剣の鎖 - Chain of Memories - 第二十九話









 山門を潜り抜けた先は、人工の灯りなど無い、広い場所だった。暗く沈殿する闇。けれど天頂に浮かぶ蒼月の輝きが淡く降り注ぎ、ぼんやりとした自然光だけがその空間を支配している。

「────」

 細められたバゼットの瞳が睥睨する。綺麗に削り取られた四角い板が何十、何百と敷き詰められた境内。色を失い荒涼とした、まるで死地のような虚無感。
 最奥に聳える伽藍にも既に灯る火はない。それも当然。ここが魔女の支配地であるというのなら、その内側にいる者の悉くは彼女の傀儡と化しているだろう。本人にはその意識すらも無く。

「ランサー」

 短く、トーンを落とした声で囁きかける。問う必要などない。その名を呼ぶだけで、彼ならば彼女の意を汲み取れよう。

「気配は無い。つーか、この場所全体からあの女の気配を感じるって言う方が正しいか。例えるなら、キャスターの胃袋の中にいるような感覚だ」

 自らで口にしておいて顔を顰めるのはどうかと思いつつ、バゼットもまた似たような感覚を感じ取っていた。
 石段に漂っていた魔力よりなお濃い魔力。視覚でさえ認識出来てしまう程に凝縮された神秘の源。これほどの魔力を溜め込む為に、一体どれだけの人間がその精気を奪い取られたのか、考えるのも莫迦らしい。

 頭を振る。ガキン、と音を立てて余計な思考に封をする。これより先は、バゼット・フラガ・マクレミッツと相対するもの全てを屠らんとする戦闘機械へと変貌する。彼女の目に宿る火は憤怒の炎などではなく、ただ敵を燃やし尽くす焔に相違ない。

 背負い直した銀の筒が月光を受けて輝きを誇る。引き絞られた革手袋が音を立てて爪先にめり込む。掌握を繰り返して、研ぎ澄ませた感覚に摩擦が無い事を確認し、目標と定めた伽藍目掛けて駆け出そうとした足を──かつん、という音が呼び止める。

 響く音。石畳を踏み締める音。それは、人が近づいて来る証だった。

 頃合を見計らったかの如く、月が翳る。ただでさえの暗闇に、視界を阻む魔力の灯火。目を細めてようやく十メートル先を見通せそうな暗黒の中。近づく人影は、絶世の美貌を誇っていた。

「……彼女は」

「ライダー。なんで貴様がここにいる?」

 言葉などなく。覆い隠された彼女の美貌のように、真意は雲の如く掴めない。ランサーの問いかけなどまるで黙殺して、ライダーは歩むスピードを緩めることなく。一歩を踏み出す度に紫紺の髪が怪しく揺れる。

 身構える主従。緊張は針の気配へと変わり、彼女らの全身を走り抜ける。還るものがない以上、目前の女はただの敵。この先にいるであろう魔女への行く手を阻むというのなら、全力を以って打倒するのみ。

「去りなさい」

 その緊張に一滴の水を垂らす、ライダーの吐息。

「この先へは進ませない。私には私の守るべきものがあるのです」

 明確な敵意。滲み出る殺意。言葉は真実。彼女の覚悟の顕現に呼応して浮き上がる釘と鎖で構成された奇妙な短剣。ジャラジャラと蛇のうねりで鳴り響くメロディに、応えるのは青き槍兵。

「そうかい。じゃあ貴様はオレの敵だ。テメェの理由なんか知ったこっちゃねぇ。邪魔をするのなら、その身体に風穴を開けてやる。
 ──いつかのように、見逃してもらえるなんて思わねぇよな?」

 赤い牙を一振りし、斜に構えられた穂先は地との摩擦を生み、火花を起こす。手にした槍と同じように研ぎ澄まされていくランサーの感覚。発される激情が夜露を祓う。

 戦闘態勢へと移行したランサーとは対照的に、バゼットは一歩後退した。瞳を閉じ、開かれた時に映るのは、憧れの背中。夢中の空想。触れられぬ、過ぎ去りし一時限りのユメ。ただそれが今、傍らにあるという事実は覆らず。

「ランサー。私は手出しをしない。ここで、貴方の“全力”を見せて欲しい」

 ────マスターとサーヴァント。その在り方を体現するバゼットの言葉は信頼の証に他ならない。長らくバゼットの治療へと力の大半を割いていたランサーだが、彼女が完治した今はその分の力が戻っている。

 今まで一度として確たる勝利を持ち帰る事のなかった己が従者に不覚は無い。彼女の望み故、あるいは制限された能力下の中での戦いを強いた事こそ、彼女が抱く彼に対する懺悔の証明だ。

 バゼットは未だ、彼の本領を見ていない。開戦より前に交わしたキャスターとの前哨戦も挨拶程度のもので、互いに力を温存しての測り合いであった。その後は言わずとも理解できよう。
 だからこそこうして彼の戦いを、彼の本気を見るのはこれが初めてなのだ。本の中の彼を知っている。本の中の彼の強さを知っている。けれど、本物の彼の力を未だ知りえない。だから今──その力を見せて欲しいと。

 青く、大きな背中越しでは彼の表情を窺えない。けれど確かに、笑った気がした。

「ああ、存分に見るがいい。アンタが喚んだサーヴァントの、実力を────!」

 蒼が爆ぜる。軌跡は残影を生み、加速を超えてなお加速する。放たれし一条の鮮紅が、光となりて黒夜を衝き穿つ。






無銘vs無名/Rondo III




/1


 響き渡る剣戟の声は、止まる事を知らず。数分を超えてなお収まらない戦場の音色は詰まるところ、どちらも決め手を欠いていただけかもしれない。あるいは、この刃と刃が重なる瞬間の連続の余韻に、無意識のうちに浸っていたのかもしれない。

「────チッ」

 悪態をつきながらも、光が過ぎ去ったかのようにしか感じられないアサシンの剣閃を手にした双剣で防ぎきったところで、アーチャーは後退を余儀なくされた。
 ランサーをして戦上手と言わしめるアーチャーが踏鞴を踏む。長く積み上げてきた戦闘経験が、類稀なる才の前に霞んでしまう。研ぎ澄まされた五感が、なお上回る超感覚にあしらわれる。手にした双剣が、その一閃の前に無為に堕ちる。

「アサシン……か。ふざけているな、貴様の何処が暗殺者だというのだ」

「私自身、暗殺者としての生など歩んだ覚えは無い。なに、亡霊が偶然空いていた席に滑り込んだというだけの話であろうよ」

 そんなバカな話は無い。聖杯戦争において、クラスという名の器は必然に拠って決定される。剣を担う者が槍兵として喚ばれる事が無いように、暗殺の術を知らぬ者がアサシンのクラスに収まる事など有り得ない。

「そうよ。無関係なクラスには収まらない。収まるようなら、最初からクラスなんていう器は用意されないもの。
 聖杯でさえ七人もの英霊を無差別に喚べる許容量を持っていない。だから、わざわざこちらで用意した器に見合うレベルの英霊だけを召喚する。だから、貴方がアサシンとして喚ばれた理由は必ずあるわ」

 聖杯戦争の発端たる家系の一、遠坂にもその程度は知識として残されている。だからこそそんな偶然は有り得ない。彼女のサーヴァントであるアーチャーでさえ、今は何を思ってか剣での戦闘を行っていようと、本領は弓兵としての本質を露見した時にこそある。

「常ならそうなのだろうが、何事にも例外は存在するぞ、魔術師よ。凝り固まった思考は危うい時ほど瞬発力を鈍らせる。柔軟な思考はいつ何時でも重要だ」

「忠告どうも。けどね、じゃあアンタがその例外だっていうわけ?」

「さてな。私にこれ以上語るものなど無い。我らに出来る事など余りに寡少。手にした刃で語らう事こそ、口よりもなお雄弁に我らの想いを紡いでくれる」

 長刀が僅かに揺れる。月の翳った闇夜に、銀色の輝きを灯らせて。

「そら、どうしたアーチャー。かかって来なくて良いのか? この先にこそ、貴様らの望むものがあるのだろう?」

「──────」

 アーチャーは双剣を握り締めたまま動かない。睨みつける眼光にはまだ戦意が消えていない証が灯る。
 されど、状況は千日手に近い。奇しくも両者は防戦を得意とするサーヴァント。アサシンは頭上の優位を保ったままで、アーチャーは攻めあぐねる。遥かに遠く、けれど何処までも近いその一歩。絶対的な死地へと踏み込む好機を赤い騎士は生み出せない。

 守るだけの侍。駆け上がらなければならない弓兵。どちらが有利かと問われれば、誰の目にもアーチャーの不利は揺るがない。が、このまま続けても負けはしない。けれど勝ち得もしない。
 言うなれば状況は五分。赤い主従に一刻も早く境内へと踏み込まなければならないという焦りさえなければの話だが。

「ク────」

 その時、アーチャーが喉を鳴らして嗤い。手にした剣を放棄した。

「……アーチャー?」

「もう止めだ。このまま続けても結局状況は動かず、ただただ体力の浪費ばかりを続ける始末。もしそんな状況下に第三者が現れれば、その時こそお終いだ」

 自由になった腕を組み、嘆息を漏らすアーチャーに凛は瞠目する。先程の言葉は何処にいってしまったのか。最強を証明するという言葉は嘘だったのか。なかば投げやりなアーチャーの台詞に、けれど凛の信頼は揺るがない。
 勝つと言った。打倒すると言った。ならばその言葉を信じることこそ、今の自分に出来る最良に違いない。

「ああ。────だからこの状況を、終わらせる」

 赤い騎士の右腕が上がる。水平に伸ばされた腕。何も掴めない右腕に、魔力が集うのを凛は見た。

「────投影(トレース)開始(オン)

 言葉が響く。静けさに裏打ちされた無音の世界に、赤い騎士の言霊が浮かび上がり、ソレを創り上げる歯車となる。

「なっ……」

 驚きは誰のものだったか。石段の中央に立ち尽くし、伸ばした右腕は結局何も掴まないままに保たれて。けれど異変は既に生じている。
 アーチャーを中心として、半円状に展開する──剣の群れ。数にして十に及ぶ刀剣類が空中に静止したまま合図の時を待ち侘びる。

「面妖な。貴様、何者だ?」

「さあな。オレ自身、オレが何者であるかなど知ってはいない。理想に振り回された愚かな道化。せいぜいがそんなところだろう。
 ただこの場所に立つ者が何者かは理解している。オレが何者かと、そう聞いたな侍。決まっている」

 右腕が振るわれる。掌は握り締められ、

「オレは────オマエを斃す者だ」

 言霊を合図とし、さながら撃鉄を落としたかの如く、綺麗な半円を描いていた剣が視えない銃口より撃ち出される。
 鈍色の輝きを誇り、刃毀れの一つとて無い無数の剣が鎌首を擡げ、敵と認めた頭上の男めがけて殺到する。







 降り注ぐ剣群はさながら雨のよう。違うところがあるとすれば、それは地上よりソラに向かって射ち上げられている事であろう。
 剣は赤い騎士の意思一つで顕現し、号令一つで射出される。一歩すら動かず、ただただ魔力を練り上げて、頭上で迫る刃を切り払う侍へと、更に多くの刃を逆向けて絶望へと叩き込む。

 アサシンの長刀は振るわれ続ける。終始戦況を有利に運んできた侍に、ここに来てついに不利が生まれる。
 如何な長物を振り翳そうと、階下に見えるアーチャーまでは届かない。間合いを離されての戦闘。剣を交えない仇敵の攻撃手段。何よりも、間断なく繰り出されるアーチャーの剣群を払い続けなければならない。

 迫る剣はそのどれもが一級品。北欧の英雄が所有していた剣があれば、南米辺りに伝わる剣もある。古今東西、ありとあらゆる剣が無より生じ放たれる。
 一撃もらえばそれだけで戦闘不能は目に見えて、その一瞬は勝負の分け目にしては近すぎる。故にアサシンは下段より射ち出される剣群を逸らす事に終始する。

「アイツ……! 記憶が無いなんて嘘じゃないの!」

 今のアーチャーは自分の戦闘方法を理解した上で剣を射ち続けている。でなければ無数の剣を作り出しての攻撃など、記憶が無くて出来る所業ではない。
 つまり今の今までアーチャーはあえて双剣を担っての戦闘行為に及び、本来あるべき戦法をひた隠しにし続けていたのだ。その理由は判らない。けれど、この攻撃手段を持つからこその弓兵である事は、凛にも理解が出来た。

「そんな事はどうでもいいわ。でも、これなら」

 ────勝てる。

 超遠距離こそが赤い騎士の戦場だと思っていた凛にとって、この間合いでの一方的な攻撃能力は嬉しい誤算だ。
 敵の剣戟は届かず、銃よりも速く射ち出される剣はこの狭い空間では避けきれない。ならば正面から相対して打ち払うしかなく、事実アサシンは以前の戦を愉しむ余裕を見せていた表情を置き去りにして、ただただ剣を振るい続ける事を余儀なくされている。

 それでもまだアーチャーは余力を残している。一度に射ち出す剣の本数が浮かび上がる剣に対して少なすぎる。その気になれば、剣群全てを同時に射出する事とて可能だろう。そうしない理由を、凛は知っている。

「埒があかぬ、な」

 アサシンへと迫る長刀は切り上げられ、同時に粒子となって霧散する。銀色の光が、剣が剣を防ぐ度に生まれては消えていく。
 この状況は、結局何も変わっていない。ただ戦況を有利に進めている者が入れ替わっただけで、膠着状態を維持したまま時間だけが無常にも過ぎていく。

 その状況を切り拓く────赤い騎士の一手が顕現する。

 常に十の剣を浮かび上がらせては、その内の二、三本づつしか射出していなかったアーチャーが、一度に射出する量を増していく。四本、五本、六本。
 マシンガンの弾か何かと勘違いしたかのように射ち放たれ続ける剣は、凛に虚脱感を産み落とす。一本創り上げる為に魔力を奪われ、それが数分と続けば並の魔術師の数十倍はあろう凛のキャパシティでさえ圧迫する。

 それでもこの山門を突破出来るのなら安いものだ。先に潜り抜けた二人が今どうなっているかは知らないが、目的とする敵が同じである以上、その敵が倒されるまでは少なくとも休戦状態にある。
 せいぜい敵を弱らせてくれればいい。既に打ち倒されているのなら、それまでの輩だったというだけの事。

 凛の思考は既に境内へと向けられている。この石段での戦いは、もう間もなく終幕を迎える。

 繰り出す剣の数を増すアーチャーに対し、アサシンは唯一の剣で以って迎撃に当たる。剣速は音速さえ突き破り、神速を捉えてなお加速し続ける。上へ、上へ、もっと高みへ。我が剣は、このような位に収まるべき術ではないと信じ続けて。

 弾幕を繰り出し続けるアーチャーは顕現させる剣の数すら増していく。十あった剣を二十に引き上げ、繰り出す剣すら増していく。
 それでもなおアサシンの剣閃は止まらない。刃が襲い来る恐怖などおそらくあの侍には無い。一瞬の好機を待ち続けて、剣は止まらず振るわれて。

「ハ──────」

 僅かに一瞬、剣群の音が止み。暗闇に灯る剣の輝きが、三十を数えていた事にアサシンは瞠目する。
 流石の侍も、その全てを同時に射ち出されては為す術を失うだろう。そう、赤い騎士は理解して。

「────停止解凍(フリーズアウト)。去らばだ、名も知らぬ侍よ」

 撃鉄が落とされる。声は合図となりて、ソラで待つ紫紺の侍へと殺到する。
 数にして三十余。躱せない。避けられない。ただ一振りの剣では、同時に強襲する剣群の全てを打ち払えない。幾つかは確実に被弾し、隙は絶対の好機に取って換えられる。

 迫る刃の壁。さながら銀色の死神が階段を駆け上り、天国へと踏み入ろうするかの如く映り。絶対に捌ききれないと解っている数の剣を目前にしてもなお、アサシンの顔に怯えの色は無く。────ただ、この戦が始まって以来の構えを見せた。

 魔弾に背を向け、両手の添えられた業物は大地に水平。美しい刃は消えない輝きを湛え続ける。

「秘剣────」

 そう、ただ一振りの剣では捌き切れないというのなら、二つ剣を担えばいい。二つでさえ足りないというのなら、三つの軌跡を描き切ろう。
 いつかのように、足場の不備は無い。万全の状態で振るわれる……名も無き一人の男が類稀なる才と、血も滲む努力の末に体得した秘奥。たった一羽の燕を地に落とす為だけに創り上げられた、天下無双の剣豪の宿敵が体現した幻の剣。

 其は。

「────燕返し」

 生まれた軌跡は同時に三閃。全くの同時に生まれる剣筋。有り得ない。一本の剣で、一瞬の誤差すらなく三本の軌跡を描く事など人には不可能。
 ならばその身は鬼神の類か。否、断じて否。彼の者は人にして、人ならざる領域へと踏み入った唯の人。宝具すらなく、持って生まれた才と積み上げられた技術とで、並の英霊に拮抗する泡沫の亡霊。

 されど、彼は此処に在り。

 奔る閃光は三重の檻。上下左右正面背後。一切の逃げ場を失う悪夢の牢獄。一の太刀を避けたところで二の太刀が道を遮り。二つの軌跡を読みきり躱せたところで、終の太刀が生を摘み取る。
 偶然は三度続かない。たとえ相手が世に最強を誇る生物であったとしても、必ず一度は殺してみせる。もし三度続く偶然などいうものがあるとすれば、それは同じく世の理を超越したものであろう。

 故に、この牢獄からはたとえ無生物であっても逃れられない。
 刃の檻が三十余の剣を捕え、完璧に封殺する。弾き、捌き、切り払われた剣群は、眩いばかりの銀光へと変わり闇夜を彩る中。

 ────その鮮明を、突き破る影がある。

「……アーチャー!」

 僅かな硬直。必殺の剣を放ったが故に生じる刹那にも満たない隙を、彼の戦上手が見逃すわけも無い。剣群を放った直後、階段を駆け上がったアーチャーの手には双剣が握られていた。

「切り札というのはな、先に見せるものではない」

 アーチャーが見せたアーチャーらしからぬ、けれど弓兵として喚ばれた証明である剣の射出を目の当たりにした以上、そこに本質があると誰もが思い込む。
 そも双剣を手にして戦う弓兵など聞いたことが無い。双剣を手にして戦っていたのはカムフラージュ。本来の戦闘手段を隠し通す為の、彼の策。

 ────だがそれがもし。その本質こそがフェイクであったしたら。双剣を担う戦闘手段こそがアーチャーの本当の切り札だったとすれば。張り巡らされた二重の迷彩。戸惑いは好機へと繋がる道。

 放たれる白と黒の夫婦剣。各々が半月を描き、頂点で交わり真円を描く投擲。同時に、再度握られる新たな夫婦剣を手にアーチャーは今まで踏み込めなかった死地へ、アサシンの絶対の間合いへと肉薄する。

「ぬっ……ぁ!」

 初めて、アサシンが苦悶を漏らす。固まり動かない身体を無理矢理に酷使して左右より迫る双剣を弾き飛ばす。刹那をおいて振り上げられる、アーチャーの手にした一対の剣が牙を剥く。

 だが間に合う。アサシンの剣速を以ってすれば刹那とはいえ時間があるのなら、迎撃の手は間に合わせられる。
 そうすれば、元の木阿弥。二本の剣を以ってしても、アーチャーではアサシンの剣速に及びはしない。一度防げば流れはまたアサシンへと引き戻される。

 いや、それだけでは済むまい。アーチャーの立ち位置は既に死地。一撃防げば、次の一閃はアーチャーの肢体を斬り裂いて余りある。

 ────その確信が、赤い騎士の予期せぬ一手に塗り替えられなければ。

 あろうことか、アーチャーは手にしていた剣を更に投擲した。目前の侍へと投じられるのではなく、先程と同じように左右へと放たれる軌跡。
 一瞬後には再度握られる一対の剣。都合三対。二対は空へと、一対は手に。そうして。始めに投じられた双剣が、導かれ、惹かれ合うように舞い戻る。

「なに────っ!」

 左右、背後より投擲された剣が強襲し、階下からはアーチャー自身が肉薄する。この一瞬、アサシンは三対の剣による同時攻撃を受ける事になる。
 アーチャーの狙い。積み上げられた必勝の策。全ての演出は、この瞬間の為にあり。

同調(トレース)────」

 アーチャーの手にした双剣が異質に蠢く。強化を施された白と黒の剣が奇形を帯びて増長する。
 鶴翼三連。そう名付けられたアーチャーの真の切り札。三対の剣が全くの同時にクロスを描き、死を確定させる刃の多重層。双剣に刻まれた意思。アーチャーがこの剣を愛用する真実が其処に在る。







 必殺の剣は必殺であるが故に二の太刀を憂慮せず、もし相手が凌いでしまえば返り討ちは必定。アサシンの置かれた状況はまさにそれ。
 相手の切り札を剣の掃射と思い込み、その先を考えもしなかった。まさか、手にした双剣が真なる刃だとどうして気付けただろう。彼の者はアーチャー。故に、矢を用いた戦術が最強の攻撃手段でなければならない。

 つまりは────例外は此処にもいた。

 目前に迫る赤い騎士は弓兵に在って弓兵に在らず。ただ弓兵としての攻撃手段を備えていたからそのクラスに収まっただけに過ぎない。あるいは、そのクラス以外に該当するものがなかったか。
 それでも、それほどまでにおそらく、弓兵には目的がある。願いがある。確固たる意思を秘めた瞳が、ゼロ秒後の死を引き連れて迫り来る。

「────ク」

 だから、アサシンは笑ってやった。
 ただもう赤い騎士の刃が振り下ろされてしまえば、両断され消えて亡くなる自らの肢体を脳裏に浮かび上がらせながら、アサシンは口元に笑みを浮かべる。

 生前、一度として死闘などと縁のなかった己が、このような俗世に駆り出され、あまつさえ顔も素性も全く知らぬ他人の真似事を出来るという理由のみで喚び出された亡霊が、今確かに死地で強敵と相対している。

 しかも既に覆られない状況。敗北は瞬きの後に決される。
 良くやった。善戦した。悔いのない戦いを出来た。思い残す事はもう何も無い。こうして刃と刃とを重ね合わせ命を賭けた血戦が、彼の望みであったから。死も敗北さえも甘受しよう。

 ────もし、そう短絡的に考えられたのなら。どんなに楽だっただろう。

 柄を握る手に力が篭る。まだだ。まだ、斬られていない。まだ、致命の一撃を貰っていない。剣を振るえる腕がある。一瞬だろうと刻はある。ならば、ここで屈す事などどうして出来よう────!

「ぁ、ぁあああああ……!」

 裂帛の気合だけで身体を衝き動かす。襲い来る剣は後方より一対。左右より一対。正面より騎士が担う剣が一対。計三対。三。ならば。充分に切り捨てられる……!

 閃光が瞬く。有り得ない剣筋は再度虚空に弧を描く。燕返しは軌跡の檻。相手を捕え決して逃がさない牢獄の剣。狙い定めた敵にしか三重の軌跡は描かれない。それを今。アサシンは自らの剣を上回る剣を放った。

 描かれた剣筋は三閃。変わらない三という数字。けれど決定的な違いがある。牢獄である筈の軌跡が、後方に、左右に、そして正面に映し出されたという事。それぞれが一閃であろうと、襲い来る剣から身を守るには充分に過ぎる剣閃だった。

「──────」

 息を呑んだのはアーチャーだった。鶴翼三連は破れない。三対の剣が同時に相手を捉えた時点で躱しようも迎撃しようもない必殺の奥義。比するのなら、アサシンの燕返しと同種の剣だ。発動してしまっては防げない。防ぐ手段があるとすれば、それは発動させない事にある。

 一本の剣では二対がせいぜい。二刀だろうと最後の三対目は防がせない自信がある。だがこの男は。目の前の男は、同時に三つの軌跡を描き切る男である。けれど一度この男の剣は見た。あんな軌跡は描けない筈の剣だった。
 並行世界より具現化する有り得ない二本の剣が、合わせ三本の剣となり────極限の戦いの中で、自身の技を更なる高みへと昇華させ、アーチャーの必勝の機会を文字通り切り裂いた。

 鶴の翼が打ち払われる。二枚の翼は引き裂かれ、残った翼は余りに脆弱。手にした莫耶が弾け飛ぶ。残った干将だけが遠吠えのように啼く。鳥の翼は二つで一つ。片翼をもがれた鳥に、地に堕ちる以外の選択肢など選べない。

 けれど鳥はまだ、飛ぶ事を諦めていない。一枚だけになった翼を必死に羽ばたかせ、無様でもソラの先へと辿り着く為に。

「う、ぉおおおおおおおおおおおおおお……!」

 踏み込みはもういらない。既に間合いに入っている。後は一振り。どちらが先に相手の身体に己が剣を叩き込むか。ただそれだけの閃光の刻。
 だからアサシンは確信した。ただの剣速で、アーチャーがアサシンを上回る事は無い。如何な凡人の境地に立とうとも、神の頂を踏み越えた剣には届かない。

 血の滲む努力と天より与えられた才能。

 片方しか持たなかった者と、どちらも持っていた者。この戦はただ、それだけの違いでしか、きっとなく。

「────こふっ」

 だからその決着は。誰しもの予想を超えていた。

 血飛沫が上がる。漆黒の夜霧を染める、鮮血の泉。絶え間なく吹き出す血が、己のものであるとアサシンが理解に至るには、数秒の時を要した。

「貴様────」

 袈裟に侍を切り裂いた赤い騎士が、疑惑の面持ちで紫紺の男を見つめていた。血飛沫を上げるのは、アーチャーである筈だった。剣閃はアサシンの方が一瞬速く鋭かった。だというのに、血塗れになっているのはアサシンの方であるという事実はアーチャー自身にとっても許容し難いものであった。

「……征け」

 搾り出すように、アサシンは囁いた。

「勝敗は決した。主らはこの先にこそ用があるのだろう……? ならば、このような場所で煩うな。死に逝く者を看取る猶予すら惜しいのだろう」

 支えとした長刀が震えている。致命の一撃を受けてなお膝を屈さない事が、この男の最後のプライドであるかのように。

 交わる視線。名も無き剣士と、銘無き剣との僅かな交錯。笑みも交わす言葉も無く。無言のまま、幾許かの想いを視線に込めて。

「行くぞ、凛」

 赤い騎士が駆け上がる。遠く届かなかった山門をようやく潜り抜ける事が叶う。凛もまた不可解な決着に解せない面持ちのまま、けれど他に優先すべき事項があったから、詮索も無く赤い背中を追いかけた。







 そして誰もいなくなり。背負い続けた重い枷を降ろすようにゆっくりと。脆くも崩れ落ちるように、アサシンは石段に膝をつく。

「────っ」

 肺より込み上げる血流を無理矢理に飲み込む。自らの戦場を、不本意とはいえ死地と定めた場所を、自らの血でこれ以上穢す事などしたくはないと、頑なに耐え続けて。それでも彼の口端には血の道が滴っている。

 それはアーチャーに斬られた事による血の逆流ではない。袈裟斬りにされる一瞬前。手にした長剣の先鋭さを奪い去ったのが、この血の正体。

「……よもや、このような決着とはな。私には結局、生前も死後でさえこの願いを叶える事が許されないのか」

 死闘。命懸けの戦場。全力の勝負。何より、唯一度の勝利さえ。まるで風のように掌より零れ落ちていってしまった。
 勝っていた。斬っていた。命を奪っていた。剣を振り抜いた先には、今まで体験した事の無い高揚感が待っていた筈なのに。

「ク。しかし、まさかこんな形で邪魔をされるとは思わなんだぞ、妖怪め」

 禍々と嘲笑う声。夜に木霊する腐敗した吐息の音色。昏く歪んだ欲望の塊。この地に既に人は無い。けれど、唯一匹の蟲はいた。

「さて、何の事かや偽りの武芸者よ。儂はただ、正しきモノを喚んだだけよ。────ちぃとばかり、時は計っておったがの」

「それが気に食わぬと言って──ぐ、ぬぅ」

 蟲の囀りを聴き、蠢きはより大きくなる。アサシンの体内を這い回る奇形。有り得ない召喚。偽者を贄とした本物の到来。
 そんな事はどうでも良かった。ただ、何故あの瞬間に事を起こしたのかが、気に食わなかった。勝利を手にする刹那の間。有り得てはいけない第三者の蠕動が、僅かに切っ先を鈍らせた。

「何故か、じゃと? 詰まらん事を問うな偽者。そんなもの、簡単ではないか。主に勝たれては困るからじゃ。儂はただ返して欲しいだけなんじゃよ。貴様の飼い主である女狐が攫っていたモノをな。
 だというのに、あの魔女とくれば足場を固めに固めておる。儂一人では到底敵わぬし、話し合いにも応じぬじゃろうて。そこで少しばかり、動かしやすい駒に動いてもらっただけの事」

「ふ、ん。ならば奴らがこの地へと踏み込んだのも、さては貴様の仕業か」

「さよう。魔女の手腕は見事であった。唯一人も殺すことなく行われる街中からの搾取。拠点と定めた地の利も味方して磐石であった。
 ────だからの。彼奴の仕業に見せかけて一人殺してやった」

 蟲が嗤う。その行為を思い返して。犠牲者の最期の瞬間を思い起こして。

「するとどうじゃ、面白いように駒が動く。思い描いた絵の通りに動く莫迦者どもを傍から見るのは滑稽に過ぎて、嗤いを堪えるのは大変じゃったよ。
 此度の聖杯戦争は正義感の強い若者が多くてよい。活きの良い贄はさぞや舞台を盛り上げてくれようて」

 饒舌な蟲の戯言をただただ聞き届けるしかアサシンには出来ない。体内を駆けずり回る奇形の動きがより過度になる。早くここから出せと、食い破る瞬間を待ち望んでいるのが感じられる。

「つまりの。主は邪魔だったんじゃよ。遠坂の小倅は親身になって我が孫を救い出してくれようからな。その行く手を阻む主は障害以外の何者でもない。儂はただその後押しをしてやっただけよ」

 癇に障る蟲の声がもう、ほとんど彼の耳朶に届いていない。聴覚が麻痺している。視覚が明滅している。身体中の感覚器が汚染されていく。体内を這い回るモノに、奪い去られていく。

「ただの。貴様にはその存在だけで価値がある。こうして消え去ったという事実が、実に今後の行動に幅を持たせてくれるからのぅ」

 今宵アサシンが消える。その事実はもう覆せない。そうして新たに生まれ出ずるモノは消えたアサシンの影として存在する。存在しない筈の暗殺者。消えた筈の暗殺者。居てはならない筈の暗殺者に日夜監視し続けられ、何れは首級を奪われる。これほどの恐怖も他にあるまい。
 蟲の最終的な狙いがなんであれ、独自の駒を手に入れ、かつそれが既に他のマスターに死んだものと認識されるのは疑いようの無い事実。だからその瞬間を待った。弓兵と対峙する以前に殺せた侍を、その瞬間に消し去る為に。

「悪、趣味にも程が、ある。我らの戦いを邪魔し、て、おきながら。のうのうと生き永らえる貴様のような、奴は、下衆にも劣る」

「カカ! 吠えたければ吠えるがいい。どうせ散り往く命じゃて。そのくらいしか主にはもう出来る事はないのじゃからのぅ!」

 蠢く。ざわめく。咆えている。出せと。ここから早く出せと啼いている。胃が潰れる。肺がもぎ取られる。心臓が、喰われていく。

 ただそれでも。彼の心までは奪い去れない。俗世での死闘。決着こそ不本意なれど、過程には確かに価値はあった。名も無き生。たとえ勝ち得たところで他人の誉れとなる戦であろうと。こうして死力を尽くした事に意味はある。

「いや、しかし。────無念だ」

 遠く手を伸ばしたモノ。ようやく掴み取れそうなところで、手を透り抜けて落ちていった不実の栄光。後一瞬。刹那。瞬きの刻さえあれば。このような無念を残さずに済んだというのに。

「安心せい。貴様の無念も未練も我が同胞の糧として、高みへと到る道にしてくれよう」

 言霊に乗り。終に、命が生まれ出ずる。胎を食い尽くし、腹を食い破りて這い出る腕。死羽の翼を想起させる、黒く長大な腕が月を掴む。血飛沫は黒く染まり、黒羽のように夜に咲く。

「ハ、ハハ。無駄だ。貴様らのような輩に、この先へと到った者を斃せるものか。奴らは屈さぬ。たとえ悪辣に手段を訴えようと、必ず立ち上がる。
 解るか、害虫。こそこそと這い回るしか能の無い貴様らには、奴らの行動全てが余りに眩しきものよ」

 それは、呪いだった。引き裂かれた腹より黒い翼と血の羽を撒き散らしながら、消え往く命に火を灯して。最期の力で、呪歌を風に響かせる。

「ふん。言いたい事はそれだけか? ならば────死ね」

 グチャリと。脳の潰える音を聴く。首の圧し折れる声を聴く。壊れた呼吸器がぜいぜいと囀りを上げて。雅を誇り続けた一人の侍の生無き生が、無残を晒して幽冥に沈んだ夜に堕ちた。
 母体は消え去り。天に頂く蒼月に髑髏が浮かぶ。白い白い仮面が踊る。黒い外套が魔風に揺れる。キキ、と蟲が金切り声を上げていた。

「────さて、後一手で取り返せる。可愛い可愛い我が孫よ。もう暫く辛抱せい。間もなく救い出してやるからのぅ。カカ! カカカカカ!」

 木々のざわめきの中で蟲が啼く。声も上げずに、二匹の蟲が哭いていた。













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