剣の鎖 - Chain of Memories - 第十一話 まだ赤みを帯びたままの廊下で、俺はひんやりとする廊下を背に天井を見上げている。いや、正確に言えば天井ではなく人の腹の上に無遠慮に乗っかって凶器と呼べる指先を額に突きつけている……そう、つい先日まで憧れだった女の子の顔を眺めていた。 飛んだり跳ねたりして疲れているんだろう、肩で息をしているし額には玉のような汗が浮かんでいて、綺麗な黒髪を貼り付かせている。 …………この状況をなんと言えば良いのか。 そりゃ今の今まで命を獲る獲らないの大奔走劇を繰り広げていたし、この状況は実は凄くやばいものなんだろう。だって遠坂の意志一つで俺はあのバズーカめいたガンドを零距離で喰らう羽目になるし、逃げ場なんてもちろん用意されていない。 まな板の上の鯉。この言葉がしっくり来るかな。つまり俺の命はただいま人の腹に馬乗りになっている遠坂の手に委ねられているのだ。 だが俺の思考はそれとは別の事を考えている。 だってあの遠坂凛だぞ。男子生徒の憧れの的、穂群原一の美人がなんだって俺の上に乗っかって二人して見つめ合っているのか。殺されそうとかそんなことよりも、そっちの方に心臓がバックンバックン脈打って、こんな様を他の誰かに見られたら一体明日からどうなるんだろうとか考えていた。 あ………顔が熱くなってきた気がする。 思考を無理矢理止めて少女の表情を窺えば、そこにあるのは勝利を確信した笑み。こっちの気持ちなんて全くお構いなしに勝利による喜びだけを湛えている。 だがそれもそうだろう。マウントポジション。チェックではなく、チェックメイト。既に完全な詰みの状態だ。この状況から抜け出せる打開策を思いつけるほど俺は修羅場を潜り抜けてきてはいない。 これは俺の甘さが招いたものだ。飛び道具を主としている遠坂が、まさか階段を飛び降りてくるとは思っていなかったし、あれほどまでに熟練した拳法を嗜んでいるとは夢にも思わなかった。 一瞬の油断。振り切ったと思った心の隙。上と下。それが俺達の差。遠坂の方が俺よりも上手だったというだけの話。 「さあ、終わりよ。遺言くらいなら聞いてあげるけど?」 どうやら最初の命は獲らないという話は何処かへ飛んでいってしまったらしい。 だけどその勝ち誇った顔が、ひどくカチンと来た。 「………………」 「ふぅん、この状況でも諦めてないって目ね。 その気迫だけは買ってあげるけど、素直に諦めた方が身の為よ?」 そりゃ自分でも無謀だなって思ってる。 だけど俺は諦めるわけにはいかない。戦うって決めたんだ。一緒に戦ってくれるって言ってくれたヤツがいるんだ。 だから、最後まで諦める事だけは絶対にしない。 遠坂の顔が近づいてくる。 その薄い唇から漏れる吐息が鼻腔をくすぐる。視線と視線が絡み合う。 「…………。ふん、これ以上は無駄ね。殺す事も出来るけど、最初の宣言どおり命だけは助けてあげる。 痛みも感じたくはないでしょ? だから少し、眠りなさ────」 言葉が紡がれ、突きつけられた指先から魔力の弾丸が放たれる、その、瞬間。 どさ、と何かが落ちる音が聞こえた。 「「──────!」」 二人の視線が同時に音源の方へと向けられる。 「─────桜……!?」 「─────桜……!?」 俺達が駆け下りてきた階段の中腹、踊り場から桜がこちらを見下ろしていた。 今にも消えようとする夕日の赤い逆光により目が眩み、その表情を完全に読み取る事が出来ない。が、俺が間違えるはずがない。あれは桜だ。 さっきの音は手に提げられていたであろう鞄が床を叩いた音らしい。桜の手は口元へと持っていかれ、その目は俺達を捉えながらも有り得ないものでも見たかのような驚愕と困惑に濡れていた。 ────っていうか、まずい……! なんでこんな時間に、こんな場所に桜がいる!? 帰ったんじゃないのか!? いや、そんな事よりも不味いのは魔術を見られたかもしれないという事。一般人に神秘を見られてはならない、というのは魔術を扱う者にとっての鉄則。 もし、それを見られたのなら。その人物は須く殺害の対象となる。俺ならともかく、魔術師たらんとする遠坂が、目撃者をそのまま放置するとは思えない! 「遠────……!」 『きゃあああああああああああああああああああああああああ!』 「────!」 「────!」 悲鳴!? 今度は俺達の頭の方、廊下の奥からその声が聞こえた。 桜へと注視していた視線を高速で頭上へと移動させる。 非常口の手前で。未だ残っていた女生徒が床に叩きつけられる様を目が捉えた。 「遠坂っ! どいてくれ!」 「え、な、きゃあっ……!」 ほぼ同時に起きた二つの出来事により遠坂は俺への注意を怠っていたらしい。苦もなくその軽い身体を払い退けて立ち上がる。 「ちょっとっ……衛宮くん!?」 「話は後だ……! あの生徒を助けないと……!」 それだけを言って走り出す。 遠坂が見たかどうかは判らないが、俺は見た。あの女の子が倒れるほんの少し前。その背後から少女の首筋に牙を立てた、黒い影を────! 勝利と敗北の狭間/Ricordanza III
/1 駆け出した直後。 「────衛宮くん! ちょっと、待ちなさ………桜っ!? 待って!!」 その声に足を止め振り返る。遠坂の視線の先。桜が階段を駆け上がっていく姿を、目の端で捉える事が出来た。そしてかんかんかん、と靴音を響かせ上へ上へと上っていく音が耳に届く。 ああ、そうか。あの生徒の事も気掛かりだけど、桜の方も放って置くと不味いか。くっ、どうすればいい!? 「────チッ。桜は後! 衛宮くん、前に向かって走りなさい!」 「お、おう!」 床を叩いて遠坂が駆け出す。その後を追う。 桜は魔術を見たかもしれないけど、直接的な被害は被っていない。遠坂が追いかけないのなら、万が一もないだろう。ただ前方に倒れ伏している女生徒は襲撃された場面を見てしまっている。放って置くと命に関わる可能性もある。 倒れていた生徒を抱え、状態を診る遠坂。 どうやら一年生のようだが……こちらから見る分には特に異常はないようだ。牙を突き立てたように見えたけど、そんな痕跡は見当たらない。目の錯覚だったんだろうか。 「……まずい。中身が空っぽみたい。このまま放っとくと死ぬかもしれないわ……」 「!? ちょ、ちょっと待て。 特に異常は見当たらないぞ? 中身がないって一体どういうことだよ」 「こんな青い顔してるのに異常がないなんてよく言えたもんね。 生命力……言い換えれば魔力をほとんど持ってかれてるの。血もごっそり抜かれてるから、吸血行為でもしたんでしょうね」 「…………なんとか、ならないのか?」 「大丈夫。これくらいなら手持ちの宝石でなんとか……」 そう言って遠坂はポケットから幾つかの宝石を取り出した。 ……良かった。 どうやら遠坂は治療法を知っているようだ。 「──じゃあ遠坂。その子の事は任せて良いか?」 「ええ、構わないけど……待って。アンタ、何するつもり?」 「犯人を追う」 牙を突き立て、中身を啜った犯人。 まだ床に突っ伏していた時。黒い影が、非常口からするりと外へと出て行く姿を目撃した。今から追えば、まだ追いつけるかもしれない。 念の為拾ってきておいた箒を右手に、非常口へと向かう。 「ちょっと、止めなさい! サーヴァントもいないくせにどうにか出来るわけ───」 遠坂の言葉を最後まで聞き終わる前に扉を抜けて走り出す。 …………感じる。 目を閉じれば、ドス黒い魔力の塊のようなものが移動している方向を感知出来る。 本来魔力感知など出来ない俺でも感じられるほどに、それの放つ魔力は強い。 「弓道場の方……雑木林か」 誰もいない校庭を駆け抜け、弓道場の方へと向かう。 と、その前に。 「──── まだ魔力を通していない箒に魔力を込める。 背中に熱した鉄の棒を差し込む過程を無視して、魔力を直接叩き込む。 「…………よし」 結果は成功。 あの夜も、ついさっきも、そして今も。実戦となればその強化は百パーセント成功してくれている。 浮かれたい気持ちになったけど、それを抑えて足に力を込める。 硬度を増した箒を握り直す。 雑木林を目の前にし、その垣根を飛び越えて腐葉土の地面を蹴る。 「──────」 誰もいない。 足元には枯れ落ちた木の葉。乱立する木々に色はなく、セピアめいた暗褐色だけがその空間を支配している。 鳥の囀りも、虫の鳴き声も、木々のざわめきさえもありはしない。耳を劈くような静寂だけがある。それはまるで、圧倒的強者に恐れをなし、世界すらも息を潜めているかのような静けさだった。 ────いる。見えないけど、いるのだけは判る。 何処だ? 何処にいる? 視線を彷徨わせ、見えない敵を探り続ける。 緊張が走る。 手に汗が滲む。 足が竦む。 狙っている。 狙われている。 前か、後ろか、右か、左か。何処だ、何処から来る────! 「………………上かっ!!」 尖らせていた神経が木の微かに揺れる音を感知し、そう判断した瞬間、大地を強く蹴り後ろに飛び退いた。だが完全に躱す事は出来ず、俺の脳天を打ち貫かんと突き出された釘のような短剣が頬を掠めた。 「くっ…………!!」 だらりと剥げたように頬の皮膚が裂けている。頬から真っ赤な血が垂れ、足元に散らばる枯れ葉へと滴り落ちた。 痛い。痛いけど、これでも幸運と言えるだろう。一瞬でも飛び退くのが遅ければ、今頃俺は頭蓋を貫かれ串刺しにされていたのだから。 「おまえ…………!」 体勢を立て直し、目の前に舞い降りた黒い影を睨みつける。 それは、癇に障る笑みを浮かべた、黒一色の女だった。 「サーヴァント…………!」 確かめるまでもない。 こうして相対すれば理解できる。遠坂でさえ霞むほどの、人間離れした魔力の塊。 腰元、いや足元まで流れる紫紺の髪。すらりとした長身に肌を大きく露出させた黒の衣装。夢か幻と見紛うほどの美しさと、濃密なまでに血に濡れたその姿。 何のクラスかは知らないが、こいつは紛れもなく人間以上の存在に他ならない──── 「いい反応です」 「…………っ!」 その言葉を残し、目の前から黒い影が消失する。 何処だ、と考えるより先に。 殺される、と直感し。 ただ夢中で後ろに向けて右手の武器を払った。 「ぐっ────!」 何時の間に後ろに移動したのか。そんな事、俺には理解できないが放たれた釘を打ち払えた事だけは確かだった。 あの女は蜘蛛か何かなのか、釘を飛ばした直後にはまた頭上に飛び上がり木々に張り付くように雑木林をすり抜けていく。 あんな派手な格好をしてるってのに、姿形すら捉えられない。 木々を撓らせそれを足場として移動しているのか、黒いサーヴァントの姿は見えず、ジャラジャラと鳴る鎖の音だけが雑木林に木霊する。 「はっ、はっ、はっ…………」 動悸が激しい。 二度の奇襲を防げたのは偶然でなければ奇跡としか言いようがない。サーヴァントを相手取るには人間では足り得ない。 そんなこと、昨日からずっと知ってたのに。 ただ響くのは鉄と鉄の擦れる音。鎖がうねるようにその音階を上げていく。 とりあえず近場にあった比較的大きな木を背にする。これで二度目の不意打ちのように背後から狙われる事は……ないと信じたい。 「………………」 サーヴァントに対抗できるのはサーヴァントだけ。 だけど俺はまだ生きている。本来、力の差が有り過ぎるこの状況では、俺は既に死んでいる筈なのだ。生きているというその事実が、不思議といえば不思議だった。 本当はとっくに殺されていて、俺は敵に襲撃を受けているという醒めない夢を見ているのではないか、とさえ錯覚してしまう。 「……馬鹿馬鹿しい。そんなワケ、あるもんか」 そんな逃避めいた思考を切り落として今はこの現状を打破する手を模索しろ。幸い、あのサーヴァントの狙いが何なのかは判らないけど、襲ってくる気配はない。さっきからずっと単一の音だけが上から響いて来ている。 「──────」 切り札を、令呪を使うなら今か。 使い方は知っている。ただ強く。その願いを乗せて魔力を込めれば、左手の絶対命令権の一画を失う代わりにギルをこの場に召喚できる。 次、襲われれば間違いなくアウト。偶然はこれ以上続いてくれはしないだろう。 そう────死んでは元も子もないとは誰が言った言葉だったか。 だけど俺は。 ここでそれに頼ってしまって良いのか? この死地へと飛び込んだのは俺の意志。遠坂の制止を聞き入れ、やり過ごす事だって出来た筈だ。なのに自分からこの場所へと飛び込んだのだ。だからこれは俺の責任。その責任は俺の手で果たすべき事だ。それに何より──── 「────俺はまだ、出来る事をやっていない」 そうだ。 拙いけれど、この腕には武器がある。 外傷と呼べる傷は頬のそれだけだ。 五体満足、身体も動く。 そう、今の俺に出来る事。それは──── 「驚いた。令呪を使わないのですね、貴方は」 「────!」 声が響く。 上────やはり木の上に潜んでいるのか。 「……ふん。三回しか使えない、とっておきの切り札なんだ。こんな所で使ってちゃ、後々困るかもしれないだろ」 「……そう。勇敢なのですね、貴方は」 位置を探る。 声の元は何処だ────? 「ですが今の言葉は私相手になど令呪を使う必要がない、と聞こえました。 勇気と無謀を履き違えているようですから、それを悔い改めてもらった後、優しく殺してあげます」 「──────っ!」 棘のある声が消える。 林には、ジャラジャラという音だけが響いていく。 覚悟は決めた。来るなら来い。 注意を向けるのは前方、左右、そして上。 背後は木が守ってくれる筈…………! 「はぁ────!」 上空より打ち出された一撃を弾き返す。 木の葉が舞う。 落ちてきた黒い影が大地に四肢をついて着地し、ついで放たれた回し蹴りを“武器”で受ける。 サーヴァントが飛び退き、すぐさま突進を開始する。それはたかが人間に奇襲を二度、そして今の二連も受け切られた苛立ちか。 立て続けに放たれた剣戟の、その悉くを弾き返す────! 「っ、そんな────!?」 いける─────! 「あぁ────!」 防勢から一点、攻勢へと転じる。両手で“武器”を固く握り締める。足を踏み出し、敵の懐へと入り込み、袈裟斬り、胴薙ぎ、逆袈裟と。 持てる力の全てを込めて、ただひたすらに連撃を見舞う────! 「くっ────!」 ぎん、と鈍い音を響かせ黒いサーヴァントは大きく後方へと跳躍した。 「はあ、はあ、はあ、…………は、ははははは、ははっ!」 喉から笑いが漏れる。 戦えている。 サーヴァント相手に、俺は善戦出来ている。 偶然? 偶然だ。奇襲、初撃、二撃、連撃。幾つもの攻撃をほぼ無傷を防ぎきれるなんて偶然以外に何がある。ただ、偶然ってのはこうも続くものなのか。もしこれが、偶然以外の要素によってもたらされたものならば……。 最初の対峙以来、姿さえ見えなかった黒いサーヴァントが足を止める。 目を眼帯で覆っている為、その表情を完全に窺い知る事は出来ないが、口元が忌々しげに歪んでいる。 両の手には杭を模した短剣。その柄の部分には鎖が付いており、それで左右の短剣を繋いでいる。なぜそんな形状をしているかは不明だが、それが敵の持つ凶器だった。 「はっ、大したことないな、おまえ! 他のサーヴァントに比べれば、随分と迫力不足だ────!」 だっ、とぬかるむ足元の腐葉土を蹴る。 敵はすぐ目の前。この拙い武器でもこの敵とは戦える。と、思った瞬間。 そのサーヴァントは───ひどく邪悪な笑みを浮かべた。 「─────っ!!」 得体の知れない不安に身体は急停止する。 ジャラ、とその手に握られた杭に繋がる鎖が揺れる。 「なっ…………!?」 サーヴァントの姿が視界から消滅する。 右。 そう当たりをつけて身体ごとそちらへと動かす。黒い影が走る。木の葉を舞い上がらせながら俺の周りを旋回するようにぐるぐると走り続ける。 身体ごと回していては追いつけない。視線だけでその姿を追おうとするも──── ────速すぎる……! 目で追える速度じゃない。不安定な足場だというのに、その黒いサーヴァントはそれをものともせずに旋回を繰り返す。 しまった。前に出すぎて背後がガラ空き。後ろへ戻る事もままならない。 どうする。何処から来る。 自分の浅慮を恥じながらも神経を研ぎ澄ませる。 鎖の音を追え。あの音源はヤツの手に握られた武器に繋がっているんだから、それを聞き分けられればどこから攻撃が来るか判る筈だ。 一定のリズムを崩さず音は響き続ける。 その中にあって。 瞬間。鎖の音色に不協和が訪れた。 「────そこだっ!」 右後方。そこから放たれたであろう杭を右手の“武器”で叩き上げる。 宙を舞う短剣。 それを、 「───────!?」 黒い影は空中でそのままキャッチし、左手の杭をそのままに、右手の杭を再度投擲した。 「ぐっ!」 間一髪でそれを回避する。 が、それを予期していたかのように鎖は進行方向を変える。まるで生きているかのようなうねりを見せ、杭は一直線に。しかし鎖はサーヴァントの手に握られたもう一方の杭の操作によって幾つもの円を描くように空を切り裂く。 「ぐっあああああああああああああああっ!」 杭を躱すことは出来たが、それまで。鎖の描いた円は計ったかのような正確さで俺の右腕をその中心へと導き、ヤツがその手の杭を引けば鎖は右腕を引き千切らんとばかりに締めつける。 だがそれで終わらない。黒いサーヴァントの着地と同時に枝を支点として腕に巻きついた鎖は、軽々と俺の身体を持ち上げ、宙吊りにされてしまった。 「先程何か言っていたようですが……どうですか? まだそんな事が言えますか?」 「ぐっ………あぁぁぁあぁ………」 木の枝をぐるりと回るように鎖は掛けられ、一方はヤツの手の中に。もう一方は俺の腕をきつく締め上げギチギチと音を立てる。 アイツの狙いはこれか。右手に握っていた“武器”もあまりの痛みに手放してしまい身を守るものは何もない。いや、それ以前にこの宙吊り状態では手も足も出せない。 「────さて。貴方には先程の言葉を撤回していただきましょうか。私が、他のサーヴァントに劣っているなどという妄言を」 歓喜を口元に、そのサーヴァントは目を離せないような妖艶さで微笑む。 だが肉を千切り骨すら砕かんとばかりに締め上げ続ける鎖の痛みに、そんな些細な事を気にする余裕などなかった。武器はない。身体は宙に浮き、自由さえも奪われた。手は、何かこの状況を打開する手はないのか。 「…………ふむ。撤回する気はありませんか。 では仕方ありません、私を侮辱した償いに、その眼を戴きましょう」 「──────っ!」 黒いサーヴァントの身体が沈み込む。跳躍する気だろう。そして、それが成ればあの杭で俺の眼は抉り出される。 武器を。身を守らなければ。 だが、ついさっきまで武器としていた強化された箒は遥か下。いや、実際には大したことない距離なのに、この状況ではそれは絶望的な距離だ。 武器が、サーヴァントとさえ対等以上に戦える武器が欲しい。あんな俄仕込みの強化で拵えた武器ではなく、鍛えられた……剣。 そう────たとえば。 アイツの持っていた、あの剣のような──── 「では、その濁った瞳。戴きましょう」 影が舞う。 たとえ為す術がないとしても、諦める事だけはしたくなかった。 だから、ただ我武者羅に。 「────あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああっ!!」 唯一自由な左手を振るった。 「──────っ!?」 瞬間、妙な音が耳朶を突いた。 それはぎぃん、という鉄と鉄とがぶつかり合う衝突音。 何故? 俺はただ左手を振るっただけ。 その手には、何も握られてなどいなかっ──── 「────え?」 それは、誰が発した驚愕の声だったか。 「そこまでだぜ、サーヴァント。悪いがこの小僧は殺させねぇ」 音を止めた世界で、ソイツはそんなコトを口にした。 視線が釘付けになる。 俺の振るった左腕は何もない空を斬り、そのままならば間違いなくあの黒いサーヴァントに眼球を抉り取られていただろう。 なのに、それは成らなかった。ぐん、と引かれた杭を突き立てようとしたその瞬間、横合いから赤い、血のように濃い赤に彩られた槍が突き出されたからだった。 それはまさしく理解できない一瞬の出来事だった。 なぜランサーがここにいるのか。そもそも何故敵である筈の俺を助けるような真似をするのか。この窮地では思考も回ってくれず、ただ呆然とその様を見ているばかりだった。 「うぁわ────!?」 ぶおん、と風を靡かせ黒いサーヴァントが飛び退く。それと同時に手にしていた杭を上下に振り、俺を拘束していた鎖を解いて手元へと手繰り寄せた。 敵サーヴァントの到来という事実に、武器を拘束に使っていては勝てないと判断したのだろう。だがそれを止める事も出来たであろうランサーは、全くその場を動こうともせずじっとその様子を観察していた。 自由落下により尻餅をついた俺を庇う様にランサーは立つ。 見えるのは青い鎧に身を包んだ槍兵の背中。だがそれはとても広く遠い背中だった。 「さぁて。少し遊ぼうか、サーヴァント。…………いや、ライダーさんよ」 「………………」 「だんまりか。寡黙な美人ってのも悪くねぇが、趣味じゃねえな」 この男の飄々とした態度には呆れさせられる。 ライダーも同様な気配を感じ取っているのか、ぴりぴりと刺すような視線がランサーに向けられている。 「ところで坊主。ちゃんと生きてるか?」 赤い槍をくるんと一回転させ肩を叩く。そして首を回し、視線だけでこちらの様子を窺ってくる。 「え? あ、ああ。生きてる。助かった、ありがとう」 自然と口から言葉が出る。それにランサーは、 「ハッ、敵に感謝するなんざ、てめえもどっか抜けてやがるな」 心の底からの喜びを体現するかのような笑みを見せ、ランサーは視線を前に戻した。 ランサーの身体が沈む。 これ以上の言葉は要らない。語るべきことは己が武器で語り合おう、と言わんばかりの敵意と殺意の入り混じった覇気を放つ。息を潜めていた木々が、いや空間自体が戦慄くように震え上がる。 ────始まる。 圧倒的格差を持った人間とヒトの闘いではなく。 対等の力を有する、サーヴァントとサーヴァントの、一対一の戦争が。 「行く────………!」 「─────衛宮くん!」 ランサーが大地を蹴り、ライダーと思しきサーヴァントに特攻をかけようとした、その瞬間。後方、弓道場のある方からそんな声が届いた。 「…………遠坂?」 息を切らせ、額に汗を浮かべながらこちらに走ってくる、つい先程まで必死の鬼ごっこをしていた女の子。そして襲われた女生徒の手当てをしていた筈の遠坂凛が、全速力で駆けて来る。 だが遠坂には俺の声など聞こえていないらしい。 ちらっと一瞬だけ俺を見たかと思うと、手をすぐさまポケットへと滑り込ませ──── 「────こぉんの!!」 掴んだ何かをそのまま振りかぶり、投げつける。 それは無数の光弾となって、 ──────ランサーへと襲いかかった。 /2 「ひでぇよなぁ、坊主。普通助けに入った側のヤツを攻撃するなんてありねぇよな?」 「だから、さっきから謝ってるじゃないっ!」 「………………」 ぶーぶー文句を言うランサーに謝罪のような言葉を浴びせる遠坂。俺はその二人の様子を腐葉土に腰を下ろしたまま、呆と見上げている。 何が起きたかというと遠巻きにしか俺達の様子を観察できなかった遠坂がランサーに向けて有無を言わせず魔力の塊を放っただけの話。いや、だけの話で済むような問題ではないのだが。 具体的に言えば、そちらに気を割かざるを得なかったランサーの一瞬の隙。ダメージこそ皆無であったものの、その一瞬はあのサーヴァントが逃走を行うには充分な隙であったらしい。遠坂の光弾を槍で弾いたその刹那に、黒いサーヴァントは木の枝へと跳躍し、獣のような素早さで遠ざかっていった。 だがランサーはそんな事を気にした様子もなく飄々とした態度を崩さず、悪戯っぽく遠坂をからかって遊んでいるように俺には見える。だって現に、 「もうそんくらいでいいぜ。お嬢ちゃんに悪気はなかったんだろうしな。ただ坊主を助けたい一心だったんだよな?」 ニヤニヤと。ランサーはそんなコトを口にした。 「なっ…………!」 「なっ…………!」 同時に絶句する。そりゃ……遠坂が俺を助ける為にそんなコトをしてくれたんだとしたら嬉しいけど、その、なんだ。ほら、遠坂も顔真っ赤にしてるじゃないか。くそぅ、ランサーのヤツ、一体何のつもりなんだ。 「くっく、やっぱおめえら面白いわ。 んでもよ、ちょっと気を抜きすぎじゃねぇか? ────オレはおまえ達の敵だぜ?」 「──────!」 緊張が走る。 ランサーの視線が細く鋭くなり、射抜かんばかりに肌を刺す。気を抜き下ろしてた腰を上げ、咄嗟に後ろへと飛び退いた。遠坂もランサーから距離を取っている。 だが当の本人は両手をひらひらとかざして殺る気はない、とばかりに肩を竦めた。 「冗談だ、そう構えるな。 殺す気ならとっくにやってるし、そもそも坊主を助けたりはしねぇ」 それも……そうか。 「じゃあなんで助けたんだ? 敵は一人でも減った方が都合がいいだろ」 「良くはない。テメエが死ぬとセイバーのサーヴァントも消えちまうじゃねえか」 「?」 だからそれが分からない。俺が死ねばセイバーも消える。マスターを殺してしまえばサーヴァントを倒す手間も省けるのだ。勝ちに拘るのなら、敵が一人でも多く早く消えてしまえばそれに越したことなどないだろうに。 ランサーはそんな俺の疑問を読み取ったのか、 「オレはサーヴァントと本気で戦いたいんだよ。マスター殺しなんざ、何の得にもなりゃしねぇ。アサシンでもあるまいに。 仮にも英雄を名乗るのなら、正々堂々戦うのが筋ってもんだろ。それにセイバーとはまだ手合わせをしていない。戦う前に消えられちゃあ、オレが困る」 ニヒルな笑みを崩さず、楽しそうにランサーは語った。 ランサーはただ本当に、本心からそう思っている。本気で、全力で戦いたいと。何のしがらみもなくただ己の全てを賭けて。心ゆくまで殺し合おうと、そう口にした。 だが、なんだ。それだと俺を助けてくれたワケじゃなくて、ただ単に俺が死ぬと死合える相手が一人減るから手を貸してくれたってことか? …………助けてくれたから、まあいいけど。 「それは貴方のマスターの方針?」 遠坂が問う。 「いや、オレの独断だ。ウチのマスターも結構な堅物でな、この現状を見せたら真っ先におまえ達を殺せと命ずるだろうよ」 まあそこがいいんだが、なんて言って、それで話は終わりだとばかりにランサーはこちらに背を向けた。 「ま、そういうわけで今日は見逃してやる。 だからおまえらのサーヴァントに伝えとけ。次遭った時、尻尾巻いて逃げ出すんじゃねぇぞってな」 ランサーは友人に約束を取り付けるような気軽さでそう告げて、俺達の返答を待つ事無く林の奥へと姿を消した。 とりあえず、窮地を脱した。 二人のサーヴァントは姿を消し、雑木林はいつも通りの静けさを取り戻した。そこに未だ残るのは俺と遠坂の姿だけだ。 「………………っ!」 その事実に思い当たって、遠坂から距離を取るように飛び退いた。さっきまでの出来事が脳裏を掠める。また追いかけられるのか、と辟易しながら遠坂を睨んだ。 「…………何してんの?」 だが遠坂は訝しげにこちらを見つめてくるだけで、襲ってくる気配はない。 ならこちらもそう警戒する必要もないか。 「ん……いや。何でもない。ところでさ、あの子、どうなった?」 「ああ、大丈夫。ちゃんと持ち直したし、今は保健室で横になってるわ」 「そうか、良かった」 犠牲者が出なくてほっとする。まだ学校に結界が張ってあるから全てが解決したワケじゃないけど、一応目下の犠牲を防げた事だけは単純に嬉しかった。 「ああ、お兄さん。ご無事でしたか」 一息ついた直後。 不意にそんな声が後方から聞こえた。 「…………セイバー?」 がさがさと木の葉を踏み鳴らしながらゆっくりと近づいてくる人影が一つ。それは間違いなくセイバー、ギルだった。 あれ? なんでアイツがこんな場所にいるんだ? そう声を掛けようとした俺よりも早く遠坂が反応し、俺達から距離を置くように林の奥の方へと飛び退いた。 「迂闊でしたね、アーチャーのマスター。 幾ら相手にサーヴァントがいないからって、自分のサーヴァントを帰すなんてね」 背後の空間が揺れる。 ギルはそこからまた視えない何かを掴み、一つ払って右手に握った何かを眼前へと突きつけた。 緊張が伝わる。それはギルのものでも俺のものでもない、遠坂のものだ。じり、と一歩後退すると枯れ葉が音を立てて崩れていく。 その音で、ようやく俺はギルの言葉を理解した。 「ちょ、ちょっと待て! おまえ、何する気だ!?」 歩み出ようとするギルの肩に手をかけ、その動きを制止する。 右手に不可視の武器を提げたまま、視線だけをこちらに動かしギルはこう口にした。 「何って、決まってるじゃないですか。 目の前に敵がいるんですよ。それもサーヴァントも連れていない生身のマスターが。殺すに決まってるでしょう」 「ばっ…………!」 何を言っている? 殺す? 誰を? それは、 「ふざけるなっ……! それはダメだっ!」 二人の間に入り込み、遠坂を背にギルと対峙し睨みつける。 「やだなぁ、マスターが自分のサーヴァントの邪魔をするなんて前代未聞ですよ。それも敵を庇う為だなんて。 貴方はついさっきアーチャーのマスターに殺されそうになったっていうのに、自分を殺そうとした相手を見逃すって言うんですか?」 「ああ」 短く、だがはっきりと。自分の意志を口にした。 ダメだ。遠坂は殺させない。それは、俺が望むことじゃない。 「邪魔するぞ、おまえが何て言ってもな。 遠坂は殺させない。たとえ令呪を使ってでもおまえを止めてみせる」 「衛宮くん…………」 左手の甲を握り締める。 赤い三画の刻印。俺が遠坂を殺すな、と命ずればギルの思惑を阻止する事は出来る筈だ。 視線を交錯させる。それは数秒にも満たない間の時間だったが、数分にも感じられるほど長く遠い交わりだった。 「…………マスターの命令では仕方ありませんね。そんなくだらないコトに令呪を使われるなんて以ての外ですし。ここはボクが折れましょう」 そう告げて、提げていた武器を消失させた。 「まあ、確かにフェアじゃないですしね。 アーチャーのマスターはあの瞬間、マスターを殺せたワケですし」 それはおそらく、階段での対峙の事だろう。確かに遠坂がアーチャーに殺せ、と命を下すだけで俺は死んでいた。勝つ事だけが目的なら、あんな奔走劇を繰り広げる必要などなかった。ただ一言、冷たい言葉を吐けば済んでいたのに。 だが遠坂はそうしなかった。だから俺もその礼を返さねばならないし、そんな事よりも遠坂を殺すのはダメだと思ってしまったから。これは間違いじゃない。 「だそうですよ、アーチャーのマスター」 他意はないと手をひらひらと振るギル。一応そちらに歩み寄って、遠坂と向かい合う。 当の遠坂は警戒はしているものの、突き刺さるような敵意は消えていた。 「そう、見逃してくれるっていうなら有り難く受け取っておくわ」 髪を払って棘のある口調でそう言い、俺達を見比べるように睥睨する。 ……なんか遠坂のヤツ、怒ってないか? 「貴方がセイバー? ふぅん、最優のサーヴァントって話だけど、そうは見えないわね」 視線をギルへと固定し、遠坂は皮肉を篭めてそう言った。 安い挑発とも取れる言葉だが、ギルはそれに乗る様子など微塵も見せず微笑を湛え続けていた。 「一面的な視点で全てを判断するのは良くないですよ。 過去、そういうサーヴァントが居たとしても全てがそうであるとは限らない。そう、ボクみたいな者もいますし」 「正論ね。ところでさっきのアレ、あれが貴方の宝具?」 「面白い事を聞きますね、アーチャーのマスター。たとえそうだとしても、ボクが本当の事を言うとでも?」 「思ってないわ。まあマスターがマスターだからサーヴァントも似たようなものかと思ったけど、どうやらそうじゃないみたいね」 ちらっと遠坂の視線がこちらに投げられる。なんかバカにされてる気がするんだが。 「それはそうと衛宮くん、貴方、どこまで聖杯戦争について知ってるの?」 「……一通りは聞いたつもりだけど」 「そのサーヴァント……セイバーに聞いただけってコト?」 「ああ、そうなるな」 他にこの戦いに詳しいヤツなんていなかったからな。聞ける話なんてあるわけもない。 遠坂の瞳がギルを射抜くも、すぐさま思案するように上へ。それも数秒、くるりと回って俺の元へとその視線は戻ってきた。 「……教会」 「へ?」 「新都にある教会。知ってる?」 「ああ……知ってるけど」 確か小高い丘の上にある教会だ。 行った事は一度もないけど、場所くらいは知ってる。 「そこの神父が今回の聖杯戦争の監督役をやってるから、聖杯戦争について詳しく知りたいなら行ってみなさい」 「………………」 何故そんなことを教えてくれるのか。そりゃこの馬鹿げた殺し合いがなんで起きたのかとか、誰が始めたんだとか色々知りたいことはあるけど、それを俺に教える義理は遠坂にはない。なら、それは──── 「勘違いしないでよね。わたし、借りを作りっぱなしって趣味じゃないの。見逃してくれる対価としては安いけど、払わないよりはマシでしょ」 ふん、とそっぽを向いてそう口にする。 「ただ、気をつけなさい。あの神父は曲者だから。もし会いに行くなら、しっかり気を引き締めて行く事をオススメするわ。 ────それじゃあね、衛宮くん。次逢った時は逃さないから」 遠坂は吐き捨てるように言って林の奥へと姿を消していった。 それを見届け、天を仰ぐ。セピア色の世界から見上げる空は、枯れ果てた枝葉に切り取られた小さな小さな世界だった。狭窄な世界。俺にはまだ知らない事がある。知らなきゃいけない事がある。 なら、行こう。それを知る為に。 「行っちゃいましたね。これからどうしますか?」 視線を落とす。 こちらを見上げる視線は俺の言葉など解っていて聞いているような風だった。 「行こう、遠坂の言っていた教会へ。俺は知りたい。この戦いの詳細を」 「今からですか?」 「早い方がいいだろ。一々家に戻るのもなんだしな」 特に異議もないのか、ギルはそれ以上言葉を発さず頷き合って雑木林を後にする。 いや、後にしようと一歩踏み出した時。 キチリと。何か、刃の軋むような音が聞こえた。 「ん? なんか言ったか、ギル?」 「いえ、ボクは何も」 「そうか、空耳かな」 首を傾げても、その耳に残る音はもう聞こえなかった。だからそれはきっと耳鳴りめいたものだろう。 だけどそれが妙に気になって、後ろ髪を引かれるように振り返ってみても、あるのは朽ち果て乱立する木々と枯れ落ち、風にその身を揺らす木の葉だけだった。 web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |