正義の烙印 Act.07









/Conflict


 明け方、遠坂時臣は沈痛な面持ちのまま書斎にある椅子に腰掛け、虚空を眺めていた。

 その状態は昨夜、アインツベルンの森での一戦を形上は勝利で収め、帰還してからほぼずっと続いている。
 それは家訓を常とする時臣にとって、有り得ない異常とさえいえた。

 どれほどの艱難辛苦があろうとも、常に優雅の風体を崩さなかった時臣が、毎日きっちりととっていた睡眠を放棄し、摂るべき食事さえも口にしていない現状は、見るものが見れば明らかな怪異とさえ思われかねないものだった。

 幸い、この屋敷には彼を慮るような者はおらず、従者たるセイバーは時臣の日常風景など数えるほどしか見ていないので、何処がおかしいのかさえ気付かない。単純に、彼が抱える悩みとも取れる思索が、重いものであるとは理解していたが。

「…………」

 約一日分の埃が薄っすらと積もる室内に、カチ、カチ、と定期的に進む時計の針が音を刻む。カーテンより零れる淡い光でさえ、時臣の沈思を止めるには到らなかった。

「……間桐、雁夜」

 呟いた声は重々しい。その男こそ、その男の言葉こそが、時臣の澄み切った水面のような心に一滴の墨汁を落とし込んだ。

 魔道において、第一に観念すべきは死である。

 社会の裏、世界の裏側を生きる者に求められる最低条件。自らがこれより歩む道が死と隣り合わせであると理解し、諦観できない者は魔道を歩む資格さえもない。
 言うなれば覚悟。そして責任。自らに絶対の咎を負う事で、魔術師は魔術師へとなれるのだ。才能や努力、能力というのはあくまでその下地があってこそ培われるべきもの。責任なき力はただの暴力だ。

 その観点から見る限り、雁夜の吼えた慟哭は筋違いだ。桜が魔道に生まれ、魔道に生きる事を決定付けられた時点で、ありとあらゆる苦痛と苦悩、死にも勝る修練は必携のものとなった。

 遠坂と間桐が盟約にあっても、他家の魔術の全てを窺い知る術などない。遠坂が宝石魔術を主とする家系である事は、時計塔に随時提出される書類をどうにかして垣間見れば知れることであるし、時臣自身が時計塔で築き上げた名声を小耳に挟んだ事のある者なら楽に知れてしまうものだろう。

 だが、世の中全ての魔道の家系が時計塔に在籍しているわけでもなく、たとえ籍を置き成果を提出していようとも、裏側にあるモノがないとは言い切れない。

 例えば、時計塔から研究資金を捻出する為にわざわざ今の世で失われつつある魔術を学び直し、あるべき秘蹟を復刻しようとする裏側で、違う研究をしている者もいないではないだろう。
 あるいは、最低限度の成果を提出し、その実遥かに高度な同系統の魔術に身を窶す事もなくはない。

 他人に知られる、というのはそれだけで神秘の価値を落とす。時計塔が学び舎の体裁を取り繕っていても、自らの研究内容を知られたくないと思う輩は少なからずいる筈だ。

 その点を慮れば、今回のケースに該当する。表向き間桐の魔術は水の属性。そして束縛や戒め、強制などはその発展系であり、令呪を作り出した彼の家ならではの他者へと影響し自らへと還る魔術である。

 そして裏側にある魔術が、雁夜の見せた蟲に当たる。水気を繰り、他者を律するという観点から見れば、然して驚きのない内容ではある。
 桜が間桐に養子として出され、間桐の秘術を継ぐのなら、それらの恩恵もまた必須。どのような修行の内容にせよ、魔を身体に刻み込む結果は辛い過程を経るものだ。

 ……だからそこは、いい。

 桜がどんな仕打ちを受けているのか、どんな苦痛を味わっているのか、時臣には漠然としか分からないし、代わってやるつもりも止めるつもりもない。
 それが観念するという事。死を観念し、自らの血に責任を負う。時臣が父より受け継いだ心得であり、魔道の初歩の初歩だ。

 だが。

『全てはあのジジィの思惑通り。あのジジィの延命の為だけに、間桐の世継ぎは“生かされている”』

 その一言が、時臣の心を揺るがせた。

 魔道に生き、魔道を担うのは、あくまで己の責任だ。引いては己へと還る成果であり、次代へと継承する業である。
 血の責任を負うのは自分自身でなければならない。失敗も成功も、これより続く道の先にある全ての事象を己で受け止めなければならない。

 決断もまた、自己で負うもの。時臣の願いにより魔道へと導かれた桜ではあるが、桜自身が拒絶するのであれば致し方のない事でさえある。責任を放棄するという、時臣の感情論は別として。

 高すぎる才覚に集まりくる怪異や、そんな“一般人”を見つけたとすれば、見逃す筈もない魔術師連中に追い回される可能性さえも、自らの決断であるのなら負うべき咎だ。
 ただ時臣は父として我が子の幸福を願い、より良い道を提示したまで。最も幸多き人生になり得るであろう道を示したまでだ。

「……ならば、ただその時より誰かに定められた道筋は、己が背負うべき咎であるのか」

 雁夜の言葉が真実であるのなら、臓硯が桜を養子に迎え入れたのは魔道の存続──も嘘ではないのだろうが──ではなく、自らの延命の為。
 臓硯が桜を後継者としてではなく、傀儡として、道具として扱うとするのなら。血の責任も関係なく、自らでままならない事態であるのなら。その責は、一体誰が負うべきなのだろう?

 そして時臣もまた、一つ大事な事を失念していた。

 桜の幸福の為と押し付けた魔道。その血を継ぐ事を、我が子に確認すらしていない。己の一存で妻や娘の承諾すらなく、それが間違いのない幸福であると決めつけ養子に出してしまった。

 ならば問わねばならないのではないか?──凛に、そして桜に。

 先代が時臣にそうしたように。時臣には一人の魔術師としての責任の前に、彼女達の父親としての責任がある。
 二人を魔道に導いた事で、自らの重責は消え去ったものと思っていたが、違う。時臣はまだ、娘達に対して何ひとつとして責任を果たしてなどいなかったのだ。

 時臣とは違い有り余る才能を有する娘達にも、道を選ぶ権利がある。自らを誇る理由がいる。先代である父が才覚の低い、芽のない息子に提示した形だけの選択肢。
 元より腹を決めていた時臣ではあったが、『この道を継ぐか否か』という問いかけは、父より賜れた最大の贈り物であった。

 自らで選ぶ事で責任を自覚し、そして──鋼鉄の誇りを纏うのだ。

 どのような苦難、どのような苦痛が道の先で待っていようとも、自らで選択したという事実は確かな力となる。奮起する想いになる。
 誰かに促されるまま、流されるままに歩く道のりは、遠くそして辛いだけだ。負う必要のない責任から、負わされた責任からすぐさま目を背けてしまいかねない。楽なだけの道へと逃げてしまいかねない。

 無論、時臣は我が子らを信じている。だがその前に、時臣自身が責任を果たさずして、愛娘達に示しがつけられようか。

「そうだな……私は、そんな大事な事も忘れていた」

 誰に強要されるまでもなく選んだ道。たとえ時臣がそうしたからといって、娘達に強要していい筈がない。同じように道を指し示さなければならなかったのだ。苦難の先にある楽園を望むのか、安穏の先にある地獄を求めるのか。

「いや、違うな。そんな事でさえ、きっと建前に過ぎない」

 そう、時臣の抱く想いはただ一つ──我が子の幸福。それ以外など、後付けの理由でしかない。
 我が子を想い、我が子の為の道の提示がしかし、彼女達の縛鎖となるのなら、一考を案じなければならない。

 一人の魔術師である前に、魔術師の父としての責務を果たすべく、時臣にはやらなければならない事がある。成し遂げなければならない事が出来た。

 それが、血の責任なのだから。

 ふと見上げた時計が指し示す時刻は午前九時。顎に手を添えればごわついた感触。一日手入れしていなければこんなものだろう。そして顔には疲れの痕もないわけがない。思考が一つ決着を見て、気だるささえ覚えている。

 時臣はこの半日間で行った優雅にあるまじき行為に失笑し、書斎を辞した。魔術師の時間は夜。陽の当たる時間は、彼らの日常を持ち込むべき刻限ではない。
 来たるべき時の為、自らの責任と向き合う為。時臣は家訓に従うべく行動を開始した。



 時臣がアインツベルンの森へと出向いた当初の目的はアーチャーの討伐にあった。切嗣に奇襲を受け、ライダーが突如姿を現し、雁夜と相対したのは状況の必然でしかない。
 その後、残骸と化したアインツベルン城跡へと赴いては見たものの、求めた敵の姿など当然の如くなかった。

 それでは時臣がわざわざあの森へと出向いた意味がない。魔道の面汚しに誅罰を下すのは勿論、アーチャーの奇襲能力を警戒しての行軍であったというのに、彼の者を倒せなければ意味がない。

 いつ如何なる時に襲撃されるか分からないのでは、おちおちと眠りにさえ就けない。アーチャーを取り逃がした時点で、時臣の最善の選択は拠点の変更にあったのだが、あえて遠坂の屋敷を手放さなかった。

 時臣には別に考えるべき要項が生まれ、わざわざ構築した要塞を容易く失うのは余りにも早計。それでも楽観が危険である以上は、時臣も一つ手を打った。即ち、セイバーによる守護。

 既に時臣がセイバーのマスターである事はほとんどのマスターに知られている。ならば隠し通す必要性はなく、また隠す必然性もない。
 よって、霊体と化したセイバーは昨夜屋敷に帰り着いた時点から屋根の上に留まったまま未だに見慣れない景観を俯瞰していた。

「…………」

 セイバーが生きた時代より様変わりしたこの世界。求め欲したものが何であるのかさえ分からないまま、ただただ彼の胸に渦巻く無念とも悔恨ともつかない感情に、聖杯は呼び声を齎した。

 王との確執。后との不貞。騎士としての誇り。

 栄光の道が破滅へと転じたのは果たしていつだったのだろうか。もはやそんな事さえ記憶にない己が、この世界で与えられた生に、一体何を見出せばいいのだろう。

 俯瞰する風景はいつしか光を浴び、新たなる一日の到来を告げている。その間、彼のマスターが懊悩するのと同じように、彼もまた時折思索を昨日の森へ飛ばし、あの王との問答を繰り返す。

 在り方は決定的に違えど、あの男は正しく王であった。その生き方、その言葉。全てに強い力が宿る。
 理想などと謳われた裏切りの騎士にはない、本物の輝き。あるいは、彼もいつかは胸に抱いていた煌きか。

 望むもの。望んだもの。欲したもの。欲しかったもの。
 王妃の涙を拭いたかった。王妃の……いや、彼女の笑顔を見たかった。ただそれだけだったのに。

 ああ、まったく。あの男の言葉は正しい。結局、己は己のせいで全てを失ったのだ。

 理想に生きる王。自らを金繰り捨て、国の為に死を賭した永遠の王。そしてその妻である王妃。彼女もまた、彼の王の賛同者であり同じ夢を抱いた者。
 ただ彼女は、王のように理想にだけ生きるには弱すぎた。余りにも人であって、だからこそ、王に女としての愛を求めた。

 けれどそれは叶わぬ夢。理想の王の隣には、理想の后が在る筈で。彼女は理想足りえる貞淑さと美貌を持っていた。二人の間にあったのは形骸だけの婚姻関係。そして、王の素性が全てを決定付けていた。
 ──王が、王妃を愛せない身体であると……男性ではなく、女性であったと知る者は数少ない。

 王妃はただ、女としての幸せが欲しかった。王の理想も理解は出来ても、殉じるには弱すぎた。そして一人の騎士が彼女を見初め、彼女もまた愛を抱いた。

 それは許されざる不義の情愛。誰よりも高潔足らんとする王を穢す反逆。

 それでも二人は愛を交し合う。王に付随する王妃という部品ではなく、王に仕える騎士という機巧ではない、一人の男と女として。二人である時だけが、彼と彼女の安らぎの時であった。

 二人の愛も長くは続かなかった。誰にも明かせない恋であるのなら、それは当たり前の帰結。世へと露見した彼らの不義は、円卓に集う騎士達によって糾弾された。
 刑に処される王妃を騎士は救い出し、二人連れ立って王城を後にする。けれど、彼女は永遠と涙する。王を裏切ったその行為。背徳の罪悪感が、彼女の笑顔を奪い去った。

 彼の見たかった微笑はもう、二度とは見られない。余りにも理想に過ぎた王を裏切ったという行いは、人として弱すぎた彼女の心が耐えられなかった。
 彼もまた、弱かった。彼女の笑顔を見たい一心で、選択した全てが、彼女を永遠の慟哭へと叩き落した。

 その時点で、彼の取るべき道は既に残されていなかった。

 王を打ち倒すなどという暴挙では、彼女の笑顔は救えない。それどころか、王は彼を裁こうとさえしなかった。自らにあった非を認め、彼と彼女を許すのだと。
 だが王は知らない。その王の優しさが、彼より救いを奪ったと絶対に知ってなどいない。

 王への反逆。不貞の愛。騎士の誇りを金繰り捨ててまで望んだ王妃の笑顔も失って。そして王は──騎士より贖罪さえも奪い去った。
 何もかもを失った。何ひとつ残されてなどいなかった。愛した女は絶望に涙し、騎士は彼女の笑顔さえも取り戻せず、王への贖罪さえも許されなかった。

 ただ、それでも。まだ一つだけ道はあった筈だ。あの男──イスカンダルが口にしたように、騎士は自らの罪を裁けと王に糾弾するべきだった。
 そうすれば、彼も彼女も救われた筈だ。王を裏切った咎を告白し、永遠に苛まれる涙より逃れられた筈だったのに。

 …………そんな事さえ出来ない程に、彼は人として弱すぎた。

 ああ、何が理想の騎士なのだろう。こんな腑抜けた男の、一体何処に理想を夢見たのだろう。
 女への愛は絶望を生み、王への忠義は叛意に変わり、けれど糾す事さえも出来なかったくせに。我が身可愛さで、愛した女一人救えず、朋友と呼んでくれた者の誓いに甘んじ、全てを煉獄の釜へと叩き落した。

 許されぬ罪科。下されない懲罰。あるいは──その罪を抱いて生き抜く事こそ、地獄で慟哭し続ける事こそが、王の遣わした罰であったのだろうか。

 問うべき者のいないこの世界で、そんな詮無い推測に意味などない。ならばこの身が果たすべき意味とは……一体?

 結局は堂々巡り。答えの出ない思索。抜け出せない輪の中。

 いっその事、狂えてしまえばどれだけ楽だったのだろうか。いや、それさえも許されない身であるのかと、セイバーは自嘲した。

 視線を遠く投げる。

 小高い丘の上にある洋館から朝焼けが染める街並みを見下ろしながら、騎士は延々と永遠を繰り返す。答えの出ない問答。誰にも話せない本心。
 あらゆる罪悪と業を漆黒の鎧の内側に押し込んで、無心で剣を振るえる戦いの時が訪れるまで、独り──苦悩を積み重ね続けるのだった。


/Girl meets Boy


 昨日、アインツベルンの森を飛び立つ際、何やら良からぬ雰囲気であった御者台の二人の間柄も、一度寄生している屋敷に帰り着けばものの見事に霧散した。

 それというのも、ウェイバーが止める間もなく玄関先で草花に水遣りをしていたマーサ・マッケンジーと、ライダーが鉢合わせた事から起因する。
 ウェイバーがおたおたと、さてこの隣の巨躯をどう言い訳するかと思い悩むうちに、ライダーは勝手にアレクセイと名乗り、ウェイバーとは留学時代からの友人関係なのだと憚ったせいだ。

 後はもうそれこそ坂道を転がり落ちるようにとんとん拍子で話が進み、グレン・マッケンジーとライダーは夕食の場で大いに飲み食い語らい合い、マーサは粛々と料理を運び、ウェイバーは料理の味も分からない程に呆然と食を進めるのみであった。

 そして翌日。

 起床後、昨日の興奮は何処へやら、いつも通りに戻っているライダーにウェイバーは話しかけた。

「で。オマエこれからどうする気だよ」

「藪から棒になんじゃい。言葉が足りんぞ」

「だから聖杯戦争。オマエ、本当に当分は様子見をする気か?」

 セイバーとの問答の末、ライダーはそのような決断を下していた。セイバーの在り方の何が気に食わなかったのか、軍門に下れの一点張りで話は平行線。セイバーの離脱により事無きを得たが、ライダーはそれでも執心しているようだった。

「そうさなぁ。いや、挑まれれば余とて応じる用意はあるが、こちらからは特にやる気はないなぁ。いつも通り出歩きはするつもりだし、セイバーだけは見かけても見逃がしてはやらんがな」

「…………」

 つまりはそれほどまでに固執しているらしかった。ライダーのまともな戦いは緒戦のアーチャー戦だけだ。今なお他のマスター達がこの男の底力を測りかねているように、ウェイバーにも本質までは分からない。

 勝利という二文字を掴む為には、理由はどうあれライダーの思惑はウェイバーにとっても特に異論を挟む余地はない。
 ならばその尻馬に乗っておく方が無難といえば無難な作戦か。

「…………」

「ん? どうした坊主。珍しく難しい顔をして」

「珍しくて悪かったな。ただの考え事だよ」

 ウェイバー・ベルベットにとって悩みというものがあるのなら、それはきっと目の前の巨躯が事の発端と言ってもいいのだろう。
 この男の奔放さ。この男の度量。戦わずとも、隣で見上げているうちに、酷く自分の小ささを思い知る。

 ライダーが遠坂邸で憚った言──ウェイバーを勇者と称える物言いも、何かの間違いでしかない。ウェイバーはただ振り回されているだけだ。サーヴァントに振り回されるマスターなど、笑い話にもなりはしない。

 ウェイバーがこの闘争に臨んだ意味。自らの力の証明の戦いが、いつしかライダーの晴れ舞台になっている。ウェイバーはただの脇役で、舞台袖からクライマックスを眺めているようなものだった。

 それは違うと憚りたい。目の前の男に、この戦いは自分自身の戦いなのだと叫びたい。だがそれに一体何の意味があるのだろう。ただライダーに振り回され続け、自らの命を賭さずに御者台に居座り続けたウェイバーが、どの口を引っ提げてそんな事をのたまう資格があるというのか。

 ピエロにはなりたくない。ウェイバーは、戦士であり──魔術師でありたいのだから。

「ライダー」

「ああん?」

 だから今は少しでも、この男の先に立つ事を考えよう。

「街に行こう」



「でよぉ、一体こんな事に何の意味があるっつーんだ」

「うるさいな、オマエは黙ってついて来ればいいんだよ」

 不満たらたらにボストンバックを担ぐライダーを引き連れて、ウェイバーは街中央に流れる未遠川の川縁を練り歩く。
 地図片手に上流より一定間隔を保ちながらにライダーに持たせているバックから試験管を取り出し水を掬い、同じ動作をどんどんと下流に目掛けて繰り返し歩いていく。

 真面目な顔つきで周囲に気を配りながら下っていくウェイバーとは裏腹にライダーはつまらなそうに空を見上げて仕方なくついていく。
 街に出掛ける、とウェイバーが提案した時、破顔したライダーの表情は既にない。街に出るイコール遊興に勤しむものと思っていたが、まさか川縁を歩くだけとは思いもしなかったからだ。

 作業が終わり次第ライダーの望みを叶えてやるとウェイバーは宣言したので、渋々と付き従っていたのだが。

 それなりの時間をかけ、数にして二十を超える水を採取したウェイバーは、埠頭の辺りに人気がない事を確認して、一緒に持たせていた実験用器具を港の路面にセッティングし始めた。

「お? まさかこんなところで錬金術の真似事でもしようというのか?」

「真似事じゃなくて錬金術そのものだよ、バカ」

 魔術は秘匿されるべき──という規則を遵守するのなら、こんな場所で実験を行うなど言語道断だったが、これより行うのは魔力を扱うようなものでもなし、言ってみれば化学の実験のようなものだ。

 誰かに見咎められても勤勉な学生が試験管片手に何やら実験に勤しんでいる、としか思われまい。場所が場所なので奇異の目で見られはするだろうが。ウェイバーにとっては甚だ不本意な事であったが。

 どっかりと潮風の吹く場所に座り込み、並べた試験管を手に取り、一本ずつ試薬を垂らしていく。ライダーも手持ち無沙汰だったのか、それにしては妙に興味津々と実験の経過を眺めていた。

 ──数十分後。

「……おい坊主。こりゃ一体どういう成果になるんだ? 余の目には、何の反応も見えないんだが」

「ああそうだよ! 何の反応もなかったんだよ、このヤロウ!」

 半ば八つ当たり気味にライダーに吼え、ウェイバーは仰向けに倒れ伏した。空の青さが目に眩しい。

 ウェイバーの一連の行為は、川の水に魔術の痕跡がないかを調べる為のものだった。何の為かといえば、他のマスターの所在を突き止める為だ。
 現代にあっても、痕跡というのは完全には消し去れない。魔術師のある場所には必ず何らかの魔力の匂いがあるものだし、実験に水はつきものだ。

 風や地脈を計算するよりも手っ取り早い水の調査。未だ居場所の判明しない三人のマスターの所在を探るべく、わざわざ時間をかけて水を汲み上げて来たが、全くの徒労に終わってしまった。

 多少の反応は出こそしたが、これでは余りに薄すぎる。ただこの街に魔術師がいる、としか分からない程度のものであり、居所を突き止めるなんて以ての外だ。
 少なくとも、この街で水を用い何らかの実験をしている輩がいたとしても、細心の注意を払っていると考えられる。そんな奴は、この程度の下策じゃ見つけられない。

 あと追うべきは地脈か。この街の大まかな流れはウェイバーも把握している。深山町の円蔵山にある柳洞寺を起点とし、街全体を循環している。
 ただ、地脈を効率良く調べるのは中々に難しい。ポイントを限定し魔力の流動量を調べるにしても、ウェイバーが倫敦より持ち込んだ器具で果たして何処まで調査しきれるか……

「なあ、坊主」

 天を仰ぎながら思索に励んでいたウェイバーに、同じように空を見上げたままのライダーが声をかけた。

「……なんだよ」

「貴様、一体何を焦っている?」

「…………」

 お見通しだった。当たり前だ、今までわざわざ自分から出向いて積極的に調査をして来なかったウェイバーが、突然こんな真似をすれば誰でも気付く。

 ウェイバーは、確かな手応えが欲しかった。自分がこの戦に身を投じていると理解したかった。

 ライダーを召喚した時感じた興奮を頂点に、後はずっと下り坂。ただマスターという名目を与えられただけの存在でしかない。いてもいなくても同じ存在。他のマスター連中が鎬を削る中、ウェイバーだけが、蚊帳の外。

 まさしくピエロだ。踊らされるだけの人形だ。そんな事の為にわざわざ極東の島国に来たわけじゃない。聖遺物を掠め取ったわけじゃない。
 確たる証が欲しかった。生きているという実感。戦いに身を置いているという実感。ウェイバーは、命を賭けているのだと実感したかった。

 だが口が裂けてもそんな事、ライダーに言えるわけがない。余計に惨めな気持ちになるだけなのだから。

「ま、何を急いてるのかは知らんが。それ程生き急ぐ事はあるまい?」

「別に生き急いでなんか──」

「まあ聞け。余はな、生き急いでおったよ。なんてったって世界の果てを目指したんだ、時間なんて幾らあっても足りんだろう?」

 今でこそ世界は丸く閉じているとライダーも理解しているが、彼の時代には世界地図などなく、世界には果てがあると信じられていた。そして征服王イスカンダルは、東の果てを目指し軍の指揮を執った。

「まあ結局夢は果たせなかったがな。あと十年あれば、行けたかもなぁ。西方だって何処へだって行けたかもしれん」

 史実に伝わるアレキサンダー大王の生涯は僅か三十という若さで幕を閉じる。史上最大の帝国を築いた男自らが語る十年は、他の誰が語るよりも重く尊い。

「……自分は生き急いだくせに、ボクには急ぐなって言うのか?」

「応とも。余にはな、夢があった。命と比してなお尊いと信じられる夢。臣下達と共にした大望がな。そりゃ生き急ぐだろう。余より年老いた騎士なんかもおったし、出来るだけ多くの奴に夢を見せたかったからな」

「…………」

「だが坊主。貴様にはそんなものがあるか? 死んでも欲しいものがあるのか? 絶対に譲れないものを今の貴様は持っているか?」

 その言葉には、ウェイバーは答えを返せなかった。魔道を生きると決めた時より観念した死。けれどそれはいつ死んでも構わないという諦観ではなく、死をも恐れず歩むという意味だ。
 ただそれは、自らに課した義務であり誇りだ。それこそ魔法に辿り着いてみせる、などとのたまう程の意気込みを、ウェイバーは持っていない。

 この街へと乗り込んだのも、他の魔術師連中が見ればどうでもいいような些細な事だ。自らの証明は、確かにウェイバーにとって必要な事であったのに。面と向かってそれが絶対であるかと問われ、答えに窮してしまった。

 つまりは──その程度の覚悟でしかなかったという事。

 特にこのライダーの大望を見た今、殊更ちっぽけに感じてしまう。同じ命であるのに、こうまで賭けるものが違うのでは、その価値までも違うのではないのかと。
 征服王イスカンダル。ウェイバー・ベルベットと比して大きすぎる存在。この男のでかさを見れば見るほど、ウェイバーは己の卑小さに気付かされる。

「答えれんか。ああ、それでいいんだよ──貴様は」

「なに……?」

 だというのに、ライダーはそんな事を言った。

「下らん見栄でも張ろうものなら指で済まんところだったがな。いや、やはり坊主は余のマスターよ」

 はっはっは、と大笑するライダーにウェイバーは訝しむ事としか出来ない。

「お、おい、ちょっと待て。どういう意味だよ、ちゃんと説明しろ」

「ううん? 分からんのか。まあ、その辺りはまだまだか。要は、まだ貴様は己の人生を賭けられるようなものを見つけてないって事さ。
 それは別段卑下するような事でもない。ここでいらぬ見栄でも張って下らない大言をのたまわず、自らの矮小さを理解する──むしろ良い兆候だ。そしていつの日か、己の枠に収まらない夢に向かって走り出せば上等だ」

「この戦いが──魔術師にとっての闘争が、ボクにとってはその命を賭けるような舞台じゃないって言うのか?」

 なんて馬鹿げた話。サーヴァントというおよそウェイバーが人生の全てを費やしても到れないであろう高みにある存在を行使し、聖杯という奇跡を賭けて殺し合う戦いが──最大の見せ場でなくてなんだと言うのか。

 ライダーはウェイバーの訝しんだ視線をさらりと無視して続ける。

「うん? 少なくとも坊主もそう思ってるんじゃないのか? じゃなきゃ初めて逢った時言ってたような……そうそう、背を伸ばしたい云々を」

「そんな事言ってねえよっ!」

「まあともかく、命を賭けてまで初心を本気にしとらんという事だろう、今の坊主は」

「…………」

 それはただ単に、相対的な見地に立ったからだ。ライダーに付き合ったこの数日、見せ付けられたものが──多少なりともウェイバーの価値観を揺るがしている。
 けれどそんな心を指して、ライダーは良い兆候だと言ったのだろう。少なくとも、出会った当初よりウェイバーは成長している。上に伸びずとも、自らの下限を理解している今のウェイバーは。

「自らの卑小さを理解し、初心が小さく見えてきたんだろう? そして今はもっと大きなものを見ているんだろう? ならばいいじゃないかそれで。
 この戦いが坊主にとってどんな位置づけかは知らんが、その程度のものって事さ。余にとっての世界征服の足掛かりであるように、坊主もいつか本気になれるものを探す為の踏み台でしかない。そう思えばほら、生き急ぐ意味などないだろう」

 どっしりと座していたライダーも、ウェイバーに倣い寝転がる。大の男が二人して埠頭で横になり空を見上げている。傍から見ればかなりの奇異だ。

「この空に比べれば、我らのなんと小さき事か。それを思えば、余も貴様も大差はない。貴様が余に何を見とるのかは知らんが小さい小さい。見るのならこの世界を──そして空を見よ」

 波の潮騒を音と聴き、遥かに広がる空を見る。何処までも続く蒼穹、世界の果てまで続く大空。
 人間一人──たかが人間一人の欲望など、比べあっても意味がない。

 ただその夢を誇り、命の鼓動とするのなら。自らと比してなお遠大な夢を見るのなら。それこそ覇道に息衝く一つの萌芽。
 根付いた夢はいつしか芽吹き、大輪の花を咲かせるだろう。多くのものを巻き込んで、自らの器に収まらない一際大きな覇を彩る。

 ────彼方にこそ栄え在り(ト・フィロティモ)

 自らの小ささを知り、世界の広さを知り。その上で果て無き夢をユメと見る者。途方もない──筋金入りの大馬鹿野郎だ。

「ま、そういうわけさ。貴様が真に尊いと誇れる生き様を見つけたら、その時こそ全てを賭けて、否が応にも戦わざるをえなくなる。己の戦場を求めるのは、それからでも遅くはないだろうよ」

「……ふん」

 もはやウェイバーは口を衝く言葉を失った。今口を開けばきっと負け惜しみしか出てこない。己の矮小さをより理解すると共に、やはりこの男のでかさを知った。
 ならばいつの日か──ウェイバーにも、この男と同じような気高い志を持って立ち向かう日が来るのだろうか……

「……そういえば、訊いてなかったな」

 ウェイバーは話題を切り替えた。

「うん?」

「オマエの聖杯にかける望みだよ。世界征服世界征服言ってたけど、そんだけ言うんだから聖杯に頼るつもりなんかないんだろ?」

「おう。なんだ坊主、ようやく余の考えが分かってきたか」

「知りたくなんかなかったけどな。ああ、確かにオマエは大馬鹿野郎だ。そんな願いを奇跡の願望器にかけるような奴、オマエしかいねぇよ」

 聖杯戦争を世界征服の足掛かりと憚ったライダーの求める願い。それが第二の生──己の受肉だなんて、一体誰が思い当たるというのだろうか。



 その後、ウェイバーとの約束通り、ライダーは街へと繰り出した。もちろん征服や略奪は厳禁だと申しつけ、財布よりそれなりの金銭を持たせてもやった。
 ウェイバーはと言えば、ライダーに随伴する事無く一人海浜公園で空を見上げていた。

 埠頭にて聞かされた様々な事柄の整理もさることながら、たとえこの戦いがウェイバーにとっての最大の晴れ舞台ではないにせよ、もし本当にこの先にそんな場所が用意されているのなら、今この闘争を生き抜かなければならない。

 戦闘全般に関してはライダーに任せるしかないが、ウェイバーにだって何か出来る事がある。だからその何かを探す為に、室内で悶々と悩み続けるよりはマシだろうという打算で公園のベンチで思索に耽っていた。

「ウェイバーさん」

 だがそんな物思いも、久々の一人きりの時間も、その声によって遮られた。

「ああ……」

 振り仰いだ先には、リディア・レクレールの姿があった。今日は暴漢に襲われなかったのか、一人きりで、妙ににこやかな笑みをウェイバーに向けていた。

「こんにちわ。いい天気ですね」

「ああ、そうだな。というかアンタ、またこんなところで何してるんだ?」

 ここ数日外に出る度にこの女と出会っている気がする。いや、最初はただの偶然で、二回目はウェイバーから捜したが、こうも都合よく何度も出会うだろうか──こんなにも広い街で。
 まあ、この場所は前回別れた場所だったから、そういう事もあるかと割り切って話を続けた。

「いえ、ただの散歩です。ウェイバーさんは?」

「ああ、うん。ボクも似たようなものだよ」

「隣、座っていいですか?」

「ああ」

 そう言ってリディアはウェイバーの隣に腰掛けた。つい、と視線を滑らせれば、変わらない滑らかな髪が目に入った。

「そういえば、学校とか行ってないの? こんな昼間から何度も出会ってるから不思議に思ってたんだけど」

「はい。まだこの街には来たばかりで勝手が分からないので。少し馴染んでから通えればいいなって思ってます。ウェイバーさんは観光……でしたっけ」

 以前の他愛のない会話の際に確かウェイバーはそう誤魔化していた。

「ああ、一週間かそこらだけど。何れはこの街を出て、倫敦へ帰るよ」

「倫敦……」

「? どうかした?」

「あ、いえ、なんでもないです」

 曖昧に微笑んで、リディアは話を誤魔化し、ウェイバーも訊かれたくない事の一つや二つあるだろうとそれ以上の追求をしなかった。

「なあ……夢って、ある?」

 ウェイバーは唐突にそう訊いた。

「夢……ですか?」

「ああ。別に現実的なものじゃなくてもいい。それこそ子供が見るような大それたものでも構わない。何かある?」

 そう問いかけたくなったのは正しくライダーとの問答のせいだろう。ウェイバーの現在の比較対象はあの男しかいない。偶然にも出会ったこの普通の少女は、一体どんな夢を見ているのかと訊いてみたくなったのだ。

「そうですね……」

 頬に手を当てうーん、と唸りながらに考えるリディアをウェイバーは何とはなしに見つめる。本気で悩んでいるのか、中々回答が出てこない。

「いや、あの、そんな真剣に悩まなくてもいいんだけど」

「いえっ! ちゃんと考えますから待ってください!」

 珍しくも気圧されて、ウェイバーはただただ頷くのみ。何処か大人しい印象を受けていた少女にしては、かなり強い語気だった。

 ぼんやりと空を眺めつつ少女の頭の中で目まぐるしく回っているだろう思考が終わるのを待つ。どれだけ待ったのか分からなかったが、唐突にリディアはウェイバーの方に向き直った。

「な、なに?」

「いえ、夢、出ました」

 何故に片言なのかと問い質したくなったが、頷くだけで我慢して続きを促した。

「楽しく生きたいです」

「………………は?」

 飛び出た回答にさしもウェイバーも首を傾げた。もっとぶっ飛んだものが出てくるか、現実味を帯びた未来像が飛び出すものと思っていたのに、酷く抽象的で曖昧な、漠然とした夢だった。

「たの、しく……?」

「はい。楽しく生きられたら、最高じゃないですか。学校に行って友達と楽しく過ごして──いつかは悲しい別れがあって。別の道に進んでもときどき再会したりして昔話に華を咲かせたり。
 大人になって働いて結婚して子供を生んで。当たり前の事を、当たり前のように楽しく生きられたら何よりも最高なんじゃないかって思います」

「…………」

「時には悲しい事があったり辛い事があると思いますけど、そんな事を吹き飛ばすくらいに楽しい事はあるって思ってます。
 だって────生きているだけでこんなにも楽しいんですから」

 気恥ずかしさからか、少しだけ頬を染めた笑顔で飾って、少女は夢を語り終えた。

 それは、酷く当たり前の夢。誰も悲しい人生や辛い人生を歩きたいとは思っていない。楽しく生きる──そんな当たり前の事を、けれどリディアは胸を張って言ってのけた。

 普通すぎるくらいに普通で、当たり前に満ちた夢。けれどその当たり前を誇らしげに語った彼女を、どうして馬鹿に出来ようか。
 彼女自身、辛い過去を持つ身だ。故郷を失い、こんな僻地に渡ってきたのだ。それでも悲しい事も辛い事も、色んな事を巻き込んで。その上でなお楽しいと誇れる生き方を、この少女は夢見ている。

 ウェイバーにとって、リディアの答えは余りにも眩しかった。自らの卑小さから口を噤んだウェイバーと、そんな当たり前を誇るリディア。まるで違う生き方……あの男とも違う生き方だけれど、だからこそ眩しかった。

「え、と……やっぱり、変でしょうか?」

 ウェイバーから何の反応もなかった事に恐る恐ると訪ねたリディア。ウェイバーは首を横に振り、

「いや、全然変じゃない。むしろボクは、羨ましい」

 自らを誇る事──それがウェイバーに足りなかった事なのだろう。そしていつかウェイバーも、自らが誇るに足るものを見つけなければならない……

「ありがとう、参考になった」

「はい。でもウェイバーさんの夢は教えてくれないんですか?」

「ああ」

「あ、ズルイです。人に訊いておいてそれはないですっ!」

「まあそれはそれとして。腹空かないか? せっかくだし何か食べよう」

 無体にも人の夢を軽々しく聞いてしまった代償にしては安上がりだが、そう誘いリディアの手を取る。今己の夢を訊かれたくなくて、ウェイバーはいつもの自分ならまずしない所作を行った。

「ほら、行こう!」

「え、あ、きゃ!」

 おたおたともたつきながらも笑顔でついてくる少女と共にウェイバーは一路、商店街へと駆け出した。



 軽食を摂りつつ歓談を続け、何の事はない話題を幾度となく繰り返す。午前の内にマッケンジー邸を出て、未遠川の川縁を歩く事数時間。その後にライダーと問答をし、リディアと出会った。

 陽が落ちるのも早くなるこの時期、気が付けば既に西日が射して空を茜色に染めていた。

「ん……思いの他時間食っちゃったか」

 ドリンクバーで粘っていたファミレスを辞し、空を見上げながらに呟いた。

「そうですね。あ、私そろそろ帰らないと……」

「おーい坊主ー」

 その時、道の向こう側より胸に世界地図を頂くラフな格好の巨躯がのしのしと近寄ってきた。

「おう坊主。こんなとこにおったのか。ん? こっちの女子は……」

「あ、その節は、どうもお世話になりました」

「おうおう覚えているぞ。確か坊主が助けた娘であったな。うむうむ。なんじゃい、坊主も隅に置けんな。余をほっぽりだして逢引きとはな」

「なッ……誰がっ……!」

 ウェイバーはその気などまるでなかったが、確かに傍から見ればそう取られてもおかしくはない組み合わせ。ウェイバーは別段容姿に自信があるわけではないが、隣の少女とは不釣合いだという事くらいは理解出来る。

「そうですよ、アレクセイさん。私とウェイバーさんはそんな関係じゃないです。お友達です」

 ですよね? と話を振られたウェイバーは答えに窮した。断固としてそう言われるのもそれはそれでなんだか寂しさを覚えるのは男の性ではあるまいか。

「まあそういう事にしておくか」

「はい、そういう事にしておいてください。今はまだ」

「え……?」

「いえ、何でもないです」

 笑って誤魔化すリディア。ウェイバーも余り続けたい話題ではなかったので安堵の息をつき、違う話を振った。

「おい、ところでそれ、なんだ」

「おお、良い所に目をつけたな坊主」

 ライダーは手にしていた紙袋を掲げて見せた。曰く、本日発売の念願のシミュレーションゲームをゲーム機ごと買い付けてきたのだという。
 ウェイバーの貴重な日本滞在費が──自分から渡したとはいえ──そんなどうでもいいようなものに費やされたのは何ともいえない気分になった。

「あの、じゃあ私、そろそろ失礼しますね」

「ん、そうか」

「おい坊主。送っていってやらんのか?」

 妙な気をきかせるライダーをじろりと睨み付けるウェイバー。

「いえ、大丈夫です。まだそんなに暗くないから」

 リディアはたっ、と一歩を踏み出し振り向いた。

「それじゃあ失礼しますね、ウェイバーさん、アレクセイさん」

「ああ、気をつけてな」

「うむ」

 去っていくその背を残された男二人が見つめ、途中──何かを思い出したかのようにはたと足を止め振り向いた。

「ウェイバーさん!」

 響き渡る少女の声。思いの他大きな声にウェイバーはどきりとした。

「今日は楽しかったです! また誘ってくださいね!」

 それだけを叫び、リディアは走り去っていった。

「…………」

 ウェイバーはといえば、ただ呆然と状況に呑まれるままに──去っていく少女の後姿を眺めていた。そして思考が現実に追いついて、

「あの……バカ……っ!」

 こんな商店街のど真ん中で一体何を叫ぶのだ。お陰さまでウェイバーは夕食の買い物に訪れている主婦達の注目の的だった。生暖かい視線が今は辛い。

「うーむ……」

「なんだよ」

 腕組みをしてウェイバーを上から下から睨めつけるライダーを半眼で睨み上げながらに呟く。

「これがフラグというやつか……?」

「……なんでそんな言葉知ってるんだよ、まさか聖杯の知識とか言わないだろうな?」

「いやなに、先程立ち寄った書店にあったギャルゲー雑誌とかいうやつにだな……」

「いい歳こいてんなもん読んでんじゃねぇよ!」

 むしろサーヴァントのくせに、と突っ込みたかったウェイバーであったが、流石にそこは理性で自重し切った。というよりも、ウェイバーがそんな言葉を知っている方が不思議である。

「……まあいい。ほら、帰るぞ。めっちゃ見られてるし。目立ちたくないのに……」

「うむ。余もこれを早くプレイしたいからな。いざ、参らん」

 ウェイバーは俯いて、ライダーは胸躍らせながら帰路に着く。

 赤から蒼へと色彩を変化させていく空。
 近づく夜の帳。移りゆく雲のように時は流れ──少しだけ、雨の匂いがした。


/Responsibility


 遠坂時臣が聖杯戦争に臨むに際し、妻子である葵と凛は隣町にある禅城の邸宅へと預けられていた。
 いつ如何なる時戦場となりえるのか分からない遠坂の屋敷に彼女らを置いておくわけにもいかないが故の措置であった。

 けれど、幾ら闘争の場と化していても、彼女らには彼女らの生活がある。夫を支える事を役とする葵はともかく、凛は魔術を父より習いながらも学校に通っていた。
 魔道に進むのなら別段必要にはならない教養とはいえ、あって困るものでもない。むしろ情緒を豊かにする事には大いに意味があるだろう。

 我が子の未来を暗く閉ざされた室内で研究に明け暮れ一生を終えろと憚るほど時臣も鬼ではない。
 故に凛は一般的な同年代の子らと同等の、またはそれ以上の才媛として振舞いながら、更に家系を継ぐ為の修練をこなしていた。

 その在り方は聖杯戦争が始まっても変わらない。安全の為と生活を変えるのは、遠坂の家訓に背く行いだ。

 ──常に余裕を持って優雅たれ。

 既にその一文を体現する──しようと努力をしている──凛もまた、父と変わらぬ、父に恥じない己足らんと努めていた。

 冬木市内にある学校へと電車で向かい、いつも通りの授業をいつも通りに受け、友達と連れ立って帰路に着き、禅城の屋敷へと帰る。
 それが今現在凛に定められた日常のサイクルであり、変わらない日常の一幕であった。

 ただその日は、少しばかり違った。

 授業を完璧にこなし、返って来た小テストに描かれた花丸に満悦のまま、今日もまた友人達と帰ろうと思った時、彼女はある少女より声をかけられた。

 少女の名はコトネと言い、凛に良く懐いている女の子だった。少しばかり控えめな印象を受ける少女は、いつも凛に頼りきりだった。凛もコトネを良く助け、今では随分と仲も良くなった。

 今日もまた何かあったのかと快く相談を受ければ、何の事はない、誕生会へのお誘いだった。コトネではなく、凛とも面識のある別のクラスメイトの女の子の誕生日が今日であり凛にも是非参加して欲しいとの事であった。

 その少女はコトネ以上に控えめで、余りクラスの中でも目立つ方ではない。凛のように常に中心にいる人物は羨望の的でさえあったのだろう。
 そこで仲の良かったコトネを仲介し、この機会に仲良くなりたいと、そう思ったらしかった。

 凛は聞き終えてすぐに当該の少女の方へと振り向いた。席に着席したまま、話していた凛とコトネの方を見ていたその子は凛に見つめられびくりと身を竦ませ、視線をグラウンドへと投げた。

「凛ちゃん……?」

 小首を傾げたコトネに凛はちょっと待ってて、と告げ、ずかずかとその少女の机の前に移動し、仁王立ちをした。

「こんにちわ。あなた、名前は?」

 無論、凛はその少女の名など知っている。コトネと仲の良いその子とも何度か遊んだ事さえあるくらいだ。なのに凛は訊いた。少女に名前を。

「サクラ……です」

 少女は小さな声で応えた。自分の名を。そして……凛の妹だった、少女と同じ名前を。

「そう、サクラ。それであなた、わたしを誕生会に招待してくれるんですって?」

 サクラはコクリと頷く。恥ずかしいのか、何か詰問されているような雰囲気に緊張しているのか、顔は真っ赤だった。

「うん。その申し出はすごくありがたいけど、ダメよ」

「え……」

「ちゃんと、自分で誘いなさい。でないと、わたしは行けない」

 サクラはきょとんとした表情で凛を見上げた。ダメと言われた時点で、断られたものと思っていたからだ。

「人に頼っちゃダメとは言わないけど、自分で言わなきゃいけない事は自分の口で言わないとダメ。助けてって頼むのはいい。でもあなたの願望はあなた自身がちゃんと言葉にしないと、相手にも伝えられないと思うわ。
 うん。だから、もう一回。ちゃんとサクラの言葉でわたしを誘って? わたし達、友達でしょう?」

 止めとばかりに凛は微笑む。凛の言葉はサクラを咎めるものではなく、強くする為のおまじない。引っ込み思案な彼女に、少しだけの勇気をあげるのだ。

「り、凛ちゃん。わたしの、誕生会に、来て……くれる?」

「ええ、喜んで!」

 ちゃんと自分の口で想いを述べたサクラに、凛は笑みを返し、少女もまた笑顔を飾った。



 楽しい時間はあっという間に過ぎ去り、凛とコトネがサクラの家を辞した時、既に陽は傾いていた。
 時間にして午後七時過ぎ。まだそれほど夜も深い時刻ではないが、子供が歩き回ってもいいような時間ではない。

 長々と引き止めてしまったので、サクラの母親は凛とコトネを送っていく旨を伝えたが、凛は丁重に断った。
 凛もコトネも自宅には電話を入れているし、コトネは凛が送っていけばいい。コトネの家はサクラの家からそれほど離れていないし、凛は電車だ。駅にまで着いてしまえば何ら問題などない。

 それでも食い下がろうとする母親をやんわりと、それでいて頑なに凛は制し、コトネと共にサクラに別れの挨拶をして道路へと躍り出た。

「結構遅くなっちゃったわね。コトネ、早く帰りましょ」

「うん」

 楽しかったね、などと雑談をしつつ夜道を歩く。新都の少し奥まった位置にある閑静な住宅街を凛とコトネは歩いていく。
 しん、と静まり返った街並みを照らすのは家より零れ落ちる灯りと街灯だけ。二人の声以外がまるで聞こえてこない人工の森の中は、酷く不気味だ。

 楽しげに話していたコトネも、周囲の余りの静けさに気が付いたのか、凛の袖をそっと握る。凛は笑みを零し、コトネの手を取って歩みを続ける。

 凛がサクラの母の申し出を頑なに拒んだ事には理由がある。それは、この街が今置かれている状況だ。
 十一月ともなれば陽が落ちるのも大分早くなる。すっかりと暗くなった夜道、もしかしたら、既に何処かで戦いが起きているかもしれないのだ。

 父である時臣、兄弟子である綺礼。どちらにせよ、二人ともが死地に身を置き奇跡を賭けて命を賭けている。
 可能性の話ではあるが、サクラの母が凛とコトネを送り届けたその帰り道、彼女がその状況に巻き込まれないとも限らないのだ。

 それならば、コトネを送り届け凛が足早に帰る方が効率が良いし無駄もない。親切に甘んじて、明日の新聞の一面にもしサクラの母の名前でもあっては、流石の凛も気が気ではいられない。

 コトネの手を握ったのとは違う手でポケットの中にあるものを触る。危険に身を置く可能性を考慮しているわけではないが、お守り代わりとして修行に際し作成した水晶片を二つばかり携帯している。

 いつも持ち歩いているわけではなく、禅城の邸宅に預けられてから持ち歩くようになったのだ。もしもの為に。起こってなど欲しくない事態が──もしも起こってしまった場合の為に。

 コトネと手を繋ぎながら歩く凛がふと、周囲に目を配る。変わらない静けさ。夜に出歩く真似などした事などなかったが、こんなにも静かなものなのだろうか。周りの民家からは灯りこそ漏れているが、談笑の一つも漏れてこない。

 蒼白く輝く月が見下ろす街道。静寂に閉ざされた……本当に囚われたような静けさに。さしもの凛も訝しみ、本能的に何かを感じ取ったのであろうコトネも強く凛の掌を握り締めてくる。

「大丈夫よ」

 凛が呟く。コトネへと向けた言葉か、自分自身への檄だったのか。

 何れにせよ。

 ────ソレは、その時目の前に現れた。

「…………ひっ!?」

 コトネが声を上げ、凛が目を見張る。

 ゆらり、と電柱の影より姿を見せた人影。いや、果たしてソレは人だったのだろうか。ドロドロに溶けた皮膚がある。白い骨が顔を覗かせている。落ち窪んだ瞳には、あるべき眼球が一つしかない。
 襤褸切れのような衣服を身に着ける、どうにか人型を保っている人ではない何か。あってはならない怪異が、可能性としてしか考慮していなかった事態が、突如として彼女らの目の前に現れた。

「コトネ」

 通常、ありえざるモノを見た者はコトネのような態度を取るのが正しい。息を呑み、頭を真っ白にし、声さえも上げられない状況に陥る。
 けれど、片足を魔の道へと突っ込んでいる凛は、あくまで冷静に、冷徹に──そして優しく友達の名を呼んだ。

「大丈夫、心配なんかいらないわ。わたしは遠坂凛なんだから。あなたをいつも助けてあげている遠坂凛だから。何も心配しないで、わたしに任せなさい」

 穏やかに微笑みかけた凛を見て、コトネも少し落ち着きを取り戻したのか、声こそ発さなかったが力強く頷いてくれた。

 ひた、ひた、と緩慢な歩みで近づいてくる異形。凛は震えの一つもなく睨みつけ、コトネは震えを抑える事も出来ず、けれどしっかりと凛の手を握る。

 冷たいアスファルトを踏み締める腐り落ちた裸足。ひたり、と怪異が一歩を大きく踏み込んだ瞬間、

「……コトネ!」

 強く名を呼び、強く手を引き後方へ向かって走り出した。

 足が竦み、思うように走れないコトネを引っ張るようにしながら凛は静まり返る街を駆け抜ける。頭の中には覚えている限りの近辺の地図を思い浮かべ、コトネの家まで辿り着けるルートを探る。

 あの異形から逃げ回るにしても戦う決断を下すにしても、コトネははっきり言って足手纏いだ。彼女だけは先に家へと送り届け、安心をさせてあげたかった。
 そして、助けを求めるという選択肢は有り得ない。あの異形は“こちら”側のモノだ。日常の中にある者を、たとえ大人であろうと巻き込めない。

 最短ルートは先程の異形に防がれていた。迂回する形で二人は闇を裂いて走り続ける。見た限り、アレは死徒の下級段階であるところのグールか、リビングデッドだろう。現物は見た事がなかったが、知識としては一応知っていた。

 解せないのは、何故そんなモノがこの街にいるのかという事。魔術師の祭典である聖杯戦争に、死徒が関与しているなどと……。

「はっ、はぁ、は────っ!」

 結局凛の拙い思考能力では敵の分析など意味がない。今は早く、コトネを安全な場所まで逃がす事だけを……

「えっ……?」

 声を漏らし、足を止める。急に立ち止まった凛に引き摺られるようにしてよろめいたコトネも、目の前に現れたソレに、またしても喉より出かかった声を呑み込んだ。

「……なんで」

 先程引き離した筈の異形が、彼女らの前に再度立ちはだかる。腐り落ちかけている肉体から、凛の速度に勝る脚など持っていないと思っていたのに──いつの間に、回り込まれたのか。

「くっ──コトネ!」

 踵を返し、来た道をひた走る。立てたルートが御破算になって、新たに構築する暇すらなかった。
 二つか三つ、角を折れた先には、またしても異形が彼女らを待ち構えていた。

「そんな……」

 そこで凛は理解した。この異形は、元より一人ではなかっただけの事。複数いたのだという事を。よくよくみれば細部に違いが見られるが、暗がりである事と焦りが確実に凛の思考能力を奪っていた。

 それからはもう単純だった。何処をどう走っているのか分からないまま、ぶつかった異形を避けるようにひたすらに走り続ける。
 凛もかなりの疲れを感じているというのに、コトネも必死に食い下がってくれていた。それは恐怖より逃れる為の本能が運動能力を後押ししているのか、凛に絶対の信頼を寄せ、必死に頑張っているのかは分からなかったが。

「はっ、はっ、はっ、は、ぁっ──!」

 闇のせいで、まるで様相を変える街並みが迷路のように入り組む。逃げれば逃げるほどに街の奥へと誘われる。そう──まるで獲物を追い込むように。思考能力などなさそうな怪異に、凛とコトネは確実に追い詰められていった。

 ただ行き先を塞ぐように現れていた異形が、もはや二人を囲うように退路を狭める。抜けられる道を探し、動かない足を懸命に動かし、暗闇に惑い続け、

「凛ちゃ、そっち、だめ……!」

 ぜいぜいと息を吐きながらもコトネが声に発するのと、凛が道を一本折れたのはほとんど同時。

「ぁ……」

 躍り出た先は、行き止まり。袋小路。咄嗟に振り返った凛の視界に、絶望が映り込む。数にして四人の異形が、退路を塞いでいた。

「りん、ちゃ……」

 カタカタと歯を震わせしがみ付くコトネ。ここまで声の一つも上げなかったコトネだったが、流石に状況の悪さを、死の足音を理解したのか、今にも絶叫を轟かせようと口をぱくぱくと開いては閉じる。

 凛は目の前の四人の異形をしっかりと見据えたままにコトネの手を強く強く握る。

「コトネ」

「凛ちゃぁん……」

「大丈夫。言ったでしょう? わたしは、遠坂凛なんだから。あなたの友達の、遠坂凛なんだから……守ってみせる!」

 いつだって彼女を守ってきた。頼られる度、自分が強くなっていく思いがした。父より授かった家訓に順じ、正しくあらんと、美しくあらんと努めてきた。父に恥じない、自分になろうと頑張ってきたのだ。

 だから今度も、コトネを守る。凛を頼るコトネを守る。凛にはそれだけの力と覚悟、守りたい想いがあるのだから。

 ぐっと握り込む水晶片。勿論実戦での使用など初めて。予測される効果は測れても、本当に出来るのかどうかは博打である。

「大丈夫」

 今度は間違いなく自分を奮い立たせる為に口にして。

「コトネ! 目を閉じて!」

 にじり寄る異形目掛けて腕を振りかぶり、

「────Anfang(セット)!」

 起動の呪文と共に放り投げた。

 瞬間、巻き起こる小規模の爆発。丁度異形の中心で弾けた水晶片は、内包していた魔力を解放し、凛の期待した通りの結果を齎した。

「やっ……た」

 目の前で粉微塵と化した四体の異形。白煙を燻らせる視界の中で、凛は歓喜を身体に感じていた。それが異形を倒した事によるものか、コトネを守った事によるものなのかは分からなかったが。

 同時に後始末をどうしたものかとも考える。コトネに見られてはいけないものを見られ、巻き込んだ。父に内緒で魔術も使ってしまった。
 けれど、凛は父の前でも胸を張れるだろう。凛はコトネを守る為に戦った。必要だった力を使っただけだ。力ある者が弱きを助けるのは当然の事だから。友達を助けるのは当然の事なのだから。胸を張って、父の叱咤に甘んじられる。

 けれど。

「凛、ちゃ……あ、あれ……」

 固く閉じていた瞳を開けたコトネが捉えたものを見やり、凛の手を握る。凛もまた、思索を放棄し視線を前に向け、息を呑んだ。晴れた白煙の先に蟠る──異形の群。

「う……あ……」

 目の前を埋め尽くす怪異の群。狭い路地に我先にと入り込もうと歩を進める異形、異形──異形。

 数なんて数えるのも馬鹿らしい。凛の手元には後一つ水晶片があるが、どう考えても全てを倒し尽くす事などできる数じゃない。それこそ父が持つ宝石類であれば、容易く葬れるだろうに。
 今手元にあるのは凛の試作品だけだ。これだけで生き延びなければならない。コトネを守らなければならない。

 声なき声が凛に問う。

 ──本当に、そんな事が出来ると思っているのかと。

 凛の返答は、勿論出来るに決まっている。

 ──本当の本当に出来ると思っているのかと重ねて問われる。

 それでも大丈夫だと頑なに答える。

 ──本当の本当に、絶対に出来ると、コトネを守りきれると確信しているのかと問われれば。

 ……凛も答えに窮してしまう。

 心許ない武装。後ろには守らなければならない大切な友達。凛自身だって死ぬわけにはいかない。凛が死ねば、悲しむ人がいるのだから。
 だから、戦う。だから、守る。遠坂凛は屈しない。負けるなんてありえない……!

「うあああああああああ……!」

 半ばやけくそ気味に手にした水晶片をにじり寄っていた怪異にぶつける。再度巻き起こる爆発。けれど白煙が消え去るよりも先に、新たなる異形が凛とコトネに手を伸ばす。

「っっっっっ……!」

 叫び上げたい声を押し殺して、背にしていたコトネを庇うように蹲る。絶対に守ると。この子だけは守りきってやるのだと。
 同年代の子らと比べれば幾らか大人びている凛ではあったが、それでもその本質はまだ培われていない。武器を失くし、襲い来る異形から目を逸らし、震える腕でコトネを強く抱き締める。

「わたしは、わたしはコトネを守るんだから……!」

 高く叫びを上げ、想いを形にする。無駄な行為と知りながら、それでも声を上げずにはいられなくて。

 ……助けて、お父さま。

 届かない願いを胸に埋め、凛はただ、迫る死にそれでも抗おうとして──

「ああ、そうとも。それが、おまえの責任だ」

 ──夜を焦がす、光が巻き起こった。

「…………ぇ?」

 それが自らの声音だったとは分からないままに嗚咽を漏らし、凛は目の前に巻き起こった光景に呆然と打ちのめされた。
 瞬時に巻き起こった焔が凛の水晶片に数倍する威力を発揮し、路地を埋め尽くしていた異形を残らず灰燼に帰す。

 圧倒的な魔力の奔流。圧倒的な赤の輝き。

 闇を照らし、闇を払拭する炎の煌きの先に、その男は立っていた。

「あ、あ……」

 偶然か、でなければ奇跡としか思えなかった。陳腐なもの言いをすれば、出来の悪い物語の序幕。さながら窮地のヒロインを助けに来た、ヒーローだ。

「お父、さま……」

 凛にとって羨望の的であり、絶対の目標である偉大なる父──遠坂時臣が、蒼白い月の下で、赤い光輝を纏い立っていた。



 その後、一気に気が抜けたものの、父の前でこれ以上の無様は晒せないとばかりに凛は気丈に振舞い続けた。
 コトネは安堵から意識を失くし、時臣の手により記憶の消去を施され、事無きを得た。ここ一時間ばかりの恐怖の記憶とサクラの誕生会にまで食い込む消去ではあるが、時臣にしては手厚い方だ。

 通常、一般人に神秘を知られたのならば記憶ではなく存在自体を消去する。いつ解れるとも分からない記憶の消去は、神秘の痕跡を残しかねないからだ。

 今回の場合、ここで時臣が魔道の常識に沿った行動をしてしまえば、凛の守ろうとしたものを貶めてしまう事と、怪異の存在が時臣らが現在繰り広げる聖杯戦争の一部である以上は土地の管理者である時臣自身にも少なからず責任があったからだ。

「もとはと言えば、凛があんなものを持ち歩いていなければ、こんな事にはならなかったのだろうがな」

「……ごめんなさい」

 あの怪異らは、意思を持って凛を襲っていたわけではない。凛の持つ水晶片、より強い魔力に惹かれ彼女らを襲っただけの話であった。
 つまりは、凛が最初から護身の為と水晶片を持ち歩いたりしていなければ、そもそもからして襲われる可能性が少なかった筈だ。

 水晶片を使い切った後も手を伸ばしてきたのは、凛の内包する魔力量の高さが災いしたのだろう。

 ただまあ、凛は体よく囮としての役割を果たし、この周囲に徘徊していた怪異を時臣の手で根こそぎ消し去れたのは、僥倖だろう。
 そして先の異形達から、時臣もまた一つ、考えなければならない事が出来たのだから良しとされる。

 その後はコトネを自宅へと送り届け──家族には多少の言い訳を付与して──時臣と凛は連れ立って禅城の邸宅へと戻った。

「あ、お母さま」

「凛!」

 娘の帰りが遅いので探しに出ようとしていたのか、玄関先で葵と出会った。

「あなた……どうして、此処に?」

 冬木の地に留まり闘争の渦に身を投じている夫が我が子と連れ立って帰ってきたのだ、その疑問は最たるものであったが、時臣は言葉少なに用件だけを告げる。

「悪いが、凛と二人きりで話がある。下がっていてくれないか?」

「ええ、それは構いませんが……」

「すまないな」

 理解ある妻としてか、葵は過言もなく引き下がり屋敷の内へと姿を消した。時臣は禅城宅の門構えを越えない一線と引き、大きな瞳で緊張気味に見上げてくる一対の眼差しを受け止めた。

「凛」

 我が子に与えた名を呼んで、膝を折りその掌を凛の頭の上に添えた。きょとん、と目を丸くする凛。その意味は、父がこれまで子にこんな簡単な愛情表現さえ行って来なかった証左だった。

「──凛」

「はい」

 もう一度名を呼んで、今度は答えが返ってきた。時臣は大きく息を吸い、吐き出す。緊張しているわけではなく、これから自らが行う責任について今一度確認をした。
 本来、凛には道を選ぶ権利がない。強すぎる才覚は、その道でしか生きられない。だがそれでも、時臣は父親としての責任を果たすべく、その問いを口にした。

「凛。遠坂の名を継ぐおまえに問おう。おまえは、私の跡を継ぎたいと願うか? 私の歩む──魔道に足を踏み入れたいと欲するか?」

 じっと見つめてくる瞳。澄んだ色をした瞳。暗がりにあってなお輝きを損なわない光が決断となって言葉に昇華される。

「はい、お父さま。わたしは──遠坂凛は、お父さまの跡を継ぎます」

 きっぱりと。何の迷いもなく。凛は己のこれより歩むと望む道を提示した。

「──そうか」

 時臣は小さく笑みを零した。安堵などではない。凛は必ず遠坂を継ぐ。それは決まりきっていた事で。分かりきっていた事だ。
 問いかけもまた、ただの通過儀礼。父としての責任を果たす為に我が子に問うただけに過ぎない。

 ならば時臣の笑みの正体は自嘲であった。

 凛の迷いなき言葉。決意を灯した瞳。揺らぎのない強い意志。どれをとっても、時臣の納得のいくものだった。
 そして、己が先代に問いかけられた時──これ程までに強く肯定を返せていたのだろうかと思い返して、時臣は自嘲したのだった。

 ああ、ならばもう憂いなどないのだろう。この子に関しては、時臣が告げるべき言葉はもう、もしもの場合に関する相続の事務的処理しかない。
 頭に添えていた掌で髪をくしゃりと撫で、これまでまるで行わなかった父としての、娘への愛を形にする。

「凛……成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう」

 一つ肩の荷が下りたせいか、饒舌に時臣は凛に残しておくべき用件を伝えていく。家法である宝石の扱い、大師父よりの伝承の件、地下工房の管理などなど、諸々の委細について要点だけを纏めて話していく。

 時臣の言葉に静かに耳を傾け、時折相槌を打つ凛の頭に添えられたままの掌より伝わってくるぬくもり。伝えたいぬくもり。
 言葉ではない態度で、万感の想いと共に凛に対する時臣の全てを伝える。

「……以上だ。何か質問はあるか?」

「いいえ。大丈夫です」

 添えていた掌を名残惜しくも離し、時臣は立ち上がる。目線を同じくしていた宝玉が、ついと上を向く。

 後はこの場を去るだけ。伝えるべき事は全て伝えた。父としての責務も果たし終えた。深まり行く夜。冬木へと戻れば、また闘争の場での命の取り合いが待っている。踵を返し、禅城の門前を立ち去ろうとして、

「凛。最後に、一つだけ訊こう。これは魔術師としてではなく、純粋な、おまえの父としての問いかけだ」

 振り向いた時臣の目をどういう事かと疑問を浮かべて見上げる瞳。

「凛──桜に、会いたいか?」

「────っ!」

 およそそんな質問を予期していなかった凛は驚きに目を丸くし息を呑む。それもその筈──遠坂の家で桜に関する話題はタブーだ。もういないと。そんな妹はいなかったものとして扱われているのだから。
 その禁を時臣自ら破った意味。魔術師としてではない父としての問い。魔の全てを破却して、一人の父と娘の間に交わされた初めての──そして最後の問い。

 思い浮かべたのは同い年で同じ名前の女の子。引っ込み思案なところなんかそっくりで、ついついお姉さんぶったりもした。

 でも彼女は彼女であり、妹は妹だ。だから返すべき答えは──ただ一人の娘、いなくなった妹の姉としての言葉を、最初の最後に紡ぐ。

「はい、お父さま。わたしは、桜に会いたいです」

 隠し通せない感情。いつか、雁夜の前で封殺した筈の想いが溢れ出しそうだ。問いかけたい。何故、と。父と娘として、何故あの子が余所の家に行かなければならなかったのかと問いたい衝動に駆られ、しかし抑え付けた。

 これは時臣よりの問いかけだ。ましてや、つい先程魔道を受け継ぐと憚った凛が、どうして今更そんな愚問を口に出来よう。
 この程度を我慢できなければ……否、その想いを封殺できなければ、凛に魔道を歩む資格などないのだから。

 問いに答えを返す事しか許されない。本来ならば答える事さえ許されないその問いに答えたのは、凛なりの精一杯の訴えだった。

「そうか。ああ、わかった」

 それ以上は何も言わず、時臣は視線を凛より外し更に高く投げた。先に屋敷へと戻った葵が窓辺から父子のやり取りを眺めている。時臣と視線があって、葵は小さく笑みを形作ったようだった。
 信頼と激励を乗せた微笑みに目礼を返し、時臣は再度凛に向き直る。

「それでは行くが。後の事は分かっているな」

「はい。いってらっしゃいませ──お父さま」

 愛すべき妻と娘の視線を背に、時臣は戦場へと向けて歩き出す。その手に聖なる杯を掴み取る為──そして、未だ残された責任を果たす為に。

 時臣はこの時はまだ知らなかった。昨夜までは有り得なかった、街を徘徊していた怪異の存在が予兆していたものを。そして禅城宅を辞した後に、綺礼より遣わされたアサシンが告げる言葉を。

 ────父の朋友である神父の、死を。


/Awaken


 言峰綺礼の父である言峰璃正は、敬虔なる信徒であった。

 自らが籍を置く第八秘蹟会の司祭にして、この聖杯戦争の監督役を前回より引き続いて任された傑物である。
 齢八十を超える高齢でありながら、その信仰心は衰えるところを知らず、肉体もまた精神に呼応するが如く逞しい姿を保っている。

 彼が始めてこの戦争を監督した第三次聖杯戦争では、この第四次よりもなお酷い戦況化にあり、若輩でありながら監督役という大任を仰せつかった璃正も大いに苦心した。
 しかし、その時の仕事ぶりが評価されてか、続く第四次も引き続き監督役に納まる事になった。

 此度の戦いにおいて、前回と決定的に違う点があるとすれば、それは彼の息子である綺礼の存在であろう。教会に属する者でありながら早期に令呪を宿し、前回の折に友誼を結んだ遠坂とも浅からぬ仲である。

 神の血を受けた杯ではない、願望器としての杯には教会は食指を動かさない。正しい用途に使用されるのであれば、無理を押してまで妄執に囚われる魔術師連中の闘争に関与しようとは思わない。

 ただ、正しくない用途で使われては困るが故に、聖杯を最も正しく──あるべき形の願望器として唯一使用するであろう遠坂時臣とは、蜜月の関係を結んでいる。
 監督役の息子が参戦するだけでも異常であるというのに、その実彼らは手を組み、監督役本人とも繋がりのある時臣のアドバンテージは他の参加者を圧倒している。

 その証左というわけではないが、時臣は今現在戦いをリードしていると言えるだろう。目立った敗戦もなく、むしろ挑まれた戦いには全て勝利を収めている。
 彼本人の資質もさる事ながら、喚び出したサーヴァントの力量、綺礼との連携も概ね功を奏していると考えても良さそうだ。

 ただそれとは別に、璃正には監督役としての仕事がある。

 戦時下にあった前回ではうやむやに出来た幾らかの大規模な破壊工作も、平穏を手に入れた現代では難しいものがある。
 特に今回の参加者で最たる者は彼の衛宮切嗣の所業か。アインツベルンの森での戦いは結界が展開されているので公には出る事こそなかったが、緒戦でのビル火災からハイアットホテル襲撃は、さしもの璃正も方々に手を打たなくてはならないほどであった。

 ただ、それらはまだ生易しい部類である。然したる犠牲者もなく、後は適当な原因をでっち上げ、証拠を全てうやむやにしてしまえばいいだけなのだから。

 その意味で言えば、これまでのところは順調だ。監督役として戦況を把握する役も、街中に根を張る教会の手の者と綺礼のアサシンからの報告で事足りている。
 昨夜消滅、そして抹殺されたランサーとロード・エルメロイ、その許嫁であるソラウの死を皮切りとして、闘争の渦はより一層の昏迷を極めていく事だろう。

 それでも璃正は時臣の、そして綺礼の勝利を信じ、己の役割を果たすのみ。

 その日の夜も、璃正は随時戦況の把握に務め、いかなる不測の事態が起きても対応できるように万事委細を詰めていた。
 今日に限ってはどのマスターも目立った動きはなく、璃正も安堵の息を零しかける。けれどいや、と己を引き締め、礼拝堂にて神前を見上げた。

 いかなる油断も己の心の隙を衝く慢心となる。確固たる克己心で諌め、捧げるべき祈りを口にしようとして──

 ──コンコン、と神の扉を叩く音がした。

「こんな夜分に礼拝か……?」

 聖杯戦争が幕を開けてからこっち、教会周りには一応の結界が張られている。それは中立地帯とはいえ、逆に言えば闘争の中心でもある教会に一般人を近づけさせない為の措置である。

 ただそれほど高位の術式によるものではなく、信心深い者ならば容易く乗り越えられる程度のものだ。あるいは、知らぬ間にサーヴァントを失った脱落者か。そんな不手際はありえない筈なのだが。

 何れにせよ広く開かれるべきである神の門が叩かれたのなら、迎え入れないわけにもいかない。祈りを中断し、璃正は扉に手をかけた。

「ようこそ、冬木教会へ。このような夜分に何用かな? いや、我が門扉はいつ如何なる時も開かれている。
 貴方が求めるのなら、神はいつでも御魂に祝福を齎すでしょう」

「──いいえ、神様に用はありません。私はただ、悪魔からの招待状を届けに来ただけなのですから」

 その瞬間、璃正は神に祈るべき言葉の全てを、永遠に失った。



 綺礼は昨日に引き続き教会内に留まり、方々への情報収集に明け暮れていた。変わらず時臣よりの連絡はない。この段ともなれば、もはやアインツベルンの森での一戦を綺礼に明かす気がないという事だろう。

 それは別段どうという事のない些事だ。時臣と綺礼の間にある信頼関係に罅を入れるものでさえもない。

 綺礼はただ粛々と己に課せられた役割を果たすのみ。時臣からの要請がないのなら、情報を開示する必要性もないのだから。

 そして今現在、蝋燭の灯りの揺れる自室にて綺礼は昨日の内に手配しておいた書類が、つい先頃ようやく送られてきたので、ソファーに腰掛け目を通していた。
 綺礼が独自のルートを通じ入手した書類は、件の封印指定についての委細だった。

 時臣も教会墓地での一件の後、協会に働きかけてある程度の情報を入手していたが、それらはあくまでその時手に入るだけの情報でしかなかった。
 なので、より詳細な経歴、来歴、出生、研究内容などの秘匿を探り出す為、協会と教会──双方の側からの調査を依頼していた。

 封印指定を受けるような輩は通常、魔術協会だけではなく聖堂教会からも付け狙われる事になる。封印指定の執行者が彼らの身柄の確保を優先するのなら、異端狩りの代行者は魂の浄化を最重要とする。

 しばしばぶつかり合う事のある彼らにとって、標的の素性についての情報もある程度の差異がある。よって綺礼は違う側面からの切り込みを入れる為、策を弄した。

 一時期を教会の代行者として過ごした綺礼にとって、かつての同胞達にそれらの捜査──既に取得しているであろう情報の開示と、更なる調査──を頼み込む事は別段難しい事ではなく、むしろ綺礼に頼られるというだけで驚きを露にするほどだ。
 協会については時臣に師事した後より繋いだ拙いツテと、時臣自身の情報網を借り受けての捜査と相成った。

 そして全ての情報が出揃い、両者の情報を刷り合わせた結果、判明した事実には、さしもの綺礼も少しばかり頭を抱えざるを得なかった。

「……とんだ曲者だな、あの女。なるほど、道理で……」

 あの時、初顔合わせの墓地での邂逅の直前、協会の執行者が叫んだ言葉の意味が、ようやく理解できた。
 ────綺礼は、そしてあの男も最初から間違えていたのだ。

「…………?」

 その時、礼拝堂より何か物音が響いた。綺礼の自室と礼拝堂の間にはちょっとした細工が施してあり、礼拝堂からの物音が筒抜けとなっている。
 普段は来訪者の訪れを知る為に用いる仕掛けだが、今現在この神の家に来訪する者などそう多くはない。そういえば父である璃正が礼拝堂にいた気配はあったのだが……

『ぐっぁああああああああああああ……!』

 叫び声と何かが殴り飛ばされる音が同時に響く。明らかに異常な声音と物音。綺礼は手にしていた数枚の紙束をテーブルへと放り投げ、自室を後にする。

「父上……っ!?」

 礼拝堂へと駆けつけた綺礼の眼に飛び込んできたのは、砕け散った長椅子と、狂乱に囚われた父の姿。血走った目で焦点を失わせ、抗うかのように頭を抱えて踊り狂う。

「父上!? 気をしっかり持ってください!」

「はっ、ハァ、はあ……っああ、キ、きれ、い……」

「そうです、綺礼です。どうか父上、気を静めてください。そして一体何が……」

「ああああああああああああああああああ……!!」

「ぐっ……!」

 瞬間、駆け寄った綺礼を振り払うように唸る璃正の豪腕。鍛え抜かれた重く逞しい腕が空を裂き、まさかそんな攻撃を予期していなかった綺礼を吹き飛ばした。
 居並ぶ無傷だった長椅子をものともせずに綺礼は壁に叩き付けられ、肺に溜まっていた空気を無理矢理に吐き出させられた。

「ち、父上……一体何故、このような……」

 身体を起こし、未だ治まらない何かに囚われたままの璃正を見やる。明らかな異常。一体何が父の身に起きたのだと問い質して、

「何故? 何故と問うのは、私の方だ!」

「父上?」

 突如決然と綺礼を見据えて断言する璃正。その鬼気迫る表情と雰囲気に押され、綺礼もまた息を呑んだ。

「何故だ綺礼……おまえは、おまえはそんな息子ではなかった筈だ」

「何を……」

 要領を得ない璃正の物言いに綺礼は疑る事しか出来ない。何よりもまず先に、父を宥め事情を訊かなければ。

「綺礼ィィィィィィ……!」

 年老いたとは思えぬ程の俊敏さで綺礼へと迫る璃正。綺礼に八極拳の何たるかを伝授した璃正の拳は、正しさの上で言えば綺礼のそれを上回る。
 地をしっかりと噛んだ足を軸として、身体の部位を余すことなく捻転の力により増幅されたエネルギーが、拳の一点に集約し放たれる。

 間一髪で避け切った綺礼の背後にあった壁は、ドリルでも突き刺したかのような深い穿孔に抉られ、真白の壁面に多大な罅を生み出した。

「父上……!」

 流石の綺礼も、狂乱する父に対し手を上げるわけにもいかない。まずは原因の究明が第一なのだが、襲い来る璃正の猛攻を凌ぎ切るだけで精一杯。
 それなりの広さを誇る礼拝堂に並べられていた長椅子は、彼らの移動の度に砕けて空を舞い、見るも無惨な塵へと変わっていく。

 我が子の名を叫びながら、それこそ涙さえ流しかねない勢いで糾弾の声を張り上げる父の異様に、綺礼は心当たりさえない。
 正しくあらんと努めて来た。美しくあらんと奮起して来た。たとえそれが己の解さぬ善であっても、父より授けられた“美しさ”を理解しようと躍起になり、身を粉にして苦行を積み重ねてきたのだ。

 これほどの狂気に囚われ、父に拳を向けられる謂れなど綺礼にはない。なのに、修羅と化した璃正はただただ綺礼を討つべしと身に刻んだ研鑽を晒し続ける。

「くっ────!」

 手出しが出来ず、逃げ出せもしないこの状況。何とか父を諌めようとするも、いつしか壁際へと追い詰められ、伸びた腕に喉輪を取られる。

「キ、礼……!」

「がぁっ……!」

 ギリギリと締め上げる野太い腕。込められる力は尋常ではない。枯れ木を思わせながらも鍛え抜かれた璃正の腕力に──抗う術はあっても抗うべきかも分からない綺礼はされるがまま。

 それでも、殺される──そう思った矢先に、

「何故だ綺礼……おまえは、おまえは何故そんなにも醜悪なのだ。何故、そんな倫理観を持つ? 何故美しいものを美しいと感じられないのだ……!」

「────なっ……父、うえ……?」

 綺礼の脳裏を過ぎったのは、『馬鹿な』という一言。この目の前の父は綺礼の苦悩を知る由もない。己と同じものを見て、息子も同じ感慨を抱いていると思っている──言ってみればおめでたい男だ。
 それが何故、今の言葉はならば一体何なのだ。綺礼の心の核心を衝くその言葉は──本当に父の言葉であったのだろうか?

「おまえは、上辺だけの信仰心で我らが神に仕えてきていたのか? 幸福を授ける神を裏で嘲笑い、祈りを求める信徒を見下していたのか」

「ちがっ、そんな、……」

 そう、違う。綺礼はただ苦悩していただけだ。自らの在り方を求め、けれどおよそ一般的な人間との間にある大きなズレを少しでも埋めようと躍起になっていただけなのだ。嘲笑った事などない。むしろ、見下されていると思っていたのは綺礼の方だ。

“────生まれながらに欠落している”

 誰も綺礼の懊悩を理解できない。持つ者は、持たざる者の心など理解できないのだから。

「がはっ……!」

 血管が浮き出るほどの圧力。締め上がる腕の力は留まるところを知らず、このまま座して殺されるわけにもいかない綺礼が取るべき行動は、もはや一つだった。

「申し訳、ありません、父上……!」

 型として理想的な璃正の拳に対し、綺礼のそれは殺人術として特化した代物だ。喉を掴みかかられ壁を背にした状態から、けれど両腕の自由、両足の自由があるのなら、大木ですら圧し折るのは容易かった。
 綺礼は拳を以って璃正を撃ち、縛鎖より抜け出して、呼吸を荒げ貪欲に酸素を求めた。

「はっ、はぁっ、はぁ……」

 瓦礫の山より身を起こす璃正の目には、やはり光が宿っていない。何故だ。誰よりも敬虔な信徒である璃正を、これほどまでに狂わせたものは一体何なのか。
 理解も把握も出来ないままに、不本意にも父子は神の見下ろす礼拝堂で対峙する。

「綺礼……今一度訊こう。おまえは本当に、分からないのか? 我らの観念が。信心が。分からぬままに、私を騙していたのか」

 何を言っても聞くとは思えない璃正ではあったが、問われた以上は綺礼もまた、己の心を切開しなければならない。

「いえ、私は父上を騙したつもりなどありません。ただ、分からないのは本当です。偽りではなく隠蔽。私は──私自身が分からない」

 生まれ落ちたその時より欠けていたピースを求め、綺礼はこの半生を賭けてきた。誰もが持つ当たり前のもの。それを何故自身が持たなかったのか、あるいは持たなかった意味を求めて。

 この世が神に祝福された場所であるのなら、必ず答えはある筈だ。そしてその答えは、この闘争の先にある。再び巡り逢うべき男が、綺礼の解を持っている。
 ただ時臣を勝利に導く為だけに参戦した聖杯戦争──そこには今や、綺礼の意思が介在する。昏迷を極める戦いを生き残り、あの男に問い質すという、これまでの人生の終着点がある。

「父上、貴方をそこまで狂わせたもの……いや、マスターは誰だ」

 この冬木にあって、こんな真似をする輩は限られている。マスターでなければサーヴァントの可能性もあるが、監督役に手出しをして無事で済むと思う輩など……いや、一人、いるのか。

「あの女、か」

 なんてタイミング。綺礼があの女の素性についてほぼ全てを理解した矢先に、まさかこんな事態が起こるなど。
 ましてや、司祭である璃正を狂わせるほどの術を持つなどと……いや、消去法でいけばあの女のサーヴァントはバーサーカーかキャスターのどちらか。サーヴァントの仕業なら、あるいは。

 どちらにせよ、綺礼には解呪の術がない。習得した魔術はほとんどが初歩のもので、唯一身に馴染んだのは霊媒治療のものばかり。
 秘蹟を与る身の上でもない以上、綺礼が璃正を止めるのは力づくでしかない。

「父上、どうか御容赦願いたい。これより私が犯す罪を」

 構え──父を正気に戻す術式を持たない以上、綺礼は己が拳を以って璃正を昏倒させるしかない。
 殺人術で息の根を止めないというのは至難の業だが、やらなければならない。

「そうか、分からないか。ならば私は──おまえを殺そう」

「なっ……」

 璃正もまた構えを取る。正調にして一点の曇りもない完璧な型。綺礼の我流の織り交ざった代物が、酷く不恰好に見えるほどだ。

「おまえは私の子だ。ならば、神に祝福されないおまえを刈り取るのは、父たる私の務めであろう」

 もはや璃正の心に信仰の祈りはない。正確に言えば、妄執。神を絶対とするが故に、己が行いの全てを是とする。神を信奉する己の行動を、神が咎める筈もないと。

 璃正は確かに敬虔な信徒であったが、狂信者ではない。正しく、そして美しく己を戒めていた男だ。それが狂わされた。強すぎる信仰心と克己心の増幅。ただ目の前にある“息子だったモノ”を、明確な神の敵として捉えている。

 ならば綺礼も生半可な技で応えるわけにはいかない。死は甘受出来ても、答えを得ないままの死は余りにも惨すぎる。生を受けた意味なき死は、ならばそれは死ですらない。綺礼は未だ、生まれ落ちてすらいないのだから。

「ふっ────!」

 璃正が走る。綺礼は迎撃の構え。一瞬の後に詰められた両者の距離、間合いに入ると同時に振り抜かれる二人の拳。
 ぶつかり合う拳は冗談のような音を響かせ礼拝堂に木霊する。

 璃正は清流のように研ぎ澄まされた型から流麗なる拳を矢次早に繰り出す。対する綺礼は濁流のように荒々しい動きで、威力では璃正を圧倒する技の数々を披露する。

 間合いの計り合いなど既にない。拳が届く距離から攻防を一体とした動きで互いが互いの鎬を削る。

「ぐっ、ぬぅ……!」

 徐々にではあるが、押され始めるのは璃正。いかに鍛え上げられていようとも、あくまで肉体年齢は八十を超える高齢だ。未だ全盛期を誇る綺礼のしなやかにして力強い拳には、及ぶべくもない。

 更には、実戦経験がまるで違う。死と隣り合わせの状況下で修練を積み上げ、独自の殺人術にまで昇華と仕上げた綺礼の拳と、美しくもあくまで定型通りの璃正の拳では、実戦での有用度が違い過ぎる。

 そして最後にものを言うのは基礎体力。綺礼の乱舞に圧倒される璃正は呼吸すらもままならないままに、それでも拳を忘我と振るい、綺礼は一つの呼吸も乱す事無く父を追い詰めていく。

「はっ────!」

 そして、綺礼の渾身の絶招が璃正の身体を捉えた。

「がぁ……!?」

 ふわりと浮いた枯れ木の肉体が、まざまざと壁面へと叩きつけられる。手加減はしたが容赦はしていない一撃。まともに喰らえば意識を保つどころか丸一日、目を覚まさないような一撃だ。

「はっ……ふぅ……」

 呼吸を整えパラパラと木屑の舞う向こう、ぐったりと倒れ伏した父の姿を見やる。

「父上」

 呼びかけながら歩み寄る。どうにか動きを止められたかと安堵し、後はどうやって術の解除を行うべきかという思案もそこそこに、膝を折って璃正の面を見ようとして──

「────キレイィィィィィ……!」

 ぐるりと剥いた目玉が綺礼を射抜く。跳ねるように動き出した璃正。綺礼はただ呆然と目の前の事態に呑み込まれ、その隙を逃さないとばかりに璃正が秘中の秘を以って綺礼の身体を穿つ。

 ──否。

 穿ったのは、綺礼の一撃の方が速かった。

「がっ……はぁ……っ!」

「父、うえ……」

 それは、ただの反射だった。目の前の父が起き上がった瞬間、綺礼へと差し向けられた尋常ではない殺意の塊。繰り出されようとした一撃は、綺礼の鍛え抜いた身体ですら容易く撃ち貫くような一撃で。
 自らの“死”を観念した時、綺礼は思考よりも早く、本能よりも早く、殺意への条件反射によって──死を回避する為の執着に拠って、璃正の身体を穿ち貫いた。

 璃正の口より零れ落ちる血の塊。撃ち抜いた綺礼の拳は、璃正の胸へと致命の一撃を与えていた。

「ごふっ」

「そん、な……馬鹿な……」

 自らの腕を染めていく父の血液。濁々と吐き出されていく赤い赤い命の水。血溜まりが満ちていく礼拝堂。黒く染め上げられていく父の衣服。

「綺礼……」

 穏やかな声音で、璃正は綺礼の顔を見上げながら呟いた。

「父上!? 意識が……!」

「……ああ。おまえには、伝えて、おく事が……」

「何を! まだ治せます。私には、治療する術が……!」

 しかし、綺礼の施そうとした治癒魔術は機能しない。零れていく血は止まらず、傷口さえも塞がらない。

「…………そんな」

 綺礼は理解した。璃正の身体は既に死に向かっているのだと。治癒を施せないほどの致命傷を、己の手で──父に負わせたのだと。
 これまで多くの命と対峙してきた綺礼は、けれど知らなかった。命がこんなにも脆いものだなんて。ただの一撃──それも意図すらしない一撃で、殺せてしまうなんて。

「綺礼……おまえは……」

 何かを言おうとして、しかし璃正は言葉を続けず、暗号めいたメッセージを残して、その息を引き取った。

「────」

 ただ呆然と、綺礼は己が腕の中で死に落ちた父を見つめる。その最期まで、恐らく綺礼の真意を知る事無く人生に幕を降ろした璃正。
 理解できない世界の美しさを切々と説いてくれた父。時には疎ましささえ覚えた事もあったが、彼は何処までも綺礼を愛していた。

 状況など関係ない。父の狂乱など意味がない。他者の介入もどうでもいい。真実はひとつだけ。

 与えられたその愛を──綺礼は、自らの手で摘み取った。

 その時、礼拝堂の入り口より響く掌を叩く音。音もなく扉を押し開け、その女は、綺礼と璃正を眺めていた。

「おまえは──」

「久しぶりだね、神父さん。その節はどうもお世話になりました」

 場違いなほど軽快な挨拶をし、ペコリと頭を下げた女。その女こそ、教会麓の外人墓地で出会った、化物のサーヴァントを従えるマスターだった。

「どうだった? 私の趣向は。楽しんで貰えたかな?」

「……やはり、おまえの仕業か」

「ええ。うん、中々素直な人だったね、その人。面白いぐらい簡単にかかってくれたわ」

 綺礼は知らないが、その女は一つ──能力を有している。元はサーヴァントの能力だったものを借り受けている。
 彼女の瞳を見たものは、己の中に悪夢を映し込む。呪を受けた本人のもっとも忌避する悪夢──璃正にとっての悪夢とは、息子である綺礼が嘘と偽りによって塗り固められている事だった。

 璃正ですら強すぎると感じる綺礼の信仰へと没頭。真実を解さなかった璃正から見る綺礼の在り方は、空恐ろしくさえもあったのだ。
 だからこそ、もしその信念が上辺だけのもの──作り物であった時、裏返れば璃正の教えが、神の教えが崩壊を見る。

 自負する程に自慢の息子が、そんな有り得ない存在であってはならない──それが璃正にとっての悪夢であり、悪魔に魅せられた呪いであった。

 あるいはそれは、ただの偶然であったのかもしれない。けれど確かに……狂わされた璃正の言葉は、綺礼の心を深く抉った。

「人を玩具にしてそんなにも愉しいか? フュルベール・カノヴァス」

「あら、なんだ。私の名前、知ってるんだ」

「ああ。おまえの素性も、ほぼ全て調べさせて貰った」

「ふぅん」

 別段興味もないのか、フュルベールは綺礼と璃正の顔を見比べながら言う。

「そういえばさっき、その人面白い事言ってたね。貴方──倫理観が狂ってるの?」

「おまえにだけは言われたくない。それよりもこれは一体どういう了見だ。監督役に対する敵対行為……相応の罰則を受ける覚悟があるのだろうな」

 綺礼はあくまで冷静に、今告げるべき言葉を選ぶ。フュルベールにはサーヴァントがついている筈だ。綺礼も数体のアサシンを召集させてはいるが、この場での戦闘行為は余りに無謀か。
 敵の能力もまだ判然としない状態で、サーヴァントとして最下級であるアサシンをぶつけるのは巧くない。最終手段だ。

「罰? 罰を下す監督役がいないんじゃあ意味なんてないでしょう? まあどの道そんなもの受けるつもりはないんだけど。
 私はただ招待状を届けに来ただけよ。皆で宴を愉しむ為に」

 フュルベールは懐から真っ白な封筒に赤い血文字をあしらった招待状を取り出して風に舞わせて祭壇へと送り届ける。
 状況の呑み込めない綺礼はただただ見守るばかり。

「これで一応目的は完了、と。でさぁ、貴方、一つ訊きたい事があるんだけど。イヤって言っても訊いちゃうけど」

「…………」

「まあいいけど。じゃあ訊くね。ねえ貴方────何がそんなに可笑しいの?」

「なに……?」

「分からない? 自分の頬、触ってみれば?」

 綺礼は訝しみながら、言われた通りに頬に触れてみる。そこにあったのは、歪み。ある筈のない歪みが、頬にあって。

「────」

 壊れていない窓に自らの顔を映し込み、絶句した。言峰綺礼は、笑っていた──否、嗤っていた。

「何故……」

 綺礼は無論、理解できない。己が手を汚した父の死を目の前にし嘆きを覚え、フュルベールにさえ憤怒の視線を乗せていた筈なのに、知らず頬が吊り上がっている。歪な、不快な笑みを形作り続けている。

 茫然自失とする綺礼を置き去りに、フュルベールは踵を返し扉に手をかける。もう用はないと言うように。

「じゃあね。ちゃんと招待状見なきゃ、きっと後悔するからね。貴方はしないかもしれないけど、貴方以外の人達が」

 軋む音を立てて閉じられていく扉。その少し前、僅かな隙間から入り込む冷たい夜風に乗って──最後の言葉が届けられた。

「────神父さん。愛する人を(こわ)したのが、そんなにも愉しかった?」

 意趣返しが木霊して、神の家の扉は閉じられた。



 荘厳を保ってきた教会が、見るも無惨な有様を晒す。招待状を届けに来たと言った女は既に去り、残されたのは惨劇の傷痕だけ。
 砕け散った木の破片がそこかしこに散らばり、足の踏み場もない。片隅には血の池があって、その中に横たえられた璃正と、窓を見つめたまま立ち尽くす綺礼の姿があった。

 暗い夜を映すガラスの窓に映り込む綺礼の顔は、変わらず笑みを刻んでいる。頬が引き攣ったような薄ら寒い形に歪められた筋肉がある筈のない表情を作り出し──その顔を認めた瞬間から、綺礼の内に沸いていた感情が、心の奥底より浮上する。

 思考にかかるノイズが酷くなる。固く鍵を閉ざし心の奥底に沈めた筈のいつかの別離。愛してくれた女を、愛せなかった男の話。

「ふは……」

 あの時綺礼は、一体何を思ったのだったか。今と同じく苦悩に苦悩を重ね続けて、自らの意味を求めて奔走していた日々。
 病床に伏す女を愛そうとした。そんな女しか愛せなかったのか、そんな女だから愛したのか。どちらにせよ、綺礼はそれまでの修練と同じように努力に努力を積み重ね、女を愛そうとした。

「はは、は……」

 愛を交わし合い子を生した。けれど別離は必然だった。別れの時、綺礼は口にした。愛せなかったと。彼女を愛そうとしたけれど、結局、その時になっても綺礼は、愛という感情を抱く事がなかったのだと。
 それでも女は言ったのだ。綺礼は、女を愛していたと。掠れていく意識の中で、儚い笑みを浮かべて女は笑った。

“──ほら。貴方、泣いているもの”

 実際、綺礼は泣いてなどいなかった。それは女の勘違いだ。女にはそう見えただけだ。ただそれでも、綺礼は悲しいと思う心は持ち合わせていた。
 そう、その女の死を悲しいと思ったのではなく。愛した女を──自らの手で……

「ふははははははははははは……!」

 思考を遮るように哄笑を響かせる。けれど鍵の壊れた想いは箱の底から止まらず溢れ出てくる。

 綺礼は望んでいた。愛しいものとの別離に、およそ人が抱く涙ぐましくも温かな別れなどではなく──冷酷非情な、倫理観など逸脱した行い。自らの手で、愛するものに死を下す結末を。

 綺礼の瞳がぐるりと動く。血溜まりの中で安らかに眠る父。父は綺礼を愛してくれた。綺礼も少なからず、尊敬の念を抱いていた。
 そしてその破滅を自らの手によって下した。でも綺礼は、あの時と同じように悲しいと思っている。

 何故ならば──自らの意思に拠った死ではないからだ。

 確かに、綺礼は愛ある者を我が手にかけた。だがあくまでも必然ではない。綺礼は殺意をもって父を殺めたわけではない。だから悲しい。本当なら、もっと壊してから殺したかったのに────!

「────っ!」

 瞬間、自らの歪な笑みを映していた窓ガラスに思い切り腕を叩きつける。盛大な音と共に砕け散り、綺礼の腕に突き刺さって血を零していく。

「私は……私はっ……!」

 胸の内に渦巻いた感情の奔流と、証左となる笑みの形。逃れようのない事実が綺礼の胸を抉る。抉る。抉る。

「そんな、馬鹿な話が、あってたまるか……!!」

 言峰綺礼の求めた欠落したピース。ある筈のその答えは、こんなところにはないと否定する。綺礼の望むものを手にしているのは、衛宮切嗣だと決め付ける。

「そう、だ。あの男……あの男こそが、私の求めるものを……」

 でなければ、綺礼という人格が自壊する。ありのままの全てを受け止めては、その重みに今の綺礼は耐え切れない。
 だから違うと叫びを上げる。声を大に吼え上げる。そんな非人道的な人間が、この世にあってはならないと。ある筈がないのだと。

 美しいものを美しいと感じない人間ではなく。
 醜いものを美しいと感じるから、ソレを美しいと感じないだけ。

 愛しいものを愛しいと想わない人形ではなく。
 壊れたものを愛しいと想うから、ソレを愛しいと想わないだけ。

 ああ……ならばその在り方は、ただ壊れるよりも破滅的。それこそ、この世にあってはならない罪人のカタチ。

「衛宮、切嗣」

 だから言峰綺礼は心の全てを殺し尽くして──ただ宿敵との再会だけを夢見よう。

 バラバラに散らばった心をそのままに。意識の奥底に捨て置いて。ただあの男との邂逅だけを望もう。あの男と巡り逢えば、本当の答えが見つかるから。
 たとえ今この瞬間と同じ解が提示されようとも。ならば綺礼は引き受けよう。この世には──こんな余りにも下らない男がいるのだと。

「神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし──」

 死の間際、璃正が綺礼へと伝えたメッセージを瞬時に解読し、父の右腕に触れながら祝詞を謳い上げる。監督役が持つ過去三回に渡り持ち越された余剰令呪が、璃正より綺礼へと譲り渡された。

 璃正がその最期に何を見て綺礼にこの刻印を残したのか、もはや知る術はない。ただ有用な道具として運用させて貰うだけだ。

 先程までの苦悩に満ち満ちた表情は既にない。綺礼の顔面に貼り付くのは無感情にも似た能面だ。沸き上がる感情を抑え付ける真似はもうしない。殺し尽くしてなお沸き上がるのなら、正しく綺礼の本能だ。

 未だ伏している父をとりあえずはそのままに、フュルベールが残していった招待状に手をつける。ご大層にも封を施された封筒を丁寧に切り開け、中に収められていた書状に目を通していく。

「…………」

 書面に記された内容を読み取り、綺礼は今後己の取るべき最善の選択を模索する。フュルベールの思惑、時臣の動向、切嗣の行方。雁夜の考え、ウェイバーの奔走、そして綺礼の辿る道筋。

 アサシンを呼びつけ、幾つかの指示を下す。あの女の思惑を鵜呑みにするのなら、璃正を手厚く葬っている時間さえもないらしい。
 監督役代行としての手配。時臣への報告。その他マスターへの召集も必要か。

「大胆なものだな、フュルベール。おまえは──全てを敵に廻す気か」

 感情の赴くままに綺礼は嗤う。面白いと。こんな馬鹿げた真似をするマスターなど、未だかつていなかった。
 ならば綺礼は、その状況を巧く使わせて貰うまで。

 現在時刻は午後九時。これより三時間後の午前零時。
 日付の変わる刻限より────風雲急を告げる闘争が、幕を開く。













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