剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十二話









 吹き荒ぶ風。砂礫を孕んだ風が、視界を遮るように右から左へと流れていく。
 いつの間にか、彼はその場所に立っていた。意識が追いつかない頭で、彼は自分の足元を認識する。ここは、いつか見た場所だ。一面に広がる荒野に突き立つのは担い手のいない剣の群。鈍い輝きを湛える鋼の森は、錆び付いた風を受け、ただ朽ちていく事だけを約束されている。
 そう、彼は乱立する無数の剣を見ていつかこう思ったのだ。

 “まるで墓標のようだ”と────。

 その認識は、きっと正しい。ここはおそらく、終わった者の見た世界だ。立ち止まる事無く走り続けた者が見た最期の風景。知らない誰かに最後の最後まで残されていたのはこの風景だけだったに違いない。

 だからこの世界はこんなにも荒涼としているのだ。
 誰かはずっと一人で、ただいつまでも剣と共にあったから。この世界を埋め尽くす剣だけが誰かの過たぬ誓いだったのだろう。

 ならば哀切にも似た感情を抱く事さえ不自然ではない。
 広すぎる世界には、人どころか生物の姿すら在りはせず、在るのは赤茶けた大地と夕焼けよりも赤い空、そして天地を別つ無機質な刃のみ。誰かの最後に残ったものが、こんなものだけだったなんて許せない。
 だってそうだろう。コイツはきっと自分の理想に身命を賭した。自らを貫いた結果に傷だらけの手に掴んだものが、硝子の水面に映ったものがこんな、果てる事のない荒野と果て行く剣だけだなんて────。

 しかし。
 何故、この場所に後悔だけはないと感じるのだろう?

 誰が見たってこんな世界を許容出来る筈がない。悲しみを体現をしたかのような荒野。突き立つのは墓碑銘のない、誰かの導。
 頑張った者には頑張っただけの報酬があって然るべきだ。なのに、生の果てで垣間見たものが、多くのものを取り零しながらも走り続け、ちっぽけな掌に残ったものが、絶望の淵にも等しい真っ赤な荒野だなんて。報われない。救いがない。

 そんなのは許せない。
 でももし、この荒野に意味があるとするならば……。

 その誰かはきっと、誰にも理解を求めなかったのだろう。ただ自分の信じたものを追い求めて、他者からの肯定も否定も必要としなかった。いや……たとえ肯定されようと否定されようと、変わる事の無い信念があった。誰かにとって理想とは何物にも代えられない真理であり、ユメであったのではないか。

 それならば、この感情にも納得がいく。理想の果て、夢見た場所が望んだものでなかったとしても、歩んだ道だけは確かにあったのだから。振り返る事無く、そんな余裕すらなく走り続けた理想の一途、行程こそに価値があったのならば、後悔などある筈も……

『違う』

 そのとき、そんな声が聴こえた。聴覚を刺激する音響ではなく、脳髄を揺さぶる絶望の吐露。たった一言に、頬を撫でる風さえ生温く感じる程の酷薄さと、明確な否定の念が籠められているように感じられたのは、気のせいなどではない。

 衛宮士郎は、その声を知っている。識っている。向けられた声の方角など判らなくとも足は自ずと歩みを進め、風向きの変わった荒野を行く。
 行く先を知らず理解する。おそらくはこの世界の発端たる地点────。

 いつしか世界は変容する。変わることのない剣群と赤茶けた大地。変化が見られたのは燃えるように赤かった空だった。紅蓮の空には、異質なものが廻り続ける。そこかしこに巨大な歯車のようなモノが浮かんでいた。
 たったそれだけで、衛宮士郎に認識出来る世界のイメージさえも変容した。墓標のようだった剣は、まるでたった今突き立てられた新作の剣のように煌びやかな輝きを誇り、大空で噛み合う歯車の異観は、新たな生命無き生命を産み落とす製造機のよう。

 一つの“世界”に組み込まれた歯車。あるいは、誰か自身が歯車となったか。いずれにせよ、寂莫の墓地は、灼熱の支配する製鉄場へと様変わりしていた。

 歩く。歩く。向こう側(はじまり)から吹く風を押しのけて、己が足で荒野を行く。
 果てなどないかのように感じられた歩みは、やがて唐突に終わりを告げる。吹きつける風が勢いを増し、今度は逆に身体を切り裂くかの如く吹き乱れる疾風。これより先へと進むことを拒むように吹き荒ぶ。
 ぼやけた視界。瞼さえ開けられない突風の中。垣間見れたものなどほんの少しの、映像だけだ。幽かに浮かぶのは、赤き影。

 世界の中心──果ての場所で待つのは……。






推測/March I




/1


「────い……せん……先輩……?」

「…………ぇあ?」

 薄っすらと開いた瞼には、朝の光が射し込んでくる。細めた目には、慣れ親しんだ影が映し出されていた。

「……おはよう、桜。もう、朝か?」

「はい。おはようございます、先輩。朝ですよ」

「そっか。悪い、また桜に起こさせちまった」

「いいえ、そんなことないです。
 それよりも先輩、やっぱり少し疲れてるんじゃないですか? 昨日もせっかく学校をお休みしたのに、出歩いていたみたいですし。そのせいで疲れが抜けきってないんじゃないんですか?」

 ずいっと身を乗り出す桜。隠したってダメなんですから、というオーラが滲み出ている。

「……う。いや、大丈夫だぞ。ほら、身体は全然────」

 僅かに表情を翳らせた桜を心配させまいと勢いよく身体を起こそうとして、

「────ぁ?」

 その異変に気がついた。

「先輩?」

 首を傾げる桜。桜の反応は特別おかしなものだとは思わなかった。だって俺自身が、首を傾げたかったからだ。
 身体を起こそうと左腕をついた瞬間、身体は冷たい床へと戻り伏した。こてん、とすっころぶような気軽さで支えが消えた。

「あれ……」

 原因なんて簡単だった。左腕に感覚が無い。ちゃんと腕はあるのに、腕を腕だと認識できているのに、まるで失くしてしまったかのように感覚が無い。
 力の篭らない腕を支えとしようとしたせいで、腕は簡単に折れ曲がり、俺は身体を起こすことが出来なかった。

「先輩……? どうかしたんですか?」

「いや、何でもない。ちょっとまだ寝ぼけてるみたいだ」

 怪訝な視線を送ってくる桜に感づかれまいと咄嗟に言葉を紡いで身体を起こす。感覚が無いと認識していれば、使えないことも無い。
 身体を起こした後、ふるふると頭を振って時計を見やる。

「……と。げ、もうこんな時間か。桜、もう朝飯の支度は」

「はい、終わってます」

 やっぱりな、と思う反面、有り難くもあったので感謝を伝える。
 確かに最近どうにも寝起きが悪い。それというのもギルを召喚して以来のことのような気がするんだけど、何かその辺りに原因があるんだろうか?
 いや、それは今はいいか。時間もそんなにないことだし。確認するべきこともあるし。

「悪い、桜。着替えてから行くから先に居間に行っててくれないか」

「分かりました。それじゃ、準備をして待ってますね」

 その答えにああ、と頷きを返す。
 鮮やかな朝の光の中、淡い色の髪を風に靡かせる桜の後姿を見送って、視線を自分の左腕へと落とした。
 外見上は全く異変のない左腕は、石膏で塗り固めたかのような違和感を産み落とす。ググッ、と力を籠めればなんとか動かせる程度。それも感覚が無い、まるで痺れた様な重みを感じる。

「これってやっぱり……」

 昨日の魔術行使の代償だろう。ぶり返した反動を抑え付けることに必死で、いつ眠ったか定かではない昨夜の出来事。
 手に出来たのは不出来な剣と予期せぬ痛み。果たして両者の釣り合いは取れていたのだろうか。

 またあの魔術を行えば、今度はどんな対価を取られるのか判らない。何より、あの剣では強化した木刀よりはマシ程度の性能しかない。
 それに剣を実体化させるまでに時間が掛かり過ぎるのは最大のネックだ。戦闘という一分一秒を争う瞬間の連続の中では、投影を終えるまでの時間は長すぎる。

「剣自体も不完全だった。足りない……何か、足りないものがあるんだ」

 それでもあれは衛宮士郎に一つの可能性を投げかけた。これまでは強化一つにすら苦戦していたというのに、英雄の所有する宝具をカタチにするまでは出来たのだ。
 ただ再現するのであれば、完璧でなければならない。完全でなければ意味が無い。欲するものは中身の詰まっていないハリボテではなく、真作に極限まで迫る影。

 出来るかどうかなんてのは二の次で、“かもしれない”という可能性だけは間違いなく手に出来たのだから。
 もし、もし本当にこの力をものに出来るのなら、衛宮士郎は戦える。

 力の篭らない左腕を握り締める。覚悟なんてのは、魔術を教わると決めた時にとっくに出来てる。ならば後は、自分に出来る精一杯をカタチにするだけだ。





/2


 カシャン、と音を立てて滑り落ちた器。僅かに遅れてあがった桜のか細い悲鳴にも似た声が耳に残った。

「ごめん、桜。怪我はないか?」

「はい、大丈夫です。それより、珍しいですね。先輩がお皿を割るなんて」

 恙無く進んだ朝食の後、片付けの為に台所に立った俺たちであったが、思いのほか腕の麻痺は深刻のようだった。感覚が無いのに、在るという事を認識出来てしまうというのが問題だ。ついいつものように伸ばした腕より滑り落ちた皿は、握力の足りない俺の左腕からだったのだから。

「そうだな。こんなミスするなんて、やっぱり弛んでる証拠だ」

 麻痺しているというのは事実。ならばその事実を受け入れて、これまで通りに生活していくくらいの気概は見せなければ。自らの失敗のツケは自らで支払うべき対価だ。
 ガラスにナイフを突き立てたかのように綺麗に割れた皿を拾おうと手を伸ばそうとし、

「あ、わたしがやります」

「いや、いいよ。俺が割ったんだから俺が────」

 砕け散った皿を拾おうと身を屈め、手を伸ばした桜のソレを目視した瞬間、その手を掴んだ。

「え、先輩……?」

 疑惑の声を上げる桜。それもそうだろう、桜の腕を掴んだ俺の右手に籠められた力は思いのほか強く、目は割れた皿を拾おうとする桜を咎める……なんていうレベルの眼力では無かった筈だ。

「桜。それ、何だ」

「────!」

 硬い声。それだけで桜は俺の言いたい事を察したのか、息を呑んだ。砕けた皿を拾おうと伸ばされた桜の白く細い腕。そこにあってはならないものがあって、視認した時には既に腕を伸ばしていた。だって伸ばした右腕が掴んだ桜の手首には、くっきりと青い痣が出来ていたんだから。

「これは、その……」

「転んだ、なんてことはないよな。転んだくらいじゃこんなにくっきりと掴まれた痕なんか出来ないからな」

「………………」

 そんな取って付けたような言い訳が通用するはずなんてないことは、桜だって良く解っている。だから顔を伏せたのだろう。
 流れた沈黙は破られない。俺には桜にこんな真似をするようなヤツは一人しか思い浮かばないし、間違いは無いだろう。

「慎二……アイツ、また────!」

 慎二は時折、こうして妹である桜に暴力を振るうことがあった。以前その痕跡を見つけた時は、本格的なやり合いになったのを覚えてる。
 こんなに良く出来た妹に、家族に何故暴力を振るえるのか。こうして自らが傷を負わされた時だって桜は、

「止めて下さい、先輩。悪いのはわたしなんです。兄さんは悪くないんです、悪いのはわたし……」

 いつだって、周りを気遣う。自分よりも、周りを守ろうとするのだ。

「それに先輩と兄さんがケンカするところなんて見たくはありません……。兄さんには先輩しか友達がいなくて、先輩にまで嫌われてしまったら兄さんは……」

「別に慎二の事は嫌っちゃいない。ただそれとこれとは話が別だ。桜みたいな妹に手を上げるダメ兄貴にはお灸を据えてやらなきゃならないだろ」

「だから、ダメです! 悪いのはわたしなんですから! お願いします、先輩。兄さんには何も……」

 見上げる瞳には隠し切れない憂いと頑なな意思が宿る。視線を溶け合わせたまま、大きく息を吐いて、

「……ああ、分かった。桜が嫌がることは俺だってしたくは無い。ただ、同じ事が続くようなら俺だっていつまでも黙ってないからな。
 俺は桜のことを家族だと思ってる。家族を守るのは当たり前のことだからな。慎二にだって遠慮はしない」

「先輩……」

 結局こうして俺が折れる事になる。桜はあれで中々意思が強いからな、言い合いになると手強い相手だ。まあ、遠坂くらいなら簡単に論破してしまえるんだろうけど。
 桜が笑ってくれるのなら、これでいいのだろう。言葉に嘘はないし、もし次なんてものがあればその時はその時だ。

「そのことなら、きっと大丈夫です。昨日は兄さん、帰って来ませんでしたから。最近多いんですよね、こういうこと」

 なんでもないように言った桜。しかし俺には、酷く重大な事のような気がした。だって今この街はマスターとサーヴァントの演じる聖杯戦争の舞台だ。そんな場所で帰ってこない人物がいる……。

「慎二……まさか……」





/3


 桜と藤ねえが屋敷を後にして数分、まだ時間がある俺は居間へと戻りギルと面と向かって茶を啜っていた。昨日ギルは今日にでも学校に結界を張ったマスターが動くと言った。その事について少しでも話し合えればと思ってこうしているのだが。

「─────」

 何か、妙な雰囲気が漂っている。朝食時の溌剌とした笑顔は何処かへと消え失せたようになりを潜め、彫像のような無表情がギルの貌に貼り付いている。
 こんな顔を俺は知らない。ただ近しい雰囲気を放つ顔を知っていた。この雰囲気は、バーサーカーを殺した剣を取り出す直前に見せた毒々しい笑みに酷似している。違うところがあるとすれば、剥き出しの殺意を放っていた以前より空恐ろしい何か、静かに沸き立つ憤怒の感情……あるいは敵意を感じるような気がするのは俺の考えすぎか。

 声を発する隙など存在しないのではないか疑いたくなる静寂の中、搾り出すように目の前に鎮座するギルの名を呼ぼうとして、

「さて、では今日の行動でも決めましょうか」

「────へ?」

 あっけらかんと、普段と寸分違わない笑みを浮かべてギルが言った。
 虚を衝かれたというか、その余りの豹変振りに口から吐き出そうとした言葉はすっ飛んでいって代わりになんとも情けの無い声が漏れた。

「どうかしましたか?」

「え? ああ、いや。なんでもない」

 ふるふると首を横に振る。間違いなく、このギルは昨日までの俺の知るギルだ。さっきまでの雰囲気は既に微塵も無くなっていた。やはり俺の気のせいだろう。腕がこんな状態だから気が張っていておかしなものでも感じたのかもしれない。

「話すコトはそんなに多くありません。結界が起動した場合の対策ただ一点。勝負を賭けるのは────」







「────今日?」

 静々と揺らめく木々の中。場違いに聳える洋館の一室でベッドに背を預けたままのバゼット・フラガ・マクレミッツが断言した。
 その何故か勝ち誇ったようなバゼットの顔をしげしげと見つめながらもランサーはどこか疑念の視線と言葉とを投げつけた。

「何の根拠があってそんな事が判るんだ? 余程自信ありげな口調だったが、少なくともオレ一人くらいは納得させられるワケってヤツがあるんだろうな?」

 椅子の上で胡坐をかいた青髪の槍兵、ランサーが問う。
 バゼットはあの夜以来、外出した事が無い。外界の情報という今最も欲するものを得る手段は唯一、己が従者であるランサーのみである。

 そのランサーとて、己が見聞きした全ての情報を正しくバゼットに伝えているわけではない。虚言こそ無いが、彼自身の性格もあってか、要は大雑把であった。それでも押さえるべき要点は確実に押さえている辺りが彼が彼である所以であろうが。
 さりとて、より重大なのはこちら、彼自身が言うべきではない、必要は無いと判断した事柄──例えばみすみすセイバーとアーチャーのマスターを見逃した事──は彼の胸中にのみ眠るという真実。

 視覚の共有もしていない二人では実際に体験するランサーとベットから出られないバゼットの間では知りえる範囲、絶対的な情報量が違う。
 ただでさえ他者からの伝聞などというのは曖昧かつ不確かなものでしかないというに、バゼットの言葉は妙な確信を得ているようだった。

 それらの前提の上で、バゼットが確信を持って今日学び舎に張られた結界の主が動くと判断した理由────それは、

「勘です」

「…………………………」

 木々がざわめき、葉が揺らめく。今だ暗く闇を残した森林へと降り注ぐ、今にも消え入りそうな淡雪のような光。対照の輝きが織り成すコントラストの中、バゼットとランサーもまた、同じように対照的な表情をしていた。

「ふーん」

「な、なんですかっ、その反応は!」

「いや? 別に」

「歯切れの悪い言い方ですね。言いたい事があるのならはっきり言いなさい!」

 不貞腐れたようにそっぽを向いたバゼットの横顔をまじまじと見やりながら、ランサーを顎を擦ってからそうだなぁ、と天井を仰いだ。

「んじゃ訊くけどよ、そう論付けた根拠……そりゃ本当に勘だけか?」

「……どういうこと?」

「だからよ、最終的な結論を決める際の決定打が勘だったんだろ。その前、結果を求める時に使った材料を訊いてんだ」

 いや、むしろ勘だけで結論に行き着いたのであれば、それはそれで空恐ろしくもあるのだが。目の前の女性はそんなタイプの思考をする人物ではない事を彼は良く知っている。

「そうですね……貴方が結界の基点を発見したのが五日前。それからこれまで全く動きがなかったという点が一つ。
 学校には二人のマスターが在籍し、うち一人はセカンドオーナーである遠坂凛。彼女が正統な魔術師であるのならば、放置しておく理由が無く、なんらかの干渉は行っているものと見るのが妥当です。それがどれくらいの頻度で行われたかは不明ですが、そろそろ相手も焦れてくる頃合でしょう。これが二つ」

 そこで一つ呼吸を置き、思索を続けながらバゼットは語る。

「最後に、結界の主も同じく在籍者である点。しかも名を間桐。遠坂と間桐は始まりの御三家であり、聖杯を争奪するこの戦において、アインツベルンと並び立って最も互いを倒すべき敵だと認識しあう関係でしょう。遠坂が干渉をすれば、間桐とてなんらかの策を講じる確率が高い」

「つまりはあのお嬢ちゃんが結界の邪魔をして、それに痺れを切らしたあの坊主が動くってか。忠告はしたんだがな……まあ、あのガキならやりそうだが」

 しかし全ては机上の空論。実際に見聞きしたわけでもないバゼットでは、チェスのように上手く事を予測しきることなど出来よう筈も無い。それゆえの勘。結論を導く上で、動くか動かないかの二択を決定付けたのはバゼット自身の直感だった。

 されどランサーに話すごとに彼女の自信は揺らいでいく。
 元より勘などに頼った作戦行動など彼女らしくない。いつも心の何処かで不安を燻らせている彼女が決断を下す際には決定的な確証が必要だった。
 生死を別つのは一瞬の油断。そんな世界に身を置いてきたバゼットにしてみれば不確かな情報ほど頼りにならないものなどない。

 そんな彼女が今回の決断を下したのには理由がある。意識的にしろ無意識的にしろ、バゼットはランサーに絶対の、揺らぎようの無い信頼を寄せている。

 ──降りしきる俄か雨の中、一時の雨宿りの為に生い茂る巨木に背を預けるように、今のバゼットの心の拠り所はランサーであった。

 だからランサーの言葉はバゼットを不安に駆り立てる。間違っているのではないか、根本的な勘違いをしているのではないか。そんな、退廃的な思考の渦に陥ったバゼットの心を映し出したかのように表情が曇りだした。

「おいおい、さっきまでの威勢はどうしたんだよ。勘なんてもんをさも自信ありげに言い切って見せたアンタはどこいった」

「い、いえ。よくよく考えてみればそう全てが都合良くいくわけが無い。
 遠坂凛とは直接的な面識はありませんし、性格も知らない。結界の主についてはより情報が不足している。
 そんな中で、勘なんてものに頼った答えに本当に意味があるのかと……」

 最後の方はよく聞き取れないほどの声量だった。彼女がもし一人であったのなら、これほどまでに迷いはしないだろう。戦場で生き延びる為に信ずるものは自身だけであり、切迫した状況の時こそ瞬時の判断力がものを言う。
 だが今は一人ではなく差し迫ってもいない。彼が……彼女よりも実戦経験豊富なランサーがいて、充分に考える時間もあった。ランサーが直接見聞きした情報からバゼットの推論に疑惑の言葉を浴びせられては、彼女でなくても多少は揺らぎを見せるだろう。

「なるほどね。なんだ、鈍っちゃいねえじゃねえか」

 しかしランサーの結論はそんな、肯定の意味を孕んだ言葉だった。

「はい?」

 思いも寄らぬ言葉に目を丸くするバゼットを無視したまま、ランサーは己の整った鼻梁を指しながら口を開く。

「戦いに慣れてくるとな、鼻が利くようになるんだよ。幽かな火種の匂い、数滴でさえ咽返るほど芳醇な血の薫り。僅かな足掛かりから、どこで戦が起きてるのか知らず察知出来るようになる。
 で、アンタのそれはその上位版。戦闘の気配……言い換えるなら匂いだ。アンタはこれから巻き起こるであろう戦いの匂いを感じ取って、少ない情報から結論を導き出した。アンタはこの狭い檻の中ででさえ戦ってたんだろうな。
 もっと自分の感覚を信じろよ、バゼット。今回は間違いねえ。なんてったってオレも同じように感じてんだから」

 意気揚々と語ったランサーとは裏腹に、バゼットは遠くを見つめるような焦点のあっていない双眸でワケも分からず愉しげに笑う槍兵を見ていた。まるで、珍獣でも見るかのような目つきだった。

「ぁん? なんだよ」

「い、いえ。ただ少し、判らなくて」

「なにが」

「私は今、貴方に褒められたのでしょうか……?」

 今度はランサーが呆然として、数瞬の後。

「ぶはははははははははははははははははははははははははははは!」

 ひどく遠慮の無い哄笑が、憚る事無く高らかに静かなる森に轟いた。
 そのあまりに奇妙な声色と、今にも椅子から転げ落ちてしまいそうなランサーの姿をバゼットはただ見つめるばかりであった。

「────、──、……!」

 これ以上笑えない、という程に笑い続けたランサーは目尻に浮かんだ涙を拭って呼吸を整える。並の戦闘よりもよっぽど息を乱した時間であった。

 それでもバゼットは理解出来ない。誰かに認められる事、褒められる事と無縁であった彼女にはランサーの笑いはむしろ嘲笑にさえ聞こえ不安が募る。柳眉を顰めたバゼットの心もとない表情は先ほどの比ではない。

 そんな言いようの無い不安に駆られる主を見やりランサーは席を立つ。そのままバゼットが腰を落ち着けるベッドへと歩み寄り──彼女の髪をくしゃくしゃと掻き回した。

「な、なにを────!」

「んな顔すんな。間違ってるかどうかなんてのは後になってみなきゃ分かんねえんだし。それにたとえ間違ってたっていいじゃねえか、信じたもんくらい最後まで貫いて見せろよ。結果なんてのは後から付いてくるもんだろ」

「でも私が結局結論を決定付けたのはただの勘です。根拠も確証も、自信でさえも本当は無いんです。だから……」

「だからその感覚は間違ってねえって言ってんだがなぁ。
 まぁいいや。おいバゼット、アンタは小難しく考えすぎるきらいがある。そんなアンタに良い言葉を教えてやる。“戦いに身を置く者だけが嗅ぎ取れる匂い”なんかよりよっぽど分かりやすいヤツだ」

「それは、どんな────?」

 ニヤリ、と不敵に笑うランサーの姿が其処に在った。

「女の勘はな、恐ろしいくらいに当たるもんなんだよ」





/4


 ざわめき立つ白亜の校内。地平線の彼方より昇り来た陽はいつしか頭上で輝き、世界を照らす。その下、何も知らずに変哲のない日常を謳歌する多くの人々の中で気を張るものの姿が数人あった。この街で巻き起こる異変の真相を知る選ばれた演者達はそれぞれの確信を以ってこの日、穂群原へと集う。

「────さあ」

 瓦礫の城で積み上げられるのは屍か、砕かれるは歪な夢か。
 思惑は交錯する。彼らは自らの目的の為、同じ招かれざる客を駆逐する。果たすべき大望と、願いを捧げるべき主の為に。

「始めましょう────」

 言霊は世界を染める。赤く、紅く。血よりもなお濃い真紅に彩られた箱庭で、世に祀り上げられし英傑どもが打ち鳴らすのは軋む刃。

 音響は高く、行進曲(マーチ)となって行く先を暗示する。向かうべき先が何処であるのか、望むべきものがなんであるのか。まだ誰も──知りはしない。













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