正義の烙印 Act.05









/Doubt


 忙しなく関係各所に電話をかけ、サーヴァントたるアサシンに指示を出していた綺礼の元にその一報が届けられたのは時臣が屋敷を発った暫く後の事だった。
 時臣に対してはアサシンも監視をしていたわけではないのだが、ライダーとウェイバーを見張っていたアサシンの一人が綺礼に伝えるべきと思い至り、委細はマスターたる綺礼に話された。

 作業に従事しながら聞き終えた綺礼は雑務を全て後回しにし、仄暗い自室のソファーに重く腰掛け思案を繰り返した。

「……まさか導師が私に何の断りもなく出立されるとは。一体何を考えている?」

 ライダーとウェイバーの遠坂邸への正面突破。アサシンの報告では戦闘の兆候らしきものはなかったと伝えられた。
 しかし屋敷より出て来たライダー達を追走するように、霊体のセイバーを伴い出て行った師の思惑が、綺礼には読み切れなかった。

 現状、全マスターとサーヴァントの情報は出揃っているとは思えない。綺礼の知るところの情報を纏めても例の少女と化物についてはほとんど不明のまま、間桐雁夜のサーヴァントに到ってはマスター共々姿すら未確認だ。

 慎重に慎重を期して綺礼に偵察の任を課した時臣が、自ら戦地へと赴いた可能性を考えるに、やはりどうしても解せない点がありすぎた。
 ならば考えられる事は一つ。ライダーとウェイバーの訪問が、時臣に何らかの心変わりを齎したとしか思えない。

 ただ綺礼に一言もなかったというのは納得がいかない。焦燥に駆られている風には見えなかったし、ならば単に失念しただけなのだろうか。──あるいは、綺礼に知られては拙い何かを行おうとしている?

「下衆の勘繰りだな。未だアサシンを従えている私に隠し通せるなどとは師も思ってはいまい」

 だが、その行動はやはり気掛かりであり、同時に綺礼にとってはチャンスだ。時臣に厳命された“教会内から出るな”という罰則も、時臣自身が屋敷に逗留していなければ確認のしようがない。

 ────今ならば、自由に動ける。

「アサシン」

「はっ」

 茫洋と影を揺らめかせて綺礼の言葉を受け取るようにすぐさま姿を見せたアサシンは、髑髏の面は他のアサシンと同じでありながら、その肢体は女性特有のしなやかさを持つ者だった。

 彼女こそ綺礼が無数のアサシンの側近として侍らせる一人であり、件の教会墓地の一戦や衛宮切嗣との対峙、ランサーの気を惹き付ける役など、情報の収集よりも綺礼の片腕としての働きを与えられたサーヴァントだった。

 彼女がその地位に納まっている最たる理由は無論、綺礼の趣味趣向などではなく、その有用な頭脳と“己”を把握している点にある。

「導師に一人つけておけ。絶対に気付かれない距離から窺うだけでいい。特にセイバーには気取られる事のないように、細心の注意を払える者を向かわせろ」

「畏まりました」

 指示を出し終えて、果たして綺礼はたった今行った己の行動に疑問を浮かべた。

 綺礼と時臣の表向きの関係は令呪の顕現により離反した師と弟子にして敵対者だが、その実は手を組み聖杯戦争に臨む関係だ。その関係に疑問を抱いた事などなかったし、当然であるとさえ受け入れていた筈だ。

 それが今はどうだ、時臣の目を掻い潜り利己的な目的で衛宮切嗣と対峙し、あまつさえその事実を隠匿したのは何故だ?
 切嗣とアーチャーの関係、戦闘術などの委細を師に全て明かしていれば、いずれ赴くだろう闘争の時に備えて万全の準備を行えた筈だ。

 何故隠そうとした。たとえ話そうとも綺礼の思惑と切嗣の関連性に時臣は決して気付けない。だというのに、何故? 咎められる事を恐れたからか? 万が一にも知られる可能性を排除したかったからか?

 否。決して、そんな理由ではないと確信する。

 今下した指示にしてもそうだ。あえてセイバーに気取られるようにアサシンを動かし、誰にも聞かれる可能性のない場所で本人から事情を聞き出せば済む事を、どうして尾行という形で追跡を命じた。

 そしてもう一つ。先程まで従事していたフュルベールとかいう死徒の少女のより詳細な事実を知る為の奔走に、同じような猜疑を抱く。
 何故それほどまでに固執する。時臣の言うように、あの女もまたマスターの一人に過ぎない。一魔術師ではなく妙な能力を有しているという点を除いても、特段綺礼が思い煩うようなものなどないというのに。

 あの女に一番近い場所に自分がいるからなのか。あるいは、徒な犠牲が増える事を良しとしないなどという、およそ正しい倫理観に基づいた正義だとでも謳うのか?

「……笑い種だ。私にはそんなものは有り得ない」

 その程度の事に情熱を注げるのならば、言峰綺礼はこれほどまでに苦悩する事はなかった筈だ。ただ身体に沁み付いた習慣か、あるいは無意識の内にその先に何らかの可能性を見出そうとしているのか?

 分からない。分からないが、時臣の意思を無視してまで躍起になるにしては、余りにも漠然としていて雲を掴むように取り留めのない話だ。

 ……ならば、今の己の行動は一体何に起因しているのだ?

 そこではたと、綺礼は隣に膝を付き恭しく構えたアサシンが、こちらを凝視している事に気が付いた。

「何だ?」

 視線を投げ掛けられて、白面の暗殺者は僅かに仮面を揺らした。

「いえ。何時にもなく苦渋の面貌をされていたので、如何されたのかと」

「……おまえに心配されるほどの顔をしていたか。ふん、これはやはり重傷のようだ」

 肩の凝りを解すように腕を廻し、硬いソファーに背中を預けた。

「私はね、分からないのだ。私自身というものが」

 その言葉はおよそ綺礼らしくないものだった。これまでの人生においていかなる苦行にも耐え忍んで来た綺礼が愚痴にも似た吐露を発するなど。
 仮に璃正神父が耳にしたとすれば、珍しく己を頼った息子に感涙し、恐ろしいほどに真摯に答えを探してくれただろう。その行為こそを息子が嫌悪するとも知らずに。

 その点で言えばこのアサシンは都合が良かったのかもしれない。時臣や璃正神父の側ではないただの一従者。内面に干渉してくる事はなく、ただ木偶に語りかけるようなものなのだから。

「師の目を盗み己に拠った行動を優先し、俗世では正義と呼ばれるような行為に臆面もなく加担していた自分自身が分からない。
 何を求めているのかすら、もはや失念してしまったのかもしれないな」

 常に行動に付き纏う違和感。ただ苦悩するだけだった過去とは違い、この戦に関与してからの綺礼は自身の価値観すら忘却したかのように奔走している。
 何を求め、何を欲し、何を祈る。一体何処に、答えなどという曖昧なものを求めているのか。

「失礼ながらに申し上げると」

 言葉など差し挟んでこないと思っていた傍から、そんな声を聞いて綺礼は無意識に視線を滑らせていた。
 表情の一切など窺えない髑髏面が、静かに見上げている。

「綺礼様は、時臣殿を忌避しておいでではないですか?」

「な、に────?」

 およそ予期すらしていなかった言葉に、綺礼は珍しくも動揺を露にした。

「もし時臣殿の采配に何ら疑問の余地がなければ、粛々とサポートに務めるに留まっていたでしょう。
 綺礼様自身の目的の為というのもあるかとは思いますが、それとは別の感情があるとすれば、時臣殿への反発心が一端を担うのではないかと思ったのですが」

「…………」

 確かに、その通りなのかもしれない。

 切嗣と対峙した事は紛れもなく綺礼の意思だ。ならばその他の要素、件の少女への過剰なまでの警戒心と己の立場すら忘却した隠匿、そして師の行動を備に監督する行為の全てに時臣という人物が関与している事は疑いようのない事実だ。

 時臣の軽視する存在を警戒し、時臣の有利になる情報を秘匿し、時臣の命令さえも反故にしかねないアサシンの独断使用。
 辻褄は合う。が、そう仮定すると更なる疑問が湧き出てくる。何故綺礼は、時臣をそこまで毛嫌いするようになったのか……

 綺礼自身にはそんな事、言われるまで気付いてさえいなかった。無意識の否定、本能の忌避。その理由に思い当たるところが何一つないのは何故なのか。

 ……いいや、唯一つだけ、ある。

 時臣の言は綺礼にとって束縛の意味しか持たない。師弟という上下関係である以上、それは別段取り立てて問題のあるものではないが、この闘争、そして今後の展開を考える上では僅かに疑問の余地を産み落とす。

 ──つまり時臣の存在が、綺礼と切嗣の邂逅の障害となる可能性。

 最高レベルの魔術師としての能力を有し、最高レベルのサーヴァントを従えた、およそ現在知りうる限りの情報において一歩抜きん出た存在が彼の者だ。
 時臣がもし、綺礼が切嗣と再度見える前に切嗣を打倒してしまう可能性、あるいはセイバーがアーチャーを下す可能性は、決して低くはない筈だ。

 それは、綺礼にとって絶対に起こってはならない最悪の事実。

 この舞台より切嗣が姿を消せば、もう二度と見える機会はないだろう。千載一遇のチャンス。後一度、後一度面と向かって対峙するだけで得られる人生の解が、師という存在に破却されるなどという現実は、断じて許容できる筈もない。

 それが故の無意識の反逆。
 言峰綺礼にとって、全てに優先されるものは衛宮切嗣の生存、そして己と再び相対す事に他ならないのだから。

 ……馬鹿な……私が師に反旗を翻す? 下らない……有り得るものか、そんなこと。

 苦渋も露に片手で顔を覆う。そう、それは綺礼がこれまで信じてきた“何か”を突き崩しかねない衝動だ。
 正しくあれ、美しくあれと己を戒めてきた綺礼にとって、そんな負より生じた観念が自らを構成する上で重大なファクターになっているなどという可能性は、断じて許容できる筈もない。

 だがそれは、何処か的を射ている気がしてならない。自らは醜いと。余りにも利己的でおよそ有り得ない価値観しか抱けないイカれた存在なのだと認めてしまえば、この肩にかかる重圧も消えてなくなるのではないか。

“────いいえ。あなたは私を愛しています”

「…………っ!」

 唐突に脳裏を掠めた古い記憶。記憶の水底に永遠に沈めた筈の誰かの言葉が、何かを告げるように木霊した。
 思考をカットする。思い出すな。思い出してはいけない。その先にある問いは、言峰綺礼を砕く槌であるのだから。

 一瞬確かに激痛に襲われたかのような表情をした綺礼の顔は、瞬きの間に消え去った。先の苦悶の表情も既にない。
 今はただ何かを封殺した、空恐ろしい無表情が浮かんでいた。

「クッ……なるほど。やはり私という人間はどこまでも愚かしい。それにしても思わぬところから妙な解が転がり出て来たな」

 誰に聞いても得られないと思っていた綺礼の煩悶の正体。それがよもや、己が喚び寄せたサーヴァントから得られるというのは、出来すぎた偶然だ。

「そうでもないか。私が私自身を解さぬように、おまえもまた、自己というものが分からない者であったからな」

 唯一つの肉体に宿る無数の自我。多重人格という、現代では病にさえ分類されるその特異性を武器とする今代のアサシンの求める祈りこそ、確固たる己自身に他ならない。
 物心ついた時、彼ないし彼らは複数存在していた。意識的に変えられる自己という異常性は、生きる上では有益な能力だったが、彼らが求めたものは原初の己だ。

 都合八十に迫る一にして全なるハサン・サッバーハ。この世に生まれ落ちたその時にあった己は一体誰なのか。意識下にある違う自分は一体誰なのか。
 人ならば誰もが持つ絶対の己。一つの肉体に宿る一つの意識。そんな当たり前を求めて彼らは綺礼の呼び声に応じたのだ。

“自分を知りたい。自分というものの意義を見出したい”

 その共通認識があったからこそ、世界の理より外れた彼らは巡り合った。

「だがなアサシン。先のような言葉は胸に秘めておく事だ。もし私が導師に忠実な下僕であったのならば、叛意とさえ受け取られかねないものだからな」

「……は。失礼しました。今後はこのような事がないよう努力します」

 特別咎める気も最初からなかったのか、頭を垂れたアサシンを一瞥さえせずに、部屋の片隅でゆらゆらと揺れる蝋燭の灯りに視線を投げた。

 ──さて……これからどう動くが最善か……

 言峰綺礼は気付かない。“動かない”という選択肢を最初から破棄している時点で、時臣の意思を蔑ろにしている事に。

 綺礼の内で微かに燻り始めた時臣への叛意。無感情を装って、心をツギハギで繕って、ただただ前を見据え続ける。
 苦悩をするにはもう遅い。答えを出すには早すぎる。ならば今は無心に、戦いの先にある場所を目指し一心不乱に走り続けるのみ。


/a Hunter


 昨日の一件より後、衛宮切嗣は冬木市北西にある広大な森、通称アインツベルンの森の中にある古城にて一夜を過ごした。

 本来、切嗣はこの城を戦術上使用するつもりはなかったのが、事態が思わぬ方向へと流れたせいでその有用性を認め一時限りの拠点と定める事にした。

 冬木ハイアットホテル強襲の後、言峰綺礼との対峙。ランサーの出現。

 令呪の一画を消費しておきながら、綺礼を討ち取れなかったのはどうしようもない誤算であったが、その他の点においては然したる問題は見つからない。唯一の懸念はランサー、そしてマスターであるケイネスの生死。

 綺礼の乱入により明確な確認を行えず、結果として現れたランサーもまた重傷でありながら生きてはいた。ならば、ケイネスも生存していると考えて動くのは至極当たり前の発想であろう。

 少なくとも昨夜の対峙により綺礼、そしてランサーからケイネスへと切嗣がアーチャーのマスターであるという情報は漏れた筈。綺礼と時臣が繋がっているとすればこちらも同様だが、今のところは気に掛ける必要はない。

 もしケイネスが生き残ったのだとすれば、激憤に身を焦がし、切嗣の影を追い求めるだろう。その迎撃の為の拠点として、切嗣はこの城を選んだ。

 切嗣がアインツベルンに招かれたという情報は十年近くも前のものだが、魔術界隈を俄かに騒がせた風評である事には違いない。
 そして事前にある程度の下調べをしているのなら、切嗣の経歴を辿りアインツベルンを思い浮かべられても何ら不思議ではない。

 この冬木においては遠坂、間桐に並ぶ始まりの御三家の一角たるアインツベルンもまたその所在は知れ渡っている。
 ケイネスが生存し切嗣を追い求めるのならば、まず真っ先に疑うのはこの城。見失った彼らの行方を追う必要はなく、罠を仕掛けて待ち構える戦術こそが上等だ。

 僅かな仮眠の後、切嗣は古城の到るところにトラップを仕掛ける作業に移り、夜を徹して行われた作業は半刻ほど前に終わり、今はサロンにて軽食を取りつつ更なる緻密な迎撃作戦を纏め上げている最中だった。

 問題があるとすればこの森が広大すぎる点か。この城を中心に半径数キロに及ぶ結界は一応の形として機能しているが、切嗣には扱える代物ではない。
 アインツベルン術式で組まれた結界はアイリスフィールの存在があって初めて起動するものだ。そして彼は彼女をこの城に招いてはいない。

 それというのも、アサシンの追跡を警戒した為だ。あの夜目撃した無数のアサシン。あんなヤツらの目が街のそこかしこにあると知った今、容易くアイリスフィールらとコンタクトを取るわけにもいかない。

 彼女の存在は戦闘者としての切嗣にとってのネックになる。警護として舞弥をつけてはいても、サーヴァントが相手では煙に巻く事すら困難だ。
 彼女らに望む理想は後方よりのサポート。切嗣が行えない──余計な力を割けない──情報の収集と監視、そして火急時のバックアップ。

 直接手を汚すのは己唯一人でいい。この身を晒し、注目を集め、一人ずつ刈り取っていくまでの事。
 手段は選ばない。非道に堕ちよう。外道に成り下がろう。その果てに恒久の平和があるのなら、衛宮切嗣は何にだってなれるだろう。

 ──出来うるのなら、そんな自分を愛した人には見て欲しくないから。

 孤独を糧に銃を執る。
 血と硝煙の匂いに身を包んで、約束を果たしに行こう。

「切嗣」

 そんな折、仕事を一つばかり任せていた己が“道具”から声をかけられた。

「こちらは手筈通りに仕掛けを済ませた。しかし……」

「何だ?」

「悪辣だな。あんなものを用意しておくなど、誰も予想だにしていまい。昨夜の一戦にしてもそうだが、正しく手段を選ばないのだな」

 嘲笑のような笑みを向けられてなお切嗣の表情に変化はない。そんな言葉はとうの昔に聞き飽きた。命を奪い取るという結果に際し、手段の優劣など存在しない。決闘で五十人の首を刎ねるのも、地雷で纏めて吹き飛ばすのも同じ結果しか残さないのだから。

「……そういうわりにはおまえも昨日は一つ返事で僕の作戦に同意しただろう。今更になって恐ろしくなったか?」

 むしろ猜疑は当たり前。こんな手段を上等とする殺人者に己が命を預けられる者などそうはいない。
 これ以上突っ掛かって来るのなら無視するか、論破するか……何れにせよ切嗣の心を変えられるだけの光など、この世界には有り得ない。

「いいや、別段マスターの行為に嫌悪はない。もしかしたら私も生前、似たような感情を抱き似たような手段で殺しまわっていたのかもしれないな」

 今度は自嘲。記憶の有無は依然として切嗣には知れなかったが、やはり何かを隠している気配はある。
 しかし露骨な正義感を露にして噛み付いてこないのならそれでいい。面倒を背負い込むほど切嗣の心に余裕はない。

「だが一つだけ聞かせて欲しい。貴方のその手段は一体何に起因する。何故そこまでして聖杯を欲する。悪逆を尽くしてまで願う祈り、その正体を今聞かせて欲しい」

 そういえば、切嗣自身の祈りをこの男には聞かせていなかったと、言われてようやく思い出した。それというのも記憶がないと言って憚らないアーチャーが、自分自身の願いすら忘却しているのなら、互いに交わすべき言葉はないと考えていたからだ。

 別段口にして戸惑われるものではなし、切嗣の祈りと真逆の願いを宿しているようにも見えないのであれば、話す事に躊躇はない。

「この世界は、どうしようもない程に腐っている」

 闘争。決闘。戦争。言葉は変われどその本質は遥か古より一切変わる事がない。人は人と争い、血を流し、嘆きを上げ、悲しみに暮れたところで、また同じ地獄を繰り返す。何度も何度も何度でも。

 全く以って学習しない。戦地にあるものはただの絶望。この世の栄光など何一つとして存在しない地獄の釜。
 その中で武勲を上げ英雄と囃し立てられて喜ぶクズがいて、彼らの足元にはその数百、数千倍の悲しみが埋まっている。

 いつの世も割を食うのは民衆だ。誇りや利益などという下らないものの為に為政者が下す決定はいつでも下々の者を脅かす。
 ただ平穏に暮らせればそれでいいという願いでさえ、そんな小さな幸福でさえ、手に入らない世界に一体どれほどの価値がある。

 流された血は尊くなどない。ただせめて、同じ過ちを繰り返さぬようにする事こそが、散っていった多くの誰かの手向けとなり、手を血で汚した者の責務の筈。
 だが人間は永遠に繰り返す。人が人である限り、その身に流れる獣の血がある限り、永遠に永遠を繰り返す。

 ────そんなものは、断じて認められる筈がない。

 闘争の終焉を。誰もが笑顔で暮らせる平穏の世界を。誰もが夢に見て、決して叶わぬと知る永劫の果て。その奇跡を聖杯に託し、救済の光を世にばら撒く。

 そんな荒唐無稽で有り得ない祈りを抱き、衛宮切嗣は最後の闘争に身を投じた。

「…………」

 切嗣の静かな独白を聞き終えて、アーチャーは視線を上げた。

 果たして切嗣の願望はアーチャーにどう映ったのか。切嗣の語る平穏には、英雄や英霊などという存在は有り得ない。
 唯一人の覇者は必要ではなく、誰もが平等であるからだ。戦場という血生臭い場所で武勲を立て、世に召抱えられるほどになった豪傑も、切嗣の理想とする世界では絶対の敵対者となる。

 英雄の否定。戦場の否定。その中でのみ培われる誇りというものを大切にする騎士達にとって、切嗣の言葉は暴言でさえある。
 ただ、切嗣が見る限りではこのアーチャーという男はそちらの側の者ではない。本当に尊いまでの誇りを宿し騎士道などという信念を謳うのであれば、あんな作戦に一過言もなく加担するとは思えない。

「そんなものが本当にこの世界にあると、心の底から思っているのか?」

 アーチャーの無感情な黒い瞳が切嗣を見据える。濁りきった眼球の奥に灯る小さな火、決して消えない炎を見据えるように。
 そして切嗣の返答は無言であり、しかしその瞳がなお雄弁に語っている。

 ──あって欲しいという祈りではなく、なくてはならないという強迫観念が、鈍色の瞳の奥に燻っていた。

 そうでなければ救われない。この世の誰よりも衛宮切嗣という男が救われない。そんな余りにも滑稽で、けれど純粋な祈りに身命を賭した男の生涯に、その奇跡はなくてはならないものであるのだから。

 アーチャーの表情が歪む。苦虫を噛み潰したかのように顔を顰め視線を逸らす。向けられていたドス黒くも純真な眼差しから目を背けるように。

 その時、無機質な電子音が室内に木霊した。切嗣が懐から携帯電話を取り出すとより音量が高くなり、液晶に映った番号を確認してから耳に当てた。

「僕だ。何かあったか?」

『はい。実は────』



 僅かに時間は遡る。

 ぼんやりと縁側で空を見上げながら、アイリスフィールは僅かに居心地の悪さを感じていた。切嗣がこの屋敷を出払って丸一日が経過している。その間アイリスフィールは切嗣の言の通り舞弥に守られる形でこの家に留まっていた。

 故郷の古城から見ればみすぼらしいと呼んでも差し支えのない屋敷に文句はないし、あの城からでは余り見られなかった透き通るような青空を縁側から見上げるだけで心は満たされる。

 ホムンクルスという特異性から、食事を摂取する必要がない彼女は──冬の城では夫子と共に嗜んではいたが──舞弥の用意する簡素な食料にも不満はなく、むしろ目新しさから好ましいとさえ思っていた。

 ただ……その彼女、久宇舞弥の存在こそがアイリスフィールに一つの影を落としている。

 彼女とアイリスフィールの間には友好な関係もなく、切嗣がアインツベルンに招かれてから何度か顔を合わせた程度でしかない。
 しかも彼女は切嗣と似た性分なのか、必要最低限の言葉しか話さず、暇を持て余したアイリスフィールが話しかけても間が持たない。

 更に今なお居間に鎮座する数多くの電子機器に囲まれた舞弥は昼夜を問わずカタカタと何かを叩いており、唐突にアイリスフィールに話しかけてきたかと思えば少しばかり外出すると言ったきり中々帰ってこないなど、彼女の行動がまるで読めない。

 いや、本当は分かっている。彼女の全ては切嗣の為のものであると。情報の収集からバックアップに到るまでの全てを彼女が負担し、切嗣がより効率よく動ける手筈を整えているのだ。

 それに比べて自分はどうなのだろう、とアイリスフィールは問う。

 聖杯の守り手たる己の出番はまだ先であると理解している。そして今役割があるとするのなら、この場所に潜んでいると悟られない事、切嗣が戻るその時を待つ事であろう。理解はしている。それが己の役割なのだと。

 舞弥がサポートをし、切嗣が敵を駆逐し、アイリスフィールが祈りを叶える。役割分担は明確だ。
 でも、この歯痒さは何なのだろう。この屋敷に最初に訪れたその時に決意した、やれる事を探しても、きっと何も見つからない。

 ただじっと、ただこうして空を見つめ切嗣の無事と勝利を祈る事しか出来ないなんて……

「マダム、少しよろしいですか?」

 堂々巡りにも似た思考の渦に囚われかけていたアイリスフィールを、背後からかけられた舞弥の声が引き戻す。

「ええ、構わないけど。何か用事?」

 無駄話に興じない舞弥が話しかけてくるという事は何かしらの伝達があるか、外出の許可を得るくらいしか思い当たらなかった。

「はい。つい先程、遠坂邸に動きがありました」

「……詳しく話してもらえる?」

「はい。切嗣にも同時に伝えたいと思いますので、電話をかけながらになりますが、構いませんか?」

「うん、大丈夫」

 アイリスフィールの返事を待ってから舞弥は慣れた手付きで携帯電話を操作し耳に押し当てた。数秒のコールの後、切嗣が出る。

『僕だ。何かあったか?』

「はい。実は────」

 アイリスフィールにはどういう仕掛けなのかは分からなかったが舞弥だけでなく切嗣の声もはっきりと聞き取れた。
 無駄な会話もなく舞弥は用件だけを訥々と述べていく。

『…………』

 舞弥が話し終えるのを口を挟まず聞いていた切嗣が嘆息と共に押し黙る。何かしらを考えているようだった。

『舞弥、この展開をどう見る?』

「ライダーとそのマスター、そして幾らか遅れる形で遠坂時臣もまた同じ方角へと向かいました。現在遠坂邸に放っていた使い魔の一匹を遠坂時臣に監視としてつけていますが、やはりそちらに向かっているのは間違いありません」

『それで?』

「玄関口での彼らの問答を微かには聞き取れたのですが、どうにも最初から仕組まれた上での訪問ではなかったようです。ライダーのマスターは恐慌していたようですし、どちらかと言えばライダーの独断かと」

『征服王イスカンダルか。ふん、確かにあの豪放磊落な気性を鑑みれば、それくらいはやってのけても不思議じゃない。
 ただ問題は邸内でどんな会話が交わされたのか。そしてどんな経緯を経て両者はこの森に向かう算段をつけたのかだ』

 そこから先は完全に推測の領域だ。堅固な結界が敷設されている遠坂邸は内部を検めるどころか盗聴さえ不可能だ。
 ならば今現在得られた情報と過去に蓄積された経歴から考えるしかない。

 口火を切ったのは舞弥が先だった。

「ライダー達に関してはやはり不明瞭としか言えません。マスターの様子を考えるに、ライダーの方が主導権を握っていると考えられます。
 先日のアーチャーとの対峙の会話から、それこそ考えなどなくそちらに向かった可能性も否めません」

 こういう輩ははっきり言って面倒極まりない。緻密な計算も明確な算段もなく心の赴くままに行動されては先読みなど出来る筈もない。
 更に面倒なのはライダーにはそんな行動に拠ってなお誇れる力量があるという事。無知で無力な雑魚ではない、歴とした敵である点が拍車をかける。

『そこは同意だ。いや、あの男にもあの男なりの行動の指針はあるのだろうが僕達には理解など出来ないところにあるものだろう。
 そんな奴らに付き合って頭を悩ませるだけ無駄だ。こちらに向かっているのならむしろ都合が良い。用意したトラップは対ロード・エルメロイ用だったが、奴らでも然したる問題はない』

 一拍の後、切嗣は続ける。

『そして遠坂時臣だが、こちらはまだ分かりやすい。ライダーとの間のやり取りまでは分からないが、少なくとも僕とアーチャーを狙う理由は昨日の一件が関係しているだろう。
 ロード・エルメロイの工房をアーチャーが破壊した事から、自らの屋敷も危ういと思い至るのは至極当然。僕が通常の魔術師であれば話は別だが、妙なところで魔術師殺しなんていう異名が役に立った。
 ただ、推測が正しいのなら遠坂も単純だな。危機感を煽り、燻り出されたとも知らずに』

 それは切嗣の狙いの一つでもあった。あれほど豪快に、明快に襲撃を行えば全ての参加者は切嗣とアーチャーに注目を集める事になる。
 工房を突破されたという事実は魔術師にとって捨て置いて良い事態ではない。それも魔術師殺しと呼ばれ手段を選ばない外道がマスターと知れば、自ずと行動は絞られる。

 即ち自らの手による誅罰。魔術師足らんとする誇りに賭けて、自らの安寧を守る為に、絶対の要塞から外へと踏み出す事になる。
 向かって来るのなら周到に準備を済ませた城塞で待ち構え、穴熊を決め込むならば時期を見て同じ措置をアーチャーに行わせるだけの事。

 どちらに転んでも切嗣に損はない。盛大に自らを囮とする、ロード・エルメロイ襲撃の裏に隠されたもう一つの作戦だった。

「でも切嗣。それじゃ貴方が危険すぎるわ」

 これまで黙して耳を傾けていたアイリスフィールが口を挟む。切嗣の作戦に穴があるとすれば、それは多くの敵に同時に付け狙われる可能性。
 現にセイバーとライダーはアインツベルンの森を目指しており、最悪の場合その二騎を同時に相手取らなければならない。

『ああ、アイリ。いたのかい。声が聞こえないからいないのかと思っていた。元気かい?』

 だというのに、切嗣の声音は何時にもなく軽い。まるで恐怖を感じていないような、全てを知ってなお余裕を見せるように。

「切嗣、ちゃんと話を聞いて。本当に、大丈夫なの?」

『ああ。籠城戦の基本はね、僕らは守る方で奴らは攻める方なんだ。その考えは絶対で、余程の事がない限り覆らない。この城を目指して来る奴らは皆こう考えている。自分は狩人で僕らは獲物なんだと。
 だからこそ隙が生まれる。僕はその隙を衝かせて貰うだけさ』

 生物が餌を捕らえようとする時、その一瞬だけは目の前の獲物に全神経を傾け無防備に背中を晒す。
 さながら湖面近くを漂う虫を捕まえようと、水中から睨む魚が狙いを定め飛び出した瞬間を、上空より鳥が狙い撃つように。

 切嗣の行おうとする作戦はそれと同じ。籠城戦、迎撃戦の様相を呈しておいて誰もがそれを疑わない中、その実アーチャーと切嗣にとっては殲滅戦であり奇襲戦だ。

 外道(エモノ)を狩ろうと森に踏み込んだ魔術師(ハンター)は、自らの魔術(ぶそう)を信じて過信する。獲物が牙を研ぎ待ち構えているとは理解していても、獲物の正体は見誤ったまま。
 自らは狩る者と信じて疑わない彼らは気付かない。獲物は獲物ではなく猟犬であり、獣の皮を被った本物の狩人は、その背に刃を突きつける。

 ────彼らがこれより踏み込む森は狩人が狩られる狩猟場。

 千年の妄執が蟠るアインツベルンの森に咲くは血と硝煙の花。魔術師としての矜持など欠片もない、或る一人の男が紡ぐ殺戮劇。

「…………」

 切嗣の言葉を受けて、アイリスフィールは押し黙る。知らず悟る。恐らく、切嗣はそういう戦いを何度も繰り返して来たのだ。アイリスフィールの知らない昔日に、血生臭い闘争の中で、延々と繰り返し繰り返し。

 だからこそ、彼女の心配は余計なお世話。突発的に巻き起こる戦いではなく、入念な準備を行った上での戦いであるのなら、切嗣はきっと負けない。

 きっと今更何を騒ぎ立てたところで切嗣の心は変わらない。ならば、

「分かったわ。でも油断しないで。相手にはサーヴァントもいるのよ」

 せめて、その無事くらいは祈りたい。

『ああ、分かってるよ。じゃあ準備があるからそろそろ切るよアイリ。舞弥、何かあったらすぐに連絡をくれ』

「分かりました」

 舞弥の短い返事と共に、向こうから回線は切断された。

「舞弥さん」

 僅かな沈黙の後、携帯を仕舞いすぐさま次の行動へと移ろうと立ち上がりかけた舞弥にアイリスフィールは声をかけた。
 彼女の表情が何かを思い詰めたような、真摯なものであったからか、舞弥は浮かしかけた腰を再度落とし向き合った。

「舞弥さん、お願いがあるの」

「はい、何でしょう」

「私をアインツベルンの森へ連れて行って」

「な……!」

 決然とした瞳を湛え放たれた言葉に舞弥は珍しくも動揺する。無感情を装っている彼女だが、普段は感情を表に出す必要はないと考えているだけだ。
 喜怒哀楽が欠落しているわけでも、心が冷え切っているわけでもない。ただ仕事をこなす自分を機械として捉えているが故の起伏の無さであり、余りに突飛な言動や突発的な事故に出くわせば人並に感情を露にしてしまう。

 そして今がまさにその時だった。

「お願い舞弥さん。私、やっぱり不安なの。さっきの切嗣はああ言っていたけれど、本当は怖いに決まってる。無理して軽薄を装っているように聞こえたの」

 恐らくはアイリスフィールにしか気付けなかった切嗣の声音に含まれた感情の在り処。切嗣は強い。戦闘という状況が始まってしまえば誰よりも迅速に冷徹に命を刈り取るマシンになれるのだろう。けれどその心は未だ人のままである。

 それは優しさであり弱さでもある。切嗣がもし、本当の意味での機械になれるのだとしたら、心さえも凍てつかせ人としてありとあらゆる機能を停止させられるのであれば、あんな苦悩は抱かなかったに違いない。
 心の脆弱さが、切嗣の唯一の機械としての欠点であり人としての長所でもある。

 しかしこれより臨む闘争はそんな弱さを抱えて挑めるものではない。数多の敵を前に己を晒し挑むその無謀、覚悟に裏打ちされた決意であっても覆らないものがある。

「だから私は助けたい。切嗣を守りたい。足手纏いなのは分かってる。でもあの森なら、私にも出来る事はきっとあるから」

 アインツベルンにより仕掛けられた結界を起動操作出来るのはその血の流れを汲む者だけである。この場に留まり安寧に身を埋め、無事を祈るよりも、現場に立ち夫の傍で支える事をアイリスフィールは強く望んだ。

「マダム、それは無謀です」

 しかし舞弥の返答は冷徹だった。

「確かに、貴女のサポートは切嗣にとって有益に働くかもしれません。しかしそれ以上に貴女は、いえ私達は足手纏いになりかねないのです。
 もしサーヴァントに見つかれば、抵抗する術はありません。私でも貴女でも、一切の攻撃手段は意味を為さず私は殺され貴女は囚われの身となるでしょう。
 そしてその場合、一体誰が一番被害を被るのかは、あえて述べるまでも無い事だと思いますが」

「…………」

 舞弥の分析は的確であり確実だった。冷静に客観的立場から見た感情の挟みこむ余地のない状況観察。そして常に最悪を想定した展望は、生き残る事に長けてきた彼女だからこその思考の結果と言える。

 対するアイリスフィールの言い分は正しく感情の溢れ出した結果としか思えない。言葉を額面通りに受け取るのならば、なるほど切嗣にも利点はある。が、舞弥の指摘のようにリスクが余りに高すぎる。

「何故切嗣が私達をこの場に留めたのか。そしてアインツベルンの城で迎撃作戦を展開すると考えても一切連絡を寄越さなかったのか。その意味を考えて頂きたいのです」

 それはアイリスフィールの無事を案じたからか。切嗣とアーチャーだけで迎え撃てると思い至ったからなのか。あるいはその両方か。
 何れにせよ、カードを持っていながら使う事を選ばなかった意図があるとするのなら、その意志に反した行動は切嗣の綿密な作戦行動にズレを生じさせる元にさえなりかねない。計算により組まれた計画に、不穏分子は必要ない。

 舞弥の言葉は正論で、アイリスフィールには返す言葉さえ見つからなかった。


/Alice in Wonderland


 各々の思惑が錯綜する中……時は否が応にも流れ続け、更なる混沌を巻き起こす戦端の余波は人知れず広がっていった。
 さながら凪いだ湖面へと落とされる一滴の雫が生み出す波紋のように、誰もが理解し得ないままにそれは穏やかだった時間に終わりを告げる。

 そうして広がった波が収束する場所──冬木市郊外に位置する広大な森。管理の一切の手が入っていない原生林は期せずして訪れた訪問者に時折幻を見せると囁かれる。

 曰く──その森の深奥には、あやかしの城があると。

 その確かな存在を知る者は数少ない。魔術師として生き、社会の裏に棲む事を選んだ異端者の更に一部。この聖杯戦争に参加した者達だけがその存在を理解し、相応の覚悟を以って挑む事になる。

 聖杯を頂いた一族。この世の誰よりも深い妄執に囚われたアインツベルンの一族がこの六十年周期の聖杯戦争に臨むに際し使用する拠点。
 広大な鈍色の森の全てを工房と為す、難攻不落の城塞に、今一組の主従が踏み込もうとしていた。

 万全の準備を整えて、サーヴァント足るセイバーを従えた時臣は、ハイヤーを使い片道一時間程飛ばした先の路肩で降りると告げ、怪訝な顔をする運転手に割り増しで金を握らせ暗に『関わるな』と脅しをかけて森の入り口に降り立った。

 暗示をかけるのは容易いが何時解れるとも分からない魔術よりも、現代では金という即物的な魔法は余程に効果がある。
 貴族たる時臣にとってそれは下賎な行為ではあるが、余計な詮索により万に一つでも神秘の露見に関与されるよりは、幾らかマシな手段だった。

 早くもそんな些事は脳裏の一切から消し去って、片手に携えた樫材のステッキを手の中で弄びながら、眼前に広がる森林を一瞥する。
 枝葉には既に緑は無く、土も枯れたかのように色を失っているアインツベルンの森。遠く斜陽に空を染める光さえもこの森には届かない。

 ある種の不気味さを漂わせる灰色の森を見上げながら、時臣はそんな目に映る異常に頓着する事無く更なる向こう側を見据えていた。

「ふむ……一応結界は機能しているようだが、どうにもおかしい」

 時臣が立つ場所は正しく結界の内と外を分かつライン。後一歩踏み込めば中にいるであろうアインツベルンのマスターにその存在を感知される事になるのだが……

 鋭い双眸で森の奥を睨んでいた時臣の視線がやおらある一点に止まり、手にした杖をくるりと回転させながら振り払えば、赤い炎が生じ火球となってその場所に降り注いだ。

 時臣が目をつけた場所にあった一本の木はその一撃で消し炭となり、ボロボロの風体を晒したまま徐々に黒ずんだ幹を風に攫われていった。
 そして時臣は結界のラインを躊躇無く乗り越え、跡形をなくした木の根元のあった地帯に視線を注ぐと、睨んだ通りの結果が残っていた。

「やはり使い魔か。だがおかしいな、結界に侵入した時点で我々の存在は感知出来ると言うのに、こんな場所に監視の目をつける意図が分からない」

 結界にも様々な用途に合わせた種類は存在するが、主に防衛用拠点に張られるもので一般的なものの一つに侵入者を感知するタイプのものがある。
 実際時臣の屋敷にも似たような結界が張られているし、間桐や外来の魔術師についてもこの類の結界は必ず仕掛けている筈だ。

 そしてそれはこのアインツベルンの森も同じであり、その広大さには感服の念さえ抱かざるを得ないが、それだけに違和感を覚えるのだ。
 時臣の見立てでは結界は機能している。魔法陣の位置までは特定できないが、恐らくはこの近くにも幾つか支点としての陣が敷かれている筈。

 だというのに何故使い魔などを仕掛ける必要があるのか。確かにこの場所は冬木市からこの森へと侵入する場合に最も通る確率の高い、言わば正門のような位置づけであるから、監視を強めておいたというのも分からない話ではない。

 が、そんな屁理屈よりももっと簡潔に腑に落ちる案件がある。

「アインツベルンの術者は不在というところかな。フン、買い上げの魔術師では千年の研鑽を体得するに到らなかったという事か」

 衛宮切嗣は元はフリーランスの魔術師であり、そんな輩にこれほどまでの結界を構築する術があるとは到底思えない。
 ならば結界を敷設した者はアインツベルンの縁者でありながら、当該の術式を扱える魔術師は現在この森に駐屯しておらず、件の魔術師殺しだけがサーヴァントと共に隠れ潜んでいると推察する。

 それならば、わざわざ使い魔を放っておいた理由にも得心が行く。結界による感知が出来ないのであれば、目ぼしい場所に使い魔を放っておいて、代わりの監視の目とするしか方法はない。

 時臣は自らにずっと付き纏っていた使い魔の存在を知っている。今ではもう離れたようだが、その使い魔と先ほど焼き払った使い魔は同じに手法によって括られた存在であった事から同じ術者、あるいは関係のある第三者の仕業であると時臣は睨んだ。

 ……何れにせよ既にこの森に踏み込んだ事は向こうに知られている。

 いかなる罠が仕掛けられているか分からないが、ただ踏破するのみ。
 森の深奥にあるとされる古城を目指し、一路、正調の魔術師──遠坂時臣は魔の森へと踏み込んだ。



 同時刻。

 時臣とセイバーに先んじる形で森へと侵入していたソラウとランサーは、怪訝な面持ちで歩を進めていた。

 ソラウもまたこの森に踏み込んだ時点で敵に認識されたものと踏んでいる。だというのにこれまでの道程に一切の罠がなかったのはどういうわけか。
 確かにこの森全体にトラップを張り巡らせるというのは効率が悪すぎる。だが侵入経路と予測進行経路を推察、あるいは限定し幾らかの仕掛けを施すのは定石といえる。

 ランサーがアーチャーのマスターと思しき風貌の男に最後に出会ったのは昨夜未明。その後にこの城に戻りそれから仕掛けを行おうと思ったのなら、時間的に不可能だったのかもしれない。
 あるいはその行程を放棄する事で、拠点である古城の守備を万全にする考えなのかもしれなかったが。

 何れにせよ敵が沈黙を守り続けているというのは不気味であり、同時に警戒を緩める暇がないせいか普段より妙に疲れる心地だった。

「ソラウ様、大丈夫ですか?」

 道らしい道の無い獣道を歩くというのはソラウにとって重労働に近い。ランサーが先行し歩きやすい足場の確保とうねり張っている枝や根を切り払いながら進路を確保してくれてはいるがそれでも慣れない行軍は倦怠感を産み落とす。

「ええ、私の心配は入りません。貴方は敵の襲撃に警戒を強めておいて下さい」

 それでもソラウは気丈に冷徹に最適な判断を下す。

 ソラウにとってはそれで良かった。ただこうして彼と共にいられるのであれば、断崖絶壁であろうと世界最高峰の山の山頂であろうと構わない。
 彼と共にある……たったそれだけの理由で全てが苦にもならない。彼の背中を見ながら敵陣に乗り込んでいる今も、遊歩道で散歩を嗜むように心地良い。

 無論それとは別に冷静に現状を把握している自分もいるのだが、やはり気持ちは抑えきれない。目の前を歩くその背中に、今すぐにでも縋りつきたい。けれど許されない。この闘争は、彼の誇りを取り戻す戦いであるのだ。

 ならばこの心に素直になる為に、今苦悩する彼の胸の蟠りを取り払う事こそが急務。そうすれば少しは心に余裕が出来て、ソラウの方を向いてくれるかもしれない……

 そんな初心なソラウの恋心を察しているのかいないのか、ランサーは彼女の言葉を素直に受け止め周囲への警戒心を一層強めた。

 事前調査と照らし合わせた際に符合した昨夜ランサーの目撃したアーチャーのマスターの風体は彼のアインツベルンに招かれた魔術師殺しと一致した。
 その風評はソラウの耳にも届いており、まともな戦闘魔術に拠らない悪辣外道な手段で数多くの魔術師を死に至らしめた経歴を持つと聞いている。

 ソラウからその情報を聞かされたランサーにすれば、そんな輩の待つ拠点へと優れた才覚は有していても何の防衛手段も持たないソラウを伴って襲撃をかける事に一抹の不安を覚えないでもなかったが、その要因はソラウ自らが取り払ってくれた。

 槍で枯れ木を切り払いながらランサーはちらりと後ろに視線を投げる。足元を注意深く探りながら必死にランサーの後を追って来る彼女は今、洒落た衣服の上に一枚の外套を羽織っている。

 昨夜ソラウに命じられてケイネスの工房へと舞い戻ったランサーが発見した魔術礼装の一つだった。
 ほとんど全ての道具や礼装が使い物にならないくらい粉微塵と粉砕されている中、ケイネス自身が肌身離さず持っていた礼装と、別室に保管されていた今ソラウが羽織るマントと他に幾つかの下級礼装は持ち帰る事が出来たのだ。

 ケイネスの魔術の集大成とも言える礼装は彼自身の魔術回路の起動により発動する仕掛けとなっており、他人では扱えない代物だったが、それ以外の礼装は誰彼を問わず魔力という燃料があれば起動するタイプのものだった。

 そしてソラウが現在羽織っている外套はケイネスが自らの最強の一を作成するに際し、試作段階として考案された礼装の一つ。
 その試作やその後の無数の失敗を経て、ケイネスは月霊髄液なる礼装を完成させた。

 性能面で比べれば明らかに見劣りする代物ではあったが、こと防御面に関しては同等程度の性能を誇るとケイネス自身が語っていた事を思えば、自らの礼装も持たず身を守る術すらないソラウが担う上ではお誂え向きの魔術礼装と言えた。

 が、無論その礼装に頼り切るわけにはいかない。一度として実戦で使用した事のない礼装を扱う心配は元より、相手は魔術師こそを殺害するに長けた外道なのだ。
 なればこそ、ランサーはアーチャーだけでなくマスターの動向にさえ気を払わなければならない。

 目的の遂行、敵サーヴァントの打倒だけを思えば、ソラウを伴わず単独行動の方が余程動きやすいのは確かだったのだが、他ならぬケイネスの命であれば反故にするわけにいかなかった。

 ランサー自身とて承知している。本来、このような命令を彼が下す事は有り得ないと。あのケイネスとソラウの交わりの際に、何らかの取引きめいた会話が為されたのは間違いがないと見ている。
 そして今この現状が、誰の意志によるものであるのかも……

 しかしランサーには最早そんな事は些事である。どんな形にせよケイネスの口より賜れた命であるのなら、ただ無心に遂行するのみ。
 せっかく得られた汚名返上の好機。ソラウを守り抜きサーヴァントに一矢報いるのは並大抵の事ではないと理解している。けれどむしろ、この状況はランサーにとって慣れたものでもあるのだ。

 遠い日の記憶、宴の最中に向けられた愛の告白。苦悩しながらも彼女の手をとった逃避行は、今の状況と何ら変わりなどない。
 戦う術を持たぬグラニア姫を守りながら、襲い来るフィンにより遣わされた数々の歴戦の勇を蹴散らし、友誼ある騎士団の朋友とは一切の矛を交えず逃げ延びてきたのだ。

 その結果としてディルムッドが騎士団に所属していた頃以上の武勇を馳せたというのは皮肉以外の何物でもないが、“守りながらの戦い”に長けた戦闘技術を体得したのも一つの事実である。

 ただ、これより迎え撃つ敵手は彼の騎士団に所属していた朋友と同等か、それ以上の兵達であると心得なければならない。
 その事態を鑑みれば明らかに分が悪い。セイバークラスのサーヴァントを相手取り、なお敵のマスターに気を払う余裕があるのか……

 ──いいや、むしろそのくらいが丁度良い。我が武勲を取り戻す為には、それくらいの難敵を討ち取る以外に方法などないのだから。

 一人決意を固めたランサーは周囲の警戒、ソラウへの配慮を全くの同時に行いながら、顔色の一つも変えずに行軍を続けた。
 ソラウは話の一つもしたかったのだが、余りに真剣な眼差しから彼の決意の程が窺い知れた為、已む無く口を噤みランサーの後を追う事に終始した。

 そして半刻ほどの後にようやく、目的としたものが視界に収まった。

 白塗りの城壁を越えた先に、その城はあった。先ほどまでは居並んでいた枯れた木々の一切は無く、スプーンで抉り取ったかのような広場の中央に、中世の古城を思わせる建造物が雄々しくも聳え立っていた。

 名門貴族の出であるソラウにしてみれば然して驚きに足る建築物ではなかったのだが、その余りにも場違いな威容には呆気に取られてしまった。
 遠坂や間桐でさえ市中にそれほど遜色の無い屋敷を構えている程度であったが、これは明らかにスケールが違う。

 日本の城とは一線を画す西洋の城。こんなものを六十年に一度しか行われない闘争の為にわざわざ丸ごと持って来たなどと、どこの偏執狂のやる事だと思わずにはいられない。
 恐らくは遠坂や間桐と同列に見られる事を嫌い、自らの権力を誇示する為に森ごと買い上げ城ごと持ってきたのだろう。

 貴族主義もここまで行けば感服に値する。

「ランサー、敵の気配はありますか?」

 聳える古城を見上げながらソラウが問う。

「いえ、この距離ではまだ何とも。しかしこれまでの道中に何の罠もなかった事から、この城で待ち構えているのは間違いとないと思われますが」

 既に両手に槍を具現化させたランサーが城内を窺おうと窓に視線を投げるが、暗幕のようなもので覆われており、一切が窺えない。
 何らかの魔術的幻惑を施されているとすれば、気配すらも隠し通すことさえ不可能ではないだろう。

「ならば直接乗り込むしか手段はありませんね」

 肩に掛けたマントを払いながらソラウはランサーを振り仰ぐ。目の下に宿る黒子に目を奪われそうになるのを必死に堪えて、決然とした瞳を見つめた。
 ランサーもまた頷きで以って返し、ソラウを庇うように先行する形で正門の前へと歩みだした。

 敵にこちらの侵入を気取られている以上、奇襲めいた潜入経路から乗り込もうとも効果的な手段とはならない。ならば正々堂々と乗り込んだほうがマシだとばかりに、二人は巨大な門を押し開けた。

 門を超えた先に広がっているのは絢爛なエントランスホールだった。細やかな装飾の施された壁面に、彩として添えられた彫像や花瓶などが気品を損なわせない程度に配置されている。

 手入れの行き届いたそれらを見れば、少なくとも数日の内にこの城を訪れ誰かが清掃を行った可能性を考慮できる。つまり、この場所を拠点と決め、待ち構える算段があったという事だ。

 しかし彼女らを迎え入れたのは無人のエントランスホール。人の気配など微塵も感じられない様は孤城のようだ。しん、と針を通すほどに張り詰めた空気が、やはり何かしらの罠があると思わせる。

「行きます、ランサー。警戒をお願い」

 ランサーの返事を待たず、ソラウは前方にある階段、二階へと繋がる道を見やりながら歩き出し──

「────っ!?」

 ばちん、と何かが弾けるような音と共に、猛然と頭上よりシャンデリアが降り注いだ。

 丁度ソラウがホール中央へと歩を進めた瞬間に降る絢爛豪華な照明器具。けれどそれは油断の欠片もなく警戒に当たっていたランサーの跳躍からの槍の一閃で吹き飛び、壁面へと叩き付けられて砕け散った。

「ソラウ様、お怪我は?」

 軽やかな着地と共に問いかける。と同時に、ランサーは奇妙な風が渦巻いた様子を感知し訝しんだが、

「いえ、問題ありません。それより──」

 ザ、ザザッとノイズのような音がホール全体に走り、音源を探そうと視線を彷徨わせた二人に、反響を持ってその声が言葉を紡いだ。

『ようこそ、アインツベルンの城へ。歓迎しよう』

 その声は妙な声音だった。男とも女ともつかない甲高い声であり、抑揚の無さが一層不気味さを際立てていた。
 彼女らはその道具を知らなかったが、何の事は無いただの変声器による仕業であった。

「何者です、姿を現しなさい」

『ようこそ、とは言ったが私達は聖杯を賭け合い争う関係だ。君達がこの城に乗り込んできた事を思えば、私かあるいはサーヴァントの首級を欲しての事だとは思うが、そう易々とは取らせてやれない。
 そこでだ、一つゲームに興じてみる気はないかな?』

「ゲーム……?」

 ソラウが訝しんだ後に、声はこう続ける。

『私はこの城の何処かに潜んでいる。そして既に気付いているとは思うが、この城は既にトラップハウスに改造してある。
 数多の罠を潜り抜け、見事私の元へと辿り着いたのなら、よろしい、尋常な勝負を受けて立とう。そちらがこちらの素性を解しているのかは知らないが、魔術師の規則に則った決闘に応じる用意があると思って頂きたい』

「…………」

『嫌だと言うのであれば構わない。私はこのまま潜み続け、君達が罠に梃子摺っているその背中を狙い撃たせて貰うだけだからね。
 では、一分間の時間を与えよう。その間に答えを出して頂きたい。私の挑戦を受けるか否か……』

 それきり声は黙し、ソラウ達に思考の猶予を与えたらしい。

「ランサー、どう思いますか?」

「率直に申し上げれば、馬鹿馬鹿しいとしか。しかし、余りにも内容の無い要求にも思えます。受ければ良し、受けなくとも良し。そんな意図が見え見えですから」

「私も同意見です。しかし私達の目的が敵の打倒にある以上は、一度は面と向かって見えなければ話になりません。たとえ話を受けたとしても、背中の警戒を怠ってはいけないと考えます」

「でしょうな。ならば、答えは一つしかないでしょう」

 ソラウとランサーが頷きを交し合った後、再度声がエントランスホールに響き渡る。

『では答えを聞かせて貰おう。私の挑戦を受けるか否か』

「その勝負──受けて立ちましょう」

 ソラウが代表し表明する。どのみち相対さなければ決闘も闘争も行えない。この城に敵が潜んでいると判明した以上、虱潰しで捜索に当たらなければならなかったのだから、その挑戦は受けても何ら問題などない。

 受けた上で敵が卑怯にも背中を撃つ可能性は排除せず、警戒を行い、見事探し当てたのなら尋常な勝負にて決闘を行えばいいだけの話。
 この勝負は初めから、相手は受けるものと考えて発言されたものであろうから。

 ソラウの声明から相手の反応が長らくない。そろそろ彼女らが不審に思い始めた頃、声が返ってくる。

『よろしい。ならば見事この城を踏破して見せるがいい。我が影を求めるのならば』

 その最後に芝居がかった口調で言い残し、ノイズと共に全ての音は掻き消えて、最初の無音のエントランスが戻ってくる。

「では行きましょう、ランサー。先行は貴方に任せます」

「はい、しかしソラウ様も警戒を怠らぬように。貴女は我が使命に賭けてお守り致しますが敵はどんな悪辣な手段に訴えてくるか分かりません」

「承知しています。貴方は貴方の心の思うままに」

 覚悟を決めた仮初の主従が歩み出す。この魔城の何処かに潜む最悪の魔術師殺しの影を求めて。



「──とまあ、大体そんな会話を経て、そろそろ城の奥へと進み出した頃合か」

 現在のアインツベルン城の主──衛宮切嗣はその城より遠く離れた木々の上から、望遠装置で城の状況を観察しつつ嘯いた。

 彼が何故そんな場所にいるのかといえば、全ては作戦の為である。

 元より彼には尋常な手段に拠って果たし合う気など更々なかった。敵がまず間違いなくこの森に踏み込み目指す地点はあの古城であり、その城に己が待ち構えていると思うのは当然の事だ。

 だからこそ切嗣はその裏を掻く。設置式のトラップでまず相手の気を惹き、同時に起動する録音音声を流し相手の敵愾心を煽り立てる。
 あの文言は切嗣を追うのなら、どのみち通らなければならない仮説を並べ立てただけであり、“城内に衛宮切嗣は存在する”と思わせられればそれで充分なのだ。

 ちゃんと聞き届けたのならイエスと答える方が利点が多く、天邪鬼的にノーと答えても問題のない返答を録音しておいてある。
 しかしどちらを選んでもまともな勝負に応じる気などなく、どれだけ城内を捜そうとも切嗣の影すらなく、彼女らは居もしない敵影を求めて魔術的トラップと機械的トラップの蔓延る魔城を延々と彷徨い続ける羽目になる。

 無論、サーヴァントを伴っての行軍である以上、それらで致命的な傷を負わせられる筈はないと承知している。時間が稼げればそれで良く──

「ロード・エルメロイではなくその許嫁のソラウがランサーを伴って現れたのは誤算だったが、まあいい。奴らは暫くは城内捜索に躍起になるしかないのだから」

 本来であればここらでもう一つばかり策を講じて、ランサーとソラウを亡き者にしたいのだが、そうもいかない。
 あの城を目指しているのは彼の者らだけでなく、事前に聞き及んだ遠坂時臣とセイバーの主従、舞弥の調査報告から判明したウェイバー・ベルベットという若輩魔術師とライダーの主従も間もなく迫っている筈なのだ。

 城の仕掛けは対ロード・エルメロイ用に組まれたものであり、ソラウに代わっていても本来の意味を逸してはいないが、あくまで一組の主従を釘付けにする為の仕掛けであり、後の二組には別の罠を用意しなければならなかった。

 しかしそんな時間的猶予は無い。舞弥から知らせを受けたのはつい数時間前の事なのだ。

 その為、他の二組に対してはより直接的な手段にて応じなければならない。別口で用意しておいたもしもの備えが、よもやこんな形で役に立つとは思わなかった。

 しかし──それとは別の問題もある。

 切嗣が現状判明している全ての情報を聞き及び総合した結果、この森に一番最初に乗り込んでくると踏んでいたのはライダー達の筈だった。
 あの飛行宝具があるのなら、大地に縛り付けられた他の主従よりも先んじて乗り込んでくると考えるのは無理の無い事と言える。

 のだが、使い魔の目を以って確認した主従はランサー組とセイバー組のみ。ライダー組は未だ姿すら見せていない。時臣より早くにこちらに向かったと舞弥より報告は受けていたから、よりその行動の不明瞭さに拍車がかかった。

「……これだからあの手の輩は面倒なんだ」

 切嗣が組んだ算段の一つは脆くも崩れ去ったが、戦術というのは成功の上と共に失敗の上にも用意しておくものだ。
 ライダー達が姿を見せないのならばそれでもいい。今迎え撃つべきは──切嗣の覗く望遠装置が丁度捉えたあの主従だ。

「ではお手並み拝見と行こうか、遠坂時臣」

 静かに、魔術師殺しの心が冷えていった。


/Survival Game


 時臣の道程は先行していたソラウ達を追走する形となった。明らかに踏み固められた地面と切り払われた枝や根があれば、誰かが通ったものと推察できて当たり前だ。
 無論衛宮切嗣が仕掛けた罠の可能性も考慮しセイバーに百メートルほど先行させてみたが何の仕掛けもなかったことから、ライダー達が通った道なのかもしれないと考えた。

 『神威の車輪』(ゴルディアス・ホイール)を持つライダーがのらりくらりと徒歩で城を目指したとは考えにくいがどちらでも構わなかった。入り組んだ道なき道を歩くよりも少しでも整地されている場所を歩けば移動距離の短縮と疲労蓄積も随分と避けられる。

 なので迷わずその道を進み、遠く霞む視界の向こうに何やらこの森に相応しくはない建造物の壁が見えてきたところで、

「────っ!」

 耳朶を劈く甲高い音が木霊する。

「セイバー!」

 即座に臨戦態勢を整えた二人の元に、ソレは何の予兆も無く襲い掛かった。

 アーチャーの戦闘方法を理解していたセイバーと時臣はすぐさま音源を特定し、黒騎士は佩びていた剣を抜き払い、正調の魔術師は前面を己が騎士に任せ後退しつつ周囲への警戒を強める。

 時臣が叫びを上げてから僅かに一秒弱。彼らの目の前に現れたるは、唸りを上げ、木々を粉砕し一直線に飛来する漆黒の牙。矢とも剣ともつかぬ姿をした一筋の黒い光が赤い魔力を纏い疾走する。

 居並ぶ全てを膨大な魔力で粉砕し、木っ端微塵と化しながら、標的と定めた二敵を同時に貫かんと蹂躙する。
 迎え撃つセイバーは両手に一本の剣を担い、正面から相対し斬り上げる。黒い光の塊と白き刃とが交錯した瞬間、衝撃が波となって大気を伝わり枯れた木々を大いに揺るがす。

 セイバーの剣に勢いを殺され、矢としての役目を終えたソレは渾身の力により十メートル程の高さまで打ち上げられ、重力の縛りに従い地に落ちるものと二人は了解し、更なる追撃を警戒した瞬間────

 その落下の最中に、ぐん、と自動的に矢はセイバーの方へと向き直り、推進装置でもあるかのような有り得ない加速を以って再度標的を貫かんと降り注いだ。

「なに────!?」

 その光景を目の当たりにした時臣は知らず声を上げ、常軌を逸した行いを為した矢に目を奪われた。

 ────赤原猟犬(フルンディング)

 とある叙事詩に名を残す、振るわれたその剣は決して標的を外す事はないとされる逸話の具現。
 幾度躱されようとも、弾かれようとも、防がれようとも。この剣は標的が生きている限り永遠に狙い続ける。逃れる術は唯一つ。殺されるよりも先に、剣の射手を殺害するしか方法は無い。

 猛然と襲い掛かってくるフルンディングの由来や能力について、看破する時間などセイバーと時臣にはなく、ただただ迎撃する以外に方法はなかった。
 迫り来た矢をセイバーは再度斬り払い、けれど再びセイバーへと穂先を向けた黒塗りの矢を視界に収め、このままいたちごっこの様相を呈するわけにいかないと決断する。

 三度襲い来る矢を、今度は叩き落す形でセイバーは迎撃する。地面へと突き刺さったソレが蠢き、再度矢としての力を取り戻し牙を剥く刹那に、セイバーは屈み込み己が手で掴み上げる。

 さすれば矢を覆っていた膨大な魔力が瞬時に霧散し、代わりにセイバーの掌より滲み出た黒き魔力が矢を覆い始める。
 宝具の簒奪。手にしたいかなる武器も己のものとする異能により、射手の有無すら関係なく黒き牙は沈黙した。

 ────しかし。気を休める間など有り得なかった。

 セイバーがフルンディングに掛かり切りになっている間に、更なる魔力を充填された第二射が金切音を伴って飛来する。既に惨状を残す直進路を寸分違わず飛行し、先の一矢よりなお高い速度で以って接近する。

 思考の猶予などまるで無い連続射撃。セイバーの攻め手の一切を封殺され、距離的にも手の出しようもない戦場を築き上げた時点で、時臣は己が軽率さを呪った。

「ちぃ──セイバー、今は迎撃を……!?」

 そして無論、その存在を忘却する程に注目を集めたアーチャーの狙撃の裏側で、魔術師殺しは己が標的に静かに照準を合わせている。
 時臣が声をあげ振り仰いだその目の端に、微かに止まった僅かな光。淡い光しか差し込まない薄暗い森の中で、遥か遠方にある黒光りする銃口より、一発の弾丸が寸分の狂い無く撃ち出される。

 切嗣とアーチャーによる交錯狙撃(クロスファイア)

 セイバーはアーチャーの放った矢に手を割かざるをえず、時臣もまたアーチャーに注目しているこの瞬間。アーチャーの第二射に合わせる形で放たれた狙撃銃の凶弾が、木々の隙間を縫い狩人のつもりで森に入った獲物を刈り取らんと大気を斬り裂く。

 着弾予測は完璧に同じタイミング。示し合わせたかのような精密射撃でセイバーにはアーチャーの矢が、時臣には切嗣の弾丸が迫り来る。
 セイバーは看破する。僅かに空気を揺らした発射音を聞き取り、けれど時臣に伝える余裕など有り得ない。そちらに気を割き目前に迫った砲弾よりもなお悪辣な一矢を迎撃し損なえば、それこそ時臣へのダメージは計り知れない。

 故にセイバーは賭ける。己がマスターの力量に。セイバーのクラスを招来した魔術師の経験に。

 アーチャーの放った矢の余りの騒音に紛れ、セイバーのようにサーヴァントとして強化された聴覚を持たない時臣には切嗣の発砲音を聞き取れた筈も無い。
 故に切嗣の放った銃弾は間違いなく時臣を貫通する──そう思われた刹那に、時臣と切嗣とを結ぶ射線上に一枚の炎の壁が顕現した。

 セイバーにアーチャーよりの守りを全面的に任せていた間、時臣とてただ無駄に驚愕に目を見開いていたわけではない。闘争の火蓋が切られた瞬間より彼の身に刻まれた魔術刻印は高く回転数を上げ続け、己が身を守る術を起動していた。

 セイバーがアーチャーの第二射を手にした二刀で迎撃し大地すら震わせる衝撃波を生み出したその時に、同じく時臣を照準していた弾丸も一直線に飛来し、射線上にあった炎の渦へと飲み込まれる。

 その炎に触れた瞬間、否──迫ったその時には既に、鋼鉄の弾丸は融解を始めていた。超高温の炎に突っ込んだその時にはもう標的を貫くだけの殺傷力など見る影もなく、弾頭から見る見る内に溶かされ、全てを炎に喰らい尽くされた一発の銃弾は、標的に到達する事無く跡形もなく赤き焔の中で消え失せた。

 劫炎と燃え盛る焔の障壁。ありとあらゆる全てを灰燼と帰す、灼熱の魔術。時臣の手にするステッキに象眼された極大のルビーより自動的に呼び起こされた炎の術式は、近代兵器に拠った切嗣の暗殺術を封殺してのけた。

「は────」

 ようやく息つく暇を得た時臣が優雅さを取り戻そうと息を吸い、吐くと同時に、今度はあらぬ方向より巨大な岩塊が現れた。
 いや、それは一台のタンクローリーだった。切嗣が都市ゲリラ用に用意しておいた遠隔操作の可能な巡航ミサイル。

 籠城を決め込んだ遠坂邸や間桐邸への最終手段として用意していたものだが、アーチャーという手駒を得た今の切嗣には不要な代物であった事から、今回の作戦の為にわざわざ隣町より運び込んだものだった。

 そもそもの話、火を属性とする時臣を暗殺するに際し、鉛玉を主武装とする切嗣が、何の保険もかけていない筈が無い。先の銃弾は防がれるものとして放ったものであり、切嗣にはその程度しか手段はないと思わせる策。
 安堵をついたその隙を衝く形で“燃やし尽くせない”ほど大質量の“弾丸”をぶつける事こそ切嗣の大本命。

 稀代の暗殺者の策は功を奏す。

 突如として現れたその威容には、異常には誰しもが目を奪われる。奮然と木々を薙ぎ倒しながら時速百二十オーバーで迫り来る圧倒的威圧感には、さしもの時臣でさえ狼狽せざるを得ない。

 滅茶苦茶だ。こんなもの、魔術師の闘争どころか人の戦いですらない。完全なまでのテロ行為。たった一人の人間相手に、こんな代物まで持ち出す切嗣のイカれた思考回路は、時臣には全く理解出来なかった。

 何れにせよ、迎え撃たねばやられる。そうして杖を振り翳し先に生じさせた炎を火球と化してぶつようとしたところで思い留まった。時臣の得意とする属性である炎をあのタンクローリーにぶつければ、まず間違いなくガソリンに引火し爆発を引き起こす。

 それにあのタンクの中身は同じくガソリンか、それに準じる可燃性の液体が搭載されていると勘繰るのは容易い。ここで咄嗟の判断で炎を振るうは相手の思う壺。自らさえ巻き込み暴発させるのがヤツの狙いである筈なのだから。

 ならば。

「────セイバー!」

 打つ手をなくした時臣の面前に、黒い背中が立つ。手にするはアーチャーより奪い取った二本の剣。猛スピードで爆走するタンクローリーを両断せんと前に立つ。

 しかし切嗣の手の中には車内に仕掛けられた爆薬を遠隔起動させる装置がある。このスイッチを押せば、瞬きの間にタンクローリーを基点とする一帯を爆発と炎が包む。

 仕掛けを作動させようとしたその時に、切嗣はセイバーの行った異様に目を奪われた。あろうことか黒騎士は手にした剣を大地に突き刺し無手で暴走車と向き合ったのだ。

 セイバーの剣技であれば容易く斬り伏せられる筈のものを前に、セイバーがわざわざ剣を捨て去った理由に思い至らず時臣が困惑を露にした時──

「失礼」

 声を音と聞き、わけも分からぬままセイバーに抱えられた時臣は、自分が空中にいるのだと理解した時に、ようやく己がサーヴァントの思惑に得心が行き、そして感嘆を交えた吐息を零した。

 華麗な跳躍から暴走するタンクローリーの上への着地。つい先程まで彼らが居た場所を突っ走った車体の上部にセイバーが触れれば、無軌道に暴れ狂っていた機械物が一つの意志を得る。

 シルバーだったボディが今やセイバーより漏れ出した黒き魔力の恩恵に与り漆黒に塗り潰され、ヘッドライトが生物の目のように煌々と光を放ち、その背に乗せた騎乗者の傀儡と化した。



「おいおい冗談だろ……」

 流石に切嗣とてその異様には驚愕せざるを得なかった。

 手筈の全てが致命傷を与えられなかっただけに留まらず、質量と相性の関係で時臣には迎撃不可のタンクローリーを持ち出したというのに、ただ単純に破壊されるどころかセイバーに奪い取られるなどとは想像すらしなかった。

 しかし切嗣には呆けている時間などなかった。狩る立場にあった彼へと爆走してくる黒い車体は、明らかにこちらの位置を把握してのものだ。
 あのセイバーの力量を見誤ったのは間違いの無い失策であったが、今はそんな事を考えている猶予などない。

 逃げ惑うのは不可能。時速百キロを超える暴走車から人間の足で逃げ切れる筈も無い。固有時制御を使ったとしても同じだろう。
 ならば迎撃の一手。セイバーに全ての制御を奪われた状態では爆薬も起動しない。ならば手にした狙撃銃でタンクを狙えば、そこから引火し少なくともあの足は止められる。

 スコープを覗く切嗣の視界にはセイバーも時臣も映らない。一直線に向かい来る巨体の側面、搭載されたタンクに狙いを付けて、発砲。
 その質量から小回りの効かない大型車には避けようもない弾速で撃ち出された弾丸が、見事タンクを捉え──弾かれた。

「……!?」

 セイバーのステータスは時臣以外のマスターには隠蔽されている。宝具は言うに及ばず基礎能力値すら正確な数値を垣間見れない。
 その特性……本来ならば一度目にすれば数値化される情報群を推し量るしかなかった他のマスターにはその異常が正しく理解できなかった。

 即ちセイバーの第一宝具──騎士は徒手にて死せず(ナイト・オブ・オーナー)

 その真の能力は手にしたものを己の武具とし制御化に置くだけではなく“宝具としての属性を帯びる”という一点に集約される。
 英霊が手にすればペーパーナイフすら凶器となりえるのとはまた違い、宝具というカテゴリーに分類されるという事は、通常の攻撃手段に拠ったものでは一切のダメージを与えられないという事。

 ただ担い手となるのではなく、その一瞬、セイバーが触れている間は正しく最優の騎士の佩びる宝具と化すのだ。

 理解していたつもりであっても、決定的に不理解だったセイバーの宝具に対する認識にけれど切嗣の焦燥は長くは続かなかった。
 耳朶を擦過する金切音は、己がサーヴァントの狙撃音。視認すら難しい超速の矢が、再三セイバーと時臣に狙いを付ける。

 セイバーが迎撃する為には車体に触れている掌を離さなければならない。でなければ、無理な体勢且つ片腕でアーチャーの狙撃を止めなければならないからだ。
 即座に立ち上がったセイバーは己が剣を手に目前にまで迫った矢を打ち払う。だがその好機を、彼の暗殺者が逃す筈もない。

 一瞬とはいえセイバーの手元より離れたタンクローリーは、覆われていた魔力を霧散していき白銀の車体を露にする。刹那の間隙、未だ黒く蟠る魔力の部分ではなく、地金を露呈した箇所に照準を合わせ、再度狙撃銃の引き金が撃ち落された。

 甲高い音と共にボディに弾丸が突き刺さり、熱を帯びた弾丸と穿孔を促す瞬間に生じた火花とが、溢れ出した液体に引火し、連鎖的に液体の中を火種が走り抜け、膨大な爆発を巻き起こした。

 静寂に閉ざされたアインツベルンの森に咲く巨大な火の花。黒々とした猛煙と煌々と爆ぜる赤い焔。街中で起これば大惨事になりかねない惨状が、たった二人の異端者を包み込んで燃え上がっていた。

「……アーチャー、戻れ」

 インコムに語りかければ短い了承の声が聞こえた。僅か数十メートル先に咲き誇る絢爛な爆炎を前に、けれど切嗣は一切の手応えを感じ取っていなかった。

 タンクローリーを差し向けた際、時臣が手を拱いたのはその圧倒的質量の前に、炎では壁としての役割を果たせないと見て取ったからだ。
 切嗣の弾丸を防いだ時と同じ手段で壁を構築していれば、炎が全てを溶かし尽くすその前に、車体は炎を突破し時臣に激突していただろう。

 いかに超高温の炎を操れようと、その壁には物理的な障壁は存在しない。先の弾丸はただ単純に突破される前に燃やし尽くされただけの話であり、燃やし尽くせない程の大質量の物体を前にしては風前の灯火のように効果を為さないのだ。

 あるいはそれだけの質量を持つ物体さえ灰燼に帰す呪文ともなれば、長大な詠唱が必要不可欠になる。せいぜいが二工程(ダブルアクション)ほどしか紡ぐ時間のない刹那ともなれば、無理からぬ話だろう。

 だが相手が単純な炎、爆発の類であれば話は別だ。

 轟々と燃え盛る炎の中心、その場所に二つの影を見て取った。自らとその従者を炎の球体で覆い隠し、外側より迫る焔の一切を遮断して、悠然にして泰然とした歩みで爆心地よりその姿を現す。
 杖の一振りで身を覆っていた炎の術式を解除した彼らの身には、火傷の一つも有り得なかった。

「…………」

 遠坂時臣という魔術師について、切嗣は認識を改めざるをえなかった。

 セイバー自身の類稀な能力もさることながら、その能力を余さず引き出し、且つ有用に活用できるだけの頭がある。
 経歴を洗った結果から、それほど才覚に恵まれた人物ではないようだったが、なるほどその地位に座すだけの度胸と経験、そして咄嗟の機転も有している。

 これまで切嗣が殺めてきた魔術師の中にも同程度の魔術師がいなかったわけではない。いや、封印指定や外道の輩はもっと悪辣な手段に訴えそれこそ自らが生き残る為ならば他者を何人犠牲にしてでも難を逃れようとしてきた。

 そしてそんな輩を刈り取ってきた男こそ、魔術師殺しの異名を持つ衛宮切嗣。

 だがこの男は、遠坂時臣は魔術師という枠組の中にありながら、スタンダードの力を持ちながらに切嗣に拮抗できる実力がある。
 そういう輩相手には、外法に頼った戦術突破は通用しない。何よりも、あのセイバーのサーヴァントを侍らせている限り、アーチャーの狙撃も切嗣の暗殺術も決定的な効果を為すまい。

 ならば、取るべき手段は唯一つ。あの手の輩が好む正面切っての決闘にて討ち取るまでの事。無論、体裁を繕うだけの事ではあるが。

 ──いいだろう、遠坂時臣。貴様とは、一対一の戦いで決着を着けよう。

 望むべからざる闘争なれど、避けては通れぬ戦いであれば、切嗣もまた身に刻んだ魔術師としての業に従いその場所に姿を現す。



 実際のところ、時臣はかなり肝を冷やしたと言わざるを得ない。

 セイバーのタンクローリーまで支配下に置く能力は埒外であり、切嗣の狙撃も全てを悟った上での迎撃ではなく予め起動させていた迎撃用の術式が功を奏しただけだ。
 切嗣にもう一手、何かしらの外道な策があったのならば、今度こそ時臣は覚悟を決めなければならなかったかもしれない。

 だがそれはただの偶然ではなく、切嗣自らが招いた失策であり時臣が引き寄せた幸運でもある。もしこの森に事前にランサー組が侵入していなければ、切嗣の策の全てが彼らの身を襲う羽目になっていたのだから。

 何れにせよ、時臣は切嗣の奇襲に耐え切った。この後の展開を慮るのなら、選べる選択肢はそう多くはない。一時撤退しての作戦の練り直しか、姿を見せての決闘か……

 俄然勢いを増す炎が弾け、時臣らの後方で二次三次爆発を繰り返す。濛々と上がる煙を誰かに見咎められれば山火事かと見紛われてしまいかねないが、一応の形として機能しているアインツベルンの結界が遮断してくれるだろう。

 パチパチと火の爆ぜる音を耳に聴きながら、時臣はその場所に視線を向けた。灰色の木へと火が燃え移り、地面へと倒れ伏していくその後ろから、二人の男が姿を現す。

 一人は煤けたコートを羽織り、手入れの行き届いていない無精髭を伸ばしたまま、実年齢より明らかに強張った顔つきをして、手には黒い銃身を担う男。
 一人は赤い外套を纏い、銀がかった髪色をした男。その存在、明らかな気配の違いが、傍らにある黒騎士と同位の存在であるとまざまざと見せ付けている。

 そしてその二人に共通しているのは、瞳。黒く深く。この世の何者よりも深い絶望に囚われた色をした二対の瞳が、射抜くように時臣達を睨んでいた。

「大層な出迎えだな、アインツベルン。いいや、君はその家督を継ぐに値しない男だろうから、あえてこう言おう。
 悪辣だな、衛宮切嗣。魔術師殺しの戦いとは、こんなにも卑怯なものなのか?」

 時臣のように魔術を絶対と信奉する男にしてみれば、こんな戦いは戦いですらない。魔術の誇りと研鑽をただの手段に貶めて、全てを履き違えた堕ちたる者。
 その存在自体が許してはならないものだ。一歩間違えれば神秘の秘匿の禁則にかかりかねないド派手な戦術は、この地を預かる者として──否、一魔術師として誅罰を下すべき外道である。

「だがまあ、こうして姿を見せた事は評価しよう。それとも、もう仕掛けるだけの策略は全て使い果たしてしまい出て来ざるをえなくなったのか?」

「…………」

 切嗣は答えない。手にした銃身は微動だにせず、けれど刹那の間に時臣を狙い撃てると語っている。時臣もまた杖を握り締め、これより行われる本来あるべき魔術師の闘争に思いを馳せる。

 外道衛宮切嗣の全てを封殺した後に、全てを焼き尽くす炎を以ってその存在こそを消去する。道を外れた者にかける情けなどない。悪に堕ちたる者は何度でも同じ手段を繰り返し貶める。それが故の悪だ。

 なればこそ、その戻れぬ道を終わらせる事こそが慈悲。貴様が自らを戒められない愚者ならば、正調なる我が手で戒めを施そう──

 その場にいた誰しもが戦いの予兆を理解し、枯れ木の崩れ落ちる音ともに弾け出そうとした瞬間、あらぬ方向より響いた轟音が、彼らの意識を釘付けにした。

 木々を伐採し、大地を蹂躙し、力強くも踏み締めた神牛を先頭に、一台の戦車が姿を見せる。豪壮なる出で立ちの神の騎乗車は、雷神を纏いながらに疾走し、切嗣らと時臣らの丁度中心にて、制止した。

「おうおう、やっとるな。ほう? 貴様も来とったのか、赤いの」

 ライダーが赤いの呼ばわりした者は遠坂時臣であったのだろうが、当の本人は誰の事だと言わんばかりに顔を顰めた。むしろこの場に悠然と滑り込んで来たこの男のおよそ思慮の外の行動に呆けていたのかもしれない。

「ばっ、おま、オマエまたこんなところにっ! なんだってわざわざ敵の、しかも睨みあってる連中のど真ん中に乗り込むんだよぉぉぉ! もう少し考えて行動しやがれぇ!!」

「だってよぉ、今にもこやつら戦いを始めようとしていたからして、その前に問うておかねばならない事があるだろう」

「な、なに……?」

 もはや完全に周りを置き去りにして勝手に話を進めるライダーとウェイバーの奇行を残った二組の誰もが奇異なる目で見やっているとは、当該の者達は気付いていなかった。
 そしてライダーの次なる一言こそ、状況をよりわけのわからない方向へと誘ったのは、間違いの無い事である。

「──さて、では問おう。セイバーにアーチャー、貴様ら、我が軍門に下る気はないか?」

「なぁ……!?」

 ライダーの奇行にも大分慣れたと思っていたウェイバーも、これには驚愕せざるを得なかった。この男がそんな戯言を本気で言っていたのは知っている。だが、何故よりにもよってこの場所、このタイミングなのだ。

 理性ある者が聞けば耳を疑う妄言をよもやこの一触即発の状況下、しかもその両者に挟まれた位置で謳うなど。ウェイバーはライダーの正気を疑い御者台の上に立ち上がった巨躯を見上げる。

 その面貌、その双眸は到って正気の光を宿しており、なお獰猛な笑みを浮かべている。心の底から、本気の本気でライダーは先の言葉を口にし、手に入れられるものと疑っていないのだ。

「クック、流石は征服王。王足る者、冗句も一流というヤツですかな?」

「…………」

「…………」

「…………」

 時臣を除く三名は呆れるやら何やらで言葉すら発さなかった。だが逆に、その静寂、その冷たい視線から本人が思い描いていた状況とは違う結果になりそうだとようやく悟ったライダーが冷や汗を浮かべ嘯いた。

「待遇は、応相談だが?」

 もはや語る言葉はないと四人の失笑を受けて、ライダーは顎鬚をぼりぼりと掻いた。

「馬鹿な。何故だッ!?」

「当たり前だッ、このすかぽんたんっ!!」

 ウェイバーの力なきツッコミすらライダーにとっては衝撃だったに違いない。自信満々だった表情が、今や困惑の色に染まっているのだから。

「何故だ坊主! こんな破格の好条件など世の何処を探しても見つかるまい!?」

「どの口がそんなバカな事をのたまうんだよ! ああもう、オマエやっぱりバカだ! ただのバカだっ!!」

 ギャーギャーと喚き出し、既に先程までの剣呑だった雰囲気は打ち消され、何処かへと霧散していた。ただその状況下にあっても、一人冷やかな思考を廻し続ける男がいた。

 視線を素早く滑らせる。ライダーとウェイバーはもはや眼中になく、時臣もまた妙な笑みを浮かべて成り行きを見守っている。ただセイバーだけが、全体を俯瞰するようにスリットの奥で瞳をギラつかせていたが、その程度ならば問題はない。

 未だ続く喧騒の渦の只中へと、切嗣はコートの裏に仕舞いこんでいた発煙筒と閃光弾を放り投げ、後退しつつ更に炎の爆ぜる地点へと手榴弾を投げ込んだ。

 一瞬の内に起こる煙と閃光、そして爆発の三重奏。

 即座に察知したセイバーとライダーは主を庇うように立ち、マスターらは状況に追われるまま。その隙を衝いて、切嗣は倍速を施した身体能力を以って、アーチャーは霊体となり灰色の森の奥へと姿を消した。



 逃げ去りながら、切嗣は内心舌打ちをする。

 この状況、全てが切嗣の思惑の通りに進んでいない。狩人を刈り取る筈の猟犬が、あろう事か翻弄される羽目になっているなどと。
 だが、まあいい。切嗣の離脱により時臣とウェイバーらは何かしらの進展がある筈だ。戦い潰し合えば良し。撤退するのならばそれはそれで構わない。

 少しばかり焦りすぎていたのかもしれない。一匹ずつ刈り取れば良いものを、欲を出しすぎた。冷静になれ。冷徹になりきれ。機械の心を取り戻せ。衛宮切嗣の戦いは、こんなものではない筈だ。

 充分すぎるほど距離を取った場所で術を解除し、体内で暴れ狂う反動を噛み殺しながら草葉の陰に蹲る。この痛みだけはどれだけ酷使しようとも慣れない。
 呼吸を落ち着けるのに数分ばかりの時間を要し、額に浮かんだ玉の汗を拭い去った後、居る筈の男に話しかけた。

「アーチャー。周囲への警戒を怠らず、出来る限り仔細に奴らの状況を報告しろ」

『了解した』

 アーチャーの鷹の眼であれば、この距離からでも鮮明に時臣達の様子が窺える。間もなく晴れた視界の先で、更なる状況変化が起こっている事を切嗣へと伝えると、僅かな黙考の後に次なる一手を呼び起こした。

 切嗣の見据える視線の先にあるのはアインツベルンの古城。時臣との戦闘、ライダーの登場により乱れた場からの撤退。そして状況観察。そろそろあの城に捕えた連中も訝しんで良い頃合だ。

 本来であればこのままあちらの状況へと干渉したいところだったが、ランサー達を捨て置いてはまた余計な邪魔立てをされかねない。
 ならばここは明確に切嗣を敵視しているであろう輩を誘い出し、一対一で素早く葬り去った後に、残った奴らを刈り取るしかない。

 昏迷を極めるアインツベルンの森での死闘に際し、切嗣が残した策は数少ない。ならば後は、己が身を晒しての直接的接触で蹴散らすまでの事。

「アーチャー」

 言葉をかけるのと同時。切嗣は城の到るところに仕掛けておいた爆薬を同時起動し、さながら爆破解体(デモリッション)の様相で由緒ある城を崩落させた。
 遥か遠雷のように響く轟音。濛々と立ち昇る白煙を望みながら、この場での最後の策を口にする。

「ランサーを誘い出せ。倒せとは言わない、その隙に僕がソラウを捕える」

 ソラウはまだ殺せない。ケイネスの生死は不明ながら、その情報を完全に確認するまでは生け捕りにしておくべきだ。
 ケイネスが既に死んでいるのなら──ソラウ自身が令呪を宿していれば──そのまま始末すればいい。ケイネスが生きている可能性があるのなら、ランサー共々捕虜として扱わせて貰うまで。

 霊体のまま古城の方角へを向かったアーチャーの気配を視線で追った後、動悸の治まった心臓を抑え付けて、切嗣は独り──更なる闘争の場を目指した。


/Origin


 切嗣の奇策により荒れ果てた場が収束する。ライダー、セイバー共に白煙の中で動かず備に周囲を警戒した後、風に連れ去られた煙が晴れた頃合に、改めて彼らは向き合った。

「何だよ、一体……」

 突然の閃光に少しばかり目をやられたウェイバーが薄くだけ開けた瞳で状況の観察に努めようと左右を見る。
 未だ爆ぜ続けている炎。立ち位置は変わらずライダーの戦車の上。ただ右方、先程までアーチャーとそのマスターが居た場所からは、完全に人影が消え失せていた。

「逃げたか。まあ、妥当な判断だろうな」

 時臣が頷きながらに呟く。そもあの男の戦法は奇襲奇策暗殺の類だ。焦れてか、時臣の前に姿を見せはしたがあれもまた何かよからぬ策謀の為の布石であったに違いない。
 そんな場所に不確定要素たるライダーが泰然と現れれば、一度退いて様子を窺うのは上策だろう。如何なる時も冷静であるのは評価に値するが、尻尾を巻いて逃げ出したという事実には違いない。

「セイバー、警戒を怠るなよ。あの男は何処から狙ってくるか分からないからな」

「ええ」

 セイバーの承知の声を聞き、時臣もまた手にしたステッキからいつでも術式を起動できるように布石を打っておく。
 そしてまずは、この目の前の男をどうにかしなければなるまい。

「ちぃ、アーチャーのヤツめ。碌に話も聞かずに消えおって。まあいい、おいセイバー、もう一度訊くが、余の軍門に下らんか? 無論、ランサーとの決着はしっかりと果たさせてやるからな」

 隣に座っているウェイバーはもう呆れ果ててこの男の好きなようにさせておこうと悟りを開いた。とりあえず、安全を確保できるのならそれでいい。この男もその辺りは惚けているようでしっかりしているのだから。

「戯言だな。私が貴方に仕える理由がない」

「そうか? どうにも貴様、その主に満足しとらんように見えるんだが?」

 その言葉に反応したのは他ならぬ時臣だ。ライダーの姦計かとも疑ったが、そんな小細工を弄するような気性の男ではない。
 ならば一体、その王の瞳にセイバーの何を映したのか。

「下らない。私は特に不自由はしていない。充分すぎる程に魔力は頂いているし、主の魔術師としての格も充分以上。この戦に参戦しているサーヴァントの中で見れば、私ほど恵まれている者もいないと思うが」

 格だけで見れば彼のロード・エルメロイも同等かそれ以上だが、如何せんあの主従はマスターとサーヴァントの仲が悪すぎる。それに比べればセイバーと時臣は別段諍いもなく主従という形を貫けていると言えるだろう。

「そういう事を言っとるんじゃないんだがなぁ。なぁセイバー、貴様、騎士だろう? 生前仕えていた王に何かしらの未練があるんじゃないのか」

「……何故そんな事が貴様に言える?」

「そこな魔術師の家でも思ったんだがな、貴様、必要以上にソイツにも干渉せんだろ。ただ粛々と役目を果たすだけ。サーヴァントとして仕えているだけだ。
 だが貴様の本心、騎士の心はそこにあらず。あの時余はちょいとからかい混じりにソイツを挑発してしまったが、最後まで貴様は姿を見せなかった。
 心魂からソイツに仕えていたのならば、主を虚仮にされて黙っておられんだろうに。それが騎士の心意気というものだ」

「…………」

 忠誠、という言葉にも幾通りの解釈がある。

 確かに、セイバーは時臣を己がマスターと認めその手足として幾度も戦いの中に身を置いた。だがそれは、与えられた役目であるからに過ぎない。
 サーヴァントという在り方を貫く一つの忠義。だがそれは、果たして生前の己と全く同じ忠誠心なのだろうか。

 少なくとも、セイバーは時臣にいらぬ干渉をして欲しいとは思っていないし、時臣もまたセイバーに対し下らない煩悶の胸の内を明かして欲しいなどとは思っていない事も承知している。

 彼らの関係は厳然たるマスターとサーヴァントの関係だ。最強の騎士と最高の魔術師。聖杯戦争に臨むパートナーとしての在り方が第一であり、信頼すべきは各々の能力のみ。心からの理解を、どちらともに望んでなどいなかった。

 それは決定的な軋轢になりかねない一つの不安要素。時臣は己が策謀の為、セイバーは己が煩悶の為。気付いていながら無視し合う……何処までも冷たい関係が二人を繋ぐ利害の一致。

 それを目の前の男、ライダーは見抜いた。セイバーが心より仕えるべきはそこな魔術師などではなく──この王を冠するイスカンダルなのだと。

「マスター、あのサーヴァントと少しばかり話がしたいのですが」

 ふむ、と丁寧に整えられた顎鬚を弄びながらに時臣は思案する。

 その時、大地を揺るがす程の大崩落が彼方で起きる。木々に覆われたその向こう、微かに霞んでいた城の遠景が、徐々に形を失くして崩れていく。
 あからさまな手法にうんざりとした時臣だったが、あんな事をする程の意味を勘繰るよりも先に、切嗣の目が別の何かへと向いたのは間違いの無い事であった。

「いいだろう。だが忘れるな、君のマスターはこの私だ」

「ええ、理解しています。あの男の戯言に乗るつもりなどありませんから。ただ、少しばかり興味が湧いた、というだけですので」

「分かっているのならば好きにするといい。私は私で、少々不快な思いをしていてね。覗き見をする“蟲”には、罰を下してやらねばなるまい」

 それとなくセイバーは気配を探る。なるほど、と己が不肖を呪う。ライダーの甘言に思案を囚われている間に、邪なる者が接近していたようだ。
 そしてその存在を同じく理解したが為に、件の魔術師殺しはこの場への介入を拒絶した。

「お気をつけ下さい。気配はないようですが、アレにもまたサーヴァントがありましょう」

「ああ。もしもの場合は令呪に訴えるつもりでいる。まあアレが、私との対峙に余計な邪魔を差し挟むとは思えないがね」

「おおい貴様ら。何をこそこそと話をしておる」

 ライダーの野太い声を聞きながら、セイバーは一歩前へと歩み出る。

「ライダー、場所を移したいのだが?」

 鞘込めのままの剣で肩を叩きながら黒騎士の見えもしない瞳を覗き込んだ後、やおら隣に座したまま崩落を呆然と眺めているマスターを見る。

「良かろう、何処へなりと案内せい」

 黒騎士が一足跳びで森の奥へと消え去るのを追う形で、ライダーが繰る戦車もまた居並ぶ木々を伐採しつつ姿を消した。

 後に残ったのは切嗣により巻き起こされた凄惨たる戦場の爪痕と、サーヴァントに追走しなかった一人の魔術師。
 炎の輪の中心で、手にしたステッキがくるくると踊る。鋭い双眸が、森の一角を睨み付けた。

「さて、人払いは済んだ。そろそろ姿を見せたらどうだ? ────間桐雁夜」


/Run Away


 ランサーとソラウが踏み入ったアインツベルン城は、もはや迷宮の様相を呈していた。

 到るところに仕掛けられた機械仕掛けのトラップから身を守り、ランサーの手にする『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』の能力で魔術的結界やトラップを逐一確認し破壊ないし解除しながら奥へと進んでいく。

 彼らが不審に思い始めたのは、城の攻略も最終盤の最上階に差し掛かった頃だった。外より響く大規模な爆発。遮られた暗幕を上げ眼下を見渡せば、黒々とした煙が彼方より上がっている。

「ランサー、あれは一体?」

 ソラウの問いかけにも明確な答えは返せない。ランサーの索敵範囲は決して広くはなく当該の爆発地帯もその外側だった。だが多少の勘繰りくらいならば容易い。

「正確には分かりませんが、恐らくサーヴァントによる仕業かと」

「では……やはり?」

「ええ。薄々はおかしいとは思っていたのですが、やはりあの男……アーチャーのマスターはこの城に潜伏していないと思われます。
 そして私達をこの城に足止めをしている間に、他のマスターの迎撃に赴いた、と考えるのが妥当かと」

 恐らく残った最上階を虱潰しに探しても人影などあるまい。ランサーにはマスターの気配は探れないが、息遣いの一つも聴こえないとなれば、いないと断定する方が確実だろう。

「じゃああの場所でアーチャーのマスター……衛宮ともう一人、他のマスターが争っているのですね?」

「確実ではありませんが。その確率が最も高いかと」

「ならば私達は、このまま念の為この階層を攻略しましょう。
 いないのならばそれで良し。いるのならばそれも良し。確実に後方の憂いを絶った後に先程の爆発地点を探りに行きましょう」

 慎重すぎる意見ではあるが、今はそれくらいの方が丁度良い。外道が相手ならば全てを疑ってかかるくらいでなければならない。そして何者かがあの場所で争っているのならば、そこに横槍を入れるのはまた別種の問題となる。

 頷きを交し合った後、彼らは最上階の捜索に乗り出す。これまで以上に巧妙なトラップ群は、やはりこの階層に己が存在すると思わせる為のブラフだったのだろう。
 残すところを後一部屋。この部屋にいなければ隠し部屋でも存在しない限り、彼らはアインツベルン城を攻略したと言える、その時。

 階下より断続的に響く爆発音。連鎖を繰り返すように階上へと爆発音が迫り来る最中、ランサーは有無を言わさずにソラウを抱え上げ、近くの窓ガラスを蹴り破った後に階下へと跳躍を以って飛び降りた。

 裕に地上三十メートル以上はあった高さより飛び降りてなお、ランサーは傷の一つさえ負う事無く強かに着地を決め、更に古城より距離を取る。
 彼らの後方では優美を誇っていた城が足元より音を立てて崩れ落ちていく。さながら積み上げたオモチャのブロックが崩落するように、ものの十秒足らずで、巨大な城は瓦礫の山と成れ果てた。

「…………」

 何の感慨もなく自らの拠点を敵諸共に吹き飛ばそうとしようとする手法は、間違いなくあの男の仕業に違いない。
 咄嗟の判断で飛び出したが、やはり間違いではなかったとランサーが嘆息しようとして──その姿を目視した。

「……ようやく姿を見せたか」

 腕の中に収まっていたソラウを背で庇いながら一歩詰め寄り、挑むように睨めつける。赤い外套。銀の髪色。暗い瞳。緒戦の夜、ビルの屋上にて睨んだアーチャーの風貌に間違いない。

「ソラウ様は警戒を。あの男が必ず潜んでいる筈です」

 ようやく目的とした仇敵に巡り会えたランサーだが、ここからが本番だ。アーチャーの相手をしながら敵のマスターに気を配り、ソラウを守り抜く。槍兵の英霊の真価が問われる戦いだ。

「先日はよくもやってくれたな、アーチャー」

 ランサーは両翼を広げるように二槍を掲げ、アーチャーは片手に黒塗りの弓を携えて対峙する。

「貴様も英霊として世界に祀り上げられた存在ならば、己が謀略に思うところの一つもないのか?
 いかにマスターの命であれ、正と誤、善と悪の判別はつくだろう。時に主を諌める事もまた忠道。それこそ英雄としての誇りさえあれば、あんな悪辣外道なやり口に訴える事など出来る筈もなかろうに」

「ふっ────」

 ランサーの心からの忠言、騎士としての在るべき姿を説いた言葉を聞き届けたアーチャーは、その口端を歪に吊り上げた。

「誇り……か。ああ、残念ながら私には君の謳う誇りなどない。英雄としての誇り? 英霊としての矜持? 下らない、そんな戯言で何が救える。
 その誇りとやらを後生大事に抱え続けた結果が今の貴様の姿ではないのか?」

「────貴様……」

 ランサーの双眸がより鋭さを増す。今の言葉は聞き捨てならない。騎士道を重んじるランサーなれば、その誇りを貶める発言は看過など出来ない。
 たとえそれが油断を誘う挑発であったとしても、自らの信念を穢されて安穏としていられるほど、ランサーは誇りを軽んじてなどいない。

「我が誇りを貶めるその行為……よもや覚悟すら決まっていないなどとのたまわんよな?」

「無論だ。貴様らが抱く誇りなど、そこらの狗にでも喰わせてしまえ」

「上等────!」

 ランサーが爆ぜる。自らを一陣の風に見立て、サーヴァント中屈指の脚力を以って肉薄する。アーチャーも同様に世の理を外れし者。そのクラスに相応しい観察眼で以って、ランサーが地を蹴る一瞬前に弓を構え矢を放つ。

 同時三閃。縦一列に飛行する矢をランサーは手にした黄槍を旋回させて打ち払う。ここでアーチャーの取るべき策は間合いを保つ為の後退。弓兵という特性上、迫られては矢を撃てず後手に廻らざるをえなくなる。

 けれどアーチャーはあえて──その位置から動かず、そして手にしていた弓を手離した。

 何らかの策略と見て取ったランサーだが、あえてそこは足を止めずに直走る。我が二槍は留まらず。仇敵を撃ち抜くその時まで、死してなお振るい続けて見せると。

 その裏側、胸の前で腕を組んで趨勢を見守るソラウに暗殺者の足音が忍び寄る。アーチャーとランサー、そしてソラウの順で並び立つ一直線上の更に後方より、狙撃銃の照準がソラウの身体に重ねられる。

 脳や心臓でなければ一命は取り留められる。被弾前と全く同じ肉体行使が出来るかどうかは微妙なところだが、生きてさえいればそれでいい。
 アーチャーとランサーの衝突の瞬間を射止めるように、切嗣は時を待つ。

 駆ける槍兵。迎え撃つ弓兵。無手のままのアーチャーはその衝突に先んじる形で、刹那の間に両の手の中に愛剣を引き寄せる。白と黒の中華剣。
 ここまで弓兵としての戦い方を行使してきたアーチャーが、正面切っての闘争に合わせ自らが好む戦闘方法にて迎え撃つ。

 双剣と双槍が激突した瞬間、銃口より炎が爆ぜる──筈が、同一射線上にあった事からアーチャーとランサーの身に起こった異常をスコープより捉えた切嗣は、指をかけた引き金を引けなかった。

 互いが構えた剣と槍とをぶつけ響き合わせるその刹那、ランサーの手元より繰り出された紅の魔槍を受け止めんと交差させた白と黒の剣とが衝突を見た瞬間、湖面を割る斬撃のように、アーチャーの剣は形を失いランサーの槍が貫いた。

「なっ────」

 その異様による驚愕は見守っていたソラウや切嗣だけに留まらず、迎撃するつもりだったアーチャーでさえ、槍を繰り出した張本人のランサーでさえ度肝を抜かれた。

 鋼鉄の刃にて受け止められると半ば確信していたアーチャーには、繰り出され貫通した槍を迎撃する手立てもなく胸を刺し貫かれた。

「ぐっ──がぁ……!」

 噴き出す鮮血。赤い外套をなお深紅に染め上げていく血流。アーチャーが引き戻した手の中には、依然ランサーに貫かれる前の、確固とした形を持った剣がある。
 だが先の異常により一時的に思考能力を奪われたアーチャーは、現状の理解に先んじて好機と見て取ったランサーの次撃を防ぐ事が精一杯だった。

 繰り出される黄の短槍。胸の痛みを噛み殺しながらに振るわれた白剣は、今度は確かな手応えを生み迎撃をなし、即座に後退して距離を取った。

 ランサーは追撃を行わず今露見した状況を備に分析し、得られた解に笑みを零した。

「……成る程。貴様、面妖な弓兵のようだな」

 銃撃のタイミングを逸し、そして同時に頭を回転させていた切嗣もまた、今の所作の分析にかかっていた。

 ランサーの持つ『破魔の紅薔薇(ゲイ・ジャルグ)』はあらゆる魔力を絶つ魔槍。そしてその槍の穂先に触れた瞬間、アーチャーの手にする剣は消失し盾の役割を果たせなかった。だがその一瞬後にはもう形を取り戻した剣が握られていた事から推察されるものは──

 ──つまり、アーチャーの持つ武具は魔力により構成された代物であるという事。

 明確に物質として形ある武具、宝具の類ではなく、何らかの方法により括られた魔力の塊であるという事。そしてそんな法を為す魔術に切嗣は一つだけ心当たりがある。

 投影魔術。

 およそ非効率な魔術ではあるが、一から全てを魔力によって構成できる武具などこれくらいしか思い当たらない。

 その前提で考えるのなら、今までのアーチャーの行動にも得心が行く。宝具クラスの武器をまるで使い捨ての矢のように扱うその戦術。それら全てが常識外の投影魔術に括られたものであったのなら、納得が出来る。

 本来英霊が持つ宝具は一つか二つがせいぜいである筈が、あの男はそれを湯水の如く引き出した。故にそれは宝具ではなくただの魔術。魔力という源泉があれば幾らでも生み出せる宝具にあらざる宝具だったのだ。

「馬鹿な……」

 そう、そんな馬鹿な話はない。どうして弓兵のクラスに魔術師が据えられているなどと考えようか。宝具さえも具現化できる程の魔術師がいるなどと考えられようか。異端どころの話ではない。それは禁忌。魔法に近い奇跡だ。

 だが現状はそんな事に拘ってはいられない。魔術という式を砕くのでなく魔力を無効化するランサーの魔槍は、アーチャーにとっての天敵足りえる宝具だ。
 本物の形ある宝具を持たないとすれば、アーチャーにはランサーの刺突を防ぐ手立てが一切ない。

 長引かせるは明らかな不利。速やかにソラウを戦闘不能に追い込まなければならない。

 切嗣が思考をしている間に状況は動き出している。アーチャーの異能を全て封殺出切ると悟ったランサーは、ここぞとばかりに攻勢に出る。
 手にした二槍が乱れ撃たれ、アーチャーの防御を削り取る。

「チィ────!」

 応じるアーチャーは己が絶対的な不利を覆せない。赤槍に触れれば剣が消失するとなれば絶対の回避か穂先に触れぬように叩き上げるしかない。
 だが変幻自在の双槍の刺突の全てをやり過ごすなどという芸当は、アーチャーには到底不可能な演舞だった。

 その不可能を可能としたセイバーの絶技は、もはや人の業を超える奇跡の御業。人の領分に留まるアーチャーの剣筋ではその領域には届く筈もなく、若干とはいえ精神的錯乱に苛まれた現状は打破出来る類のものではなかった。

 それでも何とか剣を維持したままに鎬を削るアーチャーを襲うは、これまで秘匿されていたランサーのもう一槍──『必滅の黄薔薇(ゲイ・ボウ)』の能力。

 ゲイ・ジャルグを防ぐに躍起になる余りにアーチャーの身体を削り取っていくゲイ・ボウの一刺しは、治癒不可能の呪いを秘めている。
 この槍により刻まれた傷は持ち主の死か槍の破壊以外に解呪の術を持たない。必滅。その言葉に相応しい能力と言えよう。

 赤槍で相手の防御を誘い、黄槍で微かな隙を衝く。致命傷は与えられなくとも、削れば削るだけアーチャーの体力は削ぎ落とされていく。

 ランサーの圧倒的優勢にある戦場の裏側で、暗殺者が引き鉄を引く。鋼鉄の銃弾が撃ち出され、ソラウの肢体を仕留めるものと思われたが、突如として渦を巻いた風によって阻まれた。

「────っ!」

「敵────!? ランサー!」

 ソラウが叫びランサーが後退する。

 ソラウが身に着けている外套は、風呪を織り込んだ一品だ。ケイネスが己の礼装を作成する際に試作として生まれた品であり、その能力は“自動防御”。
 魔力を流しておけば外界より迫るいかなる脅威に対しても自動で発動し、持ち主の身を守護する。

 欠点は風による防御というよりは軌道を逸らす事に特化している事で、風により受け流せない類の攻撃に対しては一切意味を為さず、また攻撃面では全く効力を発さない防御専用の礼装である事。
 この礼装の自動防御という特性はケイネスの月霊髄液に継承され、より完璧な一品として完成している。

 ソラウを庇う立ち位置にまで後退したランサーは血塗れのアーチャー、そしてソラウを狙撃した銃弾の方向──切嗣の潜伏地点とを同時に睥睨している。

 ソラウの持つ礼装の特性は先の一撃でほぼ看破出来た。切嗣の魔術礼装による一撃を喰らわせれば、一時的にソラウを無効化する事は容易い。が、ランサーが警護についた時点でそれも不可能。

 どのような奇襲もどんな弾速で撃ちだそうとも、あの男は確実に迎撃してくる。そして何より、アーチャーだ。切嗣から魔力を多量に奪っていきながら全く癒える気配を見せない無数の傷は、戦闘を続行させるには深すぎる。

 ……撤退するしかないのか。

 切嗣の脳裏を掠める二文字の言葉。それは別段悔しさを残すものでもない。ランサーとそしてアーチャーの能力を見誤った時点でその選択はむしろ正しいとさえ言える。
 しかし、問題は逃げ切れるかどうか。こちらが背を向ければ、ソラウという守護対象は警戒から外れ、追撃を可能とする。

 サーヴァント中屈指の脚力を誇るランサーを敵に、手負いのアーチャーと生身の切嗣で逃げ切れる保証など、ない。
 ならば今はこの硬直を続けるしかないのか。アーチャーと切嗣の両方に意識を払わなければならないのなら、ランサーも迂闊には動けない。

 二律背反とも言える膠着状態に歯噛みするしかなかった切嗣の目の前に、それは忍び寄るように現れた。

 突如として視界を覆う白い靄。一帯を包み隠すように現れた霧は、明らかに魔術によるもの。この状況下で切嗣達に魔術で干渉しようと思う輩などそうはいない筈。そして切嗣は欹てた聴力で、大地を擦過する車輪の音を聴いた。

 猛然と彼方より疾走してくる黒塗りの車こそ、切嗣がアイリスフィールの為に事前に用意させておいたメルセデス・ベンツ300SLクーペ。
 何故今その車がこの場に現れたのか、そして何故彼女がハンドルを握っているかなど思慮の外。およそありえざる友軍の登場に、切嗣は今取るべき最善の策を決行する。

「アーチャー! 舞弥!」

 草むらより躍り出ると同時に目の前へと滑り込んでくるメルセデス。同時にアーチャーは矢を放ち、後部座席に搭乗していた舞弥が窓より半身を覗かせて銃撃する。

 アーチャーと舞弥によるクロス・ファイア。不明瞭な視界の中、旋回させた槍で両者の弾丸を撃ち落とし、幾らかはソラウに被弾しそうになるも、纏った風が全ての軌道を逸らしていく。

 舞弥が乗り出すドアとは反対側のドアより車内へと滑り込んだ切嗣は運転席に座るアイリスフィールとバックミラー越しにアイコンタクトを交わし、この場所へと滑り込んできた時以上の加速を以ってギアを上げる。

 空転するタイヤが地面を掴んだ後、弾け出すようにメルセデスは走り出し、アインツベルン城跡地を後にする。同時にアーチャーも姿を消し、残されたのは迎撃せざるをえなかったランサー達のみ。

「ランサー、追って下さい!」

「しかしそれではソラウ様が──」

「私もすぐに追いかけます。でも貴方の足なら、きっと追いつける!」

 そう、これは最大のチャンス。ケイネスでさえ手を拱いた魔術師殺しを討ち取ったとあれば、いかなる弁明よりも明確にその証左となる。
 アーチャーとの相性の良さも功を奏した今、逃がせば必ず厄介な事になる。手段を講じさせず、対策を打たせない、今この瞬間こそが、あの主従を撃破する好機なのだ。

「分かりました。ご無事で────!」

 一瞬に霊体と成り代わったランサーが風もかくやという速度で森へと入っていき、それを追走する形でソラウもまた走り出した。



「舞弥、何故君達がここに……?」

 後部座席で後方に注意を払いながら切嗣が嘯く。彼女らには冬木市内の屋敷にて待機命令を出しておいた筈であり、舞弥が無断で切嗣の命を破る事はない筈なのだが。

「申し訳ありません切嗣。全ては私の責任ですので」

「ううん、違うわ。悪いのは私。舞弥さんは私に付き合ってくれただけなんだから」

 何やら笑みを交し合う二人に困惑を浮かべるしかない切嗣は一体全体どうなっているのかさっぱり分からなかった。

 事と次第は数時間前。切嗣と舞弥の連絡が終わり、アイリスフィールの提案を舞弥が切り捨てた直後からの話である。



「分かったわ。じゃあ私は一人で行きます」

「は……?」

 舞弥の同意を得られないと分かるや否や、アイリスフィールは立ち上がり彼方の方角を見上げた。

「舞弥さんは行っちゃいけないって言うんでしょ? じゃあ私が一人でアインツベルンの森へ行くから、貴女はここで待ってて」

「……マダム。それでは本末転倒です。私の役目は貴女の護衛です。貴女だけを行かせるわけには──」

 そこではたと、舞弥はアイリスフィールの思惑に行き当たった。

「成る程。そうやって切嗣の元へ連れて行こうというわけですか。しかしそれでは余りにやり方が稚拙だ。私は貴女の安全確保を何よりも優先します。その為ならば、実力行使も辞しませんが?」

「あら、そう? じゃあ私と争ってみる?」

 言ってアイリスフィールは懐よりやおら一本の針金を取り出した。何の変哲もないその針金が、彼女によって魔力を注がれれば、まるで生き物のようにうねり一つの形を形成していく。
 生み出されたモノは針金細工の美しい鳥。鷹を思わせる雄大な翼を携えた、一羽の鳥だった。

「切嗣が私に教えてくれたものは生きる意味よ。それは転じて、生き残る為の訓示でもあったわ。そしてそれは私一人だけのものじゃない。未来を作る為に、あの人が生き残らなければ意味がないの」

 アイリスフィールにとって生とは夫と共にある事だ。たとえこの先に別離が待ち受けていようとも、心だけはいつまでも共に在る。
 そしてこれから夫が大きな闘争に身を投じようとしているその時に、傍で支えずして何が妻か。あの人が命を賭けて戦うのなら、己もまたこの命を賭けるべきなのだ。

 死する場所を求めてではなく、生き残る為に。

「…………」

 舞弥は押し黙った。それは、理屈から言えば戯言だと一蹴して然るべきものの筈。ならばどうして、彼女もまたその形骸に目を奪われるのか。

 ただのモノでしかなかったものが、魔力という火を灯されて一つの命に生まれ変わる。それはある意味で、アイリスフィールという女性のイメージでさえある。
 ホムンクルスという生を受け、人の心など分からない筈の聖杯を守る為だけに造られたものが、今は愛する人の為に戦う決意を灯している。

 理屈ではない。心の意志。強く願う生きるという意志の力が、アイリスフィールを衝き動かしていて──

「分かりました。けれど条件があります」

 ──そしてその強い生き方に、憧れを抱いてしまうのは、きっと仕方がない事なのだ。

 人として生まれながら人の心を持たなかった機械と。人形として生まれながら人の心を掴み取った人。対称的であるが故の羨望。失ったものへと憧憬。

 愛の力。その心の光が、舞弥には眩しく映ったのだから。

「ふふ、人の心って不思議ね」

 アイリスフィールは鈴を転がすように笑う。舞弥が持っていないと思うものを、彼女はきっと持っている。そうでなければ、ただ冷徹に切嗣の命令を遂行する機械であれば、そんな心さえ抱かない。

 ただその感情に気が付いていないだけ。切嗣がアイリスフィールに教えてくれたものを、けれど舞弥には教えなかった。でも知っている。知っているからこそ憧れ、そして同意するのだ。

 同じ気持ち。唯一人の人を想う二人の女性。

 つい先程まで快くは思っていなかった舞弥という女性が、今やアイリスフィールにとって最も近しい人のように思えた。



 それから彼女らはメルセデス・ベンツを受け取りに行き、街道を通りアインツベルンの森へ。

 本来ならば車であの森へと侵入する道など存在しなかったのだが、奇しくもライダーが戦車を繰って行軍してくれたお陰で出来上がった道を走り抜け、結界の中枢に迫った事で機能し出した千里眼で以って切嗣の現状を認識。
 敷設されていた幻惑のトラップを起動した後に車体が傷む事さえ厭わずにランサー達が居た広場へと乗り込み、切嗣を回収したという手筈だった。

 今は行きと同じ道筋を通り、アイリスフィールの荒々しい運転に車体を大いに揺らしながら森の外を目指して駆け抜けている。

「今回ばかりは助かったよ。流石に肝を冷やした」

 切嗣は霊体化し車体の上に居座っているアーチャーに視線を投げる。この男には今一度問い質さなければならない。だが今は逃げる事が先決だ。
 サーヴァントが痛手を負った以上、切嗣単独での戦闘行為は無謀すぎる。そしてもう一つの懸念は……

「切嗣、来ました」

 舞弥の呟き。後方。霊体化を解いたランサーが地を蹴り上げ迫り来る。車は荒れた路面で思うように速度が上がらないのか、確実にこちらへと近づいてくる。

「迎撃するぞ。銃弾は意味を為さないだろうが、何もしないよりはマシだ」

 はっきり言えば分が悪すぎる。それこそアーチャーに無理矢理にでも足止めをさせなければ、逃げ切れる保証はない。

「アイリは運転に集中してくれ。そして出来る限りスピードを落とさないように」

「うん、分かってる。でもその前に──」

 アイリスフィールは取り出した針金を開いた窓の外へと突き出しながらに呪を紡ぐ。

「──shape ist Leben(形骸よ、命を宿せ)!」

 形作られた鳥がアイリスフィールの腕の中より飛翔し、後方に迫るランサーへと襲い掛かる。同時に後部座席の左右より身を乗り出した切嗣と舞弥による掃射が浴びせかけられるが──

「ハァ────!」

 針金細工の鳥はランサーの赤槍の一閃により魔力の伝達を遮断され、唯の針金へと戻るより先に裁断されて地に落ちる。銃弾掃射もサーヴァントの前には何の役割も果たさず足止めどころか妨害にさえなりはしなかった。

「チッ、やはり無理か」

 ランサーが迫る。後数秒もすれば車体に取り付かれ諸共に殺し尽くされる。ならば令呪を行使してでもアーチャーに一矢を──否、いかに令呪を用いようとアーチャーの能力特性の根本までは覆せない。

 だというのに、頭上で弓を引き絞る気配を察した。

「アーチャー、貴様何を──」

 膝立てで車体の上で後方のランサーを狙うアーチャーの狙撃弓。意味を為さないと知ってなお、無駄な足掻きを繰り出そうというのか。

「止まるな。何があっても車を止めるな!」

 怒声にも似た血塗れのアーチャーの声を聞き、何らかの手立てがあるものと了承した切嗣はアイリスフィールに指示に従うように命じる。

「うん、絶対に止まらない!」

 ハンドルを硬く握り締め、ギアは既にトップギア。踏み込むアクセルは全速全開。振り切れたスピードメーター。ブレーキなど踏まぬという勢いで彼らを乗せるメルセデスが灰色の荒野を行く。

 霊体化していた筈のアーチャーが突如として姿を見せ、ランサー目掛けて弓を引き絞る姿勢を捉えても双槍の槍兵は止まらない。
 触れる全ての魔力を断ち切る赤槍がある限り、あのアーチャーには為す術など有り得ないのだから。

 絞られた弦より矢が放たれる。秒にも満たない間にランサーへと肉薄する矢を、右手の長槍で打ち払おうとした刹那──
 ランサーが矢を捉えるよりも早く、アーチャーは己が矢を爆発させた。

 巻き起こる轟炎。膨張する爆発。襲い掛かる爆風。

「キャァ──!」

 車体を煽られながらそれでも断固としてハンドルを放さないアイリスフィールが駆るメルセデスは爆破地点より遠ざかる。

 ────壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)

 宝具が内包する魔力を自壊させる事で生じる超爆発。本来修復の困難な宝具をこのような用途で扱う者は数少ないが、元が魔力により構成された投影魔術の使い手たるアーチャーだからこそ出来る芸当。

 壊れたところで魔力さえあれば何度でも複製可能な反則技だ。

 引き起こされた爆発という結果に対しては件の魔槍も効果を発揮できない。けれどそれでも、ランサーはその足を止めていなかった。

 噴煙を突き破り炎に身を焦がしながらも地を蹴るスピードは尋常ではなく速い。見据える獣の瞳が研ぎ澄まされた針の如く彼らを射抜く。

 追い縋られれば命はない。今この現状を招いたアーチャーは、自らの身体を押して矢を番える。
 だが、今日一日で既にかなりの魔力を消費し、たった今切り札の一つともいえる壊れた幻想を行使し、供給される端から零れていく魔力量を鑑みれば、痛んだ身体も含めて酷使のしすぎだ。

 それでもアーチャーは弓を執らなければならない。自らを衝き動かす強迫観念に従い、更なる一矢を放とうとして、

「────っ!」

 横合いより黒い刃がランサー目掛けて差し向けられた。

「あれは……」

 切嗣もまた目視した黒塗りの短刀。あの投擲武器を主武装としていたサーヴァントと、そしてそのマスターの姿を思い浮かべる。

「……そうか。そうまでして僕と向き合いたいのか」

 ──これを借りとは思わないぞ、言峰綺礼。

 突然の襲撃に足を止めたランサーを置き去りに、メルセデスは走り抜ける。狩人を狩る森から、明らかな敗走を以って離脱した。


/Be at a Loss


 一つの戦場が終わるより前、城の崩落から数分の遅れで彼らは向き合った。未だ燻り続ける炎の輪の中心に二人の男が立っている。

 一人は洒脱なスーツの上に一枚の外套を羽織り、手には大きなルビーを頂いたステッキを握る遠坂家現頭首──遠坂時臣。
 一人は着古したパーカーにジーンズ姿。目深に被ったパーカーが暗い表情を覆い隠しており、その奥でギラついた瞳を覗かせる間桐家の次男──間桐雁夜。

 少なからず因縁を持つ二人のマスターが、ようやく誰の邪魔もなく互いの面貌を睥睨しあった。

「遠坂時臣。ようやくだ、ようやく貴様と巡り会えた。俺はこの時を待ち望んでいたッ!」

 口火を切る雁夜。遠坂邸に放っておいた使い魔の目が時臣が屋敷を辞す瞬間を映し出した時、雁夜は一も二もなく間桐邸を飛び出しその後を追跡した。

 だが雁夜はすぐさま襲撃をかける愚を犯さず冷静に時を計った。衛宮切嗣による襲撃が収束しライダーの介入にも一切の手を出さず、こうして全てのサーヴァントが時臣の元を離れ一対一の状況が訪れる時を待っていた。

 たとえこれが時臣の計らいにより仕掛けられた場であったとしても構わない。雁夜が聖杯戦争へと参戦した目的は間桐より桜を解放する為ではあるが、この男と見える事も同様に必要な事だった。

「俺は貴様に問わなければならない……」

 胸を焦がす憎悪。見開いた瞳で睨みつけ、渦巻く感情を掻き出すように胸を抉り言葉を搾り出す。

「何故貴様は間桐に我が子を差し出した!? 何故貴様は、あんな家にあの子を差し出したんだ!」

 その決断が招いたものは葵の涙と凛の空虚。そして桜の絶望だ。何を願い何を祈って、あんな地獄に愛しい我が子を突き落とす真似をしたのかと、雁夜は時臣に問わずにはいられなかった。

「……その質問は、今君が気にかけるべきものなのか? 一度魔道より離れてなお聖杯を渇望し晒し上げたその醜態と、その質問にどれほどの関係があるというのだ?」

「答えろッ、時臣ィ……!!」

 剥き出しの憎悪に呼応するように、雁夜の足元に蟠っていた闇……いや、黒い甲虫が憎しみの対象たる時臣目掛けて飛翔する。
 質問の内容に解せないとばかりに顔を顰めていた時臣が、腕の一振りで生み出した炎の渦は一直線に向かい来るだけの蟲の群れを焼き焦がして地に貶めた。

 焦げ千切れ墜落していく蟲の様はさながら目の前に立っているだけの雁夜を象徴したかのような死に様だったが、未だ血走った瞳で睨みつける雁夜を見やった後で、微かな嘆息と共に答える事にした。

「──問われるまでもない。愛娘の未来に幸あれと願ったまでのこと」

「何、だと……?」

 余りにも理解を超えた返答に、しばし雁夜の思考は真っ白に染まり、更に紡がれた言葉はおよそ有り得ないものだった。

 魔道の家系に生まれた者について回る家督の相続問題。一子相伝を常とする魔術師の誰もが苦悩するその事実。二子を設けた家の頭首は選択しなければならない。

 すなわち──どちらを栄えある魔道へと導き、どちらを凡俗に貶めるか。

 常ならばより優秀な方を後継者とするのだが、遠坂の二子である凛と桜はどちらもが優秀に過ぎた。時臣の才覚を継いだというよりも遠坂の血筋と母である葵の母体がとりわけ優秀だったせいであるが。

 時臣にとってそれは喜ばしき事でありながら、同時に苦悩すべき事でもある。そしてそんな折に持ち掛けられた間桐家よりの申し出は、時臣にとって天啓に等しかった。

 既に没落の一途を辿っている間桐の家に養子を出すという事は、その家督を相続する後継者として育てられるという事。
 つまりは時臣の実子のどちらもが魔道の担い手となれるのだ。

 更に間桐は遠坂と同じく聖杯を探求する一族。凛が遠坂を継ぎ、桜が間桐を継げば彼女ら自身、あるいはその次の世代では一つの杯を巡り合い争い、そしてどちらが勝者となろうとも憂いなき闘争に馳せ参じる事になる。

 それは魔道に生きる者にとっての幸福。一人の為にもう一人の未来を摘み取るなどという所作を良しとする親などいない。
 どちらもが魔道を継ぎ、どちらかが根源へと到るのならば、憂いなどありえない。勝利を掴もうと敗北しようと、自らの身体を流れる血の家紋へと悲願を捧げられるのならば、これほど幸福なものもないと──

 ──そう、時臣は謳い上げた。

「…………」

 黙して時臣の言葉に耳を傾けていた雁夜の表情は、最初は鬼気迫るほどに歪んでいたが話が進むにつれ能面のような無表情へと移り変わっていって、今は顔を伏せてただただ震えていた。

「……そう、か。それが、貴様の言う、幸福の在り方か」

 冷やかだった。何処までも冷淡な声音で呟いて、雁夜は胸の奥より溢れ出す激情を止める術を知らなかった。

「ああ。君が家督を拒んでくれたお陰で間桐の魔術は桜の手に渡った。それは感謝して然るべき事なのであろうが、やはり私は魔道に背を向けた君という男が許せない。
 血の責任に背いた脆弱さ、その事に何の負い目も持たぬ卑劣さ。間桐雁夜、君という男は魔道の恥だ。再び相見えた以上、我が手で誅を下す他あるまい」

 時臣の手の中で火炎が踊る。魔道の面汚しである雁夜を罰さんと、正調の魔術師が杖を執る。

「ああ────そうか。貴様という男は、何処までも狂っているんだな……」

 内より湧き出る憎悪が口から零れていくように、雁夜は静かに沸き立つ。雁夜自身を貶めるのは、いい。どれだけ罵倒され蔑まれようと、もはや助からない身だ。
 ただ聖杯を掴み取る為だけに動いている、朽ちた死体だ。だから、それはいい。どんな言葉も甘んじて受け止めよう。

「君にそんな事を言われる筋合いはないな。むしろ狂っているのは君の方だろう? 何を求めて今更この戦に身を投じた? その身の醜態を晒してまで、欲しいものでも見つかったのか?」

 雁夜の顔が上がる。時臣と真っ直ぐに向かい合う。

「ああ、見つかったさ。どこぞの阿呆が下らない夢を謳うせいで、現実の何一つを見ていないくせに憚るから、俺は断罪を下す為にこの場所に立った!
 遠坂時臣……! やはり貴様は、俺の手で殺さなければならない……!!」

 だが──だがしかし、桜の幸福が、あんな地獄に果てにあるなどとのたまう貴様自身は赦さない。
 断じて赦してはならない。貴様が間桐の何を知っている。想像を絶する地獄を見た事すらない優等生が、口先だけで吼えてるくせに、何を格好つけてやがる。

 ──貴様には、あの子の枯れた涙の意味さえ分からないッ!

「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……っ!!」

 雁夜の体内に蔓延る蟲が哭く。造り上げられた魔術回路が一斉に励起し間桐の蟲を顕現する。
 周囲より湧き出した黒い泉のような蠢きから蟲が這い出し空に舞う。黒い甲冑に覆われた掌ほどの大きさの甲虫が、次々と沸き上がる。

「時臣ィ……。貴様の言う幸福など有り得ない。あの地獄を知らぬ貴様に、桜の苦しみが分かる筈があるかァ……!!」

 解き放たれた憎悪のように、黒い羽虫の壁が時臣目掛けて襲い掛かる。

 炎の魔術師は静かに、動揺の一つもなく憎しみに囚われた堕ちたる魔術師を刈り取らんと己が身に刻んだ研鑽を白日の下に曝け出した。



 時臣から幾らかの距離をとった小さな広場でセイバーと戦車に搭乗したままのライダーそしてウェイバーは向き合った。

「それで? わざわざマスターから距離を取ったという事は、別段争う気があるというわけでもないのだろう?」

 ウェイバーにはそのまま御者台にいるように申し付け、ライダーは対等な地べたに立つように降り立った。

「ああ。貴方の語り聞かせたその王道に、一過言ばかり申し付けたくてね」

 黒い騎士は悠然とした姿勢のままに立ち尽くす。隙だらけのようでありながら、その実周囲への警戒を怠らない様は流石はセイバーと言える所作だ。

「ほう。王たる余に一介の騎士である貴様が物申すと? あるいは貴様、実は王を名乗っとったとは言うまいな?」

「無論違う。私はある王に仕えていた、しがない一騎士だ」

 ふむ、と頷いてライダーはそれから戦車の荷台に積み込んでいた木造の樽──酒樽を取り出した。

「まあ話をするなら酒でも飲まんとやっとれんだろ。ほれ、貴様もこちらに来て座らんか」

 どん、と地面に置いた酒樽を割り開けながら自らも泰然と腰を下ろして手招きをする。後方より見つめるウェイバーは辟易としていた。
 この森へと乗り込む際、ライダーは何を考えてか酒を購入したいと言い出した。ならさっきの遠坂の屋敷で貰ってくれば良かっただろうと怒気を強めたウェイバーに、けれどライダーはこう嘯いた。

『美味い酒は最後にとっとくもんだろう? 我らが見事勝利を獲得した暁には、あの屋敷より件の報酬を受け取りに行けばいい。
 これより飲む酒はそこらの安酒で構わん。どれくらいの面子が集まるかは知らんが、まあ酒樽の一つもあれば足りるだろう』

 その後に問い質した内容によれば、先のライダーの妄言たる軍門に下れ云々が成功を収めた後に、王の旗印に集った臣下と共に飲み明かす気でいたらしい。
 もう何が何やらでウェイバーには噴飯ものだったが、口を挟み込む余力さえ削ぎ落とされた彼はただただライダーの奇行に付き合い、どうしても納得のいかない場面でだけ吼え猛る術を見出していた。

 そして目論見が失敗に終わった今、独りで飲み切るには明らかに多すぎる酒をせめてこの目の前の黒騎士に振舞おうという腹らしい。

「いや、遠慮しよう」

 だがにべもなく斬って捨てられた。

「なんじゃい貴様、酒の飲み方も知らんのか? よもやその面妖な兜を外したくないからだとか言わんだろうな」

「ああ、外したくはない。そして酒の作法も心得てはいるつもりだが、生憎と敵と肩を組んで飲み合う程に、私はまだ貴方という男を信用していない」

 ウェイバーにすれば至極当然の返答で何故か胸を撫で下ろす程の安堵を覚えたのは、きっと己がサーヴァントの奇行に付き合い続けて感覚が麻痺する事を恐れてのものだろう。まだ自分は常識人の範疇にいるのだと言って聞かせた。

「……ふん。つまらん男め。まあいい、勝手にやっとるから好きに話せ」

 不貞腐れたように酒樽の中の酒を杯で掬い上げながら、ぐびぐびと嚥下していく。

 立ったままのセイバーはその余りの警戒のなさを露呈する王を静かに見やりながら口を開いた。

「貴方にとって王とは生き様だとマスターの屋敷で聞き届けたが、ならば王にとっての臣下とはいかなる存在だ」

「朋友だ」

 悩む素振りすらなくライダーは憚った。

「同じ祈りを胸に抱き、共に戦場を駆け抜けた余の臣下らは、得がたい朋友だ。それこそ世に遍く財と比してなお尊いと信じられる程にな」

「…………」

 セイバーにもかつて、その身を朋友と呼んでくれた者がいた。それは同じ円卓に集いし騎士達であり、そして王であったその人だ。
 輝かしい未来。国の繁栄を祈り、国を守る為に剣を執った。あの頃、ただ全てが輝いていたあの頃の己は、確かに眩しかった。

 だが今はどうだ。こんな隙間のない甲冑で全てを覆い隠し、視線を合わせることすら好まない、暗く薄汚れた負の感情を外へと吐き出さない為に、真実の言葉を語る口を持たないが為に全てを封殺している己は、ならば一体何者なのだろうか。

 輝かしき日々の終わり。

 後ろ暗いと知りながら、手を染めてはいけないものに手を染めた。今でもそれは、だが間違いだったとは思っていない。
 そうしなければならなかった。そうしたかった。誰も知らず独り永遠に涙する事を定められた唯一人の女性の哀しみの涙を掬い取り、笑顔を齎したいという一途な想い……けれどその果ては、全てを失くす破滅でしかなかった。

「ならば騎士とは、何だ」

「王に忠義する臣下。王の背に憧憬を抱き羨望を焦がれる者。簡単に言えば、王と共に時代を馳せる者だ」

「…………」

 ああ、確かに。その騎士の在り方は誰もが望み、そして彼自身が体現した──“完璧なる騎士”だ。

 高潔にして気高くあった王という存在。祖国を救うという尊い祈りを成し遂げられる唯一の王と見定めた“完璧なる王”は、誰よりも尊かった。
 そしてその王に仕える“完璧なる騎士”──それが彼に許された唯一つの生き様だった。

 だがならば、この身は一体誰だと言うのか。諸人だけでなく精霊にまで祝福される程に羨望と賛辞を一身に集めた理想の騎士。
 もはやそれは一個人ではなく騎士達の理想と成り果てた一つの現象であり、彼自身の意志など差し挟む余地もなく築き上げられた頂だ。

 けれどそれもまた、彼自身が望んだことでもある。初めて王宮に昇り拝謁の栄に浴したその瞬間より──彼は恐らく、誰よりもその人の為に剣を執った。その人の為に全てを擲って命を賭け、心魂からの忠誠を誓った。

 行き過ぎた忠誠と研鑽は、彼を騎士としての生き方に縛り付けた。それ以外の生き方を許さなかった。愛した人が女でも人間でもない后という生き方に縛られたように、彼もまた男でも人間でもない騎士という生き方に縛り付けられた。

「……ならば后とは、王にとっていかなる存在だ」

 その問いは予想していなかったのか、先程までのノータイムでの返答が、暫しの間沈黙した。

「……后とは王のものだ。王に捧げられた供物と同様、王を悦ばせる為の道具でしかない」

「ふざけるなッ!」

 静かなる水面に今、一滴に激情が沸き起こる。

「そんな馬鹿な話があってたまるか。后もまた一人の人間、その意思を蔑ろにしていい権利など誰も持っていない」

「そうだな、確かにその通りだ。だが王とは、誰よりも生を謳歌する獣の名だ。国は王の為にあり、臣民は王に貢ぐ為に働き、臣下もまた王の夢の片棒を担ぐ存在だ。ならば后とて一介の男子たる王にその身を捧げた存在だ。
 遍く全ては王のものであるが故に、その法に例外はない」

 今、決定的に目の前の男と過去彼が仕えた王の間に避けようもない断絶が生まれた。

 ライダーの謳う王道は覇王のそれだ。自らを是とし絶対の君臨者として治世を為す。言い換えるのなら、暴君だ。
 それに比べればかつての王は聖者のそれ。あの王は何一つ望んでいなかった。ただ祖国を救うという一心の為だけに、身を粉にして国に尽くした。

 王という役割の為に自己を殺した在り方。それは──彼には遂に出来なかった在り方だ。

 理想に生きた王。尊く、そして眩しいが故に届かなかった。彼は余りに人であり、理想の中では生きられなかった。
 葛藤と苦悩……もしあの王が、目の前の暴君のように自らの法に拠り己の所有物に手を出した不届き者に裁きを下してくれていたのなら、あるいは彼も違う生き方を模索出来た筈なのに。

 ──裏切りの騎士。

 その汚名を被ってなお、王は彼を責めなかった。糾さなかった。もし憤慨も露に追っ手を差し向けてくれたのなら、騎士の名を捨て一介の男として、彼女の手をとって逃げ出せていただろう。

 けれど王は何もしなかった。自らが否を被ると知ってなお頑として譲らず、部下に糾されどうしようもなくなったその時になって、ようやく剣を手に執った。それも、王の本意ではなく。

 王はただ願ってくれた。朋友の幸福を。朋友に手を取られ逃げ出した后の幸福を。

 王の治世を乱した逆賊を討つ事よりも、王の朋友であった男の未来を慮り、自らの足場を崩していった。
 それはならば、どんな想いに起因する。勝利の為に自国民すら間引いてきた王が、何故そんな感傷に心絆された。

 知っている。理解している。
 それこそ──己が王に衝き付けた言葉の刃によるものと。

 そんな王を、どうして裏切れようか。
 朋友の契りを頑なに信じ、朋友の幸福を祈り、それでも理想を貫き通さんとした王を、一体誰が責め立てられようか。

 たとえその結果が、彼に果てのない苦悩を衝きつけ、行き場のない憎悪に胸を焦がしたとしても。笑顔を見たかったその人を永遠の慟哭に突き落とす事になったとしても。王は誇り高く、最後まで理想に生きた王だった。

「…………」

 ならば己は、今何を求めてこの場所に立っている。責め立てたい王は既になく、愛した女性もまたいない。
 世の果て──何もかもが変わり果てたこの世界で、彼は一体何を求めて彷徨い歩けばいいのだろうか……

「おう、それで質問は終わりか?」

 一人で黙々と酒を煽り立てながらセイバーの問いに答え続けていたライダーが、今度は逆に投げ掛ける。

「じゃあこっちからも一つ言わせて貰うとするか。セイバー、貴様は我が軍門に下れ」

「オマエはまた懲りないヤツだな……」

 口を挟まず見守っていたウェイバーだが、嘆息しつつ嘯いた後に、ライダーの湛えた表情を見て血相を変えた。
 先のアーチャーらがいた場所での宣言よりもなお深刻な面貌。真剣の度合いがまるで違う本心からの“命令”であった。

「……その問いには、先程答えを返したはずだが」

「ああ。だがな、貴様の迷いはその王とやらに操を立てとる限り晴れんと思うぞ」

 ぐびりと酒を煽り、獰猛な眼差しをセイバーへと向ける。

「貴様はな、言えば良かったんだ。我が身を糾せと怒れば良かったんだ。だがその王とやらが高潔すぎて、そして貴様自身が臆病だったから、結局全てを失くしたのさ」

「…………」

「あれも欲しい、これも欲しい。あいつは裏切れないしこっちも裏切りたくはない。そんな我が侭を吐いたくせに、本心の一つも口にせんで手に入るものか。
 稚児の飯事でもあるまいに、欲しいのならそう叫び行動に移せ。黙っていて与えてくれるほど世界は寛容じゃない。でなければさぞつまらんだろうよ」

 セイバーはただ黙す。ライダーを窺い見るウェイバーには、ライダーが怒っているように見えた。いや、どちらかと言えば苛立っている、という方が正しいか。

 恐らくは先の問答でセイバーの抱える迷いの何らかを掴み取ったライダーだったが、その余りのじれったさに憤慨して噛み付いているようだ。
 我慢という言葉から程遠い生き様を貫いたこの男にしてみれば、鬱屈として全ての感情を自身に向けたセイバーは、見ているだけで不快極まるに違いない。

 それでなお叩き斬るのではなく臣下に加えようとするあたり、まだ腹に何か抱えている様子でもあったが。

 沈黙が長らく続き、そしてセイバーの脳裏を掠めるように響いたのは己がマスターよりの思念。『戻れ』という短い意思を感じ取ったセイバーは踵を翻す。

「おう、余は諦めんぞ。貴様は我が旗印の下で剣を振るえ。手に入れるまで何度でも纏わりついてやるから、覚悟しておけよ」

「…………」

 セイバーはライダーを一瞥するだけで声を発さず、風のようにウェイバーらの前より消え去った。

「おまえ……やっぱり今の本気、なんだよな……」

 ウェイバーが念の為の確認と呟く。

「うむ。あんな鎧で覆って曇りに曇った剣を振るわれちゃあこっちが良い迷惑だ。いつかは清廉な剣かとも思ったが、何、上辺だけだったか。
 ふん、まっこと勿体無い男だ。あれほどの腕を持ちながら内面が弱すぎる。天は二物を与えんと言うが、ありゃああいう男にこそ相応しい言葉だな」

 何時の間にやら一人で酒樽一本分の酒を飲み切ったライダーは、空樽を戦車に積み込んで手綱を引いた。

「とりあえず今日のところは帰るぞ坊主。戦う気も失せた。少しばかり様子見だ」

「ああ、うん。オマエがそういうのなら構わないけど」

 微妙に居心地の悪くなった御者台に腰掛けながら、神牛が大気を踏み締めて空を馳せる様を見守る。どうせこの辛気臭い空気も明日になれば晴れているだろうと、ウェイバーは一人ごちた。





 決着は速やかにして成った。

 憎悪の渦に心奪われた雁夜は事前に用意した策を弄する暇もなく、ただただ体内の蟲達が命じるままに魔力を行使し肉体を酷使し、そして毛ほどの傷の一つさえつけられず、全て時臣の生み出した炎の只中で燃え尽きていった。

「がっ……ぁ、ぁ、ぁ、あああああっ──!!」

 それでも雁夜の中から昏々と湧き出てくる黒い感情。幾度燃やし尽くされようと、底無し沼より溢れ出す泥のように雁夜の身を蝕み犯す憎悪が暴れ狂う。

 過剰な肉体の酷使により立ってすらいられなくなった雁夜は地べたに這い蹲り、それでも瞳に宿すドス黒い光は時臣を睨みつけている。
 対する時臣は冷やかに見下ろしながら余りの手応えの無さに笑みを零す余裕さえあった。

「身の程を知ったか、雁夜。これが魔道、君の付け焼刃の魔術ではない深遠の彼方より続く薫陶だ。
 歴史も経験も知識も才能も魔力も誇りでさえも──君は私に及ばない」

「はっ──あづ、がっ、ぁ……は、は、は、ハハハハハハ!」

 蟲の全てを灰に帰され、行使すべき触媒を失った魔術回路は少しばかり勢いを落とし、冷静さを取り戻した雁夜はしかし、今度は狂ったように笑い出した。

「ふん……頭さえおかしくなったか?」

「ああ、俺はもうとっくにイカれてるが、貴様ほどじゃあない。貴様が燃やして燃やして燃やし尽くしてくれたから、逆に俺の心は冷えてくれたようだ」

 腕を立てて起き上がろうとするも、あらぬ方向に折れ曲がり、支えを失った雁夜の身体は地面へと打ちつけられる。
 冷たい地面と唇を交わしながらも、雁夜の瞳だけは時臣を見ていた。

「なあ……折角だから教えておいてくれないか。今の俺を見て貴様は何を思う?」

 時臣は全く予期しなかった質問の内容に首を傾げたが、別段時間稼ぎをしているというわけでもなさそうだったので、見たままを口にした。

「無様だな」

 体内を蟲に喰い荒され、決死の覚悟で挑みかかった時臣には傷の一つもつけられず、即席の魔道の代償として術の一つを使うだけでも悲鳴を上げる。
 そして今現在、研いだつもりの牙の全てを圧し折られ、地べたに這い蹲る姿を見やったのなら、先の一言ほど相応しい言葉もない。

「ふ、ふはは。そうか、無様か! くはははははは、ああそうとも、無様だよなぁ!」

 本当の意味で気が狂ったのではないかと疑うほどに高笑いを始めた雁夜を見下ろし、いっそもう手を下してやろうかと思ったが、次なる一言が時臣の意識を凍りつかせた。

「ああ、無様さ。無様だろうさ。貴様にしてみれば、こうして身を蟲に食い散らかされ地に這い蹲っているしかない俺の様など、滑稽にしか映らないだろう。
 だが貴様は、一度でも考えたことがあるか? 俺がこうしているように、貴様が間桐にくれてやったあの子も、同じ目に遭っているなどという事をなァ……!」

「何……?」

 その時、常に冷静に魔術師を貫いてきた男の表情に、一筋の感情が過ぎった。

「……クク。滑稽だ、滑稽なのは貴様の方だ時臣。遠坂の魔術師である桜をあの妖怪がそのまま魔術師として育てあげるとでも思ったか? 馬鹿が。彼女は間桐に染められる。本来持ちえる才能ではない、間桐の色に染め替えられる」

 雁夜は続ける。

「その過程はな、俺もあの子も変わらない。いいや、女である分だけ彼女への仕打ちはなお酷い。あの男……臓硯はなんと言ったと思う? 桜は胎盤だと言ったのだ! ただ次代の世継ぎを育成する為だけの胎盤だと!!
 ……間桐の家とは、そういう家だ。蟲に喰われ、蟲に寄生され、蟲を生かす為だけの苗床だ。全てはあのジジィの思惑通り。あのジジィの延命の為だけに、間桐の世継ぎは“生かされている”」

「────」

 それはおよそ、時臣の思い描く魔道ではない。魔道を身に刻むために多くの研鑽と血の滲む努力を行うのは別段不思議な事ではない。
 時臣とて遠坂という家紋を継ぎながらに凡庸だった己が才を呪う暇すらなく、周りが十の努力をするのならその倍の努力を血反吐を吐いて繰り返してきた。

 だがそれは自らの誇りの為、そして未来ある後継の為だ。連綿と続く業をいつの日か奇跡へと辿り着かせる為の礎。
 断じて、過去の妄執を生かし続ける為の道具ではない。

 雁夜の口にした間桐家の在り方、臓硯の真実は、桜に継承されるべきものは一切なく、ただあの老体の傀儡に成り下がるという事ではないか?
 それは果たして────時臣の願った、愛しい我が子の幸福なのだろうか?

「なあ、教えてくれ時臣……」

 目の前で珍しくも狼狽を露にする炎の魔術師を笑いもせず、雁夜は紡ぎ続ける。憎悪に囚われてなお願ったもの、悲願とした切実なる想いを。

「おまえは一体、誰の為の幸福を望んだんだ。あの昏い蟲倉の底で、泣く事も許されず絶望し続けるあの子の未来に、おまえは本当に幸せがあると思うのか?
 蟲に身体を蹂躙され、呼吸さえもあのジジィの許可がなくば行えない地獄の果てに、本当におまえの言う未来はあるのか……?」

 雁夜の言葉が時臣を惑わす。しかし、その言葉を止める術を知らなかった。

「葵さんから桜を奪い、凛ちゃんから桜を奪い、そして彼女自身からも幸ある未来を奪い取ろうと言うのなら、貴様は彼女達の夫でも父でも断じてない。
 おまえは────遠坂時臣は魔術師という名の、ただの糞野郎だ…………ッ!」

 罅割れた瞳から血の涙を流しながら、切実に雁夜は吼え上げる。時臣の一言により狂わされた家族の運命。
 それがあの人の幸せならばと身を引いた男が叫ぶ、心からの慟哭。

 一年前の再会。陽だまりである場所に、居る筈の少女の姿はなかった。

 おまえはあの時、葵が目尻に浮かべた涙の意味を知っているのか。おまえはあの時、凛が殺した感情の在り処を知っているのか。
 そして何より────昏い絶望の淵で声なき声を張り上げながら父の助けを待つ娘の想いを、貴様は理解する気すらないのかと、恋敵の男が涙を流す。

 涙を流すべき本人ではなく、悲しみに暮れるべき男ではなく、もはやただの部外者と成り下がり、けれど決定的な運命の奔流により再度巡りあった一人の男が、幸せを求める家族の為に、己が身を差し出して……

「はい、それくらいにしておきましょう雁夜?」

「…………っ!?」

 地に蹲り咽び泣く雁夜の傍らに、黒い女が浮かび上がる。美しい黒髪。薄い生地の漆黒のドレス。澄んだ色をした瞳が無遠慮に時臣をなぞり睨めつける。
 その異様、人間離れした美しさを醸し出す姿は、明らかなサーヴァントの気配。

 咄嗟の判断で令呪によりセイバーを喚び寄せようとした時臣を、

「ああ、止めておきなさい。私に貴方と争う意図はないから」

 邪気の欠片もなく引き止めた。

「どういうつもりだ……?」

「そのままの意味よ。令呪使うのは勿体無いでしょう? 私相手に一画分使うなんて無駄使いもいいところよ。
 そんな事しなくったってあの色男はそのうち駆けつけるだろうし、まともにやりあったら私、きっと秒殺されちゃうもの」

 ひらひらと掌を振りながらあっけらかんとのたまうサーヴァントらしい女に時臣は訝しむ事しか出来ない。

「ふん……ならば今ここで君を討ち取るのは容易いという事だろう?」

「そうしたいならしてもいいけど、本当にそれでいいの? 貴方には今、他に考えるべき事があるんじゃない?」

「…………っ!」

 妖しく微笑む女が時臣の感情のゆらめきを悟り、傍らにあるマスターを重そうに抱え上げた。

「……逃げる気か?」

「ええ、もちろん。マスターはもう瀕死だけど、今殺すには惜しいし。私だってもう少しくらいこの世界を堪能したいもの」

 時臣に窺い知れる目の前の女のステータスは確かに総じて低い。それこそセイバーと比べれば何一つ勝る点がなく、隠された能力でもなければ寸断するのは簡単だろう。
 思念は既に送っている。令呪に訴えるまでもなくあと数秒もすればセイバーはこの場所に駆けつけてくれる。

 だがそれだと僅かに、この女が消える方が早いか。

「じゃあね、お強い魔術師さん。貴方の悩みは人として正しい。そして魔術師であるが故に苦しい。
 二律背反。後悔のないように選びなさい。私のマスターが、命を賭けてまで紡いだ言葉であるのだから」

 そうしてクラス名さえ明かさなかった女は、重傷のマスターを抱えて森の奥へと消えていった。

「…………」

 残された魔術師は独り空を見上げる。既に暗く夜に閉ざされた空に、白い月が浮かんでいた。

 これまで自らの生き方に何の迷いもなく邁進してきた男に芽生えた一つの葛藤。魔術師としての己と人としての己。在るべき本当の自己も分からないままに、静かに──闘争の幕もまた降りていった。














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