剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十話









 その前。
 ライダーが慎二を連れて柳洞寺から帰還した後、自室に篭った慎二の挙動は目に余るものがあった。

「くそっ、くそっ、クソ、クソッ! どいつもコイツも僕を馬鹿にしやがって!」

 喚き散らし、目に留まったものを引っ掴んでは壁面に向かって全力で投げつける。そのお陰で室内はところ構わず物が散乱し、足の踏み場とて既に無い。
 性根として几帳面であり、整然とした自室の在り方に恍惚を覚える慎二であっても、この夜の出来事はそれほどまでに腹に据えかねた。

 サーヴァント。

 人ならざるヒトを下僕と化し、世に先んじる力を持ったマスターである己が、寄りにもよって同じ従者としての存在であるサーヴァントに虚仮にされたのだ。
 あのアサシンのまるで関心など無いという瞳。あのランサーの見下したような眼光。ましてやそんなヤツらに後れを取るライダーのサーヴァント。そのどれもが慎二の自尊心を逆撫でする。

「あの野郎……しかも血の要塞(ブラッドフォート)を使えば、学校にいる全てのマスターを敵に回すだって?
 は、ははは。いいじゃないか、なら使ってやればいい。あの中なら魔力の心配もいらなくなるし、全力で戦えるだろうライダー?」

 椅子に腰掛けたまま身体ごと回して机に背を向ける。部屋の隅には闇に溶け込むサーヴァントの姿がある。両の眼を覆い表情から読み取れる情報が少なく、何を考えているのか全く分からない、茫洋とした雰囲気を纏うライダーのサーヴァント。

「…………」

 慎二の問いかけにライダーは答えない。確かに、結界発動の最中なら魔力の充填に支障は無い。常に不足していた魔力が満たされれば、ライダーとてその能力を最大限に発揮する機会を得るだろう。

「なんだよライダー。黙ってたら判らないだろう? 僕の質問に答えろよ」

「無理です、シンジ。三体のサーヴァントを相手にしては流石に厳しいものがあります」

 抑揚の無い声で告げるライダー。
 衛宮士郎が従えるセイバー、遠坂凛の従えるアーチャー、加えて未だマスターの割れない忠告を残した当人であるランサー。七騎のサーヴァントの内の三騎。しかも三大騎士のクラスであるこの三人を一度に相手取っては、どのようなサーヴァントでも勝ち得る事は叶わないだろう。

 いや、ライダーには対抗する術がある。ライダーの持つ宝具の内の一つは対人ではなく対軍宝具である。複数を相手にするのはむしろ得意分野。だがそれも万全の状態であれば、の話だが。それに相手とて同じように切り札を持っている。数の上での不利は総じて戦況全体に影響する。
 さりとて、そのような宝具を持つ事を慎二は知らない。このマスターがそれを知れば意気揚々とまた無用な戦地に赴くのは目に見えている。

 ライダーの戦力を完璧に把握していない慎二であっても、同じ存在規模たるサーヴァントが一対複数で戦えば結果は火を見るより明らかだというのに。
 その程度も判らないのか、と思う反面、判っていて訊いているのだろうとも思う。召喚以降、仮初の契約を結んでからのマスターの行動方針は無茶苦茶だ。ライダーに真意を汲み取る事など出来る筈も無い。

「────チッ、やっぱりか。そうだよな、アサシンにすら勝てないおまえがどうやって三騎士に勝てるっていうんだ。
 クソッ、こんな弱いサーヴァント掴ませやがって……!」

 事ここに至り慎二の苛立ちは最高潮に達した。あくまで己の非を認めず、誰かに咎を押し付ける慎二が次に向ける捌け口の矛先など、決まっている。







「きゃ──!?」

 小さな悲鳴を上げ、間桐桜はベッドに押し倒された。
 既に時刻は夜も深い頃合であった。部屋に押し入り、安らかに、素知らぬ顔で眠り続ける桜を見た途端、慎二は桜の髪を引っ掴んで叩き起こした。何が起きたのかすら判らず、ただ怯えに震える桜の表情を見やり、慎二は愉悦の笑みを浮かべて桜へと覆い被さる。

 そうだ、その表情だ。怯え、震え、恐怖しろ。その表情だけが、自分が上に立っていると自覚出来る唯一つの方法。慎二の屈折した感情、行き場の無い思いの捌け口はずっとこの少女だった。

「ほんと、グズだよなぁ、おまえ。おまえがあんなクソの役に立たないサーヴァントを召喚しやがるから僕が馬鹿にされるんだ。もっとマシなサーヴァントを喚び出せよな。えぇ、聞いてるのか桜」

「──ひっ! いたっ……!」

 桜の手首を締め上げながら威圧する。
 間桐慎二は魔術師ではない。しかしサーヴァントを従えられる。その理由がここにある。

「おまえが戦いたくないって言うからさ、僕が代わりに戦ってやってるっていうのに、おまえは安穏と眠りにつき、何も知らない振りをして毎日毎日アイツのところに通ってるんだもんな。いっそバラしてやろうか?」

「や、やめて……それだけは……お願い、兄さん……」

「ハ────」

 今にも泣き出しそうなその顔を見て、慎二は乾いた笑いを浮かべる。
 どうしようもないグズだが、この表情をしている時だけはいい。互いの立場が明確で、抵抗すらしようとしないこの少女にはどうしようもなく征服感が刺激される。そう、昂ぶるほどに。

「でも……わたし、知ってます」

「あ……?」

 目を逸らし、消え入りそうな呟きには、しかし確固たる意思があった。慎二の高揚感が僅かに薄れ、代わりに苛立ちが逆巻いていく。

「逃げ出したおまえが何を知ってるって?」

「わたし……見ました。兄さんが、ライダーに先輩を、襲わせているところを」

「だから何なんだよ」

「え……?」

「アイツもこの戦いに参加するマスターだぜぇ? 殺しの対象には違いないじゃないか。それとも何、おまえはアイツだけ見逃せとでも言うのか?」

「…………」

 目を伏せる桜。
 知っている。桜の慕うその人が戦いの中に身を置いている事を知っている。あの人の事だから、きっと自分を省みずに戦い抜くだろう。たとえ相手が強大な力を持つサーヴァントであったとしても、それが必要な行為であるのなら立ち向かうだろう。

 あの人はそういう人で、そんな人だから憧れた。でも桜に出来る事は今ある距離を保つことでしかない。太陽に近づき過ぎれば身を灼かれるように、彼に近づき過ぎれば己の闇を白日の下に晒される。それだけは絶対に嫌で、もし見られてしまえば傍にいられなくなる。

 こんな自分でも、あの人は受け入れてくれるかもしれない。でも、もし拒絶されてしまえば、それで間桐桜が終わってしまうから、踏み込めない。怖い。怖いのだ。

 眩い光と深淵の闇。
 純粋な輝きの中に闇はなく、また純粋な闇の中に光は存在しない。互いはいつも背中合わせで、それでも決して、溶け合う事は無いのだから。

「はん、おまえはそうやって怯えていればいい。逃げ出したおまえに僕のやることに口を出す権利なんてないんだぜ。
 だから待ってろよ、衛宮はじきに殺してやるからさ」

「っ────!」

 唇を震わせ、慎二の口にした見たくもない未来を脳裏に浮かべてしまう。あの人が居ない世界。それはいやだ。絶対に、絶対に。

 桜の反応を十分に愉しんだ慎二は、さて、最後の仕上げとしていつものように欲望を吐き出してやろうかと思ったが、ふと伸ばした手を止めてより非道な笑みを形作る。空に浮かぶ三日月のような笑みは、たとえようもなく禍々しい。

「ああ、そうだな。桜の言うとおりだ。衛宮に手を出すのはやめよう」

 打って変わってにっこりと微笑む慎二を見上げるカタチで押さえつけられていた桜は、言葉さえ失い呆然とする。
 抵抗らしい抵抗もなく、反論らしい反論すらしていない自分の声が、この人の心に届いたのか。

「────代わりに遠坂を殺すことにしよう」

「…………」

 紡ぎだされた言葉にまたも言葉を失う。なぜ、この人はこういう事ばかり言うのか。
 目尻に浮かんだ雫が頬を伝いシーツを濡らす。抗う術も抗う事もない自分に許された行為は、これくらいしか残されていなかった。

「あれぇ? なんだ、衛宮の時は嫌がったくせに、遠坂の時は何も言わないのかい?
 ああ、まあそうだよな。おまえの対極に位置してるような遠坂なんかが死んでも、おまえは何も感じないよな。むしろ嬉しいんじゃないのか? ライダーと衛宮の戦いを見てたんだろ。なら、遠坂が衛宮を助けようとした事も知って────」

「────もうやめてっ!」

 叫びと共に力の限り慎二を押し飛ばす。まさしく力の限りの抵抗であったが、体勢と言葉による浸蝕が微々たる力しか生み出さなかった。
 それでも慎二はこのか細い抵抗を反逆と受け取るだろう。きっとまた殴られる。きっとまた、■される。判りきった事だ。それでもその程度で済むのなら、その程度で止めてくれるのなら、いい。いつものことだから。

「やめて……止めて下さい、兄さん。先輩にも……遠坂先輩にも酷い事しないで下さい」

 この後に起こり来る現実を受け入れた桜は精一杯の言葉を口にする。

「我侭だなぁ、桜は。わかったわかった、僕の負けだよ」

 そう言って慎二は桜に覆い被せていた身体を起こした。
 根負けしたよ、と頭を振ってベッドより降りた慎二を、桜はただ見つめる。

「……兄さん」

 自然、頬が緩んで微笑が零れた。
 そうだ。なんだかんだと言ってもこの人はそこまでヒールになりきれない。非道に徹しきれない。だから──

「ああ。だから選べよ、桜。
 ──衛宮と遠坂。選ばなかった方を殺すことにするからさ」

 ぐるん、と振り向いた慎二が、そんなコトを嘯いた。見据えられたその瞳には、かつてない程の嗜虐の炎が溢れている。お気に入りの玩具を思いのままに扱うように。

「──────え?」

「僕が敵を選ぶのはやめてやるよ。だからおまえが選べ。殺したくない方を選ぶんだ、簡単だろ? 名前を言うだけで済むんだからさ。
 ああ、どっちも嫌だなんて選択肢はなしだぜ。そんな面白味のないものを選べばどうなるかなんて、言わなくても分かるだろう?」

 絶望とは、希望のすぐ後ろで待ち受ける。
 儚く灯る光に縋り付くように伸ばした手を、ソレは嗤いながら蹴り飛ばしていく。

 いつだってそうだ。光はこの手に掴めない。あるのは腐敗した闇だけで、一筋の光さえ届かない。お似合い、お似合いだ。この闇で蹲り続けることこそ、這い出る事を選ばない間桐桜には相応しい。

 差し伸べる手がなければ、差し伸べられる手とてない。
 しかし絶望という名の鎧は未だ崩れ去らず、導きの光は遥かに遠い。

 後に残ったのは間桐慎二の醜悪な哄笑と、間桐桜の哀しみによる涙。
 そして──呟かれたたった一つの言霊だった。






不協和の足音/Intermezzo V




/1


「……なん、ですって……?」

 冬の寒風の吹き荒ぶ中、凛は目を見開いて問うた。何かの間違いではないか、と。聞き間違いではないのかと。

「だから桜を遠坂に返そうかと思ってね、って言ったんだよ遠坂」

「──────」

 しかし答えはまったくの同じ。慎二の言葉は間違いではなかった。
 十一年前に取り交わされた遠坂と間桐の間での取引。没落の一途を辿るしか道の残されていなかった間桐に、遠坂は養子を出した。

 それが遠坂桜。現、間桐桜と名乗る、慎二の妹である。

 遠坂の先代、遠坂時臣と当時の間桐の頭首たる間桐臓硯の間に、いかような取引があったかは既に知る者はない。少なくとも、凛は知らない。
 当時まだ幼すぎる凛が、そんな交渉に割り込む余地などあった筈がなかった。後になってその話を聞かされ、幼いながらに魔術師というものを多少なりとも理解していたから、母と共に涙を飲んで頭首である父の決定を受け入れた。

 それが、今更になって桜を遠坂に返す……?

「あぁ、何? まさか今更いらないって? わかる、わかるよ遠坂。あんなどうしようもないグズ、手元に置いておくのも億劫に──」

「──慎二」

 短く、だがはっきりと。明確な殺意を滲ませ凛は慎二の双眸を睨めつける。突き刺さるような殺意に気圧され、後じさりそうになった慎二ではあったが、無理矢理口元に笑みを作って踏ん張った。ここで弱みを見せてはならない。あくまで対等に……いや、こちらが上であるように振舞わなければならない。

「悪い悪い。ほんの出来心さ、気を悪くしないでくれよ。じゃあ本題だが……」

 一つ間を置いて、告げる言葉は既に決まっている。これは取引、契約だ。上下関係のある献上ではない。こちらが差し出すように、あちらからも貰うものがある。間桐慎二の思惑は実に単純。シンプルだ。

「桜を遠坂に返す見返りとして、僕と手を組まないか?」

「お断りよ」

「なっ────!?」

 思考の猶予すらない。凛は慎二の言葉を見透かしていたかのような速さで斬って捨てた。
 慎二の思惑にそんな返答は有り得なかった。間桐慎二を勝者とする見返りとして桜を返還する。
 人の情と呼ばれるものがあるのなら、たとえ拒絶しようと思考はする筈だ。それが、言い終わるか終わらないかのタイミングでの返答など……

「ハッ、なんだよ。アイツはおまえの妹だろ!? 妹が可愛くないのかよ!?
 くくく、あははは。とんだお姉さんもいたもんだな、桜が聞いたらきっと卒倒するぜ?」

「ええ、そうね。こんな不出来な兄を持つ事になった桜に心から同情するわ」

「なにぃ?」

「間桐くん、吐くならもっとまともな嘘を吐くべきね。魔術師ですらない貴方に、そんな決定権があるとはとても思えないわ」

 澄ました表情で語る凛は優雅でさえあった。とても戦地に身を置く人間には見えない、凄惨ささえ窺わさせる極上の表情。
 それもその筈、遠坂凛はどこまでも遠坂凛に違いなかった。慎二の目的、言動の意味、上辺だけを繕った矛盾。その程度見抜けぬほどの木偶ではない。

 対して慎二は凛を甘く見ていた。楽観していた。この交渉材料を持ち出せば必ず凛は首を縦に振ると。遠坂凛という少女を揺さぶるのなら、その言葉は確かに上等なものだったであろうが、凛を揺さぶるが故に、より凛を冷静にさせてしまった。

 名にしおう──他ならぬ桜の事であったのだから。

「サーヴァントを従えていれば魔術師? お生憎様、やっぱりアンタは魔術師なんかじゃないわ」

 慎二がどのような手段に訴えてサーヴァントを従えるに至ったかは判らない。
 それでも、魔術師の家系は魔術師にしか継げないのだから、前提条件すら満たせていない慎二が間桐の家督を継ぐ事は有り得ない。ひいてはそれは、慎二にそんな決定権などない事を意味する。

「何を言うかと思えば……。僕は間桐の後継者だ。僕以外に後継者なんかいないんだ。桜のヤツにもあのジジイにだって認めさせてやるさ……! この戦いが終わった時、誰もが僕を認めざるを得なくなるんだからな!」

「ふぅん。それってつまり、今はまだ後継者になってないって事よね」

「…………ぁ」

 まさしく墓穴だった。力説するように拳を振り上げた慎二には既に見境などなくなっていた。そしてその穴を見逃すほど、遠坂凛は間抜けではない。

「それにね、間桐の現頭首はまだ生きているんでしょ? その意向を無視して勝手にそんな契約しちゃって本当に大丈夫なの?」

 慎二がこうしてサーヴァントを従えていられるのも、その頭首の入れ知恵ではないかと凛は睨んでいた。
 さりとてそんな思惑は慎二には全く関係がなく、知り得る筈もない。ただ、凛の瞳が慎二が嫌悪し憎しみを滾らせる者達と同じモノだったから。

「クソッ、そうかよ。おまえもそんな目で僕を見るのか。ハッ、じゃあもういいよ」

 歯噛みし、嫌悪を露呈する。計画は失敗。退くか進むか。どちらを選ぶにしても遠坂凛にこうして自分がマスターであることを明かしてしまった以上、早めに次の手を打つ必要がある。
 慎二にはもう一人当てがあった。あのどこまでも人を信じようとする人物ならば、容易に陥落できる。味方にならない敵には既に用はない。そっちを取り込んで凛を討ち、勝者として欲しいままにする……つもりであったが。

「────ふむ。いや、凛。間桐慎二の提案はそれほど悪くないぞ」

 呟きは、誰もが予想し得なかった者から紡がれた。誰隠そう、凛のサーヴァントであるアーチャーである。
 慎二は言うに及ばず、凛ですら惑いを表情に垣間見せてアーチャーを見上げている。そのアーチャーの表情はどこか達観にも似た、見透かすような笑みが宿っており、唯一人、ポーカーフェイスを突き通すライダーのみ微細な変化すらも見られなかった。

「どういうつもりよ、アーチャー」

 慎二達への警戒は怠らず、凛はアーチャーへと意識を向ける。懐疑した眼差しと共に。

「言葉の通りだが。前半部分は私の預かり知らぬ事だが、後半……手を組むという点だけは一考の価値はあると思ったまでだ」

「なに、じゃあアンタは慎二と手を組んだ方がいいって言うわけ?」

「結論だけを述べるならそうだな。
 今日一日……いや、昨夜合流した後からか。君はどこか虫の居所が悪かったようだったのでね、告げる機会を逸していたわけだが……此度の聖杯戦争、あのバーサーカーは相当な脅威だぞ」

「…………」

 凛とてそれは承知している。
 昨夜、センタービルを後にした直後に先行させる形で放った鳥型の使い魔の眼を借り、一部始終くらいは把握している。
 彼のアインツベルンが四度の失敗を踏み越え、万端を期して送り出したマスターとサーヴァントだけの事はあり、単騎での近接戦闘ではおそらく、今回の聖杯戦争最強であると。その証明としてセイバーは死の間際まで追い込まれたのだから。

 けれども、こちらは弓兵を従えているのだから、何も同じ土俵で戦う必要性はない。然るべき戦場を整えてやればそう脅威でもない。
 しかし、予期しない遭遇により戦わざるえなくなる可能性だってある。その時、何の対策も練れていなければ敗北するのはこちらだ。

 その為の仲間。その為の共闘。目的を同じにした、手を取り合う関係。その相手に、アーチャーは間桐慎二は悪くない相手だという。真意は測れないが、凛の中に慎二との共闘などという選択肢は存在していなかった。この時までは。

「は、ははは! なんだ、遠坂のサーヴァントは中々話のわかるヤツじゃないか!」

 思わぬところから転がり込んだ交渉の余地に慎二は胸を高鳴らせる。しかも外からの干渉ではなく、内からの提案だ。これには流石の凛も考え直さざるを得ない。
 後は上手く傾倒させていけば、対価もなく欲しいものを手に出来る。予期せぬ理想の展開だ。

「ああ、いいよいいよ。おまえみたいな奴が僕のサーヴァントだったら良かったのに!」

 その為には提案者であるアーチャーとは違わぬ事が肝要だ。いや、そんな打算を差し引いてもアーチャーの態度は慎二にとって及第点だった。
 慎二の偽りのない賞賛にアーチャーは瞠目したかのように口を開く。

「ああ、君のように目的の為に手段を選ばないマスターは実にいい。魔術師とはかくあるべきであり、最終的に違える事になるこの戦争のパートナーとしてはもっとも相応しいと言えるだろう」

“相手が手段を選ばないのであれば、こちらも選ぶ必要性などないのだからな”

 もっとも重要な一文は口には出さず、アーチャーは口元を歪めた。
 そうとは知らない慎二はそんな言葉に気を良くしたのか、憚る人目もなくひとしきり声を高らかに響かせる。アーチャーは腕を組み黙すだけで、慎二に対してそれ以上の反応は見せなかった。

「しかし私は凛のサーヴァントだからな。マスターの決定に逆らうつもりはない。つもりはないが、助言の一つくらいはさせて貰おう。
 求めた矢先の相手からの申し出だ、おそらくこんな機会は他にないぞ? まあ……凛に他に当てがあるのであれば、何も言うまいが」

 そこまで言い切り口を結び、後は君の決定次第だ、とアーチャーは目で語る。

「…………」

 当てはある。彼ならば、凛の切り出す同盟に乗ってくれるだろう。自分とは戦いたくないと言っていたし、八割方成功する見込みはある。
 しかし残りの二割、不確定要素がどう転ぶか判らなくさせている。それは衛宮士郎が従えるサーヴァント・セイバー。はっきり言ってしまえば、セイバーが何を考えているのかさっぱり判らない。

 マスターには従順なようだが、聖杯を求める者であればそう易々と受け入れまい。加えて口が上手い。あの手の輩に口論で負けるつもりはないが、先にいらぬ事を吹き込まれていれば勝敗は判らなくなる。
 にこにこと笑顔を振り撒きながらその裏で画策している気配は十分だ。純朴な少年である衛宮士郎を丸め込む事など造作もないだろう。外見と中身を同一として考えるには、セイバーは些か出来が過ぎる。

 というのはあくまで凛の建前であって、本心では葛藤がある。いらない、けれども譲れない矜持と苛立ちにも似た理解に難い感情。どちらも凛の心より零れ落ちたものに変わりはないが、優先すべきはどちらなのか、今の自分には解らない。

「さあどうなんだい、遠坂。君のサーヴァントは僕達と組みたいって言ってるんだ、これで三対一、もう決まったようなもんだよね」

 右手を差し出しながら大胆に間合いを詰める慎二。彼の中では既に同盟締結という結末は完成しているらしい。声に喜色が混じっている。
 屋上の中心付近で足を止めた慎二を見やり、凛は唇を噛む。まったく、こんな展開は予想外だ。選択肢は三つ。今の自分が選択すべき結末とは……

「わたしは────」


「────あらあら、いけない子達ね。密談ならもう少し人目を憚ってはどうかしら」


 凛の答えが、その艶のある声によって掻き消された。屋上に集う誰もが無意識に声の方へと視線を向ける。

 頭上。未だ月を天に頂くには尚早なこの時間、星灯りの彩る暗黒の空を背景に、ソレは宙に浮かんでいた。
 紫綬のような色合いのローブを翼に見立てて大きく広げ、目深に冠ったフードは表情を覆い隠し、暗色の魔女を思わせる。闇に溶け込みそうな姿でありながら、手に握られた銀の錫杖だけが消えない輝きを放っていた。

「キャスター……!?」

 凛の質す意味も含めた声が轟く。空に浮かぶ魔女は、微かに窺える口元を陰鬱に歪めた。

「ええ、初めまして、私はキャスター。貴女のサーヴァントがアーチャーで、そっちの坊やのサーヴァントがライダー。間違いないわね?」

「坊……っ!」

 坊や呼ばわりされた慎二が声を荒げようとしたが、なんとか思い留まった。留まったというよりも、噤まされたというべきか。フードの奥、窺え知れない筈の瞳の尖鋭さに。

「何やら面白そうな話をしていたわね、貴方達。手を組むとかどうとか。
 でもダメよ。人に聞かれたくない話ならもっと注意を払わないと。何処で誰が聞いているか分からないわ」

「……ふん。盗み聞きしていた貴女が言うことじゃないわね」

 凛は懐へと手を伸ばす。キャスターからは隠す気もない敵意が滲み出ている。戦闘はいつ始まるか分からない。右手には秘蔵の宝石、ついで左腕に刻まれた魔術刻印をゆっくりと回転させる。

「ふふ、そうね。お嬢さんみたいな子は嫌いではないのだけれど、その不躾な瞳はいただけないわ。もっと愛らしくなさいな」

「冗談。貴女に気に入られたくなんてないから謹んで遠慮させていただくわ。それよりも、いったい何の用よ」

 戦闘、殲滅が目的であればこんな風に悠長な会話はしまい。誰に気取られる事もなくこの距離まで詰め寄れるのなら、即座に戦闘行動に移ればいい。ならばキャスターの狙いとは他にあるのではないか。

 筆頭に上げられるのは姿の無いキャスターのマスターの行動だ。サーヴァントを陽動として使い、マスターが何かを画策しているのならば、わざわざキャスターが姿を晒した事にも頷ける。

「で、どうなのかしら、そこのところ」

「何だっていいでしょう? 貴女に関わりはなくてよ。目障りだから消えなさいな。それとも、初めの脱落者になりたいのかしら?」

 嘲笑うような口調と余裕綽々な態度が癇に障り、見上げる瞳に自然、力が篭る。
 睨み合い、火花を散らす凛とキャスター。鋭い視線の交わりはどちらも頑として譲ろうとしない。その渦中へ、

「目障りなのはおまえの方だキャスター。僕らの間に割って入るなんていい度胸じゃあないか!」

 間桐慎二が吼える。見下ろされているのが気に食わないか、凛との同盟締結を邪魔された腹いせか、あるいは両方か。
 キャスターの顔が僅かに動き、慎二の方へと視線を移す。浮かんだ酷薄な笑みは、未だ空に届かない三日月のように冷ややかだった。

「小鳥の囀りとて、度が過ぎれば煩わしい。いえ、小鳥と呼ぶのもおこがましい肉の袋。貴方はね、空っぽの傀儡だと気づくべきなのよ」

 瞬間、風が吹いたかと思えば誰しもの視界が遮られた。屋上全体を覆うように逆巻いた風に運ばれ、舞い踊る白塵。
 毒……いや、ただの粉塵、目眩ましか……?

「アーチャー!」

 何れにせよそれは戦闘開始の合図に違いなかった。一瞬でキャスターのフィールドと化したこの場所で戦うのは巧くない。
 凛は口元を押さえ、フェンスへと手をかけながら一度だけ強く蹴り上げる。先に跳んだアーチャーに手を引かれ、いつかと同じように空へと身を投げた。

 強烈な風が身体全体を蹂躙する。引き寄せられるように大地へと落ちていく途上、アーチャーの腕の中で身を捩り天空を見据えれば、もうもうと煙る屋上の更に向こうにそのシルエットを見た。巨大な蝙蝠を思わせる風貌は間違いなくキャスターのものだ。

 錫杖が揺れたかと思えば、不意に灯る球形の魔力の気配。濃密な、凝縮された魔力の塊がぼやけたキャスターの周囲に展開されていく。
 あちらからはこちらが見えないのか、それともライダーに狙いを定めたのか、キャスターの魔術行使は凛達へと向けられたものではなかった。

 凛のこの行動は逃げではなく戦場を整える為の一手に過ぎない。しかし、このままキャスターに背を向けるのはあまりにも癪だ。一矢報いる為にガンドを喰らわせてやろうと左手を天に翳す。

「凛、撃つならば下だ」

 しかしその声によって阻まれた。もう一度身動ぎ下を見れば、

「竜牙兵……キャスターの手駒────!」

 落下地点、予期していたかのように待ち構える無数の下僕(ゴーレム)
 なるほど、最初から凛の行動などお見通しというワケだ。権謀術数、策謀策略こそがキャスターの真骨頂。勝機を携えなければ、姿すら見せはすまい。逆に見せたということは、確実に勝利しえるだけの確信を持ってのものだ。

 しかし……舐められたものである。

 脳裏を掠めた敵の浅はかを鼻で笑い飛ばし、眼下、足の踏み場とてないように犇めき合うゴーレム目掛けて、ぐるんと回した左手より弾丸を撃ち出した。
 予想着地点で弾けた呪いは数体の竜牙兵を巻き込み掻き消える。一面の黒に穿たれた白いスペース目掛けてアーチャーは空を蹴った。

「────はぁ!」

 着地と同時、アーチャーによって接地の衝撃を殺された凛は即座に左手を突き出しガンドを掃射する。同じく、アーチャーも主の無事を確認した刹那に夫婦剣を取り出し、未だ無数に蔓延る魔女の使い魔の迎撃にあたる。

 轟く破砕音。木霊する斬撃の音。遅れて上がる、軋るような骨の擦過音。
 三重に連なり奏でられる戦闘の音色に聞き入る者はなくとも、時と共に屍と骸は堆く築かれていく。

 どれだけ数を揃えようと、竜牙兵如きでこの主従は止められない。動かず、砲台のように小粒の宝石を交えた魔術による殲滅射撃を行う凛。両手に剣を携え、凛に敵を近づけぬように斬り踊るアーチャー。
 一発弾ける度に骨が砕け、一撃見舞う度に闇に散る。

 マスターとサーヴァントという組み合わせにおいてこの上なく息の合った二人の演舞は数分と立たず終演を向かえた。
 カタチを保つ事の出来なくなった骨の残骸は大地へと還り、見慣れた更地を取り戻す。戦闘の余波によって巻き上がった砂埃が僅かに目に沁みたが、気にもせず作り上げられた戦場である屋上を仰ぎ見る。

「──────」

 しかし、そこには既に粉塵の渦はなかった。星空を覆い隠していた噴煙は何処かへ消え去り、黒色の空が直に見える。
 階下へと移動した凛達を追って来なかったことからキャスターはライダーと対峙したと見るべきだ。しかし煙幕はなく、先ほど感じた魔力の流れも、隠し切れない戦闘の気配すら感じ取れないのはどういうわけか。

「……アーチャー。ライダーかキャスターの気配はある?」

「いや、どちらも感じない。逃亡したか」

「ケンカ吹っ掛けてきておいてもう? 一体何しに来たってのよ」

「タイミング、キャスターの口ぶりから察するに、私達が手を組む事を阻みに来たようにも感じられたが……真相はわからん」

 アーチャーの訝しげな表情から視線を逸らし、凛はもう一度屋上を見上げる。やはりそこには、何もない。空へと収束するかのように見える校舎に異変は感じられず、空でさえも劈くような静けさに満ちているだけだ。

「……念のため屋上へ戻るわよ。もしかしたら何が起こったのか分かるかも知れないし」

 無言の肯定を背中に、凛は駆け出した。





/2


 結論から言ってしまえば、何もなかった。戦闘の形跡や魔術の痕跡。間桐慎二、ライダーとキャスターの両サーヴァントの姿すらも。
 ライダーも慎二を抱え凛達と逆方向へと離脱し、そのまま学校を後にしたのだろうか。キャスターの目的が凛と慎二との協定の阻止であるのならば、その時点で目的は達成されている。キャスターが追撃をかけて来なかった事にも頷けるが……。

 何の手がかりもなければ真実は見えてこない。空想で現実を決め付けてかかるなど愚者の犯す所業だ。
 得られるもののない場所に居る意味もなかったので、屋上にあった最後の呪刻の洗浄を済ませて、凛は帰路に着いた。

 深まり暗んでいく夜の中を歩む。
 今日は昨日に比べれば格段に静かな夜だ。まあそれも当然か。昨夜あれだけ派手に暴れまわったのだ、どの組も立て続けに戦闘を行うほど酔狂ではないという事だろう。
 凛としてはその限りではなかったのが、現状が現状なので敵からの接触がなければ今日はやり過ごす気でいた。

「アーチャー」

 人気のない道路を速度を緩めぬまま歩みながら、凛は己が従者の名を呼んだ。声色には少し不満を滲ませる響きが込められていた。アーチャーが気づいているのかどうかは知らないが、返ってくるのはいつもと変わらない、どこか不遜な応答の声だった。

「なんで、あんな事言ったの?」

『……あんな事とは?』

「慎二と組めってやつ。わたしとあいつの仲が悪いことくらい、ここずっとついて回ってた貴方も知っているでしょう」

 姿なきアーチャーは僅かに黙考した気配だけを残し答える。

『君は好き嫌いで相手を選ぶのか? 婚姻でもあるまいに。同盟を組むのであれば求められるのは戦力だけだ。使えるか使えないか。その程度で十分だ』

「貴方の見立てじゃ慎二とライダーはそんなに使えるように見えるわけ?」

 少なくとも凛にはそうは見えない。
 ライダーの実力はまだ判然としないが、慎二だけでも十分過ぎるくらい厄介だ。わざわざ桜の事を交渉に持ち出した時点で論外、仮に手を結ぼうともいつ寝首をかかれるか分からない相手に背中を任せて戦うなど、冗談ではない。

『背中を任せて戦う? 違うな、対等として扱うのではなく駒として考えればいい。
 そも私はアーチャーなのだ。ライダーに前面を任せ、隙あらばまとめて射抜けば済む話ではないか』

「……それのどこが同盟だってのよ。気に入らないわ、二度とわたしの前でそんなこと言わないで」

 明らかな嘆息の気配を残してアーチャーはそれきり黙した。
 アーチャーの言う事とて理解は出来る。手を組もうとどうせ最後には殺し合う事になるのだから、それくらいの割り切りがあった方が楽だろう。
 相手が正しく魔術師であるのなら、凛にしてもそのような余分を持つ事はない。さりとて凛の知るマスターは誰も彼も半端者だ。

 同盟という名目で組むのであれば、対等でなければならない。最低限の信頼関係はあって然るべきではないか。背中の心配をしながら戦うなど、一人で生き抜くよりも面倒で生き難い。ならばやはり────

『衛宮士郎、セイバーと組む事を考えているのなら、止めておけ』

「────!」

 見透かしたようなアーチャーの言葉に身体が硬直する。ぐるんと振り返りそこに居るであろう赤い騎士に睨みを効かせた。が、効いているのか効いていないのかは分からない。

『あのセイバー、おかしいとは思わなかったか? 最優と呼ばれるセイバーのサーヴァントにしては余りに脆い。
 凛の指示で私が手助けしなければ、早々に脱落していたのだぞ?』

「それだけバーサーカーが手強い相手だったって事でしょう?」

『その事を抜きにしてもだ。打ち合えてすらいなかったのだぞ、剣を執るべき騎士が。
 セイバーとは、どのような状況、どのような窮地に追い込まれようとも崩し得ない力を持つ者だけが冠する事の出来るクラスだ。故に彼のクラスは聖杯の招くサーヴァントの中でも突出している。
 君とて見えているだろう、奴の能力値が。直接打ち合った私が言うのだ、アレはセイバーなどではない』

「……良く知ってるのね、セイバーの事。まるで──見てきた(・・・・)みたいに(・・・・)

『………………』

 口を閉ざすアーチャー。
 記憶がない、という話だったがどこまで本当なのか疑わしくなってきた。宝具すら思い出せないと言っていたくせに、白と黒の夫婦剣に加えて流星のような一撃を放つ力を持ち、行使までしたのだ。
 いや、アレがアーチャーの宝具ではないであろう事は分かっているが、これでは記憶がないと言われても俄かには信じられない。

『私に言えるのはそれだけだ。あのサーヴァントはイレギュラーだ。不確定要素を自ら抱え込むのは頂けない。
 それに……ふん。衛宮士郎とて似たようなものだからな。時が満ちていながら聖杯が望むほどの魔術師が現れなかった故の数合わせとしか思えない半人前の魔術師だ。イレギュラー同士、それは気が合うのだろうよ』

 それで言いたい事は全て言い切ったのか、屋敷に帰り着くまでアーチャーが口を開く事はなかった。
 珍しく息巻いて捲くし立てたアーチャーの言いたい事も理屈もちゃんと理解できたつもりだ。そしてそれが凛の身を案じてのものであることも。

 ここ数日の付き合いだが、これだけこの男が気にした相手も他にいまい。つまりアーチャーは、衛宮士郎とセイバーに固執している。間桐慎二は駒と割り切ったくせに、彼らに対しては嫌悪に近い感情を露にしている節があるのだ。
 好意と嫌悪は相反するが方向性は同じものである。無関心だという事こそが、もっとも無価値で無情なものだ。

 アーチャーが彼らに嫌悪を抱く因は判らない。しかし、凛にも譲れないものがある。彼女には彼女の信念と矜持があり、自らに従い行動している。ただ、それらは常に互いを肯定するものではなく、時に相反する事もある。現に彼女は今、二つの間で揺れていた。

 彼女が余分と言い切るものと従うべきだと信じるもの。二つの事柄、相克する理性と感情(おもい)は擦れ違い、不協和の音を鳴り響かせる。些細な亀裂は軋轢となって自身へ還り、行く先を曖昧とし混濁する。
 ならば執るべき選択とは何であるのか。何が正しく何が間違いであるのか。何に従い、何を信ずるのか。

 答えを急ぐ必要はない。しかし、覚悟は決めておく必要がある。いや……そんなもの、とうの昔に決まっている。
 遠坂凛は第五次聖杯戦争の勝者となり、輝ける聖なる杯をその手に掴む。それは違えるの事のない、凛の真実。ならば考える必要とてなかったのだ。

 勝者に必要なものは────ただ一つであるのだから。













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