剣の鎖 - Chain of Memories - 第十話









 風が吹いている。僅かに開けられた窓から零れてくる朔風。斜陽に照らされた赤い世界において、頬を撫でるその風合いはひどく冷たかった。
 彼女の長い黒髪が揺れる。少しクセのあるその髪が風に靡いて、肩の上にはらはらと舞い落ちる。その影よりも濃い暗色の髪を運んだ風が、階下にいる俺の元まで微かに薫る甘い香りを届けてくれた。

 上と下。反するカタチで相手の瞳を睨みつける。
 こうやって対峙していても、本当は信じられなかった。明眸皓歯、成績優秀、穂群原一の優等生、男女を問わず憧れの対象たる遠坂凛が、こちら側の人間───魔術師であり、聖杯戦争の参加者───だったなんて。

 それはいい。信じられなくとも理解は出来た。こうして相対している以上、彼女がマスターである事はほぼ間違いない。
 だが彼女がこの学校に結界を張り、何も知らない他の人達を巻き込もうとしている事だけは、信じたくなかった。






魔術師と魔術使い/Ricordanza II




/1


「ふぅん、結構冷静ね。
 わたしが何で貴方に声を掛けたのか、判ってるってコトかしら?」

「ああ、そのつもりだ」

 ぴりぴりとした視線が突き刺さる。
 そんな事は解ってる。この学校の中に敵のマスターがいると知った時点で、それが誰であろうと受け入れる覚悟は出来ていた。
 だから今の自分はこんなにも冷静でいられる。もう俺は、何も知らない部外者ではなく知った上でここにいる当事者なのだから。

「…………。その割にはサーヴァントも連れずに出歩くなんて、お粗末なコトよね。アーチャーが言ってた通り、本当に素人みたいだわ」

「………………っ」

 遠坂のサーヴァントはアーチャーなのか。あの夜、俺を殺そうとした赤い外套を纏った弓の騎士。姿こそ見えないが、おそらくアーチャーは遠坂の傍にいる。同じように、俺を見下ろしているような気がする。
 遠坂は風に揺れている髪を払い、腕を組んでこちらを見下ろす。

「しょうがないだろ。ギ………セイバー……は霊体化出来ないんだから」

 まあそれも俺のせいなので声を大にして言うことじゃないけど。
 だが遠坂はその言葉に目を見開いた。

「……呆れた。霊体化もさせられないの? ホント、とんでもないヤツがマスターになったものよね。しかもよりにもよってセイバーなんて……」

 手で顔を覆いながらぶつぶつと呟く遠坂。
 なんというか……その雰囲気はいつもの遠坂とは全然違うように見えて、マスターだと判った事よりもそちらの方に驚いた。

「ふん、まあいいわ。で、素人魔術師の衛宮くん。サーヴァントも連れずにノコノコこんな場所まで出てくるなんて、一体何考えてるわけ? 何も考えてないの?」

 ふふん、と鼻を鳴らしながら絶対的優位な状況を愉しむように言葉を綴る。
 あっちにはアーチャーがいるけど、こっちにセイバーはいない。それだけで彼我の差は充分だ。見下ろす遠坂と見上げる俺。それが二人の絶望的な距離だろう。
 だがまだ退けない。まだ、こうして向かい合っている意義を果たしていない。

「…………。訊きたいことがあったから」

「なによ」

 棘のある口調。いつもの優等生然とした遠坂からはかけ離れた声色だった。

「遠坂。今すぐこの学校に張った結界を解除しろ」

「──────はぁ?」

「惚けたって無駄だぞ。俺は知ってるからな。起動すれば中にいる人間全てを溶解する結界を、この学校にいるマスターが張ったんだって事を」

 そう、精一杯の力を込めて困惑に濡れる瞳を見ながら言葉にした。
 そうだ。遠坂がアーチャーを従えたマスターである以上、この推測は揺るがない。だから俺はそれを止めさせ……………って待て。なんで遠坂がそんな妙な顔をする?

「……おい、遠坂?」

 反応がない。
 代わりに凍りつくような気配が周囲を覆い始め、遠坂の眉が段々と鋭くなっていく。

「────へえ、面白い冗談を言うのね、衛宮くん」

 パキリと。
 その凍てついた空間に亀裂が入ったような音が聴こえた。

「え、な、と、遠坂?」

 今度はこっちが困惑する番だった。
 怒りに打ち震えるような様を見せる遠坂が、左手の袖を捲り上げて中空にかざした。

 白く細い腕。
 女の子らしいその腕に、ぼう、と。
 燐光を帯びた、入れ墨のようなモノが浮かび上がった。

「────な」

 令呪じゃない。
 アレはもしかして───俺は持っていないが、魔術師の証と言われる魔術刻印ではないのか。

「先に言っておくわ。死んだ後じゃ聞こえないだろうから」

「な、に?」

 刹那。
 ぱん、という乾いた音が俺達しかいない場所に反響し、視線を下げれば足の爪先数センチの所に弾痕のようなモノがあった。いや、弾痕と呼ぶにはそれは大きすぎる。拳大の焼き跡が廊下の床に亀裂を奔らせながら、ゆらゆらと煙を上げていた。

 ────何をした?

 そう考えるより先に顔を上げて、踊り場に立つ少女を見る。
 遠坂は左手を突き出し、拳銃を構えるようなカタチで人差し指をこちらに向けていた。

「いくら素人っていっても、ガンド撃ちこれくらいは知ってるでしょ?」

 ガンド。
 たしか北欧のルーン魔術に含まれる物で、相手を指差す事で病状を悪化させる間接的な呪いの筈だ。人を指差すな、ってのはこの辺りから来てるらしいが、まあそれは今は脇に置いとくとして。
 ガンドの効用はあくまで体調を悪くするだけで、間違ってもあんな風に、コンクリートに大穴を穿つような代物じゃあない。

 しかも遠坂のヤツ、一工程シングルアクションでそんな魔術を発動させて見せた。それは今なお淡い輝きを放ち続ける、左腕に刻まれたあの刻印の力に他ならない。

 ────魔術刻印。

 それは、言うなれば魔術師本人の回路とは別の、付属したエンジンである。複雑な詠唱も手順も必要ない。ただ回すだけで魔術という車を走らせる、究極の短縮機関。
 だがそれ故に、魔術刻印は使用時でなければ浮かび上がらない。魔術刻印とは、持ち主が魔力を通す事で形成される、もう一つの魔術回路なのだ。

「わたしじゃない」

 遠坂は指先を突きつけたまま、そんなコトを口にした。

「………なんだって?」

「結界を張ったのはわたしじゃないって言ったのよ。
 どこのどいつだかは知らないけど、この学校にはもう一人、魔術師がいる」

「──────」

 そんなバカな。
 てっきり俺は遠坂が学校に結界を張ったのだと思い込んでいたが、確かに三人目がいれば遠坂だと断じる根拠はなくなるかもしれないが……。

「証拠でも……あるのか?」

 嘘をついてる可能性もゼロじゃない。
 聖杯戦争という殺し合いに参加している以上、腹の探り合い、言葉の駆け引きはあって然るべきだ。ましてや人を殺す結界を苦もなく張るような輩は、そんな嘘で心を痛める筈がない。だから遠坂の言葉をそのまま鵜呑みにする事は出来ない。

「証拠? そんなもんないわよ。
 証明できるとすれば、それはわたしが真犯人を捕まえた時だけでしょうね」

 じゃあ───と言葉を紡ぐより先に。
 遠坂は突きつけていた指先を下げ、真っ直ぐにその碧色の瞳でこちらの瞳を凝視した。

「わたしじゃないって証拠はない。だけどね、これだけは言える。
 わたしはこの結界を張ったヤツを許さない。魔術師として外れた者を、わたしの目の前で堂々とこんな真似をする輩を許さない。
 ────遠坂凛の名に懸けて。この意志に嘘はないわ」

「──────」

 言葉を失った。
 その真っ直ぐな瞳とその真っ白な言葉が、嘘だとは到底思えなかった。
 正しく魔術師たろうとする遠坂の意志がその言葉を吐き出させたのだと、俺は心からそう感じてしまった。

「……なによ、その顔は。
 別に信じてもらえなくったって構わないわ。わたしは自分の意志表明をしただけだから」

 ふん、と僅かに頬を朱に染めてそっぽを向いた遠坂。
 何故かは知らないけど、それは子供が親に本当の事を話したのに信じてもらえなくて、拗ねているような表情に見えた。

「……いや、悪い」

 両手を上げ、他意はない事の証とする。

「うん……そうだな。疑って悪かった」

「────へ?」

 遠坂の顔がこちらを向いて、間の抜けた声が聞こえた。

「だから悪かったって。遠坂はこの結界を張ったヤツじゃないんだろ? じゃあ俺はそれを信じる」

 むしろそうであって欲しいと願っていたんだから。
 それなら俺と遠坂が敵対する理由もないし、あわよくば協力してこの結界の主を探し出すことも出来るだろう。
 と、遠坂がなんかヘンな顔をしてる。呆れをすっかり通り越して笑うに笑えない、みたいな表情だ。

「?」

「……ねえ、アーチャー。コイツ、バカなんじゃないの?」

「今更気づいたのか。私は一目見た瞬間に気がついていたぞ」

 すぅっと音もなくアーチャーが遠坂の傍に実体化して、俺を鼻で笑いながらそんなコトを口にしやがった。

「バカってなんだ、言いたいことがあるならはっきり言え」

「分からないから貴様は愚かなのだ。
 根拠もなく敵の言葉を信じるなど、莫迦以外がする所業ではあるまい」

 ぐっ………コイツ。
 知らず身体に力が籠もり、睨みつける眼にも敵意が滲む。

「アーチャーの言う通りだわ。
 そんなに簡単に相手の言葉をホイホイ聞いてたらアンタこの先、生き残るなんて到底無理な話よ」

「なんでだよ。遠坂は俺に信じて欲しくてさっきの言葉を言ったんじゃないのか?
 その言葉に嘘がないって思ったから、俺は信じることにしたんだ。どんな言葉でも鵜呑みにする訳じゃない」

 実際その言葉を聞くまでは遠坂の事を疑っていたんだ。
 それが嘘かどうかは目を見ればなんとなく判るような気がするし、たとえ嘘であってもそれを信じると決めたのなら、後悔はない。

「………………」
「………………」

 ……だがなんだ、これは。
 二人して俺を見下すように半眼で睨んでいる。いや、実際位置関係的には見下ろされてるわけだが、そんな現実的な話じゃなくて心情的な話だ。
 気圧されないように足に力を込めて踏ん張りながら、二対の瞳を見返す。

「……アーチャー」

「何かな」

「帰って」

「…………なに?」

 今度はアーチャーが目を見開いて遠坂を見た。その遠坂は変わらず俺を見据えている。

「どういうつもりだ」

「どうもこうもないわ。このバカに現実を教えてやろうってのよ。
 こんなに簡単にモノを信じるようなヤツがマスターじゃ、他の周到なマスターにだってきっと騙されるわ。
 そんなヤツらに利用されて敵に回られちゃ後々面倒だし、ここで引導を渡してあげる」

 そう言って遠坂はさっきと同じように指先をこちらへと突きつけた。

「ならば私が帰る必要などないだろう。ましてや君が直接手を下すまでもない。サーヴァントとしてマスターの代わりにあのモノを知らぬ小僧を殺して見せるが」

 きちりとアーチャーの指が動き、おそらくはあの白と黒の夫婦剣、干将莫耶をその手にしようとするような動作を見せた。
 咄嗟に突然の襲撃に備えて身構える。だが、

「結構よ。サーヴァントも連れていないマスター相手にサーヴァントをぶつけるなんて卑怯者のやることだわ。
 それに彼、素人魔術師なんでしょ? ならわたし一人でも充分」

「…………そうは言うが、凛」

「ああ、もう煩いっ!
 マスターとしての命令よ! アーチャー、今すぐ家に戻りなさい!」

 キッ、と遠坂の目がいつも以上に吊り上って傍らのアーチャーの瞳を凝視する。
 それを真っ直ぐに見つめ返すこと数秒。
 はぁ、とあからさまな嘆息をして、アーチャーは目を閉じ腕を組んだ後、

「……了解だ、マスター。
 主に従順なサーヴァントは命令に従い素直に引き上げるとしよう」

 全然素直そうな素振りなど見せず不服そうに口にして、真紅の外套を翻しこちらに背を向けた。

「温かい紅茶の準備をしておこう。なるべく早く戻ってくれると有難い」

「ええ、わかったわ。紅茶、楽しみにしてる」

 そう言葉を交わして、赤い騎士は空に透けるようにその姿を消した。
 ただ、その最後に。
 背中越しに、アーチャーと目が合った気がした。





/2


 結局残ったのは二人だけ。
 出会った時と同じように、上と下という位置関係は変わらず互いを見据えている。
 ただ違う点があるとすれば、遠坂のしなやかな指先が俺に向けられている事と、その遠坂が結界の主じゃないと判った事だけだ。
 後者は俺にとっては朗報だ。いや、また新たに魔術師を探さなければならないから一概に喜ぶワケにはいかないが、ほっとしている。
 ────ただ前者の、敵意満々で睨まれているこの状況をどうすべきか。

「遠坂。その指を下ろしてくれ」

 アレは拳銃を突きつけているのと同義だ。病気も患わせるから拳銃より上かもな。再装填リロードの手間もなさそうだし。
 まあ死んだら体調を崩すも何もないんだが。
 そんな事を考えていると、遠坂の眉がぴくりと動いた。

「アンタねぇ……。わたしがさっき言ったこと、もう忘れたの?」

「いや、そこまで呆けてないけど。でも俺達に戦う理由はないだろ」

「………何言ってんの?」

「だって遠坂は結界を張ったヤツじゃないんだろ。むしろ止めたいとさえ思ってる。
 なら俺には遠坂と敵対するだけの理由がないし、それがないってことは戦う理由がないってことだろ」

 俺が戦うと決めたのは誰かを巻き込もうとする輩を止める為だ。俺と同じような考えを持つ遠坂は倒すべき敵じゃない。
 だが遠坂は左手をかざしたまま右手で顔を覆って見せた。

「やっぱりバカみたいね。
 口で言わなきゃそんなことも判らないの?」

「……なにがさ」

 指の隙間から垣間見えた瞳は氷のような冷たさだった。
 本当に、突き刺さるような冷たい視線。

「わたし達は聖杯戦争の参加者。この戦いはサーヴァントを従えるマスターが最後の一人になるまで終わらない。
 わたしも貴方も、殺し殺される事を了承した上でこの舞台に立っている。そしてそのマスター同士が殺し合うのに理由なんか要らないの。
 出会ったのなら、こうして向かい合ったのならやる事なんて一つでしょう」

「──────」

「何よ、その目は。言いたいことがあるなら言いなさい」

「俺は、遠坂とは戦いたくない」

「──────」

 ぎちりと遠坂が歯を噛む音がここまで聴こえた。
 それは風のせいかもしれないし、誰もいない無人の廊下に響く無音のせいかもしれない。

「まだ………そんなコトを言う気……」

「何度だって言うぞ。俺は遠坂とは戦いたくない」

 彼女が魔術師だと知って驚いた。しかも人を殺す結界を張ったとも思っていたから、余計にその思いは強かった。
 だけどそれは間違いで、むしろ俺と同じ気持ちだと知った時。何故かほっとしたんだ。だから俺は、彼女とは戦いたくなかった。

「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ!
 アンタ魔術師なんでしょ!? 叶えたい願いがあるから、この戦いに自分から参加したんでしょ!?
 なら戦いなさい! わたしと! 殺し合うつもりで、本気でかかってきなさいよ!!」

 肩を上下させ呼吸を荒げる遠坂を見つめたまま、俺は微動だにしなかった。
 遠坂の言うことも理解出来る。本来魔術師なんて生き物は、自分の事しか考えない生き物なのだ。だからこそ、魔術師たらんとする遠坂には俺のような半人前がイラついて見えるんだろう。
 でも俺の意志は変わらない。俺はきっと魔術師には成れないし成るつもりもない。
 切嗣が言っていたように自分の為に魔術を扱う魔術師ではなく、誰かの為に魔術を扱う魔術使いでありたいと思うから。

「────そう。
 どうしてもわたしとは戦わないって言うのね」

 呼吸を落ち着け紡がれた言葉は、かつてないほど重く響くような声色だった。
 だがそれに負けまいと意志を伝える。

「ああ。俺は俺の意志を変えるつもりはない」

「いいわ、ここまで言って分からないなら貴方に戦う意志があろうがなかろうが構わない。
 見てるとイライラするのよね。
 だからわたしはアンタをここで倒すことに決めた。そんなヤツに目の前をうろちょろされたら目障りだし、元々そのつもりだったもの。
 さっきも言ったでしょ? 死んだ後じゃ聞こえないだろうって」

「──────っ!」

 じりっ、と一歩後じさる。
 突きつけられた指先に魔力が籠もっていくように感じられる。
 遠坂の顔には薄ら寒い笑みが貼り付いていた。

「でも安心して、殺さないから。
 令呪を剥がしてマスターの権利を剥奪する。神経も一緒に剥がさないといけないから想像を絶する痛みにのたうち回る事にはなるでしょうけど。
 いいわよね。腕の一本くらい、死ぬよりはマシでしょう────!」

「─────っ!!」

 その言葉が紡ぎ終わるより先に。
 身体は反応し、廊下へと全力で飛び退いていた。それはきっとそれが本気の表情なのだと悟れていたから。運が良かったとしか言いようがない。
 前転の要領でくるりと膝立ちで床に起き上がり、視線だけを後ろに向ける。
 ついさっきまで俺が居た場所には、指先より放たれたガンドの爪痕が色濃く残っていた。

「……殺すつもりはない? 冗談、あんなの喰らって生きてられるかっての────!」

「大丈夫よ! 当たり所さえ良ければね!」

「─────っ!?」

 背後から階段を駆け下りてくる足音が響く。
 全速で体勢を立て直す。
 ───考えてる暇はない。今はとにかく逃げないとシャレにならない……!

「廊下はまずい…………!」

 なにしろ真っ直ぐだ。
 遠坂の武器は拳銃より巨大な飛び道具。真っ直ぐにしか飛ばないだろうけど、だからこそ真っ直ぐな廊下を走っては背中を狙い撃たれる。

「そこ、動くな────!」

 階段から躍り出てくる遠坂。
 それより僅かに早く、すぐ横の、二年F組の教室に飛び込んだ。
 それとほぼ同時に廊下を撃ち抜く銃声。
 遠坂のヤツ、廊下に出るなり問答無用でぶっ放しやがったらしい……!

「どうする………!」

 ここは三階だ。
 窓から逃げようにも生身で飛び降りたらタダじゃ済まない。
 かといってこのまま廊下に飛び出したんじゃ逃げ込んだ意味がない。
 考えろ。考えろ。考えろ。

『────落ち着いて。ピンチの時こそ冷静に、ですよ』

「ギル…………っ!?」

 そうか、レイライン。
 薄くではあるけれど、俺とギルとはそのラインで繋がっている。そこを通して脳に直接語りかけているのか。

「……ってやば、来た────!」

 思考の猶予さえ与えてくれないらしい。
 駆けてくる遠坂の足音は、教室の入り口あたりで止まった。
 ……俺がここに飛び込んだのは見えた筈だ。
 となると、俺が待ち伏せしていると用心して足を止めた────

「なワケあるか────!」

 走る。
 教室の端から端、前の出口へと駆け出すのと同じくして、容赦なく、廊下から弾丸が連発された────!

「うぉ────!?」

 弾丸は壁を貫通し、放射状に教室内を狙い撃ちにする。
 その一発が髪を掠め、チリチリと音を立てる。

「っ…………アイツのガンド、マジで銃弾なんじゃないのか!?」

「止まりなさい……! 大人しくていれば命だけは獲らないわ!」

 だっ、と教室に飛び込んでくる遠坂凛。
 距離は四メートルほど、俺達は教室の前と後ろの入り口に手を掛けて、睨みあう────なんて余裕はないっ……!

 廊下に飛び出る。
 考えてる暇なんてあるものか。勢いをそのままに、こうなったらもう、あっちの階段に向かって全力疾走するしかない!

 駆け出そうとするのとほぼ同時。半身を教室に滑り込ませていた遠坂の身体が廊下へと躍り出た気配を感じた。
 響く足音。甲高い靴音を響かせながら、容赦の欠片すらなく指先を突きつける───!

「待てって言ってんでしょ、この────!」

 ばきゅんばきゅん、と至極リアルな銃声を打ち鳴らしながら吼える遠坂。

「待てと言われて待つヤツなんているもんか───!」

 ましてや止まればそれだけで死ぬかもしれないこの状況で、足を止められるヤツは相当の命知らずだけだろう。
 走りながら思考を回す余裕なんてある筈もなく、ばきゅんばきゅんからガゥンガゥンに響きを変えたもう何を撃ってるのかすら定かではない後方の人物を憂いながらただひたすらに廊下を駆け抜ける。

「あづっ………! くそ、掠ったぞおまえ! 本当は殺す気だな……!?」

「うっさい! アンタが逃げ回るから狙う指にもつい熱が入るんじゃない……! 大人しくお縄につけ! そうすれば優しく殺してあげる────!」

「やっぱり殺す気じゃないかぁ────!」

 脱兎の如く逃げ惑う。
 だが遠坂のガンドは狙いが甘いらしく、ただ駆けているだけの俺でもほとんど命中していない。
 だけどさっきからその弾丸が巨大になっているようで、一発当たりの着弾面積が増大している。まさしく遠坂のガンドは下手な鉄砲数撃ちゃ当たる……いや、当てるだ。

「ぐっ─────!」

 このままじゃ逃げ切れない。
 そう判断した瞬間、身体は真横にあったA組の教室へと飛び込んでいた。

「くそっ」

 また袋小路に飛び込んでしまった。
 幸い遠坂はまだ少し後ろ。僅かながら考える時間はありそうだ。

「……そうだ、武器があればいい」

 これはあの夜と同じだ。
 ただ違う点があるとすれば、相手が生身の人間であるという点だけだ。
 武器……身を守る為の武器。
 ふと、今自分が握っているモノが目に留まった。

「………鞄」

 そして視線の先にあるものは用具入れのロッカー。

「……我ながら貧相な武装を思いついたもんだ」

 だが考え付いてしまった以上、それを行動に移す事しか俺には出来ない。他に手もないしな。なら善は急げ。
 遠坂に追いつかれる前に全ての工程を終わらせなければならない。

同調トレース開始オン







 かつん、という音が教室に反響する。遠坂が教室の前へと辿り着いたらしい。
 それに少し遅れて、入ってきたのとは逆のドアから廊下へと舞い戻った。

「やっと観念したのかしら…………って何よ、それ」

 視線が俺の両手の上を行き交う。
 無理もない。………自分でもこれはどうかと思うからな。

「ぷっ………あははははははは! 箒と鞄? なにそれ、剣と盾のつもり!?
 くっはははははは! ちょっと、やめてよ……笑い死にさせようなんて反則じゃない!」

 遠坂は心底おかしそうに腹を抱え笑い転げている。
 そう、俺は右手に剣に見立てた箒を。左手には盾に見立てた鞄を持っていた。
 ……やばい、自分でも頭おかしくなった気がしてきた。

「あはっあは……もう、笑わせないでよ。卑怯よ、それ。
 でも…………そうね。勇ましい勇者様にはお似合いの装備だと思うわ」

 ぷっ、とまたも吹き出してくつくつと笑っている。
 まあ笑わせるだけで見逃してくれるのなら僥倖だけど、そうはいかないらしい。

「さあ、もう後がないわよ。そんなもので本当に身を守れると思ってるわけ?
 諦めて投降なさい」

 鋭い眼光がこちらに向けられ、同じように銃口たる指先をも突きつけてきた。
 ただ口元がぴくぴく引き攣るように動いているのが見て取れる。…………なんか、ムカついてきたぞ。

「ふん、いやだ。
 令呪は渡せないし、負けてやるつもりもない。それにこれで戦えないかどうかなんて、やってみなくちゃ判らないだろ」

 ぐっ、と手足に力を込めて“少しずつ後ろに下がる”。
 現在の彼我の距離は教室の前と後ろの出入り口分の距離、約四メートル。それを少しでも離せるように、じりじりと下がっていく。
 それに気づいているのかどうかは判らないが、それでも遠坂は間合いを詰めようとはして来ない。一応警戒しているんだろうか、その場を動かないまま左手を前に突き出した。

「ふぅん、面白い冗談ね。お笑い芸人にでもなるといいわ、衛宮くん。ただし、生きて帰れたらの話だけどね────!」

 ガゥン、と銃弾ガンドが撃ち放たれる。
 それに合わせるように、硬度を増した鞄を盾と敷く────!

「──────!?」

 鈍い音が響く。遅れて上がる黒煙。
 ガンドの直撃を受けた鞄は、しかしその形状を維持したまま我が身を守り抜いてくれた。

「強化の魔術────!」

 その様を見た遠坂は一息で後ろに数歩分飛び退いた。
 一目で鞄に施された魔術を看破し、おそらくはこの箒にも同じように強化を施してあると感づいたのだろう。
 それでも俺の武器はあくまで接近戦の為のものだ。近づかずに攻撃出来る飛び道具を持つ遠坂にとってみれば、近づかなければ攻撃できない俺の武装は脅威足りえない。だからこそ自分にとって最も有利に戦える距離、俺が近づくまでに充分に狙い撃てる距離まで間合いを広げた。
 だけどな、遠坂。その選択は戦術的には正しいが、戦略的には間違いだ────!

「──────!?」

 遠坂の驚愕に脇目も振らず。
 俺は一目散に後方にある階段へと駆け出した。

「なっ……この、そこで逃げるか────!」

 元々俺には遠坂と戦う意志はない。そりゃこうして自分の身を守る為に逃げ回ってはいるけど、別に勝つ為に攻撃しようなどと思ってないし、現にこの箒には強化の魔術を施していない。いや、厳密に言えば施す時間などなかったのだ。
 何でかは知らないけど、実戦じゃここ数年成功しなかった強化がすんなりと成功してくれている。だが出来る限りの工程を省いて魔力を通そうとも、あの僅かな時間では鞄を強化し終えた時点でタイムアウト。箒は強度をそのままで廊下に舞い戻ったのだ。

「ここまで巧く行くとは思ってなかったけど、なんとかなるもんだ」

 階段を駆け下りながら、憤怒の形相をしているであろう優等生の顔を思い浮かべる。
 ……あれ、まるっきり別人だよな。
 昨日まで俺の中にあった遠坂凛像がガラガラと音を立てて崩れていく。
 そして今の遠坂が素の方で、あの優等生然とした方が猫被りなのだと、なんとなく解ってしまった。

 二段飛ばしで階下へと足を急がせ、とうとう一階へと辿り着いた。
 人気は少ない。が、二階や三階のように無人というわけではない。近くに人影はないが、遠く、廊下の向こう側の方に薄く人の姿が見える。
 このまま人気の多いところまで逃げ切ってしまえば、流石の遠坂も追っては来ないだろうと思った───その矢先。

 甲高い音が響き、文字通り、上から何かが降ってきた。







「──────っ!?」

 反応する暇さえなかった。
 眼前に舞い降りた黒い影───遠坂凛───は口元に笑みを貼り付けたまま、士郎に向けてガンドではなく胸に寸頸を打ち込んだ。

「……………がはっ!?」

 予期していなかった攻撃に思考は停止し、たたらを踏む。手に持っていた筈の箒と鞄もだらしなく垂れ下がった腕より離れ、床を打つ。
 よろめいた士郎を見やり、凛は間髪いれずに身体を入れ、体重の乗った一撃で意識を刈り取ろうと追い討ちをかける────!

「─────ぎっ……!」

 だが間に合った。
 士郎は腹に力を込め、その正拳突きを出来る限りの筋肉の盾で受け止める。

 ────遠坂のヤツ……中国拳法の使い手だったのか………!

 だがそれでも相手はか細い腕を持つ一介の少女だ。強化も施していない拳一つで、常日頃から鍛えている士郎の身体を貫き意識を刈り取る事など出来はしまい。

 だが────

「な──────!?」

 拳を打ち込んだ直後。凛の姿が士郎の視界から唐突に消滅する。
 士郎の困惑を余所に凛は素早く身を屈め両手を床に付け、遠心力を上乗せした足払いを見舞おうと身体を捻る。
 凛の身体ごと回した旋脚は、根元から士郎の足を断たんと炸裂する────!

「ぐっ………………!」

 足を払われ浮いた身体。もがくように空を掻いても掴めるものなどありはしない。士郎はそのまま為す術もなく重力に引かれて無様に尻餅をつく。
 遠坂凛を生粋の魔術師だと思い込んでいた先入観が、ここに来て有り得ないほどの動揺を誘発させる。瞬時に消えたように沈んだ凛の………いや、飛び降りから足払いまでの一連の動作はあまりにも流麗だった。
 遠距離攻撃を主としていた少女が突然の近距離攻撃を行うという困惑とそこから放たれた全く想定の外にあった攻撃によるダメージのせいで、通常時なら反応くらいは出来たであろう攻撃を甘んじて受ける結果となった。

 だがここまでの動作を行って尚、凛は更に詰めの一手を打たんと大地を蹴る。
 士郎が身体を起こす暇すら与えない。凛は倒れこんだ士郎の上に馬乗りのようなカタチでその腹に腰を落とし、両の脚でがっちりと士郎の身体を挟み込む。
 逃げ場などない。両手は万歳のカタチで頭の上。脚はしっかりと重みを伝えてくる凛の身体に固定されている。
 なにより額に突きつけられた指先が、『動けば撃つ』と脅迫めいた呪詛を吐く。


「──────チェックメイト」


 勝利宣言。
 妖艶ささえ漂う唇から、事実だけを告げる冷たい言葉が零れ落ちた。













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