剣の鎖 - Chain of Memories - 第十二話









「そういえばお兄さん、腕の方は大丈夫ですか?」

 ギルと二人、雑木林を後にし、校舎に置き忘れてきた鞄を拾ってきてから、のんびりと校門の方へと歩いている。
 その途中、そんな事を聞いてきた。

「ん、まあ問題ない」

 だらりと下がった腕。ライダーの鎖によって締め上げられた右腕。ただ締められただけならともかく、吊り上げられたのが響いた。自重で肩さえ外れそうな痛みに加え、あのサーヴァントは更に跳躍しようときつく締めつけてくれたおかげで随分と感覚が鈍い。正確に言えば、痛いという感覚さえも何処へ行ったのか、麻痺したように感覚がない。おそらくは血の巡りを阻害されたせいだろう。
 だがその内この痺れも取れるだろうという楽観と余計な心配はかけまいとする心がそんな言葉を口から吐き出させた。

「…………無茶はしないで下さいね」

 露骨に息をついて、ギルは歩く足を速めた。
 確かに、無茶したと思ってる。サーヴァントに敵うのはサーヴァントだけ。なのに何を思い上がったのか、令呪さえ使おうとせず生身で立ち向かった結果、得たのはこの代償だ。ランサーが現れなければ、今頃どうしてたか…………。
 と、そこまで考えて、ある一つの不可解な疑問に思い当たった。

「なあ、ギ────」

 校門を目の前にし、その名を呼ぼうとした俺を手で制する。
 なんだ……?
 また敵かと身構える前に、その姿を目視した。

「…………桜?」

 校門の柱に背中を預け、俯き加減で両手で鞄を提げているのは、間違いなく俺の良く知る後輩、間桐桜だった。






星降りの夜に君を想う/Ricordanza IV




/1


「──────」

 忘れていた。いや、気が動転していてそこまで頭が回らなかったというか矢継ぎ早に色んな事がありすぎて…………ああ、もう、そんなのは全部勝手な言い訳だ。
 忘れていたんだ、俺は。桜に会うまで、あの廊下で桜に見られてはならないモノを見られてしまったということを。

「あ、え、ええと……だな、桜…………」

 まだ俯いたままの桜を前に言葉を探すも、しどろもどろで言葉にならない。不意打ちな上に妙な焦りが声を発する事の邪魔をする。
 と、俺がのらくらしている間に桜が顔を上げ、

「せ、先輩! あの、その、い、一緒に……帰りません、か?」

 意を決したような切羽詰まった表情で、そんなコトを口にした。

「………………」

「あ、あの……先輩?」

「え、あ、う、うん。わかった、一緒に帰ろう」

 呆然としたのも束の間、上目遣いで怯えるような眼差しでこちらを見上げる桜を見つめ返し、なんとかそう頷きながら返答した。桜には訊かないといけない事があるからな、この申し出は正直嬉しい。
 と、俺の返答が余程嬉しかったのか、曇天のようだった桜の表情がお日様の輝く空のようにぱぁっと明るくなった。
 そして、露骨に咳払いをするちびっ子の存在を忘れていたのは言うまでもない。

「お兄さん、ボクは寄りたいところがあるのでここで失礼します。夕食までには戻ると思いますので、どうぞ、桜さんとお二人で」

 ギルは俺達の顔を見比べるように眺めた後、手をひらひらと振りながらニコやかに言うだけ言って衛宮邸へと繋がる坂道とは違う道を一人、降りていった。
 ……気を遣ってくれたんだろうか。まあなんにしても教会へ行くのは後回しだ。桜をこのまま放っておくのはマズイし。

「じゃあ俺達も帰るか」

「はい」

 桜と並んで坂道を行く。
 平地より高い場所に作られた学校へと繋がるこの坂道からは町を一望できる。遠く、町並みを赤く照らしあげる夕日はもう半分以上その姿を地平の彼方へと消し、最後の力を振り絞るように煌々と燃えている。
 その赤色の風景を二人で眺めながら、言葉少なにのんびりと下っている。辺りに人影はない。下校時間が早まったせいでこんな遅くまで残っていたのはどうやら俺達だけのようだった。

 ────さて、どう切り出したものか。

 直球で「魔術を見たか?」と問うのは論外だろう。見たとしても魔術というものを理解していなければこの問いに意味はないし、もし見ていなければ自分で魔術の存在を明かす事になってしまう。かといって回りくどくも確信を衝く言葉なんて……。
 うーん、どうにか見たかどうかだけを訊き出せる巧い文句はないものか、と模索しながら歩いていると、先に桜が口を開いた。

「……気を遣わせちゃいましたね、ギルくんに」

「ん、そうだな」

 何故かあの金髪赤眼の子供はそういう機微に妙に鋭い。というか、ませているように感じる。三枝の時も言うのを躊躇うような恥ずかしい台詞を素面で言ったり、口説いているような風にさえ見えた。…………アイツまさか、生前ホストだったなんてことないよな?

「でも、助かりました。
 わたし、どうしても先輩に訊いておかなきゃいけない事があったんです」

 その言葉にびくりと足が停止する。同じように桜も数歩先で足を止め、こちらにくるりと振り返った。
 その表情は若干顎を引いたせいで垂れた前髪で窺い知ることが出来ない。ただ、唇を固く結び、覚悟を決めるような沈黙が僅かな時間、流れていた。

「…………先輩」

 息を呑む。もし桜が魔術を見ていたとしたら、俺は一体どうすればいいのか。魔術師としての責務を全うする事が正しいのか、それ以外の方法論を以ってなんとかするのか。
 思考は纏まらない。何が正しく、俺は何を正すべきなのか。そんな答えは見つからない。

「先輩は………」

 桜の顔が上がる。いつになく真剣なその瞳。真っ直ぐにこちらを直視する青みを帯びた吸い込まれそうな瞳から、目を離せない。
 呼吸も正しく行えない。俺は、恐れているのか? 桜の口から発せられるであろう、言葉に。一縷の希望さえ断ち切ってしまう、その言葉を。
 桜が口を開く。淡い色の、夕日のルージュを引いた唇から、


「せ、先輩はっ、ね…………遠坂先輩と、お付き合いしてるんですかっ!?」


 なんて、トンデモナイ言葉を紡ぎ出した。

「───────────────────────────────────────
 ───────────────────────────────────────
 ─────────────────────────────────────は?」

 頭が真っ白になった。
 それは全くのソウテイガイ。一体間桐さん家の桜さんは何をどう勘違いをしてそんな結論に行き着いたんだろうか。ちょっと待ってくれ。俺と遠坂が付き合う? まさか、殺し合いならした仲だが、そんな睦まじい仲になったなんてことはアリエナイ。

「あー…………桜。何か、勘違いしてるような気がするんだが……」

「だ、だって、わたし、見ました! 先輩と遠坂先輩が人気のない学校で、その、あんなことをっ…………!」

 ぼん、と音を立てて今にも破裂してしまいそうな赤い風船のように頬を朱に染めた桜はそこまで言って俯いてしまった。
 さて、ここで考えるべきは桜の言う「あんなこと」とは一体何なのか、だ。桜が見たのは俺が遠坂に乗っかられている場面だった筈。…………乗っかる?

「──────あ」

 そこまで考えて思い至ってしまった。いやいやいやいや、待て待て待て待て。落ち着け、落ち着け俺。そんな事はない、そんな邪な……いや、しかし何も知らない人が傍からアレを見ればそう取られてもおかしくはないようなあるようないやない、ってでもやっぱりちょっと突飛すぎるだろ、桜────!?

「バッ…………な、さく、あ、あれは違う! 俺達はそんな仲じゃないし、ましてや学校でそんな事できるワケがあるか────!」

 自分でも珍しく息を荒げ、捲くし立ててしまった。それに桜はびくりとその身を震わせ、おずおずとこちらの表情を窺うように目線をあげる。それで少し冷静になった。

「…………悪い。でもな、桜。俺と遠坂はそんな事をしてないし、そんな仲でもない。遠坂とまともに話したのだって今日が初めてだし、そんな関係になるワケがないだろう」

 呼吸を落ち着け、ハンズアップしながらそう諭すように口にする。何か、結婚したてにも関わらず浮気をしてその現場を妻に見られた夫みたいな心境だ。なんだそれは。
 桜は俺の言葉を咀嚼するように目を瞬かせ、しばらく考え込むような仕草をした後、こう続けた。

「じゃあ……先輩と遠坂先輩は…………」

「特に関係はない。アレはな、ちょっとした手違いでああなったというか、遠坂を怒らせた俺が悪いだけであって、事実無根だ。
 ついでに言うとあんまりそういうコトは口外しないで欲しい」

 遠坂を敬愛するファン倶楽部のヤツらに知られたら四六時中追い回されそうだし、それより何より遠坂本人が怖い。
 そんなコトが遠坂本人の耳にでも入ったりしたらその時点で俺のデッドエンド確定だ。アレは本気で怒らせると絶対人の話は聞かないし、口より先に手が出るタイプの人種だ。死んだ後に謝られたって意味ないからな。これは当の本人が言ってたことだけど。

「というわけで俺と遠坂の間にそんな関係はない。解ってくれたか?」

「はい…………ごめんなさい、先輩」

 素直に謝り頭を下げる桜。

「あ、いや、止めてくれ桜。勘違いされるようなコトをしてた俺達も悪いんだし、その、なんだ。切羽詰ってて周りが見えてなかったというか……」

 ううむ、喋れば喋るほどボロが出そうで余計なことを口走れない。俺と遠坂は確かに表面上はそんな関係じゃないけど、裏ではまだ敵対関係にあるとか、実際に殺されそうな場面に直面したとかそんなコト桜に言うわけには絶対にいかないし。
 ……あれ、でもそういう勘違いをしてくれたって事は魔術は見てない、のか?

「桜……他に何か見なかった?」

「? 何かってなんですか?」

 わからない、と小首を傾げる桜。どうやら魔術を見られたわけではないようだ。なら一安心、いやまあ一悶着あったけど大事に至らなくてホッとした。

「あー、いや、なんでもない。じゃあ、この話は終わり! ほらほら、早く帰らないと藤ねえが腹空かして待ってるぞ!」

「あ、はい、そうですね。わたし、ヘンな勘違いしちゃいましたから、今日は一人でやっつけちゃいます!」

「や、それはダメだ。俺にも非があるから二人でやろう。その方が早く終わるし、何より食事を遅らせると虎の咆哮がまたご近所に木霊するからな」

「ふふ、そうですね。じゃあ二人でとびきり美味しいご飯を作りましょう」

 上機嫌で弾むように坂道を下る桜の後を追うように続いていく。
 炎のように赤かった空は、いつしか青と黒の境界線のような空色へと移り変わっていた。







 談笑しながら歩くこと三十分ほど。もう間もなく衛宮邸へと到着しようという頃。肩の荷が下りた事で校門前での気まずい雰囲気は消え去り、いつも通りの俺と桜で坂道を上っている。いや、私見だけど何か桜はいつも以上に喜びに身を包んでいるような体だ。何か良いことでもあったんだろうか。
 そんな中、ふと、桜が足を止め空を仰ぐ。倣うように見上げれば、赤い空は濃紺の空へと姿を変え、これから訪れる夜へと近づけている。

「お、流れ星」

 青みを帯びた空を翔ける、一条の光。
 なんて偶然。たまたま見上げた空に星が流れるなんて良く出来てる。あっと、もう消えちまった。
 空から視線を落とし隣を見る。そこには両手を胸の前で組み、祈りを捧げる桜の姿があった。流れ星が消えないうちに願い事を三回唱えると、その願いは叶う……だったかな。桜も女の子らしいコト、するんだな。

「何を願ったんだ?」

 面を上げた桜を見やり、好奇心を口にする。
 それに桜は指を口元に当て、

「ふふ、内緒です」

 そう答えて、柔らかな笑みで微笑んだ。

「願い事って口にしちゃうと、なんだか叶わないような気がして」

「あー、それはちょっと分かるかも」

 ジンクスみたいなもんなんだろうけど、そういうのはなんとなく心に秘めていた方が叶いやすいような気がする。

「先輩は何かお願い事しなかったんですか?」

「……そうだな、願い事を思いつく前に消えちゃったからな。うーん、あ、そうだ。家内安全、無病息災でも祈っときゃ良かったかな」

「あはは、先輩らしいですね」

「そうか?」

 そんな願いしか思いつかないあたり、自分でもどうかと思うけど。まあ誰かに叶えてもらう願いなんてその程度しか思いつかないのも事実だし。自分の手で成し遂げるべきことはそれこそ山ほどあったりするけど。

「知ってますか? 願い事がない人って、今の自分に満足してる人なんですよ」

「そうなのか?」

「はい。願い事って言っちゃえば今の不満を解消する為のものじゃないですか。それがないってコトは今の自分に不満がなくて、満たされてるってことです」

「そうかなぁ……」

 今の自分への不満か。特に不自由はしてないけど、満足してる……のか? 自分でもよく解らないな。

「じゃあさ、桜は今の自分に満足してないのか?」

「はい、全然満足してません。一歩を踏み出す勇気さえない自分に、どうして満足なんて出来るんだろう」

 何かよく解らないコトを空に呟いて、桜はこちらにくるりと向き直った。

「でもですね、先輩。わたしは今日、星に願い事をしなくても一つだけ、ずっと大事にしていた願いが叶ったんですよ」

「それは、どんな?」

「内緒ですよー。これはきっと、ちょっぴり頑張ったわたしに神さまがくれたご褒美ですから。誰にも教えてあげません」

「そんなこと言われると、余計に気になるんだけど」

「うふふ、先輩でもダメです。さ、早く帰りましょう。もうすぐそこなんですから」

 たったった、と乾いた足音をアスファルトに響かせながら、坂道を駆け上がる桜の後姿を眺める。その足取りは軽く、羽根のように舞い上がりそうな身軽さで桜は門の内へと姿を消した。ただその最後、微かに見えた横顔は確かに笑顔だった。

 そう、喩えるなら。
 その綻ぶような笑顔は、春に咲き誇る、櫻のような────

「……何考えてんだ、俺」

 雑念を振り払うようにもう一度空を見上げた。まばらな星が輝く空はさっきと変わらない色合いを湛え続けている。
 吐く息は白く、青い夜に溶けて消えていった。






/2


「………………むう」

 目の前にはニンジン。まな板の上に置かれたニンジンを目の前にし、俺は唸っていた。夕食の準備をしようと台所に立ったまではよかった。だが重要かつ重大な事実を俺は忘れていたようだ。そう、俺の右手はまだ痛んだままだということを。
 ちなみに全然関係ないけど藤ねえはまだ帰ってきていなかった。色々物騒だからまた職員会議でもしてるのかもな。

「……………………」

 それはそれとして問題は目の前のニンジン。いやいや、俺のこの右腕だ。着替える時に手当てはしたし、握力に問題はない。ただ痺れが未だ残留しているような感じで、このまま包丁を握ろうものなら取り落としそうで怖い。俺だけが傷つくならまあ構わないんだけど、横で同じく準備に勤しむ桜を傷つけるようなことがあってはならないし、何より余計な心配はかけられない。

「先輩? どうかしたんですか、ニンジンとにらめっこなんかしちゃって」

「へっ────」

 思索に耽っていたせいでそんな情けない声を上げてしまう。隣を見ると、そこには小首を傾げる桜の姿があった。
 …………まずい。このまま呆然としていては怪しまれ……ってあれ、どうしたんですか桜さん。なんだか目つきが鋭くなって、俺の右腕を凝視してたりしませんか?

「先輩……まさか怪我してます?」

 なんて鋭い。そりゃまあいつもならとっくに流麗な輪切りにされている筈のニンジンが、丸々その存在規模を縮小することなく、まな板の上に横たわっていたら不審に思えてしまうかもしれない。

「ちょっと、失礼します!」

「え、な、ちょ、さく──」

 むん、と意を決してにじり寄ってくる桜を目の前にし、身体は自然後じさる。だがここは二人が並んだらもう三人目は入れないような手狭な台所。人類に逃げ場なし。御用と相成り桜は俺の右手を掴み、そのまま袖を捲くった。

「──────っ!」

 息を呑む気配が伝わる。桜の視線の先。そこには痛々しいまでに巻かれた包帯が、肌を白く染め上げている。

「先輩……これ……」

「ま、待て桜。これは違うんだ。これは俺が階段で足を滑らせて────」

 わなわなと震える桜に言い訳としか取れない言葉を捲くし立てる。それでも何も言わないよりはいいと思い、続けようとするも、

「まさか、遠坂先輩が────!」

「わーーーーーーーーーーっ! ちょっと待て落ち着け桜! 落ち着いて、落ち着いてまずその包丁を手放してくれ!」

 はっ、と我に返った桜は自分が持っているものをそこでようやく自覚してくれたようで、かぁっと頬を赤く染めてニンジンの脇に凶器を戻した。
 なんとか桜の奇行を止めた俺は、深く息をついて脱力した。

「はぁ〜〜〜〜〜っ、どうしたんだ桜。今日なんかちょっとおかしくないか?」

 なんだか妙に遠坂を意識しているような感じだし、なんとなくいつもの桜らしくない。浮ついているというか、舞い上がっているというか。
 いや、帰り道ではそうでもなかったし、やはり遠坂が絡むと豹変するのか? 二人に付き合いがあるなんて知らなかったけど。

「お、おかしいのは先輩です! どうしてこんな怪我を……!」

「いや、だからこれはだな……」

 巧い言い訳なんか見つかるわけもなく、本当の事を話すなんてもっての他。なんとかならないものかと思っていると、

「いえ……いいです。追求はしませんから、あんまり無茶はしないで下さい」

 そう、沈痛な面持ちで桜は言った。

「……ごめん、気をつける。ありがとう、桜」

「え、いえ、わたしは何もしてませんしっ、ただ先輩が心配で」

「うん、だからありがとう。ごめんな、余計な心配かけてさ」

 それに桜はわたわたと両手を頭の上で振って、ぱちくりと目を瞬かせ、じぃーと見つめたかと思うと俯いてしまった。……なんなんだろう?

「………………」

「………………」

 沈黙。気まずい沈黙が二人の間を流れていく。
 こぽこぽと沸騰を知らせる鍋の音だけが、いやに耳に響いてきた。

「………………」

「…………先輩」

 桜の声。透き通るように綺麗な声が、耳を通り身体の中を突き抜けていく。
 顔が上がる。頬は上気したように赤く染まっており、僅かに開かれた艶のある唇からは甘い吐息が零れているように感じる。
 その姿には、普段の桜からは到底結び付けられない凄艶さがあった。

「──────」

 今度はこちらが息を呑む番だった。
 こんな姿を見せられて、どうにかならない方がおかし────

『たっだいまー! あー、お腹空いたよぅー』

「ぃ────!?」
「ひゃぅ──!?」

 ガラガラガラ、と遠慮の欠片すらなく我が家の門扉を開け放ち、ドタドタと床を踏み鳴らし入ってくるのは間違いなく藤村大河その人しかいない。
 びくりと身体を震わせ、互いを見比べるように目配せするのも僅か数秒。

「桜! 俺は鍋の番をするから桜は具材の処理を頼む!」

「はい、任せてください!」

 これぞ長年この台所を支え続ける二人の成せる技。その一言で互いの立場を入れ替え、さも何事もなかったかのように夕食の準備を続けた。居間へ入ってきた藤ねえも、いつも通りに台所に向かう俺達を見やり満足気に頷いて、疲れたーと言わんばかりに畳の上に足を投げ出しごろん、と横になった。
 悟られていない。あのさっきまで確かにあった妙な雰囲気は何処へいったか、和やかなまでにいつも通りの俺達に立ち返っていた。







 結局怪我を理由に台所を追い出されて、お茶を啜っている。まあ俺がいたところで邪魔にしかならないだろうし、せっかくの桜の厚意なのだからと思い、甘んじて受けることにしたのだ。
 目の前にはふんふん、と鼻歌を歌いながらみかんをパクつく藤ねえの姿。普通ならここであんまり食べ過ぎると夕飯食えなくなるぞ、と忠告するところなのだがそんな忠告など無意味だと知っているので特に口には出さない。

「そういや藤ねえ。美綴、家に帰ってるのか?」

 淀みなく動いていた手が止まり、弛緩していた藤ねえの表情が若干強張った。

「なんで士郎が知ってるのよ。美綴さんの事は知らされていない筈よ」

「ああ、生徒会室で盗み聞きしたんだ。
 ───それで、どうなんだよ。美綴、見つかったのか」

 じっと藤ねえを見る。
 ……藤ねえは、こう見ても教師である。教師として黙っているべき事は黙っているし、生徒を安心させる方便だって使うだろう。
 だから少しの変化も見逃さず、美綴がどうなっているのか訊き出さないと。

「どうなんだ藤ねえ。やっぱり一向に変化なしなのか」

「……仕方ないなあ。黙ってたら今すぐにでも飛び出しそうだし、絶対秘密って話でもないし。けど士郎、今回は特別だからね。士郎が美綴さんの友人だから教えてあげるのよ?」

「わかってる。恩に着るから、早く」

「じゃ結論から。美綴さん、さっき保護されたわよ。今頃は検査も終わって家に帰ってるんじゃないかしら。
 ちょっと意識が混濁しているらしいけど、外傷もないし命に別状もないって。───それ以上はダメ。士郎も友達なら、美綴さん本人から聞きなさい」

「────そうか。
 とにかく大事なかったんだな、あいつ」

 ……良かった。
 美綴がどんな目にあったのかはまだ判らないが、それが連続している不穏な事件の一環だって事ぐらい、判っている。
 その元凶は、学校に潜むマスターである可能性が高い。もしそれで美綴がどうにかなっていたら、俺は誰に悔いていいのか判らなくなる。
 なんにせよ、美綴の安否が判ったのは良かった。俺に出来ることは、これ以上の被害を出さないよう努める事のみだ。

 息をついて湯飲みを置き、視線を台所に向ける。
 そこからはトントントン、と小気味良い音が奏でられ、コトコトと煮込まれた鍋からは食欲を刺激する良い匂いが漂ってくる。
 そして、それを調理している桜の後姿。

 ああ、そういえば桜がここに通うきっかけになったのも俺の怪我だったな。どれだけ拒んでも頑として譲らないその姿には驚かされたっけ。
 間桐慎二の妹、という程度の印象しかなかった少女が、間桐桜という後輩になって。いつの間にかこの家にいるのが当たり前になって。

 ああ────今振り返れば、理解できる。
 桜は何もおかしくなんかなかった。
 桜の言うとおり、おかしかったのはきっと、この俺の方なのだろう。





/3


 ──────時刻は九時を回ろうかという頃。

 夕食も終わり、藤ねえも桜も各々の家へと帰宅したその少し後。俺とギルは今一度町へと繰り出していた。
 その理由は語るべくもない。夕闇の中、遠坂が残した一つのアドバイス。

 『聖杯戦争について知りたければ、新都にある教会へと赴け』

 その言葉に従い俺達は二人、闇に没した町並みをすり抜けその場所を目指していた。
 程なくして、冬木市を構成する深山町と新都の二つの街を別つ未遠川に架かる冬木大橋に差し掛かろうかという場所であるのに、人影はまばらだ。いや、正確に言えばここまで歩いてきた道中、人と出会うことはなかった。
 時間も時間なせいもあるだろうが、やはり昨今相次ぐ昏睡事件の影響が思いのほか強いようだ。あるのは街灯による明かりだけ。
 そんな、底無しの深海のように静まり返った薄暗闇の夜の道を、俺達は歩いていた。

「そういえばさ、訊きたいと思ってたことが幾つかあるんだけど」

「なんでしょう」

 目線を落とし脇を歩くギルを見る。同じく赤い瞳がこちらに向けられた。気を遣ってかどうかは知らないが、あの学校での一幕の後、姿を消したこの少年は計ったかのようなタイミングで夕食が完成した直後に帰ってきた。まああんまり待たされると藤ねえが暴れるのでこちらとしては僥倖だったが。
 だが結局食後に行われたリベンジマッチで大敗を喫した藤ねえは珍しくどんよりとした影を背負って帰って行ったんだがな。それにしても、なんでコイツはこんなにゲームが強いのか。ああ、まあそれはどうでも良くて。話の続きだ。

「いやな、学校におまえが来た時に俺と遠坂との間にあった出来事を見たかのような口ぶりだったから。なんでかな、と思って」

 遠坂がサーヴァント・アーチャーを帰した事も知っていたし、俺の身を気遣うような台詞さえも投げかけてみせた。ああ、そういえば教室に逃げ込んだ時に聞こえたギルの声。アレがなんか関係あるんだろうか。

「マスターとサーヴァントを繋ぐレイラインについては前にお話したと思いますが」

「ああ、聞いた」

「それを通せば簡単な念話の真似事みたいなコトが出来るんです。ボクの声、聞こえませんでしたか?」

「聞いた聞いた。でもあれ一回きりだったけど」

「ボクと貴方を繋ぐラインはあまりにも細い。そのせいでしょう、お兄さんが意識を余所に割いている最中はノイズがひどくてまともな会話は出来ない。だからあの一回だけしか声が届かなかったんだと思います」

 なるほど。あの後は遠坂から逃げ切ること、襲われた生徒、サーヴァントへの対抗で頭がいっぱいだったからな。余計な事を考えてる暇なんて微塵もなかった。
 何にしてもそのラインから遠く離れた場所にいた俺の状況を読み取ったって事だろうか。

「でもさ、それって俺からも意識を飛ばすことって出来るんだよな?」

「出来るとは思いますよ。ラインを意識さえ出来ればそう難しいコトじゃないですから。ただ冷静な状況じゃないと使えないでしょうけど」

 連絡を取りたいと思う時って大体そういう状況じゃないだろうしなあ。切迫してる時こそ連絡が取りたいのに、そこまで頭が回りそうにないから俺からの交信は期待出来ないな。自分で言ってて悲しいけど。

「まあいいや。もう一つ。遠坂の言ってた宝具ってなんだ? あの不可視の武器の事か?」

「あれれ、言ってませんでしたっけ。英雄とは個人を指す名詞ではありません。
 宝具とはその英雄を形作る半身。英雄を英雄足らしめる唯一無二の、生前愛用したその者だけに許された担うべき武装のコトです。
 その真価は力の持つ“真名”を以って放たれた時にこそ現れます」

 つまり英雄が本領を発揮するのはその宝具を用いた時ってことか。俺が見たもので例えるなら、青い槍兵────ランサーの持つ紅の魔槍が多分それだろう。しかも校庭で発現させようとした一撃こそが真の力だと思う。
 アーチャーの放とうとした捻れた剣。アレも相当な概念を有する宝具のような気がするんだけど、何か、アイツの持つ宝具はもっと別なもののような気がする……。

「じゃあギルの宝具って、あの視えない武器なのか?」

「いえ、アレはボクにとってはただの剣です。視えないというだけのただの剣。宝具と呼ばれるモノは別にあります」

「へえ、それってどんなものなんだ?」

 なんとなく思ったことを口にしてみる。あの視えない剣はギルにとっては宝具ではなくただの剣だという。それは宝具を使えない故にあの剣を手に取っているのか、何か、他の考えがあってあの剣を手に取っているのか、そんな疑問が脳裏を掠めたからだ。

「そのコトについてですが……出来れば話したくありません」

「それはまた、なんで?」

「本来、サーヴァントは召喚直後に己の名、所有する宝具を召喚者であるマスターに明かします。それは相手の力を知るコトで作戦を立てやすくする為です」

 ああ、それは解る。
 味方の能力も把握出来てないんじゃ、いざって時の対処が遅れる可能性があるからな。

「ですが、お兄さんは外敵に対する魔力の備えがあまりにも薄い。一般人と比べても遜色がないほどに。もし悪意ある敵に操作されるようなコトがあれば、そこからボクの情報が漏れる可能性もあります。
 まあ知られたところで特に問題はないけど、知られていない方が何かと都合はいい。せっかく使い慣れない剣を使ってまでカモフラージュしてるんですから」

 やはり宝具を使えないわけではなく、使わないらしい。
 それがどんな理由に起因するのかは定かではないが、先日聞いたとおり、英雄はその名を歴史に残しているという事由も含まれているのだろう。手の内を明かすのは巧くない。それも使わざるを得ない状況で使ったのならともかく、俺から情報を掠め取られるような事があっては宜しくない。

「……そういうことなら仕方ないな。俺が未熟だから悪いんだし。じゃあギルの力の使い所はギルに任せる」

「ええ、そうしてもらえると助かります。
 でもすぐに見れると思いますよ。敵のサーヴァントと出会ってしまえば意志の如何に関わらず、否が応にも……ね」







 新都へと入り、教会のある丘を目指す。その途中、さすがに駅前のターミナルには少なからず人影があったものの、それもすぐに消えてなくなるだろう。どの人の足早に俺達とは逆の方向へと向かって行ったからだ。

 時刻が十時を回る頃には丘の頂上へと続く坂道に差し掛かっていた。なんとなく辺りを見渡せば、ふと、道の脇の斜面に造られた外人墓地が目に留まった。夜に墓地を見るなんてあんまりぞっとしない話だが、こちらの世界に足を突っ込んでいる人間としては、その程度で動じることはない。

 新都といっても、すべてが駅前にあるオフィス街のように賑わっているわけではない。郊外、とりわけこの辺りなんかは静かなものだ。なだらかに続く坂道、海を望む高台。坂道を上っていく程に建物の棟は減っていき、コンクリートのジャングルからまだ自然を残す閑静な世界へとその姿を変えていく。

「…………ここか」

 その最奧、高台の上には一面に広がる大理石のような石畳があった。その脇には手入れの行き届いた造園が緑を茂らせ、それを切り開くように、真白の道は神の家へと一直線に続いてる。
 この場所に教会があることは知っていたし、ここが孤児院だったってことぐらいも知ってるけど、訪れたことだけは一度としてなかった。そんな場所へ、こんな理由で訪れる事になるなんてな。

「お兄さん、ボクはここに残ります」

「え? なんだ、一緒に中に入らないのか?」

「はい。ボクはここで待ってますので、どうぞ、一人で話を聞いてきてください」

 ……そういうなら無理強いする気にはならないが。

「ただ、気をつけてください。この教会には何か……いえ、アーチャーのマスターからの忠告を忘れないように。
 そして相手が誰であれ決して気を許さないように、マスター」

 そう、思わず頷いてしまうような、何時になく真摯な口調でギルは言った。

「わかった。行ってくる」

 それに強く頷きを返し、眼前に聳え立つ教会へと歩を進める。
 本来、聳え立つという形容はこの建物には相応しくない。そう形容できるほど、この教会は大きな建造物ではないからだ。しかし、そうとしか形容できないほどに、その神に祈りを捧げる場所は訪れし者を威圧していた。

「──────」

 重い扉に手を掛ける。
 ゆっくりと開いてみれば、中から木漏れ日のように白い光が溢れてくる。夜の闇から人工の灯りの中へと身体を滑り込ませ、後ろ手でその扉を閉めた。

 ただその少し前。
 神の社の天頂に打ち据えられた十字架が、仰いだ空に浮かんでいた既生魄の月を背負っているのを確かに見た。
 それは“十字を切る”の言葉の通り、俺にはまさしく、白色の月が黒色の十字架に切り裂かれているように見えて────

 何か、ひどく不吉な予感が胸をよぎった。













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