正義の烙印 Act.6









/Chronicle


 女にとって、その男は全てだった。

 神の命に逆らい逆鱗に触れ、身に宿していたありとあらゆる力を剥奪され、ただの女に貶められた彼の者にとって、止めの如く下された罰は死にも等しい痛みだった。
 永遠の眠り。人の寄り付かない極地。ただただ訪れる時を待つ眠りの中で、彼女は涙を零し続けた。

 たとえその刑が自らの過ちに拠った罪科であろうとも、自らの判断による反逆であろうとも、その結末に納得など出来はしなかった。
 目が覚めた後より続く地獄よりも酷い煉獄。死する時まで、否──死してさえ連なる咎ならば、いっそこの身を、この記憶さえも消し去って欲しいと願っていた。

 だが、彼女の涙は裏切られた。

 業炎の焔を超えて、死んだように横たわる彼女を眠りから呼び起こした者は、彼女の想像を裏切った。奇跡か、あるいは運命か。そのどちらでもないのなら、彼女に罰を下した神の気紛れに違いない。

 世に遍く物語は、常に王子様の口付けにより目覚める美女の微笑みによって締めくくられる。
 だが彼女と彼にとっての物語は、まさしくこの時始まり、そして世にある幸福な終わりなど無い、愛と嫉妬に塗れた惨劇の終焉へと一歩を踏み出したのだ。



「…………ぁ」

 掠れた声が喉を衝いて出る。重い瞼を開いた先、真っ先に視界に飛び込んできたのは明るい光の束だった。人工の灯火などではない天然の、そして夜を最も美しく染め上げる月の輝きが眠りより醒めた雁夜を出迎えた。

「あら、やっと起きた」

 少し上から聞こえた声に何とも動きの鈍いを首をどうにか動かし、その女の顔を認めた。

「……おまえか」

「そんな言い方って無いんじゃない? 貴方が今枕にしてるのは、一体誰の太腿だと思ってるんだか」

 夜に溶け込む黒髪を靡かせる己がサーヴァントの妖艶な微笑みから目を逸らし、現状を把握すべく瞳を動かした。
 そこは見慣れた場所だった。未遠川に隣接する海浜公園の一角にあるベンチの上。奇しくもその場所は、一年前、葵が彼に訣別を言い渡した場所であった。

「……皮肉だな」

 まだ全ての理解が追いつかない頭で、けれどその言葉だけを吐き出した。今夜は少しばかり寒いのか、吐いた息は白さを残していた。

「何よ、私じゃ不満だっていうの?」

 雁夜の言葉を違う意味で解釈した女は少しばかり頬を膨らませ膝の上に頭を乗せたマスターを睨めつける。

「ああ、おまえなんかじゃ役者不足だ。俺はもっといい女に膝枕して欲しいんだ」

 そんな下らない夢が口を衝いた事が馬鹿らしくて苦笑を浮かべた。同時に、身体中を駆け抜ける電流のような痛みが走り顔を顰める。

「……ちっ。おい、一体俺はどうなったんだ?」

 雁夜が最後に認識していた光景は街外れの森の中で対峙した一人の男の姿。今持てる間桐雁夜の全てを以ってして傷の一つさえ付けられなかった魔術師の姿だ。

「本当、薄情な男。私が助けなきゃとっくに死んでたって言うのに」

 別段嘆息するでもなく女は一部始終を雁夜に語って聞かせた。遠坂時臣との対峙の場から雁夜を抱え脱出し、森を抜け、屋敷に戻らずこの場所で雁夜が目覚めるのをずっと待っていたのだと。

「…………」

 その判断は、正しい。雁夜の身体の具合を慮れば間桐の屋敷に戻るのが最善だ。臓硯の手にかかれば雁夜の身体も自然治癒を待つよりもかなり早く回復を見込める。
 ただ、森で雁夜が時臣に対して切った啖呵が、もし何らかの策略により臓硯の耳に届いていたとすれば事態はまた一変する。

 雁夜は吼えた。己が全霊を以って。

 時臣の肉体には毛ほどの傷もつけられなかったが、言葉の刃は時臣の心に何らかのダメージを与えたかもしれない。どこまでも魔術師然とした時臣の性格を考えるのなら、それは楽観に過ぎないとも思えてくるが、可能性はゼロではない。

 その結果、時臣が動きを見せたとすれば、それは雁夜自身へも跳ね返る。即ち──臓硯への反逆行為。

 雁夜を魔術師へと変えた刻印蟲も元を正せば臓硯の子飼いだ。雁夜の知り得ない知識は間違いなく持っているし、もしかしたらその気になればこの身を何時でも破滅へと追いやれるのかもしれない。

 だからこそ臓硯は静観を決め込んでいる筈だ。雁夜と臓硯の間に交わされた契約は、二人がいるからこそ成立する。
 雁夜がサーヴァントという力を手に入れ、牙を剥き臓硯を死に到らしめればそれだけで桜は救えるのだ。聖杯などに希わずとも。

 その危険性をあの老獪が考慮の一つもしていないなどと楽観視出来るほど、雁夜は愚かでも狂ってもいない。だからこそ、私情を多分に挟みながらも聖杯戦争に参加し続けているのだから。

 桜は雁夜にとって取り戻さなければならない人質。臓硯にとっても必要な駒でもあるが自らの命と天秤にかければ容易く傾くだろう。
 そして雁夜の命さえも握られているとするのならば、臓硯の掌の上で踊らされ続けていると言っても過言ではない。

 だからこそあの家に戻るわけにはいかない。この行動自体が謀反と取られようとも、今はまだ立ち向かう力を失うわけにはいかない。最悪でも後一度、この身は死を賭して戦わなければならないのだから。

「俺の声は、あいつに届いていたか……?」

 それでも、不安に駆られてそんな事を訊いてしまった。殺したいほど憎い相手。葵を、凛を、桜を守るべき幸福を自らの手で捨てた男。
 そんな男に向かって吼えた雁夜の慟哭は、あの曇りなき鏡面のような心に罅を入れられたのかと問うてしまった。

 ……自らの行動が、価値あるものだったと思いたくて。

「さあね。私には人の心なんて分からないわ」

 女の口からは気休めも慰めの言葉も零れ落ちなかった。

「少なくともあの言葉は貴方の本心なんでしょう? ならそれを誇りなさい。命に代えてまで伝えたかった言葉を、ちゃんと衝き付けてやったんだから」

 言葉は誰かに伝える為のもの。意思の表示。伝わらない言葉には価値は無い。それでも叫んだ声には意味があると、女は謳う。

「……ふん。こんな時くらいもう少し優しい言葉の一つでもかけたらどうなんだ。罰も当たらないだろうに」

「残念。そういうのは本当に愛しい人にかけて貰いなさい。私が心からの言葉を口にするのはこの世界でたった一人だけ。浮気なんて出来ないわ」

 一体何処までが本心なのか分からない曖昧な笑みを浮かべる女を見つめ、雁夜は先程垣間見た夢を追想した。

 彼女の言葉がもし本当だとしたら、彼女を眠りより呼び起こした男こそがその人物なのだろう。確かに容姿は飛び抜けて良いし、街中を闊歩すれば十人中十人が振り向くような美しさだ。
 こんな女にそこまで言わせる男というのはどんな奴なのだろうかと、益体もない考えが脳裏を過ぎった。

「……ねえ。一つ訊いてもいい?」

 珍しくもしおらしい声が降る。頭の裏にある柔らかさは変わらないままに、天頂より降り注ぐ月の光が身を乗り出した女の顔に遮られる。長い髪が顔にかかって少しだけ鬱陶しかった。

「あの時の言葉……あの魔術師に放った言葉は間違いなく貴方の本心でしょうけど、本当に貴方は、それでいいの?」

「……どういう意味だ」

「そのままよ。囚われのお姫様の為にどれだけ尽くしても、貴方に還るものなんて何もないじゃない。
 あの子の幸福を願うのどうして? その先が、自らの破滅だと知っても突き進む貴方の行動原理って一体なんなの?」

 雁夜がただ生に執着するだけなら、そもそもの話としてこの戦いに関わらなければ良かった。自らの選択が引き起こしたトリガーであろうとも、過去に戻る道は無い以上、現実を受け止めて苦悩と共に平穏に身を埋めて置けばよかった。

 自らの命を臓硯に差し出し、本来十年以上をかけて培われる修練を僅か一年の期間で行った報酬は、お粗末極まりない能力と最低限の参加条件。そして代償は命の火が灯る蝋燭のほとんどだ。

 雁夜自身も承知している。たとえ聖杯を掴み持ち帰ろうとも、桜を救い出せようとも、その後に雁夜は生きてはいまい。王子様はお姫様と幸せに暮らしました、などというハッピーエンドは用意されていないのだ。

 それでも、雁夜が求め欲したものは一体なんなのか……願ったものはなんなのかと、女は問い質した。

「そうだな……まず最初にあったのは、きっと贖罪なんだろう」

 だがそれは、上辺だけの話であり本心などではない。雁夜が家督を拒む事で桜は間桐へと養子に送られた。
 けれどもし仮に雁夜が最初から間桐の家を継いでいたところで、時臣なら他の魔術師の家に桜を送り出していただろう。その場所が今よりも酷い地獄なのか、幸福な場所なのかは誰にも分からない。

 だから雁夜の本当の気持ちは、きっと理屈なんかじゃない。引き裂かれた家族の命運に口一つ挟む事無く受け入れようとする葵と凛の涙と、絶望の底で希望さえ抱けない桜の嗚咽の代弁であり、彼女達を悲しませる男への報復。

 もっと端的に言えば、いつか失った愛の裏返しでありただの嫉妬。幸せにしたかった誰かと、幸せにしなかった誰かへの。

「きっと俺の行動原理なんて、おまえが望むようなご大層なもんじゃない。一言で言えばただの衝動だろう。決断を迫られた時、それ以外の選択肢なんか選ぼうとさえ思わなかったからな」

 あの男の焔に焼き尽くされた雁夜にとって、もはや原初の心さえ理解不能。憎しみが先にあったのか、怒りが先にあったのか。憐憫からの行動なのか見返りを欲してのものなのかすら分からない。

 ただ一念……桜を救いたいと。葵や凛の涙を止めたいという衝動だけが、死に往く雁夜を未だ現世に留める感情の在り処なのだから。

「そう……それが貴方を衝き動かすもの……」

 女が悲しみに目を伏せる。一体どんな心の機微から雁夜に哀れみを抱くのか、分かりさえしなかったが、動きの悪い腕を伸ばして白い頬を撫でる。

「何故、泣く?」

「……泣いてなんかいないわ」

 強がりか、けれど柔らかな頬を零れ落ちていく雫は止め処なく。皺枯れた雁夜の指先に潤いを齎している。

「でも、そうね。私は貴方が羨ましい。貴方のように強ければ、私はあの人を失わずに済んだかもしれないのに」

「…………」

 それ以上女にかける言葉を雁夜は持たなかった。この女の生前など知る由もないし、先程の夢も何らかの偶然が働いたものでしかない。涙の理由も知らないくせに、飾りだけの慰めの言葉をかける気にはならなかった。

「俺は、強くなんかない」

 だからこれはただの独白。呟いてみたところで、寒空に吹く風に攫われるだけのなんて事のない独り言だ。

「俺は矛盾ばかり抱えている。彼女達の幸福を願いながら時臣には憎悪を抱き、聖杯を掴み桜を遠坂に帰したところで、あの男が生きていれば堂々巡り。ならば殺してしまえばいいのかと訊かれれば、口を噤んでしまう」

 葵は承知した上で遠坂に嫁いだのだ。雁夜ではなく、時臣を選んだ。そして二人の子を生し、悲劇が起こった。それでも受け入れようとしている。最初から背負うと決めた業であると。

 雁夜は時臣が憎い。それこそ八つ裂きにしても足りない程に憎悪している。けれど葵が、凛が、桜が雁夜と同じ気持ちなのかは分からない。分からないから、

「彼女達の幸福の意味すら知らず、その事なんかまるっきり忘れたふりをして、己が良いと思う事ばかりを目に映す、ただの臆病者でしかない」

 不都合な真実から目を逸らし、自らを正当化し続けている。雁夜が聖杯を掴めば彼女達は本当に幸福になれるのか、時臣を殺せば彼女達は泣いて喜ぶのか……そんな事さえ分からないままに、衝動に従い命を浪費しているだけの木偶。

「ああ、おまえがあの屋上で俺に言った言葉は正しい。俺は結局、桜の為だと謳いながら、葵さんや凛の為だと吼えながら、自分自身の事しか考えていなかった」

 それでも、そう思わなければ雁夜はもう立ってさえいられなくなる。全てをかなぐり捨てて臨んだ闘争の果てに、彼女達の涙しか残されないのだとしたら、一体何の為に戦う決意なのかと迷ってしまうから。

「俺は俺が正しいとは思わない。けれど間違っているとも思っていない。ただこの戦いの果てに、彼女達が笑ってくれさえすれば、それでいい」

 ────それが、答え。

 間桐雁夜の祈り。多大な矛盾を抱え、大いなる代償を支払い夢見るもの。道なき道を夢想する、或る愚者の見る夢のカタチ。

「……そう。でもやっぱり、貴方は強いわ。だから今はもう少しだけ、眠りなさい。貴方はきっともう一度立ち向かわなければならなくなるから。その時の為に、翼を休めておきなさい」

「ああ……、うん」

 重くなっていく瞼を押し留める術を知らない。最後に、女の頬を滑った掌の温かさだけが少しだけ、余韻を残していた。



 眠りに落ちたマスターの頬を撫で、女は月を仰ぎ見る。夜の中に輝く楕円が、今は目に眩かった。

「大丈夫よ、雁夜。貴方はきっと、私のように狂わない。その最期の時まで、矛盾を抱えて死んでゆくだけ。
 願いが叶うかどうかなんて、私には保証できないけど。ただ、終わる時まで貴方に付き合ってあげるから」

 愛に狂い、愛ゆえに愛しき人を死なせた女が暗闇に呟く。彼女にとって愛とは胸を焦がす激情であり、身を縛る鎖でもあった。
 自らの過ちと、彼が嵌った坩堝より脱する術を、あの時彼女は死以外に知らなかった。

 後悔と未練。無念と悔恨は今なお尽きず。愛を信じ、彼を信じなかった己の浅はかさを呪い、けれど今代では同じ過ちは繰り返さない。
 眠りよりも以前、多くの者を導いてきた宿命のように。彼女はまた、膝の上で眠る男を死へと誘い命を散らす。

 そう、彼女が貫くべきは彼への想いだけ。それ以外のものなど、どうして必要なのだろうか。

「私が導いてあげるから。貴方はただ、自分の思うままに、その命を賭ければいい」

 自愛ではない慈愛。失った愛を胸に、女は優しく頬を撫でて。

「おやすみなさい、雁夜。目が覚めた時、貴方は今一度戦いに赴く事になるのだから」

 ──冴え凍る月の下。
 死んだように眠る男を見つめる彼女の瞳は、聖母のように優しかった。


/Observation


 その日、言峰綺礼は最低限の用事がある時以外、ずっと自室に閉じ篭ったままだった。

 時臣の外出という好機さえも見逃して、ただ忠実に彼の命に従っていた。いや、綺礼にとって、そうまでして動く必要性がなかっただけに過ぎない。
 件の森での戦況はアサシンの目を通して把握しているし、必要に駆られ切嗣を援護する真似さえしたが、時臣に露見する事など有り得ない。

 もしあの森へと自ら踏み込み、切嗣との対峙を望んでいたとすれば、より厄介な状況に置かれていたに違いない。今はまだ、邂逅の時ではない。今は巡り来る時を手繰り寄せる状況を作り上げる事に終始する。

 理想的な局面とは、即ち綺礼と切嗣しか残っていない状況に尽きる。

 他のマスター、サーヴァントが全て脱落してしまえば、余計な横槍など入る筈もない。そこまで行かずとも、今は参加者を減らす為に奔走すべき時。

 ……ではあるのだが、綺礼は表立って動ける状況にはない。

 アサシンを動員し、アインツベルンの森にいた者全てに監視をつけてある。最たる収穫はランサー組の新たな拠点と、切嗣の動向か。

 そして既に屋敷に帰り着いている筈の時臣からの連絡は一切ない。森での一連の出来事を綺礼には黙秘としておく腹積もりなのか、何かそうは出来ない状況にあるのか、どちらにせよ綺礼は彼の言う通りにこの場所を動くつもりはなかった。

 動かせる手足はまだ半分ある。時臣へと伝えるべき情報も小出しにすれば幾らかの時間は稼げるだろう。その間にすべき事は、他の参加者の誘導にして扇動。

 目立ってアサシンの能力を行使し、マスターを刈り取るなどという行為は出来ない。それは時臣の是とするやり方ではないからだ。
 そんな事をしていらぬ感情を師から向けられるなど面倒極まりないし、アサシンの能力を過大評価しない綺礼にとってはリスクの大きな賭けでもある。

 分の悪い博打を打ってまで状況を作りかえる段階ではない……少なくとも今はまだ。

 現在七人七騎の参加者は、程度の差こそあれ全員存命したまま。ならば自らの手を汚す事無く、敵手を刈り取ろうとする輩に相手を差し向けられればそれでいい。最たるところでは切嗣の目の前にランサー組を誘き出せれば是が非でも彼は殺すだろう。

「……まあ、そこまで巧く行けば苦労もない」

 元より綺礼は誰かを動かすよりも自らが動く事を良しとする者だ。それは苦行の中に解を求める行いであったが、綺礼はそのようにして生きてきた。だからこそ、今更人を動かす術をすぐさま習得できるかと訊かれれば首を横に振るしかない。

 アサシンを動かし、ランサーを誘き寄せ、切嗣の前に連れ出し、殺させる。

 この流れを組み上げるに際し、綺礼は思いの他梃子摺っていた。そして、その間に既に状況は動き出していた。

「そうだな……おまえならば、私の助力などなくともやり遂げるだろう。そうでなければつまらない」

 ──つまらない。

 その単語が自らの口を衝いた事に苦笑する。物事を愉悦で判断してきた事もない綺礼にとって、驚愕さえ覚えかねない吐露はしかし、苦笑いの一つで済まされた。
 元より綺礼にとって、今の己を判断する思考さえ欠落している。自らの行動理由にさえ疑問を抱いてしまう状態では、まともな決断など望むべくもない。

 だからこそ、心の赴くままに動き続ける。

 たとえ自らに還る咎を負う事になろうと構わない。師への冒涜さえも許諾しよう。かつてない感情の奔流に身を任せ、行き着いた先で答えを見つめ苦悩すればそれでいい。何も分からないままに悩み続けるのはもう御免だ。

「この果てにあるのはより過酷な煉獄か、あるいは全てを祝福する福音か……どちらにせよ必ず、答えはある」

 もはや確信に近い予感がある。綺礼がこの闘争に招かれた意味があるのなら、きっとその場所に全てが置かれている。
 開いた宝箱から飛び出すのは黒い絶望であっても、白い希望であろうとも構わない。答えを識る事に意味があるのだから。

「では、見せて貰おうか、衛宮切嗣。おまえの求めるものを」

 ──厳かに。神前で捧げる懺悔のように呟かれた言の葉は、誰の耳に届く事無く消えていった。


/Judas Pain


 アインツベルンの森での決定的な敗戦を受け、逃亡した切嗣らはまず街中にある貸しガレージにメルセデス・ベンツを戻し、幾らかの尾行対策を行った後にタクシーでアイリスフィール達の拠点へと帰還するべく走らせる。

 確実な目視はされていない筈だが、アイリスフィールと舞弥の存在は既に露見したと考えていい。更に妄執的に切嗣を狙っている言峰綺礼とそのサーヴァントの能力を鑑みれば、この屋敷に連れ立って戻る事は余り良くはない事態だったが、そうも言っていられない現状を優先し彼らは多少のリスクを押して拠点へと帰還した。

 運転手への応対もそこそこに、屋敷内ではなく庭先へと二人は降り立った。

「アイリ、君はもう休むといい。今日は疲れただろう」

「ううん、大丈夫。切嗣はまだ休まないんでしょう? なら私も、もう少し付き合せて」

 これからの事を思えばアイリスフィールには休んでいて欲しかった切嗣だったが、口論をしている時間さえ惜しい。刻々と零れていく砂時計を止める為に、今は一刻も早く行動を起こさなければならない。

「わかった。聴こえているかアーチャー? おまえは一度土蔵に入れ。アイリの敷いてくれた陣の上なら、多少は魔力の抑制が可能になる」

 姿なき弓兵が土蔵へと向かう気配を感じながら、切嗣とアイリスフィールも後を追う。エーテルで編まれているサーヴァントは地脈の流れの活発な地点で身を休める事で回復を行う事が出来る。
 この家の地脈は決して高い部類ではないが、アイリスフィールが敷いた陣のお陰でそこらで座しているよりは幾らか効果を望めるだろう。

 閂の刺さった重々しい扉を開き、人工の暗闇の中へと足を踏み入れる。空に浮かぶ月の灯りだけが頼りなく差し込むボロボロの室内に、三人の男女が居並んだ。

「姿を見せろ」

 有無を言わせない切嗣の言葉に、アーチャーもまた無言のまま実体化する。

「────っ」

 息を呑んだのはアイリスフィールだった。魔法陣中央に座す血濡れの外套。身体の到るところに刻まれた無数の傷痕より零れ落ちる血流は止まらない。ぽたり、ぽたりと時を刻むごとに血の斑点は増えていく。

 決定的に相性面で不利な立場にありながら、致命傷を一つも被らなかったのは幸運ではなくアーチャーの力量だ。赤槍の能力を看破し、黄槍の能力を警戒した結果、わざと隙を見せる事で相手の攻め手を限定し、迎撃に当てる。

 研ぎ澄まされた心眼の成せる技だが、それでもランサーの繰る双槍とは相性が悪すぎたと言わざるを得ない。

 今なお身体に刻まれた傷の全てがアインツベルンの森で受けたものであり、そして事ここに至って癒える気配を全く見せない呪いだった。
 更に深刻なのは、切嗣より吸い上げられていく魔力。傷を癒そうと魔力を吸い上げてみても、当の傷は癒えないばかりか、魔力だけが多量に消費されていく現状を長くは続けられない。

「…………」

 早々に打つべき一手はランサーの討伐。アーチャーを活かし切る為には必要不可欠な一手であり、その素性についても既に見当はついている。
 癒えない傷をつける槍。魔を破却する槍。双方の能力を解した今、双槍の槍兵の正体についても確信を得た。

 フィオナ騎士団が一番槍────輝く貌のディルムッド・オディナ。

 無双の豪傑にして悲劇の英雄と謳われるこの男に、もはや間違いなどあるまい。だが今詮索すべきはランサーの素性ではなく、アーチャーへの詰問だ。

「何故黙っていた」

 黒く渦を巻く瞳がアーチャーへと突き刺さる。灰色の瞳はその瞳を目視すらせず、自嘲の笑みを吊り上げた。

「マスターに訊かれた時は本当に記憶が曖昧だったからな。確信のない言葉に惑わされるなど面倒この上ないだろう? 多少の理解は得た今も、自ら口にするべき事でもないと思ったまでだ。
 それに本来なら私が生前魔術師だったからといって戦いに支障をきたす筈はなかった。逆に言えば、あの男の能力を黙っていたマスターの方に非があると思うが?」

「…………」

 それは疑いようのない事実。切嗣はアーチャーに自分が垣間見た他のサーヴァントの能力を一切明かしていなかった。
 切嗣が知るアーチャーの秀でた能力は遠距離よりの精密射撃。よもやランサー相手に剣を握るとは思っていなかったし、近接戦闘の心得がある事すら知らなかった。

 ならばアーチャーを重用する戦場は狙撃の可能な戦闘に限定され、その運用でいくのならアーチャーが他のサーヴァントの能力を知る必然性などなかった。
 あくまでこちらからの一方的な攻撃。詰め寄られる前に離脱し、ヒットアンドアウェイによる戦法がこの弓兵を生かす最大の運用だと思っていた。

 ……いいや。そんなものは建前だ。

 切嗣はただ、アーチャーを道具としてしか見ていなかったのだ。道具に語りかける口は持たないし、最低限のやり取りで必要充分だと了解していた。
 サーヴァントはただマスターに忠実な手足であれば良く、そこに余計な意思の介入など必要ない。しかしその点を鑑みるのなら、あるいは全ては切嗣の失策であろうが。

 そして今のアーチャーの口ぶり。これだけの傷を負ってなお余裕を垣間見せる表情は、ランサーの能力を知っていた可能性さえ疑いたくなる。
 この現状を作り上げる為の策略だと。……そんな無駄な事をする理由までは思い至らなかったが。

「ならば話せ。戻っている限りの記憶であろうと己の能力くらいは既に把握している筈だ」

 でなければ、あんな無茶な戦い方は有り得ない。

「察しはついているだろう? 恐らくその通りで間違いはない」

 あくまで自分の口から語るつもりはないのか、アーチャーは切嗣の言葉を一言に斬って捨てる。やはり、この男の思考が読めない。一体何を考えて行動しているのかまるで把握できない。

 切嗣自身がサーヴァントとの馴れ合いを拒絶しているとはいえ、こうも非協力的なサーヴァントも他にいまい。聖杯に招かれる英霊は須らく願いを宿す。奇跡の願望器に託す祈りがあるが故に、気に食わずとも利害の一致を条件に互いに手を尽くし合う。

 しかしこの男は、その関係すらも放棄しているようにしか見えない。

「……そうか。なら僕もおまえの能力を今まで通りに運用させてもらう。その特性からセイバーとランサーとの相性が良くはないと理解もした。もう二度とこんな敗走はない。だが────」

 今までの詰問の調子だった瞳から、更に色が失われる。それこそ、敵と相対した時に垣間見せる程に昏く蟠った瞳の色に。

「これだけは聞かせて貰う。貴様の目的は何だ。何故僕の召喚に応じた。一体何を、聖杯に託す」

 本来であれば、切嗣の口からは決して零れ出ないであろう言葉。己が信じる祈りの為に邁進する魔術師殺しにとって、他者の願いなど正しくどうでもいい代物の筈。
 自らの願いと相反する……それこそ世界の破滅を願う狂った怨霊でもない限り、問い質したりはしなかっただろう。

 それでも、この弓兵には問うておかねばならないと切嗣は確信した。

 確たる祈り。願いの意味。世界に召抱えられる程に到った英雄が、人に頭を垂れてまで欲した望みの正体を。

「────聖杯に託す願いなど有り得ない」

 だからこそ、アーチャーの言霊はおかしかった。切嗣が訝しみ、アイリスフィールでさえ疑問を浮かべる。

「オレの望みは聖杯に託すような類のものではなく、己が手で切り拓く為のものだ。奇跡とやらに縋りついてまで果たしたい大望などではない、余りにも利己的で我欲に満ち満ちた祈りだけだ」

 だが、と前置いて更に続ける。

「本当にありとあらゆる奇跡を具現化し、どんな願いも叶う願望器などという存在があるのなら……そうだな、マスターと同じように、恒久の平和を望むのもいいだろう。たとえそれが、魔法よりも遠い場所にあるものだとしてもな」

「……貴様」

 切嗣の顔が憤怒に濡れる。今の妄言、それこそ切嗣の祈りを踏み躙る侮辱だ。有り得ないと。そんな馬鹿げた話はないとアーチャーは謳ったのだから。

「待って」

 だが切嗣が口火を切るよりも先に、アイリスフィールが一歩踏み出した。

「ねえアーチャー。貴方は、有り得ないと言うの? 切嗣の……いいえ、私達の夢見た世界が」

「さあな。私とて世界の全てを知り尽くしているわけじゃない。あるいは、そんな奇跡を可能とする代物も世の中にはあるかもしれん」

「それこそがこの地に眠る聖杯じゃない。無色の力。方向性のない力の渦は、所有者の願いを叶える膨大なまでの魔力の賜物なんだから」

「…………」

 押し黙るアーチャー。睨みつけたままの切嗣。悲しげな顔のアイリスフィール。三者三様の様相を呈し、耳を劈くほどの静寂に閉ざされた土蔵に、その時響き渡ったのは無機質な電子音だった。

「アイリ。もういい、行こう」

 懐より携帯を取り出しつつ切嗣が妻の手を引く。

「でも……」

「いいから。一度外に出るんだ」

 そのまま切嗣に手を引かれ、二人は暗闇から抜け出していった。



 重い扉が閉ざされ、小さな窓枠から蒼白い光が零れてくる。足元より生まれる温かな燐光は、もしかしてこの身が忘れた母の温もりなのかもしれない。

 そんな下らない思索を振り払うように自嘲を刻む。そして思い浮かべるのは、消えない記憶であり心の在り処。

 全てを磨耗した己が唯一忘れもしない一つの出会い。いつかはもう思い出せないものと思っていたけれど、この時間、この場所に訪れた今は、ほんの少し前の出来事のように思い返せる。

 美しい金砂の髪。淡い月の雫に濡れる立ち姿。透き通る聖緑の瞳。光を映し出す銀色の甲冑に、目も冴える青のドレス。
 今みたいに座したまま、ぼんやりと見上げたその姿。余りの美しさに見惚れ、余りの尊さに心奪われた。

 奇跡。そう、あの出会いこそが奇跡だった。まだ理想を信じられた頃の、大きな翼を持っていた己が見た永久の夢。
 走り抜けた短い時間。迷いも葛藤も全てを抱え込み、ただ前だけを見て走り続けられたあの頃の自分は、もう何処にもいない。

 ……そう、いないのだ。

「ああ、爺さんの言うとおりだったよ。夢を見られるのは子供だけだったんだ。大人になってしまった今、あの頃の心はもう、完全に忘れてしまった」

 知りすぎた。知りたくもない事を知りすぎた。世の中にはどうしようもないものが多すぎて、救えないものがありすぎると。そして、そんな全てを救う奇跡なんてものは、最初から用意などされていないのだと。

 神なんていう存在が仮に存在したとしても、そんな奇跡を賜る筈がない。だってそうだろう、この世がそんな道化が作り出したものであるならば、終わる事のないエンドロールだけを見ていても飽きるだけだ。

 この世界が神の箱庭であるのなら、その中で紡がれる幸福と絶望に酔い痴れているに違いない。自らの掌で踊り続ける人間達の劇を眺め続けているに違いない。
 ドラマは起伏があってこそ成立する。失われたものがあって、その先に生き延びた人間の心が涙を誘う。全てが救われるハッピーエンドなんて、白けるだけだ。

 だから。

「……ないんだよ。貴方の夢は、この世界の何処にも存在しなかったんだ」

 世界の外側にすら存在しなかった一つの祈り。全てを理解した己と、過去の自分が憧れた人物が目の前にあるこの現状を、一体どうすればいいのか分からない。
 この道の先にあるものは、絶望の怨嗟でしかない事を知っている。だが今それを口にしたところで、一体誰が救われるというのだろうか。

 それでも、己は確かに走り続けた筈だ。託された夢を愚直に信じ、尽きる事のない絶望の中から、少しでも多くの希望を掬い上げようと命を賭した。
 その結末が今の己。全てを失くし、憎悪に心囚われた醜いこの自分でも、あの日の誓いは覚えている。

『爺さんの夢は、俺が────』

 それは呪い。この弓兵の生き様を決定付けた呪詛だった。何も持たない人形に吹き込まれた命の息吹。人の形をした機巧。夢を織る機械。選べる選択肢なんかなく、ただただ原初の心だけを信じ、そして果てた無銘の男の人生。

 救われる筈がない。奇跡なんてものは起こらない。それでも……それでも少しでも多くの人を救いたいと、奔走してきた自分は、ならば嘘なのだろうか。

 分からない。何もかもが分からない。あの男と出会い、あの男が成そうとしている行動の全てが目に眩い。
 失った心。失くした憧憬。それを、歪めたままでも持ち続けている衛宮切嗣という男がアーチャーの心を惑わせる。

 ……ああ、やはり貴方は、オレを狂わせるのか。

 声に出して笑い出したい感情を抑え込み、小さく小さく自嘲する。

 ならば征こう。その果てへ。救われるもののない絶望の淵へ。
 全ての始まりにして終わりの地へ。変えられない結末であろうとも、その中で足掻き続ける事こそが、この身に刻まれた烙印の証明なのだから。



「……ああ。わかった、すぐに向かう」

 別行動をしていた舞弥より報告を受けた切嗣は、手入れの行き届いていない庭園から空の彼方に浮かぶ月を見上げる。
 懐より取り出した煙草に火を灯し、吐き出した紫煙が夜霧を焦がす。

「……切嗣」

 所在なさげに庭に立ち尽くしていたアイリスフィールに、柔らかく視線を投げる。恐らくこんな目が出来るのはこの瞬間が最後だろうから。

「大丈夫、何も心配はいらない。聖杯を手に入れるのはこの僕だ。祈りを叶えるのはこの僕だ。他の誰にも渡さない」

 たとえ己がサーヴァントとの間に見えない軋轢があったとしても、心に宿した一念を違える事はない。困難な道のりでも、万難を排して突き進むのみ。

「アイリ、君は待ってくれているだけでいい。前にも言ったけれど、時が来れば迎えに来るから。
 だから今日は、もう休むんだ」

「はい」

 アイリスフィールは悲しげな面持ちのままに頷く。夫の言を信じて。誰よりも深い愛をもって。

「でも一つだけ」

 縁側を前にしてアイリスフィールが振り向いた。

「私にはアーチャーが何をしたいのか分からない。けれど、彼も彼なりに考えて動いていると思うの。貴方を害したいと思っているわけじゃなくて、そうしなければならなかった何かがある」

「…………」

「だからお願い。少しでもいいから、ちゃんと話をして。目と目を交わして、言葉を交わして。そうすれば、きっとお互いの事が分かり合えると思うから」

 切嗣の返事を待たず家屋へと入っていく妻の後姿を見送って、紫煙を吐き出しながらもう一度空を見上げる。冴え渡る空。どこまでも暗い夜。白い円だけが穴を空ける夜空に、一つの決意を投げ掛ける。

「ダメなんだよ、アイリ。僕にはもう、そんな事をしている時間は残されていない」

 サーヴァントと交わす言葉などもう必要ない。たとえあの男が切嗣の足を引っ張る真似をしたとしても、この決意は揺るがない。
 ホルスターより引き抜く魔銃。衛宮切嗣の証たる具現のしっかりとした重みと手に吸い付く銃把の感触を握り締めて、戒めの言葉を口にする。

「……認めよう、僕は間違っていた。こんな温いやり方で、勝利を掴もうとしていた事が間違いだった」

 聖杯戦争の代名詞たるサーヴァント。戦場の華たる彼らに、切嗣は傾倒しすぎていたと自戒する。与えられた駒で他の参加者と同じように戦うなど、元より魔術師殺しの衛宮切嗣らしくもない戦法だった。

 切嗣の戦い方はもっと悪辣で外道だった。百人が見れば百人が非難するやり方で、目的を遂行してきた筈だ。手段は問わず、確実な死を衝き付ける。
 秤にかけるべきは命の重さ。そこに貴賎は存在しない。切嗣が祈る願いが形に成れば、それこそ世界中の人間が救われる。

 その為ならば──この街の人間を殺し尽くしたところで構わない。

 冷徹な思考。かつての自分はそうやって数多の戦場を生き抜き、数多の外道を葬ってきた筈だ。思い出せ。たとえそれが悪に拠った手段であっても、結果として多くが救えるのならそれが『正義』だ。

 誰もが彼を非難して誰もが彼を忌避しようと、その生き方は変えないし変えられない。この闘争の果てに掴み取る恒久の平和の為ならば、たとえこの世全ての悪を担う事になろうとも、己の正義を信じ貫こう。

 夢想に存在する誰もが知る正義では、決して何も救えない。正義という形ないものに意味を与えるのは、本人の主観でしかない。
 だからこれは正義だ。今は悪と蔑まれようとも、その結果を目にした時に理解する。正義だったと。切嗣の行為は正義であったのだと。

 幼少期に捨て去った一つの夢。現実の壁を超えられないと理解したあの時より、けれど夢見た正義がこの道の先にあるのなら。悪鬼羅刹に成り下がろうと、修羅畜生に堕ちようと手にする銃身で敵を討つ。

 灰を風に攫われる煙草が手を離れ地に落ちていき、靴底で踏み躙る。心の何処かで歯車が噛み合った。

 深く瞼を閉じ、もう一度開いた瞳には闇しか映しこまない。振り返ればいる大切な人も省みない。成すべき事はたった一つ。この地に集う英雄豪傑を葬り去り、聖杯の頂へと駆け上がるのみ。

 ならば征こう。その果てへ。全てが救われる希望の峰へ。
 全ての終わりにして始まりの地へ。世界を変える為に、命を賭して結果を追い求める事こそが、この身に刻んだ正義の証明なのだから。


/Whereabouts of the Love


「…………」

 錆びた鉄の臭いが充満する室内で、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは静かに黙考を続ける。今し方ランサーより聞かされたアインツベルンの森での一部始終について、反芻し続ける。

 追い詰めたアーチャーとそのマスターへと後一手のところで横槍をくれたアサシンを警戒し、決定的な止めこそ刺せなかったものの、ランサーは確かに戦果を上げた。
 アーチャーの身に刻んだ不治の呪い。致命傷足りえるものがなくとも、以前のようにまともに弓を射られるわけもなく、消費する魔力も増大した。これならば、先日のような奇襲狙撃は簡単には行えない。

 ランサーは成し遂げた。首級こそ奪えなかったものの、ケイネスの提示した条件であるゲイ・ボウでのダメージ蓄積、ソラウの護衛を完遂して見せたのだ。

「……ふむ。まあ、良くやった」

 だからここは一つの落としどころだ。ここでケイネスが噛み付いたとしても、不利益を被るのはケイネス自身であり危険に晒されるのはソラウだ。まだ認めないと憚れば、ソラウは何度でもランサーを連れ立って出て行く腹積もりであろうから。

 そんな面倒を二度も三度も背負い込みたくはない。今回にしても、気が休まる時などなかったのだから。彼女らが帰還した時、知らず安堵の溜め息が零れたほどだ。
 ケイネス自身の負傷に関してもほぼ回復している。今も横にならずソファーに座して拝聴していたし、認識する限りで特別動きの悪い部位などない。

「今日のところは一先ず休め。明日よりまた、私と共に戦え」

「はっ──ありがとうございます」

 虫唾の走る物言いだったが、これで決着は見た筈だ。この騎士を扱う上で、心得なければいけない事も大分理解してきた。要は頑なに命じるのではなく重用している振りをしておけばいい。

 自らの忠誠が受け入れられていると思えば、この男もそれなりの働きをするだろう。後はつまらない騎士道精神とやらを戦場に持ち込まなければいいのだが……そこはまた別の問題か。

 次戦よりはケイネス自身も参戦する。ならば戦いの比重はサーヴァント戦よりもマスター同士の戦いに重きを置く事になる。最悪でも、ランサーは足止めさえしてくれればそれでいい。その間にケイネスが最強の一を以って敵マスターを駆逐する。

 人の上に立ち続けてきたケイネスにとって、目の前の槍兵も愚図な魔術師連中と大差はない。多少扱いづらいきらいはあるが、そこはケイネスの器量でカバーしてやればいい。

 これでとりあえずの目処は立った。サーヴァントを活かすも殺すもマスターの力量に拠るものならば、よろしい。時計塔の天才魔術師の力量を遺憾なく発揮するのみ。

「ん……?」

 そこではたと、長い思考に囚われている内に、姿を消していた人物に思い当たった。

「ランサー、ソラウは何処に行った?」

「つい先程、この部屋を辞されましたが。気配は感じられますのでそう遠くには行っていないかと」

「……夜風にでも当たりに行ったか。まあいい。おまえの能力、戦術、そして今まで見知った敵サーヴァントの情報を改めて整理しておくぞ」

「はい、畏まりました」

 ケイネスさえ気付かない内に、いつかの棘は少しばかり抜け落ちて。バラバラだった彼らのピースが、ここでようやく、一つに繋がりかけていた。



 廃工場の表口は目立って人通りのない道路に面しているが、裏口は鬱蒼と生い茂る雑木林へと続いている。地元民でも滅多に入ろうとしない寂れた場所。その場所に、ソラウは立っていた。

「…………」

 頬を撫でる風合いは冷たく、夜の暗さも相まって、眼前の雑木林は闇のように黒々と蠢いている。天頂に架かる月だけが、頼りない灯りとして彼女の視界を照らしている。けれど彼女の心までは、照らしきれてはいなかった。

「私は……どうすればいいの?」

 呟いてみたところで還る言葉などない。望んで独りになれる場所を求めたのだから。悩みを晴らす為、あるいは考える為に。
 そして彼女を悩ませる要因は、考えるまでもなくランサーの事だった。

 ソラウはランサーと共にアインツベルンの森でそれなりの成果を示し、今現在ランサーはその評価を受けている筈だ。
 ケイネスの性格を考えるのなら、素直には受け入れはしまい。しかし自らが提示した条件を達成した以上は認めざるを得ない。でなければケイネス自身のプライドに傷をつけかねないのだから。

 その結果として、どういう方向に転ぶのかは未だ判然としないままだが、少なくとも緒戦より続いていた蟠りは多少の改善を見るに違いない。ケイネスは天才である。プライドも人一倍高いが、引くべきところと貫くべきところを心得ている。

 全ては生まれ持った才能に寄りかかって生きてきたのではなく、彼自身の知恵と経験により才華を彩ってきたのだ。
 一度ランサーと距離を置き、冷静に考えられるだけの状況を得たのならば、感情論よりも優先すべき事柄があると理解し、ランサーを“活かす”道を模索してしかるべき。今一番自分が辿るべき道筋が何処にあるのかを冷静に俯瞰し、実行する。

 ランサーの能力を活かし、自らの能力を惜しみなく発揮する……そんな戦場など、瞬く間に築き上げてしまうだろう。そして、決定的な勝利へと駒を進めるだろう。

 確かな足場があるのなら、あの男は間違いなく天才なのだから。

 そして、ソラウはケイネスとランサーの間柄を保つ為に一役買って出た。本心とは裏腹に彼らの仲を取り持ってしまった。
 ランサーはケイネスに尽くす事を望んでいる。彼を思うのなら、ソラウの選択と行動に間違いなど一切なかった。

 これより続く道は、ランサーの望む道。望んだ道だ。彼の役に立てて嬉しい。彼の為に何かを成せて嬉しい。

 けれど──ならば何故、こんなにも胸が痛いのだろう……

「ソラウ様」

 胸の内側を刺す何を抉り出そうとするように、胸に手を当てて俯いていたソラウにかかる凛とした声音。甘い響きを伴わせた、いつまでも聞いていたい音色が届けられた。

「……ランサー? もうケイネスとの話は、終わったの?」

「はい。我が主は此度の我々の戦果を認めて下さいました」

 その言葉に小さく安堵する。どれくらいの信頼を得られたのかは定かではないが、彼とソラウの行動は確かにケイネスに認められたのだろう。とりあえずは喜びを覚えても良さそうだった。
 だがそれでも、胸をちくりと刺す痛みは消えるどころか、増すばかりだった。

「では休んでいた方がいいのでは? まだ魔力は充分ではないのでしょう?」

「ええ。ですが多少の無茶は承知の上。我が身を尽くすべきは貴方達の剣となり盾となる事です。なればこそ、哨戒の任に就くのは当然の事でしょう。
 ただその前に、ソラウ様には一言申し上げておきたく、この場に馳せ参じました」

「え────」

 びくりと身を竦ませるソラウ。柔らかな微笑みを浮かべながら、そんな事を言われては期待してしまう。
 彼の口から、彼女の望む言葉が零れ落ちる事などないと分かっていても、知らず望んでしまっていた。

「ありがとうございます、ソラウ様。貴女のお陰で、私はようやく己が本分を果たせそうです」

「いいえ、違うわ。私は貴方に付いていっただけだもの。あの森で成した事は貴方の当然の力量で、私は傍に立っていただけ。だから貴方は自分自身を誇るべきでしょう」

「それでも、です。もし貴方がケイネス殿に進言して下さらなかったのなら、今の自分はありません。ディルムッド・オディナという一人の従者ではなく、サーヴァントという名の傀儡に成り下がっていたでしょうから」

 ランサーの口は軽快だ。緒戦以降常に口端に悔しさを滲ませ続けていた男が、今は晴々とした表情をして謳い続ける。
 ソラウとの行軍の最中も決して見せなかった微笑み。ずっと向けて欲しかった優しい笑顔が、今は確かに咲いている。

 その表情を取り戻したのは彼自身で、ソラウはただその手助けをしただけだ。ただそれを素直に喜べないのは、彼が笑顔を向けているものは恐らく──ソラウではなく、その後ろにあるものだからだ。

 ランサーは、今目の前にあるソラウ自身を見ていない。その後ろにある“ランサーを庇い立てしたソラウ”を見ている。今この場に立つ、乙女の葛藤に苛むソラウではない。

 それが、どうしようもなく悔しい。ソラウがもし心の内を吐露したのなら、彼の表情は暗澹たるものに変わるだろう。彼がこの顔をしていられるのは、ケイネスに尽くす忠があるからだ。

 ケイネスの傍らに立ち、共に聖杯の頂を目指していけるのなら、彼はずっと笑っていてくれる。凛々しい顔を携えて、数多の強敵と鎬を削りあっていくだろう。
 しかし、その後にある勝利の微笑みをソラウには向けても、ソラウ自身を見ていないのならば意味がない。

 ──笑って欲しい。ちゃんと私を見て微笑んで欲しい。

 そんな小さな願いさえ叶えられない心の葛藤。素直になりきれない、大人の感性を身に着けた今の自分が恨めしい。
 胸の内で燻る想いが、痛みが、刻一刻と募っていく。ソラウという器に満たされた水が溢れんばかりに注がれていく。

「ランサー……」

 でも、それくらいならば許されるのではないか? ソラウが成した事を思えば、そんなものは余りに易い代償だ。ケイネスが冷静さを取り戻し、ランサーが安堵を零し、けれどソラウには何ひとつ与えられない。残らない。

 ケイネスとランサーが共に駆け抜ける傍で、ソラウは独り見守るだけ。初めから与えられていた立ち位置より一歩も進む事も戻る事もなく戦いを終えてしまう。
 この街を訪れ、運命に出会い、胸を焦がした想いさえも置き去りに。何ひとつ果たす事なく、彼らの間にあるだけの女として。

 使い捨てのもの。ケイネスとランサーの仲を取り持った仲介人。ただ歯車を正しく噛ませるだけの潤滑油だ。
 今彼女がこの場にいるのも魔道の大家に生まれたが故の必然であり、家督を継げなかったが為に捧げられた身だ。

 その生き方に不満などなかった。ソフィアリ家を繁栄させる為の道具としての政略結婚にも思うところなど何ひとつとしてなかった。生き方に疑いを持たず、己は正しいと思わされ生きてきたソラウには、その観念を崩す手段がなかったのだから。

 だけど今は違う。何も知らず、ただ誰かが望むままに生きてきた過去の自分とは違う。この胸を焦がす激情は、彼女自身が手に入れた初めての想いだ。

 たとえそれがランサーの魔貌の仕業であったとしても構わなかった。凍てついた心を溶かした熱き想い。生まれて初めて自身の意思で欲しいと望んだものを、手に入れる為に叫ぶのに、一体誰に遠慮する事がある?

 赤ん坊でさえ我欲を満たす為に泣き叫んで、言葉を発せないが為にその愛らしさで乞い願う。それを浅ましいと蔑む者はいまい。
 ならば彼女もまた、鉄の心を砕き、人としての心を手に入れた今、生まれたての赤ん坊のような無垢な気持ちで、心を全て曝け出してしまえばいい。

 言葉にしたい……この想いを。

 叶わぬ夢であろうとも、恋というものを成し遂げたいのだと、ソラウの内なる何かが彼女自身を衝き動かす。

 ────たとえその決断が、身を滅ぼすと知っても。
     もはや、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリの想いを留める堰は決壊していた。

「ランサー……貴方は今、言いましたよね。私のお陰で、今の自分があると」

「ええ。ソラウ様には感謝してもしきれない恩があります」

「じゃあ、一つだけ。一つだけ、私の願いを聞いて貰えますか?」

「それ、は……」

 ランサーは言葉に詰まった。紅潮するソラウの頬。見上げる瞳は潤んでいる。今彼を見上げる彼女の表情と、同じ表情をいつの日にか見た事がある。
 主君と姫の婚儀の場。誰もが祝福し、福音を信じて疑わなかったあの日、告げられた言葉がディルムッド・オディナの人生を塗り替えた。

 あの日の出来事を過ちだったとは思わない。けれど、それを繰り返して良いとも思っていない。ようやく、ようやくケイネスの信頼を取り戻したのだ。
 これから共に聖杯を目指し駆け抜けられると思った矢先に、何故彼の許嫁は、そんな目で彼を見上げているのだろう。

 止めなければならない。彼女の想いを今受け止められるほど、ランサーは器用な男ではない。ただ忠を。今代の主に捧げた献身を尽くす事こそが祈りなれば、彼女の願いは受け入れられないのだ。

「────」

 だというのに、言葉が出ない。まるで呪いのように、その言葉を受け止めよと命令が下されたように、ランサーは一言たりとも発せなかった。

「────ディルムッド、私を愛してください……」

 そして、聞いてはならない言葉が生まれ、

「な、に────?」

 振り仰いだ先。
 裏口より姿を見せた、尽くすべき主君の顔が、これ以上ない程に歪んでいて。

 その時確かにランサーは聴いたのだ。修復されかけていた信頼が崩れる音を。繋ぎ合おうとしていたピースが千切れる音を。
 進めていたつもりだった時計の針が本当は止まったままで、そして今ようやく動き出したのだと有無を言わせずに理解させられた。



「な、に────?」

 その言葉が自らの口より零れ落ちたものだったとは、ケイネスは遅れて理解した。

 自らの運動機能がどれだけ回復しているかを確認し、今後についてランサーと幾許か話し合い、哨戒に行くという言葉を聞き届け、夜風に当たりに行ったソラウが中々戻ってこない事から心配になって外へと出てみれば、何故こんな状況になっているのか、理解出来る筈もなかった。

「な……」

 何故、彼女達がこの場にいるのか。いや、ソラウがいるのはいい。だが何故ランサーがいるのだ。哨戒に出ると言った言葉は嘘だったのか? いいや、それよりも何故、ソラウがあんな言葉を口にする……?

 ぱくぱくと口を開いては閉じ、声にならない声を出そうと躍起になっているケイネスの眼前には、驚きに目を見開き口元を手で覆ったソラウと、行き場を失くした視線を彷徨わせているランサーが立っている。

 痛いほどの沈黙。木々を揺らす冷たい風が、闇を払いながら流れていく。

「我が主よ……これは」

「ふふ、ふははは、ふははははははははははははは!!」

 口火を切ろうとしたランサーの声音に重なる哄笑。天まで届けと言わんばかりに高らかに響かせるケイネスの狂い咲いたかのような高笑いが夜に吸い込まれていく。
 何がなんだか分からないままに呆然と見守るソラウとランサーを置き去りに、一分近く笑い続けたケイネスは、今度は俯き震え出した。

「そうか。そういう事か……」

 腹の底より吐き出された低い声が喉を衝く。優雅を貫いていた声でも、癇癪に駆られた声音とも違う、深い憎悪に包まれた黒き声。

「ああ、やはり私は浅はかだった。もっと早くに気が付くべきだった……」

「────っ!?」

 ゆらりと上げられたケイネスの面貌を仰ぎ見て、ソラウは声を押し殺す。凍え冴え渡る程の無感情。一切の感情を失くした貌に、憤怒も露にされた時以上に鬼気迫るものを感じ取った。

「なあランサー、どうだった? ソラウと二人で過ごした時間は」

「我が主よ、何を────」

「楽しかったか? ああ、そうだろうなぁ。私が床に伏している間に、よもやそんな事をしているとは思わなかった。いいや、思いたくはなかった。
 考えないようにしてきたが、やはり無駄だった。貴様という英雄の素性、最も華やかな舞台から主君のフィアンセを奪い去った間男だからな。ああ、やはり貴様はそういう輩か。主君の許嫁と見れば放ってはおけないという事か!」

 主の口から吐き出された暴言に反論しようとするランサーに口を差し挟ませる余地もなくケイネスは紡ぎ続ける。

「伝説にまで間男の名を馳せる英雄ともなれば、それくらいは容易いか。クック、どうだった? 何も知らぬ私の顔を見る度に笑い転げそうになっていたか? 私の目を盗んで睦言を交し合うのは背徳的な喜びに満ちていたか?」

「ケイネス────」

 茫然自失としていたソラウが声を上げようとしたところで、ケイネスの起こした行動に目を奪われる。
 掲げられる右腕。未だ二画を宿す令呪の赤い煌きに、より強い波動が集っていく。

「────まさか!」

 息を呑む。ケイネスの無表情が歪みに歪んで、憎悪や憤怒、ありったけの感情を昂ぶらせて歪を形作り。

「我がサーヴァントに刻むッ!」

 夜を震え上がらせ、闇さえも切り裂きかねない怒声を以って謳い上げる。

「二度と私の前に、その(ツラ)を見せるなァァァァ────!」

 およそサーヴァントに対する絶対遵守の命令とは思えない祈りに、されど呼応し高まっていく赤き渦。
 ケイネスの激情を具現化するようにランサーの足元より噴き出した魔力の風が彼を包み込み、一瞬の後、その場所にあった筈の魔貌の持ち主は消え失せていた。

 収束する魔力。同時に夜空へと消え去っていった令呪の一画。状況を呑み込めないままのソラウは成り行きを理解する為に言葉を噤み、私憤によって命の次に大切な令呪を消費してしまったという現実をようやく冷静な頭で理解しえたケイネスは呆然とする。

 無音を取り戻す雑木林。いつしか風の音色さえも消え失せて、虫の鳴き声も遠ざかり、残された二人の魔術師は、静寂に閉ざされた場所に置き去りとなっていた。

 どれ程の時間、二人は闇を睨み続けていたのか分からない。先に口を開いたのは、ソラウだった。

「ケイネス……貴方、なんて事を……」

 そしてケイネスもまた、己を取り戻して、笑い出した。

「ふふ、ふははは。いい気味だ、やはりあの男は信用してはならなかったんだ。あんな男をサーヴァントとした事自体が間違いだったんだッ!」

 壊れたように天を仰ぎながらランサーに対する思いの丈を暴露し続けるケイネスへと、ソラウは詰め寄る。

「なあソラウ。これで良かったんだ。もう少しで君もあの男の毒牙にかかるところだったんだ。
 君は私の婚約者なんだ、それをあの男が掠め取ろうとしやがった! だからこれは当然の処罰で、むしろ生温いとさえ言えるだろう。いっそ一思いに自害させてやったが方が奴の為だっ────」

 その時、乾いた音が木霊した。

「…………ソラ、ウ?」

 じんわりと痛み出した頬に赤みが射して、そこでようやく、ケイネスはソラウに叩かれたのだと理解した。

「貴方は、貴方はなんて事をしてくれたのっ!」

 謂れのない非難を浴びせられケイネスは困惑する。何故咎められなければならない? ケイネスはソラウを守ったのだ。主君の許嫁と見て鼻息を荒くするあの男の魔の手から、守ったのに。何故、ケイネスが平手打ちなどを喰らわなければならない?

 ああ、そうか。令呪を使った事に怒っているのだ。確かに余りに下らない命令だった。まだ終わっていない聖杯戦争を勝ち抜く為には、無駄に使用するなんて下策も下策。
 だがサーヴァントが消えた今、残された最後の一画の令呪に一体どれ程の価値があると言うのだろう?

「ランサーの気持ちも知らないで! 私の気持ちだって知らないくせに! 貴方は一体、なんて事をしてくれたのっ!」

 けれどケイネスの思惑とは違い、ソラウはランサーを消失させた事に対して憤慨する。だから余計にわけが分からなくて。
 伸ばした手をするりとすり抜けていったソラウを追う事すら出来ず、呆然と、将来を約束されていた筈の男だけが取り残された。



「はっ、はっ、はっ、ランサー……!」

 何処かへと消え去ったサーヴァントの影を求めてソラウは廃工場を飛び出した。

 不特定の命令により姿を消したランサーの行方の手掛かりなど、この世界の何処にもあるまい。ただケイネスの目の届かないところに消えたのか、霊体化しただけだったのか、世界の裏側へと飛ばされたのか、あるいは座にまで還らせられた可能性だってある。

 それでも僅かな希望にかけて飛び出した。謝らなければならない。悪いのはこの己なのだから、ちゃんと謝罪して許してもらわなければならない。そうしないと、もうあの人の傍にはいられない……

「はぁ、は、は、ぁ──、っ……」

 息も絶え絶えのままに何処をどう走ったのか分からないソラウだったが、気が付けば埠頭の辺りまで足を運んでいた。街中へと向かったところでサーヴァントが実体化して歩いているわけもなく、なるべく人気のないところを目指した結果だったのかもしれない。

 そして彼女の判断は奇しくも功を奏した。

「ラン、サー……」

 暗闇に閉ざされた海面。煌々と旋回する灯台の灯り。寄せては返す波の音を聴き、遥か彼方を見据える一人の男が、その場所に立っていた。
 背を向けたまま闇色に染まった海を見つめる美丈夫。凛々しさを誇っていた背中が、今は何処か哀愁を漂わせている気がしてならない。

 掠れるほどの声で彼の名を呼んでは見たが、二の句が喉に詰まって出てこない。なんて声をかければいい? ごめんなさいと謝れば許してもらえるのか? もし貴女のせいだと罵られたら、この身は言葉の重みに耐えられるのだろうか?

 あるいは、決定的となったケイネスとランサーの仲を利用し、自分が彼のマスターとなる為に権謀術数を巡らせればいいのか? けれどそんな上辺だけの取り繕いで、この男の心が揺れ動くのだろうか……?

「っ…………」

 結局我が身可愛さのまま、ソラウは一言すら発せず、焦がれた背中を見つめ続け、

「俺は、やはり間違っていたのかもしれない……」

 独白のように、ランサーは呟いた。

「ランサー……?」

「ただ己が理想の為の行動が、いつも誰かの運命を狂わせてきた。主君フィン・マックールの運命を狂わせ、グラニア姫の運命を狂わせ、騎士団の皆の運命を狂わせ、俺が迷わなければ死ななくても良い命が散っていった。
 それは今代でも変わらない。この身に刻まれた呪いが、ケイネス殿の勝利を揺るがし、ソラウ様の心を惑わせた」

「それは────ッ!」

「今初めて、この呪いを憎いと思う。何故、手に入れられない? 何故、誇りさえも貫けない? 騎士ならば誰もが当たり前に手に入れられるものが、どうして俺の手から零れ落ちていくんだ。
 何故俺だけが、こんな忌々しい呪いを身に刻んで生まれ落ちたッ!」

 事ここに至ってなお、ランサーは他者に非を求めてなどいなかった。我が身に刻まれた魅惑の呪い。生まれ持った天性を、受け入れていた筈の己の一部を、けれどこの時初めて罪と定めた。

 この呪いがなければ、ディルムッドは君主フィン・マックールに尽くすフィオナ騎士団の一員として生涯を全う出来たに違いない。
 時に鮮烈に激闘に身を置き、時に朋友と武勇を競い合う。肩を抱いて笑い合える日々。穏やかで、凪いだ水面もような平穏さの中に。

 激動の人生など求めてはいなかった。ただ誰よりも正しくありたかっただけなのに。ただ己の信じたものを貫きたかっただけなのに。何故、そんな小さな望みさえ手に入らないのだろうか……

 人を惑わし、人を迷わせ、己さえも狂わせる呪縛。何故こんなものを持って生まれたのかと、己の出生さえも呪ってしまう。

 ソラウに背を向けたまま、ランサーは徐に己が顔面に爪を立てる。目の下に輝く魅惑の黒子を抉り取るように、深々と爪を突き刺し皮を剥ぐ。

「ランサー、何をしているのッ……!」

 剥がれ落ちた皮の下には毒々しい肉が蠢く。赤い赤い血を吐き出しながら、美しい面貌を染めていく。

「そんな事をしたって……!」

 そう、無駄だ。生皮を剥いだところで魔力がある限り勝手に修復されていくし、たとえ生前に同じ行いをしていたとしても、あくまで黒子は魔貌の象徴でしかなく、ディルムッド自体に付与されている魅惑の呪詛は決してなくならない。

 その呪力(いのり)より、逃れる事など出来はしない。

 それでも。そう知ってなお、ランサーは突き立てる爪の力を緩める術を失っていた。それこそ己自身が切り刻まれでもしない限り抜け出せないメビウスの輪であろうとも、断ち切りたいと思う願いは彼を衝き動かす。

「やめて、もうやめてっ────!」

 ソラウがランサーの眼前へと回り、振るわれていた腕を渾身の力で掴み止める。槍兵の力ならば容易く振り払える筈のそれを、けれど振り払わずに口を開いた。

「ソラウ様、私の顔を見て頂きたい」

「────っ」

 ランサーの面を直視したソラウは息を呑む。血塗れの面貌。愛しいと思っていた美貌はまざまざと肉と繊維を曝け出し、さながら人体模型のように空恐ろしい。
 闇の中にあって煌々と輝く精悍なる瞳が、血に濡れてなおソラウを射抜く。

「貴女は、こんな俺でも愛しいと思いますか? 永遠にこの顔のままでも、貴女は俺に愛を求め続けられますか?」

 それは愛の在り処を問うものだ。ただランサーの魔貌に見惚れただけなのなら、この問いに肯定を返す事など出来る筈もない。
 けれどディルムッドという一人の男を心から愛しているのなら、たとえどんなに姿形が変わろうと、愛は不変を貫く筈だから。

「……私、は……」

 言葉に詰まるソラウを見やり、ランサーは冷笑する。
 やはり、そうなのだ。あの顔が、あの呪いがあるから女性は皆ランサーに心奪われる。本物の愛など、そこには存在しない。

 それは当然の結果で。

「いいえ、今の貴方を私は愛せません。自らを否定した貴方を、私が愛せる筈がない!」

 だから。ソラウの返答に思考の全てを奪われた。

「ソラウ様……それは、どういう……」

「私が愛しいと思ったのは、誇り高い騎士であるディルムッド・オディナです。全てを受け止め、全てを自らの内に封じて、それでも高潔に生き抜いた一人の男性です。
 どれだけ蔑まれようとも自らの生き方を曲げなかった強い人だから。今の貴方はそうじゃない。私が夢見た人なんかじゃない……!」

 それは恐らく、ソラウ自身でさえ驚きを覚える言葉だった。どんな手段に拠ってでも手に入れたかった美貌の持ち主。今上辺だけの愛と嘘を連ねれば、心を壊したこの男は彼女を抱く為に手を伸ばしてくれた筈。

 けれど違うと。そんな男を好きになったのではないと。彼女自身さえ理解し得ない……未だ水底に漂ったままだった感情が心の底より溢れ出す。

「……確かに、貴方の魔貌に見惚れたのは間違いのない事です。でもそれは、決して全て魔力によるものなんかじゃない。
 私の意志。貴方の強さに憧れた結果。私には何もなかったから。魔道に生まれ落ちて、家の繁栄の為の道具として生きてきた私に、生きる強さをくれたのは、間違いなく貴方の魔貌なのです」

「…………」

「心を凍らせたまま、ただ動いていただけの意思のない人形のような私に命を吹き込んでくれたのは貴方だから。恋をするという人の心を、胸を焦がす激情を教えてくれたのは貴方の力で、貴方の強さだから。
 だからお願い……貴方はその強さを捨てないで。勝手だっていうのは分かってるっ、でも私が好きだった人だから、私が好きだったのは、強い貴方だったから……!」

「ソラウ様……」

 ソラウの言葉が胸を衝き、ソラウの言葉が思考を抉る。ソラウの涙が、ディルムッドの迷いを鮮明にしていく。

「お願いよ、ディルムッド。貴方が貴方自身を否定してしまったら、きっと私もこの胸に生まれた感情を、信じられなくなってしまうから……」

 それは余りに利己的な吐露だったかもしれない。けれど、ランサーが今一度自らを省みる為には、充分すぎるほどの想いが詰まった言葉だった。

 ただ人の形をした“何か”だったソラウは、ランサーと出会うことで一人の“女性”に生まれ変わった。
 恋をして。嫉妬して。好きだと感じた人に振り向いて欲しくて色々な手段を打って。それでも振り向いてくれなくて、でも諦め切れなくて。

 言葉にした想いは、彼と婚約者の仲を決定的に切り裂くトリガーだったけれど。彼女は後悔の一つもしてない。
 伝えられない想いに意味はない。たとえ叶わぬ恋であろうと、その心を伝えずに終わりを迎えるのは、余りにも悲しすぎるから。

 彼の周りの者を狂わせる愛の黒子。ああ、確かにその通りだ。けれどその力は、一人の女性を人間へと変えたのだ。生きる強さを与えたのだ。発条で動く人形ではない、意思を持つ人に。

 だからそれを否定して欲しくなかった。それは与えられた愛であったかもしれない……けれど、作り物の愛ではないと信じたいから。己の内より湧き出た強く美しい感情の奔流だと願いたいから。彼自身に、己を否定などして欲しくはない。

 その想いはきっと、ソラウだけでなく彼に生前愛を迫ったグラニア姫とて同じ筈。魔貌に魅せられた恋であっても、彼女達が信じる愛が本物であるのなら。一体何処に疑いの余地があると言うのだろう……

「ああ────」

 胸に縋りつき泣き腫らすソラウに添えられる手を、けれどランサーは持っていない。だけど、彼女の言葉は本物だ。己自身を戒めはしても、己自身を呪うなどという暴挙は、およそ彼が信じる道の先にあってはならないものの筈だ。

「────そうか」

 貫こうと決めた筈だ。迷わないと誓った筈だ。己が身に刻んだ誇りにかけて、高潔でありたいと祈りを捧げて、正しくあらんと行動を連ねてきた。
 それは決して、間違いなどではなかった。間違ってなどいなかった。己の全てを受け止めて。己の全てを信じ抜いて。その上でなお、自らを誇る事こそ、ディルムッド・オディナの選んだ生き様ではなかったか。

「ありがとうございます、ソラウ様。私はもう少しで、一番大切だったものを、自らの手で捨ててしまうところだった」

「ランサー……」

「私が私自身を貶めるという事は、貴女を……そしてグラニア姫をも傷つけてしまうのですね」

 与えられた恋であっても。彼女達の愛は本物で。だからその想いを、踏み躙るような真似は決してしてはならなかったのだ────

「ならば俺は、この己を誇りたい。地に膝をつくその時まで、俺は俺自身で在り続けたいと願うから」

「ええ……!」

 ソラウは涙に濡れたまま、鮮やかな笑みを浮かべる。ランサーもまた、ソラウが焦がれた微笑みを柔らかに形にする。
 もう迷いはない。自らの愛を賭して、英雄の在り方を教えてくれた人がいるから。

 一頻り想いを涙に変えて流し尽くした後に、ソラウはランサーより一歩距離を取った。すぅと大きく息を吸い、修復を終えた美貌を真正面から見据えた。

「ランサー……いえ、ディルムッド。私は貴方が好きです。貴方は私の愛に、応えてくれますか……?」

 これはけじめだ。彼の誇りを引き裂いて、婚約者の心を傷つけた彼女なりのけじめ。胸に抱いた初めての淡い恋心に、決着を着けなければならない。

 いつの日か受けた愛の告白。あの時とは全てが違うこの場所で、ディルムッドもまた異なる答えを示さなければならない。

「申し訳ありません、ソラウ様。この身は今代の主たるケイネス殿に捧げた身。貴女の寵愛に賜る資格などありませぬ」

「ケイネスは貴方を見限ったというのに、なお忠誠を誓うと?」

「はい。それが我が身の誇り。己が貫くと決めた忠義です。その道を覆すわけには参りません」

「そうですか……」

 そう、その道を外れてしまえば、彼女が愛しいと感じた彼ではなくなる。己を誇り、己を貫く事こそが彼女が彼に求める姿であるのなら、この恋は──初めから紡がれる筈もなかったのだ。

「それじゃあ、仕方がないですね」

 だからせめて、この恋の終わりを笑顔で締めくくろう。尊き誓いを取り戻した騎士の門出を、せめて最高の笑顔で送りたいから。

 その時、ランサーは感じ取る。主の危機を。レイラインにより結ばれたその先で、火急を告げるシグナルが高らかに木霊する。

「申し訳ありません、ソラウ様。私は行かねばなりません」

「ええ、行ってください。貴方自身を貫く為に。私が大好きだった、ディルムッドである為に」

 朧と霞んでいくランサーの面貌へと、伸ばしかけた腕を寸でで引き止める。これ以上彼を穢す事はできない。確かな答えを貰えなかったその時既に、彼に触れる権利を得られなかったのだから。

「…………」

 魔力の残滓すら消え去った波止場で、ソラウは独り、緩やかに歩みながら空を見上げる。

「あぁ、やっぱり、振られちゃったか……」

 元よりそれは叶わぬ恋。成就などしないと知ってなお求めた愛だったけれど、彼を貶めてまで欲しいものではなかったから。
 あの強さに憧れて。あの気高さに恋焦がれて。でも、今の彼が求めているものはソラウの愛でないのなら、彼の意思を尊重する事も一つの愛の形だろう。

 ほんの半日前までは、ケイネスの腕を切り落としてでも渇望したディルムッドという想い人。けれど、あんな姿を見せられたら、慈愛の一つも抱いてしまう。

「……本当、罪作りな(ヒト)ね」

 悲しくないと言えば嘘になる。今すぐにでも声を上げて泣き叫びたいと心の内で感情が燻っている。でもそれはダメだ。強くならないといけないから。彼から貰ったこの愛を、強さに変えて生きていくと思えるようになったのだから。

 充分すぎるほどの心を、ソラウは彼より貰い受けた。命の火の灯った今のソラウなら、あのケイネスとだってしっかりと向き合う事が出来るだろう。

 ────謝ろう。きっと許してくれないだろうけど、全てを言葉でぶつけよう。これまでの自分とは違う、新しい自分を始める為に。

 恋は女を美しくする。愛は女を強くする。だからソラウ・ヌァザレ・ソフィアリは、新しい恋愛を求めて歩き出すのだ……

「…………えっ?」

 志を新たにした瞬間、波止場より抜け出ようとした刹那、ソラウの肢体ががくりと揺れて浮遊する。足元からバランスを崩していき、強い力で引っ張られて、アスファルトへと身体を強かに叩きつけられた。

「いっ……ッッぁっ!?」

 腕を背中へと締め上げられた体勢から、小気味良い音を響かせて片腕が圧し折られる。痛みに明滅する視界と目の端に浮かべた涙をそのままに、条件反射で振り仰げば、夜よりもなお昏い瞳が二つ光る。
 遅れて衝き付けられた黒い鉄の塊が、ソラウの額に冷たい感触を残す。

「魔術を使うと殺す。動くと殺す。喋ると殺す。言う通りにすれば命までは奪わない。理解したのなら、一緒に来て貰おう」

 声にならない声を張り上げて、ソラウは訪れた死の足音を理解した。


/Whereabouts of the Bond


「くっ────、は、Scalp()!」

 命令を下すと同時に跳ね上がる銀色の光。極薄の刃は遠心力を頼りに振り抜かれ、繰り出された白刃と火花を散らす。
 目の前の敵が足を止めて迎撃している間にケイネスは少しでも距離を開けるべく、雑多に溢れ返った廃工場の室内を駆け回り、扉一枚隔てた向こう側へと転がり込む。

「はっ、はっ、は、っ────ちくしょう……!」

 何故今己がこんな目に遭っているのかと、ケイネスは残った理性を総動員して状況を分析する。活路を見出す為に、少しでも多くの情報を自らの内より引き出す。

 ソラウとランサーの良からぬ現場を目撃し、理性の一切を塗り潰した憎悪が下した余りにも下らない命令。けれどそれで彼の心は幾分晴れた。あの間男を目の前から消し去ってやったという優越感はしかし、ソラウの平手打ちによって無惨にも崩れ去る。

 許嫁を追う事も出来ず、掴もうと伸ばした手をそのままにただただ呆然と立ち尽くしていたケイネスが、やおら冷め始めた熱を体内より吐き出すと同時に、これまで以上に覚悟を決めた眼差しを虚空に向けた。

 聖杯戦争に参加して、ケイネスは全てを失った。

 サーヴァントと隔絶し勝利へと進む道を失った。ソラウには逃げられ約束された未来さえも閉ざされた。このままおめおめと時計塔に戻ったところで、彼に向けられるのは憐憫を秘めた眼差しと隠し切れない嘲笑だ。

 もはや過去の自分と今の自分を同義として見やる者などいまい。決定的な敗北者、踊らされたピエロとしてあの魔窟にて見下し続けた連中は嘲笑うだろう。

 そんなものは断じて──許容出来る筈もない。

 気高い天才魔術師としての誇りさえも失くしてしまえば、ケイネスは自壊する。最後の一線、その心だけは何としても守り抜かなければならない。

 初めに思い描いていた栄光の道は瓦解し、残されたのは退路すらもない断崖絶壁。

 ならば良かろう。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの誇りに賭けて、我が身一つでこの戦争を終えてみせる。
 その道がどれだけ困難なものかは百も承知。けれど余りにも細く今にも切れてしまいそうな吊り橋でも、その先には最後の希望が残っている。栄光が待っている。

 立ち止まる事も戻る事も叶わず、進んでさえ絶望を味わうくらいなら。命と誇りを賭して我が道を真っ当するのだ。

「はっ──、あぁ、──っく、クク。息巻いておいて、結局このザマか」

 決意も新たに覚悟を決めたケイネスの前に現れたのは、血に染まった赤き騎士。辛酸を舐めさせてくれた弓兵が、傷だらけの身体を晒して立ちはだかった。

 思えば簡単な帰結。ランサーとの相性が悪いのならば、直接マスターを排する事などあの外道ならば考えそうな事だったのに。癒えない傷があるのなら、その元を絶つ考えは至極当然とさえ言える。

 あの時の自分はそんな事にさえ頭が回っていなかった。なんて無様だ。やはり全てはあの男を傅かせたせいであろう。
 いや、今更責任の所在を追及しても遅すぎる。今は目の前の敵を討つ事だけを考えなければ。

「は、は、はぁ、くっ────」

 扉を一刀両断し現れる血濡れの騎士。目視と同時に魔力を動員し、傍らに漂っていたケイネスが最強の一、魔道の集大成たる月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)が蠢き刃を形成。

 二刀を携えたサーヴァントを相手に、無数の刃を成して襲い掛かる呪繰水銀。ケイネスの意思を自在に反映し、レーザーもかくやという研ぎ澄まされた一撃を間断なく繰り出していく。

 上下左右より全くの同時に襲い掛かってくる刃に対し、アーチャーは手にした二刀を流麗に扱い、いなして弾き、撃ち落して弾き飛ばす。
 その隙を縫って距離を取るケイネスが充分に間合いを広げた頃に、水銀は高速で地を這い主の元へと帰り来る。追うようにアーチャーが矢を射れば、自動防御が発動し、鉄壁の盾となって主を守護する。

「ふん、なんだ。やれるじゃないか。サーヴァントなど、所詮傀儡か……」

 攻防に優れ探索機能まで備えたケイネスの礼装ならば、サーヴァントが相手でも充分以上に戦える。
 剣による攻撃は形なき流体である水銀の前では意味を成さず、矢による突破力もその威力を見定めた最大展開による盾を敷けば防げないものでもない。攻撃も、自らが危険地帯におらずとも魔力と意思さえあれば変幻自在。

 やはりケイネスの魔術理論に欠点など存在しなかった。いかに霊格の高い相手であろうとも、我が月霊髄液の前では所詮その程度なのだ。

 ───やれる。戦える。

 その事実を前にしてケイネスが意気込んだ矢先に、それは壁を粉砕して目の前を奔り抜けた。
 先程までの比ではない魔力を込められた矢が、コンクリートの壁を貫き、盾を形作った水銀壁をいとも簡単に霧散させ、外壁を貫き雑木林へと消えていく。

「…………っが、ァ……!」

 ただ大気を擦過していっただけの魔力の奔流が、ケイネスの身体を蹂躙する。あの夜、ハイアットホテルで身に受けたものと比べれば明らかに格を落とす一撃なれど、それこそがサーヴァントによる絶対たる力の証明。

「クソがぁぁぁぁぁ……!」

 憤怒も露にケイネスの激情に煽られ蠢く銀の触手。極薄の刃。針よりも収斂された槍。しなやかな鞭。変転し姿形を自在に変えて仇敵へと襲い掛かるが、全ては彼の者の剣に両断迎撃され尽くし、痛手の一つも負わせられない。

 ざぱ、と音を立てて途端に崩れ落ちた水銀が、アーチャーが訝しむ間もなく再度波のように隆起し包み込む。

「────はぁ……!」

 球体を形作りアーチャーを捕えた牢獄が、更にその内へと向けて刃を成す。逃げ場のない檻。さながら鋼鉄の処女(アイアンメイデン)のように中にあるものを串刺し、血塗れと化す。

「はっ、はぁ、はっ、ぁあ……!」

 水銀の全てを意思によって操作し変転させ続けるのは流石のケイネスでも堪える。だがこれで──

 瞬間、中より放たれた矢が皮膜を突き破り、姿を見せたアーチャーの前には一枚の盾が浮かぶ。
 淡い桃色に染まった七枚の花弁が、ケイネスの水銀を封殺する。

「っ……ぁ」

 届かない。いかなる攻撃も、サーヴァントの前では余りに無力。これが力の差。世に祀ろう英霊と、どれだけ高位にあろうとも人間でしかない魔術師の差だ。

「だが……っ!」

 もはや決意を覆す事など出来ない。全霊を以って、この敵を打ち倒すべく挑みかかる。



「がはっ……!」

 けれどその頂は高すぎた。その道は細すぎた。水銀操作による数多の戦術は悉くが凌駕され、ただの一撃を身に受ければ瀕死の傷を負うのでは、戦いにすらならなかった。
 それでもケイネスは身に刻んだ魔術刻印を酷使し続け、魔力の全てを吐き出して、抗い続けた。

「げはっ、がっ、ぁ、っ……ぁあ!」

 いつしか廃工場の中は荒れ果て、追い詰められるように外へと転がり出たケイネスはしかし、消えない眼差しを灯して睨み付ける。
 身体は既に満身創痍。魔術回路も悲鳴を上げて、刻印でさえ回転を落とし始めている。だが、負けられない、負けられるものか。全てを失ったこの己が誇りさえも捨て去ってしまったのなら、犬死するよりも惨すぎる。

 だからせめて、この命尽きるまで足掻き続けてみせる……

「なるほど、気概だけは一人前か。才能の上に胡坐を書いていただけの箱入りではないというわけか。だが人の身でサーヴァントに抗うというのは、些か無謀に過ぎたな」

 言葉の一つもなく襲い掛かってきていたアーチャーが事ここに到りようやく口を開いた。

「ハッ──サーヴァントに挑まずにマスターを狩ろうという腐った性根の持ち主である貴様が、一体何をほざいている」

「そうだな。だが生憎とそんな誇りなどは持ち合わせていない身でね。最善の結果に結びつく行動を取るのは、至極当然だと思うが?」

 だが譲ってはならない一線がある筈だ。ケイネスとて持ち合わせている一線が。人として魔術師として英霊として。超えてはいけない境界線を抜けた先は、外道に身を染める畜生道だ。
 悪を狩る為に悪を成す──それは、正しくあらんと己を戒める事を止めた愚者の戯言。忘れてはならない誇りを忘れた道化の末路。

「私は私を貫いてみせる。この身はロード・エルメロイ。時計塔に名を馳せる、一流の魔術師だッ!」

 うねる呪繰水銀が刃に変わり、風もかくやとアーチャー目掛けて飛来する。けれど二刀に阻まれ、疾風の速度で血濡れの騎士が迫り来る。

 伸ばし過ぎた水銀では、防御さえも間に合わない。自動で盾を造り上げる皮膜では、一刀の元に切り裂かれ、ケイネス諸共に地に落ちる。その結末。変えられない筈の結末が────

「そうです、ケイネス殿。己を曲げてまで手に入れた勝利に意味はない。己を貫いた先にこそ、輝ける栄光が待つのです」

 ────その男の手によって、阻まれた。

「ラン、サー……ッ!?」

 鍔競り合う二刀と二槍。有り得ない筈の援軍が、凶刃を確かに堰き止めた。

「チッ……!」

 舌打ちをし、一刀を消されたアーチャーは残る黒刃で黄槍を弾いて後退する。

「ランサー、貴様、何故……」

 ケイネスの目の前に立つ背中は若草色に包まれた戦闘服。手には黄赤の螺旋の槍。二度とは見せるなと憚った面貌を携えて、けれどサーヴァント・ランサーは主君の下へと馳せ参じた。

「申し訳ありません、ケイネス殿。私は貴方の命令を反故にしこの場所に舞い戻った。謝罪の言葉もありません。
 しかしこれが私の尽くすべき忠道、主を守り共に前に進む事こそ、我が身が望んだ騎士の道です」

 ケイネスの前に現れた瞬間、否──ケイネスの下へと参じるとランサーが決意したその時より彼の身を苛む令呪の縛り。今すぐにこの場所を去れと強制的な命令が身を戒め続ける中で、それでもランサーはこの場所に辿り着いた。

 共に聖杯を掴み取ると、初めて出会った夜に誓いを立てた。己に愛を求めた女性が背中を押してくれて、自らを貫くと硬く誓った。
 令呪が何だ、命令が何だ、そんなもので、ディルムッドは止められない。我が身を尽くすその為ならば、万難全てを穿ち駆け抜けて見せる。

「行くぞアーチャー。今宵、貴様の首級貰い受ける────!」

 爆ぜるランサー。迎え撃つアーチャー。ケイネスの意の外で、訣別した筈のサーヴァントが主君の為に槍を奮う。

「…………」

 呆然とその様を見守るケイネス。かつてセイバーを相手取っても一歩も引かなかった閃槍に、今宵ばかりはキレがない。
 ランサーの総身を縛る令呪の強制。ケイネスの下した命を完遂せんとランサーを衝き動かす縛りに抗いながらの戦闘行為は、予想を遥かに上回る至難技だった。

「がっ……っあ、ああ────!」

 アインツベルンの森でさえ、アーチャーを翻弄した螺旋の槍に冴えはなく。いつかは凌げた一撃が凌ぎ切れず、貫いた槍もいつかのようには貫けない。

 それこそが、絶対遵守の命令による呪縛。サーヴァントである限り、決して抵抗など出来る筈もない戒めに耐えるだけでも困難を極めるというのに、その状態で戦いを形だけも取り繕っているランサーの執念……忠誠心は常軌を逸している。

 言うなれば、途轍もない重力に逆らい槍を振るう所業。今すぐにでもこの場を離れようとする肉体を精神の力だけで押さえ付け、突き出す槍さえも強引に軌道を捻じ曲げてアーチャーを穿たんと繰り出す。

 けれどそんな槍を、避けきれないようなアーチャーではない。肉体に癒えない損傷こそ負っているが、ランサーのような強制力のない自由に身を扱えるアーチャーにしてみれば、目の前の男はただの愚か者にしか映らない。

 抗えない命令に抗う負け戦。決して勝ち目のない闘争に、ランサーは身を投じている……

「何故だ……」

 震える声でケイネスは呟く。眼前二十メートル程先で決死の鎬を削っている己がサーヴァントを見て、そんな言葉が零れ落ちる。

「どうして、貴様は私の前に現れた……?」

 二度とはその顔を見せるなと憚り、ソラウ共々ケイネスの元を去ったくせに、どうして今頃になって戻ってくる。ソラウとランサーの関係に、ケイネスは邪魔者であった筈だ。主君の許嫁を奪い取った時点で、あの男の目的は果たされていた筈だ。

「何故……!」

 何故、戻ってきた。
 何故、令呪に逆らう。
 何故、ケイネスを守る為に──その槍を振るうのだ……?

 まだ辱め足りないというのか。まだ嘲笑い足りないというのか。ここでケイネスを死なせてしまっては、後の自分の愉しみがなくなると。ソラウを奪うだけでは飽き足らず、ケイネスを笑い者にしなければ気が済まないと……

「莫迦が…………!!」

 それはランサーに対する侮辱か。ソラウに対する罵倒か。あるいは、ケイネス自身に還る懺悔か。

「……ああ、そうか」

 目の前の戦闘は変わらずランサーの形勢不利。弓兵相手ならば圧倒的優位に立てる赤槍も速度と威力がなければ躱す事も弾く事も容易く、致命の一撃を与える黄槍も、当たらなければ意味がない。
 そして逆に、好機と見て取るアーチャーの双剣が、ランサーの肉体を切り刻む。

「────ごふっ」

 袈裟に切り抉られた傷痕より噴き出す血の雨。路面を染め上げていく赤い水溜り。口端より零れ落ちる鉄の味。

「ハッ────」

 それでもランサーは屈しない。二本の折れない槍を支えとし、地に膝を付くことなく眼前の敵を睨み付ける。主の敵を、射殺さんとばかりに睥睨する。

 ……まだ負けていないと。まだ終わっていないと。

 この身は槍。一本の気高い槍。信念という名の槍に変えて、貫くべき道を貫き、果たすべき役を果たし尽くす。
 たとえ主の命令に逆らう行為であろうとも。たとえ主よりどれだけ嫌われようとも。その命を守り通す為ならば、どんな艱難辛苦も飲み込んで見せると……

 男は笑う。死地で嗤う。生前果たせなかった忠義の道。無念を遂げる場にあって、どうして笑わずにいられよう。
 身を苛む令呪が何だという。受けた傷が何だという。この身は槍。折れぬ槍。主を守り道を切り拓く槍であるのなら、こんなところで、挫ける筈など、有り得ない────!

「ランサァァァァ……!」

 ランサーが弾け、アーチャーへと肉薄した瞬間に、ケイネスより放たれた咆哮。

 ケイネスもまた、その姿を、ランサーの意地を見て理解する。あの男の忠誠心は本物であったのだと。
 これまでまともな話し合いの場を持たなかったが為に生まれた齟齬と軋轢。最初から疑ってかかった結果が、彼らの破滅への一歩だった。

 だがまだ、戻れる。やり直せる。

 ランサーが令呪に抗い死を賭してケイネスを守り抜こうとするように、ケイネスも自らの意地を見せればいい。
 アーチャーとの戦いの前、ランサーとソラウが姿を消した場で誓った想い。自らの誇りに賭けて戦い抜くと。その一線だけは守り抜くと誓った筈だ。

 意地を張るのではなく、見せればいい。ケイネスのもっとも求めるもの、この戦いに望むものを、声高に叫べばいい。
 納得などしていない。理解さえもしたくはない。ランサーとケイネスの間にある溝は、未だ一つも埋まってはいないだから。

 だがそれでも。望むものが──求めるものが、たとえこの一瞬であろうとも同じであるのなら。

「────我が名において命ず!」

 生き残る為に、勝ち抜く為にそれが最善の一手ならば。

「ランサー、アーチャーを斃せ────!」

 自らの意地を以って、プライドを金繰り捨てよう……!

 ランサーの全身を縛り付けていた縛鎖が解ける。ケイネスがランサーを許す……否、この場に留まる事を認めたお陰で、与えられた不条理の命令が霧散する。
 傷は深い。けれどもはや意思に抗う命令はない。むしろ主より新たに遣わされた拝命にこそ、ランサーは感銘を受け、強く……ただ強く槍を握る。

「はい……!」

 ただ一言。応、という掛け声と共に、在るべき力を槍兵は取り戻す。

 二対の牙をその手に、獰猛な輝きを視線に乗せて。
 一瞬ばかりの主君との意思疎通により手にした力で、穿つべき仇敵に穂先を喰らわせんと地を蹴った……その時。

「そこまでだ」

 夜を貫く銃声と共に、死を携えてその男は現れた。



「────ッあ!?」

 咄嗟に自律起動した月霊髄液による自動防御により、後方より放たれた凶弾は堰き止められる。
 瞬間、ケイネスの体内を走り抜けた異常に、驚愕も露に声を漏らした。ざぱりと落ちる水銀の波。形を失くして水面のように道路の上に広がった。

「全員動くな。動けばこの女を殺す」

「な、に……」

 身に起きた異常も解さぬままに、ケイネスは現れた人影に目を奪われた。

 くすんだ色のコートを羽織った一人の男は、間違いなくアーチャーのマスターである衛宮切嗣。彼の右手の中にはケイネスへと放たれた銃弾が装填されていた銃があり、左手はその女性の首元へとナイフを突きつける。

「……ソラ、ウ?」

 だらりと下がった右腕は肘の辺りから折られており、轡を噛まされた口は音の一つも発せられない。涙を溜めた瞳が、助けを求めるように揺れていた。

 ランサーとアーチャーもまた、切嗣とソラウの登場を理解して剣刃を収めている。車の一つも通らない寂れた道路の上に、一つの状況が作り上げられている。

「ケイネス・エルメロイ・アーチボルト。こちらからの要求は唯一つ。ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリを返して欲しくば、残った全ての令呪を用いランサーを自害させろ」

「な、に……?」

 銃弾を放った魔銃をホルスターに収め、代わりにキャレコ短機関銃を手に取りケイネスへと突きつける。昏い双眸が、言葉には一切の嘘はないと語っている。

「バカな。そんな要求、呑める筈が……!」

「────っぁ、ッッッ!?」

 切嗣の手にするナイフが滑り、ソラウの柔肌に突き刺さる。引き抜くと同時に腕より吹き出て、零れ落ちていく赤い血の流れ。動けば、要求を呑まなければすぐにでも殺すと脅迫する。

「おまえに与えられた選択肢は二つ。ソラウを犠牲にし僕達と争うか、ランサーを自害させソラウを助けるか。どちらかを選べ」

 簡易な治癒魔術を施し傷口だけは塞がれたが、要求を呑まなければ容易く、切嗣のナイフはソラウの首を掻っ切るだろう。
 有無を言わせない。その二つしか選択肢はないと。どちらかを選ばなければ強制的な死がソラウに降り注ぐ。

「…………ッ」

 余計な動きの一つも見せられない状況の中、ケイネスは思考を廻し続ける。

 立ち位置は明確。ケイネスを中心に二十メートル程後方にランサーとアーチャー。同じく二十メートル前方に切嗣とソラウ。
 距離的にケイネスが礼装を用いたところでソラウを助け出す前に殺される。ランサーを動かせば今度はアーチャーが不穏な行動を起こすだろう。

 人質を取る作戦は、本当の意味で人質を殺す事さえ辞さないのならこの上なく有効な手立て。あの男……衛宮切嗣は間違いなく殺す、殺せる側の人間だ。
 それこそ虫でも潰すほどの感慨もなく、ケイネス達が少しでも不穏な動きを見せればナイフか銃がソラウを殺す。

 ケイネスもランサーも生存し、ソラウも助け出す最良の選択。そんなものがこの場所にあるのかと考えうる限りの状況を脳裏に並べてみても、何かを犠牲にしなければ救われないという結論に到ってしまう。

「長く時間を与えるつもりはない。後三十秒。それで答えを出さなければソラウを殺す」

「────っ!」

 喉元に突きつけられた刃──それこそ後一押しで軽く突き刺さるほど──に、ソラウは声にならない声を漏らす。揺れる瞳がケイネスを見る。

 ケイネスは思考する。取捨選択。ランサーか、ソラウか。あるいは両方か。ソラウはランサーの魔貌に抵抗せず、彼らに不和を齎した。だがその原因が、全て彼女にあるかといえば恐らくそうではない。

 ソラウとさえも、ケイネスはろくな話もしていない。ただ許嫁という立場に甘んじたソラウを、ケイネスは受け止めていたつもりでも、その実意思の疎通などなかったのかもしれない。

 彼女の家が彼女自身を道具としたように、ケイネスもまた、天才魔術師に付随する彩りとしか考えていなかった……少なくとも、ソラウはそう思っていたのかもしれない。ならば原因の一端は、ケイネス自身にもあるといえる。

 何れにせよ、ケイネスはソラウを見殺しにしていい道具とは見ていない。たとえ己に心底から惚れ込んでくれてはいなくとも、ケイネス自身がソラウを好いていたのは変えようのない事実である。

 だからそんな選択はありえない。

 何か。何かある筈だ。この状況を打開する、奇跡のような一手が。

「時間だ」

 思考も虚しく切嗣の手にする短機関銃がソラウのこめかみに押し当てられる。押し殺した悲鳴がソラウの喉元よりせり上がり、指をかけた引き金が落とされようとして──

「待て」

 ランサーの声音が夜を裂いた。

「一つ訊きたい。俺がこの命を差し出せば、二人の命は保証するか?」

「ランサー、何を!?」

 ケイネスの激昂を無視したまま切嗣が返答する。

「ああ。取引に嘘は吐かない」

「だが証拠にはならない。俺が消えた後では、アーチャーが二人を手に掛ける事など造作もないだろう」

 口約束ほど曖昧なものもない。それが外道と呼ばれる魔術師殺しのものならば、なおの事信用ならない。
 しかし切嗣とてその程度の要求は織り込み済み。懐より取り出した二枚の紙を、風を操作しケイネスの足元へと運ばせた。

「ランサーはその場を動くな。ロード・エルメロイ、おまえが読み上げろ」

「…………ッ!」

 足元より拾い上げた二枚の羊皮紙を見やり、ケイネスは目を見開いた。

 ────自己強制証文(セルフギアス・スクロール)

 およそ呪術契約に関するものの中で最上位に位置づけられる強制の呪い。証文に記された内容は条件が満たされた時よりいかなる手段を以ってしても解呪不可能。
 命を差し出そうとも、魔術刻印がある限り、死後にまで影響を及ぼす絶対の契約書。この証文を差し出すという事は、魔術師として最大限の譲歩を示す。

 ケイネスが目を落とし内容を読み上げていく。

 一枚は切嗣に対する命令。ケイネスが令呪でランサーを自害させれば、ケイネスとソラウには一切の危害を与えないとするもの。
 こちらは既に切嗣の判が署名されており、後はケイネスが条件を満たせば効力を発揮して切嗣を縛る。

 もう一枚はアーチャーに対するもの。アーチャーがソラウないしケイネスに危害を加える真似をしたのなら、切嗣が令呪を以ってアーチャーを殺害するという内容。条件は同じくケイネスの令呪によるランサーの自害だ。
 こちらは証文は全て記されているが、アーチャーの判がない。アーチャーが自らの同意で記した後に、ケイネスが条件を遂行すれば効力を発揮する。

 二枚目の方は自己強制証文とは若干違う手順を踏む代物ではあるが、記された命令を覆すのは並大抵の事ではない。
 わざわざ命令を破却させてまで、アーチャーにその時マスターとしての権限も従えるサーヴァントも失っている筈のケイネスとソラウを殺害させるのは理にそぐわないと言えるだろう。

「ケイネス殿。その証文、落ち度はありませんか?」

 現代魔術に疎いランサーなれば、後はケイネスの判断を仰ぐしかない。舐めるように二枚の羊皮紙を隅から隅まで検めたケイネスはしかし、静かに首を横に振った。

「……そうですか。ならばアーチャーのマスターよ。我が命と引き換えに、主達を必ずや助けると誓え」

 まるで意味のない宣誓。契約の書類に判があるのなら口での誓いなど何の意味も成さないと知ってなお、ランサーはその口からの答えを欲した。

「ああ、誓おう。彼らを害する事は今後一切ない。速やかにこの街を立ち去るのなら、後を追うような真似もしないと誓おう」

「必ずや守れよ。でなければ、俺は地獄から這い上がってでも貴様らを殺してやる」

 静かな冷笑を浮かべた切嗣は再度気流を操作し、ケイネスに足元に落とさせた羊皮紙の一枚をアーチャーの元へと届ける。
 拾い上げたアーチャーは、未だ癒えないままのランサーの槍につけられた傷口より血を拭い、血判を以って署名に代えた。

「これで全ての条件は整った。ロード・エルメロイ、後はおまえ次第だ」

 揺らぐ視界を落とし、掲げた右腕に宿る最後の令呪。思えばランサーに対する命令は、常に強制の呪いを帯びていた。
 真に信頼しあえるマスターとサーヴァントであったのなら、この上のない補助魔術であったのに、彼が使ったのは全て束縛の意味を込めていた。

 それが、ケイネスとランサーの距離だった。理解し合わず、理解し合おうとすらしなかった二人が、ようやく手にしかけた絆が……最後に残った一画を、全てを破壊する為に使わなければならない。

「ランサー……私は……」

 面を上げたケイネスの瞳に映るのは、憎しみではない、けれど悔しさを滲ませるランサーの面貌。

「申し訳ありません、我が主よ。この状況は私が招いた落ち度だ。だからせめて、我が命を以って償いとさせて頂きたい」

 それがランサーの結論だった。切嗣の魔手に落ちたソラウを救い、ケイネスを守る唯一の手段は自らの命を散らす事。
 起死回生の妙手を持たないランサーが出来る唯一の行動は、それだけしか思い浮かばなかった。

 本当ならば共に聖杯を目指して駆け抜けたい。だがそれは、もはや叶わぬ夢。ならばせめて、この命に代えて主君とその許嫁を守り抜く。
 悔しくない筈がない。憎くない筈がない。それでも、この場で足掻きを行って、全てを掌から零してしまうくらいならば……一度目は無念の内に果てたこの命を、主を救う為に捧げられるのならば本望だと声高に叫ぶ。

「私、は……」

 ケイネスの声が震える。ここでランサーを自害させれば、少なくともケイネスとソラウは生き延び、聖杯戦争の勝利こそ掴み損ねたがまだやり直せる。
 全てを救える最後の可能性である残る一画の令呪も、ランサーに決死の命令を下すよりも早く、あの魔術師殺しの銃はソラウの頭蓋を撃ち抜くだろう。

 選択しなければならなかった。どちらをも救う手立てはない。少なくともあの外道が姿を晒した時点で、勝利を半ば確信した上での行動であろうから。
 そしてどちらかしか救えないのなら、ケイネスの選ぶべき道は一つしかない……

「……っ」

 これから。これからだったというのに。ようやく聖杯戦争を始められる位置に立てたというのに、この仕打ちはいったい何なのだと自問する。
 いや、分かっている。これはケイネスにとっても償いなのだと。誇りある騎士を貶める真似をし続けた魔術師に対して下された罰。そして覚悟を試す踏み絵。

 ランサーは自棄になって命を投げ出すのではなく、ケイネス達を守る為に命を差し出すのだ。その決意は、穢していいものではない。
 救われる身であるケイネスには、与えられる言葉すらもない。

 だがそれでも。その最期まで忠を尽くした臣下には、相応の言葉を送りたい。

「大儀であった、ディルムッド・オディナ。おまえの忠誠、しかと見届けさせて貰う」

「勿体無きお言葉……」

 恭しく礼を垂れるランサーを見据え、ケイネスは右腕を虚空に差し出した。

「令呪に告げる」

 集う魔力。意識の全てを一点に集中し、最後の命令を謳い上げる。

「我がサーヴァント・ランサーよ、自らの槍によって自害せよ」

 瞬間、ランサーの胸より赤が弾けた。深々と彼の胸を貫いた赤槍が、なお深紅に染まってアスファルトの道路に血の華を咲かせていく。
 令呪による命令は絶対。生き残る余地もない。確実にサーヴァントの核を抉った己が槍より視線を前に投げたランサーは、その最期に。

 忠を尽くして守り抜いた二人の姿を瞳に焼き付け、儚い微笑みを残して消えていった。



 遠く街並みに音を聴く寂れた場所に、静寂が戻ってくる。つい先程咲いた血の華も、今は残り香すらなく掻き消えている。
 サーヴァントが消え去る時、ありとあらゆる痕跡が消えてなくなる。ランサーが立っていた場所の路面が、もうこの世に彼はいないのだと告げていた。

「これで、契約は果たされた筈だな?」

「ああ。僕達には強制(ギアス)が掛けられた。ランサーは確実に消滅し、令呪を失くしたおまえもマスターではなくなった。速やかにこの街を去れ。そうすれば少なくともおまえ達は生き残れる」

 ソラウの喉元に突きつけていたナイフを仕舞い、噛ませていた轡も外す。折れた腕は戻せないが、ソラウはようやく自由を得た。

「ケイネス……」

 ソラウの胸を安堵と後悔が包み込む。我が身が生き残れたのは、あの誇り高き騎士の代償があったお陰だ。
 自らが不手際を起こさなければ消えなくても良かった命を散らせてしまった事には、どうしようもない悔恨を胸を抱いてしまう。

 けれど、そんな後悔をあの男は望んでいまい。生前果たせなかった忠道、道半ばでの死ではあったが、彼の勇姿は彼女らの目にしかと焼きついている。
 だから彼女も胸を張らねばならない。あの人を犠牲に救われた命を、意味あるものに変えなければならない。

 ──ありがとう、ランサー。私は貴方と逢えて、本当に良かった……

 万感の想いを込めて祈りを捧げ、前へと歩みだす。よろめきながら頼りない足取りでケイネスの下へと駆け寄ろうとするソラウ。ケイネスもまた過去の柵の一切を擲って、涙を零す婚約者を受け止めようとして──

 ────血の華が、今一度咲き誇った。

「は、ソラ、う……?」

 何が起こったのか分からないと目を瞬かせるケイネスの視界に映るのは、倒れ伏した許嫁の姿。それも首より上が綺麗に吹き飛び、毒々しい赤色だけが脈打っている。あの麗しい面貌の面影は無惨に消え失せていた。

「ハ────」

 状況を呑み込めないまま、けれど痙攣を繰り返すように震えるソラウの肢体を見やり、それも数秒で事切れた。濁々と零れていく血が路面を染める。

「何故……何がッ……!?」

 理解の追いつかない頭で思考を廻す。目の前の状況から事実だけを探し出す。何故ソラウが倒れている? 何故ソラウの顔がない?
 何故────ソラウは彼の目の前で死んでいるのだ……?

「きさ、ま……衛宮……ッ!!」

 ケイネスが鬼の形相で睨み付ける先で、切嗣はゆっくりと懐に手を滑り込ませる。取り出したのは何の事はない煙草の箱。とんとん、と叩き一本を慣れた手つきで取り出し口に銜えた。

「これは、これは一体どういう了見だッ!」

 噛み付くケイネスにも涼しい顔の切嗣は視線だけを滑らせる。

「どうと言われても僕は知らない。僕がその女に何かしたか?」

「ふざけるなよッ! どうせ貴様の指示だろう!? くそっ、こんな、こんなッ──!」

 ケイネスの見逃した落ち度とは、切嗣とアーチャーに対する契約内容に目を奪われ、第三者の存在を勘繰らなかった事。あくまで彼ら二人に戒めを施す呪術契約では、その他の人間は縛れない。

「ああ、そうか。それが貴様のやり方かっ! ならば私も、容赦はしない──!!」

 ケイネスが月霊髄液を繰ろうと魔術回路を起動させる。切嗣とアーチャーにはケイネスを害する事が出来ない。加えて先の一撃も所詮は近代兵器に拠った銃撃。ケイネスの魔術礼装の敵ではない。

 ならば渾身の一撃で以って、目の前の外道を刈り取らねばならない……!

「無駄だ。おまえの魔術回路は動かない」

「はっ、何を……?」

 魔術回路を起動させようと魔力を流したケイネスだったが、切嗣の言の通りに全く動かない。地面に広がったままの水銀液は蠢く気配すら見せなかった。

「なぜ、そんな……バカなっ!?」

 切嗣がこの場に現れたその時にケイネスに向けて放った銃弾こそが、魔術師殺し衛宮切嗣の秘奥である起源弾。
 己の起源を弾丸に変えて射ち出すこの礼装は、魔術により防御した敵術者の魔術回路を破壊する。

 銃撃を受けた時ケイネスは最大限に回路を励起させていなかった為に、致命傷とはならなかったが、逆にそれが仇となった。
 今現在彼の魔術回路は電気回路で言うところのショートしている状態にある。高圧電流の流れる回路に一滴の水が落とされ、一時的に麻痺しているのだ。

 回路自体が大きく破損しているわけではないので、時間さえ置けば元通りに行使可能になるが今すぐの使用は不可能。魔術の動力源である魔術回路に燃料である魔力を流したところで、回路自体に不備があれば式はならない。
 この状況を作り上げるに当たり、ケイネスの能力を放置しておく切嗣ではなかった。

「こんな、くそっ、こんな馬鹿な話があるかっ! 貴様はランサーの誇りを踏み躙り、契約さえも反故にする気か!?」

「あの男は幸せだっただろう? おまえ達の末路を見届けずに逝けたのだから。おまえ達にしても、僕は助言した筈だが。速やかにこの街を去れと。感動の対面など期待しているからこの様なのだろう」

「キ、サ、マァァァァァァァアアアアアア……!」

 憤慨も露に素手で殴りかからんとばかりに吼え猛るケイネスを前に、切嗣はライターで煙草に火を灯す。

「それと──誓いなどに一体どれほどの意味がある。人にあるのは、行動の結果だけだ」

 言葉と共に紫煙が舞って夜を白く染める。あるいはそれが合図だったのか、今にも掴みかかろうとしていたケイネスの顔面が、舞弥の放ったライフルの一撃により、ソラウと同じように弾け飛んだ。



 静寂に包まれた暗い夜の中で、此処に一つの結果が示される。

「舞弥、後始末をしておけ。証拠を残すなよ」

『了解』

 切嗣は僅かに顔にかかった血を拭いながら連絡を入れ、アーチャーに視線を投げる。ランサーが消滅した今、彼の身に刻まれていた全ての傷は魔力の補充と共に癒え、あるべき姿を取り戻していた。

「それで、全ては貴方の思惑通りと言う訳か?」

 転がったままの死体に興味すらないと立ち去ろうとしていた切嗣へと投げ掛けられたアーチャーの言葉。無視してもよかったが、今一度切嗣のやり方を示しておかなければならないか。

「ああ、そうだ。それがどうした」

 アインツベルンの森を脱出した後に舞弥だけを残し、彼女が単独でソラウ達を追跡した結果割れたランサー達の現在の拠点で、ケイネス達に起こった仲違いの報告を受けた切嗣はこの作戦を組み立てた。

 離反したソラウとランサーが波止場で何かしらのやり取りをしていた様を切嗣は見届けてその間にアーチャーがケイネスに襲撃を仕掛ける。殺すのは造作もない事であったが、あえて追い詰めるだけに止め、ランサーをそちらへと向かわせる。

 その隙にソラウを人質として捕縛し状況を作り上げる。無論、ランサーがソラウ共々連れ立ってケイネスの下へと戻る可能性も考慮したが、サーヴァントがマスターの窮地に感じ取れる直感は、それこそ余程の危機でなければ発動しない。

 だからこそアーチャーにはケイネスの止めを刺させず、決定的に追い詰めさせる。更に埠頭からの距離関係を考慮すれば、ソラウを抱えて実体のまま走るよりも、霊体と化した方が明らかに早い。

 ランサーが霊体になってまで戻らなければならない状況、ソラウを気に掛ける事の出来ない状態、そしてランサーの愚直なまでの騎士道精神──およそ人質などという手法を念頭に置いていない事、ソラウ自身には然したる魔術師としての力がない事も事前に織り込み、この作戦は完成した。

 こうして一つの状況が作り上げられ、場に姿を現す際に初撃によりケイネスの能力を封殺し、脅しを掛ける。
 脅迫に乗ってこないのならば、アーチャーがランサーの気を惹き付け、身を守る術を失ったケイネスは舞弥の銃撃により殺害し同時に切嗣の手でソラウも殺害。

 ランサーが残るのは厄介だったが、単独行動のスキルを持たないランサーが消滅するのは時間の問題。アーチャーが凌ぎ切れば切嗣の勝利。

 だが彼らがソラウを見捨てる可能性──ケイネスの立場やランサーの性格を考慮した上で──は低かったし、作戦は予想の通りに全て進んだ。

 実際のところ、最後のケイネスは冷静に頭を働かせれば生き残れないでもなかったのだろうが、そうさせない為に目の前でソラウを殺害して見せ、安い挑発で以って敵愾心を煽り立てた。
 結果、無策のまま切嗣に殴りかかったケイネスは舞弥の銃撃により即死した。

 サーヴァントであるランサーを自害させ、令呪を失ってももう一度取得しないとも限らないマスター候補は抹殺しておく。アーチャーの傷も癒え、今後の作戦行動に支障をきたす事はない。

 これが今宵遂行された魔術師殺し衛宮切嗣の策略。完全なる勝利という結果の為にいかなる手段も辞さない悪辣な作戦概要だった。

 アーチャー自身、この作戦の一端を担った以上は今更文句をつける気など更々ない。けれど、問い質しておかなければならない事柄があった。

「貴方は言ったな、人にあるのは行動の結果だと」

「…………」

 約束も誓いも、価値はあっても果たされなければ意味がない。己自身に課した祈りと、妻と共に結んだ約束。子の為の平穏を願う為に、切嗣は行動の結果だけを追い求める。
 過程に意味を求めたところで結果が伴わなければ本末転倒。手段が幾ら上等であろうとも結果が求めたものを示さなければ意味などない。

 だから切嗣は自ら進んで悪を成す。善による手段は時に感情を差し挟んで、絶対の決断を鈍らせる。故に悪を上等とし、手段を選ばない策を弄し、自らの心を凍てつかせる事で罪悪感の全てを封殺する。
 その結果────求めたものが提示されるのなら、それは切嗣にとっての善であると。

「ならば訊こう。手を血に染め、悪を背負い、その結果に求めたものが手に入らなかったとすれば、貴方はどうする。
 悪逆を尽くし、非道に堕ち、外道に身を埋めてまで辿り着いたその先に待つものが、願った祈りがより悪辣な結果によってしか齎されないものであったとしても、貴方は自らを信じ貫けるのか?」

 ────その心に誓った、正義の意志を、まだ貫き続ける事が出来るのか。

 最も問いたい言葉を口には出さず、見据える瞳に乗せて覚悟を重ねた。

 切嗣は静かに息を吐き、寒さ故の白さではない紫煙を風に乗せる。僅かにアーチャーへと視線を傾けた後に、背を向けて歩き出す。

「さあな。仮定の話には意味がない」

 聖杯に捧げる祈りに迷いはない。恒久の平和を願う気持ちに偽りはない。けれどもし、目の前の男が言うような悲劇しかないとするのなら。

「────僕はそれでも、最善を行うまでだ」

 もはや血に染まり尽くした掌は拭えない。奇跡の縁に縋らなければ、我が子を抱く事さえ叶わない。
 それでも。より凄惨な悪を前にしたその時、衛宮切嗣は迷わず自らの正義に拠って悪を討つだろう。

 街の闇へと消え去っていく背中。
 いつか憧れたその背を、いつまでも瞳に焼き付けて。

「ならばオレは────」

 届かない言葉を風に攫われて。夜の中に、正義を求めた男が立ち尽くしていた。


/a Hallucination


 その男は、いわゆる一般的な家庭に身を置くしがないサラリーマンだった。

 夜も深まり、およそ定時とは思えない時間に帰宅しても、妻も娘も待ってはいない。物音を立てないようにそっとドアを開き、寝室で眠る妻と娘の顔を確認する。年頃の娘は父を毛嫌いし、妻は妻でそれとなく彼を疎遠にしていた。

 それでも彼は我が子と妻の為に身を粉にして働き、金を稼ぐ。用意された冷め切った夕飯も、慣れてしまえば苦でもない。
 昼は一日中働き詰めで、帰っても後は寝るだけの生活。時折一体何の為に生きているのだろうと自問自答したくなる時もあるが、独りではなく誰かの為と思えばなんとか生活できていた。

 冷や飯を食べ、疲れをシャワーで洗い流し、ビールを飲みながらつまらないテレビ番組を見る。酔いも回ってきた頃合に自室へ向かい床に就く。
 次に目を覚ませばまたいつも通りの朝を向かえ、変わり映えのしない日常が続くものと思っていた彼は、けれど今日は何かが違っていた。

 眠りに落ちてどれくらいの時間が経ったのかは分からなかったが、彼は微かに聞こえた物音に目を覚ました。
 別室で眠る妻か娘が喉が渇いて水でも飲みに出たのかとも思ったが、聞こえてくる音はノックの音。

 コンコン、と規則正しい音が等間隔に何度も何度も鳴らされる。最初は無視を決め込み無理矢理眠ろうと試みたが、一度気になってしまうとどうにも眠りに就けなかった。

 ベッドより身を起こした彼は、そこで新たなる可能性に気が付いた。聞こえてくるその音はかなり遠く、玄関の辺りから。まさかこんな時間に泥棒かとも思ったが、わざわざ真夜中にノックをする間抜けな泥棒もいないだろうと思い直す。

 けれど念の為と、学生時代から置き去りにしたままだった金属バットを押入れから引っ張り出し、そろそろと忍び足で玄関口へと向かった。
 その間も延々と等間隔で続けられるノック。妻か娘も気が付いても良さそうなものだったがどうやら深い眠りの中にあるらしい。

 ここは一家の大黒柱である自分が守らなければと自分を戒め、彼は意を決して玄関の前に立った。

 擦り硝子の向こうには一つの人影。少し小柄なその上背を推し量るに、年端もいかない少年か少女あたりと推察する。
 恐らくはこんな時間までどこかで飲み明かし、酔っ払ったまま家にも帰らず、あるいは帰ろうとして間違えてノックし続けているのだろうと思った。

「おい、誰かは知らないがここはおまえの家じゃない。ちゃんと自分の家へ帰れ。悪戯ならさっさと止めろ」

 押し殺した声で言い放っても、ノックの音は止む気配がない。コンコン、コンコン、と繰り返される音はいつしか不気味に聞こえだし、苛立ちもあいまった彼は、手にバットを握り締めてドアを開いた。

「貴様、いい加減に……」

「ばあっ!」

 怒りも露に踏み出した彼を迎えたのは少女だった。愕けた様子で姿を見せたその女に、いや……女の瞳に目を奪われた。
 渦を巻いた翠緑の瞳。澄んでいながら何処か禍々しさを垣間見せる双眸に射抜かれ、声も出せない圧迫感で見つめられ────……



「……あ?」

 目を覚ますと、彼は玄関に座り込んでいた。手には金属バットを持ったまま。

「あれ? 何して……?」

 状況の掴めないままぐるぐると当たりを見回す。空は茜色に染まっており、カラスが高く鳴いている。流れていく雲が、斜陽に照らされコントラストを描いていた。

「は……? 俺は確か、家に帰って、ベッドに入って……?」

 そう、確かに彼は帰宅した筈で、でもこんな明るい時間じゃなかった。妻も娘も寝静まった頃に疲れ果てて帰ってきた筈だというのに、何故自分はこんな時間に家の前にいて、そして座り込んでいるのだ……?

「……まあ、いいか」

 よくは分からなかったが、ここ最近は働き通しで疲れ切っていてただただ会社と自宅を往復する毎日だった。そのせいで良くない幻でも見たのだろう。
 せっかく早くに家に帰ってきたのだから、今日はゆっくりと休もう、と思い至って、彼は玄関のドアを押し開けた。

「ただいまー」

 呼びかけてみても誰も出てくる気配がない。向こう側から談笑する声が聞こえてくるので居るには居るようだったが。

「テレビの音量上げすぎてるんじゃないのか。まあ、どうせなら脅かしてやるか」

 むくりと鎌首を擡げた好奇心からそろりと足音を立てないように忍び込む。自分の家に忍び込むというのも何だか馬鹿らしいが、こんな時間に帰ってくる己を見れば、あの二人もさぞ驚いてくれるだろう。

 床板が軋んで音を立てないようにリビングの方へと向かう。聞こえてくる声は二人分。鼻腔を擽る料理の匂い。妻と娘が、少しばかり早い夕食にありついているらしい。そういえば腹も減っていたので、何とも丁度いい具合だった。

 ……あれ? 俺さっき飯食わなかったっけ?

 そんな詮無い思考を浮かべつつ、彼はとうとうリビングへの扉の前に辿り着いた。それでも彼女達は気付いた様子もなく、僅かに開いていた扉から中を窺えば、何やら盛り上がっているようだった。

「あー、パパさっさと死んでくれないかなぁ」

 ……は?

 唐突に聞こえた娘の声、否──その言葉の内容に思考を奪われた。

「何言ってるの。この家のローンだってまだまだ残ってるのに」

「そうだけどさー。でもやっぱりウザイじゃん?」

「そうねぇ。保険金でもかけて殺してみる?」

「…………」

 明らかにおかしい妻と娘の会話。少なくとも彼の知る娘はあんな口調で話すような事はなかった。妻にしてもそんな事を言う女性ではなかった。
 確かに決して裕福な家庭ではなかったが、彼は彼女達の為に汗水垂らして毎日毎日働いているのだ。それが何故、こんな事を言われなければならない……?

 その後も延々と続く彼に対する愚痴の数々。

 彼の人格さえ貶めかねない罵詈雑言が、最も聞きたくない二人の口から語られ続ける現状に、彼は心中穏やかではいられなかった。
 自分の知らなかった事実。妻と娘の思いの丈。彼女らを愛しいと思っていたのは己だけで向こうは彼を疎んじてしかいなかった。

「は……っ、……っ」

 そんな筈はないと。そんな馬鹿な話はないと思いたい自分がいるのに、目の前であくまで楽しげに彼を罵倒し続ける彼女らの姿と、塞いでも流れ込んでくる悪意ある声に正常ではいられなくなっていた。

 過呼吸のようにしゃっくり上げ、震える手が掴んでいるのは金属バット。謂われない嘲笑を向けられて、彼の内の眠っていた悪意が鎌首を擡げる。

 内より湧き出る衝動を抑えつける事など出来そうにもない。今すぐにでも飛び出してその口を塞いでしまいたい感情の奔流は、決壊したダムのように流れ出した。

「うああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!!」

 ドアを押し開け驚きに目を丸くする二人の前に、高く振り上げれた金属バットが電灯に煌く。目の前の“何か”が声無き声を上げていたが、彼はそんなものに構わず、渾身の力で振り下ろした。

「はっ────……」

 ぐちゃりと。トマトでも握り潰すような呆気無さで、妻だったモノは拉げ崩れ落ちた。

「は、ハハ……」

 口元が吊り上がる。引き攣った笑いが喉の奥から零れてくる。目の前にはもう一人……彼を貶めた悪魔がいる。

「ひぃ、ま、ママが、パ、パ……、な、なんで、どうし……? ひぃあああ!?」

 ぐるりと目を向けた先で、悲鳴を上げた娘が手足をばたつかせて逃げ出そうとする様を空いた片手で引き止めた。

「なぁ、おい。何で逃げるんだ? パパが帰ってきたら、まず言う事があるだろう……?」

 涙を流し震える歯をカチカチと鳴らすばかりで求めた答えを提示しない娘に業を煮やした彼は、

「まずはおかえり、だろう? そんな事さえ言えない娘に育てた覚えはないんだがなぁ。ああ、いや、そうか。俺の悪口を言うくらいだから、きっと何処かで間違えていたのか。じゃあ仕方がない。ここらで再教育してやろう────!」

 振り上げられた凶器。拉げ曲がる腕や脚。零れる嗚咽に耳を貸さず、四肢を砕いて背骨を圧し折る。

「は、ははは、ハハハハハハハハハハハハ……!」

 狂ったように笑いながら、何度も何度も振り下ろす。血が飛び散り、血ではない何かさえもぶちまけられたリビングで、彼は血染めのまま立ち尽くし──そして、唐突に冷静になってしまった。

「は、──いった、い──なに、を……?」

 暗い室内。
 寝室。
 赤黒く染まったシーツ。
 フローリングに巻き散らかされた血痕。
 だらりと下がった腕。
 歪に折れた脚。
 苦悶に歪んだ娘の貌。
 貌のない妻の肢体。

「あれ、俺、なんで、……? だって、夕方で、りびん、グで、飯を……??」

 悪い夢を見ていたような気分。けれど目の前の惨状が、自らの現状が、この状況を作り上げたのだとまざまざと見せ付ける。

「おい……」

 妻だった死体。娘だったモノ。べちゃりと落ちた赤色のバットは血溜まりの中でより赤黒く染まっていき。

「ひぃああああああああああああああああああああああああああ!?」

 何の変哲もない一般家庭の父であり夫だった男は、自らの顔を掻き毟りながら、自らが行った有り得ない惨劇の中で、喉を潰し絶叫を轟かせた。



 遠く聞こえる誰かの悲鳴。夜を切り裂く叫び声が、昨日までは何の事は無かった一般家庭に木霊した。

「……なんとも悪趣味なやり口だな」

 少女の傍らにあった特徴のない男が呟いた。

「何言ってるんだか。コレ、貴方の能力なんでしょ? うんうん。面白い面白い」

 ケラケラと笑いながら少女はくるりと一回転する。

「確かにそうだが、使うのはおまえの勝手で、悪夢を見るのも相手次第だ。一体どんなものを見せた? あそこまで心壊されるものなどそうはない」

「さあ? 中身までは知らない。あの人にとっての悪夢と私にとっての悪夢は違うから、あの人が何を見たのかなんて知らないよ。
 まあ何だか普通そうだったし、自分の家族を殺す夢でも見たんじゃないかなぁ」

 真に迫る幻覚は現実との境界線を曖昧にする。虚構と現実が入り混じり、それでも有り得ない夢を自らの手で悪夢に変えたあの男は、良心の一つさえ残らず心を瓦解し、現実でも同じ行為に及んでしまった。

「サディストめ。まあ、おまえがその目で誰に何を見せようと構わないし、その結果どうなろうと知った事ではないが、あんな悲鳴を上げられては、すぐにこの場所に誰かが駆けつけてしまうぞ?」

「あ、そっか。じゃあ今夜はとりあえず逃げよう」

 そう言って男は朧と姿を消し、少女は素早く惨劇の舞台より降り立った。



 人気のない道路を歩きながら少女は鼻歌を口ずさむ。

 毎夜行われる死の蒐集も大分数を揃えて来た。つい先ほど試した新しい能力も、使い道さえ誤らなければ強力な武器になるだろう。
 宴の開演はもう間もなく。彼女が積み重ねてきた努力がようやく実を結ぶ時は近い。

「そういえば、おまえは何故そんな回りくどい事をするんだ?」

 彼女が喚び寄せたサーヴァントである、今は人の姿をした化け物は、何とはなしにそう訊いた。

「珍しいね、そっちから質問してくるなんて」

「答えたくなければそれでいい。じゃあな」

「あ、あ、待ってよ! 誰も答えないなんて言ってないじゃない!」

 勝手に自己完結して消えていこうとする男を引き止めて少女は嘆息する。

「面倒なのは嫌いだと言っただろう。話すのなら早く話せ」

「というか、なんでこんなに偉そうなんだろう……」

 ぶつぶつと呟いてから、まあいっかとくるりと回って男の前に立った。

「それはね、楽しいから」

「ほう。簡潔だな」

 あんな狂気を楽しいの一言で済ませる少女に対しても、別段思うところなどないのか、男は頷いただけだった。

「そりゃそうよ。私はね、必要に迫られて魔術を研究してきた。そうしなければならない理由があった。でも貴方と出会う事でその必要性が解消された今は、全部自分の為に力を使えるの。
 だから私は、これまでの人生で出来なかった事をこの力を使って成し遂げる。この力で最高に楽しむ。私の力で、不条理を課した世界に対して復讐をしてやるの」

 喜怒哀楽、感情の全てを殺し、ただただ恐怖から逃れる為に研究に明け暮れてきた彼女が手にした初めての自由。掴んだ自由と力で世界を最高に貶める。
 誰知らず平穏を謳歌する人々を恐怖の底に叩き落とし、日常を下らないと吐き捨てる者に死を下す。

「その為のパーティ。今も何処かで争ってる人達を招待して、最高の舞台を作り盛り上げるの。主演は私と貴方。バックダンサーはあの子達で、ゲストは彼ら。そしてオーディエンスは街の住人全てよ」

 その夜街は狂気に満ち溢れ、死と血の匂いで包まれる。魔都と化す冬木を舞台に、彼女の念願の初舞台が繰り広げられる。
 その様を脳裏に描いた彼女はゾクゾクと身体を震わせる。およそ正しい倫理観を欠落した彼女が得た自由の使い道は、そんな、悪魔にでも魅入られたかのような残虐性に満ち満ちていた。

「貴方が本当に悪魔なら、私の想いに共感して…………ってこら! ちゃんと話を聞きなさいよ!」

 彼女が悦に入り長話をしている間に男はスタスタと前を行く。後ろから追ってくる少女を意識もせず、男は空を見上げた。

 ……悲しいな、余りに悲しい話だな、それは。

 声には出さず呟いて、男は追ってくる少女を待つ。

 悪魔は誰にも懐かない。悪魔はただ優しく囁くのみ。彼女がその悪夢を願うのなら、ただその力を貸し与え、同じ時間を共有するのみ。

「ああ……ならば、地獄への道連れも悪くはない」

 全てが終わるその時まで。彼女が地に伏すその時まで。傍で見届けてやるのが、彼なりの優しさだから。

 ────長き夜の終わり。
 新たなる暁光を前に、二人の男女は仄暗い闇の中へ溶けていった。













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