正義の烙印 Act.01









/Prologue


 常冬に閉ざされた森の中。一年を通して日照時間は極めて少なく、森に堆積した冠雪は決して融けることがないせいで、大地たる土壌は数百年に渡り日の目を見ていない。
 極寒の森に吹き荒ぶ吹雪は今なお轟々と嘶いて、顔を覗かせる常緑樹を白く染め上げていく。

 およそ人の寄り付かぬ僻地には、一つの城があった。古城と呼んで差し支えのない古めかしい城壁とは裏腹に、内装は権力を誇示するように豪奢な造りとなっている。明らかに人が住む為のものだった。

 人なき土地に座する古城。中世でもないこの御時世に城などというおよそ利便性を欠いたものに住み着くのは、物好きでなければ狂人の類だろう。そしてその解釈も強ち間違ってはいない。

 一千年。

 今では世界共通の暦である西暦にして、十世紀もの昔。この城に住み着いた者達は夢を見て、今なおその悲願を果たせず成就の時を焦がれている。
 幾度世代が入れ替わったか、幾度人が住み代わったか……今ではもう覚えている者さえもいない。

 唯一変わらないものがあるとすれば、この森を閉ざす根雪と彼らが原初に抱いた祈りの形だけである。

 そして今なお悲願の達成に囚われた狂人達は、迫る成就の時を前にある一つの儀式に興じていた。

 聖杯戦争。

 万物の奇跡を詰め込んだ聖なる杯を賭けて己が覇を競い合う魔術師同士の闘争。六十年の周期を経て間も無く顕現するその争いの大儀礼に臨む為に、彼らは参加条件たるサーヴァント召喚の儀を執り行っていた。

 とは言うものの、彼らはこれまで都合三度の大戦を経て、唯の一度の確たる勝利も得られなかった。
 一度目は誰が聖杯を得るに相応しいかを言い争い、ルールを敷く内に閉幕し、二度目は業として刻み込んだ魔術特性が戦闘向きではない事が災いし、三度目はいらぬ知恵を絞り他の参加者の裏を掻こうとした余りに自分達の首を絞める結果に終わった。

 よって此度の儀礼は都合四度目。彼らは過去の教訓から得た敗因を備に観測し、最早妄執と成り果てた宿願の達成に全霊を傾け、これまで純血を守り通してきた血統に部外者の血を招き入れた。

 近年魔術師の住まう界隈を騒がせている魔術師殺しの魔術使い。対魔術師戦のプロフェッショナルを己が血脈に組み込んで、更にコーンウォールより発掘させた聖遺物、ブリテンの赤き竜……アーサー・ペンドラゴンが所持していた聖剣の鞘を触媒にするという完璧な布陣を敷き詰めた。

 聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組で覇を競い合う。どちらが欠けても勝利はなく、またどちらかが劣れば敗退は必至。
 これまでの経験から導き出した厳選なる結果……対マスター用として対魔術師戦に特化した男をマスターに据え、七つ用意されるクラスの内最優と呼ばれるセイバーの座に騎士の王を据えるという、およそ考えられる限りの駒を配置した。

 この思惑が成れば、彼らの勝利は揺ぎ無いものとなる。何しろ負ける要素が何一つとして存在しないし、これで敗退するようであれば、彼らにもう聖杯を目指すだけの資格がないと叫ばれるようなものだ。

 故に磐石。一千年の果て、ようやく彼らが夢見たものは顕れる。ようやく悲願したものをこの手で掴み取れる。そう信じて疑わなかった彼らを襲う悲劇など、今はまだ誰一人として知る由もなかった。


/Summon Servant


 古城の一室には二人の男女の影。部屋の中央に簡易に敷かれた魔法陣の上には絢爛たる色彩を誇る聖剣の鞘が据え置かれ、その対面に男が立ち、女は事の成り行きを後方から見守っている。

 既に儀式は始まっているのか、荘厳な礼拝堂に木霊する男の声は酷く端然としている。起伏はないが力強く、一字一句を噛み締めるように口にしていく。
 眼前へと突き出された腕には十字架を模した赤い紋様が刻まれており、紡がれる詠唱に呼応してその輝きを増していた。

 聖杯によって招かれる賓客。世界を司る理の外に置かれた存在を、今一度この現世へと招来する大儀礼。
 本来魔術の範疇ではない現象を現実のものと昇華する卓絶した能力は、聖杯の奇跡の一端と呼んで差し支えはない。魔術師の力量ではなく、聖杯が此方と彼方を結び道と成し、魔術師は現界した英霊を繋ぎ止める楔であればいい。

 故に召喚陣もまた簡易なもので問題なく、門を開く資格たる令呪の保有者が定められた祝詞を謳い上げれば、サーヴァントは招かれ、その瞬間から生殺与奪を是とする殺戮ゲームのスタート地点に立つ事になる。

 口上は粛々として進められ、魔法陣を中心として吹き荒れるマナの嵐は視界さえも覆い尽くす。目も開けられない乱気流の中、男は確固として見開いた目で魔法陣の更に先──未だ開かれない門の向こう側を見据えている。

 男にはこれより開かれる闘争へ参加するだけの祈りがある。命を賭ける事さえ厭わない覚悟がある。
 多くを殺し、魔術師殺しなどという異名を取るまでになった煤けたロングコートを羽織るこの男の名は衛宮切嗣。

 まだ齢三十にも満たない男であったが、潜り抜けてきた修羅場のせいか、眉間には消えない皺が刻まれており、筋張った頬が実年齢より一層強張った顔つきを作り出している。

 その中でも最たるものは瞳だろう。鋭い鷹を思わせる双眸の中、瞳には絶望しか孕んでいないのではないか思うほどの黒く冷たい色が沈んでいる。
 ただその最奥、深い場所には消えない火が見え隠れしている。男の覚悟。決意を秘めた心を映し出す鏡面の如く。

 そんな瞳を微動だにさせないまま紡がれる呪。高く高く渦を逆巻くエーテルの奔流はやがて臨界点に到達する。男は突き出していた掌を固く握り締め、最後の一節を高らかに謳い上げた。

「────抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ……!」

 詠唱の完了と共に咲き乱れたエーテルは完全なまでに視界を白く染め上げ、これには切嗣も流石に直視してはいられなかった。
 一室を覆い尽くした白光はやがて消え去り、同時に解き放たれた魔力の嵐も収束する。

 なんとか半眼を開いたままだった切嗣の視界に徐々に光が戻ってくる。人工の明かりが僅かにだけ灯る室内は儀式を行う前と変わらないままに、ある一点、魔法陣の中央にだけ以前にはなかった存在を確かに感知した。

「────問おう」

 晴れた視界の先、魔法陣の中央には不遜に腕を組み切嗣を見据える人ならざる者の姿。開かれた口より零れた音に、切嗣は僅かに首を傾げそうになった。
 聞いたことがある気がした。その声を。声音ではなく、声質だとかそういうものでもないもっと根源的な部分……言うなれば在り方という曖昧なものが似ている気がした。

「さて────どちらが我がマスターかな?」

 ああ、この声を知っている。
 この声は、切嗣自身の声と似ているのだ。



 魔法陣の中央に現れた男の問いかけの最中、益体もない思考をしていた切嗣はすぐさま頭を切り替え、状況の観察に努めた。

 現れた男の風貌はおよそイメージしたものとは掛け離れていた。

 騎士の王を称するからには甲冑でも着込んでいるのかと思っていたら、真っ赤な外套を羽織っているのみ。その下に帷子のようなものは身に着けているようだが、騎士と言われて思い浮かぶような鎧ではない。

 他に見るべき点といえば、その特徴的な髪の色か。アーサー王がアルビノだったとは聞き及んでいないが、白……というよりは銀色がかった髪色をし、またアルビノとは思えない褐色の肌の色をしていた。

 いずれにせよ、外見はさしたる問題ではない。これで年端も行かぬ少女だったりすればまだ話は別だが、特に問題らしき問題は見当たらない。
 どちらかと言えば男の言に対する返答こそが急務だろう。この現状を見てどちらがマスターかと聞いたのは、男なりの冗句という事にしておきたい。

「僕が貴方のマスターだ。お会い出来て光栄だよ、アーサー王」

 特に礼らしい礼を取る態度は見せなかったが、切嗣は告げて一歩前に歩み出た。
 サーヴァントとは、人の形をした兵器だ。いかに名を馳せた英霊であっても兵器に敬意を払う者などいないし、ただその戦力をいかに運用し切るかだけを念頭に置いて行動すればいい。

 最低限のコミュニケーションは取る必要性はあるが、要らぬ干渉は不要。最初にすべきはマスターとサーヴァントの立ち位置を明確にしておくこと、そしてその戦力の正しい把握だけだ。

 切嗣の名乗りを受けてなお男は組んだ腕を解こうとはせず、じっとりと睨めつけるように凝視する。

「アー……サー……?」

 そしてその小さな呟きを耳聡く聞き取った切嗣が怪訝に思うのとほぼ同時に、男は口端を笑いの形に歪めた。

「……ふむ。確かに貴方から魔力の供給を感じ取れる。その腕にある令呪もまた我がマスターである証。
 いいだろう、貴方を私のマスターと認めよう。ではいきなりで悪いのだが。マスター、二つ残念な報せがある」

 切嗣がより懐疑を深くし、事の成り行きを見守っていたアイリスフィールもまた小首を傾げた後に告げられた言葉。

「私はアーサー王などではない。そして彼の騎士王の召喚を試みたのだとすれば、欲したクラスはセイバーと見受けるが、生憎と私はセイバーでもない。
 この身は弓兵────狙撃を得手とするアーチャーのサーヴァントだ」

 およそ誰もが騎士王の降臨を信じて疑わなかったからこそ、男の宣告は彼らの度肝を抜いた。
 望んだものとはまるで違う従者。真名もクラスも異なる英霊。けれどもう取り替えようなどないこのアーチャーこそが、衛宮切嗣と共に戦場を馳せるサーヴァントだった。


/Strategy


 召喚されたサーヴァント……アーチャーの述べた宣告は瞬く間に城中に伝播し、期待を胸に抱いていた狂信者にこの上ない落胆の影を落とした。
 それこそ本来ならば歓喜の渦に巻かれる筈だった城内は、一日を経た現在どうしようもなく暗い影に覆われていた。

 頭首であるユーブスタクハイトもまた、万全を期し臨んだ召喚の儀がよもやこのような結果を招くとは想像もしていなかったのか、部屋に閉じ篭り誰とも顔を合わせようとはしなかった。

 切嗣の脳裏には彼の翁の驚愕の顔が貼り付いて拭えない。自らが招き入れた外部の血である切嗣を前にしてもまるで揺らぎらしい揺らぎを見せなかった彼が見せた表情は、彼らが祈りの深遠さを物語って余りあった。

 さりとて、切嗣はさして驚きを見せた様子はなかった。いや、最初の瞬間こそは目を見開き思考が真っ白になったと告白するが、今なお悲嘆に暮れる翁達よりは前向きな考えをしているという自負はある。

 切嗣にとってサーヴァントは道具に過ぎない。感情を挟み込む余地はないし、所詮は駒の一つ。戦術を構成する上での核であれど、戦略までは覆せない。
 要は与えられた駒の内で戦い抜けばいいだけの話。あのアーチャーが現段階でアーサー王に劣るという証明はないし、仮にもし明らかに劣るとしても、当てが外れたのなら外れたなりに新しい戦略を組めばいい。

 武装の優劣が戦場で勝敗を決定付ける要因ではない。無論占めるウェイトは大きいが、運用次第で幾らでも化けてくれる。
 特に切嗣はそんな戦場を幾つも越えてきた。圧倒的に武力で勝る猛者相手にも、必ず付け入る隙はある。数少ない兵装を遣り繰りしての局地戦は、むしろ切嗣の独壇場とも言えるだろう。

 時間は有限であり、手駒は既に配置された。後は少ないながらに得られた敵戦力の情報を分析し、盤上の駒をいかに巧く使い勝利を手にするか……あのサーヴァントをいかに巧く使い切るかという事柄だけを考えていれば良かった。

 但し、切嗣のその思惑さえも裏切る現状こそが、彼が頭を悩ませる原因だったのだが。

「一体どうなっている。召喚に粗は見当たらなかったし、パスもちゃんと開いている。なのに、あのサーヴァント……アーチャーめ、よりにも拠って記憶がない……だと」

 城内の一室で戦場たる冬木の見取り図をテーブルの上に広げていた切嗣が苦渋も露に呟きを漏らした。
 正しく切嗣を迷走させる要因は、アーチャーの身に起こっている記憶障害。召喚の際に何らかの不備が働いたのか、単なる事故に拠るものかは判然としなかったが確かにあの男は口にしたのだ。

 ────己の名を思い出せない、と。

 契約の成就の後に取り交わされた彼らのやり取りには互いの名の交換も含まれる。特に目当てとしていたアーサー王ではないサーヴァントを引き当ててしまった切嗣にとってアーチャーの真名を知る事は必要不可欠なものだった。

 名を知ればその英雄の歴史的背景、いつの時代の人物か、どのような武具を用い戦い抜いたのか、如何なる死因によって生に決着を見たか等々、様々な情報を検索できる。
 特に現代は目覚しい電気機器の発達により前時代に比べれば容易に情報を得る事が可能になっている。民衆に浸透するには後数年必要だろうが、切嗣は既に最高峰の情報機器を仕入れ運用していた。

 だが、そもそもの名を思い出せないとあってはそんな現代情報戦の核も全く意味を成さない。敵を知るより以前に味方の情報すら得られないとあっては、前途多難どころの話ではなかった。

「聖剣の鞘を触媒にして召喚を行ったんだから、アーサー王に縁のある騎士であることは間違いないでしょう? その中で弓を主武装とした騎士を探し出せば彼の真名も分かるんじゃないかしら」

 同じ室内にいたアイリスフィールが呟いた。夫の苦々しい表情を見ていられなくなったのだろう。

「ありがとう、アイリ。その視点からの検索も試みては見たんだけどね。本人に一切の記憶がないのなら、それも然して意味を成さないんだ。
 たとえ近しい身体的特徴を持つ者を見つけたからといって、鵜呑みにするわけにはいかない。確たる情報もなく戦略を構築し、いざ実行の段になって違いましたじゃ話にならないだろう?
 だから僕が欲しいのは、絶対的な証明だ。あの男と歴史上の人物とを完全に一致させる情報。それがなければ、どんな精緻な近似であっても意味がない」

 妻の心配は有り難かったが、切嗣は苛立ちを隠せない己に辟易しながらも事実だけを述べた。小さく溜め息を零し、アイリスフィールに向けていた視線を虚空に向けて、魔術師殺しは怜悧に声を発した。

「で、どうなんだアーチャー。おまえには本当に記憶がないのか?」

 何もない空間が揺らめいて赤い外套が実体を帯びていく。召喚の時と同じく不遜な態度を崩さないサーヴァントは、主の懐疑的な問いにさらりと答えた。

「ああ、私には己の名どころかその宝具さえも思い出せない。こうして口にするのは憚られるが……原因は自分でも分からない。
 マスターの問いに答えられないのは心苦しくはあるが、ないものは吐き出しようがない」

 どこか咎の露見した子供のようにそっぽを向いて呟かれた言葉に、しかし切嗣はなお猜疑を強めていく。
 この男は何かをまだ隠しているのではないか、マスターにさえ話せない裏があるのではないか、あるいは記憶がないというのは真実なのか……

 右手の甲に刻まれた令呪が疼く。使うか、強制権を。絶対遵守の法で括られた令呪の命令にはサーヴァントである限り決して抗えない。
 洗い浚い全てを話せ。そう命令を下せば少なくともこの胸に蟠る苛立ちは払拭される。但し対価は恐ろしく高く付き、嘘を吐いていなかったのなら徒労に終わり、更に今後の戦略に漣を起こしかねない。

「…………」

 ……ダメだ。令呪は使えない。少なくとも今はまだ。

 聖杯戦争が他の闘争と異なる最大の要因はサーヴァントの存在だ。世に祀られた英雄、名を馳せて召し抱えられた風雲児達を幽玄の彼方より現世へと喚び戻して使役するという、およそ魔術師の範疇外の召喚行使。

 本来ならばただのヒトでしかない魔術師達にサーヴァントは従わない。自らよりも劣ると承知する者に心魂から仕えたいと望む者などそうはいないだろう。
 しかしそんな不条理を確約する証が令呪。聖杯戦争参戦の必須条件にしてマスター達の誰しもが有する強制権。三度しか行えない、絶対遵守の戒めなのだ。

 この束縛がある限り、サーヴァントはマスターに反旗を翻せない。サーヴァントが世に招かれるのもまたそれぞれが聖杯という奇跡に託す祈りを持つが故であり、成就の為には易々と召喚者を切る事など出来はしない。

 要はマスター側に有利な条件で強制的に組まれた同盟関係が主従の在り方であり、従者側にも望むものがあるからこそ対価として己の武勇の全てを賭けてマスターを守護し聖杯の頂へと駆け上る。
 利害の一致と言ってしまえばそれまでだが、マスターとサーヴァントの関係を端的に表す上でこれ以上の言葉も他にないだろう。

 しかし、切嗣にとってはその関係さえも危ういものと化している。サーヴァント側から差し出される筈の戦闘能力が、致命的なまでに欠落している。
 せめて宝具の能力だけでも分かれば幾らかの案を立て易くもなるのだが、如何せん思い出せないと言われてしまっては八方塞もいいところだった。

 ならば現状、切嗣が組める戦略は待ちの一手。何を拍子として戻るか分からない記憶であるのなら、戻るその時までを安寧に身を埋めて待てばいい。他の六名が凄惨な殺し合いに興じる傍らで、膝を抱えて震え続けるのが上策だ。

「……そんなこと、出来るか」

 そう、出来ない。蠱毒の中で互いの尾を噛み合うバトルロイヤルの形式を取るのは、確たる理由があるからだ。
 聖杯の選別。聖杯の所有者を決定付ける闘争であるのなら、たとえ最後の決戦の時まで身を隠し続けたとしても聖杯は恐らくそんな臆病風に吹かれた輩を己の所有者とは認めないだろう。

 確実に聖杯を掴み取る為には証明しなければならない。我こそが聖杯を担うに相応しき者であると。ただ我一人こそが奇跡の縁に侍る者であると。そしてその証左となるものが闘争による覇者足らんとする強き心であろう。

 そんな表向きの建前を並べてみても、切嗣にとってやるべきことは変わらない。

 これまでの生き方は最早変えることなど出来はしない。敵と認めた者達は速やかに自らの手で間引き、容赦の欠片もなく亡骸を打ち捨て次なる獲物を狩りに行く。
 誰かがやるから己は手を汚さない……そんな自らの奉ずる信念の対極にある行動など、甚だ思慮の外にあるものだった。

 これより行われる闘争は世界にとって最後の流血。優しい世界を前に掌を汚すのは衛宮切嗣唯一人でいい。
 無論、使える“道具”は余さず使うつもりではあるのだが。

 しかし、待つ事も戦略上必要不可欠な要因である事は認めるところだ。ただ、待てば回復するかもしれないという程度でアーチャーの為に穴熊を決め込むのもまた早計。
 ならばいっそのこと本当に記憶がないのか、戦闘方法を覚えていないのか、鎌をかけてみるのも悪くはない……

「何を思い悩む必要がある」

 切嗣が思索の渦に囚われている間にアーチャーが切嗣の広げた見取り図に視線を落としながら厳かに呟いた。
 原因である者が何を言うかと吐き捨てたかった切嗣であったが、なんとか堪えて続きを待った。

「見たところ、マスターの戦略とは正面切っての闘争に比重を置いたものではないと見受けるが、如何に」

 テーブル上の見取り図にはペンで書き込まれた点と円が幾つも描かれている。
 それらは既に現地に飛んでいる舞弥からの情報と切嗣が見取り図より把握した情報を照らし合わせて集計した、戦場になると思われる場所とその地点を狙い撃てる狙撃ポイントの走り書きであった。

 ついと滑らせた程度で書き込まれたものが何であるかを理解したアーチャーは、切嗣の返答を静かに待った。

「ああ、そうだ。僕が得意とするのは暗殺だ。血生臭い闘争を是とする愚者達が覇を競い合う戦場の片隅から、一撃でその命を奪い取る戦術こそが僕……魔術師殺しなどと謳う者もいるが、衛宮切嗣の戦闘術だ」

 最小の労力で、最大の効果を上げる戦闘術。被害は最小限に抑え最大規模の救済を形と成す。それが衛宮切嗣の体現する戦闘技術だ。
 殺された者は撃たれる瞬間まで己が狙われているのだと気付けず朽ち果て、気付いた時には全てが遅すぎる。

 その腕前を買われ、切嗣はアインツベルンに招かれた。
 バトルロイヤルという形式は決して切嗣に良い方向に作用するものではなかったが、やり方次第で幾らでも対処は出来る。
 やはり問題があるとすれば、アーチャーの能力面での不安要素なのだが。

「ならばそれで組めばいい。私も弓兵というクラス上、そういう戦い方は心得ている。むしろマスターより遠距離からサーヴァントの心臓を射抜くことさえ可能だろう。
 要は標的が違うだけ。マスターは敵魔術師の心臓を射抜き、私は敵サーヴァントの心臓を射抜く。一撃必殺を是とする戦法は、中々にスマートだ」

 笑みさえも浮かべて饒舌に語られたアーチャーの言には、さしもの切嗣であっても虚を衝かれた。そしてすぐさま剣呑足る表情を湛え、感情の起伏なく宣告した。

「いいだろう。おまえの戦力はまだ未確認だが、出来るというのならやって見せろ。口にした以上は必ず形にして貰うぞ」

「無論だ。マスターの意にそぐわない結果しか残せなかったのならば、その手にある令呪で如何なる強権を発せられたところで甘んじて受け入れよう。
 但し、これだけは言わせて貰う。私はマスターが召喚したサーヴァントだ。これが最強ではない筈がない。アーサー王を所望だったようだが、必ずや後悔させて見せよう。私で良かった、とな」

 憚る事無く言ってのけられた大言に成り行きを見守る他なかったアイリスフィールが笑いを零した。
 彼女の印象ではアーチャーはもっと大人びた性格だったのだが、どうやら違うらしい。子供のように目を輝かせて夢想を謳うこの男に、今は少し微笑ましささえ感じてしまう。

 もし自分達の間に男子がもうけられていたのなら、きっとこんな光景は日常茶飯事だったのかもしれない。
 そう思うと余計に笑いが込み上げ、可憐な音が室内で木霊し続けた。

「む……何かな、アイリスフィール。何か私に失言でもあっただろうか」

「ううん、ごめんなさい。私、ちょっと貴方のこと誤解してたみたい。今の貴方なら、私好きになれそうよ」

 そんな事を言われたところで釈然としないアーチャーは口をへの字に曲げて押し黙る。アイリスフィールは遂に涙まで浮かべて笑い出した。

「……ともかく」

 何故か一転、和やかなムードに成り掛けた室内に切嗣は押し殺した声音でそう告げて、まだ笑いが収まらない様子のアイリスフィールには一瞥もくれずにアーチャーだけを睨めつけた。

「おまえの大言はこの際どうでもいい。だが聞き逃せない言葉があったのも事実だ。そこまでの言葉を吐けると言うことは、何らかの記憶を思い出した筈だろう。
 吐いて貰うぞ。少なくとも狙撃に関する面での情報は、一切の嘘を許さない」

 鎌をかけるまでもなく吐露された言葉に、有無を言わせない強い音と響きを伴わせて切嗣は返答した。これで多少なりとも有益な情報を引き出せればいいが。
 ……何れにせよまだこのサーヴァントは隠しているものがある、と表情に出さず切嗣は胸の奥に仕舞い込んだ。

「承知した。私も見縊られたままでは釈然としないものがある。基本的に戦略面での口出しは避けようと思っていたのだが、考えを改めよう。
 必要とあらばマスターの命にさえ否と応えさせてもらう」

「構わない。僕は僕の判断で最善とする行動を取り続けるだけだ。仮にもしおまえの判断の方が正しいと感じたのなら、僕は甘んじてその泥を啜る覚悟があるのだから」

 そうして二人はどこか噛み合わないままの歯車をそのままに、迫る開幕の時に向けて粛々と準備を進めていく。
 魔術師殺しのマスターと、得体の知れないサーヴァント。二人の闘争は間もなく開かれようとしていた。


/Tea Time


 切嗣とアーチャーの作戦協議とは名ばかりの互いの腹の探り合いから数日。狂った予定の調整に奔走していた切嗣の作戦行動の目処が立ったこともあり、明日にはこの常冬の城を発ち、戦場である冬木市へと入る手筈になっている。

 冬木へと向かうメンバーは三人。マスターである衛宮切嗣、サーヴァントであるアーチャー、そして聖杯の守り手であるアイリスフィールの三人であり、切嗣とアイリスフィールの子であるイリヤスフィールはこの城で二人の帰りを待つ事になっていた。

 理由については至極単純、これより冬木は血で血を洗う戦場となる。経済成長の只中にあり、活気付き始めた新興都市の裏側で、魔術師達による凄惨な殺し合いが行われようとしている。

 そんな中へ愛娘であるイリヤスフィールは連れては行けない。ただでさえ彼らは己の事で手一杯なのだ。更にアーチャーという不安要素を抱える切嗣にとって、これ以上守るべき対象を増やすわけにはいかなかった。

 明日にはこの地を発ち、帰ってこられるとすれば一週間から二週間の後。最後の別れを惜しむように、今父と子は二人を祝福するように泣き止んだ森の中で戯れている。そして、そんな二人を城の一室から見下ろす一人の男の姿があった……

「アーチャー」

 実体を得て、窓辺から切嗣とイリヤスフィールの仲睦まじい姿を見下ろしていたアーチャーの背に掛かる澄んだ声。透き通る水面にさえ映える、美しい声音の持ち主はアイリスフィールだった。

「何か御用かな」

「ううん。特に用はないけれど。出来れば少し話でもしたいなって」

 そう言われてはアーチャーに是非もない。室内へ入ってくるように促し、テーブルへと招いた。完璧なエスコートで椅子を引いて席へと促す。部屋に用意してあった紅茶の準備をそそと始めるアーチャーを見やり、アイリスフィールは目を丸くしていた。

「貴方、サーヴァントよね?」

「無論、そうだが」

「だって、こんなにエスコートの巧いサーヴァントって聞いたことなかったから。それにわざわざお茶の準備までしてくれるなんて」

 アイリスフィールには初代ユスティーツァの流れを汲む、歴代のアインツベルン製のホムンクルス達の知識が蓄えられている。聖杯の守り手である彼女は一にして全であり、全であるが故の一でもある。

 少なくとも、彼女の知識の中にこんなサーヴァントは存在しなかった。彼らは戦う為に喚び出され、祈りを叶える為だけに行動する。
 中には調和の取れない者や完璧な礼を取る騎士もいたが、給仕を行うサーヴァントなど聞いたことがない。これでは本当の意味でのサーヴァント……召使いである。

「さて。こればかりは私にも良く理解が出来ないのだが、貴婦人と見れば何故か給仕を迫られるようでね。
 記憶にはないのだが、恐らく生前このような雑事を押し付けられるような生活をしていたのだろう。我ながら遺憾ではあるのだが」

 アーチャーは紅茶の準備に勤しむ傍らでそんな事をのたまった。それも盛大な溜め息をつきながら。
 詰まるところ、これは記憶に左右されない本能に沁み付いた行動という事だろう。言うなれば条件反射。あるいは強迫観念か。彼が生前どのような目に遭って来たかは定かではないが、よほど良い師に躾けられたと見える。

「ふふ。やっぱり貴方って変よね」

「そうかな。自分では分からないのだが。しかし、これはこれで悪くはない。君のような姫君に紅茶を淹れられるとあっては、執事冥利に尽きるというものだ。
 ──さて、ではご賞味あれ。ストレートのままで良かったかな? 必要ならばミルクを入れてくれ」

 差し出された紅茶にアイリスフィールは礼を言い、ティーカップを手に取った。アインツベルンが仕入れた茶葉であるのだからそれだけ格式高く良質なものを使用している自負はあったが、これには流石のアイリスフィールも驚いた。

 完璧。そう称するしかないしかない淹れ方だ。カップの温度、湯の温度、茶葉の薫りを決して損なわせない的確なタイミングで注がれた紅茶は立ち昇る湯気にさえ無意識に鼻腔を擽られる。

 血よりもなお濃い赤色をした液体に口を付ければ、その瞬間に広がる芳醇な甘みと薫りは筆舌に尽くし難い。アインツベルンにも給仕担当は居るにはいるが、何処か機械的で全てに置いて最適化された手順を踏んで淹れるだけだ。

 無論、それはそれで最高級の味わいを保証するものであるが、アーチャーの淹れた紅茶には人の温かみがある。飲む相手の事を考えて淹れられたこの紅茶には、感嘆の息を漏らすほかなかった。

「美味しい……すごく美味しいわ、アーチャー。こんなにも美味しい紅茶を飲んだのは初めてかもしれない」

「お褒めに預かり光栄だ」

 言ってアーチャーは自分も紅茶に口を付けた。その様は冷静を装っているが、アイリスフィールから見れば褒められて悪い気はしない、むしろ喜んでいるようにさえ見えた。

 この男には、あの作戦協議以来よくこんな表情を目にするようになった。その以前までは巌の如き硬質さを顔面に貼り付かせ、正しくサーヴァント足らんとしているように見えていたが、あれはどうやら仮面であったらしい。

 アーチャーの本性はきっとこちら。本人は完璧に被っているつもりの仮面の隙間から稀に窺える子供じみた表情。言動の端々からアイリスフィールはそんなイメージを感じ取り、微笑ましい気持ちになっていた。

「む……アイリスフィール。余り人の顔を見て笑うのは良くない。相手の気分を害する事になりかねん」

「ふふ、ごめんなさい。でも決してそんなつもりじゃないの。
 ただ微笑ましくて。貴方、実は結構無理してるでしょ? 今みたいな自然な表情の方が似合っているわ」

「そんな事はない。いつの私も私には変わりはないし、君の言う微笑ましい私など慮外だ」

「そう? 自分では中々分からないものなのかもね。でも、こうして良く観察してると分かるの。どんな時に表情が柔らかくなるとか、頬が緩む瞬間とか」

「……アイリスフィール。君は私を一体何だと思っている」

 目頭を押さえてアーチャーは苦笑するしかない。アーチャーはサーヴァントだ。今こそこうして給仕を行い茶会に同席してはいるが、それはアーチャー自身の為の行動ではなくアイリスフィールを思っての行動だ。

 サーヴァントの本分は戦闘行為。未だ開かれぬ戦端が切られた瞬間、手にするものはティーカップでも姫の掌でもなく、対する敵を両断する剣である。
 アーチャーもまたサーヴァントである以上、その領分からは外れず、記憶さえ戻れば己が聖杯の招きに応じた志を取り戻し、切嗣と共に他のマスターを退けて聖杯の頂に駆け上がる腹積もりである。

 そんな彼を見て微笑ましいと言うアイリスフィールの言質は侮辱にも相当する行いだ。戦士が頬を緩めるのは勝ち鬨を挙げた時か強敵に巡り合った瞬間のみ。
 頼みもしない給仕を行ったアーチャーにも非はあるが、今この状況で微笑みを漏らしたなどとのたまう行為は、戦士に対する不敬である。

「ごめんなさい、アーチャー。気を悪くしたのなら謝るわ」

「……いや、私の方こそ熱くなりすぎた。すまない」

 二人が互いに謝罪の旨を述べたところでこの話は終わりとなる……とアーチャーは踏んでいたのだが、アイリスフィールにはまだ思うところがあったのか、ぽつりぽつりと語りだした。

「貴方が微笑んでいるように見えたのは……きっと貴方と切嗣が似ていると思ったから。
 あの人は戦いたくて戦っているわけじゃない。あの人には誰にも負けない夢がある。尊い祈りがある。
 その成就の為に必死で自分を押し殺して、機械のように振舞ってる。今でこそあんな人だけど、初めて会った時は少し……怖かったわ」

 切嗣には内緒よ、と悪戯をした子供のように舌を覗かせたアイリスフィールは、まだ温かいティーカップを掌で包み込みながら話を続けた。

「貴方に感じたのはその頃の切嗣と同じもの。何かに一生懸命になって、他を疎かにしているような感じ。遠くにばかり目が行き過ぎて、足元が見えていないの。
 いつ転ぶか分からない足元をそのままに、前に進むことにだけ全力を傾けてる。そんな姿を見てるとね、支えてあげたくなるの」

「…………」

「きっと彼の手伝いなんか出来ないし、むしろ邪魔をしてしまうかもしれない。でも何かの力になりたい。だから、一緒に歩いて支えてあげる事に決めた。
 前を見てる彼を傍らから支えながら、足元を代わりに見てあげる。危ないぞって注意しながら、でも頑張れって応援するんだって」

 少し頬を紅潮させたアイリスフィールの話に静かに耳を傾けていたアーチャーが口を割り込んだ。

「……話が見えないのだが、君と切嗣の馴れ初めと私の表情に一体どんな関係が?」

「あっ! え、ええと、ごめんなさいね、ちょっと脱線してたみたい。
 と、ともかく、私が言いたかったのはその頃の切嗣の危うさが貴方にはあるような気がするの。何か無理してるでしょ?」

 ずいっと身を乗り出してアーチャーの瞳を覗き込んでくるアイリスフィール。堪らず身体を仰け反らせたアーチャーだが、アイリスフィールは更に深く身体を乗り出してくる。
 どうしたものかと思案していたアーチャーだったが、アイリスフィールの瞳を見て観念した。言わなければ引き下がるまい。これが母の強さかと独りごちて。

「……君には隠し事は出来んな」

 やれやれといった仕草で肩を竦めるアーチャー。肩筋張っていたものを撫で下ろし、表情が少し柔らかくなった気がした。

「ならば一つ聞かせて欲しい。君は……いや、君達は彼の騎士の王であるアーサー王を所望していたのだろう。それがこんな得体の知れない男が出て来たかと思えば、更に記憶がないなどとのたまわれて、実際のところどう思っている」

 アイリスフィールはともかくとして、切嗣は心中穏やかではないだろう。当初予定していたプランは全て崩れ去り、新たに組み直す事を余儀なくされ、しかし記憶がないと言われ戦力の把握すらままならない現状なれば、憤慨を覚えても仕方がないと言える。

「マスター……切嗣はどうしても勝利が欲しいのだろう。それだけ聖杯に託す業が深いと言えるが、私も私なりに恥じている。この身はサーヴァント。マスターの為に尽力する存在でありながら、何一つままならない自分自身の不甲斐無さにね」

 アイリスフィールはそこではたと気が付いた。最も苦悩しているのはこの男だと。彼にも彼なりの聖杯に託す祈りがあるからこそ招きに応じた身であるのだ。
 それが、自分自身でも把握できない記憶喪失の目に遭い、切嗣からは殺気すら篭められた視線をぶつけられたとあっては、居た堪れないのも無理からぬ話だ。

 口を付けていたカップを戻し、アイリスフィールは僅かに目線を下げて訥々と語りだす。

「あの人はね……ただ一生懸命なの。自分自身だけじゃなく、もっと多くの人を救えるように身を粉にして頑張ってる。
 分かってあげてとは言わないわ。けど、協力して上げて欲しい。貴方が何を目指して切嗣の召喚に応じたのかはまだ聞いていないけれど、あの人の祈りは、きっと澄んだものである筈だから」

 アイリスフィールは夫を愛している。そして彼が夢見る悲願を共有し、尊い祈りを叶えて欲しいと切望している。
 たとえその果てが二人を別つと分かっていても。より多くのものを救えるのならば、それで構わないと……

「アイリスフィール。君の願いは承諾できない」

 しかし、返されたものは否の言葉だった。

「……どうして?」

「ああ、いや。そんな顔をしないでくれ。恐らく君が想像したような意味ではない。
 今の私は記憶が曖昧だ。思い出した部分もあるが、まだ思い出せないものの方が多いだろう。そんな不安要素を抱えたまま、君の純粋な想いに軽んじた肯定は返せない。それが故の否定だと思って貰いたい。
 しかし────ベストは尽くそう。君の切嗣を想う言葉に報いる為にも」

 真摯な眼差しに見つめられ、アイリスフィールは笑みを零す。

「ありがとう、アーチャー。貴方は自分で良かったのかと危惧していたけれど、少なくとも私は貴方で良かったと思ってる。
 だからお願い。二人で力を合わせて、聖杯を手に入れて」

「無論だ。この身はその為だけに存在するのだから」



 茶会を終え、アーチャーは一旦席を離れて再度窓辺へと向かう。先ほどまでは見えていた切嗣とイリヤスフィールの姿は今はない。この城へともう戻ったのか、あるいは更に森の奥へと進んだか。
 何れにせよ彼の視界にあるものは一面の銀世界と晴れ渡った空だけだ。

「時にアイリスフィール。一つ確認しておきたいことがあるのだが」

「何かしら」

 アーチャーの淹れた二杯目の紅茶を味わいながら舌鼓を打っていたアイリスフィールは小首を傾げてそう訊いた。

「我がマスターの名は衛宮切嗣。そして君と切嗣の子の名はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン……この二つに相違はないか?」

「ええ。私の夫は衛宮切嗣。一応婿養子という形だけど、籍は入れていないから姓はそのままよ。そして私と夫の子はイリヤ……イリヤスフィールだけど……それが何か?」

「いや、合っているのなら構わない。ただ確認しておきたかっただけだ」

 アイリスフィールは少し不審に思いながらも、何処か思い詰めた表情をしたアーチャーの顔からそれ以上の情報を引き出せなかった。きっと聞いたところで答えてはくれない。答えられないだろう。何故かそんな予感がした。

 アーチャーは視線を外へと向けたまま、眉間に強く皺を寄せて噛み締める。

「切嗣……イリヤ……」

 二人の名前を。忘却の彼方に置き去りにした記憶の糸を手繰るように。いつか何処かでその名前を聞いたことがあった気がして。

 そして──決して忘れてはならないものではなかったかと……己に自問自答した。

「お母様!」

 その時、一際大きな音を立てて開かれた扉から飛び込んできたのは一人の幼子。先ほどまで切嗣と戯れていた筈のイリヤスフィールが、外着のまま室内に入ってきた。

「イリヤ。どうしたの、いきなり。そんなに慌ててはダメよ」

「ねえ聞いてお母様。キリツグったら酷いんだよ。わたしの知らないクルミの芽を数えて誤魔化してたんだよ! 最低よね、ああいうの、甲斐性なしって言うのかしら」

 一体娘は何処でそんな言葉を覚えたのかと思わずにはいられなかったアイリスフィールは頭を抱えて苦笑を漏らす。
 切嗣の大人気ない行為が発端と言ってしまえばそれまでだが、二人の間に水を注すほど野暮でもない。さて、どう言い包めたものかと思案していると、イリヤスフィールは室内に居たもう一人の人物に気が付いたらしく、とことこと窓辺に駆けて行った。

「…………」

 大きく真っ赤なルビーの瞳に見上げられ、アーチャーは得も言われぬ顔つきで少女を見下ろしていたが、赤い外套の裾をぎゅっと握られて困惑の表情をより強めた。

「貴方が、アーチャー?」

「ああ、そうだが」

 こんな幼子にまで聖杯戦争の内情を知らせているとは、この血脈の人間は何処か狂っている。そう思わずにはいられなかったアーチャーに次いで投げかけられた言葉は、思いもがけぬものだった。

「キリツグとお母様を守ってあげてください。お願いします」

「────」

 ぺこりと頭を下げた少女を見やり、アーチャーは瞠目した。この少女は全てを理解している。これから父と母が赴く場所は戦地であり、アーチャーこそが二人を守り抜ける要である事を。
 こうして面と向かってイリヤスフィールと対面したのはこの時が初めてであったが、アーチャーはこの賢い幼子の為に膝を折って視線を同じくする。

 顔を上げたイリヤの目の前には少し強張った顔。鷹の双眸に強い意志を宿す瞳に見据えられ、少女は少し身を引きそうになって、

「……ああ、任せてくれ。君の父上と母上は私が守ろう。必ず守り抜くと、君の為に約束しよう」

 優しく添えられた掌。無骨で、大きな掌がイリヤスフィールの頭を撫でる。そしてさっきまでの表情は消え去り、柔らかな笑みがあった。この人は怖い人じゃない、優しい人なんだとイリヤスフィールは理解した。

「えへへ」

 微笑み返すイリヤスフィール。そしてそんな二人を見ていたアイリスフィールもまた、温かな気持ちを胸に抱きながら、迫る出立の時へと思いを馳せた。


/Arrival


 切嗣が当初予定していたプランでは切嗣とアイリスフィールは別ルートから冬木に入る予定だった。
 騎士王の伝説と調達された聖剣の鞘の能力から、アイリスフィールをセイバーの仮のマスターに据え、切嗣は己が存在を秘匿し、戦場の華となった彼女らの陰から敵を討ち取っていく心積もりであったのだが、予定は根底から覆された。

 戦略の再構築に手間取り、当初アイリスフィールとは別のルートから一足早く冬木に入るつもりだった切嗣は奔走を強いられた結果、時期を逸し彼女が搭乗する予定だった飛行機に同乗し、冬木へと旅立った。

 窓側の席に落ち着いたアイリスフィールが物珍しそうに雲海を眺めている。地上から見れば空を閉ざす雲も、遥か上空を航空する飛行機から見れば地上を閉ざす蓋でしかない。
 これより上には青く澄み切った空と輝く太陽が頂くだけで、他のものは何一つとして存在しない世界。

 知識としては知っていても、実際に目にするのとでは理解の深さも驚きも違う。今まであの雪に閉ざされた檻から決して踏み出る事の出来なかったアイリスフィールにとっては、全てが目新しく映っているのだろう。

「どうだい、アイリ。初めて見る外の世界は」

「……ええ、とても綺麗ね。貴方が持ってきてくれた写真の中にもこんな風景があったけれど、やっぱり自分の目で見るのとでは迫力が違うわ」

「ああ、世界はかくも美しい。同じように美しい景色は至るところにある。見る人が見ればあの極寒の森もさぞ風光明媚な景観に映るだろう。
 アイリにはもっと、色んな美しいものを見せてあげたかったが……」

 己達がこれより向かう地で巻き起こる騒乱の渦を思い、切嗣は苦虫を噛み潰す。

 承知した筈だ。多くを救う為ならば、少数の犠牲は仕方がないと諦観した。それこそ全人類を救うという奇跡に拠れば、これから流れる血は余りに過少である。
 だというのに、未だに大切なものを失う事を恐れている自分が恨めしい。十年前に置き去りにした冷酷さが、今ほど欲しいと思った事がなかった。

 そんな切嗣の手は震えていた。哀しみと苦しみに。そして──震える手を暖かく包み込む掌がある。

「大丈夫……貴方は強い人。だから、見失わないで。何が守るべきものかを。何が救うべきものかを。
 私はこの景色を貴方と一緒に見られただけで満足よ。だから、他の色んな風景はあの子に見せてあげて。私達の帰りを待っているあの子に、貴方が守ったものを見せてあげて。春の櫻を、夏の空を、秋の紅葉を、冬の雪は……もう見飽きたかしらね」

 くすくすと微笑みを零すアイリスフィールの言葉に切嗣は救われた気がした。手を包む掌を握り返し、優しく微笑んで見せた。

「ありがとう、アイリ。必ず、イリヤには見せると約束しよう。僕が生まれ育った地の四季という美しきものを──」



 最寄の空港へと降り立った切嗣達を取り巻くのは好奇の視線だ。素材として華があるアイリスフィールが冬の城で着ていたドレスではなく、出来る限り市井に紛れ込めるように調達した衣服の類は、それでも注目を集めて余りある。

 注目を浴びる事は切嗣の本意ではなかったが、こればかりは仕方がない。流石に妻である者に更に格を落とした──それこそみすぼらしいと呼んで相違ない──衣服を着せるわけにもいかないし、恐らくそこまでしてもアイリスフィールは注目を集めてしまう。

 この国は多民族国家ではなく人口の大半を占める住民は日本人だ。どれだけ誤魔化そうとも異国の風貌を持つアイリスフィールの容姿は隠し通せるものではなく、どうしても隠し通そうというのならそれこそ“荷物”として運び込むしか方法が思い浮かばなかった。

「ねえ切嗣。私の格好っておかしい? なんだか皆が見ているような気がするんだけど」

「いや、おかしくないよ。彼らが見てるのは僕だろう。こんなにも使い古したコートを着ている奴なんてそうそういないからね」

 向けられる無数の視線に疑問を抱くアイリスフィールを何処か間違った解釈で誤魔化して予備知識のない彼女も納得しながら滝を割るが如く空港を後にした。

 到着時間の調節の結果、彼らが空港の外へと出ると出迎えたのは晴れ渡る空。日もまだ高い時間に切嗣が現地入りを望んだのは、偏に自分達の入国の露見と敵対者の追跡の可能性を断つ為だ。

 まだ闘争の場である冬木市からは程遠いとはいえ、誰が何処からこちらを窺っているか分からない。出来る限り人出の多い時間を選択し、出来る限り姿を隠蔽した状態で素早く目的地へと辿り着く。

 その為の手筈は既に打ってあった。

 空港から出た直後、ワンボックスカーが一台彼らの目の前に滑り込んでくる。何処にでもある白塗りのワンボックスカーは積荷は空で、運転席に切れ長の目をした女性が一人乗っているだけであった。
 助手席のウィンドウが開き、切嗣と女性が目配せをする。

「お待たせしました、乗ってください」

「ああ。アイリ、先に乗ってくれ。僕は荷物を積み込むから」

 所要時間にして一分弱。彼らは空港の前から風の速さで消え去った。



 温暖な気候に恵まれた冬木は一年を通して過ごしやすい土地だ。海に面し山に囲まれた立地でありながら、気候も相まって一都市としては破格の急成長を遂げている。

 特に古くから残る深山町の対岸、冬木大橋を挟んだ向こう側は現在進行形で大規模な開発事業が組まれており、そこかしこに建設途中のビルディングが目に止まる。
 流石に駅前は既に整地され多くの賑わいを見せているが、少し奥まったオフィス街はまだまだコンクリート仕掛けの摩天楼が互いに鎬を削りながら背を伸ばしている。

 ワンボックスカーに乗り込んだ切嗣達は空港から新都へと入り、そんな街並みをすり抜けながら目的の場所を目指し車を走らせる。

「……随分以前とは様相が違うな。後で実際に歩いて調べてみなければいけないか」

 助手席に座った切嗣が天を目指して伸びる灰色の塔を見上げながら呟く。
 事前に舞弥に用立てた見取り図は最新のものであるから問題はないとしても、平面上のデータと立体の街並みには相応の違いがある。特に切嗣のように身を潜め敵の背後を衝く戦闘術を主とする者にとって、地形の把握は最優先事項だ。

「私が実際に確認した主だった狙撃ポイントについての委細は手元にありますが、今ご覧になりますか?」

「いや、いい。それは後で見せて貰う」

 ハンドルを握る女性──久宇舞弥の問いかけにも切嗣は冷淡に答えるのみ。

 この街に入った瞬間から戦端はいつ切られてもおかしくはない。いや、血気盛んな輩ならば今なお何処かで敵影を捜し求めているかもしれない。
 だからこそ無駄な会話は必要ない。これより必要なものは戦略に関する用件のみ。この日の高い時間帯ならばそこまで警戒する程でもないかもしれないが、最初こそが肝心なのだから。

「それよりも舞弥。ここ数日、他のマスター連中に動きはあったか?」

 今現在拠点の判明しているマスターはこの地に根付く遠坂とマキリのみ。外来である他のマスター達は各々独自の工房を敷設し身を潜めているだろう。
 言峰綺礼についても教会が彼の父が監督する中立地帯である以上、別の拠点を設け時を待っている筈だ。

 聖杯戦争の緒戦は互いに腹の探り合いだ。こちらの手札を切らずに、いかにして相手の手札を暴くか。マスターの力量、サーヴァントの能力、必ずある拠点。暴き出すものは幾らでもある。

「いえ。遠坂、間桐両家に使い魔を放ち監視をしていましたが、一切の動きはありませんでした」

「そうか」

 切嗣達の入国より大分早い段階で冬木に潜入させておいた舞弥は切嗣仕込みの魔術を習得し、特に低級の使い魔の扱いについては目を見張るものがある。
 斥候として切嗣の指示を受けながら実際の行動に移したのはほとんどが彼女だ。文句の一つもなく、切嗣の急な作戦転換に素早く対応し、彼の来日に間に合うように全ての下準備を済ませていた。

「なら後は拠点に向かうだけか」

 参加者らには具体的な開戦の時期は把握できない。七人七騎の駒が出揃う瞬間を確認できるのは監督役である者のみだ。
 つまり事実上の戦端が切られた瞬間こそが参加者達にとって開戦の合図となり、緒戦が起こる時までは誰もが派手な動きを見せはしまい。

 実戦としての緒戦はどうしようと注目を集める。そんな中で己がサーヴァントの能力を披露するという事は他の参加者全てに筒抜けになる可能性を孕むという事。

 そんな愚かな真似をする者がいるとすれば、余程自信のあるカードを引き当てた強者か何も考えていない愚者のどちらか。
 切嗣にしてもセイバーを引き当てていたのなら存分に戦い注目の的になって貰う腹積もりであったのだが、如何せん当ては外れたのだ。

 故に静観が第一手。騎士と名乗る者達が戦場で華々しく戦うその裏で、切嗣達は情報の収集とチャンスを待つ。

『切嗣』

 黙考に耽る切嗣の脳に直接響く声音。霊体化し常に切嗣の傍らに存在していたアーチャーが長い旅路を終えてようやく口を開いた。

「なんだ」

『私は一足早く戦場の把握に努めたいと思うのだが』

「ああ、構わない。だが、一切の戦闘行為は厳禁だ。尾行にも細心の注意を払え。特にアサシンは気配遮断の特殊能力を持っているからな、気が付かないうちに跟けられていた……では話にならない」

『了解している。霊体化していれば相手に感知はされても知覚はされまい。それに我がクラスはアーチャー。索敵は、むしろこちらの領分だ』

 話し終えると同時に気配が遠ざかっていく。アーチャーは切嗣の傍を離れ霊体のまま冬木の地へと降り立ったようだ。

「いいのですか切嗣。サーヴァントを野放しにして」

「そこまで愚かではないさ。監視は付けさせて貰う」

 薄汚れたコートのポケットから取り出した極小の使い魔に魔力を篭めると、切嗣はそのまま窓の外へと放り投げた。
 霊体化したサーヴァントの速度に低級の使い魔では追いつく事など不可能だが、切嗣とアーチャーはレイラインで互いの存在を感知出来る。ある程度までなら後を追える。

 切嗣は未だアーチャーを完全に信用していない。信用という観点から見る限り、舞弥の方が余程深い信頼を託されていると言っても過言ではない。

「しかし、これはこれで都合が良い。あの隠れ家を使用するに当たっては、サーヴァントの気配など無用の長物だからね。
 さて……そろそろ冬木大橋か。この橋を超えれば深山町だ」

 冬木市を二分する未遠川に架かる冬木大橋を越えれば周囲の風景は一変する。建設中の塔が乱立する新都とは違い、古くからその様相を変えない深山の町並みは古き良き日本の住宅街だ。

 平屋か二階建ての建物が主立って軒を連ね、時代に取り残された趣深い家屋が大半を占める。純和風造りの邸宅と洋風建築が綺麗に分かれて同じ町内にあるというのも、この町の特徴の一つと言えるのかも知れない。

 橋を渡り切り程なく車を走らせた先で舞弥はブレーキをかけた。立派な門構えの武家屋敷の前でワンボックスカーは停止した。

「さあ到着だ。アイリ、降りてくれ」

 後部座席にて流れゆく景色にずっと見惚れていたアイリスフィールを切嗣の声が現実に引き戻す。
 降り立った場所は閑静な住宅街の一角であり、右を見ても左を見ても似たような家屋が軒を並べているだけであって、アイリスフィールが予想していた拠点とはまるで違う場所だった。

「切嗣。ここが拠点なの? 確かこの街を外れた森の中にアインツベルンが用意した城があった筈だけど」

「ああ、知ってるよ。けど元から向こうを使うつもりはなかったんだ。所在の知れている拠点は扱いが難しい。
 結界を敷き敵を迎え撃つならまだしも、僕らがこれから行う戦いは迎撃戦じゃなく殲滅戦だ。背中の心配は出来る限り排除しておきたい」

 その為の新しい拠点。しかもこの場所は遠坂や間桐の目と鼻の先だ。わざわざ郊外の森を買い取り私有地として拠点たる古城を丸ごと持ってきたアインツベルンがこんな場所に拠点を構えるとは誰も思えまい。灯台下暗しを狙ったものであろう。

 荷を降ろした切嗣と舞弥の後に続いて、アイリスフィールも固く閉ざされた門を潜り抜ける。横に視線を滑らせればそれなりに手の行き届いた庭が目に留まった。
 アインツベルンの邸宅と比べれば明らかに格を落とす敷地面積だが、これはこれで趣深いものがある屋敷だった。

「指示の通り出来る限りの整備は施しました。離れの方までは手が廻りませんでしたが、母屋の方は概ね使用可能です」

「分かった。無理を通して貰って悪いと思っている。だが、必要な事だった。僕達はあくまでこの町に偶然このタイミングで越してきた一派だ。ただ買い取っただけのボロ屋じゃ敵の目を欺けないからね」

 発展途上である冬木にあっては人の出入りは日常茶飯事だ。逐一そこまで気を廻している物好きな輩もいまい。仮にいたとしても、舞弥の名義で買い付けたこの家からアインツベルン、ひいては切嗣に結び付けられる可能性は皆無に等しい。

「さて、アイリ。当分はこの家を拠点として活動していくつもりだ。あの城で過ごした君にとっては手狭かも知れないが我慢して欲しい」

「ううん、大丈夫。貴方が生まれ育った国ですもの。その国に根付く造りの家に住むのなら何の不満もないわ。ただ……この造りだとアインツベルンの魔術式を敷設出来そうな場所がないわ」

「それなら庭の隅にある土蔵を使うといい。かなり年代がかったものだが、使用には問題ないな?」

「はい。造りの頑強さと内部は既に検めてあります」

 切嗣の問いかけに答える舞弥に滑らせた視線を庭の一角に向け大体の目処を付けてアイリスフィールに目配せする。

「というわけだ。舞弥、例のものの準備は?」

「滞りなく」

「アイリ。済まないが僕は舞弥と今後についての打ち合わせがある」

「ええ。私はこの家を見せてもらうわ。その土蔵というのも確認しておきたいから」

「じゃあまた後で。荷物は一度居間……リビングに置いておく。必要なものがあれば探して使ってくれ。それとこれが土蔵の鍵だ」

 鍵束の中から一つだけ異質な輝きを放つ鍵を示し、束ごとアイリスフィールに預けて切嗣は舞弥と共に玄関口を開け中へと入っていった。
 一人取り残されたアイリスフィールは伸びをし息を大きく吐いた。

「じゃあ少し、見て廻ろうかな」

 何処か翳りのある表情でアイリスフィールは呟き、開いたままの玄関を潜った。



 切嗣が買い付けた屋敷の中を見て廻っていたアイリスフィールにとって、この家は余りに奇妙な造りとしか思えなかった。
 アインツベルンの古城は由緒正しい中世の城を現代まで存続させ、修復を繰り返し使用している為か、広大でありながらも一つ一つの部屋はしっかりと区切られ部屋から部屋へと渡る為には一度廊下を通らなければならない。

 しかし、この家の造りは全くの逆。薄い仕切り一枚を隔てるだけの部屋が諸々に繋がっており、適当にぶらついていただけだというのに一体今自分が何処にいるのか危うく分からなくなりそうだった。

 ただこれはこれで理に適った造りなのだろう。東洋文化には疎いアイリスフィールであったが、この造りは面白いものだった。何より全ての部屋を開け放てば風が通り抜けていくのは目に見えて心地よい。

 基本的に閉塞を旨とする魔術師の拠点としてはおよそ考えにくい建築構造だが、逆にそこが盲点となる。
 正統な魔術師ならばまずこんな家に魔術師が住んでいるなどとは思わない。なるほど、切嗣はその辺りの事も考えてこの家を購入したのだろう。

「切嗣は私が言った事覚えててくれたのかな……だとしたら嬉しいけれど」

 いつか切嗣が話してくれた故郷の話の中でアイリスフィールは日本様式の屋敷に住んでみたいと切嗣に告げた事を思い出していた。

 一通り見て廻り、大体の構造も把握したアイリスフィールは一番奥にある和室にまで辿り着いた。この部屋だけが襖を締め切られており、奥からは人の息遣いが感じられた。
 考えるまでもなく、切嗣と舞弥だろう。打ち合わせがあると言っていたし、二人きりで屋敷の奥へと入っていったのだから。

「…………」

 告白するのなら、アイリスフィールは悔しかった。こと戦いにおいて、切嗣がパートナーとする女性が自分ではない事が。

 切嗣はいつでもアイリスフィールを気に掛けてくれる。けれどそれは妻として、聖杯の守り手として身を案じているだけだ。彼の舞弥に対する態度を見れば歴然で、切嗣と舞弥の間にはアイリスフィールにはない絆があるのだ。

 舞弥とも何度か面識はあるが、そこまで深い関係ではない。アイリスフィールの知らない切嗣を知る舞弥。これより臨む闘争の場で、切嗣の隣に並び立つ資格を持っているのは舞弥だと知って嫉妬に駆られたのかもしれない。

 だからその行動を、一体誰が咎められようか。切嗣と舞弥の打ち合わせ。ほんの少しの好奇心と乙女心。
 二つの感情に衝き動かされたアイリスフィールが僅かに開いていた襖の隙間から覗き込んで見たものが、愛する夫と唇を交わす女性の姿であることを。

「────っ……!」

 喉を出掛かった声を押し殺して、アイリスフィールは逃げるようにその場を去った。足音を立てないように気を付けて。気付かれないように。

 何処をどう通って辿り着いたのかは本人にも分からなかったが、気が付けば縁側へと躍り出ていた。そのまますとんと腰を落として空を見上げた。
 空の色は、何処から見ても変わらない。アインツベルンの本拠地は雪に閉ざされほとんど澄み渡った空を見ることなど叶わないが、それでも何度か見上げたことがある。

 あの時と同じ色。あの時と同じ広さ。世界はかくも美しく。ただ美しくあらんと願われて世を包む。
 この空の大きさに比べれば、人などなんと小さき事か。

 先ほど見た光景が、一体どんな意味を持つかなどアイリスフィールには分からない。それでも彼女は夫を愛し、夫は彼女を愛してくれた。ただ聖杯の守り手としての役目を与えられた存在に、生きる意味を教えてくれた。

 だから──彼女はこんなところで立ち止まってなどいられない。

 舞弥が戦場で切嗣に並び立つのなら、自分は後方よりのサポートに務めよう。出来る事はきっとある。考えれば幾らでも思い浮かんでくる筈だ。
 いつか誓った想いがある。彼が遠くを目指し歩くのなら、自分は彼の足元を見て進むのだと。だから今は、この拠点を磐石の状態にしよう。切嗣が背中を気にせず戦えるように。今自分に出来る精一杯を……

「────よし……っ!」

 ぱぁんと頬を叩いて立ち上がる。まずは切嗣が言っていた土蔵の確認をしよう。工房の敷設をして、それからもしもの襲撃に備えての結界も構築しなければならない。ほら、考えれば出来る事など山ほどある。

「夫を陰から支えるのもまた妻の役目だもの。さあ、やろう!」

 自らを鼓舞し、アイリスフィールは土蔵を目指し庭へと駆け降りた。



 アイリスフィールが土蔵に自らの簡易工房を敷き、屋敷の敷地全域を覆うように結界を張り巡らせ終えた頃、切嗣が縁側へと顔を出した。

「ん……結界まで張ってくれたのかい?」

 切嗣がぼんやりと茜色に染まり始めた空を見上げながら呟く。

「ええ。でも簡易なものよ。外からは意識されず、内部へと害意を持って侵入すると警報を鳴らすというだけの」

「いや、充分だ。身の危険に晒される可能性を少しでも減らせればそれでいい。あくまでここは魔術師の工房ではなく一般的な家庭を装っておく必要があるからね」

「じゃあ工房は簡易なままの方がいい? もう敷いちゃったけど」

「外に漏れるほど強力なものでなければ構わない。アイリはこれから何かと重荷を背負う事になるからね。休息を行える陣は必要だろう」

 アイリスフィールには切嗣の心遣いが胸に痛かった。あんな場面を盗み見たなどと言えるわけがなかった。
 だから彼女は話題を変える事にした。

「……ところで舞弥さんは?」

「居間で色々と準備をして貰っている。まだ戦端は開かれていないようだが、万端を期しておいて損はないし」

「ああ……あれね」

 先ほど居間に工房敷設と結界展開の道具を取りに行った時に見た光景はアイリスフィールには不可思議にしか映らなかった。一体何をする為のものなのかも分からない機械類が所狭しと並べられ配線が乱雑に畳の上に散らばっていたのだから。

「アイリにも渡しておきたいものとか、使い方を覚えて欲しいものもある。一応の目処は立ったんだろう? 一息いれよう」

 切嗣の言葉に頷きアイリスフィールは縁側を上がり居間へと向かった。

 二人が居間に入ると舞弥は忙しなく機器の操作に当たっていた。アイリスフィールが見たことがあるものは切嗣が冬の城に持ち込んだパソコンだけであり、その他の諸々は大小の違いこそあれ同じ箱物にしか見えなかった。

 舞弥が今現在目を向けているものはアイリスフィールの知るパソコンであり、アイリスフィールには用途さえ分からないその他の電子機器は所謂ところのテレビ、ビデオ、携帯電話の類である。
 他にも小型カメラや盗聴器、発信器といったものも準備されている。

「調子はどうだ、舞弥」

「問題ありません。全て正常に稼動しています」

 テレビやビデオの類はさして重要なものではない。主立って使われるものは情報の収集と整理に当てられるパソコンであり、

「アイリ。君にはこれを持っていて欲しい」

 携帯電話はアイリスフィールの為に用意されたものだ。

「これは……何に使うものなの?」

 あの山奥の古城には切嗣が迎えられるまで電話の一つとして存在しなかった。電気さえ通わず全て魔術で賄われた城は、なるほど千年を純血で保ち続けたアインツベルンらしいと言える。

「それは携帯電話だ。簡単な通話ならこの街の何処からかけても僕に繋がる。傍受の心配はあるが、魔術師連中が注意を払うのは同じく魔術だけだ。
 僕のような存在がいないとも限らないが、同じ魔術で会話を交わすよりも手軽で安心だろう。まあその分、使い方を覚えてもらわなきゃいけないんだけど」

「分かったわ。じゃあ覚えるから、教えて」

「ああ。じゃあ……」

 そう言って未だ困惑顔のアイリスフィールに腰を据えて懇切丁寧に説明を始める切嗣。と言っても、覚えてもらうものは通話の要領だけだ。
 さして難しくもないものであった筈だが、こういうものに疎いアイリスフィールにとってはそれだけでも悪戦苦闘の対象だ。

 口の中で切嗣に教えられる内容を反芻しつつ手元の小さなボタンに苦戦しつつもなんとかものにしようとする様が余りに微笑ましく、切嗣は少し笑いを零した。

「むぅ……切嗣。貴方、私の事バカにしてるでしょ?」

「違う違う。そんなつもりじゃないよ」

 まだ半眼で睨んでくる妻から視線を逸らし切嗣は舞弥の方を見る。情報は早さと鮮度が命だ。
 リアルタイムで流れる情報の渦の中から少しでも有益な情報を見つけ出そうとキーボードを叩く舞弥と、携帯電話の一機能に苦戦するアイリスフィールのギャップはやはり微笑ましい。

 切嗣に馬鹿にされたと思っているアイリスフィールは半ば意地になって使い方を反復している。そしてとうとう納得がいく理解が得られたのか、ディスプレイを睨んでいた瞳を切嗣に向けた。

「もう覚えたわ。いつでも貴方にかけられるし、いつかかってきても出られ──」

 その瞬間、アイリスフィールの手にした携帯電話がけたたましい音を鳴り響かせ、突然の音響に驚いたアイリスフィールは『きゃっ』と、か細い悲鳴を上げながら手の中の電話を取り落とした。

「あれ、アイリ。もう使い方は覚えたんじゃなかったっけ」

 目の前の夫の手の中には同機種の携帯電話。発信中の画面が浮かび、アイリスフィールの電話を呼んでいる。

「もうっ、切嗣のバカ」

 電話を取り通話ボタンを押しすぐさま電源ボタンを押して通話状態を切ったアイリスフィールは怒りも露にそっぽを向いた。そしてその先には、くすくすと肩を揺らすもう一人の女性。

「舞弥さん……貴女もなの……」

 この際先ほど垣間見た二人のやり取りは頭の片隅に追いやって、ここにも自分をおちょくる者がいたかと睨みを利かせるアイリスフィールに、舞弥は視線を少しだけ傾けて首を振った。

「すみません、マダム。私にも切嗣と同じように他意はありません。ただ、こんなにも楽しそうな切嗣は初めて見たものですから」

「────ぁ……」

 アイリスフィールが九年前に切嗣に出会う以前を知らないように、舞弥もまたアインツベルンに迎えられた後の切嗣の全てを知るわけじゃない。
 アイリスフィールにだけ向ける切嗣の笑顔。イリヤスフィールと楽しそうに遊び顔を綻ばせる切嗣の姿。アイリスフィールだけが知っていて、舞弥が知らない切嗣もまた確かに存在しているのだ。

 そう理解した時、アイリスフィールは少し肩が楽になった気がした。舞弥という女性の内側を少しだけ垣間見れたような気がして。

「やはり貴女は切嗣の伴侶に相応しい」

 その言葉に何処かムズ痒くなった切嗣とアイリスフィールは互いに顔を背けたまま虚空を見上げていた。
 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、カチャカチャと舞弥がパソコンを叩く音を耳に、切嗣は一つ咳払いをした。

「まあ、何はともあれこれで使い方は覚えたね。じゃあ次に行こう。こっちは発信器といって、所有者の居場所を知らせるものだ。こっちはさっきの携帯電話より簡単だからすぐに覚えられるだろう。
 使い方は────」

 アイリスフィールが身を乗り出して切嗣の手の中にある携帯電話よりなお小型の物体を見ながら切嗣の説明を待ったが、終ぞ続きは語られず、訝しみながら面を上げた。

「切嗣……?」

 切嗣の表情は硬く、視線は虚空の彼方へと向けられている。恐らく、彼が今瞳に映している風景は庭ではなくそのもっと先。昼間に放った使い魔の眼を通した情景を映しているに違いない。

「アイリ。説明はまた後で。状況が早くも動いたようだ」

 未だ帰らないアーチャーに跟けた使い魔が捉えた情報。そして流れていく魔力の先で昂ぶる従者の気配。

「どういう状況なの? まさかアーチャーが既に他のサーヴァントと?」

「いや、違う。どうやら、誇り高い何処ぞの騎士様達が勝手に戦端を開いてくれたようだ」

 つまりアーチャーはその対決を見守れるポジションにあるという事。但し、視覚の共有をしていない切嗣ではアーチャーの見ているものは追えない。せいぜいが使い魔を操作し戦場の近くに潜ませる程度だ。

「舞弥。君の使い魔は今何処に放っている?」

「間桐邸と遠坂邸の監視の為の二匹だけです」

「もう一匹いけるな?」

「はい。問題なく」

「じゃあ今から飛ばしてくれ。カメラを忘れずにな」

 返事を一つ返し舞弥は即座に作業に取り掛かる。
 その後ろで切嗣は顎に手を当てながら思案する。この場所から戦場までは随分と距離がある。舞弥の使い魔、自分の使い魔の二匹分でも充分に情報を得られるだろうが、やはり肉眼に敵う情報源はない。

 しかし露骨に車を飛ばせば同じく観戦に赴くだろう他のマスターに気取られる可能性がある。現段階で切嗣の存在を知られるのは避けたい。

「…………」

 最善はこの場所から動かぬ事。敵は狩れないが、こちらが狩られる心配もない。まだアサシンが健在の現段階において、功を焦った行動は危険極まる。
 暗殺者にとって大切なものは待つ事。敵が油断する瞬間、隙を見せる瞬間を待ち、背後より一撃で仕留める。

『切嗣』

 使い魔を放ち、現状を維持する選択をした切嗣の脳に突然響いたアーチャーの声。この距離で念話は行えない。
 ならばこの声は切嗣の使い魔を通じアーチャーが語りかけてきているのだ。

「……ほう。そこまで頭が廻るか」

 この通信方法の欠点はこちら側から相手に意思を伝える手段がない事。それでもアーチャーが切嗣の使い魔の存在を既に感知しており、更に仲介させて己が声を伝えてきた事には意味がある。

「…………」

 幾らかの話を聞き終えて、切嗣は手元よりもう一匹の使い魔を空に放った。既に放たれた舞弥の使い魔を追う形で戦場へと飛翔していく。

「アイリ、舞弥。僕達はこの場から動かない。緒戦は見送る」

 切嗣の決定にアイリスフィールも舞弥も異議は挟み込まない。切嗣こそがアインツベルン陣営の司令塔であるのだ。その指示に致命的な間違いを認めない限り二人は了解する。

 使い魔の放出、アーチャーの存在、戦場の位置、敵の姿。統合された情報から切嗣の中で緒戦における意義が組み上がった。
 遥か彼方──薄暗闇に覆われ始めた空を見やり、切嗣は呟いた。

「見せて貰うぞ。おまえの実力をな」













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