烙印を継ぐ者達 Tale.03









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 静謐な空間に響く剣戟の音。目前の敵目掛けて振るわれる、無骨であり、そして不器用な無数の刃が風を切る。受ける少女は真剣な眼差しを湛えながらも、手に込める力は全力の五分にも満たない。

「はっ、はぁ────!」

 そんな事実は承知の上で、少年はなお振るう腕に力を込める。だが──

 ぱしん、と一瞬の隙を衝いた高速の打突が奔る。攻撃の瞬間を狙い撃ったその一撃は、少年の手の甲を穿ち、力強くも握っていた竹刀を取り落とさせた。一撃にて勝負を決めた少女は息の一つも乱す事無く、瞠目する少年の視線を笑顔で受け止めた。

「やはり筋はいい。ですが何より、経験が足りていない」

「痛っつー……本当、セイバーは容赦がないな」

「容赦をしては鍛錬の意味がないでしょう。シロウが私に稽古をつけて欲しいと言ったのですから。
 しかも充分以上には手加減をしています。だというのに、この程度で音を上げるとは何事です。シロウの覚悟とはその程度ですか」

 板張りの床を打つ竹刀の音。しなやかに打たれたその音は、空気の冷たい早朝の道場に小気味良く響いた。

 士郎が令呪を宿し、眼前の少女を召喚して二日後の今日。普段より随分と早い陽が昇るか昇らないかという時刻に、二人は手合わせをしていた。

 発端は昨日の事だった。サーヴァント召喚には難しい段取りは必要ないが、その分召喚直後に吸い上げられる魔力量は維持費よりも随分と多い。
 その為か、セイバーの魔力供給先となっているイリヤスフィールが目覚めたのが昼も過ぎた頃であり、昨日は士郎も念の為に学園を休み、休養とした。

 しかし、彼は別段魔力を取られているわけでもないので疲労などとは無縁だった。家事全般をこなし退屈を持て余した士郎が、半ば遊びのような気分で剣の英霊たるセイバーに稽古を申し込んだのが、いけなかった。

 生真面目な性格らしいセイバーは士郎の軽い考えとは裏腹に、何処までも真摯に真面目に稽古の相手を務め上げた。
 対する士郎も士郎で、相手がサーヴァントとは言え、どう見てもか細い女の子にしか見えない相手に言い様にあしらわれ──イリヤスフィールに茶化され──頭に血を上らせて必死に食い下がらんとした。

 が、結局彼がその一日の内に理解した事と言えば、サーヴァントと呼ばれる存在のデタラメな強さだけだった。
 どんな打ち込みも奇襲もフェイントも一発で見抜かれ、無数に繰り出す刃の合間に、軽く振るわれたようにしか見えないただの一撃で意識を刈り取られ続ければ、流石の士郎も理解せざるを得なくなったのだ。

 生身の人間がサーヴァントに勝てる道理などない、と。

 それでもなおこうして昨日に引き続き稽古という名目の扱きに遭っているのは、それでも譲れない士郎の意地だった。

「本当、我が弟ながら頭が固いと言うか融通が効かないというか。まあそんなシロウもお姉ちゃんは応援してるけど」

 道場の隅っこに毛布一枚を引っ掛けて寝惚け眼でうとうとしているイリヤスフィールの声は彼らには届かない。
 再度向き合った士郎とセイバーの間に乱れ打つ剣戟は、やはりセイバーの一振りによって終わりを告げた。

「ち、くしょ……当てるどころか、掠める事すら、出来ないなんて……」

 竹刀を放り投げ冷たい床に大の字に転がる士郎。その身体は汗に塗れ、彼がどれだけ真剣に打ち込んでいたかを如実に物語っている。だがそれでもセイバーは、汗の一筋も掻いてはいなかったが。

「先程も言いましたが筋は良いです。このまま続ければそれなりのものにはなるでしょう」

「セイバーに一撃入れるには、どれくらい掛かるんだろ……」

「甘く見ないで頂きたいシロウ。全力の私に一撃を入れたいのなら、貴方の人生の全てを剣に賭けてもなお足りない」

「うへぇ……」

 余りにも遠い頂。そしてそれはセイバーという少女が歩んできた苛烈な人生を物語る一つの指標でもあった。

「それにシロウは弓を嗜んでいるというではないですか。何故剣なのですか?」

 弓道に対する姿勢はともかく、士郎の弓術は相当の腕前である。ならば今更剣を執る理由は何なのか……とセイバーは問うた。

「ん……まあセイバーが剣士だってのが理由だけど。後はほら、俺の魔術の適正的な問題だな」

 全身のバネを使い身体を起こした士郎は、右腕を眼前に掲げて意識を集中する。己の裡を見つめ、イメージした想像を現実に創造する。
 呪文を唱えた数瞬の後、士郎の手には小ぶりな短剣が握られていた。

「ほう……これは……」

 突如士郎の手の中に現れた短剣をセイバーは見つめる。サーヴァントの如く虚空より剣を取り出したその異様にセイバーは目を奪われた。

「イリヤが俺のこの魔術の特異さを見抜いてから色々試して見たんだけど、一番投影しやすかったのが剣なんだ。後は刃物がついてるものとか、単一なもので出来てるものとかが続くけど」

 例えば複雑なもの……機械の類に関しては投影すら出来ない。出来上がるのは中身のない外見だけをそれらしく見せた紛い物。機械を機械足らしめ、動作させる肝心な部分が士郎には形作れない。

「確かにこれは、何処からどう見ても剣ですね……」

 士郎より短剣を受け取ったセイバーは穴が空くほどに凝視する。剣を担う者として、何か思うところがあるのだろうか。

「ではシロウは、私達サーヴァントの持つ宝具についても、それが剣であれば投影出来るのですか?」

「さあ……やって見た事ないからな。そんな何でもない短剣とか、包丁とかばっかりで、たまに刀なんかも試して見たけど」

 刀など銃刀法違反に抵触する類のものであるが、あるところにはあるのである。主に隣の屋敷とかに。

「サーヴァントの持つ宝具は、数多の武具とは一線を画す兵器です。ただの良く切れる武器ではない。
 その真名の解放を以って放たれる一撃は、戦いにおいては絶対の切り札となる。もしそれをシロウが投影出来るのなら、恐ろしくはありますが……」

 不可能だろう、とセイバーは思う。ただの刃物ならいざ知らず、宝具はその内に強大な幻想を内包する。
 ただ優れた武器としての素材や製作の工程を模倣出来たとしても、その幻想をすら完全に再現するなどという暴挙は、宝具の──引いては担い手への冒涜だ。

 その一振りにどれだけの想念が詰め込まれていると思っている。どれだけの歳月によって積み重ねられたと思っている。
 それを、個人の魔力と想像によって成し得るなど、およそ不可能な事象だ。

「そうよ、止めておきなさいシロウ」

「イリヤ」

 ずるずると毛布を引き摺って、イリヤスフィールが二人の間に割って入る。

「宝具の投影なんて、シロウの力量を超えているわ。たとえ出来たとしても、シロウの身体が無事じゃ済まない。どの程度まで耐えられるかなんて分からないけど、無理に投影をすれば即廃人、なんて事も有り得るんだから」

「ああ……無理をするつもりはないよ」

「シロウが無理しないって言う時は、大抵無理する時なのよね」

「信用ないなぁ」

「そりゃシロウがこぉんなに小さな時から見てきたんだもの。当たり前でしょう」

「いや、俺豆粒だった頃なんてないからな。というか俺とイリヤが出会ったのは十年前だしそんなに小さかった覚えはないぞ」

「そういう無粋な突込みを入れる肝の小ささに、お姉ちゃんはがっかりだわ!」

「むしろ小さいのはイリヤで、出会った頃より全然変わってな──」

「小さい言うなっー!」

「ぎゃあああっ!?」

 じゃれあう二人をどうしたものかと、見つめるセイバーだったが、仲が良いのは良い事です、と勝手に自己完結して道場の隅の方に移動していた。

「──ともかく。シロウは無茶しちゃダメよ」

「……はい」

 うつ伏せに倒れる士郎の上に居座るイリヤスフィールに、無様な少年はただただ肯定を返すばかりだった。

×

 朝の鍛錬を終え、汗を流し、士郎とイリヤスフィールはいつも通りに朝食の準備をし、切嗣が起きて来て、押し掛けて来た大河と共に騒がしい朝食を共にし、それでようやく、人心地ついた。切嗣は朝食を食べてすぐに自室に戻ったので今はいない。

「さってと。んじゃ学園行くか」

 その言葉は学生の身分である彼にとって見ればごく当たり前の事だったが、唯一人、セイバーだけが驚きを露にしていた。

「シロウ? 学園というのはその、危険はないのですか?」

「危険? いや、ないけど。学園が危険だったら街中の方がよっぽど危険な気がするけど」

「シロウ、セイバーが言いたいのはそんな事じゃなくて、今私達が置かれている現状についての事よ。要は聖杯戦争」

「ああ……なるほど」

「……シロウはもう少し、危険に身を置いている自覚を持って欲しい。でなければ私とて守りきれるものも守りきれなくなる」

「まあ実際、人間は自分の身を危険に晒されないと学習しないもの。以前のキャスターの襲撃だって、シロウは直接攻撃を受けたわけでもないから、やっぱり程度を理解してないんだと思うわ」

「…………」

 何やら好き勝手に言われている士郎であったが、ここで野暮な突っ込みを返そうものなら総叩きに遭いそうだったので止めておいた。その程度の危険は察知出来るのだ。

「いや、まあ学園に危険はないだろ。相手も魔術師なんだ、昼間の、しかも生徒の犇めく学園で事を起こそうなんて奴はいないだろ」

 神秘の秘匿を原則とするのは聖杯戦争であっても変わらない。無闇矢鱈と場所を選ばず闘争を繰り広げれば、当然の如く粛清が待っている。
 だからこそ士郎の楽観は、今回ばかりは正しい……筈だったのだが。

「そうとも言えないわよ。だって学園にはリンとサクラがいるじゃない」

 遠坂家現頭首の姉妹魔術師。聖杯戦争の始まりの御三家に連なる彼女達は、間違いなくサーヴァントを従えるマスターになっている。現にセイバーを召喚したあの日、凛はイリヤスフィールに接触し、令呪の有無を問い質していたのだから。

「あ……そうか。アイツらも、マスターなのか」

「何シロウ、シロウはそんな事まで忘れてたの?」

「忘れてたっていうか思い至らなかったというか……まあ、どちらにしろ、アイツらがマスターである事は間違いないんだな」

「ええ。トオサカである以上、リンもサクラもマスターよ。いえ、どちらか片方だけかもしれないけど、その場合でももう片方はサポートに回るでしょうから、結局同じよ」

「…………」

 同じ魔術師。同じマスター。同じ聖杯戦争に臨む──敵。

 日常にあった時は猫を被った同級生と、妙に積極的な後輩くらいにしか思っていなかった士郎だが、その事実は覆るものではない。
 魔術師であるという事でさえ、必要がなければ思い出さずにいたというのに、唐突に衝き付けられたその事実は、士郎の表情に苦渋を浮かべる。

「なあ……遠坂達と手を組むってのはなしか?」

「有り得ないわね」

 士郎の提案をイリヤスフィールは切って捨てる。

「……なんでさ」

「リン達にとっては聖杯は悲願なのよ。二百年も前から続く一族の悲願。確かに、巧く事を運べたら、一時的な同盟関係は組めるかもしれないけれど、それでも結局は最後に戦う事になるのよ?
 シロウの考えがどうであれ、セイバーは是が非でも聖杯が欲しい。リン達も目前で手放しはしないでしょう。なら戦うしかない。そんな状態で、シロウは戦える? 心を鉄に変えて戦える? どちらの味方をして戦うの?」

「…………」

 士郎は口を噤むしかなくなった。目の前の逃げ道は、最悪の断崖絶壁へと通じる悪魔の誘いだ。
 イリヤスフィールの想像する局面に士郎が立ち会うのなら、戦うだろう。この目の前の少女と契約したその時に、戦うと決めたのだから。

 無用な犠牲を出したくはない。それは聖杯戦争の参加者とて同じだ。だがそんな生温い考えは、命を賭けて戦いに臨む者の前では通用しない。
 正義の味方。正義の、味方。ならば味方をすべき正義とは一体何なのか。

「イリヤスフィール。余りシロウを困らせるものではありません」

「セイバー? セイバーはシロウの味方をするっていうの?」

「そういうわけではありませんが。必要に駆られたとはいえ、シロウが私を招いたのは事故のようなものです。他のマスターのように、明確な参加の意思を最初から持っていたわけではない。
 ですから、その参加者の中に知己の者がいると知れば、悩むのも仕方のない事です。私とて、かつて同じような境遇に遭った事がありますが、あれは……例えようもなく苦しい決断を迫られた」

 静かに目を伏せ、セイバーは訥々と語った。在りし日の郷愁を、その瞼の裏に描いているのだろうか。

「シロウ。貴方に悩みを強いているのは他ならぬ私です。その私にこのような事を言う資格などないのかもしれませんが、それでも言わせて貰えるのなら、私は──貴方のその優しさが心地良い」

「セイ、バー……」

 そっと手を取られ、紡ぎ出された言葉に感銘を受ける士郎。間に挟まれている形のイリヤスフィールは両者の間で忙しなく視線を彷徨わせた。

「む、むむむぅ……何、何なのこれ。何なのよこれはー!? セイバー! 貴女まさか私のシロウを!?」

「は? いえ、私はただ本心を述べただけで……」

「まさかこんなところに伏兵がいるだなんて……ふんっ、いいわ。でもねセイバー、覚えておくといいわ。シロウのは優しさじゃなくてただの甘さなんだって事、その内身に沁みて分かるんだからっ!」

 憤慨も露に言うだけ言って、立ち去るのかと思いきや、イリヤスフィールはごそごそと背後を漁り、手に掴んだ物をテーブルの上へと叩き付けた。

「……携帯?」

 携帯電話。昨今メジャーなアイテムとなりつつある携帯電話であるが、士郎もイリヤスフィールも、今日まで所持してはいなかった。
 別段必要に迫られた事などなかったし、友人知人には持てと言われた事も一度や二度ではないが、ともかくこれまでは持たずにいた。

 それが今、彼らの目の前に並べられている。しかも三台。

「イリヤ、どうしたんだこれ」

「昨日契約したの。私達がこれから巻き込まれる聖杯戦争は魔術師の祭典よ。魔術師は魔術師である事に誇りを持つが故に科学の産物を嫌う。だから、私達はその科学の産物を武器にする」

「武器って……」

「どの道シロウは魔術的な連絡手段なんか使えないし、もしもの時の為にこれは持っておいて損のない代物よ。GPS機能もついてるから、仮に攫われてもすぐに居場所を突き止められるわ」

 およそ携帯電話を持つ理由としては物騒な単語が幾つか出てきたが、確かにこれらの道具は重宝する。魔術師がわざわざ電波を割り出し盗聴を行うなど、有り得ない。
 実体化出来ないセイバーという枷を持つ彼らにとって、密に連絡を取り合える手段というのはどの道必要不可欠なものであったのだ。

「まあでも、本当に緊急を要する時とかには役に立たないけど。セイバー、もしシロウに危機が迫ったら、貴女なら分かるのよね?」

「はい。シロウと私には繋がりがありますので。しかしイリヤスフィールとはそうもいかない。魔力供給を受けてはいても、私のマスターがどちらか一人であるというのなら、それは間違いなくシロウなのですから」

「うん。その辺りも分かってるつもり。まあ私は大体シロウと一緒にいるようにするから多分大丈夫。というわけで、はい、これ持って」

 士郎とセイバーに携帯電話を渡すイリヤスフィール。

「え、な、い、イリヤスフィール? まさか私もこれを持つというのですか?」

「当たり前じゃない。でなきゃ意味ないでしょう。しかもただ持つんじゃなくてちゃんと使えるようになって貰わないとね。はい、これ取扱説明書」

 どん、とテーブルに置かれた分厚い冊子。おずおずと手を伸ばしたセイバーはずっしりとしたその重みを感じ、パラパラとページを捲り、

「……これを、全部覚えるのですか……?」

 絶望を前にしたかのように絶句した。

 幾ら聖杯から現代の知識を得ているとはいえ、現代人でも全てを記憶するのは面倒になる携帯電話の取扱説明書の読破を命じるなど、酷にも程があるというものだ。その辺りはイリヤスフィールも分かっていてからかっていたのか、

「ま、そういうと思ったわ。じゃあ簡単に必要な事の使い方だけ説明するから、この程度は覚えてね? シロウは大丈夫よね?」

「ああ。基本的な事くらいは知ってるからな。足りない部分は取説で補うよ」

「わ、分かりました。ならば私も、シロウに遅れを取る訳にはいかない……イリヤスフィール、教授の程をお願いします」

 背筋を伸ばして掌サイズの機械相手に真剣に向き合うセイバーが二人にはおかしくて笑みを零す。
 セイバーが携帯電話の機能をそれなりに物にする頃には、急いで家を出なければいけない時刻となっていた。

×

 聖杯戦争に参加すると覚悟した時点で、士郎は弓道部の朝錬に出る事を諦めた。今までのように学生としての時間を重視してはいられないという判断だ。

 その点から鑑みれば、学園に通うという事すらも無駄なきらいがあり、更に遠坂姉妹もまた在籍している以上、彼らにとっては危険しか存在しない場所だが、何を思ってか、イリヤスフィールは通常通りに学園に通う提案をした。

 セイバーは反対したが、大丈夫だと主張する士郎とイリヤスフィールに押し切られ、渋々ながらに同意した。

 今は通学の途中。制服姿の士郎とイリヤスフィールが並んで坂道を歩き、丘の上の学び舎を目指している。

「実際、どうなんだ? 遠坂達と出会っても即戦いにはならないだろう?」

 魔術師の大原則である神秘の秘匿。その禁を破るような魔術師はそうそういない。彼女達とて、この街の管理を預かる身の上であるのだから、おいそれとは下手な真似も出来はしないだろう。

「まあ、昼間は多分大丈夫でしょう。でもなるべく他の人と行動する事。シロウならイッセイにくっついてれば間違いないわ」

「ああ。遠坂は一成とも犬猿の仲だしな……余計にちょっかい出しにくいか」

「あるいは出しやすいかもね。纏めて亡き者にしようとしたり」

 その冗談が笑えない辺り、彼らの遠坂凛という少女に対する評価が窺い知れるというものだ。

「それで、シロウはもしリンが戦いを仕掛けてきたらどうするつもり?」

「それは……」

 共闘は難しい。シロウにも譲れないものがある以上負ける事は出来ず、かと言って相手を殺したくはない。無力化出来るのが理想なので、

「令呪を奪う……ってのが、とりあえず妥当なところじゃないか?」

 令呪を奪えば最早聖杯戦争の関係者ではなくなり戦う理由もまたなくなる。それが恐らく今下せる最善の答えだと判断した。

「ふぅん……そう、ま、いいわ。相手にはサーヴァントがいる筈。警戒だけは怠らないで」

「ああ──っと?」

 その時、士郎の制服のポケットで携帯電話が震えた。学園に携帯電話の持ち込みを禁止する規則はないが、授業中の事を考えて、最初からバイブレーションモードに切り替えておいたのだ。

 液晶画面にはセイバーの名前。実際に使用出来るかどうかを試す為に、ある程度時間が経ってから掛けてくるように言い含めておいたのだ。

「はい、もしもし」

『お、おお。本当にシロウの声が聞こえます』

「…………」

 士郎の脳裏には居間に正座している男装の少女が、携帯電話を耳元に当てて、目をキラキラと輝かせている様がまざまざと浮かんだ。

『なるほど、これは便利な道具です。距離の制限などもないとは……私の時代にこれがあれば、もっと緻密な連絡を取り合い、より良い作戦提起が出来たのに……そうすれば、我々に敗北は有り得なかった……』

 電話越しに歯を噛み締める音が聞こえたが、聞こえない振りをしておいた。

「ん、まあこれで使い方は分かったんだよな」

『はい、問題ありません。イリヤスフィールの丁寧な説明のお陰で、教えられた事は全て把握出来ています。未だ未知の用途もあるようですが、それは時間があれば習得するとしましょう』

 中々現代への高い適応能力を持っているようだった。

「念の為に言っておくけど、授業中はあんまり掛けて来ないでくれよ。着信音は切ってあるけど、一応俺達は携帯持ってない事になってるから隠せるなら隠し通したいからな」

 今は人通りが少ないお陰でバレてはいない。しかしこれ以上学園に近づけば誰かに見咎められる可能性が飛躍的に上がる。

『心得ています。シロウ達はどうか、勉学に励んでください。ではこれにて』

 通話は切られ、士郎はポケットに携帯電話を戻した。ふと、隣に視線を下げると、見上げてくる姉の瞳に理由の思い当たらない険があった。

「な、なんだイリヤ? 何か怒ってないか?」

「別に。怒ってなんていないわ。ただシロウが楽しそうに電話してるなって思っただけ」

「え、いや……俺は別に嬉しそうになんてしてないけど……」

 実際鏡でもなければその時自分がどのような表情をしていたかなど分かる筈もない。イリヤスフィールにはそのように見えていたのかもしれない。

「ふぅん……まあいいけど。でもセイバーもやるわね。私じゃなくてシロウに掛けてポイントを稼ごうだなんて……」

 何やらこの姉はセイバーを敵か何かと間違えているのではないかと思わないでもない士郎だったが、突っつけば間違いなく蛇が出てくると分かっているので沈黙を貫いた。

 それから間もなく人通りも増えてきて、程なく校門が見えてくる。士郎達は何食わぬ顔で校門を過ぎ、靴を履き替え、それぞれの教室へと向かう──その途中。

 三年の教室のある二階でイリヤスフィールと別れ、三階に上ったすぐの場所。そんな場所に、壁に寄り掛かる遠坂凛の姿があった。

「────」

 腕を組んで目を閉じたまま、身動ぎ一つしない凛を前に、士郎は次の一歩を踏み出せずにいた。周囲の登校してきたばかりの生徒達が、そんな士郎と凛を見やり怪訝な顔をして各々の教室へと入っていく。

 動きのない凛に痺れを切らしたのか、士郎は意を決して、出来る限り普段通りの表情を装って、凛の前を横切ろうとし──

「ふぅん。やっぱり貴方がマスターなのね」

 そんな呟きが、確かに士郎の耳朶を打った。

「そういうおまえだってマスターなんだろう、遠坂」

 足を止め、問い返す。

「さあ、どうかしらね。でも衛宮くん、引き返すのなら今の内よ。その場から逃げ帰るのなら、まだ見逃してあげられる。でも一歩でも進むのなら、貴方はわたし達の敵よ」

 容赦はしない、とそんな言葉が聞こえてきそうなほど、凛の言葉は冷たく鋭利だった。衆人環視のある現状、凛もおいそれとは魔術は使えない。
 だが、だからこそ、今この場での宣戦布告。互いが互いの距離を魔術師としてではなく穂群原学園の一生徒として測れる──最後の一瞬。

 士郎の立つ場所が日常と非日常を隔てる境界線(ボーダーライン)

 衛宮士郎は遠坂凛の敵か否か。その問いの答えが、彼らの道先を示す……

「む? そんなところで何をしている衛宮」

 階下、踊り場からの声に二人は振り仰ぐ。眼鏡を整った鼻梁に掛けた柳洞一成が、二人を見上げていた。

「ぬ、貴様遠坂。こんな場所で何をしている。まさか衛宮に何かしでかしたのか!?」

「言い掛かりは止めて欲しいわね柳洞くん。わたしは何もしていない。ねえ、そうでしょう衛宮くん?」

 完璧なまでの猫被り。一瞬で優等生の仮面を被った凛に士郎は呆れ果てるやら何やらだったが、とりあえず頷いた。

「ああ。遠坂は何もしてないよ。ただちょっとした、賭けをしてたんだ」

 その言葉には一成だけでなく凛もまた眉を顰めた。

「衛宮が賭け? 珍しい事もあるものだな」

「別に金を賭けてるとかじゃないしな」

 賭けているのは、互いの覚悟。

「俺がこの場から一歩を踏み出せるか否か。遠坂は踏み出せない方に賭けた。俺は踏み出す方に賭けた」

「……何だそれは。賭けにならんだろう、そんなもの」

「そうでもないわ柳洞くん。わたし、分の悪い賭けって嫌いじゃないもの」

 士郎の思惑が見えたのか、凛もすかさず乗ってくる。それでもまだ怪訝な表情をする一成だったが、丁度その時、予鈴が鳴り響いた。

「む。急ぐぞ衛宮。遅刻などしては藤村先生にどやされる」

「ああ、そうだな。じゃあな遠坂」

 言って、士郎は何の気負いもなく境界線(ボーダーライン)を踏み越えた。
 そしてそのまま駆けていく。廊下を走るなと一成に咎められ、二人は早足で教室へと入っていった。

「……ふふっ」

 唯一人残された凛は、背を預けていた壁から身を起こし、人気の引いた廊下で小さく笑った。

「そっか。うん、舐めてた。舐めすぎてた。貴方だってそのくらいの覚悟は、とっくに出来てるのよね」

 魔術師として生きると決めた時。その時全ての覚悟を決めた筈だ。後の覚悟は全て己を奮い立たせるものでしかない。死を観念するという最大の覚悟は、一番初めに済ませているのだから。

「そうね。そうでなくちゃ──つまらない」

 およそ優等生らしくない三日月の笑みを酷薄と浮かべ、遠坂凛もまた、己の教室へと足を向けた。

×

 昼休み。

 寒風吹き荒ぶ屋上に、今日もまた凛と桜は二人きりで昼食に興じていた。いつかのような和やかな昼食会ではない。彼女達の話題に上るのは、今現在身を置く聖杯戦争の事……そして今朝方認識したこの学園に通うマスターの事だった。

「やっぱり先輩が、マスターだったんですね……」

 冬木市に住む魔術師──というだけで充分以上に条件は満たしている。イリヤスフィールやその父である衛宮切嗣がマスターとなる可能性も充分にあったのだろうが、選ばれたのは衛宮士郎。およそ桜が予期した最悪の引きだった。

「そうね。でもイリヤスフィールが相手よりはやりやすいでしょう。衛宮くんはまだ見習いの域を出ない魔術師だし」

 落胆の色を隠せない桜とは裏腹に、凛は澄ました顔で桜手製の弁当を突きながら話を進めていく。

「姉さんは……嫌じゃないんですか?」

「何が?」

「だからその、知り合いが敵になるかもしれないって事が」

「別に。アイツは今朝、わたしの宣戦布告を受け入れた。つまりその程度の覚悟は最初からしてるって事。たとえへっぽこだろうと明確な覚悟を決めた相手に、こっちが迷いを抱いていたら足元掬われかねないわ。
 ──それと桜。敵になるかもしれないじゃない。衛宮士郎はもう既にわたし達の敵よ」

「…………」

 遠坂凛が敵と認めた以上、そこに容赦は存在しない。何かの偶然で勝利を決定付けた後に相手が生きていれば、慈悲くらいは与えられるかもしれないが、最中にあっては凛の意思は揺るがない。

 凛の隣に立つと誓った桜は、その姉に遅れを取る訳にはいかない。例え相手が叶わぬ想い人であったとしても、互いの立ち位置は明確なのだから。

「……分かりました。わたしも覚悟を決めます。姉さんに先輩がボロボロにされる前に拘束して、わたしのものにしますっ!」

「……いや、ねえ、あのね桜。何だかそれ、違わない?」

「いえ、だってこれある意味チャンスじゃないですか? 先輩に近づく大チャンスです。勝者は敗者を好きなようにしていいっていうのは、昔からの決まり事ですから!」

「…………」

 ぐっと胸の前で力を溜める妹を凛は冷めた目で見つめていたが、その内心は違った。凛のように桜は全てを割り切って考えられる性格ではない。内心の葛藤をおくびにも出さず、普段通りの自分を繕って、それでなお姉に比肩しようと背伸びをしている。

 その決意を凛は穢しはしない。衛宮士郎相手など凛一人でも充分に戦えるが、彼女達は二人で歩むと誓ったのだから。

「あれ、姉さん、何ですか?」

 隣に座る桜の頭を腕の中に抱いて、柔らかな髪を撫でる。良い匂いがして、桜は擽ったそうに目を細めた。

「勝つわよ桜。わたし達に、敗北は許されないんだから」

「はい」


/2


 放課後。

 衛宮士郎は解せない面持ちで帰り支度を済ませた鞄を持ちながら廊下を歩く。行く先は玄関口。そこでイリヤスフィールと落ち合う予定になっている。

 士郎が怪訝な気持ちを抱くその正体は、この時間まで凛達からの接触はなかった事だ。今も部活動に急ぐ生徒や帰路に着く生徒が疎らに廊下を行き交っている。流石の凛もこのような状況下では行動を起こせない。

 いや、それでも遠坂凛ならば、何かしらの接触を試みるだろうと思っていた士郎にとっては肩透かしもいいところだった。今朝のやり取りから、必ず行動に移すものと思っていたのに。

「あ、シロウー」

 そんな思索に耽っている間に何時の間にか玄関に辿り着く。呆けていた自分を戒めて、イリヤスフィールへと駆け寄った。

「待たせたな、イリヤ」

「ううん、今来たとこ。うふふ、これって何だか恋人の待ち合わせの会話みたいね」

「今はそんな事言ってる場合じゃないだろうに。で、これからどうするんだ」

「ぶぅ、いいじゃない、ちょっとくらい付き合ってくれたって。そんなんだから朴念仁とか言われるのよ」

「言われた事ないけどなぁ、そんな事」

「まあいいわ。さ、行きましょ。待たせちゃ悪いし」

「……? 誰が待って……うわっと!」

 イリヤスフィールに手を握られ、ずるずると引き摺られて校庭を行く。何とはなしに周囲を見回してみても、やはり凛の姿はない。学校でやり合う気はないという事だろうか。その方が士郎としても助かるが。

 そこでふと前方に視線を向けると、ざわめきが起こっている事に気が付いた。校門で、生徒達がある方向を見て一瞬足を止め、歩みを再会した後に、何やら言い合いながら去っていく。

 士郎の位置からは見えない道路に面する校門の柱。その裏に一体何があるのかと疑問に思いながら近づくと、

「お待たせ、セイバー」

「ああ、イリヤスフィールにシロウも。いえ、それほど待ってはいません」

「…………」

 士郎を阿呆のように口を開けていた。何故こんな場所にセイバーがいるのか……というより明らかに彼らを待っていたのか……分からなくて。

「……セイバー?」

 ようやく搾り出した言葉は疑問系。貴女は本当にセイバーさんですか? と問いかけた。

「はい、シロウ。何か?」

「いや……何か? じゃないだろ。何でおまえこんな場所にいるんだよ」

「はぁ……いえ、私はイリヤスフィールに呼び出しを受けたので、赴いただけなのですが」

 言って懐から携帯電話を取り出して見せるセイバー。士郎は暫し考えて、イリヤスフィールを見た。

「全部イリヤの差し金かよ」

「人聞きの悪い事言わないでよね。必要な事だったんだから。でもまぁそれもいらなくなっちゃったんだけど。ま、いいわ。ねえシロウ、どうせ今日は買い物に行かないといけないでしょう? このままセイバーと一緒に行かない?」

 昨日帰りがけに買った食料は全てキャスターに吹き飛ばされ、夜遅くに買い付けたものもその晩と朝食分でほとんど使い切っている。どの道今日は買い物に行くつもりだったので構わないと言えば構わないのだが、

「でも、イリヤ。俺、部活が……」

「はい、無理無理。もうそんな事してる場合じゃないって分かってるでしょうに。ほら、いらない注目浴びてるし、さっさと行くわよー!」

 イリヤスフィールが士郎とセイバーの腕を引いて坂道を駆け下りる。軽やかな足取りの彼女とは裏腹に士郎とセイバーは互いに苦笑を交し合ったのだった。

×

「それで。どういう事なのか、説明してくれよ」

 三人は連れ立って新都への道行を行く。いつもなら夕食の買い物は深山町の商店街で済ませるところだが、せっかくセイバーがいるので新都の方に足を伸ばしてみようという事になった。

 セイバーもセイバーで、

『地形の把握は戦闘に必須なのでありがたい』

 と、何処か的の外れた言葉を口にしていたが、そこは言わぬが花という事で、士郎とイリヤスフィールは笑って誤魔化しておいた。

 そして今は冬木大橋を渡る途中。人気も大分失せたこの場所で、士郎が問いかける。何故校門前にセイバーが待っていたのか、と。

「それは勿論、リン達に対抗する為よ。一回擦れ違っただけだけど、リン達にはサーヴァントがついていなかった。
 だから仕掛けて来る事は少ないと思ったけど、万が一の為にね。士郎を囮にしてる間に私とセイバーが裏を掻くって算段だったんだけど……」

「……え、何、俺そんな作戦聞いてないぞ?」

「うん。だって言ってないもの。言えばシロウはすぐに顔に出るから、そっちに気を裂いて目聡いリンにバレそうなんだもの。
 ほら、日本の格言にあるでしょう。敵を欺くにはまず味方から!」

「ほほう、それは至言です」

「…………」

 二人でうんうんと頷き合うイリヤスフィールとセイバーを見やりながら、士郎は溜め息を吐く。
 イリヤスフィールの作戦はともかく、凛と桜に追い掛け回されるのはぞっとしないと思った。

「まぁ、でも結局遠坂達は仕掛けて来なかった、と?」

「ええ。生徒のいるあの場所で事を起こすほどバカじゃなかったってところね。セイバーには無駄足になっちゃったけど」

「いえ、こうして街を直に見て回る事は必要でした。その点を考えれば、決して無駄などではありません」

「そう。そう言ってくれると助かるわ」

「ん……? でもなんで遠坂達にはサーヴァントがついてないんだ? セイバーは特殊な事情で霊体化出来ないって話だけど、他の連中はそうでもないんだろ?」

「普通はね。考えられるとしたら、最初から戦う気はなくて偵察だけのつもりだったか、あるいはサーヴァントと上手くいってないんじゃないかな」

 士郎はセイバーに目を向ける。不思議そうな顔をしたセイバーがいたが、今のところ自分達はそれほど悪い関係ではないんじゃないだろうか、と思った。

「それとねシロウ。明日から学園行くのやめましょ」

 イリヤスフィールは今日の晩御飯はハンバーグにしましょ、と問いかけるような口調でさらりと、そんな爆弾発言をした。

「い、イリヤ? いきなりなんでそんな事言うんだよ」

「今日学園に行ったのはリン達を探る為。相手も同じ腹だったと思うけど、まあそれは今はどうでも良くて。
 簡単に言っちゃえば、学園の皆は巻き込めないでしょって事」

「…………」

 言われて士郎も理解した。マスターである者が学園内に入り浸ると、余計な迷惑が掛かりかねない。全てのマスターが凛達のように弁えているわけではないのだ。
 勝利の為に手段を選ばない者が仮に存在したとすれば、学園自体を人質代わりにされても何らおかしくはない。

 魔術師とは、そういう連中の集まりである事を、士郎だって知っている。

「そう、だな。俺達のせいで学園の皆を巻き込むわけにはいかないもんな」

「マスターだと誰にも知られていないのならそれもアリだったと思うけど。リン達には最初から怪しまれてたし、昨日サーヴァント・キャスターにもバレちゃってる。学園に通うメリットは何もないわ」

 学園に通えない。通わない。その事実を以って、ようやく士郎は自分の立ち位置を理解した。今まで身を埋めていた平穏から切り離された、非日常に身を置いている現実に。

「…………」

 ふと顔を横に向けると、申し訳なさそうに俯いているセイバーがいた。この清廉潔白な少女にとっては辛いものがあるのだろう。是が非でも聖杯を手に入れなければならないセイバー自身の心と、巻き込まれてこの場所に立っている士郎の心。

 二つの心を慮るからこそ何も言えない。士郎にいつも通りに振舞えばいいと言えない自分がいる事にこそ、苦痛を感じているのかもしれない。

「そんな顔をするなよセイバー」

 だから士郎は言った。

「俺がここにいるのは俺の意思だ。流されたわけでも仕方なくいるわけでもない。だからおまえがそんな顔をする必要はないんだ、セイバー」

「シロウ……はい、ありがとうございます」

 微笑みを向けられ、照れくさくなったのか士郎はそっぽをむいた。未遠川に掛かる冬木大橋から望む眺望。空を染め始めた茜色が、徐々にその色合いを濃くしていく。にわかに見え始めた厚い雲が、少しだけ気になった。

「それでイリヤスフィール、これから何処に向かうのですか?」

 士郎とセイバーのやり取りを何処か不満そうに見やっていたイリヤスフィールは問いかけられ、顔色をいつも通りに戻し、んーと唸ってから、

「そうね、新都で買い物するならヴェルデでいいわよね?」

「ああ。商店街ほど安くはないけど、品揃えは豊富だしな。色々見て回れる」

「じゃ、そういう事で。ほら、急ぎましょ。天気悪くなりそうだし、二日続けて夕食遅くなると今度こそタイガに食べられちゃうわ」

「流石の藤ねえでも人は喰えないだろう……」

「飢えた生き物には何でも美味しそうに見えるものよ」

「いや……でも、うーん……ないとも言い切れない辺りが藤ねえの凄さだな」

「お二人の話を聞いていると……大河という人物がどういった人となりなのか、少し分からなくなってきました……」

 そんな軽口を交し合いながら三人は行く。空に立ち込める暗雲が予期するものを、今は知らずに……


/3


 士郎達がヴェルデで買い物に勤しむ頃、新都の奥にある閑静な住宅街を貫く坂道を上る二つの影があった。
 斜陽を受けて伸びる影は長く、街並みに黒色の人影を落としていた。

「ここが冬木教会か」

 ……久しぶりだな。

 葉巻を口に咥えていたロード・エルメロイU世は白い息を吐きながら呟く。傍らには当世風の衣装を着たライダーの姿があった。

 昨日、結局引き摺られる形で街中の散策をさせられる事になったエルメロイU世はその途中で仕方なくライダーに服を買い与えた。
 散策自体はそれ以外然したる問題もなく終わったが──エルメロイU世の心労を除けば──やはり常に頭にあったのは聖杯戦争の真実を探る事だった。

 疲労も相まってほどほどに切り上げれば、ライダーは何処か不満気だったが、また街に繰り出す約束を交わす事で事無きを得た。

 そして今日。朝からの調べ物を終わらせ、ある程度のこの街の現在の情勢を把握したエルメロイU世はライダーを伴いこの場所を訪れた。監督役が前回に引き続いて言峰綺礼だという事は知っている。

 ならば恐らく、あの戦いの結末についても何か知っているだろう、と。

「さて……ライダー。私は神父に会ってくるが、おまえはどうする?」

 相手が監督役とはいえ、余りこちらの手の内を晒したくはない。かつて聖杯戦争に参加した者同士である以上、顔も割れているに違いない。それがまた同じサーヴァントを引き連れて今回の戦いに臨むなど過去例がない。

「勿論行くが? 遊興の為の駄賃をくれるのなら余も考えんではないが」

「昨日散々遊んでおきながらまだ遊び足りないのかよ……」

「うむ。たかが一日の散策程度で制覇出来るほど世界は狭くはないわい。余としてはそうだな、新都駅前にあったあのヴェルデとかいう建物に興味がある。何でも揃っているというではないか、それならば戦闘機の一機でも買い付けたい」

「んなもんが街中のデパートに売ってるわけあるかっ!」

「何っ!? 売ってないのか!? 何でもあるというのがウリであろうに、これでは詐欺ではないか。この征服王を謀るとは許せん。責任者を叩き切ってくれる」

「……とりあえずおまえはあれな、ちゃんと付いて来るように。それと、聖杯に頼んでもう少し常識を教えて貰ってこい」

「これが誇大広告というやつだろう。なんだ、何処に電話すればいいのだ?」

「なんでそんな余計な事は知ってるんだよっ! いいからほら、行くぞ!」

 勝手に街に戻りかねない己がサーヴァントの野太い腕を引っ張りながら教会の門扉を潜り抜ける。

 彼らを迎えたのは白亜の色調で整えられた荘厳な礼拝堂だった。魔術師と反目する立場にある教会とはいえ、人の心を掴むその厳粛な空気には、誰しもが息を呑む。しかしエルメロイU世は咥えたままだった葉巻を吸い、白い煙を吐き出し心を整えた。

「この場所は別段禁煙というわけでもないが、出来れば喫煙は控えて欲しいのだが」

 礼拝堂の奥より神父が姿を見せる。細めた目で男を見る。十年前から幾分も衰えていないその姿には、充分な面影があった。この男が、言峰綺礼。前回の監督役の息子にしてアサシンのマスターだった男。

「ああ、失礼。すぐに消そう」

 懐より取り出したケースに葉巻を放り込んで、再度向き合う。

「信徒というわけではないようだな。歓迎するよマスターとサーヴァント。例年通り、わざわざこの教会を訪れ参加登録をする者は少なくてね。暇を持て余していたところだ。名を聞こう」

 本当に名を知っていないのか、知っていてなお問うたのか判然としなかったが、答えない必要性もないと思い、口を開く。

「エルメロイU世。今はその名で通っている」

「ほう? あの名にしおうロード・エルメロイU世か。君の噂は教会でも聞いているよ」

「それは恐悦だな。貴方は言峰綺礼で間違いないな?」

「ああ。前回の代行から引き続き、今回の監督役を任されている。前回も然程面識があったわけでもないが、久しぶりだな、ウェ──」

「今の私はエルメロイU世だ。それ以上でもそれ以下でもない」

 綺礼はエルメロイU世から視線をライダーへと向けた。威風を纏い長椅子腰掛けていた。

「……ふむ。失礼、エルメロイU世。無礼を許せ」

「構わんよ。これは私の我が侭だからな。では本題に入ろう。言峰神父、私は貴方に訊きたい事があってこの場所を訪れた」

「私に答えられるものであれば。立場上、一参加者に肩入れするわけにもいかなくてね。それでもこうしてわざわざ当教会にご足労願った以上、監督役として、出来る限りの問いには答えよう」

「質問は一つ。前回の最後に、一体何があったかという事だ」

 十年前。エルメロイU世にとってそれは理不尽な終わりでしかなかった。街を包み込んだ炎。空より降り注ぐ汚泥。伸ばした手は何も掴めず、運命という名の奔流に全てを呑み込まれた。

 その真相を知りたくてこの場所を訪れた。あの最終決戦の地の後始末をしたであろう監督役ならば、何かを知っているに違いないと思って。

「ふむ……」

 綺礼は祭壇から下り、窓辺へと歩み寄る。茜と藍に染まる空。忍び寄る鈍色の雲。美しいコントラストを描く空を見ながら、口を開いた。

「新都中心部を薙ぎ払った大火災については知っているな?」

「ああ。死者数百名を出した大災害だ。あれは天災でも人災でも有り得ない。あれほどの規模の火災を一斉に起こしたものは、あの場には一つしか有り得なかった」

「その通り。あれは聖杯が起こした災厄だ」

「……ッ」

 エルメロイU世は歯を噛んだ。参加者が血みどろの戦いを経て掴もうとした聖杯が、あの災害を引き起こした。
 空より降り注いだ黒い瀑布が街を呑み込み焼き尽くしていくのを確かに見た。その時点で推測は出来ていたがようやく、確信を得た。

「言峰神父。聖杯とはなんだ? 何故あれはあんな災厄を引き起こしたんだ」

 奇跡という縁に縋りつかなければならない亡者共を戦場に立たせ、凄惨な命の奪い合いの果てに手に入る筈のもの。それがあんな地獄を体現するものだったなどと、一体誰が信じられようか。

 そして何故、そう理解されてなお五度目の戦いが繰り返されているのだろうか。

「一つ、勘違いを正しておこう。確かにあの大火災は聖杯による被害だが、聖杯自身が巻き起こしたものではない。あれはあの時、聖杯に触れた者の願いを叶えたが故に引き起こされたものだ」

「な、に……?」

「聖杯は所詮受け皿だ。ただ願いを受け止め、そして叶えるだけの代物だ。ものが自らの意思で何かを成すなど、有り得る筈がないだろう?」

 つまり、あの大火災は何者かの願いだったという事。一体誰があんな馬鹿げたものを望んだのかは知らないが、確かに、誰かに願われる事で聖杯が起動し、その願いを叶えただけに過ぎない。

 ものに正邪はない。ただ使用者の善悪が存在するだけなのだ。

 そしてここで誰があの災害を引き起こしたか、というのは問題ではない。過去は所詮過去でしかない。今更首謀者を追及したところで意味はないし、エルメロイU世にもそんな誰かを罰するつもりはない。

「聖杯とは何か。君の危惧には意味がないよエルメロイU世。聖杯は確かに願いを叶える代物だ。前回はただ、邪悪な者が僅かに聖杯に触れたというだけに過ぎん」

「正しき所有者が触れたのなら、その願いは叶えられると?」

「所有者に善も悪も関係ない。聖杯はただ願いを叶えるのみ。前回の闘争の折、確かに聖杯は願いを叶えるものだと立証されたのだからな」

「…………」

 最悪の形であったにしても、確かに願いは叶えられたのだ。ならばそこに嘘はない。昨日雑木林で語った聖杯の有無。聖杯は確かに存在し、たとえそれが神の血を受けた本物ではなくとも、願いは叶えられる……

「君の願いはなんだ、エルメロイU世。令呪は聖杯を望む者に刻まれると言われている。君自身にたとえ表向き聖杯を望む理由がなくとも、その深層意識を見透してな」

「私が聖杯に望むものは……既に半分は叶えられているよ。後の半分は、自分で取り戻す」

 気付かれないようにエルメロイU世は僅かにだけ視線を横に投げる。足を放り出しつまらなそうに天を仰いでいるライダーを見やり、それから、神父に向き直った。

「用件はそれだけだ。邪魔をしたな、言峰神父」

「そうか。一つだけ忠告をしておくと、既に全てのサーヴァントが世に招かれている。警戒を怠らない事だ」

「有り難く聞いておこう。それでは失礼する。正しい教会による運営を期待しているよ、言峰綺礼監督役」

「肝に銘じておこう」

 エルメロイU世はライダーを伴い礼拝堂を去る。斜陽に染まる室内で、綺礼は小さく笑いを零したが、彼らは気付かなかった。

×

「……肩の凝る相手だ」

 門扉を抜けた先、一面の広場でエルメロイU世は再度葉巻に火をつけ息を吐いた。礼拝堂の雰囲気も相まってか、あの男との会話は酷く疲れた。それほど長い時間会話していた筈もないのだが、三十分以上過ぎているような気分だ。

「それにしても、おまえが良く一言も発さなかったものだな」

 傍らの大男に視線を移す。大きな欠伸をしたライダーはやおら口を開いた。

「あの男に用件があったのは貴様だけだろう。わざわざ余が口を挟む必要がなかっただけの事だ」

「殊勝だな。常にそれくらいの礼節を弁えてくれれば私も楽なんだが」

「ふん、マケドニアの礼儀作法は何処に出しても通じる作法よ。やはり貴様は余を傍若無人な輩だとでも認識しているようだな」

 歩きながら会話を続ける。

「昨日の様を見てればそうも思いたくなるだろうが。おまえが無駄に羽振りが良い真似するお陰で私の懐は随分と寒くなった」

「王たるもの、誰よりも豪快に過ごさずしてなんとする。それにあれだ、貴様、何のかんの言っておきながら結局貴様も愉しんでいたではないか。特にあのゲーセンとかいう場所で目を輝かせておったのは誰だ」

「う、うるさいっ! 誰のせいだと思っている!」

 十年前、ゲームなどというものを心底毛嫌いしていた筈の少年も今では立派なゲーマーである。
 国外では手に入りにくいものも多い日本製のゲームが溢れる本場となれば、彼の目の色が変わるのも無理なき事であろう。

 無論、それも時と場所を心得た上で、の話だが。

「ま、それはともかく。坊主、あの男は何処かキナ臭いぞ」

 唐突な話題転換に若干訝しんだエルメロイU世だったが、気になる内容だったので話を続ける。

「……あの男とは、言峰綺礼神父の事か?」

「うむ。余も詳しくは知らんが、監督役というヤツは一発でサーヴァントを見抜けるものなのか?」

「さあな。ただ監督役には特殊な道具も与えられているらしい。主なところで言えば、どのクラスのサーヴァントがいつ召喚されたかが仔細に分かるものだ。だからサーヴァントをサーヴァントと認識できるものがあっても不思議ではない。
 が、あの男の場合は特別だ。おまえをサーヴァントと認識できたのには別の理由があるんだよ」

 十年前の闘争の時、言峰綺礼はライダーと面識がある。記憶の全てを失っているライダー側には分からなくとも、綺礼が覚えていても不思議な事ではない。これだけ特徴的な男も珍しいのだから。

「で、おまえがキナ臭いと感じたのはそこだけか? だとしたら肩透かしだが」

「いや、あの口ぶりも何処か怪しいな。真実を語っているようで語っていないような感じだったな。嘘をついている様子がないのが余計にキナ臭い」

「……それは、ただの勘か?」

「後は経験よ。余も王として数多の武官文官連中と語り合ってきたが故に。ある程度は目利きに自信はあるが、あの男は読み切れん」

「…………」

 確かに、今思えばあの男からは何処か底知れないものを感じた。会話の余裕、表情から読めない言葉の裏。エルメロイU世も職業柄多くの人物と接する機会があるが、あそこまで不気味な男はいただろうか。

 単純な実力などでは測り得ない何か。先程の会話に違和感はなかったか。そういえば十年前も、あの男は何処かおかしなところがあった……

「坊主」

 エルメロイU世の思索を中断させる王の声。路面に視線を落としていたせいで車でも近づいてくるのかと思えば、周囲に騒音はなく、傍らのライダーは真剣そのものの瞳と、獰猛な獣が獲物を前にした時に零すような笑みを形作っていた。

「……恐ろしく訊きたくないが、まさか近くに敵か?」

「おう。それほど近くはないが、どうやらもうやりあっているようだな。ここまで余波が届いておる」

 エルメロイU世には何も感じられなかったが、サーヴァントにしか感知出来ない何かを感じ取ったのだろうと納得した。

 彼自身の考え的には、ここでその既に開かれた戦端に介入するなど以っての他。聖杯の真実の一端を垣間見たとはいえ、まだまだピースが足りていない。
 より詳しい情報の収集と余計な戦力の消費を避ける為に、ここは戦場から遠ざかるのが上策だと判断したが、

「あえて訊くが、行く気か?」

「無論。貴様には聴こえんか? この心に響く清廉なる刃の音が。兵共が打ち鳴らす剣戟の音が。胸が高鳴る鬨の声が。この心地良い気を察知してなお背を向ける者など、臆病者の謗りを受ける事も免れんぞ」

「……本当、こういうのを既視感とでも言うのかね」

 こんな顔をしたライダーを引っ張ってホテルに戻れる術をエルメロイU世は知らない。そして王が行くと決めた以上、付き従うが臣下の務め。王の傍らにあるのが、彼自身が遠く願ったものだ。

「いいさ。どうせいつかは戦わなきゃならん連中だし、そっちからの情報の収集も目的の一つだ。行こう」

「そう来なければな!」

 ライダーが腰元より剣を引き抜き天高く掲げる。振り下ろされた剣閃は空間を裂き、その裂かれた次元より稲光を巻き起こしながら現れたるはライダーの第一宝具。
 天翔ける神牛の率いる騎乗戦車。かつてゴルディオスの結び目に封じられていた雷の化身が、その勇姿を現した。

「さあ乗れぃ。余と共に戦場を馳せる勇者よ」

 胸に沸いた懐かしさを噛み締めながら、エルメロイU世は戦車へと乗り込んだ。いつかは広く感じた御座が、今では狭く感じる。手綱を引いた王の横顔を見やり、静かに、小さく笑みを零す。

「飛ばすぞ坊主。舌を噛むなよ」

「安心しろ。空を飛ぶのには慣れている」

「ハッハ! いざ行かん! 数多の英雄豪傑の集う戦いの地へ──!」

 紫電が迸り、神牛が足場なき空を踏み締める。暗雲渦巻く空の果てに待つ闘争の場へと向けて、此処に一組の主従が高く馳せた。


/4


 新都駅前に構えるヴェルデを端的に表すのなら総合デパートのようなもの、という認識で間違いない。多階層構造の建物内に、服飾から雑貨、果ては食品、貴金属まで、ありとあらゆる店舗が入っている。

 深山町にある商店街よりも充実したその品揃えは、休日ともなれば家族連れやカップルまで多くの人で溢れ大いに賑わいを見せる。
 平日であっても新都に住む人々にとっては馴染み深い場所であり、常日頃の買い物にも利用されている。

 そんなヴェルデの、夕刻という時間帯に士郎達は赴き、はしゃぐイリヤスフィールを除く士郎とセイバーはものの一時間足らずで疲弊していた。

「なあイリヤ。そろそろ本来の目的に戻るか、ちょっと休憩しよう。俺達はウィンドウショッピングをしに来たんじゃないんだぞ」

 近くにあったベンチに腰掛けて士郎は溜め息混じりにイリヤスフィールに進言した。士郎の言の通り、彼らは到着早々からウィンドウショッピングに勤しんでいたお陰で手には何も持っていない。

 セイバーを連れ回して昨日とは少し違う服飾専門店を荒らしたり、ファンシーな雑貨を扱う店舗を梯子したりと、士郎にとっては針の筵もいいところだった。何も下着専門店に連れて行く事はないだろうに。

 セイバーはセイバーでイリヤスフィールに昨日の如く着せ替え人形にされ、ぬいぐるみを抱かされて悦に入られたりと、士郎とは違う意味で疲弊していた。

「イリヤスフィールの元気の良さには驚かされます。これほどの疲労を感じたのは、かつての戦場でさえ有り得なかった……」

「そんなしみじみ言わないでくれよ……なんか怖くなるだろ。この姉にこの十年引っ掻き回されてた俺は一体どうなるんだ」

「なるほど。シロウの体力は彼女によって鍛えられたのですね」

「ないとは言わないが、そんな理由で鍛えられた自分の身体が今は少し恨めしいよ……」

「もうっ、だらしないわね二人とも。この程度で音を上げるなんて軟弱よ。まだまだ回りたいお店あったのに」

「どうせ買う金もないんだから見て回っても意味ないだろ。商店街じゃないしツケなんて真似、絶対に出来ないぞ」

「あーあー、そんな事言っちゃダメじゃない。女の子の楽しみ全否定なんて最悪よ。即物的に済ませたがるのは男の悪いところよね。女の子はこうしてお店をひやかしてるだけでも楽しいんだから。
 好きにならないまでもせめて楽しんでる振りくらい見せなきゃ彼女なんて出来ないわ。ううん、むしろできなくていい。私が彼女になってあげるから!」

 抱きついてきたイリヤスフィールを振り払う事もなく、士郎はがっくりと項垂れる。隣でセイバーが苦笑していた。

「しかしイリヤスフィール。そろそろ時間も差し迫っているのではないのですか」

 夕食の買い物目的で訪れたというのに未だ何一つとして購入していない。疲労だけが蓄積している。

「あっ、そっかぁ。流石にこれ以上遊んでると拙いか。ん、じゃあ仕方ない、買い物して帰りましょ。
 んーっと、ここ三階だから地下ね。行きましょう」

 士郎とセイバーが立ち上がり、イリヤスフィールに続く。

「よぉ、もう帰っちまうのか? そりゃねえだろセイバーさんよ。もう少しオレと遊んでいこうぜ?」

 不意に、そんな声が、三人の背にかけられた。

「何……?」

 イリヤスフィールと士郎が足を止め、振り仰ぐ。セイバーは瞬時に二人を庇える位置に立ち、声をかけたらしき男を睥睨した。

「……サーヴァント。何時の間に……」

 青い鬣を思わせる髪に赤い瞳が輝く獣のような男がそこにいた。無論、サーヴァントが身に纏う戦装束ではなく、当世風の衣装を着て士郎達を見下ろしていた。

「おっと、まさかこんな場所でやりあうつもりじゃあないよな。場所も選ばず牙を剥くだけの獣じゃないんだ、人間なら時と場合を考えろってな」

 にへらと笑う男に毒気を抜かれる。目の前の青髪の男からは敵意のようなものを微塵にも感じられなかった。

 元々索敵能力の低いセイバーが見逃したのは、こんな場所で襲う敵はいないという安易な考えと、何の害意も見せない相手だったからだ。毛ほどでも敵意を見せていれば、こんなにも近寄らせなかっただろう。

 己の不覚を戒め、セイバーは踏み締める足に力を込めた。

「何が目的だサーヴァント」

「だから言ったろ、遊ぼうぜ。わざわざこんな格好までして出向いてやったんだ、逃げるなんて言わねぇよな?」

「無論だ。挑まれた戦いから背を向ける真似はしない。その背を衝く事も厭わぬ連中というのも存在すると言うからな」

「ハッ──んな連中と一緒にするなよ。やるからには正面からだろ。背後を衝くなんざ暗殺者のやる事だ。オレ達はただ戦えればそれでいい。だろう?」

「貴様と一緒にするな。私には目的がある。戦いたいから戦うなどというのは、獣にも劣る下らない感情だ」

「はいはいそうですかっと。どの道刃を交えれば余計な雑念なんざ殺ぎ落ちる。息巻くのなら今のうちだぜ?」

「その程度の安い挑発に乗ると思うか?」

「乗ってくれれば楽なんだがな。ま、オレとしてはこっちの方が断然良い。んじゃあ改めて自己紹介でもしとくか。オレはランサー。よろしくな」

 にこやかな笑みを向けられ。士郎とイリヤスフィールはどう反応するべきか迷い結局何も言えなかった。セイバーだけが厳しい眼差しでランサーを睨んでいた。

「んじゃあ行こうぜ。人気のないところによ」

 一人歩いていくランサー。逃げ出そうと思えば逃げられそうな具合だが、最速を誇ると言われるランサー相手に逃げ切れるかどうか。
 そしてセイバーは既に啖呵を切ってしまっている。背を向けるのは彼女の誇りに背く行為だ。

「申し訳ありません、シロウ、イリヤスフィール。このような事になってしまって」

「いいさ。遅かれ早かれいつかはこうなってたんだろ。それが今ってだけだ」

「そうね。それにしてもランサー、か。勝手に歩いて行っちゃったけど、私達が逃げるなんて微塵も考えてないみたいね」

 セイバーの誇りを信じているという風ではなく、単純に付いて来ると思っているだけという感じだった。人を信用しているのか何なのか、計り知れない男だった。

×

 姿を見せない敵マスターに警戒を行いながら、雑踏を抜けランサーの後を追い辿り着いたのは、未遠川沿岸、新都北部に位置する倉庫地帯だった。薄暗い黒色の建物群を赤い回転灯が照らしている。

 空は陰り灰色の雲が勢い良く流れ、美しい月と眩い夜空を覆いつくしている。遠くに望むのは埠頭と灯台。風に乗って流れてきた潮の匂いが鼻先を掠める。

「しかしアレだな、今回のサーヴァントは変わりものばっかりか? どいつもこいつもこんな服着て闊歩してるなんざ、普通じゃ有り得ないだろ」

 闇に没した道路の上で、青髪のランサーが自らの服を引っ張りながらぼやく。そしてランサーの周囲に風が渦巻き、一瞬の後、髪色に似た青いボディスーツがランサーの屈強な肢体を覆っていた。

「あの服も悪くはないが、オレ達はサーヴァントだ。戦る時はこっちで迎えるのが礼儀ってもんだろ」

 セイバーもまた一歩を踏み出し武装する。白銀の甲冑が風と共に現れ、少女の全身を覆っていく。手には不可視の剣。そよ風が、青いドレスの裾を巻き上げた。

「シロウ、イリヤスフィール。離れていて下さい。それから、警戒を怠らないように。敵マスターの所在が掴めないままサーヴァントと対峙している今、貴方達に気を割けるかどうかは分かりません」

「大丈夫。セイバーは自分の戦いに集中して」

「ああ。自分の身くらいは、自分で守る」

 二人はセイバーの後方に位置取っている。士郎からすれば、ただ見ているだけというのは歯痒かったが、昨日一昨日とセイバーと対峙し、簡単にあしらわれた身としては自分を抑え込むしかない。

 ここで無謀にも突撃をすれば窮地に陥るのはセイバーの方だ。魔人にも等しい力を持つサーヴァントを前に、今の自分が出来る事は何もない。ただ拳を固く握り締めて推移を見守るだけ。

 それでも何か出来る事はないかと頭を必死に巡らせて、耐えるしかない。

 ランサーの右腕がゆらりと動き、水平に伸ばされた。無手であった筈の彼の手に、血よりも赤い色の槍が突如生まれた。
 長大な業物を軽々と回転させ、両手で担い構えを取る。獣じみた姿勢で、穂先が地面を擦るほどに身を低く構えた。

 もはやその場には一切の言葉は不要だった。下段に構えたセイバーもまた、動き出す瞬間を計っている。
 一帯を支配する剣気。肌を刺す尋常ではない殺気が二人から発せられ、士郎やイリヤスフィールまでも呑み込まれた。

 ランサーの足が僅かに動く。にじり寄るような一歩は砂利をブーツの爪先で踏み砕き、瞬間──青い槍兵の紅蓮の瞳はこれ以上なく見開かれ、口元は獰猛な獣の如く裂けて笑い、一陣の風となった。

「ハァ────!」

 二十メートル以上あった彼我の間合いが瞬きの間に詰められる。青い風となったランサーは一息でセイバーに肉薄し、赤い軌跡を残しながら愚直な一刺しは繰り出された。
 対するセイバーもまた握り込んだ不可視の剣を寸分違わず振り上げ、最速の槍兵が放った乾坤一擲の刺突を迎撃する。

 目にも映らぬ剣と槍との衝突。散った火花だけが残影を描き、二人のサーヴァントは互いに小さく笑みを零す。

 そこから先の光景は、士郎とイリヤスフィールの理解を超えていた。

 無尽に舞う火花。ただ軌跡だけを残して消え去る剣閃と槍閃。鋼のぶつかり合う音は間断なく闇に轟き、余波が周囲にある物という物を破砕していく。
 渦を巻いた風が彼らを中心に巻き起こり、吹き荒れた陣風が倉庫の回転灯を砕き、扉を揺らし、窓を震わせる。

 たかが剣と槍のぶつかり合いで、本来起こる筈もない現象が、今確かに士郎達の目の前に繰り広げられていた。
 彼らの目にはそれこそ刃をぶつけ合う二人がただ一定の距離を保ったまま棒立ちしているかのように見える。だが真実は目にも留まらぬ速度で振り抜かれた腕が縦横無尽に閃き一瞬の間に何合もの激突を繰り返している。

 地に根を生やした状態で裂帛の衝突を乱れ打つ二人。その姿から読み取れるものは、ランサーの優勢だった。

 長柄の得物を繰るランサーと、不可視とはいえ剣でしかないセイバーの得物では間合いが違う。ランサーもその辺りは既に把握しているのだろう、絶妙な距離感を保ったまま槍を面の如く連続で繰り出し、セイバーに踏み込む余地を与えない。

 槍の長所であり短所でもあるのはその長さ。距離を置いての戦いは圧倒的に優位だが、懐に入られてはその長所も仇となる。その特性を熟知しているからこその間合い。神速で槍を振るい、セイバーに防戦を押し付ける。

 しかしセイバーとていつまでもランサーに良いようにさせる筈もない。現にセイバーは間合いには入れずとも、致命の一撃は一度として受けていない。刺突という斬撃よりも速い攻撃手段の全てを封殺している。

 それを可能としているのが彼女の身体を覆う膨大な魔力による後押しだ。魔力放出と呼ばれる特性で、自身の持ち得る力に数倍する威力と速度を体現し、ランサーの神速に迫り続ける。

 魔力供給源となっているイリヤスフィールからセイバーに魔力は延々と流れ続ける。これがもし士郎がマスターであったのなら、セイバーは自身の魔力量をやり繰りしながらの戦闘を余儀なくされ、知略をも使った戦闘手段を取ったのだろうが、今はそんなものは不要だった。

 どちらがより強く相手を打ち倒すか。より速く一撃を繰り出せるか。単純明快にして一瞬すらも遠い刹那の駆け引きを、二人は無限に演じ続ける。

 膠着と言ってもいい状況。どちらも詰めの一手を打っては相手にその隙を衝かれると了解しての応酬。引き伸ばされた時間の中で、一体何十合……いや、何百合の剣戟を繰り広げたか定かではないその時──

「終わりにしよう、ランサー」

 ランサーにしか聴こえない音で発せられたセイバーの静かな声。戦いの最中とは思えない余りにも抑揚のない声音にランサーが訝しんだのも束の間、直後に行われたセイバーの思惑に瞠目せざるを得なかった。

 セイバーの総身を覆っていた白銀の鎧が霧散し、目も冴える青のドレスだけが残る。魔力によって編まれた鎧を解除し、その分を攻撃に上乗せする。つまりは防御を捨て、攻撃に全てを賭けたのだ。

「ハッ──舐められたもんだッ……!」

 ランサーは刺突の乱打から一転、横薙ぎの払いを繰り出す。点としての攻撃から線としての攻撃への遷移。そして攻撃の選択肢を増やす事によってセイバーの防御を誘うつもりだったが、

「────っ」

 渾身の一撃は、セイバーの一撃によって払い落とされる。ただ払われただけならばまだ良かったが、先程までの剣戟とは余りに重さが違った。
 それも当然、小柄なセイバーがランサーと対等以上に接戦を演じられる膂力の正体は魔力の多寡だ。防御に回していた分を攻撃に転換した時点で、先程と同程度の威力である筈がない。

 一撃。ただの一撃で攻守は引っ繰り返される。

 ほんの些細なバランスを崩しただけ。一秒も掛からず立て直せる筈の隙は、魔人たるサーヴァント同士の戦いにあっては致命傷を生む。

 ランサー自身、これまで自分が優位だったとは思っていない。不可視の剣とは想像以上に厄介な代物で、ある程度の間合いは計れても絶対的な距離感は掴めない。
 セイバー自身もその辺りは巧みに隠蔽していたし、ランサーは長物の利点を有効に活用し凌いでいただけ。

 力量としては互角か、それ以上の相手に致命傷を与えるにはランサーもまた死活の地へと踏み込みを余儀なくさせる。だがそれを阻む不可視の剣。セイバーの剣がただの剣であったのなら、とうにランサーは戦いに決着をつけていたのかも知れない。

 しかしこの一瞬、それでも戦局を優位に運んでいたランサーは致命的なミスを犯した。セイバーの剣が迫る。防御は間に合う。だが、次の一撃を凌ぐには、体勢が悪い。仮にその一撃を防げたとして、更にその次の一撃は間違いなくランサーの首を奪う。

 刹那の思考。いや、それは思考ですらなかったのかもしれない。本能にも似た超感覚。獣が自らの生命の危機を察知する素早さで、ランサーは後方へと跳んだ。

 遅れて振るわれたセイバーの必殺の剣はランサーの頬を掠めるに留め大地を砕く。圧倒的な切れ味を持つセイバーの剣に裂かれたランサーの頬はぱっくりと割れ、赤い血を滝のように流し半面を染め上げた。

 だがそれでも戦いは終わらない。退避したランサーは地に足をつくと同時、三角跳びの要領で再度前方へと跳躍する。必殺の一撃を放ったセイバーに生じる一瞬の隙を、神速の打突にて刈り取る為、自らのダメージさえ慮外にして反撃に打って出た。

「セイバー!」

 士郎が叫ぶもセイバーの姿勢は剣を地に叩き付けた状態のまま。ランサーは最大限に得物を伸ばし、赤い軌跡が一直線に心臓を穿つ──!

「ハァ──!」

 硬直を脱せないセイバーは、脳髄を奔った直感の命ずるままに、不可視の剣を握り締め奇策を弄す。全身より溢れ出る膨大な魔力が一点に集約し、動く筈のない腕を無理矢理に跳ね上げさせた。

 赤い槍は弾け飛び、ランサーもまた宙を舞う。セイバーは強引な迎撃のせいで動くに動けず、舞うランサーを追撃する事叶わず歯を噛み締める。
 空中で槍兵は身体を捻る。伸ばされた長い足が曲芸じみた動きを描き旋風となり、完全な硬直状態のセイバーの頬を穿った。

 軽やかに着地したランサーは一矢報いたものの、必殺を躱されたせいか、苦渋を浮かべていた。

「流石は最優のサーヴァント。楽には獲らせてくれんか」

 頬より溢れ出る血を拭う。圧倒的な魔力放出により放たれるセイバーの剣を、受け止め続けていた腕が痺れにより震えているのを、固く拳を握って誤魔化した。

 速度ならばランサーが上だが、力ではセイバーが勝る。やりにくい相手。得物は捉えきれず、その小柄な身体からはおよそ予期できない圧倒的な膂力から繰り出される数多の剣戟はランサーをして分が悪いと言わしめる。

 しかし、ランサーは笑う。

 勝てると分かっている戦いなどつまらない。命を削り凌ぎ合う戦いこそが本来あるべき戦いの形だ。勝てると分かりきっている戦いは、ただの虐殺に過ぎない。

 セイバーの総身を再度白銀の甲冑が覆う。蹴り飛ばされた頬の傷もまた瞬時に自動修復され、無傷の剣の騎士が槍の騎士と対峙する。

「そういう貴方も相当にやるようだ。相手にとって不足はない……が、敵である以上、容赦はしない。ここにその首を置いていけ」

「抜かせセイバー。オレの首が欲しいのなら、その隠した剣を晒して見せろ。出来ないのなら──その心臓、貰い受けるぞ」

 一帯を覆っていた気配が一変する。威圧感に満ちていた剣気を覆し、周囲を真冬の如き絶対零度の殺気が包囲する。
 背筋を刺す殺意。吐き気を催す酩酊感。酷く気分を害すその正体は、ランサーの手にする赤い槍が刻む拍動だった。

 空気中に混在する魔力が暴虐に喰らい尽くされていく。赤い槍が脈動し、無尽蔵に魔力を糧とする。赤い気配。されど何処までも冷たい悪魔のように鋭利な威圧が、セイバー唯一人へと向けられている。

「────」

 宝具。

 セイバーは即座にランサーが宝具を開帳しようしている事を看破した。サーヴァントの戦闘とは、究極的に宝具同士のぶつかり合いだ。剣での応酬も思考の読み合いもそれに付随する前座に過ぎない。

 どれだけ圧倒的に不利な場面であっても覆すだけの力を持つ、英霊の半身にして唯一無二の絶対兵器──それこそが宝具の正体だ。

 相手が宝具に訴えるのであれば、セイバーもまた秘した剣を晒さずにはいられない。だがこんな緒戦でその剣を開帳していいものか。
 風呪の魔術にて隠している剣は晒せばそれだけで相手に真名を看破されかねないだけの知名度を誇っている。

 故にこそこうして秘しているのであり、知られれば今後の戦いに不利を招きかねない。この場には互いしかいないとはいえ、何処から誰が二人の演舞を覗き見をしているか分かったものではない。

 剣を晒し迎え撃つか否か。

 今後との折り合いと今を生き抜く為の決断。どちらをより優先すべきかという思考の合間にも、ランサーは彼にだけ許された必殺を今にも放たんと穂先を低く埋めていく。

 剣を握り締める腕に 力が篭る。セイバーの敗北は、士郎とイリヤスフィールの死を予期するものだ。切嗣との約束。二人との誓約。セイバーはただ、彼らの剣となり勝利を掴み、盾となり守護する事のみを考えればそれでいい──!

 渦を巻き、剣を覆い隠していた風が周囲へと放たれ秘された剣身を露にする寸前──その聖なる風を、彼方より降った紫電が引き裂いた。

 セイバーもランサーも、共に互いしか見ていなかったその一瞬を衝く形で現れたその威容に、二人は唖然とする他なかった。
 鈍色の空より飛来した雷光の正体は、巨大な戦車だった。その御者台にあるのは、頭を抱え苦渋に面貌を歪ませる壮齢の男と、赤い鬣を風に揺られた王者だった。


/5


 セイバーとランサーの間、そして先程の衝突により立ち位置が変わった士郎とイリヤスフィールの正面に、神牛の率いる戦車は着陸した。

「……なぁ、おまえはどうしてわざわざ敵の対峙する戦場の渦中に降りたがるんだ? 習性か? 本能か? 割り込まなければ生きていけない変態か?」

「何を言う。共に宝具を抜かんとする益荒男共を止めるにはこの手しかあるまい。第三者がおると知ったのなら互いに切り札を晒す愚を犯す者もそうはいまい」

 ならばこうして宝具で堂々と降り立った自分達はどうなのか、と問いたい衝動に駆られたエルメロイU世だったが、どうにか呑み込んで呆れる事で諦めた。

 突如降臨して要領を得ないやり取りをする二人の男を、セイバーもランサーも白けた目で見ていた。士郎やイリヤスフィールは最早呆然と場の推移を見守る他なかった。

「チッ……邪魔立てするかサーヴァント」

 ランサーが悪態をつく。それもその筈、戦いの最高潮(クライマックス)を邪魔されたのだ、ランサーは面白くない事この上なく、セイバーも同様だったが、その心中では己が宝具を晒さずに済んだ事に安堵もしていた。

「おう者共。貴様らの見事な演舞に感服させて貰ったぞ。セイバーもランサーも共に強壮たる兵よ。で、ここで一つ提案だが、どうだ、貴様ら余の配下にならんか?」

 誰しもがライダーの提案に首を傾げたり冷めた目を向ける中、エルメロイU世だけが『またかっ!』と内心で憤慨していた。
 この男は十年前もこうして他のサーヴァントを己が傘下に加えようと躍起になっていたのを、思い出さずにはいられなかった。そしてこの後の展開も、まるで計ったかのように筋道を辿った。

「いきなり現れて配下になれ? ハッ、下らん事この上ないなサーヴァント。オレ達を手に入れたいと言うのなら、せめて名乗りぐらい上げたらどうだ?」

「おぉ、そうだな。余は此度の聖杯戦争にて、ライダーのクラスに招かれた、征服王イスカンダルであるっ!」

「…………」

 まさか本当に真名を名乗るとは思っていなかったのだろう、ランサーは毒気を抜かれたように立ち尽くした。
 御者台に仁王立ちするライダーの傍らに座るエルメロイU世は、悪夢を見たかのように首を振って項垂れていた。

「なんだ、あのサーヴァント……」

「あはは、凄いじゃない! 問われただけで名乗るなんて、サーヴァントシステムに喧嘩売ってるとしか思えないわ!」

 秘すべき真名をここまで堂々と謳われては是非もない。わざわざクラスという枠組みが用意されている意味さえも根底から覆す、呆れ果てるサーヴァントの登場だった。

「で、どうだセイバーにランサー。余と共に聖杯を獲り、世界を征服しようではないか」

「断る」

 セイバーは唯の一言で切って捨てた。

「私が剣を誓ったのはマスター達だけだ。断じて貴様のような者の為に振るう剣はなく、聖杯もまた手にするは我々だ」

「オレはまぁそこまで頑なになる気はないが、これでも仕事は真面目にこなす性質でね。しかもそう何度も鞍替えしてたら立つ瀬がないってなもんだ」

 セイバーとランサーの剣と槍が同時にライダーに向けられる。暗黙の内にこの場で真っ先に消すべき相手はライダーだと、二人は了解していた。

「まさか逃げないよなライダーさんよ。オレ達の上に立つって吼えたんだ、せめてサーヴァント二人くらい軽くあしらえる程度には強いんだろうな?」

 赤い魔槍と不可視の剣が標的に切っ先を向ける。御者台に仁王立ちしたままのライダーは二人を見やり、それから周囲をも睥睨した。野太い指が顎を掻いた。

「そうさな、余も貴様らを屈服させて手に入れるのは吝かではないが、そうはさせてくれん相手が居るようだ」

 全員の後方、新都へと続く道のりに現れたるは、夜の闇を切り裂く黄金だった。眩いばかりの輝きを纏った男は、二人の魔術師を引き連れてその姿を現した。

「遠、坂──!」

「御機嫌よう衛宮くん。何だか楽しそうな催しをしてるじゃない。わたし達も交ぜて貰うわよ」

「先輩先輩、わたしもいますからねー。姉さんだけじゃないですよー」

 ひらひらと手を振る桜に呆れながら、士郎は現れた三人を再度見た。二人は見知った遠坂凛と桜の姉妹。イリヤスフィールに二人のどちらかはマスターだと聞かされていたから驚きはない。

 そして見据えるのはもう一人……圧倒的な気配を身に纏う黄金色のサーヴァントのその異様。誰もが武装するこの場で、彼だけが当世風の衣装を身に纏っている。
 それでなお損なわれない黄金の輝きを背に、腕を組んで、対峙する三人のサーヴァントを見下していた。

「何やら騒がしいと思えば、有象無象がじゃれ合っていただけか。だがまあ、これだけ雁首が揃っているのなら都合が良い。
 聞くがいい雑兵共──自害を許す。疾く死ね」

 全員が全員、凛達でさえ息を呑んだ。そのどうしようもなく他者を見下した言葉は、けれど彼が放つ威圧感のお陰か、不可思議な強制力を以って闇に木霊した。無論、それだけで自ら命を絶つほど、この場にいる誰もが腐ってはいない。

「戯言を。名を名乗れサーヴァント。貴様は一体何様のつもりだ」

「全く、この世界は醜悪よな。我の名を知らぬ羽虫ばかりか。
 まあ良い。だが、小娘如きが王に吼えるとは何事だ。我が死ねと言ったのだぞ? すぐさま自刃するが礼儀であろう」

「おいそこな金ぴか。貴様今、自分を王と名乗ったか?」

 ライダーが二人の間に割って入る。獰猛な相貌と冷徹な瞳が交差した。

「いかにも。世にこの我をおいて他に王など存在せぬ」

「んなわけなかろう。余がこうして存在する以上、王は貴様以外にもおる。世に名立たる征服王の名を、貴様とて知らんとは言わんだろう」

「さぁな。雑種の名にも称号にも興味などない」

 関心の欠片も見せず、黄金の王は三人を睨めつけた。

「どうやらどいつもこいつも王に命を捧げる気概すらない雑種のようだ。ふん、この我の手を煩わせるとは、万死に値する。悔い改めながら死んでいけ」

「おいおい、マジかよ……」

 黄金の王の言葉を正しく言い換えるのなら、唯一人でセイバー達三人を相手取るつもりなのだと受け取れる。
 いかなランサーやセイバーでも、サーヴァントを三騎同時に相手にするなどという離れ業は至難を極める。

 だがあの男はまるでそれが当然のように悠然と構え、無手のままに見渡した。必然、三人はそれぞれの得物を構え迎撃の態勢を整えるしかない。
 セイバーは不可視の剣を下げ、ランサーは赤い槍を構える。ライダーは騎乗する戦車の手綱を引き、士郎達はセイバーの後方へ、凛達は黄金の王の背後に避難する。

「なあライダー、私も降りた方がいいと思うのだが」

「んな暇あるかい。覚悟を決めよ。あやつのあの自信が自惚れでないとすれば、一瞬でも気を抜けばやられるぞ」

 赤毛の王はかつてない程の真剣味を帯びた瞳を湛え、黄金の王を睨む。直立不動の王は右腕を挙げ、口端を邪悪に歪めた。

「まずは一分、耐えられたのなら褒めてやろう」

 王の宣告を口火とし、戦端は開かれた。

 セイバーとランサーが奔る。アスファルトを踏み抜き突風となった二人は、猛然と黄金の王に肉薄する。同時、ライダーは手綱を引き上空に飛翔し、高点からの奇襲を敢行しようと死角へと回る。

 三人がそれぞれの一手を打った刹那──黄金の王はその全てに対処する爆撃を開始した。

「なっ……!?」

 セイバーの未来予知じみた直感が無意識に足を止めさせた。そんな天才を持たないランサーでさえ、野生の勘でこれより起こる惨劇を認識した。

 黄金の王の背後に浮かんだのは赤い波紋。高く空を埋め尽くすほどの膨大な数の歪曲が生まれ、銀色の輝きがその全てから一斉に放たれた。

 現れたのは古今東西分け隔てなく、剣の名を冠する鋼の群れだ。そのどれもが一級の神秘を内包した宝具。英霊が本来持ち得る宝具は一つ、多くとも二つ程度という常識を真っ向から覆す破壊の雨が、彼らの前に降り注いだ。

 セイバーもランサーも、呼吸さえ忘れ自らに迫り来る剣戟の嵐を捌き抜く。一本の剣や槍で防げる量ではないその絨毯爆撃を、無意識の協定で凌ぎ抜く。

 ……これは、拙い……!

 脳裏を駆け巡る不利を告げる信号。今はまだ耐えられる。降り注ぐ銀色の雨を青と赤の軌跡でやり過ごす事は、今ならばまだ可能。
 だが遠く見える黄金の王──アーチャーの背後の赤い歪みは秒を刻む毎に増していく。それもただ増すだけでなく、倍々に増えているのだ。

 降り注ぐ雨粒の全てを完全に遮断する術がないように、こんな膠着を続けていては疲弊する一方だ。
 近づく事も許されない、絶対的な物量によるごり押しの戦法。数多の剣を操る最強の魔弾の射手。戦力にものを言わせた戦い方こそがアーチャーの真価──!

「はああああああ……!」

 逆巻く風を味方につけ、セイバーは裂帛の気合で剣を振るうも、その身を剣の雨に徐々に削られていく。傍らのランサーも旋回させた槍で剣を叩き落すも、直後に新たなる矢が迫っては防戦以外の手立てがない。

「チィ……!」

 アーチャーの言は真実だった。あの男は恐らく、全てのサーヴァントを相手取ってなお戦えるだけの戦力を誇っている。

 そして上空に舞ったライダー達もまた同じ状況に追い込まれていた。追尾弾の如く飛翔する剣を『 神威の車輪 (ゴルディアス・ホイール)』の機動力で辛うじて直撃は避けていても、いつまでも逃げ切れるものではない。

 ただ追って来るだけならばまだしも、剣は無限と増え続け、前後は元より上下左右、三次元に死角なく襲い来るのだ。展開されたシールドが幾本かの剣の射出を防ぎ雷光を散らしても、このままではじり貧だ。

「これは……流石に拙いな。撤退も視野にいれるぞライダー」

 エルメロイU世が戦車より降りなかったのは僥倖だった。この宝具の最大戦速を発揮すれば、さしもの剣群も追いきれまい。問題があるとすれば、

「余に尻尾巻いて逃げろというのか? 馬鹿者め、これだけ虚仮にされて逃げられるか。それに今ここで余が下がれば下の二人は死ぬぞ。せっかく良い兵共を見つけたというのに早々に殺されてなるものか」

 眼窩の戦いは最早戦いとすら呼べるものではない。無我に剣を槍を振るい続ける二人を見て、その後方で血が滲み出る事も厭わず唇を噛み締めている少年を見て、エルメロイU世もまた腹を括った。

「ライダー、全速で剣の雨を振り切って後方から突貫……出来るか?」

 あの男に死角があるとすればそこしかない。斜線上にはセイバー達もいるが、そこは躱して貰う外ない。

「応とも。この神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)の真価を見せてやろう!」

 ライダーが手綱を引き、神牛が嘶いた。火花散らす剣と紫電。形なき空を蹴り上げた神牛が猛然と、何処までも高く空に飛翔する。垂直上昇を行う戦車を下方より追撃する剣。ライダーは手綱を一層強く引き、高空で急旋回を敢行する。

 およそ有り得ない速度で空中を反転落下していく戦車に、追随していた剣はその速力には届かず制御を失い、空中で消失した。
 即座に下方より放たれる無数の剣。だがそれを速力を威力へと変えたライダーの蹂躙走法にて駆逐する。

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 高く響く鬨の声。呼応する神の騎乗車の雷撃が上空に向けて降る雨を撃ち砕く。紫電が尾を引き、まるで流星のように冬木の空に落下する。
 狙いはアーチャーの後方上空からの一点突破。この戦速でならアーチャーの剣群を振り払うには充分なのは既に証明されている。

 シールドに守られていても耳を劈く轟音。風を纏い、雷気を放ち、大気を切り裂いて一条の神雷は地上に降る。

「アーチャー! 後ろ!」

 凛の声もライダーの巻き起こす爆音の前に掻き消され、アーチャーの耳には届かない。だがアーチャーはセイバー達を見据えたまま、左手で無造作に掴み取った剣を上に向けて振り抜いた。

「な、に……?」

 地上より上空に向けて奔る氷の道。いかなる宝具によるものか、ただ一度振るわれただけの剣は天高く氷柱を生み、ライダー達へ向けて一直線に伸びて来る。

 しかしその程度で止まる速力ではない。生み出された氷柱を憤然と踏み砕き、粉微塵としながら、ライダー達はセイバーもランサーも踏み込めなかったアーチャーの間合いへと肉薄する……!

「がぁっ……!?」

 衝撃は、左方から。

 アーチャーを目の前とした刹那。神威の車輪は突如左方に生まれた三つの巨大な破砕槌に殴り飛ばされ、その制御を失った。

 怒涛の速力と威力を持つが故に、正面からの衝突には滅法強いその走法も、予期し得なかった左方からの超威力の一撃の前に敗れ去った。
 自ら生み出した速度そのままに横殴りにあった戦車は、バランスを崩し地面へと叩きつけられ、横転こそしなかったものの、甲高く耳障りな酷い摩擦音を響かせて路面に黒々とした痕を残し停止した。

 同時に、先程まで一帯を覆っていた爆撃音もまた静まっていた。

「一分だ」

 悠然と宣言するアーチャー。

 本当にそれは、ものの一分足らずの出来事だったのだろうか。彼らがいる道路上には流星群が落下したかと見紛う程の無数のクレーターが点在し、その爆撃に応戦していたセイバーとランサーは、何とか立っているだけだった。

 荒い呼吸を刻み、白銀の鎧も青い鎧も破砕され、肉を剥き出しに赤い血を零している。目に力こそあれど、疲労は目に見えて蓄積し、剣と槍を持つ手は今にも武器を取り落としそうなほど弱々しい。

 ライダーは無事だったが、エルメロイU世は揺れる視界に顔を歪めながら力なく頭を振るばかり。神牛が放つ雷光も、今や何処か力強さを欠いていた。

「つまらん。一太刀浴びせるどころか一歩すら動かせないとは、やはり所詮は有象無象。この我に比するには足りん」

 衝撃は正しくそこだろう。アーチャーは戦闘開始から一歩たりとも動いていない。その戦法が手を扱わない剣の射出とはいえ、これは異常な力量差だ。
 接近戦を得意とするセイバーやランサーはいざ知らず、ライダーですら一撃を喰らわせる事すら出来なかったのだから。

「まあ、それでもこの我に手を使わせたのだ。そこは誇って良いぞ雑種」

 嘲笑いながらアーチャーはライダーに視線を向けた。

「使わせたというよりも勝手に使っただけだろうに。使う必要はなかっただろう、あの槌があれば必要充分だったんじゃないか?」

 ライダー達の落ち度、というよりもアーチャーの巧みさは剣だけに限定した射出を行いそれ以外の武器はないと思わせた点だ。最初から剣以外の巨大な得物があると知っていればライダーも対処の手段はあった。
 更に氷の剣さえも囮にしたやり口には、およそ隙というものが存在しなかった。

 強い。それも圧倒的なまでに。

 その場にいた誰しもがアーチャーの強さを認めないわけにはいかなかった。従えている筈の凛達でさえ、ほとんど場の空気に呑まれていたのだから。

「己の卑小さを理解したか? ならば疾く自害しろ。貴様ら程度がどれほど束になったところで、この我に傷をつける事すら叶わん。そう理解してなお足掻くというのなら、今度こそ消し去るぞ」

 赤い歪曲が何処までも堆く生まれ空を覆っていく。幾本の剣を射出したのか定かではなかったが、あれほどの剣を無尽蔵に放っておいてなおまだ余力があるというその物量は、誰もが慮外だった。

 そして王の傍らに一つだけ生まれた歪曲から、刀身ではなく柄だけを覗かせるモノが、背後にある無数の剣刃よりもなお強い存在感を放っていた。

 あの“何か”を抜かせてはいけない。

 何かは分からないが、わざわざそれだけを手に取れる位置に生み出したのなら、それはあの王にとっての切り札に違いない。
 無数の剣群を上回る何か……正体不明なそれを手に取らせてしまったのなら、絶対的に勝利はないと、その場にいたサーヴァントの誰もが了解した。

「はっ、雑魚を相手取るのはつまらんが、これだけの相手は流石に骨が折れる。よぉセイバー。おまえ、あの野郎に対抗する術はあるか?」

「……あります。ありますが、私が宝具を使う為にはどうしても溜めがいる。アーチャーの攻撃を躱しながらなどという芸当は不可能です」

 事此処に至って宝具の出し惜しみには意味がない。この敵を乗り越えなければ聖杯に手が届かないのだ。それ以前に、今日という日を生き延びられるかどうかさえも危うい、この絶望的な局面。
 全てを無に帰す最大の切り札は、セイバーの手の中にある。

「なら話は簡単だ。オレとライダーがおまえを守る。おまえの一撃であいつを消す。どうしようもなく単純明快だ」

 それがどれだけ困難な事か、ランサーもセイバーも理解している。切り刻まれた身体は既に満身創痍。全力には遥かに遠い。その状況で、先に比する剣群と未だ秘された切り札を相手取るのは不可能といっていい確率の筈だ。

 だが、後退はない。

 サーヴァントが同じところに三騎集う事など今後あるかどうか分からない。たとえ全力でなくとも、単騎での決闘であの敵を倒すのに比べれば、まだ勝算がある。

 最強の剣と盾を二枚。それだけの手札で無尽蔵の剣に挑む。

「勝手に勘定に加えられとるのは気に食わんが、今はそれが最上か。時間を作るというのなら余にも手段はある。セイバー、後を任せるぞ」

 必要に駆られたからとはいえ、こうして無意識の内に手を組む行動こそが、アーチャーの強さを物語る。だが一度手の内を晒したのなら、対処法はある。攻撃の手を止めたのは、あの男最大の失策だ。

「密談か? 良いぞ、勝てぬと分かってもなお手向かう気概があるのなら猶予くらいはくれてやる。その命、せめて我を愉しませてから散らせよ」

 四騎のサーヴァントが互いに動き出す一瞬を探るその後方。戦いの推移を見守る他なかった士郎は一人、唇を噛み締めていた。

 己の余りの無力さに。血を流しそれでも立ち向かうセイバーの後ろに、守られているだけの歯痒さに。震える手を、そっとイリヤスフィールが握る。

「耐えなさい。セイバー達には何か策があるようだし、あの戦いの中で私達に出来る事は一つしかない。こうして、見守る事」

「分かってる。分かってるけど……!」

 不穏な動きを見せれば、ずっとこちらを警戒している桜に感付かれる。令呪に訴える手段もあくまで最終手段だ。士郎とイリヤスフィールの二人掛かりでも、凛と桜を相手取るのは巧くない。

 士郎は脳裏に己に今出来る可能性の全てを列挙していた。見習い魔術師でしかない未熟なマスターに出来る事。
 剣による剣戟不可。弓による射撃不可。魔術は二つ。解析に意味はなく。強化は半端。投影は──

「…………」

 士郎は自分の掌を見下ろした。脳裏に閃いた可能性。それが可能な事なのかどうかは全く分からない。
 セイバーに咎められ、イリヤスフィールに忠告を受けた危険な賭け。だがそれを行えるのなら、あの遠い頂に手を掛けるくらいは出来るのではないか……

 そんな思索に囚われていたその時、士郎の肌を一粒の雫が打った。ふと空を見上げてみれば、夕刻から忍び寄っていた灰色の雲は曇天と化し、冬木の夜空を覆い隠している。雨粒が降ったのはそのせいだろう。

 だがその中で、燦然で青白い月が輝いていた。

「……は?」

 士郎は我が目を疑った。一面を覆い尽くす灰色の雲の中、たった一つぽっかりと穴を空けたように存在するその青白い月。有り得ない。これだけの雲に閉ざされて、雨まで降り始めた空に月だけが都合良く見える訳が──

「──逃げろォ!」

「シロウ……!?」

 瞬間、士郎は叫び駆け出した。握られていたイリヤスフィールの手を振り払い、無我夢中でセイバー目掛けて走り出した。

 サーヴァントと凛達までもが士郎の異様に目を向ける。同時、明らかに空より降り注ぐ光量を増した月の輝きに、皆が空を仰ぐ。

「あれは……!?」

 その声を上げたのは誰だったかは定かではなく。どの道その声も次いで巻き起こった膨大な光の奔流に呑み込まれ掻き消える。

 その日、冬木に一本の光の柱が降り注いだ。遥か天空に描かれた巨大な魔法陣より放たれた、極大のレーザー砲じみた神代の魔術が、地上にあったサーヴァントの全員を巻き込み大地を貫く。

 ものの一瞬、神秘を神秘と認識する暇もなく、その光を見た者は夢か幻だと思う他なかった幻想的な光景。
 放たれた光はやがて残滓を降らせながら霧散し、光の粒は雨に紛れて空に散った。


/6


 地上を覆う白煙。夜空を貫いた光の束は消え、着弾点であった四騎のサーヴァントの戦場は、見るも無残な惨状を晒していた。

 捲れ上がったアスファルトの路面は周囲に無数に積み上げられ、余波を受けた倉庫は壁を削り取られ拉げている。光の着弾した地点はアーチャーの作り上げた無数のクレーターを繋ぎ合わせ巨大なクレーターへと変貌していた。

 ただその中心にだけは、一切の被害が及んでいなかった。中央に立つ黄金の王は降り注いだ光を遮断した鏡面のような盾を何処かへと消失させ、天を睨んだ。

 忌々しげに肩についた塵を払い、穿たれた穴を飛び越え新都の方角へと足を向ける。視線を右方に向ければ、黒い歪みのようなものが半円を描いて存在していた。その黒い歪みは罅割れ、砕け散った。中から姿を見せたのは、凛と桜だった。

「サンキュー桜。助かったわ」

「いえ、これくらいなら何でもありません。それより、一体何が?」

 直接の攻撃を受けなかった二人は桜の魔術で辛うじて張った障壁の中に身を隠してやり過ごした。二人は空を仰ぐもそこにはもう既に何もない。鈍色の雲が厚く広がっているだけだった。

「ちょっとアーチャー、アンタ無事?」

 アーチャーに駆け寄った凛は王を見回すも、怪我らしきものは一つとして見当たらなかった。アーチャーは歩みを止めず、街並みに灯る光を目指す。

「戻るぞ」

「は?」

「雨も塵も気に食わん。服が汚れる」

「ちょっとアンタ、まさかそんな理由で帰る気!?」

 アーチャーは答えず、肩で風を切り去っていく。サーヴァント三騎を相手に圧倒し追い込んだとは思えない理由だ。
 必勝を期すのなら、この場の結末を見届ける事が必要だったが、戦う気を無くしたアーチャーをやる気にさせる手段を凛も桜も持ってはいなかった。

「本当、扱い辛いサーヴァントよね……」

 それでも収穫は充分にあった。アーチャーの実力は疑いの余地無く本物だ。彼女達の聖杯戦争は、序盤にして既に王手をかけたも同然の手応えだった。
 最大の難点は、やはりその自由気ままな気性と扱い辛さだろう。最強である分の不利益だと思っても、果たして釣り合っているのかどうかは定かではないが。

「まぁいいか。問題もあるけど、とりあえずそれは帰ってから。桜、戻るわよ」

 桜は一人未だ晴れない白煙の向こう側を見ていた。あの場にいた他のマスターとサーヴァントの行方。いや、唯一人の少年の行動とその結果を知りたくて。

「行くわよ桜。見ない方が身の為よ。生きていても、いなくてもね」

 生きているのなら戦わなければならない。凛と桜で、サーヴァントを相手に絶望的な戦いを。生きていないのなら、言うまでもなく向こうにあるのは死体だ。無残を晒すそれは見られるものではないだろう。

「……はい、姉さん」

 桜は後ろ髪引かれる戦場に背を向ける。これが戦い──自らと、そして姉が踏み込んだ戦場だ。目を背ける事も事実から逃れる事も許されない。ただ勝利を目指し邁進するだけの方程式。

 少年もまた覚悟を以って臨んだのだ。敵である桜が差し出せる手は、ない。

×

 戦場の上空、僅かに逸れた海の上に、雷の騎乗車は滞空していた。天より光が降り注いだ刹那、怒涛の加速を以って離脱した彼らは無傷のままに生き延びていた。

「洒落にならんな、何処のどいつだ、こんな真似をするのは」

「決まっている、こんな桁外れの魔術を扱える者は現代の魔術師では有り得ない。キャスターのサーヴァントにしか不可能な所業だ」

 サーヴァント四騎を纏めて亡き者とする為に放たれた、彼らの絶対の死角たる遥か天空からの奇襲。
 落ち度があるとすれば月の見えない夜だったという偶然だけ。もし月が見えていたとすれば、その光を背に誤魔化され、あの少年も気付けなかったに違いない。

「何にしても助かった。あのままアーチャーとやり合うのはやはり拙かった。今後の対策に頭を悩まされるが……」

「まあ、高く見積もってもあのままなら五分だろうな。犠牲を厭わぬのならもう少し上がったろうが……それよりもキャスターの方が気に掛かるな」

「うん? 何をだ。私達ごと全て吹き飛ばそうとしただけじゃないのか?」

「いや、うむ、もちろんそれも思慮にあるだろうが、それだけではない可能性もあるかも知れんって事さ」

 要領を得ないライダーの返答にエルメロイU世は眉を顰めたが、長く息を吐いて背凭れに身を預けた。

「戻ろう、今夜はもう戦えない」

 神威の車輪も酷使に次ぐ酷使で悲鳴を上げている。宝具にメンテナンスが必要かどうかは定かではないが、生き物である神牛にも疲労くらいはあるだろう。このまま他のサーヴァントとやり合うのは、流石に分が悪い。

「しかしどいつもこいつも全く兵よ。あの金ぴかとも、もう一度矛を交えなければならんなぁ」

「……なんでだよ。わざわざやり合う必要も無い。他の連中も対策くらいは考える。それに乗じるか漁夫の利を取るのが最善だ」

「阿呆め。ヤツは王を名乗ったのだぞ。この征服王に対し己は唯一無二の王だと憚ったのだぞ? これを捨て置いては余の沽券に関わる。是が非でももう一度顔を合わせ交えねばいかん」

「…………」

 王たるライダーの譲れない一線がそこにあるのなら、エルメロイU世も是非はない。しかし、せめて今現在の彼我の差を覆す何かがなければのこのこと姿を晒せない。ライダーのもう一つの宝具に訴えれば、あるいは……

「そう渋面ばかり浮かべるなよ坊主。何も殺し合うだけが戦ではない。世には戦と呼ばれずとも戦いと呼ぶに相応しい場は、無数に存在するのだから」

「好きにすれば良い。私はおまえの隣でただ自分に出来る事をやるだけだ」

 十年前には出来なかった事を、今こそ確かに行う為に。

「ふむ。良かろう、では参るぞ坊主。宿に戻ってビデオの続きだ」

「……おまえは本当、締まらないな」

 呟きは雨の中に溶け、暗い海の底に沈んでいった。

×

 白煙を残す惨状に無造作に積もる瓦礫の一角に動きがあった。積み上げられていた道路の破片を内から押し上げ、小さな煙を起こしながら、セイバーは姿を現した。

「シロウ……シロウ! 大丈夫ですか!?」

「っ……セイ、バー……」

 苦痛に顔を歪める士郎がゆっくりと瞼を開く。彼が最初に目にしたのは、血に塗れたセイバーの姿だった。

「なっ……セイバー、おまえ……がぁっ!?」

「動いてはいけません! この血は私のものではありません。貴方のものです!」

 叫ばれて、士郎は自分の身体へと視線を落とす。安物の服は赤い血糊に塗れ斑点を無数に描いている。視界の不明瞭さは、どうやら頭を切って血が流れて、そのせいで目が滲んでいるらしかった。

「セイバー、俺は……」

「貴方は私を助けようとしてあの光を受けたのです。咄嗟に私もシロウを庇いましたが、庇いきれずにこの結果に……」

 如何なる魔術であろうとも、セイバーの持つ対魔力の障壁は突破できない。故にセイバー単騎ならばあの光の柱の直撃を受けたところで無傷で済む筈だったのだ。

「あれ……じゃあ俺、余計な事したのか……悪いなセイバー、でも、おまえに傷がなくて良かった」

「何をっ! 貴方は今は自分の心配だけを──」

 そこでセイバーは首を傾げた。セイバーが庇ったとはいえ、魔術師としての位階は限りなく低い士郎がキャスターの魔術を受けた以上は無事で済む筈がない。
 現に衣服は夥しい血で覆われており、その出血量を鑑みるのなら、士郎は死んでいてもおかしくはない程のダメージを被った筈なのだ。

 しかし士郎は眩暈を起こしながらも意識をはっきりとし、喋れる程度には息を吹き返している。有り得る筈のない現象に、セイバーは知らず手を進めた。

「シロウ、少しだけ失礼します」

「……? 何を……うわっ!?」

 上着の裾から滑り込むセイバーの掌。甲冑越しではあったがセイバーが自分の身体に直に触れているという現実に士郎はパニックに陥った。

「せ、セイバー、一体何をしてるんだ?」

「……やはり回復している」

 胸板から腹へと滑らせた指先は滑らかでしなやかに鍛えられた肉体をなぞっただけ。服を血で染め上げたとは思えない程に綺麗な肌触りだった。

「…………」

 不可思議な現象だったが、生き延びられたのならそれでいい。今はともかくこの場から離脱しなければならないと身を起こした。

「シロウ、立てますか? 立てないのなら肩を貸しますが」

「いや……大丈夫そうだ。まだふらつくけど、立つくらいなら出来る」

 何時の間にか白煙は晴れて、暗い闇に閉ざされた戦場跡だけがあった。しとしとと降る雨粒が、彼らの肌を打っていく。

「サーヴァントは既に全員去っています。我々も、一度帰還しましょう。シロウの身体もちゃんと手当てしなければなりませんから」

「ああ、そうだな。じゃあ帰ろう、イリヤ──」

 言いかけて、士郎は周囲に全く人の気配がない事に気が付いた。

「イリヤ……?」

 返る声はない。士郎とイリヤスフィールがあの光が降り注ぐ前に立っていた場所は、ほとんど路面に傷は存在していなかった。それはイリヤスフィールがあの光に巻き込まれた可能性は少ない事を示唆している。

「……どういう事だ?」

「イリヤスフィールからの魔力供給は続いています。生きているのはまず間違いないのですが……」

 瓦礫の山を見渡しても影も形もなく、セイバーのサーヴァントが持つ聴覚や気配察知を以ってしても周囲からは人の息遣いは感じられない。この場には間違いなく──二人を除けば誰も存在しない。

「まさか……」

 青白い月が何であるかを理解した瞬間、離した手の温もりを思い出す。もしあの手を掴んだままだったのなら、この結果は有り得なかったかもしれないのに。

「イリヤが……攫われた……?」

 長い夜が終わる。
 けれど彼らを取り巻く戦いの名残りは、消え去ってはくれなかった。













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