正義の烙印 Act.10









/Holy Grace


 降り注ぐ雨の中にウェイバー・ベルベットは立ち尽くす。

 森の中で死を遂げたリディア・レクレールの亡骸を円蔵山の小高い丘の端──目の前に美しい風景の見通せる場所に埋葬した。舗装も何もない自然の中、木の枝で模した十字架だけを添えた簡易な墓標。

 資金も何もないウェイバーでは街中の墓地に葬ってやる事さえ出来ない。だからせめて彼女が望むであろう美しい場所に、せめてもの心を込めた墓を立てた。

 こんな山奥に誰かが来るとは思えないが、もし気の良い誰かが見つけ、新たに手厚く葬ってくれるのならそれでもいい。ウェイバーがこの場所を訪れる事はきっと、もう二度とないのだから。

「────」

 彼女に語りかけた夢を探す為、ウェイバーは後ろを振り向かない。目指すべき未来にこそ希望が待つのなら、彼女の死を悼んでも、引き摺るような無様はあってはならない。それは素敵だと言ってくれた彼女への冒涜だから。

 それでなくともウェイバーは魔術師だ。人の死など日常茶飯事、自らさえも死を観念する立場にある。
 ただそれでも──友達と呼んでくれた彼女の事を、友達と思うウェイバー・ベルベットのままで、祈りを捧げるくらいは許されるだろう。

「もういいのか?」

 静かに黙祷を捧げていたウェイバーが、後ろに控えていたライダーに向き直り頷いた。

「ああ。悪いな、手伝ってもらって」

「なに、気にする事はない。その娘には美味いものを食わせてもらった恩もある。その程度は朝飯前よ」

 そんな軽口も今は有り難い。思いの他、ウェイバーは心に重いものを感じているらしい。

 見上げる空は鈍色に覆われたまま。降り頻る雨が頬を打ち、流した涙の痕を誤魔化してくれている。
 彼女の死を悼む恵みの雨であるのなら、天気の神様という奴も存外気の良い存在かもしれない。そんな下らない思索を鼻で笑って、ウェイバーは一歩を踏み出す。

「行こうライダー。ボク達はまだ、戦いを続けなくちゃいけないんだ」

 まだ何も終わっていない。全てが中途半端なまま。どんな結末であろうと覚悟を以って見届ける。それが今のウェイバーの胸に宿る一つの決意。確かに得た──彼女がくれた心の強さだ。

 立ち止まってはいられない。この足がある限り、この命ある限り──ウェイバーは遠くを目指して歩いていかなければならないのだから。



 未だ黎明には遠い未明の時刻。

 車通りのほとんどない国道を飛ばすハイヤーの中で、言峰綺礼は目を伏せていた。隣には師であった遠坂時臣の娘である桜が眠っている。
 あれから未だ彼女は一度として目を覚ましていない。綺礼にとっては好都合だが、流石にこうも長く眠られていては気が気ではなくなる。

 彼女にはまだ死んで貰っては困る理由がある。

 念の為と師より学んだ霊媒治療さえも用い身体を改めてみたが、特に問題は見当たらなかった。肉体に何かしらを埋め込まれていたような形跡はあったが、今はほとんどが正常に戻りつつある。彼女は間桐の呪縛より解き放たれたのだ。

 時臣の全てが終わった、という言葉が正しいのなら、間桐の翁とされている臓硯という人物も殺されたに違いない。
 詳しくは聞き及んでいなかったが、桜を救うのならば間桐に連なる魔道の者を残しておける筈もない。ならば間桐雁夜も共に死んだと見る方が重畳だ。

 これで綺礼の知る限り残っているマスターは衛宮切嗣とウェイバー・ベルベット。サーヴァントはアーチャーにライダー、そして綺礼が従えるアサシンとセイバーか。

 数の上では綺礼が有利であり、情報網も持っている現状──綺礼は他のマスターに先んじる立場にある。ただ、聖杯は恐らく切嗣の手の中にある。切嗣のロード・エルメロイ殺害の折に、奪っておかなかったのは早計に過ぎたか。

 ……いや、必要ない。あの男は聖杯を求めている。ならば全ての決着は、その場──その刻限だ。

 むしろ切嗣が聖杯を持っている方が都合が良い。あの女──フュルベール・カノヴァスが引き起こした問題のせいもあって、特定は容易であったが、もしもの為にはあの男が持っていなければならなかったのだから。

「到着しました」

 路面とタイヤの摩擦による甲高い音を響かせ車は停車した。目的地を車内より確認し、綺礼は先に戻っていろと伝え降り立った。
 用意していた傘を差し、重厚な門構えを越えた先で、その人物の姿を目視した。

「言峰さん」

 軒下で肩にカーディガンをかけた女性こそは時臣の妻であり凛と桜の母である遠坂葵だった。

「申し訳ありません、奥様。このような時分に。しかもお待たせしてしまったようで」

「いいえ、構いません。それより、何か、急な用事と聞いていましたが……」

 事前に電話にて葵には伝えなければならない事があると断っていた綺礼は頷き、手にしていた傘を少し傾け、背負っていた少女の姿を、葵の前に差し出した。

「────桜っ!?」

 冷たい雨さえ意に返さず、走り寄って来た葵に優しく桜を引き渡し、綺礼は一歩距離を取った。

「ああっ、桜……桜っ……!」

 葵は腕に抱いた少しばかり重たいであろう我が子を強く抱き締め、愛おしく見つめて何度も何度も名前を呼び、一年ぶりの一方的な再会に涙した。
 一頻り彼女が胸の内を吐き出し続けるのを待ち、葵の瞳が綺礼を見た後、やおら本題を切り出した。

「奥様、私がこのような時分に無理をお願いして訪れさせてもらったのは、御息女の事と──もう一つ、伝えなければならない事があったからです」

 重く礼拝堂で謳い上げるが如く響く綺礼の声音。その言葉の意味するところは、綺礼の表情と言いよどむ仕草から、葵にも何となくだが察しはついた。

「言峰さん……夫は、時臣さんは……」

 静かに目を伏せ、綺礼は頭を振った。

「う、そ……あの人が……そんな……」

「導師は単身間桐の屋敷に踏み込み、御息女を救い出し……亡くなられました」

 必要最低限の顛末を虚飾を交えず語る綺礼。その事実が受け入れられないとばかりに、葵は左右に首を振る。

「うそよ……あの人が、あの人が死ぬなんて……」

 葵は時臣を愛していた。桜を養子に出した事には納得していなくとも、彼を立てる妻としては心底から愛を抱いていたに違いない。母としても、賢母であったに違いない。

 だからこそ、そんな事実は受け止めきれない。あの橋上──桜を救うと口にした時臣の言葉に嘘はなかった。だけど、だけどあの人が代わりに帰って来ないなんて、ありえない……と。

「あ、あ、……ああっ!」

 桜を抱えたまま崩れ落ちかけた葵を、傘を放り捨て支える綺礼。目を伏せ桜の顔に雫を垂らす葵に、最後の言葉を投げ掛ける。

「導師は御息女を確かに救い出しました。その最期は満たされたものであったかは、私には分かりません。しかし、彼女を──桜をどうかお願いします。それこそが、導師が望んでいる事でしょうから」

「うぁ……あな、た……あなたぁ……!」

 桜を抱いたまま崩れ落ち泣き叫ぶ葵から、綺礼は身体を離して退く。雨の中で救い出された我が子を抱き涙に暮れる母。
 愛する者を取り戻し、愛した者を失った妻。その嘆き。その悲しみ。その全てが──

 ────言峰綺礼には心地良い。

 身震いする程の陶酔感。泣き崩れる葵から顔を逸らし、玄関口のガラス戸に映る自らの顔を見やれば──間違いなく笑っている。

 声を上げて笑い出したい感情を、必死で堪えて顔を背ける。肩の震えを見られても、同じく悲しみに暮れているようにしか見えないだろう。
 しかしこんな顔を、まさか時臣の妻に見せるわけにもいかず、けれどその嘆きこそが美しく──いつまでも見ていたかった。

 その悲劇こそが、どんな甘露よりも甘く美しく──どんなに尊きものよりも愛おしい。

 言峰綺礼の異常性。持って生まれた欠落感。だが綺礼は確かに──その感情を持っていたのだ。愛しいものを愛でる感情を、美しいものに打ち震える歓喜を。
 これまで何処を探しても見つからなかった欠片。その異常は受け入れられずとも理解は出来て──それが故に恐ろしい。

 もっと見たいと願ってしまう。こんなにも壊れるものが美しいのならば、もっともっと壊して見たいと──綺礼の内なる獣が遠吠えを上げる。

 だがダメだ。まだダメだ。綺礼が求めているのは切嗣との邂逅だ。その場で提示される解こそが本物の真理だ。その答えこそを求めるのならば、こんな場所で壊れてしまっては余りにも虚しいではないか。

 呼気を落ち着け能面のような無表情を取り戻す。欠片に触れても、それを手に取るのはまだ早い。あと少し──あと少しで、綺礼の思い描く決戦の場が完成する。

 その時こそ見せてもらおう──衛宮切嗣の持つ、言峰綺礼の持たざるものを。

「言峰さん……」

 一頻り泣き腫らし落ち着いたのか、雨から我が子の身を守る為にカーディガンをかけた葵が立ち上がり、綺礼を見る。

「言峰さんは……これから?」

 綺礼が聖杯戦争に参戦した最初の理由は時臣の補佐であった。補佐すべき人間が脱落した今、綺礼には戦う理由がない。

「私は冬木へと戻り、戦いを続けます」

 その綺礼の言葉をどう解釈したのか、葵は強い瞳で綺礼の──他者には解せない黒く渦巻く瞳を見上げる。

「あの人の無念を晴らして欲しいとは、言いません。あの人は聖杯を掴む事よりも、桜を救う事を優先したのですから」

「…………」

「でもどうか、貴方は生きて戻ってください。あの人の弟子であり、凛の兄弟子である貴方には──もし良かったら、凛達の後見をお願いしたいですから」

 その言葉にはさしもの綺礼も瞠目した。

「よろしいのですか? 御息女達に導師と同じ道を歩ませて。こう言っては何ですが、彼女達はまだ別の道を歩めます」

 既に戻れない綺礼や切嗣とは違い、凛や桜はまだ戻れる。魔道を捨て、陽だまりだけがある日常に。

「私は、魔道の家系に嫁いだ身です。主人の想いを遂げさせる事こそが、妻としての本懐です。あの人が桜を救うと決め、そして命を散らせたのなら、それはきっと仕方がなかった事だと思います。
 でも、凛達には自分で道を選んで欲しい。誰かに強制されるのではなく──自分達の意思で」

 それが時臣が娘達に向けた愛情の在り処。死を賭して問いたかった責任だ。

「だからもし、あの子達があの人の後を継ぐと言ったら──」

 父を亡くした凛と桜が、どんな道を選ぶかは分からない。けれどもし、父の後を継ぎ魔道を歩むというのなら、葵だけでは支えきれない。あくまで一般人でしかない葵では、彼女達を守りきれない。

「分かりました。その時は必ず、お力になると約束します」

「ありがとう、言峰さん」

 この女は強いと綺礼は思う。けれどだからこそ、脆い。時臣と同じだ、綺礼をまるで疑っていない。あくまで時臣のサポートに務め、力及ばず生き永らえた弟子という認識でしかない。

 しかしそれでいい。わざわざ罪を告白する必要はない──少なくとも今はまだ。この戦いを生き延び、凛や桜が成長し、その時に真実を伝える事が出来たのなら……ああ、それはこの上なく、極上の愉しみではないか。

 その時に向けられるであろう憎悪は、かくも美しいに違いない。

「では奥様。私にはまだやるべき事がありますので、この辺りでお暇させて頂きます」

「はい。どうか、御無事で」

「尽力します」

 背を向けるその前に、綺礼は言い忘れていた事を告げた。

「導師の遺体は我が教会が丁重にお預かりしております。冬木の戦いもそう長くは続かないでしょう。
 全てが終わったその後にでも、葬儀を執り行いたいと思っております」

「はい。何から何まで、ありがとうございます」

「いえ、力及ばずながら、これまで目をかけて頂いた導師に出来る限りの恩をお返ししたいと思っていますので。それでは、失礼します」

 礼を立て、そしてようやく背を向けて、綺礼は街の雑踏の中へと消えていく。

 手には再び傘を持ち、薄闇に覆われた人のいない街並みを練り歩く。綺礼は確かに時臣に感謝している。魔道の教練は大した役に立っていないが、あの家族にこれからも関わっていけるのなら、面白い。

 凛や桜がいかなる道を選ぶのか興味深くもあり、もし魔道を志すのなら──正しく綺礼は尽力するだろう。手塩にかけて育て上げたものを壊すのも、それはそれで恍惚を得られるに違いないのだから。

「ふっ、狂っているな、この私は。とりあえずは脇に置いておくべき事だ。今はこの戦いを終焉へと導かなければなるまい」

 日増しに数を減らしている参加者。最終決戦の時は近い。絢爛なる舞台はもう間もなく完成する。
 邪魔者は残り一人。だが既に必要充分。切嗣が動くのなら──この夜にでも最終幕は開かれるだろう。

「さあ、踊ろうではないか衛宮切嗣。聖杯の眼前で──我が問いに答えを……」

 傘を放り捨て、雨に身を打たれながら敬虔なる神父は独り──高く哄笑を響かせた。



 同じく未明。

 衛宮切嗣はフュルベール・カノヴァスより奪い取った令呪の宿る右手から赤い鎖状の紋様が消えているのを見やり、彼の者の死を確認した。
 アーチャーとはまだ合流していないが、向こうのサーヴァントも供給を断ち切られた以上は何れ消え去るだろう。何ら問題はない。

 フュルベールを討つべき悪と見定めた後、切嗣はアーチャーに持たせていた携帯に連絡を入れ呼びつけた。アーチャーは死者の掃討に駆り出される立場であったが、あくまで頭を叩くという作戦の一環であるのなら、監督役からの罰則など有り得まい。

 むしろ仕留めたのだから報酬を貰ってもいいくらいだ。何れにせよ、もうこの街を覆う悪意は消え去った。先ほどまでは蠢いていた死者達も、程なくただの残骸へと還って行く。操り糸の切れた人形はもう──動かない。

 少なくともこれで、切嗣に死を求めたあの魔術師も逝けただろう。別段気にかける必要性もない事柄だが。

 切嗣は雨音だけが喧しく響く街道を歩き、拠点としている屋敷へと帰りついた。出迎えはない。アイリスフィールは勿論眠ったままだろうし、舞弥は正しく護衛に務めているのだろう。

 雨でぬかるんだ庭を横切り土蔵の前に立つ。予め取り決めていた通りのノックをし、重苦しい音を立てて扉は開かれた。

「切嗣」

 舞弥が顔を覗かせ、切嗣の全身を検める。返り血は纏わりつき、雨にも打たれている。みすぼらしい格好がより一層際立って見えた。
 切嗣は土蔵の中へは踏み込もうとはせず、舞弥に問いかけた。

「アイリは?」

「まだ眠ったままです。先ほど何度か苦しげに呻いていましたが、今は少し落ち着いています」

 フュルベールのサーヴァントが消え、魂が器へと収容されたせいか。と思ったその時、

『あ、ああああっ……!』

 土蔵の中より、アイリスフィールの悲鳴にも似た呻きが彼らの耳朶に届いた。二人は中へと滑り込みアイリスフィールの姿を見て──息を呑んだ。

 アイリスフィールの肉体の中で輝き光を放つ物体。未だ完全な形こそ取り戻してはいないものの、それは正しく──アインツベルンが鋳造する聖杯、アイリスフィールが隠し持っていた器の兆候であった。

 無機物の器である聖杯を、体内に埋め込むという手法により体内に隠し持っていたアイリスフィールの肉体に浮き出る輝き。その意味するところはつまり、切嗣の予想を上回る速度でサーヴァントが打倒されたという事。

 いや、切嗣が一人マスターを仕留めた分……アーチャーの相手取っていたサーヴァントがたった今消滅し取り込まれたとするのなら、その以前にもう一体は何者かの手によって消滅させられたと見て取るべきだ。
 あるいは逆のパターンも考えられるが、何れにせよ二体分は器に注がれたと見るべきだろう。

 これで計三体。残り四体。

 アイリスフィールの横たわる下に敷かれた魔法陣が淡い輝きを放ち、彼女の苦痛を和らげる。一体今現在アイリスフィールが何処まで機能を落としているのか定かでない以上、声を掛ける事さえも戸惑われていたが、

「切、つぐ……いる?」

 焦点の合わない目で、アイリスフィールは夫の名を呼んだ。

「ああ。此処にいるよ」

 舞弥に目配せし、頷き土蔵を出て行った事を確認してから切嗣は膝を折ってアイリスフィールの横に腰掛けた。その白く細い掌を取りながら。

「ごめ……んね、私、もう、結構むり、みたい……」

 サーヴァントの魂を収容するほどにアイリスフィールは人間としての機能を落としこんでいく。恐らく、切嗣が握っている掌の感触さえもうないだろう。
 瞳さえも虚ろなところを見れば、生きているのは声帯と聴覚くらいのものだろうか。かつての妻の面影は既になく、聖杯に変わりつつある“何か”がそこにはあった。

「大丈夫だよアイリ。心配はいらない。僕は必ず聖杯を掴むから。君をその場所へ──必ず連れて行くから。そして、僕達の祈りを叶えよう」

 アイリスフィールの目が見えていないのは切嗣にとって好都合だったかもしれない。今の切嗣は笑えてさえいない。妻の身を案じる夫でさえ有り得ない。
 ただ機械のように効率を優先し求めるものを目指す機巧。返り血さえもそのままの血濡れの殺人者。祈りを叶える為だけに動く得体の知れない“何か”だ。

 そう──この場にはもう、アイリスフィールを愛した切嗣は既になく。切嗣を愛したアイリスフィールもまた、いないのだ。

 そんな二人はけれど、都合の良い格好をして互いの暗部に目を瞑り、仲睦まじい夫婦を演じる。なんて滑稽。無様を晒し合い、けれど二人で誤魔化しあって、偽りの愛を紡ぐ。それでも──そうする事でしか、二人は互いを認められないのだ。

「うん……お願い、ね。あなたの祈りを……あの子が、幸せに……暮らせる、世界を……」

「ああ。必ず手に入れて見せよう。君は何も心配しなくていいんだ、後はただ──僕に任せて、その役割を果してくれ」

「うん……わたし、あなたの、事……愛してる……」

「僕もだよ、アイリ」

 笑えていない笑顔を浮かべて、アイリスフィールはそこが限界だったのか、一際強くなった魔法陣の光の中で、静かな眠りの中に落ちた。

「…………」

 死んだように眠る妻の顔をじっと見つめ、切嗣は忘れた筈の胸の痛みを思い出す。アイリスフィール。アインツベルンにより造られたホムンクルス。九年の時を切嗣と過ごし、イリヤスフィールをもうけた妻であり母。

 彼女との別れは出逢った瞬間より定められてた。最初は愛情なんて欠片もなく、ただ聖杯を手に掴む為の道具程度にしか見ていなかった彼女を──いつしか心より愛するようになった。

 その結晶がイリヤスフィール。ユーブスタクハイトの望みであろうと、彼女の誕生は二人が願い祝福した筈だ。
 アイリスフィールは自らの死を知った上でこの地に臨み、そして我が子が幸せに暮らせる世界を夢見て、その祈りを切嗣と共有して犠牲になる。

 彼女の犠牲なくして聖杯は成らない。必然の別離。定められていた訣別。なのに──

「ごめんな、アイリ。僕は君との別れにさえ──涙を流せないような人間だ」

 それが、悲しい。思い切り泣けるのならどんなに楽だろうか。泣くという機能を失ったかのように、悲しみを感じても、一滴さえも零れてこない。
 なんて残酷な人間だ。壊れた人間だ。本当に──衛宮切嗣は、どうしようもない程に狂っている。

「だけど、願いだけは叶えてみせる。それがせめてもの──」

 こんな弱虫を愛してくれた人の為に出来る餞。幸せな世界。幸福な夢。その祈りを叶える事で──切嗣はこれまで虐げてきた全てのものに報いる事が出来る。犠牲になった、散っていた全ての者に捧げる祈り。

 ────聖杯よ、この祈りを受け取れ。
     世にばら撒く救済の光。人の身では成し得ない奇跡を、この手に。

 最後に別れの口付けを交わし、衛宮切嗣はアイリスフィールとの別離を終えた。

「もういいのですか?」

「ああ」

 土蔵を出てすぐのところで舞弥に問いかけられ頷く。思考を切り替え、これからの戦況を脳裏に描く。

「舞弥。間桐の屋敷はどうなった?」

 遠坂邸と間桐邸は舞弥が常時使い魔を放ち監視している。先の戦いの時も時臣の動きなどは連絡を受けていたし、間桐邸の方へと消えていく雁夜らしき人物の姿も目撃した事から、あの後なにかしらの動きはあった筈だと切嗣は読んでいた。

「はい。間桐の屋敷は未明に内部より突然発火し、今現在監督役の息のかかった公的機関により消火作業を続行中のようです。
 件の作戦行動前に確認した遠坂時臣、途中にて訪れた間桐雁夜の両名は姿を見せた形跡はなく、代わりに言峰綺礼が屋敷を訪れ、幼子──恐らくは間桐桜を抱いたまま立ち去った事は確認しています」

「…………」

 先ほどから見えている煙。確かに洋館の立ち並ぶ区画の方角だったが、まさかとは思っていたが、やはりという思いもあった。
 舞弥の話から得られる最たるものは、間桐の屋敷に時臣と雁夜、そして綺礼が集い出て来たのは綺礼だけ。ならば……

「言峰綺礼……二人を殺したか?」

 アイリスフィールの現状を見る限り、少なくとも一体分のサーヴァントは消えている。だから生死不明のどちらかは確実に死んでいる筈だ。
 どちらもが殺されている可能性がなくもないが、それならばアイリスフィールは意識さえも絶たれている可能性もある筈だが……

 アインツベルンの術式について簡易にしか知り得ない切嗣ではどれだけのサーヴァントが収容されているかなど完全には分からない。だがとりあえずは、

「やはりおまえが、最大の敵か」

 言峰綺礼。この段になって大々的に動き出したきっかけまでは分からないが、切嗣を放置している現状、あの夜の問答にまだ固執している可能性は高い。
 他の参加者全てを殺した後──綺礼と切嗣だけが残る状況を作り上げれば、否が応にも対峙しなければならない。

 師である時臣を、恐らくは内通していたくせに切り捨てて、そこまでして──切嗣との邂逅を望んでいるというのだろうか。

「…………」

 その存在は、切嗣をして空恐ろしいものを感じている。狂気にも似た妄執。何にもなれないが故に求め続ける者。その狩人が、切嗣を獲物と見定めている。
 狩る者が狩られる立場になるその恐怖は計り知れない。あの夜の対峙、背後を取られた時の驚愕は今なお切嗣の心に畏怖の影を落としている。

 やはりあの男の打倒なくして聖杯を掴み取ることなど出来はしない。器は切嗣の手に未だあっても、奪い取りに来なかった事を思えばこの状況すら綺礼の思惑の内。

 恐らくは、この夜の作戦行動でさえ、自らを動きやすくする為のカムフラージュ。フュルベールの存在を利用し、指揮を任されていながら、それさえも完璧にこなしつつ己の目的さえも達成したと見て間違いない。

 監督役としての立場を手に入れた綺礼ならば、この街の趨勢は既に奴の手中にあるも同然だ。地の利で欺くような真似は不可能。ここからは互いの策の読み合いだ。相手を出し抜いた方が──勝つ。

「とりあえずは様子見だ。アーチャーも直に戻ってくるだろう。仮眠を取った後……そうだな、九時前には居間にいてくれ。それまではアイリを頼む」

「分かりました」

 アーチャーに持たせた携帯電話から聞き取ったこれより綺礼が行うであろう茶番劇。その行方を見届けてからでも──詳細な作戦を立てるのは遅くはないだろうと、切嗣は思案し屋敷に足を向けた。

 ──さて、何を見せてくれる言峰綺礼。

 聖杯など眼中になく。執拗に切嗣を付け狙う仇敵の行動を無数に分析しながら、訪れる黎明の時を待ち続けた。


/Trick Star


 夜が明けた朝。その夜の内に行われた大々的な神秘の漏洩は未然に防がれ、死者──公的には行方不明者──も前代未聞の天文学的数値を示す事無く、いつもと少しだけ異なる朝が訪れた。

 急に隣人がいなくなったり、別室で眠っていた家族が忽然と姿を消したなど、噂は噂を呼び数日の内に冬木を埋め尽くすだろう。
 だがその頃には全ての対策が取られており、特別に設けられた相談機関に訪れた全ての者に暗示を、関係者にまで及んで記憶の改竄を行う手筈になっている。

 後に残るのは奇妙な噂だけ。一夜にして生まれた神隠し。テロか幽霊かと騒がれても、真実は闇の中。真相を知る者は決して口外する事もない。
 何れ噂さえも掻き消え、あるべき冬木市が取り戻されるだろう。戻らない日常を、それでも人々は廻し続けるしかないのだから。

「ふぅ……」

 そしてようやく冬木教会に戻った綺礼が人心地つけたのは、昨夜進退を決める刻限と約束した午前九時の少し前の事だった。

「お疲れのようですね」

 側近として召抱えている女アサシンの声音に、綺礼はああ、とだけ答える。

「さて……もう一仕事残っていたか。おまえは此処で待て。どうせ訪れるのは以前と同じ使い魔だけだ」

「はい」

「それと。他のアサシン達の配置はどうなっている?」

 女のアサシンから語れる総勢四十名のアサシン──昨夜の証拠隠滅に多大に貢献してくれた暗殺者の英霊の配置を聞き、綺礼は頷いた。

「この教会はおまえだけでいい。衛宮がこの場を訪れる事は有り得ないし、ライダーは……まああのマスターなら引き止めるだろう。残りはそれぞれの拠点に数名、それとこの街の霊地の監視……此処を除く三箇所に分散しておいてくれ」

「畏まりました」

 戦いは既に最終局。聖杯を手にした切嗣がどの霊地を拠点と定めるかは不明だが、全箇所をアサシンに見張らせておけば見逃しなどある筈もない。
 現在時刻八時五十分。十分もあれば、大体の配置につけるだろう。まだどの組も動きを見せるような段階でもない。

「綺礼様。一つお訊きしたい事があります」

「なんだ? 時間が余りない。手短に頼む」

「何故、我らの他に──時臣殿のサーヴァントを召抱えられたのですか?」

 その質問は、至極当然だ。昨夜時臣を殺害し、強制的な契約を結ばせたセイバーのサーヴァント。綺礼が時臣を切る事はこのアサシンは知っていた。だが、サーヴァントを奪うとまでは聞き及んでいなかったのだ。

 一人のマスターが二騎以上のサーヴァントを従える事は不可能ではない。だが単純計算で二体分に一人分の魔力量を割り振れば能力低下は免れない。現にアサシン達はただでさえ分散で落とし込んでいるステータスを、更に引き下げられた形である。

 それに反発を覚えない者がいない筈がない。既にアサシンの中から何名かはどういう事か問い詰めろ、と彼女に不満が届いており、その代弁を行ったのだ。

「何故、か。ふむ……簡単に言えば、あのサーヴァントは保険だ」

「保険?」

「ああ。私程度の魔力量では二人分のサーヴァントを従えるのは相当に骨が折れる事だ。だがそれを差し引いても、セイバーを引き込むだけの理由があった」

 霊体のまま、仮面の奥で何を考えているのか分からない剣の騎士も恐らく、この部屋の何処かで綺礼の声を聞いている。

「昨夜間桐邸に監視がついていた事は知っている。それを知った上で私は堂々と出入りをした。つまり、あの屋敷より生きて出て来たのは私だけだ。その結果、少なくとも衛宮は異常に気付くだろう」

 綺礼が中に既にいた筈の者を殺害した可能性を。

「そして消えた筈のサーヴァントが私の下に残っていれば、おまえ達アサシン以上に裏を掻ける。元よりマスターの暗殺向きであるおまえ達は、ステータス低下をそれ程気にする必要もないからな」

「…………」

「そしておまえ達が懸念しているであろう聖杯の行方だが。セイバーは聖杯に託す祈りを持っていない。だろう?」

 差し向けられた声は虚空へ。けれどセイバーからの返答はなかった。

「だんまりか。だが、問題あるまい。私がそこのサーヴァントに、聖杯をくれてやる意味などないのだからな」

 そう、もし仮に綺礼とセイバーの契約が正しく双方の同意の下に行われていたのなら、共に聖杯を目指す大義名分がある。だが綺礼は時臣より奪ったのだ。
 即ち──綺礼にとってセイバーは駒。聖杯を譲り渡す必要のない、令呪にて屈服させている存在であるのだ。

 それはつまり、相対的にアサシンが上位にあるという事。令呪の繋がりはあっても令呪の縛りはないアサシンと、従わされているセイバー。どちらが綺礼がより重用する存在と見ているかは、傍目にも明らかだ。

「これで分かって貰えたと思うが。すまないが時間だ。まだ問い質し足りないのなら後で聞く」

「いえ、充分です。我らは綺礼様と、共に」

 確かな忠誠を音と聞き、綺礼は頷くでもなく颯爽と自室を後にし、瓦礫の礼拝堂へと赴いた。



「さて……まずは昨夜の作戦について労わせて貰いたい。ご苦労だった、君達の活躍のお陰で、最悪の展開だけは免れた。
 今日よりまた、君達は聖杯を賭け共に合い争う間柄だ。遺恨のないように力を尽くして貰いたい」

 時間を迎えた礼拝堂で、綺礼は厳かに虚空に向けて話しかける。昨日よりも数を減らした使い魔が、確かに存在する瓦礫の山へ。 

「今日集まってもらったのは他でもない。昨夜、アーチャーより言及のあった私の進退についてだ。知っての通り、私は未だサーヴァントを従えるマスターでありながら、監督役代行という枠組に収まっている。
 これは諸君らにすれば、許しがたい行為の筈だ。審判する者が参加者であるなど──馬鹿げていると」

 そこで一度区切り、辺りを睥睨した後に続ける。

「その立場を明確にする為、諸君らにはこの場へと赴いてもらった。では約束した通り、此処に私の取るべき道を示そう」

 綺礼は緩やかに、右手を少しだけ前に差し出して──

「アサシンに──令呪を以って自害を命ずる」

 瞬間、手の甲に宿る二画だった令呪が煌き、一画を極大の魔力へと昇華させ、人知れず綺礼の命令を完遂した。

「ご覧の通り、これが私の選択だ。では諸君、共に鎬を削り戦いたまえ。汝──聖杯を欲するのならば、己が最強を以って証明せよ」

 それで話は終わったと、綺礼は背を向け、礼拝堂を立ち去る。無論、使い魔が去る気配を確かに確認した後で。

 口元に歪みを貼り付けたまま、自室へと戻った綺礼の目に飛び込んできたのは、心臓を自らのダークで刺し貫く女アサシン──綺礼の側近を務めていた者が蹲る姿だった。

「ほう……? まだ息があったか」

「綺礼、さま……なぜ、このような……」

「また何故、か。おまえ達は、もう少し自分で考える必要があるな。いや、忠実なのは扱う者にとっては有益だが。まあ後で聞くと言った以上は答えてやろう」

 見下ろす綺礼の瞳はもはや己のサーヴァントを見る目ではない。それこそ虫けらか、用を失くした塵でも見るかのように冷たい眼差しだった。

「だって、言っていた、でしょう……昨日の事は、信じるな、と」

「確かに昨夜、教会前の広場で告げる言葉を信用しなくていいとは言ったが。その言葉自体を信用しろとは言っていない」

 それは余りに屁理屈だが、綺礼は嘘は言っていない。信用しなくてもいいが、信用するかどうかはおまえ次第だ、と言っていたのだ。
 綺礼が彼女に仄めかしていた監督役代行という言葉と、禅城の屋敷前で葵に告げた戦いを続けるという言葉から、アサシンは綺礼はこのまま自らを率いて聖杯を求めると思い込んでいたのだ。

 それがまさかこんな結末になるなどと……彼女は思ってさえいなかった。

「じゃあ、さっきの、は……」

「おまえ達アサシンがこうして消滅すれば、私は表向きはサーヴァントを従えていないただの監督役だ。だがその実セイバーというサーヴァントを隠し持つのなら、これ以上の裏を掻く策略もあるまい。
 聖杯についても、セイバーにくれてやる道理はないが、おまえ達にくれてやるとも言っていない。何を勝手に信じていた?」

「ぁ、がっ……」

 それは、余りに余りな物言いだった。

 この女アサシンは綺礼を信じていた。時臣の下にある綺礼の下につく事を嫌がる他の者共を宥め、これまで尽くしてきたのは信じていたからだ。
 アサシンの半数を使い捨てられた後も、皆を纏めついてきたのはいつか綺礼が聖杯を願うと思っていたからだ。

 同じ願いを宿す者。自己の分からない蒙昧なる愚者。その召喚には意味があるのだと信じ込み、愚直に従い尽くして来た。

 そして時臣を裏切ると聞いた時、ようやく決断されたと人知れず歓喜した。この時が来るのを信じていたと喜んだ。
 だが蓋を開ければこの始末。綺礼にとってはアサシンは同じ煩悶を抱く同士ではなく。ただの駒──正しくサーヴァントに過ぎなかった。

「こんな……あんまり、だ……」

「おまえ達は良く尽くしてくれた。その分の礼は言おう。そしておまえ達が消える事で、私は更に状況を楽に進められる。
 最期まで──命を尽くしてまで私の為に働いてくれる君達には、感謝してもし切れない」

 どっかりとソファーに腰掛けた綺礼は笑みを零しつつアサシンの無様を眺め続ける。アサシンは必死に綺礼を睨み付ける。そんな顔で、そんな姿で、どの口が我らに対する労いを吐くのかと。

 だがもはや令呪の強制からは逃れられない。心臓を確かに貫いた短刀を伝い、床には血溜りが広がっていく。

 ……すまない、皆。私のせいで……

 彼女が最期に胸に抱いた感傷は、綺礼への恨み言ではなく、わけも分からず自害を命じられ遂行した各地に散らばる同胞達への謝罪。
 思えばあの命令さえもおかしいと気付く事は出来た筈なのに、そんな疑いを一片すら持たなかった自らの不徳を嘆き、流れない涙を仮面の下で零し──

 百の貌を持つアサシン──ハサン・サッバーハは、信じた者に裏切られて消滅した。

 その後、血溜まりも自然に消え、完全にアサシンのサーヴァントが消滅した事を確認した後、綺礼は虚空に向けて口を開いた。

「もう姿を見せても、話してもいいぞ、セイバー」

 その言葉に応じ現れる漆黒の騎士。明確な嫌悪をオーラと吐き出しながら、兜の下で睨みつけているようだった。

「怖いな、やめてくれ。そう睨むものでもあるまい」

「下衆め。貴様のような男は、虫唾が走る」

「酷い言われようだな。ああ、なるほど。君は裏切りの騎士ではなく、理想の騎士であるからか?」

「私の素性など、貴様には関係ないだろう。それよりもこれで満足か? 令呪で口を封じるなど、余りにも下らない使い道を」

 そう、綺礼は事前にセイバーにそう命じていた。アサシンを誘導する為には、余計な横槍を入れて欲しくなかったからだ。

「ああ、心配ない。君を縛る令呪は変わらず、三画分用意しているからな」

 余剰令呪をセイバーの束縛の為に使った二画分を補う形で補填した結果、綺礼の腕には時臣が刻んでいた令呪が全て揃った形で浮かんでいる。

 綺礼にとってここまでの計画は、全て昨夜フュルベールの招待状を受け取ってから立てた通りに運んだ。

 フュルベールの起こす災厄に対処しつつ、それを隠れ蓑に自らは指揮を執りながらも時臣達のいる間桐邸へと赴き、全てが終わった頃を見計らい侵入。困憊状態にして綺礼に何ら警戒心を抱いていない時臣を襲撃し、令呪とセイバーを奪い取る。

 そして今日、もう既に用済みとなったアサシンを他の者に見せ付ける形で殺害し、綺礼は完全な自由と──そして強大なサーヴァントを従える事になった。

 これより先の戦いは諜報が得手であるアサシンでは勝ち抜けない。正体を知られていないのならまだしも、昨日全参加者に知らせてしまった以上は、敵も易々とは警戒を緩める筈もないからだ。

 それならば使い捨ててしまう方がいい。あのサーヴァントも綺礼に仕えていた女は確かに有用だったが、全員を完全に操作しきるのは余りにも難しかった。それこそ、いつ寝首を掻かれてもおかしくはない程に。

 そんなサーヴァントを野放しにはしておけない。首輪のついた猟犬の方が、これからの戦いを思えば余程好ましい。
 セイバーの戦闘能力は綺礼も充分に買っている。直接戦闘で、サーヴァントを惹き付ける役目には持って来いだ。

 初期より数多の情報を収集統括し、全ての戦況を把握する立場にあったからこそ完遂出来た策略。
 全ては綺礼と切嗣が余計な邪魔なく邂逅を果す為──綺礼の妄執は、その不可能をやり遂げた。

「問題はここからか。後はライダーとそのマスターを始末できればいいのだが、衛宮の動向次第だな」

 綺礼も下級の使い魔程度を操作するくらいの腕は持っている。切嗣とウェイバーの拠点に向けて放ち、監視とする。

 綺礼は口ではアサシンの消滅でセイバーを隠し持つ自分が有利になるとは言ったが、あくまでそれは客観的な見地から見たものでしかない。綺礼の主観では、切嗣ならば恐らく──気付くだろうと読んでいる。
 あの男は抜け目ない。この夜の綺礼の動向から、思惑の大半は看破するに違いない。

 綺礼にとっても最大の敵はやはり切嗣に他ならない。だがもう一人のダークホースの存在が気掛かりだ。

「若輩の魔術師ウェイバー・ベルベットと征服王イスカンダル、か」

 これまで数多の戦場を馳せ、しかしろくな戦闘行為もしていないくせに、ここまで生き残ったウェイバーとサーヴァント・ライダー。特にウェイバーは、愚かなようでいてその実最低限の心得を持っている。

 彼らが生き延びられた要因は大別して三つ。

 まず一つが、ウェイバーはライダーとほとんど離れず別行動していない事にある。綺礼がまだ時臣の下でアサシンを諜報に動かしていた時でさえ、夜は一人で出歩く真似をしなかった。

 昼間は背中が甘いようだったが、時臣が暗殺を良しとしなかった為に行使はせず、それに人気のない場所にも余り寄り付いていなかった。
 身の程を弁えていると言えば聞こえはいいが、単に実力が伴っていないからライダーの影に隠れているしかなかったのだ。

 二つ目はその関係。綺礼の知る限りマスターとサーヴァントの関係をあれほど円滑に進めている主従はいない。どの組も互いの腹を探り合っているのに対し、彼らだけはマスターとサーヴァントという枠組を超えた一人の人間として向き合っていた。

 それはつまり──信頼。切嗣のようにサーヴァントを道具とするのではなく。ロード・エルメロイのように不仲に到るわけでもなく。時臣のように不干渉を貫くわけでもない──信頼を寄せる関係。

 相性が良かった、あるいはサーヴァントに振り回されていただけと言ってしまえばそれまでだが、それでも彼らの間柄は二人で一人である聖杯戦争において悪くはないものであった筈だ。

 そして何より──ウェイバー最大の幸運は、切嗣に狙われなかった事に尽きる。

 あの男がもしウェイバーの拠点を看破していたのなら、まず間違いなく生きていない。ライダーがいようと、確実にある隙を衝いて殺されていたに違いない。その上でいえば状況の展開とライダーを引き当てた事も幸運なのだろう。

 幸運でここまで生き抜いたマスターの存在に、綺礼は小さく笑いを零す。

 そういう輩は本当に厄介だ。切嗣と綺礼が此処まで積み上げてきたものを、横から掻っ攫われるなど業腹だ。略奪王の異名も持つイスカンダルを従えているというのも皮肉にさえ聞こえるほどに。

 だからこそ──綺礼の取るべき策は一つ。

「時にセイバー。おまえは一体何を望んでいる?」

 綺礼は思索を放棄し、不意にそう投げ掛けた。

「私の心を貴様に話す必要はない」

「そうか。ならば勝手に推測しよう。アインツベルンの森でのライダーとのやり取りは見させて貰っている。
 あの言動から考えるのなら……そうだな、王妃と王との関係か」

「…………」

「当たりか。確かライダーも言っていたな、おまえ自身が罰を求めていたのなら、自分から糾せと言えば良かった、と」

 そうとも。そんな事さえ言えなかったから、セイバーは苦悩をこんな場所まで引き摺る事になったのだ。

「だが私は、そうは思わない」

「なに……?」

 セイバーが訝しむ。セイバー自身がそうすれば良かったと悔いている事に、まさか赤の他人が反論をするなど思ってもいなかったからだ。

「おまえは自らの意思で王妃の手を取ったのだろう? それがどういう結末を迎えるか知っていて不貞を働いたのだろう? ならば何を恥じ入る事がある。それがおまえの意思に拠った行いならば、容認するしかない筈だ」

 選択肢はいつでもあった。けれどそれはいつも、誰かの幸福を望みながら──自分さえも巻き込んだ奈落へと続いていただけに過ぎない。
 自らの手で選んだ道とはいえ、その結末に容易く納得出来るのなら、こんな場所にセイバーはいない。

「私もおまえの伝承は聞きかじった程度でしかないが、結局おまえは、一体何がしたかったのだ? 史実では王妃との不貞が露見し、刑に処される王妃を救い出して王を裏切った事になっているが、どうやらそれだけではなさそうだ」

「…………」

「話してみろセイバー。私はこれでも聖職者だ。迷える子羊には、真剣に向き合い、共に解を探し求めよう」

「黙れ。貴様などに私の煩悶が分かってたまるものか。この迷いは、私が自らで向き合わなければならない問いだ」

 あの真実を知らぬものが余計な口出しをしてくれるな。王の真実、王妃の真実、そしてこの騎士の真実を解さぬのなら──誰にもこの迷いは解き放てない。

「そこまで分かっていて、何故向き合わない?」

 だが綺礼は臆する事無く、セイバーの心へとその一歩を踏み込んだ。ただの好奇心、今自らを 満たす愉悦によって。

「ライダーは言ったのだろう? 糾せと王を詰問すれば良かったと。その状況と今のおまえは同じだ。結局、この世界に招かれても同じ悩みを抱え続けているだけだ。解決しようという気がおまえにはない」

 本当に迷いに答えを求めているのなら、もっと積極的になってもいい筈だ。だがセイバーはこれまで流されるままに此処にいる。自らの意思に拠った行動は──緒戦のランサー戦くらいのものだった。

 ただ求められるままに戦って。今なお死に場所さえもなく綺礼に従わされ。聖杯に望みを託す事もなく、ただひたすらに堂々巡りを繰り返す。
 出口のない輪の中。閉ざされた檻の中で、膝を抱えて震えているだけの臆病者。

 だから綺礼は突きつける。僅かな隙間より覗いた心の咎。セイバーの煩悶の正体に。

「おまえは答えを出す事を恐れている。その答えに向き合った時、もしそれが望んだものではなかったとしたら耐えられないから」

「黙れ……」

「あるいは答えを既に知っていてなお見てみぬ振りをしているか? 直視した時、その重みに耐え切れないが為に」

「黙れッ!」

 これまで激昂を露にする事など、ほとんどなかった騎士が叫ぶ。澄み渡る水面のような心に、綺礼の放つ黒い言葉が沁み込んでいく。

「理解しているか? 怒りという感情は──自らの過ちを認めたくない時ですら発露するモノであると」

 それで綺礼は確信した。この男は既に心に答えを抱いている。だがその罪の重さに耐え切れないから目を背けているのだと。
 その弱さこそが騎士を奈落へと導いた咎。向き合えない脆弱なる心が、全てのトリガーだったと理解したくないから。

「弱いな、セイバー。私と同じくらいにおまえは弱い」

 綺礼自身も自らの歪さを未だ完全には認めていない。認められない。切嗣との邂逅が別の解を齎すのだと信じ込み、奔走している。
 それは確かな心の弱さ。求め続けてきたというのに、いざ目の前に提示されれば望んだものと違いすぎて受け入れられない。

 人とはかくも──弱い生き物だ。

 解脱するには、相応の強さか諦観が求められる。綺礼にとってのトリガーは間違いなく切嗣になるだろう。あの男との邂逅が、綺礼の審判の時。ならばセイバーが己を直視せざるを得なくなる刻限とは──

「いいだろう、セイバー。私がその場で向き合うように、おまえもその時向き合って貰おうではないか」

 綺礼はソファーより立ち上がりセイバーに背を向ける。やはりこの男と綺礼は似た者同士であると。ならば共に最後の戦いに赴くのならば、せめてその煩悶から解き放つ手助けをしてやっても罰は当たるまい。

 他者の心を開く愉悦を教えてくれたこの騎士への、綺礼なりの返礼だ。

「迷い続けるがいい、サー・ランスロット。おまえの迷いを解き放つであろう者は、確かに存在している」

 綺礼のように──今求める迷いの更に先にある、神さえも問い殺さなければ得られないような回答ではないのだから。

「私は……」

 綺礼の去った石造りの部屋で、かつてキャメロットにその名を轟かせた湖の騎士──円卓最強の騎士サー・ランスロットは、仮面の下で苦悶を浮かべながら、独り立ち尽くすしかなかった。


/Time of the Promise


「……やってくれるな、あの男」

 教会での一部始終を見届けた切嗣が、苦渋も露に顔を覆う。

「舞弥、アイリを頼む。アサシンが消滅して、より聖杯化が進行しているだろうから」

「分かりました」

 立ち上がり、居間より去っていく舞弥の後姿を見届ける事無く切嗣は思索に没頭する。

 この状況を作り上げた綺礼が、こうも易々とサーヴァントを手離した事をそのまま鵜呑みにするほど切嗣は馬鹿ではない。
 推測の領域を出ていない部分も考慮すれば、綺礼の思惑も大半は読み切れる。そして綺礼は切嗣が読む事さえ恐らく考慮しているだろう。

 全て綺礼が一歩先んじている。切嗣は後手に回らされている。

「それで、どういう事なのだ切嗣。教会での様子を見ていない私では状況が掴めない」

 座している切嗣とは対照的に、昨夜フュルベールのサーヴァントを時間切れにまで追い込み消滅させたアーチャーは、壁に凭れかかったまま問い質した。

「言峰綺礼がアサシンに自害を命じた」

 必要最低限の事だけを伝え、アーチャーにも考えさせる。もし同じ結論が出るのなら、それは既に必然だ。

「つまりはマスターとしての権限を放棄し、監督役の立場に収まった、というわけか。……ふん、あの男がそんなに簡単なタマとは思えないがな。キナ臭すぎる」

 アーチャーも切嗣と同じ考え。聖杯に執着していないであろう綺礼とはいえ、この段階でサーヴァントを手離せば切嗣との邂逅は望めない。こちらにはまだアーチャーがいるのだから。

 それでは論理が破綻する。昨夜あれだけ大々的に動き回った意味にまるで説明がつかなくなる。
 本当にただ監督役として動くと決めたのなら、昨日もただ指揮する立場を貫き続ければ良かった。わざわざ間桐邸に向かう必要はない。時臣達を殺す必要性が無い。

 つまり。

「言峰綺礼にとってアサシンは既に用済みとなった。──代わりのサーヴァントを見繕ったから」

 その結論に思い至るのは易い。そうすれば、全てに筋が通るのだから。

「であるのなら、奪ったサーヴァントは遠坂時臣のセイバーだろうな。あの男と遠坂は師弟関係にあったのだろう? ならばその背を衝く事は容易かっただろうよ」

 アーチャーが持論を展開し切嗣の考えに補足する。そしてセイバーとアーチャーの相性を思えばそれさえも有利な立場に立てる。
 えげつないにも程がある。言峰綺礼は、あんな澄ました顔の裏でこれだけの大事を着々とこなし続けていたというのだから。

 やはり綺礼の標的は切嗣に間違いない。全てを切嗣に仄めかし、私はおまえを狙っているぞと示している。
 ただ、もう一人──確実に生存しているウェイバーとライダーの存在を何処まで掌握しているかが鍵になるか。

 あの主従は切嗣達にとっても重要な位置づけにある。衛宮切嗣と言峰綺礼の最終決戦は──既に避けえないものと了解している。だが彼らがどう動くかでまたこちらも対応を変えなければならない。

 綺礼が切嗣を狙おうと、切嗣の最終目標はあくまでも聖杯の奪取。戦わずに済む展開であれば、それに越した事はない。
 ……そうなると、ウェイバー達の拠点を把握できてない切嗣達は、把握しているであろう綺礼にまたしても遅れを取る形になるのだが。

 いっその事教会を爆破してしまうのも考慮の一つに値するが、セイバーを従えた現状で通用するような策ではない。
 アーチャーによる奇襲もそう何度も通用する筈もない。何より──表向きは監督役でしかない綺礼への敵対行為は、罰則の対象となりえる。

 向こうからサーヴァントを仕掛けてこない限り、こちらからの一方的な攻撃は下手を打てば教会全てを敵に廻しかねない悪手に繋がる。
 そうなるとやはり──予測不可能なウェイバー達の動向と、切嗣の持つ切り札である聖杯の行方が鍵である。

 綺礼が聖杯を奪わなかった事を思えば、最後の一手を切嗣に先に打たせる為だろう。おまえの待つ場所へと私は赴くと、そう告げている。

 ならばその裏を掻ければいいのだが──

「アーチャー、少し出るぞ」

 机上の空論だけでは足りない。令呪の強制によりアサシンが消滅した現状、背中の心配は少しばかり緩くなる。
 綺礼はもはや動くまい。切嗣が最後のカードを切らない限り、あの男は静観を決め込み時を待つ。

 ならば切嗣は、自らの一手を打つべき最善のタイミングを探す為に、この足を使って情報を集めなければならない。

 腹の探り合い。互いの持つカードをチラつかせ、少しで相手を上回るべく行動をする。これは確かな情報戦だ。
 直接対決に先んじる──既に始まっている最終戦の序幕。

 ……いいだろう言峰綺礼。その勝負、受けて立つ。

 確固たる意思を秘めて。聖杯を望む衛宮切嗣は、街を照らす光の中へと飛び込んだ。



 切嗣と綺礼が互いの思惑を交錯させ、静かな闘争を繰り広げている裏側で──もう一人の生存者にしてそのどちらもが警戒の念を抱いている存在である、ウェイバーとライダーは山登りをしていた。

「なあ坊主、今度は一体何なんだ。川辺で水遊びの次はハイキングか? そんな悠長な事してる場合じゃないだろうに」

「そんな悠長な事はしていない。これも必要な事だからだ」

 教会での一件を見届け、何やら思案したウェイバーは、ライダーを伴い今朝方後にした筈の柳洞寺の石段をもう一度登っていた。
 ぜいぜいと呼気を荒げながらもしっかりと前を見ているウェイバーは、この街に訪れた頃よりも幾分逞しい顔つきに見えた。

「ぜぇっ……はぁ──」

「本当情けない奴だな。もう少し体力をつけておけ」

「うる、さい。ボクは魔術師、なんだから、いいんだよ」

 人気のない境内をウェイバーはぐるりと見渡す。伽藍からも人の気配はない。フュルベールの魔術により喰われたのか、元々留守にしていたのかは分からないが。どちらにしても誰もいないというのは都合が良い。

「ライダー、ボクの荷物を出してくれ」

 ライダーが肩に掛けていた大きめのバッグをどかりと石畳の上に置き、ウェイバーは中から様々な道具を取り出し作業にかかった。

「? 今度は何する気だ?」

「見てれば分かるよ。それより、誰も来ないかちゃんと監視してろよ」

 ライダーは境内入り口に立ち、階下より人が訪れない事をしっかりと監督しながら、同時に境内の中をあちらこちらと行ったり来たりして、時にしゃがみ込んで何やら書き込んだりと奇行を行う主を訝しむ目で見ていた。

 数十分、似たような作業に没頭していたウェイバーが、寒々しい空の下であっても額に浮かんだ汗を拭い、ライダーの下へと戻ってきた。

「用は済んだのか? それともこれからか?」

「後者だよ。見てろ──」

 ウェイバーは大きく吸い、それから言霊を以って呪を紡ぎ上げる。境内の随所に描かれた簡易魔法陣に浮かび上がる小さな魔力の火。地下を流れる霊脈の魔力を、ほんの少しだけ吸い上げる術式だ。

 確かにウェイバーは見習いの域を出ない魔術師ではあるが、時計塔に所属する程度には学を修めている。鼻に衝く連中がのさばる魔窟では、相対的にランクが落ちて見えるが、やはり程度は低い。

 今作り上げた術式も、すぐさま霧散して塵と消え、ろくな成果を示す事はなかった。この少年は魔術師にとって──致命的なまでに魔術を実践する素養が欠けていた。

 だがウェイバーにとってはそれで必要充分。僅かでも片鱗が見えたのなら、後は頭にある各種知識と照合し、今の成果がどういったものの欠片であったのかと推察する。
 本人は無論、そんな結果に甚だ不満であり納得などしていない。しかし未だ認識は薄いが──彼の研究者としての観察眼は脅威のレベルにある。

「で、何か分かったのか?」

「ああ。昨日フュルベール……がここから街全体に催眠魔術を流してただろ。そのせいで地脈が乱れてないか見てたんだけど」

 結果は──滅茶苦茶だった。あの女が一体どういう手法で街を眠らせたかの詳細は不明だが、手を加えられたであろう霊脈は酷く歪んでいる。それこそ、その後の事なんかまるで気にしていないやり方でフュルベールは街を侵したようだった。

「で? それが分かったら、どうなんだ?」

「おまえ今日質問ばっかりだな。ああと、つまりだな、今ボクがやってる事は、聖杯を持ってる奴が何処に降ろそうとするかって事を探っているんだよ」

 この街に来る前に叩き込んだ聖杯降臨の場。この街にある高位霊地の何処かで、最終的にはその儀式を行わなければならない。

 ウェイバー達の認識による現在の戦況は、昨夜召集に応じなかったランサー組、脱落したキャスター組、そして教会で監督役の立場を優先した綺礼の令呪により消滅したアサシンの三体が消え去ったと認識している。

 間桐邸での騒ぎについても多少は聞き及んでいたが、ウェイバー達の情報程度では時臣や雁夜のところまでは手が回っていない。昨夜は使い魔の目で監視をする暇すらもなかったのだから。

 つまりは彼らにとってはまだ中盤戦。半数が消え去ったという認識でしかないが、もっと先を見据えてウェイバーは行動を起こしていた。

「で、この場所は昨日言った通りこの街一番の霊脈なんだが……これだけ歪まされてると聖杯を降ろせない、かもしれない」

「かもしれない?」

「ああ。ボク程度じゃそこまでは分からない。フン、もっと巧くやれる奴なら分かるんだろうけど」

 少なくともこれが今のウェイバーの精一杯。どれだけ確かな魔術理論を構築できても、いざ実践の段になれば随分と格を落とす。目算の上限値と実際の到達点の間に、開きがありすぎた。

「おい坊主、客だ」

 唐突に、ライダーはそう呟いた。

「何?」

「ありゃあアーチャーのマスターか。堂々とこっちに向かって来ているぞ」

「な、な、な、なに?」

 突然の事にウェイバーは狼狽える。けれどすぐさまどうにか落ち着きを取り戻し、状況を更に詳しく把握する。

「アーチャーは?」

「奴の傍だな。見るからにこちらを意識してるようだが。敵意はないようにも見えるな」

 それでもマスターとサーヴァントが見えるのなら闘争は不可避と思い至ったのか、ライダーは姿を戦支度へと変え、ウェイバーと共に山門より距離を置き、敵を迎え撃つ準備に代えた。

 ──そうして。両者は邂逅する。



 拠点を辞した衛宮切嗣はまず、件の間桐邸へと赴いた。屋敷はほぼ全焼したと見られ、黒く焼け焦げた支柱ばかりが突き立っている。
 進入禁止の旨が記された場所へ、切嗣は霊体のアーチャーを忍び込ませた。アーチャーはその眼を以って焼け落ちた家屋にあった筈の隠し階段を見つけ出し、そのまま地下へと赴いた。

 結果はほとんどが上階と変わらない。焼け崩れ落ちた地下室からはなにも発見できなかった。アーチャーの見立てでは火元は地下であり、恐らくはその場で戦闘が行われたと推察できた。

 ただし、もし誰かがその場所で死んでいたとしても、時臣の炎に呑まれたのなら、瓦礫に押し潰され燃やし尽くされ、ただの灰に成り代わっているだろう。

 遠坂邸にも昨日より全く動きはない。監視を続けている舞弥からも連絡がない以上、出入りをした人物は皆無である。

 遠坂時臣、間桐雁夜の両名の生死は変わらず不明のままだった。

 だが切嗣にとっては然したる問題でもなかった。もし見つかれば僥倖くらいに考えていたし、綺礼が別のサーヴァントを従えているのはほぼ確定的であるのだから。

 続いて行ったのは霊脈の調査。手元にある聖杯を降ろす場所の下調べだ。現在冬木市にある霊脈は四つ。
 一つは最大の霊地である柳洞寺。続いて地主である遠坂の屋敷と、聖堂教会が押さえている冬木教会。最後に──その三つの地脈が加工を受けたせいで生じた新都にある新たな土地だ。

 遠坂邸と冬木教会は既に却下。綺礼の息のかかった場所で降霊を行うなどリスクが高すぎる。裏を掻く──という意味では上策だが、やはり難しいだろう。
 となれば残りは二つ。完璧な聖杯を望む切嗣にしてみれば、本来選択の余地なく柳洞寺での降霊を行うべきであるのだが、綺礼もそこは読んでいる筈。

 だからこそ最後の霊地も候補として外さず調査はしてある。そして念の為、改めてその二箇所の調査に臨んだのだが──

 ……まさかこんな場所で、こんなタイミングで巡り逢うとはな。

 柳洞寺境内で対峙する切嗣とウェイバー。アーチャーは霊体のまま待機し、ライダーは既に戦闘体勢にある。
 相手のマスターは緊張でもしているのか、固唾を呑んでこちらを見ている。

 この時切嗣の脳内を駆け巡ったのは、今生存を確認されている存在の中で、唯一のイレギュラー足りえる目の前の連中を、いかに使い潰せるかという思考だった。

 こうして直接対峙した以上、この主従を倒すのは易い。アーチャーが三十秒──時間を稼げばウェイバーは消せる。『神威の車輪』に搭乗でもしていれば別だが、生身のままで対峙する以上はその結果に変更はありえない。

 だが問題は、ここでこの者達と争っていいのか、という事だ。

 今争い、ウェイバーを殺せたとしてもライダーは最後まで抵抗するだろう。未だほとんど底を見せていないライダー相手に、アーチャーが何処まで戦えるか不明な以上は無闇な戦いは避けたい。
 それこそウェイバーを殺して即座に逃走も出来なくはないだろうが、相手にはこちらを上回る足がある。本気で追い回されては逃げ切れまい。

 そしてそんなところへ追い討ちをかけるように綺礼がセイバーを伴い現われでもすれば、どうなる?

 ──絶対に、勝てない。

 残る主従が三つという事は、理想は全員が一同に会し殺し合うか、自分達以外の二組が殺し会った後に漁夫の利を得るかのどちらかだ。
 先に手を出せば後の者が確実に有利になる。この辺りも見越して、綺礼が切嗣に先手を打たせようとしているのなら、もはや恐怖だ。

 一手を間違えれば即座に詰む状態。王手をかけながらもその実気付かない内に王手をかけられているような状態──余りに面倒で動きづらい戦局だ。

 だがもし──この局面でこの目の前の主従を巧く誘導し、綺礼にぶつけられるのなら、最高の展開となる。潰し合えばそれで良し。ウェイバーらが勝てば確実に刺せる。綺礼が勝ち残ろうとも負傷は免れまい。

 つまりは今──切嗣の取るべき戦略は、直接的な戦闘ではなく。手持ちのカードを増やしておく事。いざ綺礼と対決する事になるその前に、切り札を複数用意しておく事に他ならない。

「ウェイバー・ベルベット……と言ったか」

 名前を呼ばれ、びくりと肩を竦ませるウェイバー。だがすぐさま睨み付けるように切嗣を見た。

「アンタはアーチャーのマスターだな」

「衛宮切嗣。アインツベルンの雇われマスターだよ」

 自らの情報を開示し相手の意気を削ぐ。ただ殺すだけの相手に無駄な情報をくれてやろうとする馬鹿はいない。ならばこれは話し合う気があると思わせる策。

「よくもここまで生き残っているな。今の戦況を知っているか? 僕とおまえと、そしてもう一人だけが残っている。戦いは──既に最終局面だ」

 その言葉にウェイバーは瞠目する。ウェイバーの理解ではまだ猶予があると思っていたのに、その予想を遥かに上回る状況に既に陥りつつある。

「ほぉ。わざわざそんな情報をくれるなんざ、一体どういう腹だ?」

 流石に王を名乗るだけはあり、ライダーは抜け目ない。その辺りは勿論ついてくるだろうと切嗣も予想していた。

「言っただろう? 今残っているのは三組だ。ここで無用な戦いを起こしてやり合えば、残っているもう一人の一人勝ちになる。
 そんな展開は好ましくないからな、どうにもおまえ達は悠長に場を見ているようだから置かれている状況を確かに教えてやったまでだ」

「そりゃ確かに有り難いが。ふぅむ、もう三組しかおらんとな。おい、セイバーの奴はまだ生き残っているか?」

「…………?」

 そこで切嗣が猜疑した。何故ライダーがセイバーを気にかける? アインツベルンの森では対峙こそしていたらしいがそこから先は切嗣も知らなかった。

「あの辛気臭い男は余の配下にすると決めていたんだがなぁ。やられちまったなら残念なんだが。おいアーチャー、おまえさんも余の配下にならんか?」

 アーチャーは霊体のまま鼻で笑い、姿を見せる事さえなかった。

「セイバーは、まだ残っている」

 その情報──逃す手は無い。切嗣の中で一つの策略が結実する。

「ウェイバー、そしてライダー。先に述べた通り、既に戦いは最終局面だ。何れかのサーヴァントが倒れれば、聖杯は唯一人の勝者を待たずして顕現するだろう。そしてその為の器は僕が持っている」

「……それで?」

「分からないか? 僕は今生き残る誰よりも聖杯に近い場所にいる。だからこそ、この言葉が言える。
 今夜零時──新都にある冬木市民会館の霊地にて聖杯降臨の儀を執り行う」

「なっ…………!?」

 切嗣の宣誓に、ウェイバーは声を荒げる。ライダーは静かに状況を見守っている。

「僕はその時その場で待つ。おまえ達も聖杯が欲しいのなら挑んで来い。返り討ちにしてやろう」

 その言葉を聞き取り、ライダーは獰猛な笑みを浮かべ上げた。

「はっはっは! 面白い、この余に挑戦状を叩きつけようという腹か!」

「そうとも。その刻限にはもう一人も確実に現れるだろう。おまえの望むセイバーも姿を見せる」

 ──そしておまえ達は潰し合え。言葉にはせず、切嗣は背を向けた。

「じゃあな。幸運だけで生き延びた、見習い魔術師くん」

 しっかりと挑発の言葉を残し、切嗣はアーチャーと共に石段を降りていった。



「フン、安すぎた挑発だったかな」

 石の階段を降りながら、切嗣は自嘲する。

 これでライダー達は間違いなくその刻限に現れる。あの気性を考えれば待ち伏せなどせず堂々と、全てを斬り伏せようと正面から現れるだろう。

 そして言峰綺礼が衛宮切嗣との直接対峙を望む以上、彼の者たちは綺礼が止めなければならない。
 ライダーも何やらセイバーに執着しているようだったし、逃げはしまい。そうなれば、後は座して待つだけでいい。

 セイバーとライダーが潰し合い、どちらが勝とうが関係ない。勝ち残りながらも傷ついた方を、聖杯の眼前にて斃し──チェックメイトだ。
 その時聖杯は成るだろう。切嗣の祈りを受け、世界は救済の光に包まれる。衛宮切嗣の理想が──ようやく現れる。

『切嗣』

 石段を降り切り、新都方面へと向かう道中にアーチャーが問いかける。

『何故柳洞寺ではなく新都の方を選んだ? 貴方の願いを思えば、柳洞寺の方が都合がいいだろう。私の能力を考慮してもだ』

 柳洞寺は守りに易く攻めるに難い要塞だ。その場所に陣取るのなら、より戦いが楽になるのは明白であるというのに。

「おまえでさえそう考えるからだ。僕が柳洞寺に拠点を構えるかもしれないという事を考えうるのなら、言峰綺礼が何かを仕掛けている可能性はゼロではない」

 フュルベールが一時的に居を構え、それにウェイバーも何かの術式を行っていたようだった。誰かの手が入った場所での降霊など危険が多い。
 誰の手も入っていない土地。新興都市の只中にあるその場所ならば、綺礼もおいそれとは妙な仕掛けを施してはいないだろう。

 それに、別に切嗣は世界に穴を空けたいわけではない。外側──世界の向こう側に通じる道など必要ない。ただ世界を奇跡で包む膨大なまでの魔力だけが生まれれば、それで完遂されるのだから。

『…………』

「なんだ? まだ何かあるのか」

『いや……』

 アーチャーの胸中を覆う言い知れぬ予感。抱いていた確信。やはり戦いの収束点はそこであるのか、と。

「これでカードは出揃ったか。後はただ、時を待ち──」

 向かい来る全ての敵を叩き伏せるのみ。余計な小細工は必要ない。綺礼が切嗣にあえて残したカードを切り、その戦いを迎え撃つ。

 切嗣の提示した聖杯顕現の刻限まで──残り十二時間余り。


/Last Interlude


 その日──切嗣の宣誓より、まるで何かの予兆のように、僅か半日の内に異常気象が観測された。
 比較的温暖な気候である冬木にあっても暑すぎる日差し。徐々に上がり出した気温は夏日のような数値を記録した。

 街行く人々の胸に募る不安。既に噂になり始めている神隠しと、突如起こった異常気象にこの街では何かが起こっていると知らず理解し、理由の分からない焦燥より逃げ出すように足早に帰路へと着く。

 陽の沈んだ後、昼間は晴れ渡っていた空が再び鈍色の雲に厚く覆われ、気温を急激に下げていく。過去例のない完全なまでの異常気象。
 この街で起きている真実を知る者達だけが感じ取れる──風雲急の気配。

 僅か一週間余り前に開かれた魔術師の狂宴──聖杯を巡る闘争が、一つの結果を求めて収束する。

 強く吹き付ける風の中、渦を巻く暗雲を、白く濁った煙を吐き出しながらに見つめる衛宮切嗣は──これまでの行動において抜かりはなかったかと考えを巡らせた。何度も何度もシミュレーションし、自らが勝者足りえる光景に到る道筋を思い描く。

 確かに残るサーヴァント──セイバーもライダーも間違いなく強敵には違いない。セイバーはアーチャーと相性面で決して良くはないし、ライダーに到っては力の底さえ見えていない。

 だが切嗣にとっては、そのどちらもが真実敵ではない。切嗣が斃すべきはウェイバー・ベルベットであり言峰綺礼だ。
 サーヴァント同士の闘争など、切嗣が彼の者達の頭蓋を撃ち抜くまでの時間を稼いでくれればそれでいい。

 だからこそイメージするのは最大の敵である綺礼との戦闘シミュレーション。先の戦いで判明した戦闘スタイル──アウトレンジから放たれる黒鍵投擲、インファイトで繰り出される八極拳。

 もう一つくらいは隠し玉がありそうだが、基本はこの二種。手持ちの札でどれだけ相手の動きを封じ、隙を作り出し、仕留めるか。完全なまでに武装を確認し、迎え撃つだけの方策は万全。

 ────良し。

 切嗣は頷きと共に夜闇の中に咥えていた煙草を放り捨て──小さな勝利の狼煙に代えた。

「行くぞ、舞弥」

「はい」

 これまで隠し札としてきた舞弥をようやくここで投入する。綺礼がアサシンを繰っていた以上、その存在は知られている筈だが、この時まで見逃した以上は最大限に活用する。綺礼の敵は切嗣だけではないという事を、思い知らせてやる。

 車の準備へと向かった舞弥と別れ、切嗣は土蔵の扉を開く。中には横たわるアイリスフィール。もはや人としての形しか留めていない人形がそこにある。
 聖杯を内包する──アインツベルンによる悲願の成就を託された器。衛宮切嗣と理想を共にした女性。その、残骸。

「行こう、アイリ。この世界を──終わらせる」

 醜く腐った世界の終焉。この闘争の果てに作られる平穏に満たされた楽園。終わりと始まりを紡ぐ為に──切嗣は優しく妻だったモノの身体を抱き上げ、一路目的地……聖杯降臨の地と定めた冬木市民会館を目指した。



「動いたか、衛宮切嗣。存外早かったな」

 薄暗い石作りの室内。揺らぐ灯りの中で重々しく綺礼は呟く。今日動くかどうかは五分五分だったが、勝負を決めに来たようだ。切嗣は綺礼の残した聖杯(カード)を手に、最後の戦いの地へと赴く。

 綺礼は待ち伏せるような真似はしない。ここまで全て計算通り。切嗣が向かう拠点は二点のどちらか。使い魔の眼で車の行く先を追い、進行方向から推測。真逆の立地にある二拠点ならば、容易に行き先を限定できる。

「新都の方か。やはり、というべきだろうな」

 自らの利を取るのなら柳洞寺と決めてかかるべきだったが、あそこはフュルベールにより乱された場だ。降霊の地としては相応しくはない。
 だがあの場所が最大の霊地である事には変わりなく、一魔術師の手で崩されるような力場でもない。

 よって切嗣はそちらに定めるかとも思ったが、あえて新都の方を選択したか。ここで教会へと乗り込んで来れば笑い話の一つにもなるのだが、そんな愚策を犯す男ではない。切嗣は間違いなく、新都に新たに生じた霊地を降臨の場として選んだ。

 どちらを選んでも綺礼の取るべき策に変更はない。むしろ、新都の方が都合がいいくらいだ。未だ拠点を辞していないウェイバー達を迎え撃つには、丁度大橋が境界線となり、こちらから向かう分には戦場を組み立てやすくもあるからだ。

「さて。では我らも行くか、セイバー」

 漆黒の騎士は実体化したまま沈黙を守る。綺礼は相手の返答を待つ事無く続ける。

「おまえの役目は分かっているだろうな」

「……ああ」

 セイバーにとっても、もはや避けようのない戦いだ。令呪による縛り──戦う意義は見出せなくとも、戦わなければならない。
 不実の戦い。剣を抜きたくない闘争。こんな戦いは、かつてもあったから。胸に沸いた郷愁を振り払い、セイバーは綺礼へと視線を投げた。

「一つ訊きたい。貴様は何故、この局面で手を抜いた」

 ここまでの計画は確かに綺礼が事前に組み立てた通りに進められた。だが後一歩足りていない。この日を迎えてからの泰然とした振る舞いは、何処か不確定要素を愉しんでいるかのようだ。

 真に綺礼が切嗣との対峙だけを望むのなら、事前にセイバーに令呪を使い、幾らでも重ねがけてウェイバーらの拠点を強襲させれば良かった。その隙を切嗣から狙われる事を恐れるのなら、姿を隠して。

 だが綺礼は駒を残した。切嗣の下に聖杯の器を残した事は作為があっても、イレギュラー足りえるウェイバー達を残しておく意味がまるでないのだ。
 セイバーではライダーに勝てないと踏んでいるのなら、この状況も有り得ない。何故なら綺礼は──セイバーにライダーの足止めを命じているのだから。

 綺礼は一つ頷いて、口を開く。

「別に手を抜いたつもりはない。確かにライダー達は邪魔な存在だが、こちらも手札はそう多くない。奴と見えるまでに余計な消耗は避けたかっただけだ。
 衛宮に聖杯を残した以上、いつ仕掛けてくるかは不透明であった。こちらから先に手を出して背後を衝かれるのは巧くないし、逆に奴らがライダー達と先に争うのなら、それはそれで問題はなかったからな」

 切嗣は綺礼の策を深く読みすぎた。綺礼の目的はあくまで切嗣であり、切嗣の目的はあくまで聖杯。両者の行動理由は被らない。
 それを切嗣は、自らが完全に聖杯を手に入れる為の行動として綺礼の漁夫の利を警戒しすぎてしまったのだ。

「だがこの状況は充分に素晴らしい。衛宮は先に拠点を確保し聖杯降臨の準備を進めるだろう。
 残り三騎という状況で、その準備が完了すれば、まず間違いなくライダー達にも予兆は届く。そしておまえは彼らを迎え撃ち──そして苦悩と向き合うのだ」

「…………」

 セイバーは沈黙する。何故ライダーとの対峙が、セイバーにとっての苦悩と向き合う事になるのか、まるで理解出来なかったからだ。

「分からないのならそれでもいい。あの男と向き合えば、私とは違う方向性でおまえの心は切り開かれる。見えているからな。王とは、元来そういうものだろう」

「…………」

「何れにせよ、おまえは私の課した役目を確かに果してくれればそれでいい。その最中については、おまえ次第だ。
 言っただろう? 私は聖職者だと。おまえに強要はしないが、向き合って欲しいとは願っているよ」

「……ふん」

 そういう意味でも綺礼にとってはこの状況は理想。これで全ての駒は出尽くした。後は持ち場について──あの男との邂逅を待つだけだ。

「では行こうか。我らの懊悩に解を求めて」

 この戦いの果てに得られるであろう一つの回答。長年の迷いに遂に光が齎される。

 衛宮切嗣。

 九年の沈黙を破り今一度戦場へと姿を見せた魔術師殺し。綺礼と同じ空虚を宿し、心を確かに埋める何かを手に入れた男。
 今綺礼が手にしている歪な解とは違う──確かな正解を胸に秘めている筈の男。

 ならばそれを求めよう。苦悩の終わり。迷いなき新たなる誕生を以って、この聖杯戦争に終結を。

 今この時こそが──約束の刻限なり。



 流れゆく空模様を窓辺にて眺めていたウェイバーの下に、その波動が届けられたのは切嗣が宣言した時刻をもう間もなくに控えた頃だった。

「来たか」

 ライダーが部屋の中央に座したままに嘯く。流石にこの時まではこの間買ったゲームを嗜む事無く、代わりにホメロスの詩集を読み耽っていた。ウェイバーにすれば、どっちもどっちだったが。

 ぱたん、と閉じた詩集を小脇に抱え、ライダーは見る間に支度を整える。光と共に渦巻き顕現するのは戦装束。剛毅なる程に分厚い鎧。はためく深紅のマントを肩に、在りし日の征服王イスカンダルの姿が形成された。

「…………」

 ウェイバーは半ば呆然とその姿を眺めていた。これまで何度となく見てきた格好。いつも見てきた王の出で立ち。何時も傍らにあった、勇壮なる王者の背中。

 この戦いが最後であるのなら、その姿を見るのも最後。ウェイバーを引き摺り回してくれたライダーは、聖杯戦争の終結と共に姿を消す。
 いや、違う。勝つのだ。この男は、これより残る二騎のサーヴァントを地に叩き伏せ、聖杯に希うのだ。

 我が身の受肉。世界征服への足掛かりを。

 奇跡なんてものに掛けるにしてはおよそ有り得ないくらい小さな願い。だがライダーにとってはそれで充分。
 世界は我が手で掴み取るものであり。決して何かに願うものではない。

 目の前に完全な奇跡をチラつかされても、王の心はまるで揺るがない。貴様なんぞに託すほど、このイスカンダルが手に入れる世界は安くはないと、憚って仕方がない。本当に──その在り方は、どこまでもこの男らしかった。

「どうした坊主? 流石に緊張してきたか」

「ああ。最高にビビってるよ」

 この男に張るだけの見栄など使い果たした。だから正直に、心の内を曝け出す。これより始まる戦いが怖いわけじゃなくて──この後に告げる言葉が、怖いから。

「良い良い。誰しも戦いの前には少なからず身を強張らせる。緊張の一つもせん奴は、何処か螺子が吹っ飛んどるんだろう。
 緊張感とは実に心地良いというのに。この震えを越えた先にこそ、最高のコンディションがあるからな」

 そう言ってライダーは獰猛な笑みを浮かべ身震いする。どちらかと言えば、武者震いのようにウェイバーには見えた。

「じゃあライダー、やってくれ」

「応とも」

 開け放たれた窓より流れ込む強風。身を裂く程に冷たい風が、少しばかり火照った身体を冷ましてくれる。

「征服王イスカンダルが、この一斬にて覇権を問う!」

 突き上げた剣を手に、高らかにライダーは謳い上げる。天より振り下ろされた剣閃により生じる空間の亀裂。
 雷光を纏い現れるは神に捧げられた騎乗戦車。ライダーがライダーたる所以でもあるゴルディアスより解き放たれたチャリオットだ。

「行くぞ坊主。さあ乗れ」

 牽引する神牛を愛でるように撫でた後、御者台へと飛び乗り手綱を握ったライダーがウェイバーに呼びかける。

「…………」

 けれどウェイバーは、その場を動かず──窓を隔てたまま乗り越えてこなかった。

「どうした? 余り時間はないぞ」

「その前に、訊いておきたい事が、あるんだ」

 決然とそう言ったかと思えば、ライダーの瞳を直視してすぐさま逸らし唇を噛む。ウェイバーは言いよどみ、ライダーはただじっと待つ。

「ライダー、ボクは……」

 ウェイバーは怖かった。その先を紡ぐ事が。何も言わず、そのままいつも通りに御者台に乗り込んでもライダーはきっと何も言わない。けれどウェイバーは告げなければならなかった。

 この街を訪れ、ライダーと出会い手にしたもの。リディアとの約束。芽生えた覚悟。向き合う強さ。
 まだまだ半人前のウェイバーが何を憚るのかと言われても仕方がない事を口にする。そんな事は絶対にありえない事を口にする。

 もう逃げられないから。その背中に──憧れてしまったのだから。

「ライダー……いや、征服王イスカンダルよ。ボクは、本当にその御者台に乗って、いいのか?」

 これまで何も考えずに腰掛けてきた特等席。ただその場所は、強者にだけ許された御座である筈だ。こんな──ただマスターであるだけの男が座って許されるような場所じゃない筈だ。

「ボクは、おまえみたいに強くない。これまでマスターとしての働きだって、ほとんど出来なかった。こんなボクが、これからおまえが立ち向かう戦いに、最後の戦いに一緒に、ついていっても、本当に……いいのか?」

 世界征服を企む王の隣に座り続けて、本当にいいのかと──問わなくてもいい事を口にした。

「…………」

 ウェイバーは強い光を湛えて見据えるライダーの瞳から逸らしたくなるのを必死に堪えて見つめ続ける。拒絶されたくない不安がある。拒まれたくない恐怖がある。その場所に居続けたい。その場所で──ライダーの覇道を見届けたい。

 けれど、だからこそ訊いておかなければならなかった。ライダーの意思を。イスカンダルにとっての、ウェイバーの立ち位置を。胸を張って、その場所に在り続けたいと願ってしまったのだから。

「──たわけ」

 口を開くと同時。伸びた腕が、指先が──いつものように、ウェイバーの額を弾き飛ばした。

「いっぁ!?」

「本当、たわけだなぁ貴様は。今更も今更過ぎる問いかけだ。余が本当に貴様にその資格がないと思っていたのなら、とっくの昔に空から放り捨てておるわ」

「だって、ボクはただのマス……」

「余はそんな事を一度でも口にしたか? 脆弱なマスターを守る為にはここが一番安全だから隠れていろと、余は貴様に言った事があったか?」

「ない、けど……」

「だったら堂々と座っておれ。貴様は余と共に戦場を馳せた勇者であろう? マスターとしての立場がどうこうと関係あるまい。何ならその令呪を全部捨ててしまえ。それでも余は貴様を連れて行くぞ。
 貴様は口にしただろう? 全てを見届けると。その覚悟があると。ならば刮目して見届けよ」

 この征服王イスカンダルが。

「世界を征すその瞬間を。我が隣で、我が朋友として見届けよ!」

「────っ!」

 その言葉こそが全てだった。ウェイバーを決壊させるに足る──心より望みながら、けれど有り得ないと思っていた言葉だった。

「……ハン、こんなボクが、朋友だって?」

「応とも」

「……本気かよ?」

「当たり前だ」

 ウェイバーはただ顔を伏せたまま、言葉を紡ぎ続ける。

「……本当に、いいのか? ボクがおまえの隣にいて。ボクが、おまえの朋友なんかで」

「ああ」

「ボクは……貴方と共に……その夢を見ても、いいのか?」

「ああ。だから貴様の答えを聞かせろ」

「ボクは……っ!」

 前を向く。そこにあるのは王の双眸。答えなど分かり切っているという顔で、ウェイバーの叫びを待っている。

「ボクは……その夢を、見たいんだ!」

 だから。

「王よ、連れて行ってください……! 共に……!」

 声をしゃくり上げ。けれど瞳だけはずっとずっと前を向いて。心からの祈りに代えた。

「無論だ。さあ乗り込め、ウェイバー・ベルベット。一番の特等席にて見せてやろう。余の覇道、余が世界を征する瞬間を!」

 窓枠に足をかけ、空へと飛び出す。着地は完璧。慣れ親しんだ座席から、隣にある巨躯を──共に在りたいと願った男の顔を見上げる。

「ああ……しくじりやがったら、承知しないからな……!」

「誰に向かって口を聞いておる。では征くぞ。世界を征すその手始めに、奇跡とやらを奪い取りにな──!」

 強く手綱を引けば、これ以上ない嘶きを以って神牛が応える。王とその夢に憧れた朋友を乗せて──立ち込める暗雲を切り裂き、遥かなる大空に舞う。


/Holy Grail


 冬木市民会館は駅前に建造中であるセンタービルと共に新都──引いては冬木市のシンボルとして建造を予定された建築物である。

 広大な敷地面積、建物自体も相当に巨大であり、目玉は千人余りを収容可能な二階層式のコンサートホール。外装も会館というよりも古代パルテノンの神殿を彷彿とさせる造りである。

 凝られた意匠は壮麗にして優美を誇り、完成の暁には多くの人々で賑わう事であろう。冬木市がこの建物とそして新都開発に掛ける意気込みが窺える代物だ。

 ただ、今はまだその途中であり、外装だけは完成しているものの、内装については急ぎ作業を進められている段階。予定されている落成式典はまだ当分先の事である。

 そんな中──人気の完全に失せた、疎らな灯りしかないコンサートホールの舞台の上。この場所で公演が見られるのはまだ先の事だが、それに先んじて一つの儀式が執り行われようとしている。

 遍く奇跡の縁に侍る聖なる杯。

 人々の信仰を一心に受け、数多の王侯貴族が求めてやまず──ただの一度としてその真なる存在を確認した者のない神器。

 正真正銘本物の、神の血を受けた杯の──模造品が、今日この夜生まれ落ちる。

 教会の定める聖杯とは違い、名ばかりの願望器。けれどそれが真に奇跡を成すのなら、真贋など余りに瑣末な事。
 世界の外側より招かれた七騎の英霊の魂を水と代え、その器を満たした時──勝者の願いは叶えられる。

 多くの血と涙を流した戦いの終焉に、ありとあらゆる奇跡を具現する。
 各々の祈りを持ち寄って、他者の願いを駆逐し尽くした者にだけ、その夢を叶える権利が与えられる。

 此処に一人の男の姿がある。命の貴賎を問わず、ただ多くを救う事を望みとした理想の求道者。
 人の手による限界を知り、人の手では行えない世界の改変──真の意味での世界の救済を聖杯に望む異端の魔術師。

 ────衛宮切嗣。

 敷設されていく聖杯降臨の為の術式。心を凍てつかせた非情の平和主義者が、最後の作業を執り行う。

 舞台中央に横たえられたアイリスフィールの肢体。生きてはいても、もう二度と目覚める事はない彼女。
 これまで四騎のサーヴァントを取り込み、後一騎取り込めばその命すら失われるが、先んじて切嗣は器を取り出す事に決めていた。

 とどのつまり、それは妻であった者の身体を引き裂くという事。体内にある杯を掬い出す為、自らの掌さえも──愛する者の血で染め上げる覚悟。

 切嗣には既に迷いなどない。深く目を閉じ──それから、アイリスフィールの腹へと腕を突き入れた。

 声も上げない人形めいた妻の顔すらも見ず、目的の物を体内より抉り出す。形を成しているそれを、切嗣は一息に抜き取った。

「────」

 赤い血色に染まった腕の中に現れたのは紛う事なき黄金の杯。英霊の魂の受け皿となる──奇跡を成す聖なる杯。

 血溜まりを作り上げていく妻には目もくれず、目も眩む程の輝きを発する聖杯を、切嗣は高く掲げる。舞台中央にて手を離れたそれは、中空にて静止し──これで、全ての準備は整った。

 後は足りない分のサーヴァントの魂を注ぎ込めば、奇跡は結実する。

「ここまで、来たか」

 あと少し。ほんの少しで、全てが救われるのだ。

 間もなく刻限を指し示す。切嗣の予測通りに全てが進めば、綺礼かライダーらが乗り込んでくるまでにはもう間もなくの猶予があった。

 しかし今更耽るほどの感慨もない。それこそ聖杯を手中に収めた後ならばともかく、まだ完全には完成していないのだから。
 油断はない。慢心など以ての外。全力で、この場へと踏み込む敵を殺し尽くすのみ。

 その時カツン、と靴音が響いた。

 聖杯の煌きが照らし上げる光さえも届かないコンサートホールの入り口、エントランスに続く扉より現れたのは──アーチャーだ。
 切嗣と舞弥がそれぞれの作業を行っている間、もしもの奇襲に備えて偵察の任を課していたが、儀式の準備が完了したと見て戻ってきたようだった。

 静けさに閉ざされる広大な空間にアーチャーの足音だけがやけに高く響く。反響の為の造りになっているせいだろうが、一定のリズムで刻まれる靴音──この静寂を衝く音は余りにも不気味で何処か空恐ろしい。

 そして、薄闇より抜け出したアーチャーは──

「切嗣」

 ──その手に二振りの剣を携えていた。

 距離を取ったまま睨み合う切嗣とアーチャー。黄金の輝きが降り注ぎ、二人の表情を染め上げる。

「何のつもりだ」

 アーチャーより感じる敵意。いや、もはや憎悪にも近い殺意を止め処なく向けられ、訝しむ。気が付けば──切嗣は銃把を掴んでいた。

「衛宮切嗣。おまえの戦いはここで終わりだ。おまえには──聖杯を渡さない」

「な、に────?」

 ────聖杯を肯定する魔術師殺しと、聖杯を否定する赤き騎士が対峙する。

 遂に幕を開ける最終局。
 聖杯を巡る闘争の終焉。

 約束の刻限。
 物語は収束する。

 終わりを示し始まりを告げる鐘が、運命(ゼロ)を奏でる。













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