剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十六話









 何の変哲も無い昼下がり。変哲があるとすれば、それは士郎自身だろう。平日の真昼間から学生服を着た青年が商店街を闊歩していれば、否が応にも人目につかない筈がない。それも、幼少より馴染み深い士郎であればなおさらだ。
 だからこそ士郎はなるべく人目につかないように、目的地を目指す。時に隠れて、時に足早に。これではまるで探偵か、あるいは人目を忍んで密会でも行おうとするどこぞの金持ちかと下らない思索を隅に追いやる。

 この商店街を抜ければすぐに目的の場所に辿り着くだろう。ただ、その場所に彼女がいなければ意味が無い。場所自体が目的ではなく、少女──イリヤスフィールに会うことが士郎の目的なのだから。

 いなければ諦めがつくかと問われれば、士郎は否と答えるだろう。銀髪の少女の吐露した言葉。沈殿する昏闇にも似た深い憎しみと、その奥に隠された真意に……衛宮士郎は応えたい。
 たとえそれが、理想へと続く自己欺瞞であったとしても、衛宮士郎は彼女の手を取ったのだから。ならばその責務を果たさずして諦める事など出来る筈もない。

 程なくして公園へと辿り着く。相変わらずこの公園からは侘しさが滲み出ている。士郎の知るこの公園はもっと賑やかで、子供達の声に満ちていた筈だ。冬場という季節柄を置いておくとしても、青さを残す葉すら散りそうな寂れ具合は如何ともし難い。

 けれども今だけはその寂れ具合は都合が良かった。じっくりと話をするにはお誂え向きのシチュエーションである。
 士郎は公園の入り口から全体を睥睨する。昨日腰掛けたベンチにイリヤスフィールの姿は無く……僅かに落胆の色を見せた士郎の耳朶に届く錆び付いた音。
 キィキィと鳴る音色はいつかのように自身の内側から漏れる奇音ではなく。風雨に晒され続けた鉄と鉄とが擦れる、確かに外部より聴こえた音だった。

「イリヤ……」

 呟いた声はきっと少女には届いていない。けれども確かに、士郎の声には安堵にも似た喜びの色があって。その目は確かに少女の姿を捉えて離さない。
 寒空の下──錆び付き、塗装は剥げ、今にも壊れてしまいそうな遊具。それでもなお愚直に、数多の少年少女をその背に乗せ続けたブランコが、今もまた、一人の少女をその背に乗せて、静かに揺れていた。






無垢な心/March V




/1


 微風が吹いているのではないかと見紛うほどの揺れ幅で、ブランコは揺れている。その手綱を握るイリヤスフィールの表情は、遠く蒼く澄み渡っている空とは裏腹に、厚い雲に覆われた曇り空。
 白雪のように肌理細やかで美しい髪でさえ、霞んでしまうかのような翳りの表情。

「イリヤ」

 その顔をこれ以上見ていられなくて。士郎は少女の名を呼ぶと共に一歩を踏み出す。士郎の紡いだ言霊は確かにイリヤスフィールに届けられて、俯いていた顔を上げた銀の髪の少女は驚きに目を丸くして、

「────シ……!」

 口にしようとした言葉を飲み込んだ。
 顔を上げた瞬間、喜色の浮かんだイリヤスフィールの表情はすぐさま独りぼっちで揺れていた時のものに戻ってしまい、より暗く影を落として士郎より視線を逸らした。

「なんで? なんで、来たの?」

 代わりに唇から零れたのは、そんな拒絶にも似た敵意の音色。銀髪の前髪がはらりと落ちて、少女の表情を覆い隠す。まるで、見ないでくれとでも言うかのように。

「なんで? 言ったじゃない、イリヤスフィールの目的はシロウを殺す事だって。だっていうのに、なんで来ちゃうの? バカじゃないの?」

 イリヤスフィールの問いに答えず、士郎は歩む速度を上げる。一歩、また一歩と少女との距離を埋める。

「隣、いいか」

 少女の返答を待たず、士郎は開いていたブランコに腰を下ろす。イリヤスフィールは何も言わず、俯いた顔を上げようともしない。
 士郎は思う。こうしてブランコに座るのは何時振りだろうか。切嗣とはこうした遊びをした記憶が無い。それというのも、ふらりと外国へ赴いたかと思えば、数ヶ月の後にふらりと戻って来て、戻って来たら来たで家から出たがらない男であったのだから致し方ない。

 士郎自身の年齢がそれほど低くはなかったせいでもあるだろう。憧れを追い続ける事に必死だったからかもしれない。けれど、こうして二人で外でのんびりするのもきっと悪くは無いものであった筈だと思う。
 イリヤスフィールは切嗣とそんな事をしたことがあるのだろうかと聞こうとして、やっぱり止めた。

 何故ならそれはきっと、イリヤスフィールにとって宝物に違いないからだ。漠然としたままの切嗣と少女との関係は、少なからず士郎が思うより遠いものではないはずだ。イリヤスフィールの吐露した言葉には確かに、否という意思を感じたからだ。

 誰の入れ知恵かは知らないが、紡いだ言葉は少女の本心ではない。そうでなければ、あんなに辛そうな表情が出来る筈などない。
 ならばその奥底には思い出があるのだろう。楽しかった日々、ただ傍にいられる事に温かさを感じられる平穏。負の想念で埋め尽くされた宝箱の奥底に、そっと大切に。大事に大事に仕舞い込んだ幸せの追憶。その輝きは、事情も知らない余人が気軽に触れていいものではない。

 だから。

「話をしよう、イリヤ。俺はもっとイリヤの事を知りたい。俺の知らない切嗣の事だって知りたいし、イリヤの知らない切嗣の事だって話してやりたい。だから、話をしよう」

 それがこの場所に来た理由だ。聖杯戦争の参加者だとかマスター同士だとかはこの際どうでもいい。ただ、話がしたかったからだと確信している。

 穏やかな表情で語る士郎の言葉を聞き届けたイリヤスフィールは、一瞬だけぽかんとした顔を覗かせて、すぐにくすりと笑みを零した。

「やっぱりシロウはバカなんだね。そんな理由で殺されるかもしれない場所にのこのこと来るんだもの、バカじゃなきゃ出来ないよ。
 ────でも、うん。いいよ、シロウがそんなに話をしたいなら、仕方が無いから付き合ってあげる。丁度わたしも暇だったから」

 感謝しなさい、と微笑むイリヤスフィールに士郎もまた笑みを返す。少女のませた台詞に零れた笑みが苦笑だったのは、きっとこれからの大変さを思ってのことだろう。だってきっと、この目を輝かせた少女の話は長く、そして楽しいものに違いないのだから。







 それより後の事は、予想の通りのものだった。会話のキャッチボールというよりも、一方的にイリヤスフィールが話をし、それに士郎が相槌を打つ形の会話だった。

 話の内容はそれこそ様々だ。イリヤスフィールの生まれ育った場所は白銀に覆われた古城で、外部よりの来訪者など滅多に無い外界より隔絶された僻地だった事や、なら寒さに強いんじゃないのかと問う士郎に対し少女の答えは否で、ただ寒いのは嫌いだけれど雪は好きだといった、何でもない話の種。

 今は聖杯戦争の為、郊外の森に建てられた古城にメイド二人と共に住んでいて、一方は口喧しくて逃げ出すのが大変だとか。
 イリヤスフィールの粉雪のような髪は母親譲りなのだと自慢するように少女は語る。確かに、少女の髪は一際目を惹きつける。雪が舞い散ったかのような線の細い髪は自慢したくなるのも判らなくもない。

 表情をころころと変えて嬉しそうに語ったり、たまに頬を膨らませて拗ねてみたりするイリヤスフィールは、外見相応の少女にしか見えなかった。だから士郎はずっと少女の話を聞き続け、はたと気がついた。

 天頂近くにあった陽は傾き始め、思いの外時間が過ぎていて、それでも……イリヤスフィールは一言たりとも切嗣の名を口にしようとしない事に。

 長く続いた二人の会話。話は必然か、やがてマスターとサーヴァント、ひいては聖杯戦争へと流れていく。

「お兄ちゃんはなかなかいいサーヴァントを引いたみたいね。バーサーカーを一回殺すなんて、並の英霊じゃ難しいもの。でもやっぱり、わたしのバーサーカーが最強だけど」

 いつか、セイバーより聞いたバーサーカーの正体。乗り越えただけの苦難を命のストックとするバーサーカーの宝具。“一回殺す”というイリヤスフィールの台詞から、やはりただ殺すだけでは倒せないらしい。

「イリヤは怖くないのか?」

「何が?」

「あのバーサーカーは破壊を撒き散らす者だ。きっとそれこそ、人を紙屑みたいに斬り捨てる事だって出来るくらいの力を持っているんだろう? イリヤはそんなサーヴァントを従えていて、怖くないのか?」

 あの鋼鉄の巨人を見た瞬間、絶望よりなお昏い死を直感した。アレは死の具現に他ならない。本来、立ち向かう事すら許されない暴力の風。つまりはアレと戦うという事は無残な死に様しか残らないと言う事で。そんなモノをこの少女が見る事すら許せない。

「なんで? バーサーカーは優しいよ?」

「──────は?」

 イリヤスフィールの返答は予想すらしていなくて、暫し唖然とした。

「それにね。わたし以外のマスターとサーヴァントなんて虫ケラと一緒だもの。お兄ちゃんは、害虫を殺す時に相手を憐れんだりする? しないよね。それと同じで、相手にかける感慨なんてあるわけないじゃない」

 少女の余りに余りな思考に士郎の思考もまた停止する。彼女は死を厭わない。非情な考えは心が凍り付いているからではない。ただ、無垢であるが故に誰かの言葉を鵜呑みにしているだけだ。

 敵は殺すもの。一匹たりとも生かしておくな。自らと同列に考える必要性など無い。全てを殲滅せよ。

 例えばそんな、透明な湖に一滴の黒い絵の具を垂らしたかのような言葉を投げかけてしまえば、きっとこの少女は信じてしまう。魔術師の家系における頭首からの命だとするのなら尚更だろう。
 ギチリと士郎は歯を噛む。そんな暗示のような言葉でイリヤスフィールを衝き動かそうとする輩に。しかし。それは士郎が関与できる事でもなく、既に遠く過ぎ去ってしまったものだ。
 変えられるものがあるというのなら、それはこれからだろう。この少女はまだ戻れる。純真な心を持ったままの彼女なら。

「あ、でもシロウだけは特別に生かしておいてあげてもいいよ。わたしのサーヴァントになってくれるならね!」

「イリヤの、サーヴァント……?」

 サーヴァントとは死後、英霊となって世界に祀り上げられた者達を現世に呼び寄せる事で従えられる者の総称だ。魔術を齧ってはいても人並み以下の事しか出来ない士郎がサーヴァントになれる可能性など皆無に等しい。

「何言ってるの? サーヴァントってずっと一緒に居てくれる人の事でしょう? お爺さまはそう言ってたんだから」

「……まあいいけど。ええと、それはつまり、イリヤと一緒に居てくれって事か?」

「そう! マスターなんて止めて、ずっとわたしと一緒に居てくれたらシロウだけは殺さないであげる。他のマスターとかセイバーは生かしてあげないけど。どうせ同じでしょ、この戦争に勝ち残るのが誰かだなんてとっくに判り切っているんだから」

「──────」

 確かに、あのバーサーカーを従えたイリヤスフィールであれば余程の事がない限り勝ち進むだろう。歩んだ道の後ろに無数の血と屍を築き上げながら、なお止まることなく邁進する少女と巨人の姿は想像に易い。けれど。

「──それは、出来ない。俺はイリヤのサーヴァントにはなれない」

 だから、その言葉を口にした。

「……なんで? どうせシロウとセイバーじゃわたしのバーサーカーに勝てないよ? ならすぐに諦めて、生きられる道を選べばいいじゃない。なんでなの?」

 少し、憂いを帯びたイリヤスフィールの瞳を見つめて、それでも士郎は首を横に振る。

「俺がこの戦いに身を投じたのは、無関係な人達を巻き込む輩を止めたいからだ。これが魔術師達の戦いであるのなら、何も知らない一般の人達が渦中に晒されるような事態は見過ごせない。
 でも俺にはそれだけの力が無い。だけれど、こんな俺に力を貸してくれるって言ってくれたヤツがいるんだ。ソイツを犠牲にしてまで、一人だけ逃げ出す道は選べない」

 それが、昨日までの士郎の決意。ただ今は、そこにもう一つの意思が付け足される。

「イリヤ。俺はイリヤに誰も殺して欲しくない。誰も傷つけて欲しくなんかない。だからイリヤが戦うって言うのなら俺はそれを止める。その為にも、今この戦いから身を引くことは出来ない」

 純白の心を返り血で染め上げて、聖杯の頂へと歩む少女の姿など、見たくは無い。心は無垢に、穢れなど知らずただ在ればいい。だから、士郎はイリヤスフィールの申し出を拒絶する。彼女を守りたいと願うから。

「……そう。ならここで、シロウを殺しちゃってもいいんだね?」

 イリヤスフィールの真紅の瞳が細く、鋭さを帯びる。心を射抜くかのような妖艶さを口元に湛えて、敵意と殺意とが入り混じった視線が士郎を貫く。
 余りに容姿からかけ離れたイリヤフィールの凄みにぐっ、と息を呑んだ士郎を見て、少女は銀の髪を風に揺らせてそっぽを向いた。

「……ふんだ。いいよ、もう。昼間は戦っちゃだめだから、今はやらない。けどシロウがそういう態度を取るんなら、もう知らない。勝手にすればいいじゃないっ」

 何やらイリヤスフィールの機嫌を損ねてしまったらしく、士郎は頬を掻く。そうだ、と思い立って足元に置いておいた鞄を漁って──四角い箱を取り出した。

「イリヤ。イリヤの願いは聞いて上げらない。けど悪いとは思ってる。だからこんなものしかないけど受け取ってくれないか」

 それはいつかのお菓子の箱。ワンコインで買えてしまうような安物だけれど、イリヤスフィールと買い物をしていた時、彼女はこれを一番真剣に見つめていたのを覚えている。お菓子が目的というよりも、付属した玩具の方が本命だろう。
 四角い箱に取り付けられた丸い小窓から覗くのは硝子細工のように肌理細やかに彩られた鳥が一羽。本物の硝子細工から見れば数段見劣りするものには違いないが、出来はそれほど悪くない。

「……これ、くれるの?」

 おずおずと見上げるイリヤスフィールに、士郎は力強く頷く。ぱぁっと明るくなったイリヤスフィールの表情を見て、こんなものでも喜んでもらえるのなら良かったと安堵の息を零す。
 忙しなく箱を開いて、中から一羽の鳥を取り出したイリヤスフィールは太陽に掲げてまじまじと見つめる。光を乱反射して輝く鳥の細工は箱に収まっている時よりもなお美しく見えた。

「ありがとう、シロウ。これ、大事にするね。あ、それと────」

 大事そうに箱に細工を仕舞ってブランコより飛び降りるイリヤスフィール。何をするのかと思えば、士郎に歩み寄ってその左腕に掌を当てた。

「……イリヤ?」

「じっとしてて」

 目を硬く閉じ、何事かを呟くイリヤスフィール。時を同じく、士郎の左腕に熱が奔る。熱はイリヤスフィールの掌の温かさなどではなく、灼熱するこの感覚は魔術回路を作り上げる時の熱さに似ていた。

「……なんだ、どこも壊れてないのね。ただ無理矢理魔力を通わせちゃったから身体が驚いているだけか。これなら」

「イリヤ。俺の腕の事、知って」

「当然でしょ。そんな不器用に左腕だけぶら下げてたら誰でも気付くし、魔力の流れがおかしい事くらいすぐに判るわ。
 でも大丈夫。これなら明日まで身の程を弁えない魔術行使をしないでしっかり休んでいれば、ちゃんと元通りに治るわ。ううん、もしかしたら前よりも──」

 灼熱はやがて全身へと拡大する。流れる汗は冬の寒さを吹き飛ばすように滴り落ち、身体を覆い尽くす。イリヤスフィールが何をしているのかは士郎には判らなかったけれど、ただ身を任せてこの熱に耐えていた。

「ん、こんなところね。これでイリヤによる治療はおしまい。後は家に帰ってしっかり身体を休めること。わかった!?」

 びしっと指を立てて、本物の医者であるかのように力説するイリヤスフィールに気圧されて、士郎はこくこくと頷いた。それにイリヤスフィールは満足げに頷いて公園の出口へと走り去る。

 イリヤスフィールの掌から伝わる熱が引き、冬の気配が心地良くなる。ぐっと力を込めて左腕に意思を伝える。イリヤスフィールに触れられる以前より確かに、感覚が戻りつつあるような気がした。
 ふわふわと長い髪を巻き上げながら走るイリヤスフィールの背中を見つめる。殺すと断じた相手の傷を癒す真意は汲み取れなくても、ただ感謝を伝える事は出来る。

「サンキュ、イリヤ。なんだか随分楽になった気がするよ」

「そう、なら良かった。けどシロウ、わたしがシロウの腕を看たのはこのお礼だからじゃないよ」

 くるりと振り返ったイリヤスフィールは抱えた小箱を手に、良く判らない言葉を口にして微笑む。

「死んじゃダメだよ、シロウ。シロウはわたしのモノにするって決めたんだから。他のヤツに取られたりなんかしたらイヤなんだからね」

 何か、新しい玩具を与えられた子供のように目を輝かせてはしゃぐ少女の姿に士郎の口元が僅かに引き攣る。得体の知れない悪寒が背筋を駆け抜けて硬直する。

「ふふ、シロウったら可愛いわ。じゃあまたね、お兄ちゃん。
 あ、でも今夜は出歩かない方がいいよ。いくらシロウでも、夜に出会っちゃったら容赦出来ないんだからね」

 時折振り返り、手を振りながら駆けて行く少女に手を振り返しながら見送る。
 伝えたかった事は伝えられた。渡したいものは受け取って貰えた。ただ、聞きたかった事だけが聞けなかったけれど、それはまた次の機会でいい。

 ブランコより降りて空を見上げる。徐々に染まる青空の下、士郎はうんと伸びをする。この場所は、衛宮士郎とイリヤスフィールにとって特別な場所だ。ここへ来ればきっと、またあの少女と会えるだろう。

「今日はもう、帰るか」

 イリヤスフィールの助言に従って、特別な事なければ今日はもう外出しない方がいいだろう。イリヤスフィールは無垢であるが故に冷徹だ。それこそ夜に出会えば戦いになるのは必然だろう。それは望むところではない。

 学び舎での一件もあることだから遠坂凛も大々的な動きは見せまい。他のマスターにしてもそうだ。歪曲されてとはいえ、昼間の出来事は少なからず世間に知らされる事になるのだから、余計な干渉を行う確率は少ないと見ていいだろう。

 ゆっくりと休んで、明日からの戦いに備える事。それが今を一番活かす方法だろうと結論付けて、士郎は帰路に着く。

 ────けれどその帰るべき家に、ずっとあった平穏が失われている事を士郎は未だ、知りえない。





/2


 夜。

 静けさだけが支配する石段に、その男は立っていた。手には長尺の得物を握り締め、ただ立ち尽くす。
 閉じられた瞳は他の感覚を研ぎ澄ます為のものだろう。耳朶は風に木々のざわめきと奏でられる虫の声を聴き、身体は夜の気配の深まりと、月より降りる光とを全身でひしひしと感じ取る。

「相も変わらず良い夜だ。これで酒でもあれば言う事は無いのだが」

 自嘲するように侍は喉を鳴らす。
 侍は待っていた。訪れる筈のない来訪者を。敵として見えるべき兵どもを。その合間にこうして花を、鳥を、風を、月を感じとってはただ流れる時をやり過ごす。
 余人ならば退屈だと漏らす何も無い一夜であろうと、この男にとってみればただ自然に身を委ねるだけで心地よさと共に過ごしていけよう。

 しかし彼の内心はそう穏やかなものではない。魔女より与えられた彼の時間は刻々と過ぎていき、砂時計は逆しまにされたまま延々と時間を浪費し続ける。

 早く来い。

 相手は誰であろうと構わない。一人の男の人生を剣だけに捧げた結果を見られる相手ならば、それが神でも悪魔でも構いはしない。この命が尽きる前に、目の前に現れてくれさえすれば。

「誰でも構わぬ。が、化生の類は遠慮願いたいのだがな」

 ひゅん、と振るわれた刃。風を斬るように振るわれた長刀は茂みに向けられ、音すらも無く何かを切り裂いた。

「どうかしましたか、アサシン」

 境内よりかかる声に侍は振り向かず、血糊よりなお汚らしいものがついた刃を見つめて眉を顰めた。

「キャスターか。なに、少しばかり目障りな蟲が居てな。逸る心を抑え切れずつい斬ってしまっただけだ」

 暗色の魔女のフードの奥に隠された瞳は侍の払った茂みへと向けられる。じくじくと汚らしい体液を撒き散らし、なお蠕動する蟲が一匹、事切れるのを待っていた。

「それより貴様がこのような時分に山門を訪れるなど珍しい。さては主と仲違いでもして居るにいられなくなったか」

 クク、と笑う侍を魔女の悪辣な視線が射抜く。それ以上戯言を口にするのなら、ここで処分するのも厭わないとでも言いたげな殺意。むしろ有無を言わさず罰を与えなかった事の方が驚きなのだが。

「はは、許せキャスター。誰も訪れる事のない山門に立ち尽くしていれば、こうした時たまある語らいは楽しみたくなるというものだろう?」

「黙りなさい。それ以上下らない事を口にすれば、冥府でのたまう事になるけれど」

 やれやれ、と首を振る全く反省の色の無い侍にキャスターの苛立ちを逆巻き続けるが、第三者の声でこの話題は打ち切られた。

「キャスター」

 艶のある声は、もう一人の美女のものだった。夜に溶け込む黒一色の衣装に紫紺の長髪を靡かせた……サーヴァント・ライダーの姿がそこにあった。

「ほう、何時ぞやの。キャスターの手駒となったか、ライダーよ」

「失礼な言い方ね、アサシン。彼女とは手を組んだのよ。ねえそうでしょう、ライダー?」

 妖艶に微笑むキャスターとは裏腹に、ライダーは無言を肯定とした。

「それよりキャスター。桜は────」

「安心なさい。大事に大事に眠らせてあるわ。私の神殿内にいる限り、外部からの干渉は受けさせないから心配しなさんな」

「………………」

 学び舎での戦闘より半日。ライダーの手からキャスターへと渡った間桐桜は、確かにキャスターの工房内で安置されている。深い深い眠りの中、穏やかな夢を見ながら。

「あの子は大事な客人だもの、丁重に扱うわ。それにそれが貴女との“契約”……そうでしょう?」

 ライダーがキャスターの軍門に大人しく降った理由。それが桜の存在だった。
 最初は迂闊だった。屋上でのキャスターとの初邂逅、勝負は一瞬だった。あの愚鈍なマスターが足を引っ張らなければこのような事態にはなっていなかった事だろう。

 だが、全てが悪い方へ向かっているわけではない。ライダーの契約の異常。マスターだと自称する慎二より送られない魔力供給線の向かう先。すぐさまそれらを看破したキャスターは、ライダーにある契約を持ちかけた。

 上手すぎる話。けれど、ライダーの行動理念はただ一つであり──腐ってはいてもあの兄を見捨てたとあれば桜が悲しむ。ライダーに選択の余地などなかった。

「約束は守ります。貴女が何を考えていようと、私は桜さえ守れればそれでいい。たとえ貴女が彼女を人質として使おうとしていても、結果として桜を救えるのなら構わない」

 けれど彼の魔術師は裏切りの魔女。人を騙し、欺き、寝首を掻く事で名を馳せ生き抜いてきた反英雄。

 ────構わない。

 桜を守る。その意思だけは、揺るぎようの無いライダーの決意に他ならないのだから。

「ふふ、じゃあ少し話をしましょう。私達の目的を果たす為の、ね」

 三騎のサーヴァントが各々の目的の為、一つ所に集い言葉を交わす。
 空には欠け始めた月がそれでもなお煌々と醒め輝き、月下の者達を照らし出す。木々を揺らす風に、侍が一人、歌う。

「良い夜だ。しかし──明日はまたとない夜になりそうだ」







 腐敗した闇。沈殿した腐臭に咽ぶ事なく、ソレは部屋の中心に鎮座していた。

「全く、あの出来損ないめ。サーヴァントを奪われるだけではなく、まさかアレまで奪われるとは。目も当てられん程の屑じゃな」

 じくじくと蠢く緑闇。よくよく見れば、闇は闇ではなく、異形の蟲だった。ソレらは中央に座するモノの感情を顕すように、びちびちと跳ね回りながら蠢いている。
 座したソレは目を閉じ、この空間を埋め尽くす腐敗ではなく、全く異なる風景を映し出していた瞼の裏の映像が、唐突に断絶される。

「……キャスターの子飼いの犬めが。なかなか鼻が利きよる」

 開かれた瞼の奥、潰れ拉げたような眼球は昏く黒い光を宿している。沈殿する静寂。幾許かの思案の後、ソレは呟き腐臭を放つ。

「アレはまだ開かれぬ。だがここで奪われたのは誤算であった。次の機会を待とうと思っておったのに、台無しじゃ」

 取り戻さなければならない。悠久の彼方、夢見続けた悲願はもうすぐそこにある。その為に必要な最上の部品。完成はしていないが、それでもここで失ってはまた長い年月を無為に過ごす事になる。いや……今のソレに、そんな悠長な事を言っている時間は無い。砂上の楼閣は今にも崩れ落ちそうなのだから。

「ならばいっそ、今回に賭けてみるのも一興……か?」

 手塩にかけた部品は未だ完成を見ないが、既に完成された部品はあるにはある。正当な方法での奪い合いなど、甚だ思慮の外にあったものだが、少なくとも自らのモノだけは取り返さなければなるまい。

「……やれやれ。孫の尻拭いに老体に鞭打たねばならぬとは。やはりあの出来損ないなどに玩具を与えるのではなかったわ」

 重い腰を上げる。周りに這いずっていた蟲達が、ソレの足元へと集っていく。折れ曲がった身体がソレの積み上げて来た歳月を物語り、蓄えられた知識もまたその歳月に比例して積み上げられる。

「まずは……そうじゃの。準備といこうか。駒を手に入れねば盤上に立つ事すら不可能じゃろうて」

 禍々と嗤う老体を這い登る無数の蟲。歓喜か、あるいは狂気か。ソレは哄笑を響かせながら、濁り淀んだ、腐り落ちかけた闇を這い出ずる。













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