烙印を継ぐ者達 Act.01 それは、月の明るい夜だった。 男は縁側に腰掛け、ぼんやりと空を仰ぎ、少年はその隣で同じく月明かりを遠く眺めている。少女は男の背に寄り掛かりながら、風の音を聴いていた。 「子供の頃、僕は正義の味方に憧れてた」 独白のような男の呟き。自らの命を助けられた少年にとって、男はずっとヒーローだ。だから、まるで過去の事のように言った言葉が許せなくて、ムキになって反論した。 「なんだよそれ。憧れてたって、諦めたのかよ」 「うん、残念ながらね。ヒーローは期間限定で……オトナになると名乗るのが難しくなるんだ。そんなコト、もっと早くに気が付けば良かった」 もし気付けていたら、あんな悲劇は起こらなかったかもしれない。子供の頃の夢想を抱えたまま、大人になる事の傍迷惑さは、誰よりも男が身に沁みて知っていたから。正義の味方なんて、何処にもいないのだから。 こんな事を少年に告げたところで罪は清算される事はなく、また男自身の心とも何の折り合いもつけられないと分かっている。それでも何故か、言わなければならない気がした。そう思った。 この世の平和を願いながら、その実地獄へと塗り替える寸前だった男を、まるで御伽噺の主人公でも見ているかのような少年に、言っておかなければならないと。その夢は、持ち続けてはいけない歪なものなのだと。 「そっか。それじゃしょうがないな」 「そうだね。本当に、しょうがない」 少し落胆した様子の少年の言葉に返すものは、男の心からの本心だ。 あって欲しいと願っていた。存在して欲しいと祈っていた。でも夢は所詮夢であり、夢幻の如く掴めない。 それでも無様にその夢物語を信じ続ける事は、余りに難しく、そして切なく。故に愚かしい。 だからこれで、少年が男の背に見ているものを諦めてくれると思った矢先── 「うん、しょうがないから──」 だと言うのに少年は、 「──俺が代わりになってやるよ」 輝かしい笑顔で、そう、言ったのだ。 「────」 空を仰いでいた男は視線を隣の少年へと落とす。満面の笑み。何をも疑う事を知らず、ただ純真無垢な心で、男の夢を引き継ぐと、そう言ったのだ。 男は内心で困惑する。こんな夢を、こんなにも愚かしく荒唐無稽なものを信じて欲しくなんかない。信じ続けて、誇り続けたその先に待つのは、断崖絶壁へと続く絶対の過酷に他ならないのだから。 故に告げなければならない。 それは駄目だと。 それは間違いなのだと。 そんな生き方を、君にして欲しくてこんな話をしたんじゃないのだと。 なのに── 「爺さんはオトナだからもう無理だけど、俺なら大丈夫だろ」 ああ、なのに…… 「まかせろって、爺さんの夢は、俺が──」 何故この己は、その言葉に安堵しているのだろうか。 男の人生に、明確に成し遂げたものなど何もなく。手に掴んだものも余りにも少ない。けれど、いやだからこそ、自分の志を継ぐと言ってくれた少年の想いが、何よりも美しく思えたのだ。 こんな無様に醜く生き足掻いているだけの男の でもだからこそ、告げねばならない。そんな無様を、少年に強要させるわけにはいかないから。父として、子にそんな過酷な道を望んではいけないと、思うから。心を鉄に変え、言葉を紡ぐ── 「だいじょうぶだよ」 間隙を縫うように、言葉は男の後ろから。大きなその背に寄り掛かって二人の会話をずって聞いていた少女は、歌うようにこう言った。 「シロウの傍には私がいるから。キリツグの思っているようなコトになんて、きっとさせないから」 「……イリヤ」 要領の得ない二人の会話に少年は小首を傾げるばかり。そんな少年に視線を傾けて、少女は謳う。 「ねえ、シロウ。シロウはどんな大人になりたいの?」 それはいつの日か、男自身が問いかけられた言葉。 「俺はさ、正義の味方になりたいんだ!」 迷いのない瞳。輝かしいまでの笑顔。その言葉に偽りなどある筈もなく、何処までもその 『ケリィはさ──』 それはいつかの記憶。もうずっと忘れていた筈の、原初の心。 『──どんな大人になりたいの?』 かつて自分も誓ったのだ。何気なく向けられたその問いかけに、今目の前に居る少年と同じく、誇らしく、胸を張って、謳い上げた筈だった。 ああ、だから少年のその言葉が、何よりも嬉しいのだ。 「そう、シロウは正義の味方になりたいの。んー、本当は私の味方が一番だけど、まあいっか。じゃあ私は、シロウの味方になるからね! でも私がピンチの時は、助けに来てくれると嬉しいな!」 「ああ、もちろんだ! イリヤがピンチになったら、絶対助けに行く!」 少年と少女の幼い約束。 男にはいなかった存在が、少年の傍らにはある。正義の味方を孤独で張り通すその過酷を知っているから、隣に誰かがいてくれる事の意味さえも、良く理解出来る。 正義の味方に味方してくれる存在。 少年は誇らしく胸を張り、その 少女はその隣で微笑を湛え、少年の ああ、ならばきっと、その道は困難なれど、過酷ではないかもしれない。 隣を歩く者がいる。 傍に寄り添う者がいる。 そのユメを、支え続けてくれる人があるのなら── 「そうか。ああ──安心した」 …… 今一度空を仰ぐ。 暗い夜空を明るく照らす蒼い月。 ああ、空が、星が、月が、こんなにも綺麗だと思ったのは、初めてかもしれない。 これで何が解決したわけでもない。男の罪は何一つ拭えず、罰は未だ続いている。しかし憑き物が一つ落ちた。自分では背負い切れなかったそれを、少年と少女は喜んで引き受けてくれた。 この夜の出来事を、彼らは後悔する日が来るかもしれない。こんなユメを見るべきじゃなかったと思う日が来るかもしれない。 それを咎める事はない。背負ったものを投げ出す事を誰も責めはしない。いつだってそうしていいと思うし、そうしてくれた方がきっと彼らにとっての幸いだと思う。 けれど男がそうしたように、少年と少女もまた、自らの意志でその夢を担ぐと決めたのなら。 きっと二人なら大丈夫だと、そう──信じている。 「なぁにキリツグ、ヘンなかお」 「おい爺さん。なんか死んじゃいそうなくらい、晴々とした顔してるぞ!?」 「はは、いや。死にはしないさ。二人はまだまだ子供だからね、二人がちゃんと自分の足で立てるようになるまでは、死んでも死にきれないさ」 それが贖い。理想に生きた非情の平和主義者は死に、ただ二人の子を見守る為だけに生き恥を晒す父が此処にある。 ……まだ生きる事が許されるのなら。この二人の為に、全てを使い果たそう。 少年達が生きる道行きを決めたように、男もまた決意を新たにする。 少年は男の理想を追う事を誓った。 少女は少年の傍にある事を誓った。 そして男は、理想を二人に託し、彼らの為に生きる事を誓った。 彼らの物語の一つの そして ──これはそんな、月の明るい夜の物語。 /1 「ん……」 微睡の淵より目を覚ます。機能を始めた嗅覚に薫るのは鉄錆の匂い。埃の匂い。そして──何処か甘い香り。 「やべ……またここで寝ちまったか」 意識の覚醒と共に少年は小窓より降り注ぐ陽光に目を細めた。少年が眠っていたのはおよそ睡眠に適しているとは思えない環境だった。 周囲をガラクタの山に囲まれ、ブルーシートを敷いただけの簡易の寝床に、しかも座ったまま眠っていたせいで身体のあちこちがギシギシと軋みをあげる。一つ伸びをし、身体を解してから、そこでようやく、自らに寄り掛かる柔らかな感触に気が付いた。 「ゲッ……イリヤ……」 すやすやと少年の肩に身体を預けて眠る銀髪の少女は擽ったそうに笑い、少年と一緒に被っていた毛布により深く包まった。 「本当、ここで寝るのは止めないとな。俺はいいけど、イリヤが風邪を引くのは何かと宜しくない。おい、イリヤ、起きろって」 ゆさゆさと少女の身体を揺すってみても、むにゃむにゃと漫画のような寝言を言うばかりで一向に起きようとしない。それでも少年は頑として譲らず、少女の身体を優しく揺り動かし続ける。 「おい、おいってば。風邪引くぞー」 「う、うーん。だいじょうぶ、シロウが暖めてくれるから」 「そんなわけないぞー。俺はもう起きて朝食作らないといけないからな。イリヤはここで一人ぼっちだ」 「……えー、やぁだぁー。シロウといるー」 「じゃあ早く目を覚ませって」 「うーん……シロウがキスしてくれたら起きる」 「…………」 「…………すぅ」 「いや、イリヤおまえ起きてるだろ。そんなはっきりした寝言があるか。取ってつけたような寝息立ててももう騙されないぞ」 「えへっ、バレた?」 ぱちっと目を開けた少女が微笑む。紅い瞳が朝からご機嫌な色を伝えていた。 「おはようシロウ。もう、お姉ちゃんがっかりだわ。一昔前のシロウなら今ので陥落出来たのに」 「おはようイリヤ。そりゃ同じ手段ばっかり何度も使ってれば、流石の俺でも耐性を覚えるよ。後、陥落した覚えはない」 ただちょっとドギマギしただけだとこっそり胸の内で呟いて、士郎と呼ばれた少年は立ち上がった。 「良し。それじゃあ朝食、作るか」 「私も手伝うわ」 二人は連れ立って外に出る。彼らがいた場所は庭先に作られた古めかしい土蔵だ。勿論二人にはちゃんとした自室が与えられているが、士郎が自分の部屋よりも土蔵を好むせいであの場所で寝起きする事が多い。 そして大抵の場合、夜半になっても自室に戻らない士郎を心配したイリヤスフィールが毛布を持って現れ、何を思ってかそのまま一緒に眠るというのが、ここ最近半ば日課になっていた。 「イリヤ。イリヤはあんな場所で寝起きする必要ないんだぞ。俺のせいでイリヤに迷惑掛けるのは、色々と申し訳ないんだ」 「何言ってるの。それは何回も言ってるでしょ。シロウがちゃんと自分の部屋で寝るなら私もそうするわ。 人の事をとやかく言う前にまず自分の事をしっかりしなさい。でないとお姉ちゃんはシロウが心配で夜も眠れないんだから」 「……いや、ぐっすり寝てるだろ」 「それはシロウと一緒だからだよっ」 ぴょん、と跳ねてイリヤスフィールは士郎の腕にぶら下がる。身体を鍛えている士郎にとっては、同年代から見ても小柄なイリヤスフィール一人を腕力だけで支えるのは大して難しい事でもない。 ……お姉ちゃん、ね。 士郎もそれほど身長の高い方ではないが、イリヤスフィールはそれにましてなお低い。だというのに、彼女は士郎の姉である。日本人離れした風貌のイリヤスフィールと士郎には勿論血の繋がりなどない。そんなものなくとも、二人は確かに姉弟だった。 縁側から母屋へと上がり、台所のある居間へと向かうその途中── 「イリヤ、今日の朝食は何がいい?」 「…………」 「イリヤ?」 「お姉ちゃん」 「は?」 「今日から私の事はお姉ちゃんと呼びなさい」 士郎は内心、またかと溜め息を吐いた。 「なあ、その話はもういいだろ。十年前から何度となくふと思い出しように同じ話題が上るけど、こればっかりは俺も譲れない。イリヤはイリヤだ」 「もうっ、何でよ! タイガの事はフジネエって呼ぶくせに!」 「藤ねえは藤ねえだろ。藤村さん家のお姉さん……いや、まあ、アレをお姉さんと呼ぶのは些か気が引けるけど、藤ねえなら問題ない」 「じゃあ私もイリねえでいいわ!」 「え、いいの? イリヤは藤ねえと同列で本当にいいの?」 「……………………やっぱり、やめて」 何か色々と葛藤があるらしかった。 「まあともかく。俺にとってはイリヤはイリヤなんだ。藤ねえが藤ねえであるのと同じくらいに、イリヤはイリヤなんだよ。他の呼び方なんか……」 ……今更出来るか。 少年には少年の、少年らしい葛藤があった。無論の事、姉を気取りたい少女はそんな年頃の少年の心の内など一向に解してはくれないが。 「むぅ、もういいもん! その内絶対呼ばせて見せるんだからっ!」 息巻いて台所へと驀進して行く姉の背を、士郎は優しげな目で見ていた。 「……恥ずかしいんだよ、姉さん」 呟いて、顔を真っ赤に染め上げながら、何とか気取られないように台所へと足を向けた。 「はい、それじゃあ今日もイリヤスフィールとシロウの三分クッキングを始めます!」 「どう考えても三分じゃ朝食出来ないから。いや、手を抜けば出来るけど」 「早い! 安い! 美味い!」 「ここは牛丼屋のチェーン店じゃないからな」 「……最近シロウのノリが悪い気がするわ。突っ込みもなんだか冷たいし」 「俺は元々そういうキャラじゃないしなぁ。そういうのは藤ねえか、でなきゃ遠坂辺りとやるといいんじゃないか?」 遠坂、と名前が出た途端、イリヤスフィールは露骨に顔を顰めた。 「前から訊きたかったんだけど、イリヤはなんで遠坂と仲が悪いんだ?」 士郎自身もそれほど仲がいいわけでもない。昔ちょっとした事情で知り合い、今ではどちらかと言えば妹の方とより親密だろう。 姉の方は士郎を目の敵にしているというか、学園優等生の仮面を脱いで立ちはだかってくるからおいそれとは近づけないのだ。 「私、猫って好きじゃないの」 「ああ……」 遠坂凛は猫を被っている。それも相当に分厚い猫の皮だ。 誰に対しても公平な優等生。更には美人。それだけ聞けば聞こえは良いが、本性を知っている彼らにしてみれば何とも言えない顔で視線を逸らす他ない。無論、そんな事は口が裂けても本人には言えないが。 「はぁ、朝からあんなのの事が話題に上るなんて……がっかりだわ」 「あんなの……しかもがっかりって……」 「え、何? まさかシロウはリンの事が好きなの?」 「えっ!? な、なんでさ……いや、そんな、そんなわけあるかっ!」 「そうよね。シロウにはイッセイがいるものね」 「一成!? なんでここでアイツが出て来るんだよ!?」 一成とは穂群原学園の生徒会長を務める士郎の友人、柳洞一成その人だ。眼鏡が似合う男前。 「三年の女子の間じゃもっぱらの噂よ? シロウとイッセイは出来てるって。いっつもいっつも一緒にいるし、お姉ちゃんほったらかしにして」 「いや、あれは生徒会の手伝いで備品の調子を見てるだけじゃないか……ていうか、アイツ男だろ。なんで俺と一成が噂になるんだよ……」 「最近の女の子はそういうの好きなんだって。ほら、男の子だって女の子のそういうの、嫌いじゃないでしょ? 例えば、リンとサクラとか……」 「え……」 「あーーーっ! 今想像したでしょ!?」 「い、いや、してない、してないぞ。俺は健全な男の子だ。そんな破廉恥な夢は見ない」 「破廉恥って……シロウも語彙が古いわね」 「ああ、もう、そうじゃなくて! 俺はちゃんと女の子が好きなんだ!」 「えへへ、そうよねー。シロウはお姉ちゃんが大好きなんだもんねー」 「……結局、そこに着陸したいが為の誘導尋問ですか……」 腕に抱きついてくる姉の頭をぐりぐりと無造作に撫で、それから話題を打ち切るように袖を捲くった。 「ほら、そろそろちゃんと朝飯作るぞ。変な話題で時間取られちまった。三分なんかとっくに過ぎたぞ」 「あれは、実際に三分で作ってるわけじゃないもの。作り方を三分間で披露するって番組なの。だから今だってほら、レンジを開ければ出来たての朝食が!」 「ない。ないから。そんな仕込みはしてないから。ちなみに俺達レシピの紹介もしてないからな。ほらほら、ちゃんとやるぞ」 「ぶぅ、もういいもん。それじゃあシロウ、いつもの、やってみて」 「ああ」 呼吸を刻み、思考の全てを裏返す。先程のまでの温かな空気を全て吐き出し、胸を占めるのは何処までも冷たい朝の気配。 虚空に掲げた右腕に全神経を集中し、されど同時に裏返った肉体の全てを把握する。 「 言葉は呪文。魔術を紡ぐ確かな歌声。己だけに許された奇跡を此処に形作る。身体の内で弾け、イメージした想像を創造と成す。 数瞬後、士郎の右手には、何の事はない普通の包丁が握られていた。 「うん、ばっちりね」 「ああ。もうこの程度じゃ間誤付かないよ」 士郎はくるりと手の中で包丁を回転して見せた。 衛宮士郎は魔術師だ。しかしその力は未だ見習いの域を出ない。養父である衛宮切嗣に師事はしたが、当の本人が魔術を教える気があるのかないのか良く分からない態度を貫いているせいでもあるが、士郎自身に最たる才能がないのも原因の一つである。 だから士郎はこれまで実践した魔術の中で自身に一番かっちりと嵌った投影魔術──その真価を見定めたのはイリヤスフィールだが──を、出来うる限り日常生活で使用し、修行の一環としていた。 「 投影した包丁で野菜を切りながら呟く。 「無理よ。キリツグはシロウに魔術なんて覚えて欲しくないと思ってるんだから。士郎自身に才能がないのは分かってるから、いつか諦めてくれると思ってると思うんだけど」 イリヤスフィールは食パンをトースターにセットしながら言った。 「はっきり言うのな、イリヤ」 「こんな事偽ったって何の得にもならないでしょ。私だってそこまで魔術の造詣に詳しいわけじゃないし、本格的に師事したかったら別の魔術師に教えを請わないとダメよ。だけどね──」 「ああ。俺のこの魔術は、誰にも見せるなって言うんだろ」 士郎の投影魔術は投影魔術でありながら本来のそれとは一線を画す。もしその事実を神秘を追求する魔術師に見破られれば、見習いでしかない士郎などあっと言う間に捕縛され、実験の恰好の材料にされるのがオチだ。 士郎がその奇異な魔術の使い手であると知るのはイリヤスフィールと切嗣のみ。唯一ものを教えられる人間である養父は、士郎のその特化した素質を知ってなお手を貸す事はしなかった。 「まあ、切嗣には切嗣なりの考えがあるんだろ。俺は俺に出来る事を続けるだけさ」 「そうそう、それでいいのよ。私も出来る限りサポートするし。焦ったってロクな事にならないわ。 それに、本格的な魔術教練なんて始めると、あの守銭奴が息巻いて乗り込んでくるに違いないもの」 「ああ……」 この冬木の地を預かるセカンドオーナーは彼の遠坂姉妹だ。随分前に切嗣が魔術師だったという事がバレて、余所の土地に住む対価を要求されたが、その時既に切嗣は魔術師としての研究の一切を止めており、『かつて魔術師であった男』に過ぎなかった。 屋敷の中も随分熱心に検められたが、魔術師の拠点としてはあるまじき解放的な造りの屋敷と、研究を行う工房すら存在しないと分かった凛は大いに落胆し、すごすごと帰っていった。 一応、波風を立たせない為に、魔術師が他の魔術師の管理する土地に住む対価として、僅かな金銭を形だけは納めているが、それも本来彼女達に入る筈だった額を思えば余りにも少ないものだ。 そしてそんな出会いこそが士郎達と彼女らのファーストコンタクトなのだから、向こうがこちらを敵視するのも分からないでもない話だった。 「それにほら、 「無理……だろうな。戦いに集中しながら自分の使う魔術を相手に合わせて変えていくなんて、とてもじゃないが無理だ」 「でしょ。その点シロウみたいな一点突破型はいいわ。応用は利かないけど、やる事が限られている分その中から最善の選択を選べばいいだけだもの。 まあ相手を選ぶし相性の問題とかもあるけど、嵌れば格上の敵にも勝てるようになるんじゃないかな」 「……なんかその言い方だと、俺が戦うみたいに聞こえるんだけど」 「例えばの話よ。シロウだって、わざわざ誰かと争いたくなんかないでしょ」 「ああ。波風なんか立たない方がいい。平穏が一番だ。けど、どうしても戦う必要があったら、戦わなければならない理由が出来たら──」 士郎の腕に僅かな力が篭る。イリヤスフィールは、士郎には見えない角度で儚げに微笑んだ。 「まあ、そんな事にはならないわ。ほら、もうすぐトーストが出来──」 チン、と音を立ててトースターから飛び出た食パンは、消し炭の如く真っ黒だった。 「なんでよーっ!?」 「相変わらずイリヤのトーストは黒こげだな。きっかり時間合わせて焼いてる筈なのに」 永遠の謎だった。 朝から騒がしくも台所を賑わわせた二人は、何とか朝食を形にし、出来上がったそれらを居間のテーブルの上に並べているその途中──この屋敷に住むもう一人の人物が顔を覗かせた。 「あ、おはようキリツグ」 「ああ、おはよう。相変わらず二人は朝が早いね」 無精髭を伸ばし放題にした壮年の男──衛宮切嗣。この家の主にして彼らの父。血縁関係にあるのはイリヤスフィールの方で、士郎とは養子養父の関係だが、十年も一緒に暮らしていれば、そんな事は今更も今更な事だった。 「士郎もおはよう。毎日すまないね」 「ああ、おはよう。その言い方、何だか親父臭いぞ」 「違うわシロウ! そこは『それは言わない約束だよ、おとっつぁん』でしょう!」 「イリヤは時代劇に毒されすぎだ……」 切嗣は乾いた笑みを浮かべる。その風貌からは、かつての彼の姿を誰も想像出来る筈もなかった。 「あれ、今日は大河ちゃんはまだなのかい?」 テーブルに全て並べ終え、三人が席についたところで切嗣はそんな事を言った。四角形のテーブルの空いた一角には、もう一人分の朝食が用意されている。それも山盛りで。 「ああ。そろそろ──来たか」 士郎が言いかけたところで襖の向こう、玄関口から扉を思い切り開ける派手な音がし、地響きを鳴らしながら、その人物は現れた。 「やぁ、おっはよーう! 元気? 元気!? 私はとても元気だよーっ!」 「いいから早く座りなさいタイガ」 「あぁー!? イリヤちゃんが朝から冷たいわ! ねえ士郎どうして!? はっ、まさか士郎、私がいないのを良い事にイリヤちゃんにあんな事やそんな事を……!?」 「藤ねえのテンションに誰もついていけないからだよ……」 士郎は疲れた溜め息を吐いた。 「おはよう大河ちゃん。今日も朝から元気がいいね」 「あはー、おはようございます切嗣さん。はい、私は元気だけが取り柄ですから!」 「タイガから元気を取ったら髪の毛一本残らないものね」 「それは言いすぎだイリヤ。虎は多分残るだろう」 「何!? なにこの姉弟!? 二人掛かりで私をいじめ!? もう、全く切嗣さんったらどういう教育をしてるんですか? こうなったら私が押しかけ女房として……」 「どさくさに紛れて自分の願望を吐き出さないの。それからもう押しかけてるからどの道変わらないわ。それに罷り間違ってもタイガを継母だなんて呼ばないわ」 「それには同感だ。藤ねえが母親になんてなったら切嗣が過労死しそうだ」 「きりつぐさぁーん。貴方の息子と娘が苛めます!」 「はは。二人は大河ちゃんがいてくれて嬉しいんだよ。ほら、良く言うじゃないか。愛情の裏返しってヤツさ」 「そうなんですか? よし、分かりました! じゃあお姉ちゃん、今日も張り切っていただきまーす!」 「……せめて台詞は最後まで言ってくれよ藤ねえ」 朝から騒がしい食卓だった。 十年前に全てを失った男と、その実子にしてけれど衛宮ではないイリヤスフィール、衛宮ではあれど養子である士郎、そして底抜けに明るいムードメーカーの藤村大河。奇妙な関係の四人は、こうしていつも通りに回り続けている。 「はぁ、やっぱり士郎の御飯美味しいわねー」 トーストを三枚纏めて噛み千切りながら程よい色合いに焼けた卵焼きを口にし、目じりを下げる大河。 「それ私が作った卵焼きだよ」 「ぶふぉ……!?」 「ちょ、タイガ! きたなーい! しかも何、私が作っちゃいけないわけ!?」 「いや、あのね、イリヤちゃんの卵焼きには苦い思い出が……そう、口の中まで真っ黒になるくらい苦い思い出があるのよ。 え、でも、これホントにイリヤちゃんが作ったの? 士郎が作るのと変わらないくらいふっくら甘くて美味しいんだけど」 「ああ。イリヤが綺麗に掻き混ぜてくれたからな」 「…………」 大河はイリヤをじと目で見た。 「……何よ」 「べーつにぃ」 「何よ! タイガだって料理出来ないくせに!」 「わたしは出来ますぅー、しないだけですぅー」 士郎は料理という形は作れてもそれが本当に料理と呼べる代物なのか、あるいはオリジナル創作料理に発展する大河のそれが料理が出来ると胸を張って言い切れるものなのかと一瞬口にしようとしたが、藪を突くまいとサラダを頬張った。 「むぅ。でも毎日毎日食べてるだけじゃない。手伝わないタイガに価値なんてないわ」 「ああ、それは言えてる。毎朝毎夕手伝ってくれるイリヤに比べれば、食費も入れない藤ねえはただの穀潰しだな」 「き、切嗣さん……!」 ヘルプミーと助けを唯一人傍観していた切嗣に求める大河だったが、 「いやぁ、この味噌汁美味しいねえ」 「切嗣さん!? それコーンスープです! まだ耄碌するには早いですよ!? っていうかそれただの現実逃避ですよねぃ!?」 衛宮家にあっては藤村大河は孤立無援の崖っぷちであった。 「まあ、大河ちゃんはいてくれるだけで食卓が賑やかになるんだ、二人もそう苛めるもんじゃないよ」 「別に苛めてないわ。ただ事実を口にしているだけよ」 「くぅ……この悪魔っ子め……! そんな現実が私のガラスのハートをより傷つけると知ってなお口にするなんて……」 「そんな心、砕けてしまえばいいのに」 「ねえ士郎……私、この子に口喧嘩で勝てる気がしないわ……」 「いい加減悟ってくれよ藤ねえ。毎日連戦連敗なんだからさ」 よよよ、と泣き崩れる真似をする大河と朝の日課が終わったとばかりに満足気に食事に臨むイリヤスフィール。その間にいる士郎としては、溜め息を禁じえない。 それでも騒がしいのは嫌いではない。むしろ今更この光景が、朝のこの風景が失われる事など考えられる筈もなかった。 「ごちそーさま! 士郎今日も美味しかったわ! イリヤちゃんも、不本意ながら感謝を述べて進ぜよう!」 逸早く食べ終えた大河は荷物を抱えてそのまま廊下へと大股で歩いていく。 「じゃあ行って来るねー。士郎も朝錬、遅れるんじゃないわよー」 「ああ。ちゃんと行くから」 「大河ちゃんも、車には気をつけるんだよ」 「もうー、切嗣さんてば私そんな子供じゃないですよぅー」 「そうね。タイガと正面衝突するのなら車の方を心配してあげないと」 「私だってそこまで頑丈じゃないわよ! あーもう、時間やばい、じゃそういう事でー」 来た時以上のスピードで藤村大河は去っていった。そして彼女が去った事で、衛宮家の食卓には静けさが戻ってきた。 「いやはや、本当、あの子は台風みたいだね」 「もうあの子って歳でもないけどな」 今年で二十五を迎える女性に対して使う言葉ではないのは確かだ。その年齢と内面の差についてはさて置くとしても。 「ま、騒がしいのは嫌いじゃない。朝飯くらいはゆっくり食べたい気もするけどな」 実際、穂群原学園の教師である大河の朝はいつも早い。今週などテストの採点や朝錬の監督もありいつも以上に早いくらいだ。 だというのにあれだけイリヤスフィールとやり合いその隙に二人前はある朝食を平らげているのだから、最早人間業ですらないのだろう。 ともかく、あれで忙しい身の上の人物であるのだから、大河が去った後、彼らがのんびりと食事をする時間くらいはあるのだ。 大河がいなければ食事中は然したる会話も生まれない。切嗣は新聞片手に行儀も悪く食べているし、イリヤスフィールは大河がいなければそこまで絡みつかない。士郎にしても、元より喋るタチの人間ではないので、食卓は静けさに保たれている。 切嗣が新聞を捲る音や、食器が鳴らす音、そして朝のニュース番組を垂れ流すテレビの声だけが木霊する。 「……ん?」 「どうかしたのシロウ」 「ん、いや、テレビで……」 ついっと視線を投げた先、ブラウン管のテレビの中でニュースキャスターが昨日遅くにあったとされる事件の模様を報道している。 曰く──昨夜未明、新都にあるビルのオフィスで昏睡事件があったらしい。原因については特定を急いでいるが、ガス漏れが原因ではないかと疑われている。 「物騒だな。バイト先の近くだ」 「ふぅん、ほんとね。シロウもあんまり危険な場所に近づいちゃダメよ」 「ああ、分かってるよ」 恙無く食事を終え、食器類も洗い流しておく。それから着替えを済ませて、二人は玄関に向かった。見送りの為に切嗣も同行する。 「それじゃあ行って来ます」 「ああ、気をつけて行っておいで」 「キリツグ、暇だからってゴロゴロしてちゃ、ぶくぶく太っちゃうんだからね。そんなキリツグは大嫌いよ」 「はは、気をつけるよ。ああ、それと忘れてた。イリヤ、帰ってきたら……いや、夕食の後に少し話があるからね。今後の事とか」 「ええ、分かったわ。それじゃ行ってきまーす」 そうしてようやく、二人は屋敷を後にした。 「うわぁー、寒ぃー」 小柄な身体を掻き抱きながら震えるイリヤスフィール。温暖な気候下にある冬木であっても、早朝であれば相当に冷え込むのは仕方のない事であった。 「さむいさむいさむいさむいー。寒いからシロウ暖めてー」 腕に抱きついてくるイリヤスフィールに為すがままにされる士郎。こんな事でうろたえていては彼の身体は一日も持たない。 「寒いならイリヤ、もう少し後の時間に出ればいいだろ。俺とは違って朝練ないんだし」 「やだ。シロウと一緒に登校するのは私の日課なの。それともシロウはお姉ちゃんが鬱陶しいってそういうの? 一人寂しく学校行けっていうの? お姉ちゃんなんていなくなればいいって言うの!?」 「いや……そんな事はないけど。ていうか、情緒不安定な人を装うなよ。はいはい、俺もイリヤがいてくれて嬉しいよ」 「だよねー。シロウはお姉ちゃん思いの良い子だもんね。えへへー」 士郎は若干の皮肉を込めて言ったつもりだったが、ポジティヴシンキングな姉にはそんな小さな仕返しは全く効果などなかった。 「ああ……そういえば、イリヤも今年で卒業なんだよな」 「ん? どうしたの突然」 「いや、さっき切嗣が言ってたろ。今後の話とか、何とか」 「ああ、あれね」 イリヤスフィールの士郎の腕に抱きつく力が少し弱くなった。士郎はそんな事には気付かない。 「イリヤはどうするんだ? 進学するのか?」 「んー、多分しないよ」 「え? じゃあまさか就職?」 「そうね。ある意味就職ね。だってお姉ちゃんはシロウのお嫁さんになるんだから!」 「…………」 「え、シロウなにその目。ついでに何かリアクション返してくれないとちょっと恥ずかしいじゃない」 「いや、その、反応に困るというか……どう返していいものかと……」 「ほほぅ、それは満更でもないという事かねシロウくん。普通なら俺達姉弟だろ、とか、笑い飛ばすとかする場面だけれど。 そっかそっかー。シロウも満更じゃないんだねー。じゃあ私も真剣に考えておくねー」 「いや、イリヤ、そんな……はぁ、まあ、いっか」 笑顔を綻ばせる姉を見て、士郎はそれ以上何も言えなくなった。この手の話題は随分前から頻出しているので、なおの事リアクションに困ったわけだが、本人が喜んでいるのならいいかと士郎は口を噤んだ。 「でもねシロウ」 そう呟くイリヤスフィールの声質は、少しばかり固かった。 「そんな幸せな夢は、きっと見る事が出来ないんだよ。ううん、夢見ていられるのは、きっと今だけだから」 「イリヤ……?」 その儚げな声には、胸を掻き毟られる何かがあった。 「なーんてね。でもシロウ、私もシロウもいつまでもこのままじゃいられないっていうのは本当だよ。変わらないものなんてないの。終わらないものなんてないの。だから、シロウは私の手を離さないでね」 握りを強くする小さな掌。暖かいその掌を、士郎は握り返す。 「ああ……離すもんか。イリヤが自分の意思で離れていくのなら仕方ないけど、もし誰かに連れて行かれるような事があったら、絶対に取り戻すよ」 「え、なに、私ってそんなに誘拐されそう?」 「ああ。下手したら学年どころか学校自体が一つ二つ下に見られかねないからな。さぞかし誘拐しやすそうだ」 「むぅぅぅぅぅ、シロウー! あ、こら、ちょっと待ちなさいってばー!」 奇妙な絆で結ばれた姉弟が坂道を駆け上がる。朝の冷たい空気を吹き飛ばす、笑い声が木霊した。 静謐な空間に、弓の撓る音だけが反響する。 穂群原学園弓道場。朝錬の為に赴いた士郎と、付き添いとしてほとんど毎日顔を出すイリヤスフィールは部員への挨拶もそこそこに練習に向かった。 士郎は弓道着に着替え射場へ。イリヤスフィールは練習をする彼らの邪魔にならない場所に作られた座間で弟の勇姿を見やり悦に入るのが日課だった。 士郎は淡々と練習をこなす。弓道に定められた手順を一つずつ確実に、一切の逡巡や迷いなく行い、最後に、弓を引き矢を絞り、弦を離して的を穿つ。都合十の矢は放たれ、その全てが的の中心へと吸い込まれて突き刺さった。 「ああー、今日も負けかー」 そう声を上げたのは部長である美綴綾子だ。士郎の射は人として有り得ない域の完成度を誇っている。 そしてそんな男に敵愾心を燃やす綾子はこれまでの二年間、何度となく士郎に挑みその全てに敗れてきた。今日もまた、綾子の心の戦績表に黒星が一つ増える結果に終わった。 「いや、でも今日のは危なかったな。後一本中てられてたら引き分けだったじゃないか」 「おいおい、冗談は止めてくれよ。中っただけのあたしの矢と、全部中心に中ててる衛宮の矢じゃ、どっちが上かなんて比べなくとも分かるだろ」 的に中てるだけならば綾子も相当な腕を持つ。ただし、その全てを中心に突き刺すなどという芸当は、およそ人間に許されている業ではない。 「アンタさ、どんだけ集中すりゃそんな真似出来るんだ? 緊張とか、外すかもとか、思ったりしないの?」 「いや、だって、矢は中るもんだろ」 「はいはい、そりゃもう聞き飽きたよ」 士郎と綾子の間に横たわる認識の齟齬。綾子が矢の角度や力加減、風の向きや強さを考慮して中てる為の射を行うのに対し、士郎も無論それらの工程は行うが、その先、矢を中てるのではなく矢が中るイメージで放つという。 つまり士郎は中ると分かっていながら矢を離すのに対し、綾子は中てる為に矢を放つ。その差は凡人には理解し難く、そして士郎自身も明確には理解出来てなどいないだろう。けれど結局それが二人の差であるのは、間違いのない事だった。 「卒業するまでの間に、あたしはアンタに勝てるのかね」 「そりゃ勝てるだろ。俺だって全部が全部中るわけじゃないよ」 「はっ、言うね。たった一回しか外した事ないくせに。それも外れるイメージが最初からあったんだろ?」 「ああ。だからそういうイメージが重なれば、俺だって勝てないさ」 「……あー、この男、嫌味でも何でもなくこんな戯けた事言いやがるから、こっちとしてもやりにくいんだよねぇ。まあいいや、じゃあ今日はこれまでっと」 「ん? 何処か行くのか?」 「敗者はただ去るのみってね。アンタはもう少し射っていきなよ。今日も放課後、寺の坊主の手伝いあるんだろ」 「ああ、悪いな」 「いいって事。なにせ生徒会長様直々の御指名じゃ無碍にも出来ないってね。それに、アンタが辞めずにいてくれる分には、まああんまり好きじゃないんだけど、多少の事には目を瞑るさ。 だってねえ衛宮、アンタ、中ると分かってて射るなんて──退屈だろ?」 それだけを言い残し、綾子は弓道着のまま射場の外へと出て行った。 「退屈、か……」 それは結果の見えているゲームのようなもの。弓道の本質は礼節を重んじ自己を高める事であるが、それとは別に的に中てた時の喜びというのは確かに存在する。 もし士郎のように最初から中ると分かっているのなら、その後に訪れる感慨などないにも等しい。 道の本質は学べても、誰かと共に喜びを分かつ事は出来ない。いや、士郎はその道を学ぶ事すら自分には相応しくないと思っている。弓を執る理由が、他の部員と決定的に違うが為に。 全てが自己の内で完結する寂寥感。これまで射抜き続けてきた的の中心に、ぽっかりと穴が開いているよう。その穴の先には何があるのか…… 「…………」 雑念を振り払うが如く集中する。針の穴でもまだ大きい。針の先端に突き刺すほどの精密さを、収斂を。心は何処までも無に。ただこの瞬間──己さえも弓の一部に変えて、乾坤一擲に矢を離す。 風を切り、大気を裂いた矢は先程よりもなお中心に、真円の点を貫いた。 「先輩、お疲れ様です」 一切の音を遮断していた士郎の耳元に、そんな柔らかな音色が響き渡る。 「ん、桜か」 「はい先輩。このタオル使ってください」 「ああ、悪いな。ありがとう」 思いの他汗を掻いていた自分に驚いて、士郎は手渡されたタオルで拭う。 「あれ、そういえば、何時の間に来てたんだ?」 「ちょっと前ですよ。先輩、すごく集中してたみたいだったので気が付かなかったみたいですね」 「そっか」 遠坂桜。弓道部の一年生。士郎の後輩だ。つい先日、数日の間休部するという届出があった事を士郎も知っていた。 「桜がいるって事は……」 視線を周囲に投げて、イリヤスフィールがいる座間にその姿を見咎めた。学園きっての優等生にして黒髪の美少女、遠坂凛。桜の姉だ。 「あれ、先輩。姉さんが気になるんですか?」 「いや、そんな事はないけど……」 「先輩、隠さなくったっていいんですよ? わたし、全然気にしませんから。ええ、それはもう、この上なく全然」 「……全く気にしてない感じがしないんだが。ああ、まああれだけ美人な姉がいれば、それを余所の男に取られるってのも我慢ならない事か。うん、それはちょっと分かるかもしれない」 士郎自身、もしイリヤスフィールがどこぞの素性も知れない男に引っ掛かりでもすれば心中穏やかではないだろう。いや、士郎よりも先に切嗣が暴れだしそうだが。 「はあ……やっぱり先輩には乙女心なんて分からないんですね」 「そりゃ俺は男だからな。桜だって、男心は分からないだろ?」 「いえいえ、ちゃんと分かりますよ? ほら先輩、ちゃんと汗を拭かないと」 士郎の腕の中からタオルを素早く奪い取った桜は必要以上に身を寄せて士郎の汗を拭う。 「いや、桜、ちかっ、あたっ、当たってる!?」 「え、先輩、何がですか? わたしの、何が、先輩に当たってるんですか? はっきり言ってくれないと分かりませんよ? あ、そうだ、じゃあ次はこのドリンクを飲ませてあげますね。あれ、でもストローがないですね、仕方がありません、ここはわたしの口移しで──」 「こらーーーーーーっ! サクラ、私のシロウに何してるの!?」 妖しげな雰囲気を強引に作りかけていた桜の元へとイリヤスフィールが介入し、事無きを得る。何のかんのと言い争う二人を尻目に士郎はそそくさと離脱した。 「大変ね衛宮くん」 そのまま更衣室に入ろうとしたところで、件の優等生に声を掛けられた。 「本当だよ。おまえの妹、ちょっと積極的過ぎやしないか」 「まあ対抗馬がイリヤスフィールじゃそれくらいしないと。でもね衛宮くん? ウチの妹に手ぇ出したらただじゃおかないわよ?」 「…………」 有無を言わせぬ圧力を背後から掛けられ、士郎は人知れず溜め息をついた。 「はあ……俺の周りには普通の女の子っていないのかな……」 贅沢な悩みだった。 /2 士郎達が学園で騒がしく過ごしているその頃、一人屋敷に残っている切嗣は、いつもなら閑暇な午前を過ごすのだが、今は一つの思索と共に自室にて古めかしい箪笥の中を漁っていた。 「まさか今更、これを着る事になるなんてな……」 普段は開けない箪笥の、更に奥まった場所に仕舞われていた一枚のコート。着古されてみすぼらしく褪せたそのコートからは、忘れもしない匂いが薫る。 血と硝煙。 衛宮切嗣が生き抜いた激烈な時代に、常に付き纏っていた匂い。それは戦場を行き交う弾丸の匂いであり、身も知らぬ誰かの頭が吹き飛ばされ、一帯にばら撒かれる血と脳漿の薫りだ。 そして切嗣は、率先してその戦場を駆け抜けて来た。自らの手にする黒鉄の銃から硝煙を吐き出し、放った弾丸が血を撒き散らし、その血を褪せるほどに浴びてきた。 そんなものは既に過去だ。過去だと、思っていた。十年前、全てを失う事で、全てが終わったものだと、そう思っていたのに。 『聖杯戦争が再び始まろうとしている』 その事実について認識したのは、ほんの数日前の事だ。一線を退き、魔術協会や独自の交友網をも完全に絶った切嗣は、その事実に気付く手段すらなかったのだ。己の娘──聖杯の血を継ぐイリヤスフィール・フォン・アインツベルンに告げられるまで。 迂闊だった。十年前、終局を見た第四次聖杯戦争の後、切嗣は五度目の戦を阻む為の仕掛けを施した。けれどそれはこれより二十年以上も先に起動する仕掛けだ。こんな早期に次なる闘争が行われるなど、およそ慮外だったのだから。 この開幕がユーブスタクハイトの采配によるものなのか、単に四度目の戦でこれまでと違う何かが起こったが故なのか……それすらも切嗣には分からない。 分かっているのはただ、またしてもあの聖杯がこの地に生まれようとしている事。衛宮切嗣の全てを裏切ったあの、黒い悪意が── 「させるものか……何としても、何をしても」 古びたコートに袖を通す。朝、士郎やイリヤスフィール達に見せた草臥れた壮年の男の面影は、ただそれだけの行為で消え去った。 十年前、自らの悲願を求めた男と同じ面貌が、今再び蘇る。 切嗣がその足で向かった先は、円蔵山に居を構える柳洞寺だ。この場所が全ての始まりの地だと知るのは、今ではもう極少数だ。 聖杯戦争の根幹を成したアインツベルンで十年余りを過ごした切嗣だからこそ知り得る情報。全ての大本である大聖杯。それを覆せば、戦いは起こらずに全てを無に帰す。 聖杯戦争が再び行われようとしている、と知った切嗣がまず真っ先に行った事が、聖杯を破壊し得るだけの手段の確保だ。 幸いにも、戦場を駆け抜けていた頃に稼いだ金銭は充分以上に残っている。親子三人で暮らす分には何の問題もなく、そして莫大な費用の掛かる兵器を買い付ける事も、また不可能ではない程に。 しかし十年のブランクはそう易々と埋まるものではない。かつての独自ルートも、それだけの期間があれば名を変え場所を変え、連絡の手段すらも変わっている。 切嗣が数日の時間を要し、何とか確保出来ただけの爆薬類では、およそ山一つ吹き飛ばすには到底足りる筈もない量だった。 けれど予め仕掛けておいた時限式の爆薬には、少なくとも十年分の魔力が貯蓄されている筈である。それを意図的に起爆し、今回の分も合わせれば、大聖杯の直上部分に位置する箇所くらいは、崩落される事が出来る筈だと踏んでいた。 ……それで本当に大聖杯が停止する保障は何処にもないが……。 何もしないよりはいい。傍観に徹しているだけでは、あの惨劇が繰り返されるだけなのだから。 理想を言えばサーヴァントを召喚し、令呪に訴えてでも宝具による一撃で薙ぎ払うのが最上だったが、生憎と切嗣の腕に令呪は宿っていない。聖杯に裏切られ、聖杯を裏切った切嗣に、参戦の証が刻まれる事など有り得なかった。 切嗣は柳洞寺へと登る事無く、脇道から林の中へと進入した。鬱蒼と生い茂る草木を掻き分けながら目的とした場所に一直線に向かう。 余人の目には何ら異変のない自然の風景に見えるよう細工された小川の一角。その場所こそが、大聖杯の安置されている龍洞に通じる道で── 「馬鹿な……」 ない。なかった。十年前、確かに存在した筈の道が、大聖杯へと通じる唯一つの道が、完全なまでに塞がれている。 大聖杯へと至れないのであれば、切嗣の持ち込んだ爆薬など何の意味も為さない。外側から中心部を吹き飛ばすには、この山は巨大に過ぎる。 十年前の仕掛けもまた、内側から仕込んだもの。起爆スイッチなど存在しない時限式の爆弾。外側からは、一切の手を加える事が出来ない。 「こんな真似が出来るのは──」 「はい。我々が行いました」 「っ!?」 瞬間、切嗣は弾かれるように横合いに跳んだ。それは元暗殺者としての反射的行動だったが、この距離まで接近を許し、気が付けなかった時点でその勘も錆付いていると認識するには充分だった。いつの間にか、風が止んでいた。 「衛宮切嗣様ですね」 梢の中に立ち尽くす白い女。奇妙な衣装を着た、落ち着いた風貌のその女の身なりに、切嗣は見覚えがあった。 「アインツベルン……ホムンクルスか」 「はい。私はセラと申します」 一切のずれのない完璧な角度で腰を折り、礼をする慇懃なホムンクルスに、切嗣は無意識に、念の為と持ち込んでいた小型拳銃に手を伸ばした。 「ご安心を、衛宮様。私には貴方を害する意思はありません。少なくとも、今はまだ」 「…………」 そんな言葉は微塵も信用しなかった切嗣だが、情報を得る事が最優先だと判断し、無手のままにセラと名乗ったホムンクルスと向き合った。 「これは一体どういう了見だ? おまえ達アインツベルンの独断による処置か」 「はい。外部の人間に儀式の根幹を知られた以上、それをそのままにしておく事は出来ません。よって、我々の手で大聖杯への道は塞がせて頂きました」 「それは御三家の取り決め違反だろう。大聖杯はおまえ達の私物ではない。アインツベルンとマキリ、そして遠坂の三家の共有物だ」 「それが何か?」 「何……?」 「今やその御三家もかつての形を維持しておりません。マキリは堕ち、遠坂は衰退した。確固として残るは我らアインツベルンのみ。ならば我々が、その管理の一手を担ったところで何の問題もないと思いますが。 それに、その言葉は貴方には相応しくありません。我らに忠言を申せるのは、少なくとも他の二家に連なる者だけです」 正論だった。かつてアインツベルンに招かれたとはいえ、切嗣は既に外部の人間だ。そんな人間が儀式の根幹に根ざす部分に異議を申し立てたところで、通る道理の話ではない。それこそ論外だろう。 「ならばおまえ達は、この戦いにこそ本気で望むという事か」 アインツベルンは四度目の戦にて外来の魔術師を立て、最強のセイバーを招来しようとしたが、その目論見は破れた。それでも聖杯に今一歩のところまで迫り、けれど直前でマスターの裏切りに遭った。 その過程で、他の二家も重大な被害を被っている。マキリは頭首であった間桐臓硯を討たれ、参加者であった雁夜も死んだ。遠坂もまた頭首を失い、その子らは何を思ってか二子に遺産を相続するという暴挙に出た。 痛みのないのはアインツベルンのみ。彼らが失ったのは外来の裏切り者のマスターと、手に掴み掛けた戦果だけなのだから。 「はい。我らが主は此度の戦を最後とする覚悟で臨んでおります。我らの招いたサーヴァントには、およそ敗北など有り得ません」 他家が……終わりを告げたマキリを別にしても、遠坂が今一度力を蓄えるその前に。この時に起きた戦、アインツベルンの為に設けられたこの絶対の好機に、彼のユーブスタクハイトは『最強』を超える『無敵』を以って五度目の闘争に臨む。 「衛宮様、私がこの場にてお待ちしておりましたのは、貴方に我らが主の言葉をお伝えする為です」 「何……? ユーブスタクハイトが僕に今更何の用があると……」 「今すぐこの地を去りなさい、衛宮切嗣。貴方にはもう、この儀式を止める手立てはありません」 「…………」 それはおよそ慮外の言葉だった。裏切り者の謗りでも受けるのかと思えば、まさか立ち去れなどと言われるとは切嗣は思ってもいなかった。 けれど切嗣の脳裏に白熱したのは、そんな馬鹿な忠告をするアインツベルン頭首への深い怒りだった。 「ふざけるな……おまえ達は十年前、一体何を見たんだ。あの聖杯は世界を犯す呪いでしかない。おまえ達はまた、あの惨劇を繰り返すというのか──!」 「惨劇などどうでも良いのです。我らが悲願は第三魔法の成就のみ。その為に世界が終わりを告げるというのなら、それもまた甘受すべき運命でしょう」 妄執。 それは最早呪いの域に到達した妄執だ。全てを擲ってでも、ありとあらゆるものを犠牲にしてでも、それこそ自らの命さえも厭わずに原初の悲願を遂行するという、崩れる事のない鋼鉄の意志。 それは願いという想いではない。祈りという尊いものですらない。それは世界を犯す呪いに通じる──悪夢のような狂気だ。 「狂っているな……何処までも。ああ……理解したよ。大聖杯は壊せない。令呪がなければ参戦すらも出来ない。だが僕には、まだ出来る事がある。やらなければならない事があるんだ」 それは十年の昔に置き去りにした覚悟。聖杯を破壊する事で遂げたつもりだった切嗣の罪の清算。正義という名の烙印を背負った、彼だけが贖うべき咎との因縁。 何一つ終わってはいなかった。これは未だ──十年前からの続きなのだ。 それを望んでいるのが聖杯なのか、他の誰かなのかは知りはしない。けれど衛宮切嗣には手に執るべきものがある。今なお置く事の許されないそれを、もう一度、その手に掴み取らなければならない。 「では衛宮様は、我らの忠告に耳を貸す気はないと、そういう事ですね」 「ああ。痛み入るが、糞喰らえだ。ユーブスタクハイトに伝えておけ。今度こそ、完膚なきまでに終わらせてやると」 「分かりました。けれど、貴方も相応の覚悟をなさいますよう。貴方が此度の戦場に身を置くのなら、必ずや後悔する事になるでしょう」 ──衛宮切嗣、おまえが覗くのは十年前の悪夢だ。身を以って知るがいい。その脆弱な心を、破壊し尽くされながら── 最後に、虚空より響いたのは、紛れもなくユーブスタクハイト本人の声だった。一瞬、そちらに気を取られている間に、セラと名乗ったホムンクルスの姿は掻き消えていた。ざわめきが戻って来る。 「甘く見るなよアインツベルン。その程度で止まる覚悟ならば、元よりこんな場所まで来るものか」 理想を捨てた男が、無様にも生にしがみつく理由。その理由を守り通す為だけに、かつての暗殺者は今なお生き永らえている。 過去との因縁も、罪と罰も、あくまでその根源的理由の延長線上でしかない。 ──士郎とイリヤを守る。その為だけに、僕は生きているのだから。 絶望の中で拾い上げた小さな希望。その光を失わせはしない。絶対に。何をしようと。何に縋ろうと。何を犯そうと。 子を抱く事の許されない血濡れの掌に握る事を許された唯一つのモノ。それを手に、今一度衛宮切嗣は、捨て去った筈の己へと立ち返る。 かつて夢見た理想に勝るとも劣らない、尊い覚悟を秘めて。 /3 「済まないな衛宮。またしても付き合わせてしまって」 一日の授業を終えた放課後。通常ならば部活のない生徒は帰路につき、ある生徒は部活に打ち込んでいる時刻。空を茜色に染める時分に、士郎は弓道場に顔を出す事無く、友人である柳洞一成と共に学園内を見回っていた。 「気にするなよ一成。これも俺が好きでやってる事だからな。一成が気に病む事じゃない」 士郎と一成が行っているのは学園の備品の修繕だ。古くなったものを騙し騙し使っているせいもあってか、結構な数の備品が傷んでいる。 無論、必要なものは買い換えているが、それら全てを買い換える資金を捻出すると結構な額になる。その為、士郎の手で修理できるものはし、不可能なものは生徒会からの訴えで学園側に購入を促すという算段だ。 「いや、しかしな。衛宮の手を煩わせるだけではなく、弓道に打ち込む時間さえも俺は奪っているのだ。更に言えば、俺はおまえに返せるものがない。 おまえには一切の利益がないというのに、愚痴一つ零さず付き合ってくれているのだ、せめて心痛くらいは負うべきだろう」 「だから気にする必要はないって。弓道も……まあ、そろそろ引き際かなとも思ってた頃だし」 「何!? 衛宮の腕は聞いているぞ。それだけの腕を持ちながら辞めると言うのか?」 「まあまだ決めたわけじゃないけど。俺はさ、他の部員ほど熱心じゃないんだよ。そんな奴が一番上手いのって、やっぱりなんかおかしいだろ?」 「努力の差の全てが実力の差というわけでもあるまい。多少怠慢であろうと、競技の世界における絶対は力ではないかと思うが」 「まあ、そうなんだろうけどさ。あ、いや、俺は別にサボってるわけじゃないぞ。ただ何というか……言い方は悪いけど片手間って言うか、他の事に役立てる為に弓を執った側面があるんだよ。ほら、そんな不純な動機じゃやっぱりダメだろ」 一成には言わなかったが、士郎が弓を引く理由は魔術にある。弓を執る時の集中が、魔術を行使する瞬間における集中に酷似しているからに過ぎない。 雑念の一切を振り払い自己に埋没するイメージ。ただその時、外界と己を隔絶し、世界に唯一人の認識を得る。 だからこそ、礼節を重んじ弓道を極めんとする他の部員に示しがつかない。どれだけ矢が的に中ろうと、士郎にとってそれはただの副産物でしかないのだから。 「うーむ……俺には何とも判断がしづらいが……衛宮の意思を尊重したいとは思う」 「そっか。サンキュ。そう言って貰えるだけで有難いよ」 「ただまあなんというか……あの女が残念がりそうだがな」 「ああ……美綴か」 今朝も勝負をしたばかりだ。今頃は士郎に勝つべく熱心に練習に打ち込んでいるに違いない。 「美綴には言わないでくれよ。まだ決心したわけじゃないし。辞める時は自分の口からちゃんと言うからさ」 「うむ。俺は口が堅いのでな。その点は安心してくれ」 そうして二人は連れ立って次の修繕が必要な備品の置かれている教室に入った。 「ああ……そういえば衛宮。もし寺を訪れる事があれば、注意してくれ」 「ん? 何かあったのか?」 「何、数日前に山門が崩落してな。今はその修繕の為に業者を呼んでいるところなのだ」 「は? そんな話、聞いた事ないぞ」 「うむ。表沙汰にはしてないからな。寺の山門が崩れたなど、縁起の良いものではないだろう」 「まあ……そうか? でも崩れたってなんでさ。柄の悪い連中に壊されでもしたのか?」 「それならばまだマシだろう。零観兄が全て薙ぎ倒してくれようからな。原因は地震ではないかと言われている」 「地震……? 最近この辺りで大きな地震があったなんて聞かないけどな。山門が崩れるくらいの規模ならニュースにくらいはなるだろ」 「ではないか、という話だ。局地地震にしても、えらく範囲の狭い話だがな。だから原因不明というのが専らのところだ。ただそういう事になっていると知って貰えていればそれでいい」 「ああ、分かったよ。じゃあ一成、悪いけど──」 「うむ、話が過ぎたようだな。俺はいつも通り教室の外で待っている。終わったら声を掛けてくれ」 一成が去った後、士郎はいつも通りの工程を進める。一般の人間が行う手順の修繕作業ではなく、解析という能力を用いての修繕を。 「ふむ……これで粗方回り終わったか」 丁度部活が終わりを告げる頃合に、士郎達も作業のほとんどを終えた。道具類を所定の場所に戻し、玄関口を目指して二人は歩く。 「ああ、お疲れ。これで当分は持つだろ」 「感謝する。衛宮のお陰で我が校は存続していると言っても過言ではないな」 「大袈裟すぎるぞ一成」 「そうか。どうだ? ジュースの一本くらいなら奢るが」 「んー、でもイリヤを待たせてるから」 「ああ……彼女も一途な事だな」 一成とイリヤスフィールは余り相性が良くはない。生真面目すぎる一成が終始イリヤスフィールにからかわれてしまうだけだからだ。 なので出来る限り関わり合いにはなりたくないと思いつつも、その弟想いな一面は評価しているという微妙な心情があった。 「そう言えば……今朝イリヤが言ってたんだけど」 「何だ?」 「俺と一成が出来てるって」 「な、なななななにぃ!?」 一成が飛び上がった。士郎は驚きで飛び上がる人間を初めて見た。 「そ、それは、出来てるとは、その、そういう事か!?」 「ああ。いつもいつも一緒にいるせいで三年の間じゃ噂になっているとか何とか」 「ば、ばばばば莫迦な!?」 驚きつつ周囲を見渡す一成。すると部活帰りと思われる女子がこちらを見てくすくすと笑っていた。 その笑みを一成は拡大解釈し、恋人の仲睦まじい様子に当てられたものだと当たりをつけた。本当は単に一成の奇異な行動を見て驚き、思い出し笑いを零したに過ぎないのだが、そんな心中を察せる一成ではない。 「お、俺と衛宮が……っ、いや、それも……いやいや、待て待て落ち着け一成。俺達は男同士ではないか、無二の親友ではないか、はっ……まさか俺は……知らぬ内に親友でさえ飽き足らずに!? かっ、かぁぁぁぁつ! 喝ッ! 喝ッ! 喝ッ! そのような煩悩に惑わされるなど、修行が足りんっ!」 「お、おい一成……」 廊下の柱に頭を打ち付ける生徒会長兼友人に士郎は掛ける言葉も見つけられずにただ立ち尽くすばかり。 「なるほど……イリヤが一成をからかいたくなる理由が、ちょっと分かった気がする……」 付き合いはそれなりに長いと思っていたが、この友人の知られざる顔というのはまだまだあるらしいと、感心する士郎だった。 その後、何とか一成を宥めて二人は玄関先で別れた。一成は頭から血を流していたが、これも修行の一環とか何とか言って保健室に行く事を拒み、念仏か御経のようなものを唱えながら帰っていった。 「ふーん、イッセイって変わったファッションしてるのね。あれが今の男子の流行なの?」 「イリヤ」 いつもなら弓道場で待っている筈のイリヤスフィールが、玄関前に姿を見せた。 「シロウ、遅いじゃない。レディを一体どれだけ待たせる気?」 「ああ、悪い。思いの他手間取っててな」 作業自体は滞りなく終わったが、最後の会話が余計だったと士郎は自戒した。 「今日は買い物をして帰る日でしょ。あんまり遅くなると、キリツグとタイガが暴れ出すわよ」 「切嗣は流石に暴れないだろうが……藤ねえは危ういな」 それもいつもの事だと二人は連れ立って深山町にある商店街に足を向けた。 「おぅイリヤちゃん。今日も二人で買い物かい? 相変わらず仲が良いねえ。ほらコレ、サービスだ、持ってきな」 「ありがとうおじさま。だから私、このお店大好き」 「がははは、いやぁ、照れるねぇ。今の俺は気分が良い、これもついでに持って来な」 また別の店では。 「あらイリヤちゃん。今日も来てくれたのね」 「うん。この商店街じゃこのお店のお野菜が一番鮮度が良いもの。値段も良心的だしね」 「おやまあ嬉しい事言ってくれるねぇ。はいこれ、サービスだよ」 「わぁ、ありがとう。だからおばさまって好きー」 「あらやぁねぇ、何だか新しい娘が出来たみたいだわ」 そんな調子で商店街中の店々を梯子するイリヤスフィール。士郎は後ろで姉の活躍を見ているだけだ。 幼い頃からこの商店街には世話になっているので、ほとんどが顔見知りだ。毎度毎度二人で買い物に来るせいで、冷やかしも当たり前の如く行われる。 士郎も受け流しスキルは相当に磨かれた自負があるが、それを応用したイリヤスフィールの話術には敵わない。イリヤスフィールはその容姿と言葉を巧みに利用し、オマケをこれでもかとふんだくる。 無論、それらは強引に奪うわけではなく、相手の心の機微を読み、向こうから差し出させる形で貰い受ける。イリヤスフィールは多くの品を手に入れられて幸せ、店主も可愛い女の子に褒められて幸せという図式が出来上がっていた。 ……商店街、潰れなきゃいいけどな。 士郎がそんな心配をするのも無理なき事だった。そんな中、専ら荷物持ち専門の士郎は退屈を持て余し、きょろきょろと周囲を見回した。 別段面白いものも変わったものもない。新都ならばともかく、古き良き伝統を守るこの商店街では変化すらも乏しい。そんな時── 「……ん?」 ふと、買い物帰りと思われる一人の女性と目が合った。少し変わった感じの服を着た、けれど見た事のない妙齢の女性。外国人のような風貌も相まって、人目を惹く妖艶さを漂わせていた。 「新しく越してきた人かな……」 笑みを浮かべて会釈されたので、士郎も目礼で返した。 「こらシロウ。まーた女の人に見惚れてたんでしょ」 「いだっ、いだだだだだっ、イリヤ、耳引っ張るなって!」 「もう、私が生活費削減の為の愛想笑いを幾つも幾つも浮かべてる間にシロウは女の人を物色だなんて。私じゃ物足りないって言うのね!?」 「うわ馬鹿、そんな事でかい声で言うなっ!」 「むぅーむぅーむぐぅー!」 イリヤスフィールの口を塞いで周囲を見渡せば、案の定、生温かい視線をそこかしこから向けられていた。 「はぁ……ほんと、勘弁してくれよ。その内ここ来れなくなっちまうぞ」 「何言ってるの。これで次来る時の話の種は蒔けたわ。うふふ、次はもっと沢山サービスして貰うんだから」 「本当、イリヤは悪魔っ子だな……」 何処をどう間違ってこんなひねた性格になってしまったのかと、切嗣の放任主義という名の教育体制に異議を申し立てたくなった。 「はあ……ったく。良しイリヤ、さっさと帰るぞ」 視線を横に落としても、そこにはイリヤスフィールの姿がなかった。 「あれ? イリヤ?」 両手に荷物を抱えた状態で周囲を見渡す。鼻腔を擽る匂いがして、そちらに視線を向けると、大判焼きの屋台の前で瞳を輝かせる姉がいた。 「イリヤ……今そんなもの食べたら夕飯食えなくなるぞ」 「大丈夫よ。その分の夕飯はタイガに上げるわ。だからねえシロウ? ちょっと食べていかない?」 「早く帰らないと藤ねえが暴れるって言ったのはイリヤだろ」 「だいじょぶだいじょぶ。お土産買って帰ればすぐ機嫌なんて治るんだから」 「…………」 それには士郎も反論を返す事が出来なかった。 「まあ、いいか。イリヤが食費を浮かせてくれる分くらいの余裕はあるし。ほい、じゃあこれ。俺とイリヤと、藤ねえと切嗣の分な」 小銭を渡されたイリヤスフィールは中身の違う大判焼きのどれを買うべきと真剣に悩み始めた。 それから程なく、目当てのものが焼きあがったのか、紙袋に入れて貰い受け取って、二人は並んで歩き始めた。 「何処かで座って食べられるといいんだけど。シロウ、両手に荷物いっぱいで食べられないでしょ。あ、何なら食べさせてあげようか?」 あーん、と大判焼きを差し出す真似をするイリヤに、士郎は断固として首を振る。 「これ以上商店街に妙な噂を広げられてたまるか。この先に小さな公園あったろ。そこで食べよう」 空模様は徐々に茜色から藍色へと変わっていく。昼と夜の狭間。二つの色が溶けて交じり合う時間。逢魔ヶ刻。 寂れた公園のベンチに腰を落ち着け、イリヤから差し出された漉し餡の大判焼きに舌鼓を打つ。その来訪者は──そんな時に現れた。 「ねえ、坊や達」 何時の間にそこに立っていたのか、気が付けば公園の敷地内に、一人の女性がいた。士郎が先程目を合わせた、異国の風貌を持つ女性だった。 「誰?」 イリヤスフィールが警戒の眼差しを向ける。女は答えた。否、それは問いへの答えではなく、逆に問い返すものだった。 「貴方達……魔術師でしょう?」 『っ!』 瞬間、士郎は腰を上げ、イリヤスフィールは警戒の眼差しを確信のそれへと変えた。 「ああ、警戒の必要はないわ。別に危害を加えようってわけじゃないの。ただ確認したいだけ。貴方達のどちらかが、未だサーヴァントを従えていないマスターなのかしら?」 「サーヴァント? マスター? 何を、言っている?」 士郎に聖杯戦争の知識はない。切嗣もイリヤスフィールも語る必要のないものだと考えていたからだ。そしてそれは今までは問題はなかった。士郎には令呪は刻まれていない。イリヤスフィールにも、切嗣にも。 だからそれは、別世界のような他人事の筈だったのに。 「いいえ。私達のどちらも令呪を受けていないわ。貴女が何の目的でマスターを捜しているのかは知らないけど、お生憎様、外れよ」 「イリヤ……?」 事情の飲み込めない士郎はただ困惑を続けるしかない。イリヤスフィールは女から視線を逸らさずに向き合ったままだ。 「ふぅん、そう。けれどまだ『可能性』は、あるのよね。私が知るところによるとこれまで令呪を受けたマスターは六人。未だ令呪をすら受け取っていない者がいるの」 「それで……?」 「私はね、令呪が欲しいのよ」 女は笑う。余裕の笑みで。 「何に使うつもり? サーヴァントが令呪を手に入れて、まさかサーヴァントを従えようとでも言う気?」 イリヤスフィールのその言葉に、女は僅かに目を見開いた。 「へぇ、貴女、私がサーヴァントだと知っていたの? いえ、気が付けたの? 偽装を施していたというのに」 「ええ。私がサーヴァントを見間違える事なんてあるわけないでしょう」 聖杯の血筋を受け継ぐ者。アインツベルンと事実上の縁を切ってはいても、その血までは覆せるものではない。 イリヤスフィールも覆すつもりなど微塵もない。その小さな身体に流れる半分の血は、誇りある母より受け継いだものであるのだから。 「ふぅん……面白いわね貴女。いじり甲斐がありそう。そちらの坊やは……」 全くの蚊帳の外にあった士郎へと女は視線を傾けた。それを遮るようにイリヤスフィールは声を張った。 「シロウはただの見習い魔術師よ。令呪が浮かぶ可能性なんて、ここにいる三人の中じゃ一番低いわ」 「そうみたいね。大した才覚は感じられないし。巧く隠しているのなら、狸だけれど」 「じゃあ貴女は狐ね」 くすりとイリヤスフィールが微笑んだ。 「いい度胸ね、お嬢ちゃん。まあ、貴方達がマスターでないのなら、いいわ。けれどもし令呪が浮かんだのなら──」 「──ッ痛!?」 ただ一人傍観者であった士郎が突然、呻き声を上げた。二人がそちらを振り仰げば、士郎は左腕の甲を抑えていた。 イリヤスフィールは愕然と目を見開き、女は妖艶に嗤った。なぜならば、士郎が抑えている指の隙間から、赤い紋様が見えたのだから。 「シロウッ!」 イリヤスフィールが弾ける。女が手を翳し一工程の間に紡がれた呪文が炸裂する前に、士郎の手を引いて駆け出した。一瞬後、士郎達の座っていたベンチが砕け散った。 「い、イリヤっ!? 一体何がどうなって!?」 「あーもう、なんてタイミング悪いのバカシロウ! 空気くらい読んでよ! 最悪も最悪のタイミングで令呪を受け取るなんて──!」 荷物も置き去りのまま、イリヤスフィールは士郎の手を引いて街中を駆け巡る。後方には女の姿はなかったが、目をつけられてしまった以上逃げ切れるわけもない。 「イリヤ、とりあえず説明を──!」 「そんなのは後! もう私達は逃げられない! 戦うしかないの!」 「は、はぁっ!?」 サーヴァントに標的として定められた以上、どのような道筋を辿ったところで人間の足で振り切れるものではない。士郎一人ならばともかく、イリヤスフィールの体力が絶望的なまでに足を引っ張る。 ただしここで士郎を一人で行かせても、訳も分からないまま捕縛されて令呪を剥奪されるだけだ。いや、それだけで済めばまだいい方だ。一応魔術師としての力を持つ士郎を、そのまま解放するとは思えない。 血肉の全てを喰らわれるか、実験の恰好の餌食にされるか、何れにせよまともな死に方など許されないのは確かだ。 今はまだ雑踏の中に紛れ込んでいるお陰で相手も直に接触して来ようとはしない。けれど留まる事もまた出来ない。 時間を掛ければ掛けるだけ、相手に有利になるのは明白だ。だから── 「シロウ! 今ここで、しかも走りながらサーヴァントを召喚するわ!」 「いや、だから、そのサーヴァントって何だよ!?」 「シロウは言われた通りにすればいいのっ! いいっ!? 私が今から言う口上を一言一句間違える事無く覚えて──!?」 『させないわよ、お嬢ちゃん』 虚空より響く声。刹那、建物の影から極細の魔力弾──レーザーのようなものが突如放たれ、イリヤスフィールの腕を掠めた。 「いっ……たーいっ!」 「イリヤっ!?」 皮膚を突き破り赤い血を滲ませる腕をそのままに、なお士郎を引く手に力を込めて走り続ける。 相手のクラスは既に看破出来ている。キャスター。魔術師のクラス。確かに、サーヴァントとはいえ魔術師ならばサーヴァントを召喚する事も不可能ではないのだろうが、普通ならばそんな事考えもしないだろう。 相手はほぼ無詠唱で魔術を行使出来るレベルの 雑踏でさえ彼の者の障害には成り得ない。先程のように、物陰から他者に気付かれない魔術行使が出来るのなら、死角などないようなものだ。ならば── 「はっ、はっ、はっ、はぁ──!」 息を切らせるイリヤスフィール。士郎は未だ現状を把握など出来ていない。けれどイリヤスフィールを貫いた傷痕、そして何より彼女の必死な表情を見て、事態の深刻さを呑み込んだ。 「イリヤ、俺は何をすればいい? 俺に今出来る事は、なんだ?」 「シロウ……」 その言葉だけでイリヤスフィールは救われた気がした。弟の育て方を間違えてなどいなかったと確信した。 「大丈夫、私が全部やるわ。士郎はただ、願えばいい。信じてくれればそれでいいから」 駆け抜ける足に力が巡る。二人は今、心を一つにして襲い来る脅威に立ち向かう覚悟を決めた。 「はっ、はっ、はぁ……ふぅ」 そうしてイリヤスフィールの体力の限界地点にして辿りついた先は、未遠川を望む海浜公園だった。 「よく逃げたわねお嬢ちゃん。けれどもう、逃げ場はないわよ?」 まるで蜃気楼のように女は現れた。先ほどまでは見せていた顔を濃紺のフードで覆い隠しており、服装もまた魔術師然としたそれに様変わりしていた。 「へぇ……手際がいいみたいね。人払いに遮音。一瞬で構築出来るなんて」 「この程度、造作もないわ。既にこの街はもう、私の庭のようなものだから」 それからつい、と女は士郎へと視線を投げた。 「本当、運がないわね坊や。後ほんの少し令呪の発現が遅ければ、生き永らえられたというのに。いえ、まだ遅くはないわね。その令呪を差し出すのなら、命だけは助けて上げられるもの」 士郎は自らの左手の甲に視線を落とした。赤い紋様が刻まれている。剣を思わせる、令呪が。 「私達だって出来ればそうしたいけれど。貴女、どうやってシロウから令呪を奪うつもりなの?」 「そうね。私の工房に戻れば移植作業も出来るけど、私を信用などしない貴方達はついて来ないでしょう? ならその腕ごと切り取るしか方法はないわね」 「冗談。シロウを隻腕になんてさせないんだから」 「命一つと腕一本。その多寡すら判断出来ないのなら、後はもう強引に奪い取るしかないけれど……本当にそれでいい?」 それが女なりの慈悲なのか、最終的な判断をこちらに預けてくれるらしかった。それだけこの状況が揺るぎないものであるという確信があるのだろう。 「まだ手段ならあるでしょう。サーヴァントに対抗するには、サーヴァントを喚べばいい」 「ふふふ……あははははは! それこそ無理な相談でしょう? 召喚の為の陣もなく、その坊やは呪文さえ記憶していない。更にこの場所は既に私のテリトリー。今更どうやってそれだけの準備を行うと言うのかしら。 最後の通告よ。令呪を渡しなさい。命が惜しくないのなら、試して見ればいいけれど」 女の見えない視線に凍る程の威圧が込められる。僅かに上がった腕の先──掌には魔力が集束を始めている。 逃げ場はない。命乞いも無意味。助けを求める事さえ不可能な現状で──イリヤスフィールは、妖しく笑った。 「シロウ、さっきの言葉、覚えてる?」 「ああ。俺はただ、今自分がやれる事をやる。イリヤを、信じる」 一歩前に歩む。小柄な姉を庇うように。 「ありがとう。本当、私はシロウのお姉ちゃんで良かったと思うわ」 「末期の祈りは済んだ? お別れの言葉も語り合った? そう、ならばもう、貴方達は死になさい!」 光が弾ける。全てを包み破壊へと導く圧倒的な光の渦。それが彼らへと襲い来るその、刹那に。 「シロウ──!」 衛宮士郎はただ願う。この瞬間、己の全てを擲って。ただひたすらに。姉を信じる己を信じ。己を信じる姉を信じて。その言葉を脳裏で謳い上げた。 ────イリヤを守る。 それは約束。いつか語り聞かせた正義の味方という夢を受けて、イリヤスフィールが士郎へと語った言葉。 『そう、シロウは正義の味方になりたいの。んー、本当は私の味方が一番だけど、まあいっか。じゃあ私は、シロウの味方になるからね! でも私がピンチの時は、助けに来てくれると嬉しいな!』 幼い少年少女の口約束。けれど二人はそれを真剣に受け止め、理解した。衛宮士郎がイリヤスフィールの傍にある限り、彼女が正義の味方を信じ続ける限り、無様な夢を今なお見続ける少年は、高らかに己が意思を貫く。 正義の味方。遍く全てを守るもの。たとえそんな事が不可能でも、せめて手の届く場所くらいは、目に映るものくらいは守り通したいと願うから──! ────俺は、イリヤを守るんだ!──── 瞬間、全てを包み込む発光が周囲一帯を染め上げた。 「そん、な……」 その言葉は女の口から漏れていた。周囲を染め上げた光は女の放った魔術ではない。それはより強大な神秘の前に打ち砕かれて霧散し、今なお漂う白い靄は、彼方より来たりし者が放つ、その余波だ。 「問おう────」 銀色の具足が雲間から顔を覗かせる月光を受けて輝いた。風に揺れる黄金の髪が、金砂のように舞い上がる。 吸い込まれそうなほど澄んだ聖緑の瞳が、己をこの地へと喚び寄せた少年を見つめ、 「────貴方が、私のマスターか」 契約の言葉を、謳い上げた。 /4 突如現れたそれは、世にも美しい少女だった。その身体に不釣合いな甲冑を身に纏う、この世のものとは思えない人ならざるヒト。 月光が形を得るのなら、きっとこんな姿なのだろうと、士郎は呆然と思った。 「マスター……? ん、いえ、これは……なるほど。少しばかり事情が複雑なようだ。ならばまずは、あの敵を駆逐しましょう」 少女が魔術師へと向き直る。両手で何か視えないものを握る形で、僅かに姿勢を下げ、 「はぁ────!」 風よりも速く跳んだ。地面を穿つほどの威力で蹴り上げ、瞬時に魔術師へと肉薄した少女は、視えない何かを一切の迷いなく振り抜き、魔術師の身体を両断した。 「────」 けれど彼女が切り裂いたのは、魔術師の纏っていた衣だけだ。中身は忽然と姿を消し、まるで最初から形などなかったかのように、ローブだけが地に落ちた。 『なるほど。私の魔術をただ在るだけで防ぐその圧倒的な対魔力。貴女が、噂に名高き最強のクラス──』 『ふふ、目論見は外れたけれど、これはこれで良い結果だわ。私がサーヴァントを招くよりも、より強力なサーヴァントが現れたようだし。 面白いわ。覚悟をしておくことねセイバー。それから坊や達も。次見える時、この結果は覆させて貰います』 虚空より響いていた魔術師の声が遠ざかり、完全に消えてなくなった。 「鮮やかな引き際だ。敵ながら、道理を心得ていると見える」 強力な対魔力を持つセイバー相手にキャスターのクラスが対抗する手段などない。少なくともこの場では。 彼我の戦力差を正しく理解し、無駄な一手を一つとして打たずに退却する。そして彼女が次に姿を見せるその時は、セイバーに対抗する手段を引っ提げた時だろう。 セイバーと呼ばれた少女は周囲への警戒を解き、手の中にあった何かをも消失させ、士郎へと向き直った。 「御挨拶が遅れました。私はセイバー。貴方によって招かれたサーヴァントです。そして貴方が私のマスター……と言いたいところなのですが……」 セイバーは言い澱んで、イリヤスフィールの方を見た。 「何故かは分かりませんが、彼女からの魔力供給を感じるのですが」 イリヤスフィールが微笑んだ。 「初めましてセイバー。私はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。貴方を呼んだシロウの姉よ」 「そうですか。それで、イリヤスフィール。何故私は貴女から魔力供給を受けているのですか? 令呪を宿しているのはこちらの少年のようですが」 「んー……さあ」 「は、はあ……?」 「私にも良く分からないわ。だって貴女の召喚、無茶苦茶だったもの。召喚陣もなければ召喚の呪文もない、更には触媒すらない状態で、私が召喚陣の代わりになってシロウはただ願いを掛けただけなんだから」 「…………」 セイバーは愕然としていた。およそ予期すらしていなかった無理矢理な召喚行使。けれどそれだけ彼女達が逼迫していたのだと理解は出来た。 「まあ本当、失敗するかと思ったんだけど、上手く出来たみたいで良かったわ。結果良ければ全て良し!」 「そんな言葉で片付けるのはどうかと思いますが……はあ、まあ事情は理解出来ました。それで……」 セイバーは未だ事態の呑み込めていない士郎を見た。 「あの、マスター?」 「は、あ、え、マスター? 俺?」 「はい。貴方が間違いなく私を喚び寄せたマスターです。契約は既に成された。これより私は貴方の剣となり盾となり、共に戦い抜く事を誓いましょう」 「え、あ、はい。いや、でも俺、事情が本当に良く分からないんだが。なあイリヤ。そろそろ全部話してくれないか」 「そうね。セイバーもいい? 貴女のマスターは聖杯戦争について何も知らないの。本当は最後まで知らなくてもいいと思ってたけど、こうなった以上は全部話すしかないわ」 「はい。事情を知らないマスターを戦場に駆り立てるのは私も些か不安があります。説明をして頂けるのなら、お願いします。不備があれば、私が補足しましょう」 それから三人はベンチに腰掛けて士郎に彼の置かれた現状を説明した。 聖杯戦争。それは聖杯を巡る戦い。世界の外側から七騎の英霊を世に招き行われる代理戦争。唯一人の勝者は全ての願いを叶えるという聖杯を手にする権利を得る。 マスターとサーヴァントの二人一組で争う命懸けの闘争。三度のみ許された令呪による絶対命令権。英霊が持つ強大な武器である宝具。聖杯により与えられる七つのクラス。秘められた真名。 そして誰しもが必死に、並々ならぬ決意と覚悟を以って臨む。だから士郎もまた覚悟を決めなければならない。 「いや……待ってくれ。殺し合いって、本当に?」 「ええ。これまでの四度の戦いはどれも凄惨なものだったらしいわ。特に十年前の大火災はシロウも覚えているでしょう」 「────」 それは衛宮士郎が衛宮士郎ではなかった時の残滓。燃え上がる紅蓮。空を焦がす暗黒。生きる者の全てを溶かし、居並ぶ建物の全てを崩壊させた悪夢。原初の、記憶。 「…………」 イリヤスフィールにしてもこの話はしたくはなかった。父より聞かされた真実。それを語らずにはいられなくなるのだから。 「あの火災は聖杯戦争が原因よ。血で血を洗う闘争は参加者だけでなく、無関係な人達を巻き込む可能性がある」 「バカな……」 戦いたい奴だけが戦えばいいなんていう甘い妄想は、即座に打ち砕かれた。この五度目の戦いの行き着く先があの悲劇であるとは限らない。けれどそれ以上の惨劇が生まれないとも限らない。 「シロウは期せずしてその戦いに巻き込まれた。必要があったとはいえ、サーヴァントも喚んでしまった。そしてあの魔女にマスターだと知られた。 もう戻れる道はない。ここでシロウが戦わないと決断したところで、相手はそうは思ってくれない。むしろ浅はかなマスターだと思われて、突然後ろからぷっすり刺されちゃうかもね」 最後はおどけるように言ったが、笑い話ではない。そうならない保証など、何処にもないのだから。 「どうするシロウ? 貴方が戦いたくないというのなら、その令呪は私が貰うわ」 「イリヤ!?」 「私にはもう理由も責務もないけれど、可愛い弟の代わりに戦うくらいの甲斐性はあるつもりよ?」 汚い言い方だとイリヤスフィールは思った。こんな事を言われて、はいそうですかと頷く弟ではない事を、彼女自身が一番理解しているのだから。 「卑怯だよイリヤ……その言い方は」 「そうね。でも今更全てを投げ出す訳にもいかないもの。私かシロウか、あるいは両方が覚悟を決めないと」 イリヤスフィールは完全に巻き込まれた形だが、それで良かったと思っている。あるいはこの変則召喚も、彼女の無自覚な願望が起こしたのかもしれない。 「セイバーは……」 苦渋の面貌をそのままに、士郎はもう一人の少女へと水を向けた。 「セイバーは、どうしても聖杯を手に入れたいのか?」 「はい。私には是が非でも聖杯を手に入れなければならない理由があります。たとえマスターが戦う気はないと言っても、戦わなければならない理由が」 聖杯に縋るは絶望の証。この少女もまた、奇跡という名の縁に縋らなければならないほどの大きな責任を負っているに違いなかった。 「はっきり言ってしまえば、貴方に令呪を放棄されては次の契約者を見つける前に私は消滅してしまう。 ですから私は言いたくなくとも言わなければならない。共に戦って欲しいと」 「それも安心していいわ。シロウが嫌なら私が引き継ぐから、セイバーは心配する必要はないわ」 勝手に話を纏めていくイリヤスフィールとセイバーの間で、士郎は苦悩する。今更知らなければ良かったでは済まされない。知ってしまった以上、見てみぬ振りは出来ない。あの悲劇を繰り返させるわけにはいかないのだから。 「分かった──戦うよ」 選択肢はそれしか用意されていない。後の全ては放棄と変わりないのだから。 「あんな悲劇はもう沢山だ。誰かがまたあんな馬鹿げた事をするつもりなら、俺は全力で止める。止めてやる」 正義の味方を志した者が、背を向ける事など出来る筈もない。手の届く場所で悲劇が起こるのなら阻止する。目に映る人が悲しむのなら阻止してみせる。それだけの覚悟は──当の昔に出来ている。 「でも、戦うのは俺だけでいい。イリヤは巻き込まれただけなんだ。だから俺にそのパスを還して──」 「い・や・よ」 べー、と舌を出してイリヤスフィールは子供のように無邪気に笑った。 「シロウが戦うなら私も一緒よ。それにシロウの魔力量じゃセイバーも本気を出せないでしょう? だから私達は二人で一人のマスターとして、これより頑張ります!」 「いや、ちょ、イリヤっ!?」 「もう決めたんだから。私は絶対にシロウの傍にいるって。それに、私がピンチになったらシロウが助けてくれるんでしょう?」 「…………」 その約束は、違える事の出来るものではない。 「ああっ、分かった。もう好きにしてくれっ! でも絶対危ない真似は許さないからな!」 「どっちかと言うとシロウの方が危なっかしいわよね」 ギャーギャーと二人は罵り合って、互いの胸の内を色々と発散させた後、セイバーに向き直る。 「そういう事になったけど、セイバーは、いいか?」 「はい、私は構いません。むしろ私は貴方達のようなマスターに召喚されて良かったとさえ思います。ではお二人は必ずや我が剣に賭けてお守りしましょう、マスター」 「あー……そのマスターってのは止めて欲しいかな。何だかムズ痒くて。出来れば名前で呼んでくれ。俺は士郎。衛宮士郎だ」 「私はさっきも言ったけど、イリヤスフィールよ。よろしく、セイバー」 「シロウにイリヤスフィール、ですね。分かりました。では改めて、誓いを此処に。私は貴方達の剣となり盾となって、共に戦い抜く事を誓いましょう」 三人は笑みを交し合う。これが二人のマスターとサーヴァントの出会いであり、戦いの序曲であった。 「とりあえず状況は把握出来たし、帰りましょ」 イリヤスフィールが立ち上がり言った。 「ああ、荷物……はアイツに吹き飛ばされたんだっけか」 「今夜は仕方ないわね。有り合わせか惣菜でも買って誤魔化さないと。今更食材全部買って作ってたらタイガがタイガーになっちゃうもの」 「それ、藤ねえの前で言うなよ。醤油がオイスターソースに早変わりだ」 二人が連れ立って歩くその後ろから、ガッチャガッチャと甲冑が打ち鳴らす音が響く。 「ねえ、セイバー?」 イリヤスフィールが足を止めて振り返った。 「はい、何でしょう」 「霊体化して貰えないと色々とマズイと思うんだけど。その格好のままうろつかれたら警察に通報されちゃうわ」 「……いえ、あの、イリヤスフィール。その、言う機会を逸していたのですが……」 セイバーは言い澱み、とても言いずらそうに続けた。 「私は、霊体化が出来ないのです」 「えっ!? なんで?」 「私は他のサーヴァントと、その、少々事情が異なるのです。なので霊体になる事が出来ないのです」 「…………」 イリヤスフィールは唖然としていた。 「えっとつまり、セイバーは消えられないって事か? その鎧も?」 「いえ、鎧だけならば消せますが……」 音もなく銀の甲冑は消失し、その下に着ている目も冴えるほどの青のドレスが前面に押し出てきた。 「……目立つな」 「……目立つわね」 「……目立ちますか」 この現代で中世風の、しかも王侯貴族が着ていそうなドレスが釣り合う場所などセレブのパーティ会場くらいのものだろう。往来をそんな格好で歩く者はいまい。 「ふーん……まあその辺りの事情はおいおい聞くとして。まずはそこから考えないとダメって事ね。シロウ、お金ってまだ残ってる?」 「え? ああ、多少は。まさか、服買う気か? でも一張羅買うほどの余裕はないぞ」 「そう、うん。まあ何とかして見せるわ。まさかこの格好で歩き回させるわけにいかないでしょう?」 「それもそうだな。でもこんな時間にまだやってるところなんてあるかな……」 夕刻を過ぎ夜の帳が辺りを包むこの時間は、何とも微妙な時間帯だろう。やっているところはやっているし、早いところは既に店仕舞いをしていてもおかしくはない。 「大丈夫、知ってるお店があるから。急ぎましょ。ほらほらセイバーも早く!」 「え、あ、はい」 勝手に話を進められたセイバーはイリヤスフィールに引き摺られて街中に消えていく。その横顔が悪戯を思いついた子供のように歪んでいた事を士郎だけが知っており、こっそりと溜め息を吐いた。 何とかこの時間に開いていたイリヤスフィール馴染みの服飾専門店に滑り込んだ三人はすぐさま物色を開始した。 とはいえ、イリヤスフィールだけが黄色い声を上げながらセイバーを着せ替えており、セイバーはされるがまま、士郎に至っては、店の隅っこの方に居た堪れない面持ちで佇んでいた。 「じゃーん。どうだシロウ! 似合ってるでしょう?」 そうしてイリヤスフィールによるセイバー着せ替えごっこが一段落を向かえ、士郎にお披露目されたその衣装は、 「……いや、何というか。とりあえず疑問いいか。なんで男装なんだ?」 セイバーはその小柄な身体にあった少女らしい服装ではなく、男物のダークスーツに身を包んでいた。 「何でって、これが一番良いってセイバーが言ったんだもの」 「本当かセイバー?」 「ええ。その、イリヤスフィールが選ぶものはどうも私の趣味に合わないというか……」 イリヤスフィールが着せ替えたと思われる衣服が山と積み上がった一角に目を向けるとそのどれもが所謂女の子らしい服装だった。 ワンピースタイプの服やフリフリのプリーツスカートなど、セイバーには似合いそうではあるが、本人はそう思わなかったらしい。 「戦いに身を置く者としましては、余り派手というか、動きにくい服装は困るのです」 「えー、でもどうせ戦う時って武装するんでしょ? なら変わらないじゃない」 「いえ、咄嗟の時の事を思えば、普段から動きやすい服装を心掛けるのは大切な事です。ええ、はい。それはもう」 セイバーはどうにかイリヤスフィールを押し切りたい様子だった。士郎にしてみれば、この街中でスーツを着るのならあのドレスと大差ないような気がしたが、口に出すのも野暮かと噤んだ。 「まあいっか。これはこれで味があるというか、特定層に人気が出そうというか」 「それは一体何の話だイリヤ」 「ま、男装の麗人……て歳でもなさそうだけど、美少年で通るくらいには似合ってるからオッケー!」 確かに間近で見るか、声を聞かなければ少年のようにも見えるだろう。結っていた髪も後ろで一つに纏めただけなので、少し髪の長い男の子に見えなくもない。 「セイバーが気に入ったのならそれでいいよ。問題は……」 こっそりと財布の中を確認する士郎。買い物だけをするつもりだったので当然スーツ一着を買える資金など入っていない。しかもこの店、どうやら結構に値を張る商品を取り扱っているらしい。 衣類にずぼらな士郎にしてみれば目玉が飛び出るくらいの金額だ。イリヤスフィールの服装さえも何だか高級に見えてきた。 「あ、それも大丈夫。つけといて貰ったから」 「つけ!?」 店主の方を振り仰げば、気楽に手を振っていた。どうやら本当らしい。 「イリヤは俺の知らないところでこの商店街を牛耳っているのか……?」 そんな有り得ない想像をしてしまうくらいには、イリヤは商店街で顔の利く存在になっていたらしかった。 その後、三人は二十四時間営業のスーパーマーケットで手早く作れそうな材料と惣菜を買い、店を出た。店内や往来でもセイバーは人目を集めるが、外国からの留学生とでも思われたのか、予想したほど注目は浴びなかった。 冬木の特殊な事情が功を奏したらしい。イリヤスフィールも半分は外国の血筋なので、むしろ士郎が好機の視線を浴びるくらいだ。 衛宮邸に戻る頃には月も随分と高い位置にあり、本日の夕食は久々に遅れに遅れる事になった。そして家の敷居を跨ぎ、引き戸に手を掛けたところで── 「おっそーい! 士郎もイリヤちゃんも今まで一体何してたの!? 私もうお腹ぺこぺこだよー……ぅ?」 「あ……」 そういえば、雑談に興じていてセイバーについての事情をどう誤魔化すか考えていなかった、と士郎は思い至り、 「き、きりつぐさぁーーーん! 士郎とイリヤちゃんが美少年を誘拐してきたーー!?」 「人聞きの悪い事叫んでんじゃねぇ!?」 およそ予想通りの反応を大河は返してくれた。 大河の暴走により、もう一悶着くらいはあるかと覚悟していた士郎だったが、切嗣の登場で事態は一変した。 大河に引き摺られながら現れた切嗣は、セイバーの容貌を見て僅かに身を硬くし、 「ああ、そういえば大河ちゃんに言うのを忘れてたけど、今日外国の知り合いがウチを訪ねる事になっててね。士郎とイリヤにはその迎えを頼んでいたんだ。 えーっと、『彼』なんて名前だったかな……はは、僕ももう歳かなぁ。人の名前を忘れるなんて重症だよ」 その言葉を受けて、目を細めたセイバーは折り目正しく礼を行った。 「セイバーです。その節はどうも」 「ああ、久しぶりだね。じゃあ上がって貰おうか。大河ちゃん、案内頼んで良いかな?」 「え、あ、はい。えっと、セイバー……さん? とりあえず居間に案内するからついて来てくれる?」 「はい。では、失礼します」 先行する切嗣の後に続いて大河とセイバーが廊下の奥へと消えていく。状況の呑み込めない士郎の横でイリヤスフィールがくすりと笑った。 「キリツグも役者ね。ほらシロウ、私達も行きましょ」 「あ、ああ……」 その切嗣の余りの順応性に、士郎は小首を傾げるばかりであった。 その後、士郎とイリヤスフィールが夕食の準備をする傍ら、居間では奇妙な関係の三人が騒がしくも言葉を交わしていた。 確信を以って言うが、切嗣にセイバーとの面識はない。セイバーもまた切嗣との面識などある筈もない。けれど二人はまるで口裏を合わせているかのような完璧さで大河の質問攻めをやり過ごしていた。 程なく夕食も出来上がり、なし崩し的にセイバーも同じ卓を囲む。簡単な調理とはいえ士郎自身が手を加えたそれらは充分に舌を唸らせるに足るものだ。 いつの時代から招かれたのかは定かではなかったが、セイバーは静かに味わって食事を続けた。その間も無論、大河は一人で騒いでいたが、イリヤスフィールが矛先をずらしまくって何か色々と有耶無耶の内に食事は終わった。 遅い夕食も終わり、大河は気を利かせたのか早く帰っていった。曰く、久しぶりの再会なら積もる話もあるでしょう、と。傍若無人で天衣無縫な人物だが、あれで空気を読む才覚には長けているらしかった。 「さて──」 四人になった居間で、切嗣が切り出す。本題にして話の核心を。 「今更訊く事でもないが、おまえはサーヴァントに間違いないな?」 およそ士郎やイリヤスフィールが普段聞いている切嗣の声音よりも、随分と低い音でその言葉は紡がれた。受け止めるセイバーは、目を伏したままで答えた。 「はい。私はこの聖杯戦争にシロウによって招かれたサーヴァント・セイバーに間違いありません。 どうやら貴方は参加者ではないようですが、随分と事情に精通しているようだ。……何者だ?」 剣呑と言ってもいい雰囲気が居間を支配する。見るからに切嗣はセイバーを敵視しているし、セイバーはセイバーで切嗣を疑っている。場を収めるのは、どうやら残された二人の役目だった。 「はいはいストップストップ。もう、さっきの阿吽の呼吸は何処にいったの二人とも」 「大河ちゃんに疑われない為にはあれが一番簡単な方法だった。それだけだよ。まさかサーヴァントが実体のまま現れるなんて、何かの間違いかと目を疑ったけどね」 「ええ、確かに。余人に余計な詮索を受けるのは得策ではありません。そちらの御仁が上手く話しを切り出してくれたお陰で、助かる事は助かりました。シロウは拠点に他の住人がいるなど一言も言ってくれませんでしたからね」 「いや……セイバー。なんで俺にまでそんな喧嘩腰なんだよ。とりあえず落ち着けって」 言いつつ士郎は客人用の湯呑みにお茶を注いで差し出した。 「私は別に怒ってなどいません。ただ……ほう、これは中々……」 どうやらお茶が気に入ったらしいセイバーをとりあえず置いておく事として、切嗣に事情を説明する事にした。 「…………なるほど。それは、本当にタイミングの悪い話だ」 粗方の事情を聞き終わった時点で切嗣は苦々しく呟いた。もう少し士郎の令呪の発現が遅ければ、あるいは早ければ、その業を彼に背負わせる事もなかったのに……と。 「我々の事情は理解出来たようですね。では今度はそちらの番だ。何故貴方はサーヴァントを知っている?」 セイバーが切嗣に問う。イリヤスフィールは全ての事情を理解しているし、セイバーも恐らくは、ある程度の察しはついている筈だ。唯一人、士郎だけが、何一つ理解出来ていなかった。 「僕は……」 言い澱み視線を逸らす。唇を噛んで、苦々しいものを噛み砕く。それでも喉に詰まって言葉が出ない。セイバーと士郎が怪訝な顔をし、ようやく切嗣は口を開き── 「キリツグは一時期アインツベルンに賓客として招かれていたの。その時に聖杯戦争の事情を知ったのよ。私のお母さまと出会ったのも、その時の事よ」 イリヤスフィールが遮るように口早に言った。 「…………」 セイバーが疑惑の目を切嗣に向けるも、イリヤスフィールからの強い視線と意図を察して頷いた。 「なるほど。それで私の事も理解出来たのですね。確かに、この街で聖杯戦争が起こっていると知っているのなら、子息が突然見慣れない異国の風貌の者を連れてくれば、察せて当然でしょう。 失礼しました、衛宮切嗣。疑いを向けた事を謝罪します」 「あ、ああ……いや、構わない」 セイバーはそれでこの話は終わりだというようにお茶を啜った。 「じゃあ後は、何を話せばいいのかしら。セイバーの宝具とか?」 セイバーが手にしている武器は不可視の武器だ。それは剣であるらしいが、余りにも有名過ぎる為に魔術で覆い隠しているらしい。 そしてマスターである士郎が敵の魔術に対する耐性が低い為、その宝具の名や真名についても伏せたいと申し出た。 実際、先頃出会ったキャスタークラスの魔術師ならば、士郎を操作し情報を聞き出すなど造作もない事だろう。そこまでのレベルでなくとも、士郎程度の抗魔力では一介の魔術師にすら対抗出来ないかもしれない。 「要はシロウがへっぽこという事ね」 「悪かったな……」 事実見習いの域を出ないのだから、反論など出来る筈もなかった。 「まあそういう事なら仕方ないか。宝具の使いどころとかは、セイバーに任せた方が安全って事だろ」 「ええ。そうして貰えると助かります」 「イリヤには真名、教えてもいいんじゃないかと思うけど……」 「いいわ。シロウが知らないなら私も知らなくてもいい。セイバーを信頼してるからね」 「はい。その想いには、必ずや応えて見せます」 ここで話が終わっていれば、キリが良く話も纏まっていたのだろうが、これまで沈黙していた切嗣が、やおら口を開いた。 「サーヴァントにはもう一つだけ聞かなければならないものがある。それは願いだ。セイバー、おまえは一体、何を祈りとして聖杯を望んだ?」 切嗣の視線がセイバーを射抜く。セイバーは怯まず堂々と、尊いと信じる己が祈りを謳い上げた。 「私は──聖杯の力を以って祖国を救済します」 /5 深夜。 冴え冴えと煌く月の下で、切嗣は空を見上げていた。頬を撫でる風合いは冷たく、およそ月見には適していない環境だったが、見上げずにはいられなかったのだ。 「綺麗な月ね」 背後、闇の中からイリヤスフィールが姿を現した。銀色の髪が、月光を受けて輝いた。隣座るね、と切嗣の返答をまたずに少女は腰掛けた。 「ねえ、あれで良かったの?」 切嗣にはそれだけで、何の事を言っているのか理解出来た。 「ああ、助かったよ。士郎には、あの真実は言いたくないんだ」 衛宮切嗣が十年前の戦争の当事者である事。そしてあの大火災の原因となった事を。 「無駄だと思うけどね。シロウがこの戦いに身を置く限り、いつか必ずその真相には辿り着く。今言わないのは、ただ問題を先送りにしただけにすぎないわ」 「それでも、だ。士郎が自分で気付くのなら、それでいい。他の誰かが告げるのなら、それもまたいいだろう。けれど僕の口からは、絶対に、言えない」 視線を廊下の奥へと傾ける。今日は士郎は珍しく自室で眠っている。セイバーもまた、必要はなくとも与えられた部屋で身体を横たえているだろう。父と娘の会話は、二人には届かない。 「弱いのね」 「ああ……弱いさ。僕はいつでも、何かに縋って生きてきた。今もイリヤや士郎に縋りついていなければ、立っていられない程に弱いんだ」 衛宮切嗣は元来、脆弱な人間だ。十年前はその弱い自分を理想という鎧で塗り固める事で戦い抜いた。その鎧は最悪の形で剥がれ落ち、今切嗣を生かしているのはイリヤスフィールと士郎の存在だ。ただ彼らの為だけに、切嗣は生きている。 だからこそ、十年前の真実を告げる事が出来ない。どうして自らの罪を告白出来ると言うのか。出来るのなら十年前に、そうでなくとも士郎が落ち着いた時に話している。 「僕は怖いんだ。士郎に嫌われるのが」 無様な父親を演じ続けた。父親らしい事など何一つしてやれた記憶がない。それでも、怖い。自らの縁が離れて行く事が。弱さを支えるものが失われる事が。 「それは傲慢よキリツグ。私もシロウも、キリツグの道具じゃない。意思があるの。話もしないで勝手に自己完結するなんて、相手に対する侮辱だわ。言い換えるのなら、キリツグはシロウを信じていないという事だもの」 それが許されざる罪だとは切嗣も理解している。だが、それでも。 「……それでも僕には、まだ成さなければならない事がある。こんなところで、壊れるわけには行かないんだ」 「そう……私のシロウが貶められたままなのはイヤだけど、じゃあこの話はお仕舞い。もう一つ、セイバーの事は?」 居間で最後に放たれたセイバーの言葉。祈り。願い。祖国の救済という夢。その尊い想いを聞き、その意思が揺るぎないものだと悟った時、切嗣は無言のままに居間を去った。去らなければ居た堪れなかった。 十年前の、己を見ているようだったから。 「彼女とも僕は、話をしなければならないのだろうね」 「そうね」 「もう一度だけ聞いておこう。イリヤは、士郎と共に戦うのか?」 代われるものなら代わってやりたい。けれど令呪の移譲は容易いものではないし、何より本人達が譲らないだろう。それを良しとする性格ではない。聖杯に選ばれなかった切嗣は蚊帳の外。輪の外側から眺めるしかない。 「昼間、キリツグは出掛けたんでしょう? でも今こうしているって事は目論見は失敗に終わった。なら、戦うしかない。ううん、シロウの居る場所が、私の居場所だから。シロウが戦うというのなら、私も一緒に戦うわ」 「……そうか」 昼間の段階では我が子らが戦争に巻き込まれるとは思っていなかった。時期的にももうマスターの全てが出揃ってもいい頃だったからだ。それでも士郎は選ばれた。イリヤスフィールではなく。切嗣でもなく。他の誰でもなく。 ならば士郎には、聖杯に賭ける願いがあるという事なのだろうか。あるいはそれは、十年前の── 「セイバーに会ってくる。イリヤはもう寝なさい」 「ええ。お休みなさいキリツグ。襲っちゃダメだからね?」 娘の茶化した忠告に肩を竦めつつ、切嗣はセイバーに与えられた部屋の襖の前に立つ。マスターであるシロウと同じ部屋を──防衛の観念から──希望したセイバーだが、切嗣とイリヤスフィールに一蹴され、それなりに近くの和室で渋々ながらに了承していた。 「セイバー、起きているか」 一瞬の間。それから、音もなく襖が内側から開かれた。 「切嗣ですか。このような夜分に何か用でも?」 「ああ。君と話がしたい」 「……ええ、構いません。どうぞ」 こんな夜遅くに婦女子の寝床に入るのは些か気が引けたが、相手はサーヴァントだと割り切って切嗣は入室した。 差し出された座布団に腰を下ろし、二人は向かい合って座った。 「…………」 何から話したらいいものか……と切嗣は思い悩んだが、単刀直入に核心から切り出す事にした。 「初めに言おう。僕は、恐らくだが君の真名を知っている」 「…………っ!」 それが単なる鎌掛けなのか真実なのか判然としないセイバーは、切嗣の瞳から少しでも情報を引き出そうと探りを入れた。 「そんなに睨まないでくれ。順を追って話す。全ては、十年前の話だ。僕は君を、セイバーのサーヴァントを喚び出そうと試みたマスターだった」 結果、招かれたサーヴァントは誰もが予期しないサーヴァントだったが、思惑通りに進んでいれば、目の前の彼女が喚ばれていたのは間違いがない事だろう。 「だが僕は、君を喚ばなくて良かったと思っている。あの頃の僕では、君とはこうして話をすらしようとは思わなかっただろうからな」 理想に執着していたあの頃。この少女の真の名を知り、その願いを知っていたのなら、衛宮切嗣とセイバーの間には決定的な不理解が存在した筈だから。 「何故、それを私に……?」 居間で切嗣が言い澱み、イリヤスフィールが場を濁した原因。それを語って聞かせるその真意を問う。 「君の願いがどういうものであろうと、僕は構わない。昔の僕ならいざ知らず、今の僕は他者の願いに介入する余裕などないのだから。 ただその願いは、その祈りは何をおいても叶えなければならないものなのか……それを訊かなければならない」 聖杯の真実を知るが故に。その祈りが高潔であればあるほど、後に訪れる絶望は虚無に近づいていく。 「私が聖杯を手に入れるのは責務だ。是が非でも聖杯を持ち帰らなければならない。 そう──貴方が言うように、何をおいても。この戦いに臨む他のマスターやサーヴァントの願いを切り捨てでも、私は私の祈りを優先する」 「…………」 ああ、本当に。十年前の鏡を見ているような気分に陥る。この少女がどれほどの絶望を見たのかは分からない。 しかし聖杯というありもしない……あって欲しいと望まれるものに縋りつかなければならないほどに、その闇は黒く染まっていると理解した。 ……ならば、僕の言葉は届くまい。 十年前、己がサーヴァントが何故あのような行動に至ったかを、此処に来てようやく、完全に理解し得た。 聖杯を妄信するその瞳。曇りなき鏡面のその奥に、ドス黒いものを抱えた者に、ただの言葉は届かない。 それが間違いであると突きつけられるものは目の前の真実のみ。だからこそアーチャーは切嗣を完膚無きまでに叩きのめし、聖杯の眼前へと導いたのだ。その瞳に焼き付けさせたのだ。 故に、切嗣は告げる言葉を失った。 「切嗣。貴方は私に、何が言いたいのですか?」 だから切嗣は、己が願望だけを口にする。 「士郎とイリヤを頼む」 最早彼らが戻れる道はない。戻るつもりもないだろう。この高潔な少女と共に、ただ絶望の頂を駆け上がっていく。行く先が断崖絶壁だとは知らずに。奈落へと通じる巨大な洞だとは知らずに。 その真実を切嗣の口から語ったところで余計な混乱招くだけ。彼らの間に不和を巻き起こすだけだ。 真実を視るのは彼ら自身の目でなければ、何一つ変わらない。 「君には良く分からないだろうが、この戦いは僕達の代が残した負債だ。それを子供達の世代に肩代わりさせるのは心苦しいが、僕には直接参加するだけの権利がない。君を止めるだけの、権利もね」 セイバーは眉を潜めたが、切嗣は気にせず続ける。 「だから恥を承知で君に頼む。セイバー、彼らを守ってくれ。僕の願いは、それだけだ」 「…………」 大河が居た時に居間で見た瞳とも、問答の最中に見た瞳とも違う色が、切嗣の目の中に浮かんでいた。セイバーは口を引き結び、頷いた。 「ええ。貴方に言われずとも。私は彼らの剣となり盾となる誓いを立てた。たとえ聖杯の為とはいえ、彼らを蔑ろにするつもりは一切ありません。 ご安心を。貴方の子息は、我が身命を賭してお守りすると確かに誓います」 「そうか……その言葉が聞けたのなら、僕は充分だ。ではセイバー、失礼するよ。夜遅くに申し訳なかった」 「いえ。私にも得るものがありましたから。切嗣も、良い夜を」 別れの挨拶を交わし、切嗣は廊下に出る。そのまま歩き、イリヤスフィールと言葉を交わした縁側から、月を望んだ。 「────」 その瞳からは、先程セイバーに見せた父親の眼差しは完全に消失し、在りし日の暗殺者の色がありありと浮かんでいた。 「この戦いは、僕達の罪だ。それをあの子達に肩代わりさせるなど、あってはならない。輪の外にあろうとも、輪を壊す手段はある。 セイバー、君はただ僕の支えを守ればいい。敵はこの僕が──全て殺す」 それは決意。それは覚悟だ。衛宮切嗣が生きる理由。無様に滑稽に、醜くも生にしがみつく生き汚い未練。 かつて守りたかったもの。世界の救済という大望に覆い隠していた本当の願い。目的をすり替え、手段を履き違え、ただただ理想に固執した結果──本当に欲したものを自らの手で殺し尽くしていた事に、全てが終わるその時まで気が付けなかったから。 だから今度は、間違わない。 昼間の言葉を思い出す。ユーブスタクハイトの呪いを思い出す。たとえこの心が壊れようと、この身体が壊されようと、それでも切嗣はただ、無常に敵を駆逐する。障害の全てを排除する。 十年越しの戦いに決着をつける為に。掌に残った小さな希望を守り抜く為に。 夜に閉ざされた闇の中、切嗣は一人眠りに落ちる事無く歩みを続ける。十年前に封をした箱を開く為に。 戦場を共に駆け抜けた、死神の魔銃を今再び──その手に執る為に…… web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |