剣の鎖 - Chain of Memories - 第十四話









 ギィと軋むような音を立て、その扉は閉じられた。神聖な神の家であるというのに、この場所は酷く淀んでいる。
 扉より外へと飛び出した若者、衛宮士郎は胸の内に溜まった熱を外気で冷ますように深呼吸を繰り返す。肌を突く寒冷な空気は、常に圧し掛かっていた重圧を溶かすには充分すぎる冷たさだ。
 この扉の内で出会った男──言峰綺礼。その神父との問答は衛宮士郎の存在を確実に揺さぶった。心を静めるように士郎は呼吸を繰り返し、僅かに欠けた月を仰ぎ見た。

「マスター」

 と、そこへ何処へ行っていたのか、この場所で待つと告げた筈の金髪赤眼の少年、セイバーのサーヴァントが闇よりその姿を現した。

「顔色が悪いですね。中で何かあったんですか?」

「いや……」

 士郎は言葉を濁す。出来るのなら、そのやりとりは思い返したいものではなく振り払って一刻も早くこの場所を立ち去りたかったから。

「話はちゃんと聞けた。この場所にはもう用はないから、帰ろう」

 沈痛な面持ちながら、それを表情には出さないよう出来うる限り普段と変わらぬ己の顔を思い描いて言った。
 それにセイバーは何を言うでもなく従い、坂道を共に下り始めた。

 確かに、話は聞けたのだ。その中でもとりわけ耳に残ったのはあの火災──十年前の惨劇がこの聖杯戦争によって引き起こされたという事実。
 それが真実なら、彼の戦う決意はより強くなる。正義の味方という理想を目指す彼にとってそれは容認しえる事ではない。
 あんな惨状を二度と起こさせてたまるものか。あれがこの戦いの末路だというのなら、何が何でも止めるだけ、と。

 そうしてもう一つ。
 サーヴァントには望みがあるという。彼らは魔術師の手足となって戦闘を担う使い魔ではなく、同じ奇跡を望むいわば同士。今彼の隣を歩くこの少年にも、聖杯という全能の力に拠らなければ叶えられないほど深い願いがあるというのか。

 いつも笑みを絶やさず自由気ままに、まるでこの世界に舞い戻った事を楽しんでいるかのような素振りすら垣間見せるこの金の髪の少年が、それほどまでに望む願いとは一体なんなのだろうか……?
 そう問いかけようとした時。

「────やっと見つけたわ、お兄ちゃん」

 頭上にして背後。
 坂の上。振り返った瞳が、月光に照らされた白雪のように真っ白な髪を持つ少女と、聳え立つ鉛色の巨人を捉えていた。







 その日、間桐慎二はいつになく上機嫌だった。

 数日前にライダーのサーヴァントを手にして以来、変わらずご機嫌であった彼だが今日はとりわけ機嫌が良かった。それはと言えば、昼間に見た己がサーヴァントと見知った少年との戦いを観戦していた事に起因する。

 圧倒的だった。自分の下僕があの自分にはないものを持っていた同級生をいたぶる様はこの上もなく快感だった。どんな女と付き合っても得られない至上の悦び。絶対的強者が地に這い蹲る弱者を嬲る様は、射精にも似た恍惚感をもたらした。
 ただその最後に。いらぬ横槍が入ったことだけは気に食わなかったが。

 それはさておき、間桐慎二は魔術師ではない。魔道の家に生まれていながら魔術師にあるべき魔術回路を持たなかった。それでも自分は特別だと。自分は優れた人間なのだと信じて疑わなかった彼は、自分こそが間桐の後継者になるのだと思い込み、その身に魔術の知識だけを蓄えていった。

 だが彼の転機は突拍子もなく訪れた。

 それからは苦悩の日々だ。何故、と。誰にでもなく問わずにはいられなかった。何故自分の代で魔術回路が失われてしまったのか。何故あと一代、もってくれはしなかったのか。
 この身は優れた人間なのだ。魔術回路さえ持っていれば、誰よりも優れた魔術師になっていた筈なのに。
 魔術回路がない。たったそれだけ。たったそれだけの違いでしかないのに、それが致命なのだと受け入れる事は出来なかった。

 そうして今こそ二度目の転機。
 聖杯戦争──その戦いに彼はマスターとして参戦する。そして必ず勝利を掴む。奇跡に求めるものは唯一つ。それさえあれば己を見下した父親やあのクソ爺を見返せる。……更には妹にすら、いや自分を卑下した全ての者に見せ付けてやるのだ。
 間桐慎二がいかに優れた人間であるかを。おまえらが見下した人間が、どれほどの器であるのかを。
 哀れみも憐憫も同情も。そんな腐った感情で誰も自分を見れなくしてやる。

 劣等感に苛まれる日々は終わりを告げる。
 世界は僕を見ている。今、世界は僕を中心に回り始めた。

「────ほう、このような夜分に客か。だがあいにくと住職は既に寝入っている。説法が聴きたくば出直すことだ」

 その声に足を止める。
 見上げる長い階段の上には、紫紺の陣羽織を風にはためかせる一人の男の姿があった。誰がどう見てもそれは現代に生きる者の出で立ちではない。
 何より、その侍の右手に携えられた長大な業物が、振るわれる時を待ち侘びていたのだから。

「ははっ。住職なんかに用はないさ。僕達が用があるのはおまえだよ」

 その言葉に呼応するように、慎二の傍に漆黒のサーヴァントが現界する。紫の髪を靡かせた、人外の美貌を持つ女性。
 彼女は能面のような無表情を貌に貼り付けたまま、主の視線の先を睨む。

「私への客か。くく、ここを通りたがる者は何人かいるとは思っていたが、私自身への客が訪れるなど思いもしなかった」

 侍の手の中にある刀が揺れる。刀と呼ぶには余りにも長いそれが。月の雫を一身に浴びたまま、訪れし敵へとその切っ先を差し向けた。

「無論、その用とはただの世間話などではなかろう?」

「当たり前さ。サーヴァントとサーヴァントが出会ったんだ、やることなんて一つしかないじゃないか!」







 戦いの幕が開く。

 一つは新都の果て、教会の麓である坂道で。
 一つは深山の果て、柳洞寺へと至る石段で。

 ────同日、同刻、異なる場所。
 今宵この冬木に喚び出されし英霊達が、語られることのない神話を紡ぐ。






英霊の戦場/Ricordanza VI




/1


 中天に浮かぶ白い月が、その二つの影を長く長く照らしあげている。灰暗く青ざめた影絵の街に、酷く、あってはならぬモノがそこにいた。

 一つは小さく、白い花を思わせる少女の姿。
 一つは大きく、黒い岩を思わせる巨人の姿。

 凍りついたように、俺はその異形を見上げていた。足が竦んだと言い換えてもいい。一歩すら踏み出せず。一歩すら下がれなかった。否、踏み出そうとも下がろうとも、動けば殺されるという、絶対的な死の気配をそれは撒き散らしていた。

「もう、ずっと探してたんだから。中々姿を現さないんだもの。足が疲れちゃった」

 月明かりに濡れる少女が拗ねたように言った。それは年相応の無邪気なまでの少女の顔。
 だからこそ、余計に背筋が寒くなった。その表情が少女の背後に立つ異形とはあまりに不釣合いで、まるで悪い夢を見ているかのようだった。
 そして脳が、知りたくもない情報を無理矢理に伝えてくる。マスターとして授けられた能力か、あの異形の能力値をまざまざと脳裏に叩きつけられた。

「────っ」

 無理だ。基本スペックであの異形はギルの全てを上回る。勝てる筈がない。逃げ切れる筈もない。そこに不運があるとすれば、出会ってしまった事に他ならない。

 しかしその動くもののいない場所で、そいつだけが動いていた。
 ギルはいつかと同じように背後から見えざる剣を引き抜き、そしてそのまま俺を庇うように前へと歩み出る。

「ふふ、お兄ちゃんのサーヴァントは潔いみたいだね」

 言葉すらない俺とは対照的に少女は笑う。可憐な花が綻ぶような軽やかさで笑い、

「────じゃあ殺すね。やっちゃえ、バーサーカー」

 歌うように、己が従者に死刑執行を命じた。







 巨躯が舞う。
 月明かりさえ遮らんとばかりにバーサーカーと呼ばれた巨人が闇に降る。落下点、そこには暗闇になお映える黄金の髪の少年が剣を握り待ち構える。
 ただそれより先に、セイバーは後ろに立つ己がマスターを後方へと突き飛ばし、それと同時に迫り来る断罪の剣を躱すべく左方へと跳躍する。
 遅れて落ちる岩の如き重剣。それはアスファルトの道路を豆腐か何かのように軽々と粉砕し、ひび割れた欠片が礫となって夜を走る。

「────くぁ……!」

 バーサーカーの一撃はそれだけに留まらず。振り下ろしにより発生した風圧で、士郎を更に坂下へと転がり落とす。
 だがバーサーカーの眼は士郎を見ない。首を捻り、見据えるのは同じくこの世に召喚されしサーヴァント。狂った英雄は、敵と認めた少年を目掛け大地を蹴った。

 吹き荒れる暴風。ただ大地を駆けるという動作であるのに、それでさえ規格外。黒い巨人は眼前に儚く灯る命の火を吹き消さんとばかりに剣を振り上げる。
 跳躍を果たしたセイバーはその獣を視界に収めたまま即座に体勢を立て直し、両手で剣を握る。だがその細腕であの暴力を受けきる事など叶うのか。
 迫る姿。死の具現。右翼より大気を切り裂き振るわれる斧剣を前にし、セイバーはそれを受けようとはせず、再度後方へと跳ぶ。

「────っ!」

 赤い飛沫が夜を染める。掠めた……いや、掠めてなどいない。触れていない筈の剣は、剣風だけでその腹を裂いたのだ。
 セイバーの驚きを余所にバーサーカーはその巨躯からは想像できない俊敏さを以って、先ほど振るった剣を切り返しで敵へと叩き込む。

「────なっ……!?」

 驚きは士郎のもの。
 セイバーが防御の為に前面に立てた剣と、バーサーカーの薙ぎ払いによる剣撃とが触れ合った瞬間、矮躯の少年は羽根のような軽さで宙を舞った。いや、それは舞うという形容すらもおこがましい。横一文字に振るわれた異形の一撃は、受け止める事さえ許さず、セイバーを闇の彼方へと吹き飛ばした。

「追いなさい、バーサーカー」

 少女が歌う。その命を受けた巨人は無言のまま暗闇に消え去った敵を追う。後を辿るように少女も闇に溶けていった。
 残されたのは、セイバーのマスターである衛宮士郎ただ一人。そして彼は、己がサーヴァントが敵と相対する前、呟かれた言葉を思い出す。

『逃げてください、マスター』

 たったそれだけ。たったそれだけの言葉に、いかほどの思いが詰め込まれていたのだろうか。逃げろ、と少年は言った。それは何故だ。
 解っている。この場所に留まったところで自分には何も出来はしない。それどころか足手まといにすらなりかねない。セイバー一人なら逃げ切れる可能性だってある。ならば自分の行動として最善と呼べるのは、その忠告に従う事ではないか。

 それでも。それでも。

「……一人だけ逃げ出すなんて、出来るかってんだっ!」

 あの握手を思い出す。一緒に戦ってくれると言った少年との初めての触れ合い。
 そう──それは共に戦うという誓い。
 それを反故にし、未だ戦う誰かを見捨てて逃げるなど、衛宮士郎に出来るはずがない。





/2


 最初は馬鹿だ、と間桐慎二は思った。
 だがそれもそうだ。この聖杯戦争のサーヴァントが何故クラス名をその呼称としているのか、それを考えれば柳洞寺で待ち受けていたサーヴァントの言動は不可解極まりない。真名とは隠すもの。それ故に彼らはクラス名を与えられている。

 だがそのサーヴァントは違った。クラス名のみならず、己の隠すべき真名すら臆面もなく告白した。それも古来より伝わる、騎士や武士達が戦場で敵と相見えた時に上げる名乗りのように、包み隠さず声高に。
 さも当然のように朗々と、歌うように侍は名乗りを上げたのだ。

 それに慎二は声を大にして笑った。
 コイツは初めから勝つ気などないのだ。だから自らその名を明かし、己を倒す敵に自分の名を記憶に留めて貰えるよう名乗りを上げたのだと。
 だがもちろん、負け犬の名を記憶に留めておく気など慎二には欠片もない。留めてやってもいいのは自分の気に入ったヤツか、いつか報復をするムカつくヤツだけなのだ。
 慎二はひとしきり頭上の雅やかな侍を嘲笑った後、隣に控えるサーヴァントに指示を飛ばした。

 黒いサーヴァントが弾ける。石段を一息に駆け上がり、月を背負う侍をその手にある短剣で串刺しにせんとばかりに肉薄する。
 落ちた火蓋に侍は笑みを零し、構えらしい構えも見せずに刀を振るった。

 戦闘が始まって数分……いや、もしかしたら数秒だったかもしれない。慎二の顔に貼り付いていた余裕の笑みは、みるみる内に渋面へと変貌し、馬鹿だと蔑んだ声は馬鹿なと唖然とする声色へと変わっていた。
 一般人である慎二にとって、その二人の戦いの全てを把握しきる事など不可能だった。人外の力を誇るサーヴァント同士の戦いであるのだから、それは何ら恥じる事ではない。しかしそんな慎二でも目に見えて判るほどに、ライダーは圧倒されていた。

「……何やってんだよライダーッ! 何そんなヤツに圧されてるんだッ!! さっさと始末しろよッッ!!!」

 怒気を孕んだ声が飛ぶ。
 ライダーの耳にそれは届いていたが、そちらに意識を割く余裕などありはしない。

 侍の剣閃は一撃一撃が必殺の太刀だった。命を刈り取る鋭利な刃。それをライダーは両手に握る短剣で迎撃し、その間合いへと踏み込もうとする。するのだが、その一歩は余りに遠く踏み込めない。
 相手の得物は長刀、懐に入りさえすれば勝負は一瞬で決着を見るだろう。たとえそこまで行けなくとも、弾いた直後ならば次の一撃までに普通の剣よりも長い間隙がある筈。
 しかも相手の剣筋は円。それは最速とは程遠い、無駄だらけの軌道である。故にライダーはその一瞬こそを待ち望んだが、その時は終ぞ訪れることはなかった。

 一撃弾く度に速度を増し繰り出される閃光。それは本来有り得ない剣速。踏み込む度、打ち合う度、侍の剣は躱す事すら赦さないとばかりに速度を上げる。
 円を描きながら線より速く。不敏を思わせておきながら点より尖鋭。その侍には、その軌道こそが最善であると言わしめるだけの何かがあった。
 ライダーは反撃の糸口すら掴めず、ただただ木偶のように侍の剣戟を受け続ける。

「ぐっ────!」

 これ以上は打ち合えないと判断したのか、ライダーはその足を以って一息で間合いを離した。侍は追撃の様子を微塵も見せず、出会った時と同じように佇んでいる。

「……ふむ。騎乗兵(ライダー)であるというのに、存外やる。
 私の剣は邪剣でな。並みの者なら一撃でその首を刎ねるところなのだが……」

 侍は若干不満そうに呟きながら己の手を見つめ、確認するように幾度か刀を振るった。
 だがそれにも構わず、息を荒げる者がいる。

「何してんだよオマエ! 何休んでんだよ! さっさとアイツを殺せよ! 二人も血を吸ったんだから、魔力は足りてるだろうがッ!」

 無茶を言う、とライダーは思う。このマスターは己のサーヴァントの力量をまったく理解していない。
 目の前の相手は自分がたとえ全開であったとしても、接近戦、まともな打ち合いではおそらく勝ち得ない相手。
 いや、場所がこの狭い石段でなければやりようは幾らかあるのだが。

 ライダーの持ち味とはその機動力と宝具にある。ライダーの能力を最大限に活用しようとするならば、せめて前後左右には自由に動けるだけの足場が必要だ。それを考慮すればこの場所は最悪だと言わざるを得ない。
 左右は鬱蒼とした林に覆われ活路はない。目の前の敵には正面から挑むしか道はなく、石段の上と下という関係もこちらの不利に働いている。しかもこの土地自体がサーヴァントにとって鬼門と呼べる場所である。
 加えて慎二の言う魔力も規定値は満たしていても満足とは言いがたい。ライダーの宝具はサーヴァント中、一二を争うほどの消費魔力を誇る。
 消滅を覚悟すれば宝具も一度なら発動可能だろうが、そこまでしても侍の後ろに控える魔女の結界のせいでどの程度の威力を発揮出来るか判ったものではない。

 だがそれらはあくまでこちらの都合。最大の誤算が何であるかというのなら、この目の前に立つ侍の技量に他ならない。
 ライダーとて、侍の名乗ったクラス名を聞いた時は耳を疑った。もっとも存在を秘匿すべきクラスが姿を露わにして待ち構えるなど、馬鹿げていると。
 しかしそれは相手を軽んじたものだと即座に悟る。その侮りこそが刹那において命取りになるのだと、一撃目にして理解した。

 何故この侍があのようなクラスで喚ばれたのかは定かでない。
 判っているのは唯一つ。
 この英霊は剣の英霊(セイバー)に匹敵──あるいは凌駕さえしうる実力の持ち主であるということ。

 状況は絶望。この場所でこの相手から勝利をもぎ取る手段をライダーは見出せない。それでもこの無能な主が“行け”と命じるのなら、そのサーヴァントであるライダーは死地に赴かなければならない。

 マスターなどサーヴァントの戦場では邪魔者だ。それでもマスターにはマスターの役割がある。戦況把握、後方支援、指揮官としての役割がそれである。
 だがこのマスターはその役割を果たせず、力を得た事だけを喜び勇み、その力を最大限に活用しようとする思考すら持ち合わせていない。
 彼我の実力差を測れず、相手の戦場での戦闘を強行し、ただ“勝て”とだけ一方的に命じるマスター。ライダーの最大の不幸とは、この主の下に就いたことであろう。

「────なんだ。先客がいやがったか」

 苦渋の決断を迫られていたライダーの下方、柳洞寺の入り口付近よりかかる誰かの声。咄嗟に振り向きその声の主を確認する。
 それはこちらを見上げたまま、ゆっくりと石段を上ってくる。
 無論、それはライダーにとっての救いの女神などではなく。より状況を悪化させる、死神の姿だった。





/3


 衛宮士郎がその場所に辿り着いた時、己が目を疑った。
 あの巨人──バーサーカーの力量は、たった数秒の間の攻防だったが理解したつもりでいた。圧倒的な力でねじ伏せる、まさに狂戦士の名に相応しい実力だと。
 ならば一体、この目の前の光景は何だというのだ。響く剣戟、僅かな月明かりの下で繰り広げられる攻防。明らかに傾いていた天秤の針は、この時確かにその差を戻していた。

 大気を裂き振るわれる豪腕。人外の膂力を以って繰り出される、その死を運命付ける筈の一撃は、眼前の敵を捉えることが出来なかった。轟音を響かせ叩きつけられた一撃は土を飛沫と化し、墓石を礫に変える。
 そう、ここは外人墓地。足元には無数の墓石が立ち並ぶ場所である。
 その程度の障害、バーサーカーにとってみれば足元に転がる石ころと大差はない。大差はないが、意味はあった。たとえ僅かな遮蔽物といえど、それは確実にバーサーカーの機動力を削いでいた。
 対するセイバーはその小柄さ、バーサーカーには及ばないながらも持ち前の俊敏さを以ってその敵と切り結んでいる。

 そう──確かに、衛宮士郎にはそう見えていた。

 だが真実はそうではない。たとえスピードを同程度の差まで持ち込んだとしても、パワーは子供と大人以上の開きがあった。

 力、速度、技量。この三点が白兵戦における勝敗を決定づける基本の値。
 理性を剥奪され、本能のままに動くバーサーカーには技量はない。だがそれを補って余りある力と速度を有している。

 ならばセイバーはどうなのか。力と速度、その両面で劣るセイバーは技量を以って相打つしか術はないが、悲しいかな、セイバーにはそれだけの技量はない。
 何故なら彼は正純な剣の英霊ではない。真っ当な剣の騎士とは一線を画す、異端の英霊。

 だが技量が卓越していたところで、どうにか出来るほど目の前の敵は甘くない。
 技とは、弱者が強者に迫る為に身に付けるもの。だがそれさえも、その上を行く圧倒的な力を前にしては霞み、無為に堕ちる。

 バーサーカーの一撃とはまさにその類のものだ。剣を受ける度にセイバーの顔には苦痛が宿る。本来それはセイバーには受けきれない一撃。それでも受け止めざるを得ないのだ。まともに打ち合えば命はない。出来うる限り受け流し、距離を取っては詰められるといういたちごっこの様相を呈している。
 自分に有利な戦場に持ち込んだところでまだその差は大きく、天秤の針は僅かに揺れ動いただけにすぎなかった。

 数分すら経たず追い詰められ、刻一刻とセイバーの身は削られていく。直撃だけは避けようとも、その振るわれる風圧によって身体に無数の傷を埋め込まれていく。
 骨が軋み肉は悲鳴を上げている。もう止めろと。これ以上この暴風を相手取れば、塵のように儚く散るのはおまえだと。身体は芯から訴え続ける。
 だがそれでも退けない理由が彼にはある。逃げろと言った筈の主の目の前で、無様に地に伏せる事など出来ようか。

 しかし両者の実力差は覆らない。超えられない壁、埋められない溝が確かに二人の間にあるのだから。
 それでもなお彼を奮い立たせるのは、その誓いと英霊としての矜持か。

「ふっ────!」

 一切の言葉もなく戦地に赴いていた少年が息を吐く。それと同時に投擲される、不可視の剣。だがそれはあまりに稚拙。ブレーキの壊れた列車の如く疾走するバーサーカーは、剣の一薙ぎでその見えざる剣を撃ち落す。
 戦場で武器を手離すなど愚の骨頂。これぞ好機と巨人は最速を以って追撃をかける。

 ────だが侮るな、狂戦士の英霊(バーサーカー)
 この身でその身に届かぬと言うのなら、届くものを用意すればいい。御身が英霊であるように、この身も等しく、人に先んじる力を宿す者────!

 セイバーの背後が赤く揺れる。其処に、在り得ざる剣の柄が姿を現す。
 逆手でそれを掴み取り、天まで届けと振り上げる。

 瞬間──世界が凍結した。

 比喩ではなく、その剣の描いた軌跡は刹那にして氷の道を作り上げた。
 止まらぬ筈の列車が停止する。四肢をその突然現れた氷塊で覆われ、微動だにすることさえ許さなかった。バーサーカーに意識と呼べるものがあるのかは判らない。だがこの一瞬だけは間違いなく、その本能すらも氷漬けにされていた。

 攻守は変わり攻め手は健在。彫像と化した巨人に一矢報いるべく、セイバーはその手に剣を執る。狙いは一点。サーヴァントの現界の核たる部位の一、心臓。
 一切の迷いもなく。相手に動く隙など与えることなく、セイバーはその胸に剣を突き刺した。

 ──いや、突き刺さる、筈だった。
 貫く筈の刀身は鋼の肉体の前に停止し、金属音を響かせながら、沈黙した。

「なっ……そんな……」

 呻きにも似た声が士郎の喉元より溢れ出る。士郎の目から見てもそれは有り得ない光景だった。金属の刃が貫き通せぬ肉体など、有り得る筈がないと。

「あはははははははは! 当たり前よ、その程度の神秘でわたしのバーサーカーに傷を付ける事なんて出来るわけないじゃない。
 許すのは表層まで。そこから先は、行かせないわ」

 姿なき少女の哄笑が闇に木霊する。歌声は揺ぎ無き勝利を謳うような口調、己のサーヴァントを誇るような声色だった。

「へえ、なるほどね。それがバーサーカーの宝具、か」

 セイバーが呟きを漏らす。
 いかに英霊といえど同じ存在規模たる英霊の攻撃を受ければ必ず傷を残す。それがないのであれば、それを上回る何かによって守護されているとしか考えられないからだ。

「その通りよセイバー。貴方の宝具じゃバーサーカーは殺せない。
 ねえ、そろそろ諦めたらどう? そうすれば苦しむ間もなく殺してあげるわ」

 慈悲を伴う澄んだ音色。だがそれは冷酷無比な死の宣告だ。

「はは、面白いことを言うね。そうだね、それもいいかもしれないけど、生憎ボクはマスターと約束したもので。殺されるまでは諦められないよ」

「そう、ならいいわ。無残な死に様を晒したいというのなら止めはしないわ。
 バーサーカー、そろそろ動いていいよ」

 僅かたりとも動かなかった巨人の目に火が灯る。そして至上の主の声に応えるように、己を覆う氷塊を砕いていく。
 だがそれよりも先に、動くものの姿がある。

「ねえ、バーサーカーのマスター。君は言ったね、『その程度の神秘では、わたしのバーサーカーは貫けない』と。
 ────ああ、この剣で貫けないと言うのなら」

 ぞくりと、その様を見守っていた士郎の背筋を死神が走る。
 セイバーの表情、それが今まで見たこともないほど邪悪に歪んでいたから。

「バーサーカー!」

 そのセイバーのただならぬ姿に何かを感じ取ったのか。少女は叫ぶような声量でその名を呼ぶ。
 事ここに至るまで、無言を貫き通してきた狂人が咆哮を上げる。周囲を彩る常緑樹の林を震え上がらせる程の雄叫びを上げ、纏わりつく薄氷を粉微塵と化す。

 だが遅い。
 一手早く、セイバーは先程と同じように背後の何もない空間から剣を引き抜き、既にその心臓目掛けて奔らせている。
 取り出されたのは何の飾り気もない剣。権威の象徴と呼べるほど装飾華美ではない、ただ剣として最低限の形と機能を有する無骨な剣。
 だがその奥底に含有する神秘の量は先程の剣と比べるまでもなく圧倒的だった。

 ずぷりと。貫けない筈の身体はその剣によって破られた。
 胸部より深々と突き刺し、背面より貫き通す。
 鉛色の身体から突き出た刃は、夜の闇に溶けぬ赤によって彩られ、ぽたりぽたりとその雫を零していた。







 ずるりと。突き立てられた刃が引き抜かれる。引き抜き様に剣は振るわれ、刀身に染み付いた血液が、ぴちゃぴちゃと音を立てながら大地に血の華を咲かせた。
 サーヴァントとて、消滅の刻まではそこにある実在の人と変わらない。貫かれれば血を流し、断ち切られれば痛みもある。だがセイバーの前に立つバーサーカーには、その痛みすら既にあるまい。
 心臓を一突き。急所をぶち抜かれては、流石のサーヴァントといえど死に至らぬ道理はない。

 鉛色の巨人は沈黙した。四肢は動かず、その眼にも既に火は灯っていない。間もなく塵となって在るべき場所へ還るだろう。
 勝利の余韻などなく、セイバーは剣を執ったまま姿を現さない少女に呼びかける。

「バーサーカーのマスター。既に勝敗は決しました。姿を現したらどうですか?」

 暗い闇に言葉だけが響いている。返る答えはなかったが、応える動きはあった。バーサーカーの後方、乱立する木々の合間から、その少女は現れた。
 その立ち姿は出会った時と変わらない。厚手のコートを着込み、夜に映える真白の髪を揺らした年端も行かぬ少女の姿。
 あれがバーサーカーのマスターなどと、士郎にはとても信じられなかった。

「凄いのね、お兄ちゃんのサーヴァントは。まさかバーサーカーが殺されるなんて」

 己のサーヴァントが殺されたというのに、少女の口調は驚くほど軽やかだった。微かな疑念を持ちつつも、士郎はセイバーへと歩み寄る。

「バーサーカーのマスター。覚悟はいいですか?」

「おい、まさか」

「ええ、マスターは殺しておかないといけません。教会で聞いたかは知りませんが、令呪がある限りマスターの権利は残りますので」

 それは聞いている。だけど殺す必要はない。サーヴァントを失った以上、この場で少女に出来る抵抗などないのだから、このまま教会に預けてしまうのが最善ではないのか。
 じぃっと士郎はセイバーを凝視する。この少年なら言わずとも士郎の考えなど読み通しているだろうと言わんばかりに。

「……解ってます、言ってみただけです。
 ではバーサーカーのマスター、令呪を放棄する事で手を打ちましょう」

 すっと剣を差し出す。令呪の放棄というものがどういう事であるのか理解していない士郎はただそのやり取りを見守る。
 だがその中にあって。ただ一人、笑みを零す者がいた。

「何が可笑しい?」

「うふふ、あはは。可笑しいわ、可笑しいもの。わたしの令呪は渡せない。渡す必要だってないんだから」

 狂い咲く花のように少女は笑う。咲いたのは可憐ではなく、無慈悲な笑み。
 その時確かに、天に頂く月が翳り、夜は幽冥の闇に堕ちた。

「だってそうでしょう?
 ────目覚めなさい、わたしのバーサーカー」

 それは、刹那の内の出来事だった。

 少女の言葉に死んだ筈の巨人が息を吹き返す。
 だがそんなものは本来有り得ざる事。死者の蘇生など魔法と呼んで遜色のない現象だ。故に彼らは気がつかなかった。
 セイバーが剣を引き抜いた瞬間、そのとき既にバーサーカーに空いた風穴は閉じられていた事に。その巨人が、ただ動きを止めていただけだという事に。

 暗い瞳が光を宿し、未だ貼り付いていた氷の薄皮は一瞬で削ぎ落とされ、振るわれた豪腕は確実にセイバーを捉えていた。
 常人ではそれは反応の暇すらない瞬間の出来事。現に士郎は為すがままだった。ただ一人反応できたのは剣の英霊。
 左翼より迫る逃れようのない死の姿。だが仮にも英霊を名乗る者なら、一瞬だろうと防御の時間は確かにあった。

 ────だがセイバーは。
     防御を捨て、己のマスターを蹴り飛ばした。

「…………ギッ……ッッ!!」

 呻きを上げて吹き飛ぶ士郎。容赦も手加減もする暇などなかったのだから、それは当然の結末だ。そしてそれが当然であるのなら、これもまた必然である。
 防御の時間をマスターを守る為に費やしたのだから、無論、自分を守る盾などない。猛る暴風。攻撃などと呼ぶには手緩過ぎる破壊力。いかなサーヴァントといえど、それを喰らってはひとたまりもないだろう。
 だがセイバーはそれを承知で主を守ることを選んだ。

 バーサーカーの斧剣が迫る。良くて両断。最悪、人の形すら保てぬ肉の塊へと変貌し、辺りに飛散するだろう。それが確定された一秒後の結末。


 そう──その射手が、鷹の眼を以ってこの戦場を視ていなければ。













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