしてあげるっ!」

 触れ合った手を掴まれ引き寄せられる。そのままくるりとターンを決め、イリヤスフィールは軽やかなステップを踏む。
 士郎は縺れそうな足をなんとか運びながら、イリヤスフィールのリードに沿うように見様見真似で踊り続ける。

 月の雫に洗われた、天然の舞踏場(ダンスホール)で少年と少女はくるくる回る。技巧や速さなどない、ただ互いの手を取り合って、軽いリズムでステップを踏む程度の、演技とすら呼べない、つたないダンス。
 それでも二人は楽しかった。ただ踊り続ける事が、共に回り舞う事が、この上なく楽しかった。

 士郎がようやくリズムに慣れ、イリヤスフィールのリードを必要としなくなった頃合。

「シロウはね、迷う事なんかないんだよ」

 イリヤスフィールがそう呟く。

「シロウはわたしを選んでくれた。シロウはわたしの手を取ってくれた。わたしはそれだけで、充分」

「イリヤ……?」

 無邪気で無垢で、まるで生まれたての赤ん坊のようであったかつてのイリヤスフィールとは思えない声色、仕草。そして決意。

 月明かりに濡れて輝く白銀の髪を見下ろす。ルビーめいた双眸が、細められた。

「シロウは自分を信じてあげて。その生き方は、酷く歪だけど、シロウはそう生きるって決めたんでしょう? なら最後まで、自分だけは信じてあげないと」

 正義の味方。

 酷く滑稽で無様な夢物語。夢中で見るならそれは輝かしいものであったとしても、現実に存在してはいけない、虚像のようなものだ。
 困難に直面したその時、もし仮にそんな存在が目の前に現れたとしたのなら、まるで奇跡のように感じるかもしれない。だが救われた後、冷静になって考えてみれば、それは酷くおぞましいものだと誰もが理解する。

 現実を侵食する虚構。

 そんなものはあってはならない。存在しては、いけないものだ。一時輝いたとしても、いつしか褪せて、何れは現実に塗り潰される。

 衛宮士郎の生き方とは、それほどまでに危ういもの。いつ破綻してもおかしくはない砂上の楼閣だ。
 それでも少年はそれを是とした。それでいい、と。たとえ万人に受け入れられない、雲を掴むような話……夢幻であっても、その理想を美しいと感じた心は、間違いなどではないのだから。

 失くしたもの、取り零したもの。

 過ぎ去った何かをなかったものにしたくないから、してはいけないと思うから、歩みを止める事は出来ない。

「でも、イリヤ……俺は思うんだ。思ってしまうんだ。この理想を貫くという事は、この手に掴んだものさえ、いつかは零してしまうんじゃないかって」

「それでもシロウは自分を信じるべきなんだよ。
 言ったでしょう? わたしはシロウがどんな姿になったって、ずっとずっと味方でいるって。わたしがそう──決めたんだから!」

 たとえ自らの命と少年の理想が秤にかけられたとしても、たとえ少女の命が選ばれなかったとしても……少女は少年の味方であり続けると謳い上げる。

 それは余りにも甘美な誘惑だ。犠牲にしてしまうかもしれないものに、甘えてしまう悪魔の誘い。

「……ずるいな。俺はなんて、ずるいんだ。イリヤのそんな優しさに、甘えてしまいたくなってしまう」

「えへへ。いいよシロウ。いっぱい甘えちゃいなさい。全部受け止めてあげましょう」

「でも──」

 そんな無様は、許せる筈がない。

「きゃっ──!」

 くるくると踏んでいたステップを止め、士郎はイリヤスフィールの身体を引き寄せた。

「イリヤが味方でいてくれる事は嬉しい。でも俺は、その優しさに甘えてばかりはいられない。
 そんな最悪な未来は起こさせない。そうならないように、俺は頑張るから」

 全てを救えるなどとは思っていない。そんな浅ましい事は、出来ないのだと既に身をもって理解している。
 でもせめて、この手で掴み取ったものくらいは守り通せる強さが欲しい。正義の味方の味方でいてくれると言った少女を、守れるだけの強さが──

「うん……じゃあ、お願いするわ。格好良い騎士(ヒーロー)に守られるお姫様(ヒロイン)ってのも案外悪くなさそうだもの。
 ね、シロウ。わたしだけの味方(ヒーロー)になって欲しいとは言わないけど……守ってくれるんだよね?」

「ああ。必ず」

「じゃあ……誓ってくれる?」

 イリヤスフィールはゆっくりと瞳を閉じた。

 騎士は姫を守るもの。何者からも、何をおいても守るもの。そういう意味では、厳密にはイリヤスフィールの騎士にはなれないかもしれない。

 それでも、守ると決めた。守り抜くと誓った。
 この身朽ち果てるまで。
 避けえぬ別離が、二人を別つまで……

 今、少女の求める誓いを此処に──

×


 少年と少女は互いの手を取り合ったまま古城への道を戻っていく。

 道中に会話らしい会話はない。どちらもが、照れ臭くて顔すら突き合わせずにただ黙々と帰路を行くばかり。

 月の下で交わされた逢瀬。
 僅かばかりの幸福な時間。

 ──穏やかな時の終わりを告げる音が、夜闇を貫き木霊する。

 耳を劈く爆音。
 ついで地を震わせるほどの振動。

 静かなる森に響く異常を告げる異音。

「イリヤ──!」

「城の方……! 誰か、いる!」

 油断していたのかもしれない。士郎を手に入れ、敵は相次いで脱落し、自らが従えるサーヴァントの強さを知るが故に、楽観していた。

 勝者が誰であるのかなど既に決まりきった事。後は予め用意されている筋道を辿り終着へと行き着くだけだった消化試合。

 まだ終わりたくないと望んだから、もう少しだけ幸せに浸りたいからと、時間を引き延ばした結果──

 目の前に現れたのは、あってはならない暴虐の化身だった。

「アーチャー!?」

 古城の正門前に広がる広場へと躍り出た士郎とイリヤスフィールの目の前に飛び込んできたのは、赤い外套を血で染め上げた凛のサーヴァントであるアーチャーの姿だった。

 白と黒の夫婦剣を担い、肩で呼吸をしながら眼前を見据えている弓兵。士郎の怒声も、こちらの姿も目に入っていない。いや、目視するだけの時間すらないだけか。

 アーチャーが鬼気迫る表情で見据える先には、ポケットに手を突っ込んだまま無防備に立つ黄金の青年。赤い瞳は嗜虐に満ち、口元には余裕の笑みすら浮かべている。あの男が、アーチャーをここまで追い込んだ相手に間違いはない。

 ただ、

「アイツは、誰だ……?」

 あんな男は知らない。身に着けている衣服が現代のもの。だが一介の魔術師風情がサーヴァントを圧倒する事など不可能だ。サーヴァントに対抗できるのはサーヴァントだけ。その解が不変である以上、あの黄金はサーヴァントでなければならない。

「イリヤ、おまえあいつを──」

 知っているか。

 その音は言葉にはならず士郎の口の中で消え去った。隣にいた白雪の少女の瞳に浮かぶ恐慌にも似た感情を見たせいで。

「知らない……わたし、あんなヤツ知らない……わたしの知らないサーヴァントがいるなんて……」

「有り得ない、か? 矮小な物差しでしか計れぬからといって、目に映るものすら否定するか、此度の聖杯よ」

 黄金の青年の意識がこちらを向く。紅の瞳に見られただけで、射竦められたように足が根を生やし動かない。

「自分に理解の出来ぬものに目を瞑る……ああ、全く以ってヒトらしいな人形。ならば知れよ、我は十年前の戦いより生き抜いたサーヴァントである事をな」

 十年前──衛宮切嗣が参戦し、セイバーと共に聖杯の一歩手前まで歩みを進めた戦い。その結末に勝者はなく、ただ街を焼き尽くす大火の爪痕だけが残された筈。だから目の前の黄金の青年が、サーヴァントであるなどという話はおかしい。

 だが。

 聖杯であるイリヤスフィールが慄く程の存在。
 アーチャーが圧倒されているという事実。
 身に纏う人ならざるもののオーラ。

 目の前の光景が全てを物語る。
 あの男は間違いなく、サーヴァントであると。

 そう認めた瞬間、イリヤスフィールのすぐ傍に具現化する黒。闇をも侵す巨大な黒は、手にした鉄塊じみた剣を地に叩きつけ、月に向かって吼え猛る。

「■■■■■■■■────!」

 さながらそれはウォークライ。自らを鼓舞し、己が主を諌める鬨の声だ。

「瀕死のアーチャーにバーサーカーか。余興には良い。まとめてかかって来い」

 黄金の騎士に揺らぎはなく、微塵の躊躇も有り得ない。バーサーカーがイリヤスフィールの指示を待ち、身を低くすると同時。黄金のサーヴァントの背後から無数の剣が虚空より生み出された。

「貴方が何者かなんてどうでもいい。わたしのバーサーカーが、最強なんだから──!」

 地を蹴り上げて突貫する狂戦士。
 数々のサーヴァントをすら震え上がらせた存在にさえ、迎え撃つ黄金に恐怖はない。

 黒と黄金の鮮烈なる戦いが幕を開ける。

×


 暴走を開始したバーサーカー。一歩すら微動だにせず迎え撃つ黄金。もう一人──この場にいるサーヴァントに士郎は目を配った。

 襤褸切れのようになった赤い外套。血に塗れた皮膚。その全てが黄金の騎士との戦いの苛烈さえを窺わせる。

 ただ士郎には気に掛かった事があった。遠坂邸で別れた筈のアーチャーが、何故この城にいるのか? たとえイリヤスフィールと戦いに来て予期せぬ遭遇があったのだとしても、ならばマスターである凛は?

 そんな問いかけを秘めた視線をアーチャーに向けた士郎。今まさに激突しようとしているバーサーカーと黄金のサーヴァントのお陰か、アーチャーは僅かに視線を切り、己が後方を見やった。

 黒々とした木々の根元。月の光さえ届かぬその場所に、その姿はあった。

「……遠坂っ!?」

 ぐったりと倒れ伏し、士郎の声にも身動ぎすらしないその姿に異常を覚え、すぐさま駆け寄った。

「なっ……ん……っ」

 顔面が蒼白。汗腺が開いているのか汗の量が尋常ではない。何より真紅だった筈の凛の上着が、心臓の付近から黒く染まっている様が異常事態を告げている。
 墨汁でも零したか見紛う程の黒。それは、長時間空気に晒され固形化した血液だ。一体どれだけの血を流せば、これほどまでに染まるというのか。

「……遠坂」

 浅くはあるが呼吸はある。生きてはいる。だがいつ死んでもおかしくはないくらいの状態だ。いや、常人ならば確実に死んでいる。
 今凛を生かし続けているものは、その身に刻まれた魔術刻印によるものに他ならない。

 外付けの臓器とも呼ばれる魔術刻印は、宿主である者を生かそうとする。主が危機的状況に置かれれば自動で詠唱を開始してサポートし、瀕死の状態に陥れば、延命の為の措置を執る。

 今の凛は最低限度の生命維持を施されているに過ぎない。それほどまでに傷が深いのだろう。
 誰にやられたのかとか、そんな事はどうでもいい。今は少しでも早く安静にさせなければならないが、状況がそれを許さない。

 既に開始された戦闘。雄叫びと共に走ったバーサーカーを迎え撃つ無数の剣群。その一本一本が致死性の能力を持つ宝具であると本能の内に理解した狂戦士は、回避からの肉薄を試みるも、数限りなく生まれ続ける剣がその行軍の邪魔をする。

 手にした無骨な剣で迫る銀色の閃光を打ち落とし、更なる一歩を踏み出す。だが地に足が付くよりも早く新たな剣群が現れバーサーカーの視界の全てを埋め尽くす。
 腕や脚に被弾する。それらをあってなきもののように吼え打ち払う姿は、狂戦士の座に招かれた英霊に相応しき禍々しくも強壮な姿。

 だがそんな刹那の攻防がこの先に起こりうる未来を予見させる。バーサーカーは何れ、数百にも及ぶ剣群の内に倒れ伏すだろう、と。

 それほどまでに圧倒的。
 それほどまでに異常な強さ。

 己が手を使わず、一歩すら動かず、ただ撃ち出される宝具掃射によってのみ、今回の聖杯戦争における最強に近き者を圧倒する。

「そらどうした狂犬。同じ半神の身でありながら、貴様は前に進むしかない能無しか」

「■■■■■■■■────!!!!」

 ブレーキの壊れた戦車はそれでも歩みを止めず前進する。無謀だとしても、無策だと言われても、そうするしかない。そうする事しか、出来ない。

 士郎は何故、バーサーカーがそれほどまでに愚直な前進をするのか、そうするしかないのかと疑問に思う。バーサーカーはあの巨体でありながら本来は俊敏に動けるはずだ。剣群に対し馬鹿正直に突貫するだけでなく、回避行動からの撹乱も出来る筈。

 たとえその身がバーサーカーであったとしても、あの英霊ならばその程度、造作もなく本能の内にやってのける筈……

「まさか──!」

 理解した後、士郎は駆け出す。無論、戦場の只中などへは向かわない。徒手空拳の士郎など、瞬きの間に肉塊へと変えられてしまうだろうから。
 だから士郎が向かうべき先は──

「イリヤ──!」

 己がサーヴァントが被弾し、肉が裂け、血が溢れ出る様を有り得ないものでも見たかのように愕然と見守っていたイリヤスフィールの下へ。

 声も出させぬ内にその手を取り、駆け出す。黄金のサーヴァントはただ無闇矢鱈と宝具を撃ち放っていたわけではない。そこには計算が存在している。
 バーサーカーが直進しか出来ぬ状況。イリヤスフィールが常に掃射の射線状に存在していたとするのなら、バーサーカーは回避など出来る筈がない。

 狂戦士が勝利の為に剣を躱せば、代わりに主が被弾する。

「ほう、冷静に場を見る程度の目は持っていたか雑種。だが一体貴様は何処に逃げようというのだ?」

 生み出され続ける剣群は逆巻いて、円環状に広場を走る士郎とイリヤスフィールを追走する。ならばバーサーカーの取るべき一手は変わらない。
 己が主に傷の一筋すらつけることは許さぬとばかりに、岩剣で叩き落とし、自らの身を呈して剣の進路を妨害する。

「バーサーカー!」

 少女の悲痛な叫び。

 狂戦士では黄金のサーヴァントには届かない。肉薄し、手にした岩剣で敵を討つしかないバーサーカーと、己は安全圏からただ宝具を撃ち出すだけの黄金の騎士とでは。

 ならば──

 バーサーカーの猛進を抜け、一本の剣が飛翔する。夜闇を貫く銀の閃光。その煌きは、少女の命など容易く奪い去ろう。
 だがそれを許すほど、正義の味方は無様じゃない。

 たとえ抗う術がなかろうと、この身を差し出してでも少女を守ると誓った少年が、閃光の前に身を躍らせた瞬間──

 その更に前に、赤い風が吹き荒ぶ。

「アーチャー……おまえ……」

 死に体にも近い身体を酷使して、アーチャーは手にした一対の剣で迫る銀光を打ち払う。

「勘違いするなよ衛宮士郎。私はおまえを救ったわけでも、増してやその少女を守ったわけでもない。
 私は私のマスターを救う最善の手段を執ったまで」

 今この場でバーサーカー、引いてはそのマスターであるイリヤスフィールが討たれれば、残されたアーチャーや凛もまた死以外の選択肢を失くしてしまう。
 未だ辛うじて命を繋いでいるマスターをむざむざと死なせるわけには行かない。死なせるために、こんな場所まで連れて来たわけではない。

「さあ、思う存分狂えバーサーカー。この一時、おまえの主は私の命に代えても守り抜く」

 それが最善。鷹の慧眼は、共闘をこそ最善と判断する。

暴れなさい(Los)そして(und)狂いなさい(Los)
 バーサーカー……! 貴方の本気、あいつに見せてあげなさい!!」

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!!!!!」

 今宵最大の咆哮を以って、バーサーカーは狂化する。完全に理性を捨て去り、本能の赴くままに破壊を撒き散らす存在へと変貌する。
 嵌められていた首輪は外れ、手綱もまた引き裂かれた。最早この戦士を止めるものは何もない。縛り付けるものは何もない。

 後顧の憂いとて既になく、万全の、全力で──目の前の敵を駆逐し尽くす。

「ハッ──賢しいな雑種ども。たかだか狂った程度の犬が、この我に届くなど──」

 瞬間、黄金のサーヴァントに吹きつける突風。風はバーサーカーの手によって振るわれた岩剣の巻き起こしたもの。

 たかが風も、速度を増せば暴風に、更に極めれば肉を断つ刃となる。

 だからそれは必然。神速で以って振るわれた巨大な剣の巻き起こした風は、黄金のサーヴァントの頬に一筋の傷を残す。
 今まで届きすらしなかったその身に、遂に傷をつける。

「……ほう」

 裂かれた頬より血が滴る。
 赤い赤い一筋だけの傷痕。

 だというのに、たったそれだけが不敬であるとでも言うかのように、黄金の騎士からは底冷えのする声音が零れ落ちる。

「良かろう。我も貴様を敵と見なそう、半神よ。余りに早く崩れ落ち、この我を落胆させるなよ」

 黄金の騎士の総身を覆う、具現化せしは黄金の甲冑。自らの防具を取り出したと言うことは、すなわち相手も本気であるという事。

 数を増す剣群。視界の全て──否、空間の全てを埋め尽くすほどの剣群が、主の命令を今か今かと待ち続ける。

 数百にも及ぶ剣の雨の中に、バーサーカーは己が最も信頼する肉体だけを頼りに、突撃を開始した。

×


 空間爆撃とでも言うような、逃げ場の一つすらない一斉掃射。降りしきる雨粒から逃れる術などないように、剣の雨より逃れる策など有り得ない。
 逃れられないのであれば、打ち払うまで──そんな思考を体現するかのように、バーサーカーは手にした剣で迫る剣の悉くを撃ち落す。

 守るべきものを守る必要性を失くし、ただひたすらに攻撃にのみ特化する事を許された狂戦士は、それこそ無尽の如く地を駆け、迫る剣の全てを撃ち落し、黄金のサーヴァントへと肉迫せんと狂い続ける。

 本来狂化は弱いサーヴァントを他のサーヴァントに拮抗する為に付与するスキル。理性を失う代わりに本来の能力を超越したパラメーターを手にする事が出来る脅威の能力。

 無論、そこに代償は存在する。サーヴァントに供給──いや、奪い取られる魔力の量の桁も比例的に増大する。過去四度の戦争において、バーサーカーのマスターとなった者の悉くがその過剰搾取に耐え切れず自壊した。

 低ランクの英霊を狂化して、それなのだ。今回の戦いに招かれしバーサーカーは、過去を顧みても上位に君臨するほどの強者。その真名を聞き、知らぬと答える者など皆無である事は明白だ。

 そんな英霊を狂化すれば、並みのマスターなど召喚した直後に憤死する。イリヤスフィールが耐え切れているのは、彼女が歴代最高のマスターであり、そのサーヴァントを従える為だけに調整をされた存在だからだ。

 歯車は合致する。最高のマスターと、最強のサーヴァント。これを退けられる者など、そうはいない。

「…………」

 そうはいない……裏を返せば、幾人かは存在するのだと、アーチャーは思考する。

 同時に彼の目には既に結果が見えている。あの黄金のサーヴァントには勝てない。英霊である限り、強ければ強いほど、有名であればあるほど勝利が遠ざかる──アレはそういう類の化物だ。

 猛進するバーサーカーの剣は、決して黄金には届かない。皹を入れるどころか毛ほどの傷もつけられまい。

 それが結果。
 それは運命。

 大英雄(ヘラクレス)では、英雄王(ギルガメッシュ)には勝てないのだ。

 あの男を打倒するのに必要なのは、圧倒的な力などではない。天敵とも呼べる能力か、覆す事の叶わぬ絶対的な力が必要となる。

 アーチャーには、それがある。あの男の天敵とも、あの男を打倒する為だけに存在するかのような能力が。

 だがそれはあくまで能力の話だ。■■■■■■があの男の天敵であったとしても、アーチャーが天敵足りえるかどうかは分からない。
 この身が英霊であるという事実が、強くなったという真実が、あの男より油断や慢心を奪い去る。

 英霊である限り──あの男は倒せない。

 そして何より……

「イリヤ、遠坂はどうなんだ?」

「酷い……なんてものじゃないわ。生きている事が、ううん、死んでいない事が不思議な傷よ。でも、治せないわけじゃない。時間は、掛かりそうだけど」

 イリヤスフィールが祈りによって奇跡を形にするとはいえ、それは瞬時に願った全てを叶えてくれるわけではない。
 あくまで使いたい魔術の式を知らずとも、理論を省略し起動と結果を残すだけ。結果を出す為に必要な時間までは省略できないし、その式を知らない以上、どれだけの時間がかかるかも分からない。

 凛が現在もなんかと生き永らえているのは、自らの魔力の大半を魔術刻印が自己治癒に回しているからだ。
 聖杯のサポートがある限り、アーチャーの現界や通常戦闘には影響を残さないが、切り札を使えば、確実に凛の魔力を大量に消費してしまう。

 アーチャー自身、ギルガメッシュにつけられた傷の手当に自身の魔力を充てている状態なのだ。もはやまともな戦闘も満足には行えまい。

 バーサーカーでは黄金の騎士に適わず、アーチャーもまた全力での戦闘が不可能。切り札を切ったとしても、通用するかどうかは不確かで、最悪の場合凛の命を犠牲とする。八方塞どころではない、絶望的なこの状況。

「──ク」

 自嘲の笑み。真に人が絶望した時に浮かべる表情は笑みだと言われているが、アーチャーの笑みはそんなものじゃない。

 バーサーカーでは届かない。
 アーチャーでは届かない。

 ならば……ああ、ならば──

 目を見開け。見逃すな。戦場の全てを観測しろ。バーサーカーの身のこなし。剣の描く軌道。視線の先。ギルガメッシュの隙を見つけろ。剣群の隙間を見逃すな。刹那にも遠い一瞬の間隙。心眼を以って、勝利への軌跡を観測する──!

投影(トレース)……」

 誰にも聞こえぬ、自身にだけ語りかける最後の詠唱。英霊であるアーチャーを顕す呪文ではなく、もっとも身体に馴染んだその言葉で謳う。

 瀕死の凛に寄り添う少年の姿。戦場も無論見えてはいるだろう。だが戦いが余りにも凄惨で、苛烈で、眩いものであるから、アーチャーの視線にまでは気づかない。

 下らぬ理想に溺れ続けたその末路。救いたいと願ったものを踏みつけてきた理不尽に後悔した。
 ぶつけたい言葉がある。斬りつけたい憎悪がある。復讐に囚われたこの己が、万に一つの奇跡を掴み取ったこの召喚。

 だがそれでも──今この一時ばかりは、全ての憎悪に蓋をして、ただ眼前の倒すべき敵だけを見つめる。

 衛宮士郎は選択した。
 心を鉄に変え、理想を廻す歯車となる事を良しとせず。
 ただ一人の少女の為に今までの自分の全てを擲つ事もせず。

 ただ傍らで、共に歩いてくれる少女を得た。
 自らの理想を張り通す、力強き味方を得た。

 無様な生き様の中──掴み取ったもの。それを手離す事無く胸を張れるのなら……それはきっと、誇っても良いものの筈だ。

 それが、間違いなんかじゃないのなら──

「──完了(オフ)!」

 きっと、この胸の奥に眠る灯火は、いつか輝きを取り戻すだろう。

×


 バーサーカーとギルガメッシュの戦闘は拮抗する。拮抗しているように見えている。だがその実、追い詰められているのはバーサーカーの方だ。

 湯水の如く剣を繰り出すだけの黄金の騎士と肉迫し一撃見舞わねば勝利しえぬ狂戦士との戦い。そんなもの、火を見るより結果は明らかだ。

 事実、英雄王は余裕の体を崩していない。バーサーカーがいかにして自分の下に辿り着くか、その様を優雅に見守っているだけ。
 しかしそれも以って数秒。己に届きえぬと判断した瞬間、嵐は大嵐となって全てを呑み込むだろう。

 アーチャーが狙ったのは、その刹那。戦いに飽きた騎士が確殺を約束する一撃を見舞う刹那。

 目に映る剣群の数が更に増す。逃げ場などない、たとえバーサーカーが打ち払おうとも全てに抗しえない程の暴力。

「フン、やはりこの程度か。ならば疾く死ね」

 顕現。
 射出。

 その瞬間を、待ち侘びていた。

 瞬間──広場に顕現したのはギルガメッシュが生み出した剣群と全く同じ剣群。その全てが同一であり異質。本物を真似て作られた、取るに足らない偽物だ。アーチャーが決死で創造した、道を拓くための最後の投影。

「な、に──?」

 もはや戦う力など残されていまいと捨て置いた弓兵が、よもやこれほどの数の剣群を生み出すとは、さしもの王も思わなかった。
 マスターを生かすのなら、こんな馬鹿げた数の剣を作り出していいわけがない。だがそれは、己自身の命を勘定にいれなければ、の話だ。

 アーチャーは己の命と引き換えに、無限の剣を生み出した。真実無限に届かなくとも、この場限りにおいて、展開される全ての剣を模倣し尽くした。

 それは本物の悉くを撃ち落す偽物。あくまで道を切り拓く為だけのもの。この投影では、ギルガメッシュには届かない。

 故にその刃を届かせるのは、此度最強の狂戦士に他ならない。

「■■■■■■■■────!!!!」

 吼え、猛る狂いの座。敵をただ打ち倒すその道程を邪魔する全ては同じ星の輝きに阻まれ地に落ちた。拓かれた道。邪魔するもののない、一直線の道。

 その道を走り抜け──バーサーカーは全てを両断する鉄槌を振り下ろす……

×


 ギチギチと音がする。

「……よもや、この我に傷を負わせるとは」

 振り下ろされた裁断の大金槌。それは確かに黄金の騎士の纏う黄金の鎧を捉え、絶対的な防御力の壁さえ貫通した。

「だが所詮は、そこまでだ。我の命にまでは届いていない」

 王の身体に刃は届いていない。鎧を切り裂き、後数ミリの位置で停止を余儀なくされた。
 本来止まる事も止める事さえ不可能な筈の一撃を止めて見せたのは、王がもっとも信頼する、鎖状の宝具に他ならない。

 突如虚空より現れた銀色の鎖は迫るバーサーカーの肉体を縛り上げ動きを封じた。封じられながら、それでも狂戦士は牙を剥き一矢報いた。

 だが、それもここまで。

 神さえも逃れえぬ天の鎖に縛り上げられたバーサーカーに為す術はなく。決死の投影を試みたアーチャーは既に満身創痍。

 王は背後の虚空よりゆっくりと己が剣を取り出した。後の世に流れ、宝具としての性質を帯びた宝剣ではなく。最初からそうであったもの──世界創生の折に振るわれたという、天地を別つ最強の剣を引き抜いた。

「この我に傷をつけた事、褒めてやろう。褒美だ、我が最強の一撃をその身に刻み、誉れとせよ」

 唸りを上げる螺旋の剣。およそ剣とは思えない形状をした三つの刃が互い違いに回転を開始し、吹き荒ぶ暴風を生み出していく。
 灰色の森を染める赤き魔風。この剣を手に取った黄金の騎士を止められる者など、もうこの冬木には存在しない。

 圧倒的な絶望感。為す術も何を為すべきかも分からぬ生死の狭間。

天地乖離す(エヌマ)────」

 その、終わり行く時の中で。

「────開闢の星(エリシュ)

 月の中に、髑髏を見た。

×


『────“妄想心音(ザバーニーヤ)”────』

 偽りの心臓を抉る魔腕。
 片翼を思わせるほど長く伸びきった右腕が、黄金の男の背後にて、その心臓を握り潰す。

「──ご、ぼっ……、なん、……」

 二体のサーヴァントを葬り去った英雄王は、口から零れる血にも構わず、視線だけを後ろに投げる。
 闇に溶け込む黒いマント。素顔を覆い隠す白面だけが、浮かび上がっている。

 引き伸ばされた、有り得ざる長さを持つ右腕。悪魔(シャイターン)の名を借りた必死の掌を、抉り出された心臓が、握り潰された心臓から溢れ出た血が染め上げる。王の心臓は、暗殺者の手によって砕かれた。

 本来アサシンが如何なる手段を用いようとも、英雄王には一矢報いる事すら不可能だ。いや──他の英霊とて同様。アサシンのサーヴァントでは、他のサーヴァントに敵う道理はない。

 その身が獲るべきはサーヴァントではなくマスターの命。影に潜み、息を殺し、必殺の瞬間をじっと待ち続け、確実にその命を奪うもの。誇りなどなく、ただ忠実に目的を遂行するだけの機械。

 及ばぬ相手には近づかず、勝てぬ相手には挑まない。仮に挑むとしても、それは必勝の策が成ってから。
 それを臆病だと罵る者はいるだろう、卑怯だと嘲る者もいるだろう。

 だがそれが、一体何だという。結果が全て。勝てぬ相手に立ち向かい、今さっき消滅した二体のサーヴァントと、その命を奪い取った黄金の命を奪い去ったこの己。誰が勝者かなど一目瞭然。

「キ、キキキキキキキキ……!」

 全ての英霊に勝る英雄王を討つべく、この一瞬を待っていた。闇に潜み、息を殺し、気配の全てを遮断して。
 攻撃に移る瞬間に漏れる音は英雄王自らが巻き起こした暴風の中に掻き消え、殺気もまた王のそれに紛れ込ませた。

 間違いなく、この殺しはアサシンにとって生涯で最も誇るべき成果。全ての行動に淀みの一つすらなく行えた、完璧な暗殺。

 胸を打つ高揚。
 何事かと見開かれた真紅の瞳が、アサシンに堪らぬ恍惚を齎してくれる。

「これで全ての敵は消えた。セイバーもアーチャーもランサーもライダーもキャスターもバーサーカーもイレギュラーも!
 最後に勝ち残りしはこの最弱。この最弱の暗殺者こそが、聖杯を手にする資格を手に入れた……!」

「ああ……見事だ、暗殺者。王を打ち倒すのは、いつの世も民に祭り上げられた凡人か、敵の差し向けた刺客と相場は決まっている。
 よもやこの我が、そんな凡百の王と同じ末路を辿るなどとは、思いもしなかったがな」

 黄金の王の腕が動き暗殺者の伸びきった右腕を掴む。何処にそんな力があるのかと、瞠目するほどの握力で掴まれる。

「なに……!? 何故貴様、まだ生きて──!」

「侮るなよ雑兵。この我の心臓を獲ったくらいで、粋がって貰っては困るぞ。この我の首を獲ったのだ、よもや、ただで帰れるとは思っていまい?」

「ギッ──!」

 掴まれた右腕を力任せに引き寄せられ、アサシンは踏鞴を踏む。喀血しながら黄金の王は暗殺者の首にその手を掛けた。

「……この我に敗北はない。自らの失態は、自らの手で拭い去ろう」

 腕に力を込める。表面上に異常はなくとも、ギルガメッシュには既に心臓がないのだ。サーヴァントの核の一つであるその部位を抉られて、生きていられる道理はない。現にランサーは心臓を抉られ泥に呑まれたのだから。

 ならば一体、この男は──この黄金の王は、如何にして動いている……?

 アサシンには知る由もない。誇りよりも矜持よりも勝利と結果を優先する殺人者には、王足るものの執着は理解し得ない。

 王を衝き動かすもの──それは己の内に秘めた、プライドだ。

「ギッ……はな、せ……死にぞこないがッ……!」

 繰り出すダークは黄金の甲冑に阻まれ届かず、必殺の魔腕も既に心臓を失った相手には通用しない。王は決して力を緩めず、なお一層に握力を増す。

 世界を手中に収めた王が、こんな雑兵にも劣る暗殺者に殺されたとあっては名に悖る。心臓を抉られた以上、死は回避出来ない。ならばせめて、己の命を奪った者の命を奪い取らねば、気が済まぬ──!

「ギッ……ギヒヒヒ……ギェ、ヒ──!」

 ばきん、と小気味の悪い音を響かせて、暗殺者の首は圧し折られる。

 真正面からの戦いにおいて、アサシンが勝ち得る術はない。だからこそ背後を衝き、隙を突き、あらゆる策を巡らせる。

 アサシンに……ハサン・サッバーハに誤算があったとすれば、己には絶対に理解出来ないものを、この王が持っていたこと。
 そしてもう一つ。ただ人を殺す機械であれば、この結果はなかったかもしれない。

 他者の心臓を喰らい、人格を形成し、人並みの思考を手に入れてしまったが故の愉悦。その一瞬の隙。
 たとえ己の本当の貌を、本当の名を歴史に刻みたいと願っても……聖杯を掴む為には、その余分を切り捨てる他なかったのかもしれない──

×


『時は来たれり』

 突如、虚空に響く皺枯れた声。

 余りにも圧倒的な戦いを見守るしか術のなかった士郎は、その声を知っている。

「間桐、臓硯……!?」

 士郎の叫びに呼応するように、広場の中心──今にも消えていこうとするギルガメッシュとアサシンの周囲に、その影は浮かび上がる。
 黒々とした影。いや、泥と評すべきか、その汚泥は中心にいた二騎のサーヴァントをその内へと取り込み、とぷん、と水音のような音を立てて消え去った。

『全てのサーヴァントは消え、その魂は聖杯へとくべられた。今こそ我が悲願成就の時──!』

 今一度沸き起こる汚泥の波。触手のように引き伸ばされた黒い腕は、士郎の傍をすり抜けてその後ろにいたイリヤスフィールの身体を絡め取る。

「きゃっ──!」

「イリヤ……!」

 バネ仕掛けの機械のようにイリヤスフィールは高く舞い上げられ、捕らえられたまま汚泥の中心へと飲み込まれていく。
 その様を無様に見守っていられる士郎ではない。駆け出そうとしたその足を、

「来ないでっ!」

 守るべき、守ると誓った少女の言葉が堰き止める。

「なんで……くそっ、イリヤ!」

 一瞬の逡巡。その迷いが二人の距離を絶望的なまでに引き裂いていく。駆け出した足は間に合わず、伸ばした手は届かない。泥の中へと呑み込まれていく少女の姿を、士郎はただただ見つめ続ける他になく──

 消えていくその最後に……少女の浮かべた笑みの意味を、理解する事など出来なかった。

『聞こえておるか、アインツベルンの侍従よ。約束の地にて待つ。天のドレス──忘れるでないぞ』

 それで音は消えた。

 間桐臓硯が何故生きているのか。イリヤスフィールを攫ったものが何なのか。臓硯がこれから何をしようとしているのか……士郎には、何一つ分からなかった。

 全くの蚊帳の外。既に物の数にも数えられていない。正義の味方は、何をするべきなのかも分からない。

「いや……」

 一つだけ、やらなければならない事がある。

「イリヤを、助ける」

 この夜の森での誓いを違えぬ為に。好きだと言った少女を守り抜く為に。

「衛宮様」

 ふと横を見れば、闇に浮かぶ白い装束。頭の天辺から爪先までを覆い隠したイリヤスフィール付きのメイドの一人、セラの姿がそこにあった。

「お話があります。聞いていただけますか?」

「ああ、俺も聞きたい事が沢山ある。でも最初に一つだけ確認させてくれ。イリヤはまだ無事なんだよな?」

「はい。間桐臓硯が天のドレスを持って来い、と言っていた以上、その霊装を使用するつもりであるという事です。
 天のドレスはイリヤスフィール様にだけ使用を許されたもの。我らがあの男の言う約束の地に赴くまで、その命の無事は確保されるでしょう」

「じゃあ、いい。イリヤは必ず俺が助け出す。だから、今起こっている事態の説明を頼む」

「ではこちらへ。このような場所では落ち着いて話も出来ないでしょう。そちらの少女も、そのままにしておくのは酷でしょう?」

 士郎は揺らさないようにそっと凛を背負い、セラの後をついていく。
 行く先は勿論、主を失った冬の城。

×


 城内の一室でセラが語った事をまとめるのならこうだ。

 イリヤスフィールは此度の聖杯戦争における小聖杯として製造されたホムンクルスであり、桜もまた間桐臓硯の手によって鋳造された偽物の聖杯。

 本来紛い物の聖杯が、本物に敵う道理などない。だが先ほどの戦闘で、奪い取られた英霊の魂によって互いの力は拮抗した。いや、偽物が本物に迫っている点を考えると、偽物の方が比重が大きい。

 しかし互いに英霊の魂を持ち合っている為、完全な形での聖杯の顕現はまだ成されていない。それが成されるのは本物と偽物の比重がどちらかに傾いた時。天秤の片皿が、地についた時だ。

 間桐臓硯の思惑が何処にあるのかはセラにも真意は知りえない。
 少なくとも天のドレスを要求した以上、イリヤスフィールを聖杯として捧げ門を開く思惑があるのだろう、という事だった。

「…………」

 事の真相を、戦いの行き着く場所の真実を黙って聞いていた士郎。差し出された紅茶はとっくの昔に冷め切っており、士郎は眉一つ動かさない。
 凛は隣室のベッドに寝かせてきた。イリヤスフィールの治療の甲斐あってか、今は多少持ち直している。

 戦いの真相。終着点。

 士郎にとって、それらは所詮状況でしかない。今どう動くべきかというただの指針に過ぎない。聖杯の行方だとか、願いだとかはどうでもいい。

 知るべきはただ一点。

「イリヤ達は今、何処にいる?」

「冬木市は柳洞寺の地下。その場所が全ての始まりであり終わりの場所です。約束の地と称した以上、その場所以外には考えられません」

 それだけが分かれば、後はいい。臓硯の思惑も何もかもがどうでもいい。士郎のやるべき事は決まっている。イリヤスフィールを、そして桜を救い出す。

「何処に行こうというのです衛宮様。まだ話は終わってはいません。むしろここからが本題です」

 腰を浮かしかけた士郎を嗜めるセラの声。士郎は再度腰を落とす。

「どういう事だ?」

「衛宮様、貴方は戦いの地へ、何を目的として赴こうというのです?」

「決まってる。イリヤを、桜を救う為だ」

「無駄です。貴方には、どちらも救えない」

「────っ! どういう、事だ?」

 白熱する思考を抑え問う。自分に力がない事なんて分かってる。敵はあの間桐臓硯だ、確実に勝てる保障なんて何処にもない。それでも行くと決めた。退かないと覚悟した。その決意に水を差す、セラの言葉は──

「イリヤスフィール様にとって聖杯の門を開く事は予め決められていた運命。アインツベルンの宿命をその一身に背負っている身なのです。
 そんな我が主がこの最終局、門を前にして開かないという選択は、絶対に有り得ません」

「…………」

「そして間桐桜。こちらは伝聞で聞いた限りの推測を含みますが、もはや後戻りの出来ないところにいるのでしょう。
 死んだ筈のあの妖怪が生きていた以上、まともな状態である筈がありません。それはあの影のような泥が証明しています」

 イリヤスフィールは世界を繋ぐ門を開く。ただその為に生まれてきた。それは生まれた意味であり、生きる意味だった。その終着点が目の前にあるのなら、その執行を止める術はない。

 桜もまた、士郎は与り知らぬがセラの言うとおり後戻りなど出来ない状況にある。その身は青銅の杯。イリヤスフィールのように巧く取り込んだ英霊の魂の処理など出来るわけがない。結果、暴走するしかなくなりただ糧を求めて影は夜を走り抜ける。

 全ては臓硯の掌の上。あの妖怪の思惑の上で、ただ全てが踊らされるばかり。

 士郎はただ黙考する。どうするべきか。何をするべきか。自分に、何が出来るのかを。

「……決まってる」

 そうだ。すべき事なんて、始めから決まっていた。

「俺はそれでも、イリヤを助ける」

 たとえイリヤスフィールの生まれた意味を否定したとしても。約束があるから。騎士はお姫様を助け出さなければならないのだから。

「そうですか。ならば貴方は、間桐桜を殺すというのですね?」

「な、に……?」

 そんな、士郎の決意を揺るがせる、セラの声が響き渡る。

「どういう事だよ……? なんで、イリヤを救う事が桜を殺す事になるんだ?」

「この局面、もはや聖杯の起動を止める術はありません。止めるとすれば、それは開かれた門を閉じるか、門自体を破壊するか。あるいは──世界と世界を繋ぐ楔を殺すか、それ以外に方法はありません」

 開いた門を閉じられるのは、イリヤスフィールのみ。贋作の聖杯には門を開く事は出来ても閉じる事は出来ない。
 間桐桜の意識がその時まで保たれている保障すらない。そして門を閉じた時、閉じた者は門の内へと消えてしまう。それでは、救えない。

 門自体を破壊すれば、全てを丸く治める事も出来るかもしれない。だがそれには、サーヴァントの持つ宝具クラスの破壊力が必要になる。
 全てのサーヴァントが消え去ってしまった今、その方法を行う術はない。どれだけ強力な魔術師の一撃でも、宝具のそれには及ばないのだから。

 故にどちらかを救うとするのなら、どちらか一方に門を開けさせ、開けた者を殺す事で門を閉じるしかない。

「…………」

 それは、士郎も予期すらしていなかった。間桐臓硯を倒せば全ては終わると、まだ楽観を抱いていた。
 輪の中ではなく、外に弾き出された士郎が今一度その中に踏み込もうというのだ、そんな期待など、持つべきじゃなかった。

 衛宮士郎は決断をしなければならない。この戦いに終止符を打つ為に、どちらかの少女を犠牲にしなければならない。どちらもは救えない。そんな状況は、とっくの昔に過ぎ去ってしまっている。

 決断を。

 正義の味方としての、決断を──

 その時、かたん、と室外より音がした。不審に思った士郎が扉を開けてみれば、そこには誰の姿もない。ただ、ふと見た壁に赤い血糊がついているのを見つけた。

「まさか──!」

 急いで駆け込んだ隣室には、無論凛の姿はなかった。持ち直したとはいえ未だ危篤にも等しい状態なのだ。絶対安静は無論のこと、普通であればベッドに括りつけておかなければならないほどの重傷なのだ。

 そんな身体で、そんな死に体で、一体何処に向かうのか──?

 決まっている。あの少女は、己が身を省みず、戦いの地へと向かったのだ。

 あんな身体なのだ、まだ遠くに行ってはいないと、士郎は凛の後を追う。
 程なく、城の正門から出たすぐの場所で、その姿を見つけた。

「遠坂!」

「……来ないでよ士郎。わたしには、やらなきゃいけない事があるんだから」

 木に身体を寄り掛からせ、やっとの思いで立っている少女の後姿。その背に、拒絶の意思が滲んでいる。

「そんな身体で何しようってんだ、後は俺に任せて──」

「じゃあ聞くけど。士郎、アンタ本当に桜を殺せるの?」

「────」

「アンタは知らないだろうから、教えてあげる。桜はね、わたしを刺したの。わたしを殺そうとしたの」

「────」

 凛の傷。胸につけられた、心臓にさえ到達する傷。今なお凛を苦しめ続けるその傷は、桜が凛に刃を向けたもの。あの黄金の騎士がつけたものではなく、実の妹が、実の姉に刃を振り下ろした結果。

「嘘だろそんなの……だって、おまえと桜は姉妹だろ……?
 桜におまえを刺す理由なんて……そうだ、臓硯だ。アイツ、生きてやがったんだ。アイツが何かしたに決まってる!」

「そうね……多分、そうなんでしょうね。でも、もう遅い。あの子はきっと、わたしを殺したと思い込んでる」

 愛しい人を傷つけ、実の姉までその手にかけた。最悪にも、殺した筈の妖怪は存命で、手にしたと思った自由はするりと掌をすり抜けていった。

「もうダメよ……あの子。もうきっと、立ち上がれない。
 立ち上がろうなんて、思えない。だってそうでしょう? 立ち上がったって、もう居場所なんて何処にもないんだから」

 凛が幾ら居場所を作ろうと、士郎が手を伸ばそうと、あの少女にはもう届きはしない。
 自責の念に押し潰されそうで、でも自殺なんて出来なくて。悪魔のような祖父の掌で転がされながら、ただ言われるがまま動くだけの人形。

 そんな心ではまともに聖杯など扱えまい。内に眠るものが暴れるままに任せて、いつか取り返しのつかない事態を招く。

 そうなる前に。

「だからわたしが、終わらせてあげないと。あの子を救って(ころして)あげないと」

 それが遠坂凛の選んだ答え。これ以上の罪を重ねて、それでも死ねず永遠に苦しみ続けるくらいなら、この手で殺してあげる事こそが救いであると。そう、自分に言い聞かせるように謳い上げた。

「邪魔、しないでよ士郎。イリヤスフィールを救いたいんでしょう? ならわたしとアンタの目的は同じ筈だから」

「だからって……桜を殺すなんて事……」

「わたしは先に行くわ。覚悟を決めたのなら追ってきなさい。囚われのお姫様を救うのは、正義の味方の役目でしょう?」

 そうして凛は闇の中に消えていく。傷ついた身体を引き摺って。実の妹をその手に掛ける為に。愛しい妹を、解放する為に。

 士郎は一人闇の中に立ち尽くす。即座に追いかける事が出来なかった。まだ迷いが、頭の中をちらついていたから。

×


 どれだけの時間が過ぎたのか分からない。一分か。一時間か。一日か。

 ふと外を見ればまだ闇に包まれたまま。士郎が思うほど時間は過ぎていないらしい。だが夜明けもそう遠くはない。

 士郎が己の煩悶と決着をつけるタイムリミットは、セラとリーゼリットが天のドレスの用意を終えるまで。そう決めていた。

 正義の味方が救うもの。正義の味方が味方するもの。
 いつかの切嗣の言葉を思い出す。正義の味方は味方したものしか守れない。

 倒すべき悪になりかけていた桜を救った。たとえ救った少女に拒絶されても、その命が助かった事は心の底から嬉しかった。

 だが今度は違う。

 桜はただの被害者だ。何をも傷つける力なんてもうなくて、ただの少女に戻っている。間桐臓硯に操られているだけの被害者。

 そんな少女を犠牲にする事が正しいのか。
 正義の味方に憧れたのは、そんな無垢な人達を救いたかったからではないのか。

 正義の味方。
 正義の味方。
 正義の味方。

 憧れたものには、たった一人の少女さえ救う力がないのだろうか。
 理想としたものは、こんなにも苦痛を伴う決断を投げかけるものだったのか。

 ただ漠然とした憧れは、今や明確な形として目の前に存在する。理想の中でのみ生きられる正義の味方はそこにはいない。
 衛宮士郎が拒絶して、でも心のどこかで理解していた現実感が、目の前に突きつけられている。

 全てを救うなんて出来ない。
 だから一を殺して九を救う事を選ぶ。

 それは現実に則した、余りにも虚しい正義の味方の在り方。
 だが今は、そんな程度の話じゃない。

 一と一。崖から落ちかけている少女のどちらかの手しか掴み取れないとしたら、正義の味方はどちらの手を取るべきなのか。
 味方したものしか守れないのなら、守るべきはどちらか。見殺しにすべきは、どちらであるか。

「……そんなもの、本当はとっくに気付いてる」

 ──あの夜の公園で、冬の少女の手を取ったその時から。

『衛宮様。こちらの準備は整いましたが』

 部屋の外から響くセラの声。タイムリミット。

「ああ──」

 ──光溢れる森の中で、少女に口付けと共に誓ったから。

「──俺は」

 正義の味方は、味方した少女を救う為──もう一人の少女を犠牲にする。

×


 地の底を染める昏い光。
 底にありながら天を衝く、黒い光が顕現する。産声を上げるように、金切り声が啼いている。

 柳洞寺の地下に二百年も昔に建造された心臓部。聖杯戦争の始まりの地にして終わりの場所。冬木市を巡る霊脈はこの場所を基点とし円環し循環する。

 故にこの場所は円環回廊。またの名を心臓世界テンノサカズキ。

 士郎がセラとリーゼリットの案内の下、辿り着いた先はこの円蔵山を丸ごと刳り貫いたような広大な空間。
 緑色の闇を抜け、行き着いた先は赤と黒の入り混じる魔力が溢れる儀礼場。中心部と思しき場所に擂鉢状の台地があり、その上に黒い太陽が抱かれている。

 その光景を、知っている。
 十年前、燃える空と視界を染める黒煙の合間から見た、黒い太陽と同じもの。

 聖杯戦争の終わりを告げる落日の太陽。

 胸を過ぎる過去の記憶を振り払い、士郎は中心点──魔法陣のある場所へと歩を進める。

 この場所に辿り着くまでの間に、凛の姿は見なかった。歩いて向かった凛とは違い、こちらは途中までセラの運転する車で向かって来たのだ、きっともう追い越している。あんな身体だ、何処かでへばっているのかもしれない。

 今は凛の事よりも、救うべき少女の事を考えるべきだ。そしてその前にはだかるであろう障害を討つ方法を──

「──あら、意外に遅かったのね衛宮くん」

 想定をしていた声ではない。底冷えのする声音である事は同じだが、その声色は決定的に違っていた。

「とお、さか。なん、で──」

 凛の手の中には装飾の施された短剣がある。血に塗れた、短剣が。

「衛宮くんがあんまりに遅いから、こっちは大体終わっちゃったわよ?」

 血に濡れた短剣。凛の血ではない。ではそれは、一体誰の──?

「遠坂、おまえ──」

「──ええ、桜はわたしが救った(ころした)わ」

 ぽたりぽたりと垂れる雫。恐らくはまだ温かいであろう、その血潮。

 凛は公言どおりにその手で妹を討った。
 そうする事が、桜を救う唯一の方法だと信じて。

 だが……ならば何故──

「なんでイリヤがそこにいる……!」

 黒き太陽を頂く空。
 それを背負うように形のない十字架に磔にされた、雪の少女の姿。
 それはまるで、聖杯に捧げられた供物のようで──

「さあ、始めましょう衛宮くん。聖杯を賭けた、最後の戦いを──!」

 此処に最後の幕が開く。
 対峙するは正義の味方を背負う者と、妹をその手に掛けた最優の魔術師。

 互いに譲れぬものを賭けて。
 失ったものに報いる為に。

 その身を賭して、少年と少女は己が信念を貫き通す────













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