正義の烙印 Act.04









/a Sin


『……大体の事情は飲み込めたよ、綺礼』

 採光窓から漏れる淡い光が暗い室内に降り注ぐ。無機質で、ろくに物のない部屋で綺礼はソファーに腰掛け、テーブルの上に置かれた朝顔と対面していた。
 往年の蓄音機を思わせる物体こそは遠坂時臣と言峰綺礼の会話を可能とする装置だ。ターンテーブルのあるべきところに宝石仕掛けの細工が施され、共振により遠距離間の会話を実現していた。

 時臣の静かな声を聞き届けた綺礼の表情はいつにも増して硬い。それも当然、昨夜の出来事を隠し通すことは出来ないと悟った綺礼は事実だけを──衛宮切嗣との対峙には一切触れる事無く──虚飾を交えずに吐露した。

 綺礼の独断専行を口を挟む事無く聞いていた時臣がやおら発した先の一言は威圧感さえ伴う響きがあった。

 時臣が情報収集を命じた少女の行方を探るという名目の下、アサシンの諜報活動だけでなく自ら足を運び捜索にあたった点は、まあいい。
 今現在綺礼が潜む場所──中立地帯である筈の教会に身を隠している事を考えれば、余計な外出は禁じて余りあるのだが、全ては時臣の為の行動と思えば許容の範囲だ。

 しかし────

『まさか、アサシンの半数が一夜にして、しかも手負いのランサーに討たれるなどと……』

 昨夜の綺礼最大の失態はまさにその一点に尽きるだろう。切嗣の統括の下行われたアーチャーによる奇襲狙撃。いかにして生き残ったのかは定かではなかったが、血塗れのランサーは突如姿を見せ切嗣と綺礼を追い詰めた。

 あの場を切り抜けるにはアサシンを使い潰す事さえ視野に入れなければならなかった。それを思えば、半数も残ったと考える事もできる。
 ただそれでも、時臣には許容し難いものである事は間違いない。

 もしこのアサシンの件さえなければ綺礼は時臣にさえ事実を隠し通す気でいた。令呪の一画を消費した事も伏せてはあるが、綺礼と時臣が実際に対面する機会が戦争中にあるとは限らないし、あくまで諜報専門であるアサシンが、しかもそれなりに従順な彼らに対して令呪を使う場面などそう多い筈もないのだから。

 ただ、アサシンの半数が消滅した事は絶対に隠し通せない。情報の収集にも支障をきたすし、もし万が一時臣がアサシンを戦力の一部として考えていた場合、土壇場で半分はやられましたなどとのたまう事など出来はしないのだから。

 故に綺礼はすぐさま時臣に暴露した。後で膿んだ傷口を晒すよりは、まだ手当の効くこの段階で。

『…………』

 魔術仕掛けの通信機の向こう側の沈黙が痛い。言い訳のしようのない不手際を働いた綺礼に対して時臣がいかなる決断を下すかは読み切れず、だからこそ恐ろしい。
 もし時臣が厳罰を処すのならそれでいい。甘んじて受ける覚悟が綺礼にはある。それこそ破門を言い渡されたとしても綺礼は動じないだろう。

 しかしもし、手緩い制裁……綺礼が思い浮かべる最悪の処罰が実現したとしたら──

『いや、いい。綺礼、昨夜の一件は手痛いダメージだが、戦略に変更はない。問題があるとすればランサーと、生きていればマスターにアサシンの能力が露見した事だが……諜報に徹する限りは問題ないだろう。
 綺礼、アサシンには厳命しておいて欲しい。これより指示がない限り一切の戦闘行為を厳禁とし、諜報活動に徹するものと』

「はい」

『そして、君への処分だが……こちらは特に処分らしい処分を行う気はない。どんな理由にせよ、私の為の行動であったのなら、どうして厳罰などに処せるものか。
 ただ、一つ。当分の間、綺礼には動かないで欲しい。偵察はアサシンに隠密を徹底させ君は司令塔の役割を果たしてくれればそれでいい。
 これはまあ、君の師である者としての頼みであり、協力者として提案だ』

 ……綺礼の最悪の想像がここに実現する。

 およそ予期していた中で最も危惧した罰。通信装置がこの場にある限り綺礼の行動は筒抜けとなる。無断外出をしようとしても時臣よりの連絡が入った時に居合わせなければ今度こそ時臣の綺礼に対する信頼は失墜する。

 昨夜の行動が無駄だったとは綺礼は思わない。しかし、綺礼をこの教会に縛り付ける事だけはして欲しくなかった。昨日探り切れなかった、もう一つの脅威の為に。

「……分かりました」

 搾り出した声で平然を装い返答する。それに満足げな声を鳴らして、時臣は一度通信を切った。
 綺麗は憮然としたままテーブルの上に置いてあった新聞を取りぱらぱらと捲る。該当の記事に視線を落とし、目を細めた。

 綺礼が見た記事とは、冬木市の隣市で起きた墓荒しの記事だった。昨日に続いて起きた墓暴き。愉快犯とする声もあったが、綺礼には確信があった。
 連続して起きた墓所での異変。間違いなく、あの女の仕業であると。

 聖堂教会のスタッフは冬木市のいたるところに潜伏しているが、近隣都市までは手が廻っていない状況だ。
 戦場はあくまで冬木である以上、隣の都市で争いが起きる可能性は極めて低い。始まりの御三家は冬木より出るような愚策を取るわけもなし、外来の魔術師にしても理由もなく戦場を離れたところで得られるメリットなど敵に狙われにくくなる程度でしかない。

 しかし、あの女にはその理由がある。

 眠れる者達を起こし、着々と準備を進めている。敵のいない場所で。気付かれにくい輪の外側で。
 あくまで戦場の外で戦力を整え、自らが勝利者足りえるだけの軍勢を確保した後に攻め込んでくる……およそ綺礼の予測した通りの状況が実際に起こりつつある。

 しかも今回の墓所荒しは実際には隠蔽工作がされており、教会麓の外人墓地の一件のように、監督役が出張るような必要性を残してなどいなかった。

 ……稚拙な手段で神秘の露見を行った? 手段を選ばずに研究に身を窶した?

 馬鹿な。少なくともあの女は考えるだけの力を持っている。それが最初からなのか、一度失敗したが故なのかは知れなかったが、何れにせよ面倒な敵に違いない。

 少なくとも魔術を秘匿とする大原則は遵守している。徹底はされていないが、世俗に露見するようなあからさまな失態は犯してはいない。
 こうなればアサシンが半数に減り、綺礼自身の動きが封じられ、しかも冬木市の外に身を隠されては流石に探し出す術など有りはしない。

 明確な証拠もない現状、父である璃正に進言したところで何の成果も得られまい。それこそ神秘の露見に組でもしてくれていれば如何様にもやり様はあったのだが。そこまで相手も愚かではなかった。

 打つ手がない。衛宮切嗣との邂逅は充分に意味があった。しかし同等に弊害さえも起こしていた。

「…………」

 静かに。真綿で首を絞めるように厭な感覚が綺礼の総身を包む。全てに気が付いた時には遅すぎる予感。しかし打てる手は余りに少なく、歯噛みする他なかった。

 それでも。

「講じられるだけの策は打っておくべきか……」

 やおら立ち上がった綺礼は、部屋を辞し廊下にある電話機へと歩み寄った。


/Lovers


「時に雁夜よ、貴様は一体いつまでそう何もせず構えておるつもりだ?」

 皺枯れた声を音と聞き、客間のソファーに身を埋めていた間桐雁夜がドアへと視線を投げかけた。僅かに開かれた扉の隙間から身体を覗かせる間桐家の現頭首──間桐臓硯。雁夜にマスターとしての力を与え、お膳立てをしてくれた老獪だった。

「いつまで? 決まっている、遠坂時臣が動くまでだ」

 自分で淹れた紅茶を一口含み、さも悠然と雁夜は言葉を返した。今の雁夜には余裕があった。家督を継ぐ事を拒み、家出同然にこの家を去った雁夜が一年前に知った事実を覆す為に身を差し出してまで会得した魔術師としての力。

 体内に無数に蔓延る刻印蟲も今は静かなもので、在りし日の自分のように居られる。雁夜の召喚したサーヴァントが特別燃費がいいのか、ただ単に能力値に見合った魔力量しか必要ないのか、知識の少ない雁夜には分からなかったがどちらにせよこうしてまだ人でいられる分には構わなかった。

「そんな事を言っておる間に他の連中は派手に暴れ回っておるぞ? お主も己のサーヴァントの力量を推し量る為にも参戦すべきではないか」

 言って臓硯が視線を滑らせる先には女の姿。雁夜からテーブルを挟んだ反対側のソファーにごろりと横になっている見目麗しきサーヴァントを一瞥した。

「そんなもの放っておけばいい。戦いたい奴らには戦わせておけばいいだろう。勝手に潰し合ってくれればそれだけ俺が聖杯に近づく可能性が上がるんだから。
 この聖杯戦争はトーナメントじゃない。敵を斃すことより生き残る事を前提として戦うべきだ。最短で、最後に残った一騎を討ち取るだけで済むんだからな」

 そう、魔術師として生きてこなかった雁夜にとって早速戦端を切っている他の連中の思惑が知れない。何故無益に殺し合うのか。
 バトルロイヤルという体裁を最大限に活かす為には、それこそ身を隠し情報の収集に務め上げればいい。

 一人で他の六人を討ち取っても、最後の一人だけを斃しても結果は同じ。ならば手の内を晒し、命を危険に晒す愚を犯してまで日夜戦場に赴く必要性など皆無だ。
 それでもまあ、他の連中が勝手に殺し合ってくれる分には構わない。せいぜい互いに尾を噛み合いくたばっていけばいい。それなりに数が減るまでは静観に徹するのが一番利口なやり方なのだから。

「……それでも、時臣が動くのなら俺も動くさ。アイツだけは許さない。アイツにだけは直接言ってやらなければならない事があるからな」

 遠坂邸の監視は万全だ。あの男は今なおあの屋敷を一歩たりとも踏み出ていない。しかし必ずいつか動く。最優の騎士を従え、時期が来たのなら動く筈だ。正統なる魔術師であるあの男が穴熊を決め込み続ける筈もない。
 奴が望むものは聖杯とともに完全なる勝利だ。自らの最強を証明した上で聖杯を手中にする。今はその為の準備段階に過ぎない……

「ふん……儂は聖杯さえ手に入ればそれでいいがな。せいぜい足掻いて見せるがいい」

「言われなくとも分かっているさ。“お父さん”はそれこそ何もせずに見ていればいい」

 皮肉を込めて謳い上げて、臓硯が奇異な笑みを零して去る様を見届けてから雁夜は大きく息を吐いた。

「相変わらず厭な男ね。同じ空気を吸っているのさえ不快だわ」

 黙し続けていた雁夜のサーヴァントが口を開く。露骨に表情を歪めて吐き捨てる。

 雁夜にしても同意見だったが、この家はあの男にとっての工房だ。何処に蟲の目があるか分からない以上は面倒な言及を避けていた。
 ただ眼前の女にとっては然して意味のない監視だろうが。サーヴァントである以上、流石にあの化物であっても手出しのしようなどないのだから。

 雁夜が今なお戦場に姿を見せないもう一つの理由が、この目の前の女にある。真名は知れず、宝具すら不明。能力値は見るからに低く、とてもではないが時臣のセイバーには勝てそうな気配がない。

 そもそもからして、今こうしてソファーに横になっている時点で戦う気があるのかすら分からない。
 臓硯に言われ雁夜は確かにサーヴァント召喚の儀においてクラス指定を行う一節を付与して謳い上げた。先んじてバーサーカーが召喚されていない限りこの女は狂戦士である筈なのだが……

 ──どちらでも構うものか。結局、聖杯を取るだけの力があるのか。その一点だけが知れればそれでいい。
 あるいは、時臣との対峙さえもサーヴァントを別働させた状態であるのなら可能だろうから。

「なあ、真名は言いたくないのなら言わなくても構わない。しかしせめて宝具くらいは見せろ。でなきゃおまえの強さが分からない」

 令呪に訴える手段もあるが、あくまでそれは最後の一手。まだ緒戦の段階でいらぬ面倒を抱え込みたくはなかった。出来る限りは穏便に、良好な関係を維持したままで。それは──魔術師となる前の雁夜の生き方だったから。

 横になっていた女が雁夜の瞳を見つめ、やおら身体を起こして脚を組む。それほど露出の多い服装でないにも関わらず、舐めるような視線と妖艶な雰囲気が相まって妙に扇情的に見えた。

「ふぅん、それは別に構わないけど。貴方、覚悟はある?」

「何……?」

 訝しむ雁夜の眼前に細く白い腕が差し出され、頭上の暗い光に照らされて中指に嵌められた造詣の細やかな指輪が美しく輝いた。
 そしてその手はくるりと裏返り、掌を差し出し、何かを求めるような仕草をする。

「私が宝具を使う為には条件があるの。しかも、一度使うと二度とは後戻りは出来ない類のね。貴方、私のクラスが何だったかはもちろん覚えているわよね?」

「ああ。狂戦士……バーサーカーのクラスだ。そうは見えないがな」

 雁夜の言葉を受けて女はクスクスと笑いを零す。

「ええ、それが条件よ。私はバーサーカー、紛れもなくそのクラスを与えられたサーヴァント。
 今はちょっとした道具で抑え込んではいるけど、本来の力を引き出す為には“狂化”しなければならない。けど一度なるともう戻れない。この聖杯戦争が終わるか、貴方か私が死ぬまで私は狂い続ける。
 そしてその意味するところは、ちゃんと理解できるでしょう、雁夜?」

 教え子に諭す口調でバーサーカーは優しく説き、柔らかく微笑んだ。

「バーサーカーのクラスに則った魔力量を俺から毟り取る。更に今こうしているような会話は行えず、ただ単に破壊を撒き散らす、過去のバーサーカー達と同じ存在に堕ちると、そういう事か」

「ご名答」

 今でこそ落ち毀れの魔術師である雁夜が人でいられるのは、バーサーカーに取られる魔力量が極少量であるお陰だ。しかし完全に狂化を果たせばそうはいかない。
 過去バーサーカーを従えたマスター達はその制御を行えず、奪い取られる多大な魔力の圧迫に耐え切れずに自滅したという。

 力量の低いサーヴァントを狂化という限定条件下に置くことで、本来持てる以上の力を捻り出し、並み居る英霊達に互角に比する能力を付与するのが、本来のバーサーカーの在り方だ。

 そしてそれは、この女も例外ではない。いや、こうして自由意志を持っている時点で例外といえば例外なのだが、狂ってしまえば変わらない。
 マスターを食い物とし、絞れるだけ魔力を搾り取り、本能に忠実に破壊の権化と化す、殺戮のサーヴァントへと変貌する。

「さあ、それでもいいの? 貴方に狂った私が制御出来るのかしら? 女を組み伏せるのが男のやり口だけど、試してみる?」

「ふざけろ。ああ、ならばいい。俺が俺でなくなるには、まだ早すぎるからな」

 この女の言がどこまで信用していいものかは分からないが、少なくとも後戻り出来なくなるような状況に追い込まれるまでは狂わせる必要性はない。
 バーサーカーの狂化のツケはマスターにまで飛び火する。人ではない魔力の貯蔵庫に成り下がり、狂い暴れる負の想念に心身共に砕かれて雁夜は雁夜でなくなってしまう。

 それだけは避けなければならない。せめて、遠坂時臣と見えるその時までは。

「ふふ、賢い生徒を持って嬉しいわ」

「からかうのは構わないがな。別に見せずとも口で話すくらいは出来るんだろう。ならば教えておけ、おまえの能力を」

「もうっ、本当にせっかちな男。それじゃモテないわよ」

「黙れ淫売。サーヴァントならサーヴァントらしく振舞いやがれ」

 罵られてなお妖しく微笑む己がサーヴァントに、雁夜は辟易とする。いつも相手のペースに巻き込まれる。別にマスターとして完全な意志の下に従えとは言わないが、こんな関係もないだろうに。
 嘆息し見えない空を仰ぐ。視界には見たくもない天井だけが映し出されて。

 ……とりあえずはいい。もう少し探りを入れても時間はある。

 およそ魔術師らしくない隻眼の落ち毀れと、およそサーヴァントらしくない狂い切れない黒髪の美女は、今もこうして下らない渦の中に身を窶す。
 己達が戦場に立つその時が訪れるまで。静かに、刻限を待ち続ける。


/Boy meets Girl


 昨夜、あれだけ息巻いておきながら結局敵マスターを発見できなかったウェイバーとライダーは一夜を徒労に過ごし次なる朝を迎えていた。
 サーヴァントによる攻勢らしきビル火災には立ち会ったが、タイミングが遅かったのか全てが終わった後だった。

 一昨日の凄まじいサーヴァント連中の戦いの渦に放り込まれた事を思えば、昨日の疲労など疲れにさえ入らない。
 普段より若干早く目を覚ましたウェイバーは朝食もそこそこに、マッケンジー邸を後にする。

 今日はライダーは霊体化していない。昨日買ってきた私服を着込み、今頃は煎餅でも齧りながらビデオを見ている事だろう。
 全く、何の為に当代風の服を買い与えてやったのかと思ったウェイバーだったが、あの男が勝手に出歩くよりはマシかと一人納得して町へと繰り出す。

 力を持て余したライダーは早々に次なる一手を打とうと企んだが、ウェイバーが午前の内は出掛けると言った言葉を聞き、快活に笑いながら矮躯の少年の背を何度も叩いた。
 背中に付いているであろう赤い掌に痛みを思い出しながら、最後に掛けられた言葉もまた思い出した。

『うむ、人生は謳歌してこそ価値あるもの。頑張ってくるがいい』

 ……一体あの男は何を勘違いしているのかと小一時間説教の一つでも垂れてやりたかったが時間がそれを許さない。
 ウェイバーが往来に再び繰り出したのは胸の煩悶を消し去る為だ。さっさとこの胸糞悪い感情を捨て去って正しい聖杯戦争に復帰する。

 本来ならば無視してしまえばいい筈の無駄な感情、余分な罪悪感。魔術師としては痛みに耐え、他を犠牲にする事を厭わなくとも、人として無感情になれるほど、ウェイバーは子供でもなければ大人でさえなかった。

 何れにせよ一言だけ声を掛けて苦笑の一つでも向けてくれればそれで終わる。問題は、いかにして探し出すかなのだが……

「何やってんだ、あれは……」

 ウェイバーは頭を抱えた。視線を背ける前に見た光景は昨日の焼き回しかと疑った。似たような場所で似たような男達に囲まれている一人の少女の姿。

「ああ、くそっ!」

 吐き捨ててウェイバーは駆け出した。路肩に屯し大勢で女の子を囲む連中の奇異なものを見る視線を無視し、吼え上げる声を無視し、輪を潜り抜けた先にいた金髪の少女──リディアの手を取って。

「ぁ、ウェイ────」

「行くぞ、走れ」

 驚愕と困惑とが綯い交ぜとなった瞳をした少女の手を半ば無理矢理に握り締め、ウェイバーは駆け出した。
 後ろから響く罵声と追い駆けて来る男達を振り切らんと全速力で商店街を走り抜ける。手を繋いだ少女は理由も分からないままに、けれど前を走る小さな背中に安堵の笑みを零して走る事に集中した。



「ッ──、はぁっ──ぁあ……っ、ハ、ハァ、──ハッ、ふ、ぅ……」

 呼吸が痛い。眩暈がする。蠢動する肺は酸素を貪欲に欲し、鼓動を打つ心臓は取り入れた先から身体中に巡らせる。
 ウェイバーは運動は得意ではない。体躯のせいでもあるが、単純に自らは魔道に身を浸す者であるから身体能力を高める暇があるのなら一つでも多くの知識を脳に蓄えんとして来たからだ。

 そんなウェイバーが人生の中で最も肉体を酷使したかもしれないこの全力疾走は、彼からあらゆる体力を奪い去った。
 思えばこの街に来てからというもの走ってばかりではないか。ライダーの蔵書強奪に付き合って走り、今日もまた肉体を酷使させられた。妙な星の巡りにあるのではないかと勘繰ってしまう程だった。

「あの、大丈夫、ですか?」

 息も絶え絶えのウェイバーに対し、隣に腰掛けた少女は呼吸の一つもまるで乱していなかった。華奢な体躯には似つかわしくない筋肉がその服の下にあるのだろうかと視線を落としかけて、そんな元気さえもない事を思い知った。

「だい、じょう、ぶ……」

 なんとかその言葉を搾り出して、ウェイバーはベンチにより深く身を預けた。

 何処をどう走ったのか当の本人にも分からないだが、気が付けば未遠川に面する海浜公園へと出ていた。午前中であるから人影こそ疎らだが、川より吹き込む十一月の風が拍車を掛けてより一層に人の姿をなくしている。

 ほぼ二人しかいない海浜公園で、ウェイバーは呼吸を落ち着けようと空を仰いだ。流れゆく白い雲と何処までも青い空。肌寒い時期であるからか、いつかイギリスで見た空よりも青い気がした。

 そもそもの話として、ウェイバーは自分が何故あんな馬鹿な真似をしたのか理解できなかった。傍らの少女に再び会うのは目的だったわけだし、柄の悪い連中から助け出したのも良しとしよう。

 ただ、何故リディアの手を取って走るような真似をしたのか。昨日のように暗示をかけて事無きを得てしまえばそれで良かった筈だ。
 ウェイバーのこれまでの人生の研鑽は全て頭脳にある。肉体を酷使せずとも身に刻んだ魔術の恩恵を用いればいいだけの話。むしろそうするべきであった筈なのに。

 考えても分からない。理解が及ばないのではなく、心底から理解できなかった。

 最後に大きく深呼吸をして呼吸は無事落ち着いた。空へと向けていた視線をふと横に向ければ、眉を顰めた、何処か戸惑いと悲しさを滲ませた表情があった。

「確か昨日ボクは言ったと思うんだけど。気をつけておけって。そして君は気をつけるって言ってた気がするんだけど」

 突然ウェイバーに話しかけられてぽかんと口を開けたまま少年の顔をまじまじと見つめていたが、やっと何を言われたのか理解が及んだのか、

「あ、は、はい。そうです、ウェイバーさんに気をつけろって言われて、注意して歩いてたんですけど、やっぱり、その、……ごめんなさい」

 何故か頭を下げられて今度はウェイバーが呆けたが、気を取り直して言葉を紡いだ。

「違う。謝るのはアンタじゃない。このボクの方だ」

「え……?」

「あー……その、なんというか……」

 威勢よく啖呵を切ったのはいいが、いざ言葉にしようとなると気恥ずかしさが込み上げてきてどもってしまった。
 けれどいつまでもそうしているわけにもいかず、少し丸まりかけていた背筋を伸ばし、

「昨日はその……酷い事言って、悪かった。……ごめん」

 正面から彼女を見ることなど出来ず、そっぽを向き、しかも声量が尻すぼみする始末であったが、なんとか言わなければならない言葉を口にした。

 リディアから顔を背けたままだったのでウェイバーには彼女が今一体どんな表情をしているのか分からない。
 沈黙が降るばかりで言葉がなかった事がより一層ウェイバーの不安に拍車を掛ける。呆れられでもしたら目も当てられない始末だったが、このまま顔を背け続けるのも如何なものかと思い直し、ウェイバーは向き直った。

 ────そこには、柔らかい微笑があった。

 何故彼女がそんな顔をしているのかウェイバーには到底理解できなかった。自分は酷い事を言い、彼女を傷つけた。
 今更謝られたところで憤慨されても致し方ないと思っていたし、実は何とも思っていなくて白け切った目を向けられる事さえ覚悟していた。

 なのに、彼女は笑っていた。薄い日差しを浴びて、儚げでありながらも透き通るほどに美しい笑みを浮かべて。

「いいえ、ウェイバーさん。貴方が謝る事なんて一つもないです。無理をお願いしたのは私だし、昨日今日会った人にあんな事を言われたら、多分私でも同じ風に言い返してたかも知れません」

「……それでも、ボクは」

 言い差してたところで手を取られ、リディアの両手にウェイバーの右手が包まれた。

「だからそんな顔をしないで下さい。それに私、嬉しかったから。二度も助けて貰えて、こうしてまた会ってくれて。それだけで、私は充分です」

 寒風の中にあって、包まれた掌だけが温かい。妙な気分だった。何故かほっとしている自分がいた。
 でもウェイバーにはどうしてそんな事を思ったのか思い至らず、けれどとりあえずの問題は解決したのだと理解した。

「そうか。うん、分かった。でも、もうあんな連中に捕まるような真似はしないでくれ。流石のボクでも三度目はないからな」

「はい!」

 ウェイバーにだけ向けられたその笑顔が余りに綺麗だったから。
 彼は用件を果たし終えてなおライダーの待つマッケンジー邸に戻る事無く幾らかの話を交わし会う事にした。



 日が少しばかり高くなると、冬木らしい暖かさが戻ってくる。そんな時分までウェイバーと少女は海浜公園で話に花を咲かせた。とは言うものの、共通の話題も中々見つからない二人の間に行えた事といえば他愛もない話だけ。

 昨日は何を食べただとか、天気の話だとか、冬木はどういう街だとか。とりわけこの街に思い入れのないウェイバーは楽しげに語る少女の話に耳を傾けるばかりであったが、むしろそれだけで心地良かった。

 ウェイバーの半生における会話の大半は魔術絡みだ。その中でも時計塔におけるものについては凄惨たる有様だ。
 どれだけ堆く理論を突き詰めようとも、確固たる論文として提出しようとも。ウェイバー自身がその理論を実践できるだけの実力を兼ね備えていなければ聞く耳すら持たない輩ばかりだった。

 会話の端に滲む侮蔑、憐憫、冷笑。

 自らの貴き血筋を絶対とする者達がのさばる魔窟にあって、それでもウェイバーは挫けず戦う構えを解こうとはしなかった。
 その際たる結果が今彼自身がいる場所……聖杯戦争の渦中だ。強さと証明、自らの正しさを貫く為に投じた戦い……

 さておいて、そんな環境に身を埋め続けてきたウェイバーにとって見れば、相手を勘繰る必要もなくただただ楽しそうに話を続ける少女の笑顔が眩しかった。自らの手で切り捨てたもの、望まなかった筈の平穏が、確かにその場所にあったのだから。

「……で、商店街にある洋菓子店にある真っ赤なパイはとっても美味しいんです……ウェイバーさん?」

「へ……?」

「あの、なんだかぼうっとしてたから。私の話、つまらなかったですか?」

「あ、ああ、いや、違う違うよ。なんだか温かくてさ、つい……」

「そうですね、この街はまだ暖かいですね」

 確かに、冬木市は十一月のこの時期にしては温暖な気候に恵まれているが、ウェイバーの口にした温かさとは別の意味合いも孕む言葉だった。少女は素直に前者として受け取ったようだったが。

「私がここに来る前に住んでた場所は、もっとずっと寒かった」

 突然過去の話を切り出されて、ウェイバーは少女の顔を見る。俯き加減の表情にはどこか翳りがあった。

「本当に何もないところでした。日々の糧を得るのがやっとで、こんな綺麗な公園も高い建物もなかった」

「……ふぅん。じゃあこの街は、余計に目新しく見えるわけか」

 ウェイバーはそこまで田舎の出身でもないのでこの街並みにとりわけ感慨を覚えなかったが、そういう事情ならばあれほど嬉しそうに話していたのも頷ける。

「いえ、それでも楽しかったのを覚えています。慎ましい生活でしたけど、皆仲が良くて笑いが溢れている村でしたから」

「じゃあなんでこんな街に来たんだよ? 別にその村が嫌いで逃げ出してきたって感じじゃないし、ならわざわざこんな極東の島国を訪ねる理由がない」

「それは……」

 言葉に詰まり、唇を噛み締めるリディア。悲しみと後悔が綯い交ぜとなったような、微妙な表情をしている。

「ああ、いや。別に無理に聞き出そうとはしないよ。故郷を出る理由なんか人それぞれあるだろうしさ」

 ウェイバーにしても故郷が嫌いで飛び出したわけではない。魔道という特殊な家系に生まれていなければ、あのまま故郷に骨を埋めていたかもしれないのだから。

「いいえ、せっかくですから聞いてください。私の故郷はもう、この世界の何処にもないんです」

「え……?」

「覚えているのは、夜中に聞いたお母さんの声。すごく慌てて、裏口から逃げるようにって言われて。わけも分からないまま逃げ出して、振り返って見たものは、炎に包まれる故郷の姿でした」

「…………」

 夜盗か山賊か。そんな今時珍しいくらいの寒村を襲う理由がある人間などその程度しかいない。何れにせよ、彼女にとっての故郷は、その一夜にして理不尽に奪い去られた。大切な人達と共に。

 その時の彼女の心を慮る事さえ出来はしない。何一つ失ったもののないウェイバーには彼女の悲しみの深さは分からない。
 彼女を逃がす時の母親は一体どんな気持ちだったのか。理不尽に命を奪われた者達の心境など、汲み取れる筈もない。

 ならばせめて。その記憶が想い出に変わるように。傷痕にならないように祈る事しか出来はしない。

 突如生まれた痛いくらいの沈黙に耐えかねたのか、リディアは笑って誤魔化すように言葉を紡ぐ。

「あ、でもでも。その後すぐに途方に暮れてた私を助けてくれた人がいたんです。その人のお陰で私はここまで成長できて、色んな事を学びました。
 この街に来たのだって────あ……、あれ? ……っぁ!?」

「お、おい!?」

 突然顔を顰め頭を押さえ出したリディアの行動にウェイバーは虚を衝かれた。

「頭、痛いのか!?」

「ぁ、あ、いえ、大丈夫、です」

「そう、か。それならいいんだけど」

 その時の表情は少し前の彼女と同じ微笑み。一瞬前の痛みに苦しむ顔は既に消え失せていた。

 何にせよそれで一度会話が途切れた。間を保つのが辛くなって、空を見上げる。澄み渡った異国の空を、真綿の雲が流れていく。暖かな陽気に包まれているこの瞬間だけを切り取れば、己が立っている場所が戦場だとはとてもではないが思えない。

 しかし現実は変わらない。ウェイバー・ベルベットが在るべき場所はここではない。主の帰りを──あるいは、その後に繰り広げられる闘争を──待ち焦がれている者の下へと帰らなければならない。

「じゃあ、そろそろボクは帰るけど。本当に大丈夫か?」

「はい、心配おかけしてすいません。もう何ともないですから」

 妙な心地だったが、本人がそういうのであればウェイバーに口を差し挟む余地はない。この後の予定を考えれば、そろそろ引き上げなければならない。
 もう一度だけ少女の顔を見て、変わらない笑顔を確認してから腰を上げる。少女もまた頷いて立ち上がった。

 相手が平静を装っているのならば、こちらもまた普段通りの己に戻らなければならない。

「もう一回だけ言っておくけど、三度目はないからな。ボクだってそこまで暇じゃないんだから」

「はい、分かってます。次はご迷惑をかけないよう努力しますね」

 本当に分かっているのかどうか良く分からない柔和な笑みを浮かべる少女を見やり頭を掻く。

「それじゃ、また──」

 そこまで言い差して、ウェイバーは愕然とした。自らの口から自然と零れ落ちた再会を期待する言葉。無意識であるが故に戸惑った。

 それは相手の少女も同じだったのか、きょとんとした瞳で振り仰いだウェイバーを数秒まじまじと見つめ返し、

「はい。またお会いできれば、私も嬉しいです」

 いつかと変わらない綺麗な微笑を浮かべた。

 それ以上の会話もなくウェイバーは海浜公園を一人立ち去る。その最中、自問自答しても出てこない不可解な言葉の意味を探り続け、

「くそっ。あんな顔されたら、何にも言えないじゃないか……」

 がしがしと髪を掻き回しながら、理由のとんと分からない新たなる煩悶に頭を悩ませ始めていた。


/Passion


 晴れ渡った空にある日が頂点に差し掛かった頃、ケイネスは微睡みから醒めた。

「…………」

 薄ぼんやりとした視界は暗い。僅かに首を捻った先にある大きめの窓より零れる陽光が時間の感覚を失った彼にある程度の理解を齎す。
 つん、と鼻を衝く臭いを嗅ぎ取る。ケイネスの人生においてほとんど嗅ぐ機会などなかった腐敗臭……鉄錆や埃の臭いが充満している室内にいた。

 彼自身には勿論、何故己がこんな薄汚れた場所にいるのか分からない。ケイネスが冬木の聖杯戦争の為に用意した工房は見晴らしの良い地上三十二階にあるスイートルーム。しかも丸々一階分を貸し切って要塞化した代物だった。

 彼自身はそのただ豪奢であるだけの部屋に辟易していたのだが、許嫁の機嫌を損なわせずに済む場所などこの辺鄙な極東の島国の、しかも一都市であっては限られていた。
 何れにせよ、ケイネスの工房は完璧だった。一般人は言うに及ばず、熟練の魔術師相手でも一歩たりとも引けを取らない出来の筈だった。

 ……ならば、何故こんな場所に……?

「気が付いたのね、ケイネス」

 こつん、と鳴らされたヒールの音が闇に響く。何故か自由の利かない首をどうにか音源の方へと向けるとそこにはうら若き乙女の姿があった。

「ソラウ……?」

「気分はどう? どこか痛むところはある?」

 パイプ椅子に腰掛けてケイネスの横たわるスプリングの痛んだソファーに手を這わす。
 珍しくもケイネスを心配した様子を垣間見せるソラウの表情に得も言われぬ感傷を抱きかけたが、より知るべき事柄に思い至り切り出した。

「ソラウ……これは、一体何がどうなっている? 私は、いや君までも何故こんな場所にいる……?」

「覚えていないの? もう昨夜の事だけれど、私達が拠点としていたホテルにアーチャーが襲撃を掛けて来たのよ。それで……」

 ホテル。襲撃。

 その二言で以ってケイネスの脳裏に雷鳴の如き速度で閃きが奔る。千切れた記憶のピースが完全に埋まり、一枚の絵を完成させた。
 これより先の展望をランサーに聞かせた刹那、視界からあらゆる色は失われ白光に染め上げられ、無音の只中へと突き落とされた。

「思い出したのね?」

「ああ……しかし私の最後の記憶はあの部屋だ。今何故こんな場所にいるのか、そこまでは思い出せない……というよりも記憶に存在しない」

「それもそうでしょうね。簡単に言えば、私達はアーチャーに奇襲を受けて、貴方は瀕死の傷を負った。ランサーは第二射を警戒して瓦礫の山と化した部屋から脱出し、貴方と私をこの場所に匿ってくれた、というところかしら」

「…………」

 簡潔かつ明瞭なソラウの検分に恐らく虚偽はない。ただまだ納得のいかない部分が多々あった。

「ランサーは、何処に?」

「此処におります、我が主よ」

 夢幻より生まれるランサーの立ち姿。精悍な顔つきと引き締まった肉体に損傷の痕は見受けられない。

「ランサー、まだ霊体化していなくては……!」

「お気遣いありがとうございます、ソラウ様。しかし大丈夫です。我が主の命なれば、如何様な状態にあろうとこの身を現さないわけには参りません」

 決然とした表情を向けられたソラウはそれ以上何も言えなくなり、コクリと頷いた。
 ただ、己が目を覚ました時に向けられた表情よりなお沈痛な面持ちをランサーに向けるソラウに内心面白くないケイネスであったが。

「とりあえず、状況の説明を頼みたい。ソラウの言いようからするとおまえも大なり小なりの損傷を負ったようだが」

「いえ、構いません。過日の戦況を話すに当たってはソラウ様より私の方が適任でしょうから」

 ケイネスの頷きを待った後、ランサーは語りだす。僅か半日ほど前の一部始終を。



 戦端が切られた瞬間は正しくケイネスがランサーに己が話を聞かせ終えた時だろう。

 夜の帳を引き裂く金切り音は高く、けれど誰一人として認知不可能な速度で放たれた矢をランサーが奇しくも感付けたのは前日のセイバーとの一戦が深く関係する。

 己の不手際で戦場を望むものとはまるで違う決闘場へと塗り替えてしまったランサーの自責の念はとかく大きかった。もしあの時、己もまたセイバーと同じようにアーチャーの襲撃を感付けていたのなら……あのような結末はなかったかもしれないのだと。

 自らに咎を課すのと同等に、ランサーはアーチャーの能力を評価していた。あのセイバーをしてランサーの双槍より──少なくともあの瞬間だけは──危険であると認識させた狙撃能力と高い突破力。

 サーヴァントの索敵範囲外からの遠隔攻撃。正しく弓兵のクラスに相応しい力である。

 これを危険と感じない者などいまい。無論立地の関係や狙撃ポイントの有無などで徒に扱える能力ではないだろうが、それでも、あの一矢を目視した者ならば必ずや思い至るであろう。

 ────手段を選ばなければ、あれ程驚異的な奇襲もない、と。

 正面から相対したのなら勝算は充分以上にある。世に祀られる英傑の名を頂いた彼らならば、どれだけ速かろうと遠かろうと問題にはならない。手には武具を、瞳に敵影を映しこめばいかなる狙撃能力も看破し接近する事さえ不可能事ではない。

 ランサーは騎士道を重んじる騎士である。だからこそ、世には蛮勇を掲げる者達が蔓延っている事も熟知している。
 この世にある戦場において、ランサーの願うような自らの信と義を賭けた決闘場は余りにも少ない。

 此度の聖杯戦争においてもその法則は普遍だ。目標の背後より忍び寄るアサシン、権謀術数を得手とするキャスター。彼らこそがその最たるものであり、戦場を華々しく彩る騎士達とは対極にある者達なのだ。

 そう承知するからこそランサーが緒戦で挑発を行ったのも自らと志を同じくする者を欲したが故である。
 そしてその一戦にて横槍をくれたアーチャーならば、たとえ三騎士の一角であったとしても、いや……むしろ弓兵であるからこそ騎士とは違う戦場に立つのだと理解していた。

 どれほどケイネスに罵倒されようと、どれほど罵声を浴びせられようと。それでもランサーは全てを甘んじて受け入れ、その一方で常に気を緩める瞬間はなかった。
 一途なまでの主への忠誠。理解されずとも貫き通すと固く誓った忠義の在り処を示し守る為に、ランサーは自らをより一層強く戒め……

 ……そして、ランサーの危惧は予想よりも遥かに早く現実と昇華された。

 実体を得ていたのは偶然か、あるいはランサーの愚直なまでの祈りの賜物か。耳朶の奥に軋る金属音。大気を擦過し震わせる矢の到来を悟った刹那、ランサーは椅子に深く身を沈めた主を床に引き倒し、覆い被さるように身を呈し、尚且つその手に槍を具現化させた。

 外部からは室内を窺う術はなく、しかしもし偶然にもランサーとケイネス目掛けて矢が飛来した場合を瞬時に思い描き槍を手に取ったが、幸いにも光と化した矢は一直線に室内を駆け抜け同じように窓を突き破り夜の彼方へと消え去った。

 ランサーの反応よりこの間僅かに一秒弱。ほんの二秒前までは絢爛たる色彩を誇っていた室内は無惨を晒していた。
 さながら極大の竜巻がこの室内でだけ発生したかのような荒々しい様相を呈し、膨大な魔力を纏い駆け抜けた矢の被害は装飾だけに留まらず──



 ソラウが上階からの轟音を身を以って体感したのは、ホテルの一角で営業をしていたエステティックサロンから不満顔で出て来た時の事だった。

 重く響く炸裂音。ホテル全体を揺るがす異常に逸早く気付けたのは彼女もまた魔道に生を受けた者であるからに他ならない。

「────まさかっ!?」

 焦燥と共に声を上げ足は一目散に駆け出していた。
 緊急停止したエレベーターの復旧を待つ事すらもどかしく、裕に十階分以上はあった階段を駆け上り、彼女が目にした光景は、筆舌に尽くし難かった。

 猛然と白く煙り不明瞭な視界。足の踏み場さえ無くした廊下は、天井に煌々と輝いていたシャンデリアや扉、ガラス片が砕け散り酷い有様だった。

 なんとかその無惨な廊下を渡り辿り着いたケイネス達が留まっていた一室は、より悲惨だった。
 壁はドリルか何かで抉られたかのように螺旋状の傷痕を刻み、矢が奔り抜けたであろう一面には極大の穴が穿たれている。部屋に備え付けてあった絢爛豪華なテーブルやソファーは原形さえ残していない。
 電気の供給も断たれ、僅かに窓より窺える眼下の街の灯だけがソラウに異常の凄惨さをまざまざと見せ付けた。

「ッ…………」

 豪奢を尽くした優美なるホテルから一転、薄暗い廃墟へと様変わりした場所。不鮮明な視界。踏み場さえない床。けれどこの場所の何処かに、彼らがいる──

 ──そしてその名を呼ぼうとしたその時、部屋の一角から瓦礫の崩れる音を聞いた。

「ランサー!? ──ケイネスッ」

 槍を杖代わりに瓦礫の海より姿を現した双槍の騎士は、見るも耐えない有様で。彼の腕の中に抱かれたケイネスにおいては目も背けたくなるような重傷だった。

「ランサー、いったい、なにが……」

 震える声音で問うソラウをランサーが薄く開いた目で睥睨する。

「ソラウ様は……ご無事のようですね、良かった。話は後で。今はこの場より速やかに離れなければなりません」

 ランサーの惨状と鬼気迫る声音で言われては、ソラウには選択の余地などなかった。無意識に頷き、傷を負おうとも場慣れしているランサーに指示を仰ぐ。

「でも、どうやって? 貴方の傷は酷いし、ケイネスも気を失っているのでしょう? 逃げるにしても今から階下に走ったところで──」

 ソラウが悶々と現状分析を続ける傍らで、ランサーはぐったりと伏したケイネスを一瞥した後に背負い、

「ソラウ様、失礼します」

「……え? ──きゃっ」

 立ち尽くしていたソラウをその腕の中へと招き入れた。

「ラ、ランサー……」

「申し訳ありません。主の許嫁に対しこのような無作法を働きたくはないのですが……今は何よりもこの場を脱出する事を優先します。どうか……」

 傷を負ってなおその美貌を一欠片たりとも損なわせないランサーの面貌を仰ぎ見たソラウはふるふると首を振る。

「いいえ。この場は貴方の判断に任せます」

 強く見つめられたソラウの瞳を見つめ返しランサーもまた頷きを以って答える。

「少々手荒くなります。しっかりと掴まっていて下さい」

 言い終えるや否や、ランサーはガラスを無くした窓より遥かなる空へと躍り出る。幸いにも白煙を上げる最上階は眼下の民衆より覆い隠され、然る後に夜闇に紛れた彼らの姿形を誰一人として見届けた者はいなかった。
 そして奇しくも彼らが脱出を図った瞬間こそ、衛宮切嗣と言峰綺礼が対峙した瞬間の出来事であった事もまた、誰も知る由のない事だった。

 空と地上の狭間──暗闇に身を沈めた彼らの中で、ソラウだけはいけないと思いながらも今この瞬間を嬉しく思っていた。
 逞しい腕に抱かれ、己が廻す腕は彼の首を絡め取る。少しだけ視線を上げれば血に塗れてなお美しい面貌。遥か彼方を見通す瞳を見つめるだけで、ソラウは胸を熱くする。

「…………」

 恋というものを知らず、愛さえも理解し得ないソラウ・ヌァザレ・ソフィアリが初めて抱く激情の正体。
 決して彼女を見てくれないと知ってなお、一度灯った胸の火は消え去らない。

 想いを言葉にする事は許されず、冷やかに諦観する事さえ出来はしない。ならば今この時だけは……彼の腕の中の温もりを享受したいと、首筋に廻した腕に一層の力を込め、厚い胸板に頬を摺り寄せた。



 ランサーの疾走は衰えを知らず、背にあるケイネスと腕の中のソラウに最大限負担をかけないままに闇に沈んだ街を駆け抜けた。
 しかし彼自身には行く当てなどなく、ソラウより提案された人気の無く、更にそれなりの治癒を施せる場所として、新都の外れにある廃工場をとりあえずの拠点と定めた。

 ソラウ自身にしてみればそんな豪奢とは程遠い廃墟など好ましくは無かったが、主の危機に際し渋面を貼り付けるランサーを見ていられず、自身の観念を打ち捨てただただ効率を重視した場所を提案していた。

 蛻の殻と化している寂れた廃工場の一角の、おそらくは休憩所として備え付けられていたであろう一室に目をつけ、壊れながらも地面に寝かせるよりもマシな程度のソファーにケイネスを横たえた。

 窓より差し込む月光に照らされるケイネスの姿は余りに凄惨に過ぎた。ランサーが庇い立てしてなお彼の身を蹂躙したアーチャーの矢……膨大な魔力の奔流はその場にあった全てを破壊し尽くしていた。

 矢の直撃を被らずともこの威力……もしランサーがケイネスを庇わなかったとすれば、今頃彼は生きていなかったかもしれない。
 そして彼自身の更なる不幸中の幸いは、単身で冬木に乗り込まずソラウを連れて来た事だろう。

「処置をします。時間も経っているから完全には癒せないかもしれないけれど……やれるだけの事はやって見せます」

 ソフィアリ家において魔術刻印を受け継げなかったソラウだが、その貴き血統は家督を継いだ兄にも劣らない才能を秘めている。特殊な環境化で育った事もあって一通りの魔術教練は受けていた。

「ではソラウ様。我が主の事、お願いしても宜しいですか?」

 ソラウが処置の為に準備に取り掛かろうとしたところで、ランサーはそう嘯いた。

「ええ、それは勿論だけど……ランサー? 貴方、まさか……」

「はい、私は戦場へと戻ります」

「そんな────!?」

 決然とした瞳には違えようもない決意の火が窺える。戦士としての面貌へと成り代わったランサーを振り仰ぎ、ソラウは続ける。

「だって貴方も重傷なのよ!? そんな身体で戻ったところでまともに戦えるの!? それに何より、狙撃を成功させた時点でアーチャーは姿を眩ませているかもしれない。
 貴方が今からあの場所に戻ったところで、ただの無駄足にしかならないかもしれない、より傷を悪化させるだけになるかもしれないのよ!?」

 半ば悲鳴にも似た切迫でランサーを糾弾するソラウが、一体何をそこまで恐れているのかは本人も理解などしていない。
 全身を血塗れと化したランサーを更なる戦場へと向かわせる意義などない……たとえ一矢報いたとしても、その代償は余りに高くつくかもしれない。

 ソラウに叫ばせた激情の正体こそ、ランサーを失いたくないという一心だった。

「……ソラウ様の心遣いはありがたく思います。しかし私は行かねばなりません。我が身は主の為にあり、主の勝利を確約する為だけに存在します。
 なればこそ、忠誠を誓いし主に不敬なる奇襲を働いた不届き者は我が手で罰さねばなりませぬ。
 我が憤怒の為ではなく──主の名誉を守る為に……」

「…………」

 ソラウにはもはや二の句を次げる筈などなかった。何故そんな顔をするのだろう。何故ほんの少し前までは戦士の顔をしていたくせに、今だけはそんな、柔らかくそして優しい笑みを零すのだろうか。

 そんな顔をされてこの場に留まれなどと言える訳がない。ランサーはケイネスの為と口にしたが、この場で彼を止める行為は忠義篤い騎士の心さえも踏み躙る侮辱になろう。

 その気高き誇りを穢す事など出来はしない。権利も資格もありえない。ただ傍にいて欲しいと縋り付く事さえ許されず、ソラウに出来る事といえば彼の意思を尊重し、

「……わかりました。けれど、必ず戻ると約束して下さい」

 そして彼の無事を祈る事だけだった。

「はい。我らの聖杯戦争にこのような幕切れは相応しくありません。勝利を。聖杯を。到るべき頂を目指す為に、必ずや戻ります。
 ────それではどうか、我が主を頼みます」

 ソラウの返答を待たず、双槍の忠臣は朧と姿を消した。

 気配の残滓すら残さずに掻き消えたランサーの後を追い、ソラウの視線はハイアットホテルの建つ方角へと向けられる。

 彼女は彼が不憫でならない。何故あれほどの忠義を以ってして、ケイネスはランサーを認めようとしないのか。才あるケイネスがランサーを重用し信頼を抱けば、相互の理解が得られたのなら、この戦いに勝利したも同然だと言うのに。

 全てはまるでままならない。自らを絶対とする正しき魔術師としての倫理観を持つケイネスでは、きっと最後までランサーとの間に良好な関係など築けない。
 ならばあるいは、ソラウ自身がランサーの正式な主として立てていたのならば……

「…………」

 是非もない。ソラウはただランサーへと魔力を供給しケイネスの補助を務める役割でしかない。ランサーのマスターは令呪を有するケイネスであり、ソラウの立ち位置は未来を約束された男の許嫁だ。

 だがもし──その細く肌理細やかな腕に赤い令呪があったのなら……死に瀕してなお忠義の為に戦いに赴いた槍兵を、止める権利があったのだろうかと己に問うた。

 硬く引き結んだ唇を震わせ、右手の甲を包む左の掌。ありもしない契約の楔を愛おしく思いながら、彼女は仰臥した魔術師へと向き直る。

 今はただランサーが頂く主を癒す為に、この身の無益な研鑽を白日の下に晒して……



 その後に語るべきものは然程多くはない。ソラウが持つ魔力を十全のままにケイネスの治癒に廻すべく、最低限の供給に絞ったランサーは身に帯びた血流を拭う事無く、癒す事無く夜の街を疾走する。

 今更になって身を焦がす程に焼き付いた込み上げる感情を封殺し、ただただ怨敵のいる場所を目掛けて走り抜ける。

 彼が立つは戦場だ。その場ではいかなる卑怯な行為も正当化され、義を貫き通したところで結局は勝利を得た者こそが称えられる。人を殺してはならないという法は誰の目にも見えなくなり、より多くを殺した者こそが英雄と称される。
 それは世の真理であり永劫普遍の人の業。ならばランサーもまたそういう輩に対しては払うべき敬意などないと諦観する。

 ────これは戦争、ヒトにあって人に在らざる万軍に匹敵する唯一人の代理戦争。全ては勝利によって祝福され、勝ち残りし者にだけ福音が訪れる。

「……ならば俺もまた容赦はしない。この身を尽くす忠の為、万難を排し勝利を手に掴み上げる」

 額から零れ落ちた赤い液体が血涙のように美貌を流れる。ぐいと親指で目の下を拭われた血は赤き線となり彼の精悍なる顔立ちに血化粧を施した。
 悩むより先に敵を討て。言葉ではない行動で以って己が身の熱誠を示せ。元より他の生き方など、このディルムッド・オディナにはないのだから。



 戦場へと舞い戻ったランサーが発見できたのは目的としたアーチャーではなく、そのマスターと思しき者。更にアサシンとそのマスター、アサシンについては存在としての異常性を確認し敵戦力を半減させるまでに成功した。

 マスター二人については取り逃がしたが、姿は確認済み。目的は果たせなかったが、成果としては悪くない出来だった。

 その後、廃工場へと戻ったランサーを迎えたのは傷の癒されたケイネスと疲労を露にするソラウの姿。それでもランサーの姿を見咎めたソラウは笑顔を零し、槍兵へと供給する魔力を通常よりも割り増しで送り、簡易な治癒魔術さえも施す。

 無理をしてはいけないと諌めるランサーの制止を振り切り出来うる限りの処置を行ったソラウは、最後にランサーに指示を出し倒れ込むように眠りに落ちた。

 ランサーはソファーに縋り付く形で動かなくなったソラウを抱え、もう一つあったソファーに横たえてから与えられた仕事を果たすべく再三夜の街へと飛び込んだ。

 この夜最後のランサーの仕事はハイアットホテルの偽装工作。ケイネスが要塞と化した三十二階には彼が持ち込んだ数多くの道具や礼装があり、敷かれた結界もまた複雑怪奇な代物だ。

 ただ、アーチャーに破壊されたとはいえ神秘の痕跡を残すわけにもいかない。無論監督役がすぐさま動きを見せている筈だが、念には念を入れ出来る限りの処分を行う。
 協会と対立する側の教会に無用な情報を与えたくはないという思いがあり、あわよくば破壊を免れた礼装の一つでも見つかれば僥倖だという打算もあったのだが。

 ────斯くして、彼らから見た一夜の闘争は終わりを告げ、現在へと立ち返る。


/Separation


「そうか。話は充分に分かった」

 ランサーの説明とソラウの補足で大体の事情を掴めたケイネスは動けないままに頷いた。

 ケイネスの傷は表面上はほぼ癒えているが、彼を生かす為に自律駆動した魔術刻印が浪費した魔力は思いの外多かった。
 更にアーチャーの矢による蹂躙、結界崩壊のフィードバックなど、内外多岐に渡る損傷を道具の補助もなく癒し切るのはたとえソラウといえど荷が勝ちすぎた。

 万全とは言い難いが、それでもケイネスほどの魔術師ならばこのまま丸一日も肉体、魔術回路共に休めれば快復出来るまでには癒されている。その残り香としての倦怠感であり自由を束縛する正体だった。

 ランサーにしてもその身を覆う魔力量が充分ではないが為に少しでも負担を減らそうと霊体化していたのだが、ケイネスの目覚めと共に今は実体を得ている。

「それで、ランサー。弁明はあるか?」

 およそランサーもソラウも予期しなかった言葉が、仰向けのまま薄汚れた天井を睨むケイネスより放たれた。

「……と、申しますと?」

「惚けるなよサーヴァント。私は確かに言った筈だ。一つ、セイバー以外であろうとも他のサーヴァントに遅れを取ろうものなら覚悟を決めよと。二つ、おまえはおまえの戦いを行えと」

 それらは確かにケイネスがランサーに告げたものであるが、ランサーに不手際は思い当たらない。昨夜は己が最善を尽くした自負はあるし、それはまたソラウも認めるところである筈だ。
 ただケイネスだけが、ランサーの行為を糾弾する。

「ほう? 自らに落ち度はないと? ふざけるなよランサー。おまえが昨夜為した事は、サーヴァントであれば当たり前の事ばかりだ。いいや、おまえはそれすら満足に果たせていない。
 守るべきマスター一人すら救えず、あまつさえ捉えた暗殺者風情のサーヴァントを殲滅出来なかった……だと?
 クク、クハハハ。これを笑わずになんとする。このような無様を、許す事など出来る筈もないッ!」

「……ケイネス。落ち着いて。今貴方が言っている事は滅茶苦茶よ。目覚めたばかりで、怪我も癒えていないから気が立っているだけよ。貴方らしくもない」

「私らしく? ならばソラウ、私らしい私とはどういうものだ? この冬木に来てからの私と時計塔においての私はまるで別人だ。
 全ての物事が巧くいかないんだ。魔術師としての誉れ高い闘争は私の夢想でしかなかったのか? そんな当たり前を求めた私が愚かだったと罵るか?」

「ケイネス……」

「ああ、そうとも。私もようやく理解したよ。私の常識では計り知れない手段に拠って目的の為ならばいかなる不法も厭わない輩がいる事を。
 いいや、そんなものは知っていた。しかし今までの私ならばそんな輩は悉く駆逐して来たとも。だがどうだ、サーヴァントなどという規格外のモノが相手となれば、無様を見るのは私の方さッ!」

 明らかに気が狂ったとしか思えないケイネスの独白を二人は静かに聞き届けた。恐らくはケイネスの人生において初めて舐めさせられた辛酸の味に、他ならぬケイネス自身が苦悩しているのかもしれない。

「なあランサー。おまえの目的は一体なんだ。聖杯を私に捧げる事か? 私に忠誠を誓う事か? サーヴァント相手に義を貫く事か?
 戦いに意義を求め、その結果に守るべきものさえ守りきれなかったとしても、おまえは己の信念を誇り続ける事が出来るのか?」

「…………それ、は」

「温いのだよ、おまえは。おまえは全てを守ろうとして、結局何一つ守れなかった男だ。騎士道、誇り、忠誠、大いに結構だ。私とて譲れぬ一線というものがある。しかしおまえのそれは余りに多くを内包し過ぎている。
 選べ、そして捨てろ。おまえが抱くはただ一念だけでいい。私の手足として駆動する道具だと己に諦観の念を抱くのだ。でなくば私はおまえをもう、己のサーヴァントとして見る事などできない」

 ランサー……ディルムッド・オディナの生前において、彼は完璧足らんと自らの信念を貫いた。愛を守り、義を守り、けれどその果ては裏切りという破滅でしかなかった。
 自らを秤に見立てた両天秤を拮抗させる二つの感情の、どちらをも選べなかったが故の悔恨。愛に苦悩し、忠義の在り処を求め、死の先にある二度目の生などという絵空事にしがみ付いてまで果たしたかった事は、一体何だったのだろうか。

 彼自身は誰かに罪も罰も求めはしない。ただ己の不肖を嘆き悲しむ事さえなく、苛むに足る自責の念を募らせるばかり。
 貴くあろうとし誇りを貫こうと決めた。しかしそれは余りに眩しすぎて、綺麗すぎて、この世界で誇るには夢物語に過ぎたのだ。

 戦いの中にそれらを求める事は決して悪い事ではない。ケイネスとて魔術師としての闘争に身を置いたのならば、自らの研鑽と信念を賭けて臨む筈だ。
 だが、そんな理想は確たる勝利に付随するものでしかない。敗者が何を謳ったところで全ては負け惜しみか綺麗事の域を出ない。

 敗北してなお誇れるものなどありはしない。そんなものは、勝者だけが手に入れられる甘美なる葡萄酒と同じなのだ。
 故に勝利を。悪鬼羅刹、修羅畜生に成り下がろうとも、勝利だけは何者をも裏切らない栄誉であるのだから。

「しかし……ケイネス殿。それは、それではあのアーチャーやそのマスターと何ら違いなどありません。
 手段を選ばない闘争はただの殺戮、決闘とは程遠い代物です」

 ランサーなればこそ、そんなものは飲み込めない。彼が貫くは信と義。忠を尽くして自らを誇る事。
 相手が手段に拠らないのであれば彼もまた相応の報いを与える事も辞さないが、ケイネスの言を鵜呑みにするという事は、英霊を地に貶める行為に相違ないのだから。

「フン、やはりか。所詮貴様などその程度。口が良く廻るばかりの駄騎士か。おまえは誰に仕えている? 誰の命に従っている?
 立場を弁えろサーヴァント。おまえはただ私の命令に愚直に、忠実に行動する人形であればいい。おまえが欲する忠誠をくれてやると言っているのだ、何の不満がある」

「…………」

 それは少なくとも、ランサーの抱く忠誠の在り方ではない。主の意思を尊重する事は騎士に求められる事であれど、その主が道を踏み外しかけたのならば、諌めるのもまた一つの忠誠。
 己が言が絶対とは言わない。けれど正しい事を正しいと、間違っている事を間違っているとさえ言えないのであれば、それはただの傀儡。意志のない木偶だ。

 しかし──それでもケイネスの言に一理ある事もランサーはまた認めている。これまで確たる勝利を持ち帰れなかったランサーの言葉は、その勝利を絶対とするケイネスには届かない。
 ケイネスの言葉を借りるのならば、ランサーが今更いかなる騎士道を説こうとも全ては綺麗事。口先だけで結果を齎せないのであれば、ただの夢想と変わらない。現実に昇華出来ない虚構をこれ以上謳ったところで、この主は認めはしまい……

 どんな反論をすれば良いのか分からず、ただただ黙し続ける他なかったランサーと、ようやく黙らせるに到って気分の良くなってきたケイネス。
 痛いほどの沈黙の帳を引き裂いたのはどちらでもなく、その場にいたもう一人の人物、ソラウだった。

「そう、それが貴方の言い分なのねケイネス」

 仰臥したままのケイネスに覆い被るソラウの影。薄暗い室内のせいか、ソファーの傍らに立つソラウの表情がケイネスには窺い知れなかった。

「ようするに貴方はこう言いたいわけでしょう? 彼の騎士道で勝利を持ち帰れないのであれば自分の意志に従えと。ただ命令を忠実に行う傀儡になれと」

「ソラウ……? 何を……」

 ソラウの表情はケイネスにも彼女の後ろに立つランサーにも窺えなかったが、その声音だけは棘のある響きを伴っており、明確な怒気を滲ませているのだとどちらもが察する事が出来た。

 ただ、彼女が何を言いたいのかは誰にも理解出来なかった。今言った言葉は確かにケイネスの言葉を明快にしたものであるし、だが一体それが何だと言うのかと訝しんだところで────

「分かりました。ならば私が代わりにランサーの強さを証明して見せます」

 ────そんな、誰もが予期し得なかった事をのたまった。

「ソラウ様?」

「ソラウ? それは一体どういう意味だ」

「そのままの意味よ。ケイネス、貴方が出来なかった事を私が代わりにしてあげると言っているのよ。
 今貴方は動けない。ならば私が代替のマスターとしてランサーの傍に立ち勝利を持ち帰ります」

「なっ……!?」

 そこまで言われてようやく理解を得たケイネスが驚愕に目を見開く。ランサーもまた静かに目を見張り、腕を組み仁王立ちに構えるソラウに視線を滑らせた。

「ばっ、バカなっ!? そんな事許せるものか! 大体君はランサーに魔力供給はしていてもマスターとしての能力は何一つ備えてはいない!
 戦う術だってないだろう!? そんな君が、こんなサーヴァントの傍に立つなど……!」

 狼狽を露にしたケイネスの憎々しげな瞳がランサーを捉える。最早一切の信頼を垣間見せないケイネスの無遠慮な睥睨にランサーは瞳を伏せる事しか出来はしない。

「おい、貴様からも何か言え。貴様のマスターは誰だ」

「……ケイネス殿です。ソラウ様ではありません」

「そういうわけなんだ、ソラウ。君も今は気が立っているんだ、少し頭を冷やすといい」

 それでもソラウの瞳は揺るがない。見上げたケイネスの視線に映るのは今まで見た事もないソラウの冷笑。氷を思わせる冷やかな微笑。美しくはあれど、同時に背筋さえ凍らせかねない恐ろしさがあった。

「ねえ、ケイネス」

 すっと身を乗り出して、ケイネスに覆い被さるソラウの肢体。豊かなバストをケイネスの胸板に押し当て、唇を耳元で囁くように動かす。

「いいでしょう? 私はただ証明したいだけなのよ、ランサーの強さを。貴方だって、このまま彼と戦っていく事に不安を抱いているのでしょう?
 貴方は今動けない。だから貴方が動けるようになるその時の為に、この関係を修復したいの。そうすれば、何もかもが巧く行く。そうは思わない?」

 耳元で囁かれ、くすぐったい吐息がケイネスの耳を舐める。妖艶ささえ漂わせる甘く優しい声音。
 内容さえ忘却すれば、ベッドの中の睦言にさえ聞こえかねない蕩け切った声に、

「だ、ダメだ。君を、あんな奴に任せるわけにはいかない……」

 先程の威勢はなりを潜め、どうにか否定の意思を紡ぎだす。視線だけを動かしたケイネスは、それでも揺るがないソラウの表情に見惚れそうになる。
 それは、恋をした乙女の表情。今までケイネスが一度として見た事のない、ソラウの甘い笑顔で──

「ねえ、お願いよケイネス。でないと私────この腕を切り落としてしまいそう」

「…………っぁ!?!?」

 令呪を宿す右の手首をギリギリと締め上げられ、ケイネスは苦痛に顔を歪ませる。けれどランサーからは覆い被さったソラウの身体で主の表情を窺える筈もなく、また何やらおかしな方向に場が流れたせいでずっと目を伏せたままだった。

 万力で捻じ切られるのではないかという程の有り得ない力で手首を締め上げられ、声もなく苦悶を露にするケイネスは、ソラウの表情を見て蒼褪めた。
 将来を約束した男に対しこんな常軌を逸した行動をしながら、それでも表情は先と変わらない乙女の顔。そのギャップに空恐ろしくなる。

 そして理解さえもしてしまった。恐らくは、先の言に嘘はないのだろう、と。否と言葉にすれば、この目の前の許嫁は本当にケイネスの腕を切り落とし令呪を奪う……

「ねえ、ケイネス……」

「っ……、ァ……、くっ──わ、分かった! 分かったから!」

 すっと離れていくソラウの身体。青白くなり始めていた掌が少しずつ血色を取り戻す。苦悶の表情を和らげ視線を滑らせた先、にこやかに立つ許婚がこれほど恐ろしいと思った事は一度としてなかった。

「ケイネス殿?」

 一瞬だけ垣間見たケイネスの妙な表情にランサーが疑問を浮かべたが、ソラウによって遮られる。

「ランサー、良かったわね。ケイネスがもう一度だけ貴方にチャンスをくれるそうよ」

「────は? それは……」

「ねえそうでしょう、ケイネス?」

「む、ぅ、あ、ああ。そうだ。ランサー、今一度、最後の機会を設けよう。しかし今の私はまだ動ける状態にはない。よって私の代わりにソラウをマスター代理として立たせる」

 瞠目するランサーを余所に、ケイネスは言葉を差し挟ませる余地もなく続ける。

「いいか、ランサー。今一度言うがこれが最後だ。おまえに与える役目は二つ。ソラウの絶対守護と敵マスター、あるいはサーヴァントの排除だ。
 いいや、最早そこまで望まん。後に私がマスターとして立つ時の為に、そのゲイ・ボウで一矢報いれば良しとする。
 ここまで条件を緩めてなお果たせないのであれば、おまえには何を言う資格もない。ただ私の命を聞く木偶に成り下がれ」

 毅然として言われた新たなる命令にランサーは困惑も露にマスターと、そしてソラウとを仰ぎ見た。ケイネスは無表情に近い顔をしており、対照的にソラウは柔らかな笑顔を浮かべている。
 あの二人の交わりの際に一体どのような言葉が交わされたのか、ランサーにはようとして知れなかったが、主の命を無碍にするわけにもいかずただ己の忠誠を主に誓う。

「はっ。その命、必ずや成し遂げてご覧に入れましょう」

 恭しく礼を取ったランサーを忌々しく見やるケイネスの視線になど気付かずに、残された希望の道筋に一縷の光を見る。

「それじゃあ行きましょう、ランサー。少し準備もあるから手伝ってくれる?」

「はい、畏まりましたソラウ様。ではケイネス殿、行って参ります」



 無機質な扉が閉められ、埃が巻き上がる。鋼鉄の扉が彼の視線を堰き止めて、行き場のない感情をぶつける事さえままならない己の身体を呪う。

「くそっ、何故、こんな……」

 もうケイネスには全てが分からない。あのサーヴァントの思考が理解できない。あの許嫁の思考が理解できない。己の自身の思考さえ、何が何だか分からない。

 おかしい。おかしい。

 一体いつから、彼の予定調和は崩れ去ったのか。聖杯戦争に参戦すると決めた時か。あるいは不肖の弟子に聖遺物を奪われた時か。あるいは代わりの聖遺物を用意しランサーを召喚した時か。あるいは緒戦を行った時か。

「ちくしょう……」

 恐らくは、あの英霊をサーヴァントに選んだ事が間違いだったのだ。その在り方は見事な騎士だが、完璧であるが故に融通は利かず、輝かしい英雄譚の最後は破滅に終わる騎士なのだ。
 主君の許嫁と共に逃亡した悲運の騎士、と言えば聞こえはいいが、あの選択はあの男自身の結末だ。たとえそれがゲッシュによる契りであろうとも、グラニア姫の手を取らなければ回避できた筈の悲劇。

 約束や忠誠を絶対とするが故に、その運命に飲み込まれた愚か者。そしてこの現代においても、ケイネスの許嫁であるソラウと行動を共にしている。
 あの男がもし生前の行いを悲嘆しているのならば、ソラウがいかように吼え立てようとも受け入れはしまい。けれどもし、あの男が同じ過ちを繰り返すのだとしたら……

 ソラウにしてもおかしな行動が目立ちすぎる。ソラウほどの魔術師ならばたとえ呪いのレベルにあるランサーの魔貌であろうとも容易くレジスト出来る筈。
 無意識か、あるいは意識的にかは分からないが、少なくともソラウはレジストしてはいないだろう。でなければあんな行動に説明がつかない。

 しかし……

「令呪さえあれば、まだどうにかなる……」

 血色を取り戻した右手の甲に光る二画の令呪。この令呪がケイネスの手にある限り、最悪の事態は避けられる。ランサーを自害させれば全ては元通りとはいかないまでも、少なくともソラウは正気に戻るだろう。

 サーヴァントを失う痛手はケイネスの栄えある経歴に消えない傷を残す。なればこそ、その手段は最後の一手。出来うるのならば、穏やかに聖杯戦争の幕が閉じる事を祈らずにはいられない。

 しかし、まだだ。ケイネスは未だ何一つ成し遂げてはいない。胸の奥に蟠る不安を押し殺し、来るべき闘争の時に備え、今出来る唯一の事はこの身を癒す事。
 事態も身体も全てが思惑の通りに進まない不条理に歯噛みしながら、ケイネスはあらゆる感情を封殺し、静かな眠りの中に落ちた。


/Make a Headlong Rush


「おう、戻ったか」

 冬木海浜公園からマッケンジー邸へと帰ってきたウェイバーを迎えたのは巨大な背中だった。
 部屋の中央にごろりと横になったままテレビに映し出される軍用機が空を滑空していく様を嬉々として見やり、ちゃっかりと準備された緑茶と煎餅を齧っている様はお前は一体何処のぐうたら主婦かと文句の一つも言いたくなる。

 が、もう今更そんな事を言って聞き分けるような奴じゃないと諦観の念さえ抱いたウェイバーは言葉少なに魔術道具の散らばる机の椅子へと腰掛けた。

「ん? なんじゃい、妙な顔しくさりおって。件の女子と逢えなかったのか?」

「いいや、逢えた。ちゃんと謝った。許してくれた。だからその話はもういい。ボク達が今しなきゃならない事は他にあるだろ」

「……ふーん。坊主がそう言うのなら構わんが」

 よっこらせとばかりに巨体を揺らし起き上がるライダー。ぼりぼりと顎鬚を掻き分け、さて、と切り出した。

「余としてもこれ以上ぐうたらしておったら身体が鈍りそうでな。早いとこ一戦交えたい気分なんだが」

 ああ、ぐうたらしてる自覚はあったんだな……とウェイバーは思った。

「でもおまえ、敵の居場所なんか知らないだろ」

「当たり前だ。サーヴァントたる余の務めは敵サーヴァントの打倒にあろう。然らばマスターたる坊主は余を戦場へと導く役目があると思うんだが」

「……まあ、おまえよりはこの街に詳しいし、所在の割れてる輩もいないこともないけど」

 ほお、とライダーの目が爛々と輝いた。ウェイバーはその硝子球を見やり、背筋を寒くする。この男が童心に返ったような目をする時は、総じてウェイバーが災難を被る時なのだと理解していたからだ。

「ちょ、ちょっと待てって。こんな昼間から戦うのはヤバイ」

「ならば矛を交えず戦えば良いではないか」

「はぁ? どういう意味だよ」

「いいからまずは居場所の知れとる連中の情報を寄越せ。話はそれからだ」

 全くなんでコイツはこんなに偉そうなんだ、いや実際偉かったんだろうけど今はボクのサーヴァントなんだ、もっとこう従順さが欲しいとか、ぶつぶつと嘯いてみても、今更すぎて呆れ果ててしまう。
 むしろこの剛毅なる巨躯がしおらしくウェイバーの命令を聞いている姿を想像すると怖気が走る。気持ちが悪い。

 さておいて、とりあえずウェイバーは現在判明しているマスターの情報をライダーに聞かせる事にした。
 と言っても、ウェイバーの知る情報は所謂ところの“参加者のほとんどが知っている筈の情報”である始まりの御三家と称される者達の住処についてだった。

 始まりの御三家とウェイバーを除けば残りは三人。外来である筈の彼らの位置情報については何一つとしてウェイバーは知らなかった。
 ただ事前情報として遠坂時臣と師弟関係にありながら後に離反した言峰綺礼が聖杯戦争の監督役の息子である、という情報程度ならば知っていたが。

「……今分かってるのはとりあえずこの三人だけだ。といっても、彼らはずっと前からこの街が戦場になることを知っていた筈だし、所在が割れている事も承知している筈だ。
 ならそんな不利をそのままにしておく筈がない。ただでさえ魔術師の工房っては危険極まりないんだから、そいつらの家はもう魔窟じみてても何らおかしくないんだ」

 若輩の魔術師は一呼吸置いてから結論を述べる。

「だから相手の工房に乗り込むのは下策。夜になれば誰かしら敵影を求めて現れるだろ。その時を待って、対等な条件下で戦う事が望ましい」

 ウェイバーの正道にして王道である戦略を野太い指で顔をぐりぐりとしながら聞いていたライダーはやおら切り出した。

「で? その中でこの家から最も近いのはどいつの家だ?」

「……おい。おまえボクの話聞いてたか? 乗り込むのは分の悪い賭けだって言ってるんだよ」

「でもさ、ソイツらだってこんな真昼間から己の絶対の陣地に乗り込まれるとは思いもしとらんのではないか? 坊主と同じ魔術師だったら」

「それは……」

 ライダーの言葉は一理ある。工房とは要塞だ。いかなるトラップがあるかも分からない場所に乗り込もうとしないように、乗り込まれるとも思っていないかもしれない。
 誰もが予想し得ない奇策で奇襲をかけるのならば、あるいは不利を有利にすりかえる事も可能かもしれない。

「いや、でもダメだ。裏を掻くってのは良い方法かもしれないけど、時間帯が悪すぎる。しかもこんな街中で戦いを始めてしまえば神秘も何もない。
 ボクらの戦いは世間に露見しちゃいけないものだ。やらかせば監督役からの罰則どころか協会から抹殺されかねない」

 世にも恐ろしいと聞く封印指定の執行者の風貌を脳裏にイメージしながらウェイバーは身震いをする。神秘の秘匿は大原則。破ってはならない禁忌だ。掟破りは総じて消されるというのが古からの普遍の理だ。

「おう、だから矛を交えるばかりが戦いではないと言っておろうが。そら、行くぞ坊主。案内せい」

「ば、ちょ、おま、ま、待てってばあああぁぁぁぁぁああ!!」

 ドナドナと部屋から連行されていく少年の泣き声とは裏腹に、ライダーの快活な笑い声が閑静な住宅街に木霊した。


/King of Kings


 静けさに満たされた書斎で、遠坂時臣は思索に暮れていた。

 彼の目の前にある市松模様の盤面にはポーンやナイト、ビショップと多くの駒が配置されている。対面に座す者はなく、左手に開いた本に記された配置図からいかようにして勝利への布石を打つか。将棋で言うところの詰め将棋をチェスにて興じていた。

 コツコツと手に摘み上げた黒いナイトを盤面の端に擦らせながら到るべき道筋を脳裏に描く。ほんの十数秒の後、時臣は滑らかに盤面の駒を移動させ、相手のキングにチェックをかけた。

「……ふむ」

 ことん、と黒のナイトで白のキングを打ち倒された。

 手にしていた教本を机の隅に追い遣り、盤上に散らばった駒を纏めてどかし、思考を現実へと昇華させていく。

「セイバーと私。アサシンと綺礼。ランサーとロード・エルメロイ。ライダーと名称不明のマスター……」

 手際よく脳裏に描いた組み合わせを盤上に描き上げ、配置していく。マスターにポーンの駒を当て嵌め、サーヴァントにはそれぞれ違う種類の駒を配す。
 現状綺礼から伝え聞いた情報と時臣自らセイバーの目を介し見届けた情報から得られたマスターとサーヴァントの組み合わせは以上四組。

 残りは綺礼がその存在だけを仄めかせた死徒の少女と化物のサーヴァント。始まりの御三家の一角、間桐家の次男である間桐雁夜と正体不明のサーヴァント。同じくアインツベルンのマスターとサーヴァント。

 現在開示された情報から推測される残りの不明瞭な組み合わせの内訳を推察するのであれば、少なくともアーチャーのマスターは予測可能の範囲である。

「アインツベルンの招いた魔術師殺しの衛宮切嗣とアーチャーのサーヴァント、か」

 この組はほぼ間違いないと時臣は推察する。緒戦、そして昨日のハイアットホテル強襲を見るからに、周囲への配慮や神秘の秘匿を──最低限遵守したとはいえ──蔑ろにした暴挙は彼の者の素性に合致する。

 魔術という秘蹟に対する誇りなどなく、勝ち残る為ならばいかなる手段も辞さない。むしろ進んでその手を血色に染め上げていくだろう。今はまだ規律は守られているが、いつ破られるか分からない。

 更に危惧すべきは昨夜のハイアットホテルにはあのロード・エルメロイが滞在していたという事。彼らの安否は未だ不明のままだが、あの奇襲はおよそ考えられる全てのマスターにとって脅威となる。

 衛宮切嗣とアーチャーの関係がどんなものかは知る由もないが、切嗣がもし命令を一つ下せば、今こうして座している椅子ごと、あるいは屋敷ごと粉砕されかねないのだ。
 まざまざと見せ付けた意図があるとするのなら、恐怖を植え付ける事にあるだろう。特に居住地のはっきりしている遠坂と間桐にとって、捨て置いて良い事態ではない。

 全てのマスターとサーヴァントのデータが出揃うまでは穴熊を決め込む腹積もりであったが、果たしてそれでいいのかとこの段に来て時臣は悩み始めた。

 強固であると自負はしていても、サーヴァントによる攻撃の前にはどんな防護結界も意味を為すまい。彼の時計塔筆頭であるロード・エルメロイの手腕による結界敷設でさえ易々と突破されたのだから。

 食事をしている時、入浴している時、睡眠をとっている時。いついかなる時でもアーチャーはこの遠坂の屋敷を狙い撃てる。その照準はいつでもこの時臣を映し出す。果たしてその恐怖に怯えたまま日々を過ごす事に意味はあるのか……

「……後ろ向きな考えだ。とても遠坂の魔術師の考える事とは思えない」

 手の中で弄んでいた自らのサーヴァントに喩えたナイトの駒を盤面に強く叩きつけ、時臣は重い腰を上げた。



 ────昏い地の底で夢を見る。

 それは、遠い日の郷愁。絢爛豪華な王城に集うは何れも勇名を馳せた勇者達。祖国を守る為に皆が剣を槍を手に執り、少なくはない血をその身に浴びた。浴びた返り血に倍する命を殺し簒奪の蛮族共を蹴散らした。

 剣を突き上げ、高く空に昇るウォークライ。凱旋と共に響く美しい凱歌は彼らの勇姿を称える誉れある詩だった。
 夜、広大でありながら煌びやかな庭園には笑い声が絶えない。肩を抱き合い友の健闘を称え、己の武勇を謳い上げる。酒を飲む分には充分すぎる肴だった。

 皆が祖国を誇りに思い、誰もが朋友を戦友として戦場を駆け抜ける。海を渡り襲い来る逆賊を打ち倒し、戦えずとも共に勝利を祈り祝ってくれる多くの誰かの為に、命を賭して剣を抜いた。

 絶えない笑い声。豊かな暮らし。恐らくはあの時、誰もが国の繁栄を信じて疑わなかった筈で。
 そしてそんな淡い希望を絶望の底へと突き落とす一端を担ったのは、間違いなくこの己なのだと、理解する。

 ……あの栄光の日々がずっと続けば良かったのに。

 余りにも拙い夢想の最後に、傍らにあった年若い王の姿を幻視する。

 王城の一室に備えられた円卓。円卓の意味するところは誰もが平等であるという事。強き者がいれば賢き者もいる。麗しい者がいれば剛毅なる者もいる。
 誰もが平等。誰もが同一。上も下もない朋友として、彼らの結束を意味する証として、円卓は部屋の中央に鎮座する。

 けれどそれでも、指揮する者は必要になる。

 始点も終点もない丸い円の頂点として、王はいつもその場所にあった。彼はいつもその傍らにあった。
 年端もいかぬ少年王。永遠の王。彼ら無双の騎士のトップに君臨する遍く騎士達の王。手にするは星が鍛え人々の幻想により編まれた希望の星。明けない夜を照らし出す貴くも美しい夢。

 彼らの誇り。王の中の王。

 その名は────……



「セイバー」

 静かに。己の全てを覆い尽くしたヘルムのスリットより光を見る。

 暗闇に閉ざされた遠坂邸の地下……遠坂時臣の工房に敷設されたままの召喚陣の上でセイバーは目を覚ます。いや、サーヴァントの特性上見る筈のない夢は、彼自身の本当の意味での“夢”だったのかもしれない。

「傷は癒えたか?」

「ええ。既に」

 暗がりの中でなお黒く闇を染める甲冑に傷はない。
 一昨日の夜にランサーの双槍により与えられたダメージも、霊脈として高位にあるこの土地柄のお陰か何ら問題なく癒えている。

「それで、我がマスター。出陣ですか? 確か貴方の言によれば、全てのサーヴァントの情報が出揃うまでは待機を命じられていた筈ですが」

「ああ、私もそのつもりだったのだがね。予想外に厄介な敵がいる」

「……アーチャー、ですか」

「察しが良いな。流石は最高の騎士と褒め称えるべきかな?」

「…………」

「ああ、気を悪くしたのなら謝罪しよう」

「いえ。お気遣いなく」

 とは言え、セイバー自身己の過去を話題に出されるのは余り好ましい事ではなかった。解決しなければならない問題には誰も触れて欲しくない。あるいは、自分自身でさえ答えを見出す事を迷っているのかもしれない。

「あの狙撃能力は面倒だ。いつ寝首を掻かれるか分かったものではないというのでは、おちおち安眠すら出来ないからな。
 出来うるのなら、早々に排除しておきたい」

「マスターの命ならば我が剣を振るう事に余地はありませぬ。が、前日の戦いで折角頂いた剣も紛失してしまった。出来れば代わりの剣が欲しいところですが」

「……ふむ。君の本当の剣を開示する気はないのかね? その剣を振るえば、いかなるサーヴァントも微塵と化すだろうに」

 確かに、セイバーの頼みとする最強の宝剣を抜けば、いかなる敵と見えようと打ち砕く事は容易いだろう。だがそのメリットを得る代わりにリスクを負う事になる。
 本来ならば然したるデメリットでもないのだが、今のセイバーにしてみればそのデメリットこそがメリットとして作用してくれている。

「必要ないでしょう。どのような武具であれ、私が手にすれば宝具としての属性を備えられる。その利点を放棄する段階ではない」

「少なくとも今はまだ、というところか」

 喉を鳴らす時臣はご機嫌だ。武力、知力、宝具、性格。どの要素を抜き出しても時臣の及第点を遥かに上回る能力を備える己が騎士に、喜びを噛み殺す事さえ出来はしない。

 当初予定していた聖遺物を紛失するというあるまじき失態を犯した事も、この騎士との運命の巡り合わせの為であったとすれば許諾出来る。
 最優のクラスに座す最高の騎士。この上のないセイバーとしての特質を備えたサーヴァントを手中にした時点で、趨勢は決していたも同然だ。

 ……が、無論その恩恵の上に胡坐をかき続ければ手に入る筈だった栄光もするりと掌を零れ落ちていく事だろう。
 時臣が今の地位を得る為に研鑽した血の滲む努力は、凡才であるが故に積まれた比類なき成果だ。なれば天才を手に入れても、その努力を怠るような愚挙は有り得ない。

“常に余裕を持って優雅たれ”

 家訓の裏に隠された習練は遠坂時臣という人物を形成する上で必要不可欠な要素だ。

 故に。

「いえ、マスター。その前に進言しておく事が一つ」

 決意を口端に上らせようとしたところで、タイミングも悪くセイバーはそんな事をのたまった。同時に扉から零れる光から目を背けていた視線が、天井の更に向こう側を見ている事に気が付いた。

「来客のようです。それも、真っ当な客ではないかと」

「……ほう」

 この時分に遠坂の屋敷を訪れるような輩に元よりまともな者などいまい。せいぜいが懇意にある璃正神父と綺礼か、あるいは妻と子の誰かだろう。
 しかし、今のような戦況の中で堂々と訪れるような愚か者は少なくとも先の四人の中にはいない。ならば、答えは一つ。

「面白い、白昼の正面突破か。ならばこちらも相応の出迎えをしなければならないな」

 くい、と指を動かせば、工房の片隅に立てかけられていた一本のステッキが空中に浮遊し移動する。風に乗って運ばれたそれは時臣の手の中に納まった。
 握りの頭に象眼された極大のルビーが時臣が握り締めた時に微かに漏れた魔力の火に呼応し、その煌きを一層強く輝かせる。

「では行こうか、セイバー。我が家を訪ねてくれた者は、丁重に持て成さなければならないからね」


/Kingship


 時臣が自らの魔術礼装を手に一階へと昇ると同時に聞こえてきたのは、無機質なインターホンの連打音と怒声にも似た誰かの声だった。
 訝しみながらも玄関口の方へと足を向ければ、その声の内容がはっきりと聞き取れた。

『うははは、これは面白いぞ。押す度に小気味良い音が響く』

『おま、いい加減にしろよっ!? ここ何処だと思ってンだよ! 敵の本拠地だぞ!? 真昼間だぞ!? 正面から堂々と乗り込む奴があるか!!』

『戯けぃ。よもや貴様、まだ余の王道を理解しとらんのか。我らは匹夫の盗賊などでは断じてない。これは誇りある王の行軍。自らの威容を誇示する為には正面から乗り込まずして如何にする』

『チャイム鳴らしまくるののどこが誇りある行軍だ、バカかっ! 今この瞬間だってどんなトラップが何処から襲いかかってくるか分かんないんだぞ!? 自分から地雷原に突撃していくバカがどこにいるんだよ!?』

『その原野の向こうに未だ見ぬ宝物があるというのなら、余は喜び勇んで駆け抜けよう』

『ああっちくしょー。なんでおまえみたいなのがボクのサーヴァントなんだ……もっと真っ当で従順なヤツが欲しかった……』

『む……坊主。よもやこの余にケチをつける気か』

『ああそうだよっ! なんでおまえそんなに偉そうなんだよ!』

『王だからだ』

『んなコト訊いているんじゃなぁぁああああぃぃい!!』

「…………セイバー、これは一体どうするべきだと思う?」

 皺の寄った眉間を押さえつつ時臣は傍らの姿なき従者に問うた。何もかもが時臣の予想外の来客に、思考らしい思考が働いてくれなかった。

『……私にも如何ともし難いですね』

 どちらかと言えば生真面目組である時臣とセイバーにすれば扉の向こうにいるであろう巨躯と矮躯の破天荒組は埒外の存在にさえ見えたのだろう。
 しかしいつまでもこうして黙し続けているわけにもいかず、未だ止まない喧騒は明らかに近所迷惑の域である。市井に完全に紛れ穏やかな上流階級一家として名高い遠坂家の風評が貶められかねない。

 やれやれと嘆息しつつ、時臣は指先で仕掛けを一つ起動した。

 キィ、と軋む音と共に自動解放された扉の向こうに赤毛の巨躯であるライダーと半泣きのマスターの姿を見咎めた。

「おおぅ? 勝手に開きおった」

「……げ」

 扉が完全に開き切ると同時に、向こうもまた時臣の姿を見咎める。セイバーの姿は見えずとも、少なくともライダーは感じ取っているだろう。

「ようこそ、遠坂邸へ。いかなる用件かな、ライダーとそのマスター」

 口元に余裕の笑みを携えて時臣は口端を切った。

「おう、邪魔するぞ。ん? 貴様、セイバーのマスターか?」

 扉を無遠慮に潜ったライダーが嘯く。ウェイバーは未だ引きつった顔で扉一枚向こうでどうするべきかを考えているようだった。

「いかにも、そうだが? それでライダー、君の用件を伺いたい。あるいはマスターの方でも構わないが。
 闘争を開きたいのだとすれば遠慮願いたいところだ。このような白昼に行うべき事ではない。行うにしても場所くらいは弁えて欲しいものだな。ライダーのマスターもそうは思わないかね?」

 水を差し向けられたウェイバーはなお顔を引き攣らせ答えに窮する。彼にしてみれば時臣の余りの余裕の体が更に状況を読めなくしていた。
 どんな方法にしろ自らの陣地に踏み込まれてあの余裕。むしろ自分から引き入れた事を考えれば、明らかに罠であると勘繰らずにはいられなかったからだ。

 しかし、時臣自身の考えはまさにその真逆。いかなる理由であろうとも正門から堂々と現れたのならば客として遇するだけの用意がある。
 彼らの距離は五メートル前後だが、もし仮にこの場でウェイバーが魔術なりライダーが剣を振るうなりしても迎撃するのは容易い。

 ウェイバーの危惧のように、正しく今この家はトラップハウスと化している。時臣にしか気付けない無数の罠は到るところに仕掛けられ、時臣の意思一つで全てを一斉に作動させる事さえ可能なのだ。
 しかも傍らには霊体のセイバーがあり、たとえライダーが未だ見ぬ能力を隠しているとしても、易々とは時臣に毛ほどの傷もつけられまい。

 それが故の余裕。それが故の応対。少なくともこの工房内で直接対峙する限り、時臣に敗走の二文字は有り得ない。

 それでも相手が暴挙に出ない限りは礼節を尽くすのが時臣のやり方だ。態度こそ横暴横柄だが、正面から突破をかけてきたその気性は嫌いではないのだから。

「余としても一戦交えてみたいのは山々だが、貴様がセイバーのマスターではなぁ。おいセイバー、貴様とランサーの勝負はどうなった?」

 現状を詳しくは知らないライダーには消息不明のランサーの情報もまた耳に届いていないのだろう。
 ライダーの問いに答えもせず、どころか霊体化すら解かずセイバーは沈黙を守る。その代弁か、時臣が口を開いた。

「君にセイバーとランサーの決着に何の意味がある?」

「あるとも。余もあの戦いは見させて貰ったがな、真に良い演舞であった。その決着が先送りにされたとするならば、無闇に横槍を入れるわけにもいかんだろうて」

「……なるほど」

 流石は王を冠するだけの者か、と時臣は内心で呟いた。人を導く者とは須らく一本の芯を通している。誇り。プライド。矜持。どの言葉でも変わらないが、譲れないものがある。そしてこの男はその“何か”を持っている……

「失礼をした、征服王。立ち話もなんでしょう、良ければお茶の一杯でも如何ですかな?」

「なっ……!?」

 狼狽はウェイバーの喉元から。全く以ってこの壮年のマスターの考えが読めない。自らの工房に招き入れるだけでも論外だというのに、茶を供するなどと。
 そして何より焦燥を抱いたのは、そんな問いかけをされてライダーが黙っている筈もないという事で。

「ほう、それは有り難い。是非とも馳走になろう」

「おいライダー、流石にそれは無茶だ」

 無論、無駄と知っていても止めずにはいられない。

「ここは魔術師の工房であの男はマスターだ。隣にはセイバーもいるんだろ? そんな中に飛びこんで行くだなんて、馬鹿げてる」

「折角歓待してくれるというのだ、無碍には出来んだろうて。それによ、もし良からぬ事を考えていても無駄だ。
 先程も言ったであろう? たとえその先が死地であっても、道の先に前人未到の地があるのならば、征服せずにはいられんのだ」

 血の滾りを顕すように、ウェイバーへと向けられたライダーの笑みは獰猛にして快活。王としてのプライドと男子としての好奇心を綯い交ぜにした嬉々たる笑みだった。

 そしてそんな答えは問い質す前から知っている。何かの心変わりでもあればと期待してみたが、徒労だった。こうなれば、ウェイバーもまた共に歩まぬわけにはいかない。

「……危険を感じたらすぐ脱出するからな。そのつもりでいろよ」

 ライダーの隣にまで歩み寄り彼だけにしか聞こえないように小声で呟く。腹が決まったわけではないが、引き返すのも癪に障る。行けるところまで行くまでだ。

「改めてようこそ、歓迎しよう」

 恭しい礼の態度と共に、時臣は自らの工房の内へと敵を招き入れた。



 ウェイバー達の通された部屋はリビングのようだった。充分な広さと室内を統一するアンティーク調の家具。絢爛ではないが質素というわけでもなく、気品のようなものが感じられる装飾だった。

 明らかに場違いな場所に踏み込んでしまったのだと柔らかいソファーに腰掛けてからようやく真に理解しえたウェイバーは視線を彷徨わせる。
 目に見えるトラップらしいトラップは一つとして見受けられない。が、それだからこそウェイバーはより強く警戒の念を抱く。

 完全なまでの隠蔽を施された魔術仕掛けの罠。何処にあるのか見当さえつかないというのは気が気ではない。今座っているソファーが突然爆発しないとも限らないし、壁の模様に幻惑の術が施されているかもしれない。
 知らぬ間に心の内を塗り替えられて傀儡にされても何らおかしくはないこの状況。ウェイバーには身の余る死地だった。

「そこまで警戒する必要はないよ、ウェイバー君。君達が不穏当な行動をしない限りは、私の客として持て成す用意があるからね」

 キッチンより現れた時臣の手にするトレイにはポットから湯気を燻らせる紅茶と洋菓子が見て取れた。
 彼らの対面のソファーに座した時臣は既に温められているティーカップに赤い液体を注いでいく。

「逆に言えば、何かしらの行動を起こせば容赦はしない、という事だが。まあ然程の事でもあるまい。どうぞ、愉しんでくれたまえ」

 そうは言われても差し出された紅茶にさえ怪訝な目を向けずにはいられない。ポットから注がれ、誇示するかのように自ら口をつけた時臣を見やっても、目の前にあるカップに細工が施されていない保障は何処にもない。

 魔術でも何でもないが、コミックでよくある芸当として紅茶自体ではなくカップに致死性の毒薬を塗り込むというトリックがあるくらいなのだから。

「坊主、警戒するなとは言わんがな。貴様のそれは度が過ぎとる。そんなではいつまで経っても小さなままだぞ。男ならば大きく構えよ。
 むしろこの男は、我らの器を測っているようだからな」

 言ってぐいと一息に紅茶を煽るライダー。警戒の欠片もない。あるいは本人の言葉のように、器のでかさを見せつける為にわざとそういう風に煽ったのか。

「その言い草は人聞きが悪いですな、征服王。私はただ持て成す側の配慮として当然の事を口にしたまで。こうも警戒されたままでは何かとやりにくいでしょう」

「まあそれは大目に見てやってくれ。こやつはなぁ、そういうところを気にしとる癖にどうも後一歩が踏み出せんでなぁ。だから小さいままだという事に、気がついておらんのかもなぁ」

 全く以って酷い言い草だが、ウェイバーに言わせればこの男の性格が一際破天荒すぎるのだ。警戒心がなさ過ぎるのだ。
 そんな二人だからこそ妙なところで釣り合いが取れているのかもしれなかったが。

「それで、世界を馳せた征服王がわざわざ当家を尋ねて下さった理由の如何をお聞かせ願いたいのですが?」

 雑談もそこそこに時臣が切り出す。王を称する者に対し貴族を自負する時臣にあっては相応の礼節は忘れてはならないものだ。
 払うべきは敬意であり見下すなど以っての外。ただし、これからの会話如何によってはまた別の対応も有り得るのだが。

「用か。別段用らしい用件は持ち合わせとらん。ただこの坊主が昼間っから戦うのは止めろとどうしても言うのでな、ならばここは一つ、別の闘争の形を見せ付けてやろうと思ったのだ」

「ほう……? 別の闘争の形、ですか」

 この冬木を舞台にする聖杯戦争は、サーヴァントという英霊を使い魔とする極大の魔術戦だ。如何なる結末を迎えるにしろ、闘争の最終章は手に執った剣で相手を殺す事で決着を見る。
 よってそれ以外の方法論で相手を打ち負かしたところで戦局には何ら影響など及ぼさないのだが、征服王の考えとは如何なるものか。

「互いに何か一つを賭け、遊戯によって勝負をつけたいと思うのだが?」

「なるほど。要は私とゲームをしよう、という事ですかな」

「応とも。この時代には様々なゲームというものがあるだろう? 余も興味を惹かれるものが幾つかあるがそれは後の楽しみに取っておく。
 今はこの戦を終わらさねば何も始まらん。しかし今の時間では矛を交える事も叶わん。ならばゲームにて貴様から一つでも奪い取っておこうと思ってな」

「ライダー……おまえそれ、本気か?」

 ウェイバーが訝しむ。声は呆れ果てているが。

「無論だ。坊主も、得られるのなら欲しいものなど幾らでもあるだろう? 余の異名は略奪王。相手より何かを巻き上げるのは享楽だ」

 度し難い性癖だが、この男はそのやり方で世界征服の一歩手前まで駒を進めたのだから侮れない。たとえゲームであろうとも本気も本気で挑みかかるだろう。そしてもし敗北したとしても、力技に訴えるような下衆な真似はしまい。

「…………」

 しかし時臣にしてみればまた妙な勝負を持ちかけられたものだと思わざるをえない。こんな展開は予想だにしていなかったので、どう返すべきか答えに窮した。
 が、思考もそう長くは続かない。どんなものであろうとも、勝負を挑まれて逃げるなどという選択肢は遠坂の魔術師にはありえないのだから。

「宜しい。その勝負、受けて立ちましょう征服王。それで、ゲームの内容は?」

「そっちで勝手に決めてくれて構わん。勝負を吹っかけたのはこっちだ、方法は貴様が決めてくれ」

 自ら進んで不利な状況下に居座るライダーの奇行を『やっぱりかこの野郎』といった面持ちでウェイバーは見やったが、どうせ今更止めても無駄なので徒労に終わる真似はしなかった。

「ならば……チェスなどは如何でしょう」

 勝負内容が選択できると分かった時点で時臣の選ぶゲームは決まっていた。己が最も得意とするボードゲームを提示するのは当然の事と言えよう。

「おう、何でも構わん。が、そのチェスとかいうヤツのルールが分からんのでな、出来ればルールブックを見せて貰いたい」

「ええ、構いませんとも。では少々席を外しますので、お待ちを」

 時臣が去った後で、ウェイバーは大きく溜め息を吐く。おそらくセイバーはまだこの室内の何処かにいるのだろうが、それでも一応問い質しておかなければならない。

「おいライダー、やった事ないゲームで勝てると思ってるのか?」

「勝つさ。負けるのは嫌いだ」

 短く言ってのけられやっぱりかと嘆息する。この男も大概だが、こんな下らない勝負を受けるあの男も同じくらい狂っていると、ウェイバーは内心で呟いた。



 時臣は書斎からウェイバー達が来訪する以前まで興じていたチェス盤を小脇に抱えて戻ってくる。それとは別に、初心者用のルールブックも忘れていない。
 まずライダーにその教本を渡し、内容を理解するまで座して待つ事にした。ただ待つのも退屈だったので、時臣はウェイバーに粉をかける事にした。

「ウェイバー君は確か、時計塔に在籍していると聞き及んでいるが本当かね? しかもあのロード・エルメロイの弟子であるとか」

「……それが、何か?」

 ウェイバーにしてみれば別段隠し通す程の事でもない。しかもそれだけ調べ尽くされていては嘘を吐いたところで意味もないと勘繰った。
 が、時臣の先の言は一部ブラフを含んでいる。ロード・エルメロイが聖遺物を紛失したという情報と弟子が一人消息不明という情報から推測した結果を述べたのだが、どうやら的を射たようだった。

「時計塔か……懐かしいね。私も一昔前まではあそこに滞在していたよ。今でも懇意にはさせて貰っているが、あの場所はまあ、変わり者が多すぎる」

 時計塔に一度在籍した魔術師の大半はそのまま己が死する時まで出て来なくなるのが一般的だ。あの場所にはおよそ魔道に関わる全てがある。
 より深く探求せんと欲する輩なればこそ、目の前を覆い尽くすほどの膨大な蔵書を一目見れば、もう二度とは野に下る考えなど持たなくなる。

 時臣はこの地の管理を預かる者として、一度は海を渡ったものの今ではこの土地に舞い戻り腰を落ち着けている。
 明確に繋がりは絶たれていないが、二度とあの魔窟に腰を下ろす事はないだろう。

「変わり者……」

「ああ。魔術師という人種はとかく偏屈な者が多い。だが神秘などというものを追求していてもなお、あの中は権力闘争と血統自慢が蔓延っている。
 体質が古い、とも言い換えられるがまあ、それでも横や縦の繋がりなくしてはろくな研究も出来ないのが本音だろう」

 唯一人であの魔窟に篭り研究に精を出す者もいるにはいるだろうが、大抵の場合は徒党を組む。魔術師は外敵には辛辣だが、身内に関しては驚くほど甘いものだ。
 表の人間社会でも同じように、孤立して生きていくことは苦しい。魔道などという常識外のものに携わりながら、妙なところで人間味があると言える。

 時臣自身もどちらかと言えば古い体質の人間だが、時計塔内部の権力闘争には辟易せずにはいられない。時臣は正調の魔術師であるが故に、魔道を己の利権の道具とする輩が許せない。

 だからこそ時臣はその逆、利権を貪る者を利用し己の研鑽を積んで来た。たとえこの地の管理者などではない一魔術師であったとしても、長くはあの妄執に覆われた場所に留まらなかったに違いない。

「ふふ、君もあの渦に囚われないようにするといい。人の醜い部分を直視した時、己の価値観が崩される事になりかねないからね」

 先達としての助言のつもりだったのだろうが、ウェイバーは既にその醜い部分とやらを厭というほど見せ付けられている。
 時臣とは別のベクトルで正しくあらんと欲するウェイバーだからこそ、未だ未成熟の段階で垣間見る事になってしまったのだが。

「さて。懐かしい学び舎の話はこれくらいにしておこうか。どうせならもっと有意義な会話をしたいからね。
 回りくどいのは好きじゃないから率直に聞こう──君のサーヴァント、ライダーはまだ別の宝具を所有しているのかね?」

「────っ!」

 その唐突な質問にウェイバーは目を見張った。そして己の無意識の行動の結果を呪う。

「……素直な事だ。嫌いではないが、もう少しポーカーフェイスを覚えるといい。この程度で狼狽えていては、時計塔では生き残れない」

 ウェイバーは己の不肖を歯噛みする。事前にライダーに聞かされていた真に頼みとする宝具は別にある、という言葉を思い出し、その事実を悟られた。
 流し目で隣に座すライダーを見やれば、一心不乱にルールブックを読み漁るばかりで、こちらの失態になどまるで気付いていない。あるいは気付いていてなお無視しているのか。知られたところで問題はない、と。

「……そっちだってまだ何か隠してるものがあるんだろ?」

 せめてもの意趣返しとばかりにウェイバーは口にする。ライダーも確かセイバーの底はまだ知れないとぼやいていたのを覚えている。

「さて、どうかな。残念ながら、教えてやる義理はないからねぇ」

 時臣はニヒルな笑みを浮かべるばかりでウェイバーには真意など知れなかった。これが経験の差、歩んできた時間の差だ。
 これ以上問答を繰り広げれば洗い浚い吐かされてしまいかねない。これからの問いは全て黙殺してやると腹を決めたその時、隣から本を閉じる音が聞こえた。

「よぉし、覚えた。ほれ、さっさと勝負を始めるぞ」

 ライダーは背凭れに預けていた巨躯を前のめりにずいと出し、ウェイバーを庇うように身を乗り出す。

「おや、予想外に早かったですな。宜しいのですか? 覚え切れていないから負けた、などと後から言われても承服出来ませんのでね」

「応。男に二言はない。さっさと準備を済ませろ」

 苦笑を浮かべつつ時臣は凝った意匠の施されたチェス盤に、これまた細工の肌理細やかな駒を配置する。時臣が黒色の後手を、ライダーが白色の先手で己の手駒とした。

「さて、では勝負の前に賭けの内容を決めましょうか。とはいえ、ある程度の制限はつけたい。極論すれば、互いのサーヴァントの自害などという賭けの内容ではとてもではないが立ち行かないでしょう」

「余はそれでも構わんが?」

「ライダーッ……!」

「冗談だ。ここでセイバーを殺すのは惜しい。もし討ち取るとしても一度は剣を交えたいところであるからな」

 本当に冗談だったのかは本人にしか分からないが、少なくともそんな内容の賭けでは勝負は出来ない。ただでさえ不利な条件下にあるのだから。

「ふむ……では私から先に述べさせて頂こうか」

 時臣がそう呟いて、そしてウェイバーを指差した。

「もし私が勝ったのならば、ウェイバー君──君の持つ令呪の一画を貰い受けたい」

「なっ……!?」

 令呪とはマスターとサーヴァントを繋ぐ楔であり、同時に縛る為の切り札だ。三画しかないとはその命令は絶対。意に沿わない従者を屈服させる最後の手段。
 特にライダーのような気性を持つサーヴァントを従えるウェイバーにとって、これは決して手離してはならないものである。

 よってウェイバーは承服など出来ない。こんな下らない賭け事で、令呪の一画を奪われるなど……

「そんなもので良いのか。随分と殊勝だな」

 だというのに、ライダーは臆面もなく嘯いた。

「お、おいライダー!?」

「ん? 別にいいだろそんなもん。余は負けんし、仮にもし負けたとしても令呪一つ失ったくらいで大勢に影響などないだろ。
 それにな、これは余とこやつの勝負だ。勝負を是が非でも止めなかった時点で坊主の出る幕はない」

「…………っ」

「クック……流石は剛毅なる征服王。では宜しいかな? 私からの提示は令呪の一画。そしてそちらの所望するものは……?」

「酒だ」

「は、はぁ!?!?」

 ウェイバーはもはやあんぐりと口を開けることしかできない。向こうが令呪を要求するのならば、こちらも同じものを提示するべきだと思っていた矢先に、ライダーの口を衝いた余りにも素っ頓狂な要求に開いた口が塞がらない。

「……酒、ですか?」

「おう。どうも貴様の家、見るからに裕福だな。ならば酒蔵の一つも持っとるだろう。余の要求はこの住居にある酒類の全てを貰い受ける事。ふふん、さぞかし上等なもんが飲めるだろうなぁ」

 まだ勝負さえしていない癖にもう勝った気でいて、しかも賭け品も手に入れたつもりでいるライダーには時臣さえ苦笑を漏らさざるをえない。
 しかし令呪の一画と酒とは、これはまた釣り合いの取れない賭け品だ。しかし、ライダーがそれで良いという以上は時臣が口を挟む余地はない。

「結構、ならば最後の確認を。勝負内容はチェス。私が勝てば令呪の一画を、征服王が勝てば我が家の一切の酒類を差し出すということで、宜しいですかな?」

「相違ない」

「では────」

 大仰に手を広げ、口元には笑みを。

「────ゲーム、スタート」



 先手はライダー。上級者ともなれば初手にすら充分な時間をかけるものだが、征服王は野太い指とさして変わらない大きさの駒を摘み上げ、前進させる。
 駒の配置上、ほとんどがポーンを動かす事になるであろう初手は余り動きのあるものではない。

 時臣もまたポーンを動かし自分のターンを終える。そして──

「……ほう?」

 ライダーの第二手に、時臣は関心の声を漏らした。初手から妙な位置のポーンを動かしたかと思えば、どうやらそれが目的であったらしい。ライダーの第二手は、キングの駒。およそ有り得ざる采配である。

 キングは攻める為の駒ではない。この駒が取られれば終わるゲームにおいては、他の駒をいかに駆使して敵陣へと切り込み相手の首級を奪うかが基本である。
 それを、ほとんど動かせる状況下にない第二手で、しかも大勢に影響など出る筈もないキングの進軍をやってのける征服王の妙手に、時臣は関心を抱く。

「一応先程のルールブックには基本の定石も記されていた筈ですが、もちろんお読みになりましたかな?」

「無論だ。全て頭の中に入っておる」

「その上でこの第二手、ですか。ふふ、征服王は戯れがお好きらしい」

「戯れ? これが戯れにしか見えんようでは、貴様の力量も知れるというものだな」

「何……?」

 その言葉はどうやら時臣の癪に障ったらしい。チェスを得手とする時臣だからこそ、ついさっき一冊の初心者用の教本を読んだくらいの者に意見される謂れはない。
 ただの趣味同然の代物だが、気に入っているものをけなされて黙っていられるほど時臣はつまらない人間ではない。

「ならば是非教授願いたい。王の一手にいかなる意味があるのかを」

 時臣は己の駒を動かしながら、ライダーに問う。威圧を込めて向けられた視線に、ライダーは己が道を指し示す。

「王とは────」

 更なる一手に手に掴むは、数多の雑兵などではない。王の手にするは己が分身。遍く臣民に先んじて道を征き、胸に抱いた覇を謳う。
 誰よりも雄大に、誰よりも勇壮に。この世の誰よりも生を謳歌する獣の名……それこそが王の称号。故に。

「────我が生き様であるッ!」

 盤面へと再度叩きつけられたキングの駒。初手にて移動していたポーンに並び立つ形で白きキングが盤面中央へと躍り出る。

「…………」

 それ以上の言葉はいらなかった。誰もが盤上に描かれた構図から、征服王イスカンダルの示すものを見たからだ。
 およそ有り得ない妙手。いいや、ライダーに策略などというものはない。これはただ、己が王道を導く為だけに取られた悪手だ。

 チェスというゲームの趣旨を投げ出し、己が生前歩み続けた、誇り続けた王の道を見せ付ける。
 その生き様……その一片の曇りなき覇道を誰よりも先んじて走り抜ける者──それこそが覇王イスカンダルの王者の道。

 その背中に憧れて。幼き日の夢を取り戻して。
 捨て去った筈の光を、今一度胸に宿し彼に続いた臣下達。

 遠く遠く、ひたすらに遠くへ。
 蒼穹の空の向こう──未だ見ぬ新天地を目指し、世界という箱庭を駆け抜けた、或る愚者の一つの夢のカタチ。

「……なるほど。御見逸れする」

 感嘆の息と共に吐き出す言葉。口にするのは易い夢を、目の前の男は確かに駆け抜けた実績がある。だからこそ、その言葉は途轍もなく重く尊い。
 王たる者。時臣をして納得せざるを得ない一つの生き様を、この小さな盤上に見た。

「しかし──忘れて貰っては困りますな、征服王。これはあくまでゲームだ。貴方の踏んだ二手は、違えようのない悪手だ。
 これらのゲームに無駄な一手などない。それを二つも重ねたならば、趨勢は変え難いものとなる」

 静かに時臣は次なる一手を打ち出した。ライダーが魅せる采配をしている間に、時臣は勝つ為の采配を取っている。
 いかに吼え猛ろうと目の前にあるものこそが真実。今はまだ分からずとも、決着の時を迎えればどちらが勝者かなどはっきりするだろう。

 打ち終えてなお次の手を差さないライダーを見やり、時臣は冗談めかして遊び心を露にする。
 少なくとも盤上で争う限り時臣に負けはない。これだけの戦いを経て充分過ぎるほどに理解した。ならばお遊びの一つでも差し挟みたくなるというものだ。

「こんな話に意味はありませんが、もし貴方が私のサーヴァントだったと思うと、少し考えたくなりますな」

 ライダーの魅せた王道は確かに面白いものがある。が、それは時臣とは相容れない類のものだろう。
 もし仮にライダーが時臣のサーヴァントであったのならば、畏敬の念は抱こうとも、その余りに破天荒な言動に終始惑わされる羽目になっていたに違いない。

 本来のあるべきチェスのように粛々と勝利への駒を進める事を好む時臣と、定石も何もかもを無視した己が道を征くライダーでは軋轢が生まれて当然だ。
 それを思えば、振り回されてばかりいるであろうマスターであるウェイバーには同情さえ禁じえない。

 そんな思索の渦を切り払うように、ライダーが口を開く。

「ほう? 貴様が余のマスターだったら、だと?」

「ええ、さぞや面白いものになっていた事でしょう。頭を抱えたくなるほどにね」

「戯けが。頭を抱えたくなるのはこっちの方だ」

 紅蓮の双眸が時臣を射抜く。その奥底に込められた真意を測りかね、口から声は漏れなかった。

「そうさなぁ、貴様が余のマスターであったのなら、随分とつまらん結果になっとったろうな。
 いや、勝てはするだろうよ。見たところこの坊主より貴様は力量が上であるから、余も十全の力が出せただろう。なれば敵などそうはおらん。普通に戦って普通に勝って難なく聖杯は手に入っただろうな」

 その言葉の裏にあるものは、つまりウェイバーではライダーの真のマスター足りえるだけの魔力供給を行えていないという事。
 ライダーの検分を当然だとばかりに満足げに頷く時臣とは違い、ウェイバーは微かに目を伏せて……頭の上に添えられた重みに気が付いた。

「だがな、それだけだ。貴様の戦い方を余は好かん。前日のセイバーとランサーの演舞にしても、何故貴様は立ち会わなかった? 己が従者を矢面に立たせ、自らはこの場所でギャラリー気取りか?
 ふふん、そんな輩は余のマスターに相応しくなどない。我がマスター足るもの、共に戦場を馳せる勇者でなければならんからな」

「……ライダー、おまえ」

 上げた視線の先にある獰猛な笑い。ぐりぐりと頭を撫で回すごつい掌。畏怖の対象であった巨躯の掌も、今はその温かさが胸に沁み込んで行く。

 そして、再度視線を落とした先にあるチェス盤に描かれる構図にウェイバーは得も言われぬ感傷を抱いた。
 並み居る兵に先んじて立つキングの駒。そしてその隣に立つ最弱の駒であるポーン。それこそ正しく、ウェイバーとライダーを顕すものではないか……

「クク、クハハ、クハハハハハハ!」

 気が狂ったように高笑いを上げる時臣にウェイバーは驚きに目を見開く。どこか涼しげで落ち着いた印象を持っていた人物がいきなり気品の欠片もない笑い声を上げれば、ウェイバーでなくとも驚くだろう。

「ああ、なるほど。そういう事ですか征服王。ならばこの勝負、私の完敗だ」

「え──?」

 いきなりの投了(リザイン)の声に疑問を浮かべる。

「良いのか? まだ勝負はついとらんが」

「ええ、もちろん。たとえ続けても勝てる気がしませんのでね。傷の浅いうちに止めておきましょう。
 ご所望の酒も全て差し上げましょう。何、これは敗者たる者の責務だ」

 やおら立ち上がりかけた時臣に先んじて、ライダーは手で制し立ち上がった。

「おう、貰えるもんは貰っとくが、生憎と今日は荷車もないのでな。日を改めて頂きに来よう。それよりも一つ聞きたいことがあってな、答えてくれるのならば褒賞の酒も半分でいいんだが?」

「……それが答えられるものであれば」

「難しいものじゃない。知らんならそれでもいいが、アーチャーのヤツの居所が知りたい」

「…………」

 どんな思惑があるのかは知れなかったが、ライダーにアーチャーを討つつもりがあるのなら時臣にとっても好都合。話をして損をするわけでもなかったので、正直に答えることにした。

「アーチャーは通称アインツベルンの森にある古城にいると思われます。ここから北西に十数キロ先にある広大な森の中心にその城はあるでしょう。
 忠告しておくとするのなら、その森一帯がアインツベルンの領地であり結界だ。相応の覚悟を以って臨む事をお勧めしますよ」

「おう、感謝する。んじゃ行くぞ坊主」

「え、あ、ちょ、待ってくれよライダーッ!」

 そうして嵐のように彼らは去っていき、残されたのは座したままの時臣と、霊体化を一度として解かなかったセイバーだけであった。



「よろしかったのですか、マスター。この勝負、素人目で見ても勝利は揺ぎ無いと思われたのですが」

 静けさを取り戻したリビングで、ようやく実体化を果たしたセイバーが僅か数手しか進んでいないチェス盤を見ながら呟いた。

「……そうだな。もし続けていれば勝てただろう。だがそれは、試合に勝つだけの事だ。やられたよ、あんな戦い方があるなんて、思いもしなかった」

 つまるところ、ライダーは端から真面目に競い合う気などなかったのだ。あの男の見ていたものは盤面ではなく時臣という人物であり、勝敗などどちらでも良かったのだ。
 紅茶を差し出した時に器を測られていると憚ったライダー自身が、この勝負の中で時臣という男の器を測っていたのだ。

 その事実に、あの大言を言われるまで気付けなかった時点で時臣の敗北だ。惨めにチェスでの勝負に勝ったところで、この心の靄は晴れてはくれまい。

「これでもチェスの心得はあったつもりだったのだが、こんな序盤でリザインするのは初めてだ」

 屈辱感が総身を舐めると同時に、何処か晴々しくもある妙な気分だった。人の上に立つ人物が持つというカリスマ、人の心を動かす力を垣間見て、おかしくなっているのかもしれない。

「王……か。あれが遍く民を導く者。覇を以って世を制す君臨者。
 ふっ、やはり私は君をセイバーに選んで良かったのかも知れない。もし最古の王を招来していたとすれば、手に負えたか危ういからな」

 征服王からしてあれなのだ、もし最強の英雄殺しをサーヴァントに従えたところで、御し切れなければ宝の持ち腐れだっただろう。
 その観点から見れば、騎士という在り方を貫くセイバーを選んだ事に間違いはなかったのかもしれない。

「ところで君もかつては王に仕えた身なのだろう? 感想を聞きたいね、あの男の器量をどう見る?」

 ソファーに腰掛けたままリラックスしている時臣の背後に立つ黒騎士は、僅かな沈黙の後に答えた。

「かつて私は王に向かい、こう答えた事があります」

 ────王は人の心が分からない、と。

「我が王は気高かった。理想に生きた王だった。それが故に、王は我が心を解してはくれなかった」

 およそ時臣の問いかけから外れた答えだったが、真摯に受け止め己の意見を述べた。

「……憎んでいるのかね? その王を」

「…………」

 それはきっと、セイバー自身にすら分からない。後悔はある。未練もある。けれどこの二度目の生を得て何を欲するのか、己自身にさえ分からない。
 あの過去をやり直したいのか? あの過去をなかった事にしたいのか? 分からない。負の想念に包まれたこの己では、何が正しいのかさえ分からない。

「……ふむ、それが君の命題か。残念ながら、私に君の欲するような答えを用意する事は出来ないな。己で見つけ出すか、聖杯に見出して貰うか、あるいはあの男に問うのも面白いかもしれない」

「あの男……ライダーに?」

「ああ。形は違えどアレも王として生きた者だろう。その称号を得て、その生き様を貫いた者であるのなら、似たような答えも持ち合わせているかもしれんからな。
 まあ、これはただの戯言だ。強要はしないし、好きにすると良い。しかし、どんな理由にせよこれからの道程には付き合って貰うがね」

 やおら時臣は立ち上がる。いつまでもこうして項垂れているわけにもいかない。時臣を指して暗に臆病者と罵ったライダーに、見せ付けてやらねばなるまい……

「我らも行こうか、セイバー。恐らくはライダー達はそのまま件の森へと向かった筈だ。私としてもアーチャーの存在は目障りには違いない。ならば纏めて討ち取ってやろうではないか」

 腕の一振りでステッキを掴み取り、回転させると同時に空中に炎の円を描き出す。

 激情の赴くままに流されるわけでは断じてない。元より決起する腹積もりであったし、この拠点を守り続ける為にはアーチャーの存在は目障りだ。
 最後の一押しをくれたのは正しくライダーの挑発だろうが、その裏に打算と冷徹な心、己の意思があればなんら問題などない。

「思えば待ちに徹するなど遠坂の魔術師らしくもない消極的な戦法だ。我が子の手本となる為に、全てのサーヴァントを自力で斃すぐらいの意気込みを見せねばな」

 ──此処に一つの賽は投げられた。

 最強の一組が居城を後にする。
 向かう先は未踏の地。広大な灰色の森の中で、新たなる戦乱が幕を開ける……














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