剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十七話









 唐突に視界に浮かぶのは一面の銀世界。限りなどなく、どこまで続いていそうな淡雪の絨毯。その白銀より突き出る木々は無数に乱立し、彼方まで続く雪原に一本の道を作っているよう。
 知らない。こんな風景を、衛宮士郎は知ってなどいない。ましてや、その雪原で戯れる男と少女の姿など、一度として記憶した覚えなど無い。だけど、その少女を知っている。その男を覚えている。

 衛宮切嗣とイリヤスフィール・フォン・アインツベルン。

 今は既に亡き養父と、つい先日知り合ったばかりの少女は楽しげに、まるで親子のように微笑みを交わし合い、優しい時間を過ごしていく。
 心の底から楽しそうに笑う少女と、少女の笑顔に笑みを零す男。幸福をカタチにしたかのような一幕。白雪に付けられた足跡は確かに二人だけの時を刻んでいて、失われない輝きで彩られている。

 優しさはその深さだけ、失われた時の憎悪を増す。覚悟を決めた男と無垢な少女。必然の別れは目の前にあれど、ただ今だけは────この優しさの中に居られるようにと、二人は手を繋ぐ。

 その光景を衛宮士郎は俯瞰する。遠く、高い場所より見下ろしている。けれどやはりこの映像に見覚えなど無い。本来知りえる筈など無い風景を、見知らぬ誰かの視点より奪い見ているかのような錯覚。
 冷たく凍りついた窓に触れた自らのではない掌は、冷たさなどものともせず雫を祓う。眼下の映像を誰かが優しい瞳で見続ける。残酷と裏腹の優しい風景を、その瞳に焼き付けるように。その心に刻み付けるように。






銀色の紲/Rondo I




/1


 朝の光が射し込む中、ゆっくりと、深海より浮上するかのように意識が覚醒する。
 士郎は一度ふるふると頭を振って時計を見やった。時刻は六時前。いつもより大分早い時間に目が覚めたものだと呟くが、昨日は普段より早めに床に就いたせいか、と納得して布団を這い出る。

「よっ、と……お」

 布団を畳み、押入れへと仕舞おうかと思った矢先に、その事に気がついた。

「腕、治ってるな」

 感覚を失くしていた左腕が、今朝には前と変わらぬ程にしっかりと動いてくれた。ちゃんと意思の通りに動くし、痺れや痛みも既に無い。昨日一日の違和感がまるで嘘だったのではないかと見紛うほどに左腕は士郎の左腕として機能していた。

「サンキュ、イリヤ」

 もう一度彼女に向けた感謝を口にして、士郎は自室を後にする。







 厨房に立ち、朝食の準備をしている最中にふと士郎は思った。そういえば、桜が来ていない。あの少女は本当に朝が早く、下手をすれば士郎が起きるより早く衛宮邸を訪れ朝食の準備をしてくれる。ただ朝食の準備が完全に終わってから寝過ごした士郎を起こしに来るのだけは如何ともし難いと常々思っているのだが。

 さておいて、桜がこの時間に来ていないのは珍しい。その理由を考えようとして、考える必要などない事に気がついた。

 昨日の出来事。学び舎を舞台にした戦闘行為。張り巡らされた略奪の結界。夜には報じられた穂群原全体を巻き込んだ聖杯戦争の余波は、間桐桜を一般人と信じて疑わない士郎にはただ降り注いだ災厄としか映らない。

 一年生のクラスはそれほど大きな被害はなかったというがそれでも体力の消耗は深刻だろう。結界の基点があった一階部分より一番近かった三年生に関しては言わずもがな。下手をすれば今日は休校になってもおかしくない規模の事件であるのだから。

 桜、大丈夫かな、と呟きながら士郎は振るう手を止めない。間もなく出来上がる朝食は二人分。はて、何か忘れているな、とテーブルに出来上がった朝食を並べている時に思ったのでは既に遅かった。







「それでね、もぐっ、きのもっ、はぁ、せいとのばくばく、せいとたちのおみまい、ずずずっ、で、ずっとはしりまわっ、おかわり!」

「……とりあえず、何喋ってるか全然判らないので食べるか喋るかどっちかにして下さい藤村先生」

「……………」

「いや、そこは喋ろうぜ藤ねえ」

 そっと差し出さない藤村大河の三杯目の茶碗を受け取りながら一生徒らしく仮にも教師を名乗る姉を諭してみたりする。その二択で、食べる事を選ぶ辺りが藤村大河らしく、他の教師達と同じく被害を受けた筈の超人の食欲旺盛さに安堵とか呆れてみたりもした。

 セイバーと二人、朝食に臨もうとした居間に木霊する走行音。床を踏み抜かんとばかりの騒々しさで駆け抜けた人物が誰かであるなど、頭を抱える士郎には判り過ぎるほどに判っていた。

 朝から夕食並の量をかっ食らった大河の話を要約するのなら、こうだ。
 彼女は当時、一年のクラスを受け持っており被害は少なかった。気がついたときには既に倒れ伏した生徒達の搬入作業が始まっており、救急隊員に事情を話して生徒達に付き添いこんな時間までずっと病院や家族の下を回っていたという。

「私も一応検査受けたんだけどね。『藤村さんに全く異常は見られませんね。近年稀に見る健康体ですよ、ははは』ですって! 失礼よねーあのお医者さん!」

 頬を膨らませ怒る大河だけれど、やはり教師なのだ。目の下を腫れ上がらせてなお、焦燥している素振りすら見せずいつも通りに振舞う大河に士郎は心底感心する。ここへ来たのも士郎が心配であったからだろう。普段はおちゃらけていても、ここぞという時には頼りになる存在なのだ。

「しろー、おかわりぃ!」

「多分……多分な」

 溜め息を零して茶碗を受け取る。山と盛った白米に目を輝かせ受け取った大河は、

「それにしても士郎、運がいいわね。たまたま午後の授業をサボった日にあんな事件が起こるなんて。教師としては許しちゃダメなんだろうけど、お姉ちゃんとしては喜んでもいいのかな。
 ────あ、ところで今日桜ちゃん来てないわね。どうしたの?」

 そんな事を、口にした。

「……え? どうしたって桜も学校に居たんだから事件に巻き込まれちまったんじゃないのか。俺はてっきり、藤ねえから桜の容態を聞けるものと思ってたんだけど」

「えぇ? でも病院に搬入された生徒のリストの中に桜ちゃんの名前、なかったけど?」

「──────」

 心臓(こころ)が軋む。息が詰まる。身体が汗ばむ。脳は最悪の想像をする。

「でも全員が全員病院に運ばれたわけじゃないのよね。私は運ばれた子達を看るので手一杯だったから症状の軽い子達は救急隊員の人に任せてきちゃったのよ。だから多分、桜ちゃんもその一人で今日は家で身体を休めてるんだと思うけど」

「そう……だよな。そうに違いない」

 呟いて、士郎は頭を振る。脳に沁み付いた想像を振り払うかのように、自分に言い聞かせるように。縋るように見たセイバーの表情は、黙したまま何も語らないという、彫像のようだった。





/2


「桜の家に行ってみる」

 まだ駆けずり回らなければならないという大河の去った居間で、士郎はセイバーに宣言した。胸を埋める焦燥。脳を奔る想像。それらを払拭したくて、その選択をした。

「学校はいいんですか? 大河さんの話では一応休校という事にはなっていないようでしたが。何より、桜さんが登校してくる可能性も否定出来ませんし」

「ああ、桜の家に行って、居ればそれでいい。居なければ学校にも顔を出すつもりだ」

「……もし、そのどちらにも居なかったら?」

 黙す士郎。それは、予期できる最悪の未来。ただ降り注いだ災厄に巻き込まれただけでなく、渦中へと引き摺り込まれた可能性。そしてその可能性を無視できない根拠が士郎にはあった。
 ────あの時、遠坂凛が立ち尽くしていた教室は、間桐桜の在籍するクラスではなかったか。

「とにかく行ってみてからだ。動かなきゃ始まらない。ここに居たって桜の安否を知りようがないんだから」







 結論から言ってしまえば、間桐桜は何処にもいなかった。早朝よりの訪問は迷惑かと思いつつも門扉を叩いた間桐邸は静寂に満ちていた。扉は硬く閉ざされ、傍に取り付けられた呼び出し装置を鳴らそうとも反響するのは虚しい機械音だけ。
 深く閉ざされた森林か、人の手の届かぬ深海のような静けさに包まれた間桐邸から人の気配は感じられず、手がかりすら掴めなかった。
 この様子では慎二も帰っていないのだろう。居ても居留守を決め込まないとも限らないヤツではあるが、そもそも誰かが居る気配がないのだからどうしようもない。

 正門より出る直前に振り返る。暗く鬱屈としたまま聳える間桐邸は、物語の中に出てくる古城のような雰囲気を醸し出していた。

 その後、学び舎を訪れ一目散に桜のクラスに顔を出しても、当の本人の姿はなかった。走り駆けてきた校内は普段より人影が少ない。三年生が特に少なく、階上へと至る度に人口が増すといった具合だ。
 一番生徒数の多い一年生のクラスが立ち並ぶ四階には、それでも桜の姿は無い。クラスメイトに聞いても皆が皆口を揃えて知らない、の一点張り。有力な情報といえば、昨日の午前最後の授業までは確実に居たという事だけだ。

 そんなものは何の安堵にも繋がらない。この目で桜を見なければ、確信など得られない。

 校門に待たせていたセイバーと合流する。士郎の表情より事情を察したであろうセイバーはふむ、と一つ頷いて思索の中から可能性を掬い上げた。

「お兄さん。これはもう、巻き込まれたと考えて行動する方がいいと思います」

「ギル?」

「ただ単に巻き込まれたというのなら、これだけ捜してもいないなんていうのは逆におかしい。それに桜さんの兄であるヒトも数日前より帰っていないのでしょう? ならばもう、無関係として考える方が浅はかだ」

「……そうだな。あんまり考えたくは無かったけど、もうそう考えるしかないか」

 信じたくは無い。けれど、目を逸らしたまま捜し続けてもきっと見つけ出す事が出来ない気がして、士郎は現実を受け止める。巻き込んでしまったのなら、速やかに助け出さなければならない。たとえそれが、士郎自身に無関係な場所で起こった事であろうと。

「よし。聖杯戦争がらみで考えるなら、言峰神父に聞くのが一番手っ取り早いか。あんまり行きたくはない場所だけど……」

 監督役ならば誰よりもこの戦場の状況を把握しているだろう。これほど大規模な神秘を秘匿するのなら、それなりの人員を割かなければならず、それらからの情報が最も集まるところが言峰綺礼の元であろうからだ。

「アーチャーのマスターなら何か知っているかもしれませんね。あの時の態度は何か、隠しているような節を感じましたから。
 ただ素直に教えてくれるような性格には見えませんし、下手を打てば即戦闘になるでしょうからあまりお勧めは出来ませんけど」

「……言峰教会に行こう。今は遠坂と争っている場合じゃないし、あの男は問い質せば嘘はつかない」

 自身でもよく判らない確信を口にして新都の方角を睨む士郎に、

「判りました。ではお兄さん、ここで別れましょう」

「? おまえ、どこか他に行く場所があるのか?」

「ええ、少し。それにボクはあの教会に近づきたくはない。神を崇める為の社なんて、最も毛嫌いする場所ですから」

 士郎の脳裏に浮かぶセイバーの能力値。その裡に神の血の流れるセイバーには能力として神性がある。ただ如何なる理由ゆえか、神を嫌っているセイバーは本来あるべきランクより数段ダウンした数値で落ち着いていた。
 自らの能力を下げるほどに嫌う神という存在。その理由は判らなくとも、士郎を納得させるには充分な説得力があった。

「そうか。じゃあ俺一人で行くけど」

「はい。気をつけて。前にも言いましたけど、その神父に気を許してはいけません。ましてや────」

 何か煮え切らない表情を浮かべて、セイバーは頭を振る。

「いえ。ではお兄さん、くれぐれもお気をつけて」

 背を向けたセイバーは緩やかに坂道を下っていく。最後に言いかけた言葉が少し、気になった。







 開けた視界。高台の上に建てられた言峰教会は、以前と変わらず荘厳に聳えている。間桐邸、学校と回り、深山町より徒歩で子一時間ほどもかかる新都の、更に端に建てられたこの場所に辿り着く頃には太陽も随分高い位置にあった。

 ギィ、と軋む音をたてて開かれる扉。覗き込むように室内を見た士郎であったが、人影は少なかった。敬虔な信徒が礼拝でも行っていては邪魔するのも悪いかとこっそりと扉を開いたが、神父の姿どころか祈りを捧げる信者の姿もなく。

 ────ただ在ったのは、長椅子に座したまま動かない、金髪の青年の姿だった。

 後ろ手に扉を閉めた士郎は伺うように迂回してその青年の姿を見やる。
 不遜な態度。両の手を椅子の背凭れにかけ、脚を組み、頭を垂れた青年の姿は眠っているのかようだ。表情は垂れ下がった前髪に覆われて伺えないが、少なくとも礼拝に訪れた風ではないと士郎にさえ判るほどにその男は堂々としていた。

 神は崇める対象などではなく、ただ神にこそ己を崇めさせるかのような、そんな傲慢にも似た男の姿を視界に納めて。

「──────」

 ふと脳裏を過ぎった既視感に首を傾げようとして、目の前の男が僅かに身動ぎをした。
 黄金のような髪の奥、僅かな隙間から細められた瞳が士郎を覗く。紅の瞳は、鏡のように全てを見透かされているような気がして気分が悪い。けれど視線を外せない。

 あまりの神々しさに見惚れていたというわけではなく────今、目を逸らせば殺されてしまうような気がして。

「……言峰に用か」

 男が呟く。意識が浮上する。何故そんな事を思ったのかと自問してしまう程に士郎の身体は硬直していた。ぎこちなく動かした腕は何も掴めず、縦に振った首だけはなんとか頷きとして男に認識されたようだった。

「暫し待て。ヤツなら奥にいる、今呼んで来てやろう。しかし────」

 男がゆらりと立ち上がる。男は建物の奥へと繋がる通路ではなく、士郎に歩みより……口元に笑みを携えて、品定めでもするかのように観察する。蛇に睨まれた蛙、という形容しか出来ない。それ程に、士郎は男に見竦められ立ち尽くした。

「……ほう、面白い。貴様、幾つ繋がりを持っている?」

「─────ぇ?」

 目の前の男が何を言っているのか判らない。何を問われているのか判らず、蚊の啼く声量を喉奥から搾り出した士郎に、男は口元をなお吊り上げて愉悦に浸る。

「知らぬか。良い、何れ知ろう。丁度我は暇を持て余していたところだ。壊れた玩具などに興味は無いが……真実を知り絶望する姿には興味がある。
 その前に手を出してくれるなよ、小僧。退屈を尽くす前に、下らない希望などに縋られてはつまらぬからな。
 そしてもう一つ。こちらは……クク。貴様、中々に面白いものを引き当てたな」

 高笑いを響かせる男。意味の理解すら出来ず、全く違う言語で話しかけられているのでは思ってしまうほどに男の言葉は要領を得ない。

「気に食わぬ。が、今は良い。愉しみはまたの機会としよう」

 男が去って礼拝堂に静寂が戻る。士郎の肩にかかっていた言峰綺礼とはまた違う重圧が消え去って、最も近くにあった長椅子にぺたんと座り込んだ。

「何なんだ、アイツ。一体……何が言いたかったんだ?」

 独白は疑問となって自らに還る。答えなど判らない問いかけは、次なる男の登場によって破られた。

「早いな、衛宮士郎。此度の聖杯戦争の最初の脱落者となったか」

「違う。俺はまだ落ちていない」

 開口一番皮肉る言峰綺礼に不躾な視線を送る。先程の男に比べれば、この男の重圧など気にかけるまでも無い。

「確か以前言った筈だがな。この場所を訪れるのはサーヴァントを失い保護を願い出る時のみだと。まさかもう忘れてしまったか?」

「忘れてなんかいない。けど、そうは言ってられない事態があるからここに来たんだ。それくらいアンタだって判ってるんだろう?」

「……ふん、つまらんな。もう少し戯れに付き合っても罰は当たらないと思うがな。切羽詰っていては見えるものも見えなくなるぞ。だがまあ、いいだろう。では話せ、衛宮士郎。おまえが我が門扉を叩いた理由とやらを」

 用件だけを簡潔に伝える。学校での一戦の後、行方の判らない間桐桜。そしてその以前より姿を眩ませた兄、間桐慎二の消息。この時期に消えた兄妹が、旅行にでも行ったなどという楽観がありえないものである事くらい誰でも察しがつくだろう。
 希望的観測は既に期待できない。描いた絵が実現する前に、救い出す事こそが肝要なのだから。

「間桐……?」

 その響きに神父は眉を顰める。士郎は知らないが、この言峰綺礼という男は少なからず間桐と因縁を持っている。なればこそ、その名を見過ごせなかった。

「……そうか。衛宮士郎、おまえは知らないのか」

「何をだ?」

「────間桐の家が、魔道の家系である事をだ」







 見上げる建造物は、主と共に訪れた屋敷に相違ない。校門にてマスターと道を別ったセイバーは独り、再度間桐邸を見上げていた。
 日本という国にしては広大な敷地に建てられた二階建ての建物。余人ならぬ者が見れば魔窟と見紛うほどの魔の気配に満ちた邸宅。それを、彼の瞳が見逃すはずなど無い。

「本当、厭な匂いだ」

 彼が言う匂いとは、僅かながらある霊脈の恩恵ゆえの魔の気配でなければ、間桐邸の地下深くに蓄えられた腐臭でもない。
 彼の言う匂いとは、この邸宅に棲み付く者の欲望の匂いに他ならない。暗く、淀み、停滞した願望。縋り付くように手を伸ばすその無様。荒唐無稽さが、癪に障る。

「ただ増え続けるだけのものなんて、ボクが嫌悪して止まないものじゃないか。世界というのは、本当に変わらないな」

 それでも彼は世界を愛でる。世界という作られた箱庭で、彼は今なお踊り続ける。価値あるものには恩恵を。無価値なものには制裁を。歓喜に潜んだ汚濁を消し去ろう。甚だ気に食わないが、ただ美しくあれと願う世界の意思には共感できる。

 これより始まるは箱庭の掃除。醜く穢れた汚点を洗い流し、清浄にして在るべきカタチを取り戻そう。それが、彼の背負った業。

 間桐の屋敷に背を向けて、見やるは山麓の更に奥に聳える洋館。幽霊屋敷と噂される建物より細めた視線を切って坂道を下っていく。

「下らない瑣末事は早々に片付けたいところだけれど。そう上手くはいかないな。苦労するなんてのは久しぶりだ。
 ────それでも。この先に探し物があるというのなら、ボクは止まる事無く、茨の道を歩み続けよう」

 半人前の魔術師に召喚された意味。彼の魔術を知り、なお付き従い続ける意味。全てのものに意味があるというのなら、その意味を知らねばならない。意味と価値。二つの価値観を秤にかけて。





/3


 開いた扉から零れた鮮やかな赤に、目を細める。陽は地平へと向かい、夜の訪れを匂わせる。
 衛宮士郎は一度振り返って教会を見上げる。圧し掛かる重圧は消え去ったけれど、胸の内にはなお燻り続ける焔があった。

『────間桐の家が、魔道の家系である事をだ』

 そう告げられた時の衝撃は言葉などでは言い表せない。何も知らない、無関係な筈の二人の真実。境界より外に身を置く者と信じて疑わなかった兄妹がこちら側の人間だった事に驚愕を覚えた。

 ただ此度の聖杯戦争のマスターとして登録されているのは桜ではなく慎二であった事に士郎は言い知れぬ感情を抱いたのは何故だったか。

『総じて魔道の家系は一子相伝だ。十あるものを二つに分ければ五に減少するだろう? それでは意味が無い。積み重ねた歴史を分かつなど、目指すものへの道程を遠くするのと変わらない。故に、たとえ兄妹であっても神秘を伝えられるのは片方だけ。
 知らされなかったもう片方は同じ家に住みながら何も知らず生涯を終えるか、養子にでも出されてしまうというのが一般的だな』

 間桐慎二がマスターとしてサーヴァントを従えているというのなら、その妹である桜は何一つ知らされていないのだと、士郎は自己完結する。

『本来、他のマスターの情報を流すなど監督役にあるまじき行為だが、構わんだろう。むしろおまえだけが知らないという方が余程フェアではないからな』

 聖杯戦争の始まりに連なる御三家。マキリ、トオサカ、そしてアインツベルン。この三家の事を知らぬまま聖杯戦争に臨む輩は通常いない。いるとすれば士郎のように偶然巻き込まれたか、事前の下調べを怠った三流魔術師ぐらいのものだ。

 明かされる知らない事実の数々。ただその中に、間桐桜の行方を掴むものは何一つとしてなかった。

『いかに監督役とはいえ、全てのマスターの行動を逐一把握しているわけでもないし、部外者なら尚のことだ。
 残念だが、間桐慎二、及び間桐桜の行方について私が知っている事は無い。中立に位置するものとして、これ以上肩入れしてやる事も出来ん』

 神父の言葉は士郎にとって絶望の宣告と変わらなかった。巻き込まれているという確証は無い。巻き込まれていないという根拠も無い。ならば後は、自らの足で捜し出すしかないと思い立ち、

「待て」

 走り出そうとした足が、その声に引き止められた。

「アンタは……」

 教会の扉に寄りかかる青年。茜色の光が金糸の髪を照らし上げ、空よりもなお深い真紅の瞳が士郎を見据えていた。

「何か、用ですか? 急いでるんですけど」

「行き先も判らぬまま走り出そうというのなら止めはしない。が、先達の助言に耳を傾ける程度の余裕は常に持つことだな、小僧」

 む、と眉を顰める士郎。やはり何を言っているのか判らない。素性の知れないこの男の言葉には、けれど耳を傾けねばならないという魔力が篭っているように感じて。知らず立ち尽くしたまま紡がれる声を聴く。

「この街で最も霊地として相応しい場所に赴け。そこに、囚われの姫がいるだろう」

「──────!」

 何故。何故そんな事を知っているのか。そう問うより先に、

「呆けるなよ、雑種。せいぜい生き汚く足掻くがいい。舞台に立つというのなら醜くとも踊り抜け。それが、宴に酔うものを更に酔わせる極上の美酒となり、醒めやらぬ饗宴へと誘う欠片となるのだから」

 高らかな声を響き渡らせ、青年は教会の内へと消え去った。

「………………」

 あの男の意図が掴めない。監督役である言峰綺礼ですら知らない事を何故知っているのか理解できない。それでも確かに──その言葉には嘘はないと信じられる光があった。

「……俺は、あの人を知っている、のか?」

 妙な確信。不確かな意識。けれど、手掛りなどなく駆けずり回るより余程いい情報を手に入れた事には変わりは無い。一度セイバーと合流し、語られた霊地へと向かうかどうかはそれから決める。

 一つ頷いて坂道を駆け下りる。

 頼りなき導を胸に、走り抜けていくその途上。新都を過ぎ去り、深山へと入った士郎が商店街を横切ろうとした時にふと目を滑らせたショーウィンドウ。家電の店なのだろう、店先には幾つものテレビが飾られ疎らな映像を映し出す。

「………………え?」

 足が止まる。士郎の視線の先には夕方のニュースが映し出されており、驚愕の視線はその内容へと向けられていた。
 今朝には報じられていた筈の事件。桜の事で頭がいっぱいで、テレビなど見る暇もなく駆けずり回っていた今日という日に起きたある事件。見逃した、見過ごしてはならないその事件。

 それは。





/4


『ついに出ちまったらしいぜ、犠牲者』

 月の雫の降る暗闇の中、響くのは衣擦れの音。数日振りのシャワーは心地よく、身体の汚れと共に彼女の甘ささえも洗い流してくれたかのよう。割れた姿見を前にし、自らの女性らしさを残す部位に掌を当てる。

 瞳を閉じて、思い返すのは今朝方の事。ここ数日毎日のように起こる昏睡事件。その、最初の犠牲者が生まれた日。
 むしろこれまで被害が出なかった事の方が幸運だ。形振り構わず街全体からの搾取を行う輩に、際限などあるはずも無い。

「淡い期待を抱いていた私が馬鹿だったのです」

 胸を焦がす後悔。この犠牲は、自らの失態が生んだ結果だ。片腕を切断され、戦闘不能状態のまま長らくベッドの上で茫洋と過ごして来た罰。
 あの失態がなければ、このような犠牲を出さずに済んだかもしれないと、彼女──バゼット・フラガ・マクレミッツは己を責める。

 失われた命はもう取り戻せない。ならば速やかに容疑者を捕らえ処罰し、第二の犠牲者を出せない事が、最善の行動なのだと結論付ける。

 袖を通す真っ白なワイシャツは彼女の心を固めていく。言うなれば、これは儀式。戦地へと赴く戦士が鎧を身に纏うように、バゼットもまた着慣れたスーツに袖を通す事で己の意識を改変する。

 最後に、きゅっと締められた臙脂色のネクタイ。僅かな灯りしか射し込まない室内。姿見に映る、着替えを終えた彼女の影には確かに失くした腕がある。動作確認を行うように、一度二度と掌握する。

「……動作に問題なし。戦闘にも影響が出る可能性は低い。これなら────」

 ようやく、戦える。聖杯戦争のマスターとして。サーヴァント・ランサーのパートナーとして。
 逸る心臓を抑え付けて、バゼットは窓際に備え付けられたテーブルへと足を運ぶ。丸い円卓の上にはランサー召喚の媒介にしたルーン石のピアスが三つ、月明かりを受け銀色の輝きを放っていた。

 慣れた手つきでバゼットは片耳にピアスをつける。手早く二つ目も付けてしまおうと手を伸ばし────

「…………」

 彼女の手は空中で静止した。
 机の上にはルーン石のピアスが二つ。一方はバゼットが戦地へと赴く際は常に耳に飾り付けていた品で、もう一方はランサーがバゼットの腕の治療の為、癒しのルーンの媒介としたピアス。
 どちらがどちらであるか、判らなくてバゼットは手を止めたわけではない。むしろ判り過ぎているからこそ手を止めたのだ。

 数日間、手の中で優しい光を放ち続けたランサーのピアス。その感触を覚えている。その温もりを、手離したくは無い。鋼鉄の鎧の奥に潜められた、剥き出しの乙女心。否、その心を守る為に、その鎧は存在する。

 形状、質感、宿された神秘。どれをとっても同位である二つのピアスを目の前にし、長考に入りかけたバゼットを、

「おーい、いつまで着替えに時間かかってんだよ。かれこれもう一時間以上だぜ。もう我慢ならないから入るぞー」

「…………っ!? ちょ、ラン、まっ、待って…………!」

 ビクリと震えたバゼットの後方の扉はノックすらなく、遠慮の欠片もなく開かれる。こんなに時間のかかるおまえの方が悪いとばかりに、デリカシーに欠けたランサーの瞳が室内を見渡す。
 その直前。バゼットはひったくるような素早さでテーブルの上に置かれていたピアスの片方を掴み、後ろ手に隠し持った。

「なんだ、もうとっく終わってるじゃねーか。おー、きっちり治ったみたいだな」

「ええ、お陰様で」

「……何怒ってんだアンタ? 着替え終わってんだから別にいいじゃねーか。それに見られたって減るもんでもないだろ? どうせ一回見てんだし」

 そういう問題ではない、とジト目で見やるバゼットの視線をランサーは揚々と避け、バゼットの傍、一つだけとなったピアスを手に取ろうと歩み寄る。

「…………ん?」

 月光に濡れるピアスを前にし、ランサーもまた手を止める。しげしげと見やって、ははーんと何かを悟ったように頷きを深め、妙な笑みを口元に張り付ける。

「……な、何ですか。その顔は」

「いやー、別にー? ただウチのマスターはえらく乙女チックな趣味があるんだなぁと思っただけだ。換えて欲しいならそうと言えばいいのによ。アンタのその手の中にあるヤツがオレのピアスだろ?」

「────なっ!?」

 紅潮する頬を抑え切れない。数秒見ただけで判るほどの違いなどない筈のピアスを一発で看破したランサーも然る事ながら、むしろバゼットが無意識とはいえ好んでこちらを手にした事を知られたことの方が心拍数を跳ね上げる。

「あ、なっ、こ、これは違いますっ! 貴方が突然部屋に入ってくるから、と、咄嗟に手に取ってしまっただけです! なんならすぐにでも返します!」

 ほら、と突き出した掌の上で揺れるピアス。確かにそれはランサーがその耳に飾り続けたピアスに相違ない。
 バゼットの心情は、差し出した手とは裏腹だ。素直になれない自分をこんなにももどかしいと思った事が過去あったかと疑うほどに、名残惜しさを感じていた。

「いらねえ。それやる」

「……は?」

 手を翳したまま、ぽかんとするバゼットを余所にランサーはテーブルの上のピアスを手に取った。

「オレはこっちの方がいい。アンタがどうしてもと言うなら、換えてやるのも致し方ないと思うけどな」

 ニヤリと。笑みを浮かべるランサーの表情は月光を背にしていて、よりはっきりと窺い知れる。本来見る必要など無いその顔。何故ならバゼットの零す笑みもまた、ランサーと同じものであるのだから。

「……ええ。私も、そっちは要りません。こちらの方がいいです」

 交し合う笑みは、心の底からの微笑み。この屋敷を一歩踏み出せば、駆け抜ける事になるのは血に彩られる戦場。優しい時間を過ごせる時はそう多くない。だから今だけは浸っていられるようにと、二人は確かに笑い合う。

 永遠にも、一瞬にも感じられた時間を抜け出す。時計の針がじきに零時を指そうとしている。これより先は戦いの刻。交し合う微笑みよりも必要なものが、彼女らの手の中に既にある。

「────さあ、行きましょうランサー。無為に過ごした時間を取り戻すのです」

「無為とか言うなよ。下らなくとも、価値はあった時間だろう?」

 バゼットの意気込みをランサーは変わらない飄々とした態度で受け流す。

「……全く、本当に貴方という人は。こんな時くらい、もう少し気を引き締めてはどうですか」

「────ハ。全く。肩筋張りすぎはよくねえって言ったじゃねえか。ダレろとは言わないが、気負いすぎるのは問題だ」

「床に就いたまま数日間も動けない苦しみが貴方に解りますか。私は今、少しでも早く身体を動かしたくてウズウズしているのです」

「そっちが本音かよ。ったく、いいぜ。付き合おう。生憎とこの街はそういう相手に事欠かない状況だからな。派手に暴れてやろうぜ」

「ええ、そのつもりです。が、決して目的を見失わないように。最初の標的は柳洞寺に居を構えるキャスター及びそのマスターです。これまで目を瞑っていましたが、これ以上の横暴は見過ごせない。アサシン諸共に粉砕します」

 ランサーの喉の奥より零れる笑い。良い。本当にコイツは良い。ベッドの中でうだうだ悩んでいた姿が嘘のように今のバゼットは生き生きとしている。
 こうでなくてはならない。こうでなくてはつまらない。仕えるべき主とは、こういう存在こそが相応しいとランサーは独白する。

「んじゃ、行くか」

「ええ」

 月明かりの降りる夜の下、一つの主従が駆けて行く。闇を切り裂き、その先に待つ光へとただ邁進する。
 二人に語る言葉はもう必要ない。二人の紲はこれより───いつまでも、互いの耳に揺れ続けるのだから。













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