烙印を継ぐ者達 Tale.04 /1 倉庫街での一戦──キャスターの奇襲により勝敗の着かぬままに幕を閉じた乱戦より約六時間。 他の組が今現在どのような状況下にあり、昨夜の一戦をどう受け止めたのかは想像しか出来なかったが、彼ら──衛宮士郎とセイバーの二人にとっては、あの戦いは未だ終わりを告げていない、今なお続く懸案事項だった。 それというのも士郎達と共に戦場に立ち会ったイリヤスフィールが、忽然と姿を消した為だった。 上空から放たれた光の柱は戦場にいた全てのサーヴァントを呑み込みはしたが、イリヤスフィールは位置的に直撃を被ってはいない筈だ。 突如駆け出した士郎を追いかけて巻き込まれた──という可能性もゼロだ。セイバーが彼女からの魔力供給は今なお続いていると証言している。それはイリヤスフィールの生存証明でもあった。 故に考えられる事は一つ。イリヤスフィールは、あのキャスターの奇襲に紛れ、何者かに連れ去られたのだ。 夜半に帰宅した士郎とセイバーはまず、士郎の治療を行った。どういう理由かは不明だったが、光の柱に巻き込まれ、致命傷を受けた筈の士郎は家に帰り着く頃には半ば完治しており、最低限の治療だけで済んだ。 治療後、すぐにでもイリヤスフィールを探し出そう、という士郎の言はセイバーによって棄却された。 セイバーはイリヤスフィールから魔力供給を受けてはいても、マスターはあくまでも士郎だ。士郎の存在ならばある程度離れていても感知出来るが、イリヤスフィールの場合はそうもいかない。 闇に染まる深夜に、一戦を繰り広げた状態で当てもなく街を彷徨うのは得策ではない。あの場で確認されたサーヴァントはキャスター含め五騎だが、残りの二騎が襲い掛かって来ない保証などないのだから。 更に言えば、セイバーは口にこそ出さなかったがあの金色のアーチャーとの戦いで有り得ないほどに疲弊していた。 魔力があれば動けるサーヴァントなれど、あの条理の外にあったアーチャーの異様に初見からあれほどの攻撃を受ければ、精神的に疲労する。 万全とは呼び難い状況で、焦りを滲ませる士郎を守りながら、無傷であろう残りのサーヴァントと渡り合うのは危険な賭けを伴う。 故にまずは休息を。士郎の気を静め、セイバーの疲労回復こそが、イリヤスフィールを救う為に今すべき事だと説き伏せ、士郎も渋々ながらに頷いた。 士郎自身、感じてはいたのだろう。感情的になり過ぎている自分では、セイバーの足手纏いにしかならないと。自らの無力さを噛み締め、離すべきでなかった掌の温もりを握り締めて、その夜は静かに閉じた。 そうして今現在。 早朝と呼べる時間帯。朝日もようやく顔を覗かせる黎明の刻限に、士郎とセイバーは居間で顔を衝き合せていた。 「シロウ、気は落ち着きましたか?」 「ああ。悪い、昨日は俺がどうかしてた。冷静になってみると、自分がどれだけ馬鹿な事を言っていたか分かる」 「いえ、シロウは間違ってはいません。身近な者が攫われたのです。取り乱して当然だ」 「それでもだ。闇雲で行き当たりばったりの感情で動いたってイリヤは救えない。セイバーの叱咤は、有り難かったよ」 翡翠色の瞳をセイバーは士郎に向けた。目の前の少年は既に昨日とは顔色が違う。覚悟を伴う目の色をしていた。 「それで、イリヤスフィールの捜索方法ですが……」 「大丈夫だ。イリヤがこの状況を見越してたとは思えないけど、俺達には科学の武器があるからな」 言って士郎が取り出したのは携帯電話だ。しかし最低限の機能──通話の手段──しか教えられていないセイバーは首を捻るばかりだ。 「これには位置探索機能ってのあるんだ。イリヤも同じ機種を持ってるし、その機能でイリヤの大体の居場所が分かる」 「なんと……」 「昨日は気が動転してたからな。この機能の事なんてさっぱり忘れてたよ」 しかも携帯電話を手にしたのが昨日なので尚更だ。普段から使っていたのならもう少し早くに気がつけたのかもしれないが、結局頭を冷やす必要があった以上、このタイミングで間違いはない。 「それで、イリヤスフィールの居場所は……?」 「ん、ちょっと待ってくれ。今調べる」 士郎は不慣れながらも頭に叩き込んだ操作を思い出しながらキーを打つ。間もなく、小さな液晶画面には冬木市の地図が表示され、現在の士郎の位置とイリヤスフィールの位置を示す赤い光点が現れた。 「ん……? なんでこんな場所に……?」 その光点は士郎が思いもがけない場所を示していた。 「何処なのですかシロウ?」 「いや……ここなんだけど……」 士郎は画面をセイバーに見せる。テーブルに身を乗り出して凝視するセイバーの目にも直後、怪訝な色が浮かんだ。 画面に映る光点の示す先──それは冬木市外れに位置する広大な森の一角だった。 「何故このような場所に……?」 「さあ。確かあの辺りの森は何の開発の手も入っていないって話だったけど。地図を見ても一帯が森を示しているだけで建築物なんてない。考えられるのは……」 このGPS機能最大の欠点は、イリヤスフィールの持つ携帯電話を破棄させられては何の意味も成さない事だ。 光点が浮かんでいる以上、破壊はされていないのだろうが、万一にも捨てられているとすれば、この光が指し示すのはイリヤスフィールの居場所ではなく、携帯電話の破棄された地点だ。 そうセイバーに説明しながらも脳裏に浮かんだ疑問を口にする。 「破棄されたにしては位置がおかしい。示されてるのは森のほぼ真ん中だ。携帯電話に気付いて捨てるのなら、破壊ないしその辺りに捨て置けばいい。こんな森の奥にわざわざ捨てに行く理由がない」 GPS機能もミリ単位で精確ではない。ある程度……数メートルから数百メートルの誤差はあると考えられる。それだけの誤差を考慮に入れても、縮尺を基準にするとやはりおかしな位置だ。 「ならばやはりそこにイリヤスフィールがいるのでは?」 そもそも現代魔術師……魔術師らしい魔術師が携帯電話の存在を知り、その一機能までを詳細に知っているというのも解せない話だ。だから恐らくは、セイバーの言葉は的を射ている。 冬木市西部に位置する広大な森。その場所に──イリヤスフィールはいる。 「よし。そうと分かれば飯にしよう」 士郎は立ち上がりながら言った。 「は……? シロウ、すぐさま救出にはいかないのですか?」 「そりゃそうしたいけど、森に入るなら準備もいるだろ。まずは腹ごしらえだ……と言いたいけど、流石にもう材料がないから買い出しからだ」 もう足手纏いにはならない。勇み足は好機を逃す。イリヤスフィールが殺害されたのではなく連れ去られたのなら猶予はある。敵に利用価値がある限り、イリヤスフィールの命は保障されている。 万全の状態で臨む事こそ、今彼らに求められている最善だ。 「じゃあ出掛けようセイバー」 早朝の冷気が肌を刺す。遠く空に朝日が昇り始め、夜の闇を、星空を削り取っていく。夜明けは近い。新たなる一日が始まりを告げようとしていた。 結局昨日も買い物を果たせなかったのでこの買出しは必要だった。目的の場所は商店街にあるスーパーマーケットでも個人商店でもなくコンビニエンスストアだ。こんな時間帯に開いている店などそれくらいしかない。 「そういえば、切嗣いなかったよな」 士郎が道すがら口を開いた。昨日の夜は確認する暇もなかったが、今朝方に切嗣の部屋の前を通っても人の気配らしいものはなく、襖を開けてみても案の定部屋の主の姿は何処にもなかった。 「昨日、私が学園に向かうまでは在宅していたようですが」 「何か話でもしたのか?」 「いえ、私は道場で携帯電話の機能の確認と、瞑想をしていましたので。彼は部屋で何かをしていたようですが、それが何であったかまでは分かりません。 ですが、仮に私が学園に向かった後に切嗣が家を出たとして、こんな時間まで戻らないというのはおかしくはありませんか?」 「そうでもないよ。基本出不精な人だけど、時折ふらっといなくなるからなぁ。何しているのかは知らないけど。 まあ時期が時期だけに危ないとは思うけど、聖杯戦争の関係者じゃない切嗣が狙われる理由もないだろ」 「…………」 セイバーは一昨日の夜見た切嗣の表情を思い浮かべていた。父親としての顔。士郎とイリヤスフィールを頼むと言った彼の表情を。そして今、既にあの時の誓いを違えてしまっている自分自身に、歯噛みせずにはいられない。 イリヤスフィールを攫われた事にセイバーの落ち度はない。あの状況で彼女に出来る事はせめて士郎を守る事だけだった。 姿を見せなかった何者か。イリヤスフィールを攫う事が目的だったのか、ついでだったのかは知らないが、必ず救い出すと、セイバーは己の胸の内で誓いを新たにした。 目的としたコンビニエンスストアに入り、おにぎりやパン、惣菜などと、森へと入る時の為に、水分補給用のペットボトルを幾つか購入し帰路に着いた。 その途中、士郎は現在の状況を確認するべくセイバーに視線を向けた。 「セイバー、今分かってるサーヴァントって五人だよな?」 「はい。私、アーチャー、ライダー、ランサー、キャスターの五人です。残りの二人は未だ未確認です」 「じゃあイリヤを攫った可能性のある相手は、誰だと思う?」 昨日のあの状況、少なくとも戦場にいたセイバーを除外する三騎のサーヴァントにはそんな暇はなかった。唯一姿を見せていたマスターである凛や桜も、その気配が立ち去るのを待ってからセイバーは瓦礫より身を起こした。故に彼女らも有り得ない。 「最有力はキャスターでしょう。あのサーヴァントはどうやらかなり高位の魔術師のようです。召喚時の手際と昨日の襲撃を考えれば、それこそ空間転移クラスの魔術を使えてもおかしくはない……」 それは魔法ではないがそのレベルに匹敵する魔術だ。あの奇襲自体が目晦ましであり、イリヤスフィールを攫うのが目的だったとすれば、理解は早い。 「しかし未確認の二人の可能性もゼロではありません。あの場、あの瞬間は我々は周囲に気を割く余裕などなかった。姿を見せず潜んでいた何者かがおり、好機を待っていたとしても不思議ではなかった」 それほどに、アーチャーは強く不気味だったのだ。三騎のサーヴァントを相手取ってなお優位に立ち続けた黄金の王。あの男は、目下最大の敵だ。 「……アーチャーか。セイバーは……あいつに勝てるのか」 「シロウ、その質問には意味がない。私は勝たねばならないのです」 聖杯を手にする為に。祖国を救うという祈りを果たす為には、あの絶望の具現さえも打倒しなければならない。してみせる。自らの誇りの許す限り、どんな手段に拠っても。何をおいても。 僅かな沈黙が続いた。朝焼けに染まる空から、小鳥の囀りが聞こえた。 「セイバーの目的……聖杯を欲する理由は、祖国の救済って言っていたよな」 「はい、そうです」 「でもそれは、過去の事だよな。もう終わってしまった事なんだよな?」 「……いいえ。終わってはいません。確かにこの時代は私の生きた時代より随分と時間が経っています。けれど私は未だ死んでいない。私達の時代は終わってはいないのです。私の時間は、あの間際で止まっている」 士郎が知るセイバーの情報は限りなく少ない。知っているのは聖杯を求める理由と他のサーヴァントとは若干違う事、後はマスターとして与えられたパラメーター表に記載された情報のみ。 だからその言葉は、士郎が瞠目するに余りある響きを伴っていた。 「……どういう意味だ? セイバーは、死んでいない……?」 「通常の英霊は死後世界に祀り上げられ、世界の外側にある『座』と呼ばれる場所に送られて存在を許されるものですが、私は違う。 私は死の間際、世界と契約し、自らの死後と引き換えに聖杯を望んだ。そして世界は私に聖杯を掴むチャンスを与えてくれた」 セイバーは続ける。 「世界や空間、時間さえも超越し、こうして時の彼方で聖杯を巡る戦いに参戦する事を許された。 私が霊体化出来ないのはそれが原因です。厳密に霊体に成り切れていない生身の身体を持つが故の制約。死者に生者の真似事が出来ないように、生者は死ぬまで死者にはなれないのですから」 士郎の脳裏ではセイバーの言葉がぐるぐると回っていた。元より魔術師としての知識がそれほど多くない士郎には、語られた情報量の全てを理解するには難解を極めた。即座に理解出来た事と疑問に思った事は同じであり一つだった。 「じゃあセイバー、おまえは聖杯を手に入れたら、死ぬのか?」 その言葉にはセイバーもまた眉を顰めざるを得なかった。 「……分かりません。あの落日の丘の私は間違いなく瀕死の重傷を負い、死の間際にあります。聖杯を獲得した直後に残る命の多寡に関係なく世界との契約が履行されるのか、自然に死んだ後に履行されるのか、それを知る術は私にはありません」 ただ──とセイバーは続け、 「どの道私は助かる事はない。助かるとしても、その生を選ばないのは確実でしょう」 まるで自らの生死を他人事のように言った。 「何故だ? 生きられるのなら生きればいい。国を救う事とセイバーが死ぬ事は同じじゃないだろう」 「いいえ。聖杯を獲得し祖国の救済を祈り、その祈りが叶えられた時点で私の役目は終わっている。祖国に身命を賭した私の生涯に意味はなく、けれど確かに、私の夢は、果たされているのですから」 幾らかの言葉を省いて語っているのだろう、士郎にはセイバーの言葉だけでは理解の及ばない部分が多々あった。それでもおかしいと感じた。セイバーの考えは、何かが間違っていると。 そしてその間違いが何であるかが判然としないまま、語る言葉もないままに、二人は衛宮邸へと戻った。 居間で買って来た朝食に手をつける。頭の中で渦巻く様々な事柄のせいか、味のしない朝食だった。体力をつける為に士郎は腹に詰められるだけ詰めて、それから、目の前の事だけに思考を割り切った。 ──イリヤを助ける。まずはその事だけを考えればいい。 セイバーとは、その後にもう一度語り合えばいい。聖杯を巡る戦いはまだまだ序盤戦なのだ。今すぐ結論を出さなければならない問題でもない。先送りは好きではないが、雑念を抱いて進めるような道程ではないのだ。 事前に電話で呼んでおいたタクシーが玄関先に着いたの確認した後、二人は居間を出る。 「イリヤを助け出すぞ。セイバー、力を貸してくれ」 「無論です。私は貴方と、そしてイリヤスフィールの剣であり盾であるのですから」 行く先を告げ、乗り込んだタクシーが早朝の人気のない街中を直走る。向かう先は未開の森。広大な森林の奥に囚われた少女を救う為に、未熟なマスターと剣の騎士はその場所を目指した。 /2 朝靄に霞むテラスで、その男は優雅に紅茶のカップに口をつけていた。手にした新聞は現在の世界情勢を文字で綴り、この街で起こっている不可解な出来事もまた、その一面の片隅を飾っていた。 昨夜の倉庫街での一戦は、キャスターの襲撃……光の柱による攻撃を、天候の悪化により起こった落雷の仕業として処理されていた。 見出しと共に載せられた不鮮明な稲光の画像。それは撮影されたキャスターの攻撃を加工したものか、あるいは差し替えたものかは判然としなかったが、何れにせよ真実は闇の中に埋葬されたようだった。 そしてもう一つ。連日続くガス漏れが原因と思われる事故。真実は未だ不明ながら、これもまた単なるガス漏れである筈がない。 管理不行き届けで槍玉に挙げられる無関係な管理会社が少し不憫な気もしたが、その辺りの根回しも済んでいるに違いない。 ……監督役の手際は中々のようだ。この程度の損害は、お手のものというところか。 目深に被ったフードの奥で僅かに口端が吊り上った。彼──若草色の英霊を喚び寄せたマキリ・ゾォルケンを名乗った魔術師は、およそ己が戦争の渦中にあるとは思えない、麗らかな朝を過ごしていた。 「マスター」 傍らからの声。凛と鈴を転がすような、男とも女とも取れる中性的な声音が彼の耳朶に木霊した。声の主は若草色の英霊だった。 「おや、これはおはようございます。昨夜は良く眠れましたか?」 「サーヴァントに睡眠は必要がない事は知っているだろう? だから余り、眠ってはいないよ」 「そうですか。それでは退屈な夜を過ごされたのではないですか。言いつけて貰えれば余暇を過ごす遊具でも手配しましたが」 「いや、その手のものにも余り興味がないからね。ずっと星空を眺めていた」 今や朝日に駆逐された空を英霊は見上げる。耳を澄まし、両手を広げた姿勢は、その身体の全てで自然を感じ取ろうとしているようだった。 「この時代、この場所では星も良くは見えません。人の営みの利便化に追われるように、自然は淘汰されてしまった」 「それでも夜空には変わりはないよ。自然にだって変化はない。数千年の時を経て、様変わりしたものなど、この悠久な星の一生を思えば余りに小さなものだ。人の営み程度で、この星を喰らう事など出来ない」 それでも人類が形振り構わず破壊を撒き散らせば星は疲弊するだろう。戦争の肥大、核による爆撃、全土を巻き込む世界大戦。その時、大地を流れるのは血となり、破壊された自然の上に積み上がるのは無数の屍。 青き惑星は赤き人の血によって染め上げられる。 だがそれは最早、人の営みの範疇ではない。自然は淘汰され人工物が乱立しようと、それでも人は自然の意味を知っている。その意味の理解を放棄し、ただの畜生に成り下がった時が人類の最期であろう。 だから少なくとも、このまま人が自然との共存を望む限り、星はその身に我が子を抱き続ける。 「いやはや、中々に深遠だ。しかし、貴方の生きた時代を思えば、少しなりとも思うところはあるのではないですか?」 「そうだね。寂しくないと言えば嘘になる。あの頃の星空は確かにこの空の果てに輝いているのに、二度と見る事が叶わないなんてのは、ね」 「今の時代にはプラネタリウムという人の肉眼では認識出来ない、そしてかつて存在した空を、人工の星空として再現する装置もありますが、本物を知る貴方にとっては退屈なものに違いない。 ふむ……ならばやはり、せめてそれに近づける為には、人工の明かりのない場所で望む事こそが最上でしょう」 「まあ、そこまでして見ようとは思わないよ。今の僕にはやるべき事があるんだから。それで、マスター。まだ動く気はないのかい?」 会話は日常のやり取りを超え、非日常へと変遷する。 昨夜行われたサーヴァント四騎、あるいは五騎の乱戦は彼らも知っている。若草色の英霊の持つ超広範囲の『気配感知』スキルでその存在を知り、フードの魔術師の使い魔の目でその戦いの推移を見ていたのだから。 あの戦いの場への介入は可能だったが、それをしなかったのは二人の総意だ。フードの魔術師は万全を期す為、若草色の英霊は今一度見えると誓った朋友との再会の舞台には、相応しくないと判断した為だ。 若草色の英霊にとってはこの退屈であり緩慢な日々もまた嫌いではなかったが、朋友が率先して再会の舞台を作り上げようと動いているのだ、自分だけが傍観しているのは耐え難い事であった。 「……そうですね」 フードの魔術師の己が英霊の今現在の認識は、気性は穏やかな部類だと思っていたが、彼の素性を慮れば、その認識は間違っているのだろうと思い直した。 「今現在、行動をしているサーヴァントはありますか?」 彼の持つ常識外の気配感知能力は冬木市一帯を範囲に収める。それはサーヴァントの動向を余さず把握出来るという彼らだけのアドバンテージだ。 「……うん、いるね。かなりの速度で西に向かっているサーヴァントが一人。向かっている先は……サーヴァントが狙いだとすれば、郊外の森かな。他のサーヴァントにはそれほどの動きはないよ」 「ふむ……」 流石にサーヴァントのクラスまでは把握出来ない。唯一把握出来るのは、彼の朋友の存在だけだ。これは能力というよりも絆という方が近い。 しかしフードの魔術師は昨日の乱戦の後、使い魔の目で捉えた幾人かの主従の帰還の方角と英霊の能力を擦り合わせ、ある程度の拠点の目星もつけている。 「郊外の森……アインツベルンか。彼らとはまだ、矛先を交えてはいませんでしたね」 フードの魔術師は新聞をテーブルに置き、拍手を一つ打つと、手の中に一冊の本を喚び寄せた。パラパラとページを捲りながら思案を続ける。 彼が仲間連中と共に交戦、ないしそれに類する行為を行った組は四つ。そして昨日の一戦でその存在を確認したセイバーを含めて五つ。 しかしセイバーと、そして未だ一切の姿を見せていないアインツベルンのサーヴァントはその力量を計り切れない。 昨日の動向から把握出来た情報と、己が英霊より聞いた大体の現在のサーヴァントの位置から類推すると、森へと向かっているサーヴァントは恐らく、セイバーだ。 ならば…… 「いいでしょう。未交戦のサーヴァントの向かう場所、貴方の朋友とも出会う可能性の少ない、その森へと向かう事を許可します」 「……その口振りでは、君は行かないのかい?」 「ええ。私が向かう必要性はないでしょう。この位置から共に向かうとすれば、私は足手纏いでしかない。貴方のスピードならば追いつく事も可能でしょう。無論、貴方が共に来て欲しいというのなら、話は別ですが」 今現在彼らが拠点としている場所は冬木市内ではない。戦闘の舞台たる冬木市の隣市に位置している。 それはわざわざ戦場の渦中に身を置く必要はないと考えるフードの魔術師の思考だ。 御三家は元より外来もほとんどの場合が冬木市に身を隠す。しかし彼からすればそれは愚かな行為でしかない。 何時如何なる時に戦場となるか分からない場所に居を構えるなど愚の骨頂だ。戦いたければこちらから出向けばそれでいい。 確かに工房を戦場に敷設出来るメリットはあれど、それもサーヴァントの戦闘力を思えば焼け石に水でしかない。 この聖杯戦争における魔術師は、あくまでサーヴァントをサポートするマスターでしかない。戦場で後方より指揮を司るというのも、おかしな話だ。 世に遍く英霊は誰もが逸話を持つ武人だ。幾ら現代に疎い──聖杯に知識こそ与えられはすれ──彼らであっても、一瞬の判断能力は魔術師のそれを容易く上回る。よってマスターの有用性は令呪のみ。 その令呪こそが厄介であり、戦局を一変する事の可能な絶大なる力だが、この序盤戦、そして初見の相手に令呪を用いての必殺を志す者もそうはいまい。 令呪の使用場面は絶望的な局地か、緊急を要する瞬間、あるいは最終盤に限定される。いかな好機とはいえ、目に付く相手に令呪を不用意に使用する者などに勝利を掴む事は不可能だ。 故に今、彼が戦場に姿を見せる必然性は少ない。 極論をすれば、このまま一切の戦闘行為を行わず、傍観に徹し敵の能力を見定め、最終局まで待つのが賢い戦い方だろう。だがそれはあくまで彼自身の考えであり、それを他者に強要する程彼は傲慢ではなかった。 サーヴァントが戦いたいと望むのなら、それを肯定するくらいの度量と勝算がある。最強に比肩する最強を求めた意味。その確信を得る為にあれほど面倒極まりない手段でこの英霊を喚び寄せたのだから。 そしてそれは己が招いたサーヴァントの実力を信頼するからこその決定だ。 「そう。うん、じゃあ一人で行って来るよ」 「一応念の為、使い魔を持っていって下さい。それと、深追いはしないように。あの森はアインツベルンのテリトリーです。未確認のサーヴァントの相手だけでも充分な不安要素ですが、それ以外にも気を配って下さい」 「ああ、大丈夫。森は、嘘を吐かないからね」 意味深な一言を残し、若草色の英霊は姿を消す。音もなく地を蹴った彼の者が巻き起こした一陣の風が、フードの魔術師の手の中にあった厚い装丁の本のページをパラパラと捲り上げた。 「さて……」 ぱたん、と本は閉じられ、何処かへと消失する。立ち上がった男は彼方を見据えた。 「ああは言ったものの、彼だけに仕事を押し付けるのは忍びない。こちらも少し、下準備を済ませておきましょうか」 夜に一人で出歩くのは論外だが、昼間ならばある程度の融通が利く。彼の従えるサーヴァントが戦いを望み馳せたように、彼もまた、彼だけが行える事を成すべく、単身冬木へと向かう決心をした。 /3 朝日の射し込む室内に、けたたましい目覚ましの音が響き渡る。いつかのように毛布の中に身を沈めていた凛は、のそこのそと這い出し喧しい音源を止めた。 「はぁ……眠い……」 淑女にあるまじき声音と面貌だったが、それを覗き見る者などなく、彼女は冬の寒さに震えながら温かな空間から出て、いそいそと着替えを始めた。 凛や桜もまた、今日より学園へと通う事を諦めていた。それというのも昨日のキャスターの襲撃が決定打となった。あれをもし昼間の学園でやられれば、途轍もない被害が出る事は想像に難くない。 無論、そんな事をすれば神秘の露見に加担したとして監督役からの罰則もありえるが、そんな事後処理では被害の何もが意味を成さない。事前に抑えられる被害は抑える。その為には、彼女達もまた日常からの乖離を余儀なくされたのだった。 だから今、凛が着替えている服は私服だ。予定外の休日となったが、惰眠を貪っている暇はない。やらなければならない事、やれる事は山ほどあるし──何より、そんな真似をすればまたあの妹に襲われる。 これ以上貞操を奪われるのは勘弁願いたかった。 「あー、おはよう桜」 支度もそこそこにキッチンに顔を出す。相変わらずの早起きである桜はきちっとエプロンを身に着け朝食の準備に勤しんでいた。 「おはようございます、姉さん。はい、牛乳です。目覚めの一杯にどうぞ」 「うん、ありがと……」 コップ一杯の牛乳を一息に飲み干した凛は、幽鬼のようだった目を何時もの遠坂凛の眼差しへと変え、しゃっきりと背筋も伸ばした。 「うーん、やっぱり朝の一杯は格別よねー」 「何だかそれ、とっても親父臭いですよ姉さん。それといつもの事ながら、見ていて飽きないですね。あれですか、姉さんの動力源は牛乳ですか? だから乳に成長がいかないんですね」 「朝から飛ばすわね桜。それと、乳とか言うな」 朝の軽いやり取りの後、二人は出来上がった朝食をリビングへと運ぶ。 「あれ、珍しいわねアーチャー。アンタがいるなんて」 尊大にソファーに腰掛けた黄金の騎士は、朝のニュース番組を見ていた。 凛の言うように、この男が早朝に姿を見せているのは珍しい……というよりも初めてだった。初日は既に街に繰り出していたし、昨日も何時の間にか姿を消していて、お陰で学園に連れて行けなかったのだから。 「アーチャーさんの分も用意してありますから、食べて下さいね」 テーブルの上に並べられた朝食にアーチャーはちらりと視線を落とした。遇されたものを無碍にはしないのか、手を伸ばして食べ始めた。 「相変わらず質素な食事だ。遇するのならもっと我に相応しいものを用意せよ」 「食べながら言ったって説得力皆無よ。それにアンタ、昨日一昨日と遊び歩いたんだからそれなりのものも食べたんでしょうよ」 金に困る事のないアーチャーならば遊興に費やす資金の捻出など考えるまでもなく、欲しいものを買い漁り、食べたいものを好きなだけ食べられる。 それでもこの男が何かを購入したところを見た事がないので、食事くらいには金を使っているのだろうと推測出来た。 「ふん、当然だ。食事と女には出し惜しみをせぬ。しかし、贅を尽くしたものはとうに飽いた。金に飽かせたものに価値など見出せぬ」 じゃあちょっとくらい頂戴よ……と思った凛だが、あの一件でプライドを賭けてしまった以上そんな無様な言葉はもう口には出来なかった。 「それで、何見てたの」 視線をテレビに移す。朝のニュース番組は昨夜行われた戦乱の偽装された一件と、同じく昨夜に発生したガス漏れ事故を報道していた。 このところ相次いで起こる不穏な事件や事故。冬木市は俄かに浮き足立っている。真実は闇の中にあれど、誰もがその全てが偶然に起きた事故であると思い、認識していられなくなるのは、そう遠くはないだろう。 「このガス漏れ事故ってのが怪しいわよね。今日ちょっと探ってみましょうか」 「それは構いませんけど……当てはあるんですか?」 「そりゃもちろん今報道されてるビルに忍び込んで探るだけよ。流石に昼間は危ないし、夜になってからになるだろうけど」 簡素でありながらもバランスの考えられた朝食を食べ終えた凛は、食後の紅茶に舌鼓を打つ。カップを手にしたまま、視線だけをアーチャーに向けた。 「それでアンタはどうするわけ? 昨日は服が汚れるとかで帰ってくれちゃったけど、今日は晴れるみたいだから安心していいわよ」 昨日は半ば偶然の戦闘だった。ふらふらと当て所なく街を彷徨うアーチャーを捜し、見つけた直後にアーチャーが戦闘の気配を感じ取った。 なし崩し的に戦場に介入し、凛や桜の想像を遥かに上回る圧倒的な強さを眼前のサーヴァントは見せつけてくれたが、結局誰一人として倒せなかった。 アーチャーもまた紅茶に口をつけつつ凛に視線を向けた。赤い瞳からは何も読み取れなかった。 「戦うのは吝かではない。が、昨日のような偶然はそうもあるまい。故に貴様らがサーヴァントの居場所を探れ。見つけたのなら、我が出向き始末してやろう」 それがアーチャーなりの譲歩なのか。いつか口にした凛達の意を汲んで戦ってやるという意思の趣旨であるのだろうが、 「あいっかわらず尊大ね。自分で探ろうとは思わないわけ?」 「何故我がそのような雑事をせねばならん。マスターとサーヴァントの関係は主従ではなく協定……双方の利害の一致だ。全く不本意ながらな。それに我も貴様らも聖杯を望まないのなら尚更だ。 我は貴様らが 「くっ……このっ……」 互いの立場は明確だ。サーヴァントはサーヴァントにしか打倒し得ない。サーヴァントはあくまで戦う為に喚ばれる。その他の采配や指揮関連、調査なども互いに手を取り合い行えれば最善だが、極論すればアーチャーの言に間違いはない。 何かを言い返したい凛だったが、アーチャーの言は全てが一方的な物言いでないから、余計に反論が紡げなかった。 「……いいわよ。どうせそのつもりだったし。当てもあるし。けど今度からはちゃんと戦ってもらう。あんなアホみたいな理由で戦いを終えるなんてのは、もう二度と許さないんだからね!」 「姉さんはいつからツンデレキャラになったんですか?」 「なってないわっ! まあ、ともかく! そういう事だから! あとアンタ、勝手に出歩くのも止めなさい!」 「退屈は人を殺す、という言葉を知らんのか。このような狭い屋敷に閉じ込められていては一日と持たず憤死するぞ」 「死ねばいいのに……いっそあのバカ杖でも解放して相手させようかしら……」 ぶつぶつと桜にも聞こえないように呟く凛だったが、桜は何かを閃いたのか、ぽん、と手を打ってアーチャーを見た。 「アーチャーさんは退屈なのが嫌いなんですよね? じゃあ退屈を紛らわせられればいいんですよね?」 「ああ。だがこの我を満足させるものなどそうはないぞ? この世界の雑多な街並みは目新しさこそあれ、そこに歓喜する程のものはほとんどないのだからな。この屋敷の地下にあった酒蔵の酒も、我の舌を唸らせるには足りなかった」 「何時の間に……つか父さんのワインセラー開けて勝手に飲んでんじゃないわよ」 「分かりました。はいっ、姉さん! 出番ですよ!」 「えっ、な、あ、わたし?」 「そうです。忘れたんですか? 姉さんには必殺の一芸があるじゃないですか。ほら、あの宝箱の中にある玩具みたいな杖で──」 「だあぁぁぁぁっ アレはダメっ! アレを掘り出すくらいならアーチャーの自由を許可する! っていうかアンタ、人の独り言聞いてんじゃないわよ!」 「えぇー、どれだけ嫌な思い出があるんですか姉さん……ちょっと歌っちゃっただけじゃないですか……」 「ならアンタが歌いなさい。世にも恥ずかしい衣装を着てドン引きされてみればいい。八十年代のヒットチャートでも延々と歌い続ければいいっ!」 「まあ冗談はともかく。どうしましょうか姉さん」 「逃げた……逃げたわね桜……今度絶対契約させてやる……」 「……もういいな。我は出掛けるぞ」 呆れ果てたのか、アーチャーは席を立つ。 「あーもう。いいわ、ならせめて使い魔くらいはつけさせて。ここが譲歩の限界よ。これ以上は流石に譲れない。令呪に訴えてでもね。昨日までみたいに延々とアンタ捜し続けるのなんてゴメンだし、何より効率が悪すぎる」 「…………」 「後、パス切るのもなしね。そうすれば大体の位置は掴めるし。その二つを守ればその内使い魔も引き上げさせる。まあその頃にはこの戦いも結構進んでるだろうから、アンタも遊んではいられないと思うけど」 凛の言葉を聞いているのかいないのか、アーチャーは言葉を発さず、霊体とならないままにリビングを出て行った。 「はぁ……本当、扱いづらい」 「あはは、お疲れ様です姉さん。でもちょっとは私たちの言葉に耳を傾けてくれるようになったんじゃないですか?」 現にアーチャーは姿を消してもパスは繋がったままだった。高位の『単独行動』スキルを持つアーチャーは宝具を扱う戦闘でも行わなければマスターからの供給のない状態でも長い時間自由に動ける。 その為にこれまで街中を駆け回るという面倒極まりない事を二度もさせられた。多少なりともこちらの意見を尊重しようという意思があの黄金の王に芽生えている事は、確かに良い事なのだろうが、何処か信じられない面持ちだった。 「まぁ、本当に我が侭放題なら令呪も使わざるを得ないし、あの英霊……髪の長い女っぽいサーヴァントがいるからの譲歩なんでしょうけど」 横暴を尽くせば凛達も黙ってはいられない。つまらない諍いで折角の機会を逃すのは馬鹿らしいと、その程度の判断なのだろう。 それでも互いの立場が擦り寄っているのは確かだ。このまま距離を縮められればそれがもっとも好ましいが…… 「アイツに啖呵切ったわけだし、こっちもやることやらないとね。『敵の一人も見つけられないのか、そんな程度で良くもこの我に噛み付いたな雑種が』とか罵られるのなんて真っ平御免だわ」 「……随分アーチャーさんの事把握してますね姉さん」 ともあれ、着実にではあるが彼女達もまた前に進んでいる。来るべき闘争の時の為、今夜よりまた、夜の闇に紛れての行動を開始する。 だから今はただ羽を休め、安穏の中に身を埋めていく。 /4 国道をタクシーで走る事一時間。人気などまるでない森林地帯を貫く道路を走る最中にも随時携帯電話でイリヤスフィールの位置を確認しながら、なるべく光点の近くにある森の入り口で降りた。 森の入り口──と言ってもそれが正しく入り口であるかは分からない。多少は開けているという程度だ。 こんな何もない場所で降りる士郎達にタクシーの運転手は訝しんだが、代金を払ってしまえば颯爽と去っていった。世の中などそんなものだ。 入り口らしき場所から雑木林へと侵入する。武装はしないまでも警戒レベルを引き上げたセイバーを先頭に、約一キロほど歩いた先に、ようやく目的とした森の姿を捉える事が出来た。 「流石に凄いな、これは」 見上げるほどの高さもある木々が乱立し、枝が空に蓋をするかのように茂っている。真冬なので葉は色づいてはいないが、その無数の枝が天蓋の役目を果たして光を遮断し、森全体のイメージを灰色へと変えていた。 一言で言えば不気味だ。コミックやアニメーションに出てくる魔女の住まう森……といった様相か。強ちその認識が間違っていない辺りが笑えない。 「行こうセイバー」 「はい。決して油断をしないように。何か良くないものを感じます」 「大丈夫だろ、まだ。イリヤの居る場所までまだ何キロもあるんだ。こんなところに一体何が──ぎっ!?」 まるで警戒せずに森に踏み入った士郎の身体を、突如電流が貫いた。痺れる程度のものだったが、油断していた分驚きは一層だった。 「いってぇ……なんだこれ、結界か?」 「だから言ったではないですか。油断しないようにと。私はなにも勘だけで言っているわけではないのですよ?」 セイバーが保有する『直感』のスキル。それは未来予知じみた予見を可能とする。前日のランサー戦の折の戦術も、この第六感が導き出した解答だ。 今も直感で不穏なものは感じていたが、それが生命の危機に瀕するものだとは感じなかったので傍観していたのだ。 「悪い、確かに油断してた。でもこんなところに結界があるって事は、ここから先の敷地全部が敵のエリアなのか?」 膨大に過ぎる面積だ。半径でも裕に数キロを誇る工房など聞いた事がない。こんなに広大では、守るにしても不利だ。軍勢のような数の人員を動員出来るのならばともかく、トラップの設置も容易くはないくらいに、目の前の森はでかすぎた。 「流石にこの森全てに何らかの魔術的処理が成されているとは思えません。せいぜいが拠点から半径一キロ程度のものでしょう。 しかしこの地点に結界を敷設しているのは充分に効果がある。敵の侵入を早期に知り、対策を立てる時間が充分に確保できる」 「…………」 「どうしましたシロウ。急に黙って」 「いや、なんかセイバーそういうの慣れてるのかなって。魔術の造詣に詳しくはなさそうなイメージだったけど、逆に戦術とか戦略とかの知識は豊富なのか」 「これでも騎士ですので。魔術もある程度は知識として知ってはいますが、専門の者には敵わない。その分、戦況の把握には一過言あると自負はしています」 昨日の戦闘でセイバーが剣を繰る騎士であるのは周知だったが、やはり何処かで思ってもいたのだ。こんな女の子が本当に騎士なのだろうか、と。 その容姿からは窺えない戦闘能力。培われた慧眼もまた、彼女が生き抜いた熾烈なる日々の賜物なのだろう。 「ん、良し。ともかく進もう。まだ随分と距離があるからな、日が暮れないにしても、帰る時の事を思えば急ぎたい」 「はい。必ずやイリヤスフィールを伴い、あの家に帰りましょう」 セイバーを先頭に二人は森に踏み込む。今度は電流が流れる事無くすんなりと森の領域へと侵入出来た。だがこれで敵にこちらの進入は気取られた筈だ。ますます油断は許されない状況となった。 枯れ葉の絨毯を敷き詰めた、道なき道を進む。灰色に染まった森には生物の息遣いがまるで感じられなかった。どころか、木々でさえも生気の欠片も感じない。この森自体が既に死んでいるのではないかと疑いたくなるほどに静かだった。 延々と続く森林の迷宮。景色がまるで変わらない為、本当に前に進んでいるのか疑わしくなる。 ここは相手のテリトリー。既に敵の術中に嵌り込んでいるのではないか。抜け出る事の出来ない迷路を歩かされているのでは、と疑ったが、セイバー曰く、彼女には幻覚幻惑の類が効きにくいらしいので、その心配はないとの事だった。 途中、歩きながらコンビニエンスストアで購入した携帯食料で腹を満たし、水分補給も済ませて何処までも続く灰色の森を奥へと進む。 「結構歩いたのにまだ遠いか。こうも同じ景色ばかりだと不安になるな」 「大丈夫です。確実に近づいています。見えませんか?」 目を細めて上を見る。セイバーの指差す先に、枝に覆われた空の彼方に何か、尖塔のようなものが見えた気がした。 「城……か? 分からないが、普通の拠点じゃなさそうだ。急ごう」 「はい──シロウ」 セイバーが急に足を止める。木々のカーテンを抜けた先は、小さな広場になっていた。円環状に刳り貫かれた広場。突き抜けた空より淡い光が降り注ぎ──その中心に、あってはならない闇を見た。 「サーヴァント……!」 セイバーの総身を即座に白銀の甲冑が覆う。渦巻いた風に導かれて握られた不可視の剣を下段に構え、目の前の闇を注視した。 それは、闇としか表現のしようがなかった。 広場の中心に立つ黒い影。霞がかった黒い霧は揺らめいてはいるものの、多層にその人影を覆い尽くしているのか、朧のように輪郭が掴めない。手や足のみならず、顔の輪郭から目に鼻も、一切が闇の奥に封じられて窺えない。 「あれが……サーヴァント? いや、本当に、人か……?」 本当にそれが人であるのかどうかすら、確信が得られない。サーヴァント同士が知覚し合える能力でセイバーは確かに認識しているので、その闇はサーヴァントには違いがないのだが。 「お待ちしておりました衛宮士郎様。そしてサーヴァント・セイバー」 黒い闇の背に隠れていたのか、背後より現れたのは白い装束に身を包んだ女だった。面貌は美しくも無表情で、赤い瞳には、何の意思も感じられない。無感情。どこか機械めいた寂寞感を抱かせる瞳だった。 「待っていた……とは、やはりおまえ達がイリヤスフィールを攫ったのだな」 セイバーが問う。 「はい。彼女は我々の後方にある拠点にて丁重にお預かりしております。どうかご安心下さい。毛ほどの傷もつけてはおりませんし、我々の目的が果たされたのなら、確かにお返し致します」 「……人質というわけか。私の命でも要求する気か?」 拠点に人質がおり、こうして離れた場所で交渉を行うのならそれが一番妥当な線だ。セイバーが強引に突っ切ろうとしても、恐らくイリヤスフィールを捕らえているだろう仲間が彼女を殺す。 それはセイバーにとって苦渋の決断を投げかける問いだ。聖杯を掴む為には生きなければならず、けれどイリヤスフィールを見捨てる行為は彼女の誇りを穢す。二律背反。運命の悪戯か。どちらを選んでもセイバーは遺恨を残す…… 「いいえ。我々の要求は一つ。セイバーに我々のサーヴァントと尋常に戦って頂く事です」 「な、に……?」 そんな要求は予想だにしなかった。人質の有用性を思えばセイバーの命そのものを要求しても良さそうなものだったが、まさか立会いを望むだけとは。 「疑うのも無理なき事でしょう。ですが、人質などで首級を奪う戦略は、我らアインツベルンの本懐ではない。 聖杯は悲願であれど、外道に堕ちた覚えはありません。故にこその尋常なる勝負を。一対一でのサーヴァント戦を所望します」 「…………」 その言葉のどこまでが信ずるに値するのか、分からなかったが、白い女の瞳に宿った色は確かに嘘の色を伝えてはいなかった。 「待ってくれ、おまえ今、アインツベルンと言ったか?」 士郎が二人の間に割って入る。その言葉は聞き逃せなかった。 「はい。我らは聖杯を司る家系──アインツベルンに間違いはありません」 「何でアンタ達がイリヤを攫う? イリヤはアンタ達の家系と、切嗣の間に生まれた子供だろう」 士郎も切嗣とアインツベルンの関係については詳しくは聞いていない。イリヤスフィールが衛宮に姓を変えない理由は知っているが、切嗣とアインツベルンの間には士郎も知らない確執があるのかもしれない。 ただそれでも、それが人を攫う理由には成り得ない事ぐらいは、士郎にだって分かる。 「お答えする事は出来ません。一つだけ述べるのなら、全ては我らが悲願の為の行動だという事です。話を戻しましょう。我らの要求を受けて頂けますか?」 「…………」 はぐらかされた士郎だが、これ以上問い詰めても意味はないと判断したのか、視線をセイバーに向けた。セイバーは僅かな思案の後、問いを投げかけた。 「……一つだけ訊く。その勝負、私が勝ってもイリヤスフィールには一切の危害を加えないと誓えるか?」 「勿論です。彼女に傷をつける事など有り得ません」 但し──と女は言い、 「貴女の勝利もまた、有り得ませんが」 と、確信を込めて謳い上げた。 「────ほう」 セイバーの周囲に魔力の嵐が吹き荒れた。勝負の行方。必ずや自らのサーヴァントが勝利すると確信があるが故の舞台設置。 その確信が何に起因するのか不明ながら、ここまで侮辱を受けてなお引き下がる理由はない。 「構いませんか、シロウ。この勝負を受けて」 「ああ。セイバーに任せる」 人質は使わない……と相手は言ってはいても、それでも人質を取られているのは事実なのだ。相手の要求を呑まなければどのようにイリヤスフィールが扱われるのか分かったものではない。 不自由な二択でもない、決闘の要求。これを断る理由はない。勝利と共にイリヤスフィールを取り戻す。 「受けよう、その勝負。一対一での決闘を、了承する」 「畏まりました。では衛宮様はお下がりください。戦闘へ介入も、出来る限りは避けて頂きたいですが、されて貰っても結構です。その場合、私が貴方のお相手を務めさせて頂く事になると思いますが」 「……これはセイバーが受けた勝負だ。俺は邪魔をするつもりはない」 「そうですか。では、そのように」 士郎と白い女はそれぞれ互いのサーヴァントの後方に下がった。広場の中心には白銀に身を包んだセイバーと、闇としか表現出来ないサーヴァントが対峙する。 無言にして無音のまま、闇色のサーヴァントはその手に何かを具現化させた。その得物もまた身体を包んでいた霞に即座に覆い隠され、正体を知るには足りなかった。 しかしセイバーの剣のように完全に不可視ではない。霞の覆う範囲を考えれば、剣かそれに類するものであると読み取れた。 セイバーの具足が灰色の大地を踏み締める。闇色のサーヴァントは構えもないままに立ち尽くす。 「言葉が使えるのなら、問おう。サーヴァント、おまえはどのクラスに該当する英霊だ」 サーヴァントからの返答はなく。代わりに後方の女が答えた。 「セイバーですよ」 「なに……?」 「我々のサーヴァントはセイバーです」 「ヅィァ────!」 声らしからぬ声を怒号と放ち、闇色のサーヴァントは大地を蹴り上げセイバー目掛けて突進する。セイバーは直前に聞いた有り得ない返答を脳裏から追い出し、振り抜かれた漆黒の剣戟に清廉なる風を纏う剣閃を合わせる。 衝突の感触は鋼。膨大な魔力の波が弾けてスパークを起こし、両者の間に波紋のように盛大な火花を散らせる。 一撃で理解する。膨大な魔力放出を持つセイバーに拮抗する膂力。ランサーは得物の長所を活かしてセイバーの剣を捌いていたが、この相手は同系統の得物、間合いで互角に渡り合える強者であると。 だがそれで遅れを取るセイバーではない。剣の威力で互角ならば、速度で掻き乱す。ジェット噴射じみた魔力がセイバーの全身より放たれ剣戟を後押しする。五月雨の如く繰り出される剣を、闇色のサーヴァントは絶妙な間合いを保ち捌き抜く。 闇に覆われた眼前のサーヴァントからは何も読み取れない。戦闘の最中にあっても手の返しや指の動き、視線などで相手の行動を読む事も出来るのだが、この相手にそれらの手段は通じない。 セイバーが宝剣を秘している理由はその刀身を見られるだけで真名を看破されかねないからだが、それとは別に視えない剣で間合いを測らせないという側面もある。 視えぬ剣の間合いにはどうしても踏み込みにくい。その一歩、いや半歩の差は魔人たるサーヴァントの戦闘では死活に繋がる。 目の前のサーヴァントはそれと同等か、なお戦いにくい特性をその身に帯びている。完全に不可視ではないにしても、本来見える筈のものが見えないというだけで心理的に後手に回らざるをえなくなるのだから。 闇色の衣を纏う正体不明のサーヴァント。それが宝具によるものか、彼の者のマスターの入れ知恵なのかは分からない。そして執拗なまでに正体を隠匿する理由が、それだけであるとも限らない。 しかし、その程度の情報では正体を知れない。先程の白い女が口にしたこの闇色のサーヴァントがセイバーであるという情報も、鵜呑みにしてはいけないのだ。 通常、聖杯戦争のクラスは重複する事はない。だからセイバーがセイバーである以上、目の前のサーヴァントがセイバーである筈がないのだが、それも確信を以って言える事ではない。 真実か嘘か──どちらであっても、セイバーのやるべき事に変わりはない。 「はぁ────!」 裂帛の気合と共に放つ斬撃。今なお供給されるイリヤスフィールからの魔力を滾々と消費し威力に変えて打ち放つ。 「────ィァ!」 応じる黒色の剣もまた怒涛の勢いで大気を斬り裂く。火花は大輪の花となって剣戟の間に咲き誇り、瞬きの内に消えて即座に新たなる花を咲かせ続ける。 衝突。鬩ぎ合い。弾ける。 鋼が軋み悲鳴を上げる。なお加速する剣の冴え。必勝に向けた一歩を踏み出したのは、セイバーだ。 数十合のやり取りの内に把握したおおよその刀身の長さと、力量を考慮に入れ、脳裏に閃いた直感の告げるままに死地へと踏み出す。 大上段より振るわれる漆黒の刃を、身を沈め、水平に構えた不可視の剣で防ぎ耐え、刃を滑らせてなお深い懐へ踏み込む。防御に割いた剣は使えず、セイバーはそのまま体当たりにて闇色のサーヴァントを吹き飛ばす。 「──、──ッ!」 声ならぬ声を発するサーヴァントは体勢を崩したまま。セイバーは両足が大地を掴むと同時に魔力の後押しを用い初速から最高速に加速、肉薄。 上段に構えた剣は未だ無防備なサーヴァントに向けて放たれ、決死に振り抜かれた漆黒の剣を弾き飛ばす。 セイバーが必殺の一撃を見舞うべく最速で剣を振り上げる。通常ならばそこで打つ手なくセイバーに斬られるところを、だが相手も名のある兵か、無理な姿勢から闇が伸び、蹴りを上げ放つ。 「ぐっ──!」 剣を振り下ろす直前に厭なものを感じ取ったセイバーは、腕を引き戻しその蹴りを身体の前に立てた不可視の剣で防ぎ、そのままその反動さえも利用し、闇色のサーヴァントの頭上を超える刹那に、振り向きざま、肩口目掛けて斬撃を振り下ろした。 「──ギィ!」 闇色の英霊の呻きと共に二人は落下、空中で一回転し無事着地したセイバー、体勢を崩し膝をついたような形で地を滑る闇。 直後、ほぼ同時に後退。互いの立ち位置が入れ替わり、それぞれの剣を担ったまま再度対峙する。 「けほっ……」 セイバーが咳き込む。剣でガードしてなお身体を揺らした蹴りは恐ろしい威力だ。それを喰らってなお反撃を試みたセイバーもセイバーだが、蹴りを超える一撃を見舞ったセイバーの顔は、未だ険しいままだった。 それもその筈、手応えがなかった。あの闇の下にどんなものを身に纏っているのかは知らないが、セイバーの剣が捉えたのは肉を裂く感触ではなく鋼のそれだった。 不十分な体勢だったとはいえ、セイバーの斬撃を受けて無傷なのだ、恐ろしく頑丈な鎧を着込んでいるのか。 「流石はセイバーですね。体捌き、剣技、反応……どれもサーヴァントの水準を大きく上回る。ですが、それだけでは我らのサーヴァントは倒せませんよ」 位置取りが代わり後方にいる女がそう言った。 「それで挑発のつもりなら、安すぎると言っておこう。確かにこのサーヴァントは強い。だが、どのような英霊であれ、私はその全てを倒し聖杯に至る」 握りを強くするセイバー。朧を霞ませなお揺らめく闇色のサーヴァント。対峙は刹那、硬直は一瞬、踏み込みは同時に広場中央に奔る。 「やぁあああ……!」 衝突から疾風怒濤の連打に次ぐ連打。人外の膂力と速度の込められた高速の剣戟を無尽に振るい、攻撃の隙間を与えない。 「ィ──、ァ──ッ!」 もはや暴風へと変貌したセイバーの剣戟。放出される魔力は嵐のように吹き荒れ、一帯を呑み尽くす。 尋常ならざる猛攻に後退しながらの迎撃を余儀なくされた闇色のサーヴァントは剣を盾とし防ぎ切る。最中にも防御を衝き抜けた剣閃が闇の奥にある筈の肉体を斬り裂いたが、サーヴァントは頓着もせず防御に徹している。 剣の騎士の手に返るのはまたも鋼の感触。『 ならばより一層の一撃を見舞うまで。先の不自然な体勢からの一刀ではなく、十全の力を篭めた必殺の一撃を以って勝負に出る。 猛攻に次ぐ猛攻。圧倒的に優勢だったセイバーは何を思ってか、無尽の乱打を一瞬だけ止めた。真空の生まれた空間に風が吹き込むように直後、即座に反撃に打って出た闇色のサーヴァントの剣が大気を震わせて迫る。 それをまるで予期していたかのようなタイミングで後方に跳んで回避。着地と同時に前方へ。奇しくもランサーがセイバー相手に行った三角跳びめいた戦法を真似、最高速に達した跳躍のまま剣を振り上げる。 相手もまた構えた剣を振るうも、セイバーはその一撃を身を捻り躱し、白銀の甲冑が削ぎ落とされるのも厭わず間合いに踏み込む。敵は一歩を引き再三剣を振るう。だが遅い。セイバーの全力を篭めた一撃の方が早い。 今度こそ──致命傷の一撃を、前の斬撃と全く同じ箇所に打ち下ろした。 だが── 「何……!?」 がぃん、と耳を劈く衝突音。飛び散る火花。セイバーの全力の剣はまたしても闇の下の何かに阻まれる。瞠目は一瞬だったが、二の太刀のない斬撃を振り抜いたせいで回避の一手が遅れる。 「……くっ!」 スウェーのように半身をずらし、漆黒の剣の直撃を避けようとするも、間に合わず、左肩を掠め血の華が咲く。 返す刃を今度こそ躱し、バックステップでの後退。仕切り直しの為の後退だが、セイバーの焦燥を思えば、それは醜い撤退めいた回避だった。 「はっ、ぁ……」 左肩の傷はそこまで深くはない。セイバーの治癒能力を以ってすれば数分を待たずに回復するような傷だ。だがセイバーは呻きと共に肩口を押さえ視線をずらす。治りが──酷く遅い気がした。 「セイバー!?」 士郎の声が届く。 「大丈夫ですシロウ、この程度、傷の内にも入りません」 しかし……と脳裏を掠める不可解な現象。奇怪と言い換えても良い。悠然と立つ闇色のサーヴァントの圧倒的な防御能力。セイバーの全力の一撃を受けてなお、反撃さえも可能としたその防御力は何処か、不吉でさえあった。 サーヴァントの大半は攻性であるが、このサーヴァントは防性に特化した者なのか。せめてその姿でも見えれば何か察する事も出来たのかもしれないが、目の前にあるのは純然たる闇。アインツベルンの采配は、間違いなく功を奏している。 「ふむ……なるほど。これでほぼ立証されましたね」 独り言のように白い女は呟く。なお聞こえない声でその後にも何かを囁き、それから、視線を対峙する二人に向けた。 「もういいでしょう。そろそろ決めてしまいなさい」 呼応するように闇が揺らめく。主の討伐命令に従順な獣が牙を剥いたようだ。 「ハッ──」 セイバーもまた構える。いかなる防御能力に守護されているのか知らないが、それが物理的なものである以上は砕けない道理はない。一撃で足らぬというのなら二撃、三撃と、壊れ尽くすまで斬撃を見舞うのみ。あるいは、人体の急所を狙い撃つ。 地を深く噛むセイバーの具足。対して闇色のサーヴァントは無防備なまま剣を地に下げている。 ……舐めているのか。 何れにせよセイバーのやるべき事に変わりはない。爪先が地面に沈み、身を低くした姿勢で、一気に、地面を蹴り上げる。 「はぁあああ……!」 弾丸と化すセイバー。振り上げた剣。未だ無防備な闇。沈み、伸び上がる動き。セイバーの狙いは頚椎。いかな鎧であっても首を固めては動きに制限が生まれる。その場所は、少なくとも肉体よりも脆い筈だ。 闇の全体像を目測、捕捉。セイバーが迫ってなお闇は未だ動かず無防備。己の防御能力に絶対の自信があるというのか、その隙を逃す事なく、構う事なく、セイバーの斬撃が、これ以上なくクリティカルに闇を両断する──! 「馬、……」 続く言葉は打ち鳴らされた轟音に掻き消え、またしても弾ける極光。間違いなく捉えた頚椎を狙った一撃は火花を散らし停止する。間近に見た闇の奥に潜む面貌に、二つの赤い光を見た気がした。 「──っ!?」 セイバーの背筋を駆け抜ける悪寒。本能が警鐘を鳴らし後退を試みるも、それを上回る速度で闇が迫る。 「なっ……チィ……!」 後退しながらの斬撃を、闇は剣で弾く真似すらしない。無防備なまま、全ての剣戟をその闇で受け止め、なお加速してセイバーの間合いに踏み込む。 ……有り得ない! 防御力が高いのはまだ理解が出来る。だが斬撃を受け続けて平然と走り続けられる筈がない。ブレーキの壊れたダンプカー。赤い布目掛けて突貫する闘牛。ただ突き進む削岩機。その比喩と唯一にして絶対的に違う部分は、鉄壁の防御能力。 効いていない。セイバーの剣戟の何一つが効いていない。必死の後退からの牽制でさえ意味を成さず、対して揺るぎない足取りで迫る黒騎士の剣戟をただ受け止めながら、セイバーは一直線に後方へ下がらざるを得なくなり── 「────ッ」 広場の端、一際大きな巨木にその背をぶつけ退路を絶たれる。セイバーに迫る闇は、先に数倍する威圧感を伴い、無感情に、猛然と漆黒の剣を振り被る。 逃げ場はない。活路もない。未来予知じみた直感が、勝利への道筋を示さない。 「せやぁぁ……!」 それでもなおセイバーは愚直に剣を振るわなければならなかった。後退から一転しての踏み込みの一撃。だがそれでさえ通じず、どころか、闇はセイバーの斬撃を受けながらなお高く黒の剣を振り上げ── 「セイ──」 完全な間合い。防御を無視した攻撃の動作。防御さえ間に合わない、防御さえ衝き抜ける必殺の一太刀。有り得ない異常に目を見開くセイバー目掛けて、致命の一撃は振り下ろされる。 「セイバァァァァ……!」 声は遠く。士郎の声をまるで異世界のもののように聞きながら、剣の騎士は自らの身体より噴き出す血の翼を見やりながら、崩れ落ちた。 /5 衛宮切嗣は士郎の楽観的予想を裏切り、単身郊外の森へと踏み込んでいた。 昨日の戦いも、使い魔の目を借り盗み見ていた。彼だけがイリヤスフィールを攫った人物達を目撃していた。キャスターの奇襲により起こった発光に紛れて現れたなお白い装束に身を包んだ数名の人影が、彼の娘を攫う場面を目撃したのだ。 すぐさま行動を起こさなかった……起こせなかった理由は二つ。一つはあの場に士郎がいた事に起因する。切嗣は今の自らを息子に見せたくはなかった。 士郎の信じる正義の味方ではない暗殺者のこの己を見られたとすれば、その絶望は想像に易いのだから。 故に今、こうして単身アインツベルンの森へと乗り込んだ。彼もまたイリヤスフィール達と同系機の携帯電話を所持しており、事前にイリヤスフィールの居場所と士郎達の動向も把握している。 朝露に濡れる木々が乱立する森に切嗣が踏み込んだのは、士郎達が森に踏み込むのとほとんど同時だった。 いつでも踏み込めたのにこの時を待っていた理由が二つ目、サーヴァントの存在だ。マスターではない切嗣では、アインツベルンの従えるサーヴァントには対抗する術はない。見つかれば即座に殺されるだろう。 だから士郎達が森に踏み入るのを待った。士郎にはセイバーがついている。どうしても迎撃の為にはそちらにサーヴァントを割かなければならず、位置的にも南側から侵入した士郎達と北側に待機していた切嗣ではどうやってもかち合わない。 無論、城で待ち伏せされれば厄介極まりないが、その時はセイバーに連絡を取り作戦を伝え、サーヴァントを引き付けて貰っている間に切嗣が助け出せばいい。 穴がないとは言わないが、士郎に知られず単独行動を行う上ではこれが今提案出来る最上の策。 コートの裏に幾らかの撹乱の道具と予備弾倉、身体の随所にナイフを仕込み、左のホルスターには短機関銃を、右のホルスターに愛銃を忍ばせ、稀代の暗殺者──魔術師殺しと恐れられた魔術使いは人知れず灰色の森を進む。 ……しかし、幾つか解せない点があるな。 切嗣は警戒を怠らないままに思考をする。最たる案件はアインツベルンがイリヤスフィールを攫ったその理由だ。 まさか聖杯が未完成で、その代替としてイリヤスフィールを連れ去った、などとは言うまい。そんな不確かな事を遂行するほどあの頭首は酔狂ではない。 ならば単純な人質としての利用か。しかしそれも信憑性がない。生粋の魔術師である彼らにとって人質が意味を成さないものであると分かっている筈だ。サーヴァントにしても己が祈りとマスターでもない小娘一人とでは比べるべくもない。 切嗣に対する人質……というのなら、有効だろうが、そんな真似をすればあの十年前の再来になる事はあの頭首も理解している筈だ。 ……ならばやはり、こうして誘い出す事が目的か? 狙いが切嗣なのか士郎なのか、セイバーなのかは不明ながら、人質を取られた以上は取り戻しに来ると考えるのは必然だ。 この状況をアインツベルンが望んでいたとするのなら納得が行く。同時に、何故誘い出す必要があるのかという疑問も生じるが…… 思案の最中、唐突に切嗣の視界が開けた。いつか見たものと同じ景観。スプーンで抉り取ったような広場に屹立する古城。十年前、確かに切嗣が作戦の為に爆破解体したものと、全く同じ城が聳え立っていた。 「見栄もここまで行けば驚嘆に値するな」 わざわざ同じ外観の城を用意する意味が切嗣には全く以って理解出来なかったが、それがアインツベルンなりの矜持なのだろう。この城は壊れてなどいなかった。我らの思想と同じように変わりない……と。 木陰に身を潜めて城の様子を窺いながら片手で携帯電話を操作する。イリヤスフィールを示す光点に変わりはなく、士郎とセイバーを示す光点もまた、移動していない。 ……サーヴァントは既に迎撃に向かったか? 確信がない。一度森の中に戻り、迂回して士郎達のポイントを目指す。幸いにもそれほど離れておらず、僅かにではあるが、その姿を見咎めた。 木々が邪魔で、更に百メートル以上離れていたので確信は持てなかったが、光点は間違いなくその場所を指しており、人影もまた二つ以上目視出来た。 ……良し。この隙にイリヤを助け出す。 足音も気配も絶ち、切嗣は城の正門ではなく裏手に回り、近場の木をよじ登り二階の窓より侵入した。 こちらの侵入は間違いなくばれているが、それでも出来る限りのリスクを減らす為の行動だ。 切嗣が踏み込んだ回廊は絢爛豪華な様相だった。意匠の凝った壁面、整然と並ぶ価値ある芸術品、天井にはシャンデリアが吊られていた。 身を屈め左右を見渡す。幸いにも人影はない。サーヴァント迎撃にマスター共々向かったのなら僥倖だ。人質だけを残していくとは思えないので、見張りくらいはいるだろうと踏んでいたが。 ここから先は携帯電話の位置探索機能は役に立たない。光点が示すのはあくまで座標のみで、そのポイントの高低差にまでは及ばないのだ。この広大な城の何処かに囚われているイリヤスフィールを自力で見つけ出さなければならない。 人質を捕えておくのなら何処か……もし自身がこの城に捕虜を捕らえておくのなら何処かと思案し、まずは個室。そして万が一逃げられた時の為に、出来る限り高い場所に捕らえておくと考えた。 外に逃げられたものを捜索するよりは城の内部を調べる方が簡単だ。この城の中くらいならば、何処に誰がいるか把握出来てもおかしくはないのだから。 息を殺し、足音を殺し、気配を殺して三階に切嗣は上がった。全く同一に造られた上階の近くの壁面に身を寄せ、曲がり角から長く続く回廊を見── 「見つけた」 「────っ!?」 瞬間、切嗣の鼻先を何か鋭利なものが通り過ぎ、足元の白磁の床を砕き散らした。寸でのところで身を引いた切嗣はそのままバックステップで跳び、階段を背に、現れたものを注視した。 曲がり角より覗いているのは白銀の柄を持つ長大な どんな膂力で放たれたのか、粉砕された床は白煙を上げている。切嗣は短機関銃を前方に向けたまま、浮き上がったハルバードの先にいた存在を目視する。 「……ホムンクルスか」 円蔵山で出会ったセラと名乗ったアインツベルンの侍女に良く似たホムンクルス。軽々とハルバードを担いでいる辺り、その身体能力の高さが窺える。 「エミヤ、キリツグ……?」 「イリヤを引き取りに来た。壊されたくなければ居場所を教えろ」 「ダメ。まだ、渡せない。私達の目的、果たすまで」 言語機能を割いた分、戦闘能力に特化したのだろうホムンクルスは絶対の拒絶を示すようにハルバードを振るった。切嗣が短機関銃を構えたまま出来る限りの情報を引き出すべく会話を続ける。 「目的……やはりイリヤを……」 「ううん。イリヤには何もしない。目的は、セイバー」 「なに……」 「お喋りが過ぎますよリーゼリット」 後方──階段の踊り場に白い侍女が背筋を伸ばし見上げていた。その面貌には覚えがあった。セラと名乗ったホムンクルス。 「お久しぶり……という程でもありませんね、衛宮切嗣様。当家の逗留地までご足労頂き有難う御座います」 「御託はいい。イリヤは何処だ」 「イリヤスフィール様は四階の向こう側、一番端の部屋におられます。ご安心を。危害は一切加えておりませんので」 「ふん……人を攫っておいて随分な物言いだな。そんな言葉を僕が信じるとでも?」 「思いませんが事実ですので。それから、もう一つ。その銃を降ろして下さい、私達には貴方を害する意思はありません。我々の目的が果たされたのなら、イリヤスフィール様もそのままお返ししましょう」 「……言葉が伝わっていないようだから、もう一度だけ言おう。そんな言葉を僕が信じると思っているのか」 怜悧な瞳と無感情な視線が交錯する。セラは嘆息し、今一度切嗣を見上げた。 「ならば我らがお相手いたしましょう。目的は半ばまで進行していますので、ただの時間稼ぎだと考えてもらって結構です」 「上等だ。その目的とやらが果たされる前にイリヤを助け出す」 「リーゼリットッ!」 セラが叫ぶ。同時、リーゼリットは手にした斧槍を旋回させ、踏み込むと同時に横薙ぎに払った。 一瞬で身を屈めた切嗣の頭上を必死の刃が通り過ぎ、壁面を砕く。切嗣は低姿勢のまま間近のリーゼリットの脇を抜けながら呟く。 「 刹那、未だ壁面に突き刺さったままのハルバードをそのままに、リーゼリットは足を振り上げ切嗣目掛けて振り抜く。左手に持っていた短機関銃を盾にするも、切嗣程度の筋力では抗えずに吹き飛ばされる。 痛みも呻きも完全に無視し、最中に、残りの呪文の詠唱を終える。 「── 着地と同時、切嗣は猛然と加速し、リーゼリットにハルバードを振る暇も与えず一気に脇をすり抜ける。 角を曲がり、長い廊下を駆け抜ける。後方には切嗣の異常を目の当たりにしたリーゼリットが呆然としていたが、セラに叱咤されて憤然と追い縋って来た。 切嗣はコートの裏を探り、取り出した筒状のものの先に伸びた紐を口で引き抜き、後ろも見ぬままに放り投げた。直後、からんと廊下の床を打った筒状のそれから辺り一面を包み込む白煙が放出された。 更に切嗣は足を止めぬまま振り返り、手にしていた短機関銃から銃弾をばら撒いて弾幕を張った。 そのままの勢いで、三階に上がった時とは違う反対側に位置する階段から四階へと至る道を上る。途中、 「 と呟き、加速していた時間を戻した。 「がっ……は、ぁ……」 よろめき階段の手摺りに身を預け、口の中に湧いた血を唾と共に吐き捨てた。体内時間を加速変動させる魔術師衛宮切嗣オリジナルの魔術──固有時制御の反動は、今以って慣れる事がない。 二倍速程度ならばそれほど大きな揺り戻しもなく、体内をズタボロに破壊されるものではないが、長年使用を禁じたツケが来たのか、魔術回路共々軋みを上げている。だが、あの窮地を抜け出す為には必要だった。 挟撃の形は一方的に不利だ。煙幕と銃弾がどれほど意味を成したかは知り得ないが、挟み撃ちにされるくらいならば今の状態の方が幾らかマシだった。 呼吸が落ち着き身体に若干の力が戻る。階段を上りきり、すぐの扉を開ければイリヤスフィールがいる筈だ。それもセラが嘘を吐いていなければの話だが、当てもなく彷徨うよりは確実だ。 別段あのホムンクルス達を殺す必要性はない。イリヤスフィールさえ救出出来れば切嗣の目的は達成される。 革のブーツに力を込めて四階へと続く階段を上る。もう少しで回廊へと出ようというその時── 「逃がさない」 白煙を引き連れて、踊りかかるようなスピードで階段を駆け上がってきたリーゼリットが後方より姿を見せる。 目標もなく狙い撃った弾丸の幾つかに被弾したのか、白い侍女服に赤い斑点が描かれていた。 「チィ──!」 キャレコ短機関銃の残弾をあらん限り下方に向けて撃ち放ちながら階段を駆け上る。痛みを軽減、ないし除去されているのか、リーゼリットは見開いた目をそのままに、銃弾の雨の中に身を投げながら、頭上に振り上げたハルバードを振り下ろした。 しかし、切嗣の方が一歩早く階上に到達し、振り下ろされたハルバードは階段を砕くに留まった。 駆け上がった切嗣は回廊に出て、開けた視界に扉を収めて後はノブを回せば目標に到達出来る──と思っていたが、それよりも早く、回廊の向こう端に、白い装束を見咎めた。セラの感情のない赤い瞳に色が宿っていた。 「────!」 切嗣にはセラの言葉は聞こえなかったが、確かに呪文は紡がれていた。セラの翳された手より発光、巻き起こった突風が、回廊を隙間なく蹂躙し、窓硝子の全てを粉砕しながら切嗣に迫る──! 切嗣はこの十年の間も折を見ては鍛錬と銃の整備を行っていた。魔術協会と縁を切り、個人間の繋がりさえも絶ってなお、その修練だけは続けていた。 十年前、あるいは二十年前に比べれば、実戦を離れた切嗣は明らかにその性能を落とし込んでいるだろう。それでも身体に刻み込んだ、染み付いた業は消えてはくれない。消すべきはないと、切嗣は判断した。 無様な男が今なお生き続ける理由。我が子らの為に全てを尽くすと決めたこの身体は、彼らを守る為に存在する。 かつては誰かを殺し誰かを救う為に執った銃を、今は──これからは、大切なものを守る為に抜く事が出来る。 その高揚──その歓喜は、誰にも理解はされまい。 十年前に劣る自分。劣化し朽ちた暗殺者。それがどうした。その程度が、一体なんだと言うのだ。 弱さを理想で覆っていた自分と生きる確固たる意思を持つ自分。明確な誰かの為に抜ける銃が、その意思が、かつての自身に劣る事など──有り得ない! 身体は斜。十全の姿勢に戻す時間はない。滑る右腕。ホルスターに差し込まれた銃把は吸い付くように掌に馴染んだ。 引き抜かれる黒身。一糸の乱れもない動作。自律する機械の如き精確さで、寸分の狂いなく竜巻の中心に向けられた銃身は トリガーにかけた指は驚くほど軽く撃鉄を落とし、魔弾は螺旋の銃口を駆け抜け、目標目掛けて放たれた。 「────ッ、ァ──ッ!」 風呪の魔術と弾丸が接触した瞬間、篭められた起源が炸裂し、セラの肉体にフィードバックを起こした。制御を失った暴風は四散し窓より外界へと解き放たれ、回廊に立つのは切嗣のみとなった。 遠く痙攣したように倒れ伏したセラを一瞬だけ見やり、切嗣は即座に目的とした扉に手を掛ける。直後、血塗れのリーゼリットが階下より斧槍を薙ぎ払う姿が見えたが、室内に滑り込んだ切嗣には届かず、扉を破砕するに留まった。 「え、キリツグ……?」 爆音と共に吹き飛んだ扉の音に反射的に振り向いたのだろう、イリヤスフィールは目を丸くして事態の推移を解せぬままに呆然としていた。 いつかのように椅子に腰掛けていたイリヤスフィールを見つめ、安堵の溜め息を零したのも束の間、 「逃げるぞ」 短く吐き捨てるように言い、切嗣はイリヤスフィールに駆け寄った。 「え、なんでキリツグがここに……? もしかして助けに来てくれた?」 「ああ、そうだ。時間がない、急いで──」 ざっ、と音を立て、粉砕された扉のあった入り口に──白と赤に染まったリーゼリットが現れる。 「追い詰めた」 「ちぃ……」 見た目には痛々しいリーゼリットだが、その表情は全く変化がない。ダメージがあるのかないのかすら分からない。近接戦闘に特化する為に、やはり痛覚を遮断されているのかもしれない。 魔術回路を用いないタイプの相手は切嗣の不得手とする相手だ。それも特に頑丈なリーゼリットを打倒する為には、せめてコンテンダーにスプリングフィールド弾を装填する必要があるが、この状況では不可能。 全盛期の切嗣でも、彼我の距離およそ七メートル前後では、装弾は間に合わない。銃身を折り弾丸を詰め込む最中に切り裂かれるのが関の山だ。 イリヤスフィールがいなければ話は別だが、彼女こそを守らなければならないのだ。短機関銃にも装弾がない今、打つ手はない。 故に選択肢は一つしかない…… 「イリヤ、飛ぶぞ」 「え……?」 イリヤスフィールの返答よりも早く、切嗣は我が子を抱えて後方に向けて走り出す。室内に設置されている一際大きな窓目掛けて全力で駆け、体当たりで硝子を砕き、そのまま、四階の高さより空中に躍り出た。 「きゃっ、きゃあああああああああああ……!?」 四階といっても一般的な家屋の高さではない。天井の高い城の四階分は裕に七階や八階分の高さがある。無論、そのまま地面に叩きつけられて、生身の人間が助かるような高さではない。 落下の最中、切嗣は魔術を発動し、重力操作と質量軽減を行おうとしたが、 「…………っ、ぁ……!」 先程の固有時制御で痛んだ肉体と魔術回路が悲鳴を上げて詠唱を 「イ、リヤ、着地を任せる……!」 忘我に喚くイリヤスフィールを叱咤し、意識を取り戻させる。 「う、うん……!」 我に返ったイリヤスフィールは、目の前に迫る地面と衝突の想像に目を瞑り、起動の呪文も詠唱もなく、ただ祈りによって魔術を発動して見せた。 落下は直前で勢いを削ぎ落とし減速する。エレベーターのような無重力が一瞬だけ全身を包み込み、僅か数センチの距離を残していた地面に見事着地を果たした。 「ふぅ……助かったか」 「もうっ、キリツグのバカ! 考えなしに飛び降りないでよね! 死ぬところだったじゃない!」 「考えはあったさ。イリヤになら任せられるってね」 「む、むうぅぅぅ……」 自分が魔術の発動に失敗した事は言わずイリヤスフィールをそう褒めて、抱えていた我が子を地面に降ろした。 城を見上げる。あのリーゼリットの身体能力ならば生身で飛び降りてきそうなものだったが、追撃はなかった。彼女達の言っていた『時間稼ぎ』が終わったのだろうか。ならばセイバーは…… 「イリヤ、セイバーへの魔力供給は?」 「え? 続いているけど、それがどうかした?」 「いや……」 ならばまだセイバーは生存しているのか。アインツベルンの狙い。目的。セイバーを付け狙った真意は何処にあるのか。 ……思考に意味はないか。今はまず、イリヤを安全な場所に連れ出そう。 「イリヤ、近くに士郎達も来ている。イリヤは合流して帰ってくれるか」 「キリツグは……一緒には行かないんだね」 「ああ、近くまでは送る。話は帰ってから聞かせてくれ」 短機関銃とコンテンダーに弾丸を再装填し、切嗣はイリヤスフィールを伴い灰色の森へと再度入っていく。 その後方──遥か聳え立つアインツベルン城の最上階から、二人を見下ろす影があった事は、誰もが知り得なかった。 /6 「がっ、はぁ……!」 袈裟に振り下ろされた漆黒の剣がセイバーを捉え、バターに差し込むナイフのように剣の騎士の身体を斬り裂いた。 噴出する血も闇色の衣に阻まれサーヴァントには届かず地に落ちるのみ。セイバーは目の前に起きた異常と自身が一撃の下に斬り伏せられた事に、瞬間、我を忘れ──その間隙を縫うが如く再度、致命の一撃が闇色のサーヴァントより放たれた。 「セイバァァァァ……!」 士郎の怒号と共に、強大にして膨大な魔力が吹き荒れ、セイバーは刹那にその姿を消失させた。 闇色のサーヴァントの剣は空を斬り大地に叩きつけられる。消えたセイバーは、士郎の傍にその姿を膝をついた状態で現した。 「なるほど。令呪を使いましたか」 白い女が呟く。士郎の腕から三画あった赤い刻印の一つが消失し、士郎の声なき意思を反映してセイバーを窮地より離脱させたのだ。 「セイバー、大丈夫か!?」 「ぁ、は、い……申し訳ありません……シロウ、ぐっ──!」 不可視の剣を支えにセイバーは身を起こすも、袈裟に裂かれた傷痕より絶え間なく血は噴き出し、白銀の鎧も青のドレスも血の赤と黒に染まっていく。 「無茶だ……! もうやめろ……!」 「この程度……問題ではありません……それより、あのサーヴァントは……」 あの刹那の異常。攻撃を受けながら剣を振り上げた、その単純にして恐ろしいまでの常識外の行動。 有り得ない。有り得る筈がない。セイバーの全力の攻撃を無数に受け続けて平然としているあのサーヴァントが。 反撃は有り得なかった筈だ。いや、あれは本当に反撃と呼べる攻撃なのか。防御を完全に無視した一方的な攻撃能力。止まる事を知らない重戦車のようだ。 それほどまでに強力な鎧を身に纏っているのか? いや、もはやそれだけでは説明出来ない──この不可思議な現象を受け止めざるを得ない。 セイバーの斬撃の威力も衝撃も何もかもを無効化したとしか思えない異常。防御に特化した英霊……という言葉だけで片付けていい問題ではない。 「だから言ったでしょう? 貴女では勝てないと」 女は嗤う。その確信の正体。セイバーでは勝てない理由。 あのサーヴァントは何か、強大な摂理によって守護されているとしか思えない。単純な防御能力ではなく、自然界の物理法則を逸脱した、あのサーヴァントにのみ許された加護があるとしか…… だが今はその正体について考察する時間も材料も足りていない。セイバーは血に塗れてなお立ち向かわなければならない。 敗北し膝をついていいわけがない。その身に課せられた使命の為、不徳により攫われたイリヤスフィールを救出する為。 彼らの剣となり盾となると誓った彼女の意思に、泥を塗る事は許されない──! 「……戦いを、続けよう」 不可視の剣を衝き付け毅然として言い放つも、その顔色は死人のように蒼白だ。傷は全く癒えず、勝算も見えない戦いなれど、背を向ける事は出来ない。 「勝てないと分かってなお立ち向かうのですか? 呆れますね……それは勇気ではなく無謀だと知りなさい」 「それは、どうかな……」 勝利を掴む手はある。手に握る宝剣。常勝を約束されたその身に、唯一許された必勝の手段。それを解き放てば── 「ぐっ……」 「セイバー!」 喀血してなお不可視の剣を支えに立ち続ける。視界は虚ろで足元は頼りない。それでも隣にいるマスターを危険に晒すわけにはいかない。ここでセイバーが屈せば、彼は何も出来ない内に殺されてしまうのだから。 「苦戦しているようだね。代わってあげようか?」 突如、士郎のものでもセイバーのものでも、白い女でも闇色のサーヴァントでもない中性的な声音が広場に凛と響いた。 ついで現れたのは、この森からは失われている若葉色の髪を靡かせ、緩やかな貫頭衣を羽織った、これもまた男とも女とも見分けのつかない人の形だった。 「サーヴァント……貴方を招いた覚えはありませんが?」 白い女が驚きもなく、けれど険を込めて言い放つ。若草色の英霊はさらりと受け流し、柔和に微笑んだ。 「ああ、ごめん。人の家の庭にお邪魔する時は、挨拶がいるんだったね。お邪魔するよアインツベルン。僕も招かれた覚えはないし、貴女達は僕に用はないのだろうけど、こちらにはあるんだ」 言って若草色の英霊は、士郎のいた後方に下がったセイバー達を庇うように、広場の中央に歩み出た。 「アンタ……何故俺達を庇う?」 傍で苦悶に喘ぐセイバーを支えながら士郎が言葉を投げかける。 この状況、この場にいるサーヴァントのどちらがより効率的に倒せそうかを判断するのなら、間違いなくセイバーだ。痛手を負ったセイバーと、正体不明のサーヴァント。確実に一騎を脱落に追い込むのなら考えるまでもない。 しかしその英霊はあえて倒しにくいサーヴァントに対峙し、すぐにも倒せるサーヴァントを庇い立っている。 「理由か……そうだね、人は何にでも理由を求めたがるけど、そんなに崇高な理由なんて僕にはない。あえて言うのなら、誇りかな。手負いのセイバーを打倒する事を、僕は自分自身で許容しない」 「獣の分際で謳いますね。貴方のようなものにもそんなものがあったとは」 白い女は棘のある言葉を刺す。若草色の英霊は変わらず笑みを湛えている。 「獣だからさ。君達が思う以上に獣は誇り高いよ。僕に言わせれば、人のそれは誇りとは呼べない醜悪なものだ。 ──ともかく。セイバーとそのマスター、ここは退くといい。後は僕が預かろう。君達の仲間も、来たようだしね」 「セイバーッ! シロウッ!」 声と共に森を突っ切って現れたのは、イリヤスフィールだった。 「イリヤっ!?」 「うわっ、セイバー何その傷!? ちょっと見せて!」 囚われている筈のイリヤスフィールが何故ここに姿を見せたのか、士郎にもセイバーにも分からないが、この森に踏み込んだ目的が戻ってきたのなら、長居は無用だった。セイバーに肩を貸しながら士郎は後退する。イリヤスフィールも追随した。 「ありがとう」 「気にしないで」 「……礼を言っておく、名も知らぬサーヴァント」 「いいよ。ただの気紛れさ。彼のような、ね」 くすりと彼は微笑み、士郎達は森の奥に姿を消していく。 残されたのは、若草色の英霊と白い侍女、そして闇色のサーヴァントだ。 「じゃあ確かめさせて貰おうか。そのサーヴァントの正体を。あのセイバーを相手に一方的に勝ちを拾った、その無敵のサーヴァントの正体をね」 柔らかな風が吹く。貫頭衣の裾がはためいて、長い髪が風に揺れた。若草色の英霊からは殺気の欠片もない、けれど強い意思が放たれ、広場を覆い尽くしていく。そこに何かを感じ取ったのか、闇色の英霊は無言のままに剣を構える。 「人ならぬ泥人形風情が粋がりますね。最優のセイバーでさえ退けた、我々のサーヴァントを打倒できるとでも?」 「さあね。やって見なくちゃ分からない。戦いには相性がある。それにこの世に完全な最強なんてものはないし、同時に無敵なんてのも有り得ない。だから少なくとも、そのサーヴァントを打倒する術は存在する筈だ」 若草色の英霊は自然体のまま言葉を紡ぐ。 「僕は確かに人形だが、君もまた同様だろう。それが誰の手によっての製作か、という違いでしかない。他人を貶める行為は自分のみならず、同胞の品位をも下げると覚えておいた方がいいよ、 穏やかでありながら棘を滲ませる言葉を放つ若草色の英霊。その罵りは、ホムンクルスである事を誇りとする彼女にとっては、耐え難い侮辱であった。 「人にも獣にも成り切れぬ不完全な存在が。我らホムンクルスを前に吐いたその暴言、償う覚悟は宜しいですね?」 「ああ。わざわざ慣れない挑発をしてみたんだ、乗ってくれないと立つ瀬がない」 「……ッ! ……宜しい。最期に、その名を問いましょう。貴方はいかなるクラスに招かれたサーヴァントですか?」 「おかしな話だ。僕の素性を知りながら、そのクラス名を知らないなんて。でもいいよ、答えよう」 若草色の英霊の瞳から色が消える。絶えず微笑を湛えていた表情から、感情の一切が抜け落ちる。掌を僅かに広げ、噛み締めように、その名を呟く。 「────『 何者でもないが故に何者でもある異端の英霊。その身は化身。ありとあらゆる存在の化身として、その存在を許されたモノ。 どのクラスにも該当しない未だ見ぬイレギュラー。その呼称の真偽すら定かではなく、けれど確かに、この灰色の檻を舞台に、第二幕が始まった。 /7 士郎とイリヤスフィールは戦闘を行った広場から充分に距離を取った灰色の森の中でセイバーにある程度の治療を施した。 セイバーは強力な自己治癒能力を保有している筈なのだが、余りの深手の為か、最低限の生命維持にしかその治癒能力が機能していなかった。 よってイリヤスフィールの簡易な魔術で傷口を塞ぎ造血も行ったが、専門ではない彼女ではそれ以上の治癒は不可能だった。 イリヤスフィールの魔術師を逸脱した特異性を以ってしても、何もかもを自由自在に行えるわけではない。制限と幅がある。 「申し訳ありません……シロウ、私は……」 途切れそうな意識を繋ぎ合わせて呟くセイバーに、士郎は頭を振る。 「いいんだ、セイバー。イリヤも戻ってきたんだ、今はゆっくり休んでくれ。話は、帰ってからにしよう」 武装を解いているセイバーの身体を士郎は背負う。驚くほど軽く、抵抗もなくセイバーは背負われた。 「なっ……シロウ……!?」 「無理するな、せめてこれくらいはさせてくれ」 何も出来なかった。何一つセイバーの助けになれなかったのだ。その悔しさを少しでも誤魔化すように、セイバーの助けとなりたくて、その身を差し出した。 「はい……」 セイバーの身体から力が抜け、その身を士郎に預ける。一度抱え直すと、耳元に寝息が聞こえてきた。それほどの疲労と、体力の回復を余儀なくされる程のダメージをセイバーは受けていたのだ。 「むぅ、ずるい。セイバーだけ」 「イリヤは怪我も何もしてないだろ。それに昔、せがまれて何度したか分からないぞ」 枯れ葉を踏み締めながらイリヤスフィールは頬を膨らませている。けれどそれもすぐさま剣呑な表情に打って変わった。 「でもやっぱりおかしいわ。詳しくは知らないけど、セイバーがこれだけ損耗する理由が分からない。深手を負った……という理由じゃ足りないくらい、セイバーから生気が抜け落ちてるもの」 確かに致命傷を受けたのだろう。生きているのも奇跡的なほどの傷だった。だがそれだけであの膨大な魔力を核とするセイバーがここまでその性能を低下させるのだろうか。何か別の原因があるのかもしれない…… 「考えるのも後だ。セイバー本人なら少しは分かるかもしれないしな。イリヤ、携帯繋がるか?」 「ん、一応。結界も電波までは遮断していないようね。僻地だけど、最近は圏外って少ないみたいだからここまで届いているわ」 「じゃあ何とかタクシーを呼びたいな。帰りの足がないと流石にきつい」 「はいはい。後は任せて、シロウはセイバーをちゃんと背負ってなさい」 歩きながら電話を掛け、森の入り口を目指す。ほどなく見えてきた国道で待つ事数分、イリヤスフィールがどうやってこの地点を相手側に伝えたかは定かではないが、滑り込んできたタクシーに乗り込み、三人は冬木市内へと舞い戻る。 セイバーの身体には、事前に士郎が投影した薄い毛布が掛けられているので不審には思われまい。 ただそれでも、運転手はバックミラー越しにチラチラと後部座席を見ており、視線が合うと苦笑いのようなものを浮かべていた。 確かにあんな場所で乗車する客などほとんどいる筈もない。セイバーの様子を見て、樹海で迷ったか、自殺しようとした知り合いを救出したとでも思われているのかもしれない。余計な事を聞かれなかった事だけは幸いだったが。 早朝に冬木市を出て自動車での往復に約二時間、徒歩による森の往復にも数時間を要した彼らが自宅前に戻った時、既に空は夕暮れに包まれていた。 「あれ……電気ついてるな。藤ねえか?」 代金を払ったタクシーは既に去っている。見上げた武家屋敷には明かりが灯っており、声のようなものも微かに聞こえていた。 「タイガが一人で飲んでるのかもね。でなきゃ流石に一人で騒がないでしょう」 「……いえ、これは違います。大河以外にも気配を感じます」 「セイバー、大丈夫か?」 眠っていたセイバーが目を開ける。士郎の問いかけに毅然として頷いた。 「ええ。損傷は未だ完治とは言い難いですが、ある程度は動けそうです。ですから、降ろして頂けますか?」 「あ、ああ、悪い」 「いえ、シロウのお陰で随分と回復出来ました。感謝します」 毛布を肩に掛けたまま、セイバーは士郎の背より降りて音もなく地に足を下ろす。伸びた背筋はいつかの彼女のもので、けれどその顔色だけは、未だ青いままだった。無理をしているのが一目で分かる。無理をしなければならない理由があるのだ。 「セイバー、気配って、まさか……?」 士郎の声に頷きだけでセイバーは答える。 「なら俺が先頭で行く。セイバーは下がっていてくれ」 「馬鹿な。もし家中に敵が侵入していた場合、貴方では真っ先に殺される」 「それは今のセイバーだって一緒だろ。そんな真っ青な顔した奴の背中に隠れていられるほど、俺は腐っちゃいないつもりだ」 「諦めなさいセイバー。こうなったシロウは梃子でも動かないんだから。それに、別に禍々しいものは感じないし、大丈夫だとは思うわ」 「……分かりました。しかし決して気を緩めぬように」 「ああ」 士郎を先頭に玄関口へと向かう。引き戸の扉を開けるとより鮮明に声が聞こえる。響く声に知らず鼓動が強く打ったが、耳を澄ませて聞いた声音は悲鳴や恐怖の叫びではない。これはむしろ── 「あ、しろーぅ? やぁっと帰って来たんだぁ。もぅおっそいじゃないのぅ」 居間の襖を開けて、彼らの目に飛び込んできたのは、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。 顔を赤くした大河が缶ビールを煽り、テーブルの上には出来合いの惣菜やつまみが所狭しと並べられ、畳の上にはゴミや空き缶が無造作に転がっている。 どこからどう見ても酒盛りだ。しかしそれだけならば、彼らも目を丸くするほど驚きはしなかっただろう。 「おうセイバー、邪魔してるぞ。いやはや、この御婦人は中々に良い飲みっぷりだ」 「やぁですよ、ライダーさんってば。良い歳の女捕まえて、そんなの褒められたって嬉しくないんですからー。あ、ほら、今度はこのお酒にしましょう。ほらほら、ぐびぐびっと行きましょう」 「む、これはかたじけない。おっおっ、おぉっと、うむ、良い薫りだ」 勢いも良くぐびりと注がれた杯の酒を飲み干す大男。その飲みっぷりを讃えて更なる酒を注ぎ、注ぎ返されを繰り返し、はしゃぎ合う大河とライダー。 その他にもう一人、テーブルの影になっている位置に長身の男が畳に倒れ伏している。よくよく見た居間の惨状たるや、地獄絵図を通り越して魔界と化していた。 「……これは、どういう状況だ?」 士郎の呟きに誰も答えを返せない。衛宮邸に、沈黙と笑い声が交じり合った。 web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |