剣の鎖 - Chain of Memories - 第十六話









「──────」

 がばりと身体を起こす。
 まだぼんやりしたままの頭。その頭を左右に振って胡乱な眼差しで周囲を見回す。
 特筆すべき点はない。
 いつもの朝。いつも通りの自分の部屋。
 ただ少しばかり日が高いような気がするのは昨夜、闇に目が慣れすぎたせいだろうか。

「………………」

 ちゅんちゅんと鳴く鳥の囀りはなく。
 明かり取りの役割を果たすように、窓からは燦々と陽光が降り注ぐ。
 ボーっとすること約一分。
 珍しく寝起きの悪い自分に驚きながら、俺はようやく時計を視界に納めた。

「……十時。…………十時?」

 ちょっと待て。今日は休日だったか? いやいや、間違いなく平日、確か火曜日だ。
 さて。じゃあ俺は一体なんでこんな時間まで眠りこけているっていうか、

「うあああああああああ、遅刻だぁー!!」

 間違いなく。どこまでも完璧に。俺は寝過ごしてしまっていた。






戦況考察(前)/Intermezzo I




/1


 速攻で着替えて洗面所へ。凍えそうな冷水で洗顔、歯磨き等々を手早く済ませて廊下をダッシュ。飯なんか食ってる余裕はないから居間へ寄る必要はないかと思ったところで、確実にいるであろう一人の人物に思い当たり踵を返して襖に手をかけた。

「あ、目が覚めましたか。どうも、おはようございます」

 きちんと座し、お茶を啜りながらにこやかに挨拶をするギル。

「ああ、おはよう。んじゃ俺学校行くから。後は頼んだ」

「待って下さい。今日は休みですよ」

「はぁ? 今日は平日だろ。休みなわけないじゃないか」

「ええ。学校自体は休校ではないですけど、お兄さんはお休みです」

「────?」

 何が言いたいのか、よく判らない。学校が休みではなく、世間も一般には平日である。なら健康体である俺は学校へ行かなければならず、このままではサボリになるじゃないか。藤ねえにでも知れたら俺に明日は……って。

「なあギル。今朝、藤ねえうち寄って行ったか?」

「ええ。大河さんも桜さんもいつも通りに来ましたけど」

 ならそれはおかしい。寝坊をしたのは俺の不手際だが、桜が来てくれたのなら起こしてくれるだろうし、藤ねえも無断欠席を容認するような事はない。アレでもちゃんとした教師なんだし。
 チックタックと動き続ける秒針の音を聞きながら、見上げてくるギルの瞳を凝視する。おまえ、藤ねえ達になんか吹き込んだな?
 にぱっと微笑むギル。……とりあえず、説明を要求する。







 結局、この日俺は学校を休むこととなった。せっかく着替えた制服を脱ぎ捨て改めて私服に着替える。学校に行かないヤツが制服着てるのもおかしな話だし。

 で、ギルの話をまとめてみる。
 一言で言ってしまえば、全部コイツの差し金である。寝扱けていたのは、まあ俺のせいなのでなんとも言えないが、それを知ったギルはこれ幸いと桜と藤ねえに今日は俺を休ませるよう進言したらしい。
 普通ならここでただ寝てるだけのヤツを休ませる理由もないので理由を問うてそこに理がなければ通らない。

 だがなんでもギルは『お兄さんは連日の疲労の蓄積で大分まいってるみたいです。ですので今日は休ませてあげてくれませんか』などと申したらしい。
 それでも頑丈さだけは取柄の俺とそれを知る彼女らが納得するわけがない……と俺は思っていたのだが。どうも認識の違いがあったようだ。

 そもそも俺がこんな時間まで目覚めないのもおかしな話だ。藤ねえが家に来襲する時は大抵台所に立っているし、そうでなくとも飯時には目が覚めている。そんな俺が起きてこないという事実。それが藤ねえ達の認識に拍車をかけたのだろう、すんなりとはいかなくても理解はされたようで、事実俺はこうしてこんな時間に起きたわけだ。

 『それならわたしも先輩の看病をします』と休もうとした桜。だがしかし。藤ねえに引っ張られてて泣く泣く学校に行ったとかなんとか。うん、心配してくれるのは嬉しいけど、やっぱりサボリは良くないからな。
 そうして今は桜が用意しておいてくれた朝飯に舌鼓を打ちつつ、盤面に向き合うギルと面と向かっている。

「まあ、理解は出来たけど。何のつもりでそんな事をしたんだ?」

 わざわざ藤ねえ達を丸め込んでまで俺を休ませる必要性があるのだろうか。コイツの行動には大抵理由がある。ただ休息させる、だけでは釣り合いが取れない。

「理由は二つ。一つ目は昨夜の怪我の治療と休養の為です。それほど深い傷ではなかったですけど、用心に越したことはありません。
 そしてもう一つ。今日また学校にノコノコと行けば、昨日の再現になるでしょう」

「怪我────?」

 さっき着替えた時はそれらしいものなんてなかったけど。特に身体に異常も痛みも感じないし。

「ええ、ですから大した怪我ではありません。アーチャーの引き起こした爆発により飛沫と化した墓石が掠めた程度ですから。
 もっとも、既に傷痕がない、なんていうのは常人ではありえることではないですが」

 ずず、とお茶を啜る。かたん、と黒い駒が宙を飛ぶ。
 さて。とりあえず思い返さなければならない事があるようだ。それは昨夜、俺達が教会を後にした直後の話。雪のような少女との遭遇。セイバーとバーサーカーの戦い。そしてアーチャーの狙撃。
 語るべき物語はそこからだ。戦場が、一瞬で炎の海へと変貌したその直後から。





/2


 火の爆ぜる音だけが厭に耳朶に響く。
 暗く、夜の静けさと冷気に満ちていた空間は、一瞬にして赤く、熱気に溢れた炎の渦に包まれた。
 そんな中、俺は身を丸めるように何かを抱え、すぐ傍で起きた爆発に耐えるように蹲っている。その影響だろうか、石にも岩にも似たものや、木々の破片らしきものが音を立てて大地に降ってくる。それは時折身体を掠め、傷痕を増やしていく。ただそれほど大きなものが降り注いでこなかった事は僥倖と呼べるだろう。

 パチパチと鳴る火花。落ち着きを取り戻した心で身体を起こす。振り返れば、立ち昇る炎の柱。そしてその中心に、紅蓮の鎧を纏うように佇む黒い狂戦士の姿がある。
 見えるのはその背中。それはどのような神秘に因るものか、巨大する体躯に傷痕らしきものは見当たらない。足元には月面に点在するクレーターめいたものが出来ており、惨事の大きさを物語る。
 そんな、誰かが引き起こした局地的な超爆発でさえ、この巨人を倒す事は出来なかったようだ。

 からん、という音。
 視線を向ければ、そこに場違いなものがある。石や岩、木ではなく、鉄で構築された一振りの剣。装飾華美で彩り鮮やかな捻れた剣。
 何故かは判らない。だけどそれが、この爆発を引き起こしたのだと直感した。

 気分が悪い。原因不明の眩暈に襲われる。それでも視線を外さずその剣を見つめ、透けるように消えるその時まで、俺は剣を凝視した。

「…………ぅ」

 誰かの声が聞こえた。それはごく身近な場所から聞こえた気がしたけれど、辺りにあるのは巨人の姿だけ。なら声の主は一体何処に────

「────あ」

 視線を落とす。そこには掠れた声を上げた主、驚きに目を丸くしているような少女の姿があった。

「えっと、とりあえず、大丈夫か?」

 少女の背中に回していた腕を咄嗟に放し、密着していた身体を離す。切羽詰っていたとはいえ、こんな少女をずっと抱きしめていたなんて。
 いや、いやいや。余計な事は考えるな。あのまま少女が突っ立ってたら多分この炎に巻き込まれていただろうし、自分の判断は間違えていなかったととりあえず言い訳してみる。ああ、もう一体誰にだ俺。

 とりあえず、何らかのアクションが欲しい。ぱちくりさせた赤い瞳はそれでも俺を凝視するように見ているだけで、言葉らしい言葉が出てきてくれない。どうしたものか。

「おい、本当に大丈夫か?」

「ぁ、ぇ────? おにい、ちゃん?」

「────へ?」

 お兄ちゃん? ああ、いや。そういえば出会い頭にもそんな事を言っていたような? そんな意味じゃないだろうけど、こんな少女に言われると、なんとも……。
 と、見開かれていた少女の瞳が細くなる。ようやく理解が現状に追いついたのか、今度は睨むような視線が突き刺さってくる。なんでさ。

「なんで、助けたの?」

「……なんでって。そりゃ誰かが危ない目に遭おうとしてるなら助けるのが普通だろ」

「わたしはお兄ちゃんを殺そうとしたのに? 自分を犠牲にしてまで……?」

「…………」

 咄嗟の判断だったから、いや判断できたのかすら怪しい直感めいたものに突き動かされた結果だ、これは。だから自分が危ないとか、巻き込まれるとか、そんな事を考えてる余裕なんてなかった。
 少女の瞳が余計に鋭くなる。鋭利な刃めいた、なのにどこまでも無垢な視線に思わず一歩後退したくなる。

「ふぅん。やっぱりキリツグの息子なのね、お兄ちゃんは」

「な────に……?」

 唐突に吐き出された言葉に心臓が蠢動する。
 切嗣? なんでここで切嗣(オヤジ)の名前が出てくる……!?

「バーサーカー!」

 少女の声が飛び、それに応えるバーサーカー。業火の海を意にも介さず、俺達の方へ近づいてくる。
 っていうかヤバイ。まだ敵は健在で、俺はその渦中にいるって事に──!

 だがバーサーカーは俺には目もくれず、少女へと歩み寄る。そしてその大きな手を差し出して、その手で少女を己の肩へと掬い上げる。
 バーサーカーの肩にふわりと乗った少女は俺を一瞥し、

「今日はこれで退いてあげる。バーサーカーを一回殺したんだから、礼儀は返さないといけないし。それに、うん。こっちの方が重要なんだけど、今日会えた事でお兄ちゃんの事、もっと知りたくなっちゃったから。まだ殺さないであげるわ。
 ──あ、そうそう。わたしの名前。わたしの名前はイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。今度会った時はお兄ちゃんの名前も教えてね」

 花開くような満面の笑みを湛えてそれだけを告げ、少女とその従者は戦場を後にした。







「イリヤスフィール・フォン・アインツベルン……」

 少女が去った後、告げられた名前を反芻する。
 もちろん聞き覚えなんてない。だが少女の発したキリツグという名前は、本当に切嗣の事なのだろうか。
 もしそうなら、彼女と切嗣の関係は……?

「ああ、くそっ。考えたって分かるわけないじゃないか。とりあえず、今は──」

 この炎をなんとかしないと。放って置けば大火災になる恐れもある。
 これだけの火の手なんだから誰かがもう通報しているかもしれないけど、それでも一応監督役である言峰には伝えておくべきか。とりあえず、ここを離れないと。

「マスター」

「ギル! 無事か!?」

 横合いから掛かる声。無数の傷痕に覆われた身体を引き摺って、ギルは現れた。

「傷の方は大丈夫です。魔力さえあればサーヴァントの傷は癒せますので。もっとも、それなりに時間はかかりますけど。
 それより、バーサーカーとそのマスターは?」

 つい先程の出来事を掻い摘んで説明する。

「……。とりあえず分かりました。詳しい事は後ほど。先にこの場所から離れましょう」

「ああ、それは俺も考えてた事だけど。言峰に連絡しないと」

「監督役の事ですか? でしたら大丈夫でしょう。この場所は教会の膝元ですし、おそらく既に動いていると思われます」

 まあ、確かに。
 神秘の露見を嫌うからこそ監督役が派遣されるんだから、すぐにでも動きはあって然るべきだ。過去にも聖杯戦争はあったっていう話だし、こういう場合の対処は慣れているか。この場に俺達が居たところで何も出来はしないし、むしろ邪魔だろう。

「わかった、急いでここを離れよう」







 戦火を後ろに、俺達は帰路に着く。
 閑静な住宅街を抜け、ビルが雑多と立ち並ぶ区画に入ろうというところで。

「衛宮くん!?」
「遠坂?」

 ばったりと。遠坂凛と遭遇した。
 かなりの距離を走ってきたのか、彼女は息を切らせている。

「何してるんだ、遠坂。こんなところで」

「何、じゃないでしょ。見たわよあの炎。大丈夫だったの?」

「ああ、俺達は巻き込まれてない、け、ど……なんで遠坂がそんな事知ってるんだ?」

 確かにあれほどの戦火なら遠目でも見えないこともないだろう。暗い夜空があの周辺だけ赤らんでいるし。だけどその場所に俺達がいると何故遠坂が知っていたんだ?

「あ、え、えーと。それは、あれよ。
 ほら、衛宮くんに教会に行くよう促したのはわたしじゃない。だから、その、多分あの辺りにいたんじゃないかなー、って……何よその目。全然信じてないでしょう」

「いや、信じてないわけじゃない」

 ただこういう風に狼狽している遠坂は珍しいなあ、と思っただけなんだけど。

「なるほど。つまり、あの火災を引き起こしたのはアーチャーですか」

 と、その間にギルが口を挟む。

「弓兵の英霊なら、戦場の外からの狙撃こそが真価であるのは道理。
 しかも姿さえ見せない超遠距離からのそれならば、確かにアーチャーの名に相応しい」

 ギルの眼が真実を射抜くように遠坂を見据える。
 夜の闇の中にあってなお赤い焔の瞳。だがそれに臆することなく遠坂は睨み返す。

「そうよ、アレはアーチャーがやったこと。あそこまでしろとは言ってないけど、それだけヤバかったってことでしょう。
 むしろ感謝して欲しいくらいだわ。貴方、負けそうだったんでしょ」

 それは、つまり。

「遠坂は俺達を助ける為にアーチャーに指示を出したのか?」

 ここではたと、あの狙撃がアーチャーのものであると確信できる根拠に思い至った。
 炎の中、垣間見た豪奢な一本の剣。あれは、あれと同じものを俺は一度見ている。ギルと契約した夜、屋根の上から弓に番えた剣を放たず去ったアーチャーの矢。それとさっきの剣はまったく同種のものだ。
 それでもあのアーチャーが遠坂の意志なしで俺達を助けるとは思えない。これは無根拠だが、それ以上の確信がある。

「ええ。ただ勘違いをしないことね。わたしは昼間、見逃してくれたそのお返しをしてあげただけよ。それ以上でもそれ以下でもないんだから」

 ふん、と顔を背ける遠坂。
 遠坂凛は一人前の魔術師だ。その知識も精神も、魔術師として完成されている。それはこの数日、いや、今日という一日で理解できた。なのに、どうしてこう魔術師としての正反対の余分を持っているのか。
 昼間も、今も。あくまで対等な立場で舞台に上がらなければ気が済まないという気質。借りなんて以ての外。むしろこっちが貸してやるとばかりに無駄を割いてくれる。

「──ああ。遠坂、いいヤツなんだな」

「は? 何よ突然。おだてたって何も上げないし、手も抜かないわよ」

 知っている。だから俺はきっと、遠坂とは戦いたくないと思ったんだから。

「じゃあね、衛宮くん。あの火事は綺礼が処理してくれるだろうけど、こんな夜更けに出歩いてたら怪しまれるわよ。さっさと帰ることね」

 遠坂はこの場で戦う気はないようだ。
 俺達としてもこれ以上の戦闘は避けたいところだし助かるけど。

「じゃあ、本当は何度も言うのはイヤなんだけど。
 次。次ノコノコとサーヴァントも連れず出歩いてたら、もう容赦しないから。覚悟を決めておく事ね」

 それじゃあ、と手を上げて赤いコートを翻す。
 その背中に、

「ありがとう、遠坂」

 心からの言葉を贈った。
 彼女は立ち止まらず、視線だけを僅かに傾けて、何も言うことなく去っていった。





/3


 それが昨夜の顛末。
 長い一日はその結末を以って終わりを向かえた。

 だからさっきギルの言った学校に行くな、という言葉はこの夜の出来事に起因する。むざむざ出て行けばそれこそ昨日と同じ結末は有り得ない。俺がどう思おうと遠坂は次こそ殺しにかかってくるだろう。そうなれば今度こそ間違いなく、俺は殺される。

「でもさ、学校に行くなって言われてもそう何日も休めないだろ」

 藤ねえや桜を騙し続けるのは気が引けるし、無理だろう。何より、学校にはまだあの結界が張られている。あれをどうにかしない事には気が気じゃないし。

「その点については大丈夫です。おそらく明日、動きがあるでしょう」

「動き? それは、何の?」

「もちろんあの場所に張られた結界の主です」

 かたん、と駒が動く。白い駒は黒い駒に倒された。

「昨日学校を訪れた時、結界の力が強くなっていることを感じませんでしたか?」

「ああ、感じた」

 敷地内に存在する全ての物が色褪せて見えて、行き交う人達にも活気が失われていた。完全な発動はまだだとしても、張られているだけで力を徐々に奪っていくような、そんな印象を受けた。

「ボク達でも気づけるようなものを、あのアーチャーのマスターが放っておくとは思えません。昨日はお兄さんの方にかまけていたようですし、そのお兄さんがいない今日はそちらに何かしら干渉する可能性が高い。
 消去……とまではいかなくても妨害程度のコトは可能な筈。その結果、結界の主に動きがあるとすれば早くても明日、といったところでしょうか」

 昼間は遠坂も大っぴらには動けない。結界に干渉しようとするなら人気の少なくなる放課後という事だろう。もしそこで遠坂が何かしらの妨害措置を施せば、その翌日に結界の主が動く可能性がある、と。

「だけど今日動く可能性だってあるだろ?」

「ありえませんね。今日はマスターがここにいますから」

「……どういう事だ?」

 俺が学校に行かない事と、その結界の発動に何の関係がある?

「昨日お兄さんが戦ったサーヴァント。何故あんなところにいたと思いますか?」

「……何故って……」

「簡単です。あのサーヴァントが結界の主であり、学校に潜むもう一人のサーヴァントだからです。
 何故そう思い至ったかというと。あのサーヴァントはお兄さんと戦う前にわざわざ生徒を一人襲ったそうですね? あのサーヴァントが学校に何の関係もないとするなら、おかしいんですよ。
 わざわざ身を晒す危険のある場所で人を襲う必要がありますか? 単純に力を蓄えるのが目的なら、夜を待ってから人気のない路地裏にでも連れ込んで襲えばいいだけの話です。日中に事を起こすメリットがない」

「……確かに。言われてみればそうか」

「はい。じゃあ何故その場所、そのタイミングで襲ったのか。それはあのサーヴァントのマスターがお兄さんの近しい場所にいる人だからでしょう」

 俺の、近しい場所にいる人物? そんな、まさか。

「あれはお兄さんを誘き寄せる為の罠であったと考える方が筋が通ります。
 わざわざ学校に結界を張っているのも、自己顕示欲が強いせいでしょう。本当に頭の切れる人物なら自分に縁のない場所に仕掛けるか、そもそもあんなバレバレの結界を張るとは思えません。
 敵マスターは手に入れた力に溺れ、後先考えずに行動している。そんな人物が狙った獲物のいない場所で切り札を使う事はありえない。優越感に浸りたいから、見下したいから必ず獲物の間近で見物しようとする」

 だから結界の主を倒すなら発動した直後。その場に必ず、マスターとサーヴァントは現れる……とギルは口を結んだ。







「ギルの考えは分かった。勝負は明日……でいいんだな?」

「はい。まああくまで推測ですからあんまり信頼を置かれても困っちゃいますが。少なくとも今日は静観を決め込んでくれるとは思います」

 最初からあの結界の目的がただの略奪であるのなら昨日にも行われていてもおかしくはなかった。それが今なお在るという事は別の目的があるという事。それが俺や遠坂を巻き込む事であるのなら、どちらかが欠けている時に事を起こす可能性は低い、か。

「ああ、一番重要な事を忘れてました。あの結界、ボクの見立てでは後数日……少なくとも三日は魔力を溜めないと完全な形では発動できないと思います。
 ですから明日発動してくれれば言うことはありません。中途半端な発動なら溶解に時間を要しますし、その分周りへの被害も少ない」

「どの道発動しなきゃ敵を発見出来ないのか……」

「そこまで抜けてるならとっくに誰かに倒されてるでしょうし。こればっかりは仕方ないかと」

「…………」

 それでも犠牲は少なくしたい。だが現段階では出来ることがまるでない。なら、犠牲を少なくする為に発動後、迅速に敵を捕らえるしかないか。

 ふう、と息を吐く。
 ここはギルの言葉を信じよう。休むと決めてしまった以上、そわそわしてたって意味がないし。ここ数日出来なかった事をやれる時間が出来たわけだし、鍛錬をしておくのも悪くない。限られた時間なんだ、有効に使おう。と、その前に。

「なあ。それ、そんなに楽しいのか?」

 さっきからずっと気になっていたもの。ギルの前に置かれた市松模様の四角い盤面。その上に配置された白黒合わせて三十二の駒。何を隠そう、チェスである。
 俺が居間に入ってくる前から一人で遊んでたっぽいからよっぽど気に入ったのか。

「これですか。いえ、別段楽しいというわけではないですけど、退屈はしません。頭を使うゲームは嫌いではないですから」

 チェスはボードゲームの中では最もポピュラーなものだろう。日本では将棋の知名度も高いが、世界的に見ればダントツでチェスの遊戯人口の方が多い。
 一昨日だかにやったオセロと同様、チェスも頭を使うゲームである。ただルールなどから判るように、とりあえず『自分の駒で相手の駒を挟めばいい』というルールを知っていれば成り立つオセロとは違い、それぞれ動きの違う駒の役割を認識し、より高度な思考を求められるゲームだ。

 まあ……一人でやっても楽しくはないと思うんだけど。
 というわけで。なし崩し的に一度対戦してみることとなった。俺あんまり強くないんだけどなあ。





/4


 ────ところは変わり、冬木市新都にある森の奥深く。
 その場所に建てられた外来の魔術師の別荘宅を無断使用する者達も時を同じく、ゲームに興じていた。

「む……」

 椅子に座したランサーが唸る。眉を顰めて盤面を凝視している。
 対するバゼットは珍しく身体を起こし、背もたれに身体を預けたまま微笑を浮かべ、盤面とランサーとを見ていた。ちなみにバゼットは左腕を肩口から意図的に切り裂いたワイシャツに袖を通している。下は毛布に隠れていて見えない。

「つーか、おまえ強くねえ?」

「ええ。ボードゲームに関しては一日の長があります。俄仕込みの即席サーヴァントになど負けるわけがありません」

 ふふふ、と不敵な笑みを零す。それを厭そうな顔でランサーは見つめ、追い詰められた己が軍勢に活路を探す。
 基本的に物事を事務的に、機械的に進めるバゼットではあるが、唯一の趣味と呼べるものがこのボードゲームである。それも協会へと編入した後は時間もなく遊びに興じる事もなくなっていた。

 対してバゼットの嫌うものが突然の休暇である。幾ら自分の不手際で身体の自由を奪われたといっても、三日も四日も寝たきりではバゼットでなくとも身体を動かしたくなるのも無理のない話である。とりわけ身体を動かすことを由とするバゼットには耐え切れるものではない。

 それでも己の身体を省みるだけの常識を持っている彼女ではあったので、暴れ出したりはしなかった。
 だがそれも昨日まで。ピークに達した衝動は苛立ちとなってランサーに返る。そこで取り出したのがチェスだった。多少の自由が利くようになったので、遊べるものでも買って誤魔化せないかとランサーは思い至り、近場のおもちゃ屋でチェスその他諸々を購入してきて餌を与えた、というわけだ。

 まあそれも結局、こうして相手をさせられる破目になっているのでランサーとしてはやりきれない思いなのだが。
 いや、相手をするのは吝かではないが、流石に十六連敗はどうだろう。

「まあいいけどよ。それより腕の方はどうよ?」

 とん、と黒い騎兵が宙を飛ぶ。

「七割……といったところでしょうか。接合自体はほぼ終えたようですが、自分の意志で動かそうとしてもかなり動作が鈍く、重い。
 まるで石膏で塗り固めた義手を付けているような感覚です」

 白い細腕に灯る燐光。ランサーの癒しのルーンをかけ続けてようやく七割。バゼットの戦闘スタイルは近接戦闘に特化したもの。それでは片腕が使えない、というハンデキャップはあまりにも大きい。

「盾くらいには使えそうですが……」

「バカ言うな。足手まといを戦場に連れて行く趣味はねえ。完治しないまま出て行こうとしたらベッドに縛り付けるぞ」

「む……ぅ」

 反論は出来ない。同じ轍を二度踏むわけにはいかないし、邪魔にしかならない己に鞭打ってまで出る意義は現段階ではないのだから。

「……分かっています。あと一、二日は休養に専念します……チェックメイト」

「あぁ……!? くそっ、これで十七敗目かよ!」

 あー、もうヤメだヤメ。とランサーは椅子に背中を預け天井を仰ぎ見る。勝利の余韻に浸るバゼットは意気揚々と彼を見やってからさて、と切り出した。

「では本題に入りましょうか。昨夜の戦闘で全てのサーヴァントのデータは揃いました。マスターも割れていれば言うこと無しですが、それはまあ仕方ないわ。
 で、実際戦った貴方から見て、今回の他のマスターとサーヴァントはどうだった?」

「……そうだな。とりあえず面倒そうなのはバーサーカーだろう。あの宝具を貫くとなると骨が折れるし、それを抜きにしてもアイツは最強クラスだろうな」

 ランサーと戦った時のバーサーカーは様子見をしていただけに過ぎない。それがどのような理由に起因するのかはランサー達は知らないが、もし全力でかかって来られていれば、また違う結末もあったかもしれない。
 天井の染みを見つめていた視線を窓の外へと投げ、ランサーは呟きを漏らす。

「後は……アサシンだな」

 思い返すのは昨夜の出来事。
 ライダーが柳洞寺より去った直後から始まる、もう一つの物語。













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