正義の烙印 Act.11









/VII


 無。

 その形容を顕すが如く、周囲には黒々とした闇しかない。いや、本来ならばその闇さえも有り得ない──彼女自身さえもあってはならないその場所に、アイリスフィールは立っていた。

 視界を閉ざす黒。高さも広さも自らさえも曖昧な空間。世界の狭間。あってはならない無限の闇の中に、銀の聖女は立ち尽くす。

「…………」

 切嗣との別離により、自らの死は確かに観念した。自由を奪われ意識さえも失われ、ただ聖杯の殻を務めていた彼女が、こうして自我を持って存在し続けている事など有り得ないのだが、

 ……そう此処が、貴方の中なのね。

 アイリスフィールは全てを知る。この己が本当にアイリスフィールであるのかさえ分からないまま、ただ唐突に生まれた流れ行く景色を眺め続ける。

 それはアインツベルンの歴史。聖杯の妄執──第三魔法の成就に一族を捧げた者達が辿ってきた軌跡。そして聖杯戦争の最終局に具現化するサカズキの名こそ、

 天の杯(ヘブンズフィール)

 魂の物質化という、既に失われた筈の法を体現する本物の奇跡の名。

 しかしアイリスフィール、そして切嗣にとってそれは既にどうでもいい代物だ。結果として顕現する事はあっても、彼らが目指したものはそんな魔法ではないのだから。

 更に風景は暗転し、次に生まれたのは暖炉のある小さな部屋。本国にあるアイリスフィールが子である、イリヤスフィールの私室だった。

「あ、お母さま!」

 とてとてと近づき、腕にしがみ付いていた我が子の髪を愛おしそうに撫でる。梳いた髪はサラサラで、掌から零れ落ちていく様はまるで銀の雫が舞うかのよう。
 イリヤスフィールはされるがままに擽ったそうに目を閉じて、唐突に手の止まった母の顔を見上げて、疑問を口にした。

「どうしたのお母さま? なんで泣いてるの? 悲しい事でもあったの?」

 アイリスフィールは我が子を抱き寄せて、止め処なく溢れる涙を流し続ける。

「ごめん、ごめんね……」

 何かに謝るアイリスフィールの心を、イリヤスフィールには理解が出来ない。

「え? え? イリヤ、お母さまに何かした? 覚えてないけど、ごめんなさい! イリヤ謝るから、お母さまは泣かないで?」

「ううん、違うのよイリヤ。貴女は何も悪くない。そう、貴女は何も……」

 悪いのは、このアイリスフィールなのだから。

「大丈夫よイリヤ。貴女は、私のようにはならないから。どんな結末を迎えても、きっと切嗣が助けてくれるから」

「え?」

「だからイリヤ。貴女はちゃんと覚えておいて? 切嗣は絶対貴女を迎えに行くから、ちゃんと待ってるのよ?」

「うん! わたし、ちゃんと覚えてるよ? キリツグと約束したんだから。ちゃんと帰って来るって!」

「良い子ね。私は帰れないけど、貴女の傍にずっといる。だから、切嗣と──そして……」

 その先を紡ぐ事のないまま、アイリスフィールは崩れ落ちた。気が付けばイリヤスフィールの姿も既になく、初めにあった闇だけが沈殿していた。

 ごめんなさい……ごめんなさい……

 アイリスフィールは全てを忘れてただ謝罪する。虚空に向けて。いる筈もないその人に向けて。

 ────ごめんなさい切嗣。私は貴方の理想を、裏切ります……

 でもどうか。
 貴方はあの子と共に幸せに……あの子と共に……

 ただそれだけが、アイリスフィールの望み。闇の彼方より忍び寄る、終末の悪意に呑み込まれる前に願った──妻として、母としての祈りだった。



「どういうつもりだ。この僕に、聖杯を渡さない、だと……?」

 冬木市民会館コンサートホール舞台中央に燦然と輝く黄金の杯を背に、切嗣が呟いた。目の前にある客席の中央に続く通路の上で切嗣を見据える──両手に刃を携えた己がサーヴァントに向けて。

「ああ。その聖杯はおまえの願いを叶えない紛い物。ただ祈れば悪意を撒き散らすだけの偽物だ。だから私は破壊する」

 切嗣にとって、アーチャーの謀反は計算外の事態だった。だが既に凍てついた彼の心は冷やかに状況を俯瞰するばかりで、焦りの一つさえも見られなかった。

「……馬鹿らしい。何を今更。この聖杯は二百年近くも前から準備されてきた願望器だ。それが、偽物だと? ならばこれまでこの聖杯を賭けて争ってきた連中は、一体誰に踊らされてきたというんだ?」

「さあな。オレもそこまで詳しくは知らない。ただこの戦いの結末を知っているというだけだ。その聖杯は街を炎で包み焼き尽くす。おまえの願いは叶わないまま、ただ悲劇だけが生まれる」

 アーチャーの突拍子もない言葉に、切嗣は失笑を浮かべた。

「馬鹿らしい。一体何の根拠があって……」

「オレが、未来より招かれた英霊であるからだ」

「────」

「オレの魔術を知り、能力を知り、おまえも幾らかは調べただろう? 真名すら明かさない己がサーヴァントの素性を」

 確かに、切嗣は現場に立つ裏で舞弥に時間を見つけては調査を依頼していた。投影魔術を扱う弓兵の英霊──その真なる名を探し求めて。

「無論、そんなものは何処を探しても見つからない。オレの名は歴史に記されている筈が無い。この時代より先に生じるこのオレが、未だ生まれてさえいないこのオレの名が、この時代の情報の中にある筈がないのだから」

 流石に切嗣も、返す言葉を失った。ある筈のない真名。この男が未来より招かれた存在であるのなら、確かにその名はある筈がない。だがそんな話を、いきなりされて信じられるわけもない。

「オレがこの時代に喚び出された理由は知らない。あの聖剣の鞘とは多少の縁があったが本来ならば確かに騎士の王が召喚される筈だった。
 何が歴史を捻じ曲げたのかは、オレには知りようもない事で──知る必要もない事だ」

 アーチャーの手にする二対の剣に力が篭る。切嗣を見据える瞳が、強く輝きを放つ。

「ただオレは聖杯を破壊する。おまえの求めて止まないものを、この手で破壊するだけだ」

 それは完全なまでの宣戦布告。従者であるサーヴァントが主たるマスターに翻す反逆の狼煙。聖杯を希う切嗣の眼前で、聖杯を否定すると、赤い騎士は謳い上げた。

「……なるほどな。それが、おまえが僕に従ってきた目的か」

「ああそうとも。オレはこの瞬間を待っていた。全てが結実するその時を待ち、おまえの理想を打ち砕く為に」

 それがアーチャーの──余りにも無意味な復讐なのだから。

 切嗣はゆっくりと懐に手を伸ばし、煙草のケースを掴み取る。慣れた手つきで取り出し咥え、ライターで火を灯し──紫煙を吐き出した。

「ならばおまえは──僕の敵だ」

 言霊と共に掲げられる令呪の宿る右腕。絶対遵守の戒めを施す赤い光が──

「その令呪で、オレを一体どう縛る気だ?」

 けれどアーチャーは、余裕の体を崩さないままにそう告げた。

「自害でも願うか? そんな事をすればこの後に来るセイバーかライダーの相手を務める者はいなくなるぞ? 自分に従えと告げるか? そんな曖昧な願いで、このオレを止められると思っているのか?
 ならば自分に危害を加えるなと命令してみろ。オレはおまえではなく聖杯を破壊するのみだ」

「…………っ」

 それは真実。切嗣にとって、アーチャーは聖杯を手に入れる上でまだ必要な存在だ。自害など以ての外。自らに従えという願いも曖昧かつ主体性のない命令。幾らかは縛れても、サーヴァントが本気なら多少は動ける。

 最後にしても同じ。逆に聖杯を破壊するなと告げても、切嗣を殺してしまえば令呪の強制もなくなり、アーチャーは自らの目的を達成する。

 ──八方塞がり。この男を止める言葉を、令呪に告げるべき言葉が見つからない。

 切嗣にとってアーチャーの目的の意味が分からない。その言葉の真贋すら不明のまま。だけど引けない。引ける筈があるものか。
 この時を待っていた。この時の為に、一体どれだけの犠牲を強いてきたと思っている。

 切嗣は聖杯に祈らなければならないのだ。これまで虐げてきたものの為に。散っていった全てのものの為に。

 何の信憑性もない言葉で切嗣の理想を惑わす目の前の男の甘言に、乗る事などあってはならない。心を理想を成すただの歯車に代えた衛宮切嗣が、そんな無根拠な蒙昧に、踊らされる事などあってたまるか──!

 滑る右腕。掴み取る銃把。照準。発砲。──当然の如く防がれた。

「それが答えか衛宮切嗣。だが侮るなよ魔術師殺し。サーヴァントに、貴様の銃弾などが通じると思わない事だ──!」

 爆ぜる赤い騎士。迎え撃つ魔術師殺し。
 あってはならない主従の衝突。切嗣にとって、無謀なまでの戦いが始まった。


/VI


 遥か高空をゆっくりと翔け抜ける神威の車輪。暗く闇に沈む街並みと、天を覆い尽くす暗雲の狭間を、稲光を纏いながらに走り抜ける。

 目的の場所は冬木市民会館。衛宮切嗣が指定した聖杯降臨の地であり、全ての決着が成される闘技場。その場での最終決戦を前に、ライダーとウェイバーは、その影を目視した。

「いたか」

 手綱を握ったまま呟いたライダー。獰猛な瞳が見下ろす眼窩、新都と深山町を分かつ冬木大橋の丁度真ん中辺りに佇む漆黒の騎士。
 黒く揺らぐ茫洋とした霧で全てを覆い隠し、瞳の光さえ窺い知れない闇色のスリットが天翔ける戦車を見上げていた。

「ライダー……やっぱり、戦うのか?」

 この騎乗戦車の機動力を以ってすれば、セイバーの追走を振り切って市民会館に辿り着く事など容易い。だがそれは、所詮ただの時間稼ぎでしかない。
 聖杯を掴む為には斃さなければならない敵。今この場で見えるか、少しばかり先送りにするか、その程度の違いでしかない。

 そんな事は知っているし理解もしている。だからウェイバーは、

「いや、降りようライダー」

 ライダーの返答を聞く前に、そう答えた。

 傍らに侍るは最強の王。数多の戦場で先頭に立ち、多くの騎士達と共に駆け抜けてきた猛者だ。そんな男が敵を前にして逃げに回る事など有り得ない。──いや、あって欲しくなどなかったのだ。

「ああ。余も端からそのつもりであった」

 手綱を引かれた神牛は旋回し、深山町側の橋上に降り立った。

 道路中央に立つ黒騎士。辺りには人の気配どころか行き交う車さえ見られない。街を呑み込む予兆の前に、住民のほとんどが無意識に危機感を理解しているに違いない。
 つまりはこの場、この刻限。彼らの対峙を邪魔立てする者は一切なく──加減などない本物の闘争を繰り広げられるという事だ。

 神牛が大地を掴み、衝撃もなく降り立つ。闇の中でなお黒く染まる騎士が一人──確かにこちらを見据えていた。

「坊主、貴様はここで待て」

「いやだ」

「ん?」

「言っただろ、ボクはおまえの隣で見届けるんだ。だからこんなところで待ちたくない」

「ふん。ならば付いて来い、但し、覚悟だけは決めておけよ」

 目の前に待つは、最強の騎士だ。戦闘に参加するわけでもなく、ただ隣に立っているだけで、ライダーの邪魔をするだけかもしれないし、命を危険に晒す事になる。だから覚悟するのだ。
 ウェイバーだってただ呆けて立ち尽くすつもりはない。今ならば出来る事はある。やれる事が──きっとある。

 二人は戦車より降り立ち、道路の中央にて騎士と向き合った。

「よう、久しいなセイバー」

 戦闘を行うにしては余りに距離が離れすぎたまま、二騎のサーヴァントは邂逅した。ライダーの軽口にもセイバーは特に何も返さず見据えるだけ。

「ふん……相変わらず愛想のない奴め。だがまあいい。おいセイバー、余があの森で告げた言葉──よもや忘れてはおらんよな?」

「おい、ライ……」

 言いさして、ウェイバーは口を噤んだ。今更、この局面でなおそんな大言を憚るライダーに文句の一つも言ってやろうとして、やはり止めた。見届けると誓ったのだし、その行動に何かしらの意味があるのなら、止める事は出来ないのだから。

「……ああ、覚えているとも」

 そこでようやく、セイバーが口を開いた。

「ならば話が早い。セイバー、貴様は余の軍門に下れ。その兜を脱ぎ去って、余の為にその剣を振るえ」

 煩悶を抱き続けるセイバーに投げ掛けられる王の言葉。けれどセイバーは、またしても沈黙の渦の中に沈んでいく。

 今現在セイバーのマスターであるのは言峰綺礼だ。召喚者である遠坂時臣は彼の者の裏切りに遭いその命を絶たれた。
 もし敵討ちでもしようと思うのなら、ライダーの誘いは別段悪いものでもない。綺礼から令呪の縛りを受け従わされているが、ライダーとの対峙はただの状況。殺せとも斃せとも令呪は受けていない。

 何より、あの男に付き従わされているという事実は気に入らない。あの男の口にしたように、セイバーは流されるままにこの場に立っているだけ。自らの意思に拠るのなら、綺礼を討つ事さえも別段不可能事でもない。

 だが。

 それとは別に、ライダーの要求を拒もうとする己がいる事も、理解していた。

「だんまりか。沈黙は肯定……と捉えたいところだが、心魂から仕えぬ者は使えぬし興味もない。おいセイバー、貴様は一体、誰にそこまで誓いを立てているのだ?」

 問われるまでもない。セイバーは綺礼でも時臣でもなく、かつての王に、誓いを立てている。裏切りと悔恨に塗れた人生なれど、狂い殺したい程に憎々しくとも、その心だけは誓って嘘ではなかった。

 だが王妃への愛もまた本物。故にこそセイバーは苦悩する。自らの望む足場は既に無い。王妃は自らの過ちにより慟哭の涙を流し続け、王は自らの裏切りにより磐石の足場を崩し国に殺された。

 そんな男が、一体何処に縁を縋れるというのだろう。ただ一人の女を幸せにしたかっただけの無様な男は、何ひとつ掌に残す事無く絶望の淵に沈んでいる。
 今なおこうして、聖杯に招かれた意味すら解さぬままに、木偶のように、立ち尽くしている……

「ハン、下らんなセイバーよ」

 まるで己の意に従おうとしないセイバーに業を煮やしてか、ライダーは嘲るように口を開いた。

「それだけの腕を持ちながら、なんと脆弱な心の持ち主よ。死んでまで悩み続ける程に自らの人生に悔恨があるのなら、聖杯にやり直しでも望んだらどうだ?」

「…………」

「答えんか。ああ、そうだとも。そんな事は出来んよな。そんな真似をすれば、自らの道を蔑ろする事になる。貴様が周りの連中に齎した傍迷惑な感情も、崩れた国も、そして救ったものもなくなるんだからなぁ」

 確かにセイバーは多くの民を救った。その剣で、その技で、他国の脅威に喘ぐ民に救いの手を差し伸べた。だがそれが何だというのだろう。一番救いたかった人が救えなかった彼がより多くを救ったからといって、救われるわけがない。

 ああ、そうとも。この己は──サー・ランスロットはどこまでも無様な男だ。彼女の笑った顔が見たいと憚り、王を裏切ったその無様。そして今なお苦悩するその原因は、他ならぬ自らの救済を欲しているからだ。

 ああ、本当に。下らない。

 王妃よりも王よりも、この己が救われたくて、満たされたくて奔走しただけの話。その結果に絶望して、こんな世にまで化けてて出るなどと……。

 答えの出ない問いなどではない。とっくに答えなど出ているのだ。この己は救われたかった。誰よりも利己的に、王妃の笑顔を見たかったのは己の為で、王を裏切れないのも己の為で。
 ならばその罪の在り処と罰の所在は────……

「なあセイバー」

 ライダーの呟きと共に、ウェイバーの鼻腔を擽ったのは砂の匂いだった。辺りを見回しても、もちろん砂などない。こんな街中の、しかも橋上に砂塵が舞うことなど有り得ない。けれどついで吹き付けた強烈な風の熱さに、今己のいる場所を見失いかけた。

「貴様の心は確かに弱いが、やり直しを求めるほど愚鈍ではあるまい。ならば答えなど一つしかないだろう?」

「な、なんだ……?」

 世界が変わる。風景が歪む。先ほどまで冷たい風の吹き付けていた橋上に、今舞うは熱き砂塵。遥か天空を覆っていた暗雲を切り裂き、何処まで続く蒼穹が頭上を埋め尽くす。

「目を背けるなセイバーよ。貴様の心の弱さは、貴様自身のものであるが故に」

 響く蹄の音。彼方より現われたるは、勇壮な姿に身を包んだ数多の騎士。その全てが王の下へと馳せ参じるべく異世界より召集されたかつての臣。
 或る一人の王の背中に夢を見て、同じ大望を胸に抱いた愚者の群。

 いつしか完全に変わり果てた世界は、広大な更地と化していた。天に広がる蒼い空。何処までも続く平野。熱き砂塵舞うその空間こそ──

「固有結界……冗談だろライダー。オマエ……魔術師でもないくせに」

「応とも。余にはそんな真似は出来はせん。だがな、こいつらがいるのなら出来るとも。同じ夢を見た大馬鹿野郎達だ。余らが駆け抜けたこの光景こそが、我らが共に胸に抱く心象風景。世界一つ造る事など造作もない」

 ウェイバーの振り返る先には地平を埋め尽くす騎馬や兵の姿。死してなお征服王に忠誠を誓う臣下の中の臣下達。そして傍らに立つ王こそ、彼らの羨望を一手に集めた、王の中の王である。

 皆が駆け抜けた蒼穹の下に広がる平野。魔術師でもないくせに世界一つを作り上げるその偉大さこそが──征服王イスカンダルの真価。

 ────その名も『王の軍勢』(アイオニオン・ヘタイロイ)

 ライダーが真に頼みとする最終宝具。この光景こそが、イスカンダルの具現であった。

「…………」

 ウェイバーが呑まれたように、セイバーもまたその光景に打ちのめされた。彼が信奉する王には、こんな光景は描けまい。理想に生き、理想に殉じた王であり、人の心を解さなかった王には、こんな人の心を集めた奇跡は起こせない。

 だがあの孤高の王には光を束ねた剣があった。星の煌きと尊い理想を詰め込んだ、眩いばかりの光の剣が。

「くく……くははははははは……!」

 突如声高に笑い声を上げるセイバーを、ウェイバーはなんともいえない表情で見やるばかり。ライダーはウェイバーの肩を叩き、連れ立って戦車の下へと歩みだした。

 一人笑い続けるセイバーの心境は、もはやどこまでも黒く濁りだしていた。孤高の王に悲劇の王妃。その狭間で揺れ動いていた理想の騎士は、ただ静かに────己の罪を受け入れた。

「……そうだな。ああ、本当に。私はどこまでも愚かだった」

 小さく自嘲を刻む口元は兜に覆われて窺い知れなかったが、今一度戦車へと乗り込んだウェイバー達には俯いて肩を揺らすセイバーだけが見えていた。泣いているようであり、そして笑っているようでさえもあった。

「この後悔は、私が道を選び続けた結果で。最後に逃げた結果だった。王を裏切れず、王妃をも裏切れなかったが故に……どちらをも選べなかったこの己の生き方が、間違いだったのだ」

 ただの臣下として王に仕える忠臣にはなれず。位を捨てて唯一人の男と女にさえなれなかった、誉れある理想の騎士。その生き様こそがサー・ランスロットに許されていた生。決定付けられていた生き方だった。

 だがそれもまた、己自身が選んだ生き方ではなかったか。どちらをも選べず、選ばないという選択をしたが為の悲劇。どちらかは救えていたのに、我が身可愛さにどちらともを絶望に突き落としただけの話。
 その後悔。その悔恨。その無念は、誰に向けるべきものでもない。自らに向けるべき咎であったのだから。

「ああ……そんな弱さから逃げ出したくて、私は王に憎悪して、彼女の涙を盾とした」

 王が正しく男であり、王妃を愛していたのなら、本当に己は満足していたかと問われればきっと否と答えたに違いない。王妃の笑顔を独り占めにしたくて、きっと同じ悲劇を繰り返しただろう。

 そんな己が、どうして自分自身を殺して理想の為にだけ生きた王を恨めようか。ただ女としての幸せを欲して涙を流した女性を理由に憎悪出来ようか。

 全てが欲しかった。皆が幸せであり続けて欲しかった。けれどそれは叶わぬ夢で、理想を謳うには弱すぎて──人として生きるには強欲すぎた一人の騎士は、その生き方に囚われただけの話で。

「だから私は────……!」

 自らの咎を贖う術は既にない。許される事など有り得ない。永遠の慟哭。永劫の贖罪。絶望の淵、地獄の底で苦しみ続ける事だけが、理想の騎士に許された罪滅ぼし。

 ああ、こんな時でも己は利己的だ。それで何が変わるわけでもない。何が許されるわけでもない。王の理想を担えるわけでもなく。王妃の手を取れるわけでもない。ただ──己の自己満足の為だけに、魂の慟哭を張り上げよう。

「────」

 すらりと引き抜く借り物の剣。突きつけるは遥か前方に構える万軍。唯一人の王の名の下に集った勇者達。
 その光が余りに眩しい。彼の王では掴めなかった強き絆。だがその人々の王の前に、彼は──円卓最強のサー・ランスロットが、王に成り代わりて立ちはだかる。

「おい、ライダー。アイツ……なにか、変わったか?」

 戦車の御者台から遍く騎士達を背に、遠方に立つ黒騎士を見るウェイバーは嘯いた。何も違わない。何も変わっていない筈なのに、あの騎士を見ていると震えを覚える。恐怖からの震えなどではなく──強烈な威圧感に。

「ふん……やれば出来るじゃないか。では行くぞ坊主」

「え……?」

「さあ続け者共! これより我らが叩き潰すはただ一匹の虫けらよ! 蹂躙せよ! 汝らが戦力で以って、あの騎士を踏み潰せぃ……!」

 ライダーの高らかな叫びと共に、地平を埋め尽くす軍勢の第一陣が王と共に突撃する。先行するライダーの神威の車輪。派手な雷光を迸らせながら一直線にセイバー目掛けて突撃する。

 応じるセイバーは、真っ向から受け止めるなどという愚挙はせず、サーヴァントに与えられた人外の脚力から放つ跳躍を以って、ライダーらの頭上を越えていく。
 対軍宝具である神威の車輪はその圧倒的な威力と速力から小回りが利かない。その特性を逆手に取った回避であり、第二手を封じる為の一手。

 空高く舞ったセイバーは、そのまま後塵に配していた騎士達の中へと突っ込んでいく。手にした剣を一閃、手近に駆けていた一騎を斬り伏せ、繰り出された槍の一撃を掴み取って奪い取る。

 右手に剣と左手に槍を携え、未だ体勢の整わない王の軍勢を駆逐していく。ライダー達はただ傍観に徹するほかない。まさか味方に向けて戦車を突撃させるわけにもいかず、臣下達の力量を頼みとして采配を下すのみ。

「ウォォォォォォォォォォォォ……!」

 漆黒の兜の下で吼え上げながら、セイバーは次々に獲物を替えながら騎馬を兵を蹴散らしていく。裕に二十騎はいた一陣は、間もなく全てが撃破され、続く二陣はその時包囲網を完成させていた。

 ぐるりとセイバーの周囲を囲む先に倍する騎馬の群。その中には有名を馳せた兵ばかりが雁首を揃えている。ただの一騎。唯一人の騎士を相手に、王の臣下達は全力で王の敵を討つべくその手腕を振るう。

「かかれぇ────!」

 軍神の怒号と共に駆け出す数多の騎馬。完全に統制の取れた一団の突撃から繰り出される槍衾。避ける事も迎撃する事も至難を極める完全な包囲網の中──セイバーは一人、小さく笑った。

「舐めないで貰おうか征服王────!」

 その声と同時に無数の槍がセイバーのいた場所へと降り注ぐ。逃げ場のない蹂躙の地。その中でセイバーは、手にしていた武器を放棄し、虚空より現われたるただ一振りの剣を振るい──ただの一撃で囲む騎馬の全てを粉砕した。

「なっ……」

 ウェイバーは息を呑んだ。彼の目にはそれこそ何が起こったのか理解できなかった。突撃した騎馬の一団が、何か黒い衝撃に吹き飛ばされたようにしか見えなかったのだから。

 砂塵舞う戦場の中心に、漆黒の騎士は、その身を覆っていた黒い靄を霧散させ、代わりに闇色に染まった剣を振り抜いた姿で立つ。

 彼の兜に穿たれた一閃の亀裂。先ほどの包囲攻撃の時に躱し切れなかった一撃から、今まで彼の者の姿を覆いつくしていた兜を砕いていく。大きくなる亀裂。そんなものを意にも返さず、セイバーは己が剣を高く蒼穹に向けて突き上げる。

「我が名はランスロット。ブリテンの赤き竜に仕えし湖の騎士なり。偉大なる征服王──汝が相手取るは唯一人の騎士であるが、我が王の名代に立ってここに示そう」

 割れる仮面。晒される素顔。精悍なる美貌。闇に染まり狂気に囚われかけた騎士の面影は既になく。在りし日のサー・ランスロットの素顔、王妃ギネヴィアが愛し、アーサー王が朋友と呼んだ男の顔がそこにある。

「汝らが絆は尊くとも、我が王の理想はなお輝かしいものである。その眩さを恐れぬのならかかって来い。我が一なる剣を以って──万軍全てを滅ぼそう……!」

 たった一人、荒野に立つ騎士が謳い上げる。

 彼の手にする剣こそは、最強の聖剣に対を成す剣。湖の貴婦人より賜れし神造兵器。決して欠ける事のない清廉なる刃、当代最高の騎士だけが振るう事を許された誉れある剣。

 名を──『無毀なる湖光(アロンダイト)

 湖の騎士、理想の騎士と謳われた円卓最強の騎士──サー・ランスロットだけが担う事を許された最強の剣であった。

 地平を埋め尽くす王の軍勢に対し、己の信奉する王の理想を背負って立ち、絆を以って覇を唱えた王に立ち塞がる。

 今更王の理想を肩代わりするつもりはない。一度は捨てた道である。だがこの身は変わらず王に仕えるただの一騎士。その生き様を変えられないのであれば、かつての王の為にこの剣を振るおう。

 光ある者達の裏側で、闇の中に埋もれながら。自らに降り注いだ残酷なる仕打ちにのた打ち回りながら──それでも、手に掴む剣は、愛した者達の為に。

 湖の騎士が誓いを立てた王と王妃の為に。我が身に許された騎士の道を貫き通す為に。地獄の底で、その無様を誇り続けよう……!

「──ハッハッ! そうではなくてはなッ!」

 高らかに笑うライダーをウェイバーはじと目で睨む。

「おい、ライダー……オマエ、最初からアイツを本気にさせるつもりだっただろ?」

「ふん、さあなあ。だけど坊主、あの男……あれだけの腕前の持ち主ならば、やはり臣下に加えたくなるというのが本音というものだろうよ」

 この男はセイバーの真の力量を見抜いていた。その力を振るえない原因も。そして彼の迷いをわざと煽り立てる真似をして、自らその殻を破らせた。
 そのまま戦っていれば幾らかは楽に戦えたであろうに、今目の前に立つあの男はまるで別人だ。

 その名を知らぬ者はいない最強の騎士。彼のアーサー王すらも超えるという伝承まである紛う事なき本物の騎士の中の騎士だ。
 そんな奴の実力をわざわざ引き出して、正面から戦いを挑むなど……

「ああ、本当、オマエは本物のバカだ。でも──」

 それを嗜めようとしないこの自分も馬鹿なのだろうと、ウェイバーは思った。

「好きにすればいい。だけど、勝て。負けるなんてのは、このボクが許さないからな!」

 ウェイバーをして納得せざるを得ないセイバーの強さ。あの男の前に数の暴力がいかほどの意味を成すのか読み切れない。
 だからウェイバーはただ王の勝利を信じ、自らに出来ることをするだけだった。

「無論だ。確かに奴は強いだろうがな。余の臣下達を舐めんで貰おうか。ここからが、本場よ────!」

 車輪が在りし日の戦場の土を噛む。

「さあ者共! 戦よ! これより馳せるは誇りある戦場よ! 我らが敵はただ一人の騎士であれど、誇り高き騎士である! なればこそ、我らが威光を見せつけよ! 我らが強さを見せつけよ!
 加減など無用。全力で、死力を尽くし──最強の騎士の首級を奪いとれぃ……!!」

 高く空に舞い上がる王のウォークライに呼応して、王の軍勢もまた遠く空に吼え猛る。ウェイバーもまた、王の朋友として、声を嗄らせて叫びを上げる。

 万軍の中心に立つ騎士は一人、己の魂を鼓舞する。

 ああ、王は恐らく、常にこんな状況にあったのだろうと追想する。王と騎士という隔たりは、敵と味方と同じくらいに差があったに違いない。
 王は人の心が分からなかった。だけど騎士もまた、王の心を解さなかったのだ。

 王への贖罪。王妃への罪滅ぼし。彼のせいで失われた全ての者の怨嗟を、己が内に封じ込め、騎士は一人戦場で剣を握る。

 地平を埋め尽くす彼軍と一にして全なる尊い理想の代弁者。心を紡ぐ絆の軍勢と過日の曇りなき剣とが、今此処に──最後の火花を散らす。


/V


 構えた銃が怒号を放つ。火薬の爆発により加速した弾丸は、けれど標的を捉える事無く薄闇の彼方へと消えていく。
 続けざまに放つキャレコ短機関銃の乱射は回避さえされる事なく、その全てを総身に喰らいながらも止まる事無く猛然とアーチャーは切嗣目掛けて突進する。

「…………っ!」

 戦闘開始時より使い続けている固有時制御の反動を奥歯を砕くほどの力で噛み締め振り払い、繰り出される二閃を異常な速力で回避する。
 アーチャーが更なる一手を打つ前に、コンテンダーに魔弾を装填。唯一切嗣の持つ武装の中でアーチャーにダメージを与えられる可能性のある弾丸を込め、足を止めた赤い騎士を見据えた。

「がっ、は、ぁ……!」

 アーチャーの剣閃ではなく、自らの魔術の反動で切嗣は吐血する。肉体の限界を超えた魔術の酷使はそれだけで切嗣の身体を蝕んでいく。
 けれど切嗣にはこうするしかない。常人の身体能力しか持ち合わせず、対魔術師用に特化した武装しか持たない切嗣が、曲がりなりにも戦闘の体裁を取り繕うにはこの方法しか有り得なかった。

「無様だな、切嗣。そうまでしておまえは聖杯に縋りつきたいのか?」

 アーチャーはあくまで余裕の体を崩さない。それもその筈──これは既に戦闘などではない。切嗣は身を犠牲に逃げ回る事でなんとか耐えていても、致命傷を与えられない戦いなど戦いとは呼べまい。

 剣の一振りを当てればそれで勝てるアーチャーとは違い、切嗣がサーヴァント相手にダメージを与えられる可能性があるものは唯一魔弾のみ。そもそもからして、切嗣はサーヴァントと戦う気などなかったのだから、当然といえば当然だ。

 サーヴァントの相手をマスターが務める、などという非効率な手段をこの効率を優先する男が選択する筈もない。だからこそ、アーチャーの裏切りは誤算だったのだ。

「聖杯、か。遍く全てを叶える願望器。なあ切嗣、おまえの理想は結局何なんだ? 恒久の世界平和──大いに結構だが、本当に、それは心の底からの願いか?」

「なに……?」

 一定の距離を保ち踏み込んでこないアーチャーを見やり切嗣は好都合だと判断。今襲われてしまえば、それだけで勝負は決する。最悪の場合──令呪の使用も選択に入れなければならない。

「おまえの正義の在り処を問うている。おまえにとっての正義とは何だ? あるいは、その手を血で染める事を厭わない悪の根源は何だ? 何故、人の身でそれほどの愚昧なる夢を見た」

「…………僕には、救わなければならないものがある」

 かつて、助けたくて助けられなかった人がいた。殺してくれと嘆願した大切な人から逃げ出したばっかりに、島一つを皆殺しにした。
 自らの手を染めた血の赤。微かに薫る硝煙の匂い。無感情に、無軌道に、淡々と銃を自らの父へと向けたその懺悔。

 自らの咎の贖いを求め、世に蔓延る悪を駆逐する事を選択した一人の少年。その為には自らを育ててくれた女性さえも巻き込み悪を滅ぼし、戦場で拾い上げた幼子を人を殺す為の機械に作り変える事も辞さなかった。

 そんな全てを犠牲にしてでも、この世の悪の根絶を夢見た一人の男。その果てが──衛宮切嗣。人の手では行えない救済。世界の改変を奇跡に託す亡者の完成だった。

「フン、下らないな本当に。おまえの理想などこの世にあるわけがない。世界を救う? 恒久の平和? 皆が幸せになる夢? 馬鹿馬鹿しい。
 世界という奴は公平になんか出来ちゃいない。上限と下限が存在し、ただ平均が生まれるだけ。全てが平等などというものは──有り得ない。そこまで世界は優しくなどないのだから」

「それこそ戯言だろう。おまえの見た世界など知った事ではない。聖杯は全てを叶える奇跡だ。有り得ないなんて言葉こそが有り得ない」

「ならば聖杯はどうやっておまえの願いを叶えてくれる? このモノでしかない器と、無色だとかいう力の渦に、奇跡の方向性を与えるのは一体なんだ。つまりそれは、願望者の祈りに他ならないのではないか?」

 アーチャーの背後に輝く聖なる杯を見つめる。確かに、その言葉には意味があった。無色の力。方向性のない膨大なまでの魔力が起こす奇跡は、ただ願えば叶うような代物なのだろうか? 御伽噺に出てくる模造品のように。

「まあいい。仮の話をしても意味がない。問題は、この聖杯がそんな代物ではないという事だ。無色の力の渦ではなく黒い悪意の塊。確かな方向性を持つこの世の悪であるというその一点」

「…………」

「おまえが聖杯を信奉するのは構わない。どれだけの歳月をその祈りの為に費やしたのかを知らないオレに、今更おまえの願いを否定する気など更々ない。
 だがこの一線だけは譲れない。オレの背後にある聖杯の真相をおまえはまだ知らない。そして知る覚悟があるのなら、オレと共に来い」

「なにを……」

「見せてやると言っているのだ、聖杯の正体を。おまえの清い祈りを受けて悪を吐き出す紛い物を」

「…………ッ!」

 ギリ、と音を立てて切嗣は奥歯を噛み砕く。目の前の男の目的など知らない。本当に未来より招かれたのかも知らないし、聖杯の真実が何処までが本当なのかも不明のまま。
 しかし変わらないものが一つだけある。衛宮切嗣は是が非でも聖杯を手に入れなければならず、アーチャーは壊さなければならないというその一点。

 完璧なまでの断絶。決して互いを受け入れられないが故の亀裂。だから、

「……ふん、そうだな。おまえには、そうするしかない」

 切嗣はアーチャーに銃を向ける。勝算のある戦いではない。切嗣らしくもない無謀な戦いだ。けれど、ここで退く事など出来ない。いつか過った道を今一度歩む為、ここで目の前の『敵』に背中を向ける事などあってはならない。

 胸に抱いた空虚な理想に、背く事はあってはならない。その夢を叶える為に。犠牲にしてきた全てに報いる為に。
 衛宮切嗣はその足を止める事を許されてなどいないのだから……!

「……やはり貴方は、そういう人か」

 アーチャーは切嗣に聞こえない声量で自嘲する。

「ならばいい。おまえはその理想を抱いて溺死しろ。そしてその果てで目を見開け。絶望の底で慟哭しろ。このオレと同じように。おまえの望んだものの正体を、このオレが見せてやる──!」

 もはや容赦のない疾駆を以って、アーチャーは爆ぜ。切嗣は限界を超えた肉体行使を以って迎え撃った。



 一騎当千。

 その言葉がウェイバーの脳裏を埋め尽くしていく。

 遥か眼窩に群がる数多の兵。唯一人の敵を討つべく召集された兵団の全てが、その敵に駆逐されていく。
 突き出す槍の悉くが躱され、降り注ぐ弓矢の雨は捉える事さえ出来ない。ステージで踊るかのような華麗なまでの演舞を繰り広げ、ただ一振りの剣で以って襲い掛かる全ての勇者を破滅させる。

 漆黒に染まる闇色の剣は、血飛沫を高く舞い上げ、血の雨の降り注ぐ戦場の只中で黒く煌く。

「なんだ、これ……」

 ウェイバーはもはや恐慌に襲われながら戦場を俯瞰するしかなかった。征服王の軍勢が特別劣っているわけではない。むしろ英霊の格としてみればその誰もが王に比類するに足る傑物達だ。

 だがあの男──サー・ランスロットの戦闘能力が異常に過ぎた。

 たった一人で万の敵影を相手取れるだけの神掛かった技量。類稀な才。手にするは最強に比する剣。全てのポテンシャルが頭一つ以上抜け出している。更には精霊の加護による幸運すらも引き寄せ、絶対に躱し切れない一撃さえも奇跡的に回避せしめる。

 化物。

 その形容こそが相応しい一騎にて千に当たる最強の騎士。王としての才覚はイスカンダルが上であろうと、こと騎士としての戦い──白兵戦においては、あの男に右に並ぶ者など世界を巡っても数人しか存在しないのではないかと思わせる傑物だった。

「おいライダー! 何とかしないと負けるぞ……!?」

 流石にセイバーでも数の暴力に多少は圧され始めているが、それでもまだ彼の者の方が有利。軍を率いるべき王は遥か高空から俯瞰するばかりで、立ち向かう臣下達に手を貸すわけでも知恵を授けるわけでもない。

 このままではたった一人の男に王の軍勢が撃破される。その有り得てはいけない未来のイメージが、ウェイバーの脳裏を掠めだした。

「動じるな坊主。これは戦よ、王の戦よ。確かにあの男は無双の豪傑だが、あくまでたった一人の戦いだ。それは戦術ではあっても戦略ではない。王の軍略に、抜かりはない」

 戦術と戦略の解釈の違いについて考えるだけの余裕もないウェイバーは、ただただすまし顔で事の成り行きを見つめるライダーと、眼窩の戦場とを何度となく睥睨し続ける。

「くっ、はぁ────!」

 けれどその兆候はすぐさま現れた。圧倒的な数の戦力に物を言わせる王の軍勢。その全てを相手取るセイバーの体力が先に尽きかけていた。
 一撃受ければすぐさま無数の槍が繰り出される戦場。弓矢を避け損なえば串刺しにされかねない決死の戦場。その中で世に名を残す勇者達を相手取りながら、無傷で戦い抜くなどという暴挙はセイバーをして至難を極めた。

 戦術レベルの戦いなら確かにセイバーは最強だ。いかな強大な宝具の持ち主であろうともそれを使わせる前に肉薄し駆逐するだけの能力を有している。
 しかし対軍、あるいは対城の宝具を持たないセイバー最大の欠点は、術の中心点であるライダーが高空に立ち止まられては手の出しようがない事に尽きる。

 この結界が王と臣下によって構成されたものであるのなら、その数を減らせば何れ消え去る。だがその『何れ』がいつか分からない状況下で、襲い来る無数の兵を相手取り続けるのは心が先に折れてくる。
 緊張の連続。張り詰めた糸を切らせぬように剣を捌くセイバーは、それでもライダーにも気を配らなければならない。

 あの戦車の突撃を喰らえば確実な致命傷を被る。王は一人の戦士として警戒に値し、そして王としての統率者としても面倒極まりない相手だった。

 軍を相手取る上での最上の策は頭を潰す事。固有結界の維持がライダーの意思によるものならなおの事だが、手出しが出来ず、体力切れに追い込まれてしまえばじりじりと追い詰められていくだけ。

 この状況はライダーの掌の上。セイバーが戦術レベルで戦い続けるしかないというのに──ライダーは戦略としての戦い方をしていた。

「くっ……がっ……!」

 そしてとうとうセイバーの肉体を槍が捉える。黒い鎧を貫き赤い血を零す最強の騎士。続けざまに繰り出される幾らかの槍を捌くも、全てを迎撃出来る筈も無くさながら磔のように槍が抉る。

「はっ────舐めるな……!」

 気力を振り絞り振るうアロンダイト。黒き衝撃が波となって周囲に放たれ、セイバーを囲んでいた騎馬を一撃で吹き飛ばす。

「はっ、はっ、は、ぁ……」

 鎧に無数の風穴を開けられたセイバーは、それでも剣を支えに膝を地に付く事はしなかった。この身は王の仕えし理想の騎士。この身が膝を屈するという事は、王の名が穢れるという事。
 それだけは出来ない。それだけは許せない。自らがどれだけ泥を被っても構わなくとも王の名を穢す事は、これ以上貶める事はあってはならないのだから。

 その時、吹き荒んでいた熱砂の風が唐突に止み、肌を裂く冷たい風が吹き付けた。歪む景色、罅割れる結界。王と臣下が作り上げていた異界が、その形を失くしていく。

「…………」

 持続時間が切れたのか、臣下が数を減らし保てなくなったのか、あるいはライダーが自ら解除したのか。真相は分からぬままに、セイバーとライダー、そしてウェイバーは、冬木市を分かつ橋上へと舞い戻った。

 遥か空に浮かんでいたライダー達は、結界の解除と共に地上へと滑り降りる。そしてそのまま、ライダーは戦車さえも降りて地に立った。

「まずは褒め称えよう、セイバー。余の軍勢と比してなお圧倒するその暴力。恐れを抱くほどに素晴らしい」

「…………」

「だからこそ、再度問おうセイバー。余の臣下となれ。その剣は、我が下で振るう事こそ相応しい」

 仁王立つライダーはキュプリオトの剣を大地に突き刺し、王の貫禄を背に乗せて謳い上げる。最後の勧誘。無双の騎士が剣を振るうべきはこのイスカンダルの下をおいて他にはないと。

「戯言だな、征服王」

 喀血し、身体に穿たれた穴より血を流し続けるセイバーは、けれど毅然とした態度を崩す事無く憚った。

「私が剣を捧げしは唯一人の王だけだ。我が身命を捧げしは愛した女性だけだ。彼の者達に捧げた騎士の身なれば、おまえの為に振るう剣はない。
 私は──この弱い私は、全ての罪を受け止めて、そして彼らの為だけにこの剣を振るうのだから」

 それがセイバーが向き合った答えだった。何ひとつ解決などしない無様な答え。何処までも独り善がりな自己満足。騎士という生き方に縛られ、抜け出す選択をしなかった愚か者の唯一つの闇。

 光の中で輝く王の裏。闇に染まり堕落する事を決定付けられた理想の騎士に許された贖罪は、ただ己を戒め続ける事に他ならない。
 全ての闇を受け止めて。王の慟哭を聞き届け。王妃の涙を直視して。その全てを自らの咎と果たし、絶望の淵で叫びを上げ続ける。

 その無様を肯定しよう。血の涙を流し、自らの重き枷と永遠に付き合うと決意したのだから。

「そうか……。まこと残念でならんが、是非もない。王に従わぬ騎士は遍く敵よ。余は貴様の背後にある聖杯を掴み取る為、その強さを超えていく」

 ライダーが剣を構える。騎士としての格では絶対に敵う筈もないライダーが、剣の一つを頼りに最強の騎士と向き合った。
 セイバーの総身を覆うは彼の臣下達が残した傷痕。奪い取った戦果だ。その最後の一刀を王の手によって決するべく──寒風の吹き荒ぶ橋上にて最後の闘争に身を投じる。

 セイバーもまた応じる。手にする自らの象徴たる魔剣を構え、ライダーと相対する。

「────」

「────」

 風さえも侵入を拒む静謐な空間。二人きりの戦士にだけ立ち入る事を許された決闘場に──今、最後の剣戟が響く。

「おおおおおおおおおおおおおお……!」

「はあああああああああああああ……!」

 高き雄叫びと共に両者は爆ぜ、白銀と漆黒とがぶつかり合うその瞬間──

「ライダー! 勝てぇぇぇぇぇぇ……!」

 唯一人、部外者として存在していたウェイバーの声を聞き、ライダーの一刀が有り得ぬ加速を以ってセイバーに襲い掛かる。
 ザクン、と音を立てて身体に抉り込む刃。血肉を斬り裂いた刃の到達は、両者が全くの同時で。

「見事だ……征服王」

 ただ単純に、身体に受けていたダメージの差によって、セイバーが膝を屈した。

 ライダーの身体に突き刺さったアロンダイトから手を離し、崩れ落ちるセイバー。深々と袈裟に抉られたライダーの剣筋から、溢れ出る血が翼を描く。
 ライダーもまた、セイバーにより抉られた傷から血を吐き出し、突き刺さった魔剣を引き抜き、騎士の傍らに突き刺した。

「ぁ……負けた、か」

 セイバーは小さく自嘲した。セイバーとライダーを分けたものは、たった一つ。その背に背負う者があったかどうかだ。セイバーも多くの咎と悲しみを背負ってはいるが、この時代のものではない。

 ライダーが背負う者。それはマスター、ウェイバー・ベルベットの存在だった。

 最後の吼え声──ウェイバーの『願い』は確かに令呪の魔力によって加速され、ライダーの後押しをした。その声がなければ、ライダーの身体を両断していたのはセイバーの剣の筈であった。

 つまりはマスターの存在──令呪の有無。この時代にて築き上げたものがあったライダーが、ただその全てを用いてセイバーを破っただけの話であった。

 唯一人──騎士として戦い抜いた男と、背中を預けられる朋友と共に戦場に臨んだ王。二人の決定的な差は、それだけでしかなく……それが故に決定的だった。

「行ってくれ、ライダー。せめて死に様くらいは、看取らないでくれ」

「うむ。ではな、最強の騎士よ。貴様はまことに良き使い手であった。貴様の仕えた王もさぞかし鼻が高かろう」

 ライダーとウェイバーは戦車に騎乗し空に舞う。聖杯降臨の地へ向けて。セイバーはただ──呆と消えていく騎影を眺めていた。

「はは……負けてしまいました、我が王よ。この身は、貴方に勝利を捧げる事も許されないらしい」

 零れていく命の音を聴きながら、乾いた笑みを浮かべる。

 本当は、あの男が羨ましかった。あれだけの者を背に立つ絆の王が。あの姿は、彼が王と共に夢見たものであった筈だ。
 円卓に集いし騎士達と共に、築き上げられたかもしれない絆を夢想と見る。理想の王の傍らには常に己の姿があり、共に戦場を駆け、飲み食い歌い、民を守り導き生を謳う。

 そうして過ごせていれば、どれだけ救いがあっただろう。王が理想を求めず、騎士が夢を見ず、王妃が願わなければ築けた絆。

「いや……違うな。私はそれでも、この結末が好ましい」

 互いの主義主張がぶつかりあっただけの話。決定的な断絶の中でも、王は騎士を朋友と呼んでくれたのだ。抗えぬ罪を許そうとしたのだ。理想を求め無感情に治世を行った王が見せた、唯一つの感情。

 それだけで、本当は救われていた筈だ。その時王の想いを受け止め、我が身を差し出していれば全てが丸く収まっていた筈だった。
 そんな事にも気付かない、気付けない振りをして、弱さから逃げ出した結果だ。だから弱さを受け止める事だけが、彼に許された贖いだ。

「申し訳ありません王よ……私はそれでも、貴方の朋友でありたかった。愛した女性に、微笑んで欲しかった」

 何処までも強欲な騎士の想い。負の想念、闇色に囚われた今もなお、ランスロットは清廉な心で夢を見る。
 この身が王の傍へといけるとは思っていない。だからせめて、王には安らかな眠りがあるようにと、最期に祈りを捧げて。

「ああ、本当に……」

 その最期に……自らを死してなお長年苦しめ続けていた呪縛より解き放たれた──否、受け止めた湖の騎士サー・ランスロットは、幸福な笑みを浮かべて、吹き付ける風の中に消えていった。


/IV


「…………ぁ」

 決着は速やかにして成った。

 いかな魔術師殺しとはいえ、人外のサーヴァントを正面から相手取って勝ちを拾う事など出来ず──されるがままに痛めつけられ、今はコンサートホールより辞し何処かへと連れ去られようとしていた。

 階段を上っているとは理解が出来た。襟首を掴んだまま引き摺るように階上を目指すアーチャーの思惑は知れず、切嗣は失意の内に沈み込む。

 ここまで来たのに。後一歩で全てが叶うというその瞬間に、何故──こんな事態になっている。これまで多くの者を犠牲にしてきた。ただ冷やかに天秤の揺れを見つめ、大を救う為に小を殺し尽くしてきた。

 それが切嗣に許された正義の在り処だったから。幼少期──自らの決断から逃げ出し、死ななくて良かった命を犠牲にした切嗣の贖罪。
 大切なものを殺せなかった事で失った多くの命。その後奪い取った大切なものに報いる為には、こうするしかなかったのだ。

 大切な一を救う為に、見知らぬ十を犠牲にする事が出来なかった。心の諦観と共に手に入れた強さを免罪符に、切嗣はこれまで多くの嘆きを葬り、それに倍する多くの笑顔を救ってきた。誰も──彼の行いを知らぬままに。

 この世に救いなんてなく、ただ闘争だけが満ち溢れている。人の手による救済の最善、少数を犠牲にする事で多くを救うその諦観。
 その終わりが、聖杯という奇跡との出逢い。人の手では行えない世界の改変を夢見て、この闘争に身を投じた。

 九年の長きに渡り愛した妻を犠牲として、その頂を目前と控えたこの瞬間──何故、切嗣は希望を前に絶望しているのか。目の前にある希望に縋り付く事さえ許されない程に、世界という奴は悪辣なのだろうか。

 だが。

 切嗣が思う以上に世界は残酷だった。今──全てがその瞳へと突きつけられる。

「見ろ」

 掴み上げられる頭蓋。いつしか外──屋上へと出ていて、アーチャーは切嗣の頭を掴み目の前のモノを見せ付ける。

「──────────」

 身を裂くほどに冷たい風が吹き荒ぶ冬木市民会館屋上。その更に上──天空に鎮座するソレは、余りにも近くに浮かぶ黒い太陽のようだった。

「なん、だ、これは……」

 こんなものは知らない。こんなものは見た事がない。見ているだけで震えを覚える漆黒の憎悪。渦巻く闇が形を成すように、鈍色の空に穴を穿つ。

「これがおまえの求めた聖杯の正体だ。見ろ。その瞳に焼き付けろ。これがおまえの望んだものだ。おまえが世界を救うと妄信した、聖なる杯の本当の姿だ」

「…………ぁ」

 有り得ない。

 見るからに醜悪。何処にも無色の力など存在しない、ドス黒いまでの悪意の塊。輪郭をなぞるように黒い雫が空より垂れ落ち──さながら涙の如く零れたソレは、切嗣らの眼前にある屋上のタイルを焦がす。

 ──何だこれは。

 触れる全てを溶かす灼熱。黒く燃え上がる憎悪の焔。

 ──何なんだこれは。

「理解したか? これが聖杯だ。おまえは世界を救うという祈りを求め、結局こんなものを世に呼び起こす手助けをさせられていたのだ」

 ……一体、何だというのだこれは!?

この世全ての悪(アンリマユ)。この世の全て、六十億の人間を呪う悪意。それが──この地に眠っていた聖杯の正体だ」

「ぁ……あぁ……!」

 そこで切嗣は理解する。これは違うと。少なくとも、こんなもので己の祈りが叶えられる筈がない。

 間違っていたのは──衛宮切嗣なのだと。

 唐突な理解。完全な理解。このままこの聖杯が成れば、内なるものが溢れ出す。この世全ての悪と名付けられた悪意が零れ落ちる。
 それは止められない。開かれた門を閉じる術など有り得ない。破壊するのなら、今。この瞬間、自らの手で、切嗣は縁とした聖杯を打ち砕かなければならない……!

 しかし。

 それは、あるいは必然であったのか。

「…………っなに!?」

 突如、アーチャー達が見上げる先。黒い太陽が渦を巻き、内なる悪意の束を吐き出していく。未だサーヴァントの残るこの状況で、何故聖杯がそんな真似をするのかと訝しむ間もなく。

「切嗣……!」

 降り注いだ悪意より逃す為──アーチャーは屋上より切嗣を突き落とす。この場で呪いに呑まれてしまえば全てが終わる。その前に、せめてその男だけでも突き飛ばした。

「────」

 切嗣は半ば茫然自失のまま落下していく。ただ黒い太陽を見上げたまま。零れ落ちる悪意を見据えたまま。その結末が──決して受け入れられないが為に。

「がっ……ぁああ……!」

 アーチャーの身を焦がす黒い汚泥。サーヴァントならば決して逃れられない悪意に囚われたアーチャーは、けれど間際にその姿を目視した。

 悪意に呑まれ崩壊していく冬木市民会館屋上の下。罅割れ砕け、溶け落ちていくコンクリートより覗く階下。
 コンサートホール中央、聖杯の頂く場所に佇む一人の神父の姿を。


/III


 時間は僅かに遡る。

 言峰綺礼にとっての計画は、全て滞りなく進んでいた。

 切嗣とアーチャーは聖杯の前で待ち構え、セイバーとライダーは冬木大橋で対峙する。結果、どちらが勝っても綺礼には損はない。セイバーが勝てばアーチャーにぶつけ、ライダーが勝利するのなら隙を見て切嗣と対峙を望むまでだった。

 ただその刻限を待つに待てず、心の逸った綺礼は単身、無謀にも冬木市民会館に忍び込んだ。心に解を求める男、これまで綿密な計算によって全ての状況を築き上げてきた男が行う余りの下策。
 侵入を感知され、アーチャーでも現れれば全てが水泡と帰すというのに、けれど綺礼は自らを止める術を失い内部へと潜入した。

 ただその刻限、状況は綺礼に味方した。切嗣はアーチャーの裏切りに遭い対峙を余儀なくされており、綺礼の侵入に二人は気付ける状況になかった。

 二人は。

「止まりなさい、言峰綺礼」

 そう、この場にはもう一人人間が存在している。切嗣の片腕──久宇舞弥。漆黒の衣装に身を包む女と、綺礼はエントランスの片隅にて対峙した。

「女か。邪魔だ、おまえになど用はない」

「そちらになくともこちらにはあります。言峰綺礼──貴方を切嗣の下へは行かせない」

「……使命感か義務感か。何やら知らんが、邪魔立てするなら殺すまでだ」

 もはや綺礼にとってあるのは切嗣との対峙だけ。目の前に立ちはだかるのなら女子供でも容赦する余裕など欠片も持ち合わせていなかった。

 綺礼が僧衣の裾へと手を滑らせた瞬間、舞弥は一息にエントランスに突き立つ柱の影に身を翻す。一瞬後、解き放たれた黒鍵が中世ヨーロッパを彷彿とさせる大理石めいた柱に深々と突き刺さり、けれど舞弥には届かなかった。

「小賢しい」

 綺礼が走る。左右六本の黒鍵を携え疾駆する。舞弥もまた、事前に用意しておいた道具──撹乱の為の発煙筒を放り投げ、綺礼の視界を奪い取る。

 しかし綺礼はその手法を一度切嗣との対決で味わっている。走り去る足音を耳聡く聞き取り、音源目掛けて黒鍵の投擲。

「ぐっ……!」

 舞弥の呻き声を確かに聞き、綺礼はそれでも逃げ惑う女の行方を追う。切嗣との対峙の場に、余計な邪魔立てはあってはならない。
 確かにその存在……久宇舞弥の存在は綺礼も知っていたが、切嗣がわざわざ差し向けてくるとは思ってもいなかった。

 使うのならせめて援護射撃程度──と高を括っていれば、まさか真正面から相対してくるとは。切嗣との対峙を邪魔される前に葬れるのなら都合がいい、くらいにしか綺礼は考えていなかった。

 逃げる舞弥は階下を目指す。地下駐車場。切嗣の儀式の邪魔になる事もなく、自由に戦える空間。そして入念な準備を重ねた決闘場だ。

「はっ、はっ、はぁ──」

 息を切らせる舞弥の片腕には、黒鍵が突き刺さっていた痕がある。赤い血を零していく左腕。綺礼相手に片腕を失った不覚は余りにも大きい。

「聞くまでもないが。衛宮は一階にいるな? わざわざこんな場所まで誘き出して、まさか一人で私を抑えるつもりだったか?」

「勿論です。私は確かに言った筈です……貴方を切嗣の下へは向かわせない、と」

 その言葉を聞き、綺礼は思案げに一つ頷いた。

「おまえが一体何を求めて切嗣に入れ込んでいるのかは知らないが、私にとっては些事に変わりない。覚悟しろ女。時間はそれほどないのでな、速やかに殺させてもらう」

 走る。豹もかくやという瞬発力で綺礼が爆ぜた。応じる舞弥の右手には短機関銃。ばら撒いた銃弾も、綺礼の特殊僧衣にはほとんど意味を成さず地に落ちる。

 翻る銀閃。奔る刃。触れれば裂ける脅威の切れ味を誇る一閃が放たれようとして、舞弥は右手に引き抜いた大型ナイフで黒鍵を弾く。
 投擲を主とした黒鍵の重心では近接攻撃には向いていない。その仕様を逆手に取ったナイフの捌き。綺礼が防がれた事に微かな感心を覚えている間に、舞弥は続けざまにナイフによる連撃を繰り出す。

 しかし綺礼も手馴れたもので、黒鍵を器用に扱い舞弥のナイフを防ぎ切る。両手の自由な綺礼と不自由な舞弥では、手数という時点で圧倒的に綺礼が有利であった。

 元より遊びを差し挟む気のない綺礼は、バックステップにて大きく後退、直後──左右二本の黒鍵を同時投擲。更に踏み込み追い討ちをかける。

「くっ────!」

 舞弥は巧みにずらした身体で、どうにか高速で突き抜ける黒鍵に致命傷を負わされずに済み、脇腹を裂かれる程度に抑えたが、その隙を衝くように綺礼が迫る。舞弥も切嗣より聞き及んでいる。綺礼の真骨頂はインファイトによる八極拳であると。

「────っ!?」

 打ち抜いた震脚から渾身の一撃を見舞おうとした綺礼はしかし、舞弥が痛んだ左手の中に隠し持っていた何かを目聡く見咎め、更に周囲へと張り巡らせていた感覚の糸で、完全な不意打ちを察知し後退した。
 直後、横殴りの雨のように、綺礼のいた場所をあらぬ方向より撃ち出された銃弾が貫いていった。

 肩で息をする舞弥の右手には大型ナイフ。左手には遠隔操作用のスイッチ。この場所は舞弥が事前に仕込みを済ませた決闘場。疎らに停車している車は全て舞弥の手の入った自動機関銃と化している。

 無論、綺礼の装備を事前に切嗣より聞かされていた舞弥が準備した代物であり、大口径の銃弾はキャレコ短機関銃などとは比較にならない破壊力を有している。いかな綺礼といえど直撃を被ればダメージは免れない。

 その証拠に、躱し切れなかった綺礼の僧衣の裾を確かに銃弾が焦がした痕があった。

「フン、手の込んだ真似をしているな。いや、これは私の落ち度か。切嗣に聖杯を残した以上、迎撃の準備はあって然るべきだからな」

 けれど綺礼は余裕の体を崩さない。左右六本の黒鍵を引き抜き周囲を睥睨。停車している車の数は十一台。位置取り的には全て綺礼を囲む形で置かれている。正しく、この場で敵を迎撃する為に拵えた決闘場であった。

「時に女。おまえは何故それほどまでに衛宮に入れ込んでいる? あれ程空虚な男に、おまえのような女が理解を示す事など有り得まい」

「……貴様に切嗣の何が分かる」

 舞弥の体が沈む。身体の前に構えたナイフを剣に盾に、左手に隠し持った援護機銃を以って眼前の仇敵を刈り取る為に。

「分かるとも。いや、あの男を真に理解しえるのはこの私をおいて他にない。心の空虚を埋めるモノを探求した日々。そしてソレをアインツベルンで確かに手に入れた男……私が求めて止まぬモノを手に入れた男なのだからな、あれは」

 その時、これまで冷徹な無表情を貫いてきた舞弥が小さく笑いを零した。

「ほう? 仮面でも被っているのかと思えば、笑えるだけの感情は持っていたか。それで、何がおかしい」

「貴様の勘違いが滑稽すぎて」

「なに……?」

「やはり貴様には、切嗣の何もが分からない──!」

 舞弥が爆ぜる。同時に、綺礼を包囲していた車のフロントガラスを突き破って、中に仕込まれていた機銃から一斉掃射が繰り出される。避けようのない包囲網。完全に逃げ道を封殺された状態で、綺礼は──跳んだ。

 璃正より譲り受けた余剰令呪を身体強化に変換し、元々の強靭な脚力が更に強化された結果、周囲よりの掃射に先んじて跳躍を果たし、銃弾の交差する死地より脱出する。

 更に左右六本の黒鍵を車内に隠されていた機銃の銃身を貫かんと放ち、寸分違わず全ての刃が銃身を砕いた結果、巻き起こる爆発。
 車体さえもまるで紙のように貫いた黒鍵は機銃の破壊と共に爆発を巻き起こし、連鎖的に地下駐車場を火の海に変えていく。

 落下の最中──僧衣より更に黒鍵を六本引き抜く。残る車の数は五。舞弥も含めて必要充分。

 けれど舞弥とて綺礼の異常な身体能力と埒外の攻撃力に瞠目し続けるわけもなく、残る機銃を操作し身動きの取れない綺礼目掛けて銃身を動かし銃弾を掃射。自らもせめてもの足止めとキャレコを放つ。

 綺礼の身体強化と僧衣の防御力を以ってしても守り難い銃弾の雨が降り注ぐその刹那に、綺礼の本当の異常性を目の当たりにする事になる。

 手にしていた黒鍵の一本を足元目掛けて投擲。垂直に突き立った剣を踏んで──綺礼は真横に爆ぜた。

 同時に綺礼の身へと襲い掛かっていた銃弾に対する盾として扇状に広げていた黒鍵にて封殺。隙間を縫った弾丸の直撃を脇腹に受けても、言峰綺礼は止まらない。

 血を吐き出しながら舞う綺礼。さしもの舞弥もそんな超の付く人間離れした動きを見せられて、一瞬ばかり硬直した。そしてその隙こそが、絶対の好機だった。

「ガッ、あぁ……!」

 舞弥目掛けて跳躍を果たした綺礼はそのまま踊りかかり、右腕を絡め取りながら着地を果たし、銃を奪う。更に後ろ手に締め上げて、地面へと叩き伏せ、左腕に握っていた遠隔操作のスイッチまでも踏み砕いた。

「げぇ……」

 強かに胸を打った舞弥は肺に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられた。そして脳裏を埋め尽くす虚無感。背後に立つ化物の存在を、侮ってなどいなかったというのに──全てを粉砕された舞弥は、呻く事しか出来なかった。

「さて……女。さきほど興味深い事を口にしたな。私には衛宮が分からないと。言え、何故そんな確信を抱けるのかを」

 炎が周囲に踊る地下駐車場。延焼した火の粉が無事だった自動車へと飛び移り更なる爆発を呼び起こす。
 脇腹より血を流しながら、地に伏した女を冷徹な瞳で見据える綺礼。自由を奪われた舞弥はただ強く睨み付けるばかりだった。

「言え」

 沈黙を貫こうとする舞弥に突き刺される黒鍵。左右の腕に一本ずつ。さながら磔の如く地に縫い付けられる。

「…………っ」

 それでも歯を食いしばって喋ろうとしない舞弥を見やりながら、綺礼は妙な感覚を得ていた。何故これほどまでこの女は切嗣に操を立てているのかと。
 金で雇われているのならここまで頑なになる事など有り得ない。切嗣が道具として重用しているだけなのなら、この場での戦闘すら無意味。

 切嗣がこの程度で綺礼を殺せると思っていたのなら安く見られたの一言で仕舞いだが、やはり何かが引っ掛かる。

「────」

 睨み付けるその瞳。見上げてくるその瞳には強く美しい意思が宿っている。そうなるとやはり、この状況は切嗣の命令によるものではない。この女の独断によるもの──と思えてしまう。

 そして更なる疑問。

 この女が切嗣に組する理由。切嗣の命令さえ反故にして綺礼を通さないと憚った理由。その理由について──思いもつきたくもない結果が綺礼の脳裏を掠めた。

「ふっ、馬鹿らしい。衛宮は私の側の人間だ。そんな結末は、あってはならない」

 それは既に妄執。綺礼にとって切嗣は答えを持つ者でなければならない。でなければ、綺礼は今持つ歪な解を受け入れなければならないのだから。

「もういい。どの道衛宮とは間もなく見える事になる。今更おまえのような女に問うべき事でもなかったな。おまえはここで、死んでおけ」

 残り少ない黒鍵で舞弥の両足を地面へと縫い付ける。正しく磔と化し、綺礼は炎の海を渡り地下駐車場を後にした。



 綺礼は舞弥を串刺しにしたまま放置し、一階へと戻る。丁度その時、エントランスより階段を上り行く、アーチャーと切嗣の姿が見えた。

 ……衛宮?

 身を隠し息を潜める。見るからにおかしい。ズタボロにされた切嗣がアーチャーに無造作に掴まれたまま引き摺られていく。それはまるで、アーチャーとの戦いに敗れたかのようではないか。

 ……一体何が起きた?

 自らの知らぬ間に起きた異常。あんな女に拘ったせいで失った時間の内に、何か良くない方向に事態が動いていた。

「…………」

 去り行く背中を見送りながら、綺礼はただ推測を積み重ねる。セイバーらはまだ橋上……ならば切嗣にあれだけの痛手を負わせ、連れ去った下手人がアーチャーである以上、行き着く推論はただ一つ。

 理由までは分からないが、アーチャーが切嗣を裏切ったのだ。

 それは綺礼にとって面白くない状況だ。衛宮切嗣は言峰綺礼の獲物だ。それを、横から掠め取っていったあの男の目的など知らないが、綺礼が憤慨してもしたりない暴挙。泥棒猫の所業だ。

 そして丁度その時──奇しくもセイバーがライダーに敗れ、綺礼は彼らを分断する術すらも失った。

「…………」

 拙い。ライダーは直に此処に乗り込んでくるだろうし、アーチャーとの対峙は必然。ならばその時、綺礼は切嗣と対峙する事すら難しい状況に陥ってしまった。

 そこで綺礼はいや……と思考を振り払い、目の端に止まる扉、開け放たれた扉より零れる黄金の輝きを理解した。

 一度は砕け散った計略のピースが再び組み合わさる。あくまで可能性に期待したものでしかないが、ここで座して待つより、アーチャーの下へ殴り込むよりは随分と勝算はあると踏んだ。

 綺礼は人気の失せたエントランスを横切り、コンサートホールへと入り込んだ。遠く舞台の上、燦然と輝く杯こそは、衛宮切嗣が願って止まなかった聖杯に間違いない。

 先ほど斃されたセイバーを取り込み、これで収められた魂は五つ。上限である七つにはまだ及ばずとも、その顕現は既に成っている。
 ならば、と考えた綺礼の可能性。アーチャーが何を思い切嗣を連れ去ったのかは知らないが、この好機を逃す手はない。

「聖杯よ」

 言峰綺礼には聖杯に託す祈りがない。サーヴァントさえも失った今、この杯に触れる権利があるのかさえ分からない。
 それでも綺礼は己が妄執の為──天に頂く杯に手を伸ばす。今この瞬間生まれた渇望。全てをあるべき形に収束させる願望の為──

 ──言峰綺礼の手が、その聖杯に確かに触れる。

 彼の者の願いこそは切嗣とアーチャーの分断。綺礼と切嗣が確かに対峙する為の目暗ましがあればなおの事良いと、黄金の器に触れながら願いをかけた。

 瞬間、巻き起こる震動。これまで何故己が聖杯に選ばれたのか分からなかった綺礼が、事此処に到りようやく理解した。

 ──聖杯は望んでいたのだ。この綺礼に望まれる事を。望みなどなき者が抱いた余りにも下らない奇跡の用途。けれどその願望こそが、“聖杯に潜むモノ”と合致する黒い祈りであったのだから。

「ふはは、ふははははははははははははは……!」

 天より降り注ぐ黒き涙。崩壊していく冬木市民会館。その只中で、言峰綺礼は哄笑を上げる。まるで綺礼を祝福するように避けては周囲を焦がしていく悪意の炎の中で。全てが終わるその時まで、高く嗤いを響かせていた。



 セイバーを打倒したライダーとウェイバーは、戦車を繰り冬木市民会館を目指していた。

「おいライダー……大丈夫なのか?」

 ライダーの身体を抉ったセイバーの一撃は未だ癒える事無く穿たれている。血を吐き出し赤い甲冑をなお深紅に染め上げていく血の色に、さしものウェイバーも気が気ではない。

「この程度、何と言う事はない。ほれ、それより見えてきたぞ坊主。あれが──あん?」

 市民会館前に着陸したライダーらの瞳を射止めたのは、その荘厳な造りの建物ではなく──空に浮かぶ黒い太陽だった。

「なんだよ、あれ?」

 訝しみながら降りるウェイバーとライダー。暗雲の空に浮かぶ禍々しい黒い孔。見る者を釘付けにするその漆黒の悪意から目を逸らす事が出来ず、ウェイバーは怯えも露に見上げていた。

「坊主。余はな、一つばかり可能性を考えておった」

「? 何だよ突然」

「皆が躍起になり求めている聖杯。それは本当にあるのか? あるいは、余らが望むような願望器足り得るのか?」

 その言葉にウェイバーは何も返せない。聖杯戦争。そう銘打たれた闘争は、聖杯を賭け合い争う戦場の名だ。だが本当に存在するのかは定かではなく、その形を見たものは、少なくとも今回の参加者の中にはいまい。

 ただ誰かによって流布されたその謳い文句に誘われ、さながら誘蛾灯に迷い込む蛾の如く引き寄せられたのが、マスター達。あるかないかも分からないものを求め、けれどサーヴァントという異常の一端から確かにあると信じて疑わなかった。

 かく言うウェイバーも、ライダーにそう問われるまで聖杯のありなしなど考えすらしなかったのだから。

「余はかつてもあるかないかも分からないものを求めたがな。今回もまた、同じ轍を踏むのは嫌なんだ。
 あるのなら命を賭ける事も辞さないし、余の隣を歩きたいと願う貴様も止めはせん。けれど、あの空に輝く不吉な太陽を見れば、どうにも雲行きが怪しい」

 漆黒の空を染める黒い孔。不吉の予兆どころか寒気を覚える禍々しさに、心の熱を奪われるかのようだ。

「……何が言いたいんだ」

「坊主は此処で引き返せ。此処から先に踏み込むのは余だけで充分だ」

 それは確かにウェイバーの身を案じてのものだろう。あんなにも空恐ろしいものが浮かぶ決戦の地に踏み込む以上、避けえない戦いが待っている。そしてその結末は、彼らが予期するような輝かしいものではないかもしれない。だから……

「……いい加減にしろよ」

 吐き出すように、ウェイバーは言った。

「ボクは決めたんだ、オマエの戦いを見届けるって。覚悟したんだ。オマエだって認めただろ!? 望んだだろ!? 自分の傍で世界征服を見せてやるって言っただろ!? ならこんなところに置いていくな! ボクも、ボクを最後まで連れて行け!!」

 ウェイバーなりの必死の嘆願だった。此処まで来て、今更引き返せる筈などあろうか。もうすぐ全てに手が届くその瞬間を前に、サーヴァント一人行かせて後ろに震えているマスターにはなりたくなかった。そんなマスターには戻りたくなかった。

 この戦いで得た強さを張り通す為に。朋友と呼んでくれた王の為に。何より──彼自身の為に、このまま共に先に進みたかった。

「……はあ。強情だな坊主。そこまで頑なだとは思いもせんかったぞ」

「はん、何処かの傲慢な王様の性格がうつったんだろ」

「ハッハ! そうか、ならば良い。その眼で最後まで──」

 ウェイバーの決意を受け止め、ライダーが快諾しようとしたその瞬間。空にあった太陽が歪み、さながら瀑布の如く黒い汚泥が降り注ぐ。

「ウェイバー!」

 ライダーはその野太い腕でウェイバーの襟首を引っ掴み、戦車の御者台目掛けて放り投げる。『ギャッ!』と叫びを上げて腰を強かに打ったウェイバーが次いで目にしたのは、泥を被った王の姿だった。

「なっ──ライダーっ!?」

「行けぇ、ゼウスの仔らよ! 坊主を乗せて空に舞え!」

 身を乗り出そうとしたウェイバーを遮り、ライダーは高く吼え上げる。王の命令に従い神牛は溢れ出る泥に呑まれる前に、空に馳せた。

「おまっ、何してるんだ! 手を伸ばせ! 呑み込まれるぞ!」

 ウェイバーが叫ぶも遅く、既にイスカンダルの足元には決して解けない黒い汚泥。だからこそウェイバーだけは巻き込むまいと戦車に放り乗せたのだ。

「ちょ、待て! 待ってくれ! まだライダーが! ライダーが下にいるんだよ!」

 身を乗り出すウェイバーの眼窩、足元に絡み付く泥に焼かれていくライダーの姿。必死に手を伸ばすも、もはや届くような距離ではない。

「戻れ、戻ってくれ! ライダーが、ライダーがっ……!」

 ウェイバーがどれだけ叫ぼうと神牛は止まらず空を蹴り続ける。黒い太陽より零れた黒い炎が、街の全てを焼き尽くしていく。
 だがウェイバーはそんな惨状よりも、遥か地上で、黒い泥に呑まれながらにこちらを見上げ、微笑んでいる王の姿だけしか見えていなかった。

「なんで、なんで笑ってんだよ……ボクを助ける為に犠牲になんかなりやがって、悲劇のヒーロー気取りか!? ふざ……ふざけるなっ!
 世界征服をするって言ってただろ? その為に聖杯に受肉を願うんだろ? 奇跡をそんなちっぽけなものを願う大馬鹿野郎はおまえくらいしかいないのに……」

 こんな……こんなわけの分からない結末が、許されるのか……

 ウェイバーは手摺にしがみ付きながら、受け入れられない別れに涙する。

「こんな、こんなのってないだろ……何なんだ、何なんだよこれは……」

 街を焼き払う赤い炎。空を焦がす赤色の中、ただ静かに黒い太陽は浮かんでいる。ライダーをして咄嗟の回避を選ばせた、あの太陽より零れた泥の真意を解さぬまま、ウェイバーは一人咽び泣く。

 泥も届かない対岸、海浜公園の近くに降り立った神牛は、最後に嘶いて足元から消えていく。ライダーが泥に呑み込まれたせいで宝具も維持できなくなかったのか、それでもライダーが逃がすと決めたウェイバーだけは確かに運び終えて、神の騎乗車は役目を終えるように消えていった。

 姿が掻き消えた神牛の足元に、ぽとりと何かが落ちて、立ち尽くすウェイバーは微かに視線を滑らせた。そこに落ちていたのはライダーが後生大事にしていたホメロスの詩集と世界地図だった。

 詩集の方は何度も読み返したせいか、ところどころが捲れ汚れている。この短期間にどれだけ読み尽くせばそんな状態になるのかと訝しむほどに使い込まれていた。

「馬鹿野郎……」

 唐突に訪れた終焉と別離。空をも焦がす大火を対岸に見ながら、ウェイバーは二冊の書物を大事に抱え込んで涙を流す。

 世界の征服を夢見た王はこんなにも下らない従者を逃がす為に犠牲となり、その従者にかかずらった為に泥に呑まれ終わりを迎えた。
 結局、最後の最後までライダーの足を引っ張る真似しか出来なかったウェイバーは、一人悔恨と無念に頬を濡らす。

 ただそれでも──最期に王が笑った意味を必死に考え、こんな無様は望んでいないだろうと確信し、せめて顔を上げる努力をした。

「…………」

 さながら終末の炎のように燃え盛る対岸を見やりながら、ウェイバーは静かに呼気を落ち着けていく。
 それでも溢れ出る涙を抑えることなど出来る筈もなく、ライダーの存在が確かにあったと感じられる詩集と地図を抱え、せめてこの時だけは泣く事を許して欲しいと、一人──慟哭の涙を流し続けるのだった。


/II


「…………なに、が」

 切嗣が次に目を覚ましたのは、何処とも知れぬ地面の上だった。何故自分がこんなところで倒れていたのか解さぬままに、切嗣は気を失う前の出来事へと思いを馳せる。

 理解は早かった。聖杯を否定するアーチャーに敗れ、屋上へと連れて行かれ、見せ付けられた黒い悪意。無色である筈の聖杯の内に眠る憎悪の塊。
 あれはあってはならないものだ。その真贋など関係なく、アレは災厄しか齎さない。

 手には未だ令呪の兆し。アーチャーに命じ、聖杯の破壊、を……

「なんだ、これは……」

 屋上から突き落とされ、身体を強かに打ちつけた切嗣が気絶していた時間は五分にも満たない。だがその僅かな時間で、切嗣の目に映る光景が、一変していた。

「────」

 目の前に広がっているのは、炎の海だった。

 ソラに黒い太陽を頂き、大気すら赤く焦がしていく悪意の炎。強風に煽られた炎は延焼を繰り返し、新都の中心地を焼き尽くしていく。

「なぜ……」

 切嗣はこの惨状が綺礼の招いたものであるとは知らない。だから、思考に一方的な決着を着けてしまった。
 この炎の海の原因、地獄を作り上げたのは──他ならぬ衛宮切嗣なのだと。

 聖杯を望み、聖杯を渇望した切嗣が招いた、大災害。尊いまでの祈りをかける筈の願望器が、あんな代物とは知らずに造り上げてしまった。
 たとえこの惨状の根本の原因が切嗣にはなくとも、その一端を担った事には違いはない。

 聖杯の真実を知らず、ただひたすらに求めたその末路。奇跡という祈りに世界の救済を願った非情の暗殺者に突きつけられた現実は──この上のない、地獄でしかなかった。

「あ、ぁあ……」

 これは、フュルベールに見せられた悪夢ではない。あの世界すら巻き込む幻の殺戮劇よりも、目の前に突きつけられた現実の大火の方が切嗣の心を深く抉る。

「そん、な……ああ、あぁぁ……」

 瞳に映るのは確かな現実の出来事。目の前で街が燃えている。遠くから人の悲鳴が聞こえてくる。瓦解する家屋の音。異常を察知したのか夜の帳に響き渡るサイレンの音。

「あああああぁぁぁぁぁ、うわああああああああああァァァァ……!」

 なんだこれは。なんなんだこれは。こんなものは願っちゃいない。こんな地獄はあってはならない。そうとも。こんな地獄を世の中から失くす為に、切嗣は奇跡を追い求めたというのに、結局目の前に生まれたのはその地獄でしかないのだ。

「僕は……僕は……!」

 ならばその祈りこそが間違っていた。ありとあらゆるものを犠牲にして、妻をこの手で引き裂いて、娘を彼方に置き去りにして、戦場で拾った子供をただの機械に作り変えて──非道を尽くし上げた結果に齎されたものは、なお酷い煉獄の焔……!

「うぁ……、あぁ……」

 その時確かに、切嗣は己の心が砕ける音を聴いた。理想を成す為だけの歯車に変えた鉄の心が、盛大な音を立てて罅割れ砕けていく。

 夢見た理想。失くしたものを無駄にしたくなくて、この手を汚したものを無為にしたくなくて、これまでただただ殺戮を続けてきた道化の末路。
 そうする事しか出来ないと思っていた。それが最善だと思っていた。衛宮切嗣は、その生涯を終えるまで戦場を渡り歩き、命を殺し救い続けると諦観したその時に出逢ったものこそが聖杯。

 遍く全てを叶える願望器。そんな殺戮に拠らず全てを救える奇跡を求めた。ただ救われて欲しかった。なくしたものに意味を求める為に、少しでも多くの人々を救わなければならなかった。

 その最終到達地点では、本当の意味で全てが救われると思っていたのに。その為に悪逆を尽くし、揺れる天秤に命を賭けて、大切なものさえも引き裂いてきたというのに……

「これが……その末路か……」

 アーチャーの言葉が脳裏を掠める。おまえの求めるものなどこの世にはない。それどころか、世界を救うと信じたものは、世界を犯す呪いでしかなかったというのなら。

「僕の理想は、もう……ないんだな……」

 だからそれは──衛宮切嗣の夢見た正義は、何処にもなくて……ただ、この冷酷な炎だけが、真実だったのだ。

「僕、は……」

 それでも、切嗣は立ち上がる。歯を食い縛り、砕けた心をそのままに、動力を失くしてなおまだ動く。
 まだ、止まってはいけない。果たさなければならない事がある。自らがこの災厄を引き起こしたのならば、せめてその責任を取らなければならない。償わなければならない。正義という名の罪の所在。理想という名の罰の在り処。

 ────この光景が、衛宮切嗣が背負った“正義の烙印”ならば。
     その理想に、決着を着けなければならない。他ならぬ、衛宮切嗣自身の手で。

「待ち焦がれたぞ、衛宮。私はこの時を待っていた」

 すぐ近くからの呼び声にも切嗣は答えず。虚ろな瞳を湛えたまま、ただ──前へ歩を進めだした。



「待ち焦がれたぞ、衛宮。私はこの時を待っていた」

 聖杯に祈りを捧げ、アーチャーと切嗣を確かに分断した綺礼は、炎の海を突っ切り、紛う事無く宿敵の眼前へと姿を現した。

 よもや聖杯がこんな形で綺礼の願いを叶えるとは思ってさえいなかったが、大した問題ではない。いまこの瞬間、この刻限こそが全て。
 これまで知略を尽くしてきた結果の全てはこの状況を造り上げる為。余計な邪魔立てなく衛宮切嗣とサシで向き合う為のただの状況でしかなかったのだ。

「さあ切嗣。いまこの時こそが約束の刻限。私の迷いに、おまえの解を齎す瞬間だ──!」

 業火と盛る炎を背に、暗殺者に向けた祝詞を謳い上げて、それから、綺礼はようやく目の前の人物の異常に気が付いた。

「……?」

 その男は綺礼の事などまるで見ていなかった。虚ろな瞳が見据えているのはその奥にある炎──そして黒く輝く太陽だ。

 ……馬鹿な。

 綺礼の脳裏を過ぎったのはその一言だった。何故だ。何故あの男が、こんなにも憔悴している。

「衛宮」

 声を掛けてもまるで綺礼の方を見ない。綺礼がどれだけ殺意を向けても、切嗣はまるで反応を示さなかった。

「おい……待て、待ってくれ。おまえはまさか……」

 綺礼は、あってはならない事を口にする。

「おまえはまさか──“この程度”の火災に、嘆いているとでもいうのか……?」

 有り得ない。有り得る筈がないだろう、そんな事。たかだがこの程度の火災、たかだか数百人の命に嘆きを覚えられるのなら、綺礼は葛藤などしていない。同じ迷いを宿していたのなら、切嗣も同じく──

「いや、まさか、そんな……」

 そこではたと、綺礼はある可能性に気が付き──瞠目した。

 脇を通り過ぎていく切嗣に対し、綺礼は何の攻撃も行わず。切嗣は綺礼などまるで眼中にないかのように通り過ぎ──互いをこれまでずっと敵視してきた二人は、全く意味のない交錯を果たした。

 ただ呆然と綺礼は立ち尽くし、切嗣は炎の中へと消えていく。

 その間綺礼の脳裏を駆け巡っていたのはある可能性。この火災に目を奪われ、嘆き悲しむ事の出来る衛宮切嗣は、言峰綺礼とまるで違う存在なのではないか、と。

 あの男が何を求めて聖杯に縋ったのかは知らない。だがもし、切嗣が正常な人間で、アインツベルンに招かれる前こそが異常であり、その中で心を確かに埋めたものが、“当たり前のもの”であったのなら。

 切嗣が戦場に探していたものなど知る由もない。だがアインツベルンで掴んだものが、人並の幸福で、あるいはそれを捨て去ってこの戦いに身を投じたのだとしたら……

「待て……待ってくれ……冗談だろう? おまえは、私と同じ側の人間だろう? この悲劇に愉悦を見出す側の人間ではないのか……?」

 悲しいものに嘆きを覚えるという事は、それは正しい人の在り方だ。綺礼とは違う、ただの人間で。
 ならばここに浮かび上がるもう一つの問い。切嗣が聖杯に求めたものは、何だ。この火災を嘆くのなら、こんな嘆きを見たくないとでも、そう、言うのか?

「有り得ない……有り得ないだろう衛宮切嗣。おまえは、おまえは私が心の底から欲したものを自らの手で捨て去り、そして──こんな下らない闘争の果てに、蒙昧な夢でも見たというのか?」

 人の夢想。有り得ない幸福。こんな悲劇を起こさせない為に──自らの手を、汚していたのだとすれば。

「くく、くははは……くはははははははははははははははははは……!!」

 大火を背に綺礼は一人哄笑する。有り得ないと。こんなにも下らない結末があっていいのだろうかと。

 衛宮切嗣は聖杯を妄信し、その結果に絶望し。言峰綺礼は衛宮切嗣を妄信し、その結果に絶望した。

 ああ、ならばその一点限りが二人に残された、突きつけられた共通点。後は何もが違う真逆。ただ自己の勘違いだけで、二人は擦れ違いをし続けてきたのだ。

「ふはははははははははははははは……! これが笑わずにいられるものか。こんな下らない結末を、笑わずにいられるものかぁぁぁぁぁ……!」

 あるいはそれは、綺礼の慟哭であったのかもしれない。結局綺礼の手に残ったのは自らの歪みだけ。父の死より齎された歪なカタチ。知りたくもなかったイカれた感情だけが、燃えカスのように心に澱を濁す。

「ああ……ならばいい。認めよう、認めようではないか神よ。この私は、こんなにも歪であったのだと認めよう」

 衛宮切嗣から解が齎されないのならば、もはやそれは逃れようのない事実。だから綺礼は素直に、自らの歪みを肯定した。

 本来、そんな歪はあってはならないものである。この世界が神に祝福された土地であるのなら尚の事。だから綺礼はこの歪みは受け入れて。そして向き合い、更なる答えを探し求める決意に代えた。

 言峰綺礼の生まれた意味。敬虔なる信徒たる言峰璃正の胤を受けて、こんなにも捻じ曲がった有り得ざる存在を産み落とした意味を問わねばならない。
 人の真逆。美しくあれと願われる人々の裏側で、醜きものを是とする綺礼の存在理由。そんな不実な存在が生まれた意味を思い求める事こそ、綺礼に残された唯一つの、最後の道だった。

 今更死を肯定など出来る筈もない。言峰綺礼の歪みを垣間見ていた妻と、恐らくは父もその最期に見たのだろうその異常。
 少なくとも妻は綺礼の底を見透かしていた。あの時確かに綺礼は嘆きを覚え、そして心から愛していたのだろう。

 壊れゆくものが美しく。儚いが故に尊いと。まるで違う倫理観を持ちながら、あの女は確かに──言峰綺礼を理解していた。

 だから綺礼はその死をなかったものにはしない。彼女の死と……父の死が告げた綺礼の正体。持たざるものでも欠けたものでもない──歪んだものの生ある意味を、この命の続く限り追い求める事だけが咎。

「この私が生まれた意味を追い求めよう。こんな歪が生を受ける事を許された意味を。言峰綺礼の生まれた意味を──生涯を賭けて」

 心を固く固く閉ざしていく。もう妻や父の死に目を向ける事はない。言峰綺礼は己の歪みを肯定した。そして後は意味を追い求める事だけを許しとする。
 自らの歪から目を背ける事無く──彼女達の死を意味あるものとする為に、言峰綺礼は立ち上がる。

 綺礼が見据えたのは遥か上空。黒く輝く太陽だ。今まさに消えていこうとするその闇を見つめ、綺礼は一つの覚悟を胸に抱く。

 ──もし今一度見える事があれば、その時は私はおまえを祝福しよう。

 この災厄が綺礼の意思を反映した聖杯の意思ならば。言峰綺礼はただ、生まれ落ちるものを掬い上げよう。

 その真実を解さぬままに。
 垣間見た悪意の欠片に触れた神父が謳う。

 ────祝福の言葉を。自らの新たなる旅路と、いつか生まれる解を求めて。


/I


 切嗣を逃がす為、この世全ての悪を被ったアーチャーは、けれど完全に呑まれぬままに未だ存命していた。
 それはアーチャーの英霊としての在り方が少しばかり歪んでいた為と、泥が完全な形ではなかったが為に起きた偶然の産物だったが、奇跡のような好機でもあった。

「ぁ……くそ……」

 けれど絡み付く悪意は解けない。サーヴァントである限り抜け出せない呪縛の中で、アーチャーはマスターである男の決断を待つ他なかった。

 切嗣に突きつけた現実。聖杯の正体。けれどそれは、確かに必要な事だった。アーチャーが望み、そしてアイリスフィールも望んだ事であるのだから。



 それは数日前。

 ロード・エルメロイの一派を亡き者とした翌日、ランサーの魂を収容し昏睡状態に陥ったアイリスフィールの警護をアーチャーに任せ、切嗣と舞弥が仕切り直しの為に街中を奔走していた時の事だ。

「アーチャー……」

 長い眠りから覚めたアイリスフィールは傍らに座していた赤い騎士に呼びかけた。

「気が付いたか、アイリスフィール。調子はどうだ?」

「うん。多分動けそうにないけど、話す分には大丈夫みたい。ねえアーチャー、少しだけ私の話に付き合ってくれない?」

 柔らかな笑みを浮かべたアイリスフィールに、アーチャーはああ、と答えた。

「切嗣がいない今だから言っちゃうけど、私は本当は──彼の理想が、良く分かっていないの」

 それはアーチャーにとっても、多少なりとも衝撃を覚える言葉だった。昨日、この土蔵で血塗れのアーチャーが切嗣の理想を否定した時、彼女は彼の理想を守り通そうとしていたのだから。

「元々が人間じゃないホムンクルスで、生ある時間のほとんどをあの城で過ごしてきた私にとって、切嗣の願う世界の救済は、途轍もなく曖昧なもの。
 だって私が知っている世界はあの城の中だけだもの。切嗣と出会ってからはたくさんのものを見せて貰ったけど、それでも私の世界はあの城の中で完結していた」

「…………」

「それでも私は、切嗣が願ったものを一緒に見たかった。良く理解もしていないくせに、さも分かったような口を利いて、あの人の傍に立つ妻として──最も欺いちゃいけない人を欺き続けてきたわ」

 それはあるいは、懺悔なのだろうか。それとも罪の告白か。

「結局私にとっての全ては、あの人と──そしてイリヤのいる世界。切嗣の夢見るものがもっともっと大きなものでも、私の知るその小さな世界が含まれているのなら、一緒に夢を見ていられると思っていた」

 その数の中にはアイリスフィールは含まれていない。アインツベルンのホムンクルス──ユスティーツァの流れを汲む存在としてある意味生き永らえる彼女ではあるが、確固とした彼女の存在は、切嗣の理想を叶える道程で潰える事を約束されている。

 それでもアイリスフィールにとっては構わなかったのだろう。自らは聖杯の護り手として鋳造され、アインツベルンの悲願を叶えるモノ。
 そして自らの犠牲によって、次回の布石として用いられるイリヤスフィールが救われ、切嗣が救われるのなら、それで構わない、と。

「利己的な自己犠牲。それでも、私は心の底から夫の悲願の成就を願っているわ。この状況も、辛くもないの。私が満たされていくという事は、それだけ切嗣が理想に歩を進めるという事だから」

 ただ──切嗣のその心が、壊れて行く事だけが悲しいと、彼女は言った。

 アイリスフィールの知る衛宮切嗣では、この戦いは勝ち残れない。久宇舞弥と共に戦場を駆け抜けてきた頃の彼でなければ、聖杯の頂には到れないのだから。

「それで、君は私に何を問うのだ?」

 静かに耳を傾けてきたアーチャーはやおらそう切り出した。

「貴方も結構意地が悪いのね。分かってるくせに」

「性分でな。これはそう簡単に変えられるようなものではない」

 ふっ、と小さく笑みを零し、アーチャーは横たわったままのアイリスフィールの赤い双眸を見つめた。

「昨日私が告げた言葉が、そんなにも気にかかるのか」

 聖杯に託す願いはなく。そして切嗣の祈りを叶える万能の釜──奇跡の願望器はこの世界には有り得ないと、少なくとも冬木の聖杯では叶えられないとアーチャーは憚った。

「貴方、あれから切嗣とまともな会話をしていないでしょう? あの人にはちゃんと話してって言ったのに、やっぱりこうなると思ってた。切嗣も、結構頑固だからね」

 くすくすと鈴を転がす笑い声が漏れる。

「ねえアーチャー。貴方は一体、私達の知らない何を知っているの? 未だその真名を明かしていない事すら、それに関係があるんでしょう?」

 鋭くも優しい眼差しに見つめられ、さしものアーチャーも答えに窮した。その揺らぎのない瞳は苦手だ。この手の手合いは昔から苦手だった。しかもこの女性は切嗣の妻でイリヤスフィールの母。つまりアーチャーにとっての──

「いいだろう。貴女が望むのなら私も全てを語る決意はある。だが、決して切嗣には話さないと約束して欲しい」

 話したところで、こんな突拍子もない事が半ば聖杯を妄信しているあの男に届くとは思えないが──とアーチャーは心の中で呟いた。

「うん、分かった。絶対に話さないと誓うわ。だから、教えて。貴方の真実を」

 静かに瞼を伏せて呼吸を整えたアーチャーは語る。己の正体。己の目的。この街にある聖杯が宿すもの。その先に生まれるもの。
 このまま聖杯戦争を続ければ引き起こされる悲劇と地獄。この現在では知る事の不可能な──『未来の可能性』をアーチャーは語った。

「…………」

 余りにも突拍子のない話を聞かされたアイリスフィールは、半ば呆然と虚空を見続けるしかなくなっていた。それも仕方がないだろう。アーチャーの語った言葉が全て真実であるのなら、己の存在意義──引いては切嗣の理想すらも破綻するのだから。

「……なんで、黙ってたの?」

「最初は本当に記憶が曖昧だった。私の心は磨耗し尽し、ただの負の感情でだけ満たされていたからな。
 ほぼ思い出したのはこの街に踏み込んだ後だ。そしてこれまで語らなかったのは、話したところで誰も信じる筈もないからだ」

 未来とは不確定であるからこそ未来足り得る。人が知り得る限界は記録と化した過去の情報と、瞳が見つめる現在だけ。特異な能力で未来を見通す者もいるにはいるが、それは例外中の例外だ。

「例えばの話。君がこの屋敷に初めて踏み込んだ時、いきなり私が今聞かせた話を口にしたとして、その時の君は信じたと思えるか?」

「……無理ね。絶対に」

「そうとも。私の持つ情報は可能性でありながらも確かな未来の情報だ。過去と今しか知り得ない君達が、もし私が説得を試みようとしても気が狂ったとしか映らない。妄言を吐くイカれたサーヴァントだとな」

 それが──自らがこれから成そうとしている事が、全て無駄に終わると言われるのなら尚の事。この状況のアイリスフィールでさえ疑う情報を、過去の彼女が信じる事など有り得ない。

「じゃあ、何で。私を──殺さないの?」

 そしてアイリスフィールが核心を衝く。アーチャーの語る悲劇を未然に阻止しようと思うのなら、アイリスフィールを殺してしまえばいい。今からでも充分に間に合う。だというのに、アーチャーにはその気配が微塵も感じられなかった。

「理由は幾つかある。そうだな……最も単純なところで言えば、それはただの先送りに過ぎないからだ。たとえここで君を殺そうとも、舞台装置がある限り、廻し続ける者は終わらない」

「…………」

「これまでの君と切嗣の会話ぶりから、舞台装置の在り処も大体の目処はついているつもりだ。確かに……それさえも破壊してしまえば全てが終わるだろう。君は死なずイリヤは救われ──けれど切嗣だけは止まらないがな」

 あの男はその程度では止まらない。この地の聖杯がなくなれば、また別の手段を探すだけだ。

「あの男を止める為には突きつけてやる必要がある。現実を。おまえの願いはこの世界にないのだと、この上のない現実を目の前に突きつけなければ、壊れた機械は歩みを止める筈もない」

 人の手では行えない奇跡を縁とする衛宮切嗣を完全に停止させる手段はそれしか有り得ない。切嗣を衝き動かす理想という動力を破壊しなければ終わらないのだ。

「いや……そんなものは建前だな。オレはもう止まった者だ。だからこの世界で何がどうなろうと知った事ではない。だからこれはただの私怨だ。このオレを壊した誰かへの、つまらない報復」

 全てが叶う瞬間──そう思っている瞬間に目の前で奇跡を破壊してやる。その絶望は、計り知れない虚無を生むだろう。

「嘘吐き」

 けれどアイリスフィールは、全てを見透かしたようにそう言った。

「嘘が下手ね貴方は。そんな見え透いた嘘じゃ、誰も騙されてくれないわ」

「…………」

「貴方は──切嗣を救う気なのね?」

 そう思えば全てに辻褄は合う。私怨だと憚る現実を突きつける行いも、理想を終わらせる為だと思えば分かりやすい。完膚なきまでに理想を砕き、その後に下らない夢を見ようとは思えないほどに。

「それは救いとは言わない。少なくとも切嗣は救われたとは思わないだろうよ。君の言う救済は、押し付けがましい独善だ」

「だけどもしその終わりの瞬間に、切嗣がその悪を突きつけられれば、きっと貴方と同じ決断をするわ。自らの望みを叶える筈のものが、そんな悪意に満たされたものだとすれば──あの人はきっと、正義を行う」

 自らに拠った主観の正義。ロード・エルメロイを殺害した後に口にした切嗣の決意。目の前に希望を超える悪意があるのなら、天秤は容易く結末を下すだろう。

「だが私にそんな事をする理由はない。あの男は私の生き方を決め付けた悪だ。空っぽの人形に、最初の行動理由をそんな人としてあってはならない夢想を吹き込んだ」

「イリヤ」

 唐突に、アイリスフィールは我が子の名を呼んだ。

「貴方、あの城でイリヤと約束していたわね。私と切嗣を守るって」

「…………」

「貴方の語った未来にあの子の名前は出て来なかったけど。絶対にいると思うのよね、そしてあえて言わなかったのは何か負い目を感じるような事でもあったのかしら。
 そして、そんなあの子の──違う世界のあの子だけれど、願いを叶えてあげたくて、貴方はこんな迂遠な真似をしている、と。違う?」

「ふっ、君には私がそこまでお人よしに見えるのか。たかが子供の戯言を真に受けて、こんな七面倒くさい真似をしていると?」

「うん。貴方、根が真面目でしょう?」

「勘違いも甚だしい。私の目的は先の通り、自らの否定だ。このオレ自身を殺す事で、世界に囚われた己自身を消去したい──そんな哀れな男でしかなく、その他の事など知った事ではない」

 掃除屋。世界に契約を持ちかけ、英霊となったアーチャーは自らをそう称した。生前貫いた理想を、死後でさえも続けられる──より多くの人を救えると思って到った場所は、ただの地獄でしかなかった。

 世界は人を救わない。ただ起こった悲劇の後始末をするだけだ。最強の力に拠って原因を速やかに消去する。それはアーチャーにとって──守りたかったものすら殺し尽くす事に他ならなかった。

 永遠に囚われ、ただ人の起こした災害の中で人を惨殺し続ける存在。終わってしまった事を正常に戻す為に外道を尽くすただの掃除屋だ。

 そんな事がしたくて世界に身を委ねたわけじゃない。そんな事の為に──その理想を貫いたわけじゃない。
 ただ救われて欲しかった。多くの人に、出来る限りの多くの人に笑顔が齎されて欲しいと願っただけなのに。ならばこの仕打ちは一体何であるのか。

 その思考に至り、アーチャーは磨耗した。原初の理想をすり減らし瞳に焼き付く地獄をただ淡々とこなし、いつか訪れる奇跡の瞬間を待ち焦がれた。
 自らの否定。この己こそ──あってはならない存在であったのなら、その存在の消去を以って抜け出せない輪を突き破ろう。

 元より破綻した理想を植え付けられただけのただの機械。報われる筈もなく、終わる事さえ許されず──ただ血の涙を流し続けるくらいなら。
 全てを消し去り終わらせようと。胸に渦巻いた憎悪を糧に、ありえない矛盾──過去の自身を己の手で断罪する復讐を成し遂げようと。

「フン、それも僅かに的を外してくれたがな。この世界に、オレの復讐を受けるべき存在は“まだ”いない。世界というヤツは何処までも辛辣で悪辣だ。何処ぞでこのオレを嘲笑っているに違いない」

 この第四回ではなく第五回目こそがアーチャーの本命だった。それが一体何処でずれたのか、彼の知る過去とは違う場所に召喚され──あまつさえ『彼女』が座るべき場所だったところに今の自分が居座っているのは、滑稽でしかない。

 たとえこの先生き延びて、アーチャーの望んだ刻限を奇跡的に迎えられたとしても、そこは既に違う場所だ。アーチャーの復讐を受ける存在がいる保障はなく、何処かがズレた場所であるのだから。

「それでも──いいえ、だからこそ貴方は切嗣を守るのでしょう? 自らが生きた世界とは違う結末を迎える為に」

「…………」

 ここが根本的に違った場所であるのなら、可能だろう。だがそれではアーチャーは救われない。既に“成って”しまったアーチャーの存在を消し去る為には、そんな可能性未来を生む程度では消し去れない。自己による自己の殺害という矛盾ですら、可能性の域を出ない話なのだから。

「やはり違うよ、アイリスフィール。オレはどこまでも下らない人間だ。全てを知っていてなお最善を行おうとはせず、貴女の言うような綺麗事で全てを片付けようなどとは思っていない、私怨で動いているだけの存在だ。
 私は全てが終わる刻限で切嗣に突きつけてやるだけだ。現実を。そんな理想はありえないのだと突きつけてやろうとしている、ただの復讐者さ」

 ただそれは、一つばかり含みのある言い方だ。突きつけて。絶望して。それでなお切嗣が願うのなら。この世の悪意によって齎される救済という名ばかりの地獄に対し、自らの理想を貫くのなら。

 その時は────

「うん、やっぱり。アーチャー、貴方は優しいわ。だから貴方は貴方の思うままに動けばいい。
 でも一つだけ私のお願いを聞いてくれるのなら、切嗣とイリヤを、お願いね」

「アイリスフィール……君はまるで私の話を聞いていないだろう」

「ううん。聞いた上でのお願いよ。イリヤとの約束──私と切嗣を護るという約束は、果たせない。少なくとも私はこの戦いが終われば消えてしまう身なのだから。
 だからせめて、あの人とイリヤにだけは幸せになって欲しい。大いなる絶望の後に、けれど小さくとも希望が残るのなら──きっと、人は生きていけるのだから」

 その言葉を聞き、アーチャーはアイリスフィールの本当の強さを知った。人ではない人造のホムンクルス。けれど彼女はどんな人間よりも人らしい存在だ。
 妻として想う夫の幸福。母として願う子の幸せ。自らを犠牲にする献身。けれど母とは元より──そんな存在である筈だ。

 そう、このアーチャーも──あの地獄より逃げ出す時、確かに聞いた筈だった。父母の願いを。自らよりも、子の幸福を願っていた──もう思いも出せない、最初の人達の尊い祈りを。

「残念ながら了承は出来ない。あくまで私は私のままに動くだけだ。但し──その結果、偶然貴女の願いが叶ったとしても私には関係がないからどうでもいいが」

「ふふ、なにそれ。捻くれているにも程があるんじゃない? まあ、いいわ。子が自らの意思で考え動くのなら、母はただ見守る事しか出来ないものね」

「アイリス、フィール……」

「もっと良く顔を見せて。私は貴方を知らないけれど、あの人の子であるのなら。私にとっても、大事な息子よ」

 アーチャーの頬に触れる柔らかい掌。それは確かな母のぬくもり。とっくの昔に忘却した──温かな心の在り処だった。



 これは仕方のない事だった。あの男をその呪縛から解く為には、どうしても聖杯の真実を突きつける必要性があった。
 いや……そんなものはただの言い訳だ。アーチャーは確かに望んでいたのだ。あの男の絶望を。自らに呪いを植え付けたあの男の慟哭を。

 そんな事をして何が変わる訳でもないと知っている。だからこれはただの八つ当たり。己の不実を嘆き、誰かのせいにしたかった──醜い心の弱さに他ならない。

 だけどアーチャーは確信もしていた。あの男なら必ず、切嗣なら必ず立ち上がると。その命令を──アーチャーに下す為に、最後の意地を張る為に。

“────アーチャーに命ずる! 聖杯を、破壊しろ……!”

 声が届く。瓦礫に埋もれ、泥に犯された身体を衝き動かす命令が下される。虚ろな瞳で見据えるのは、炎の中心に高く輝く黒い太陽。全ての元凶、全ての終わりと始まりを告げるもの。

 結局、この結末は回避できなかった。回避出来た筈の終末を──自らの意思で先延ばしにした結果招いた惨事。これが運命だというのなら、世界とはどこまでも過酷で皮肉に満ちている。

 だが、そんな事は初めから分かり切っていた事だ。アーチャーの理想は人を救わない。救えるのは、己の理想だけなのだ。
 理想を守る為に人を救う真似をする。ただ胸に抱いた理想を違えたくないが為に衝き動くカラクリ。

 理想に生かされ──理想に溺れる存在であると。

 元よりこの身は終わった身。ただ利己的な復讐で動いていただけの自動機巧。けれど──その命令が下されたのなら動き出そう。

 理想を否定され、絶望を突きつけられ、けれど衛宮切嗣が──自らの意思によって聖杯を破壊するのなら。アーチャーもまた、己の正義を貫ける。

「切嗣……貴方の正義は、ここで終わりだ」

 貴方の手に残るのはきっと小さな篝火でしかない。その理想を担うには、貴方という人は弱すぎる。

 だから────!

「その理想は、このオレが貰っていく────!」

 立ち上がり、手にするはこの世で最も尊い光。世に遍く人々の想いを織り込み造り上げられた神造兵器。遠い日に見た赫耀に、心奪われた少年が紡ぐ模造の奇跡。

 切嗣が招来しようとしたアーサー王が担う剣。

 彼の騎士王が手にした剣こそは、栄光と常勝を約束された、遍く全ての騎士達の王が担うに相応しい、戦場に散ってゆく兵達の夢を織り上げた剣。
 人の夢、星の輝きを一手に集めた、この世で比するもののない最強の聖剣だ。

 泥に総身を覆われながら、手にする光は一辺の曇りもなく世界を照らし上げる。終わりゆく身体は起立し、瞳は遠く標的を見据える。

 衛宮切嗣の理想は潰えない。人々の願う正義の味方にはなれないが、その無様を貫き通そうとする大馬鹿野郎は確かに此処にある。
 これまで貫いた理想の道。呪いにより形作られた我が身なれば、もはやそれ以外の道など選択出来る筈もないのだ。

「だから、貴方の理想はオレが貰う。貴方の理想は──誰にも渡さない」

 それが答え。

 結局、何ひとつ解決はしていない。アーチャーは消滅と共にまた座へと戻り、永遠の地獄を渡り歩く枷を嵌められる。だけど構わない。この胸に再び灯った理想の火は、もう二度と消える事はないだろう。

 衛宮の名を継ぐ者として。正義という名の烙印を押された者として。これより先に生じるエミヤシロウとして。

 母の温もりを貰い受け、父の夢を継ぐは子として当然の事。だからこれは決して間違いじゃない。間違いなんかじゃ──なかったのだ。

 ただせめて──この地獄の先に、自らが知るものとは違う幸福がある事を願う。
 イリヤスフィールとの約束。アイリスフィールの願い。その結末を見届ける事は出来ないけれど、

「爺さん、いつも言ってたよな。女の子には優しくしろって。だからオレは──」

 彼女達の祈りの為に、この一撃を振り下ろそう。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお……!」

 振り上げた剣は光を放出する。尊いまでの煌き。世界で最も美しい祈りの形。この一斬を以って、この地獄を終焉へと導き、未来へと繋がる架け橋としよう。

“────アーチャー! その悪を、消し去れ……!”

「言われずとも……!」

 二つの令呪による相乗。極大の光が集積し収束する。限界を超越した聖剣行使。我が身の破滅と引き換えに、未来あるものを紡ぎだす。

 振り下ろされる極光。世界を割る光の束。空に頂く黒い太陽を、寸分違わず両断消滅させるその光の名こそ──

 ────約束された勝利の剣(エクスカリバー)

 或る愚者が求めて止まなかった、尊くも美しい……奇跡の輝きだった。


/Zero


 右手を焦がす熱き灼熱を以って、己がサーヴァントに最後の命令を下した切嗣は、虚ろな瞳でソラに輝いていた黒い太陽を両断する眩い光を見つめていた。

 光の収束と共に、そこにあった孔もまた消え去った。泥を吐き出す孔は防がれ、これ以上災厄が降る事はない。ただ今なお延焼を続ける炎だけは、留まる事無く街を焼き焦がしていたが。

 ソラの孔の消滅、聖杯の消滅により、代わりに切嗣の心に穿たれたように空虚な洞を作り上げていた。

 聖杯に託す筈だった尊い祈りは叶わず、自らが必死に願ってきた願望器は災厄を巻き起こした。衛宮切嗣を衝き動かしていた動力(りそう)さえも、まるで周囲の炎が焼き尽くしてくれたかのようだ。

「まだ、だ……」

 痛む身体を引き摺り切嗣は炎の海を渡り行く。この世に切嗣の願いを叶えるモノは既にない。この手で繰り返してきた殺戮という名の救済もまた行えない。ただ許されるのは、後に残った地獄から、少しでも多くの命を掬い上げる事だけ。

 それは、原初に見た正義の味方の在り方だった。正義の味方は、平穏な世界では存在できない。悲しみが降り積もり、嘆きを上げる者がいてこそその存在は許される。

 悪がなければ正義はなく。正義がなければ悪もまた存在しない。

 切嗣の夢見た理想はきっとそんな世界じゃない。もっと先にあるもの。最後の正義によって、悪を根絶する平穏に満たされた世界。

 しかしそんなものは既に夢物語だった。聖杯が願望者の願いを受けて世界を救うのなら、その先の光景を思い浮かべられない切嗣ではどの道救えない。
 悪のない世界。平穏に満たされた世界。その光景は思い浮かべられても、その世界へと辿り着く為の道程が見えない。

 いや……今更か。聖杯は切嗣の願いを叶えない。世界を救わない。ならばその思考の全てに意味がない。
 ──理想は最悪の結果を招くトリガーでしかなかったのだから。

 そして、もはやそんな夢を見る事など許されようか。こんな地獄を引き起こした張本人が今更綺麗事を謳い上げるなど……滑稽に過ぎて笑えない。

 だからせめて──せめてこの地獄から、何かを掬い上げたかった。救い出したかった。衛宮切嗣の見た夢の末路から、この果てのない地獄から希望を救い出せたのなら、それはきっと──

「……舞弥」

 ふと足元を見れば、四肢に甚大な怪我を負って倒れ伏している舞弥の姿があった。

 切嗣には知る由もなかったが、綺礼との戦いに敗れた舞弥は、その身体の負傷さえもそのままに、地下駐車場より這い出て、綺礼の後を追おうとしていた。
 けれどその結末は余りに無惨だった。流れ出した泥に呑み込まれ、意識と命を奪い取られ──だから今、切嗣の目の前にあるのは、久宇舞弥だったモノの残骸でしかなかった。

「すまない……すまない、舞弥。僕は君さえも……」

 いつの日にか戦場で拾った子供。生きる意味を教えず、ただ機械の如く人を殺す術を叩き込んだ片腕。その最期は切嗣の理想に焼かれて潰えた。
 彼女の命を以って、より多くの人を救えるのならそれで良いと諦観していた頃の切嗣の面影は既になく。彼の顔は、今にも泣き出しそうだった。

 心を埋め尽くす絶望の黒。理想を焦がす灼熱の赤。赤と黒の入り混じる世界で、切嗣には涙を流す事さえ許されない。
 自らが招いた結末を前に、どうして嘆き悲しむ事など許されようか。ただ切嗣に許されているのは、この炎に焼き尽くされていく人々に捧げる懺悔でしかない。

 ごめんなさい……ごめんなさい……すまない……すまない……

 誰にともなく呟きながら、切嗣は炎の中を徘徊する。命あるものを求めて。せめてもの救いを求めて。ただ自らが許されたいが為に、ただ救われたいが為に。

 余りにも利己的な目的で、どこまでも許され難い過ちの中で。切嗣はただ──虚ろな瞳を湛えて、死の降り注ぐ煉獄の炎の中を彷徨い続ける。

 その果てで──衛宮切嗣は確かに見つけた。空に向けて救いの手を伸ばす幼子を。消え行く命の中で、精一杯に生にしがみ付く者を。

 衛宮切嗣は、大いなる絶望の中で、小さな希望を掴み取る。
 降り出した雨の中──救われた少年よりも儚くも美しい笑みを浮かべ、衛宮切嗣は己が救われた事に感謝した。



 誰の救いもなく。
 誰の勝利もなく。

 静かに──第四次聖杯戦争は、終結した。













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