剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十八話









 人気などとうに失せた影絵の街を駆ける主従。夜霧を晴らすかの如く疾走する様はまさしく一陣の風のよう。彼女らの駆け抜けた軌跡にこそ道が作られ、彼女らの姿を照らしあげる為だけに今宵、月は街を見下ろしている。

 ようやく、表舞台へと姿を現す事の叶ったバゼットの表情に笑みは無い。精悍な瞳が見据えるのは遠く、円蔵山は中腹に建造された柳洞寺。その場所こそ、とうとう死者を出した元凶────サーヴァント・キャスターの居城である。

 その犠牲を見過ごせない。その犠牲を、赦せない。彼女の直接的な失策が生んだ悲劇ではなくとも、己の犯した失態が魔女を押し留める歯止めとなれず招いた結果であるのなら。理由の如何は既に関係など無い。

 魔術協会より派遣された正規のマスターとしての責務。一魔術師としてのプライド。封印指定の執行者としても看過など出来ず。

 何より──バゼット・フラガ・マクレミッツとしての心が自らの醜態を赦さない。

「気負うなよ。ソレは、アンタのせいなんかじゃねえんだから」

 同じ速度で駆ける者にしか響かない声。傍らを共に疾走するランサーの、視線すら傾けない言葉を聴き。

「ええ、解っています。けれど、それでも私は自らを呪う」

 ────そうすることでしか、私は私を保てない。

 飲み込んだ言葉はきっとそんな、自虐的な捨て台詞に違いない。罪を外界ではなく自らに課すバゼットはその背に多くの罰を背負う。けれど痛みは彼女の強さの証。己が肉体を苛め抜く事でしか、存在意義を見出せない愚者の戯言。それを。

「本当、不器用なヤツだ」

 ────だけど、オレはアンタのそんなトコが気に入ってる。

 言葉にはせず、想いはただ彼の胸中で残響する。
 好意を口にしてはならない。いつか交わした言葉にあるように、嫌い嫌われる関係が彼女らには丁度良い。行き過ぎた感情は彼の英雄の辿った末路を暗示させ、必滅を司る赤き魔槍が牙を剥く。

 だからこれ以上の言葉など必要ない。想いはただ、冬の夜風に揺れているのだから。







 そうして。目的とした場所へと辿り着く。

 頭上には冴え凍る白月が輝くというのに、見上げる石段は足元すら見えない。閉ざされた闇。一面の黒色は自然の闇夜が生じさせたものである筈が無い。
 その正体とは、魔女の結界である。視認の妨害。認識の阻害。隔離された空間。然るべき者にしか意識できない、隔絶の結界。

「誘ってやがるな、こりゃあ」

「ええ。相手も攻め入ってくるものとしての考えなのでしょう。このような目に映る結界は稀代の魔女の所業にしては些か出来が悪すぎる」

 魔術師の英霊に選ばれる程の力量の持ち主なら、たとえ相手が同じ魔術師であっても全く感知させないレベルの結界構築とて難しくはあるまい。ならばソレは意図して張られたものであると結論付ける。

 黒く漂う靄は柳洞寺に蒐集された魔力に他ならない。見上げるソラは酷く淀んでいて、まるで瘴気かと見紛うほどの濃密で甘美なエネルギーで溢れている。一歩踏み込めばどろりと溶かされてしまいそうな錯覚をする。
 その魔力全てを我が物とする魔女の戦闘レベルは以前相対した時とは比べ物にすらならない。最悪の想像をするのなら、これほどの魔力を束ねれば、極限まで魔法に迫る魔術でさえ再現可能なのではないかと疑いたくなるというものだ。

 更にこの闇を突き抜けた先にはもう一騎、サーヴァントが存在する。ランサーをして手強いと称させる程のアサシン。正面突破を敢行するのなら、避けては通れない障害。加えて正体の割れていないマスターすらもいるだろう。
 圧倒的な数的不利。絶対的な地形の不利。この誰一人として突破した者のいない難攻不落の要塞を前に、たった二人で臨むという彼女らを無謀と嘲笑わずして何を笑えばいいというのか。

 昏黒のソラを目前に、誰もが息を呑まずにはいられない静寂の只中で──しかし彼女らは笑っていた。まるで童心に還ったかのような無邪気さで。これより挑む死地が、享楽だけで構築された遊園地を前にした子供のように。

「────行きます。鈍った身体を解す準備運動には、丁度良い戦場だ」

 バゼットは肩に掛けていた銀色の筒状のモノを背負い直す。懐より取り出した真っ黒の手袋を両手に嵌める。硬く引き絞った革のグローブは軋みを上げて彼女の手を包み込み、刻まれた紋様が妖しく輝く。

「ああ。独りじゃない戦場は久しぶりだ。勘を取り戻すには、具合が良い」

 翳した右手に具現化する赤き得物。因果を覆す魔槍は、ランサーの高揚に同調しその身の真紅をなお深紅へと染め上げて振るわれる時を待つ。
 準備は既に整った。恐れなど無く、見据えるのは必然の勝利のみ。遅れ馳せ参じた主従が強く大地を蹴り上げ、閉ざされた冥夜へと風穴を開ける────







 薄皮一枚を隔てた先。あらゆる認識を妨害していた結界内へと踏み込んだ矢先に、視界は唐突に開けた。淀んでいた闇は周りでざわめく木々達だけを呑み込んで、人外魔境の黒き森を連想させる。
 その暗黒を切り拓く白い石段には一切の闇が無い。高く高く、天へと続く階段を思わせる石造りの道をバゼットとランサーは駆け上がる。

 行き先が天国などではなく、冥府である事を知ってなお彼女らの足は止まらない。彼女らの行く先を阻めるものは何もなく、踏み止まるとすれば、数秒の後に対峙する類稀なる才を持つ侍の筈であったというのに。けれどその歩みを呼び止めたのは、耳朶に轟く剣戟の音だった。

 鍔競り合う刃と刃。一切の間隙など無く繰り出される連撃は互いに止まる所を知らず、音響を高く積み上げていく。
 月下繚乱。散らされる火花は無数に咲き誇り、掻き消えては更に大きな火花を描く加速装置となる。光の中に生まれる光。闘争の証。

 バゼットは頭上で踊る剣士達を見据えて、理解する。この死地へと赴いた阿呆は他にもいて、戦端は既に開かれていたという事を。

 ────月の輝きが、蜘蛛の糸のように垂れる真夜。

 唯一つの信念(つるぎ)を振るう剣士と、相克する想い(つるぎ)を握り締めた弓兵の打ち鳴らす、開戦の音色だけが木霊する。






柳洞寺攻略戦/Rondo II




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 遡る事半刻。

 停滞した闇を睨んでいたのは遠坂凛とアーチャーであった。昨日の戦闘行為の後、凛は宝石造りの使い魔を間桐邸と柳洞寺に忍ばせ状況を観察し続けた。間桐邸における結果は無残ではあったが、柳洞寺には確かに異常を見つけ出せた。

 山門へと集う三騎のサーヴァント。ライダーはキャスターに降り、アサシンもまたキャスターに組するこの状況。間桐桜を攫われたという事実を抜きにしても看過など出来る筈もなかった。

「で、どうするのだ凛。この結界の奥がどうなっているかなど、私には分からないぞ」

「わたしだって知らないわ。でも、罠があるって事だけは確かでしょう」

「罠、か。ふん、七騎中三騎を集わせてなお仕掛ける罠があるとすれば、稀代の魔女は相当の臆病者と見えるな」

「そういうの、周到って言うんでしょ。用心に用心を重ねて悪い事なんてあるわけも無いんだし」

「どうかな。完全に自分の管理下に置いている状況は逆に危うい。完璧であるが故に、隙間など無いと信じ込んでいるが故に、綻びが生じた時の驚愕は通常の非ではなく、致命的な事態を招く事もある」

 何処か余裕を漂わせるアーチャーの風体を見上げる凛の瞳には、憮然とした表情が映り込む。変わらないパートナーの顔から視線を外して移ろう暗闇を見上げた。
 結局、打開策も無くこうして柳洞寺を訪れてみたものの、出来る事は限られている。

 進むか、退くか。選択肢は二つしか存在しない。

 行く道は高く厳しい。勝算など欠片も見えない戦いは避けるに越したことは無いが、撤退を選んだところで事態は好転などしまい。むしろ時間を空ければ空けるほど悪化の一途を辿る事になりかねない。
 今もこうしている間に、奪われたものが命を刻んでいるという保証は無い。あるいは既にキャスターの傀儡と化している可能性もあるだろう。

「あの時のライダーの口上を無根拠に信じるのであれば、おそらくだが間桐桜は今も無事だろうがな」

「………………」

 何の安堵に繋がらないアーチャーの言葉は凛の脳裏に響かない。堕ちてきそうなソラを見上げたまま佇んで、それでも凛は心を決めかねていた。

 キャスターの戦術は完全なまでの篭城戦。閉ざされた門は開かれず、踏み込めば勝機など微かにも無い。数に対抗する数を揃えようにもそれだけの駒が無い。退路はあれど、それは逃避と同義だとしか思えない。
 八方塞がり。行く道も、帰る道すら既に奈落へと続く道のように思えて動けない凛を差し置いて、赤い騎士が一歩を踏み出す。

「……アーチャー?」

「行くぞ、凛。退けないのなら、進むしかあるまい」

 それは、余りにも愚かな選択。退けないから進むなど、何処の莫迦が選ぶ選択肢か。赤い背中を向けたまま進む歩を止めないアーチャーに、凛は呆れの声を漏らす。

「アーチャー、いい加減にして。いくら貴方でも、三騎のサーヴァントを相手にして勝てるわけがないでしょう?」

 ましてや、記憶を失くし真名どころか宝具すら思い出せないというのなら尚の事だ。バーサーカーを狙撃した時のように、自らのフィールドでの戦闘なら、勝算は充分にあるだろうが、敵地に乗り込んでの戦闘では弓兵としての能力を最大限に発揮する事は出来ない。

 アーチャーとてその程度理解している筈だ。理解出来ないほどの愚か者でもない事を凛は良く知っている。だからこそ────

「ああ、勝って見せよう」

 ────その言葉に、驚かずにはいられなかった。

「召喚された夜に言ったはずだがな。君は此度の聖杯戦争において最も優れた魔術師だ。ならばそのマスターに喚び出された私が」

「……最強でない筈が無い」

「そうだ。別に私を信じろとは言わない。君が信じるべきは自らの積み上げてきた研鑽と変わる事の無い信念だけで良い。
 そら、ならば行く道などとうに決まっているだろう?」

 そう、そうだった。遠坂凛の意思。聖杯戦争の勝者になり、聖杯を勝ち取るという遠坂の宿願。遠い日に別たれたとはいえ、実妹をこのまま関わりの無い渦中に置き去りにする事は出来ない。
 二つの意思は互いを否定しない。この道は、何れ通らなければならない道。最後に勝ち残るのが唯一人であるというのなら、この先に待つ英霊も、ただ討ち倒すべき敵に変わりなど無い。

 ここで逃げ出せば、きっと立ち向かう意思を挫かれる。ならば向かう先など決まっているではないか。
 呼吸を正す。深く吸い込んだ夜気を熱に変えて、心を静める糧とする。信じるべきは遠坂凛自身だとアーチャーは言った。その言葉に嘘は無く、しかし足りないものがある。

「バカね。わたしがわたし自身を信じるって事は、わたしが喚び出したアンタを信じるって事でしょう?
 だからアーチャー。わたしに貴方を信じさせて。絶対に負けないって、約束して」

 凛の真摯な瞳を受けて、アーチャーは不敵に口元を吊り上げる。見据えるソラを射抜く眼光は獲物を狙い定めた鷹のように鋭い。

「問われるまでも無い。この先に待つ敵を討ち倒し、最強を以って凛の信頼に応えよう」

 握り締めた拳になお一層の力が宿る。
 実の所、アーチャー自身、自らの言葉に驚きを隠せない。これより挑む死地は彼の目的とは全くの関わりの無い場所だ。ただ目的を果たすだけなら今宵は逃げ帰ったところで支障など無い。

 無いはずなのに、戦う決意をしたのはきっと──彼の胸に去来する、懐かしい記憶の残滓によるものだ。

 色褪せた記憶。擦り切れた心。理想を貫くと決めたあの日に置き去りにしてきた、輝かしい日々の思い出。それが今頃になって脳裏を掠めるようになったのは何故だろうか。赤い騎士自身にすら理解の出来ない現象を、頭を振ることで消し去って。

 ────理由など必要ない。凛が言ったのだ。信じさせてくれと。ならば、それだけでいい。その想いに応える為に今宵、私は悉くを凌駕しよう。

 石段が砕けるのではないかと思えるほどの踏み込みで、赤い騎士はソラを目指す。後ろには黒髪を靡かせた愛おしい主の姿がある。彼女を守る為の騎士に、迷いなど生まれる余地は無い。







 出迎えたのは跋扈する骸の一群。天へと昇る石段を埋め尽くす骨造りのゴーレムを、切り払いながら駆け上る。魔女の真意は掴めない。同じ雑魚を何度繰り出そうと、彼女らの歩を止める事すら叶わないと未だに気付けないというのか。
 砕け散った骨が夜空に消える。埋め尽くされた暗黒は、彼女らの後ろに白い道を築き上げながらソラを目指して続いていく。

 石段も半ばを過ぎた頃。唐突に一陣の風が頭上より吹き荒ぶ。アーチャーの剣戟に匹敵する一撃は、目視すら許さないとばかりに無数に振るわれ、白銀の軌跡だけを残して静まり返る山林に風を斬り続ける。
 称するのなら、それは紡がれるメロディーの如く。奏でられる音響は重なり続けて粉塵を撒き散らす。

「────侍か」

 そうして。開けた視界には一人の男が立っていた。手にした刃は月の雫を一身に浴びて煌きを誇り続ける。
 赤い騎士はソラを睨み、紫紺の侍は地上を見下ろす。カタチのまるで違う信念(つるぎ)を携えたまま、巡り合った斃すべきを敵を睥睨する。

「侍? くく、ははは。そんな呼称、生前一度たりとも受けた記憶は無い。私は侍などではない。ただ剣を振るい続けた、百姓よ」

 月を背に歌う自称百姓の顔には、喜色が浮かぶ。待ち望んでいたものがようやくこうして姿を現した。なれば、心躍り胸も高鳴るというもの。しかし、降り注ぐ月の光を浴びて灰に還り、風に乗って空へと舞い上がる塵だけは気に食わない。

「キャスターよ。このような姑息な策で、私の戦場を穢してくれるな。せっかくこうして兵が現れてくれたというのに、気を害し帰られてしまっては私の願いは叶わないままではないか。
 ────もう一度言おう、魔女よ。私の邪魔をしてくれるな。この一戦、いかな貴様であろうと余計な手出しをすれば斬って捨てるぞ」

 虚空を睨む視線は、触れるもの全てを切り裂く諸刃の剣のよう。強気な言葉は絶対的な主従関係に否を唱え、魔女の怒りを買い、たとえこの身が朽ち果てようと、目前の敵を討ち倒すという決意に他ならない。

 なればこそ、魔女の手駒である無数の骨を粉微塵と化したのだ。
 この山門を守るのは我独り。数多の屑など無用の長物。信頼などいらぬ。けれど、我が秘剣に賭けて、この門を潜る事は何人たりとも赦しはしないと。

 ソラに消えた言霊に還るものはない。それを、侍は肯定として受け取った。

「さあ、これで余計な邪魔は入らない。いざ、死合おうぞ」

 構えられない刀は、明確な殺意を灯すトリガー。放たれた剣気は、舞い散る木の葉を引き裂いてなお余りある。

「────ふん、面白い。貴様を超えねば先へと進めぬと言うのなら、良いだろう。一介の百姓風情が、粋がった事を後悔させてやる」

 硬く握り締められた二対の剣が牙を剥き、応じる牙もまた長大。敵と認識しあった者同士に、余計な思考など生まれない。ただ目前の人影を両断するだけの、殺戮機構へと変貌するのみ。

 ────互いの白刃は交わりて、火蓋は切って落とされる。







 風の衝突をただ、彼女は見守る。打ち鳴らされる剣戟は近づくもの全てを切り捨てんと裂帛する。凛の差し挟む余地など微塵も無い。これより先、数メートル前方に展開する空間は既に彼らだけのものだ。他を寄せ付けぬ、狭くも遠い一つの戦場。

 見上げる凛には、それはまるで高層ビルの屋上から遠い世界を俯瞰しているように感じられる。他人事。関われない別世界。
 サーヴァントの戦闘とはつまり、そういうものなのだ。マスターなど所詮ただのバックアップ。いざ戦闘が始まれば、後はただ静観し、己が従者の勝利を願うか、認識の追いつかない感覚を研ぎ澄ませ、思考を巡らせるくらいしか出来る事はない。

 いや、それだけの事が出来るだけで充分に過ぎる。先の見えない暗闇のように展開される一瞬の連続を追い続け、関与などしない第三者としての視点から俯瞰する。そうする事で見えるものもあるだろう。

 凛はただ追い続ける。二対の剣を変幻自在に駆使し、神速をも上回る軌跡を繰り出す強者と対等以上に渡り合う赤い騎士の姿を。勝利を約束せし彼の言葉を信じて。

 その、限界を超えてなお白熱する闘争の裏で。凛は、本当の第三者の到来を感知する。

「────ランサー……!」

 高い石段より振り返り、見下ろす先。高速で接近する主従の正体を看破するや否や、懐へと手を伸ばす。アーチャーがアサシンとの攻防に全力を費やしている以上、身を守る術は蓄えた魔術の知識のみ。
 予期していなかったわけではないが、出会う可能性は低いと睨んでいた新たなる主従の襲来は、この一瞬、瞬きの間こそが勝負の分かれ目。

 見上げるカタチで昇り来るランサー達には、凛の姿は逆光として映る。ならば今が絶対の好機。手を伸ばし掴んだものは、大粒の宝玉。
 繰り出すは凛が幼少より長く魔力を溜め込んできた十の宝石の一。ランクに換算してAに相当する一撃。サーヴァントでさえ警戒せずにはいられない光の弾丸。

「いけっ……────!」

 振り下ろされた凛の腕。奔る閃光。放たれた弾丸の輝きはより強い眩さを得て、目標と定めたランサーの主──凛は未だ名も知らぬバゼット──目掛けて疾駆する。

 躱せない。その一撃は、躱せない。ひたすらに上を目指して駆けていたバゼットの推進力はブレーキをかけるにしては、些かスピードに乗り過ぎている。本気ではないとはいえ、サーヴァントであるランサーと併走出来る程の速度なのだ。急停止しては身体全体での静止を余儀なくされる。それでは躱すことなど適うまい。

 ならば。

「ふっ──────!」

 バゼットは何を思ったか、更なる踏み込みで石段を蹴り上げる。目前にまで迫る白光の渦へと突入してしまいそうな勢いで加速する。
 低い姿勢のまま、握り締めた拳になお力を篭めて。衝突の瞬間、彼女の右腕は最高速度で振り抜かれた。

「なっ……」

 驚愕の声は凛の声帯より零れ落ちる。一瞬の攻防。弾け、視界を染め上げた閃光の先に渾身の右ストレートを振りぬいた姿勢のまま停止したバゼットの姿は健在で。焼け付いたグローブが僅かに白煙を燻らせているのが見えた。

「……うそ」

 ランクA相当の魔術を、ただの拳で粉砕してみせるその異常。魔術による防護が働いていたとしても、そんなもので防がれるほど生温い一撃ではなかった筈だ。
 だからこそ凛は戦慄する。今まで姿を現さなかったサーヴァント・ランサーのマスターは臆病故に身を隠していたのではなく、何らかの事情で姿を見せられなかっただけであった事に。

 新たなる強敵の出現は、秘奥の宝石魔術を相殺された事以上に凛の心をざわつかせるには充分な不安要素だった。





/2


 上がる白煙が風に攫われていく。焦げ付き、僅かに皮膚の露呈したグローブを外して投げ捨てる。

「良い一撃でした。流石に時計塔に噂される程の人物だ」

 バゼットの心からの賞賛は凛の耳朶に届いていない。凛の脳裏を埋め尽くすのはこの状況をいかに打開するか。ただその一点にのみ集約される。
 露わとなった右手をぷらぷらとさせて、バゼットは凛の更に奥でなお戦い続ける二騎のサーヴァントを視界に収める。

 アーチャーもアサシンもバゼット達の到来には気付いているだろう。それでもなお剣戟が響き渡るのは、アサシンが攻撃の手を全く緩めないからだ。後方へと意識を割いた状態で相手取れるほど、この相手は甘くは無い。
 アーチャーをしても迫る剣戟を受け切る事に集中せざるをえないアサシンの力量は誰の目に見ても英霊と呼ぶに相応しいものであろう。

 内心、焦りのあるのはアーチャーの方だ。守る者を抱えての戦闘行為は慣れていても、状況が悪すぎる。何より、ランサーの傍らにいる筈のない人物の影にこそアーチャーは瞠目せずにはいられなかった。

 そんな赤い主従の胸中など知らず、バゼットは淡々と状況だけを観察し、距離を離したままの凛に向けて白い右手を差し出した。

「自己紹介が遅れました。私は魔術協会より派遣されたバゼット・フラガ・マクレミッツという者です。初めまして、貴女が遠坂凛さん……ですね?」

 にこりと、戦場に似合わない微笑みを湛えるバゼットの顔を、凛は険しい表情を崩さないままに見据える。

「貴女が私を警戒するのは当然です。が、先程の一撃は身を守る為に仕方の無かった事でした。そちらにしても、相対する前に消し飛ばそうとした以上はそれなりの覚悟があっての事でしょう?」

 身構える凛の身体が一層強張る。奇襲を防がれ、アーチャーは未だアサシンに囚われたまま。魔術師としてのランクは間違いなく目の前の女性の方が上で、傍らには無傷のランサーが控えている。
 まさか、こんなカタチで絶望の状況下へと放り投げられるとは夢にも思わなかったに違いない。それでも、やらなければやられる────!

「動かないで下さい、凛さん。動けば、瞬きの内に貴女を殺します」

「な……くっ!」

 彼我の間合いは距離にして五メートル。彼女ほどの身体能力の持ち主なら、魔術でブーストをかければ真実、凛との距離を一瞬すら待たずにゼロに出来るだろう。
 本当なら凛の宝石魔術を防いだ直後、バゼットはもう一歩踏み込めば凛の脳髄ごと吹き飛ばせていた筈なのに。それをせず、今もこうして言葉を交わしている意味をようやく口にする。

「どうでしょう、凛さん。私達と手を組みませんか?」

「は────?」

 唐突な提案に、凛の思考は真っ白になる。

「私達が用があるのはこの先、おそらくは境内で相対する事になるであろうキャスターのみです。立ち塞がるというのならアサシンさえも打倒する心構えでしたが、貴女方がいたのは私にとって僥倖でした」

「……つまり、わたし達がアサシンの相手をして、貴女達がキャスターを相手取るって、そういうこと?」

「話が早くて助かります。どうですか? 今宵限りの協定、いえ、この一瞬限りの休戦という方が正しいのか。
 どちらにしても、貴女方にとってもそう悪い話ではないと思いますが」

「……そうね。だけど一応聞かせてもらえる? もしわたしがその申し出を断れば?」

「語るまでも無い事ですね」

 やっぱり、と凛は内心毒づいた。それは提案ではなく、ただの脅迫だ。否と答えた一秒後に、凛の首が胴体と繋がっている保証は無い。
 一瞬見ただけのバゼットの戦闘能力であるが、正しく理解は出来ている。抵抗するだけ無駄、いや抵抗する時間すら与えられないかもしれない。それほどの力量を秘めた、魔術師らしからぬ戦闘スタンスの近接戦闘者。

「分かったわ。その提案、呑みましょう。ていうかそれ以外に選べるものなんてないし」

 悪態をつきながらも肩にかかっていた重圧を紐解いていく。いつでも殺せる状況下にありながら、わざわざこんな提案をした以上は不意打ちなどを考えてなどいないだろうし、凛もまたそんな危惧をしていない。

 丁度その頃、頭上で繰り広げられていた死闘に一時の間が生まれた。弾け合った極大の火花は互いの得物を大きく弾き、同時に間合いさえも離させた。

「て、いうわけなんだけど。話、聞こえてたアーチャー?」

「……一応な。しかし────」

 凛の傍らまで後退したアーチャーに囁かれる声に答える。山門を背に、佇み動く気配の無い侍より逸らした視線が捉えるのは臙脂色の髪の女性。耳に輝く銀色を彩った、うら若き乙女の姿。
 それは、いてはならない。いる筈のない亡霊だった。

「チッ。狂っているな、何処までも。一体狂いだした元凶はなんだ……?」

 連綿と続けられる過去より未来へと到る足跡。刻まれる道は一つではないが、道が別たれる時、必ず基点が存在する。踏み外された道の因、既に過ぎ去った、遠い日の物語。知りようも無い発端は、今なお語られることは無い。

「? アーチャー、私の顔に何か?」

 訝しげな視線を投げかけるバゼット。アーチャーは首を振り、

「いや、気にしないでくれ。それより、ふん。君がランサーのマスターか。
 我が主に対する無礼を諌めたいところだが、それは奥で嘲笑う魔女の思う壺だろうから止めておこう」

「賢明ですね。それに凛さんが私の案件にイエスと答えた時点で、この場で私達が争う理由は既にありませんから」

「脅迫紛いの事言っておいてよく言うわ。ってか、はい。もういいでしょ! 馴れ合ってる時間なんてないんだから、さっさとやるわよ!」

「んなカタイこと言うなよ嬢ちゃん、久々に会ったんだからよ。それよりあの坊主とは上手くいってんのか?」

「ああああああ、もう、うるさーい!」

 収拾のつく気配のない凛達のやり取りに、零れる笑いは頭上からだった。

「全く以って愉快だが、ここが何処か忘れたわけではあるまいな? 戦場での戯れは、死力を尽くした中でのみ窺い知れる享楽だけだ。
 それ以外の戯れなど、剣を担う者に対する無礼というものだ」

 アサシンの長刀が揺れる。切っ先に映る月影が、酷く冷たいものに感じられて。

「ただじゃ通してくれないって感じだけど。押し通る自信はある?」

「無論です。一秒、出来れば二秒。引き付けてくれさえすれば山門を潜り抜けて見せます」

「充分だ」

 アーチャーの応という言葉をトリガーにして、皆の意識は切り替わり、身体は弾ける時を待つ。
 各々の目的は語られず。それでなお、無言で交わされる視線だけが合図となり────

「はぁ────!」

 先陣を切るアーチャー。両手に携えた双剣を構え直して、駆け上がる一瞬。掌から放たれる円月の軌跡。空を切り、刻み込まれた意思を以って惹かれ合う干将・莫耶はアサシン目掛けて飛行する。
 踏み止まらず、駆け上がるアーチャーは担うべき剣を投擲した以上、無手である筈だというのに。今なお滑空する双剣と全く同様の双剣を携えて肉薄する。

 都合四本の剣がアサシンへと集中し、一刀しか持たない侍は迎撃せざるを得ず、両脇をすり抜けていく主従を見逃す他に手は無かった。

 アサシンの顔には、門番としての役割を果たせなかったという後悔の念などなく。ただ鍔競り合うこの瞬間に愉悦を覚えて口端を吊り上げる。
 結果、最初と変わらない顔触れだけが揃い、音響は積み重なる。

 奇しくも両者は無を有するもの。
 刻む銘を持たないただ一振りの剣と、在って然るべき名を持たない一介の百姓の衝突。

 加熱する剣戟に呼応するかの如く、戦局は終幕を目指して駆け上がっていく。













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