烙印を継ぐ者達 Tale.02









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 時計塔。

 倫敦でその名を聞けば、誰もが有名な観光名所を思い浮かべるが、魔術師達にとっては全く別の意味合いに受け取られる。

 世界に点在する魔術協会にあって、最大規模を誇る総本山。若輩魔術師にとっての最高学府。卓越したそれにとっても脱け出る事を忘却させる程研究の為の環境を整えられた、およそ魔術師にとっての理想の地。

 それが血統と実力、そして権力の渦巻く、知られざる世界に君臨する魔窟の名だった。

 その時計塔にある学院の薄暗い廊下に男の姿があった。男は眉間に皺を寄せ、今日も今日とて不機嫌な態度を崩しもせずに歩を進める。

「エルメロイ講師!」

 背後より声を掛けられ、エルメロイ講師と呼ばれた不機嫌な男は振り向いた。そこには駆けてきたのだろう、息を切らせた女子生徒が三人居た。どれも見知った顔だった。

「……なんだ」

「もー、教授ってば何でそんないつも不機嫌そうなんですか? ほらほら、もっともっと笑って下さいよー」

「先生ー、わたしとお付き合いしませんかー?」

「こ、講師! ちょっと聞きたい事があるんです!」

「ファック! 貴様ら一辺に喋るじゃねぇ! エリス、私をこんな顔にさせているのが誰なのか、分からん君でもないだろう。アニー、残念だが君と私の関係は講師と生徒だ。それ以上でもそれ以下でもない。カティ、生憎下らない質問に答える余裕などない。せめて授業に関係のあるものなら別だが」

「わ、すごーい教授。私達わざと一辺に喋ったのに全部分かったんですか?」

「……君達はあれか。私をおちょくる為に引き止めたのか?」

「違いますー。先生に交際を申し込む為です!」

「私は純粋にさっきの授業で訊きたい事があったんですけど……」

「…………」

 男は天を仰いだ。

 誰が呼んだか、この男、現代の時計塔を代表する講師であり、『時計塔で一番抱かれたい男』などと持て囃されているが、当の本人はそのふざけた異名を耳にする度に表情をより顰めていった。

 別段魔術に造詣が深いわけでもない。血統が優れているわけでもない。実力を備えているわけでもないこの男──ロード・エルメロイU世が講師の座につく理由が、その名前にこそあった。

「とりあえず、アニー。君は夢の見すぎだ。魔術師ならば魔術師らしくもっと位階の高い相手を選べ。私などの血を取り入れたところで君の家系に齎される益はない」

 それは古い考えだ。エルメロイU世がもっとも毛嫌いする考えだ。だがそれが、魔術師という人種にとって確かな歴史に裏付けされた事実である事も理解していた。

 だからその言葉は正しい。正しくないのは、エルメロイU世を娶る事で得られる益が何もない……というその一点のみ。

「えー、先生その考え方古いですよ。そりゃ両親はそういうのを未だに重要視してるけど私にとってはどうでもいい事なんです。意中の相手と添い遂げる事……それが一番重要なんですから!」

「あー……まあ別にその考えは否定しないが、何故だろうな。何故私の生徒はどいつもこいつも魔術師としての自覚が欠けてやがるのかなぁ、こんちくしょう!」

 悪態をついて懐に手を伸ばす。葉巻を取り出し生徒の目の前で火を付け吹かした。

「あー、教授、ここ禁煙ですよ」

「どうせもうすぐ私の部屋だ。はっ、世知辛い世の中になったものだ。煙草の一つや二つ好きに吸えやしない。
 ……とりあえずカティ、君は付いて来なさい。真面目に質問があるのなら、私も無碍にはしない」

「はいっはいっはい教授! 私も! 私も今質問が出来ました!」

「先生わたしもー。先生が好きな女性のタイプってどんな人ですか?」

 男はうんざりした顔で背を向けた。

「とりあえず、生徒じゃない女性が好きなのは間違いないな」

×

 結局、先の三人の生徒は誰もが譲らずエルメロイU世の執務室に押しかけてきた。押しに弱いのか、男は柳眉を曲げに曲げながらも三人を執務室に迎え入れ、さらには茶の準備までし始めた。

「全く……何故私が茶坊主の真似事など……」

「いやぁ、ほんと、教授優しいですねぇ。それならモテる理由も分かるってなもんですよ」

「生徒にモテたところで何一つ嬉しくないがな。ほら、さっさと茶を飲んで帰れ」

 いただきまーす、と元気の良い声を上げる三人。その対面に座りエルメロイU世もまたティーカップを傾ける。

「教授、教授に抱かれると魔術回路が一本増えるって本当ですか?」

「ぶばぁっ!?」

「きゃっ、もうっ、教授ってばきたなーいー」

「げほっげほっ、こほっ……おい、おい待てエリス。なんだその根も葉もない根拠もない支離滅裂な噂は」

「いやぁ、多分教授の異名から発展した噂だと思うんですけど。出所までは知りません」

「ファック、そんな道理があるか。そんな事で魔術師の生命線たる魔術回路が増えたのなら魔術師の歴史が引っ繰り返るぞ。彼らの試行錯誤が全くの徒労だ」

「ですよねー、まあ訊いてみただけです」

「あ、先生、わたしも質問というか、確認したい噂があるんですが」

「……なんだ。とりあえず悪い予感しかしないが言ってみろ」

「はい。何でも先生の異名がまた一つ増えるとか」

「……いや、聞いた覚えはないぞ。何より私についた異名なぞ誰とも知らぬ連中が勝手につけたものだ。私自身が襲名した名は今の名以外にない。で、今度は何だ? 最早私には皆目検討もつかんぞ」

「はあ。確か『絶対領域マジシャン先生』とか」

「…………。ところでアニー、その異名をつけようとしているアホに心当たりは?」

「いえ、わたしはさっぱり……」

「あ、それ私聞いた事あるよ教授。クラスの男連中が話してた。んー、確かフラットだったかなぁ、言い出したの」

「ファーック! またアイツか! あのアホか! アイツは一体幾つ下らん異名をつければ気が済むのだ!? あのアホに伝えておけ! 今度の授業は最初から補習だとな! 逃げ出せば倍率ドンだっ! 更に倍だっ!」

「倍率ドンって何ですか先生? でもそんな先生も格好良いです!」

 そんな支離滅裂なやり取りの後、唯一人真面目に質問に来ていたカティの問いに答え、彼女達が飽きて帰った事で、ようやく、彼は人心地つけた。

「……全く」

 革張りの椅子に身を埋める。柔らかな座り心地は、先程までの心労と気苦労を若干軽くしてくれた。
 そのままエルメロイU世は室内に目を配る。広々とした部屋。埃一つない重厚な机。備え付けられた家具はどれもが一級品。教鞭を執る上で必要とされるあらゆる全てが用意された自室を見やり、男は鼻で笑った。

「茶番だな……本当に。私は、こんなものを手に入れたかったわけじゃない」

 事の起こりは十年前に遡る。蒙昧な自己の確立の為に聖杯を巡る闘争に参戦し、命辛々生き延びた。
 その後、幾らかの時間を日本で過ごし、ほとぼりが冷めたであろう頃に時計塔へと戻ったのは良かったが、その当時の時計塔は荒れに荒れていた。

 当時最高峰の栄誉を手にしていたケイネス・エルメロイ・アーチボルトが──己が師事していた人物が、己を貶めてくれた憎き男が、聖遺物を横取りしてやった相手が死んだ事を知ったのは、そんな時の事だ。

 戦争の最中、結局エルメロイU世は件の男と出会う事はなかったのだから、それも仕方のない事だったのだろう。だがその時の時計塔は、本当の意味での魔窟だった。

 類稀なる才を持つアーチボルト家の頭首の訃報。しかも彼の研究成果は形を得ない状態で放置されており、それを何処で聞きつけたのか、耳聡い権力階級は彼の家の全てを貪り尽くそうと争い始めた。

 最早勉学や研究どころの話ではない。誰もが疑心暗鬼に陥り、互いが互いを牽制し、いかにして、誰がどれだけ多くの利を得るか──より多くの富と権力を手に入れるか……ただそれだけを考える妄執が渦巻いていた。

 その醜い争いを治めたのが、このロード・エルメロイU世だった。

 別に負い目があったわけじゃない。もしあの時、ケイネスの聖遺物を奪わなかったら、などという推測は全くの意味がない。同じ戦いに赴き、自分だけが生き延びた幸運を盾に取る気もない。あえて言うのなら、それでも師事した男だったからだ。

 あの男はエルメロイU世の全てを見下していたが、それでも一時師事した人物には違いない。ついでに言えば自分に出来る事があったから、やっただけだ。その清算を以って彼らとの縁を切る筈が──何がどうなったのか、今の地位だ。

 アーチボルトを立て直した男──と持て囃されても、エルメロイU世の気は晴れない。

 努力をした。積み重ねた。あの戦いを生き延びた事によって得た強さを信じ、出来る限りの事をやった。否、今なお続けているというのに──この男には、どうしようもなく魔術師としての才能がなかった。

 講師しては一流でも、魔術師としては三流だ。そんな事実を衝き付けられてなお、彼は未だ自分の才を信じ続けている。

「ま、それはともかく……何の因果かね。これは……」

 目の前に右手を掲げ、手の甲に刻まれたものを見ようとした時──正面、入り口の方からノックの音が木霊した。

「開いている。入ってくれ」

 エルメロイU世は目に映しかけたものを視界の隅に追いやり、訪れた客人に目を向けた。

「失礼しますロード。ご壮健そうですな」

「ああ。お陰様でね」

 現れたのはスーツを着た年老いた男だった。けれどその背はしっかりと伸び、顔にも老いを感じさせない生気がある。身なりとその動作を見るものが見れば、彼が一流の執事であると知れるだろう。

「それで、本家の方が私に何用だ? 来訪の約束も聞いていないと思うのだが」

「いえいえ、今回の訪問は私情にございます。我らが主とは一切関係のない私事。端的に申し上げれば、ロードと雑談に興じられればと」

「ほう。アーチボルト家の執事長はそんなにも暇なのか?」

「耳に痛いですな。ええ、確かに。ロードが我が家を持ち直して下さったお陰で我々は閑暇な日々を送らせて頂いております。全ては、貴方のお陰でしょう」

「もう何年も前の事だろう。今となってはどうでもいい。それから、腹の探り合いは止めたまえ。不愉快だ。用件だけを言え」

 老年の執事の目が細く怜悧になる。

「では単刀直入に申し上げましょう。ロード、その手に令呪を宿したという噂は真実でしょうか」

「…………」

 エルメロイU世は無言のままに右腕を眼前に差し出した。手の甲には、十年前に刻まれた紋様と同じ形の、翼を思わせる赤い印が浮かんでいる。

 執事は僅かに目を伏せ、それから、より真摯な瞳で告げた。

「無礼を承知で申し上げる。ロード、その証を今すぐに放棄して頂きたい」

「……何故だ?」

「貴方ならば分かりましょう。我らは、その証印を刻んだ頭首の逝去により失墜した。今また、貴方に死なれるわけにはいかないのです」

「はっ、それでは私が今度こそ死ぬみたいではないか」

「はい。偶然は二度起きませぬ。失礼ながら、ロードの講師としての手腕は誰もが認めるところですが、魔術師としては一介のそれにすら及ばない。
 今一度凄惨な闘争の場に赴けば、その死は必然の結果となって貴方を……引いては我々を襲う事になります。今や我らが頭首よりも名を馳せる貴方が失われれば、今度こそ本当の意味でアーチボルトはお終いです」

「…………」

 執事の言は全てが正論だった。今やエルメロイU世の名は時計塔に轟いている。今現在のアーチボルトの頭首は祭り上げられただけの年端もいかぬ少女だ。
 実質的な権力を握っているのは取り巻きの連中であり、このエルメロイU世が表向きの旗振り役をやらされている。

 別段、エルメロイU世はその事に興味がない。権力が欲しくて復興に手を貸したわけではないし、表向きの顔役にされる事も、今の生活を思えば、当然の対価であると割り切っている。

 ただ彼らにとって、エルメロイU世という人物は相当に扱いにくい存在なのだ。没落を救いし救世主、と持て囃してはいても、彼自身には確固たる実力や血統、成果があるわけでもない。
 偶然にも講師という席につけるだけの才覚──というには些か非凡な才だったが──を有していたが故に、今の形を取り繕っているだけだ。

 名門一派を率いるには足りない部外の人間。けれど事実としてアーチボルトを立て直した以上無碍にも出来ず、かと言って彼に死なれてはかつての再来を予感させるに足るほど、彼自身の名声は重くアーチボルトに圧し掛かる。

 だからこそ、彼はこの学院で教鞭を執る。執っている。執らされている。執り続けなければならない。

 利権に目を眩ませた悪意ある者がアーチボルトを内部より掌握するか、未だ幼い頭首が一族を率いるに足る者に成長するまで。

 籠の中の鳥として。飼い殺しにされ続ける。

 そして目の前の男は後者。あるべき頭首を頭首足らしめる為、アーチボルトを守る為、自ら悪役を演じる事すら辞さない本物の執事の鑑だ。

「貴方の言いたい事は理解が出来た。大変だな、執事というのも。すまし顔で悪役を演じるなど、到底私には出来るものではない」

「恐れ入ります。しかし、我らの情勢もご理解頂きたい。外部にも内部にも、隙を見せるわけにはいかないのです」

 ケイネスの研究がエルメロイU世の手により一冊の本となり、アーチボルトを安泰に導いたというのは表向きの話だ。この場所は策謀渦巻く時計塔。何食わぬ顔で研究を続けるその裏で、誰が何を画策しているかなど分かったものではない。

 上に登れば登るほど、敵は多く強くなる。一度崩壊しかけたアーチボルトにあっては、その敵味方の区別もまた慎重に慎重を期さざるを得ないのだろう。
 だから今、表向きの権力者であるエルメロイU世が堕ちては困る。虎視眈々と牙を研ぐ獣を近づけさせぬ篝火を失うわけにはいかないのだ。

「ああ、分かっている。分かっているが、私にも事情というものがある。未練もな。だからもう少しだけ考える時間が欲しい」

「……分かりました。確か開幕までにはまだ時間がありましたな。では一週間、待ちましょう。それまでに充分お考え頂きたい。
 私としましては、色好い返事を頂きたく存じますが……頂けない場合は、それなりの処置を取らせて頂く事になるとは思いますので」

 それでは失礼します、と慇懃な礼をし、執事は去っていった。

「はっ、本当、執事の鑑だね。どちらにしろ逃がす気はないって事か。今が軟禁のような生活なら、今度は監禁されてもおかしくはないのだろうな」

 それがあの男の本気だろう。アーチボルトに尽くす為ならば、いかなる手段にも是非を問わない。

 令呪の刻印がエルメロイU世の手に現れたのはほんの二日前の事だ。その事実は特段誰に話したわけでもないし、時計塔の、しかも学院内では令呪どころか聖杯戦争の事すら知っている者は数少ない。

 一体何処から情報が漏れたのか、あるいは掴んだのかは不明だが、余りに迅速すぎるその行動が、彼らがエルメロイU世を失う事を恐れているのと同時に、厄介な存在だとも認識している証左であった。

 現頭首はそこまで賢しく頭を巡らせてはいないだろうが、だからこそ周囲の人間が出来る限り最大限の警戒と情報の操作を行っている。

 とっくの昔に終わったものとばかり思っていた聖杯戦争という大儀礼との因縁。もう関わり合いにすらならないと思慮の外に追いやっていたというのに、運命とやらは彼を今一度その輪の中に引き摺り込みたいようだった。

 しかしその決断を彼だけのものと出来るほど、今の彼は自由ではない。考える暇もなく衝き付けられた己が背負うものの現実と強制的な決断の意思。

「抗うのならこちらも相応の覚悟を要求されるが……さて、どうしたものか」

 右手の甲を掲げて見つめる。
 かつての色を取り戻した赤い刻印。
 とある王との絆。

 不本意な別れによって引き裂かれた、その続きを見る事が叶うのなら……

×

 五日後。執事との約束の期限を二日後に控えたエルメロイU世は、普段と変わらぬ不機嫌な表情を浮かべて学院の廊下を闊歩する。その隣を歩く、カティという名の女子生徒が声を潜めて訊いてきた。

「……講師、誰かに狙われてるんですか?」

「いや。狙われているというより見張られているという方が正しい」

 あの執事との会話以降、エルメロイU世には常に監視の目が付き纏っている。それも露骨に隠す事無く。
 約束の期限の前に逃亡する可能性など、最初から考慮の内らしい。

「その、事情とかって、訊いても、大丈夫ですか?」

「別に大した事じゃない。私に死なれては困る連中がいて、私が時計塔を抜け出す事を恐れている連中が居る。ただそれだけだ」

 実際ありのまま事実だが、真実ではない。だからこの程度の会話では、要領を得ず首を捻るばかりなのだが、

「……講師は、抜け出したいんですね」

 彼の生徒の誰もが、それなり以上に頭が回る連中ばかりで厄介だった。

「別に。籠の中の鳥もいいものさ。必要なものを全て与えられる生活というのは、魔術師だけでなく人としても理想の生活だろう」

 無論、最低限の仕事は要求されるがね、と続ける。

「空の青さを知っていても、空を飛ぶ術を知っていても、同時に空には恐ろしい化け物がいる事も知っているのなら、鳥は飛び立つ事を躊躇うだろう」

 その籠の中で幸せが完結しているのなら、それ以上を望む必要が何処にあるというのだろう。

「でも……講師は……いえ、私、少し用事思い出しましたっ! 失礼します!」

「あっ、おい、質問は……いいのかよ」

 全く……と呟き、姿の見えなくなった廊下の奥から目を前に向け、何事もなかったの如くエルメロイU世は次の講義のある教室へと向かう。
 その講義を取っている筈の例の三人組の女生徒が一人も出席していなかった事が、少しだけ気になった。

×

 二日後。約束の日。

 アーチボルトの執事はエルメロイU世の執務室を訪れ、決断を求めた。

「ではロード、決断の程を」

「ああ。おまえ達の望むがままだ。私は、この時計塔を脱し冬木に赴く気はない」

「然様ですか。いやはや、これで私の荷も少しは軽くなりましたかな。それでは、その令呪を放棄すべく手筈を……」

「必要あるまい。期限を迎えてもサーヴァントも喚び出さぬマスターがいれば、聖杯も愛想を尽かして別のマスターを求めるだろう。これはその内自然に消えてなくなる。なくならなくとも冬木へと渡る気がない以上は意味のないものだ」

「…………」

 執事は疑いの目を向ける。当然の反応だ、とエルメロイU世は笑った。

「だから件の戦いが終わるまで、あるいは私の手から令呪が消えるまで、今までのように監視をつけておけばいい。それならば文句もないだろう?」

「気付いておられましたか」

 白々しい、と思いながらもそんな無粋な指摘はしない。皮肉を言って通用する相手でもないし、わざわざ事を荒立てるメリットがエルメロイU世には何一つとしてない。澄まし顔で話を続ける。

「ああ。あそこまで露骨な手段に訴えてくるとは思ってもいなかったがね。それほど私の命に価値があるとは、私自身どうしても思えないのだが」

「それこそ軽視というものでしょう。アーチボルトだけではなく、この時計塔には貴方を慕う者は数多く在籍していると存じ上げております。故にこそその御命、大事になさいますよう」

 執事は最後に監視の続行の旨を残して立ち去った。

「…………」

 エルメロイU世は長く息を吐いて背凭れに寄り掛かる。実際、彼らの監視下にあってはエルメロイU世ではその監視網を破れない。
 アーチボルトに仕える腕の立つ連中が四六時中見張っているのだ。せいぜいが四階位程度の、どれだけ高く見ても平凡な魔術師でしかないエルメロイU世では彼らを出し抜くなど不可能だ。

「これで良かったのかな……ライダー……」

 愛おしく右手の絆を撫でる。行けるのならば行きたいと思った。今すぐに。駆け出したいと思った。
 だが十年前の自分と今の自分は違う。何も失うもののなかったあの頃と、権力と地位を得て、誰かの責任をも受け持つ今では自由の度合いが違い過ぎる。

 令呪が浮かんだ直後、当惑と焦燥に駆られはしたが、どれだけ見つめたところでその紋様は消えはしなかった。
 これが初めてであったのならもっと取り乱したのだろうが、彼にとって令呪の発現は二回目だ。一日もあれば充分に事態を呑み込み、頭の整理も出来ていた。

 だがそれでも、彼は即座に飛び出す真似はしなかった。

 籠の中の鳥。扉を閉ざされるその前、空を望む事を許されているその間隙に、彼は羽ばたく自由を押し込めた。
 彼に絡みつく柵との折り合い。空を目指す意思を縛り付けたのは、己が積み上げた鎖なのだ。

 あの頃のように全てを擲ち、無謀と勇気を履き違えて走り出せる自由は、大人になって何処かに置き忘れてしまったのだから。大人になるとはつまり、そういう事だ。
 アーチボルトの執事が言っていた事も理解が出来る。出来るからこそ、苦悩した。苦悩して、決断した。

 だが。それでも。

 あの偉大なる王の背に憧れた彼にしてみれば、今の己を酷く滑稽に思えてしまう。あの王ならば全ての柵を抱えて空を飛ぶだろう。何の迷いもなく、自らの求めるものを手に入れる為に。

 だから。

「それでも僕は……行きたいと、願っている……」

『よく言ったっ!』

「────っ!?」

 飛び上がる程にエルメロイU世は驚いた。目を剥くほどに背筋を何かが駆け抜けた。腰を浮かして周囲を見回す。
 何もない。室内に何の変化もない。ならばあの声は幻聴だったのか──と思った矢先、

「き、貴様ら……」

 広い部屋の一角、壁際からまるで蜃気楼のように、複数の男女が姿を見せた。

「講師っ! やっと言ってくれましたね!」

「もう教授ってばじれったいんだからさー」

「でもわたしはそんな先生を愛してます!」

 例の三人組の女生徒が好き勝手に喚いていた。エルメロイU世には、何が何だか分からない。

「いや……なんで……どうしておまえらがここに……一体何時から……いや、それより、後ろのおまえらは」

「ご無沙汰しております教授。奇遇ですね、こんな場所で出会うとは」

「き、ぐうだと……? 何故卒業した筈のおまえらが私の執務室に潜んでおり、さも偶然会ったような挨拶を交わさねばならんのだ!?」

 彼女達の後ろにいた数人の男女は皆かつてエルメロイU世に師事し、そして卒業していった者達だ。今ではそれぞれが独自の研究に打ち込んでいる筈で、こんな場所にいていい者達ではない。

「おい、エリス。これは一体どういう事だ? というかおまえら、どうやって隠れてた。私の結界が張ってあるこの部屋で、しかも私とあの男の目を欺いて居座るなど……」

 言いかけたところで、現役生徒と元生徒達は『結界?』と首を捻った。

「やだなぁ教授。こんなの(・・・・)結界って呼びませんよ」

「…………」

 その言葉にエルメロイU世は打ちひしがれた。その後に聞こえてきた彼の結界に対する品評は耳を千切りたくなるほど的を得た正論で暴論だった。

「ファーーック! ええい貴様ら、一体何なんだ!? 何しにきやがった!? あぁ、あれか、わざわざ私の技量にケチつけにきやがったのか。余計なお世話だくそったれ、さっさと帰りやがれこの優等生ども!」

「講師講師、優等生は罵倒の意味にはなりません!」

「喧しいっ!」

 荒く息を吐いて柔和な笑みを浮かべる生徒達を睨みつける。呼吸が大分落ち着いたところで、仕切り直しに咳払いを一つ刻んで、冷静を装った。

「で、どういう事だ? 私はおまえらを不法侵入で訴えれば良いのか?」

「先生落ち着いたように見せかけて全然落ち着いてません。でも好きです!」

「アニーはちょっと黙ってなさい。あー、教授。私達全部知ってるんです。カティから聞いて」

 そういえば先日問われて適当にお茶を濁した事があったな、とエルメロイU世は今になって思い出した。
 だがあの程度の会話で一体何を理解しどうやって全てを知ったというのか。

「やだなぁ教授。私達、誰の生徒だと思ってるんですか?」

 考えるまでもなくエルメロイU世の生徒だ。元、もいるが。

「だから私達はちょーっと色んな結界にハッキングして事情を盗み聞きして、私達だけじゃ荷が重そうかなーって思ったので先輩達にも協力をお願いしたんです」

「ええ。まさか教授が困っていると聞いて放って置ける筈もないでしょう。私達が今こうしていられるのは、全て貴方のお陰なのですから」

「…………」

 とりあえずエルメロイU世は話を整理してみる事にした。

 エルメロイU世とカティが廊下でしていた話がエリスとアニーに伝わり、今現在彼が置かれている現状を正しく知る為に各所の結界に干渉して盗み聞きし、恐らくは聖杯戦争や令呪についても知り得たのだろう。

 それでいざ事情を詳しく分析して見ると、未だ生徒の身分である彼女達にとっては荷が重いと判断された。なので、エルメロイU世に恩のある卒業生に事情を説明し、仲間内に引き入れたと。

「……で、大体あってるか?」

「はい。流石教授! ちゃんと頭も回るんですね!」

 それから何を思ってかエルメロイU世は天を仰ぎ、懐から葉巻を取り出し、安物のライターで火をつけて、煙を吐く。言った。

「おまえ達はあれだな、特級のバカだろう」

「そんなっ! 先生ひどい! でも愛してます!」

「あー……で、なんだ。おまえ達は何がしたいんだ?」

「だから教授の手助けですってば。教授、見張られてるんでしょ? でも外に行きたいんですよね? だからそのお手伝いを──」

「アホか」

 一蹴した。

「何処の世界に自分の生徒に助けを求める講師がいる。これは私の問題で、おまえ達には全く以って関係のない事だ。見聞きした事全部忘れてさっさと帰れ」

「教授……」

 そう、これはエルメロイU世の問題だ。彼の生徒達を巻き込んでいい問題ではない。

「はあ……まあ教授なら、そういうと思ってました」

「ならば早く帰れ」

「思ってたので、帰りません。是が非でも教授を時計塔の外に放り出します」

 コイツは一体何を言っているんだという目でエルメロイU世は生徒を見た。

『それでも僕は……行きたいと、願っている……』

「────っ!?」

 突如聞こえてきた自分の、けれど自分が今発声したものではない声にエルメロイU世は目を見開く。

「だってねぇ教授ぅ、ちゃぁんと言質頂いてますからぁ」

 エリスの手の中でボイスレコーダーが揺れていた。

「先生って、僕って言うんですね。ステキです! 結婚しましょう!」

「え、エリスちゃん、それ、後で私にもダビングを……」

「こ、このっ、お、おまえらは……っ!」

 怒りの沸点など当に超えたエルメロイU世は、最大級の怒声を放ってやろうと大きく息を溜めて、

「教授。とりあえず落ち着きましょう」

 ふわりと何かが鼻先を掠める。鼻腔を擽る甘い匂い。それが即効性の催眠魔術の匂いだと気が付いた時には、遅すぎた。

「おまえらっ、何を……!」

 元生徒の一人が一歩前に出る。

「何度も言っていますが、僕らはあくまで教授のお役に立ちたいだけなんですよ。教授がこの監視網をどうにも出来ないのなら、僕達が連れ出します」

「だからそんなものっ、私は望んで……っ!」

「それならばそれでも構いません。とりあえず時計塔の外に連れ出すので、戻りたければ戻ってください。行きたければ、行ってください」

 余りにも強引な暴論。エルメロイU世の意思など既にあってなきものだ。

「貴方の柵についても理解しています。アーチボルト家との折衝も、まあ僕達なら何とか出来るでしょう」

 彼の元生徒の数人は名家の生まれで協会上層部に強いコネクションを持っている。更に卒業した者全てが王冠グランドを称するという前代未聞の成績を収めている。

 どうしようもなく魔術師としての自覚に欠けている事──無論随分と改善はされているが──を除けば、彼らは時計塔でも上位に位置する存在だ。
 そんな彼らが結束し、行動するのなら、大抵の無理を通せるだろう。それだけの実力と血統、権力を持つ者達なのだ。

 だからこそ、気に食わない。エルメロイU世は納得しない。何故ならそれは自分自身の力ではないからだ。
 講師としての力などに興味はない。他者を従える、王の力は必要ない。ただ彼が欲したのは、王の傍らにある為の力だ。

 だから己の不肖を歯噛みする。生徒に遅れを取る己を罵り続ける。

「ファック……だから私は……おまえらが……気に、食わないんだ……」

 落ちる瞼を止める術はない。膝を付き、身体をも横たえて、意識が完全に途切れるその瞬間。

「知ってます。でも教授。それでも私達は──教授の事が好きなんですよ」

 くそったれ、と最後に吐き捨てたつもりだったが、それがちゃんと声になっていたかどうかは、彼自身には分からなかった。

×

「…………くっ」

 身体に痛みを覚えて意識が目覚める。開いた瞼が最初に捉えたのは、梢の間より降り注ぐ陽光だった。
 ギシギシと軋む身体を酷使して身を起こす。周囲を見渡せば、どうやら森の中にいるようだった。

「おい……何処だここは」

 無論返る声など無い。

「あいつら……本当に人を放り出しやがった」

 何も森の中に捨てて行く事はないだろうに。せめて街中の安ホテルとかであればまだマシだった、と思った矢先、自らが背凭れにしていたものに気が付いた。

「旅行鞄に衣類に財布、パスポート……一体何処から持ってきたんだ……私はやはりあいつらを住居不法侵入で訴えればいいのか?」

 だがこれだけでは足りない。これではただの旅行者だ。冬木に渡るのなら、絶対に持っていかなければならないものがある。あれがないのなら、どの道行く理由がなくなる。だから時計塔に戻るべきだと判断して、

「──ハッ、本当、あいつらの頭の中はどうなってやがるんだ」

 あった。エルメロイU世が執務室の戸棚の奥に厳重に保管しておいた筈のケース。物理的に魔術的に封をしておいた筈のもの。とある王の、マントの切れ端。

「ああ……まあ、私程度の封印など、あいつらには算数くらいのものなのだろうな」

 ファック、と誰かを罵り腰を上げる。

「…………」

 行く事と戻る事。その選択を許された。

 力を得ると同時に絡みついた柵。力も柵も、望んで手に入れたものではない。望んでいたものですらない。だが途中で放棄するという事だけはしたくなかった。その内に名講師などと呼ばれ、多くの生徒を輩出してきた。

 それは結局責任だ。投げ出す事を許されない鎖だ。十年前、何一つ持たなかった少年が培った努力の証。認める認めないに関わらず、その事実は覆せない。

 ならば今、この場より戻る事が逃げなのか。進む事が放棄なのか。どちらが正しい選択であるのか……

「ハッ──くそったれ。そんな小難しい事を考えるように、私の頭は出来ちゃいないんだ」

 頭に浮かぶ現役生徒の顔と元生徒の顔。最後の瞬間、確かな笑みをくれたその顔を、今更になって克明に思い出した。

「ああ……理由は単純だ。今戻れば、あいつらに馬鹿にされる。だから私は冬木に渡る。理由としちゃ、それで上等だ」

 自らに言い聞かせるように言って、エルメロイU世は遠く昔に一度訪れたきりの土地に想いを馳せた。

 十年前に誓った約束。王の別れの笑みの意味を、今なお探し求める一人の男が一歩を踏み出す。
 あの時のように。ただ前を向いて走り続けられた頃を思い起こしながら。

「行くぞライダー。もう枠が埋まってるなんてオチは、勘弁だからな!」

 荷物を背負い駆け出す。

 籠の中の鳥は、今再び大きく羽ばたく。誰かの手によって破壊された籠より抜け出し。自らを縛り付けていた枷を振り解き。
 青く澄み渡る、空という名の大いなる居場所を求めて。十年前の続きを求めて。

 右手に刻まれた赤い約束が、静かに煌きを放っていた。


/2


 ────斯くして。

 道中様々な事があったような気がするが、ロード・エルメロイU世はどうにか期日前に冬木市入りする事に成功した。
 無論の事、手の甲には燦然と輝く令呪を宿したままで。

「変わったな……この街も」

 タクシーより降りて今歩く深山町はともかく、新都の方は十年前より大きく発展を遂げていた。未だ建造途中であったセンタービルは完成し、駅前広場も雑多に賑わう街の中心部となっていた。

「十年か……そりゃ私も老けるわけだ」

 自嘲し、目の前に続く道路から脇道に入り、鬱蒼と生い茂る林の中へと入っていく。どちらにしようか迷った。十年前、最初に王を召喚した場所と、不本意な別れを見る事となった場所。どちらで王の召喚を行うべきかと。

 十年前の続きという意味では後者だろう。あの場での、聖杯を目前にした今は無き冬木市民会館入り口で見上げた黒い太陽から漆黒の汚泥が降り注ぎ、王はマスターを逃がす為に呑み込まれた、あの、別れの続きを見るのなら。

 彼に決断を促したのは至極単純、立地の差だ。タクシーの中で聞いたのだが、第四次聖杯戦争終結の地は今やただの野原になっているらしい。
 ただそれでもあの場所が新都の中心地帯である事には変わりなく、この未だ早い朝の時間帯にそんな場所でまさか召喚行使を行うわけにもいかない。

 ただし夜まで待つというのも論外だ。ただでさえ出遅れているのだから、既にライダーの枠が埋まっているという最悪の可能性をも考えるのなら、一刻も早く召喚してしまいたかった。

 更に言えば、既にサーヴァントの跳梁するこの街で、サーヴァントを従えていないマスターなど恰好の餌食にされかねない。王を喚ぶよりも前に令呪を奪われて殺されるなんていう末路は絶対に避けなければならない。

「これで別人が出てきたら、本当、ついてないな」

 いや、ある意味ではその言葉も正しいと思っている。サーヴァントは英霊の本体でありながら影でもある。全ての記録があるという座にあって、果たしてあの戦いの日々が記録されているのだろうか。

 王はこの、変わり果てた男を見て、かつての少年を思い出す事が出来るのか──

「柄でもないな。そんな純情は十年の昔に置いてきた」

 ざり、と枯れ葉を踏みしめる。見覚えのある風景。風景というよりも、この場で行った召喚の方がより鮮明に覚えている。
 身を満たす恍惚。圧倒的な魔力の渦。およそ彼自身の魔力総量では行えない規模の召喚を確かにこの場所で行った記憶がある。

 膝を曲げて地面に指を這わす。風雨に流されたのか、あの時書いた召喚陣は既に跡形もなくなっていた。

「じゃあ、始めよう」

 決意を言葉に変えて作業を開始する。召喚に大規模な下準備など必要ない。生徒らによって詰め込まれていた魔術道具一式から必要なものを取り出し、枯れ葉を除けた地面に、定められた紋様の陣を自らの血を混ぜ込んで描くだけ。

 ものの十分程度で下準備は終了した。

 更に触媒として持参した王に縁あるマントの切れ端を設置し、正面に立つ。大きく深呼吸し、吐き出す。

「──来い、ライダー」

 詠唱が始まる。十年前に覚えた歌。忘れもしない約束の言葉。朗々と、高らかに。澱みなく召喚の祝詞を謳い上げる。
 高鳴る胸の鼓動をそのままに。期待と不安に駆られながら。一つずつ。一つずつ。想いを言葉に変えて綴りゆく。

 ──ライダー。

 吹き乱れる魔力の渦。奔流は枯れ葉を舞い上げ視界を奪う。目も開けられない嵐の中、それでもエルメロイU世はしかと瞼を開いて待つ。

 ──来い。

 この手に刻まれた赤き令呪。当初は困惑するしかなかったこの印も、今や何よりも愛おしい。何故今一度聖杯が自身を選んだのかなど知りはしない。理由も、意味も、何もかもが関係ない。

 ただ……十年前に終わりを告げた物語を、今一度見る事が叶うのなら。白紙の物語の続きを、今一度共に紡げるのなら。

 ──おまえに記憶があろうとなかろうと関係ない。それでもおまえは、僕を朋友と呼んだ王なのだから!

 魔力の高まりが最大級に達する。そして、最後の言葉を紡ぐ。

「抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ────!」

 発光。奔流。収束。舞い上がっていた枯れ葉が、粉雪のように舞い落ちる。その向こう──視界の先に、赤い、獰猛なる獣の姿を確かに見た。

「問おう──貴様が、余を招いたマスターだな?」

「ああ……」

 懐かしい音。心地良い響き。

「そうだ。私がおまえのマスターだ。征服王イスカンダルよ」

 十年前の想いが、今鮮明に蘇った。

×

「ふむ……」

 王は節くれ立った指を動かし感触を確かめ、次いで四肢、全身と、まるで身体がある事に喜びを見出すが如くゆっくりと動かした。

「久しいな、この感覚は。うむ、悪くない。全く以って心地良い。して──」

 王の瞳が男を見る。エルメロイU世は息を呑んだ。紡がれる言葉が、たとえどんなものであろうと受け入れると覚悟して。

「貴様、名をなんという?」

「────ハッ」

 覚悟していた。理解していた。覚えてなどいないと。どれだけの想いを詰め込んでも、世界の摂理の前には余りにも無力なのだと。
 この目の前の王は十年前の出来事など何一つ知らないイスカンダル。この己を、朋友と呼んだ王では、ない。

 ……構わんさ。

「私の名はロード・エルメロイU世という。好きなように呼べば良い。おまえは征服王イスカンダルに間違いないな?」

 ……忘れたというのなら、思い出させてやろう。

「応とも。余はイスカンダルに相違ない。クラスはライダー。つまり貴様は余を狙って喚び出した口か。ふん、中々の目利きよ」

 ……このロード・エルメロイU世の真の名を、今一度思い出させてやる!

「ならばここに契約しよう。私はおまえと共に聖杯を勝ち取る……と言いたいのだが」

「うん? どうした。何か問題でもあるのか?」

「ああ。私は前回の……第四次聖杯戦争の顛末を知っていてね。ただ我武者羅に敵サーヴァントを倒していくという手段は、余り取りたくない」

 実際のところ、エルメロイU世はあの戦いの結末がどういうものだったのか、誰の手によるものか、何を思っての事か、何故あの大火災に繋がったのかを知らない。
 無論出来る限りの情報を集め、調べはしたが、聖杯戦争の資料自体が数少なかった。協会に身を置く人間であっても、いや、であるからこそ余所の魔術師の儀式には然程の興味を抱かない。

 協会程度の資料で知り得たのは聖杯戦争の起こりと、基本的な儀式内容のみ。真実を知るのは始まりの御三家の人間か、あの時あの場所にいた筈のマスターのみ。

「だからまずは情報収集だ。今回のマスターとサーヴァントを見極め、事情を知る人間を見つけ出す。そして聖杯の真実を知る事を第一に……っておい、ライダー」

「なんだ?」

「何だじゃないだろう。おまえは一体、何をしている」

 エルメロイU世の話など何処吹く風と、ライダーは聞き流しながら彼がこの場所まで抱えてきた荷物の中から、一冊の本を取り出していた。

「ほう、イリアスか。貴様、中々どうして物の道理を心得ているようだな。うむ、イリアスは深遠よ」

 それはホメロスの詩集。流石に生徒達もそれにまでは理解が及ばなかったのだろう、今ライダーが手にしているのは冬木へと来る途中に購入した新品のそれだ。無論、それはおまえの為に買ってきてやったのだなどという事は、口が裂けても言わない。

「おい、私の話を聞いているのかおまえは。サーヴァントならサーヴァントらしくマスターの話を聞け」

「あぁー? だってよう坊主」

「ぼっ……坊主!? この私の何処が坊主だというのだっ!」

 憤慨を露にするエルメロイU世。彼の身長はあの頃より恐ろしく伸びている。男子平均身長から見ても高いくらいだ。若輩魔術師で頼りなかったあの頃ならいざ知らず、今更坊主などと言われる筋合いは何処にも無い。

「そりゃおまえ、見た目ばかりでかいだけの男には坊主で充分だろうが。あのなぁ、坊主のやり方は七面倒臭いぞ。
 聖杯の真実? そんなもの、戦っておればその内見えてくるものよ。手に入れる前から手に入れるものの真贋など考えても何の得もない。手に入れてから検めればそれでいい。それで気に食わんものならぶっ壊せば問題などなかろう」

「…………」

 ああ、コイツは間違いなく、あのイスカンダルなのだと、この時確信を得た。

「だからな、前回はその真贋の前に……その、色々とあったんだよ。おまえだって偽物の聖杯に踊らされるなんてのは、嫌だろう」

「ああ……まあなあ。余も“あるかないか知れぬモノ”を探して世界を巡った口であるからして、またしてもそんな目に遭うのは好ましくないが……」

「だったら──」

「だがよ坊主。だったら余は、何の為にこの世に喚ばれたのだ?」

 聖杯の否定は、願いの否定。

「サーヴァントは願いを叶える為に聖杯の召集に応じる。余も叶えたい願いがあったが為に今こうしている。
 では、その願いを叶えるべき聖杯が願いを叶えないものであるとすれば、余の願いは一体何処に消え行くというのだ」

 それは矛盾。根本を覆しかねない歪だ。

「それはつまり……契約違反というヤツか」

「ああ。詐欺の類だろうな。が、確かに聖杯は願いを叶える代物であろうよ。でなければ英霊の召喚という奇跡は起こらず、そして容認されまい。世界というヤツは矛盾を嫌うと言うではないか」

「…………」

 少なくともその仕組みは正しい筈だ。何処か歯車がずれているのかもしれない、というだけの話で。

「で、なんだ。坊主はその聖杯の真実とやらを見極めるまでは、少なくとも他の連中とは争いたくは無いと、そういうわけか?」

「ああ、出来る限りな」

 実際問題として、何故あの結末を迎えたのかを知らなければならない。そこには確実に聖杯戦争の根幹に関わる何かがある筈なのだから。
 そんなエルメロイU世の思索を知ってか知らずか、ライダーは顎に手を当て唸った。剣呑な溜め息と共に。

「ふぅむ……じゃあいきなりそりゃ無理だな。坊主はそう思っておっても、向こうはそうは思っておらんようだぞ?」

「──っ!」

 つい、とライダーの視線が左右にばら撒かれ、エルメロイU世もまた、その意図を察し理解した。何時の間にか、囲まれている。

「チッ……いつから……」

「最初からだ。少なくとも余がこの場に降りた時にはもうおったようだな」

「ばっ!? おまえ、それならそうともっと早く言えよっ!」

「いやぁ、坊主の仲間かとも思ったもんでな。ちょいと刺激してやったらすかさず乗ってくるもんで、こりゃあ敵だなと」

 余裕の体を崩さないままに、ライダーはホメロスの詩集を鞄に戻して立ち上がる。赤色の鬣が、木々の間に舞う風に揺られて炎の如く煌いた。

「おう者共。物陰から盗み見なんていうのは、盗人のする事よ。それともあれか? 貴様らは盗み見る事しか出来んような小者か? ならば致し方ないが、それでも王たる余に敵意を向けて、ただで帰ろうなどとは、思っとらんよな?」

 腰元よりすらりと引き抜かれるキュプリオトの剣。鋼の輝きが薄暗い林の中で輝き、獰猛なる王の面貌を映し出す。

 刹那、風が渦を巻いて王へと迫る。

「ふんっ!」

 それをただの一刀にて両断するライダー。舞い上げられた枯れ葉ごと斬り裂いた剣閃は豪快にして鋭利。セイバーのクラスにも引けを取らない太刀筋だった。
 しかしエルメロイU世は過去に何度もその剣筋を見ている。驚きはない。むしろ悠然と傍らに立ち、周囲の気配に探りを入れる。

 ……十……いや、二十近い人数。それと遮音の結界。ふん、中々上手く張る。風呪も予備動作なしで放てる……か。

 エルメロイU世は魔術の実践能力はからきしだが、魔術の構造把握能力と研究者としての洞察力には並々ならぬ才がある。
 十年前は己のそんな才能の片鱗にすら気付いていなかったが、その十年の間で磨き上げた慧眼は、彼にとって唯一つとも言える武器である。

 たとえその場所が戦場であっても、王の隣に立つ為の努力を積み重ねてきたつもりなのだから。

「ライダー、敵は約二十。全員魔術師だ。それもそれなり以上には腕が立つと見える。サーヴァントの気配は?」

「少なくとも余の知覚範囲にはおらんようだな」

「そうか。ならば宝具はいらん。敵の狙いが見えない内は迎撃だけをこなしておいてくれ」

 的確な指示だった。どんなに手練であれ、魔術師であるのならサーヴァントを打倒するのは難しい。四方八方からの同時攻撃も、マスターを狙い撃つ可能性も、この王ならば全て問題なく潰せるという判断だった。

 それは信頼にして確信。歴史上の人物として知るのではなく、実際に戦う姿を見た事があり、共に戦場を馳せたからこそ置ける絶対の信頼だ。
 あの頃……ただ王の後ろで震え、それでも気丈に振舞う事しか出来なかった少年ではもうないのだ。

 マスターとしての能力はあの頃と大差はない。魔術師としての能力も他の連中と比べれば明らかに劣るだろう。だが、彼に出来る事は確かにある。
 この十年で積み上げた賢しい頭脳は彼の武器。研究者として秀でた能力は、王の隣に立つ事で、軍師のそれとして機能する。

『おや、これは中々冷静ですね。流石は時計塔に名を馳せるロード・エルメロイU世その人ですか』

 虚空より声が響いた。幻覚がかけられているのは分かったが、声の元までは探れない。

「私を知る者か。なんだ? まさかアーチボルトの手の者か?」

 有り得ないとは思いつつも問いかける。あの憎らしくも優秀な生徒達がそんな落ち度を残す筈も無い。

『いえいえ、全く別口の人間ですよ。それにしても……なるほど。貴方を見かけた時は何事かと思いましたが、時計塔を抜け出して来たのですか』

「そいつは違うな。私は生徒に放り出されただけだ。全く、最近の若者は目上を敬う姿勢がなっていない。そうは思わないか?」

『心中お察ししますが、はて……私と貴方ではどちらが年上なのか……まあ、そんな事はどうでもいいでしょう』

「目的は何だ、私の令呪か? であるのなら、尾行している時に背後より襲い掛かれば良かったものを」

『それも一興でしたが、生憎と令呪はもう既に一つ持ってますので』

 ……やはりマスターか。

 ただこれだけの会話をしてもなお相手の目的は見えて来ない。周囲を囲んでいる連中の位置くらいは把握出来ているが、距離が遠い。
 攻撃を当てる事を念頭に置いた距離ではなく、いつでも逃げ出せる事を前提としたような距離だ。

 これだけ間合いが離れていては、さしもライダーでも全員を討ち取るのは難しい。宝具に頼れば可能だろうが、相手がマスターと知れた以上、無闇に手の内を晒すのは戦略上巧くない。

 更に厄介なのはこの声の主──リーダーと思しき人物の居場所が特定出来ない事。集団は通常、頭を潰せば瓦解するものだがこれではそれも不可能。
 彼らにとっての上策は相手の出方を待つ事。立場的に優位にある今、こちらから先に手札を切るなど論外だ。

『そうですね、我々の目的はサーヴァントとの交戦なのですが……欲しい情報は手に入りましたので、撤退させて頂きましょうか』

「何……?」

『では御機嫌よう、ロード。もし我々が征服王以上の英霊に巡り会う事がなければ、その時は本気で戦いを挑ませて貰います。それでは──』

 まるで漣が引いていくように、魔術師達の気配が遠ざかっていった。

「なんだあやつらは。一体何がしたかったのだ?」

 啖呵を切ったにも関わらず乗ってこず、しかもロクな戦いにならなかったせいか、ライダーは若干不満気だった。

「分からん……が、わざわざライダーの異名を口にしていった以上、おまえの真名を知る事が目的だったようだ」

 召喚直後の会話を既に聞かれていたのだろう。ライダーとの再会に心奪われている隙に取り囲まれるとは、失態だ。
 しかし真名を知る事が目的ならばその時点で達成されている。ならば何故攻撃を仕掛ける真似をしたのか……

「順当に考えればこちらの手札を明かそうとしたか」

 ならば失敗したのかもしれない。こちらに攻撃の意思がないと宣誓してしまった以上、向こうも余計な真似はせずに撤退した、というところか。正面切ってやりあえば、どちらがより被害が大きいかは明白なのだから。

「ふん……厄介な連中もいたものだな」

 包囲の早さ、位置取り、魔術の運用レベル、ライダーの挑発にも乗らなかったところを見れば、かなり場慣れしている連中だ。そんな魔術師が、しかも集団で動いているというのは面倒だった。

 何れにせよ去った連中にあれこれと頭を悩ませても意味がない。頭を切り替える。

「さて──ライダー」

「あん?」

 既に剣を鞘に収めて、いそいそとホメロスの詩集を取り出そうとしているライダーに話しかける。呆れ果てたが、とりあえずの指針を伝えておく事とした。

「昼は調べ物を中心に行動し、夜はおまえの望む通りにサーヴァントを捜そう」

「なんだ? 一体どういう心境の変化だ坊主」

「いや何、それが一番効率が良いと思っただけだよ」

 一人で調べ切れるものなど高が知れている。真実を探るにはマスターを当たる方が効率は良い筈だ。ついでに幾つか心当たりもある。
 一応の方針は固めておくとしても、どの道予定調和にはいかない事など最初から分かっているのだから。

「とりあえず移動するぞ。一つ、行っておきたい場所があるんだ」

×

 ライダーを召喚した林から歩く事十数分。眼前に高く聳える石段を見上げて、エルメロイU世は息を吐いた。

「相変わらず長い坂だ」

 ライダーは今は霊体になっている。流石に現代の衣服まで準備しておいては勘の良いこの男に気付かれる可能性があったから、事前に購入はしていなかった。
 それはエルメロイU世も心の何処かでは、最初からライダーはライダーであっても、かつてのライダーではない可能性を予感していたからなのかもしれない。

 途中、山門を修理している業者の人間がいた。迂回する時、ちらりと見ただけだが、何者かの手によって破壊されたような痕跡が窺えた。
 今のこの街の事情を慮れば、それが聖杯戦争の余波であると考えるのは当然だ。しかしこの程度の被害など最小と言っても過言ではない。

 どの道今は関係のない事だと割り切って、エルメロイU世は境内を抜け、林道を奥へと歩いていく。

『おい坊主、貴様、何処に行く気だ? ハイキングなぞする程健康的には見えんがな』

「するかっ! 何、ちょっとした知り合いに会いに行くだけだよ」

 もう来る事はないと思っていた。もう会う事もないと思っていた。過去を振り返らないとあの時、確かに誓ったから。
 ただそれでも、この街を訪れた以上は、顔を出しておくべきだと思ったのだ。

「────」

 結構な時間を歩き通し辿り着いたのは、空を一望し、山々の景観が美しく映える小高い丘の上。その片隅に、それは十年前から変わらずあった。

「……なるほど。この寺の僧は、中々に気が利くらしい」

 こんな場所に足を運ぶ人間はいないと思っていたが、世界には奇特な人種というのはいるようだ。
 少しだけ盛り上がった土。十字架を模した簡易な墓標。十年前に作り上げたそれが、その間の風雨に晒されて無事である筈がない。

 元よりこの場所には何もないかもしれないという覚悟で顔を出したが、見知らぬ者を悼む事の出来る人間というのは、思いの他世界には多いようだった。花まで添えてあるとは、完全に予想外だった。

 誰とも知らぬ者に感謝を告げ、エルメロイU世は目を伏せて黙祷した。

 ──リディア……。

 それは十年前、あの凄惨な戦いの犠牲となった少女。何も知らず、ただ傀儡のように操られ、何故己が死ぬべき運命となったかすら理解出来ずに亡くなった少女。

 彼は彼女に強さを貰った。今こうしてある自分の幾らかは、彼女の影響と言っても過言ではない。

 ──君のような犠牲はもう出さない。それも、私の目的の一つだ。

 戦いに覚悟を以って臨む者が死を受け入れる事に異論はない。だが、何も知らない者が巻き込まれる事を容認出来るほど、エルメロイU世は狂ってはいない。
 だから今度は、あの悲しみを生み出させない。過去は教訓となり、彼の心に刻み付けられている。

 彼が目を開くと、傍らには霊体であった筈のライダーがいた。王もまた、静かに目を伏せていた。

「殊勝な心がけだな。おまえにも誰かを悼む心があったのか」

「貴様は余を血も涙もないただ強欲な王と勘違いしとるんじゃないだろうな。死者に罪はない。罪を背負うは生者の業よ。涙も流すし悼みもする。だが決して、後悔だけはしてはならん」

「ああ……知っているさ。そんな事、十年前から知っている」

 向き合う強さ。引き摺らない強さをくれたのは、他ならぬおまえ達なのだと、エルメロイU世は言葉にはせず想いを綴った。

「行くぞライダー。街に下りよう、宿もとってあるしな」

 十年前に世話になったマッケンジー邸を今一度訪れる事は出来ない。あの時は赤の他人だからこそ利用できたが、今は既に見知った人達だ。彼らに迷惑を掛ける訳にはいかない。彼らに会うとすれば、それは全てが終わった後になる。

「ふぅむ、ならばまずはこの現代の街並みの探索と行くか。行くぞ坊主、ついてこい」

「……いや、おい待てって。なんでおまえが仕切ってんだよ。しかもおまえ、そんな格好で街中出る気か!?」

「貴様の用件に付き合ってやったのだ。今度は余の用件に付き合うが道理だろう」

「はぁ!? なんでそんな飛躍するんだよ! というか私はおまえの召喚で相当魔力持って行かれてて結構辛いんだ……って、ちょ、おい、待て、待って……待てって言ってるだろこのばかぁあああ!」

 懐かしい声が林道に響く。王は肩で風を切り、従者は憧れた背を追いかける。いつか夢見た図式。郷愁が胸を焦がす。

 彼らの戦いが今、再び幕を開けた。


/3


 冬木市の北西部には広大な森林地帯が広がっている。灰色の樹木と乾いた土に覆われた森は、遥かな時代より人の手が一切入る事無く放置されており、およそ人が近づくような場所ではない。
 それでも年間に数人、あるいは数十人がこの森の中に迷い込み、生還した者の中には奇妙な幻影を見たとする者がいる。

 曰く──その森の奥には、古めかしくも巨大な城が聳え立っていたと。

 無論、そんなものが実在していれば発見されない筈がない。たとえ前人未踏の奥地であっても、航空機の発展した現代にあって、その空よりの目から逃れる術はない。そう……普通ならば。

 その城は普通ではない。その城を目撃したという者達は、狐に化かされたわけでも幻を見たわけでもない。その古城は、確かに実在している。
 ただその城を正しく認識出来る者が、極端に少ないというだけの話だ。

 夜。

 凍る程に蒼い月が見下ろす深い森の奥。幻と謳われる城には明かりが灯っていた。外装は中世の古城を思わせながらも、内装は豪奢にして絢爛の様相を呈している。

 白磁で統一された回廊。金の刺繍をあしらったレッドカーペット。燦然と輝くシャンデリア。室内も同様にしてなお豪奢であり、調度品一つとっても破格の値のつく代物であるのは間違いのない事だった。

 この城に明かりが灯るのは通常六十年に一度だけ。だが今回は、十年という早期にその城は再び拠点としての役目を全うする事となった。

 アインツベルン。

 聖杯の獲得……ひいては第三魔法の顕現に一族郎党の生涯を費やす狂信者。千年の願いは最早、妄執という名の狂気に成り代わり果てている。

 そしてその城の最上階。彼らの本拠地のある北欧の城を模したこの城にも、その広大な空間は存在していた。

 礼拝堂。闇に覆われた礼拝堂。

 教会のそれに勝るとも劣らない峻厳な一室。明かりが灯っていれば、その荘厳な造りに誰しもが息を呑んだであろう礼拝堂も、今現在は闇の中に没している。ただ輝くのは、最奥に飾られた巨大なステンドグラスのみ。

 そのステンドグラスは、周囲の完璧な調和を乱すが如く粉砕されていた。否、それは恐らく、故意に破壊されたものだ。

 遠坂、アインツベルン、マキリの始まりの御三家の魔術師が、遥か天空にある黄金の杯に手を伸ばす構図。
 その美しい絵は、今や遠坂とマキリの魔術師の部分が完全に砕き割られ、夜の闇を直接映している。

 ステンドグラスの役割を果たしているのは、中央のアインツベルン……『冬の聖女』であるユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルンが聖杯を掴もうとしている部分だけだった。
 けれどこの図式こそが完成形であると示すように、黄金の杯は月の光で満たされ、尊い輝きを放っていた。

 その下──礼拝堂にある筈の祭壇には、本来あるべき祭壇はなく、まるで謁見の間のようにぽつねんと、けれど威圧を放ち存在する玉座があった。

 巨大な扉を開け放ち、一人の女が礼拝堂へと入る。同時に、玉座へと伸びるレッドカーペットの周りに蝋燭の火による道が出来上がる。
 脇に控えていたのは白い衣装を着たメイド達。燭台を持ち、一分の隙もなく居並ぶ彼女らは、まるで王を迎える騎士の如く凛然と立ち尽くす。

 本来ならばそれだけで尻込みをしそうな光景。けれど女は悠然と肩で風を切り、正しく己が王であると主張しながら歩を進める。

 無音の世界。ただ広大な空間を威圧感だけが支配する。

 女は玉座に辿り着き、くるりと振り返る。月明かりを受けるステンドグラスの輝きは、彼女だけを照らしていた。

「全ての準備は整ったわ。マスターもサーヴァントも出揃った。この街に集ったのは過去類を見ないつわもの達。誰が聖杯に手を掛けてもおかしくはない……」

 女は艶やかに微笑む。

「けれど我らの優位は揺るがない。そうでしょう?」

 四度の闘争に悉く敗れた彼らは、この五度目の戦いを最後にする意気込みで、これまでありとあらゆる準備を尽くしてきた。
 他家が衰退し新たな地盤を構築している最中、最も早くこの早期の開幕を予期し下積みを行った彼らに、今度こそ抜かりはない。

 女の言葉を受けて、その集大成が姿を現す。

 黒と闇の埋め尽くす空間に、なお黒い闇が生まれ落ちる。玉座の下手に夜の闇が具現化したような漆黒が渦を巻き、その中から、一人の人間と思しき者が姿を見せる。当然、顔など窺い知る事が出来ない。

「…………」

 闇は何かを口にした。言葉だったが、その声を聞き届けたのは玉座に座る女のみ。

「ええ、大丈夫。貴方は何も心配しなくていい。貴方の望みは、聖杯が必ず叶えてくれるでしょう」

 闇は静かに姿を消し、黒は黒によって埋め尽くされた。

 その時、世界を震わせる唄が城を覆った。地を沸き立たせ、天を貫く咆哮。それでなお優しく世界を包む母なる唄。それは遥か彼方──冬木市の中心で奏でられた唄だったが、彼女達は確かに聞き届けた。

 静かに目を伏せ、何処とも知れぬ場所より届けられた唄声に耳を傾けていた女は、瞼を細く開いた。

「……良い唄ね。そして、良い開幕だわ」

 七人の魔術師(マスター)と、七騎の使い魔(サーヴァント)を駒に見立てた戦争(ゲーム)の開幕を告げるファンファーレ。それが今、高らかに鳴り響いたのだ。

「始めましょう、私達の戦いを。聖杯を巡る戦いを。悲願を遂げる──戦いを」

 聖杯を担う血族。

 不本意ながらに手を結んだマキリも遠坂も今や堕ちた。このアインツベルンこそが、勝者となる時。運命の采配により定められた刻限。
 今度こそ、聖杯を取り戻す。今度こそ、第三魔法(ヘブンズフィール)へと至るのだ。

 揺るぎのない決意と、『無敵』のサーヴァントを従えて。
 悲願を手中とする為に。

 彼女達は、最後の戦いに臨む。


/4


 夜に響く唄声。騒音とすら認識されない清廉なる音が戦いの舞台を包み込む。朋友との再会の喜びを示し、戦いの幕が上がった事を告げて。

「────……」

 唄声はやがて止み、夜の帳が降りる街に静けさが戻り、次いで、手を打ち鳴らす音が響いた。

「いやはや、これほどに美しい唄声を聴いたのは初めてだ。素晴らしい」

 何時の間にか半刻ほどの時間が過ぎていたらしい。仲間であった魔術師の弔いに赴いたコートの男は、無手のままで再度姿を見せた。

「例えるのなら、大地の産声。人に奏でられる音ではない」

「大袈裟だね、君は。それより、用件は済んだのかな」

「ええ、滞りなく。私自身の手で彼らを手厚く葬る事が出来ました。貴方との契約も、彼らがいなければ果たせなかった。故に私は、彼らの死を無駄にしない為に、是が非でも聖杯を掴み取らなければならない」

 目深にフードを被っているお陰で、男の表情は窺い知れなかったが、言葉の力強さからこの戦いに賭ける意気込みを聞いた。けれど、若草色の英霊は柔和な笑みを浮かべてそっけなく言った。

「そう。でも僕は余り聖杯には興味は無いかな」

 コートの男はその程度で腹は立てない。むしろその為にこそ彼を喚んだのだから。

「貴方の目的は、やはり?」

「ああ。彼との決闘……あるいは語らい。この戦いが聖杯戦争である以上、彼と僕が出会えば戦う以外には道はないと思うけど、別の可能性も有り得るからね」

 英雄王ギルガメッシュを触媒としての英霊召喚。彼の叙事詩にて語られる王に比肩する神の造りし泥人形。

 逸話が違えば強さの正当な比較など不可能だ。ギリシャ神話と北欧神話に登場する人物を比べられるのは、実際に喚ばれた彼らが対峙したその後でしかない。

 それでは最強を称する英雄王に勝てる可能性はほとんどない。故にこそ、コートの男は彼の者を招いた。唯一人、英雄王に比肩し得る存在。実際に対峙せずともその力量を把握できる唯一の者を。

「良いでしょう。では私は彼の英雄と貴方が共に最高の状態で戦える舞台を作り上げる為に動きましょう。
 その結果が恐らく、聖杯を掴む者を決める最終局となるでしょうから」

「そうかな? そう簡単にいくとは、僕には思えないけどね」

「……と言いますと?」

「君も覚えておいた方がいい。『最強』に勝てるからといって、『最弱』に負けないなんて道理はないと思うよ。
 彼も僕も『無敵』ではないんだ。刺されれば血を流すし、心臓を貫かれれば死ぬ。ただ単純に少し強い力を持っているだけなんだ。特に僕の場合は、その色合いが濃い」

「…………」

 男は己がサーヴァントの真意を測りかね、沈黙する。若草色の英霊はくすりと笑った。

「まあそれでも、僕も負けるつもりは無いよ。最低でも、彼ともう一度会うまでは」

「いえ、それだけ分かっていれば充分です。目的は違えど、行き着く先は同じです。目下最大の敵は彼の英雄に違いはありませんからね」

「ああ」

 そこで一度話を区切り、更に互いの情報をより良く知る為に言葉を紡ぐ。

「では幾つか訊いておきたい事があります。確認するまでもありませんが、その真名を筆頭に、クラス、宝具などを」

「構わない。僕は────……」

 若草色の英霊は語る。自らを招いたマスターに。

「なるほど……先程の貴方の言葉が良く理解出来ました。確かに、道理です。それと、まさかイレギュラークラスとは……」

 聖杯の定めるサーヴァントを収める七つの器。一度の闘争において通常の七クラスの代替として、一つか二つ、イレギュラークラスが紛れ込む事がある。今回の場合、この若草色の英霊がそのクラスに該当したらしい。

「しかし……では私は貴方を何と呼べばいいのでしょう?」

「好きに呼んでくれて構わない。サーヴァントとでも、真名でもね」

 イレギュラークラスである事を他のマスターに知られるのは巧くない。かといって真名を呼ぶのは論外で、サーヴァントを物扱いするのも彼の信条に反する。面と向かって呼ぶ場合は二人称で事足りるが……

「まあ、それは追々。適当な呼び名を考えて、他のマスターを揺さぶるというのも面白そうだ」

「うん。その辺りは任せるよ。それで、僕は君を何と呼べばいいのかな? マスターで構わないのならそう呼ばせて貰うけれど?」

「ええ、構いませんよ」

「じゃあマスター。最後に、君の名を教えてくれるかい?」

 コートの男は、目深に被ったフードの奥で口端を僅かに吊り上げた。

「ゾォルケン……私の事はマキリ・ゾォルケンと……そう記憶して頂きたい」

×

 夜の闇が沈んでいく。
 開幕前の前提(プロローグ)は語り終えた。

 この夜を越えて始まる闘争こそが、本当の意味での戦いだ。
 凄惨にして悲惨、何一つとして救いの無かった殺戮の終焉(グランギニョル)より綴られる御伽噺。

 本物の救いを求めて。
 過ぎ去った者と未来ある者とが錯綜し、一つの結末へとひた走る。

 闇の底で燻る悪意が産声を上げる。
 誰とも知らぬ者が謳う。

 ────さあ、十年前の続きを始めよう。













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