剣の鎖 - Chain of Memories - 第十三話









 広い、荘厳な礼拝堂だった。
 壁は一面、外壁と同じ白で統一され、施された装飾は華美でも質素でもなく、教会という一つの建物を構成する上で過不足なく整えられた様式だった。
 扉を閉め、その場から更に辺りを見回す。人はいない。ただ、整然と並べられた席の多さから、日中ここを訪れる人も多いのだろう、となんとはなし思った。
 これだけの教会を任せられている人物だからな。ここの神父はよほどの人格者と見える。

「……でも遠坂はなんだか妙に警戒してるような感じだったよな」

 どんな人かは知らないけど、あの遠坂が躊躇うほどの人物だ、忠告には素直に従っておく方が無難か。
 よし、と気合を入れてしばし黙考する。
 話を聞きに来たのだから、いつまでもこうして一人で突っ立っていても意味がない。奥に通じる通路があるにはあるが、夜分に無断で侵入するのもどうか。とりあえず少し声量を上げて叫んでみて、ダメだったら進んでみよう。

「すみませーん、どなたかいらっしゃいませんかー」

 かーかーかー、と自分の声が反響する。還ってくるのは自分の山彦だけで、応える声はない。それでちょっと虚しくなったけど、それも数瞬。
 かつん、という足音が聞こえ、

「────礼拝か? このような時分に訪れるのは感心しないな」

 その人物は、祭壇の裏側からゆっくりと現れた。






咎人の心に贖いの花束を/Ricordanza V




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「──────」

 現れたのは背の高い男だった。胸にロザリオを身に着けた、おそらくはこの教会を取り仕切る神父であろう男。
 何も恐れる必要などない。俺はただ話を聞きに来ただけだ。

 なのに……俺は知らず、足が退いていた。
    ……何が恐ろしい訳でもない。
    ……この男に敵意を感じる訳でもない。

 だというのに、肩にかかる空気が重くなるような威圧感を、この神父は持っていた。

「どうした? 時間外の訪問であろうと、我が教会は何時如何なる時も救いを求める者を拒みはしない。
 ────さあ、少年よ。悩みがあるなら打ち明けるがいい。君の心に祝福を与えよう」

 男の顔が綻ぶ。それは神の代行者として迷える羊に導きを与える事に喜びを感じているとかじゃなく、もっと昏くドス黒い、この男の根底から漏れ出した嗜虐によるものだと、知らず脳が理解していた。
 身体の芯が直感する。この男に気を許してはならないと。

「…………違う。俺は礼拝に訪れたわけでも悩みを抱えてここに来たわけでもない。俺はアンタが聖杯戦争の監督役だって聞いたから、話を聞きに来ただけだ」

 腹に力を込めて、不気味な重圧に負けまいと神父の見下すような視線を睨み返す。
 それに気圧された様子もなく、神父はほう、と視線を強めた。

「先日最後のサーヴァントが召喚されたのは知っていたが……なるほど、君が第七のマスターか」

 そう呟いて、神父は祭壇へと歩み寄った。

「そういう事ならば歓迎しよう、少年。
 私はこの教会を任されている言峰綺礼という者だが。君の名はなんというのかな、七人目のマスターよ」

「────衛宮士郎」

「衛宮────士郎」

「え────」

 背中の重圧が悪寒に変わる。
 神父は静かに、何か喜ばしいモノに出会ったように笑った。

 ────その笑みが。
 俺には、例えようもなく────

「では衛宮。先ほど君は私が監督役だと聞いたからこの場所を訪れた、と答えたが。それは誰に聞いたのだ? 凛か?」

「…………っ、遠坂を知っているのか?」

「知るもなにもない。私と彼女は師を同じくした者同士だ。私達の師の亡き後、彼女の師の真似事もしているが、如何せん私は彼女に手酷く嫌われていてね。
 ああ…………再三の呼び出しに応じぬと思えば、面白い客を寄越したものだ」

 くつくつと。言峰綺礼は笑って、祭壇に指を滑らせた。

「師を……同じく……? ちょっと待て、それは」

 遠坂にとっての師とは言うまでもなく魔術師としての師匠だろう。それと同じ師を持つということはこの男も同じく魔術師。それはおかしい。なぜなら、

「魔術師と教会は相容れないものだ、というところか?」

 そう、俺の心を代弁した言峰の言葉は核心を突いている。
 魔術師が所属する大規模な組織を魔術協会と言い、一大宗教の裏側、普通に生きていれば一生見ないですむこちら側の教会を、仮に聖堂教会と言う。
 この二つは似て非なる者、形の上では手を結んでいるが、隙あらばいつでも殺し合いをする物騒な関係だ。

 教会は異端を嫌う。
 人ではないヒトを徹底的に排除する彼らの標的には、魔術を扱う人間も含まれる。
 教会において、奇跡は選ばれた聖人だけが取得するもの。それ以外の人間が扱う奇跡は全てが異端なのだ。
 それは教会に属する人間であろうと例外ではない。教会では位が高くなればなるほど魔術の汚れを禁じている。
 こういった教会を任されている信徒なら言わずもがな、神の加護が厚ければ厚いほど魔術とは遠ざかっていく物なのだが────

「────瑣末なことだよ、衛宮士郎。
 それにその疑問は君にとって全く関係がない。君が知りたいことは、他にあるのだろう」

 諭すような口調でありながら、その男の一言一句には重圧の言霊でも乗せたかのような重苦しい響きがある。
 言葉を発せられる度に気圧されていては堪らない。瞼を閉じて深呼吸。意志を強くし、俺の本意を口にする。

「聖杯戦争について教えてくれ。出来るだけ詳しく」

「……その問いに答える前に一つ、訊き返しておかなければならない事がある。まあ答えは大体想像出来るが。
 衛宮士郎、君は自らの意志でこの戦いに身を投じたのではないな?」

「ああ。俺は事前にこの戦いを知っていて参加したわけじゃない。巻き込まれたようなものだ」

 それにふむ、と頷いて、神父は僅かな時間考え込む仕草をした。

「よかろう、これも監督役の務めだ。
 では始めよう。衛宮士郎、君はセイバーのマスターで間違いはないか?」

「ああ、そうだ」

 確かに俺は巻き込まれてこの戦いに参加した。でもこの三日間、アイツと接しこの戦いの犠牲になるかもしれない人々の話を聞いた。それを放っておく事など出来はしない。俺は戦うと決めた。俺の意志で。

「ほう、覚悟はとうに出来ている……という顔だな。
 君がセイバーを喚び出してから既に数日。幾らかの情報は得ているということか」

「この戦いが聖杯戦争と呼ばれていること。マスターが最後の一人になるまで終わらないこと。最後まで生き残った者は何でも望みを叶える聖杯を手にすることが出来るという事ぐらいなら知ってる」

「それだけ知っていれば当座の問題はないように思えるが……ああ、この場所の役割を知らないのか。
 私が今回の聖杯戦争の監督役を務めているというのは先ほど話したとおりだ。それに加えてこの教会はサーヴァントを失ったマスターを保護する役目も備えている。もし君のサーヴァントが戦争の最中で倒れた場合、速やかにこの場所に避難することを勧める」

「…………? 避難ってなんでだ? サーヴァントを失ったマスターはもう関係ないんじゃないのか」

「いや、その手に聖痕……令呪を宿す限り、その者はマスターで在り続ける。例えばの話だが、サーヴァントを失ったマスターとマスターを失ったサーヴァントがいた場合。両者は再契約する権利を有している。
 もしそうなった場合、他のマスターにとってみれば倒した筈の敵が戦線復帰し、再度立ちはだかる障害となる。そのような面倒を避ける為に、たとえマスターがサーヴァントを失おうとも他のマスターによる殺害の対象から外れることはない」

 だからサーヴァントを失ったら、殺される前にこの教会に逃げ込めと神父は言う。
 それは思い返せば、初日にギルに聞かされたことに酷似している。たとえサーヴァントとの契約を断とうとも、他のマスターに自分がマスターだと認識されている限りは死の恐怖は付き纏うと。それから逃れる為にこの場所は開かれているということか。

「他にも聖杯戦争の参加者は監督役に届出を出す決まりなのだが、ここを訪れたのは君を含めて二人だけ。
 ふむ……今回の参加者は我々の敷いたルールになど従う気はないということか」

 かつん、と靴音を響かせて、神父は祭壇より降り立った。
 そのまま窓辺へと歩み寄り暗い外の闇を眺めながら黙し、神父から言葉を投げかけてくる様子はなかった。質問があればしろ、という意思表示なのだろうか。

「なんでこんな殺し合いがあるんだ? 一体誰が、何の目的でこの戦いを始めたんだ?」

「何か誤解があるようだが、我らとて好きでこのような非道を行っている訳ではない。全ては聖杯を得るに相応しい者を選抜する為の儀式だ。
 なにしろ物が物だからな、所有者の選定には幾つかの試練が必要だ」

 ……何が試練だ。
 賭けてもいいが、この神父は聖杯戦争とやらをこれっぽっちも“試練”だなんて思っていない。

「そもそもその聖杯ってどういう物なんだ? まさか本当にあの聖杯だって言うんじゃないだろうな」

 聖杯と聞いても、今までは漠然と“どんな願いも叶えてくれるもの”なんていう認識だったけど、この際だ、訊ける事は訊いてしまえ。

「何を今更。
 君がこの戦いに臨むと決めたのは、その聖杯を手にする為ではなかったのか?」

「………………」

「まあいい。だが勿論、この町に現れる聖杯は本物だ。その証拠の一つとして、サーヴァントなどという法外な奇跡が起きているだろう」

 ──────聖杯。

 聖者の血を受けたという杯。
 数ある聖遺物の中でも最高位とされるソレは、様々な奇跡を行うという。その中でも広く伝わるのが、聖杯を持つ者は世界を手にする、というものである。……尤も、そんなものは眉唾だ。なにしろ聖杯の存在自体が“有るが無い物”に近い。
 確かに“望みを叶える聖なる杯”は世界各地に散らばる伝説・伝承に顔を出す。だがそれだけだ。実在したとも、再現できたとも聞かない架空の技術、それが聖杯なのだから。

 だがこの神父は。
 この地に降臨する聖杯は本物だと、断言した。
 しかし、

「過去の英霊を呼び出し、使役する。否、既に死者の蘇生に近いこの奇跡は魔法と言える。
 これだけの力を持つ聖杯ならば、持ち主に無限の力を与えよう。物の真贋など、その事実の前には無価値だ」

「──────」

 それは、偽物であろうが本物と同等、いや、それ以上の力さえあれば、真偽など問わないと言いたいのか。
 窓ガラスに映る神父と目が合う。虚ろな神父が口元を歪めた。

「それ程の力が聖杯にあるのなら、何故こんな殺し合いをしなければならないか、と言いたげな表情だな。
 そうだ、確かに無限の力などがあるのなら、全ての人間で分け合ったところで足りないなどいう事はないだろう。だがそんな自由は我々にはない。聖杯を手にする者はただ一人。それは私達が定めしルールではなく、聖杯自体が決めたルールだ」

 そこで一息ついて、こちらに向き直って神父は続ける。

「七人のマスターを選ぶのも、七騎のサーヴァントを呼び出すのも、全ては聖杯自体が行う事。これは儀式だと言っただろう。聖杯は自らを持つに相応しい人間を選び、彼らを競わせてただ一人の持ち主を選定する。
 それが聖杯戦争────聖杯に選ばれ、手に入れる為に殺し合う降霊儀式の名だ」

 この男が嘘を言う筈もない。というより、嘘をつく意味がない。ならばここまで語られたことは全て真実だと認識しても問題はないだろう。ただ、今までの話の中で一つだけ明確な疑問が浮かび上がった。

「アンタ、聖杯はただ一人の持ち主を選定するって言ったよな?」

「いかにも、そうだが」

「でもその前に、アンタは監督役であり、サーヴァントを失ったマスターを保護する役目もあると言った。
 それだと矛盾してないか? マスターが最後の一人にならなければ終わらないなら、保護なんて無意味じゃないか」

「矛盾などしていない。最後の一人とはサーヴァントを従えたマスターである、という意味だ。それにこれは選定の儀式だと言った筈だ。敗れた者、戦う意志なき者に、どうして聖杯が得られよう。
 だがもし君が他のマスターの従えたサーヴァントを打倒しえた場合。前述の通り、余計な苦労を背負い込みたくなければマスターは殺してしまう事だ」

 ああ、本当にコイツは。
 自分がその保護を担う立場でありながら、殺す事を勧めるなど。

「でも殺す必要はないんだろ。サーヴァントさえ倒してしまえば、マスターを殺す必要性はない」

「確かにそうだ。
 だがな、衛宮士郎。この数日、君はサーヴァントに直接襲撃されたことはなかったか?」

「……何故そんな事を訊く?」

「訊き方が悪かったか。マスターとサーヴァントは二人で一組だ。さて、この場合どちらを倒す方がより簡単だと君は思う」

「──────あ」

 セイバーを呼び出す前のランサーやアーチャーはノーカウントとしても、厳密には襲撃されたわけじゃないけどライダーと思しきサーヴァントとは直接戦っている。
 その時のランサーとの会話にも“マスター殺し”なる単語が出て来ていたし、俺自身もマスターが殺されればサーヴァントは存在できないと認識していたじゃないか。

 全てのサーヴァントがランサーのように正々堂々戦うことを求めているわけじゃない。昏睡事件や学校の結界のように、勝利の為に手段を選ばない輩だっている。
 そしてそんなヤツらを止める事こそが、俺が心に誓った最初の決意ではなかったか。

「ふむ、理解できたようだな。その通り、サーヴァントはサーヴァントを以ってしても破りがたい。だがサーヴァントはマスターがいなければ存在できぬ。
 そら、実に単純な話だろう? 誰もわざわざ困難な道を歩きたいとは思うまい。なればこそ、マスターを殺す事がサーヴァントを倒す最善の手段と言える」

「──────」

 ああ、この男の言いたいことは厭というほど理解は出来る。でも納得なんてしてやるものか。俺は俺のやり方で戦う。

「さて、納得はいったかな?
 私は君の質問には答えてみせた。次はこちらの質問に答えてもらおうか」

 神父は祭壇へと立ち戻り、そんなコトを口にした。

「──────なに?」

「構えることはない。実はこちらも人手が足りなくてな。なんとも情けない話だが、監督役の務めを果たすこともままならないのが現状なのだ。
 そこで君がこの数日、その身を以って体験したことを教えてくれればいい。何、話したくなければ話す必要はない。参考程度に聞いておくだけだ」

「…………いいだろう」

 魔術の基本は等価交換。そんな原則にのっとるつもりはないけど、俺の質問に答えてくれたというのも事実。俺が知る限りのことくらいなら話してやっても問題ないだろう。仮にも監督役なんだし。
 といっても、サーヴァントの真名とか宝具の能力だとかは全然知らない。だから俺が話せることは、セイバーを呼び出してから出会ったサーヴァントのクラス名くらいのものだ。

「…………ふむ。アーチャー、ライダー、そして────ランサー」

 くく、と喉を鳴らして笑って、言峰綺礼は居直った。

「以上で質疑を終了する。まだ何かあれば受け付けるが」

「いや、特にない」

 訊けることは全部訊いた。
 それに一刻も早くこの場所を立ち去りたい。何か、これ以上ここにいては俺は善くないモノを目の当たりにしてしまいそうな、妙に確信めいた予感があったから。

「では最後に、今一度確認しよう。
 ────衛宮士郎、君はこの戦いに自らの意志を以って臨むか」

「────ああ。俺は、戦う。ここに来る前からとっくにその覚悟は出来てたんだ。今更アンタに問われるまでもない」

 迷いはない。覚悟などとうに出来ている。この場所を訪れたことで変わったことなど何一つとしてない。もしそれがあるとすれば、この男と出会ってしまったという事だけだ。そう俺は、この場所を訪れるべきではなかったのかもしれない。
 俺の思いなど知らずに、その答えが気に入ったのか、神父は満足そうに笑みを浮かべる。

「ならば衛宮士郎。
 君は君の意志で戦い、生き延び、勝者たらんとし、その手に聖なる杯を掴むがいい。そうだ、そうなれば何もかもが元通りになる。
 おまえの望み、その裡に溜まった泥を全て掻き出す事も出来る」

「────は、なに、を」

 どくん、と心臓が脈打つ。神父の言葉に呼応するように、胸の裡が熱く燃え盛る。

「故に望むがいい。もしその時が来るのなら、君はマスターに選ばれた幸運に感謝するのだからな。その目に見えぬ火傷の跡を消し去る為に、そう────最初からやり直す事とて可能だろうよ」

「────、────、────」

 眩暈がする。
 この男は、一体何を言っているか、まるで要領を得ない。聞けば聞くほど俺を混乱させるだけだ。……にも関わらず、コイツの言葉は厭に胸に浸透して、どろりと、血のように粘り着く────

「───少し昔話をしよう。それは十年前の出来事だ。この街で生きる者なら誰しもが忘れ去ることなど出来ない惨劇。
 死傷者五百名、焼け落ちた建物は実に百三十四棟。未だ以って原因不明とされるあの火災こそが、聖杯戦争による爪痕だ」

 あの地獄が、聖杯戦争によるものだと?
 待て、それは。じゃあ、こんなくだらない争いが、過去にもあったと言うのか。

「そうだ。この聖杯戦争も都合五度目。魔術師達の狂宴は繰り返され、その過程で彼らの行いは暴虐を極めた。そんな魔術師としてのルールを逸脱する輩を戒める為に、私のような監督役が派遣させる。
 だが魔術師にとっての逸脱とは神秘の漏洩、この一点にのみ集約される。故に事前に行動を制約するのではなく、事後処理を担うだけだ。
 そしておまえも良く知るあの大火災こそが、先の四度目の戦いの最後に落とされた撃鉄の代償。闇に葬られた事の真相だ」

 重苦しく、神父の言葉が礼拝堂に木霊する。
 それは幾重にも折り重なり、衛宮士郎という存在を内側から瓦解させようとするほどに濃密で鋭利な言葉の刃。

「────は、く────っ」

 気持ちが悪い。
 それでも神父は愉悦にその身を浸し、届けとばかりに俺の裡へと手を伸ばす。

「あの焦土の中、生き延びたのはおまえ一人。救われたのはおまえただ一人だ。だが聖杯の力に拠れば、救えなかったものとて救うことが出来るだろう。取りこぼしてきたものでさえも、その手に掴むことが出来るだろう。
 おまえも『衛宮』となる前の、本来あるべき筈だった己へと立ち返ることすら容易だ」

 故ニ望メ────ソノ裡ニ秘メタ、歪ナ願イヲ。

 …………吐き気がする。
 神父の言葉は胸を抉るように、無遠慮に傷口を押し広げていく。
 視界がぼやける。
 焦点を失って、視点が定まらなくなる。
 何処に立っているのかすら定かではなくなって、ぐらりと身体が崩れ落ちる。

 だが、その前に。

「──────む」

 礼拝堂の奥から、がたんという大きな物音が響いた。
 その音で、切れかけた意識の糸を掴み取ることが出来て、それでしっかりと踏みとどまれた。歯を噛み締めて、手離さぬよう意識を保つ。
 倒れかねない吐き気を、ただ、沸き立つ怒りだけで押し殺した。

「…………目覚めたか。しかし……ふん、情けは人のため為らず、とはよく言ったものだ。興が乗ってつい、私自身も楽しんでしまったか」

 それにまだ早い。とよく解らない言葉を呟いて、神父はこちらに背を向けた。

「話は以上だ。用が無ければ立ち去りたまえ。
 そして覚えておけ、衛宮士郎。聖杯戦争が終わるまで、この教会に足を運ぶことは許されない。許されるとしたら、それは」

「……サーヴァントを失って保護を願い出る時のみ、だろ。言われなくても、覚えてる」

 こんな場所、二度と来るものかと悪態をついて、立ち止まる事無く礼拝堂を横切り出口に向かう。
 その背中に。


「────喜べ少年。君の願いは、ようやく叶う」


 振り返った瞳が見たものは、祭壇に立ち、そう──神託を下すように告げた神父の姿。
 そしてその言葉は。
 自分でも気づいていなかった、衛宮士郎の本心ではなかったか。

「────なにを、いきなり」

「判っていた筈だ。明確な悪がいなければ君の望みは叶わない。たとえそれが君にとって容認しえぬモノであろうと、正義の味方には倒すべき悪が必要だ」

「っ───────────」

 目の前が真っ暗になりそうだった。
 神父は言う。
 衛宮士郎という人間が持つ最も崇高な願いと、最も醜悪な望みは同意であると。

 ……そう、何かを守ろうという願いは、
   同時に、何かを犯そうとするモノを、望むことに他ならない────

「───おま、え」

 けど、そんな事を望む筈がない。
 望んだ覚えなんてない。
 あまりにも不安定なその願望は、ただ、目指す理想が矛盾しているだけの話。
 だというのに神父は言う。
 この胸を刺すように、“敵が出来て良かったな”と。

「なに、取り繕う事はない。君の葛藤は、人間としてとても正しい」

「っ──────」

 神父の言葉を振り払って、出口へと歩き出す。
 もう振り返るつもりもない。立ち止まるつもりもない。これ以上この男の言葉は聞いてはいけない。聞き続ければ、俺は大切な何かを失う。

「さらばだ衛宮士郎。
 最後の忠告になるが、サーヴァントには気をつけたまえ。そう、敵の御するサーヴァントだけではなく、己に組するサーヴァントにもだ」

 足は止めない。

「サーヴァントはマスターの駒ではない。彼らには彼らの望みがあってマスターの召喚に応じ、力を貸し与える存在だ。
 令呪などという規格外の縛りがなければ、到底御せる代物ではない」

「────、────っ」

 耳を傾けるな。早く、この場所から立ち去れ。

「簡単な事だ。マスターとサーヴァントの関係とは信頼ではなく───中にはそのような関係を築く者もいるだろうが───利害の一致に他ならない。
 ならばもし、両者の間の利害に致命的なズレが生じた時、さて、どうなるか」

 結局俺は、言峰綺礼の言葉の全てを聞き届け、入ってきた時と同じ扉から闇の中へと飛び出した。







「────道化だな」

 衛宮士郎が礼拝堂から立ち去ったその少し後。
 祭壇の裏からゆっくりと現れた人影はそう揶揄し、無数に並ぶ長椅子の一つに腰掛けた男に嘲笑とも取れる笑みを向けた。

「何か用か、ギルガメッシュ。あまり表には出るなと言っておいた筈だが」

「そう邪険にするな。いや、しかし中々に愉快であったぞ、貴様とあの雑種との問答は。特に最後の忠告、あれは本当にあの小僧に手向けた言葉か?」

 かつんかつん、と靴音を鳴らしながらギルガメッシュと呼ばれた男は祭壇に上り、忌々しげに神の座を睨んだ。

「なあ、言峰。あれは一体誰に向けた言葉だ。
 ありもしない親切心からあの小僧に向けたものか? ──違うな。ならばあれはマスターとは誰を指し、サーヴァントとは誰を指すものだ」

「……何時に無く饒舌だな。それほどまでに衛宮士郎と私のやり取りが気に入ったか」

「さあな。それより答えろ、言峰。あの忠告は、己に向けた言葉であろう?」

「………………」

 椅子に腰掛けた男、言峰綺礼は答えない。それは答える必要などないのか、それとも答えるまでもなく男が理解していると思っての沈黙か。

「くっく、そうかそうか。やはりそうか」

 愉悦に口端を吊り上げ、その男は近場にあった席に腰を下ろして足を組み、見えない月を仰ぎ見る。

「ああ、そうだとも。マスターとサーヴァントの関係などまさしく貴様の言うとおりのものであろうよ。この十年……貴様が我を繋ぎ止め、我がこの場に留まり続けるのも利害の一致に他ならないのだからな。
 それで、言峰綺礼。貴様の望みはなんだ。貴様の望みと我の望み。それが相反するものなら、この場での訣別も有り得ないものではないぞ?」

 威風を以って紡がれた言葉には例えようもなく重い響きがあった。身体にかかる重圧ではなく、心を震え上がらせる王の声。
 拒絶を許さぬ、真実だけを突きつける呪詛の如き言霊。

「……ならば、その訣別は有り得まい」

 だがその男とてそれに圧されるほど柔ではない。
 そう、十年。あの時より既に十年の月日が過ぎたのだ。その歳月はあまりにも重く、それでもなお二人の視線が交わることはない。

「なぜなら私の望むべき願いなど、存在しないのだからな」

 それだけを告げて、神父は祭壇の奥へとその姿を消した。
 残されたのは黒いライダースーツに身を包み、インゴットのように輝く黄金の髪と、炎のように赤い双眸を持つ一人の男。

「──────」

 荘厳な空間に沈黙が流れる。ただでさえ張り詰めた空気が常として流れているこの教会にあって、この一時においてはなお森厳な静寂が礼拝堂を支配する。それはまさしく、虚空を睨んだまま座して動かない男から放たれる覇気の成せる業に他ならない。

 重苦しく、他の人間がいようものなら呼吸すらさせまいとする重圧の中にあって、紅の瞳は一体何を見つめ続けているのか。数瞬の後、焦点があっているのかすら定かではなかったその瞳から灯が消え、男は枝垂れる。
 だがそこに落胆の色はない。肩が僅かに揺れた。それは、狂喜に満ちた笑いを零した証。

「ああ、まったく────」

 ────だから世界はつまらない。

 その呟きは、誰に届くこともなく、神の社に透けて消えた。













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