剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十五話









 唐突に色が失われる。いや、濃密なまでの赤に染まっていた学び舎に、かつての色が取り戻されたのだ。
 その光景を階上へと駆け上がってすぐに認識した士郎であったが、驚きより先に安堵の息が零れた。その意味するところはつまり、結界の発動者は既に倒されたということだったからだ。

 しかしそんな浅はかはまさしく浅慮であったと理解するのに時間はかからなかった。

 セイバーの先導の元、行き着いた先に待っていたのは赤の主従。しかし彼女らは士郎達が辿り着いても対峙して来る訳でもなく、敵意どころか視線すら向けてこなかった。
 両の手に夫婦剣を担ったまま虚空を睨むアーチャーはしかし、士郎達の存在に気づいていたかのように鈍色の瞳を微かに揺らした。

 されど、士郎の意識はそちらには割かれなかった。

 硬く、硬く握り締められた掌。真っ白になるほど握り締められた掌は微かに震えていて。既に平常の色を取り戻した風景を見据える瞳は一体何を映し出しているのか。ただ、強く噛み締められた唇からは流麗に、一筋の赤が滴り落ちる。

 彫像のように佇む遠坂凛の姿は、なお損なわれない色を持ち。彼女らしくはない彼女の姿に、士郎は知らず魅入られていた。

 そんな無意識より引き戻されたのは、足元で倒れ伏したまま動かない生徒の嗚咽にも似た呻きだった。
 そう、いくら結界が解除されたとはいえ、まだやらなければならない事は残っている。犠牲となったこの学園の生徒達の手当て。あまりにも酷い大規模な魔術行使の弊害。それに伴う証拠の隠滅。
 士郎自身には方法が分からなくとも、あの監督役を名乗る男ならば知っているだろう。

 しかし、その前に問わねばならない事がある。背を向けたまま打ち震える少女の意味。後悔とは違う、明確なまでの殺意の意味。そしてその矛先は恐らく、彼女自身であるという意味を。






交わらない路/March IV




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「遠坂」

 士郎の呼び掛けにも、彼女の身体は揺るがない。まるで草原に聳え立つ樹木のように立ち尽くす。ただ、風に乗って届けられた声音は、葉を揺らすには充分な響きを伴っていたらしい。

「……居たの、衛宮くん」

 傾けられた視線。身体より匂い立つ殺意とは裏腹に、凛の瞳は悲しげな色をしていた。

「何が、あったんだ」

 そう問う士郎の声は自然硬くなる。
 かつて士郎と同じように結界を敵視していた凛の事だから、その解除が成った今、事を成し遂げた達成感にでも包まれていても良さそうなものを、ただただ殺意を迸らせる今の凛の姿はあまりに危うく。

 何より。凛の瞳を見た瞬間、冷徹な一魔術師ではない、年相応の彼女の姿を見たような気がしたから。

「別に。何もないわ」

「そんなわけあるか。いきなり結界が消えたかと思えば、遠坂は様子がおかしいし。俺は遠坂達が敵を倒したんじゃないかと思ってたけど、違うのか」

 憂いげな視線を逸らした凛は一言も口にせず。士郎の疑問への返答は赤い騎士によって成された。

「違うな。結界は発動者であるライダー自らが解き、我らはその相手をみすみす取り逃がした。ただそれだけの事に過ぎん」

「────なっ」

 ただそれだけの事。その一言で済ましてはならない疑念がアーチャーの言葉からは溢れ出る。
 宝具(ジョーカー)を切っておきながら、それを自らの手で滅するとは如何なる状況ゆえだったのか。

「遠坂、教えてくれ。この場所で何があったんだ」

 再度問う。駆けずり回って得るものなど何もなかった先の戦いにおける戦況の把握を行いたいという思いもある。これより先を見据える為に、敵と明言する凛に食い下がる価値はそれだけでもある。
 されど、そんな打算に先んじる一つの思いが、士郎の口に言の葉を紡がせる。

「……────さい」

「え?」

「うるさいって言ってるのよ、衛宮くん」

 静かに。凛は拒絶の言葉を口にする。

「これは貴方には関係のない話なの。現場に居合わせなかった時点で、貴方には何の関わりもないのだと知りなさい。
 それとも何、ここでわたしと決着を着けたいというのなら、ふん、相手になってあげるけど?」

 振り向き、士郎を見据えた凛の表情に宿るは不敵な笑み。見下すような視線は確かに、あの時の凛のそれと変わらない。しかし、それがただの強がりだと、士郎にさえ判るほどの演技だった。

 そんな凛を前にして、士郎は二の句を継ぐ事が出来ない。自分でさえ騙せない嘘で取り繕う凛の姿は、痛々しいまでの弱さを隠しきれていない。
 吹けば消えてしまいそうな儚さを体現したかのような今の彼女を目の前にして、一体どんな言葉を返せばいいというのだろう。

 口を噤んだまま静寂の中に佇む。刻々と時を刻む時計の音が今は少し、煩わしい。沈黙を保ち続けた教室で、静寂を引き裂いたのはやはり凛であった。

「それより、今は他にやる事があるでしょう衛宮くん」

 唐突なまでの話題変換。しかし凛の口にした事柄はまさしくこの状況下において必要な対処の一つであったことも間違いはなく。

「……どうすればいい? この場合、連絡を入れるのはあの神父でいいのか?」

「ええ、仮にも聖杯戦争の監督役を務めているんだもの。魔術の秘匿、世間への隠蔽、生徒達への対応、諸々含めて対処は任せてもいいと思うわ」

 言峰綺礼の連絡先を知らない士郎は凛より電話番号を聞き、一階にある職員用の電話を拝借するべく赤い主従に背を向ける。
 終始無言を貫いていたセイバーも追随するように士郎に付き従い、ただ、視線だけはアーチャーを捉えたまま離しはしなかった。

 憤怒にも似た殺意の視線。闇の中、静かに揺らめく蝋燭の灯りのように粛々と燃え盛る感情の焔。その意味するところをアーチャーは知ってか知らずか、受け流すかのように不敵に微笑む。
 サーヴァントの無言の冷戦を互いのマスター達は気づけもしない。自らの事に精一杯で、火花散らす赤と黄金の交錯に意識を割ける程の余裕などありはしなかった。

 ふと、教室を後にしようとする士郎にかかる凛の声。連絡を入れたのなら、すぐにでも学校を後にしろと忠告めいた言葉を背中に送る。倒れ伏している生徒の群れの中、ぽつりと無傷のままであっては余計な詮索をされる可能性がある。面倒を負いたくなければ速やかに学園を去る事こそが肝要であると。

 真実忠告であった凛の気丈な言葉に士郎は素直に感謝を込めて頷いた。そして、扉に手をかけたまま振り返る。

「ここで何があったかなんて俺は知らないけど、遠坂が動揺する程の事があったんだってのはなんとなく分かる。だけど言いたくないみたいだから俺はもう、何も聞かない。
 ……でも、でもな遠坂。いや、だからこそ俺は、おまえに屋上で問われた事に今、答えを返すよ」

 見つめる瞳には火が灯っている。その内に宿るのは、凛が今まで見たことのない衛宮士郎の強さだった。知らず凛は魅入って、口を開くことすら忘れてただ佇み、紡がれる言葉に耳を傾けた。

「俺は正義の味方になりたいと思ってる。今はまだ、その理想がどんなものなのか漠然としたままだけど、誓いだけはずっとこの胸に残ってるから諦めない」

 凛へと向けられていた士郎の視線が僅かに傾き、傍らに控える騎士へと向けられる。睨むような視線に込められた意思を真正面からアーチャーは受け止めて、笑みを形作らずに視線を返す。
 秒にも満たない交錯を経て、士郎は再度凛を見据える。ただ先程までの剣呑とした雰囲気は薄れ、どこかはぐらかすような曖昧な笑みを唇の端に浮かべて風に歌う。

「それにほら、正義の味方って困っている人や苦しんでる人を助けるものだろ。だから、遠坂────」

 走り去る背中を見送る。凛の耳朶には、最後の言葉が遠く残響していた。





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 言峰教会への連絡を済ませ、学校の敷地より退散する。あの威圧的な声音は電話越しでも健在で、圧し掛かる歳月という名の重圧に耐えながらのやり取りは実に疲労が募るものだった。
 やはり衛宮士郎と言峰綺礼は手を取り合えない。もし言峰綺礼が監督役などという立場に収まっていなければ関わり合いになりたいなどとは思わない人物には違いない。そんな男と師弟関係を十年近くも続けた凛はやはり大物に違いないと士郎は内心思ったりもした。

 が。今必要なのはそんな益体もない無駄な思考ではない。

 アスファルトを踏みしめて空を見上げる。正門からではなく雑木林を抜けた先で見上げたのは、外観には何一つ異常の見られない白亜の校舎。

「本当は気になっているんでしょう?」

 横合いからかかるセイバーの声に僅か、士郎は目を細め頭を振る。
 何が、と聞かない辺りがこの少年なりの気遣いなのだと士郎とて理解して、それでなお首を横に振ったのは嘘がないからだ。

「ああ。俺に出来ることなんてのは、これくらいしかないんだ。後はただ、座して待つしかないだろう?」

「……その言い方じゃあ、未練があるように聞こえますけどね」

 む、と眉を顰めて視線を落とす。やれやれ、なんてあからさまな嘆息のポーズ。
 結局、この場での戦闘に置ける主役は凛とアーチャーだったのだろう。蚊帳の外に置かれた士郎達では、対峙したライダーのマスターすら知らないのだから居場所など皆目検討つく筈もなく、これからの聖杯戦争の道標を失ったと言っても過言ではない。

 座して待つ、と士郎は口にしたが、本心としてはやはりセイバーの言う通りだろう。先の戦いのように、後手に回っては分が悪いのは判りきっていることなのだから、なんらかのアクションを起こさなければならない。

「さて、これからどうしますか?」

 坂道を下りながらの思考はセイバーの声に後押しを受ける。

「……何も戦うだけが行動というわけじゃないしな。もともと俺は、戦いを全面的に肯定したわけじゃない。ただ関係のない人達を巻き込むヤツを止めたいだけなんだから」

 最たるものが学び舎に展開された鮮血神殿。害は被ってしまったが、死者はおそらくいないだろう。魔術という倫理外の戦いに巻き込まれて死者ゼロというのはそれだけで喜んでいいものかもしれない。無論、士郎はそれで納得は出来ないのだが。
 ただその発端たる因が発動者であるライダー自身の手で止められたという意味……。

「ああ……やっぱり気になってるんじゃないか俺」

 ぶんぶんと首を振る。
 今は一度、その事象から思考を切り離すべきだ。考えるべきことは先に繋がらない無意味ではなく、一歩を踏み出せる意味なのだから。
 脇に抱えた鞄を開く。中には、雑多に詰め込まれた教科書諸々の他に、小さな箱が入っていた。

「ギル。悪いけど、先に帰っててくれないか?」

「構いませんが、お兄さんはどちらに?」

「ちょっと、約束を果たしに。いや、一方的な思い込みだから、約束とは言えないか。
 どちらにしてもちょっと会いたい子がいるんだ。会える確約なんてないけど、それでも俺は会いたいと思うから行きたいんだ」

 セイバーから送られるのは訝しげな視線。一戦終えたとはいえ、昼間とはいえマスターの単独行動はそうおいそれと許していいものではない。どこに敵の目があるか判らないし、人気の失せた一瞬のうちに圧倒的な暴力に殺害されても文句など言えないのが戦争たる所以であるのだから。

「それは、バーサーカーのマスターですか?」

 街並みを映していた瞳が金髪の少年を捉える。士郎はセイバーに昨日、イリヤスフィールと出会った事は話していない。
 やはり、聡い。見目どおりの思考能力などではなく、並の大人など軽く凌駕する程の先見力を持っている。あるいは、見ているものが違うのかもしれない。

 となれば問題はセイバーの答えだ。今の反応でセイバーは確信を得ただろう。サーヴァントも従えず、無防備に他のマスターに会いに行くなどと、一体どこのサーヴァントが許そうか。
 死地に踏み込むどころの話ではない。斬られると解っていながら喜んで斬られにいくなどと、莫迦の所業ですらない無謀の極みだ。

 しかし士郎は知っている。白雪の少女、イリヤスフィールはそんな真似はしないと。これから赴くのは敵と見える戦地ではなく、ただ少女と話をするという何でもない日常の一コマである事を。

 いかにしてセイバーを説き伏せるかと思い悩む士郎へと向けられたセイバーの表情は、外見相応の柔らかな微笑みだった。

「分かりました。じゃあボクは先に屋敷に戻っていますから。お兄さんも、くれぐれもお気をつけて」

「……いいのか? てっきり猛反対されると思ってたんだが」

「いくらお兄さんでも絶対に殺されると判っていれば近づかないでしょう? ならば多少はそうならない可能性をお兄さんは知っている、と見ましたから。ええ、無知のまま突っ込むほどボクのマスターは間抜けではないと信じてますので」

 にこにこと向けられる微笑みの向こうに黒いものが見えた気がした。

「あ、ああ、大丈夫だ。じゃちょっと行って来る。ありがとう、ギル」

 こくこくと頷いて、感謝を述べつつも逃げるような足取りで去るマスターの背中を見送って。くすりと嗤いを零す。

「感謝を受ける謂れはありませんよ、マスター。ボクはボクなりに貴方の行動が最善だと思うから止めなかっただけですから」

 独白はどこか、自嘲にも似た憂いがあって、自らに辟易したかのように再度喉を鳴らして空を見上げる。
 輝きに似た金糸の髪が風に揺れて、その奥で灼熱するルビーの瞳が澄み渡る蒼天を睨みつけた。

「────ああ、全く。だからボクは嫌いなんだ。黄金の杯(アインツベルン)をこの段階で取り込めれば、向かう先が楽になるだなんて、利己的な考えしか出来ない自分自身を」

 彼の瞳は全知なる宝玉。如何なるものをも映し出す、王の慧眼。
 彼の瞳は全能なる緋色。如何なるものをも読み通す、神の先知。

 其は“全知なるや全能の星(シャ・ナクパ・イルム)
 ────サーヴァント・セイバーの誇る、王の力。





/3


 差し出された紅茶はきっと、彼なりの気遣いだったのだろうが、彼女が見つめていたのはそんなものではなかった。

 四階より衛宮士郎とセイバーが去ったのを見届けた後、凛もまた学園を後にし何食わぬ顔で自宅へと戻った。ソファーへと腰を降ろした時の得も言われぬ倦怠感はつまるところ──起こった出来事に未だ理解が及んでいないせいなのだろう。

 糸の切れた操り人形のようにだらりと垂れ下がった肢体はとんだ無様だ。こんな醜態、外聞に晒そうものなら遠坂凛という少女の築き上げてきた全てが音を立てて崩れていきそうな程だった。

 自らの領域(テリトリー)までなんとか体裁を保ってきたのは、彼女の矜持に他ならない。

「飲まないのか。冷めてしまってはせっかくの茶葉が台無しになってしまうのだが」

 眼前に腰掛け悠々と足を組むアーチャーに凛は棘のある視線を向け、すぐに逸らした。ただの八つ当たりなどしている暇は無い。やらなければならない事は見えている。
 が、今の自分ではそれすらままなるまい。現状を再度検め、行動を起こすのはそれからでも遅くは無いだろう。

 テーブルの上で揺ら揺らと白靄を漂わせるのは、いつの日にかにアーチャーが手ずから用意してくれた凛お気に入りの紅茶だ。澄み切った緋色の液体と芳しく立ち昇る匂いに誘われて、ソーサーよりカップを手に取った。

「……美味しい」

 つい口にしてしまうほど、アーチャーの淹れてくれた紅茶は美味しかった。美味しいのは当たり前だ。凛が厳選した茶葉であるのだから、ズブの素人が淹れようとそれなりの味は出せる一品なのだから。
 しかし、アーチャーの淹れた紅茶にはそれ以上の美味しさがあった。凛自身が淹れてもこれほど紅茶の味を引き立てられはしまい。

 ふと、視線を上げればそこには驚きを隠せないアーチャーの顔があった。

「……なによ」

 訝しげに上目遣いで見つめる凛にアーチャーは苦笑を漏らす。

「いやなに、君からその言葉を頂けるとは思っていなかったのでね。以前は確か、口には出してくれなかったからな」

「別にいいじゃない。褒めてんだから素直に喜びなさいよ。
 それより、アンタなんでこんなに美味しく紅茶を淹れられるわけ? 生前バトラーでもやってたの?」

「ああ……いや。確かに真似事はしていたか。かといって別にそれが理由で紅茶を淹れられるようになったわけではない。私の雇い主は珈琲党だったのでね。
 紅茶は私の師が好んでいたのだったかな。クク、ここまで淹れられるようになるまでどれ程の苦行があったかなど、君は知る由もないだろうが」

 当たり前じゃない、と嘯いて凛は紅茶で喉を潤す。彼女の瞳はアーチャーを捉えたまま離さず、その、懐かしむように語る赤い騎士を見つめていた。大切な宝石を愛でるように語るアーチャーの顔は初めて見る優しい顔だった。

「君ももし弟子を取ることにでもなったら、その時は弟子を扱き使い過ぎないように気をつけるんだな。相手も一応人間なのだからな、基本的な人権くらいは尊重してやっても損はあるまい」

「……わたしそこまで非人間じゃないつもりなんだけど。というかアンタの言い方だとまさしくわたしがそうなるから気をつけろって言ってるように聞こえるんですけど?」

「判っているのなら話が早い。凛の気性を鑑みればそれくらいはやりそうだと皆が思うところではないか? ああ、被った仮面が剥がれていない今は一部の者しか知らないのか。知らぬは仏とは、まさしくこの事だな」

 喉を鳴らして笑うアーチャーを凛は据わった目で見つめる。しかし、口を挟むことをしなかったのは本人にも多少なりとも自覚があったが故のものだろうか。

「────さて。益体も無い会話は終わりだ。そろそろいいだろう、凛?」

「………………」

 顔が変わる。遠坂凛のパートナーであるアーチャーの顔が退き、一戦闘者としての顔つきに変貌を遂げる。
 これまでの雑談はアーチャーの気遣いだ。見抜かれている。かつて無いほどに迷う遠坂凛を支えようとする騎士の優しさにはこれ以上甘えるわけにはいかない。彼が弓兵として接するのならば、凛もまた魔術師として心得る事こそが最大の返礼だろう。

「桜がライダーに攫われた。その意味をまず考える」

 以前屋上で対峙した時、ライダーのマスターは慎二であった筈だ。兄妹として共に暮らす慎二と桜なのだから、慎二がライダーを用いて桜をどうにかしようと画策するのなら、人目のつかない自宅で事を起こせばいいだけの話だ。わざわざあの状況、あの場面で見せ付けるように桜を攫う必要性は微塵も無い。

 つまり。

「わたし達を誘う罠」

「だろうな。これ見よがしに我らにだけあの瞬間を見せたことに意味があるのなら、それ以外は考えにくい」

 もう一つはキャスターの存在だ。桜を抱えたライダーを包み込むように消えた黒い霧は間違いなくキャスターの手によるものだろう。ならば行き着く結論など一つしかない。

 ────ライダーとキャスターが手を組んだ。

 ただ、協定へと至る因が判らない。屋上での出来事の時は間違いなく両者は敵同士であった筈。ならばその後、凛達が校庭へと落下した後になんらかの取引が行われたものと見る他にない。

 手を組む、という行為は英傑の揃い踏む聖杯戦争において一石を投じる意味がある。多少は差はあれとも、皆が皆、世界に祀ろわれる英雄達なのだ。宝具という切り札を全員が持つ以上、どのサーヴァントも実力は拮抗していると言っても過言ではない。

 拮抗しているのならば、手を組むだけでどれだけ戦況を有利に進められるかなど判り過ぎている事だ。凛とて士郎に共闘を持ち掛けようとしたくらいなのだから。

「……事実としてライダーとキャスターが手を組んでいたのならば、かなり厄介だな。ただでさ魔女の居城は難攻不落であるというのに、そこにもう一体サーヴァントが加わるなど正気の沙汰では太刀打ち出来ん。
 間桐桜が攫われた理由をさて置くとしても、もし戦いを挑むのならば私一人では些か荷が重い」

 ここに来てその言葉は、全く以って今更だ。あれだけ士郎達との同盟を拒絶し続けたアーチャーの思惑の裏には、凛と同じものが思い描かれているであろうから。

「……衛宮くんとの同盟はもう、無理よ」

 衛宮士郎は恐らく、間桐桜が魔道の家系の生まれだと知らない。桜自身が明かしていないだろう真実は桜自身が望んで隠しているのだろう。ならば、その儚い想いを打ち砕くことはしたくはない。
 何より、長らく衛宮邸に通い続けている桜が戦いに巻き込まれ、更には攫われたなどという事実をあの理想を夢見る少年に打ち明けてしまっては、それこそ瞬く間に死地に飛び込んでいく事は想像に難くない。

 結果は火を見るより明らか。誰も望まない未来だけがきっと昏く灯るだけだ。
 だからこの勝負はなるべく速やかに、少なくとも士郎にだけは知られる事なく収める必要がある。それがきっと最善の結果を生むことになる。

「……本当、あのバカの扱いには困るわ。さっきもそう、あんな格好つけて────」

“──もし俺の力が必要になったら、何時でも呼んでくれ。
   何処にいようときっと遠坂の事を助けにいく。俺は遠坂のこと、信じてるから──”

「本当……バカ。出来もしない事を大袈裟に言うなってのよ……」

 敵だと宣言してもなお信じる事を止めないあの男は一体何を信じているというのか。遠坂凛という少女か。衛宮士郎自身か。あるいは、彼が夢見るものなのだろうか。何れにせよ変わるものはない。頼る事も、話す事も出来はしない。

 ──何もしない事。
 それが今、最も凛が士郎に望む行動の結果であった。

「ならばどうする。まさかただ指を銜えて相手の出方を待つつもりなどではないだろう?」

「当たり前よ。だけど迂闊な行動は出来ない事も確か。目下としてやるべき事は間桐邸の監視、及び柳洞寺の調査。並びに桜が攫われた理由を探りたい」

 ライダーは言った。“私の”邪魔はするなと。凛を誘き寄せる目的もあるのだろうが、ライダーの思惑はまた別にあるのではないか。桜を連れ去ること自体がライダーにとっての目的だったとするならば、少なくとも殺害が行き着く所とは思えない。
 何れにしろ、その先にあるものを見極めなければ手も足も出しようがないのだけは確かだった。

「全く以って難儀な事だ。こんな事態を、オレは知らないというのに」

 思索に耽る凛を余所にアーチャーの独白は血のように赤い液体へと沈み溶けていく。されど、彼の目的もまた変わらない。良心の呵責など既に無い。移ろう現状を利用し如何に成すか。ただそれだけで、磨り切れた心はもう、痛むことなどないのだから。

 路は交わらず、なお続いていく。













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