正義の烙印 Act.03 /In the Daybreak 明くる日の新聞の一面を飾ったのは新都における建築途中のビルの炎上騒ぎだった。 真実は隠蔽され璃正神父の総括の元、聖堂教会のスタッフが総出で関係各社に働きかけを行い、事実は歪曲されて世に出る事となった。責任の一手は管理会社に押し付けられ、今頃彼らは針の筵の気分であろう。 魔術師とはいえ市井の只中に身を置き、しかも土地の管理を任された遠坂家にあっては新聞の一つも購読している。 世俗の情報を取り入れる上で新聞は然程に有益な働きをし、近年ではおよそ一般家庭に普及したテレビを全く見ない時臣にとっては唯一の情報源だったとも言える。 彼の家には現在彼一人しかいない。勤めていた多くの侍従には暇を出され、妻子もまた禅城の邸宅に預けられた今、聖杯戦争の当事者たる頭首ただ一人が健在だった。 家事の一手を侍従や妻に任せ切りだった時臣だが、家訓である“常に余裕を持って優雅たれ”の心得は如何なるときでも忘れない。 普段と変わらぬ時間に起床し、手抜かりのない朝食の準備を完璧にこなし、優雅に食して片付けも早々に終え、今では書斎にて食後の紅茶に舌鼓を打ちつつ、新聞に目を通している次第であった。 「ふむ……」 新聞の一面に踊った文字から璃正神父の隠匿は間違いなく行われたものと承諾し、時臣は更に一口紅茶を啜った。 しかし、彼はそのような危惧を抱いてはいなかった。面識深い璃正神父にあってはこの程度の隠蔽工作などお手の物であろう。前回から監督役を任されているだけの人物であるのだから。 だから時臣が一面に目を通したのはあくまでただの確認。冬木の地を預かる者としての責任を果たす為に視線を落としたに過ぎない。 むしろ──彼が着目した記事は別のところにあった。 「『怪奇、墓荒しか!? 深夜に行われた卑劣なる行為の真実とは……?』 クッ、今時の新聞はこんな文言を見出しにするのか」 注目を浴びたビル火災のその裏側、真夜中に起きたもう一つの異常。一夜にして教会の麓にある外人墓地にあった全ての墓が暴かれ、更には火を放った痕跡まで確認されたとされる一記事にこそ、時臣は着目した。 「ふむ……こちらの隠蔽はしかしほぼ完全だな。時間帯が良かったせいもあるか」 『はい。深夜でしたので人目につき難かった点。先行していた執行者が結界を敷設していた点。そして教会から程近く、私が第一発見者となった点が功を奏したかと』 ビル火災は多くの人の目に晒され、それこそ新聞の一面を飾るほどの注目を集めたが、墓地での一幕はほぼ完全に隠蔽され、どうしようもなかった墓荒しと痕跡を消しきれなかった火災の痕だけが事実として世間に露見した。 しかし、この程度なら何ら問題ない。ほとんどの人はこの記事には注目せずビル火災に着目するし、仮に興味を持ったところで真相は闇の中。酒に酔った若者が持て余した鬱憤から墓所を暴き立てたという辺りが関の山だろう。 「そう……誰もこの真相には気付けない。この一連の異常が、まさか最後のサーヴァント招来に関わっているなどとはね」 綺礼より昨夜の一連の出来事の報告を受けた時臣はその事実を黙秘とした。殊更他のマスター連中に教えてやる義理などないし、敵の正体を知る存在が自分と綺礼だけであるのはむしろ好都合だったからだ。 「死徒化した少女と化物のサーヴァント、か。ふむ……そんなもの、有り得る筈がないのだがな。聖杯の招く英霊に怪物、それこそ悪に類される者が組み込まれる事など」 『しかし、確かに私はこの目で確認しました。少女の手の甲に宿る令呪と、その背後に揺らめく化物の影を』 俄かには信じ難い事であったが、綺礼が嘘を吐く理由もない現状、時臣は弟子の言葉を信用して思考に耽った。 「何れにせよ、これで七人七騎の参加者は集った事になる。一つ憂慮が消えてまた一つ憂慮が生まれた事を良くは思えないが、さて……どう対処するか」 綺礼から第一報を受けた時点で時臣は協会に探りを入れている。今は封印指定を受け、執行者に追われていた当該の少女の委細を引き出す為に協会に置いた知人からの情報提供を待つ段階だ。 ただ座して待つのも時間の浪費と考える時臣はこうして朝早くから隠れ潜む綺礼と通信機で会話をしながらより詳細な情報を纏め上げようと躍起になっていた。 「ん……来たか」 通信機の傍に置かれていた振子状の装置が勝手に揺れ出した。振子の先端に嵌め込まれた宝石と遥かロンドンにある時臣の知人が手にするペンの先に同じく嵌め込まれた宝石が共振し、遠い地球の裏側で筆記された情報の全てを勝手に網羅してくれる、魔術仕掛けのファクシミリだった。 揺れる振子の先に滴るインクが生乾きのまま時臣は書き上がった一枚を手に取り目を滑らせていく。 「……対象の名はフュルベール・カノヴァス。封印指定を受けた理由は研究内容である魂の再現及び死者蘇生の危険性から……とは建前であり、本当の理由はその猥雑な研究手段により、市井の人間を攫い実験の材料と化し、神秘の漏洩に関与したから、か」 更に二枚目には彼女が隠居していたとされる工房から見つかった魔術の痕跡から、如何様な研究が行われていたかの仔細について述べられていたが、流し読んだ時臣の目に留まるような成果らしい成果は見受けられなかった。 つまり、単純にレベルの低い魔術師が身の程を弁えずに研究に終始し、あまつさえその稚拙な行動が全ての引き鉄を引いたというわけだ。 「魔術師にあるまじき体たらくだな。研究内容にも目を見張るものはなく、お粗末極まりない。三流もいいところだ」 吐き捨てると同時に手にした紙をはらりと舞い落とし、時臣は元の椅子へと戻った。 「とにかく、どんな理由があるにせよこのフュルベールという女がマスターとなった以上はこちらの管轄だ。 魔術協会、聖堂教会の双方は彼女の一件から手を引いて貰う。でなければ、無意味な犠牲が重なるだけだ」 サーヴァントを従えた以上、並の魔術師……いや、相当に腕の立つ執行者や代行者連中であろうと敵わない。 サーヴァントを打倒し得るのサーヴァントだけであり、マスターを斃すのもまたマスターの役目である。こうなっては封印指定の以前に聖杯戦争への参加者という立場が前面に押し出てくるのだから。 『……は。聖堂教会へは父から通達が渡っており、今後この街に外来の代行者が潜む可能性は皆無かと』 「魔術協会の方へは私が取り計らおう。これもこの地を預かる者の務め。無益ないざこざは極力廃しておきたいからな」 無論、時臣の言は建前も含んでいる。 この地で既に幕を開けた聖杯戦争に、余分な勢力は必要ない。異端の少女を狩るという名目で他の魔術師や代行者が彼女を襲撃し、マスターとしての権利やサーヴァントの情報を奪い取る可能性もゼロではない。 その為の緘口令。 我らが祭儀の邪魔をするな。もし余計な手出しをすれば容赦はしない。しかし管理者たる者の名において、必ず異端者は排除する……とそういうわけだ。 『それで、導師。彼女の処遇については如何致しますか』 「現状は変わらないよ。如何に封印指定の者であろうと、マスターとなった以上は他のマスターと同列に扱うだけだ。 当面は情報の収集に当て、何かしらの動きがあればその都度対処する。何ら問題などあるまい」 『…………』 「何か言いたい事でもあるのかね、綺礼?」 珍しく押し黙った綺礼にそう訊ねると、微かな黙考の気配の後にやおら口を開いた。 『導師、私は彼の者を捨て置くのは危険だと考えます』 「ほう、そう思う根拠は?」 『直接対面した私にしか分からない事だとは承知していますが、あれは……あの女は何処か異常です。通常の死徒ではない予感があります』 通常の死徒とは親となる吸血鬼に噛まれその従者と成り果てる者か、魔術の叡智を極め自ら永遠の探求者となるかの二通りしかない。 綺礼はそんな普通の死徒を指して違うと言う。あの女は何かが違うと。 「一時は代行者にまでなった君の言であれば聞き逃せないものがあるが、しかしな……それだけでは優先的に対処すべき敵とみなす必要性には足りないな」 『通常人が死徒になる際には幾つかの段階を踏む必要があります。中には稀有な才能を有し即座に死徒と成り果てる者もいますが、そんな稀は数が少ない。 だというのにあの女は血を吸う事なく死者を繰っていました。地の底で眠る亡者を何の手も下す事無く配下とする能力。捨て置いていいものではありません』 事実としてそんな事が可能であれば、この冬木はすぐにも魔都と化す。死者は生者を喰らい、死者に堕ちて更なる死者を生み出していく。鼠算式に増える亡者の軍団。それが死徒の繁殖能力だ。 そして彼の少女にはそのプロセスを短縮し、より高い生産性を実現可能とする何らかの能力が備わっている可能性がある。 無論、そんな死を忌避する者達を指し、横暴を是としない者達も存在する。それこそが聖堂教会の異端審問を預かる代行者、引いてはその存在は最重要機密とされる埋葬機関の面々だ。 彼らは世に蔓延る不条理を良しとしない。遍く全てを許す神の御許にあって“存在を許されない者”を狩る狂信者。表の宗教観に背く倫理を是とする、悪魔のような殺戮者集団は死徒の存在こそを許さない。 しかし、この冬木にあっては事情が違う。時臣と璃正の働きかけで彼らはこの街へと踏み込む事が出来なくなる。魔術師達の闘争の更に裏側で、死徒の暗躍を許すなどあってはならない横暴だ。 故に綺礼は進言した。まず最初に刈り取るべきはその異端者。あるべき聖杯戦争を遂行しようというのなら、必ずやその存在は邪魔となる。 力を蓄える前に。勢力を増す前に。昨夜綺礼が亥の一番に彼女を発見できたのも天啓に違いない。悪を討つべしという、教義の裏にある正義の信念だと。 「いや、私の考えは変わらない。綺礼、君は彼女に関する情報についても他のマスター同様に逐一私に報告してくれればそれでいい。 由々しき事態となったのならば、そこは私の責任で必ずや対処すると誓おう」 『……分かりました』 綺礼は通信機の向こうで歯噛みする。分かっていない、時臣は死徒の繁殖力を理解していない。 あくまで死徒でも封印指定でもなくマスターとして対応しようとする時臣では、必ずや後手に廻る。要は侮っているのだ、大した魔術研鑽もなく、神秘の露見で追われる身となった者など歯牙にも掛ける必要はないと楽観している。 昨夜披露されたセイバーの実力も裏づけとなり、もし何らかの不測の事態が起きようとも自らの魔術とセイバーの戦闘力があればどうにかなると思っているのだ。 もし綺礼の想像の通り、彼女は死徒でありながら死徒を超える能力……血を吸わずして死者を操る能力を持っているとすれば、その気になれば三日も持つまい。それだけの期間があれば、必ずや力をつけてこの街を地獄へと塗り替える。 無論綺礼の想像はあくまで想像だ。彼の異端者がマスターとなった経緯やこれからどう動くかなどはまだまだ不明瞭。 だからこそ最悪の事態を想定する。過去代行者達が討伐してきた死徒や封印指定は少なからず悪意と害意を持つ連中だった。ならば彼女もまた、その負の枠組から外れるものではないだろう、と。 『では引き続き情報の収集に当たります。現在居場所の判明していないマスターを中心として』 「ああ、頼む」 優雅に紅茶を煽る時臣とは裏腹に、綺礼は己が今後どう動くべきかを深く思案する。最悪の場合、師の意に反する行動も辞さないと決意を固め始めていた。 /In the Graveyard 日も昇り切らない頃合に、切嗣は既に動き出していた。 最初に行ったものは地形の把握。事前に当たりをつけていた場所を重点的に徘徊し、戦場と成り得る場所と狙撃地点、潜入経路などを余さず脳裏に叩き込んでいく。 深山町と新都の両方を人間一人の足で歩き詰めればそれなりに時間を喰う。それでも前もって準備をしていた分だけ時間のロスは少なくなったと見ていいだろう。 目ぼしい場所を見て廻った後、市井に紛れ込み適当な場所で軽食を腹に詰め込み更に探索を続行する。 午後は拠点の屋敷を出る前に目に付いた奇妙な点の確認だ。新聞の三面記事の片隅に書かれるような、誰の記憶にも残りそうもない墓暴きの記事。 その記事に切嗣は着目した。今この冬木はどんな怪異が起こるとも知れない魔境と化している。真実は隠蔽されるのが常だが、完全なまでの隠匿は現代では不可能。必ず痕跡は残り歪曲された虚構が世に出る事になるのだ。 それらの常として共通するものは“奇妙”な点が見受けられる事。魔術を知らない表の人間が魔術により行われた荒事を分析する時、必ず解明出来ない部分が生じる。 出なければ辻褄が合わなくなる。日の下に暴かれた神秘は神秘としての価値を失くし、ただの現象と成り下がる。故に必ず不可解な部分が生まれるのだ。それは神秘が神秘として携わる限り必ず残る痕跡だ。 だから切嗣はその“奇妙”なものを情報の中から探し出す。その線で探れば必ずや自らが関与しない神秘にぶつかるからだ。 教会の膝元たる外人墓地の前に辿り着く。進入禁止の旨が記されていたが、辺りに人気がない事を確認して滑り込む。 監督役の目の下という場所は切嗣にとってもぞっとしない場所だったが、現状手掛かりは幾つあっても困る事はない。素早く潜り込んだ切嗣は何かしらの痕跡が残っていないか探りを入れた。 「……やはりか」 何気なく打ち捨てられていた煙草を拾い上げた切嗣は嘆息と共に確信した。この煙草、微かに魔術の痕跡が見受けられる。ライターなど持っていない魔術師が己の魔術で火を灯したのだろう。 この辺りは正統な魔術師ほど見落とし易い点だ。魔術師は魔術を至上のものとする余りに一般に普及する道具であっても魔術で代用できるものは魔術に頼る。 魔術師らしい魔術師ほどこの傾向は強くなる。千年を純血で保ち続けたアインツベルンなどその最たる例だろう。 何れにせよ、昨夜この場所で魔術師が何かしらの戦闘行為を行ったのは間違いない。記事には小火程度と書かれていたが、焼け焦げた痕跡は随所に見受けられる。 一般の捜査機関はこれを花火程度の火遊びをそこかしこで行ったと報じたようだが、この火の規模はこの一帯を燃やし尽くした可能性の方が高い。教会による隠蔽工作が為されたせいでそこまでは思い当たらないように仕組まれたのだろう。 証拠を手に入れた以上は長居は無用。切嗣はそそくさと墓地を後にし市井に紛れ込んだ。 坂道を下る途中、けれど切嗣は疑問を抱いていた。火を属性とするマスターは切嗣が確認しているだけで一人。遠坂時臣しかいない。単純な火を起こす魔術程度ならば属性に拠らずとも行使可能だが、それでも不可解だった。 少なくとも、切嗣の知るマスター連中に煙草を嗜む奴はいない。事前にそんな事まで調べ尽くしてはいないが、人物像と照らし合わせれば大体は読める。他ならぬ切嗣が元喫煙者なのだから。 「ならば、まだ見ぬマスターか」 可能性はゼロではない。現在判明しているマスターに可能性がないのであれば、むしろそちらの方が高く見積もれるだろう。 「…………」 とりあえず収穫はあった。煙草に火をつけた人物と墓地に火を放った人物が同一かまでは定かではないが、これでその存在は確認できたのだから。 新都の駅前まで戻った切嗣はその足で近くにあったコンビニへと入る。店員に言い付け昔吸い慣れた銘柄の煙草とライターを購入。 外へと出てすぐさま一本を取り出し、慣れた手つきで火を灯し肺に紫煙を満たして、吐き出した。 懐かしい感触が胸を焦がす。九年前の感覚が戻ってくるようだ。ここに思わぬ収穫があった。母子の健康を思い止めていた煙草を、まさかこんなひょんな出来事から再度手に取る事になろうとは。 しかし、悪くはない。 今宵よりの闘争は九年前の自分を取り戻す戦いだ。その狼煙としては充分だ。紫煙が胸を焦がしながらも、心は冷たく凍えていく。 怜悧な瞳が見上げる空は青く、乱立する摩天楼の一つを確かに見咎めていた。 /In the Street 「ったく、何だってボクがこんな事……」 『そう言うな坊主。余の覇道の一歩に貢献出切るとあらばこれほど光栄な事もあるまいよ』 「だからそれがイヤだって言ってンだよッ!」 ただでさえ目立つ容姿であるというのに、商店街の只中で喚き散らしたウェイバーはたちどころに注目を集め、居た堪れなくなり逃げるように歩を早めた。 『ふむ、坊主も中々やるな。ご近所さんの注目の的だぞ』 「誰のせいだと思って────くっ……!」 霊体化して傍にある巨漢の声を聞けるのはウェイバーだけであり、道を行き交う人々は一人で怒鳴り散らすウェイバーに怪訝な眼差しを向けるのも致し方ない事だった。 ウェイバーは不機嫌だった。それもこの上もなく。 昨日は死中に無理矢理引き摺り込まれ戦車で空を翔けるというおよそこの戦争に関わらなければ体験できない思いをし、サーヴァントの力量をまざまざと思い知らされた。 心身共に疲れた果てたウェイバーがぐっすりと眠り、普段よりも深く睡眠を取った事は別段誰にとやかく言われる筋合いのない事である。 問題があるとすればその間におこなれたライダーの奇行だ。 夢現と惰眠を貪っていたウェイバーの耳元に届く『ふぬぅん!』という声。訳の分からない奇声を耳に聞き、やおら目を覚ましたウェイバーが、爽やかな朝の亥の一番に目にしたものがTシャツ一枚のはいてない巨漢のポージングとあっては流石にウェイバーに同情を禁じえないだろう。 世の中で見たくないものベスト5に入りそうなものを瞼に焼き付けてしまったウェイバーは現実逃避の為の二度寝へと陥り掛けたところでライダーに阻止された。 聖杯戦争の主だった戦場は夜だ。ありとあらゆる生物が眠りに就く時間帯こそが魔術師の闘争の場であり、つまり昼はじっくりと英気を養うか情報収集に勤しむしかない。 昨夜の疲れの抜け切らないウェイバーはもう一度眠りに落ちたかったのだが一度目覚めてしまったら中々寝付けず、脳裏には怪奇なる物体、更にライダーの邪魔と三拍子揃ってしまい嫌々ながらに起床する事にした。 朝食もそこそこにライダーに懇々と聞かされた状況を纏めるとこうだ。何かと実体化している事に拘るこの男は現状に不満を抱いていた。 ウェイバーがライダーに厳命したものはこの部屋の中と夜に限った実体化だ。昼間の実体化は許可しないし、往来を歩き回るなど以っての外だ。 ところがそれがどうしても納得のいかないライダーは考えた。考えに考えた。そして辿り着いた結論が今現在彼が身に着けているTシャツだ。 何時の間にやら通販を使い注文していた胸に世界地図を頂くとあるゲームのTシャツを誇らしげに着ているサーヴァントに、ウェイバーは辟易せずにはいられない。 曰く──当代風の服装さえ着ていれば歩き回るのも文句はあるまいと。 ウェイバーにすれば充分に文句があったが、召喚直後の格好で歩き回られるよりは幾分マシであった事から渋々と同意してしまった。 それが、いけなかった。 主の同意を得て快活に笑いながら往来へと繰り出そうとするライダーははいていない。誰がなんと言おうとはいていなかったのだ。そして必死の形相で押し止めたウェイバーは焦燥の余りについつい迂闊な発言をしてしまったのだ。 『何考えてンだよっこのバァカ! そんな格好で出歩く奴が、どこの、世界にいるっていうんだ!』 『少なくとも余の時代であればさして問題などなかったが』 『今と昔は違うんだよっ! ああもうっ、わかった。ズボン買ってやるから霊体化して付いて来い!!』 ……そして今に至る。 「はぁあ、なんでボクはあんな事言ったんだ。サーヴァントにはもっとこう、威厳ある態度で臨みたかったのに……これじゃただの小間使いみたいじゃないか……」 そう、あの場は断固として拒否すべきところであった筈だ。この男に自由という名の服を与えてしまっては今以上に手綱を握り辛くなる。 ただでさえ暴れ馬であるというのに、わざわざ目の前にニンジンをぶら下げて一体何をやっているのかと。 『どうした坊主、そんな顔をして。何かイヤな事でもあったか?』 「おまえがそれを言うのかよ……ああ、もういいよ。ボクの迂闊さが悪いんだからさ。ところでライダー、おまえ昨日の戦いをどう見てるんだ?」 約束してしまった以上はもうどうしようもない。ならばせめて少しでも有益な時間を築こうと昨夜の闘争へと思いを馳せた。 『どうとは、どういう意味だ?』 「勝算とかそういうのだよ。セイバーとは直接やり合いたくないって言ってたけど、ランサーやアーチャーはどうなんだ」 姿は見えなかったが暫し考え込むように嘆息を漏らしたライダーの気配を感じ取り、ウェイバーはライダーが口を開くのを待った。 『ランサーに関してはとりあえず保留さな。セイバーとの戦舞を見るからに彼奴らの決着は見送られた。ならば先に二人で明確な決着をつけさせてやればいい。余は勝ち上がった方を打倒する』 それを尊重と取るか漁夫の利と取るかは難しい判断だが、本人はおそらく前者のつもりなのだろう。しかしそれはウェイバーにとっても悪い提案ではない。無駄に戦闘を重ねる必要はない。敵は絞っておけば後が楽になるのだから。 『アーチャーは……そうだな、騎士の戦場を荒らした罪は重いが、それ以上に良き腕の持ち主であった。 あれほどの射手ならば是が非でも我が傘下に加えたいところだ。戦士の心はそれから説けばいい』 「……おまえそれ、本気で言ってるのか? サーヴァントがサーヴァントを従える? そんな事、出来ると本当に思ってるのか?」 『無論だ。余の大望は遍く戦士の導。世界を征すという覇道を一度として夢に見なかった男児などおるまいよ』 幼子の夢はとかく大きい。身に余る大望、手の届かない夢を理想と謳い、やがて現実の壁を理解しなんとか辿り着ける夢を見つけるのだ。 ウェイバーにしても、子供の頃はそんな夢を見なかったわけではない。ただ今では現実を受け入れて、手の届く範囲の希望に縋っているのだ。 しかし、この男は違う。童心をそのままに、見果てぬ夢を現実と成す為に世界を駆け抜けた。王の旗印の下に集うは同じ憧憬に胸を焦がした連中だ。 一度は斬り捨てた筈の大望を、この男の背中に見て、今一度走り出した大馬鹿野郎達。それが、征服王イスカンダルと彼に付き従った騎士達の誇り高きユメなのだ。 「あれだけ暴れておいて良く言うな。少なくともアーチャーはおまえの戯言に耳なんか貸さないんじゃないか」 『話してみなければ分からんではないか。ふむ、その為にはもう一度ヤツとは相見える必要があるな』 どうやらライダーは本当にアーチャーを臣下に加え入れたいらしく、展望を広げていた。 サーヴァントは倒さなければならない敵だ。聖杯の頂に辿り着ける者は唯一組。そう理解してなお大言をのたまうライダーはウェイバーには理解し難い。 魔術師足らんとするウェイバーは現実的に物事を考える。夢を優先するこの男の思考とは相容れないものがあった。 そう、ウェイバーが聖杯戦争に参加した目的は何だったか。 聖杯に託す願いなどない。ただ証明したかった。見返したかった。このウェイバー・ベルベットを見下した全ての者を。とりわけ、ウェイバーの奉ずる魔道の対極にある男……ケイネス・エルメロイ・アーチボルトに。 「……や、止めてください!」 ウェイバーが思索の渦に囚われ、傍らの姿なき大男に己が野望を聞かせた時に喰らわされた痛みを思い出し、無意識に額を擦った時、そんな声が聞こえた。 「なんだ?」 訝しんで視線を向ければ、数人の男が一人の女の子を取り囲んでいた。 「なあ、いいじゃん。ちょっとお茶するだけだからさ」 「い、いやです。わたし、これから用事があるから……」 「えー? それってオトコ? ハハ、ドタキャンしとけばいいじゃん? オレらがもっと楽しませてやるからさ」 足を止めて少女と男達のやり取りの一部始終を見ていたウェイバーであったが、下らないと吐き捨てて歩を速めた。 『おい』 ウェイバーはライダーの問いかけを無視する。この男が何を聞こうとしているのか大体察しがついたからだ。 『おい坊主、ありゃなんだ。あの女子は何か嫌がってるように見えるんだが?』 重ねて問いかけられ、仕方なく答える。 「……ただのナンパだろ。ボク達には関係ないことだ」 そう、関係ない。ウェイバーがこの街に訪れた理由は戦争を行う為だ。あんな何処の街にでもいるようなチンピラと係わりたくはないし、何よりこれ以上目立つ真似はしたくなかった。 ただでさえ不必要な用事の為にこうして往来を歩いているというのに、これ以上気分を害されてたまるものかと更に歩を速めて立ち去ろうとした。 「きゃ、やめ……だ、誰か、助けて……!」 ナンパ──もはや誘拐に近い強引さで少女の腕を取った男が口元を歪めニヤついた。男の力に敵わず少女は助けを求めたが、この時間帯では主婦か老人くらいしか商店街にはいなかった。 見るからに柄の悪そうな連中に係わり合いになりたくないと皆が揃って視線を外し、助力しようなどと思う者は誰一人としていなかった。 『坊主、何をしとる助けんか』 「……はぁ? 何だってボクがそんな事する必要があるんだ。あんなの放っておけばいいんだよ」 『戯けがッ! 男子足るもの、女子の悲鳴を聞いて素通りなどしてどうする。正義うんぬんの話ではない、これは責務の話だ。 いつの世も弱きを助けるは当然の事。そこに利も害もなかろうが』 憤懣やるかたないといった気迫で説教を垂れてくれたライダーにウェイバーはさて、どうするべきかと思い悩んだ。 数日しか共にしていないがこの男の気性は大体理解できたつもりだ。恐らく、このまま否と答え続ければそれこそ実体化してでも止めに入りかねない。 それは、拙い。皆が皆目を背けているとはいえそれなりの人通りがある昼下がりだ。こんな場所で身の丈二メートルを越す巨漢が時代錯誤の衣服を纏い突然現われでもすれば、事態は最悪の方向に向かいかねない。 「……分かったよ。ボクが止めるから、おまえは絶対出て来るなよ」 天秤にかけた皿は容易く傾き、ウェイバーはさも面倒臭そうに男達に近寄った。 「ぁん? なんだテメェ?」 「その子、嫌がってるだろ。離してやれよ」 「はぁあ? 何だって見もしねえテメェにンなこと言われなきゃなんねぇんだよ。あ?」 少女の手を掴んだまま男が眉を吊り上げウェイバーを威嚇する。身長差にして二十センチ以上はある男に見下ろされ、更に同程度の男達に囲まれたウェイバーはしかし、動揺の一つもなく憚った。 「────聞こえなかったか? ボクは止めろと言ったんだ」 言葉を発すると同時、男達の瞳を睥睨して強く目に力を込めた。身竦められた男達はびくんと身体を仰け反らせ、虚ろな目をして離れていった。 「ふん……」 男達はウェイバーの気迫に圧されたわけではなく、ウェイバーが発動した暗示にかかったのだ。単一にして単純、しかも持続時間の短い暗示ならばウェイバーでも予備動作なしで仕掛けられる。 相手が同じ魔術師であれば全く通用しないレベルだが、一般人が相手ならば何ら問題なく作用した。 しかしその挙動は傍から見ればウェイバーの威嚇で男達が逃げ去ったように映り、周りからは少なからず喝采を浴びる事となった。 こんな事で褒められたところで何も嬉しくはない。出来て当然の事をして賛美を浴びて喜ぶ奴なんていない。そう内心で思いながらウェイバーは立ち去ろうとして、 「ま、待って下さい……!」 男達に囲まれていた少女に手を掴まれて、ウェイバーは足を止められた。 「ありがとうございます、助けてくれて」 「ああ、気にしなくていいよ。じゃ、ボクはこれで」 「ぁ……ま、待って」 気恥ずかしさからか面倒臭さからか、ウェイバーはそれとなく腕を振り解いて立ち去ろうとしたが、またしても腕を掴まれて呼び止められた。 「何……? まだ何か用が?」 ぶっきらぼうに言われて少女は一瞬身を竦めたが、意を決したように口を開いた。 「あ、あの、良かったらお茶でも如何ですか。その、お礼もしたいですから」 「いや、いいよ。ボクはこれから用があるから。アンタだってさっき何か用事があ──」 「ふむ。ならば相伴に預かろうではないか」 「──ってなんで出て来てンだよおまえはぁぁあああっ!?」 恐慌も露に吠え立てたウェイバーの傍らには霊体化していた筈のライダーがいつの間にやらずぅんと佇んでおり、にこやかに微笑んでいた。 ウェイバーと同程度か少し小さい少女は突然現れた大男を唖然としながら見上げていた。 「せっかくの婦女よりのお誘いだ。その好意を無碍には出来んだろうて。さぁさ、いざ行こうぞ」 「ちょ、ま、なんでこうなるんだぁぁぁあああぁぁああ!?」 快活に笑う大男は泣き叫ぶ小坊主と状況の理解できない少女の二人を引き摺って商店街の奥へと消えていった。 「なんで、こうなるんだ……」 適当な喫茶店へと入ったウェイバーとライダー、そして名も知らぬ少女は通りを見通せる窓際の席に腰を落ち着けそれぞれ異なる面持ちで沈黙の中に身を沈めていた。 能天気なライダーはメニュー片手に唸りながらどれにしようかと本気で悩んでいる。少女は苦笑気味にそんなライダーと焦燥し切ったウェイバーとを見つめていた。 余談だが、今のライダーはあの時代錯誤の服装ではなくウォッシュジーンズにTシャツという姿だった。 どうにも霊体に戻りたがらないライダーを前にし、すわ令呪の出番かと本気で覚悟したウェイバーだったが、幸いにも近くに衣服を専門に扱う店を見咎め、ライダーを押し込んでサイズの合う服の上下を見繕った。 ライダーは胸に世界地図を頂いていない事に不満げだったが、わざわざマッケンジー邸に戻るわけにもいかずなんとか説き伏せた。 その間、ウェイバーがこのような災難に遭う原因ともなった少女はにこやかに付いて来るばかりで特にライダーを不審がる素振りをしなかった。 一応弁明としてウェイバーの知人である事とコスプレ好きの親父であるとこっそりと告げておいたが、少女の反応は酷く淡白でまるで気にしていないようだった。 むしろ『面白い人ですね』とかのたまう辺り、この女も何処かズレているとウェイバーは認識し、早々にこの茶席からも辞したい思いで一杯であった。 「改めて御礼を言わせて下さい。有難う御座いました」 礼儀正しく頭を下げられウェイバーはムズ痒い面持ちだった。 感謝を受ける謂れはない。ただ単にライダーの凶行を押し留める為にウェイバーが場を執り成しただけなのだから。……その努力も水泡と帰してしまったが。 「だからいいって。それより、こんなとこで油売ってていいの? 何か用があるんじゃなかった?」 「あ、あれは嘘です。ああでも言わないと引き下がってくれそうになかったから」 そう言って舌を覗かせた少女の仕草にウェイバーはどきりとする。 あのチンピラ達ではないが、なるほどこの少女の容姿は人目を惹く。慎ましい体型ながらウェーブのかかったブロンドの髪はしとやかで、翠を思わせる瞳は澄み渡っている。顔の造詣も整っており、肌も肌理細やかで白い。 等身大のフランス人形……そんな形容が似合いそうな少女だった。 この冬木を二分する深山町は更に二分され、日本家屋の多い一角と洋風建築の多い一角とに分けられる。後者は多くの外国人が暮らしており、他ならぬウェイバーが暗示を施し寄生しているマッケンジー夫妻の邸宅もこの一角に居を構えている。 そのお陰もあってかウェイバーの容姿でも然程目立たずに冬木に溶け込めた。 どちらかと言えば日本人の風格に近い髪と目の色をしたウェイバーと対照的に、この少女の容姿はそれでも目立つ部類だろう。 ……まあ、ウェイバーには然程興味のない事であったが。 「アンタ、いっつもあんな風に絡まれてるの?」 さっさと帰りたいウェイバーであったが、隣でナイフとフォークを両手に持ち、子供のように目を輝かす巨漢の腹を満たすまでは帰れまい……と諦観し、手持ち無沙汰ながらに少女に話しかけた。 「あ、いえ。私、最近この街に来たんです。だから街を散策してたんですけど、いきなりあんな事になって……」 「まあ、アンタの容姿は結構目立つからね。それなりに、気を付けといた方がいいんじゃない」 「ええ、はい。そうですね、次からは気をつけたいと思います」 再度沈黙が降る。ウェイバーは女性がそれほど得意ではなかった。むしろ苦手な部類に入るだろう。 幼少より魔道一筋に生きてきたこの少年にとって、魔道に関わらない一般人の、しかも年も程近い少女とあってはどう接するべきか分からない。 これが同じ道を生きる者であるなら男女分け隔てなく共通の話題でそれなりに話し込める自信はあったのだが、如何せん世情に疎いウェイバーでは切り出すべき話題を見つけられなかった。 そんな折、助け舟は思わぬところより出された。 「むほぉ、美味い。美味いぞ! このケーキとかいうヤツは中々にいけるではないか!」 掌よりなお小さいフォークをぐっさりと刺した彩り鮮やかなケーキを頬張り顔を綻ばせる征服王。日本ほど多様化し文化の境界線を失くした国も珍しいが、これもその一つの弊害だろう。 こういう店が取り扱う商品は主に外来のものであり、日本文化の一つである和菓子や抹茶などは余り見かけない。土着の文化を是とするライダーにあってはそちらこそを所望していたが、そこはそれ、美味ければ関係ないのである。 しかし大の男がケーキの一つでこれ程喜ぶ様は傍目に見て充分に奇異である。 「あ、そんなに美味しかったですか?」 「うむ。余の時代にはこのような嗜好品はなかったからな。時代の変遷は人を豊かにしたのであろう、庶民がこのように美味いものを食する時が来ようとは……」 明らかに地が出てしまっているライダーだったが、少女は気に掛けた様子もなく微笑む。 「喜んで貰えたなら私も嬉しいです。良ければもっと注文してください、先ほどのお礼ですから」 この男は何もしていないじゃないかと思ったウェイバーであったが、薮蛇であろうと理解していたので口にはせず、ライダーと同じものを注文していたのでフォークを取りケーキを一口ばくついた。 「ん……確かに、美味い」 イギリスの食事にとりわけ不満があったわけではないが、やはり食文化の発達した国は違う。日本伝来の和食に限らず、洋食中華と節操なく取り込み鎬を削り合ってきた日本は他国と比べても高い水準にある。 あるいはただ単に慣れすぎて感覚が麻痺しているだけかもしれなかったが、ともかく美味いケーキであった。 「ふふ、好きなだけ御代わりして下さいね」 「…………」 柔らかく微笑まれウェイバーは目を逸らす。苦手だ。やはりこういう手合いは苦手だと内心で呟きながら。 「じゃあご馳走様。悪いね、コイツ大喰らいすぎて。というか、おい。オマエ少しは遠慮とかしとけよ」 「何を言う。せっかくの好意であるのだぞ? 甘えるが筋ではないか。 いや、しかし美味かった。良いものを食させて貰った……む? そういえばまだ名を聞いていなかったな」 そういえばとウェイバーも思ったが、別に知りたいとも思わなかった。どうせもう二度と会う事などない。一期一会の間柄だ、名前など聞いたところでどうせすぐに忘れてしまうのだから。 けれどそんな事は口にせず、あっと驚いた風の少女もまた『そうでした』と言わんばかりに頷いて、一つ深呼吸。 「私はリディア。リディア・レクレールです」 「ボクはウェイバー。ウェイバー・ベルベット。そしてコイツは──」 「うむ。アレクセイと呼んでくれ」 咄嗟に偽名を言ってのける辺り、流石は征服王といったところか。異国の文化に並々ならぬ適応力を持つが故の判断能力であろう。 本名を口にしないかと冷や汗ものだったウェイバーにとっては棚から牡丹餅に似た気分だった。 一応の名乗りを終えたところでもうこれ以上は付き合っていられないと挨拶もそこそこにウェイバーは背を向けた。 「あの、ウェイバーさん!」 名前を呼ばれて振り返る。傾きかけた日が逆光となり、少女の顔までは判別が付かなかったが、何やら硬い口調だった事は分かった。 「良かったら、またお茶に付き合ってくれませんか? 私、この街に他に知り合いがいなくて……その、心細いので」 およそウェイバーはそんな問いかけなど予想していなかった。それもその筈、この出会いが偶然ならば別れは必然だ。 ウェイバーにはこんな少女に感けている時間はない。逆向けられた砂時計は刻一刻と砂を零し、タイムリミットを刻んでいる。 全ての砂が落ちきる前に、このじゃじゃ馬を制御し他の六体のサーヴァントを倒して証明するのだ。ウェイバー・ベルベットの力量を。血の濃さと歴史を鼻にかけるしか能のない連中を見返す為に…… 「残念だけど、ボクは────」 「相分かった。確かに異国の地にて一人きりというのは心細いもの。こんな坊主で良ければ幾らでも付き合わせるといい」 大笑しながらウェイバーの肩を叩く巨漢に、流石のウェイバーも我慢の限界だった。コイツは一体何様なのかと。いや、問えばきっと王様だと返してくるだろうが、そんな話ではないのだ。 ウェイバーの意見をまるで無視し、さも自分の意見が正しいようにのたまう事が許せなかった。昨日の一件にしてもそうだ、勝手にアーチャーと戦うと決めて、有無を言わせず戦闘の只中へと引き摺り込まれたのだ。 その行為は許容できるものではない。一度までならと思っていたが、こんなところにまで幅を利かせて我が物顔をされて暢気に笑っていられるほどウェイバーはお人好しではないのだから。 「お、ま、え、何言ってンだよッ!? いい加減にしろよ、ボク達がしなきゃいけない事は他にあるだろ!? こんな女に構ってる時間なんてないだろうがッ!」 その言葉に一番衝撃を覚えたのは他ならぬリディアと名乗った少女であった。憤慨の余り自分がどれほど馬鹿げた事を口にしたのか理解した時、全ては遅すぎた。 「ウェイバーさん……」 「あ、いや……その、ボクは……」 間違った事は言っていない。しかし、言い方を間違えた。 「すみません、ご迷惑をお掛けして。私、人に親切にされた事ってあんまりないんです。だから、嬉しくて。勝手にはしゃいで」 少女の目は完全に泳いでいた。親に怒られた子供のように。所在なさげに、どうすればいいのか分からないという風に。ただ、それでもなんとか言葉を紡ごうと口を小さく開けては閉じていた。 「ごめんなさい、さっきのは忘れてください。それじゃあ──」 その最後に儚げに笑って、少女は走り去って行った。 「…………」 唇を噛み締めて、拳には無意味に力を込める。ベルベット家の魔道の歴史は浅い。そのせいか、ウェイバーはまだ痛ませるだけの心を持ち合わせていた。 人を傷つけて平然としていられるほど、心は凍り付いているわけでも達観しているわけでもない。魔術師としては、人間味がありすぎた。 「……すまん、出過ぎた真似をした」 「え────?」 頭の上に添えられた大きな掌が今はこの上もなく小さく見えて。その言葉こそが意外だった。 「我がマスターの為と思って口を挟んだが、まさしく薮蛇であったか」 「別に。おまえのせいじゃないだろ。というか、おまえがそんな殊勝な事言うと気持ち悪いから止めろ」 ぐりぐりと頭を撫でられてウェイバーは自己嫌悪する。誰が悪いかと問われれば間違いなく自分であろう。余裕を完全に失くしていた。適当にあしらう事も出来た筈なのに、何故あんなにも熱くなったのかと今更ながらに苦悩した。 「もう一度会う事があれば謝らねばなぁ。女子の涙ほど堪えるものもないぞ」 「……ふん。ボクはまだ知らないからな。でも悪い事したってことくらいは理解してる。ちゃんと謝罪するよ」 「うむ、ならばよし。誠意は必ず伝わる。問題はもう一度出会えるかという事だが……人の縁というのは奇妙でな、意外なところで繋がっているものだ。 それに、祈りは強く願うほどに形を得やすくなる。故に願えよ、もう一度あの少女に会いたいとな。余も願っておく故、これで磐石だ」 「ああ……でも、優先順位を間違えるなよ。ボク達がこの街にいるのは観光じゃないんだから」 「無論だ。我が大望の為、このようなところで躓いている暇などない。今夜にでも一騎討ち取る腹積もりである」 「敵の居場所も分からないくせに偉そうに……まあいい。とりあえず帰るぞ。用件は果たしたんだからな」 元はといえばライダーにズボンを買い与える為に街へと繰り出したのだ。日も落ちかけている今、長居は無用。戦力を整えてまたも繰り返される闘争の宴へ臨まなければならないのだから。 ただ、その最後に。後ろ髪引かれる思いで振り返ってみたものは、赤く染まりゆく空だけであった。 /Shooting Star 周囲にあるのは天然の暗闇。頭上には煌々とした星の煌き。街の光は遥かに遠く、鬱蒼と生い茂る常緑樹の合間を掻い潜りアーチャーはある地点を目指していた。 視線は緩やかに彷徨い、丁度良い高さと太さを兼ね備えた巨木を闇さえも見通す瞳で見つけ出し、ゆったりとした足取りで近づき幹に掌を当てる。 「…………」 得心がいったのか、真っ黒な傘を広げたかの如く葉を実らせる枝々を足場として頂点を目指して跳躍していった。 猿よりも器用に巨木の天辺へと登り詰めたアーチャーは視線を遠くに投げる。新都の南方に位置するこの山からは街並みを一望できた。 人工の光が闇に浮かぶ様はさながら地上の星だ。上空と地上、湖面を挟んだ鏡合わせのような二つの星々の間に赤き弓兵は居座った。 「……まだ時間はあるか」 人一人として存在しない静けさの中に呟く。予定までは幾らかの猶予があった。切嗣の予測よりもどうやら早くに目的とした場所に辿り着けたようだ。 ただこのまま無心で指示を待つのは性には合わない。ならばと、今置かれている現状を整理する事にした。 ────アーチャーは、切嗣に嘘を吐いている。 いや、嘘という言葉には語弊がある。確かに切嗣に記憶の有無を問われたその時は思い出せるものなどほとんど存在しなかった。 断片的な記憶。磨り減った記録。ばらばらに散らばったパズルのピースと、後から付与された聖杯戦争の知識によって、ある程度の推測を立てたに過ぎない。 確信を得たのは、この街に降り立ってからだっただろうか。それとも、あの屋敷を見たときだっただろうか。 今自分がいる場所が、遠い磨耗の果てに願った場所だと理解したのは。 「皮肉なものだな、有り得ないと思いながらも待ち続けた結果がこれか。もし本当に神などという存在がいるとするのなら、余りにも酷薄で悪戯が過ぎる」 自嘲を謳い口の端を吊り上げる。確かにこの土地、この戦いはアーチャーの悲願を叶え得るものだった。だが、決定的に違う部分が一つあった。 その決して過ってはならない要素が捻じ曲げられたこの場所で、果たして目的は達成できるのだろうかと自問自答する。 遠い憧憬。 記憶ではない心の奥底にそっと仕舞われた欠片をもう、はっきりと思い出す事さえ出来ない。 薄暗い部屋。差し込む月明かり。星屑か月の雫かと見紛うほどの鮮やかな光の中に立つ可憐な姿。この世で最も尊く、そして美しいと感じたモノでさえ、今では何だったか分からない。 砕け散った記憶のピースを繋ぎ合わせる術はない。想い出は記憶の水底に沈み、この胸を焦がすものは黒く渦巻いた感情の奔流。 昔を懐かしむ事に意味はない。手に掴んだ機会を活かす為に、得られた情報から推測を積み上げて結論を築き上げる事しかこの身には許されない。 唯一つの荒唐無稽な宿望────自己の否定という歪な目的を果たす為に。 「難儀なものだ、いる筈のないものを殺せなど……それとも、あの地獄を再現しろとでもいうのか」 そんな折、突如としてこの自然に満たされた場所には似つかわしくない電子音がアーチャーの懐より響いた。 『準備は良いか?』 取り出した携帯電話を耳に押し当てると同時に響いた声音に、 「ああ。いつでも構わない」 無感情にそう返し、携帯電話を通話状態のまま懐に仕舞い込み準備に移った。 思索に明け暮れる時間は終わり、闘争の幕が開く。 呼吸を一つ払い、瞼を落とす。意識を戦闘者としての己へと切り替えるその前に、最後の郷愁に思い描いたもの……あるいは無意識に思い浮かべたのは絶望の場所。全てを失い、全てが始まった慟哭の雨が降る夜だった。 始まりがあれば終わりがある。 歪な祈りと共に、果たすべき目的は一つではないのか知れないと思い至り、けれど今ある情報では決して出せる答えではないと思い直した。 「さて……また面倒を抱え込む事になりそうだ。難儀なのは、やはり己自身の性格……あるいは植え付けられた呪い、か」 手にするは光沢のまるでない黒塗りの弓。番えるは遥か遠方の標的を射抜く剣。 「とりあえずは貴方のやり方に従おう。まさかこうして共に戦場を馳せる事になるなど、思いもしなかったからな。 貴方が信ずるモノ、オレに教えてくれたモノの本質を見せてくれよ──爺さん」 アーチャーの呟きは強風に攫われて誰の元に届く事もなく散っていった。 昨夜の敗戦を受けて、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは丸一日をかけて対策に追われた。 ランサーの実力はほぼ把握。セイバーの圧倒的戦力に終始圧されアーチャーの横槍のお陰で拾った一刺しだけが武勲となれば、もはや賭ける期待すらない。 緒戦にしてケイネスの中のランサーの評は最低ランクだった。しかし、今ここで逃げる事など出来ない。時計塔の花形講師にしておよそ挫折を知らぬケイネスの辞書に敗走の文字はない。 順風満帆の人生に最後の彩を添える為に参戦したこの聖杯戦争。もしこの段で逃げ帰る事にでもなれば全てを失いかねない。 所詮は学があるだけの研究者。魔道の探求者としては優秀だが、こと争いにおいては才などない。机上の空論を振り翳すだけの秀才と嘲られ、ケイネスの鏡のように磨かれた人生に最大の汚点を残すことになるだろう。 ……そんなもの、許容できる筈がない。 魔術師同士の闘争。その場にあってもケイネスは優秀である筈なのだ。他の魔術師達がサーヴァントへの魔力供給と自らの魔術行使の両方を一人で賄わなければならない状況で、ケイネスは始まりの御三家の敷いたルールさえ打破する妙案を考案したのだ。 サーヴァントとマスターを繋ぐラインを分かち、魔力の供給源をソラウにする事で令呪と指揮系統はケイネスに残したまま最高レベルの魔術行使を可能とする。 目論見は成功し、ケイネスは一切の魔力をサーヴァントに取られることなく指揮下に置けるという、圧倒的有利な状況を築き上げたのだ。 しかし昼間の内にソラウに指摘されたのはまさにその点。せっかくの奇策も未だ何ら功を奏していない。ランサー一人に戦闘の全てを任せ、物見遊山に興じていたケイネスの行動をソラウは非難した。 ケイネスは己が間違っていたとは思わない。緒戦から己の姿を晒すのは愚行に近い。敵のマスターの姿も無かった事から、あの段でケイネスが戦場に馳せる理由は見つからなかったのだ。 ただ、これからは違う。ランサーが他のサーヴァントに及ばないというのなら、ケイネスがマスターを打倒すればいいだけの話だ。幾らあのサーヴァントと言えど足止め程度ならば役に立とう。 サーヴァントがサーヴァントを抑えている間にマスター同士で雌雄を決する。この展開になればケイネスは明らかに有利となる。 事前に画策したラインの分断のお陰で、ケイネスは他のマスターに一歩抜きん出た状態で戦闘態勢に入ることが出来るのだ。魔力総量が全てを決定付けるとは思わないが、それでも多いに越したことはない。 持続時間、瞬発力、破壊力。幾つもの点で有利に立てるのは間違いないのだから。 むしろ、初めからそうしていれば良かった。ケイネスは最初からランサーを何処か疑っていた。召喚直後に聴かされたランサーの祈り。招きに応じた理由。 何も望まない。ただ──忠を尽くせればそれでいい。 そんな見返りを欲しない忠誠心を信じられるほどケイネスはお人好しではなかった。これならばまだ打算に塗れた輩の方が使い道があるというもの。 利害が一致するのならば互いに最低限の干渉で粛々と戦いを進められたというのに。よもや、願いがないなどとどの口が謳うのか。 何か必ず裏がある。そう食って掛かったケイネスと、心から信義を貫き通したいというランサーの相性は最悪と言っても過言ではなかった。 「ランサー、いるか」 「はっ、お傍に」 腰掛けているケイネスの横に実体化して侍ったランサーを一瞥し、ケイネスは組み上げた策を己がサーヴァントに聞かせる。 無論、“おまえの事など信用していない。敵は倒さずに足止めだけしていればいい”などとは言わず、自らも次戦より参戦する旨を伝えるに留まったが。 「御意に。御身は必ずやこの双槍に賭けてお守り致します」 ランサーの返答さえもケイネスを苛立たせる。その物言いではまるでケイネスが足手纏いのように聞こえるではないか。 「私を守る必要はない。おまえはおまえの戦いを行え。サーヴァントが相手でなければ、私は負けはしない」 どういう風に解釈したのかは定かではなかったが、何か感銘を受けたかの如く目を伏せたランサーを憎々しげに見やり、ケイネスは酒を一口煽った。 とりあえず今日のところはこれでいい。功を焦る必要もなし、他のマスター達が潰し合えば幾分楽になる。ただでさえ令呪を一つ失ったというハンディを持つのだから、待ちも重要な作戦の一つだった。 ────だが。敵はそう悠長に構えてはいなかった。 ケイネスがグラスをテーブルに戻し、身を深く椅子に沈めた瞬間、まさに刹那の間に部屋は白光に染め上げられた。 あらゆる色は失われ、あらゆる音は消え、それが敵襲であると理解した時には、全てが余りに遅すぎた…… 冬木ハイアットホテルを見通せる場所に陣取って身を低くし、持ち込んだスナイパーライフルの望遠装置を用い最上階……ランサーのマスターであるケイネスが座す部屋を一望していた切嗣は、 「やれ」 その一言で以って、自らのものではない引き鉄を引いた。 夜の帳を引き裂く金切り音。稲妻と化した矢は別の場所より窺っていたアーチャーの手より放たれ、寸分違わずハイアットホテルの最上階だけを貫通した。 傍目に見ても分かる程厳重に敷かれた多重結界は、相手が魔術師であれば、それこそ数時間、あるいは数日の時間をかけなければ解除出来ないほどに優秀なものであった。流石は時計塔筆頭の花形講師であると切嗣は理解する。 だがそれも、人外の存在たるサーヴァントの前では紙屑も同然だ。莫大の魔力を秘めたアーチャーの矢はゆっくりと時間を掛け、弦より矢へと伝わらせた魔力は暴発寸前の貯蓄量となり、いつ弾けるとも分からない危険な状態で放たれた。 静かに。けれど圧倒的な質量と精密なまでの射撃能力で夜を貫いた光は、ホテルの窓より突き刺さり、一切の速度を緩める事無く数多の結界を破壊し尽くし、完全なる油断の中に沈んでいたケイネスとランサーを諸共に吹き飛ばした。 破砕されたコンクリートと硝子片が夜空に散らばり、砕かれた窓からは明確な警報音が響き夜を劈く。 何事かと恐慌も露に外へと踊り出た宿泊客や道端を闊歩していた人々らが挙って見上げる最上階は、燻る白煙が濛々と立ち込め、それでも切嗣は油断なく警戒していた。 切嗣が今宵ケイネスを狙った理由は二つ。一つはアーチャーの能力の都合。もう一つは手駒の能力の最終確認。アーチャーの狙撃能力を肉眼で確認する為には、ケイネスが工房を敷いた場所は好都合だった。 所在が知れているという点では遠坂や間桐も同列だったが、彼らの敷設する結界はより強固であるのは目に見えているし、街中に居を構えた彼らの住居を襲撃するとなれば周囲への被害も甚大になる。少なくともまだその段階ではないと切嗣は思考していた。 更に土着の魔術師である彼らには充分な準備期間を与えられており、所在が知れているという不利をそのままにしておく筈がない。 故に外来の魔術師であり、名義も隠す事無く見晴らしの良いホテルの最上階になど陣取った自信家の鼻を折ってやろうと、周囲への配慮もなく夜闇に紛れて完全な奇襲を仕掛ける事に成功した。 「…………」 油断なく最上階を窺っていた切嗣だが、まだ確たる結果は見出せない。確実に仕留めたという確信がありながら、まだ生き残っている可能性さえも考慮していた。 「アーチャー、聞こえるか」 『ああ、聞こえている』 通信手段を持たないアーチャーに切嗣が持たせた携帯から声を聞く。己の所有物ではない物を所持していると霊体化が出来なくなる弊害があったが、夜も深まっている頃合ならば問題はないと判断した切嗣は実体化したアーチャーに機器を持たせて配置につかせた。 「そちらから内部は窺えるか」 『いや、見えないな。この距離ではランサーの存在も感知はできない』 「ならば警戒を続けろ。生きているのならば何らかのアクションがある筈だ」 ここで第二射を放てば昨夜の二の舞。民衆が姿を現した現状で更なる凶行に及べば神秘の隠匿に背いたと判断され、監督役からの重罰も受けかねない。 そんなものをまるで気にも掛けない切嗣であったが、無用ないざこざは避けるべきだと判じ、現状維持を指示した。 はっきり言ってしまえば、今夜の襲撃は悪辣だ。アーチャーの狙撃能力を理解しての奇襲ではあるが、もし少しでも力加減と狙撃ポイントを外せば大惨事になりかねないものであった。 偶然にも最上階……三十二階をケイネスが金にものを言わせ貸し切り、その下の階に宿泊客がいなかったからこそ行えた策。二階分の猶予があれば、後は調整を行えばなんとか被害を最小限に抑えたままにピンポイントで狙い撃てる。 しかし九年前の切嗣であったのなら、そんな配慮もなく事に及んだだろう。被害に目を向ける事無く、この戦の後に救われる数十億の命に比べれば、ホテルに滞在する百名余りの人名など余りに軽い。 まだ心は完全に凍えていない。冷徹で冷酷。ただ天秤にかけた命を僅かでも傾いた方を救い、及ばなかった方を速やかに間引く無感情を、まだ取り戻せないでいる。 あと少し。何か一つを犠牲とすれば、必ずこの心はかつての機械の音を取り戻す。衛宮切嗣という機巧を廻す、唯一つの歯車に。 何れにせよ、事はほぼ目論見通りに運んだ。 未だ晴れない白靄の中、切嗣は冷淡に思考を廻す。 やはり解せないのはこの方法を一つ返事で了承したアーチャーの存在か。正しく英雄足らんとする者ならば、他の者に危険が及ぶ可能性のあるこんな奇襲に賛同などしまい。アサシンのような存在であればまた話は別なのだろうが。 それとも自らの狙撃能力に絶対の自信を持っていたのか……理由は分からなかったが、それでもアーチャーは使える。道具としては一級品だ。宝具級の威力を秘めた矢を超遠距離から放てる戦法は、切嗣の行う戦闘術に近似し、より強大な結果を齎してくれる。 ならば考える必要はない。あの男が一体何を考え行動しているのかなど切嗣が知るべき事ではない。ただ有用な道具として扱えばいい。意にそぐわない行動を取ろうとも、切嗣の手には赤い令呪があるのだから。 ──そしてもし切嗣に油断と呼べるものがあるのなら、それはこの時露見したと言えるだろう。 明らかに狩る立場にあった切嗣が瞬時に総身を舐めた悪寒に身震いする暇もなく、手に握っていたライフルの銃拍から即座に手を離して身を翻す。 咄嗟に手に取ったサイドアームとして用意していたキャレコ短機関銃を向けた先、丁度伏せていた切嗣の背後には……一人の男の姿があった。 夜に溶け込む黒衣。月明かりを受けて輝く金のロザリオ。闇よりもなお深い黒で塗り潰された瞳が、狩人を狩る者と敵意を撒き散らす。 「言峰、綺礼────」 「やはりおまえか、衛宮切嗣。まさかこんなにも早く巡り会えるとは思ってもいなかった」 互いに互いの姿を知らず、けれど身体の芯が理解し合う。 眼前の僧侶こそ、最も警戒すべきと断じた者であると。 眼前の狩人こそ、煩悶たる迷いに解を齎す者であると。 『どうした切嗣。何があった……?』 電子音として響くアーチャーの声音も、もはや二人には届かない。この瞬間、彼らの立つビルの屋上は闘争の場と化した。 /Cross Fire 言峰綺礼にとって、この夜の邂逅は偶然以外のなにものでもなかった。 彼が目下危険視している存在は昨夜出会った死徒の少女と正体不明のサーヴァントだ。死徒の特性を熟知している綺礼は彼らが最も活発になる時間帯に探索を行っていた。無論、師である時臣の意の外で。 未だ己が居城より一歩たりとも出て来ない師では正しく状況を掴める筈もない。彼の目としての役割は綺礼であり、サーヴァントであるアサシンであるのだ。 時臣は高みから戦場を俯瞰し、綺礼は地を己が足で練り歩く。どちらがより確かな情報を得られるかなど、考えるまでもない事だ。 二人の役割分担は明確であり、絶対に覆らないものだ。時臣自身は魔術師として優れた実力を有し、従えるサーヴァントの力量は昨日の一戦にて提示されている。 対する綺礼はマスターでありながらも魔術師としてはようやく見習いを脱した程度。従えるサーヴァントもまた諜報活動に長けたアサシンのサーヴァント。 綺礼の父である璃正の仲立ちの元、懇意にある土着の魔術師であり、聖杯を正しく使える唯一の者と認められた遠坂時臣を勝者とする為に綺礼は存在している。 綺礼が探り、暴き、時臣が打倒し、勝利する。 勝利を約束された出来レースに加担する者として、綺礼自身に思うところなどない。彼自身には聖杯に託すべき願いなどないのだから。 だというのに、綺礼は昨日に引き続き今日もまた独り夜を徘徊し、自らの意志に拠って暗躍する。正体不明の少女らの情報を得るのは時臣にも利益を齎す行動といえるが、今こうして切嗣と対峙しているのは完全な私事。 少女探索の折、偶然にも見咎めたアーチャーの狙撃から冬木ハイアットホテルを一望できるビルに目星を付けいざ駆け上ってみれば、その男が確かにいた。 この瞬間、綺礼の脳裏から少女の影は完全に消え去り、切嗣に対する感情だけが渦を巻いた。事前に調べ尽くした切嗣の経歴。命をまるで惜しんでいない戦場遍歴と、アインツベルンに招かれてからの奇妙な静寂。 そこに綺礼は同じものを見た。何一つとして持たない己と同じものを。数多の戦場を潜り抜け、それでも手に入らなかった何かを冬の一族の元で手に入れた筈の切嗣に問わなければならなかった。 おまえは一体何を掴んだのか──おまえが地獄の果てに見たものは何だったのか…… ただその問いを投げ掛けたいが為に、綺礼は聖杯に託す祈りもなく闘争の渦に身を投げたのだから。 そうとは知らない切嗣は身を強張らせた。余りにも早すぎる邂逅。もし衛宮切嗣と言峰綺礼が出逢うとすれば、それは最終決戦である筈だった。 互いが互いを敵視し、危険視している以上はそう簡単に姿を見せない。高を括っていたわけでもないが、このポジションに陣取った事をこんなにも早く悟られた事は、切嗣にとって思慮の外の事だった。 それでも切嗣は冷静に事態を観察する。彼我の距離はまだ十メートル以上。背後からはホテルの異常を物見遊山で集まった野次馬達が眼下に集い、未だ対象の生死は知れないままの最上階は白煙に包まれている。 切嗣がこの対峙を理解した瞬間、最も警戒を抱いたのは綺礼本人ではなくそのサーヴァントの存在だ。現在切嗣のサーヴァントであるアーチャーはハイアットホテルを挟んだ斜向かいの、しかも遥か彼方に陣取っている。 サーヴァントを従えていないマスターほど御しやすいものもない。綺礼が次に取るであろう行動を即座に想像した切嗣は、無駄な問答も挙動もなく、手にした短機関銃を乱射させながら駆け出した。 銃口を向けられて即座に引き鉄を引くものと見て取った綺礼は、すぐさま卓越した身体能力を以って回避運動を取る。綺礼の思惑は切嗣に理解されず、口の一つとして利く時間もなく戦端は開かれた。 歯噛みしながらも“切嗣を逃がしてはならない、もし逃がせば次はいつ見えるか分からないのだ”と切迫し、綺礼は繰り出される銃弾の雨を避け続ける事に終始した。いや、むしろ綺礼は、自分からその雨の只中へと突撃した。 ケブラー繊維と教会代行者特製の防護呪符に裏打ちされた僧衣は切嗣の手にする銃弾では貫けない。綺礼は頚部と頭部をガードしたまま疾駆し、身を跳ねる数十発の衝撃を鋼と化した筋肉の鎧で受け止めながらに接近する。 切嗣とて、綺礼の突進に慄然としている暇などなく、手にした銃で間断なく銃弾を降り注がせながら次なる一手を打つ。 屋上の端を目掛けて全力での疾走。背後から迫り来る代行者の脅威に身を晒されながら切嗣は硬いコンクリートの地面を蹴り上げ、向かいのビルへと跳躍した。 夜空へと躍り出る最中、身を襲う強風に煽られながら、左手に構えた銃の乱射は休む事無く、更なる一手を惜し気もなく発動した。 「令呪を以って我が傀儡に命ず──アーチャー、来いッ!」 右手に刻まれた聖痕が煌き、一画を夜空に華と散らせながら膨大な魔力が吹き上がる。同時に、此方と彼方を結ぶ道が創造され、遥か遠方にあった筈の赤い騎士の姿が切嗣の傍らに現れた。 綺礼のサーヴァントが未だ存命の状態で、アーチャーを置き去りにしたまま戦い抜こうなどと思えるほど切嗣は楽観主義者ではない。 むしろ綺礼が初手でサーヴァントを嗾けて来なかった愚策を逆手に取り、令呪に訴えた最強のカードを切って見せた。 突然の招来に驚きを隠せなかったのはアーチャーだが、瞬時に戦況を把握した赤い騎士は姿勢を制御し、手にしたままだった弓に矢を番えて放った。 一瞬に撃ち出された矢の数は三閃。切嗣の後を追って空に飛び出した綺礼には、回避も迎撃のしようもない状況下で完全に狙い撃たれていた。 ──しかし矢は闇より出でた無数の短刀に撃ち落され、綺礼の首級を奪うには至らない。 アーチャーの助力を得て幾分背の低いビルの屋上に無事着地した切嗣は短機関銃の弾を再装填し、傍らのアーチャーと共にその異常を睥睨した。 脅威の身体能力で自力で着地した綺礼の傍には、彼のサーヴァントたるアサシンの姿。だが、その人影は一つではなく、切嗣の視界に収まる限りで六人は白面を月明かりの下に躍らせていた。 「複数のアサシン……それがおまえのサーヴァントか」 切嗣の問いに綺礼は答えない。答える必要などない。わざわざ手の内を晒した以上、余計な情報をくれてやる必要性などない。 数の上では圧倒的な不利に追い込まれた切嗣とアーチャーは、けれどすぐさま互いの対峙するべき敵を認識し、行動を開始する。 アーチャーは即座に番えた矢を雨と放ち、切嗣は身を翻して更に向こうに軒を連ねる摩天楼へと飛び込んだ。 威嚇射撃としての意味しか持たないアーチャーの連射を六人のアサシンはそれぞれが担うダークを寸分の狂いなく鏃に穿ち、主の進むべき道を拓く。 綺礼の狙いはあくまで切嗣ただ一人。切嗣がアーチャーを晒した以上、綺礼とてアサシンを晒さずにはいられなくなり、仕方なく手の内を見せたが彼らの戦闘能力を綺礼は決して見誤らない。 こと暗殺に関してのみを言えば彼らに比類する者は起源を同じくする山の翁達だけであろう。但し、歴代の頭首達の中でもこのアサシンは異例の暗殺者である。 サーヴァントになる事で生前の特異性がより顕著になった分を差し引いても、一撃必殺の秘奥を持つ頭首らに戦闘能力では明らかにこのアサシンは劣っている。 しかしその分、自己を希薄化し個でありながら無数であるという異常は、暗殺術に始まる権謀術数、話術、戦術、人がおよそ生涯に学習する知識に数倍する叡智をその身に蓄え、自由自在に引き出せる能力こそが真骨頂。 肉体的な強靭性は持たずとも、精神性に特化した暗殺者。頭脳を駆使する暗殺術は、闇に潜み対象の背後を衝く殺人者の理に適うべきものである。 だが前述の通りに、肉体的な強さを持たない彼らが正面切っての戦に身を投げ打つ事は自殺行為に相当する。マスター程度ならいざ知らず、世界に召抱えられた英雄豪傑が相手とあらば、絶対的な不利は否めない。 だからこそ綺礼の取るべき戦略はアーチャーの足止め。斃す必要性はなく、綺礼が切嗣に追い縋り、問答を繰り広げる時間さえ稼げればそれでいい。 「散開。アーチャーの足を止めろ」 その一言で蜘蛛の子を散らすかの如く四方に馳せた白面の群れは、一斉に三次元からの投擲を繰り出す。ダークはその名の通り闇に溶け込む黒色であり、星と月の明かりしかないビルの屋上であれば目視すら難しい。 しかもそれが一本二本ならいざ知らず、裕に十を超える刃がしかも全方位から撃ち出されたとあっては、いかなサーヴァントと言えど迎撃の為の足止めか隙間を縫っての回避をせざるを得なくなる。 綺礼の命の通りに完全にアーチャーを縫い付けたアサシン達を横目に、綺礼もまた切嗣を追い闇に飛び込む。 決して逃がしはしない。言峰綺礼は衛宮切嗣に問う。生の果ての解を。無意味な生に意味を齎したものの存在を。 ────答えを得るその時まで、言峰綺礼は止まらない。 左右正面頭上に斜め上。六人のアサシンが一斉に跳躍し、白き髑髏の面貌を月の浮かぶ夜空に躍らせながら手にしたダークを穿つ。都合二十に迫る短刀群を、手にした黒檀の弓と後退にて迎え撃つ。 その隙を見逃さずに敵のマスターは空に飛び込んだが、アーチャーは後を追う真似はしなかった。元よりサーヴァントにサーヴァントをぶつけるように、マスターの相手を行うのもまたマスターの役目。 あの男はアーチャーの援護など望んでいない。ただ単に敵のサーヴァントを警戒したが為に令呪に訴えアーチャーを呼び寄せただけであり、最初からマスターとサーヴァントを分断出来れば後は自力でなんとかするつもりだっただろう。 切嗣がとりわけ危険視していた綺礼なればこそ、是が非でもこの段で排除しておかなければならない。憂慮を一つ断てば、聖杯に一歩近づくのだから。 アサシン達もまた同じ腹積もりであったのか、綺礼が消え去った今は油断なくアーチャーを窺うばかりで無理に攻め立てようとはして来ない。こちらの力量を測りかねているのか綺礼よりの指示なのかは判別はつかなかったが。 「フン……本来一人しか収まらない英霊の座に群体としてあるアサシン……か。 なるほど、ならばさぞかし情報の収集は楽だったろうな。一人でこの街を奔走する必要はなく、皆で分散して情報の収集に当たればいいだけなのだからな」 アーチャーの言葉にもアサシンは声らしい声を発さない。声を出さないのか、出せないのか。何れにせよ、相手から得られる情報は少ないと見てもいい。しかし、駆け引きとは何時の世も焦りを生じさせた方が負けるのだ。 「で、貴様らのその異様……それは宝具の能力か?」 答えなど期待せずに、アーチャーは気付かれぬように一歩後退する。 「口も利けんか。ならば問いを変えよう────貴様らは、それで全部か?」 アーチャーの眼前にいるアサシンは六人。全部で七騎のサーヴァントの諜報活動を行う上でお誂え向きの数だが、本当にこれで全員なのかとアーチャーは訝しむ。 無論答えはなく、アーチャーは更に一歩後退する。同時に、アサシン達からは殺意が漏れ出す。手にしたダークに僅かながらに力が込められたのを鷹の慧眼は見逃さなかった。そして、火蓋を切る言の葉を紡ぎ出す。 「強情だな。ならば良い、この場で全員を殺し尽くせば分かることだ」 言い終るや否やアーチャーは手にした弓を眼前に掲げる。同時に迸った戦いの気配と溢れ出した殺意に反応した二体のアサシンが滑るようにアーチャーへと駆け出す。 弓兵の射程外とは懐だ。どんな名手であろうとも、自らの胸に向けて矢は放てない。そう知るからこそ戦いの予兆を看破した瞬間にアサシンは疾走した。 弓に矢を番える暇を与えないと。一射すら放たせずに勝負を決めると。 脅威的な瞬発力でアサシンは肉薄する。手にしたダークを放つまでもなく、手ずから斬り裂いてやると白面を揺らしたアサシンはしかし、 「ギィァアァァァ……!」 奇声を叫び、血の華を咲かせて倒れ伏した。 同じく踊りかかっていたもう一人のアサシンも追随する形で短刀を振り上げていた姿勢が災いし、流れるような動作で振るわれたアーチャーの“剣”に斬り裂かれた。 「口無しかと思えば違ったか。だがまあ、その口を割らせるのは容易ではなさそうだ」 息を呑んだのは残った四人のアサシン達だ。 先程までは弓を手にしていたアーチャーの手の中には今は剣が握られている。反り返る刃を煌かせる白と黒の中華剣。無骨でありながらその実清廉なるしなやかさを持つ、夫婦の剣であった。 「フン、弓兵が弓しか使わないと思い込んでいたのなら早計だな。それともあれか、君達の情報収集能力というのはその程度なのか? ならば高が知れるというものだな。数でしか戦力差を埋められない時点で、力を測る必要性もない事だったか」 「キサマ────!」 四人のアサシンが散開し四方からアーチャーを囲い込む。しかし、アーチャーには怯えの一つもありはしなかった。 先ほど斬り裂いた二人のアサシンの手応えの無さから推測された結果は彼らは群体であるが故に個々人の能力は極めて低い。本来一人分の枠しかない座を無数で分散したのだとすれば当たり前の事なのかも知れないが。 加えてこんなにも安い挑発にかかる時点で相手にもならない。アーチャーがわざと間合いを広げようとした様から弓を射る為の間隔確保と睨んだ時点で、あの二人の敗北は決まっていた。 この状況も充分に許容範囲。冷静さを無くした者ほど御しやすいものもない。単調なだけの攻撃、思慮を欠いた突撃、無謀な突貫。幾重にも策を巡らせたアーチャーを相手取って自己を見失った時点で敗北は必定だ。 「さあ、掛かって来い暗殺者。せめて最後に気概を見せてみろ────!」 月下にて双刃が踊る。 無数の血の華で夜の闇を染め上げながら、舞うように赤い外套が翻る。 アーチャーとアサシンの対峙の場から幾らかの距離を取った先で二人は向き合った。ビルが乱立する区画に入ったお陰で先のようにアーチャーの助力なくして跳躍を成し遂げた切嗣と、全く呼吸を弾ませていない綺礼が互いの面貌を睥睨し合う。 「嬉しいよ衛宮切嗣。おまえとこうして見えられるとは……それも、こんなにも早く」 恋焦がれた相手に振り向いて貰えたかのように歓喜に打ち震える綺礼を切嗣は醒めた目で見つめている。 互いのサーヴァントは相手のサーヴァントの足止め。これで余計な邪魔は入らない。速やかにこの男を斃す。生かしておいては危険な人物だと、切嗣の全てが警告を発する。 「待て衛宮。私におまえと争う意図は無い。おまえが有無を言わせずに銃を放つから仕方なく応じただけだ。他意はない」 誰がそんな戯言を信じるものかと切嗣は銃口を向けたまま引き鉄に指を掛ける。いつでも放てるように。 綺礼は胸に下げたロザリオを掴み祈りを捧げる。まるで今自分が立っている場所が戦場ではなく、礼拝堂であるかのような堂々とした所作だ。 「衛宮切嗣。私はおまえに問わねばならない」 黙祷から脱した鋭い瞳が切嗣を射抜く。いつでも動けるように若干腰を落として謳い上げる神父を睨み付けた。 「教えてくれ。おまえは何を手に入れた。戦場の只中で見つけられなかった何を、あの聖杯に執着する一族の元で見つけたのだ」 およそそんな問いかけを切嗣は予想していなかった。むしろ、理解さえ出来なかったと言ってもいい。この男は何を言っている。何の話をしているのだ、と。 「おまえの遍歴は余さず見せて貰った。明らかに小金に執着するが為の紛争地帯への介入ではない。 おまえは一体、世界中の死地で何を探し求めていた? 私と同じ、空虚な心を埋められるものを探していたのだろう? けれどソレは終ぞ見つけられず、しかしおまえは違う場所で見つけた筈だ。冬の一族、アインツベルンに召抱えられてからの静寂は、心を確かに埋めたが為なのだろう?」 「…………」 やはり、切嗣には理解が出来ない。この男は何かを勘違いしている。いや、強ち間違いでもないのかもしれない。 数多の戦場を馳せ、切嗣が己が命を賭してきた意味とは生命の救済。人の手で可能な最良の選択……多くを生かす為に少数を切り捨てるという無常の愛の実践行為。 心を鉄に変え、天秤の揺れだけを冷やかに見つめ続けてきた切嗣が辿り着いた解というものがあるとすれば、この闘争の決着の果てに頂く杯だ。 奇跡の縁に縋り、およそ人の手では行えない救済を世にばら撒く。恒久の平和。二度と人の手が血で塗れる事がないように、切嗣は最後の闘争に身を投じた。 「さあ、教えてくれ衛宮切嗣……! おまえの答えを! おまえの見つけたものの正体を! この問いを投げ掛ける為だけに、私は争いに身を投じたのだから……!!」 哀願にも似た焦眉を露にしながら綺礼は問う。何一つとして得られなかった生に解を。同じ空虚を宿し、己よりも先に答えを得た男に。 ──しかし。切嗣の返答は冷淡だった。 手にした銃の引き鉄を引き絞る。火花を散らせながら放たれた銃弾は寸分違わず綺礼を射止め、けれどただの一つも貫通せずに地に落ちた。 先の一幕よりキャレコ短機関銃では綺礼を打倒出来ないと承知している。だからこれは単なる拒絶の意思表明。おまえにくれてやるものは“死”以外に有り得ないと明確な否を衝き付けた。 「何故だッ! 頼む、教えてくれ! おまえの得たものを、おまえが掴んだものをォ!!」 狂気に囚われた綺礼が裾より引き抜いた黒鍵を手に疾駆する。是が非でも答えを得なければならない。たとえ切嗣を殺し尽くす事になろうとも。綺礼の執着は、もはや妄執の域にある。 応じる切嗣は全力で後退しながら銃弾をばら撒きつつ牽制する。短機関銃では綺礼の足止めさえ僅かな時間しか稼げない。 本来ならばいかな防護加工を施そうとも魔術的な加護を働かせなければ相応の衝撃が身体を穿ち激痛に苛まれる。だというのに、目の前の男はまるで意に返した様子もなく銃弾の雨の只中に身を晒している。 つまり彼の代行者の身体能力は脅威の域にある。接近されれば恐らく、切嗣はまるで歯が立つまい。 故にこの戦いはいかに間合いを保つか、間合いを詰めるかに終始する。 しかし綺礼の手の中には代行者が扱う黒鍵がある。剣としての特性よりも矢として特化した十字架を模した剣を余さず振り抜き、切嗣を縫い止めようと夜を斬り裂く。 夜闇に穿たれた黒鍵を跳躍を以って回避。手にした銃は火を噴き続け、黒衣の僧侶を僅かばかりの足止めをする。 それでも綺礼は止まらない。更なる刃を繰り出し、彼我の距離を詰めんと疾駆する。 それなりの広さを誇る屋上であるからこそ、綺礼が生身の箇所を庇う事を優先しているからこそ、切嗣は飛来する黒鍵を回避迎撃せしめている。 しかし身体能力に絶対的な差がある。現代兵器を武装とする切嗣は綺礼ほど肉体を研鑽していない。代行者として培った修練を身に刻んだ綺礼の肉体は単純なスペック差で切嗣を凌駕する。 決め手があるとするのなら己が胸に抱く魔銃の一射。魔術らしい魔術を発動している様子を見せない綺礼に真の切り札足る魔弾は用を為さないだろうが、既に装填されている銃弾ならばむしろその方が都合が良い。 算段と共に逃げ回るように銃を乱射していた切嗣に、唐突に衝撃が走る。まだ裕に七メートルはあった間合いを一瞬にして詰める綺礼の歩法。八極拳の流れを汲む絶技で以って、綺礼は勝負に出た。 僅かに二メートルの距離にまで迫った綺礼が更なる追い込みをかけ、裏打ちされた肉体にものを言わせた掌打を繰り出さんと震脚を撃ち抜く。 間合いを詰められた切嗣はタイミングも悪くキャレコの弾切れを起こし、絶体絶命の窮地へと追い込まれる。しかし、切嗣とてこれまで潜り抜けて来た死線の数では綺礼にさえ匹敵する。 冷えきった心は死地にあっても冷静を貫き、敵の見せた絶技に瞠目する時間さえも惜しんで迎え撃つべき一手を素早く信号として送り出す。 代行者言峰綺礼の秘門に対するは、魔術師衛宮切嗣が奥義。 「 切嗣の呪文の詠唱と綺礼の必殺の構えはほぼ同時。 確たる勝利を描いたわけではないが、それでも一矢報いるには充分すぎる間合いと相手の隙を手に入れた筈の綺礼が一瞬の後に驚愕する羽目になるなどとは本人さえも思いもしなかった。 明らかな加速。ただ綺礼の掌打から逃れんと決死の後退しか道の残されていなかった刹那において、切嗣の動作の一つ一つが異常を描く。 掌打を避けんとバックステップを踏んだ切嗣の身体が綺礼の予測より遥かに遠い。コンマを切る速度で撃ち出された絶殺の秘門は空を切り、追い討ちをかける旋脚は僅かに切嗣の顎を掠めるに留まった。 流れるような一連の拳は切嗣に避けようもない驚愕を産み落とす。ただ顎先を掠めただけの一撃に、脳を揺さぶられるかのような衝撃を感じ取り焦燥を噛み殺した。 けれど脳とは別のところで腕は自律行動を行い、手にしていた短機関銃を放り、ホルスターより愛銃を引き抜いた。 魔銃に装填されている弾丸は・30−06スプリングフィールド弾。キャレコ短機関銃の9mm弾を弾速、威力共に圧倒する凶弾をこの距離から放てば綺礼とて無事では済まない。 旋脚の回避に上を向いた顔から視線だけで眼前の僅かな硬直の中にある敵影を見咎め、揺らぐ視界の中でも全くぶれない照準を表面積の少ない頭部ではなく心臓のある身体に合わせる。 蹴りを振り抜いた姿勢の綺礼。身体を流したまま銃を向ける切嗣。指先にかかる引き鉄に僅かばかりの力を込めれば、撃ち出される死の凶弾。夜を斬り裂く轟音と共に、魔弾の射手が致命の一撃を解き放つ。 苛烈なる戦場に一時の静寂が訪れる。屋上を攫う風は冷たく、中心にある二つの人影を強く吹き付ける。 たっ、と軽い音を立てて切嗣が着地してそのまま後退。倍化していた体内時間は呟きと共に収束し、代わりに彼の身を襲うのは反動だ。 時間の流れを操作する固有時制御を我流にて戦闘魔術にまで昇華させた切嗣を以ってしても、世界よりの修正は避けえない。 「────っ、……」 血反吐さえ吐き出しかねないフィードバックを噛み殺し、未だ存命の仇敵を見据える。 充分に広げた間合いの先にある僧衣。あの一瞬、最早回避する時間などない筈の刹那において、綺礼は確かに回避運動を取って見せた。 綺礼が切嗣の魔術を知らず目測を誤ったように、切嗣もまた綺礼の身体能力の出鱈目さを見誤っていた。 世の中には銃弾を視認してから避ける事の出来る化物もいると聞くが、目の前の男はその類ではない。 向けられた銃口の角度、視線、引き鉄にかけられた指の動き。ありとあらゆる予備動作から放たれる弾丸の軌道を予測し、脅威の身体能力で以って回避する…… 人の範疇にありながら、一体どれほどの修練を積み上げればその高みへと到るのか、切嗣には理解さえ出来なかった。 誤算があったとすれば切嗣の手にしていた魔銃の威力か。脇腹を掠めに留まった一撃はキャレコ短機関銃の弾丸を悉く防いだ僧衣を突き破り、表皮さえも焦がし赤い血肉を露にしていた。 ただそれでも憮然とした綺礼の表情には痛みや焦りの色は全く垣間見えない。 睨み合いの最中にあって、不利なのはむしろ切嗣の方だった。彼の手にするコンテンダーは装填弾数一発の代物だ。キャレコ短機関銃を手離した今、頼みの綱の愛銃には弾丸が込められていない。 綺礼が再度迫るよりも早く弾丸を装填し、更なる一撃を叩き込む……口にすれば簡単な動作が、今の切嗣には途方もなく遠い場所の事に思えた。 ただ、隙があるとするのなら…… 「衛宮。私はおまえの答えが聞きたい、ただそれだけだ。その銃を私に向けるな。次は殺してしまうかもしれん」 言峰綺礼の執着、か。 これほどまでに欲する解ならば、綺礼は殺害よりも捕縛を優先して行動する。いや、いざ闘争の只中に身を置けばそんな悠長な考えは捨て去るだろうが、こうして間合いを開け対峙する分には猶予があると見て取っていいだろう。 しかし切嗣にとって綺礼と交わす言葉など持ち合わせていない。今一つ要領を得ない綺礼の問いかけに馬鹿正直に答えてやる義理も義務も存在しない。ただ冷徹に。勝利の布石をばら撒く時間稼ぎに丁度良いとしか思えない。 綺礼の問いを黙殺したまま、切嗣は素早く再装填を済ませる。綺礼に動きはない。戦力的に有利にあるのは綺礼だが、唯一つの執着が彼我の思惑を交錯させる。 更に手持ちの武装の確認。銃は今手にするコンテンダーが一挺。身体の随所にナイフを数本。コートの裏側に手榴弾、発煙筒や閃光弾、その他それに類する撹乱の道具。 武装としては必要充分。後は自らの覚悟の量だけ。今この場で言峰綺礼を亡き者と出来るのならば、多少の損傷は受け入れなければならないものと了解する。 切嗣の準備完了に伴い綺礼は目聡く魔術師殺しの手にする銃把に力が篭るのも見咎めた。 「やはり、戦うか。ならば是非もない。力尽くで答えさせるまで」 一挙一動を見誤らぬと構えた綺礼に差し向けられるは銀の刃。撓りを以って打ち出された投げナイフを第二幕の開戦の合図とし両者は共に動き出す。 綺礼は一直線に飛来した銀閃を難なく回避せしめ、強靭な脚力で疾駆する。切嗣の手にする銃がただの一発で再装填を行われた事から総弾数を推測。 至近距離でなければ回避さえも可能。身を削る覚悟は必要だが、それで切嗣を無力化出来るのであれば安い代償だと了解する。 先のように待ちはない。猶予もない。確実に捉え、是が非でも吐かせてみせる…… 二閃、三閃と繰り出されるナイフの全てを躱し切り目標に迫る。先程垣間見た切嗣の魔術は既に把握済み。いかに二倍の速度で動けようとも、ならばそれさえも計算に入れ打ち込むだけの事。 綺礼の止まらない加速の最中、降り止んだ銀光の代わりに切嗣が両者の間に発煙筒を放り投げる。 一瞬にして屋上を包み込む白煙に綺礼は一度足を止め即座に口元を覆う。毒か何かと勘繰ったがどうやらただの煙幕のようだった。濛々と煙る視界の中、強く吹きつける風が一定方向へと煙を攫っていく。 ────これは、まずい。 綺礼の脳裏を掠める焦燥を後押しするように、右方より白靄を斬り裂いて銀色の閃光が飛来。寸でのところで躱せたのは風を切る音、空気の流れの違和感だった。 屋上に吹き荒ぶ風ならば、煙幕など数秒と持たず消え去るだろう。だがこの一手を講じた切嗣が座して霞が晴れる事を待つなど有り得ない。逃走の可能性も考えるが、切嗣は必ずや殺しにかかると確信する。 ナイフが白靄の向こうに消え去るよりも早く僧衣の裾より左右八本の黒鍵を引き抜く。静聴にて足音、発砲音を探り、視野にて煙の流れを見続ける。 上下左右正面背後。何れよりの攻勢にも対応できる布陣を即座に築き上げて綺礼は必ずや訪れる衝突の瞬間を待つ。 カン、と耳に届く妙な音。左方より聞こえたその音はブラフ──そう読んだ綺礼が他の方向へと注意を向けた瞬間、音の響いた方向より猛然と煙を引き裂いて疾駆する切嗣の姿を目の端で捉える。 既に倍速化が施術されている切嗣の速度は常人の域を逸脱。漆黒の瞳孔に敵影を映し込んだ瞬間、綺礼が放つ左手の四閃。 明確に仕留める為の投擲ではなく、右手の四閃へと繋ぐ為の牽制。 異常な速度で黒鍵を回避した切嗣に差し向けられるは必殺を以って放たれる銀の刃。切嗣もまた至近距離から確実に銃弾を叩き込む為に身を晒し突貫する。 翻る刃。向けられる銃口。互いが互いを仕留める為に放つ凶弾凶刃は、 「ウオォォォォォォォォォォ────!」 「────!」 「…………!」 およそ予期していなかった脅威の到来により阻止され、危機を同時に悟った二人はどちらとも無く離脱した。 白煙を晴らすかのように空より降った稲妻。コンクリートの床を穿ち破砕した欠片が礫となって飛沫を上げる。 二人が死地と踏み込んだ場所に寸分違わず落ちた落雷の正体は、黄色の短槍──ランサーが手にした槍の一本だった。 遅れて来た痩躯の槍使いの姿を目視し、切嗣と綺礼は瞠目する。 ほぼ全身を血塗れと化し、けれど瞳には昨夜の戦いよりなお強固な意志を秘めて二人を睥睨している。手にした赤色の長槍が穂先を揺らしていた。 「……どちらだ。我が主に不敬なる一矢を放った者は」 明確な怒気を孕ませた視線に射竦められ、切嗣は焦燥を抱いた。ランサーの姿を見るからに、アーチャーの狙撃は相応の痛手を喰らわせたと見てもいいだろう。 だがまだ詳細までは知れない。マスターであるケイネスは死んだのか? ならば今いるランサーは最後の足掻きを行っているだけなのか? あるいはなんとか生き延びて、憤怒を憎悪に変えてランサーを差し向けて来たのか……? 言峰綺礼に気を取られ、彼らの存在を忘却していた己が不肖を歯噛みする。どうすればいい。既に令呪の一画を消費した現状、二画目を使うのだけは避けなければならない。一夜で二つも消費したとなれば、後の戦いで圧倒的な不利を被る。 「答えないか。ならば良い。どちらもマスターであるな? どのサーヴァントのマスターかは知らないが、おまえ達はここで死んでくれ」 黄槍を手にして両翼を広げたランサーを前に、綺礼が一歩先んじた。 と同時に、今にも弾け出さんと踏み込みを強めたランサーの元に奔る黒色の刃。容易く叩き落すも、己の与り知らぬ第三者の存在を認識した槍兵が周囲への警戒を強める間に、綺礼は言葉を紡ぎ出す。 「衛宮。私はまだおまえに聞いていない。おまえの解を聞いていない。ここで誓え。次見える時、必ずや私の迷いに解を齎すと」 サーヴァントが現れた以上、マスターでしかない二人が闘争を続けられる筈もない。局面の移り変わりを理解し、更に綺礼の言の意味するところを瞬時に理解した切嗣は、ただ冷淡に己が行うべき最善の策を言葉にする。 「……いいだろう。おまえの欲するものが何かは知らないが、僕に答えられるものなら答えると約束しよう」 「その言葉──ゆめ忘れるな」 綺礼が腕を眼前に差し出し謳い上げる。 「令呪を以って我がサーヴァントに命ずる──出でよアサシン、ランサーを足止めせよ」 祝詞は令呪を赤く染め上げ、膨大な魔力を渦巻かせながら主の命を昇華する。屋上を染め上げた白光が晴れた後、現れたサーヴァントの異様に、綺礼以外の二人は驚愕に目を見開いた。 綺礼とランサーの間に現れたアサシンの数は、先程の比ではない。十や二十を裕に超える無数の白面が月下に踊り、怪奇なる声を多重奏として夜に響かせる。 それぞれがサーヴァントでありそれぞれがアサシン。無数にして個である今代の暗殺者の異様は、彼らの度肝を抜いて余りある。 「行け、衛宮切嗣。先の誓約、必ず果たして貰うぞ」 「ああ。その時まで、おまえが生きていればの話だがな」 即座に始まったランサーとアサシンの闘争の裏で、身を翻して階下に通じる扉へと駆け出した切嗣を見やり、綺礼は乾いた笑みを零して向き直る。 「アサシン、目的は奴の足止めだ。深入りはするな。それなりの時間を稼いだのならば離脱しろ」 「御意に」 一番近くにいた一人の白面に告げて一瞬だけ前を見る。一人のサーヴァントを囲む無数の影。縦横無尽に奔る短刀はその数さえも計り知れない。 「どけぇええ……! サーヴァントォ……!!」 しかし、今宵のランサーは尋常な強さではない。身を濡らす赤き血を巻き上げながら赤の長槍と黄の短槍を閃と振り翳し、身を穿つダークの全てを叩き落して、忍び寄る暗殺者を殲滅する。 アサシンの返答を聞き取り、綺礼もまた屋上を去る。 今宵の闘争、師である時臣に隠し通す事など出来まい。下手を打てばこの場に居るアサシンの全てが討ち取られる可能性とてあるのだから。 しかし綺礼は確かな手応えを得た。切嗣に取り付けた誓約を果たす為、再び見えなければならない。それが何時かは知れないが、絶対にもう一度あの男と対面すると決意を灯し、綺礼は夜闇に紛れ姿を眩ませた。 /Romancer 深夜。 世界は闇に沈み、煌々と暗闇を照らし出すは疎らに建て付けられた街灯のみ。居並ぶ家屋には明かりの一つさえ見受けられず、街は静寂に閉ざされていた。 およそ人の営みの外に置かれた時間に、その少女は街を彷徨い歩いていた。軽やかな足取りでステップを踏みつつ、小さく歌を口ずさむ。 闇に潜む動物達の鳴き声に合わせるように、名も無い歌を歌い上げる。透き通る声で、神を前にした信徒が謳う祝詞のように、闇を震わせ切り裂いて。 「ああ、楽しいなぁ。こんなに楽しいのは久しぶりかも。それもこれも全部貴方のお陰ね」 くるりと廻り後ろを向いた彼女の視線の先には、何もない。いや、微かな歪みと暗闇に灯る赤い光が二つばかり浮かんでいた。 「ねえ、そういえば貴方、喋れないの?」 茫洋とした影は答えない。蜃気楼のように揺らめく巨大な影は赤い光を少女に向けるばかりで、言語を発さなかった。 「んー、でも確かに聞いたんだけどなぁ。じゃなきゃ私にあんな真似、出来る筈ないし」 あの夜、執行者に追い詰められた墓地で少女は確かに声を聞いた。与り知らない誰かの声を。そして唐突に理解を得たのだ。己の知らない叡智。欲した知識。およそ人外の秘奥の一端を垣間見た。 小首を傾げたまま空を、赤く灯る光を見つめる少女。 「ねえ、やっぱり────」 『煩い。喋るな』 「…………っ!?」 突然脳裏に直接響いたその言葉に少女は驚きと共に首を竦めた。周囲には人影はなく、声も耳朶より入り込んだものではない。ならばと、再度視線を上げれば、爛々と輝く赤い双眸が確かに少女を見下ろしていた。 「今の……」 『喋るなと言ったのが聞こえなかったか? 面倒なのは嫌いなんだ』 「やっぱり! あの時の声だ!」 少女は目を輝かせて影を見上げる。虚ろな影の表情は全くと言っていいほど読めなかったが、先の声音は本当に面倒臭そうだった。あるいは怒りさえも孕んでいたのかもしれないが少女にはまるで聞こえていなかった。 「ねえ貴方なに? なんでそんな姿なの? 喋れるのに何で今まで黙ってたの? 私にくれた力ってなに?」 『……。サーヴァント。姿に意味はない。おまえが望めば形くらいは変えられる。面倒だからだ。おまえの望んだものだろう? だから私はここにいる』 少女はぽかんとした表情のまま化物を見つめている。 『なんだ、おまえが質問したのだろう? だから答えたまでだ』 「……ふぅん。ぶっきらぼうな癖に妙なところで律儀なのね。ああ、そうだ。姿、変えられるって本当? ならもっと話しやすい姿になって欲しいかな」 別段少女にとって目の前の異形は恐ろしくもないのだが、傍から見れば変人に見られかねない。それというのも、このサーヴァントの見えない他人から見れば、空気に向かって話しかけている可笑しな人なのだから。 『…………』 僅かな黙考の後、異形の周囲に白い風のようなものが巻き上がる。巨大な影を覆いつくした風は吹き荒れた後に収束し、その後に現れたのは、 「これで文句はあるまい」 どこにでもいそうな、何の特徴もない優男だった。 「…………」 「なんだ、まだ何か文句でもあるのか」 「え? ううん、それはないんだけど……なんだか拍子抜けしちゃったというか。もっとこう、演出的にカッコイイ人が出てくるとか、スゴイ格好した人が出てくると思ってたんだけど」 少女は現れた青年の周りをぐるぐると廻る。黒いティーシャツに擦り切れたジーンズ。黒い髪に黒い瞳。見た目二十代前半。アクセサリーの類は身に着けていない。 全体的に容姿は整っているのだが、この国の往来を歩けばすぐにでも見かけられそうな、然したる特徴らしい特徴などない男だった。なので、 「うん、すごく普通」 「煩い、黙れ」 少女の評はまことに正しいのだが、現れた男はどうやら気に障ったようだった。 「面倒事が嫌いなんだ。しかしおまえが望むのなら変わってやらん事もないが、どうする」 「いいよ、それで。さっきまでの姿に比べれば充分マシだからね。それで今更だけれど、貴方誰?」 「サーヴァント。それ以外に知る必要などないだろう? というよりもだ、おまえ、全部分かってて訊いてるだろう?」 「────」 先程までカラカラと笑っていた少女の目が細く鋭利になる。見下ろす二対の硝子球を見つめ返し、その奥底を覗き込むように。 「ふふ、そうね。大体は分かってるつもり。聖杯戦争、マスター、サーヴァント。私は追われる身だったけれど、ただ闇雲に逃げ続けてきたワケじゃない。この場所を目指して、そして辿り着いたのだから」 「ならもういいだろう。おまえが欲したものはくれてやった筈だ、後は勝手にすればいい」 「ああ、ちょ、ちょっと待って!」 言うだけ言って勝手に消えていこうとする男を少女はどうにか呼び止める。さも面倒臭そうに男は振り返り、言葉には出さず目で『まだ何かあるのか』と訴えた。 「ねえ、サーヴァントって望みを抱いて召喚されるものなんでしょう? なら貴方にも何か──」 「ない」 男は短く、けれど断固として言い放った。 「喚んだのはおまえ。だから出てきた。それだけ」 無感情に、ぶつ切りに短く言ってのけられ、少女はまたも唖然とした。 「……迷惑、だった?」 「ああ、物凄く」 ちょっと泣きそうになりながら、でもなんとか踏ん張って少女は男を睨みつける。無遠慮に睨まれ男も居た堪れなくなったのか、ぼりぼりと頭を掻いた。 「……だがまあ、既に契約は交わされた。おまえが望んで破棄しない限り、俺はおまえの傍にいる」 その言葉に少女は年相応の笑みを零す。 「優しいんだねぇ」 「ああ。何といっても────悪魔だからな」 意味もなく二人してクスクスと一頻り笑い合う。少女は軽い足取りで坂道を駆け下り、開けた交差点の中心で両手を広げ、明るい空を見上げた。 満天の夜空には唯一つ大きな月。周りの闇を飲み込もうとするように、ぱっくりと口を開けている。 くるくるくるくる少女は踊る。世界の中心、誰もいない場所で。表情は明るく、ステージに立ったトップダンサーの如く、月明かりの下で狂い踊る。 「アハ、アハハハ、アハハハハハハハハハハ……!」 少女は笑う。 妖しく嗤う。 楽しくて仕方がなくて。 嬉しくて仕方がなくて。 そして何より──これより開かれる宴を想い浮かべて。 「じゃあもう少し付き合ってよ。私の長年の研究に及ばないくらいの成果は貴方から貰ったけれど、ほら、良く言うでしょう? 人はね、罪深い生き物なんだ。一つ手に入れればもう一つ。良いものを手に入れればより良いものが欲しくなる」 「ああ、人とは強欲な獣の名だと、どこぞの王様も言っていた。好きにすればいい。俺はおまえを止めはしないし、おまえが望む限りの助力も貸そう。 それが契約。おまえがサインをした契約書は、悪魔に魂を売る誓約書だ」 「上等。人では手に入らない力が得られたのなら、安い代償ね。それで? 代価は何を所望なの?」 「さっきも言ったが、何もいらない。悪魔はただ優しく囁くだけさ、人の心の隙間を埋めるように」 「キザっ、クサッ。でもまあいいや。なら────」 少女は少女の望むままに。欲する全てを手中に収める為に。この都を地獄の釜へと突き落とす。 「さあ、一緒に準備を始めましょう……? 念入りに、抜かりなく。しっかりと舞台を作り上げて、あのヒト達を招待してあげないと。 奇跡? 願望器? そんなもの、私には必要ないけど。この儚い宴を盛り上げる為に、私は歌い踊り続けるわ。貴方から貰った力を使って……ね」 少女の笑みを向けられた男が腕を掲げる。同時に、道路に面した位置にあった墓地に異常が蔓延った。 墓標に灯る奇妙な炎。青白い色の灯火が見えない蝋燭に灯される。それは死者を眠りより呼び起こす声であり、誘いだ。 「さあ、貴方達も手伝って。ううん、私と一緒に踊りましょう? だって宴は沢山の人で開いた方が楽しいもの。 だから皆で、あの街を染め上げよう? 赤い赤い血の色に。闇を鮮血で染め上げて」 無数の墓標へと差し出された少女の掌。ダンスを求める少女の手を取るのは王子様ではなく、数え切れない死者の群れ。唯一人の少女の誘いに乗って、数多の死者が深き眠りより目を覚ます。 刻々と時は刻まれ、着々と準備は進んでいく。楽しげに踊る少女のバックダンサーは日を追う毎に増えていく。 秘密裏に開かれる闘争の更に裏側で、一人の少女が魔宴の指揮を執る。 暗い闇の底で。人知れず、狂宴の輪が広がっていく…… web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |