正義の烙印 Act.02









/the Outbreak of War


 今回の聖杯戦争において、その男は槍兵のクラスにて現界した。

 精悍なる貌に灯る魅惑の証。物腰からも充分に騎士としての誇りを滲ませる男の両の手に担うは槍。己の信念を体現する螺旋の槍だ。
 生前果たせなかった無念を抱き、もし二度目の生というものがあるのなら、今代こそは心に残した忠誠を尽くしたい……その一念だけを胸にランサーのサーヴァントは現世へと降り立った。

 総身を覆う膨大な魔力量は主が優秀な魔術師である証拠。召喚の儀より取り交わした言葉も一つや二つではなく、僅かながらに召喚者の人となりを見て取ったランサーはその者を仕えるべき主と断じた。

 否、聖杯の縛りが存在する限り、たとえ叛意を抱いたところで意味もない。もしこれが外道の類であったのなら騎士道を重んじる己が信念を以って忠を討つ覚悟さえも担っていたのだが、彼の危惧は霧散した。

 ────この者は我が忠誠を尽くすに足る人物であると。

 戦地となる冬木市に入り、拠点と定めたホテルの最上階にて彼の主は宣誓した。

『ランサー。おまえの実力を我が下に示せ』

 それはマスターであるならば当然に求める証明だろう。マスターの力量がいかに優れていようとも、サーヴァントが取るに足らないものであるなら他のマスターは脅威に思う事は有り得ない。

 故に彼のマスターは証明を欲した。自らのサーヴァントの実力を。共に戦い抜くに足る者であるかを試す主より賜れた試練である。

 ランサーにとっても願ってもないことだった。彼には自負がある。数多の英傑達と覇を競い合ってなお勝利を手にするという自負が。
 生前彼が所属した騎士団にあって、誉れある一番槍を得た彼にとって、誇りとは同僚達の期待をも巻き込んだ輝ける結晶だ。

 しかし、今の彼にとっては英雄などと持て囃された過去は関係ない。これより尽くす主の為だけに彼は両手に槍を担う。

 奪い取る首級は全て主に捧げ、自らに還る栄誉は一つとして必要なかった。
 ただ、この忠節を最後の時──聖杯を手に掴む瞬間まで尽くし続けられるのなら、それで本望だった。

 命を受けたその足で彼は戦場となる冬木を馳せる。闘争の気配を撒き散らし、挑みかかって来る猛者を待つ。
 その必然性については語るまでもないだろう。ランサーが望む緒戦の相手は正面切っての戦闘を是とする者がいい。強さの証明には己に勝る猛者をこそ求めた。

 陰から隙を窺うアサシンでは相手にならない。権謀術数を得意とするキャスターは些か毛色が異なる。
 そう──彼が求め欲しているのはセイバーのサーヴァント。最優と謳われ、過去の聖杯戦争においても格段の実力を備えたクラスが相手ならば、ランサーもまた全力で以って手合いに臨み、マスターにも絶対的な証明を衝き付ける事が可能である。

 市中にあって殺意と敵意を所構わず振り撒いて存分に自らの存在をアピールする。

 この段階で幾人のサーヴァントが世に現界しているかは不明だったが、少なくとも既にサーヴァントを手に入れたマスターならば互いの情報を少しでも多く得ようと奔走している筈だ。

 ならば今こうして明らかな罠を仕掛けているランサーの行動も聡明な魔術師達ならば逸早く感付き周囲より窺っているだろう。

 このランサーの行動を勇敢と取るか無謀と取るかは五分といったところだが、現に彼もまた周囲に気配を感じている。確実にいる。自らと存在を同じくした者。世の理より外れた招かれざる賓客が。

 しかし終ぞ彼の誘いに乗ってくる者はなく、夕闇と夜闇の狭間においてなお彼は好敵手と巡り会えずにいた。
 このまま何の成果も挙げずに帰還する事など出来ようか。ランサーの勇姿をじかに見ようと彼のマスターもまた長い時間を共に市井に身を埋めながら監督していた筈だ。

 ただの徒労。時間の浪費。無為な行動。そう断じられるのだけは何としても避けなければならない。であるからして、ランサーは近場に身を潜めているであろう主に向けて念話を飛ばし、ある一つの提案を持ち掛けた。

 冬木大橋を挟んだ新都方面の河岸にて足を止めたランサーは周囲を睥睨する。整地された路面と程よい広さ、そして人の気配のない此処ならばと当たりをつけて、マスターに再度念話を送った。

 すぐさま辺りの気配が一変する。疎らとはいえあった人の姿が漣の如く引いていく。ものの数分もすればランサーの周囲数百メートルから人影は全て消え去った。
 主の展開した人払いの結界の効果を確認し終えた後、これまで霊体であった肉体を実体へと変態させる。

 こうなればサーヴァントも人と比べて遜色のない感覚を手に入れられる。夜気を孕んだ凍える風が総身に心地よい。ランサーの心は既に熱く燃え滾っている。生半可な風ではこの熱を奪い去る事など出来はしないだろう。

 万端の準備が整った事を確認した後、ランサーは手にした双槍の赤い方を深く大地に突き立て、黄色い方は強く握り締め天高く掲げた。

「我はランサー、今代の聖杯戦争において槍兵のクラスに招かれし者なり! 同じく世に祀られる英傑どもよ! 俺は逃げも隠れもしない、その身の誇りを是とせんならば、我が前にその姿を現すがいいッ!!」

 高く風に晒される黄槍に幾重にも巻きつけられた呪布がはためく。さながら錦の御旗であるかのように、天高く掲げられた。
 つまるところランサーの行動は全てにおいて挑発だ。わざわざ戦場を整え中心にて吼え上げる行為。ランサーの存在に感付きながらも静観を決め込んでいるサーヴァント連中に対する宣戦布告。

 この宣告を耳にしてなお姿を現さないのであれば、怖気づいた腑抜けの罵りさえも受けかねぬものと知れと。
 そして自らに誇りを負う者ならば、必ずや姿を現すものと期待してランサーは声高に獅子吼した。

 自らの信念である槍を掲げたまま一分弱。一向に姿を現さない他のサーヴァントには落胆を禁じえなかった。この戦いに招かれた英雄豪傑はこの程度なのか。自らの能力の露見に慎重になり、誇りを重んじる心さえ忘却した矮小なる者しかいないのかと。

 ならば是非もない。ランサーが槍を振るうに値しない敵しかいないのであれば、仕方がない。マスターとてこの光景は見ている筈だ。言い訳は立つ。
 溜め息と共に掲げた槍を下ろそうとしたその時──ランサーは耳聡く具足の打ち鳴らす金属音を聞き取った。

「居てくれたか、我が誇りに応えてくれる強き者が」

 安堵とも猛りとも知れぬ高揚感が胸を打つ中、ランサーは視線を滑らせた。河岸より現れたかのような立ち位置にある黒き騎士。一切の隙間のない全身鎧に身を包んだ得体の知れない、けれど明らかなサーヴァントの姿。

 眼前の騎士は禍々しい鎧に身を包みながら、その深部より流れ出る気配は清廉にして高潔なるものだ。あるいは、その澄み渡る気を抑え付ける為に漆黒の甲冑を身に着けているのではないかと愚考するほどであった。

「問おう。汝は我が祈りに応える者か」

 黄槍だけを担ったままに対峙するランサーの問いに、黒い騎士は頷きで応える。

「騎士なる誇りこそ我が誉れ。逸した誓いを取り戻す為に、貴方の宣告は聞き流せずこうして姿を現した。
 ────尋常なる勝負こそを私は望む」

「願ってもない。名乗り合う事さえ許されぬ身ではあるが、我らが得物が口辺に成り代わりてなお雄弁に語ろう。
 ランサーが閃槍、その身で喰らう覚悟あれ」

 突き刺したままだった赤槍を手に取り、両手にそれぞれの槍を担う異彩を放つ構え。翼を広げた怪鳥を思わせる雄大さで、ランサーは燃え滾らせた戦意の一切を隠しもせずに一帯に放つ。

「受けよう。ならば我が剣の冴え、篤とご覧あれ」

 腰元より引き抜かれる怜悧な剣。ランサーの検分ではさして魔力もなく格も低い剣と見て取ったが、何も武装だけが全てではない。
 手を合わせれば全てが白日の下に晒されるだろう。何処かから観戦している主の為に、双槍の槍兵は高鳴る胸をなお熱くしながら、踏み締める足に一層の力を込めた。

「────いざッ!」

 早くも切って落とされた戦端。
 前回より半世紀を越えて、第四次聖杯戦争の第一戦がこうして幕を開けた。



 流麗なる槍閃。稲妻を連想させる鋭利な刃が風となって吹き荒れる。濃紺の鎧を纏った痩躯の男より迸る槍衾は、並の人間であれば跡形もなく消し去るだけの力強さと速度を以って放たれる。

 両手に槍を担うという、およそ戦法としては考え辛い戦闘技術を習得した稀代の槍兵のサーヴァントは、舞うように赤と黄の稲妻を穿孔と繰り出し、比類なき俊敏さで眼前の敵を追い詰めていた。

 しかし対峙する相手もまた世の理の外側に在る者。視認すら難しい槍穿をただの一刀で以って防ぎ切る。手数で劣り、およそ宝具の質を鑑みても槍兵に分があると思われる決戦にあって、男は何処までも華麗に、巧みに、鮮やかに剣舞を披露する。

 追い詰めている、というのは正しく語弊であろう。剣を手にする男は決して追い込まれてなどいない。傍から見る限りは圧倒的な防戦を余儀なくされているが、その実焦りを感じているのはランサーの方だった。

 攻めに攻め立てているというのに、ただの一撃さえ致命傷を与えられていない。加減などしていない。容赦など以っての外。今代にて忠誠を誓った主の為、痩躯の槍兵は渾身を以って戦いに臨んだ次第である。

 だというのに、今目の前にいる敵は一体どれほどの兵か。ランサーにしてみてもこのような戦は初めてと言わざるを得なかった。もっと苦戦を強いられた戦いは幾つもあったし、白熱を極めた闘争も数多く乗り越えてきた。

 けれど今対峙する敵兵はそのどれにも該当しない神秘的な強さがある。必殺で打ち込まれた一閃を風と躱し、次いで薙ぎと払った一撃は水と流され、双槍を以って突き出した連撃さえも、彼の剣の冴えの前にはまるで通用しなかった。

 ────強い。それも圧倒的なまでに。

 そう断じる他ないと腹を決めたランサーは、死地の只中にあって笑みを零した。
 理解はしている。この闘争は己の栄誉の為ではなく、忠誠を誓いし主の為だけのものであると。しかし、これほどの強き者を前にしてどうして冷静でいられようか。どうして悲嘆などに暮れようか。

「ははっ。強い、強いな貴様! 我が双槍を前にして一瞬さえも逡巡の様子を見せないとは恐れ入る」

 一度後退し再度翼をはためかせた姿勢で、距離を置いた先に息の一つの切らさずに佇む漆黒の騎士に賞賛の言葉を送る。

「いや、そうでもない。面妖な槍捌きではあるが、双方に虚も実もなければ対処は易い。
 むしろその胆力こそを賞賛しよう。私にはとても、片腕でそれほどの槍を担う自信などないよ」

 互いに健闘を称えたところでランサーが赤い方の槍を一薙ぎにする。

「フン、貴様ほどの実力者からの賛辞とあらば素直に受け取っておきたいところだが、手の内を隠しあったままの戦では存分に満たされまい。
 …………そろそろ手札を切る頃合と見るが、いかに?」

 果たしてその問いかけは誰に対してのものだったのか。強い風の中に晒され棚引く呪布が解放の時を焦がれていた。
 探り合いでの戦闘とはいえ、これほどの実力者が相手とあればそれなり以上に楽しめ己の実力も主に示せる。が、やはりサーヴァントの本領は宝具の開帳にこそある。互いの持つカードを見せ合おうと掛け合ったランサーであったが、

「生憎とそれは出来ない。我が剣は未だ真価を披露する事を禁じられているのでね」

 黒き騎士……セイバーの返答は否。

「しかし……私とてこのような緒戦で剣を折るわけにもいかない。我が剣を開帳するに値する力量を貴方が示してくれるのなら、我がマスターもまた許可を下ろそう」

「──良くぞ言った。我が主! 宝具の使用許可を頂きたいッ!!」

 この敵に全力を引き出させるには己もまた持てる力の全てを曝け出さなければならないと直感したランサーはマスターに対し要求した。
 英雄の半身にして究極の一。遍く幻想によって編まれた、超常にある神秘の解放の許可を欲して。

「────」

 しかし、ランサーのマスターからの返答はない。無言とはつまり拒否の意だ。現段階においてのランサーに宝具の使用は許可しないと。

「……どうやら貴方のマスターも慎重な性格のようだ」

「そうらしい。俺としては全力で貴様を打倒したくはあったが、致し方ない。今持てる全てで、先にそちらに披露して貰うとしよう」

「ふ、なるほどそう来るか」

 互いに宝具の使用がないのであれば条件は五分。後はその身に刻み込んだ修練の深さ、研鑽の重みをぶつけ合うだけの事。

 再び口火を切ったのはランサーの疾走。先ほどよりも研ぎ澄まされた動作で以ってセイバーへと肉薄する。応じる剣士は下げた剣を微かに揺らし、奇想天外に穿つ二槍に対応しようと音を聴く。

 一メートルもない空間に無数の火花が咲いては散っていく。吹き荒ぶ風を巻き込み、荒々しい穿孔となる赤と黄の螺旋連撃に、静かなる水面を思わせる清廉なる剣筋で対抗するセイバー。

 攻守は変わらず、手数と速度で勝るランサーの双槍は致命傷こそ挙げられないが、完全なまでにセイバーの攻め手を封殺している。
 既にどれだけの刃を交し合ったのか定かではない。赤い花は乱れ咲き、百合などとうに通り越した剣音は加速度的に堆く積み上げられていく。

 趨勢は終始ランサーが握っていた。確かにセイバーの力量は目を見張るものがある。けれど、ランサーとて胸に誓いし尊き想いがある。
 この心は今代にて忠節を誓った主にのみ捧げられる。純粋な祈りを胸に宿したランサーの双槍のキレはセイバーの剣の冴えを上回る。

 どれだけ厚い壁であろうと滴る水に晒され続ければ何れ貫かれる。一刺しで足りぬのなら十を穿ち、十でさえ足りぬのなら百を、千を、万を双槍に託し穿ち続ける。それがランサーの誓い。
 渇望する勝利への貪欲で一途な想いである。

「ハァ────……!」

 最早数える事さえ億劫な穿孔を繰り出し続けたランサーの渾身の一撃。間髪入れず間断なく槍衾を展開していたランサーが一瞬の運動停止と共に、一層の膂力を込めて繰り出した黄閃は間違いなくセイバーの鎧を捉える──

「────っな!?」

 ──筈が、確信を覆し想像を絶するセイバーの所作こそが、ランサーの槍を文字通りに掴み止めた。

 音速を捉えて余りある閃光じみた一槍を手にした剣で巧みに受け流し、流麗な体捌きで回避せしめたのは理解が出来よう。が、その後。あまつさえその槍を掴み取るなどと、一体どんな曲芸であろうか。

「……っ!? くっ────!」

 セイバーに黄槍を掴み取られると同時にランサーの全身を悪寒が奔り抜けた。掴まれた部分に滲む魔力の渦。
 己のものではない生じた魔力の意味を解さぬままに、ランサーは赤槍をセイバー目掛けて繰り出し、傷を負わせられないまでも後退させる事に成功した。

 再度距離を取り睨み合う二騎のサーヴァント。先ほどとの違いがあるとすれば、晴々としていたランサーの面貌に今は困惑の色が垣間見える事であろうか。

「セイバー……今何をしようとした? 今のはまるで……」

「昔から手癖が悪くてね。余りの業物につい手が出てしまった」

 茶化すように口にしたが、今のはそんな一言で片付けていい異変ではない。

 英雄が担う宝具は唯一無二にして代替の効く代物ではない。究極の一の言葉で知られるように、英雄は宝具という武具を限界まで使役し尽くした存在である。
 同じ槍や剣であっても手に馴染んだものと一度も手にした事のない武器では違いがありすぎる。

 サーヴァントの全力とは手にした得物があってこそ。己の力量とその力量を限りなく引き出す相棒の相乗効果で世に祀られる傑物が完成する。

 しかし、今の異常……セイバーに槍を握られた瞬間に感じた焦燥は、間違いなく簒奪の気配だ。所有権の略奪。あるいは、宝具を無効化する為の能力か……

「卦体な能力を持っているようだな。しかし、一度晒した以上は二度はない。その手で我が槍に触れることはもう有り得ん」

「元よりそのつもりだ。今のでさえ偶然に過ぎん。そう何度もランサー程の相手から武器を奪えるとは思っていない。
 しかし、今の一連の流れは君の主にはどう映ったか……」

 セイバーは僅かとはいえ己の能力を開帳して見せた。おそらくはマスターの意の外で。
 そして先の戦闘が齎す驚愕はもはや焦燥にさえ似た切迫を生み出した筈だ。戦闘の最中に相手の得物に触れるという異常。

 達人の域だとかそんなレベルではない技量をこのセイバーは持っている。そして──底はまだかなり深いと聡明な魔術師ならば理解していよう。

「さあ、ランサーのマスターよ。聞こえているのなら戒めを解くがいい。このままでは、貴方のサーヴァントは我が手に陥落するぞ」

 セイバーの暴言はランサーに対する侮辱さえ孕む挑発だったが、当の本人はさして気にした様子もなく状況を観察している。
 ランサーとて、このまま宝具を封じたままで斃せる相手だとは思っていない。許可が欲しかった。全力で以ってセイバーを打倒せよと、鶴の一声を渇望していた。

『安い挑発だな、セイバーよ』

 虚空より響く声。発生源が特定できないように幻惑を施されたランサーのマスターの声は一帯に響き渡るように木霊した。

「ならば良いか? 貴方のサーヴァントが緒戦にて脱落しようとも」

『驕るなよセイバー。ランサーよ、おまえの実力はその程度か? 目の前の敵にそこまで言われて引き下がれるような木偶なのか? 私に聖杯を捧げると誓った言葉は嘘偽りのものなのか……?』

「我が主よ……! 決してそのような事は……ッ!」

『ならば証明せよ。おまえの実力を。宝具の開帳なくして一騎すら討ち取れないのなら、高が知れるというものだ』

「…………ッ!」

 是非もない。これまでして許可が下りないのなら少なくともこの一戦にてマスターはランサーの宝具を露見させる気がないという事。
 ランサーにしても解せない部分はあったが、主が厳命を申し付ける以上は従う以外に道はなかった。

「強情だな。それでもし我がマスターが全力を許可したとすれば、どういう状況になるか分からないわけでもないだろうに……」

 セイバーは兜の下で嘆息を漏らし、『いや……』と嘯いた。

「私が気に掛ける事でもないか。ランサー、今度はこちらから攻めさせて貰うぞ」

 苦渋の表情をしたランサー目掛けてセイバーが疾駆する。アスファルトを砕かんと踏み込んだ一歩は、重厚な鎧に身を包んだとはとても思えない俊敏さを体現し、好敵手へと肉薄する。

 振り下ろされる流線はしとやかにして苛烈。防御一辺倒にあった先ほどまでの剣閃が嘘であるかのように疾風となりて奔る銀の刃。
 舞うような軽さでありながらその実、超重量の戦斧でも叩き付けられているのではないかと錯覚する程に重い一撃を間断なく繰り出されランサーは歯噛みしつつ応戦する。

 相手は未だ底知れない力量を隠し持ち、マスターからは宝具の使用許可が下りない。はっきりと言ってしまえば、このセイバーは強敵だ。それこそ全力を封殺された状態で致命傷を奪い取れるような相手ではないと理解した。

 何故マスターは分かってくれない。この場でセイバーを討ち取る算段ならば、宝具を使用せずして勝利なきものである事は既に想像がついている筈だというのに。
 ……あるいは、ランサーのマスターにはこの段階でセイバーを討ち取る気がないのか、今なおランサーの力を測りかねているのか。

 完全に意思疎通のなされていないこの主従にあっては互いの思惑を知り得る術はない。
 マスターは言った。ランサーを推してその程度かと罵った。宝具がなくば一騎さえも討ち取れないのかと嘲った。
 ならば応えよう──まだ証明が足りないのであれば存分に披露しよう。

「我はランサー、槍兵の英霊なりッ! 主に誓う忠義を尽くす為ならば、恐れるものなどありはしない!
 セイバー、覚悟せよ。我が双槍でその首級……貰い受ける────!」

 猛りを咆哮に代えて、ランサーは獰猛な肉食獣を想起させる爪牙を振るいセイバーに襲い掛かる。一瞬にして覆した攻守をあらん限りの力と技で応酬する。

「ウォォォォォォォォォ……!」

 宝具の力を借りずともセイバーなど討ち取って見せると。主の期待に応える為に吼え猛りランサーは美丈夫を戦士の面貌へと豹変させて赤と黄の螺旋を穿つ。

 戦士としての血が滾る。肉は最大限にまで伸縮し、血は身体中を最高速で駆け巡る。興奮作用のある物質が過剰に分泌され、ランサーの全身を一本の槍へと変えていく。
 争いの中でだけ感じられる高揚感。戦士という人種にだけ許された恍惚の衝撃。勝利への渇望。目まぐるしく展開される裂帛の攻防の中で、ランサーはつい我を忘れ没頭してしまった。

 だからこそ、その戦場に一条の凶つ星が降り注ぐ瞬間を、理解よりも早く察知できた筈の本能の衝動を傾けすぎた己が悲運を呪わざるを得なかった。



 薄暗い夜に堕ちる凶星。

 尾を引く光は夜空を二分し、天より降り注ぐ魔弾の存在を瞬時に感知出来たのはセイバーだけであった。

 猛禽の双眸をし熾烈な槍を振るうランサーはセイバーの打倒に一心を傾け、何処かから監視しているであろうランサーのマスターには感付くだけの危機察知能力と時間が足りていなかった。

 刹那に迫り来る崩滅の箒星を目の端で捉えながらセイバーは瞬時に判断を下した。

「なっ……セイバー────!?」

 驚愕はランサーにこそ降り注いだ。一瞬、まさしく瞬きすら遠い間隙の中に巻き起こった三者の思惑入り乱れる闘争の只中で、ランサーだけが慮外であり、確たる結果だけを衝き付けられた。

 脳が理解に追いついた今、ランサーは刹那の間に起きたであろう衝撃を脳裏に浮かべ上げる。
 裂帛の双槍をセイバーへと繰り出した瞬間、セイバーはランサーから注意を逸らした。忘我しただ目の前の敵を打ち倒す事に心奪われたランサーでは看破できなかった魔弾をセイバーだけが察知し、その迎撃に剣を割いたのだ。

 コンマ以下を切る速度で飛来した魔弾とセイバーの剣との衝突が巻き起こした衝撃は凄まじく、ランサーの総身さえ震わせて余りあるものだった。

 総身を震撼させた唐突の衝撃に直感的に距離を開け、膝をついた状態で白靄に煙る着弾点を見やる。強風に攫われた白煙が晴れたその場所にセイバーの姿は健在で、何故か胸を撫で下ろしかけたランサーはついで更なる驚愕に目を見開いた。

 立ち尽くすセイバーの重厚な鎧には二つの穿孔。腹より血を吐き出す傷をそのままに手にした剣は未だ握り締められ、飛来したソレは足元に転がっていた。視線は高く、遥か遠方を細めた視線で睨みつけていた。

「その、傷は……まさか、セイバー……俺を庇ったか……」

「勘違いして貰っては困るな、ランサー。私は優先順位を付けただけだ。貴方の槍と彼方からの矢。どちらがより脅威であるかと」

 セイバーの腹に穿たれた穴はランサーの双槍によるものだ。そして彼の足元に転がっている一振りの“剣”こそが、先の白光を引き起こした元凶……騎士の立会いに不遜にも横槍をくれた一矢である。

 こんな真似を出来るのは一人しか存在しない。
 七騎の中でもとりわけ強力とされる三騎士───剣の騎士、槍の騎士に並び立つその騎士の名は。

「────アーチャー……やってくれる」

 セイバーは僅かに怒気を露にして、星の満ちる夜空を見上げた。



「外したか……いや、しかし成果としては上々だ」

 地上より更に強い夜風の中で赤い外套がはためく。千里を見通す鷹の慧眼は遥か地上の戦場を見下ろし、手には黒檀の弓を携えて、今し方放ったばかりの矢を引き絞った姿勢でアーチャーは呟いた。

 冬木で現在建築されている最も高いビルディングに陣取った弓兵の超遠距離からの精密狙撃。
 タイミングは完璧。セイバーとランサーがぶつかる瞬間を狙い放たれた矢は二人を巻き込み炸裂する筈であったというのに、あのセイバーは事前に気付き、あまつさえ迎撃までして見せた。

 そんな時間を与えてはいない。あの一瞬、セイバーは取捨選択をした。アーチャーの一撃を諸共に喰らってでもランサーを迎撃するか、アーチャーの一撃を防ぎランサーの双槍を身に受けるか。
 結果としてセイバーは賭けを成功させ、傷は負ったものの自らだけでなくランサーまでも存命させた。

 恐ろしいまでの戦術眼。卓越した剣技だけでなく知略も相当にこなせると見て取った。流石はセイバーのクラスに招来されし者。後の禍根となりえる強者だ。

 だが。この布陣を敷いた時点でアーチャーの勝利は揺ぎ無いものであった。

 剣の騎士と槍の騎士が覇を競うその場は、弓の騎士が立つべき戦場では有り得ない。戦場からは遠く離れたこの場所こそが弓兵の戦場。ただその身にだけ許された独壇場。他者の介入を決して許さず、一方的な狙撃を行える陣地こそが絶対たる布陣だった。

 弓に第二射を番える。一射をはずした時点で認識はされてしまっているが、彼らには一切の為す術が存在しない。取るべき未来は二つ。迎撃か、逃亡か。

 あの戦場が続く限り攻撃権は永遠にこちらにある。彼らがいかなる選択をしようともアーチャーに敗北は有り得ない。

「なに……?」

 しかし──だからこそアーチャーの理解は及ばなかったと言っていい。その余裕、圧倒的なまでの有利が生んだ心の隙を衝く形で、よもや第三者が空を翔けて来るなどとは、一体誰が思い当たろう。

「騎士達の戦場を荒らす不届きなる賊は誰ぞ! この余を征服王イスカンダルと知っての狼藉か!
 彼の者達の誇りを穢す貴様には、余自ら鉄槌を喰らわしてやるわい!!」

 轟音と稲妻を嘶かせながら、神牛に率いられた一台の戦車が空を翔ける。足場なき無空を踏み締めて、風を切り、空を渡りて 空に馳せる。
 騎士達の戦場を荒らした不届き者を罰する為、威風を纏った大男が、泣き叫ぶ小坊主を同じ戦車の背に乗せて、手にした覇者の剣で賊を討たんと大空に舞った。


/War Game


 アーチャーの狙撃より遡る事十数分。

 今宵の戦場となった河岸の更に対岸。深山町に面する海浜公園の片隅から、誇りある戦いを繰り広げる二人の英霊の姿を見守る主従の姿があった。
 公園の一角にある森林に身を潜める形で大柄な赤毛の男と何処かうろたえた体が抜け切らない少年とが火花散らす闘争を睥睨する。

「ふむん、どちらもやりおるわい。しかし僅かにセイバーに分があるか」

「なんでだよ。明らかに圧してるのはランサーじゃないか」

「確かにな。傍目から見ればそう取れるだろうが、あれだけの槍を繰り出してなおセイバーは涼しい顔……表情は見えやせんが空気に澱みがない。まるで物怖じていない証拠よ。内心焦りがあるのはランサーの方さな」

 立派に蓄えた顎鬚を擦りながら巨漢が嘯く。その冷静な観察眼は傍らの少年、この巨躯を召喚したウェイバー・ベルベットにとって意外だった。
 召喚早々の図書館襲撃から始まり、全くウェイバーの言う事を聞かない豪放磊落なライダーのサーヴァントの横暴からはとても想像出来ない客観的視点。

 この場所に陣取っているのも橋上に居座ろうとするライダーを必死の説得の末に連れ出した結果であり、もしあのまま放置しておけば今なお高さ五十メートルに及ぶ鉄骨の上で寒風に身を震わせる羽目になっていたかもしれない。

 ライダーに引き摺られる形で街の散策を行っていたウェイバーは逸早く敵意を撒き散らすサーヴァントの気配に感付き、それとなく平静を装いながら誘いに乗る他のサーヴァントを待った。

 思えば、その時からライダーは慎重に行動を測っていた。誘いに乗るでなく警戒に重きを置き、ウェイバーの言う事などまるで聞きもしなかったというのに、その時だけは進言を受け入れ見晴らしはいいが戦場に程近い冬木大橋から移動し対岸の海浜公園に身を潜め、今の観察眼にしても目を見張るものがあった。

 ただの横柄で我が侭で理不尽なサーヴァントではない。ウェイバーは考えを改めざるを得なかった。

「……酒が欲しいな」

 そんな中、ぽつりとライダーが呟いた。

「酒? そんなものどうするんだよ?」

「決まっておるではないか、飲むんだよ。王の眼前で高潔なる騎士達が演舞を繰り広げておるのだぞ? 肴としては上物ではないか」

「…………」

 ウェイバーは脳内で先の感心を撤回した。この大男はやはりただの横柄で我が侭で理不尽なサーヴァントであると。

「……そんな事より、どうなんだよ。戦況は」

「一応は五分の体を取っているが、ランサーの苦々しい顔を見るからにセイバー優勢か。彼奴は顔が見えんから何とも言えんがな」

「ふぅん……最優の名は伊達じゃないって事か。で、おまえもしセイバーとやり合う事になったとしたら勝てそうなのか?」

「刃を交えれば十中八九負けるな」

「なっ……!?」

 余りにさらりとライダーが言ってのけるものだからウェイバーは一瞬何を言われたのか分からなかった。しかし正しく理解した後は憤慨も露に噛み付いた。

「なに暢気に言ってんだよ!? おまえ、自分が負けるって宣言して──ひぎゃっ!?」

 ささくれたライダーの野太い指がウェイバーの額を弾き、線の細いマスターは引っ繰り返った。またしても暴力に訴えた巨漢に恐々としつつも、赤くなった額を擦りながらウェイバーは睨み上げた。

「何すんだよっ!」

「ぎゃーぎゃーと煩いからだ。話はちゃんと最後まで聞かんか。あのセイバーの現在の力量を推し量ったところで恐らく意味はない。まだまだ底の知れんものを隠し通しているようだからな。
 だがその分を差し引いても、あれ程の剣筋を放つ剣士相手にやり合って勝ちを拾う自信はない。ないが、この身は騎兵だ。何も剣を合わせるだけが戦ではなかろうて」

「あ……」

 そうとも。何も相手の土俵に上がる必要性はない。足には特段のアドバンテージを持つライダーにはライダーの戦略、戦術がある。無理矢理にでもこちらの土俵に引き摺り上げてしまえば、どんな相手にも引けを取る事はない。

「征服し蹂躙する事こそ我が王道。騎士が騎士道を重んじるように、余も己の奉ずる王道を尊ぶだけの事よ。
 それよりも、ほれ見ろ坊主。戦局が動くようだぞ」

 これまで防戦一方だったセイバーが一転攻撃に転じる。流麗なる剣筋をそのままに手数で勝る筈のランサーを追い込んでいく。
 ランサーとてされるがままではない。対岸であるこちらにまで聞こえそうな叫びを吼え上げて裂帛の槍閃を攻守を入れ替えて繰り出していく。

 ヒートアップする戦場。加速度的に終局に向けて走り続ける誇り高き二人の英霊の見事な戦舞に、凶弾が降り注いだのはまさしくその瞬間の事だった。

 突如天より飛来する光の矢。流星が落下したかと見紛う白光を夜の帳に溶かし込み、瞬きの間に洛陽と消え去った。

「一体何が……」

 ただ呆然と見やるしかなかったウェイバーを尻目に、隣の巨躯が徐に立ち上がり腰に差したキュプリオトの剣を引き抜いた。

「ライダー? おまえ何して──」

「行くぞ坊主、戦争だ」

「────は、はぁ……!?」

 何かと妄言じみた事を言う男だとはウェイバーも既に認識していたがこれには完全に虚を衝かれた。言うに事欠いて戦争などと、一体何を思ってそんな大言を吐いたのかと。

「先の光、あれは他のサーヴァントの横槍だ。互いの誇りを賭けて雌雄を決する騎士の戦場を穢す、まっこと不届きなる賊の邪魔立てよ。
 なあ坊主。王を冠する余の眼前でそんな凶行に及ぶ愚昧な者には制裁が必要だ、そうは思わんか?」

 現状に頭のついていかないウェイバーはぽかんとしたまま身の丈二メートルを超える己がサーヴァントを腰を抜かしたまま見上げている。
 マスターから否の声がなかった事を応と取ったのか、そんなもの最初からどうでも良かったのか、ライダーは手にした剣を掲げて一閃、空間を割り裂いて騎乗兵の体現たる宝具を招来した。

「さあ乗れ、坊主。我らが初陣だ、誇り無き賊を討つ征伐戦よ。久々の闘争、血沸き肉踊るわい!
 ……んん? どうした、腰でも抜けて動けんのか?」

 『仕方ないなぁ』と呆れ混じりに呟きつつ、目をぱちくりさせるウェイバーの襟首をむんずと掴んだライダーは放るように御者台に乗せ、自分も乗り込み戦車を牽引する神牛の手綱を握った。

「いざ行かん! 大義は我らにこそあり!」

 稲妻を放ち大気を蹴り上げ神牛は大空に馳せる。
 遥かなる夜空へ飛び立ち、半ばも過ぎた頃にようやく忘我状態から脱却したウェイバーの悲痛な叫びを背に、

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 ライダーは高らかに謳い上げながら怨敵目指し一直線に翔け抜けた。



 昏迷を極め、地上と空に二極化された戦場はそれぞれに終点を目指し疾走する。

 文字通りに空を疾走する雷神の戦車は摩天楼の頂点にて第二射を放たんとする弓兵の姿を見咎め、より手綱を強く引き速度を増す。
 およそそんな敵襲を予想していなかったアーチャーは度肝を抜かれたが、冷静に番えた矢の照準を定め直し、直線距離にしてまだ一キロ以上先にある豪胆なる言葉を吐いたライダー目掛けて一矢を狙い撃つ。

「お、おいライダー! あいつこっち狙ってるぞ!?」

 御者台の上に剣を携えて立ち上がったライダーはむんずと掴んだウェイバーの頭をぐりぐりと撫で回し、吼え上げた。

「余を誰と心得る。我が征服王イスカンダルよ! 征服も蹂躙もせずして消え去る事などありえよう筈がなかろう!
 さあゼウスの仔らよ。余の前にその力強き嘶きを示せぃ……!」

 一層に勇壮な稲光で暗黒を照らし上げ、戦車を牽引する神牛は物怖じる事無く降り注ぐ流星の只中へと翔け上がる。
 莫大な魔力を篭められた矢は遍く全てを貫く威力を備え耳を劈く金切り音を声高に響かせながら飛来する。

 今にも泣き出しそうなウェイバーの目にはライダーの思惑など理解出来る筈もなく、自殺行為だと叫び上げながら悲愴な声音を漏らした時。

「────喝ッ……!」

 号砲一声、戦車の前面に展開された雷光の盾が音速の壁を突き破ったアーチャーの狙撃を受け止め極大の火花を空に散らす。
 ウェイバーの目にはライダーがそれこそ気合の大獅子吼で光の矢を堰き止めたように見えたが、現実問題としてそんなものは有り得ない。

 稲妻の盾と光の矢は鬩ぎ合い相殺し合って弾け飛ぶ。御者台を大いに揺らす衝撃に思わず掴めるものを探したウェイバーは手近にあったものを抱きかかえるように掴み、それが筋骨隆々としたライダーの足である事に気が付いて顔を上げた。

「────」

 百獣の王を思わせる獰猛な笑みを顔に貼り付け、未だ遠い敵をしっかりと見据えて剣を執る様は正しく勇姿。かつて世界を股にかけ、覇を唱えた征服王の勇壮たる立ち姿が確かにあった。

「どうした坊主。怖いか……?」

 何か含みを持たせた笑みを向けられウェイバーは腹の中に妙な感情を覚えた。この構図は余りに良くない。従える筈のサーヴァントに見下されるマスターなど一体何処の世界に居ようか。

「ふん、誰が恐れるものか。ぼ……私はおまえのマスターだ。あいつを倒すンだろ? ならもっと飛ばせ」

 精一杯の強がりを冷や汗を垂らしながら言ってのけ、ウェイバーは掴んでいたライダーの足から手を離し御者台に深く大仰に腰掛けた。せいぜい自分が大きく見えるように。足が震えるのは抑え切れなかったが。

 しかしそんなウェイバーの様をライダーは是と大笑する。

「がはは! ぃよし、それでこそ我がマスター! さあ主より遣わされた拝命だ、ゼウスの仔らよ、もう少しばかり速度を上げるぞ!!」

 二頭の神牛が更に高く吼え上げ、シールドに覆われている御者台とはいえ空を翔け昇るなど初体験であったウェイバーは泣きそうな表情を精一杯に堪えてライダーの背を見守っていた。
 征服の王が高らかに剣を掲げる。第三射を番えた赤き弓兵を差して。

「いざ馳せよ、神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)────!」



 地上より駆け上がった稲光と夜空より降る星屑を見咎めた地上の二人は状況の把握に追われていた。

 アーチャーがセイバー、ランサーの両名を巻き込み纏めて亡き者としようとした事に間違いはなく、結果として狙撃は成果を残さなかったが、セイバーには痛手を負わせる事が出来た。

 しかし、あの地上より空を馳せた光は一体何なのだと二人は勘繰った。推測するのならアーチャーと同じようにこの戦場を盗み見ていた第四のサーヴァントなのであろうが、一直線にアーチャーの元へと突撃していった理由までは解せなかった。

 だが結果としてアーチャーの狙撃対象からこちらは外れ、奇しくも戦場は二分された。ならば是非もなく、決着をつける刻限だ。

「セイバー……俺は……」

 不本意にセイバーの腹を穿った双槍は今なお血に濡れている。こんな状態での決着など望まない。正々堂々とランサーの宣言に応じてくれたセイバーに痛手を負わせた状態で勝ちを拾ったとして、ランサーは勝利を誇り主の元へと参じられるだろうか。

 否。断じて否だ。この身は騎士道を重んじる槍の騎士。主に誓う忠誠と同位の誠意を対峙する好敵手に払わなければならない。

「セイバー、この場は引いてくれないか。俺はこんな決着は望まない。痛んだおまえを討ち取ったところで、俺はそれを誇る事など出来ない」

 これよりの戦の栄誉は全て主に捧げる供物。なればこそ、薄汚れた血に塗れた勝利を献上など出来る筈もなかった。

「…………」

 セイバーにしても、これ以上の戦闘はマスターの望むものではないと了承している。甘んじてランサーの休戦の言を受け入れる事を辞さない心積もりであったのだが、

『何をしているランサー。さっさとセイバーを斃せ』

 どうやら、それは許されるものではないようだった。

「我が主よ! どうかこの場は引かせていただきたい。セイバーを討ち取るは我が役目であると承知しておりますが、今彼の者を討ち取っては余りにも……!」

『ランサー、宝具の開帳を許す。全力を用いセイバーを打倒せよ。令呪を以って命ずる』

「なっ……!?」

 ランサーの総身を駆け抜ける律動。二本の槍を覆い隠していた呪布は他ならぬ彼自身の手によって解き放たれ、渇望とした宝具が月夜の下に晒された。

「我が主よッ……! 何故……!」

 ランサーのマスターの命令は、正しい。手傷を負った今のセイバーに宝具の解放を以って挑めば必ずや討ち取れる勝算がある。
 一層の深い傷を、あわよくば命さえも奪取出来る……それが、宝具を解放するという事。

 恐らく地力で劣るランサーがセイバーに一矢報いるにはこの好機を逃す手はない。表情が窺い知れないのでセイバーの状態がまるで把握出来なかったが、腹に二つも大穴を開けられて平然としていられる筈がない。

 たとえ三画しかない令呪の一画を消費しようともこの絶好機でセイバーを討ち取らなければならない。それが姿なきランサーのマスターの決定だった。

 ランサーは歯噛みしつつも勝手に戦闘態勢を取る己の身体が恨めしかった。主の真意も理解できるし、彼らは戦闘者。勝利なくして帰還は許されないものと知っている。
 しかし、それでも。このような決着は望むべくもないものだった。それほどまでに、ランサーは高潔に過ぎたのだ。

「怯む事はない、ランサー」

 手に剣を提げた騎士が呟いた。苦虫を噛み潰していた槍の騎士が視線を上げる。

「何処ぞで聴いているランサーのマスターにも告げておこう。この程度の傷で私に迫れると思い上がっているのなら浅慮も甚だしい。
 ランサー、おまえにしてもそうだ。そのような苦渋の顔をするのは、せめて私に一太刀浴びせてからにして欲しいな」

 セイバーは仮面の下で豪語する。この程度の手傷では負けはしない。たとえランサーが宝具を用いようとも負ける要因などないと。
 それは決して強がりでもはったりでもない。無窮の武練に裏打ちされた絶対の自信。驕りではない確たる事実としてセイバーは憚った。

「セイバー……おまえという奴は……」

 セイバーの意を汲んだランサーは笑みを浮かべた。ならば良かろう、そこまで豪語するのなら是非もないと。

「ならば我が双槍の閃き、その一閃で以って喰い止めてみせてくれ。俺の槍が何処まで届くのかを試させて貰う」

「ああ、受け止めて見せよう。我が剣にて、その槍の悉くを叩き落とそう」

 覚悟を決意に変えたランサーが身体を縛る強制権に身を預ける。いつ解き放たれるとも知れない最終幕の中、二人の騎士は油断なく互いを睥睨していた。



 今なお絶空の争覇戦の只中に身を置くアーチャーとライダーの戦闘は一進一退の攻防と化していた。

 一撃の威力よりも数を増してまさしく流星群を嗾けるアーチャーの狙撃に対し、ライダーは握った手綱を巧みに操り回避と迎撃に追われている。
 もはや御者台にしがみ付いているしかなくなったウェイバーは張り上げたい声も舌を噛まないように必死に押し殺すのに全霊を傾けざるを得なくなり、戦況の把握など二の次にするしかなかった。

「むぅ……やりおる。中々近づけんな」

 いかにライダーの駆る戦車とはいえ数多に降り注ぐ流星の中に突撃をかませば唯では済まない。一撃一撃が相当の威力を誇るアーチャーの狙撃は確かに弓兵のクラスに相応しい力を誇っている。

 あわよくば傘下に加えたいライダーであったが、今はそんな事を言っている場合ではないと承知していた。

「お、おいライダー! なんとかしろよっ、このままじゃ撃ち落されるぞ!?」

「戯けぃ、この程度で余の戦車が陥落るものか。しかし、マズいな。主導権を握られっぱなしは性に合わん」

「んなこと言ってる場合かよっ!? このままじゃ、ぎゃ、ふ、振り落とされる!!」

 防護シールドが働いているのでたとえ逆さに疾空しようとも地上に叩きつけられる心配はないのだが、そうとは知らないウェイバーは高速機動で回避する戦車の軌道も、時折直撃を被り御者台を震撼させる衝撃にも辟易としていた。

「ふむ、ならば坊主。一つ賭けといくか」

「か、賭け……? おま、一体何する気だっ……!?」

「決まっとろうが。神威の車輪最大出力での一点突破でアーチャーに突撃をかける」

「な、なにぃぃぃぃぃ!?」

 平然と謳う大男の大言にはもう慣れたものだが、そんな事を許容できる筈がない。そう出来ないからこそこうして回避運動を取っているのではないかと噛み付く。

「ようは加速が足りんのだ。我が戦車の最大戦力で空を馳せれば、いかな弾幕も叩き伏せられる」

 もう間近にまで迫りながら辿り着けないアーチャーの元へと飛び込む手段。このままじりじりと追い詰められるくらいならばと、

「ああもう、わかった! 何でもいい、おまえに任せる! それで突破できるって言うんならやってみせやがれ……!」

「その言葉を待っとったぞ────!」

 ライダーが手綱を強く引き旋回する。神牛の雷光は空を踏み締め、これまでのように翔け昇るのではなく一直線に駆け下りる。
 降り注ぐ流星さえを置き去りに落下する戦車の御者台で相も変わらず叫ぶウェイバーを尻目にライダーは大地に衝突する間近で一際大きく手綱を引き付け、高速での急旋回を成し遂げる。

「さあ征くぞ坊主! イスカンダルが疾走、とくと目に焼き付けぃ……!!」

 猛然と頭を振った神牛が今宵最大の嘶きで空を踏み砕き天を目指し翔け上がる。空に昇る月を穿つように、一条の迅雷となった神威の車輪は降り注ぐ矢の全てを雷神の盾で防ぎながら蹂躙する。

 かつて雷の神たるゼウスに祀られた戦車に搭乗し剣を掲げるライダーの姿はまさに雷の申し子──雷帝であろう。
 神鳴る怒りの体現と成り遂げた雷鳴の一閃となって、地上より天上に降る雷が夜を引き裂いた。

「AAAALaLaLaLaLaie!!」

 今宵二度目の鬨の声を張り上げながら、ライダーはアーチャーの懐──弓兵の射程外へと飛び込んだ。

 閃光。爆発。

 それは、まさに一瞬の出来事であった。光の渦と化したライダーがアーチャーの矢の全てを破砕しながら天を翔け上がり、決然とビルの屋上に特攻を果たしたところで、爆音を張り上げて人気のない屋上は一瞬で戦火に包まれた。

 御者台にてどうにかしがみ付いていたウェイバーが揺れが収まり静かになった周囲に目を配る。
 辺りはどういうわけか真紅の炎が絢爛に咲き誇り、夜の闇に劣らない黒い煙を吐き上げている。見回したウェイバーの視界に人影はない。剣を提げたまま佇む巨漢が一人いるだけだった。

「おい、ライダー……一体、どうなった?」

 神妙な顔つきで夜闇を睨みつけるライダーはウェイバーに視線を投げる事無く嘯いた。

「うむ、逃げられたな」

 ライダーは捉えていた。この炎の渦は神威の車輪が巻き起こしたものではない。神速で空を翔け昇ったライダー達が屋上に到達する直前、アーチャーは弓に最後に番えた矢を放った瞬間、ライダーの目の前で“暴発”させたのだ。

 いかなる仕掛けによるものかは定かではなかったが、アーチャーは矢を爆発させライダー達の視界を奪い去り、あわよくば渦中へと巻き込もうと企んだのだろう。

「……なんと潔い引き際か。弓兵が間合いを詰められれば役立たずとなると知っておるからこそ、接近される前に姿を消しおった」

 目的は果たせなかったが、最優先の目標は果たせた、というところだろうか。ほとんど手の内を晒す事無くセイバー、ランサー、ライダーの情報を引き出させ無傷の内に逃げ果せるとは……

「敵ながら天晴れと言う奴だな」

「なんで感心してンだよ、おまえ……」

 ぐったりとしたウェイバーは半眼に呟き、とりあえず状況が落ち着いたものと認識し安堵の息を吐き出した。熱を持った吐息が夜気に攫われる。
 大分深くなりかけた夜の闇を煌々と照らし上げる焔の輪の中で剣を腰に差した鞘へと戻したライダーが月を見上げた。

「どいつもこいつも一筋縄でいかんような奴らばかりよなぁ。
 くはは、これは心躍るわい。待っとれよ、まだ見ぬ英雄豪傑よ。全てこの余が蹂躙し尽くしてくれるわ」

 大笑を夜に響かせる赤毛の王は一人胸を高鳴らせる。
 見下ろす白月にさえ手を伸ばさんと欲す大望の成就の為、これより始まる闘争の宴に歓喜せずにはいられなかった。



 異変は第一手にて生じた。

 ランサーが渾身で突き出した赤槍の一刺しをセイバーが剣の腹で受け止めた瞬間、剣を覆っていた魔力が霧散し地金となる“本物”の刀身が姿を現した。
 異常を察知したセイバーはすぐさま剣を斬り払い、次いで繰り出された黄槍を弾き飛ばしながら一足跳びに後退した。

「やはりな……セイバー。おまえの手にする剣、それはおまえのものではないな?」

 違和感は最初から付き纏っていた。剣の英霊が担うにしては無骨で洗練さの欠片もない剣を振るうセイバーにランサーは不信感を抱いていた。
 内包する魔力も見るからに少なく、さして格の高さもない剣を担うにしては、この剣士の力量は高すぎる。

 そして今──破魔の能力を持つ槍がとうとう暴き出した。

「先ほど俺の槍を掴んだ時の能力……それでおまえは己のものではない剣を己のものとして使役していた。違うかな、セイバー」

 セイバーは答えない。無言を肯定ととったランサーは我が意を得たりと頷いた。
 剣の騎士の怪奇なる能力の正体とは、手にしたものを己のものとする能力。掴んだ剣はたとえ誰のものであろうとセイバーのものとなり、半身たる宝具を振るうかの如く扱えるという脅威の能力だ。

「達人は得物を選ばないというが、なるほど。まさか宝具級の扱いをこなせる使い手であるとは。光栄だ、セイバー。おまえは我が双槍を披露するに足る傑物だ」

 そんなランサーの賞賛も何処吹く風とセイバーが睨みつけるものはランサーの手にする赤槍。呪布を解かれたあの槍の穂先に触れた瞬間、セイバーの能力を封じられた。つまりあの槍は常時発動型の宝具。触れるものの魔力を断つ破魔の槍……

 その相性の悪さを瞬時に理解した。セイバーが持つ本当の剣は解放する為には幾つかのプロセスを踏む必要がある。その為、現界直後に主に進言し用意してもらった硬度の高い業物を得物としてきたが、宝具を開帳したこの槍兵には通用しない。

 宝具としての属性をなくした剣はいかな業物であろうとそう何度も宝具の一撃に耐えられるものではない。先の一閃で既にセイバーの剣は軋みを上げていた。

 まさか緒戦の段で能力を看破されるとは思いもしなかった。なるほど、侮っていたのはセイバーも同じ。対峙するはかつて共に戦場を馳せた騎士達と同等かそれ以上に類する英雄であると心得なければならなかった。

「触れたものの魔力を破壊する槍か……怖いな。そして無論、そちらの槍にも何かしらの能力が付与されていると見て取っていいのかな?」

 セイバーが視線を滑らせた先には黄色の槍。これまでの戦闘の中で二本の槍を巧みに操っていたランサーの動きを見れば片方はブラフ、などとは考えにくい。あの槍の穂先にも触れてはならないと直感し、セイバーは徐に移動した。

 訝しみながら見やるランサーだったが、その行動の結末に思い至ってなお口元を歪め『まさか……』と呟いた。
 想像は現実と昇華される。この場には偶然にも“二本”の剣がある。一つはセイバーが手にする無骨な剣。もう一つは────

「よもや、ソレさえも己のものとするか────」

 セイバーが拾い上げた剣はつい先ほど空より降ってきたもの……アーチャーが矢として放ったものだ。螺旋状の刀身を持つ打突に特化した形状の剣を手にした瞬間、セイバーの魔力が掌より滲み出て絢爛な剣を覆い尽くした。

「これで手数は対等だ。さあ、続きと行こう」

 二刀流。騎士なる者が手にするは馬上にて振るう槍か、右手に剣と左手に盾だ。両手に剣を持つ戦闘術は決して強くはない。
 元来、二刀流とは一刀が相手の剣を捌く為の小剣であり、盾の役割を果たすのだ。同程度の長い刀身を持つ剣を両手に担うのは、空想の中だけの話だ。

 しかし、セイバーが手にするはまさにその空想の産物。ランサーの双槍も相当に奇異な戦闘術だが、今のセイバーも充分に怪奇。

 二刀と二槍。
 およそ有り得ない得物を繰る者達の闘争が火蓋を落とす。



 焦燥はすぐにも現れた。赤と黄の螺旋を放つランサーの槍を受け流すセイバーの二刀は華麗に過ぎた。
 美しささえ伴う閃きの連続を戦場に華と咲かせる様は長年培った修練が形となったもののようで、決してたった今試みた二刀流だとは思いも寄らなかった。

 しかし、ランサーの驚愕はそんなところではない。これまで幾度となく剣を合わせこの剣士の力量は把握していた。この程度の剣舞はむしろ出来て当然と了解していた。
 けれどその一点だけはどうしようとも看過出来なかった。堆く積み上げられる剣と槍の閃きの中、ランサーの繰る槍の穂先は唯の一度としてセイバーの鎧どころか剣刃さえも穿てない事を。

 セイバーは手にする二刀で巧みに穂先ではなく柄を捉えては弾き、どうしても刃に触れそうになれば後退しての回避を行う。刃渡りと間合いを完璧に心得た戦い方……二度とは槍の呪いを発動させぬと練達の技で鎬を削る。

 ────化物か、この男……

 ランサーをしてそう思わずにはいられなかった。未だ一切として素性の知れない剣士ではあるが、これほどの剣の腕を持つ者が無名である筈がない。

 あるいは先ほどまでの一刀でありながら苛烈な剣舞を見せていたセイバーが、今は間合いを維持したがる戦法を弄しているのは、偏に穿たれた傷のせいなのかもしれないが、それでもこの剣士の剣筋に乱れはない。

 いかなる戦況、状態においても最高の力量を保てるのは常態化まで果たした修練の賜物であろう。よもや、これほどの深き痛手を負ってなお貫ける武錬とは流石のランサーも恐れを抱く程だった。

 しかしそうとなれば意地に賭けて一刺しを喰らわせてやりたくなるというもの。激烈な応酬の中、ランサーが是が非でも削り取ってやると意気込んだその時、

『ランサー、何を遊んでいる。早々に決着をつけよ!』

 痺れを切らしたのはランサーのマスターの方が先だった。
 宝具を開帳し、令呪を使用し、けれど未だ一撃も入れらないランサーの怠慢に歯噛みしている事だろう。
 しかも相手は腹に穴を二つも開けているというハンディ付きで、なおランサーが打倒できないとあっては認めざるを得なくなってしまうのだ。

 このランサーはセイバーに劣るサーヴァントであると。

 先の苦言はランサーに対する最後通牒。未だ稚気に囚われているものと思い込まずにはいられない、明確な焦りが滲み出た怒号だった。

「────くっ……!」

 ランサーとて遊んではいない。令呪による強制が働いている今、遊びを挟み込む余地はなく、全身全霊を傾けて打倒の為の槍を振るっている。
 なのに、取れない。なのに、穿てない。このままでは主の信頼を完全に失墜する。このような緒戦で、ランサーは敗れるわけにはいかなかった。

「ハァァァアアア……!」

「────っ!」

 乾坤一擲の打突がとうとうセイバーの剣を捕らえる。破魔の紅薔薇がセイバーが帯刀していた剣の魔力を霧散させ、そのまま貫き破砕と化す。
 一刀を失ったセイバーに、生じる隙。穿たれた傷のダメージがここに来て彼我の拮抗する力量差に天秤を揺るがした。
 ここぞ好機と畳み掛けるランサーの猛攻は流石のセイバーも全ては防ぎ切れず、身を守る漆黒の鎧を削り取られながらじりじりと後退する事を余儀なくされた。

 そして奇しくも頭上で閃光と爆発が巻き起こったのは丁度その時だった。

 位置関係から一瞬だが確かに目を奪われたランサーの隙を見逃さず繰り出されたセイバーの横薙ぎの一閃は腹を絶ち、赤い飛沫を吐き出させた。

「ぐっ……」

 距離を取ったランサーの視界の向こう側では赤い炎が踊っていた。未だ決着を見ない戦場の只中にあって、セイバーが視線を高く上げたのは偶然ではない。
 アーチャーの夜空を斬り裂いた剣を大地に衝き立て更に一歩後退したセイバーは、

「これまでだ、ランサー」

 陽炎とその姿を揺らめかせた。


/Conclusion


 荒れ果てた路面。空を染める茜色。戦闘の痕跡を色濃く残す戦場は、いつしか静けさに満たされていた。セイバーの先の言の意味するところは、今宵の戦いの終焉だろう。

 アーチャーとライダーの引き起こした災害はランサーのマスターが展開した結界の外の出来事だ。あれほどの火災を巻き起こしたとあっては既に人目についており、事態の収拾に追われる事になる。

 その最中でなお戦いを続ける意義を見出せないと、恐らくはセイバーのマスターは判断を下したのだろう。
 そしてそれはランサーのマスターも同じであり、先の激昂はなりを潜めて行く末を見守っている。

 幻と消えていく剣の騎士を見やり、これほどの傑物はランサーの生前においても見た事がなかった。だからその言葉は、自然と口を衝いたものである。

「さぞ名のある騎士とお見受けするが……良ければ、貴公の名を聴かせてはくれないだろうか」

 ランサーから僅かに距離を置いた場所に立つ騎士。全身を覆う鎧には一切の内部を窺える隙間はなく、身体の稼動に際し必要な関節部分と肉眼を遮らない箇所、そして血を流す腹からだけ辛うじて人の気配を感じられた。

 長い沈黙が降る。ランサーの言葉を受けたセイバーは黙したまま微動だにせず、マスターと何かしらのやり取りを経たのか、やがて首を横に降った。

「生憎とこの身は己の正体を明かす事を禁じられている。貴方との戦も、マスターの本意に背いた行動であるのだ。
 これ以上忠節を穢す真似は避けたい。すまないが……」

「いや、こちらこそ失礼した。名を明かせないのはこちらも同じだ。とんだ無礼を詫びさせて欲しい」

 恭しく頭を下げたランサーに対し、セイバーもまた小さく頭を揺らして応えた。

「しかし……世に祀られる英雄による時代を超えた闘争、か。よもやこれ程とは思わなかった」

「ああ。俺もまさか緒戦でこれほどの兵と矛を交える事になるなど夢にも思わなかった。しかしだからこそ、賭けるべき誇りがある。
 負けるなよ、セイバー。貴様の首級は俺が獲る。高潔なる騎士の首は、主君に捧げるに相応しい」

「過剰な評価痛み入る。が、私は貴方の思うような騎士ではないよ。この身を苛むのは負の想念だ。こうして姿を隠匿していなければ、ろくに人前に立つ事さえ出来ない、心の折れた臆病者さ」

 自嘲を込めて謳われたセイバーの言にランサーは思うところはあれどそれ以上の事は口にはしなかった。人にはそれぞれ何かしらの柵がある。ランサーにさえあるそれは、決して払拭しきれない無念だ。
 そして彼がこの場に立つのもまた、生前果たされなかったその願望を成し遂げる事に尽きる。だからこそ彼は相手の思いを汲み、告げるべき言葉を選んだ。

「次は獲らせて貰うぞ、セイバー」

「ああ、覚悟しておこう。そして貴方もまた覚悟しておく事だ。打倒する覚悟を負うというのは、打倒される覚悟さえも背負うという事を」

 幻惑の中に消え去った剣の英霊を見送り、後に残ったのは螺旋の剣一振りだけ。それもやがて風に解け込むように朧となった。

「手強い相手だった……」

 今代のマスターに聖杯を捧げる為にはあの剣士を超えなければならない。余りにも厚く高い壁だが、忠誠を形で示す為には、必ずや砕いて進まなければならない好敵手であるのだから……



『良かったのですか、導師。あのサーヴァントの戦いを衆目に晒すような真似をして。当初の予定では、彼の騎士の出番は最終局であった筈ですが』

「いや、問題ない」

 宝石を用いた通信装置から響く弟子の憂慮の声にも遠坂時臣は揺ぎなく澱みなく答えて見せた。

「真に頼みとする宝具の使用は許可していないし、セイバーが披露したものはその卓越した剣技と奇異な能力のみだ。
 他のマスター達は今頃いかにして我がサーヴァントを討ち破るかの検討に追われている筈だ。流石は最優の名を欲しいままにする騎士だよ」

 使い魔の眼の代わりと地形把握に偵察の任を課したセイバーがよもや勝手に敵の挑発に乗ったのは噴飯ものの謀反とも考えたが、結果としては上々。
 何度か肝を冷やし、幾度も呼び戻そうとさえ考えたが、最優の騎士の判断に委ねた時臣の見極めは功を奏した。

 はっきり言ってしまえば、彼の騎士の実力は時臣の想像を超えていた。宝具らしい宝具でもない剣で以って双槍の宝具を担うランサーに一歩の引けさえも取らず、あまつさえほぼ完封せしめた。

 できれば勝利こそを欲したが、何ら問題ない結末だ。いや、むしろ嬉しくもある。然程情報の出揃わないこの段階で相当の実力者であるランサーのサーヴァントを抑えた手腕は限りない賞賛に値する。

 これに現在、弟子である言峰綺礼に行わせている他のマスター達の情報収集が完了し、サーヴァントの能力さえも丸裸にされた状態で彼の騎士を相手取るということは、もはやその瞬間に勝敗は決していると言っても過言ではない。

 何一つ失うものもなく、時臣に己が実力を認識させ、他のマスター達には畏怖を撒き散らしたセイバーの行動は、マスターの意に反した分を差し引いても御釣りが来る。
 甘やかすのは以っての外だが、健闘くらいは称えてやろう。こちらの心の広さを示し、より深い忠誠心を得られるのなら安いものだ。

 もはや笑いが堪えきれないといった体の時臣は通信機の向こうで言葉を待つ綺礼に更なる余裕ある発言を投げかけた。

「それに、あの騎士の正体に感付ける者はいない。ランサーのマスター……ロード・エルメロイが宝具の使用を渋ったのもそのせいだ。
 たとえ当たりを付けて伝承を繰ったところで理解さえも出来まい。むしろあれ程の力量を持つのなら、真名を知られたところで痛手にはなるまいよ」

「……ですが」

「心配性だな、綺礼は。無論、これからは多少慎重に事を運ぶつもりだ。流石に包囲網でも敷かれては危ういものがある。潰すのなら一体ずつ確実に。その為には綺礼、君の情報が必要だ」

『……は。アサシンに全力で調査に当たらせていますので、今しばらくの猶予を』

「ああ。期待している」

 テーブルの上で静かに待ち焦がれていた血色のワインを手にとり燻らせる。芳醇な薫りが鼻腔を擽り、優越感に満たされた脳髄に甘い幻想を沁みこませていく。
 遠坂時臣の聖杯戦争は既に磐石。恐れるものなど何一つなく、完全なまでの予定調和の上に開幕前に思い描いた通りの絵図が描かれていく。

「ところでもう一つの戦い……アーチャーとライダーの趨勢を君はどう見る?」

 セイバーの眼を借りて戦場を見ていた時臣には空中の戦闘は把握し切れなかった。アサシンのサーヴァントを繰る綺礼から随時戦況は聞かされていたのが、綺礼自身の意見も聞いてみたくはあった。

『現段階では何とも言えませんね。アーチャーの狙撃能力とライダーの宝具の能力に関してはある程度までは把握出来ましたが、まだその先がないとも限りません』

「追跡は出来たか?」

『……いえ。アーチャーは爆発に紛れ霊体化し姿を眩ませ、ライダーは騎乗宝具に乗りそのまま空の彼方へ……。アサシンの足では到底追いつけません。
 しかし、何体かのアサシンを動員し、飛び去った方向から着地点の予測、大体の拠点の位置までなら掴めそうです』

「そうか……」

 ならば首尾は上々だ。どれだけのマスター達が今宵の一戦を覗き見ていたかは定かではないが、充分な情報は得られたと見ていい。
 強いて言えばアーチャーのマスターの存在か。間桐かアインツベルンか、果ては外来の魔術師か……

「これで姿を確認できていないサーヴァントはバーサーカーとキャスターのみ。ここに憂慮が一つか。綺礼、まだ七騎目は現れていないのか?」

『はい。父の持つ霊器盤が捉えたサーヴァントの存在は数にして六。最後の一騎は未だ冬木の地に降りていません』

 時臣に憂いがあるとすればその一点。戦端は開かれ、都合六人のサーヴァントが集っている現状で聖杯が残り一枠に未だ空席を残している事の意味。
 何か酷く不吉な予感がある。過去例のない遅い招来が招く未来予想図は時臣に一滴の泥を落としそうで……

「ふむ……しかし我らに打てる手は少ない。マスターに令呪を託すは聖杯の意志だ。
 聖杯が最後の一枠を定めかねているというのなら、早急に協会で魔術師を準備するのも手か……」

『今から手配しても間に合うかどうか……何れ現れましょう、でなければ儀式自体が立ち行かなくなりますから』

「そうだな。聖杯を満たす供物は七。自ら欠損を出す筈もない。しかし念には念を入れておいて損はない。
 時に綺礼。この状況下で我々は戦端を開いてしまったわけだが、璃正神父から何か罰則の言及はあったか?」

『いえ。導師が関与している以上は御咎めなしと。他のマスターについても同様の処置であると思われます』

 本来、七騎のサーヴァントが揃い踏むまで戦闘行為は厳禁とされる。この約定を破れば監督役からの罰則も有り得るのだが、そこはそれ、審判と手を組んでいる時臣の関与により一切の陳情を撤回させた。

 もし時臣が関与していなければ他のマスターにのみ罰則を課す事も出来たであろうが、結局のところの戦端を切ったのは時臣のセイバーである以上是非もない回顧だ。

「ふむ……不確定要素の存在は気に掛かるが、良かろう。一応の手筈だけは整えておく。綺礼、もし七騎目が召喚されたのならばすぐにでも教えてくれ」

「はい」

 時臣の手の中で揺れていた赤い液体を光に透かし、一息に煽る。喉元を過ぎ去った熱き流体は腹の底で煮え滾る。
 何れにせよ、時臣の算段に全く狂いはない。全ては掌の上、結果の分かりきった出来レースだ。道筋の見えたチェスの如く淡々と駒を勝利へと運べばそれでいい。

「とりあえずは静観と決め込むか。情報収集が終わり次第仕掛けるぞ、綺礼」

 勝利の確信を胸に、時臣はゆったりと椅子に背を預けた。



 剣の騎士と槍の騎士が去った戦場を、遠方より見下ろす一つの影がある。身を隠し、姿を隠匿した状態で事の成り行きを見守っていた間桐雁夜は、罅割れた半面ではない方の表情さえも強張らせて、吹き付ける風の中に身を晒していた。

「なんだ、あのサーヴァントは……強いなんてものじゃないだろう」

 独り言のように呟かれた言葉は風に乗り流れていく。雁夜の見た戦闘は、およそ理解し難いものだった。圧倒的なまでの戦闘力。手数で劣る状況でさえも覆す先見の明。積み上げられた武錬は研ぎ澄まされた水領と化し、清廉なる水面のような美しさだった。

 あれが、遠坂時臣のサーヴァント。有り得ない。あんな俗物にあれほどのサーヴァントを従えられる度量があるなどと、どうして信じられようか。
 あの男が下に跪かせるべきはより傲慢な王者の筈。厚顔無恥を地でいく不遜なるナルシスト……そんなサーヴァントこそがあの男にはお似合いであった筈なのに。

 強く、そして華麗に過ぎる。およそ剣を扱う者の中で、彼の騎士に勝てる者などいないのではないかと思えてしまうほどだ。

「……だが、土俵が違うのなら、あるいは」

 アーチャーの超遠距離射撃は目撃している。その後のライダーの突貫も雁夜から捉えられた。彼らの戦法ならば、きっと届く。己が最大の戦力を発揮出来る舞台に相手を引き摺り上げての戦闘ならば、如何様にも勝つ手段を見出せる。

「何辛気臭い顔をしてるの、マスター」

 突如虚空より投げかけられた女性の声に雁夜は振り向いた。一体霊体のまま何処に遊びに行っていたのか、全てが終わった今頃になって戻ってくるなどと。

「何処に行っていた」

「さあ? この街を私は知らないもの。何処、と言われても明確に返せる地名は思い浮かべられないわ。文句は私に現世での知識を寄越さなかった聖杯に言って頂戴ね」

 この姿なき女こそ雁夜のサーヴァント。一体どんな不条理が働いたのか、あの間桐臓硯ですら呆れさせるほどのサーヴァントを召喚してしまった雁夜は、それでも何とか戦い抜こうとこうして緒戦の戦闘を観察しに赴いていた。

「何度目かになるが……おまえ、それは本当なのか。少なくとも言葉は通じるようだが」

「ええ。いわゆる一般常識的なものは理解しているつもり。だけどそれは最低限の情報でしかなくて、地名だとか通貨だとかそういうのは知らない。それ以上の知識は現地調達してくれってことなのかしらね。聖杯もケチだわ」

「聖杯が託し損ねた知識か……いや、そもそもおまえにはそういう知性を与えるつもりがなかったんだろう。
 だって必要ないじゃないか、バーサーカーのクラスにそんなもの」

 そう、雁夜の召喚したサーヴァントはバーサーカーの筈だった。理性を失い狂気と凶気に支配され、ただ破壊を撒き散らす事こそが存在意義だとでも言いたげな狂える戦士の座。それがバーサーカーであった筈なのだが……

「ま、どうでもいいわよねそんなもの。欲しければ勝手に本でも読み漁るし、足りないようなら貴方に聞くわ」

 少なくとも、雁夜にはこの女が狂っているようには見えなかった。
 伝え聞く過去のバーサーカー達は総じて理性はなく、言語すら解さない怪物であった。だというのに雁夜のサーヴァントは他のサーヴァントと同じように人語を解し、あまつさえ自由行動を取るというおよそバーサーカーらしからぬサーヴァントだった。

 その弊害……お陰というべきか、雁夜は本来なら吸い尽くされかねない魔力をなんとか未だ人のまま維持し切る事が出来ている。
 そして正しくこちらは弊害と呼べるのであろうが、雁夜に見えるバーサーカーのステータスは総じて低い。戦闘に特化しているものとはとても思えない有様だった。

「……実際のところ、どうなんだ。そろそろ真名を教えてくれてもいいだろう?」

「いやよ。女に名前を聞こうとするなら、せめて自分を磨いて出直してきなさい。私はそんなに安い女じゃないんだから」

 聞き飽きた言葉に辟易しつつ、珍しく『でも』と付け加えて実体化したバーサーカーの指が、妖艶に雁夜の頬を撫で回す。

「貴方が私を誘ってくれるって言うのなら……考えてあげてもいいけど?」

 艶のある声音が耳元で囁かれる。背後から抱き付かれる形で雁夜の身体を蹂躙していく甘い匂い。卒倒しそうな甘美なる芳香の中、雁夜は腕を振り払ってバーサーカーを引き剥がした。

「ああ……おまえは充分に狂っているよ。愛というものにな」

 傾けた視線の先にあるのは艶然たる肉付きのいい肢体。しかしどこか高貴さを漂わせる風格を持ち、長くけれど美しい艶やかな髪を風の中に揺らすその様と口元に浮かべられた優美な微笑は、世の男共が求めて止まない女神のようだった。

「馬鹿なヒト。女なんて皆愛に狂っているわ。愛を失くした女は死んでいるも同然よ。そして女を飾るのは男の羨望と秘め事よ。覚えておきなさい」

「……ふん」

「まあいいけど。それより、そっちこそどうなのよ。そろそろ覚悟は決めたの?」

「何の話だ」

「やぁね。貴方がこの戦いに望む理由……それは本当にあの子の為だけ? あの子さえ救えれば本当にそれでいいの?」

 雁夜がバーサーカーに直接自分の参戦理由を話した覚えはない。ならば臓硯が吹き込んだか、あるいは彼女とのやり取りを見られていたか、そのどちらかだろう。

「決まっている。俺が聖杯を目指すのはあの子を間桐より解放する為だ。その為にこんなザマになってまでマスターになったんだ。
 まあ、それもおまえのようなサーヴァントを召喚してしまったせいで前途多難だがな」

「ふふ、褒められたと思っておくわ。
 だけど、それが本心? まだ隠しているものがあるでしょう? 貴方はあの子の為と叫びながら、その実自分の為に戦うのではなくて?」

「──────」

 雁夜の心臓が一際大きく跳ねた。体内に蔓延る蟲がざわめき立つ。蠢動を繰り返す蟲共を抑え付け、心臓の鼓動さえも跳ね付けて、雁夜は己がサーヴァントに鋭利な視線を突き刺した。

「……おまえに一体何が分かる。俺の何が、おまえなどに分かるんだ」

「分かるわよ。貴方も私も狂っている。貴方が口にした言葉は正確よ、雁夜。私は愛に狂い地に堕ちて、貴方はこれから墜ちていくの。
 だから分かるわよ、貴方の事。先駆者として忠告しておくと、欲しいのなら奪い取りなさい。取り戻せなくなる前に。狂気に身を委ねてしまうその前に……ね」

 その言葉は何処か、悲しみに彩られていた気がした。後悔とも無念ともつかない負ではない想念。ただただ身を焦がす炎のようで、冷たい雨に打たれるように、彼女の顔に涙を見た気がした。

「……行くぞ。もうここには用はない」

 未だ留まる女をそのままに、雁夜は階下へと通じる階段へと足を運ぶ。

 吹き曝しの屋上の上に憂いを秘めた瞳をした女が一人。彼女が自らを喚び寄せたマスターに向ける視線に込められた意図は、無機質な扉に阻まれ届かなかった。


/Nightmare


「何たる醜態だッ!」

 冬木ハイアットホテルの最上階を貸し切ったケイネス・エルメロイ・アーチボルトはその中のスイートルームで椅子に腰掛けたまま、掻き毟らんばかりに戦慄きながら頭を抱えていた。

 彼が苦悩する原因はサーヴァントにある。先の新都での一戦、彼のサーヴァントであるランサーは完璧なまでに負かされた。
 アーチャーの横槍で掴んだチャンスをものにしようと令呪に訴え宝具を解放しての決着に及んだというのに、結果はどうだ。

「ふざけるなよッ! あんな、あんなサーヴァント認めるものか! そして、そしておまえの役立たずぶりもなァ……!」

 傍らに控えるランサーの表情は暗く影を落としている。無論、約束した勝利を持ち帰れなかったせいでもあるが、それ以上に彼のマスターはランサー以上に先の闘争の内容に酷く落胆していた。

「おい、答えろランサー。おまえはどこまで稚気を弄した?」

 鋭く射竦められてもランサーは返せる言葉を持ち合わせていない。稚気など、ない。確かに最初は互いの力を測る為に興こそ乗りはしたが、令呪の強制が働いた以後は全力を尽くした。尽くして、けれどセイバーには及ばなかったのだ。

「……弁明があるなら聞こう、サーヴァント。おまえはセイバーに完膚なきまでに負かされたな。その前におまえは私に誓った筈ではなかったか? 実力を示すと。私の為に勝利を持ち帰ると。
 あれがおまえの実力か? おまえが私に示したかったものはセイバーに及ばないという敗戦主義の賜物か!?」

「我が主よ。決してそのような意はありませぬ。私は持てる力の限りを尽くしました。騎士の誇りに誓い、手を抜くような真似は決して────」

「戯けがッ!」

 テーブルの上に置かれていたグラスの中の冷や水を浴びせられてランサーは押し黙る。激昂したケイネスの怒りは収まるところを知らない。

「おまえは今自分が何を言っているか理解しているのか? 今おまえはな、自分でセイバーに及ばないと口にしたのだぞ。
 こんな、こんな馬鹿な話があってたまるものか。私はエルメロイ、ロード・エルメロイなのだ。それがこんな、緒戦で辛酸を舐めさせられるなどと……」

 割り砕かんとばかりに握り締められた硝子のグラスをあらぬ方向に放り投げながらケイネスはまたしても頭を抱えた。

「くそぅ……こんな、こんな筈じゃなかった。そうだ、悪いのはあの小僧だ。あの小僧が私の聖遺物を持ち去ったりしなければ、今頃……」

「────だらしのない。それでも私の夫となる者ですか」

 凛とした声音が室内に木霊する。一体いつからその場所に居たのか、真紅の髪をしたまだうら若き一人の乙女が強い口調で切って捨てる。
 怜悧な眼差しと堂々とした物腰からは年齢以上の貫禄が醸し出され、王女というよりは女王の風格を漂わせる女性だった。

「そ、ソラウ……」

「情けない。たかが一戦に敗北を喫しただけで頭を抱えるなど、本当に貴方はあのケイネスなのかしら?」

 大胆にケイネスの腰掛ける一角に詰め寄ったソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは、憚りもなく重く罵った。

「し、しかしソラウ。今夜の敗戦は大きすぎる。セイバーの圧倒的戦力はランサー自身とて認めるところだ。悲嘆に暮れるのも仕方がないだろう……」

「ええ、確かに。結果だけを見れば負けと言っても過言ではない内容だったわ。
 けど、ランサーはまだ生きているし貴方だってまだ何もしていない。策なんて幾らでもあるでしょう?」

 確かに、サーヴァントの闘争を結果としてみれば敗戦だろう。だが聖杯戦争の全てはそれでは決まらない。趨勢を決定付けるものはマスターかサーヴァントの完全な死以外に有り得ない。
 今なおケイネスもランサーも存命の状態なら如何様な手段も講じられるだろう。

 セイバーの情報はある程度知れたのだから単騎で敵わないのなら同盟を結べばいい。ようとして知れないセイバーのマスターを直接討つのもまた方法論の一つに数えられる。マスターとサーヴァントが健在である限り、まだ負けたわけではないのだ。

「だというのに貴方と来たら。もう負けた気になって頭を抱えるしかないなんて。
 ねえランサー。私は貴方がセイバーに負けたとは思っていないわ。最後の衝突は確実に貴方が圧していた。
 破魔の紅薔薇はあのセイバーの天敵と呼べる能力だし、まだ露見していない必滅の黄薔薇をセイバーは最警戒しているわ」

 最後の衝突の最中、セイバーの一刀を砕いた後のランサーの猛攻は確実にセイバーを追い詰めていた。未だ見ぬ黄槍の能力の発現を恐れたセイバーは黄槍の穂先に触れぬ事に終始して、結果として赤槍はセイバーの鎧を穿つ事に成功していた。

 悪かったのはタイミングだけ。もしあのまま続けていれば違う結末もあったのかもしれない。

「ランサー、貴方はもう一度セイバーと穂先を交えあうことになったのなら同じ結末しか有り得ないと思う?」

 水を差し向けられたランサーは毅然として頭を振った。

「いえ、それはないと断言します。二度同じ轍を踏むわけにはいかない。次があるのなら必ずやセイバーの首級を主の前に捧げましょう」

「ランサーはこう言っているけど?」

 今度はケイネスに矛先が向けられ、歯噛みしながらも言った。

「……分かった。今宵の失態は不問とする。しかし、次はないぞランサー。もしセイバーでなくとも他のサーヴァントに遅れを取るような事があれば覚悟を決めておく事だ」

 吐き捨てるだけ吐き捨ててケイネスは逃げるように寝室へと転がり込んだ。室内にはランサーとソラウだけが残された。

「本当、困った人。神童と謳われながら、こういう脆い面があるのは致命的よね」

「ソラウ様」

 嘆息しかかったソラウが振り仰げばそこにはランサーの面貌がある。精悍に整った美丈夫の端正な顔立ちが。

「私の為に弁明を下さり有難う御座います」

「え、ううん。いいのよ、私は私が思った事を言っただけだから」

 先ほどまでの剣幕は一気になりを潜め、恥らう乙女の視線をランサーに注ぐソラウの頬は紅潮していた。

「ただ、我が主への侮辱はお止め頂きたい。ケイネス殿に仕える騎士として、主への不敬はたとえソラウ様といえど看過出来ない」

「ご、ごめんなさいっ。私、そんなつもりじゃなくて。ただ貴方の事が、その、見ていられなくて……」

 しどろもどろに弁明をするソラウには最早先ほどまでの姿が嘘のように感じられる。必死にランサーの言葉を釈明しようと目を泳がせる様は、年相応の少女のそれだ。今にも泣き出しそうな彼女を見て、ランサーは呟く。

「いえ、申し訳ありませんでしたソラウ様。ソラウ様の言も全ては私の身を案じてのものであるというのに」

「ううん、いいのよランサー」

 そっとランサーの手を取り包み込む繊細な掌。穢れを知らぬ肌理細やかな指がランサーの指と絡み合う。

「勝って、ランサー。ケイネスの為に。私の為に。聖杯の頂を目指して、共に力を合わせましょう」

「……はい」

 頷いたランサーであったが、内心は穏やかならざるものだった。ソラウが彼を見つめる瞳は色恋に落ちた少女のそれだ。
 頬を染めて愛おしそうにランサーの指に己が指を絡める所作とて、ランサーは気の間違いであると信じたかった。

 ランサーの輝く貌に灯る魅惑の黒子。湖水へと落ちた一粒の雫の如き輝きを放つ、生まれ持っての呪いとも言える遍く異性を虜にする甘い罠。
 ソラウがランサーに向ける視線は、ただケイネスのサーヴァントに対する計らいであって欲しい。

 ソラウは主君の許婚であり、ランサーはただの一従者。その二人の間に恋などあってはならない。
 在りし日の彼の妻の顔が脳裏を掠める。情欲に濡れた双眸で見上げる仕えるべき主君の姫の熱い眼差し。

 決して破ってはならない誓いを契りと交わされた遠い悠久の日々。

 己の選択に後悔はない。ただ、今生こそは生前に果たせなかった忠義の在り処を。この命燃え尽きるその時まで、ただ一振りの槍でありたいと願わずにはいられない。

 窓の外には夜空に浮かぶ白い月。
 彼の内心の不安を払拭するには、余りにも綺麗過ぎる月夜だった。



 夜も深く、日もとうに沈んだ夜半にも関わらず切嗣と舞弥は今日一日に手に入れた情報の整理と確認に忙殺されていた。

 新都で起きた戦闘の委細は二人が事前に放った使い魔の眼を通し把握しており、特に舞弥の使い魔の腹に括りつけたカメラが捉えたセイバーとランサーの一戦は研究対象として充分な成果であろう。

 現に、薄暗い居間のテレビに映し出されている映像は月下で行われた二騎のサーヴァントの鎬の削り合いだ。どちらも兵だが、とりわけセイバーのステータスと能力には目を見張るものがある。

「一切のステータスを窺い知れないなんて……これもセイバーの能力か?」

 マスターにだけ賜れるサーヴァントのステータス透視力。一度サーヴァントと視認したものの基礎能力値とある程度までの技能の把握を可能とするこの異能を以ってして、セイバーの能力は一切が不明瞭。
 脳裏には図として確固たる形が浮かび上がりながら、その委細については波打つ水面の如く揺らぎ、読み取れず詳細は知れない。

「ロード・エルメロイが宝具の使用を渋ったのもこの能力のせいか。確かに、素性の全く知れないサーヴァント相手に緒戦で宝具を露見させるのはリスクが高すぎる」

 結果としてランサーのマスターは宝具に訴えたが、それでも終始優勢はセイバーの方だった。高すぎる技量。セイバーのクラスに恥じない能力値と秘めたる技能を未だ隠し持っている敵……

 しかし、いかにステータスの隠匿をしようともあれだけまざまざとした強さを露見させてはある程度の推測は立つ。
 協会屈指の花形講師であるケイネス・エルメロイ・アーチボルトのランサーを抑え込んだところを見れば、同等以上の力量を有するマスターがいて然るべき。

「十中八九、セイバーのマスターは遠坂時臣だろう」

 厄介な敵だ、と内心で呟いた。

「切嗣。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの所在が割り出せました。冬木ハイアットホテルの最上階を貸し切っているそうです。名義も本人のもののようですから間違いはないかと」

「そうか。引き続き割り出せそうなものがあれば頼む。出来ればライダーのマスターの所在が判明すればいいのだが」

 パソコンに向き合ったままの舞弥からの報告を耳に入れながら、切嗣は繰り返しセイバーとランサーの戦いの一部始終を見続ける。

「手にしたものを己が宝具にする能力……穂先の触れたものの魔力を断ち切る槍か」

 今回の戦いの中で露見したサーヴァントの能力は余さずチェックする。特にセイバーの能力は厄介だ。アーチャーの矢を掴んで己がものとした事から、他の武具に関しても奪い取られる可能性がある。
 相性の面で考えると分が悪い。セイバーは出来れば他のサーヴァントに斃させるか、遠坂時臣を討ち取る事で排除したい。

 一通りの確認を終えた切嗣は次に己がサーヴァントとライダーの対峙に記憶を飛ばす。こちらは映像として残るものはなかったが、アーチャーに程近い位置に据えて置いた使い魔の眼を通し直に見ている。
 目に焼き付けた委細については何の問題なく回想出来る。

 告白するのなら、アーチャーの戦力は切嗣の誤算だった。

 数キロの彼方からの精密な狙撃能力。一撃の威力に特化した矢から数を優先した矢束からと戦略の幅も広く、ライダーの戦車を釘付けにした戦術眼と鮮やかな撤退も充分評価に値する。

 切嗣からの指示がない状態でほぼ理想形として戦場に関与しつつも手札を残したままセイバー、ランサー、ライダーの各々に一枚ずつカードを切らせた。
 無論全てがアーチャーの手柄というわけではないが、とりわけライダーに関する情報は得難いものだろう。

 前情報のほとんどなかった外来のマスターの姿とライダーの真名、更には宝具まで露見させた。真名については勝手に名乗ってきたのだが、そこはそれ、あの気性のサーヴァントなら頷けるというものだ。

 結果として、切嗣のアーチャーに対する評価はかなり高く纏まった。後はどれだけ切嗣に共感し残虐の限りを尽くせるか。機械には必要のないメンタル部分での鬩ぎ合いとなるだろう。

 どれだけ有用な武器であっても、持ち主の意にそぐわないのなら価値はない。手に馴染むコンバットナイフと融通の効かない戦略核ならば、切嗣は迷わず前者を手にする。それほどに相性というのは戦局に影響を及ぼすのだから。

 ただ、それでも切嗣はまだアーチャーを疑っていた。むしろ濃くなったと言っても過言ではないかもしれない。アーチャーが放った矢。無数の矢はいいとしても、セイバー達へと放った初撃、ライダーへの初撃と最後の一撃。

 この三点には共通して見過ごせない点があった。その共通項とは全てが矢というの名の剣であったという事。事前に調べ尽くした英雄譚の中にそんな奇異な手段を用いる弓兵はいなかった。
 不可解だ。そしてその全てに共通する神秘の含有量……あれは、あの剣群は宝具にさえ匹敵する威力を秘めてはいなかったか……

「あなた」

 突然声を掛けられて振り仰いだ先には銀の髪を流す女性の姿があった。

「アイリ……? どうしたんだい、もう眠ったと思っていたけれど」

「うん。寝ようと思ったんだけどね、切嗣と舞弥さんが頑張ってる中で一人だけ先に眠るのもあれだし……ほら、コーヒー淹れたの。疲れてるでしょ?」

「ありがとう、助かるよ」

「ありがとうございます、マダム。切嗣、私は別件の情報収集に当たりますので、少し席を外します」

 舞弥は渡されたカップを手に居間を後にする。

「舞弥さん……気を使ってくれたのかしら」

 アイリスフィールは切嗣の傍に腰を下ろした。自分もまた黒い液体の入ったカップの温かさに触れながら。

「成果の方はどう?」

「ああ。アーチャーは思いの他よくやってくれた。緒戦にしては充分な戦果だろう」

 今は警戒の任として外の守りを任せているアーチャーに労いの言葉を。
 コーヒーに口をつけ盛大な溜め息をついた切嗣は首を鳴らし疲れを実感する。ずっと同じ姿勢でいるのは流石に堪える。

「当面の注意を払うとすればやはりセイバーだろう。そうだな……いっその事……いや、早計に過ぎる、か?」

 一人思考の渦に囚われかけた切嗣の目の端に伏し目がちのアイリスフィールが目に止まり首を傾げた。

「アイリ? 疲れているのなら早めに休むんだ」

「え? ううん、違うの。ただ、もう始まったんだなぁって思っちゃって」

 戦端は切られた。後は加速的にその凄惨さを増していくだけだ。闘争はこれより街の至るところで勃発し、人知れず殺戮の宴が繰り返される。
 そしてその果てにこそ、二人の望むものがある。恒久の平和。ありとあらゆる紛争と闘争のない静かなる世界を作り上げる為に、彼らは冬木の地に降り立った。

「心配しなくていい、アイリ。聖杯を掴むのはこの僕だ。他の誰にも渡しはしない」

「ええ、必ず。この地で流される血が世界に落ちる最後の流血であるように。貴方と、あの子が安らかに暮らせる世界を掴み取って」

「アイリ────」

 妻の身体を抱き締めて、切嗣は覚悟した。
 アイリスフィールの願いは、自らを犠牲とする決意に他ならない。もしかしたら、この細い身体を抱き締められるのは最後になるかもしれない。
 だから強く。強く忘れないように、この温もりを刻み付けるように切嗣は愛する妻の身体を抱き止めた。

「……切嗣」

 アイリスフィールもまた抱き締める腕に力を込める。人としての温もりをくれた愛する人の感触を離したくはないと願いながら、決して叶わぬユメと知りながら。
 長く、二人は互いの温もりを感じ合い、どちらともなく寄せていた身を名残惜しそうに離した。

「アイリ。明日からは僕も戦いに赴く。この家に帰らない日もあるだろう、この家と君の守護は舞弥に任せるつもりだ」

「はい、分かっています」

「長い戦いになると思う。けれど、僕は負けない。必ず、君をもう一度迎えに来るから」

「ええ。待っているわ、切嗣。必ず、迎えに来て」

 口にした言葉を決意に変えて。覚悟に変えて。二人の男女は確たる意志を胸に灯し、深まりゆく夜の中で確かな愛を交し合った。



 その男は、夜闇に紛れてある人物を追跡していた。

 禁忌に触れた魔術師への制裁行為……俗に言うところの封印指定の執行者として彼は冬木の街に溶け込んだ。

 封印指定を受ける人物には大別して二通りの種類がある。一つは稀代の才覚を有し、しかも世代継承を行えない当代にのみ許された奇跡の術を、失わせずに後世へと残す為の保護の名目での拘束。

 もう一つは魔術の領域を逸脱した行為を行った者に対する制裁。たとえば秘匿されるべき神秘を俗世に露見させた場合はこちらに該当する。
 前者と同じようにこちらも身柄の確保も行うが、最優先すべきは魔術の秘匿ただ一点。その為とあらば、たとえ天才であろうとも刻印さえ無事なら殲滅の対象に成り得る。

 特に後者は教会の代行者も出張る一件に成り得る可能性の高いもので、争奪戦の様相を呈した事は過去一度や二度では済まない。代行者らはあくまで異端者の殲滅を優先し、執行者は封印を優先する。

 その観点から見れば、彼は今後手を踏んでいると言えるだろう。極東に位置するこの島国には協会の支部は存在しない。独自の魔術体系を確立した日本には協会の勢力も及んでいないのだ。
 対して、聖堂教会の手は世界各地に根を張っている。表向きは世界でも有数の一大宗教を信奉するだけはあり、信徒のあるところには必ず教会の目がある。

 その意味では、彼が身分を秘匿してまで入国した苦労は水泡と帰す可能性が高い。この国に入る時点で彼は単独行動を強いられた。
 裏の組織に属する彼らが団体で入国しようとするのであれば、それこそ密入国でもしない限り数日間土着の機関に拘束される事も覚悟しなければならないからだ。

 彼にはそんな悠長に構える時間がなければ気質でもなかった。ようやく追い詰めた獲物であるのだ、ここまで来て教会の狗に掻っ攫われるのは御免だとばかりに半ば強引に冬木へと降り立ったのだ。

 そしてそんな彼の勇敢な行動は事ここに至り功を奏した。獲物が逃げ込んだ地が今聖杯戦争とかいう儀式の真っ只中にある事もあり、教会の目はそちらにばかり向いており彼らに注目は集まっていなかった。

 しかし、是非もない事だろう。彼が今追っている人物は逃げ足ばかりが速いだけの異端者だ。研究内容は魂の再現、死者の蘇生というありきたりなもので、しかも露骨に市井の人間を実験材料にするものだからお粗末もここまで行けば辟易とする。
 魔術師ならばもっと巧くやれと思わずにはいられなく、仮にもそんな子悪党と自分が同類として見られるのは耐え難い屈辱ですらあった。

 彼がそんな小物を追い駆けるのはもはや私情さえ挟み込んでいた。魔術師の面汚し……教会の狗ではないが、灰は灰に、塵は塵に疾く還れと苛立ちを逆巻かせていた。

「さあ、追い詰めたぞ」

 静かな住宅街の一角に設けられた墓地へと追い込んだ執行者は怒りを滲ませて呟いた。墓石に身を隠しているその様は余りに滑稽で、どうしてこんな辺境の地まで逃げられたのかと吐き捨てたい気分だった。

「鬼ごっこは終わりだ。ほら、さっさと姿を見せろ。悪い事をしたらちゃんと罰を受けないといけないだろう?
 今ならまだ確保で済ませてやるが、抵抗するなら処分するぞ」

 彼は懐より何の変哲もない一本の針を取り出し、ぶんと風を切るように振り払った。同時に、彼の手の中には炎の剣が顕現する。
 ある特殊な素材と彼の家系に伝わる秘術で編まれた針は触媒として機能し、彼の属性たる炎を増幅し自由自在の形を作り得る。

 仮にも執行者を名乗る彼ならではの戦闘魔術。シンプルであるが故に破り難い戦闘スタイルだった。

 夜の闇を照らす炎は絢爛に燃え盛り名も知らぬ墓碑銘を映し出す。
 彼の脅迫とも取れる辛辣な物言いに相手は応じる様子はなく、墓石の後ろでぶるぶると震えているだけだった。
 憤慨も露に舌打ちをした執行者は苛立たしげに文言を紡ぐ。

「出て来る気はない……と。ならば我が名と魔術協会からの勅命によりおまえを処分対象と認める。さよならだ、ぼーや」

 指に挟んだ針を一振り。それで勝負は着いた。剣の形をしていた炎は彼の意思に従い鋭利で長大な槍と化し、墓石ごとその後ろに隠れていた逃亡者を刺し貫いた。

 刃物の怜悧さと炎の熱。身を焦がす痛みの渦は夜を突き破る咆哮を上げて余りある激痛を呼び起こすが、事前に敷いた遮音の結界が正しく機能し、絶命の遠吠えを聞く者を彼一人に限定した。

 火の爆ぜる音を聞きながら心地よい気分に浸る。

 彼は火が好きだった。全ての闇を照らし上げる絶対なる煌き。自然界に恒久的に存在しない、およそ人が手に入れた物の中で最高の叡智。
 火の歴史は人の歴史だ。火のお陰で人はここまで急激に成長し、動物とは一線を画す霊長類最強の種族にまで上り詰めた。

 つまり、火とは人にだけ許された権力の象徴。

 あの赤い揺らめきの中には総てがある。人の宿業、人の歴史、人の死。ありとあらゆるものを飲み込み映し出してきた焔は彼の誇りですらあった。

 加えてようやく追い詰めた異端者を刈り取った後ともなれば一服の一つもしたくなるものだ。
 煙草の一本を取り出し火花で熱を灯す。吐き出した息は夜気の白さではなく、充足感を形にする勝利の狼煙であった。

「さて、と。流石に消し炭にしちゃマズい。持って帰るのが役目だからな」

 くいと指を引けば伸びた槍は収縮し灯火にまで勢いを落とし針の先で燻っている。穴を空けてしまった墓標は後で修復しなければいけないかと事後処理に頭を廻しながら大胆に間合いを詰めた。

 それが、いけなかった。

 墓石にしがみ付く形で命を終えた筈の屍骸が、よもや牙を剥くなどと彼は考えもしなかった。
 バネ仕掛けの機械のように飛び上がった異端者は文字通りに彼にその牙を突き立てた。尖り鋭さを増した犬歯が彼の首に二つばかり穴を作り上げた。

「キサマ────!」

 勢いを増した炎に煽られ吹き飛ぶ異端の影。しかし、全てが遅い。彼の身を襲うは酩酊に似た浮遊感。意識が混濁し、震える膝を抑え付けるのに精一杯であった。

「貴様……まさか、成し遂げていたというのか!?」

 ゆらりと立ち上がる影。嗤っている。嘲笑っている。こんな結末は認めない。彼のプライドが認めてなるものかと強がっても、歪んだ視界に呼応するように身体の自由が、支配が得体の知れない何かに犯されていく。

「神の庭から何やら臭うと思えば……よもや、死徒とはな」

 黒衣の男。それが、彼が意識を手離す直前に見た最後の光景だった。



 外人墓地へと降り立った綺礼が見た光景はおよそ慮外のものだ。情報としては聞き及んでいた。魔術協会により封印指定を受けた魔術師が日本に潜伏している可能性があると。しかしそれがまさか冬木市に隠れ潜んでおり、

「しかも、死徒化を果たしていたとあっては、さて。執行者には些か荷が勝ち過ぎる領分だろう」

 足元に倒れ伏した執行者に視線を滑らせながら、綺礼は僧衣の裾から両手に計六本の黒鍵を顕現させた。

 しかし解せない。彼の聞き及んでいた情報によれば単に神秘の露見に加担してしまったが故に封印指定を受けただけの小物であった筈だが。
 魔術を極めて死徒へと至る者も稀にいると聞くが、彼らは総じて高い技量と才覚を有している。少なくとも、綺礼の目の前の人物についてはそこまでの才能はなかったと記憶していたのだが……

「是非もない。この土地に迷い込んだこと、そしてこうして面と向かって認識してしまった以上見過ごす事は出来ない。
 君の殲滅の任は受けていないが、我らがこれよりこの地で行う儀式に余計な異分子は不要なのだ。速やかにご退場願おう」

 言うが早いか、闇を走る六閃。銀色の閃きが吸い込まれるように立ち尽くした異端者目掛けて疾駆する。
 身の危険を察知したのか、惑うように逃げ回る異端者。綺礼は間断なく黒鍵を抜き放ち逃げ場と機動力を削いでいく。

「…………」

 力量としては下の下。リビングデッドの方がまだマシだと思わせるくらいに歯ごたえのない相手だ。ただそれでも執行者は油断から襲撃されたのだ、完全に息の根を止めるまでは容赦はしない。

「…………ッ、ぁ!」

 逃げ惑う異端者の足へと突き刺さる二本の黒鍵。倒れ伏したソレに更に打ち付けられる銀閃。四肢の全てを針と穿ち、完全に動きを縫った状態で更に綺礼はトドメだとばかりに黒鍵を抜いた。

 そして手にした剣を振り抜こうとした瞬間、異常は起きた。
 突如として墓標に灯る火。整然と並んだ全ての墓石の上に奇妙な火が灯り、ゆらゆらと揺れていた。
 綺礼が訝しむ間もなく、更なる脅威が降り注ぐ。

「ぬ……っ!?」

 乾いた土を突き破り生えてくる人間の手。一つではない、二つ、三つと数を俄然として増していく腕は、間違いなく葬られた筈の死者の腕。強靭な力で足首を掴まれた綺礼は困惑と焦燥に胸を焦がしながら眼前の奏者を見た。

 嗤っている。この死者を繰っているであろうその異端者は、四肢を血で染め上げながら嗤っていた。

 ────何者なのだ、この女……

 妖しく嗤う眼前の女を見やり、綺礼はそれでも落ち着きを取り戻し呟いた。

「アサシン、殺せ」

 闇に溶け闇を斬り裂く無数のダークが四方より投擲され、女の身体を穿ち、またしても倒れ伏した。綺礼は足元に絡み付く死者の腕を引き剥がし一度後退した。

「ご無事ですか」

「ああ。まさかおまえの力を借りる事になるとは思わなかった」

 潜ませておいたアサシンの一人が傍に侍り、綺礼はまだ疑いの消えない眼差しを決然と伏した髪の長い女に向ける。
 よもやサーヴァントまで動員する事になろうとは。しかし、完全に消し去らなければなるまい。この女は異常だ、ただの死徒ではない予感がある。

 確実に殲滅する。サーヴァントであるアサシンの動員まで果たして死徒の一匹も狩れないとあっては名折れだ。決着をつけると踏み込んだ瞬間、綺礼の視界を埋め尽くしたものは異常という言葉すら生温い怪異だった。

「────な……んだと!?」

 外人墓地を埋め尽くす墓石の全てが吹き飛び、現れるは死者の群れ。更には絢爛たる炎が顕現し、周囲を輪のように取り囲む。
 炎を生み出したのは先ほどの執行者。色を映さない瞳を茫洋と揺らしながら手にした針を指揮棒の如く振るい死者と炎の音頭を取る。

 最奥にはあの女が嗤っている。更にその背後には虚ろな影。幻想に居座る巨大な怪物の光り輝く瞳を見た気がして。
 手を天に掲げる女を見やった綺礼は幻覚でも見ているのかと我が目を疑ったが即座に理解した。

 ────こいつ、マスターかッ……!

 少女の手の甲に燦然と輝く鎖状の文様は令呪のそれ。そして背後に揺らめく化物の影。あれこそ恐らく、最後の招来を焦がれていたサーヴァント。
 異常な蘇生能力を持つ死徒と怪奇なサーヴァントの組み合わせ。更に執行者までを手駒と化した異形の能力。

 放置しておいていい相手ではない。が……

「退くぞ、アサシン。今の我らでは役者不足だ」

 サーヴァントにあって最も戦闘力に欠けるアサシンの真骨頂は暗殺にある。こうして姿を露見させた上での対峙は既に敗北しているのと変わらない。
 能力の知れないサーヴァントを相手にするには、些か以上にきついメンバーだ。

 僧衣の裾に隠し持っていた全ての黒鍵を雨と降らせながら綺礼は素早く外人墓地より離脱する。盾となって土に還る死者、燃え盛る炎に阻まれる黒鍵。されど、女と化物は依然健在で。

「アハ、アハハハ、アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」

 遠慮のない哄笑を遥かな月に謳いながら、炎の中で少女は踊る。円舞のように、輪舞のように、鎮魂歌に乗せて。

 ────今宵、最後のサーヴァントが悪夢として顕現した。













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