Fairy Tale 4









「くっ──、は、ぁ──」

 アインツベルン城前での士郎との問答の後、凛は森の只中に入ったが、即座にその胸に手を当て傍にあった木に寄り掛かった。
 魔術刻印の延命措置とイリヤスフィールによる治療の甲斐あって、なんとか凛は持ち直した。だがそれは、命を無事繋ぎ止めただけに過ぎない。

 表面上の傷は癒えてはいても内部はまだボロボロだ。致命的な箇所は治っていても、少し動くだけで喉奥から血流がせりあがって来るくらいだ。

 士郎の前のあの姿でさえ、ただの強がり。こんな様では臓硯を討つどころか冬木市へ戻る事さえ困難を極める。

 だがそれは、凛がもし、一般人であったのなら──の話だ。

「んぐっ──は、まぁ、っず……」

 ポケットの中に手を滑り込ませた凛は残っていた宝石を取り出し、あろう事か口へと放り込み嚥下した。
 それらの宝石は凛が手ずから魔力を込めてきた代物だ。それを体内で作用させる事で、一時的に身体機能を増幅する。

 こんなものは付け焼刃。もって数時間限りのドーピング。、そしてその間動いた分だけ後になって反動が襲い掛かってくるのは明白。それでも凛は決めたのだ。桜を救うと。今、やらねばならないのだと。

「わたしは、冬木の管理者で、魔術師で。あの子の、姉だもの──」

 ──他の誰にも、この役目は任せてなるものか。

 その決意を胸に、凛は駆け出す。
 昏い森と夜を超え、光灯る街の中へ。戦いの終着点へ──

×


 昏い暗い地の底に。始まりの魔法陣は存在した。

 六十年周期で行われる聖杯戦争の大本とも呼べる大聖杯。アインツベルンが毎回用意する黄金の杯は、あくまでこの装置を駆動させる為の仕掛けに過ぎない。

 世界の外側より招かれる七騎の英霊の魂を取り込み、それらが再び外に還る力を利用して風穴を開ける。根源への道を開く。

 だが今は、この時だけは、凛は遠坂の悲願を忘却した。そんなものに構っていられるほどの余裕なんてもうないのだから。

『やはり来たか』

 台地状の祭壇の中央──黒い太陽を背に立つ少女の姿。
 虚ろな瞳。
 力の抜けた四肢。

 少女はそれでも毅然と立ち、その、皺枯れた声を紡ぎ出した。

「間桐、臓硯。そう……桜はもう、桜じゃないのね」

『うむ。桜は己の心を閉ざしてしもうた。だがその身は青銅の杯。英霊の魂を内包する、世界の外へと向かう架け橋じゃ。それを捨て置いては魔術師の名が廃ろう? 故に儂が、仕方なく使ってやろうというのだ』

「仕方なく……? はっ、全部アンタの掌の上だったくせによくもまあ……」

『いやいや、そうでもないぞ? アインツベルンの聖杯が刻印蟲を消し去った時は流石に肝を冷やした。あの黄金のサーヴァントが桜を連れ去った時はもうどうしようもないと諦観さえした。
 だがツキは巡った。この刻限があるのは星の巡りの賜物じゃ。聖杯は、儂の祈りを選んだのだ。ならば是非もない。この宿願、果たそうではないか』

 珂々と嗤う臓硯。少女の口を介して、勝利の余韻に浸りながら。

「……ならアンタは、もう一つ考えるべきね」

 ポケットの中に手を滑り込ませる。掴み取ったのは、途中屋敷に戻ってありったけの数を持ってきた煌く宝石。

「わたしがこの場所にいる意味……アンタのツキもここまでだって事をね──!」

 ばら撒かれる宝石群。それは凛が幼少の頃より魔力を込めてきた十年来の宝石には敵わない、小粒な宝石。
 一つ一つの力は小さく、けれど寄せ集めれば大きな力となる。

『カッ──そんな満身創痍で、碌な手札もないくせに、強がるなよ小娘が──!』

 臓硯の周囲より滲み出る黒い染み。
 それは影であり、泥であり、悪意であり、その全て。
 聖杯の内に眠りし憎悪の塊。六十億を呪う悪意。

 だが幸いにして、それはまだ完全な形で顕現はしていない。白と黒の杯は拮抗し、桜自体も母体として完成はしていないが故の、未完成。
 だからこその臓硯の言葉。不本意ながらも状況はこの刻限まで進みきってしまっただけの話。さかしまの砂時計の砂を戻す術はないのだから、今あるべきものを利用して己が悲願を叶えるまで。

『悪意に抱かれ眠るが良い。貴様が動いていては、桜が静かに眠れんであろう?』

 黒い残滓。これは、聖杯の器より零れ落ちたただの雫。しかしそれで必要十分。手負いの魔術師を葬り去るのに、これ以上の力など必要ない──!

 津波の如く押し寄せる黒い泥。ばら撒かれた凛の宝石はその波に風穴を開ける。

「ちっ……!」

 襲い来る水飛沫の全てを霧散させるには、圧倒的に威力が足りない。開いた風穴をそのままに襲い来る津波。凛は左方への跳躍でその一撃を回避する。

『ほれ、どうした。先ほどの威勢は言葉だけか』

 泥は様々な形に姿を変え凛を襲う。凛は逃げ回るしかない。ありったけの宝石を持ってきたとはいえ、攻撃力が違いすぎる。宝石の投擲は臓硯の身には決して届かず、自らが回避する為の猶予を稼ぐか、泥の障壁に全てを阻まれてしまう。

 ──想像以上に、相手が悪い……!

 脳の中で思考がスパークする。それも当然、足を止める暇もなく襲い掛かってくる泥から逃げ回り続けるには、凛の身体は不十分。動けば動くだけ身体は悲鳴を上げ、目の奥がチカチカする。

 宝石による強化を行っていてそれなのだ。もしその効果が切れた時を思うと、心の底から怖気がする。しかしそれでも足を動かすしかない。逃げ回るしかない。足を止めればあの泥に飲み込まれる。並の人間では、あの闇に逆らえない。

 しかしこれでは桜を救えない。臓硯を倒せない。ただ悪戯に時間を引き延ばすだけ。凛の身体が壊れるまでの、鬼ごっこ。

 だが知ろう。遠坂凛が、その程度の最悪を予期していない筈がない。勝つ為の手段は、いつだってそこにある──!

「さぁくらあああ……!」

『ぬっ!?』

 心を閉ざし、身体を奪われた少女に呼びかける。

「聞こえてんでしょ桜! 聞こえないふりしてるだけなんでしょアンタ!」

 少女は心を殺したのではなく──閉ざしただけ。

「わたしを殺したと思って、全部諦めちゃったんでしょ? お生憎様、残念だけどわたしはこうしてピンピンしてるわよ!」

 少女が心を閉ざした理由が、遠坂凛を自らの手で殺したと思っていた事であるのなら──

「アンタが心を閉ざす理由なんて、もう何処にないでしょう──!」

「ねえ、さ……」

『ぬぅ!? 桜、よもやお主──!』

 臓硯の支配が乱れる。泥は形をなくし地に墜落し、桜までの、臓硯までの道が拓く。

「はぁあああ……!」

 その道を走る凛。臓硯が今一度桜を己が支配下に置くその前に、聖杯の頂へと駆け上がる。

「ねえ、さん……姉さん……!」

『このっ、ただの傀儡の分際で──分を弁えぃ桜ぁ……!』

「いやああああああああああああああああああ……!」

 跳ねる桜の身体。鳴動する心臓。嗤う口元。泥は影となり槍へと変貌し、一直線に駆け上がる凛を貫く。

「ぐっ……、このぉ……!」

 腹を貫かれ、それでも凛は足を止めない。臓硯が桜を完全に支配してしまっては、もう誰もこの悪鬼を止められなくなる。桜の顔で、桜の姿で、桜と化した臓硯が、世界を悪意で染め上げる。

 そんな事はさせない。そんな事は許さない。何よりそんな事になってしまっては、桜は二度と救われない。

 だから凛は足を止めない。凛はもう心に決めた。決意した。覚悟した。

『カッ──それでどうする遠坂の! 儂を殺すか!? 儂を殺せば桜も死ぬぞ──!』

「決まってんでしょ。わたしはアンタを殺して──桜を殺す(すくう)

 そしてその頂に辿り着く。
 口から零れる血を拭わぬまま、腰元に差した短剣を引き抜く。
 桜が凛の心臓に突き立てたその剣を、今──凛が桜の胸に突き落とす。

「ごめん……桜。わたしには、アンタを救う方法が、もうこれしか浮かばない」

 臓硯の支配による永劫の地獄か。姉の手による一瞬の死か。間桐桜にはもう、道が残されていない。
 救いたいと想う。救いたいと願う。誰よりも。きっと、世界中の誰よりも、でも、もうどうしようもない。桜の身体を救うか、桜の心を救うか──選択は、その二つしかもう、この場には存在しないのだ。

 ならば凛は桜の心を救おう。その身体を利用され尽くし、悪魔に奪われるくらいなら、わたしの手で奪い去ろう──

「はい……いいです。姉さんになら、わたし──殺されてもいいです」

 形作られる笑み。
 涙を流しながら笑う妹の顔に、凛の心に刺すは罪悪感。
 救えない事が罪ならば。
 この罪は、遠坂凛が生涯抱え続けなければならない心の咎。

 その咎を受け入れて──背負うととっくに覚悟した凛は、

「うん、ありがとう、桜」

 柔らかな笑みと共に、最愛の妹の胸に──刃を振り下ろした。

×


 昏い空洞に響く蟲の断末魔。金切り声はやがて止み、後に残されたのは掌を血で染めた姉と、笑顔のまま倒れ伏した妹。

 そして──魔法陣の中心で、眠り続けていた、冬の少女。

×


 衛宮士郎がその場所に辿り着いた時、全ては終わっていた。

 凛は血濡れの短剣を手に立ち尽くし、桜は横たえられたまま。
 違うところがあるとすれば──それは黒い太陽に捧げられた、正義の味方が守ると決めた少女の姿。

「な、に……を」

 凛は言った。

『さあ、始めましょう衛宮くん。聖杯を賭けた、最後の戦いを──!』

 そう言った。
 同時に、戦端は開かれた。

 凛は手にしていた短剣を放り棄て、魔術刻印のサポートを借りガンドを撃つ。
 士郎もまた、凛から完全な敵意を向けられ、殺意の篭った攻撃をされては応じないわけにはいかず、手にした木刀に強化の魔術を施し迎え撃つ。

「くっ──なんで、こんな真似……!」

 ガンドの雨から身を躱しながら思考する。

 桜は悪鬼の手から逃れ、悪鬼もまた完全にその身を滅ぼされた。後は聖杯の門を閉じれば全ては終わると思っていたのに──

「イリヤスフィールには門を開いてもらう。わたしは、遠坂の悲願を叶える」

「なん、で。なんでなんだよ遠坂。おまえが桜を殺すと決めたのは、その為だったって言うのか!?」

「違うわよ衛宮くん。それは順序が逆。
 わたしはイリヤスフィールを捧げる為に桜を殺したんじゃなくて、桜を殺したからイリヤスフィールを捧げなければならなくなったって事」

 士郎には理解が出来ない。凛が何を考えているのか、全く以って理解が出来ない。

「わたしは桜を犠牲にした。犠牲にしてしまった。この遠坂凛が、そうしてしまった。だったらせめて、聖杯くらい手に入れないと帳尻が合わないでしょう?」

「────────」

 それはある種の強迫観念。

 犠牲にしたもの、してしまったものを無為にしたくなくて、動き出す歯車。己が身体を衝き動かす情念。
 歯車はギチギチと音を立てて回り続ける事を余儀なくされる。たとえそれが己の信条の反する事であっても。たとえその先に待つのが破滅だと知ってもなお、この衝動を止める術はない。

 凛を衝き動かすのは間桐桜を犠牲にしてしまったという罪。その罪を抱き続ける事が咎ならば、犠牲にした以上の何を手にしなければならないという考えは、彼女が自身に科した罰だ。

 失ったものを、犠牲にしたものに報いる為の、強迫観念(アポトーシス)

 その罰の重さを知っている。
 その罪は、衛宮士郎が背負い続けてきたものと酷似している。

 十年前の大火を生き延びた者として、見捨てたものに報いる為に、衛宮士郎は誰かの為に生きる事を選んだ。
 故にあの災厄の原因たる聖杯は、破壊しなければならないもの。

 実の妹を手に掛けて、姉としてではなく魔術師として立つ事を選んだ遠坂凛は、聖杯を手にする事で自分自身に嘘を吐く。
 そうしなければならないと、罰が心を衝き動かす。故に万物の願いを叶える聖杯は、手に入れなければならないもの。

 故に二人は決して相容れない。共に失ったものに報いる為に、決して退く事は出来ないのだから。

「……分かった」

 そして正義の味方には今、もう一つ救わなければならないものがある。

「遠坂が聖杯を獲るって言うのなら、俺がそれを阻止してやる。イリヤは俺が、救い出す──!」

 降り頻るガンドの雨を掻い潜り、士郎は凛の下へ、イリヤスフィールの下へと走り出す。

「もう遅い! イリヤスフィールは捧げられた。聖杯として機能した!
 桜が死んだ事で英霊の魂は全てイリヤスフィールの中へと戻った。ならもう、あの子は助からない……!」

「それでも……!」

 救わなければならないものがある。助けなければならないものがある。いや──助けたいと、心の底から願うから……

「俺は────!」

 被弾する黒い呪いをものともせず、士郎は足に力を込める。

 二人の戦いは、二百年余り続いた戦いの果てにしては、余りに拙い。
 満身創痍の魔術師と、未熟者の魔術使い。誰かの願いの果てがこの戦いであるのなら、それは皮肉であり、悲惨に過ぎる。

 それでも当事者達は互いに譲らず一歩すら退かない。
 もはやガンドを撃つ程度の力しか残していない凛と、木刀の強化さえ満足に出来ない士郎の衝突。

 その結末は──

「ぐっ……ごほ……っ」

 単純に、肉体の限界を先に迎えた凛の身体が崩れ落ちた事で、あっけなく、終幕した。

×


「遠坂……」

 これは当然の帰結。心臓に致命の一撃を受けてなお生きていた事が奇跡なら、この時までまともに身体が動いていた事もまた奇跡に等しい。
 凛が意地と決意だけで動いていたとしても、身体が先に限界を迎える。宝石によるドーピングも数時間の道程とこの場での戦いで、完全に使い切ってしまったのだから。

「は、あ……全く、情けないわね。あれだけ啖呵切っておいて、その幕切れが電池切れなんて」

 仰向けに倒れ伏した凛は虚ろな瞳で傍にいる士郎を見る。その手には木刀ではなく、凛が投げ捨てた短剣が握られていた。

「で、どうするの士郎? わたしはこうなるかもしれないって分かっててイリヤスフィールを捧げた。そんなわたしを、アンタはその刃で殺す?」

 桜を殺した刃で殺されるなら、それも悪くはないかな、と思った凛だったが、

「いや、俺は遠坂は殺さない。殺す理由なんて、ないからな」

 士郎が凛が立ち向かったのは凛が聖杯を使おうとしていたから。この悪意を零す穢れた聖杯を、十年前に悲劇を起こした聖杯を。
 凛にはもう立ち上がる力さえあるまい。士郎のこれからの行いを止める術はもう、ない。

「たとえ殺してって言っても、アンタは殺してくれないんでしょうね」

「冗談でも、そんな事言うなよ馬鹿。おまえは桜を殺したんだろう。ならせめて、その分は生きないと」

「はっ、本当、正義の味方ってやつは、残酷だわ……」

 妹の血で掌を染め上げても生きろという。犠牲としたものがあるのなら、生きなければならないと。
 自分の命は簡単に投げ出すくせに、他人にはそんな都合の良い事ばかり言う正義の味方は既にどこか破綻している。

 ただそれでも、その壊れたものを後生大事に抱えて、この少年は荒野を目指すのだろう。

「本当、酷い、ヤツ……」

 凛は重くなる瞼に身を任せる。魔術刻印のサポートがある限り、その命は永らえよう。望むと、望むまいと。

「少しだけ、待っててくれ遠坂。おまえはちゃんと上に連れて行くから」

 士郎は立ち上がる。その手に刃を携えて。向かう先にあるには、黒い太陽を背負う少女の姿。守ると、救うと決めた、イリヤスフィールの姿。

「イリヤ……」

 セラの言葉を思い出す。

 聖杯の門を閉じる方法は三つ。
 一つはイリヤスフィール自身が閉じる事。
 一つは宝具クラスの一撃で黒い太陽を消し去る事。
 一つは世界を繋ぐ楔の役目となっている、捧げられた少女を殺す事。

 イリヤスフィールには意識がないらしい。これでは門は閉じられない。宝具持つサーヴァントは全て消滅した。残るのは、残された手は……

『シロウはね、迷う事なんかないんだよ』

「…………ッ」

『シロウはわたしを選んでくれた。シロウはわたしの手を取ってくれた。わたしはそれだけで、充分』

 奥歯を噛み砕き、手に握る短剣を強く強く握り締める。

『シロウは自分を信じてあげて。その生き方は、酷く歪だけど、シロウはそう生きるって決めたんでしょう? なら最後まで、自分だけは信じてあげないと』

 そうだ、衛宮士郎は正義の味方だ。

 このまま聖杯を放置すれば、内より零れる悪意が世界の全てを呑み尽くす。それを許してはいけない。そんな結末を、傍観している事は絶対に出来ない。

『でも、イリヤ……俺は思うんだ。思ってしまうんだ。この理想を貫くという事は、この手に掴んだものさえ、いつかは零してしまうんじゃないかって』

 その結末はここにある。己が理想を張り通す為には、守ると決めた少女を殺さなければならない。手に掴んだ大切なものを、また取り零さなくてはならない。

 少女をこの手に掛けてまで張り通す正義の味方と、今の士郎の在り方は根本から違う。イリヤスフィールを殺してしまえば、衛宮士郎は理想を廻す歯車になる。なるしかない。心を鉄に変えなければ、その理想を貫き通す強さを保てないから。

『それでもシロウは自分を信じるべきなんだよ。
 言ったでしょう? わたしはシロウがどんな姿になったって、ずっとずっと味方でいるって。わたしがそう──決めたんだから!』

「なあ……イリヤ。こんな俺でも、おまえを殺そうとしている俺でも、おまえは、俺の味方でいてくれるのかなぁ……」

 この決断が、間違いだとは思わない。だが同時に正しいとも信じられない。もっと別の選択肢が、誰もが傷つかない夢のような閃きが、何処かであったのではないかと、思ってしまう。

 だってこんな結末はあんまりじゃないか。
 誰も救われない。
 誰一人、その心は救われず──生き残った者の胸に傷痕だけが深く深く刻まれる。

 それでも。

「ごめん、イリヤ」

 こうする事でしか、終わらせられないのなら。
 この刃を大切な人に突き立てなければ誰も救われないのなら。

 正義の味方は、

 その心を、

 鉄に──

「ダメ、ですよ……せん、ぱい……」

「──────え?」

 酷く小さな音。今にも消えてしまいそうな声。でも確かに聞こえた。懐かしい、声を。

「ダメですよ、先輩。そんな事しても、誰も救われません……」

「桜……!! おまえ……!」

 聖杯の膝元で横たわっていた少女の下へと駆け寄る。
 その目は薄く開き、微笑んでいる。
 心臓にその刃を突き立てられながら、それでも桜は生きていた。

「これでも……聖杯として機能していたんですから……そう簡単に、死ねませんでした」

 聖杯として機能するという事は、膨大な魔力の加護を受けるという事。聖杯が満ちずとも半ばまで機能しだしていたせいか、僅かばかり、桜の死期を遅らせていた。

 だがあくまでそれも死期を遅らせているだけ。桜の顔は蒼白で、零れ落ちていく血は止まらない。いずれその命が枯れ落ちてしまうのは、士郎の目から見ても明白だった。

「桜……」

「先輩……わたしはもう、助かりません。この死を、受け入れたんです。だから最後に、先輩の手助けを、させて下さい……」

 間桐桜の心臓が波打つ。

 凛はイリヤスフィールを聖杯として捧げたが、それもまた不完全だった。桜が生きていたのなら、その身に宿る英霊の魂の総量は桜が未だ勝る。故に桜は、強引に、力技で、イリヤスフィールの持つ魂を奪い取る。

「ぐっ……は、ぁ──っ!」

「桜……おい、しっかりしろ!」

 その重みは桜の身体では耐えられても、その心が耐え切れない。元より擦り切れたも同然だった心だ、そこに更に八つ分の英霊の魂が圧し掛かるなど、死ぬよりもなお残酷な仕打ちだ。

 皹の入った心は壊れる前に蓋をされ、今再び取り戻したその心は、今度こそ完全に破壊される。それでも桜は、砕け散った心を必死に掻き集めて、この一時限りの“奇跡”を行使する。

「先輩……姉さんのこと、お願いします……わたしを殺したと……思ってるから……」

「桜……もう喋るな! 今すぐ傷の手当を……」

「無理ですよ……そんなの無理だって、先輩も、分かってるでしょう……?」

 桜はその身が聖杯の魔力で修復される事を拒否している。身体の中で暴れる悪意にも蓋をして、零れ出るのを防いでいる。恐ろしいまでの精神力。間桐桜をそうまでして衝き動かすのは、一体なんであろうか。

「イリヤ……さんも、これで一先ずは助かりますから。後は……」

 震える指先が陣を描く。言葉は必要なく、理解もまた必要としない。それは聖杯を手にした者にだけ許される奇跡。

 陣は転移し士郎と凛、そしてイリヤスフィールを包み込む。
 それは空間と空間を繋ぐ輪。
 魔法にも等しい、失われた魔術。強制的な、空間転移──

「桜っ、さくらッ──!」

 衛宮士郎の伸ばした手はもう、届かない。桜がその手を取る事を良しとしない以上、二人の道は二度とは交わらない。
 士郎はイリヤスフィールを選び、正義の味方を貫くと決めたから。ただ一人の少女の為に生きる事を、選ぶ事が出来なかったから──

「さくらぁぁああああああ……!」

 正義の味方は何をも掴めずに慟哭の悲鳴を叫びながら、その最後に──犠牲とした(すくえなかった)少女の笑みを見て、大空洞よりその姿を消した。

×


 大空洞の中心、大聖杯の上で、桜は仰向けに横たわる。

 響く音は咆哮。産声のような咆哮だ。今にも産まれ出たいと願い欲する悪意のあげる、純粋な産声。

 だがそれを桜は許さない。己が胎を食い破り、今にも出てきそうな悪意を必死に食い止めて、最後の力を振り絞り、己が頭上──大空洞の天頂目掛けて精一杯の魔力を放つ。

 震動する地底。桜の放った魔力は弾け、頭上の岩盤を突き崩す。間もなく、降り注ぐ巨大な岩の雨に、桜の身は飲み込まれてしまうだろう。

「ねえ、せんぱい……」

 終わり行く時の中、自らの死地と定めたその場所で、桜はうわ言のように呟いた。

「わたし、先輩の役に立てたかなぁ……先輩の大切なもの、守れたかなぁ……」

 震える大空洞。終焉の時は近い。

「せんぱい、わたし、今でも死ぬのが怖いんです。本当は、死にたくなんかないんです。でも、何かを犠牲にして生きていくのは、もう、わたしには辛すぎます……」

 だからその死を受け入れた。この身が動くのなら今すぐにでも逃げ出したい衝動が胸の内にある。カウントダウンのように鳴動する岩盤が、いつ降ってくるかと怖くて怖くて堪らない。

 それでも桜はこの地を死地と定めた。大好きだったあの人が、壊れず生きていくには、自分を犠牲にするしかないのだから。

「ちがう……そんなの、いいわけだ……」

 もう生きる事を諦めてしまったから。あの昏い蟲倉の底で呻き続けて来たように、この時になっても、助けての一言が言えない自分が嫌いだったから。

 もし生まれ変われるのなら──その時は、きっともっと明るい自分に……

「わたしは、たとえ生まれ変わっても、先輩の、後輩で、いたいんです……」

 朝早くに屋敷に向かい、朝食の準備をして、土蔵で鍛錬のし過ぎでクタクタな先輩の寝顔を堪能してから、そっと声をかけるのだ。

『朝ですよ、先輩。起きてください──』

 響く崩落の音。
 迫る死の足音。

 その中で──そんな幸せな日々の名残が、もう何も見えていない桜の瞳に映る。

 ああ、そうだ。
 こんなところで寝ている場合じゃない。
 さっさと起きて、先輩の家に向かわないと──

「……でも先輩。とても……ねむいんです。
 ちょっとだけ、わたしも横になって……いい……です、か……」

 間桐桜は、最後に夢を見た。
 衛宮士郎の隣でまどろむ、夢を見た――













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