剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十三話









 異変は校門を踏み越えた瞬間理解できた。以前感じた甘ったるい匂い。基点付近でしか感じ取れなかった異常が、今朝には学校の敷地全体に蔓延していた。
 視覚でさえ認識できてしまいそうな程に濃密な魔の気配。眼に映る全てのモノが色を失くしてしまったのではないかと錯覚してしまう。

 それでも驚きは無かった。むしろ普段よりも冷静だったかもしれない。あるいは冷徹。それはきっと、異常の意味と推測とが線で結ばれた結果。

 今日という日に、この場所────通い慣れた学校が戦場へと様変わりする。

 そう思った瞬間、一度だけ大きく心臓が跳ねた。だけれどそれで終わり。やるべき事はわかってる。やらなければならない事は決まってる。なら後は、“その時”をじっと待つ事しか出来ないだから。







 昼休み。恙無く終わった午前の授業に安堵の息を零し、席を立つ。いつものように生徒会室へと足を運ぼうかとも思ったが、止めておいた。もし敵がこちらを敵と見なしているのなら、誰かと行動することは得策ではないからだ。

 誰かの受け売りに従って、今日は一人で昼食を摂ることにした。
 こういう時にうってつけの場所がある。夏場なら多くの人で賑わう屋上も、身体に沁み込む陽光はなく、ただ寒風の吹き荒ぶこの季節では閑散とするのだ。誰だって好き好んで遮蔽物のほとんど無い屋上で昼食を摂ろうなどとは思わないだろうし、居たとしたらそれは極一部の物好きくらいのものだろう。

 屋上へと続く扉を開けてみれば、案の定人の姿はなかった。吹きつける風に一度だけ身震いをしてから歩を進める。この屋上とて全く遮蔽物が無いわけではない。風を受けずに済む唯一と呼べる場所へと足を運んで────

「あら、衛宮くん。貴方も今日はここで昼食?」

 居てはならない……今、最も出会ってはならない少女と邂逅を果たした。






愚者の夢/March II




/1


「────遠、坂……!」

 壁に身体を預け、僅かに背を丸めた姿が愛らしい少女が口にしているのはトマトサンドだった。士郎の姿を目視した今でもその動作に澱みは無く、淡々と食事を進める遠坂凛の姿に士郎は唖然とした。

 丁度この位置は屋上の扉から見えない場所だったことで一通り見渡した時に彼女の存在に気づけなかったのは仕方ないとしても、敵同士で、次に会えば容赦はしないと言い残した彼女がこうも自分を前にして平然としている姿には驚かざるをえなかった。

 恐らくは今も凛の傍にアーチャーはいる。セイバーを連れていない士郎との間には以前と変わらぬ差が存在している。それ故の余裕か。いや……違う。今の彼女からは以前感じたような明確な敵意を感じない。
 それこそ彼女が本気だったのなら、屋上の扉を開いた瞬間にでも士郎の首は切り離されていたに違いない。ならば彼女のこの態度の理由は……。

「隣、座ったら?」

「────え?」

「昼ごはん、食べに来たんでしょう? そんなトコに突っ立ってられたら邪魔だし、寒いでしょ、屋上に風除けはここしかないんだし」

 言い終わるや否や、凛は僅かに身動ぎ士郎の座れるスペースを作った。それでも立ち尽くしたままの士郎を誘うかのように、ほら、と凛は士郎を見上げた。絡みつく視線から眼を逸らせぬまま、促されるまま士郎は腰を下す。

「────」

 それ以降、何を言うでもなく食事を続ける凛を横目に不可解な面持ちのまま士郎は桜手製の弁当を広げ、食べる事とした。
 遠坂凛が何を考えているのか、衛宮士郎には理解が出来ない。それでも眼の端で決して損なわれない鮮やかさを持った今の少女は敵ではないと、士郎はそう判断した。

「へぇ、本当だったのね。衛宮くんが間桐さんにお弁当を作らせてるって話」

「はぁ?」

 凛の視線の先にあるのは士郎が持参した弁当だった。夕食、あるいは朝食の残りにしては彩りが良過ぎる弁当に視線を釘付けにしたまま凛は続ける。

「だってそれ、男の子が作ったにしては凝り過ぎてるっていうか。調味料以外のスパイスも入ってそうな感じだし」

「……なんだよそれ。桜が何かヘンなものでも入れたって言うのか?」

 唐突に振られた話題に士郎は眉を顰める。
 心底解らないという顔をした士郎を細めた目で見遣った凛は明らかな嘆息と共に、士郎には聞こえないほどの声量で「あの子も大変ね……」と呟き最後の一口を放り込んだ。

「……まあいいけど。それより、一体どういうつもりなんだ?」

「どうって何が? ……なぁーんて聞かなくても分かってるけど」

 食べ終えたサンドイッチの袋をクシャクシャにして、用意しておいた紅茶のプルタブを起こす。言葉は語らず、ただ温かな潤いが嚥下されていく音だけが両者の耳朶に残った。一息ついて、凛は再度視線を士郎へと投げかけた。

二日前(あのとき)の言葉なら、嘘はないわ。ただ時と場合を選んでるだけ。今は下に大勢の生徒がいるし、ドンパチやるのは得策じゃないでしょう? 貴方だってそれくらい分かってるって思ってたけど」

 そう、魔術師としての遠坂凛と初めて遭遇した時と今では状況が違う。凛が攻勢に出ないのはたったそれだけの理由。もし相手から仕掛けてくるのなら、怖気づく事などなく勇んで応戦するだろう。
 遠坂凛はそういう少女なのだと、士郎とて既に理解は出来ている。ただ、あの時になかったものが恐らく今の彼女にはある。

 ……覚悟。あるいは、決意。

 優等生としての遠坂凛。魔術師としての遠坂凛。その境界線は明確で、容赦などきっとない。一度火蓋が切って落とされてしまえばこうして並んで座っている士郎でさえ完全な敵と認識して駆逐するという覚悟が、彼女にはある。

 あの夜、最後に聞いた彼女の声にはまだ余地があった。それが今では消え失せているように感じて。何故か、彼女は一人、自分達の住まう世界とは違う世界に踏み込んでいってしまったような────

「遠────」

 言葉を紡ごうとして、それを遮るように凛は立ち上がった。士郎より外された視線は屋上の一角を数瞬だけ見つめて、軽やかな足取りで扉へと向かった。

「じゃあね、衛宮くん。楽しい昼食会ではなかったけれど、貴方にとって意味くらいはあったでしょう?」

 “遠坂凛は衛宮士郎の敵だ”と、そう、彼女は言っている。状況さえ揃えば、今すぐにでも切って捨てると彼女の小さな背中が語っている。
 ……ああ、ならば何も変わっていない。遠坂凛は士郎の知る遠坂凛のままだった。背を向けて立つ少女は変わらず、移ろいゆく時の中で、一つの意思を宿しただけ。

 つまりはそれが彼女の優しさで────それが彼女の強さなのだと。

 ならば、自分も強くならないと。この脚がある限り、倒れ伏すことは許されない。そんな無様は見せられないのだから。

「遠坂、一つ言っておく。今日、この学校を覆う結界が発動するぞ」

 答えなど期待していない。少女ならば既にそれくらい察しがついている事だろう。屋上に居たのだってただの偶然とは思えない。振り返る素振りさえ見せず、凛は言葉を口端に上らせる。

「……それを知っていて、貴方は何もせずに手を拱いているっていうの?」

「…………ああ。俺に出来ることなんてそう多くは無いからな。今はまだ何も出来ない。ただ、事が始まってしまえば全力で、何をしてでも止めてみせる」

 出来ることなら、始まる前に阻止したい。そうすれば、誰の犠牲も無く、下らないこの戦いを治められる。だけれども、その術も倒すべき相手も判らない。
 力の篭らない左手を硬く握り締める。出来ることは限られている。だから今は静かに力を蓄えるのみ。
 それが衛宮士郎の決意。戦う理由。原初の記憶を体現する、変わることなど無いたった一つの意思に相違ない。

「その覚悟があるのなら、わたしから言う事なんてもう何も無いわね。だけど一つだけ教えて。貴方は何の為に戦うの?」

「なんで、そんな事を?」

「別に。ただの好奇心よ。
 貴方、二日前にわたしと戦りあった時、何の躊躇も無くライダーの後を追ったわよね。墓地での戦いにしてもそう。自分が巻き込まれる可能性をまるで無視してアインツベルンのマスターの手を取った。
 その無謀さの理由……それを聞いてみたくなっただけよ」

 何故。改めて問われると難しい問題だ。ライダーの時にしても、墓地での時にしても打算があって動いたわけじゃない。勝算があって踏み込んだわけじゃない。ただ勝手に、自然に身体が動いただけに過ぎず、心はその意思に従っただけの事。
 理性ではなく本能に近い衝動。“行かなければならない”と、衛宮士郎を突き動かす原理が確かにあった。
 もしその衝動に理由があるとすれば、至極簡単だ。考える必要なんて毛頭無い。

 “────任せろって、爺さんの夢は俺が────”

「……俺は誰かが傷つくのを見たくない。ただそれだけで、それ以上の理由なんてきっと無い」

 背を向けたまま佇む少女を見上げる。風に揺れる二房の黒髪はいつも美しく。憧れた少女は手を伸ばせば届きそうな距離にある。でもそれは、少女が一歩踏み出すだけで届かなくなってしまう距離。

「そう……それが貴方が戦う理由。理解も納得も出来ないけど、貴方がその為に戦うというのなら、わたしに否定する権利も義務も無い、か」

 ────ただ、忠告くらいは許されるだろう。

 呟いて、少女は歩みを再開する。
 魔術師は誰よりも利己的で、何よりも自己を大切にする存在だ。魔道は自己なくして成り立たず、その為なら幾らでも他を排斥する覚悟こそが必要だ。魔術師としての遠坂凛こそがその体現だとするのならば、衛宮士郎の在り方は酷く真逆だ。
 自分の命の重さは、自分自身である秤では計り知れないものであって、決して両の器の上に乗せられるものではない。それは彼とて同じだろう。自分と他人の命を両天秤にかけているわけでは、恐らく無い。

 凛は歩みを止めず、扉の前でようやくその足を止めた。僅かな沈黙の後、振り返った少女の瞳は、酷く冷徹な色をしていた。

「衛宮くん。そんな理由でこの戦いに臨むというのなら、貴方はきっと後悔する。誰かが傷つくのを見たくないって理由はきっと、誰もが夢見るものだから」

「なに、を」

「でもね、所詮そんなものは夢に過ぎない。人一人の手で守れるものなんて少なくて、多くのものは取り零すしかないのよ。だから誰もを救うなんてのは夢物語。遥かな昔、救国の英雄と称された人達だって全ての人を守れたわけじゃない。
 だから守るものと殺すものとを秤にかける。命の重さがたとえ平等だったとしても、人によってその価値は違うんだから」

 されど、彼にはその天秤自体が存在しない。命の価値を判別する自己が無い。だから全てのものに手を差し出す。手を伸ばせば、きっと届くと信じてる。それは、赤ん坊のように無垢な願い。剥き出しの理想。故に、簡単に罅が割れる。それでもきっと、彼はそのボロボロの理想を追うのだろう。

「ねえ、衛宮くん。貴方は一体、何を守ろうとしているの────?」

 返せる言葉など無く、ただ言われるがままに士郎は少女と視線を交錯させる。しかしそれも僅か、予言めいた問いを残し、少女は二度と振り返る事無く扉をすり抜け屋上より姿を消した。







 頬を撫でる風合いが酷く鬱陶しく感じる。
 何を守る為に戦うのか。そんな問い、今更だ。衛宮士郎は正義の味方になる。その憐れな理想を違える気など無い。けど、この望まぬ戦いに巻き込まれて、一体を何を守れただろうか? ただ守られるだけだったのではないか?

 否定など出来るはずも無い。力不足は百も承知。それでも戦うと決めたのだから、自分に出来る精一杯をやらなければならない。
 間もなく起こるであろう、結界の発動。その時、衛宮士郎は答えを見出す事を求められるだろう。その手で何が出来るのか。たとえ壊れた身体であろうとも、ちっぽけな掌でも救えるものはあると、信じて。

「ふん、全く以って凛の言う通りだな、衛宮士郎。貴様の愚かな夢では何も救えない」

「──────!」

 視線を上げる。凛の去った扉の前に、いつの間にかその男は立っていた。いつかと変わらない不遜な態度で、見下すような瞳は鈍色の輝きを湛えている。

「……アーチャー。何の用だ」

 誰が来るとも分からないこの場所で現界を果たしたアーチャーの真意など士郎には判る筈も無い。ただその嘲笑うかのような表情だけは気に食わないと理解した。

「用など無い。私はおまえの敵で、おまえは私の敵なのだから、交わす言葉とて本来は無いのだがな。くく、誰かのお節介がうつったのかもしれん」

 喉を鳴らして嗤う眼前の男の全てが癇に障る。相容れない。この男とは決して相容れないと再認識して、敵意を滲ませた視線を投げかけながら腰を浮かせた。

「安心しろ。そちらが仕掛けてこない限りこちらも手を出しはしない。凛が今は戦わないと決めた以上、私がその意に背くわけにはいくまい?」

「……嘘つけ。アンタはきっと、やると決めたらやる奴だ。たとえ遠坂が制止しようとしてもな」

「ほう? 何故そう思うかは知らんが、そうかもな。だが今はやらん。尤も、私達以外の誰かが戦端を切るというのなら話は別だ。その時はまず、目先に止まる手っ取り早い弱者から斬って捨てる事も厭わないがな」

「だろうな。アンタはきっと、そんな奴だ」

 何を知るわけでもない。何を知っているわけでもない。妙に確信めいた念と、もしそうなれば成す術が無いという事だけは確かだった。

「用が無いのならさっさと遠坂のところに戻ったらどうだ。こっちだってアンタと話す事なんてないんだから」

「言っただろう、誰かのお節介がうつったと。凛がした忠告に色を添えるだけの事だ。
 ────衛宮士郎。貴様の理想は破綻している。“誰かの為に”などと謳うのは愚者だけだ。自分すら守れぬ小僧に、誰かなどと曖昧かつ判然としないものを救う事が出来ると、本当に思っているのか?」

「………………」

 その言葉は、先程のように茶化したものでは無い。見つめる瞳は真摯で、本気での問いなのだと知らず悟って。それだけに、返せる言葉なんて無い事も知った。

「“誰か”か。……ふん、ならばおまえにとっての“誰か”とは一体誰を指す。何処までも指す。近しい者達の事か? それとも目に映る全ての人達か? あるいは、この世全ての人間を救えるなどと傲慢を語るわけではあるまいな?」

 おまえの理想は一体誰を守る為にあるのか。そう、アーチャーは問う。何を守り、何を零す。その境界線が曖昧なままで伸ばした手などで救えるものが本当にあるなどと、思い上がりも甚だしい。
 衛宮士郎の目指す正義の味方が組するのは、一体何処の誰だと言うのか?

「……俺は、俺は全ての人間を救えるなんて思っちゃいない。ただ、この手で助けられる人達がいるのなら助け出してあげたい。それの何が悪い」

 知っている。たとえテレビの中の正義の味方(ヒーロー)であろうとも、全ての人を救えるわけではない。悪と称される存在は必ず駆逐されゆく。

 ────喜べ少年。

 だけどそんな割り切りが正しいなんて思える筈が無い。全てを救う事が叶わぬのなら、せめて多くを生かす為に、少数には死んで貰う。十を救う為に一を殺す。それを仕方が無いと割り切れるほど、衛宮士郎は大人に成りきれていない。

 ────君の願いは、ようやく叶う。

 それでも、沁みついた常識と抗えぬ理性とが肯定する。それこそが正しいと。救われぬ者がいて初めて救われる者があると。それが絶対の不文律。決して抗えぬ世の理。それでも変えたいと願うのなら、人ならざる奇跡にでも縋らなければ無理というもの。

 脳裏にこびり付く神父の言葉。衛宮士郎の胸を抉る言葉の槍。突き刺されたそれを更に深部へと埋めるかのように、赤き弓兵が言葉を紡ぐ。

「悪いに決まっている。救うものがなんであるかさえ曖昧なまま差し出された腕など、助けられる方にとっては迷惑以外の何物でもない。
 その行為はな、差し伸べられた方にとっては恐怖さえ植えつけられる行為だ。向けられる純粋な善意。見返りなど必要としない救済。打算なき救いの手など、その裏に何かがあると勘繰ってしまうのが正しい人間の在り方なのだから」

「そんな事が、あるもんか。苦しい時に差し伸べられる手の尊さを俺は知っている。掴んだ手の温もりを確かに覚えてる」

 だから、そういう人間に成りたいと願ったのだ。差し伸べられた手の温かさを誰よりも知っているから。尊さを誰よりも知っているから、今度は、誰かにあの温かさを分けてあげられるようにと、この手を伸ばすのだ。

「果たして、それは本当か?」

「何────?」

「おまえの掴んだ手は、本当に純粋な善意の形だったのかと訊いている。おまえに手を差し伸べた人物には後ろめたい理由が無かったと言い切れるか? 本当に救われたのは、おまえだけだったと思うのか?」

 今でも鮮明に覚えてる。
 赤い空。
 焼け落ちた家屋。
 判別のつかない亡骸。
 喉を灼く黒煙。

 生きているのが不思議だった。死んだと思った。それでも、生きたいと願った。
 称するのなら、あれは奇跡だったに違いない。差し伸べられた手は温かで。泣き出した空の向こうで笑う切嗣の顔が、あまりに綺麗だったから────

「答えられないか。ふん、だがそれが正しい人間の在り方だ。おまえを救った人物は誰よりも人間らしい。人を衝き動かすものは所詮愚かな欲望だ。打算なき純粋な善意などで救えるものはあまりに少ない。
 相手に求めるものも無く、ただ救う事が報酬などと戯けた事を謳う愚者は、止める事など叶わぬ時の流れの中で溺死する事こそが相応しい」

 アーチャーの言葉が胸を刺す。おまえの理想では何も救えない。求めるものなど無く、ただ救う事だけを望むおまえの願いは歪に過ぎると。
 そんな破綻した理想で救えるものなどある筈も無い。ただ、守れるのはその狂った理想のみ。誰に理解される事も無く、走り続けた先におまえの望むものなどある筈も無いと。

「なんで、なんでおまえにそんなことを言われなくちゃならない……! 助けを求める人がいて、苦しんでいる人がいて、そんな人達を助けたいと願うこの心に偽りなんてない……! だから、だから……!」

「だから貴様は偽善者なのだ。正義の味方……? 笑わせる。正義の味方が救えるのは正義の味方が組したものだけで、それ以上でもそれ以下でも無い。いや、それすらもオレに言わせれば愚かしい。
 正義の味方が本当に守り通しているのはな、自分の信ずる“正義”なんていう理想だけに過ぎない。救われる人などその過程における副産物。理想を破綻させない為に、“そうせざるを得ない”だけの話だ。
 故に彼らは“正義”の味方と呼称される。誰の味方でもなく、正義の味方なのだ」

 ────誰かの為と謳いながら、結局人は己の為にしか生きられない。

 ある意味で衛宮士郎は誰よりも人間らしく、故に人では有り得ない夢を抱く。己が理想を守る為に人を救う。際限は無い。一つ救えば次は二つ。二つ救えば三つと数を増し、やがて全てを救わなければ気が済まなくなる。
 行き着いてしまえばそれこそ終わりだ。全てを救うなんて事は、人の手に余る。それでも救済を求めるのならば、人ならざる奇跡に頼る他になく。その先に待つものは、破滅以外に有り得ない。

「そうなる前に、貴様は消えるべきだ。辿り着けばそれこそ引き返す道は無い。人らしく死ねる内に、殺してやる事こそ慈悲というものだろう」

「テメェ……いい加減に…………!」

 言われるがまま立ち尽くしていた士郎が大地を蹴る。
 沸点などとうに通り越した頭では理性による抑止など期待するのも虚しく、右の拳は赤き外套を纏う男目掛けて振り上げられた。
 それでも男は微動だにしない。躱す必要などないと思ってのものか、ただ、士郎を見る彼の瞳には変わらず鈍い輝きだけがある。

 しかし。後一歩踏み込めばその顔面に殴りかかれるという瞬間に、昼休みの終了を告げるベルが鳴り響いた。
 僅かに足を止めた士郎はそれ以上進む事無く、振り上げた拳を下ろしアーチャーを見上げた。

「俺は、おまえの言う事なんて信じない。正義の味方がどんなものかなんて俺には分からないけど、おまえの言う正義の味方だけは違うって思うから」

 そうだ。切嗣の遺した夢を、そんな不確かな現実で塗りつぶす事なんて出来ない。夢は尊く、ただ輝き続けるものであるのなら。自らの目でその意味を識るまでは、肯定も否定も出来はしないのだから。

「……だろうな。私の言葉を肯定しては、衛宮士郎は衛宮士郎でなくなるのだから当然といえば当然だ。しかし、それでいい。そうでなくては困るのだから」

 士郎からの敵意の視線を受け流し、アーチャーは口元に笑みを形作る。歪んだ、それでいて喜ばしいものに出会ったような、壮絶な笑み。
 このどこまでも冷静な男にしては珍しい感情の発露。それほどまでに、衛宮士郎の言葉はアーチャーの思惑に相応しい。

 赤みを帯びた瞳と、色を失った瞳との交わりは長く。それでも決して互いを認めないと語らずとも知れる交錯の中。不意にアーチャーが背を向け距離を取る。

「話は終わりだ。おまえもそろそろ行かねばならんのだろう?
 次に会うのは……そう遠くもないか。おまえが異変を知るように、私達もこの結界の異常を知っている。会うとすればその時か。だが心しておけ。敵の敵は味方などではない。ましてや正義の味方などでは決してないとな」

 士郎の返答など待たず、アーチャーは現れた時と同じように音も無く姿を消し、屋上には士郎一人だけが残された。
 風が流れゆく屋上の床に、士郎は座り伏す。そのまま倒れ込むように空を仰いだ。青い空が恨めしく、白く淡い光に目を細める。

 聞きたくないのに、アーチャーの言葉が耳朶の奥で残響する。アーチャーの言葉は呪いのようにこの胸にこびり付く。不快だ。相容れないとは思っていたが、これほどの嫌悪は初めてだ。頭が割れそうに痛い。眩暈がする。

「……午後の授業は、サボっちまうか」

 本当にらしくないな、と思う。生真面目ではないにしても、無断欠席などした事など無いというのに。なんという体たらく。つまりはアーチャーの言葉がそれほどまでに士郎の胸を抉ったという事だ。

「おまえの語る正義の味方なんて、俺は信じない。夢見たものがたとえ空想の中でしか生きられないモノであったとしても、俺は────」

 大空を仰いだまま手を伸ばす。ゆっくりと広げられた掌は、青く、どこまでも澄んだ青に満たされた遥かな空へと振り上げられて。結局何一つ掴めぬまま、一抹の不安を掻き消すように腕を払ったその時。

 ────空が、赤く染め上げられた。

「な…………!?」

 跳ねるように飛び起きて周囲を見回す。一面に広がるのは鮮やかな赤。全ての色は損なわれ、血のように生々しい紅だけが世界を塗りつぶす。
 天頂から降り注ぐように広がる半球状のドームは、白亜の校舎を取り囲むかのように展開している。

「間違いない……これは……!」

 敵の攻撃。とうとう動き出した結界の主。止めるべき敵。
 立っているだけで力を奪われるようなこの感覚。魔術師としての自分がこれならば、一般の生徒など既に倒れ伏しているだろう。放って置けば校内にいる全ての人間が溶解され、吸収される。時間は無い。やることは一つ。悩む暇も、考える時間も必要ない。

 動きの悪い左腕を掲げて。その願いを言の葉に乗せる。

「────来てくれッ、セイバァァァァァァァァァァァ!」

 言霊と共に左手の甲が熱くなる。燃えるように輝く三画の令呪の一画がより強大な光を放つ。令呪はサーヴァントに対する絶対命令権。たとえ両者の力量では不可能な事象であっても可能とする、マスターだけに許された特権。
 願いを聞き届けた令呪は色を失い、士郎の言葉を現実へと昇華する。時間も空間も理さえも超越し、ただ願いを叶える、聖杯より賜われた小さな奇跡の形。

 それが今、発動する……!





/2


「……来やがったか」

 セピア色の雑木林の中に、青みを帯びた鎧が姿を現す。見上げるように首を動かし、片耳に揺れる銀のピアスが射し込む光を受けて輝きを放つ。攫うように、流れゆく風に青髪を揺らし槍兵は言葉少なに戦場へと歩みを始める。
 その傍らには変わらず、彼のパートナーの姿は無い。彼は単身この結界の主を打倒すべく地を蹴るのだった。

 しかし彼は誰よりも優位な位置づけにある。敵サーヴァントだけでなく、マスターまでも判別がついているというのは余りに大きなアドバンテージだ。倒すべき敵の素性が割れているのなら、後は見つけ次第潰すだけなのだから。

 林を駆けゆく中、彼は周囲の気配を探る。全サーヴァントと面識のあるランサーにとって見れば、一度相対した相手の匂いを間違える筈も無い。意識を飛ばすのは結界内のみ。この程度の戦場は、悠久の彼方に駆け抜けた戦地に比べれば狭すぎるくらいだ。

「数は……四、か? 多いな、こりゃ」

 たった一つの戦場に五騎ものサーヴァントが集うその異常。下手を打てばこの敷地ごと消し飛びかねない程の戦力であるが、その全てが敵同士である。
 作戦は至極簡単。直接戦闘による小細工なしの各個撃破。最優先は結界の発動主であるライダーだが、状況次第というところか。最低結界を解かせればそれで済むが、そう易々といくとは思っていない。

 倒すか、倒されるか。サーヴァントの戦闘に本来次は無い。これまでの戦闘こそが異常だったのだ。偵察の済んだ今では容赦の必要も無い。合い見えたのなら、それが誰であろうと殺し合うのみ。

「────ハッ。身体が疼く、血が滾る。さぁて、最初の獲物は何処に居やがるかな……っと!」

 舌舐めずりをしながらランサーは大きく跳躍し、獣さえもかくやという動きで校舎へと侵入する。視界の赤さに目を奪われる事など無く、純粋に獲物を見つけ出す事だけを狙う、猛禽のような鋭い瞳。
 戦いの火蓋は既に切って落とされた。遭遇してしまえば、後に残る結果など二つに一つしかない。

 ────さあ、狩りを始めよう。













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