正義の烙印 Act.09









/Boy and Girls


「ああ、セイバーには新都方面の掃討を当たらせろ。アサシンも少数新都の方に回せ。深山はアーチャーと残りで……何? バーサーカーを見失った? ……まあいい、おまえはそのまま作戦行動を続けろ」

 念話によって無数のアサシンとの交信を続けながら、的確に指示を飛ばしつつ事態の収拾に努める綺礼。

 新都南方より現れた軍団は数こそ膨大だが、一つところに集まっているのなら駆逐は容易い。下手に分散されて町中に散らばる事態──深山町のように──なる前に、纏めて相手取ることが最上だ。

 ライダーのように街全体を俯瞰しながら指示を出すわけにもいかない綺礼は脳内に浮かべた全域図とアサシンの動向から、セイバーらの位置関係も推測し指示を出し続ける。

 それだけでも大変だというのに、並行して事態の収拾後の展開として、教会スタッフの運用も兼ねている。彼らを指揮する権限は璃正より綺礼に移っているが、直接的な敵対行動は取らせ難い。

 あくまで彼らの目的は監視と隠蔽であり、掃討は任務の分野ではない。少数は綺礼の権限で掃討作戦に紛れ込ませているが、今の街の状況で下手に動かしすぎると後々面倒になりかねない。

 だからこそ彼らには事後に向けた各分野への対応を事前に当たらせ、尚且つ綺礼は現場指揮を執り続ける。

「流石に、骨が折れる……」

 慣れない団体の指揮に加えて更なる綺礼の思惑も脳裏を掠める現状、一刻の猶予すらもない。街全体が一つところを向いている今こそが好機。

「そしてもう一つ……あの女の素性」

 事前に資料を取り寄せ頭に叩き込んだ、璃正神父を死に追い遣る一端を担った、異端にして今現在追い詰めている筈の少女。

 彼女に魔術師としての才覚がない、という時臣の入手した情報は誤りであり、彼女はサーヴァントを使役し切るだけの充分な能力を有している。
 時臣が誤解をした──手に入れた情報に誤りがあった──原因は、彼女の特異な素性に起因する。

 あの女は……フュルベール・カノヴァスという女は、そう──既に死んでいる筈なのだから。

 ならば今、綺礼がフュルベールと呼んだあの女が何者であるのかという問いには一つの結論が投げ掛けられる。

 その異常性に気付ける事などある筈もない。

 あの夜、しっかりとフュルベールの顔を認識出来ていればあるいは可能だったかもしれないが、ボロボロの身体に乱れた髪の彼女と、身綺麗に整えられた現在のフュルベールの間にあった認識の齟齬により、すぐさま結び付けられなかったのだ。

 だがあの女にはもう明日はない。正しく聖杯戦争に参加していたのならまだ芽はあっただろうが、何を思ってかこんな真似をしでかした以上は後はない。
 その狂気は綺礼と似て非なるものであるが、もはや関係もない。綺礼はただ、己が目的の為に動き続けるのみ。

「さて……」

 厚い曇天が覆う夜──言峰綺礼は人知れず暗躍する。



「リディア……」

 ウェイバーは目の前の少女の存在を嘘のように理解できないままに呟いた。

「あら、そういえば貴方は見た事があるわ。リディアの時に私に会っていた……ええとー確か、ウェイバーくんでしょう?」

「な、に……?」

 その言葉遣いから仕草、ウェイバーに対する呼称さえ違う目の前の少女に対し、ウェイバーはただひたすらに困惑を深めていく。

「あれ? 違ってた?」

「い、いや……合ってるけど……じゃなくて! 一体どういう事なんだ!? おまえ、リディアじゃないのか!?」

「んー、難しい問いねそれは。私は確かにリディアだけど、『今』の私はフュルベール。フュルベール・カノヴァスよ。神父さんに預けた招待状の署名、見なかった? あれ出したのも私なんだから」

 見ていた。見ていたからこそウェイバーは戸惑うのだ。本来いる筈の──確かに目の前にフュルベールと名乗る女はいるが、もっと別の姿をした存在である筈で、ウェイバーの知るリディアの容姿をした少女はこの場所にいてはならないのだ。

 彼女の言から、まさか瓜二つの双子という可能性も低いに違いない。ならば彼女の言うリディアでありフュルベールである目の前の少女は、一体全体何者なのかと訝しむ事しか出来なかった。

「んー、まあいっか。教えちゃっても。貴方はリディアのお気に入りみたいだし。そっちのおじ様も知りたいでしょう」

「いや全く。貴様の素性なんぞ興味の欠片もないわい。さっさと街に蔓延っている痴れ者共を止めろ。さすれば多少の手心くらいは加えてやるが?」

 ライダーの不敵な物言いにフュルベールは静かに笑いを零す。

「そう、私に興味ないなら別にいいわ。でも貴方のお願いは聞いて上げられない。だってそうでしょう? もっともっと狂えばいい。こんな下らない世界なんて、破滅してしまえばいいんだから……!」

「この世界が下らない……ねぇ。それは余に対する挑戦か? 世界征服を企てるイスカンダルへの紛う事なき宣戦布告と受け取るが、構わんよな?」

「いいえ、全くこれっぽっちも。私は貴方と争う気なんてないもの。世界征服が夢? 結構じゃない、私も似たようなものだからね。
 貴方は全部を手に入れたくて、私は全部を壊したい。じゃあその祈りは似たもの同士でしょう?」

「ふん、世界を侵す願いという共通項があっても矢印の向き先が真逆だ。何れにしろ貴様が余の征服する世界を壊すというのなら、明確な敵に違いない。
 その法がある限り、問答など無用の長物。切っ先を交わらせる事でしか解決出来んだろうて」

 悠然とライダーは腰に差していたキュプリオトの剣を引き抜く。相容れない願望を持つのなら、後はただ剣を交わし己が覇を謳うのみであると。

「ま、待て! 待ってくれライダー! ボクはその女と話がしたい!」

「あん? 貴様そんな悠長な事を言っている場合か? 言葉を交わし合う内に街が死都に成り果てても構わんと、そう言うつもりか?」

 珍しくも喧嘩腰のライダーにウェイバーは怯む事無く噛み付いていく。

「そうは言っていないだろ! 街の死者を繰っているのはそっちの男……サーヴァントの方だろう!? マスターにそこまでの力があるとは思えない!」

 今現在街に起こっている異常──死者の大軍を操る死霊魔術に霊脈操作による一都市を昏睡に貶める催眠魔術。どちらも現代魔術師の領域を逸脱している。
 ならばその所業はサーヴァントの仕業……基本七クラスで言えばキャスターに該当する者の魔術行使に違いないと。

「……ふぅん。で、どうなんだよ、その辺り」

 ライダーの問いかけはフュルベールではなくその隣に立つ特徴のない男に向けられる。これまで静寂を保ってきた男は、

「さあな。知らん」

 もうこれ以上語る言葉はないと短く切って捨てた。

「…………」

 ライダーもいつも大らかでいられるわけではない。とりわけ今回のような輩を前にすれば知らず意気も上がってくるというもの。しかもこれまでまともな戦闘はアーチャーとの一戦だけであるライダーは、力を持て余していた。

 世界征服を阻害する愚かな小娘に、話し合う気すらないサーヴァント。ライダーの神経を逆撫でする事請け合いだった。

「まあまあ、おじ様も落ち着いて? やりたいのなら、貴方相手してあげたら?」

 マスターより矛先を向けられた男は瞳を閉じたままに嘆息する。

「俺は本来、おまえに助力はしても戦う気はないんだがな」

「それって契約の一部?」

「ではないが、単純に面倒だという話だ」

「ふぅん、じゃあお願い。ちょっとだけでいいから」

「……十分だ。それ以上は引き受けられないし、それ以降も俺は関与しない。それでいいのなら、契約だ」

「オーケーオーケー充分よ。じゃ、そういう事だからおじさま。ちょっと離れたトコ……そうね、裏にあった池の辺りでヨロシク」

 ライダーは鼻息も荒くようやく立てた久々の戦場に胸を高鳴らせた。

「良かろう。坊主、余が居ぬ間に殺されるような愚挙は犯してくれるなよ」

「舐めるな。ボクだってれっきとした魔術師だ。十分くらい耐えてみせる」

 ふん、と大笑し、ライダーは男と共に伽藍の向こうへと一足飛びに消えていった。



 静けさを取り戻した境内で、ウェイバーとフュルベールは向かい合う。ウェイバーは静かに魔術回路を回転させ、少しでも魔術抵抗を高めて敵のもしもの攻撃に備える。話し合いをしたいとは言ったが、何処かこの女は信用できない。

 ならば保険に保険を重ねておいて足りないという事はないだろう。願わくば、そんな事態にはなって欲しくなかったが。

 認めたくない事実ではあるが、ウェイバーは魔術の才能が余りない。いざまともな魔術戦にでもなってしまえば、恐らく勝ち目なんて欠片もない。
 だから求めるものは口先の弁論と、ライダーがキャスターを仕留めて来るまでの時間稼ぎが出来ればそれでいい。そして──目の前の女に対する理解も。

「さて。じゃあ何から話そうかな、ウェイバーくん」

 どうやら相手は素直に応じてくれるらしかった。それだけでも充分に有り難い。

「おまえが何者なのかって事だ。リディアであってフュルベールである……そんなおかしな存在、ある筈がない。二重人格かとも思ったけど、そこまで明確に分かれてるなんておかしいだろ」

 本当に人格だけが入れ替わっているだけなのなら、昼間──リディアと会っていたウェイバーは彼女がマスターであると気付ける筈なのだ。
 マスターが身に宿す令呪の刻印。わざわざ相手の手なんて見た事がないから本当は刻まれていたのかも知れないけれど、それでなくともマスター同士は知覚出来る筈。

 確かに位階の高い魔術師ならば、令呪の魔力を可能な限り希薄化し隠蔽する事も出来るだろうが、そんな兆候はなかった。ウェイバーの知る限り、少なくとも──リディアは魔術師なんかじゃなかったのだ。

「ふーむ、まあ、普通はそうよね。だって私は普通じゃないし。私はとっくに死んだ筈の──執行者に殺された筈の人間だからねぇ」

 ケラケラと笑いながら、フュルベールはそんな事をのたまった。

「な、に……?」

「そう、私は殺されたの。ちょっとヘマやって目を付けられて、その時小間使いとして雇っていた彼女──リディアの身体にちょいと間借りさせて貰ったってわけよ。
 まあ連中の執念深さと来たら本当、ありえないわよね。どうやって私が生き延びたって気付いたんだか。どの道殺してやったからもう関係ないけど」

 無論、そんな要領を得ない言葉ではウェイバーは理解も納得も出来るはずもない。ただひたすらに頭の中を疑問符が埋め尽くしただけだった。

「んー、ゴメンねっ! 私元々あんまり説明巧くないからさぁ、伝えるのって難しいんだよね。ま、アイツらが戻ってくるまではまだ時間あるし、せっかくだから私の事ちゃんと知ってる人が一人くらい居てもいいかもしれないから、順を追って話して上げる」

 その後、彼女の口より語られた素性は、ウェイバーの常軌を逸していた。

 生来、身体の弱い生まれであったフュルベールは、没落しかけのかつての名門に生を受け──自らの延命とお家復興の為の道具として扱われていた。

 彼女には他に生き方なんか選べなかった。生きる為には魔道を刻み込むしかなく、逆らえば塵のように捨てられる。ただ我が家系の復興を──と願う父母の妄執を一身に受けて育てられたフュルベールは、人らしい感情を失くし、いつしか彼らの望む機械として魔を刻み込み続けていた。

 だがそんな彼女の機械としての生は、我が子の誕生と共に終焉を迎える。ほぼ全ての魔の知識を延命に傾けなければ生きられなかったフュルベールに見切りをつけた父母らは、彼女に優秀な家紋に生を受けた男児──次男を養子として迎え入れ、フュルベールとの間に子を生す事を強要した。

 もはや自らの意思を希薄にしている彼女はただ言う通りに行動し──結果、生まれた子供は彼女に匹敵する才覚と、健全な身体を以って生まれ落ちた。

 そこからはもう転がり落ちるように彼女は全てを失っていく。生きる為にしか魔道を扱えない彼女を父母らは当然の如く切り捨てた。家の為の跡取りは彼女の生した子であればいいと。母親であるフュルベールにはもう、存在価値すらないと、切り捨てた。

 だが彼女はそんな結末は理解していた。自らの子が優秀であるのなら、我が身はただの母体として使い捨てられるだけであると。
 機械としての生の終焉と同時、彼女に芽生えた人並の感情こそ──憎悪。溢れ出る憎悪は父母らだけでは留まらず、夫、更には我が子にまで飛び火し、しまいには世界へと向けられた。

 この世界が憎いと。

 何故自分だけが、こんな宿業を以って生まれ落ちなければならなかったのかと、世界に対する強大なまでの悪意を芽吹かせた。

 そこから先は速やかだった。世界への復讐の足掛かりとして、手始めに彼女は自らの家系に連なる全てを惨殺した。元々豊かな才能は持ち合わせており、ほとんどを延命に傾けなければならなくとも、背中の甘い愚か者共を亡き者にするにはそれで充分だった。

 それからようやく──彼女は本当の意味での自由を手に入れた。ただそれでも、彼女は生きる為に魔の研究を続けなければならず、現代医学では治癒不可能な呪いめいたその身体の呪縛からは、易々とは抜け出せなかったが。

 罅割れ──壊れた砂時計から零れ落ちていく砂を止める術を、彼女は研究に研究を重ね探し求めた。だが結論は、いつも同じ。器を修復する術はない。時には人体実験にも手を出して、村一つ滅ぼした事さえもあった。

「ああ、そこで拾ったのがリディアね。彼女、私が村を滅ぼした元凶だって気付いてなくてさなぁ、まあ生きる為に必死だったし、なーんか似たようなもの感じてね、それで拾ってあげたわけ」

 それからは二人での奇妙な生活が続いた。フュルベールはリディアに自らが何をしているか明かさなかったし、リディアも深く詮索してくる事はなかった。
 何処か擦れ違ったままの不気味な関係。けれどその場所は、悪くはない場所だった。憎悪しか持たなかったフュルベールは、彼女との生活の中で他の感情を手に入れることが出来て──今の己を構成する一因子ですらあるのだから。

 そこでようやく、彼女は人になった。機械として生き、憎悪を糧に生にしがみ付き、リディアとの出会いで感情を手に入れ──人としての心を手に入れた。

 そのままの生活が続けば、彼女はそれこそ人並の中で生きられたかもしれない。けれど彼女の身を蝕む呪いは徐々にその勢いを強め、生への執着はやがて恐怖に摩り替わり、これまで確実に続けてきていた研究も、間違った方向へと向かっていく。

 その後、彼女の犯した過ちこそが世間に対する神秘の漏洩。生にしがみ付く余り、形振り構っていられなかった彼女は最悪の愚策を犯し、協会の猟犬に目を付けられた。

 元より彼女の研究内容はほとんどが頭に詰め込むタイプのものだったので、手早く居住を隠滅し、代わりに少しだけ目に付くように研究成果を残しておいた。

 追われてしまえば、絶対に逃げ切れない。彼ら執行者は魔を司る最悪の破壊者だ。その異端を刈り取るためならば、たとえ地の果てであろうと追ってくる。
 だから彼女は覚悟を決めてある一つの策を打った。自らの研究成果の一つ──砂時計の器を修復するのではなく、砂を別の器に移し替える手法を。移し変えるべき肉は、リディア・レクレールという少女。

 それはいわゆるところの魂の遷移。魂の扱いに関しては蛇と呼称される存在しか確立している者はなく、彼女の策も失敗でしかなかった。

 だが確かに、彼女はリディアの魂にしがみ付いた。自らが表に出られる時間など五分足らずであり、色々な制約を受けた上で。それは既に生きているとはいえない状態であったが確かにフュルベールの意識はリディアの中に根付いたのだ。

 程なく、フュルベールだった残滓を打倒、回収する事で事無きを得たと思った執行者連中も欺き、フュルベールは何とか生き延びた。
 リディアの体であれば、彼女を縛る呪いはない。ただ、あくまで彼女の身体はリディア自身のものであり、フュルベールは言わば寄生虫のようなものだった。

 その状態を打破する為の策として用意していたもう一つの可能性こそが──聖杯戦争に招かれるサーヴァントの存在。

 遍く英霊を招き寄せるその大規模な魔術儀礼ならば、彼女の望む力を持つサーヴァントを招来出来るに違いないと。出来なくとも、聖杯さえ奪い取れば全てが叶うと。

 僅かな時間だけリディアの自由を奪い取った彼女は自らに──リディアに暗示を施し一部の記憶も操作し、冬木へと渡らせた。
 執行者が追いかけてきたのは誤算中の誤算だったが、奇しくも死の間際にて覚醒し、サーヴァントを喚び込み全てを手に入れた。

 サーヴァントによって齎された人外の知識により彼女の法は完成する。一つの肉体に宿る二つの魂。巧妙に混ぜ込まれた魂の色の違いには、世界でさえも気付けない。
 主導権を取られたとは知らないリディアはあくまでリディアとして行動し、全てを知るフュルベールが存在する。

 そして、生への執着を失った彼女が望む事は後一つ──世界への復讐。この下らない世界の中で、ただ日々を廻し続けるだけの愚か者どもに鉄槌を。
 こんな波乱万丈な生を彼女に強要した世界というくそったれなモノに終焉を。悪意と怨嗟で全てを包み、地獄へと塗り替える。

 彼女の望み。全ての破滅。生あるべきは、生を至上とする彼女だけであればいい。

 ──それが今の彼女の存在、フュルベール・カノヴァスでありリディア・レクレールである異端の魔術師。
 人外の魔によって括られた──あってはならない悪魔の存在だった。

「…………」

 全ての話を口を挟む事無く聞き終えたウェイバーは、静かに拳を強く握った。

「どう? ちょっとは理解できた?」

「……ああ、充分に分かったよ。おまえが、最低な奴だって事くらいは」

「はぁ? どの辺りが?」

 心底分からないと、フュルベールは首を捻った。

「はっきり言えば、おまえの素性なんてどうでもいい。世界に復讐? したければすればいいし、どうせそんなものは無理だって分かりきってる。
 だけど、だけどおまえ──なんで、リディアを巻き込む? 彼女は何も知らないんだろ? この状況も、おまえの存在だって知らないんだろ?」

「そうね。記憶は改竄してるし、私と過ごしてた記憶さえもないかもね。もちろん、自分の中に別人がいるだなんて思ってもいないわ」

「だったら、彼女を巻き込むなよッ! アイツは何も知らない一般人なんだろ!? なら巻き込むな。それを、そんな奴を……!」

 激昂するウェイバー自身、何故そこまでリディアの存在に憤慨しているのか分からない。だけど何故か悔しかった。何も知らず、ただ巻き込まれているだけの彼女。この上のない普通を望んでいた彼女が、こんな魔女に弄ばれていたなんて。

「お門違いよ、ウェイバーくん。貴方には私の何もが分からないように、リディアの何もを理解していない。
 彼女は私が拾ったの。どうせ死に行く命だった彼女を気紛れで救った私には、あの子の生殺与奪の権利がある。自らのものを、どうしようと私の勝手でしょう?」

 この目の前の女は、既に狂っていると確信する。拾ったから自分のもの? ものには権利さえも許されない? そんな馬鹿な話はない。リディアはリディアであり、フュルベールはフュルベールだ。

 魔術師として観念する倫理観ではなく人としての想いが、反吐の出る戯言を吐く魔女に向く。

「おまえこそ、何も分かってない。誰かを自分の道具とする事は、おまえ自身がされて来た事と同じだろう。そんな事を繰り返して──」

「されたからやり返すってのは世界の常識でしょう? 私のはただ矛先が違うだけよ。どこぞの法典も謳ってるでしょうに。だからこそ、この世界は腐っているのよ」

「…………ッ」

 繰り返す問答では意味がない。ウェイバーの言葉では、この壊れた女を切り崩せない。自らの身に刻んだ呪いから逃れる為の執念と、同時に刻み込まれてきた復讐の怨念。黒く闇に留まる魔女の心は──恐らく誰も開けない。

 ならば。

「……ふぅん? 私と戦うの? 見たところ、程度の低い魔術師に見えるけど? 仮にもサーヴァントより魔術の知識を貰った私に──君程度が勝てると思ってる?」

 身構えたウェイバーは、けれど静かに首を横に振った。

「十分だ」

「は?」

「十分はもう過ぎている。だからボクは、おまえとは戦わない」

「なにそれ。意味が分からないわね。……ああ、あっちの勝負の事? なら貴方にはもう関係ないでしょ。どうせ勝つのは私の──」

「私の、なんだ? おまえのサーヴァントはもう、余が斬り捨ててやったが?」

「──────え?」

 フュルベールが咄嗟に振り仰いだ先、伽藍の前に立つ赤い戦支度に身を包む大男こそ、ウェイバーがサーヴァント、ライダーだった。

「うそ……アイツ、もう負けたの? こんな、早く……?」

 信じられないと目を見開くフュルベール。彼女の知識は彼より賜れたものであり、ならばその位階は彼女の数段上を行く筈。
 そもそも、この世界とは別の法で括られたあの男の魔ならば、たとえサーヴァントが相手であっても充分以上に戦えると踏んでいたのに。

「望むのなら一部始終を語って聞かせてやろうか? 語るに落ちるまこと下らん幕引きだったがな」



 伽藍の向こう、裏手にある広大な池の辺りでライダーと男は対峙した。

「さて。じゃあ、話し合いを始めようか」

「なに……?」

 先程まるで話す気すらなかったであろう男が、やおらそう切り出して、ライダーは訝しんだ。ライダーの手には既に剣が握られておりいつでも戦える状態であったというのに、今更一体何を話せと言うのだろうか。

「俺はな、面倒が嫌いなんだ。本当は話す事さえ好きじゃあないんだが、やり合うのはもっと嫌いなんだ」

「余はそちらの方が好ましいんだがなぁ」

「まあ焦るな。別におまえに損を与えるつもりはない。十分──俺の話に付き合えば、後は好きにすればいい」

「それは、その後ならばやり合う事も斬り捨てる事も構わんと、そういう事か?」

「ああ。俺と彼女の契約はおまえを十分この場に留める事。その後の事には一切関与しないし、関与させない。それが俺のルールだ」

 ルール、という言葉に引っ掛かりを覚えつつも、ライダーは目の前の男を睨めつける。ライダーが初見より感じている違和感がある。この男は何か──おかしい。

「……まあいい。下らない話でなければ付き合ってやろう」

 その中からこの男の素性と、そして女の素性を解せればとりあえずの損はないかとライダーは承諾した。

「そうか、それは有り難い。ではまず訊こう。──悪魔と聞いて、おまえは一体何を思い浮かべる?」

 いきなりの突飛な質問に首を傾げかけたライダーだが、単純に思い浮かべた言葉を口にした。

「そりゃおまえ、人を惑わす魔性だろう」

「ああ、その認識には違いない。だが悪魔はただ人の望みを叶える存在でしかない。俗に悪魔と聞けば、おまえのようにさも悪魔が悪いかのように語られるが、そんな事はない。
 悪魔はただ憑いた者の声を聞き、その望みを叶えるだけ。優しく優しく囁くだけの小間使い。ただ──その契約によって自ら足を踏み外す者は後を絶たないがな」

 悪魔に誘われ魔に身を堕とすのではなく。悪魔に願いを叶えられて、その結果として召喚者は自ら奈落へと突き進んでいく。

「だがそれが何だという。悪魔の存在によって齎されたのなら、その結果が本人の自業自得であろうとそれは悪魔のせいだろうよ。ソイツが憑かなきゃ召喚者は堕落する事はないんだからな」

「違うな、それは間違っている。取っ掛かりである一番初め、まずコンタクトを取るのは召喚者の方からだ。悪魔からは人に憑こうなどとは考えない。どんな理由にせよ、人が望むからこそ悪魔は在る」

「…………」

「悪魔は甘言で人を惑わしもしない。心の弱みを見つけ、それを補強するだけだ。人の持つ劣等感、逃れたい事象から解き放つ為の助力を──召喚者の意思を反映して実行し形に変える。
 とどのつまり、悪魔は等しく優しい存在であるという事。人は悪魔に力を望み悪魔は形にするだけの存在。願い以上の助力はしないし、干渉もしない。ましてや、地獄に引きずり込むなんてのは迷信もいいところだ」

 先の男とは思えないほど饒舌に悪魔に関する高説を垂れてくれる目の前に男に、ライダーは猜疑を深くする。

「それで? その悪魔の講釈が一体何に繋がると? まあ、言わんでも大体は分かってるけどな」

「話が早くて助かるよ。そう──俺は悪魔だ」

 カミングアウト。目の前の男……サーヴァントである筈の男は、己をその悪魔であると憚った。フュルベールに憑いた、悪魔であると。

「ふぅん。だから何なんだ? 貴様が悪魔であろうと誰であろうと、余に敵対する者は斬り捨てなけりゃいかんのだが」

「だから言っているだろう? 俺の役目はこの場所におまえを留める事であり、戦う事ではない。あの女の願いはおまえを倒せとは聞いていないからな。ただ相手をしてやれ、と言われただけだ」

「そりゃ屁理屈だろ。悪魔のくせに妙なところで人間臭いな」

 くつくつと男は笑う。無表情を貫いてきた男が見せる、初めての感情。

「そうだな。俺は長くこの姿で在り過ぎた。人の真似を望まれて、その願いを貫いた結果に人並になったのなら、まあそれはそれで面白い」

 くいと男は空を見上げる。星空はなく、厚い雲に覆われるだけの夜。月でも見えれば最高だったが、悪魔の幕切れにはまあ、相応しい夜だろう。

「さあ、そろそろ十分だ。好きにすればいい」

 ふん、と吐き捨てるように鼻を鳴らし、ライダーは大体に間合いを詰める。剣が届く位置に立ち、切っ先を突き付けてやってもなお、男はまるで揺るがない。
 それこそ死に恐怖を感じていないかのように。あるいは──死という概念自体が理解できないかのように。

「貴様が何を考えとるかまるで分からんかったが、まあ最後の言葉くらいなら聞いてやらんでもないぞ?」

 戦う意志がなかろうと、目の前の男は明確な敵である。世界征服を企む王の前に立ち塞がる悪意である。なればこそ、斬り捨てる事に躊躇は無い。

「そうだな……じゃあ悪魔らしく優しく忠告をしてやろう。俺を殺して、それで終わりだとは思わない事だ」

「ほう……?」

「おまえはどうやら頭の巡りは良さそうだからな。後は好きにすればいい」

「大サービスだな。貴様、名は?」

 クッ、と悪魔は最後に小さく笑みを零して。

「止めておけ。悪魔に名を求めるなど、ろくでもない事この上ない。名による縛りを与えてしまえば、本当に憑かれてしまうぞ?」

「そうか。じゃあもう訊かん。さらばだ、名も無き悪魔よ」

 瞬間──閃いた銀光により悪魔は一刀の下に両断され、最後まで歪な笑みを浮かべながら虚空の彼方へと消えていった。



「はぁ……? なによ、何だって言うのよそれ!」

 一部始終を聞き届けたフュルベールが憤慨も露に肩を怒らせる。戦うまでも無く死んだ己がサーヴァント。ありえないどころの話ではない。あんな文脈さえ読めない愚か者かと罵った。

「アヤツは貴様の願いを叶えただろう? 十分。それだけ時を稼ぎ、その間にそこの坊主に何もしなかった貴様の負けよ」

「ふざけないで! ありえない、ありえるわけないでしょうこんな事!」

 世界を壊す足掛かり。サーヴァントという力を、よもやそんな下らない事で失うなど彼女は考えもしなかった。
 これが世界よりの仕打ちであるというのなら、何処までも彼女に辛辣だ。復讐さえ許されない。そんなささやかな願いさえ、彼女は望んですらいけないというのだろうか。

「くっ────!」

 さしもの彼女もサーヴァントとの直接対決で勝てるなどとは思い上がってはいない。状況の不利を悟り、山門前に佇むウェイバーと、伽藍前に立つライダーから逃れるように、身体強化を以って塀を飛び越え林へと身を投げた。

「あっ、待て……! ライダー、追ってくれ……!」

 叫び、同時に駆け出したウェイバーの後方から、けれどライダーは追い縋らない。ただじっとウェイバーを見つめる双眸だけがあった。

「ライダー!? 何して──」

「坊主。おまえには覚悟があるか? あの女の末路を見届けるだけの覚悟が。あの魔術師の方ではない、坊主と見知った娘の方の末路だ」

「────っ!」

 ウェイバーは立ち止まり、そして息を呑んだ。そうとも。追い縋って、そして──それから、どうすればいいのだろう?

 フュルベールを打倒すればそれでいいのか? けれどあの魔女を倒すという事は、リディアをも殺すという事に他ならない。
 ウェイバーの手腕では都合よくフュルベールだけを倒すだなんて器用で高等な真似は出来ないし、ライダーにだって不可能だろう。

 いや、そもそもとして何故ウェイバーはリディアを生かす事を前提に考えているのだろうか? この街で会ってたった数日の付き合いの女を、そこまで気にかける必要などないというのに。

 優先するべきは街の死者を繰る者の排除──

「あ、いや。待てよ、おまえサーヴァントを倒したんだろう? じゃあ街の死者も──」

「消えてはおらんだろうな。あの術を繰っているのは余が倒した奴じゃない──あの女自身だ。
 あの男は必要な知識をあの女に授けただけに過ぎん。ならばそれはもうとっくに女のものとして昇華されている。ならばそれは、あの女の力という事に他ならない」

 常軌を逸した死霊魔術に催眠魔術。そのどちらもが男より賜れた女の力。女にはそれだけの才覚があって、男はただ授けただけ。

「じゃあ、あの女を殺さないと、ダメなのか」

「そうだ。止めるように強要して聞くような性格でもないだろうしな。だから訊いておるのだ、その結末を見届ける覚悟があるのかと」

 悩んでいる時間はない。死者が止まっていないのならば、止める為に戦わなくてはならない。それでもウェイバーの心の中にある澱が、酷く──気持ち悪い。

「覚悟が無いのならここで待て。余が奴を始末して──」

「いいや、行く。絶対に。ボクは、いかなきゃならないんだ……!」

 ここで座して待つ事だけは絶対に出来ない。昼間ライダーに言われたように、たとえこの戦いがウェイバーにとっての晴れの舞台ではなくとも、立ち向かわなければならない時があって。今がまさにその時だと──思うから。

 その強さを、求めるだけの理由がウェイバーには芽生えているのだから。

「ならば征くぞ、坊主。どのような結末も、その目でしかと見届けよ」

 言われるまでも無く頷きを返し、ウェイバーはライダーと共に駆け出して。

「ああ、坊主。もう一つだけ言っておく事があった。余が倒した奴はな、サーヴァントじゃない」

 そんな、聞きたくもない驚愕が、

「アレは──サーヴァントに召喚された本物の悪魔だ」

 静かに、ウェイバーの耳朶に木霊した。


/Rain


「はっ──はっぁ、はぁっ、はっ、あぁ……!」

 惑うようにフュルベールは林の中を突っ切り、麓を目指して駆け抜ける。手足を掠める枝葉も無視して、切り裂かれ流れていく血も無視して、ただひたすらに逃げ続ける。

 こんな結末はありえない。己のサーヴァントを過信していたわけではないが、こうもあっさりと殺されるなんてどうして思う事が出来るのか。
 抵抗すらも無くあっさりと。それこそ自ら身を差し出して殺されるサーヴァントなど、居ていい筈が無い。

 もう少しだけ時間があればそれで良かったのに。ウェイバーに幻覚を見せて操り、ライダーごと奪い取る事だって出来たのに。アイツが消えてしまったら、その力さえも使えないというのに……!

『錯乱召されるな、魔術師よ。そなたの力は何一つとして失われておらんだろう? あの悪魔より賜れた魔の恩恵は、確かにそなたのものであるが故に』

「だ、誰───!?」

 聞いた事の無い声音が脳内に木霊する。立ち止まったフュルベールは暗闇に沈む木々の中で、辺りを見回し──その存在を認めた。

「誰、よ、貴方……」

 数メートル先に佇む漆黒のローブ。顔さえ窺い知れない程に目深にフードを被った不気味な存在が、確かにその闇の中に浮かんでいる。

「誰? 異な事を。私を招来したのは他ならぬそなたであろう?」

「……そんな? だって、私、あの男を……」

「ならば見よ。その手の甲に宿る赤い紋様を」

 赤く輝く鎖状の傷痕。令呪は確かに告げている──目の前の存在こそが、フュルベールのサーヴァントであると。

「うそ……? じゃああの男は何なのよ?」

 あの男は確かにサーヴァントと名乗ったのだ。契約の時、声を確かに聞いたのだ。

「あの男……元は化物であるアレこそは悪魔。正真正銘本物の悪魔である。私がそなたの求めに応え招いた魔なる者。
 悪魔は優しいが嘘吐きであるが故に、言葉の全てを鵜呑みにしてはならん。契約の言葉もまた、召喚したのは私でも契約主がそなたであったからというだけの事」

 情報の足りないこの場で、それでも必死に思考を巡らせて最適の解を探し出す。あの男は悪魔でサーヴァントではなく。目の前の存在こそがフュルベールの招いたサーヴァントであり。この存在は、悪魔を召喚できる程のスペックを有する実力者。

「アハ──じゃあ何? 私ってばずっと貴方に騙されていたってこと?」

「騙すとは人聞きの悪い。私は生来臆病者でしてね。出来れば姿を晒したくなかっただけの事。
 必要が無ければ報酬だけ頂いて帰るつもりでしたが、この状況でそなたを見過ごすわけにもいかず、馳せ参じた次第である」

 なんとなくだが状況の呑み込めてきたフュルベールは、いつもの凄惨な笑い声を上げる。

「アハハハ! なんだ、じゃあ私は何も終わっていないじゃない。私は悪魔の力を手に入れて、貴方というサーヴァントも健在なんだから」

「然様」

「まだまだ世界を壊せるじゃない。ううん、あの悪魔を貴方が召喚出来たって事は、もっともっといっぱい喚び出せたりするんじゃないの?」

「出来なくはないだろう。だがその分、対価は必要になるが」

 世の全ては等価交換。あの悪魔は例外的な存在なのだろう。契約契約と口にしていたが結局何ひとつとして取られるものなんてなかったのだから。

「うふふ、いいじゃない。それくらいじゃないと面白くないわ。じゃあもっと愉しみましょう? 私は私の目的の為に。貴方にもきっと目的があるんだろうけど、それはまた後でゆっくりと──」

「いいや──おまえ達はここで終わりだ」

 言葉と共に放たれた弾丸が、闇を貫きフュルベールの胸をも確かに貫通した。

「あがっ……!?」

 突然の衝撃に咽び吐血する。胸を抉る弾痕。心臓こそ外したものの、限りなく致命的な一撃だった。

「あ、なた……」

 横合いの闇より現れたるはよれたコート姿の男と赤い騎士──衛宮切嗣とアーチャーだった。

「アーチャー、サーヴァントを引き離せ」

 無駄な問答すらなく、切嗣は指示しアーチャーは同時に剣を携え飛び出した。漆黒のローブのサーヴァントもまた、逃れるように闇の彼方へと消えていく。

「う、ぁ……」

 呻きの声を上げるフュルベール。恐らくはキャスターであろう彼の者では直接戦闘では分が悪い。その為仕方なく距離を取ったのであろうが、余りに拙い。瀕死のマスターを残していくなど、何を考えているのか……

 近づく足音。迫り来る死。だがフュルベールもまた、あのサーヴァントが何故フュルベールを捨て置いたのか理解した。傷が──治っていく。

 確実な致命傷を被った筈の傷が徐々にではあるが塞がっていく。フュルベールにこれほどの治癒能力は無い。ならばあのサーヴァントの能力か、新たな悪魔の恩恵か。

「…………ぁ」

 何れにせよ死なないというの都合がいい。そういえば忘れていたが、教会墓地での一件でも炎の槍に貫かれたり剣で串刺しにされても生きていたのだ。ならば元よりあのサーヴァントはそれだけの事を見越して、策を巡らせていた。

「アハハ!」

 ならばこの身体、何処までも酷使して世界を死に染め上げよう。その為にはまず──この男を始末しなければならない!

 飛び跳ねるように起き上がったフュルベールに驚愕するまでも無く、切嗣は手にしたキャレコを撃ち続ける。踊り狂うように舞うフュルベール。だが致命には至らない一撃は、むしろ心地良ささえ感じるほどの苦痛だった。

「ああ、いいじゃない! 死なないってスゴイ! こんなの凄すぎて──」

「死なない? ならば死なない要因を取り除けばいいだけの話だろう」

 恍惚に身悶えするフュルベールに銃弾をばら撒いていた切嗣は、紡いだ固有時制御の魔術によって肉体を倍速化し、素早く彼女の背後を取り──その手に宿る令呪を、手首ごと刈り取った。

「──────あぁ?」

 突如目の前より切嗣が消えて、フュルベールが一体何が起こったのか理解した時には全てが遅い。彼女の右手首より下は既になく。鮮やかな切断面からは血の赤と骨や繊維が顔を覗かせていた。

「あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああ!?」

 痛みよりも令呪を奪われた事に狂乱するフュルベールから距離をとった切嗣は冷やかに見つめる。

「死なないからといって切り裂けない道理は無い。おまえの不死性、人間離れしたその特性はおまえ自身の能力である筈が無い。
 ならばサーヴァントの仕業であるのなら、その繋がりを絶てば、後は勝手に朽ちていくだけだ」

「うそ……うそうそうそうそ嘘よこんなの……!」

「死なない身体か。過信したな、フュルベール。その驕りがおまえの敗因だ」

 令呪を失い、身体を銃弾で蹂躙され、それでもまだ動いているフュルベールの前より切嗣は姿を消す。一番厄介な事は令呪を奪い返される事。その愚策を犯さない為には彼女より距離を取る事が肝要だ。

「待て! 待ちなさい……!」

 背を向けたまま、切嗣はついと視線を滑らせる。目に留まったのはフュルベールの翠緑の瞳。鮮やかな色をした瞳を見た瞬間──

 ……かかった!

 フュルベールが悪魔より譲り受けた幻覚の瞳。相手に悪夢を見せる悪魔の瞳は、見た者を逃さない。

「がっ、ぁ……さ、さあ、私の腕を、令呪を──返しなさい」

 ボロボロの身体に鞭打って、奪われたものを取り返す為に立ち上がる。切嗣は呆然と虚空を見上げたまま静止し、確実に悪夢の檻に閉じ込められていた。



 振るわれる二対の閃光に追われるまま、フードの男は逃げ惑う。

 魔術師の英霊である彼のサーヴァントにとって最悪に苦手な分野であるのは近接戦闘の心得だ。基本に忠実な遠距離からの魔術行使を得手とするサーヴァントにとって、動きづらい森林地帯と鷹の眼を持つアーチャーから距離を離すだけの術がない。

 防護の魔術によって凌いではいるが、それも時間の問題。マスターの問題もある現状──悠長に逃げ回ってもいられなくなり、

「ならば披露しよう。我が召喚魔術を」

 手にするは彼の者が異界より悪魔を招き寄せる鍵。ローブの裏でしかと握り締めたソレと共に、契約の呪を紡ぐ。

 刹那──横合いに突如刻まれた召喚陣より現われたるは異形の悪魔。名もなき低俗な存在ではあるが、足を止めるには充分だ。

 アーチャーの気が一瞬だが確実に逸れたのを見逃さず、すかさず距離を開け更なる呪を編み上げる。テンカウントにも匹敵する呪文を刹那に謳い上げ、アーチャーを包囲する形で悪魔の群を世に招き寄せる。

「形勢逆転、かな?」

 足を止め、距離を開けたまま対峙するアーチャーとキャスター。二対の剣を握るアーチャーは澱みのない視線で周囲を睥睨し、現れた悪魔の数を確認する。その数は裕に二十を数え──今なお増殖している。

「悪魔を繰る者か……魔術師(キャスター)というよりも召喚師(サモナー)だな」

「その定義にはいかほどの意味もない。どちらもが魔によって術を繰る者ならば、呼称など瑣末事」

「違いない」

 クッ、と笑いを零すアーチャー。

「であるのなら、魔術を繰る者全てが魔術師ではない事も、知っておくべきだな」

「なに?」

「────体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)

 弓兵の奏でる詠唱の呪。自らを顕す言葉を以って、世界を確かに改変する。

 キャスターは言霊と共に生じた魔力量に瞠目する。弓兵──アーチャーである存在が詠唱するだけでもおこがましいというのに、その呪文の向かう先、これより生まれ出ずるであろうモノを予期し狼狽する。

「出鱈目を。我が僕よ──彼の者を殺せ!」

 周囲より襲い来る悪魔。四方八方より飛び掛る異形に、差し向けられるは突如中空に生じた剣。円環状に発生した剣の軍勢は、寸分違わず異形を貫き、詠唱中のアーチャーを守り抜く。

 高らかに響く悲しい詩。キャスターには理解できない意味を込めて謳われるその詠唱は悪魔にさえも妨げ切れない。
 生まれ出ずる悉くを現れる剣は封殺し、アーチャーを守る剣となり盾となる。剣と共に生きた者を守る剣。

 およそ弓兵にありえざる……剣を射る魔術使いが紡ぐものこそ──

その体は、きっと剣で出来ていた(So as I pray, unlimited blade works)────」

 己の世界。心象風景の具現。炎の輪によって内と外とを隔てる固有結界。

 乾いた荒野に無限に連なる剣の墓標。赤い風の吹き荒ぶ錬鉄場。世界に囚われた歯車を廻す──或る愚者の辿り着いた極地。

 ────無限の剣製。

 何もがあり、そして何もないその男の世界が今──全てを塗り替え此処に具現化した。

「元はこの魔術も悪魔の能力であったと聞く。だが侮るなよ悪魔使い。人間は、悪魔に負けるほど弱くはない」

 そう、人間は弱くはない。ただこの己は弱かったというだけの話。貫いて。貫いて貫いて貫き続けて。世界さえも突き抜けたその先に、目指すものがあると信じた愚か者は──期待を裏切られ絶望しただけ。

 夢見たものがなかったから、何処を探してもなかったから、ただ駄々を捏ねる子供みたいにもがいているだけ。滑稽だ。今の自分は、ただ現状を打破できない無様さを何かにぶつけたい、そこらのチンピラと変わらない。

 だが。

 今のこの身にはやるべき事がある。成し遂げなければならないものがある。それが正しい事なのか、間違っているのかどうかは未だ分からないままだが、ただひたすらに──求め続けるのみ。

「ほぅ。固有結界──よもやそこまでの術者とは。御見逸れした。侮っていたのは、間違いなく私だろう。
 しかし悪魔を舐めるなと言いたいな。この程度、打ち破れぬ小物しかおらぬと思うてか」

「間違っているぞサーヴァント。この場所に囚われた時点で、私の──いや、我らの勝利は約束されている。
 おまえがマスターの下へ馳せ参じる事が出来ないのならば、間違いなくおまえの主は間もなく死ぬ」

 サーヴァント同士の闘争などに意味はない。あくまで聖杯戦争はマスターとサーヴァントの共闘だ。それぞれの枠でしか物事を考えられない愚昧であったのなら、彼らに勝てる筈もなかったのだ。

「笑止。そなたを殺せばまだ芽はあろう」

「だから無理だと言っている。この世界全てが貴様の敵だ。無限の剣が、無限の悪魔の悉くを滅ぼそう」

 アーチャーの背後に浮かび上がる剣の群。十が生まれ、三十に届いて五十を数える。続々と生まれる剣の壁。その数裕に百を超える剣群が全て──アーチャーの指揮の下に号令を待つ。

「宜しい。ならば刮目せよ! 我が名は──」

「必要ない。貴様の名を刻む墓標など、この世界には有り得んからな──!」

 浮かび上がる召喚陣。解き放たれる銀の意思。愚者の辿りついた世界で、有り得ざる闘争が繰り広げられた。



 フュルベールの瞳に囚われた瞬間、切嗣の目の前に現れたのは絶望の光景。その場所はおよそ、切嗣が求めるものの対極にある場所だった。

 幸福など欠片もない戦場。ただ硝煙と血の匂いだけが薫る地獄。世界からはあらゆる笑顔が失われ、ただ嘆きの声と涙だけが流される。
 突きつけられる死の狂騒。人の手による人の殺害。ありとあらゆる殺人行為が目の前で繰り広げられていく。

 絞殺。撲殺。圧殺。轢殺。銃殺。爆殺。刺殺。皆殺し。

 あってはならない地獄の釜。開かれてはならない煉獄の扉が世に顕現し、世界は嘆きに包まれた。

 切嗣は呆然とその光景を見続ける。夢見たものが平穏ならば、彼にとっての悪夢とはその真逆──闘争だけがある世界。

 突如目の前に浮かび上がった妻と娘が、見知らぬ男の銃撃によって消し飛んだ。なんてあっけない。守りたいものはこんなにも儚く──世の中には死と血の気配と、人々の悪意で満ち溢れている。

 闘争が人の本能であるのなら、この光景は何度だって時代に蘇る。我々は争いの無意味さを実感した云々と詭弁を述べて、一時的な武力を放棄しても、人が人である限り争いは絶対になくならない。

 だからこそ、奇跡の縁に縋ったのだ。

 人の手では行えない世界の改変。究極の正義の在り処。争いのない世界。恒久の平和。絵空事だと嘲笑われようと、確かにこの道の先に奇跡がある。

 だから────!

「はっ、ぁ、ああ……」

 繋がりが絶たれて治癒能力も失われたのか、フュルベールは這いずるほどの速度で切嗣の下へと歩み寄る。あと少し。もう少しで奪い返せるというその瞬間、

「ぇ……」

 目の前に静止していた切嗣が突如動き、大口径の魔銃でフュルベールの心臓を確かに撃ち抜いた。

「なん、で……?」

 崩れ落ちたフュルベールを見つめる切嗣の無感情な瞳。色を失った平和を願う暗殺者の瞳には、もう何も映っていない。

「……悪夢か。生憎と、地獄は渡り慣れている。それに僕は、その結末を回避する為にこの闘争に身を投じた。僕自身がイメージする悪夢に、僕自身の祈りが負ける事など──有り得ない」

 それが切嗣の強さ。全てを切り捨て命を等価に扱う事を決めた非情の平和主義者。世界の闇をこれ以上なく目撃し、嘆き、血の涙を流した切嗣の前に、模造の悪夢など取るに足らない幻像だ。

 そうとも。そんなまやかしで切嗣の祈りを妨げる事など不可能。偽物の夢で揺らぐほど衛宮切嗣の祈りは安くはない。
 尊いまでの祈りの正体。その夢想を現実と成すまで──衛宮切嗣は止まる事などありえないのだから。

「ぇ、……ぁ」

 もう用はないと立ち去ろうとする切嗣は、彼方よりの足音を耳聡く感じ取る。まさかアーチャーがサーヴァントを取り逃がしたかとも思ったが、どうやら違うようだった。
 この場でその者達も出来れば始末したくはあったが、アーチャーがいない現状では無理だと判断。

 目標は始末した。ならば長く留まる必要もないと──奪い取った令呪の宿る手首だけを持って、最速で闇の中に紛れ込んだ。



「はっ、はっ、はぁ────!」

 闇夜の森を駆け抜けていたウェイバーは呼吸を弾ませ息を切らせる。視界は悪く足場もぬかるんでいるのなら、ろくな鍛錬も積んでいないウェイバーにとっては苦行もいいところだった。

「いたぞ」

 横からのライダーの声を聞き、指さされた方角を見やる。そこには暗い闇の中で、赤い血溜まりに沈む女の姿だけがあった。

「そん、な──誰が、……」

 少し距離を置いて立ち止まったウェイバーは、その惨状に吐き気を催した。身体は血塗れで銃痕がそこかしこにあり、とりわけ心臓付近の傷跡が酷すぎる。
 濁々と吐き出される赤い血液は留まるところを知らず、令呪ごと切断されたのだろう右手首からも相当の出血量だった。

 傍目に見ても、やりすぎだ。ここまでする必要があったのかと勘繰る程に、目の前のフュルベール──リディアである少女は、血と死の匂いを撒き散らしていた。

「ぁ、あ、……やだ、死にたく、ない、よぅ……」

 まだ息があるのか、呻きのように囀るフュルベール。彼女はただ、死にたくなかっただけだ。呪いを身に刻んで生まれ、魔道を生きなければならなかった不幸な少女。

 親の愛を知らず、感情さえも人並になれたのは当分先で、ただ憎悪と怨嗟だけに包まれた生。そんなのはイヤだった。
 死にたくないと願って何がいけない? 生まれた時より短命を与えれられた己が、自らで掴み取った力で、この不条理な世界に復讐を企てて何がいけない?

 世界は平等なんかじゃない。強者はいつも弱者を食い物にし、虐げられる。いつも先に死ぬのは善なる者で、悪なる者はいつまでものさばり続ける。
 理に従い続ける者が馬鹿を見る世界ならば必要ないと、反逆の意思を宿した彼女の復讐劇は、こんなにも呆気なく終わるのか。

「や、だ……わた、し……、ま……」

 死だけが等しく平等であるのなら、世界すらも巻き込んで、全てを等価に終わらせてくれればいいのにと願いながら。この世の悪意に懇願をかけながら。

 フュルベール・カノヴァスという悲劇の少女は──自らの力に驕り、悪魔の誘いに乗ったが為に、その命を潰えさせた。

「あ────」

 ウェイバーはただ、見ている事しか出来なかった。消えていく命の火を、ただ傍で見ている事しか……

「リディ、ア……」

 その少女こそが最も酷い犠牲者だった。彼女は何も知らない。ただフュルベールの駒にされて、そして結局自らの生に意味すら見出せずに消えていった。

「あ、れ? ウェイ、バーさ、ん?」

「!? リディア……!?」

 血溜まりの中で動いたフュルベールの──否、リディアの身体。間違いない。確かにリディアの声でウェイバーを呼んだのだ。

「ぁ、やっ、ぱ、り……」

「リディア! おい、しっかりしろ!」

 血を省みずにリディアの死にかけの身体を抱え上げたウェイバーの腕の中で、少女は柔らかく微笑んだ。

「ここ、何処、です、か……? わた、なんで、こんな……から、だ、いた……」

「もういい! 喋るな! 喋らなくてもいいから!」

 フュルベールの魂が死滅し、リディアの魂が表層に出てきたのだろう。けれどやはり彼女はフュルベールの行いを何ひとつ覚えている筈もなく、そして自分が置かれている現状さえも理解出来ていない。

「ど、どうすれば……とりあえず、治療を……けど、ボク程度の魔術じゃ……ああ──くそっ!」

「ウェイ、バーさん、わたし……」

「いいから! アンタは黙っててくれ!」

「坊主。ちゃんと話を聞いてやれ」

 どうすれば彼女を救えるのかと頭を巡らせるウェイバーの背後よりかけられるライダーの言葉。その意味するところが、言いたい事が分かりすぎる程に分かってしまう。腐っても魔術師であるが故に。

「……なんでだよ?」

「その娘はもう助からん」

 そんな言葉を聞きたいんじゃない。

「ならばせめて、最期くらいはきちんと看取ってやれ。覚悟を決めると、どんな結末も見届けると貴様は口にしただろう」

 そんな綺麗事を、聞きたいんじゃない……!

「まだだ。まだ救えるだろ。オマエ、サーヴァントだろ。凄い奴なんだろ。なあ、ならなんとかしてくれよ、こんな女の子一人──助けるくらい」

「無理だ」

「────っ!」

 分かっている。世の中というのはどうしようもなく不条理で辛辣だと。ウェイバーが時計塔で感じたものがただ巨大になっただけ。
 世界は誰に対しても優しくなんかないのだ。何処までの不平等で、いつまでも過酷。

 だがこれは余りに余りじゃないのか。この少女が一体何をした。ただ普通に楽しく暮らしたいと願った少女の夢を聞いたウェイバーは、だからこそ──その痛みに深く、胸を抉られる。

 故郷を失くして、滅ぼした張本人とは知らず一緒に暮らし続けて、挙句の果てに身体を奪われ、こんな彼女を誰も知らないような場所で、意味すらも分からずに、理由さえも知らず死を迎えるなんて……

「ウェイ、バーさん、泣いて、るの?」

 彼女の細く柔らかな指が頬を撫でる。何処にそんな力があったのか、分からないが、ウェイバーはされるがままに強くリディアの身体を抱き締めた。

「なあ、リディア。そういえばボクは、アンタにボクの夢を話さなかったよな」

 唐突に口を衝いたのは、いつもしていた世間話の延長。死ぬなとか、生きろとか、そんな言葉をかける資格はウェイバーにはない。
 だからこのまま、ウェイバーを友達と呼んでくれた少女に対する──ただのウェイバー・ベルベットのままに、その終わりを見届けよう。

「ボクは少し前までは、周りの奴らを見返してやりたかった。ボクを見下す連中ってのは大勢いてさ、だからそんな奴らを見返す為に、その方法があると思ってた日本に、わざわざこんな場所までやってきたんだ」

「そうなん、ですか。でも、少しまえ、って、ことは……」

「ああ。この街で、ちょっとした出会いがあってさ。ソイツがあんまりに破天荒で馬鹿らしくて、けどいつも正しくて。更には滅茶苦茶デカイせいで、ボクは自分の小ささを思い知った。
 あ……言っとくけど身長じゃないぞ。もっとこう、別のものだからな」

 そんな冗談にもリディアは笑ってくれた。もう中々声が出てこないのか、口を開けては閉じるだけだった。それでもウェイバーは、自分の話を続ける。

「それで、ボクの夢は変わった。変わったといっても、まだ目指したい夢を見つけたわけじゃない。ただ以前と違う、もっと大きな夢を探す事に決めたんだ。今は──そう、その夢を探す事が、ボクの夢だ」

 漠然とした目標。形なんてない曖昧なもの。けれどそれは確かにウェイバーが手に入れたものだ。聖杯に先んじて、ある男の生き様を見て夢見たものだ。
 だからこれは何ら恥じる事のないウェイバーの本心。自らの器に収まらない大望を探して──これからは生けてゆける。

「素敵……ですね、それは……」

「ああ、そうだろう」

 語るべきを語り終えて、ウェイバーは滲む視界でリディアの顔を見る。血で汚れたままの白い肌。むしろ蒼白く染まっていく顔色は、命の灯火の消失が間近だと告げている。

「わたし、の、夢は……」

「ああ。ちゃんと覚えてる。楽しく暮らしたいんだろ? 学校に行って、友達と遊んで、他にも、色々、やっ、て……」

 そこから先はもう紡げなかった。余りにも当たり前の夢さえ叶えられない少女に、そんな儚い望みを抱かせていいのだろうかと迷って。

「なあ、リディア。もう疲れただろ。少し、休むといい」

 急速に冷えていくリディアの身体を抱きながら、ウェイバーはそう告げるのが精一杯だった。これ以上彼女が苦しむ必要はないから。これ以上──その痛ましい姿を、見たくないから。

「そう、です、ね……なんだ、か、寒く……」

「ああ。傍にいてやるから、ゆっくりと眠るといい。目が覚めたら、また一緒に話そう」

 なんて残酷な宣告。叶わない夢を謳いながら、けれどせめて暖かな死であるようにと、ウェイバーは言葉を選ぶ。

「はい、また、……こうえん、で……」

「ああ。いっぱい話そう。まだまだ、話し足りないこと、ある、んだか、ら……」

「じゃあ少し……やすみ、ます……」

「ああ。おやすみリディア。……また、いつか」

 そう──いつか。彼女が新しく生まれ変われたのなら。せめてその時は、そのささやかな夢が叶えられるようにと、願って。

「はい。おやす、み……なさ……」

 意識が消えたせいか、急激に重くなった少女の身体。腕にその感触を抱きながら、ウェイバーは呆然と見つめた。

「リディア……?」

 もう返る言葉はない。もう二度と、彼女の声は聞けない。

「ああ……」

 なんて無力。結局ウェイバーは、何ひとつ出来なかった。乾いた笑みさえ浮かべてしまいたくなるほどに、胸を穿たれる想いだった。

「ああ、あぁ……!」

「坊主。今はその感情に素直になっておけ。その弱さが、いつかおまえの強さに変わるだろうから」

 背後よりかけられたライダーの声にも応える事無く。ウェイバーはただ、胸の内よりせり上がる感情の奔流に身を任せ、慟哭する。

「うああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!」

 初めて触れた本物の死の感触。自らの無力さを嘆きながら、遠吠えのように夜の森の中で若輩の魔術師は声を上げる。

 降り始めた雨粒が、少しだけ──心の澱を洗い流してくれるかのようだった。


/Bloody Howling


 コツ、コツ、と響く足音。隠し階段を下り、ゆっくりと降りていく臓硯の後を追い、時臣もまた下り続ける。周囲は人口の闇に閉ざされ、頼りなく揺れているのは臓硯が手にする蝋燭の光だけ。

 何処か寒々しささえ感じる程に長く薄寂れた階段を、二人は会話もなく歩み続ける。

 さしもの時臣も、少しばかり緊張している。余所の魔術師の工房に踏み込むという事は死を覚悟する必要があるからだ。魔術師にとっての鉄壁の城塞。神秘の全てを詰め込んだ箱の中に踏み込む事は、封印指定の執行者でもなければ容易な事ではない。

 互いが知己であり、心を許す師弟関係などならばともかく、たとえ盟約の関係にあっても何処か気を許してはならない雰囲気を纏う臓硯が相手であれば、時臣とて相応の覚悟を必要としている。

 けれど断固たる決意を携える時臣は、表情に緊張の色一つ表す事無く臓硯の後を追う。

「さて、着いたぞ」

 重苦しい扉を開いた先──飛び込んできたのは緑色の闇だった。

 水気を孕んだ床がぬめり、饐えた匂いが鼻を衝く。見渡せば、広大なフロアの壁面のそこかしこに四角い穴のようなものが規則正しく穿たれ、黒い闇を封入している。

 間桐家の地下工房──遠坂の工房と比してなお広い面積を有しながら、およそ魔術道具らしきものどころか机の一つも見当たらないこの場所が、果たして本当に工房なのかと訝しむ程だった。

 だが階段を降り立ったフロアの中央、蟠る闇の中に在る一人の少女の姿こそが、この場所が正しく工房であると告げていた。

「では遠坂の。好きなように確かめるが良かろう」

 臓硯は一歩引き、時臣を促す。桜は時臣の姿など見えていないように俯き、焦点の合わない瞳で床板をじっと見つめていた。

 意を決した時臣は一歩、また一歩と泰然とした姿勢のまま部屋の中央へと進んでいく。桜がぺたんと座り込む場所を目指して。

「桜」

 傍まで歩み、少し髪色の変わった少女を見下ろす。小さく呼んだ声に反応したのか、ぴくりと桜の肩が震えた。

「………………ぁ」

 上を向いた瞳が、時臣の姿を捉える。輝きを失った瞳。変わり果てた髪色。凜の後をついて回り、はしゃいでいた頃の面影はもう──何処にもなかった。

「……っ」

 時臣は一人臍を噛む。雁夜の言葉は嘘ではなかった。時臣は彼女にこんな顔をさせる為に養子に出したわけではない。魔道の誇りを解さず、ただ身に刻みつける為だけの道具とさせる為に、子を手放したわけでは断じてない。

 取り戻さなければならない。我が子の幸福と、笑顔を。

「あ、あの……」

 桜の瞳が揺れ、目の前の状況についていけないと訴える。それもその筈。桜にしてみれば時臣は自らを捨てた忌むべき親だ。
 恨まれていても仕方がない。憎まれていても仕方がない。でも、彼女の幸福を取り戻す為ならば、時臣は甘んじて少女の憎悪を受け入れよう。

「桜……すまなかった」

「え────?」

 膝を折り、我が子だった少女の髪を撫でる。彼女の姉である凛にそうしたように、今まで与えてやれなかった愛を形に変えて。

「もういいんだ、桜。おまえはもう、苦しまなくていい。おまえをこんなところに押し込めた私に言えることではないが、もう、いいんだ」

「え、あ、あの、……」

 わけがわからないと視線を彷徨わせる桜と、自らの罪を告白する時臣。間桐臓硯が何を思って時臣をこの場所に踏み込ませたのかは分からずとも、この少女を救うという思いだけは──今は強く時臣の中に息衝いている。

「桜、一緒に帰ろう。葵……お母さんと凛が待っている」

 頭を撫でていた掌を桜へと差し伸べる。終ぞ、彼女には差し出される事のなかった救いの手。絶望より引き上げる希望の掌が、自らを奈落へと叩き落した父によるものであるなどと桜は思いもよらなかったに違いない。

「──いいえ、わたしは、帰りません」

「──────な、に……?」

 だが桜は、その掌を自らの意思で拒絶した。

「何故だ、桜。おまえは、この場所に留まるというのか?」

「はい。わたしはもう、間桐の子だから。遠坂には、帰れません」

 時臣は絶句した。揺らぐ瞳にはけれど強く深い意思が宿る。時臣の瞳を見据え、桜の口より紡がれたその言葉は、決して信じてはならない類のものだった。
 雁夜の言う通り、桜は確かに苦しんでいた。この絶望の淵の中で、声すらも上げられずずっと耐えてきた。だというのに、何故時臣の手を拒むのか。自らの意思で、この場所で地獄を繰り返すというのか……?

「さく、ら……」

「帰ってください。あなたには、もう話す事はありません」

 時臣を見ていた瞳が落ちてまたしても床を見る。なにもない黒く薄汚れた地面を、ただただ呆と見続ける。

「さて、話はもうついたようじゃな?」

「────っ!」

 瞬間、時臣は振り返る。闇の中で歪に口元を歪ませる妖怪。そう、臓硯には勝算があったのだ。いかに時臣が桜を救い出そうとしても、桜自身の意思で拒絶されてしまえば、伸ばした手は届かない。

 臓硯による教育。僅か一年の期間で、桜に一体どれほどの苦痛と恐怖を与えたのだろう。

 この幼い少女が身を守る為に実の父の手を拒絶するほどに、固く閉ざされた心の鎧。絶望で塗り固められた壁は、臓硯への反逆を絶対の意思によって引き止める。
 細く垂らされた救いの糸よりも、これ以上深みに嵌る事を恐れる桜はもう、助けさえ呼べない、歩む事を止めた状態だった。

「間桐──臓硯ッ……!」

「カカッ! 桜自身がお主の救いを拒絶しとるのなら、これ以上の関与は出来まい? それとも桜を攫っていくか? まあ無駄だろうがな」

 ここで桜の意思をないがしろにし連れ帰れば、時臣は協会より尋問を受ける事になる。書類上は既に桜は間桐家に属している。それを時臣が連れ去れば、自らの利の為に他家を蹂躙した不届き者として汚名を被るだろう。

 そうなれば後は転がるように遠坂は落ちていく。土地の管理者としての権限を奪われ、利益を貪ろうとする他の魔術師連中にも隙を見せてしまう。遠坂の家名は没落し、凜の将来は不安に曇り、結局桜は間桐に戻される。

 ──最悪の結末。

 桜自身の意思という決定打がない限り、時臣は、間桐桜を救えない。

「さあ、もう用はないじゃろう? さっさと上へ戻ろうか。儂には桜を教育するという義務があるのでな」

 呵々と嗤う臓硯を前に、時臣は何ひとつ出来なかった。黒い絶望にしがみ付く我が子の手を取ることも、悪意の塊である妖怪に敵対する事も、出来ず。

「待ってください」

 キィと開かれる扉。黒い闇が僅かに影を作り、隙間から姿を現したのは、

「なんじゃ雁夜。今頃戻ってきおって」

「申し訳ありません。手酷い傷を負っていましてね、戻るに戻れなかったのです」

 よれたパーカーで顔の半分を覆い隠した雁夜が、片足を引き摺り姿を見せる。口から出任せを並べつつ、臓硯を追い越し時臣の前に立った。

「久しぶり……でもないか、時臣。おまえは一体、こんな所で何をしている?」

「君には関係のない事だ」

「いいや、大いにある。大方桜を助けに来たんだろう? 俺の言葉がそれほどおまえに響いたのは驚きだったよ。おまえにも、人の情というものがあったんだな」

「違うね。私は私の責任の為にこの場にいる。感情などというつまらないものと一緒にして欲しくないな」

 くつくつと雁夜が笑う。

「ああ、そうかよ。だが知っているか時臣。だからおまえの言葉は、桜には届かないんだ」

「なに……?」

 訝しんだ時臣をさらりと無視し、首だけを捻り雁夜は臓硯を見る。

「臓硯。これから俺は時臣と戦う。これはマスターとしての戦いだ。余計な横槍を入れてくれるなよ」

 ほぉ、と頷いた臓硯は値踏みするように雁夜を見やる。明らかに満身創痍。アインツベルンの森でのダメージが抜け切っていない状態で、未だ無傷の時臣に勝てると思っているのかと疑る。

「まあ良かろう。それが参加者同士の戦いであれば、部外者である儂が口出し手出しする事は出来んからな」

 臓硯の思惑ではどの道雁夜には勝利はない。あんな役にも立たないサーヴァントを引き当てた半人前以下の存在が、未だ残っている事すら僥倖なのだ。
 元より捨石であった第四回。桜を迎え、その子の代で始まるであろう第五回こそが本命であるのなら、雁夜が生きようと死のうともはや関係がない。

 どうせなら、道化として踊り狂って見世物にでもなれば上等だ。

「……本気か、間桐雁夜」

 時臣は手にしたステッキをゆっくりと回転させる。たとえ此処が間桐の工房であろうと、時臣が相手では雁夜に務まる筈もないというのに。

「ああ、無論だ。俺はおまえを殺したい。おまえという存在は、この上なく目障りなんだよッ────!」

 周囲に蟠る闇より這い出した蟲が雁夜の憎悪に呼応し飛び上がる。黒い甲虫はいつかの森での戦いと同じように、一直線に時臣目掛けて殺到する。

 応じる時臣も同じように、円を描いた炎に遠坂の家紋を映し出した防御陣で封殺する。焼け焦げ落ちていく無数の蟲。死ねば死ぬほど沸き上がる蟲の大群。馬鹿の一つ覚えのように雁夜はひたすらに蟲を繰る。

「時臣ィ! 今更なんだよ。何故今更、桜を救うなどと思い立った!」

「何度も言わせないで欲しいな。私は私の責任を果す為に──」

「だからだろうがッ! 責任? そんなもので救われて嬉しい奴が何処にいるッ! 何でもかんでも義務感からしか行動を起こせない貴様の声が、桜に届く筈があるか──!!」

 叫びに呼応し膨れ上がる蟲の闇。幾千、幾万の黒い憎悪が列を成し襲い掛かる。

「おまえは葵さんを裏切った。凛を、桜を裏切った。彼女達の当たり前の幸福を、凡俗の一言で貶めた。そんなおまえの声が、桜に届く筈がない。どうせまた裏切られると、勘繰れないほどあの子は馬鹿じゃない……!」

「────」

 時臣は目の前に展開した魔法陣を維持したまま、意識を僅かに後ろへと傾ける。時臣と雁夜の戦いをじっと見つめる我が子の目。一体何を見ているのか分からない、茫洋とした瞳が揺らいでいる。

 桜に差し伸べた救いの手。その手を掴んで、桜が救われる保障がどこにあるというのだろう。たとえこの闇を抜けた先でも、時臣は我が子の幸福と憚り、またぞろ同じように養子に出すに違いない。

 魔道を歩んできた先達として、その判断は間違いではない。だが、一度貶められた幸福をもう一度失う苦痛に、桜は耐え切れるのだろうか。
 ここで遠坂に戻っても、また彼女らとは引き裂かれる運命。その場所が、この地獄よりも温かい場所である保証すらない。

 だから桜は止めたのだ。この場所より出ずる事を。闇の中、進んだ先がより深い闇である可能性があるのなら、たとえ陽だまりであっても怖くてもう、進めない。
 彼女の時計の針は遠坂と訣別した時に止まり、そして彼女をそんな状態に追いやった張本人こそが時臣自身なのだ。

 雁夜の言う通り、今更だ。本当に我が子の事を思っていたのなら、時臣は最初期の段階で一計を講じるべきだったのだ。初手を致命的に間違えた時臣の声では────桜の殻を、破れない。

「おおおおおおおおおおおおおおおおおっ……! 時臣ィィィィィィ!!」

 水気により形作られた蟲が陣中央に殺到し、僅かばかりの隙間を作り上げる。巨岩を穿つ雫のように、時臣の魔法陣を壊していく。

「チッ────!」

 炎術を強化しようとする時臣に先んじて、雁夜は身を投げて突貫する。身体を覆う水気の蟲。さながら甲冑にも似た黒々とした蟲の塊で身を覆い尽くし、壊れかけの炎の渦へと突撃する。

「ぐっ、あああああああああああ……!!」

 焼け焦げていく蟲と肌。雁夜の全てを燃やし尽くしていく極大の炎を、憎悪の後押しにより抉じ開ける。

「なっ、馬鹿な……!」

 時臣をして瞠目する無謀なまでの突撃。けれど雁夜は炎の渦をぶっ壊し、更に一歩を踏み込んで、

「この、糞野郎────!」

 渾身の右ストレートで、時臣の頬を穿った。

「がっ……!?」

 雁夜相手には絶対に突破されまいと高を括っていた時臣は、第二手を講じ損ね、何の防御対策もないままに吹き飛ばされた。

「ぅ、ぁ……、ぐ……」

 しかし雁夜とて無傷ではない。いや、むしろ雁夜の方が酷いくらいだ。雁夜は全身に火傷を負い、時臣は頬に一発だけ。余りにも割に合わない対価だ。

「ハッ、一発、入れて、やった……」

 笑みを形作れない顔を引き攣らせ、嘲笑う。元より雁夜と時臣では位階が違いすぎる。これでも充分に健闘したといえるだろう。

 だが雁夜の目的は、それだけには留まらない。尻餅をつき、起き上がりかけている時臣を一瞥し、ふらふらの足を気合で押して桜の下へと歩いていく。

「……ごめんな、桜ちゃん。君のお父さん、殴っちまって」

 虚ろな瞳が揺れていた。先程までの頑なな意志はなりを潜め、“カリヤおじさん”を見る少女の瞳がそこにある。

「あの人は、お父さんなんかじゃ……」

「違う。あの男は、君の父親だ」

 臓硯に教え込まれた言葉を忠実に口にしようとする桜を遮り、雁夜は決然と言葉を紡ぎだした。桜は目を見張り、時臣でさえ硬直している。

「あの男は、君をこの場所に放り込んだ張本人で、責任だなんだと口喧しい糞野郎だが、それでも君の父親だ。
 名目上がどうであろうと、血縁は絶対に切れない。だからアイツは、君の父親で──君が甘えていい人なんだ」

 がくりと膝を折り、半ば凭れかかるように桜を抱き締める。黒く焼き焦げた身体。死に行くだけの身体。もはや人のぬくもりさえ伝え切れない壊れた身体で、心を壊した少女を抱き締める。

「もういい、桜。君はこんな場所で絶望し続けてちゃいけないんだ。俺達大人が、君をこんな目に遭わせて言えた義理じゃないが、君は救われていいんだ」

「────」

 時臣の言葉ではまるで揺らがなかった桜の瞳が、微かに揺れている。見開いた大きな瞳で壊れていない方の雁夜の顔をじっと見つめている。
 上からの目線でしか言葉を紡げない時臣とは違い、同じ苦痛をこの一年間共にしてきた雁夜の言葉が桜の心に浸透していく。

 雁夜には桜を救えない。儚い命。もう既に燃やし尽くしたこの命では、地獄から救い出す事さえ不可能だ。だからせめて、彼女の心を守る鎧を砕くと──黒く渦巻く絶望という名の鎧を破壊して、自らの意志で歩き出せるようにと、切々と想いを形に変える。

「カリヤ、おじさん……」

 雁夜が間桐を継げば彼女はこんな目に遭わなかったかもしれない。時臣が間桐に預けなければこんな目に遭わなかったかもしれない。臓硯が引き受けなければこんな目に遭わなかったかもしれない。

 だがそれらは全て過去。既に変えられないただの事象。見つめるべきは──未来。この暗い地の底を抜け出た先に、彼女の未来に幸あれと願うから。

「もう絶望しなくていい。君を阻むものは、俺達が駆逐する」

 いつかは言えなかった言葉を口にする。確かな未来を約束出来なかった、あの頃とは違うから。そう、違うのだ。今の雁夜ならば──雁夜達ならば、この子を救う事が出来るはずだから。

 雁夜の瞳が、忌々しげに時臣を見やる。視線を受けた時臣は、その意味を察し、立ち上がった。

 桜も視線を彷徨わせる。虚空を見つめ、雁夜を見つめ、時臣を見つめ。そして静かに見守る臓硯を見つめる。
 時臣には砕けなかった桜の鎧。けれど雁夜の、熱い想いが、少しずつ──少しずつ装甲を剥がしていく。

「カリヤおじさん……わたし、いいの?」

「ああ」

 何がなどとは問わない。

「本当に、いいの?」

「ああ」

「声、出して、いいの……?」

「ああ。いいんだよ、桜。君はもう、自由なんだから」

「ぅ、うぁ、ぅ……」

 溜めに溜めた心の澱。守ってくれる存在なんてなくて、だから自分を封じ込める事で許されていた桜。
 彼女を包む絶望の鎧は、もう剥げ落ちている。雁夜の心からの言葉。ただ桜を救うという一心でこの場に立ち向かった雁夜の言葉こそが、桜の心を解き放つ。

 だけど雁夜だけでは救えない。悪鬼である臓硯の魔手から逃れられない。だけど今──雁夜にとって最大の敵で、桜にとって最大の味方が傍にある。

「わた、わたし……! ここから、出たい! お姉ちゃんと、お母さんと、お父さんと、また、一緒に……! 一緒に暮らしたいの……!!」

 だから。

「助けてぇ……! 助けてよぉ……お父さぁん……!!」

 今まで決して許されなかった求める言葉。絶望の淵より吼え上げる唯一つの救い。この奈落へと突き落とした張本人に求める、子として絶対である父への叫び。

 別離の時でさえ、訴えなかった想いの束。母である葵も姉の凛でさえも時臣の決定には逆らえず、姉より託されたリボンだけを心の拠り所にこれまで生きてきた……余りに幼い少女の悲痛な慟哭。

「だそうだが、お父さん。まさかここまで桜に言わせて、まだ義務などと嘯くような野郎じゃない、よな?」

 コツ、と靴音を立てて時臣が桜と雁夜の傍に立つ。縋り付くように見上げる瞳。零れ落ちる涙は止め処なく。溢れ出る感情のように堰き止める術などなかった。

「────ああ」

 彼女を守るように時臣が立つ。手にしたステッキに収束する魔力の渦。赤い煌きが何処までの高く昇っていく。
 時臣では壊せなかった心の鎧を壊した雁夜。下らないと吐き捨てる感情が胸に芽吹く。憎いと。なぜ、自分ではなく雁夜なのだろうと。

 だがそれで構わない。娘の助けを求める声を聞き、手を差し伸べない親はいない。雁夜が桜の心を救ったのなら──

 その言葉を聞いて、知らぬ振りを続けられる者がいるものか。まだ責任だなんだと誤魔化し続けられる筈があるものか。
 我が子の、愛する娘の心からの助けを求める声を──蔑ろに出来るほど、遠坂時臣は腐っちゃいない……!

「桜。私はおまえを──父として守ろう」

 後先などもはや慮外。ただこの場、向けられた言葉に応える為だけに時臣は魔を司る。かつての時臣ではありえなかった決定。だが今は、いつにもまして清々しい気持ちで一杯であった。

「ふむ……」

 これまで静観を決め込んでいた臓硯が呟く。臓硯にとってこの展開は余りにもあってはならないものであるというのに、何処までも余裕の体を崩していない。その様には空恐ろしささえ感じるほどだ。

「雁夜よ、貴様、端からそのつもりであったな?」

「さあな。俺は俺を貫いただけだ」

 桜を救い、時臣を殴り飛ばす。両方やった結果が、こうなっただけの話。臓硯との敵対もただの結果でしかない。
 今でも時臣は憎い敵だ。だが優先するべきは桜の幸福。どうせ死に行く身体なら、せめてこの子だけでも救う為に、最善を選んだ──否、全てを選択しただけ。彼のサーヴァントである女の言葉により気付かされたその事実に、従っただけだ。

「間桐臓硯。もはや貴様に情けをかけるつもりはない。正しく魔道を行わず、あまつさえ桜を我が身の道具にしようとしたその浅慮。正調を重んじる魔術師として外道を狩り──父として娘を弄んだ貴様に、死を遣わそう」

 腕の一振りで顕現する灼熱の焔。その場にいる者全てを囲む輪が瞬時に形成され、さながら闘技場のように辺りを囲い込んだ。

「ふん。遠坂の小倅めが粋がりおって。儂が何故主らの行動を見過ごしたか考えぬか? 本当にマスター同士の戦いであったから静観を決め込んでおったとでも思うておるのか?」

「いいや、思わない。だが貴様が何を画策していようと」

 時臣が言い、

「俺達は、貴様を殺すだけさ」

 立ち上がった雁夜が引き継ぐ。

 その言葉を聞き届け、呵々大笑と高らかに笑い声を上げる臓硯。腸が捻じ切れるのではないかと思うほどに酷く笑い声を響かせ、桜は一人不気味な祖父であった人物に植え付けられた恐怖を覚えた。

「小童共めが。良い、少しばかり──魔道の真髄を披露してやろうではないか!」

 臓硯が目を見開いた瞬間──頭上より滝の如く漆黒の雨が降る。否、それは全てが蟲。天井に貼り付いていた黒い甲虫が、我先にと時臣と雁夜、そして桜さえも巻き込まんと降り注ぐ。

Intensive(我が敵の火葬は)Einascherung(苛烈なるべし)────!」

 二節の詠唱と共に振り上げたステッキの更に上に描かれる広大な魔法陣。中空に空に向けて顕現した炎の陣は、降り注ぐ全ての蟲を業炎の彼方に葬り去る。奇声を上げ、断末魔を響かせる蟲の狂騒は途絶える事無く続き──

「ほれ、油断しとると足元が危ういぞ?」

 ぞわぞわと忍び寄るは先程雁夜が時臣の魔法陣を打ち砕いた水気の蟲。雁夜のそれよりも数段洗練された蟲は、周囲に展開する炎の輪を乗り越え、時臣らの足元へと絡みつかんと忍び寄る。

「チィ────!」

 時臣は身に刻んだ魔術刻印すらも最大運用で酷使し、周囲、頭上に続く三つ目の魔術を同時使用する。圧縮し威力に特化した火球を左腕に刻み込んだ淡い光を放つ刻印の後押しと共に放つ。

「さて、それでいつまで持ち堪えられるかのぅ?」

「ぎ、ぃ……」

 才覚豊かではない時臣が、こうして身に余る魔術を酷使し続けるには限界がある。自らの工房内ならまだしも、此処は臓硯の工房だ。ただでさえ水気に満たされ不利にあるというのに、数百年を生きる妖怪は泰然とした姿勢を崩す事無く苦しみもがく時臣を嘲笑う。

「臓硯! この俺を忘れるなァ……!」

 ボロボロの身体を無理矢理に動かし、雁夜は臓硯目掛けて疾駆する。周囲より沸き上がる雁夜の蟲。臓硯のそれに比べれば大きさも魔力の密度も全てが劣るが、一矢報いるには充分すぎる武器である。

「貴様などものの数にも入っておらんわ」

「が、あぁあああああ……!?」

 臓硯の一睨みによって動きを縫われた雁夜は、その場で膝を折って蹲り自らの身体を抱きかかえる。
 体内を蹂躙する刻印蟲。意思を奪い取り、臓硯の意思によって雁夜の身体を内側から駆逐する。

「貴様が単に桜を救いたいと考えておるのなら、サーヴァントを召喚した時点で儂を殺すと考えるのは至極当然であろう?
 その為の保険を儂がかけていないとでも思っておったか能無しが」

 臓硯にとって雁夜はいつでもその自由意思を奪い取れる傀儡であり、失ったところで痛くも痒くもない駒だった。
 間桐という家系が魂に刻み込む性根を心底理解している臓硯が、不出来な息子の心変わりを予期できない筈もなかった。

 元より臓硯は雁夜に何ひとつ期待をかけてなどいなかった。せいぜいが道化として踊り狂うか、桜の調教の道具としての役割程度にしか考えていなかった。
 その程度の男。遥か六十年も前より下積みを続けていた他の連中と比べ、一年の急造でしかない雁夜に賭けるチップなど、一枚たりとも持っていなかったのだ。

 止む事無く降り注ぎ続ける蟲の雨。足元より這いずる蟲の群。雁夜の体内を蹂躙し尽くす刻印蟲。
 完全に自由を奪われ、耐える事しか出来なくなった二人。敵地の工房で戦うという意味──そして反逆する事の意味を身をもって二人は理解して。

「止めてください、お爺さま」

 その二人の間に立ったのは、目を赤く泣き腫らした桜だった。

「桜……!? 止せ!」

「そうだ! 君は、俺達が守るんだから!」

「カカ! その様でよく言う。まあ口しか動かせないのなら仕方があるまい。して、桜。儂の前に立つ意味、無論理解していような?」

 凄まれただけで息を呑む桜だったが、負けじと睨み返した。これまで従順に従い続け、反抗の一つさえも許されなかった桜が、自らの意思で立ち向かう。

「もう、止めてください、お爺さま」

「何を止めろと言うのじゃ? こやつらはおまえを連れ去ろうというのだから当然の報いを与えているまでだ。それとも何か、おまえは自らの意思でこの場に留まると、そう言うつもりか?」

「いいえ。わたしは、もう、逃げない。逃げたくない。カリヤおじさんが助けようとしてくれて。お父さんがこんな場所まで来てくれた。だからわたしも、わたしだって一緒に立ち向かうんだから……!」

 それは一年も前に別たれた姉の影響か。武器もない。力もない。抗う意思しか持たない桜が、強く──強く声を上げる。
 ただ怯えているだけの自分と訣別し、助けを求めるだけの自分にはなりたくない。助けを待ち続けて、助けてくれようとした人がいた。

 だけどその優しさに甘え続ける事なんて出来ない。自らの意思でこの地獄を出たいと願うのなら、その足で立ち上がらなければならないから。
 あの姉なら、きっとそうするから。きっとこの場所に放り込まれたその日の内に歯向かうだろうけど、そこまでは強くなれないから。

 せめてこの瞬間だけは──自らの足で、目の前の悪に立ち向かいたい。

「カ! 吼えてくれるな。だが理解しているか桜? この状況、おまえは元より後ろの連中も逃げられやせんのだぞ?
 そして儂がこの状況を待っておったわけこそ、おまえの教育の一環であると気付いているか?」

「え──それは、」

「おまえはな、空っぽの人形でいい。人の意思など必要ない、人の形をした器であればいいのだ。
 心を閉ざし、儂へと平伏したおまえが今一度取り戻したその希望──それをもう一度貶めれば、おまえはもはや立ち上がれまい?」

 臓硯が嗤う。全ては予定調和であると。

「おまえの目の前で──父と雁夜を殺してやる」

 その言葉こそが、桜を砕くに足る言霊だった。

 ようやく縋りついた希望。助けに来てくれた光。自らの足で立ち上がる意思を手に入れた桜を、桜ではなく二人を殺す事で今一度絶望の淵へと叩き落す。
 そうすればもう立ち上がる術など有り得ない。助けもなくただただ臓硯の傀儡として動くだけの人形の完成。次代を紡ぐ胎盤であればそれでいいと、臓硯は謳い上げた。

「あ、ぁあ……」

 その光景を脳裏に描き出した桜は震え、強く頭を振る。そんなのは嫌だと。目の前に横たわる父と優しくしてくれた人の亡骸。過酷さを増す調教。
 未来などない──否、黒く閉ざされた蟲倉で死ぬまで蟲を孕み続ける、暗黒の未来しかその先には残されていない。

「桜ちゃん! 耳を貸すんじゃない! そのジジィの戯言に……がぁ!」

「今なお身動きすら出来ぬ貴様が何をほざく。大人しく桜の調教の糧となれ」

「嫌だね」

 その言葉を紡いだのは炎の中に苦痛も露に立ち尽くす時臣だった。

「私は桜を救い出す。責任だとかはもう関係ない。桜の父として、私は桜を助け出す。その為に────!」

 一層の輝きを増す極大のルビー。時臣の魔力を根こそぎ持っていき、限界を裕に超越したその魔術行使に、魔術回路は元より肉体さえも悲鳴を上げる。
 血管は千切れ、肉は断裂し、骨は軋みの声を上げている。魔力は波となって氾濫し、行き場を求めて体内を蹂躙する。

「お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお……!」

 だがそれが何だというのか。桜が身に受けた辱めを思えば、取るに足らない瑣末事。まだ優雅に振舞う余裕さえあるほどだ。
 この程度で泣き言を上げてどうする。我が子一人救えずして、一体何の為の親であるというのか。桜の心は雁夜によって救われた。ならば時臣は、その身をこそ救わなければならない。

 だから。

 持って行け──ありったけの魔力を、その一撃に込めて────!

「うおおおおおおおおおおおおお……!!」

 膨れ上がる赤い魔力。炎へと変換された魔力の渦が時臣を中心に顕現し、天まで届けと膨張する。
 その最中にあって雁夜と桜への配慮は忘れず、防護陣を敷設された二人を除く広大なフロアを丸ごと焼き尽くさんと、極大の焔が爆発となって室内を覆い尽くした。

「がっ……、はぁ、は、あ、ぁ……」

 息も絶え絶えに膝を折りかけてなおなんとか持ち堪えた時臣の周囲から、全ての蟲の気配が失われていた。床から壁面は焼け焦げ今なお延焼を続け、天井に到っては階上に続くように大穴が穿たれていた。

 遠坂の魔術師の面目躍如、工房を破壊し尽くす極光を以って、臓硯すらも纏めて吹き飛ばして──

「流石にやるの。だが、爪が甘い」

「がっ、ぁ、はぁ……っ!」

「時臣!」

 どうやって難を逃れたのか、突如として時臣の背後に現れた臓硯は、手にした杖で時臣の腹を刺し貫き、炎ではない赤い血を吐き出させた。

「き、サマ、……どうやっ、て……」

「此処は儂の工房だと理解しているか? そして敵を視界から失う浅薄は、戦いにおいて愚策に過ぎよう」

「ッ……ぁ」

「お父さん!」

 桜の叫びも虚しく、膝を折った時臣よりずるりと引き抜かれる臓硯の杖。その痛みに顔を顰め、魔力のほとんどを先の一撃に動員し、セイバーへと供給している分も除けば、回復に廻せる魔力量はほとんど残っていなかった。

 更には、外の状況を解さない時臣はセイバーを呼びつける事さえ出来ない。外は任せてあるのだ。時臣が如何なる状況に置かれようと、この刻限に乗り込んだ時臣の失策であるのなら、セイバーの助けを期待していい筈がない。

 まだ死ぬような傷ではない。臓硯は時臣を桜の為の道具として殺すつもりであるのなら、易々とは殺さない。この傷では、セイバーも窮地とは気付けない。

「カカ! さあ桜よ。理解したか? これが結果だ。おまえの父は膝を屈し、雁夜は儂の呪縛からは逃れられん。じっくりとこやつらを嬲り殺しにして、おまえの為の糧に変えてやろうぞ」

「いや、いやいやいやいやいやいやいやああああああああああああああああ……!」

 桜の悲痛な叫びに臓硯の哄笑が交じり合う。不協和音が燃え盛る炎の中に響いていく。間桐臓硯という妖怪を前に、二人の魔術師は為す術もなく膝を屈し──

「あーあ、やっぱり。だらしないわねぇ、ほんと。それでも私のマスターかしら?」

 頭上。時臣の開けた大穴より降って来たのは一人の女。黒い衣装に身を包んだ女が、何処からともなく舞い降りた。

「ぬ……貴様……!」

「バーサーカー……!?」

 間桐雁夜のサーヴァント。外に蔓延る死者の駆逐へと駆り出されていた筈のサーヴァントが、現れ、そのまま臓硯を踏み倒した。

「ぐっ……ぬう……!」

「おまえ、何で此処に? 外はもう終わったのか?」

「いいえ、まだ最中。でも私、面倒だから途中でふけて来ちゃった」

 あくまで軽い口調の女はおどけてそんな事をのたまった。外の連中が気付いているかどうかは定かではないが、これではもう雁夜が聖杯を手にする機会はないだろう。

「……ああ」

 だがもう、構わなかった。元より臓硯のように生に執着するほど雁夜は高望みをしていない。桜を救う。その目的さえ成し遂げれば、後はどうなろうと知った事ではない。

「バーサーカー……そのまま臓硯を……!」

 言うが早いか、踏みつけられていた臓硯は素早く無数の蟲に分離し、難を逃れる。時臣の魔術の間を掻い潜った法こそ既に人ではない臓硯の身体の恩恵。

「だから雁夜、いい加減気付きなさい。私にはそんな真似は出来ないって事」

 臓硯を逃がしてなお悠然と構える女の言葉に、雁夜は訝しむ。サーヴァントの力を以ってすればいかに臓硯であろうと一たまりもない筈だと言うのに。何故、出来ないなどとのたまうのか。

「いいから雁夜、貴方は頭より身体を動かしなさい。此処から先は、私が導いてあげるけどその結果をどうするかは貴方次第なんだから」

 女が喋り雁夜が困惑し臓硯が姿を隠している間、逃がさないとばかりに時臣は更なる魔術を酷使する。臓硯のいた場所を中心に皆も巻き込んで炎の輪を形成。地下まで抉る炎陣で以って、退路を封殺する。

「は、ぁ……」

「お父さん!」

 駆け寄ってきた桜に笑みを返し、時臣は流れ落ちる汗もそのままに陣の維持と治癒に全力を注ぐ。

「雁夜……逃がすな……臓硯、を」

 息も絶え絶えな時臣を一瞥した雁夜は、少しばかり自由を取り戻した身体を起こし辺りを睥睨する。直後、再度実体化する臓硯の腐肉。

「ちぃ、小倅が。だがどうする雁夜よ。その身体で儂に抗うか? お主のサーヴァントはものの役にも立たんようだからのぅ」

「ええ、そうね。私程度の力じゃきっと貴方にさえ抗えない。だけど知ってる? 私には視えているわよ──貴方の本体が」

 その言葉を聞いた瞬間、臓硯の落ち窪んだ瞳が見開かれ女を見た。妖しい笑みを浮かべる女を射殺さんとばかりに見やった臓硯は、

「そうか貴様……力を失ってなお──!」

「魂の選別にかけちゃ私達の右に出る者はいないわよ。雁夜、アイツの右目を抉りなさい──!」

 その場所こそ間桐臓硯を構成する無数の蟲の中枢──本体の居場所。人ではない蟲の肉体として臓硯を人足らしめている魂の在り処。人間だった頃の臓硯を凝縮し一匹の蟲に変えた本体。

 それさえ潰せば、間桐臓硯は終わる──!

「ぞおぉぉぉぉおけえぇぇぇぇぇぇぇん……!」

 疾駆する。身体の機能低下など完全に無視し、炎の牢獄と化した蟲倉の主を殺すべく、屍の身体を動かし迫る。

「舐めるな……! 貴様の身体は儂の支配下に置かれている事を忘れたか!」

「がっ、あああああ……!」

 体内を蠢く刻印蟲の抵抗に遭い、雁夜は成す術もなく崩れ落ちる。だがそれでも、雁夜は這ってでも臓硯を殺してやると憎悪を滾らせる。

「刻印蟲よ……!」

 これまで散々苦痛と苦悩を与え続けてきた雁夜を魔術師足らしめる蟲。臓硯の遣いであるその蟲達に、今初めて雁夜は自らの意思によって命令を下す。

 この身体──欲しければくれてやる。肉も骨も魔力も憎悪も全て、ありったけの全てを持っていっても構わない。だからこの瞬間、俺に従えと。間桐雁夜の全てを対価に──此処に命ずる!

「俺に、力をかせええええええええええええええ……!」

 臓硯の支配を、雁夜の想いが上回る。最大の対価──命の代償を以って抗いを反逆に摩り替える。
 瞬間、軽くなる身体。これまで錘でもつけていたのではないかと見紛うほどの軽く解き放たれた身体で、一直線に臓硯目掛けて疾駆する。

「雁夜──貴様ァァァァ……!」

「これで、終わりにしてやる────!」

 雁夜の腕が伸び、臓硯の右目を抉り取ろうとした瞬間──飛び出した一匹の蟲が、雁夜の口腔目掛けて飛び込んだ。

「がっ、アァ……!?」

 嚥下するまでもなく内へ内へと下っていく臓硯の本体。奪われるくらいならば逆に奪い取ってやると。雁夜の肉体を乗っ取るべく、臓硯は最後の抵抗を見せて。

「それは愚策だぜ、クソジジィ……」

 支配を奪われるその一瞬前。

「時臣ィィィィィィィィ……! 俺ごと臓硯を、間桐の呪いを焼き尽くせぇ──!!」

 雁夜の背の向こうに立ち尽くす炎の魔術師。この瞬間を予期していたように、一切の迷いなく──今持てる最大火力で、雁夜を炎の渦で包み上げた。

『オ、オ、オ、オォッォォォォォォ! 莫迦な、こんな莫迦な話があるかァ!』

 雁夜の腹の内からせり上がる怨嗟の声。業炎に身を包んだ雁夜は残る自我の中で小さく微笑んだ。

「アンタは、俺達を……俺の覚悟を甘く見た。ただそれだけだ」

 程なく臓硯の声が先に消え失せ、雁夜の肉体も炎に焼かれ爛れていく。臓硯の死により体内の刻印蟲も同時に死滅し、雁夜を生かしていた全ては燃え尽きた。残るは雁夜自身の残骸だけ。

「雁夜……」

 時臣の状態を見たからか、膨大な炎に当てられたのか、突如として意識を失くした桜を抱えた時臣が声を投げかける。

「さっさと行け、時臣。直に此処も崩れる。桜ちゃんを守れよ」

「……ああ」

 憎き怨敵。魔道に背を向けた反逆者。だがこの一瞬だけは確かに、二人の想いは一つだった。



 崩れ落ちていく間桐の屋敷。炎に埋もれていく地下工房の中央にて、ぐったりと項垂れた雁夜はもう、見えもしない瞳を彷徨わせ、いる筈の女に声をかけた。

「悪い、な。俺の戦いは、ここまでだ」

 雁夜にははっきりと発音できたかすら危うかったが、女は確かに聞き届けていた。

「そうね。貴方はよく戦った。最初の想いは、確かに成し遂げたわ」

 ふわりと。雁夜の身体に触れる温かなもの。虚ろな瞳を凝らしてみれば、臆する事無く炎の中へと身を投げる女の顔が目に留まった。

「おまえ、まで、焼かれる必要、ないだろ」

「そうね。でもどうせ貴方が消えれば私は消えるし、新しい契約者を探すつもりもない。だからこれは私の我が侭。私の死に場所は炎の中でありたいの。だってそれが──あの人と私の愛の証なんだから」

「……ああ、そうか」

 自らの頭の巡りの悪さに辟易とする雁夜はようやく、この女サーヴァントの正体に得心がいった。

 神への反逆罪で神格を奪われた戦女神。主神の計らいにより炎に包まれる山の頂に封じられた堕ちたる者。
 竜の血を浴びた英雄ジークフリートとの悲劇を彩るその女の名こそ────

「そう……私の名はブリュンヒルデ。愛ゆえに狂い、愛ゆえに命を落とした愚か者よ」

 その女の結末は、嫉妬に狂い愛した男を憎悪によって殺め──全てを理解したのは彼の死後。枯れるほどの涙を彼を焼く業火の中で流しながら、自らの不義と愛に嘆きながら、生涯を終えた。

「私には元々願いなんてないの。あるとすれば、私の愛は間違いじゃなかったと想いたいだけ。あの人のいない世界になんて興味はないし。
 その意味じゃ、貴方は良い男だったわよ雁夜。貴方は私が貫けなかったものを貫いた。私と同じ嫉妬と憎悪を身に刻んでいたというのに、その感情に負けず、最後の最後に成し遂げたんだもの」

 それは誇っていいものだと、女は微笑む。だが雁夜にはもうそんな余力もない。ただ、巡りの悪い頭を動かす事だけを許されていて。

「……バカな女だ、本当──どうかしてる」

 口を衝いたのは、そんな変わらない悪態だった。

「バカは貴方よ。女はね、いつだって男の背中に惹かれるの。それも、とびきりの覚悟を決めた背中なんか見せ付けられたら一発よ。
 貴方もそんな一途な想いが貫き通せるのなら、もっと早くに格好つけられてれば良かったのに」

 この女とはいつもこうだった。下らない甘言を囁かれ、無視でも決め込めば良いものをいつもムキになって反抗していた。
 今思えば、そんな下らない会話が──何処か楽しかったのだろう。忘れた筈の感情を、呼び覚ましてくれたから。だから雁夜は、最後まで心を貫けた。

 本物のバーサーカーを喚んでいれば、恐らく憎悪に呑み込まれていたに違いない。時臣への憎しみを滾らせ、桜を救うという目的を忘却し、ただ荒れ狂うだけの存在に。

 そうならなくて良かったと心底で思う。この女が、まるで力を失くしたこの女神が己のサーヴァントで良かったと──けれど最後まで口にはせず。

「ああ、本当だよ。お陰で片想いの女性はムカつく男に取られちまって、こんな女がひっかかるハメになるんだからな」

 返す言葉は悪態で。

「ふふ。貴方のそういうところ、私は好きだったわよ」

 だからこの女とは最後まで、そんな関係でありたいと願う。

「生憎と、俺はおまえのそんなところが大嫌いだった」

 堕ちたる女神の掌が雁夜の頬を撫でる。雁夜はもう焦点の合わない目で、いるであろう女の方向を見つめるだけ。
 何もする事が出来ない。何もする事がない。雁夜を動かしていた動力は燃え尽きた。桜を救い、時臣への憎悪も薄れた今、雁夜の存在理由が希薄になる。

 全てを焼き尽くす炎が燃え盛る。搾りかすである雁夜と、炎の中に愛を探す女を巻き込んで。

「ああ────」

 もう見えない視界をどうにか振り仰ぐ。あの男が桜に対してどんな決定を下すのかは雁夜には分からない。だが彼女の心は確かに解き放たれた。そして時臣にも心境の変化があった筈だ。

 見えない視界に映るのは、己と葵と、そして凛と桜が公園で戯れる姿。絶対に見る事の出来ない夢想を──死の間際で思い描く。

 ただそれだけで満ち足りた想いだった。雁夜の死は必然で、この命であの家族を救えたのなら──思い残す事などない、と。

「少し、疲れたな……」

「そう。なら、おやすみなさい、雁夜。今度は本当に、貴方自身の為に眠りなさい」

「……ああ。悪いが、先に──」

 女神の腕の中で。成し遂げた想いと満ち足りた心を胸に──間桐雁夜は、炎の中でその生涯を静かに終えた。



 雁夜と別れた後、時臣は崩れ落ちていく階段を昇り間桐邸本館へと戻った。

 上階も時臣が巻き起こした炎の影響を受け延焼が酷い。到るところに炎が燃え移り、地下とそう変わらない惨状を晒していた。
 間桐鶴野の姿がない事から、あの男は逃げ出したか巻き込まれたに違いない。だが臓硯が息絶え、雁夜も命を落とした今、間桐──マキリにはもう魔道を続けるだけの才覚は残されていない。

 鶴野の息子は存命していると聞き及んでいたが、その息子に魔術師としての資格が宿らなかったからこそ臓硯は時臣に助力を求めたに違いないのだから。

 間桐は今日終わる。呪いの全てを引き受けた一人の男の死と──間桐を引き継ぐ筈だった少女の遠坂への帰還を以って。

 瓦礫と化していく邸宅の中。時臣は腕の中に眠る桜の寝顔を見る。穏やかな眠り。憎き敵であったが、雁夜の犠牲なくして臓硯は討ち取れなかった。桜もきっと救えなかったに違いない。

 全ての確執を棚に挙げ──時臣は炎の中で静かに黙祷を捧げた。桜の心を救ってくれた戦友の為に。

「導師」

「……綺礼?」

 その折、玄関口より続く廊下より言峰綺礼が突如として姿を見せた。

「はい。もう全て、終わったのですか?」

「ああ、終わったよ。全部、終わったんだ」

 本当の意味ではここからが始まりだ。向き合った責任の在り処、その取り方を時臣はもう一度考えなければならない。今度は、妻や凛──そして桜を交えて。

「それより君が此処に姿を見せたという事は、外は粗方片付いたというわけか?」

「はい。件の封印指定は討たれ、サーヴァントもまた消滅を確認しました。操られていた死者も在るべき形に還るだけです。
 後始末はまだ残っていますが、手筈は既に教会スタッフに万事抜かりなく伝えてありますので、神秘が世間に露見する事はありません」

「そうか、良くやってくれた」

 これで時臣の心配の種は全て消えた。綺礼の手腕には充分以上に期待はしていたが、やはり成果が提示されるまでは何処か不安もあった。
 事の大きさが大きさだったのでその不安も致し方ない事であったが、こうして全てが果された今、憂いは絶たれた。

「では今日はもう家に帰らせて貰うよ。君はまだ休めないというのに心苦しいが、私も随分と消耗した。まだ続く戦いに備え、充分な休養が必要だ」

 聖杯戦争はまだ終わっていない。雁夜とフュルベールが消えて、残りは切嗣と時臣、綺礼とそしてウェイバーか。数は減ったがまだ半分。綺礼を除いても面倒なサーヴァントを従える連中が残っているのには変わりない。

 特に衛宮切嗣ならこの状況下を狙い撃たれでもすれば一巻の終わりだ。早めにセイバーと合流し、今後の為の体勢を整えなければならない。
 崩れ落ちてくる瓦礫を避け、綺礼の脇をすり抜け時臣は玄関を目指す。

「はい。ゆっくりとお休みください」

 綺礼の隣を抜け、出口を目指し歩き続け──

「永遠に」

「──────え?」

 綺礼が発声するのと同時、僧衣の裾より引き抜かれた黒鍵が炎に煌き振り抜かれる。憎悪も敵意の欠片もなく。まるでバターにナイフを入れるかの如く自然な所作で鋭利な剣は振るわれ、時臣が認識した時は全てが手遅れだった。

「がっ、ああああああ……!」

 銀の閃きが斬り裂いたのは時臣の腕。令呪を宿す腕を背後より寸断され、抱えていた桜を取り落としそうになりながらどうにか片腕で抱え、膝を屈す。

「綺礼、君は────っ!?」

 痛みに苛まされながら振り仰いだ時臣の瞳に映る綺礼の表情。これまで一度として見た事のない歪な笑み。三日月に嗤う不気味な笑みを浮かべながら、綺礼は宙に舞った時臣の腕を掴み取った。

「もういいでしょう、導師。貴方の出番は、ここで終わりです」

「馬鹿な……何故、こんな真似を……!」

「痛んだとはいえ、貴方のマスターとしての能力とサーヴァント・セイバーの存在は厄介なのです。私と切嗣が再び巡り逢う為には──そう、邪魔だ」

「き、れい……!」

 溢れ出る血液をすら止める術のないほどに消耗している時臣では、今の綺礼に敵う筈もない。頼みの綱のセイバーも、令呪を奪われては召喚できない。
 万事休す。よもや切嗣でも外来の魔術師でも、それこそ闘争の只中ですらないこんな場所で──愛弟子だと思い込んでいた男に、命を奪われる事になるだなんて……

「あお、い……りん、さく……ら──」

「御安心を。御息女は間違いなく奥様の下にお届けします。私が欲しいのは貴方の命とサーヴァントだけなのですから」

 薄れていく意識の中──この男の存在に、腹心に裏切られる結末に、時臣は終ぞ理解を得る事無く死へと沈み。

 我が腕の中で健やかに眠る桜の身を案じて、遠く離れた地で待つ妻と凛の姿を思い浮かべて──瞼を重く閉じた。



 意識を失ったとはいえもう間もなくの猶予のある時臣の姿を眺めながら、万端の準備を整え綺礼は訪れる瞬間を待つ。

「マスター……!」

 主の窮地を察し、爆音を響かせながら突進してきた漆黒の騎士──セイバーの姿を視界に収めた綺礼は静かに、祈りでも捧げるかのように呟いた。

「サーヴァント・セイバーに命ずる──私に従え」

「なっ……!?」

 セイバーがただ瀕死の主の下へと駆けつけ、状況を理解する一瞬前、僅かな間隙を衝く形で綺礼はその命令を下した。
 時臣より奪い取った令呪に、更に璃正より譲り受けた余剰令呪も重ね、万全の命令系統を構築した綺礼は、相手に許可すら求める事無くその契約を受理させた。

 強制的な契約を紡がれたセイバーは、自らの身体を縛り付ける令呪の意味を理解する。程なく死に落ちた時臣からの供給に比べれば格を落とす供給量の魔力を、目の前の男から確かに感じていた。

「言峰綺礼、と言ったか。これは一体どういう事だ」

「見たままだが?」

 地に仰臥した片腕なき時臣の下へと歩み寄った綺礼は、腕の中に抱かれていた桜を掬い上げ、そのまま間桐邸を後にしようとする。

「待て。こんな契約、承服できるとでも──」

「そんなに令呪による屈服が好ましいか」

 片腕で桜を抱いた綺礼は、右腕にびっしりと宿る令呪をセイバーに見せ付ける。その全てが本物の令呪。使おうと思えば、綺礼はその数だけセイバーに強制を命じる事が可能であるのだ。

 完全なまでの職権の乱用。立場を超越した私利私欲。けれど言峰綺礼は止まらない。仇敵と巡り逢う場を整えるその瞬間──対峙する刻限まで、如何なる非道も繰り返す。その一念だけが、今の綺礼の全てであるのだから。

「おまえの素性は私も知らされている。裏切りは得意だろう、セイバー?」

「貴様……!」

 セイバーの心を抉る一言を以って、綺礼はそのまま背を向け、崩れ行く間桐邸を後にするべく歩み出す。

「マスター……」

 背後で呟かれたセイバーの力ない言葉に内心で嘲笑う。

 ────今は私がおまえのマスターだ、セイバー。どの道、操を立てるほど入れ込んでもいまい?

 聖杯に託す祈りもなく、迷いだけを抱える黒き騎士。その存在は、時臣よりも綺礼にこそ相応しいと、自らの手で殺めた師の娘を抱きながらに立ち去った。

 一夜の終焉。
 過酷なる闘争の結末は──燃え盛る家屋の中、降り注ぐ雨の下に提示された。













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