剣の鎖 - Chain of Memories - 第三十一話









「────柳洞寺?」

「はい。この街に根を張る霊脈は全て柳洞寺を起点としています。彼の山より出で、街を流れ、また彼の山へと帰結する。そうする事で霊脈は巡っている」

 遡る事約二時間。衛宮邸の居間にてその問答は行われていた。
 夕焼けを背に、黄金の男の語った言葉を糧として、今宵挑むべき戦場についての情報を己がサーヴァントに士郎は問うた。
 返された言葉は聞き馴染んだ響きを伴い、同時に驚愕さえも覚えもした。けれど、何処か心は落ち着いていた。

 寺というものが建造される際、闇雲に建設されるわけではない。辺り一帯の地域の中でも特に霊的要因の強い場所が選ばれる。その意味を知っていたからこそ、士郎は冷静にセイバーの答えを受け入れられたに違いない。

「そうか。ならそこに、桜が居るんだな」

「……果たして本当にそうでしょうか?」

「どういう意味だ?」

「根本的な話です。お兄さんに桜さんの居所を教えたという男……怪しくはありませんか? 監督役すら知り得ない情報を独自に入手し、且つ他者に伝えるような真似をする者が、ただの無関係者であるはずもない。
 百歩譲って情報を得るまでは良しとしましょう。けれどお兄さんに伝えたという事実が気に入らない。その男に言葉の裏がないだなんて、思えないんです」

 それは士郎自身危惧していた事実でもある。教会に関与を持つ者か、あるいは神父との個人的な交友のある者か。どちらにせよ、監督役よりも戦況に詳しいなどという事実だけは素直には呑み込めなかった。けれど。

「それしか桜に関する情報は得られなかった。なら、その希望に縋りつきたい」

 いつからか、平穏の象徴としてあった笑顔がたった一日失われただけでこんなにも心が空虚になる。意図せずして巻き込まれた戦い。けれど自らの意思で臨んだこの戦争に、その人までも巻き込んでしまった。
 胸を占める後悔の念。戦いに臨むと決めたその時に覚悟を持たなければならなかった。あるいは、遠ざけておくべきだった。

 今になって安穏とした生活に身を窶し続けたツケを払わされる時が来た。男の言葉は招待状と呼んで差し支えない。対価は自身の行動だ。藁にも縋る気持ちで、士郎は男の言葉を鵜呑みにすると決意したのだから。

「……はぁ。まあその答えは予想していましたけど。
 今一度聞きます。これは勇敢なんかじゃない。ただの無謀だ。その場所が死地と解っていながら、それでも踏み込む覚悟がありますか?」

 返答は必要なかった。頷き一つ。それだけで、士郎は己の意思を明確とする。
 敵の手に落ちた人を救い出そうというのだ、死地に踏み込むのは当然の過程。ならば結果として、その地獄を踏破する事こそが目的である。踏み込むのではなく。踏み越える覚悟こそを瞳に据えた。

 呆れ顔のセイバーは降参の意を示さざるを得なかった。このマスターは決めた事を必ず遂行しようとする。たとえここで拒絶の意思を伝えようとも決して折れない心を持つ。拒否すれば、単身挑む覚悟であろう。
 履き違えた靴のまま、掌の上で踊り続ける道化であっても。マスターが消えればサーヴァントもまた消え去る運命。手を取り合ったあの日より、二人の命運は一蓮托生。突き進むマスターを諌める事こそ、自身の領分だとセイバーは断じて。

「……いいでしょう。それだけの覚悟があるという事は、もちろんそれに見合う勝算もあるんでしょうね?」

「…………………いや、それは」

 半眼で睨むセイバーと宙に視線を彷徨わせる士郎。やっぱりそんな事だろうと思う以外にセイバーが溜め息を零す理由は見つからなかった。

 これより挑むのは魔術師の工房である。その意味するところは士郎とて知識として知っていた。
 セイバーが戦いを渋っていた原因はまさにそれ。確実に張り巡らされているであろう罠の数々。自身を守るだけならばまだしも、マスターまで抱えての進軍は些か気が重い。正攻法では挑めない。相手が用いる搦め手以上の策が欲しかった。

 けれど時間も少なく、案もそう易々と浮かぶものではない。状況は一刻を争う。間桐桜を救い出すのならば、一秒でも早く乗り込む事が肝要であった。

 いつかふらりと街を探索中に立ち寄った柳洞寺。流石はこの街最大の霊脈の上に座するだけの事はあり、造りもまたただの寺院ではなかった。正門よりの進入でなければ、霊的要素によって構築されたモノの悉くを拒む結界。周囲一帯を覆う鬱蒼とした森林。

 ────要塞。

 柳洞寺はそう呼んで差し支えのない、建造物である。ましてや、そこに魔女の手まで加えられているとあっては進軍は難航せざるをえまい。
 裏を掻く必要性がある。狡猾にして冷酷な魔女の裏を掻けるだけの策。それは────






戦いの果てに/Rondo V




/1


「で、それがこれか」

 ぬかるんだ足元に注意を払いつつ、行く手を遮る草木を退けながら歩みを進める。セイバーの提案した柳洞寺への侵入経路というのがこれだった。

 柳洞寺への進入に際し、張り巡らされた結界は厄介なものであった。本来は下級霊の進入を拒む意味合いがあるのだろうが、その影響力はサーヴァントにさえ及ぶ。消滅まではいかずとも、正規の門よりの進入でなければ格が落ちる。ようはステータス的な面で幾らかの制限を受ける事になるのだ。

 魔女の居城に挑むに際して、わざわざ自らの能力を下げて勝算を減らす者はいない。誰もが思うその裏を衝く策……ではあるが。

「なんですか、その不満そうな物言いは。異議があるのならどうぞ、聞くだけは聞きますけど」

「いや、ないけど。たださ、大丈夫なのかなって思って。その結界ってヤツは俺に影響はないけどギルにはあるんだろ。制限を食らってキャスターを止められるのか?」

「ええ。結界とは、内と外とを別つ境界線。多少の影響は残りますが、境界を過ぎてしまえばそれほど大きな能力ダウンのペナルティを食う事はないでしょう。まあ、受けたところで構わないんですが」

「それはまた、なんで?」

「元々ボクは自分自身のステータスを当てになんてしていない、って事ですよ」

 それきり会話は打ち切られ、黙々と鬱蒼とした森を歩く。なるべくなら出来る限りの虚を衝きたい。その為には麓の石段側から森へと入るのではなく、大きく迂回しての侵入となってしまい、流石の士郎もこの辺りの地形までは把握出来るはずもなく、今自分がどこにいるのかさえ解らなくなりかけていた。

「大丈夫です。視界は確かに悪いですが、あの地より漏れる魔力だけはどうやっても隠し切れない。道……らしい道はありませんが、目的地を違える事は在り得ません」

 それにほら、とセイバーの指差した先に淡い光が窺えた。天然の暗闇へと射し込む紫紺の輝き。視覚化された魔力の塊。壁一枚を隔てた先に渦巻いているのは、途方もない量の人々の生命。街中から掻き集められた命の灯火が、行く先を照らし上げていた。

 そうしてようやく目的とした地へと辿り着く。踏み込んだ場所は見知った場所だった。山門を遥か遠くに、伽藍の裏にある池の辺り。広がる敷地には魔が満つる。濃密すぎる魔力に咽ぶより先に、その気配を察知した。

「……どうやら、ボク達以外にも招かれざる客がいるようですよ。しかもまた出遅れたみたいだ。ヤになるなぁ、後手に回るのは嫌いなのに」

「他のマスター……? 遠坂達か?」

「そこまでは解りません。ボク自身の策敵能力はそれほど高くない上にどうやら敵の妨害が働いている。それに……」

 ずん、と重くなる身体。結界をすり抜けた直後より肩に得体の知れない重圧がかかり続けている。これが代償か、とセイバーは呟く。

「大丈夫か? なんだか辛そうだけど」

「はい。多少身体が重い程度です。これなら、まあ戦えるでしょう」

 身体の動きが鈍くなる、というのは思いの外大きなペナルティである。際立つステータスを持たないセイバーが戦闘を行う時に重視してきたのは持ち前の小柄さだ。軽い身のこなしでこれまで本来戦えない相手ともやりあって来たのだ。
 特長らしい特長を奪われるというのは、今のセイバーが思い描く代償の中でも大きなものであった。

 しかしそれもやり方次第でどうとでもなる。極論を言ってしまえば、今宵は戦闘を行いに来たのではない。目的である間桐桜の奪還さえ達成できればいいのだから。

「それよりも。他のマスターがこの地へ攻め入ってくれたのは都合が良い。そちらに敵の目が向いている内に桜さんを────」

 言い終わるか言い終わらないかの境目で、既にセイバーは反応していた。敵地に侵入したにも関わらず何処か未だ余裕を垣間見せていた瞳に鋭さを湛え、主を庇うように立ちはだかる。

「────御機嫌よう。初めまして、かしら。セイバーとそのマスターの坊や」

 唐突に黒が浮かび上がる。流動する黒はやがて形を得て人型を作り上げ。暗色の魔女────サーヴァント・キャスターが眼前に立っていた。

「おまえがキャスターか。桜を返せ」

「あら? 貴方達、あの子を返して欲しくて乗り込んできたの? だったらその行動にも頷けるもの。こそこそと私の工房に侵入するなんて、泥棒猫には丁度良いわ。
 だけど他のマスター達を見習ったら? あの子達も無粋だけれど、もう少し気概というものを持っていたわよ」

 くすくすと笑うキャスターには余裕さえ窺える。この場所がそうさせるのか、それとも他の侵入者を手勢が押し込めている情勢故か。

「まさかこんなにも早く侵入がばれるなんて。流石は魔女、と言ったところですか?」

「……私をそう呼ぶのはお止しなさい。次、口にすれば瓶詰めにするわよ」

「ああ、成る程。自分の事が良く理解できているようですね。それならば、話が早い」

 空間が歪曲し、赤い泉が浮かび上がる。中心より出ずるは一振りの剣。いつかのように不可視の剣ではなく、煌びやかな刀身を誇る西洋剣だった。
 同時に士郎もまた持参していた木刀を抜き放ち、魔力を通わせていた。準備に時間のかかる士郎の強化は容易く連続使用出来るものではない。だから今、出来うる限りの戦闘準備を行った。

「キャスター! おまえが何の為に桜を攫ったのは知らない。けどな、奪われたものは奪い返す。力尽くでも、桜は返してもらうぞ!」

「ま、そういうわけです。どうやらそっちにはマスターはいないようだ。手駒も他のマスター達に足止めでも食らっていますか? 数を武器にする気はありませんが、早々に桜さんを返すのならばボクも考えますけれど」

 啖呵を切る士郎とセイバーは既に戦闘体制。いつ攻防が始まろうと即座に動き出せるだけの緊張感を身体中に漲らせている。だというのに、

「あは、あははは、あははははははははははははははは!」

 魔女は嗤う。嘲るように。

「あの子を返せ? 数的不利? 手駒? うふふふ、あはは。バカにされたものね私も。ええ、確かに。私は魔術師のサーヴァント。七騎の中でも最弱に類する取るに足らない存在だわ。
 ────だけどね、此処が何処だか解って? 魔術師が最も力を発揮するのは、その工房の中だと知りなさい」

 ────“圧迫(アトラス)”────

「なっ……!?」

「……っぐ!?」

 呟きは、魔女の唇より零れ落ちた。聴覚ではなく、脳髄に直接響く奇妙な音を以って紡ぎだされたその言霊は、即座に威力を伴う魔術と成る。
 たった一言に込められた、現代では発音すら不可能な響き。神言と呼ばれる、失われた言語はキャスターの魔術として具現化し彼らを襲った。

 響きと同じように、士郎とセイバーに降りかかるのは目に見えない重圧だった。まるで超重量の鉄塊が頭上より降って来たとしか思えない圧倒的な重圧。大地すら窪ませて、見えざる力は身体を圧し折らんと押し潰す。

「ァ、ぁ、ああぁ……ギ、が、ぁ………っ!」

 大地に立っていた筈の身体は何時の間にか這い蹲るように平伏して。呻き声を上げる事だけが為す術を奪われた士郎に出来る所業であった。セイバーですら、剣を支えとして膝を折らずに耐え続ける事に精一杯だった。

「ふふ、そうよ。弱者は地に這い蹲りなさい。拉げたカエルのように臓物を口から零して断末魔の悲鳴を私に聴かせて。
 さあ早く。生き永らえても、苦痛だけしか残らないわよ」

 忍び笑いを漏らしながら、全く身動きの取れない二人を嘲笑うキャスター。繊細に踊る指先が、次なる呪文を唱えようとして。

「この程度で、勝ったつもりなんて安いプライドだ、貴女のそれは」

「────なんですって?」

 セイバーの言葉で、停止した。

「笑うのは、相手の息の根を止めてからにしろ、と言ってるんだ────!」

 右手で突き立てた剣を担い、圧される身体の支えとする。残された左手は、空を目指して掲げられた。
 歪みが生まれる。赤き泉より湧き出るのは、第二の剣ではなかった。これまで剣だけをその奇妙な空間より取り出していたセイバーが見せる──剣ではないそれは。騎士足るものが持つべきもう一つの象徴。

「盾……!?」

 水晶のような透明感。鏡面のように磨き抜かれた、傷も穢れもまるでない一枚の盾。掲げられた左腕が虚空より出現した盾を掴み、降り注ぐ重圧を防ぐ障壁となる。
 一瞬、けれど充分な時を稼いだセイバーは杖とした剣を引き摺り、掲げた盾を打ち捨てるように大地を蹴り上げる。超重力の檻より解き放たれた彼は一息に加速し、魔女へと肉薄する。いや、迫ろうとした。

「なっ、コイツは……!」

 駆け出した足が止まる。止められた。地中より這い出た骨造りの腕が、決して離さぬとばかりにセイバーの足首を掴んでいた。化け物達の握力は決して強くはない。けれどこの時だけは致命的だった。
 僅かだろうと身に受けてしまった結界の呪縛。在り得ぬ筈の、予期できた筈の敵の罠への驚き。二重の責め苦がセイバーの足を間違いなく堰き止めていた。

 その隙を彼の魔女が見過ごす筈がない。空中に静止していた指先が再び発条を巻かれた人形の如く動き出そうとし────

「キャスタァァァァァァァァ!!」

 咆哮。振り上げた木刀を握り締め、疾走するもう一人の人物を目の端に捉えて、僅かに動きを鈍らせた。

「チィ────!」

 呪文を紡ぐ暇すらなく、指先より放たれた魔力の塊。先の神言に比べれば余りに稚拙な魔術はしかし、未熟な強化しか使えない士郎にとってはとてつもない威力を誇る魔力球に映っていて。

「ぎっ……ぁっ!」

 振り被った木刀でさながらバッターボックスに立つ野球選手宜しく打ち返す。狙った方向にはもちろん打ち返せず、弾くだけで精一杯。手に伝わる震動は痺れとなって身体中を駆け巡り、全身を刹那の内だけ停止させる。

「充分です、マスター!」

 けれど士郎の行動は、セイバーが次なる行動に移るのに充分な時を稼ぎきっていた。足元に絡みつく死者の腕を無常にも切り払い、風となりて間合いを詰める。
 両の手で担った彼の身体には不釣合いな重厚さを持つ剣は月光を受けて冴え凍る。夜に溶け込む暗色のローブを中に潜む魔性ごと切り裂かんと振り上げられて。断頭の刃が頭上にあっても、彼女は微笑みを崩さなかった。

 そう、魔女は謳ったのだ。魔術師がその最大戦力を発揮出来る場所は己が工房の内であると。
 柳洞寺は魔女の神殿。なればこそ、魔術師の英霊たる彼女が、この場においてだけは不利を被る事など有り得ない。

「………………っ!」

 銀色の輝きが静止する。両断の構えで振り上げられた剣は、主の意思で止められた。微笑む魔女、攻める騎士。その合間に、救うべき対象が脈絡もなく現れたとあれば、流石の剣の騎士といえど戸惑わずにはいられる筈もなく。

「さく……ギルっ! よけろッッ!!」

 士郎の叫びは、夜に消える。魔女の翳した掌から、紡がれた神言を糧として生まれ落ちた呪詛は、容易くセイバーを捕縛した。

 刹那の内に生じたのは四肢を封じる魔力の枷。セイバーの自由を奪う淡い光は、決して引き千切れない縛鎖と変わらない。カラン、と音を立てて手にした剣が大地に落ちるのとほぼ同時に、セイバー自身も地に伏した。

 身体の痺れも消え、大地に突き立つ士郎が見る異様とも呼べるその光景は逃れえぬ現実に他ならず。共に戦う騎士は伏し、魔女は妖しく微笑んで。彼女の手の中には、安らかな寝顔の救うべき少女の姿があった。

「だから言ったでしょう? この場所では、誰も私に敵わない」

 例えるのなら、箱庭だ。彼女の手によって作成された箱庭の中で、踊り続ける愚かな道化の物語。踊らされているなどとは露ほども思わずに、ただただ目的の為に邁進する喜劇の主人公。
 脚本家であるキャスターには敵うべくもなく、こうして地に伏して死という名の奈落へと逆しまに落ち続けるだけの人形劇。

「ギル……桜ッ……!」

 魔女の手の中に間桐桜がいる以上、士郎とて無謀な突貫を躊躇せずにはいられない。その行動が招くであろう結末は、およそ望むところではないのだから。

「さて、坊や。少し、面白い話をしない?」

「何────?」

 突然振られた言葉に反射を返す。形勢を逆転する術はない。膠着などではなく、決着は既に着いている。それでも彼は引き下がらない。逃げられない。けれど地に堕ちた黄金の騎士はただ、瞳を閉じて黙すばかり。

「私と手を組まない?」

 それは思考を真っ白に染め上げるのには充分すぎる響きだった。だから最初に浮かんだのは何故という問い。無意識のまま、士郎はその問いを口に出していた。

「簡単よ。私はね、充分な戦力が欲しいの。最も欲したものは手に入ったけれど、まだ予断は許されない。今回の聖杯戦争で最たる強さを誇る者……それが誰か、貴方達も知っているでしょう?」

 士郎の脳裏に浮かんだのは鈍色の巨人だった。蒼褪めた月光を背に、坂の上に聳え立っていた異形の姿。数日前に、教会の麓で剣を交えた、白き少女の従者の姿。

「現状で、単騎であの化け物に勝利できるサーヴァントはいないと思っているわ。まだ奥の手を隠し持っている輩もいるでしょうけど、そんなモノはあの化け物には通用しない。なぜなら────」

 そう、彼の者はこの世界に最もその勇名を馳せた英雄の中の英雄。ギリシャ神話において神の子として生まれ落ち、破滅と栄光に彩られた生の果てに、神の末席にその名を連ねるまでに至った大英雄。

 ────名をヘラクレス。

 ヘラの栄光という大それた名に違わない、真なる覇者の英霊だった。

「そんな化け物相手に、正攻法で挑もうというのは道化か狂人だけだもの。先程も言ったけれど、私は魔術師のサーヴァント。最弱が最強を打倒するには、それなりの方法論が必要になるわけ。ここまで言えば、流石の坊やも解るでしょう?」

 なんて事はない、単なる数による暴力。単騎での決闘では勝ち得ないのなら、数に任せた圧倒的戦力差で屠るまで。いかな大英雄であれど、二騎三騎と多くの英霊を相手取っての戦闘ならば、絶対に負けないなどとは言い切れない。

 最強の戦闘力を誇るクイーンの駒とて、それ以下の駒であっても戦術と数さえ揃えば捕えるのはそう難しい事ではない。キャスターの甘言はつまりはそういう事。自身を王と仰がせる、英霊によるチェスの再現。

「どうかしら? 何も無償で仲間になれなんて言う気はないわ。
 聖杯とは、願いを叶える為に生まれた物。だというのに勝者唯一人だけが聖杯を手に出来るなんて、一体誰が決めたというの? 真に無限の力を持つのであれば、幾人で分け合おうと足りないなんて事はない。
 だからそう────余計なものは排除して、信頼に足る者だけで協力して聖杯をこの街に降ろせたなら、後は私の手でどうにでもしてみせる」

 それはなんたる甘い言葉か。もしキャスターの語る全てが真実なら、今ここで戦いを終わらせる事とて不可能ではない。
 確かに、最初に伝えられたルールは殺し合いだった。けれどもし、そうせずとも聖杯を現出させる方法があるとすれば。皆の願いが一様に叶う、真に奇跡と呼ぶに相応しいものがあるのなら。それは、何時か夢見た理想ではなかったか。

「くくく、あはは、くはははははははははは!」

 苦悶よりも、キャスターの言葉を理解しようと努めていた士郎の耳元へと、その哄笑は届けられた。酷く遠慮のない、今までの彼のイメージにはそぐわない、妖艶さを漂わせる狂気の鐘声。

「ああ、なんて面白い。いや、貴女にこんな才能があるとは思わなかった」

「何かしら、セイバー。地面に転がったままの貴方に、為す術はもうないでしょう? 私は貴方のマスターと話をしてるのよ。余計な邪魔はして欲しくないのだけれど」

「いや、すみません。ただ貴女の提案が余りに滑稽すぎて、これには流石のボクも笑いを堪え切れませんでした」

「……何ですって?」

 クスクスと思い出し笑いをするセイバーは依然その四肢を魔女に囚われたままであり、何一つ状況は改善を見ていない。だというに、彼の笑いは何処か余裕に満ち溢れていて。

「だってそんな話、あるワケがないでしょう? 本当にそんな事が可能なら、とっくの昔に誰かが試してる。でなければ、こんな意味の欠片もない争いなんてものはそもそも生まれやしない」

 ただそれでも、絶対という言葉はない。都合五度目の聖杯戦争ではあるが紛れもないのは明確な勝者はなく、聖杯を手にした者は未だいないという事実のみ。神代に生きた彼女だからこその突破口が存在している可能性もあるにはある。だが。

「でもほら、こうしてボクは冷たい石畳に転がってますけど。結構屈辱ですけど。こうなったからこそ見えるものもある」

 世界なんてものは見方一つで如何様にも変容する。自身の見ている世界と他者の見ている世界は同一でありながらどこか違う。セイバーの語るものはきっとそんな些細な事でしかなく。

「そう、たとえば。そのフードの奥とか」

「…………っ!」

 魔女の気配がガキリと冷える。開けてはいけないパンドラの箱に手を触れてしまったかのような冷徹な気配を撒き散らし、被ったフードから僅かに、瞳の光が零れ落ちて。

「ああ、やっぱりだ。貴女の眼は嘘をついている。何かを隠している。そんな相手の言葉を気にしていたらキリがない。
 食虫植物だってもっと上手く餌を誘き寄せる。オマエのそれは、人畜にすら劣る畜生が謳う甘言だ」

「…………そう。手を取り合えるのならそれが最善だったのだけれど。
 貴方はもう必要ないわ。最優のサーヴァントだというに、こうまで使えない駒ならば盤上に置く事すら躊躇われるもの。
 意にそぐわないものは還りなさい。誰よりも速やかに。元いた、あの場所へ」

 ほら、本性を見せた、とセイバーは胸中で呟いた。あからさまな挑発はどうやらキャスターの不興を買ったようで、全身から怒りが滲み出ている。関心を失くした虚ろな瞳が見据えるのは、黄金の髪の少年で。燐と灯る魔力の火は徐々にその力を増していく。

 けれど憤怒を抱いているのは何もキャスターだけではない。こうして横たわったままのセイバーとて、隠し切れぬ怒りを持つ。
 救うべき対象たる間桐桜を盾とした戦法はまだ許せる。こうして地べたに這い蹲るのも結局は己自身の失態の結果である以上は受け入れよう。

 キャスターの犯した失策は唯一つ。

 セイバーに戒めの楔を打ち込んだという事実。枷は真実、彼を縛る鎖に他ならない。それは彼が最も許容出来ない事であり、決して犯してはいけない愚策である。
 彼を縛り付けるもの、彼を縛り付けたもの。鎖。鋼鉄の響きは、己が半身に流れる神の血潮に憎悪を浮かべて。縛り付ける鈍色に、残る半身に流れる人の血潮が慈愛を授ける。

 ────そう、鎖とは。彼が深く愛で、最も憎悪を煮え滾らせる創造物であると。

 ふわりと。魔女が宙に浮く。風に舞い、翼を広げた鳥に似たはためきで彼女のローブは浮力の源となる。シャン、と鳴る銀の鈴。
 魔術師の手の中には少女の寝顔と、銀の錫杖。傾けられた錫杖が描く真円は同時に文字の羅列を刻み込まれる。テン・カウントに及ぶ大魔術を刹那の内に紡ぎ出せてしまう能力こそが、彼女を魔術師の英霊足らしめる一要素であり。この場所の恩恵でも有り得た。

 青白い文字が空に描かれる。狙いはもちろん、動きを封じられたままのセイバーと、いよいよ為す術を無くしたそのマスター。後一つ。一言トリガーたる起動キーを口にすれば全てが消し飛ぶ。容赦も憐憫もなく、後に残るのは無残にも死滅した大地のみ。

「目を、閉じて」

 そんな死への経路においても、騎士は冷静だった。呟かれた意味不明な言葉。数秒の後に迫り来る死を甘受せよという安楽の祝詞ではない事だけは、士郎にも理解は出来た。

 コイツがこんな事を口走る時は、大抵何か意味がある。思いつきや感情に任せた暴走ではない、理知なる進言。短い付き合いだが、それでもずっと傍らにあってきたのだ。だから────

 その言葉ではなく。セイバー自身を信じると、士郎は固く目を閉じた。

「あら、抵抗の一つもしないの? 残念ね。泣き叫びながら命乞いの一つででもすれば、もう少し可愛げもあるというものだけれど。まあいいわ。覚悟を決めたというのならそれもまた良し。華々しく──散華なさい!」

 極大の魔法陣に魔力の火が雪崩れ込む。辺り一帯を楽に吹き飛ばせる大魔術が発動しようとする最中で、セイバーは自由にならない腕で一振りの剣を引き抜いた。
 手足を縛り付けられ全く身動きが取れない状態であるセイバーでは、如何に豪奢な剣を執ったところで意味はない。振るえない。敵を打倒する事が出来ない。

 ならば、話は簡単だった。自身が剣を振るえないと言うのなら。剣自身が自らの意思で振るわれれば良いと。
 セイバーの掌に剣の柄が吸い込まれ、固く握り締められた瞬間に──それは起きた。

 紅の歪曲より出ずるのは、刀身のない剣だった。否、柄の先には薄い光が見えている。まるで幾重にも折り重なった光が乱反射を起こし、刀身が光で編まれているかのように錯覚する。
 然り、彼の剣はその名に“光”という銘を穿たれた剣。曰く、鞘より抜き放たれた彼の剣は、眩く煌いた己が刃で、見る者全ての視界を白く染め上げて……いと気高い光明を放ち続けると。

 暗く茫洋とした闇が漂う柳洞寺を包む眩き極光。太陽が落下したのではないかと見紛うほどの溢れる輝きに、流石の魔女とて視界を奪われ、同時に思考までも刹那だけ真白に染め上げられた。

 けれど落とされた白日の輝きがいかに自身の煌きを誇ろうと、殺傷力はゼロに等しい。現状はさして変わらない。士郎は届きもしない木刀を握り締め、セイバーは伏したまま光の剣を手に掴む。結果は数瞬、あるいは数秒。彼らの死期が伸びただけの話である。

 しかし瞬きの間であれ、余命は延びた。魔女の号砲を阻止し、次なる手を打つ瞬間を獲得した。心構えのなかったキャスターの思考能力を数秒奪い去る奇策。次なる手へと繋げる布石。自身を縛る枷さえ解けば、如何様にも対処する手段はある。

 ならば一刻も早く。奪い去られた自由を再び掴めと、セイバーが第二手を打とうとした瞬間。白光が消え去った刹那。新たなる極光が、有り得ざる方向より飛来し────

「────っ!? ライ……ッッ!!」

 あろうことか、空中に静止していた魔女を貫いた。

 その光景を、細められた視界で見やった士郎には、ただ一条の光が走ったようにしか見えなかった。垂直落下ではなく、真横に飛翔する流星。そうとしか取れない雄大な光芒は華やかに、そして束の間の夢のように消え去っていた。

「一体、なにが…………!? 桜!!」

 当然、魔女の腕に抱かれていた少女の姿もありはしない。魔術師の英霊があった空間には今はただ常闇が停滞するのみ。主を失った城は閑散とした空気に包まれ、ただ濃密に凝縮された魔力の幽光だけが静々と揺れていた。

「全く。ワケの解らない展開ばかりで嫌になる。全然こっちの思惑通りにコトが進まないのが、こんなにも苛立つものだったなんて」

「ギル」

 魔女が消え去ったせいなのだろうか、千切れない筈の呪縛もまた消え去り、再び自由を得たセイバーは身体についた汚れを払う仕草をしながら士郎へと歩み寄った。

「一体、何なんだ、あの光は」

「さて、それはボクにも。ボクにも光が過ぎ去ったようにしか見えませんでしたから。でも十中八九、他のサーヴァントの仕業でしょうけどね」

 言って、騎士の瞳は伽藍の向こう、境内へと向けられた。

「……まだ他にマスターとサーヴァントがいるようですね。どうします? 目的は達せられませんでしたけれど」

 それは戦うか否かという問いかけ。サーヴァント同士が近しい距離に居る以上、敵意を撒き散らせば自ずと交戦する事になるだろう。ただ今ならば相手からもサーヴァントの気配しか感じられまい。侵入した時と同じように塀を飛び越えて逃げ果せれば今宵の戦いに終止符を打てるだろう。

「いや、行こう。誰がいるのかは知らないけど、そのマスターのところへ」

「それは重畳。ボクもその選択の方が正しいと思いますよ」

 士郎とセイバーの思惑は一致しても、その奥底までは互いに計り知れない。士郎が進む意味は、あくまで桜の安否を知る為だ。もしセイバーが口にしたように、境内で戦闘行為に興じていた者の一騎がキャスターを貫いたというのなら、その思惑までは解らなくとも正体くらいは掴めよう。

「……ちくしょう。結局俺には、何も出来ないのか」

 先行するセイバーに聴こえない程の声量で、士郎は自嘲した。敵を倒せない。味方の力にもなれない。囚われた人でさえ、助け出せない。
 それは総じて何も出来ないという事。自らに意義を問う。遠く大空に目指した理想と地に伏したままの現実との差に心が軋む。

 ────衛宮士郎は正義の味方になる。

 違える事の無い理想は掲げられたまま、風にはためくばかり。いつかこの手に掴むにしては、余りに壮大な夢だった。





/2


「ハ……はぁ、…………くっ、あの、女!」

 途切れ途切れの呼吸に呼応して、彼女の四肢は無残を晒していた。血に濡れていない箇所は無い。自由に動く箇所は余りに少ない。魂に刻まれた魔術回路だけが高速で廻り続け、治癒と修復を繰り返す。

 あのいと眩き光がキャスターに接触する刹那に、彼女は転移を試みた。超高速で飛来する極光が誰の手によるものか、そしてその目的までを読み取ったが故の撤退。あの場面、在りのままを甘受していては魔女の姿は霊魂諸共に吹き飛ばされていたに違いない。

「は、は、は、くぁ……っ。結局、同じ穴の狢、というワケ」

 魔女と蛇の契約は絶対的な主従関係ではない。仮初の令呪こそその手にあるものの、本来の繋がりは未だ健在。取り交わされた契約とは、結局のところ不足する魔力の供給への対価でしかなく、手足となりて戦闘を行うだけのもの。

 士郎とセイバーへと投げかけられた甘言は蛇にも同じく囁かれ、彼女はその手を掴みはした。けれど、あくまでそれは強制に変わりない。
 無能なる主より奪い去られた書物からの強制力。次いで魔女の手に堕ちた少女をちらつかされては彼女とて首を縦に振らざるを得ない。

 そこで犯した魔女の失態は、詰まるところその頭脳にある。彼女は知りすぎた。聖杯の真実を。蛇へと繋がる契約の意味を。だからこそ躊躇した。契約を破棄させる手段はある。しかしその行く先が、自らの望むところへと続いていないのならば意味が無い。

 契約を破却させる剣。蛇の二重契約。だから“もし”に戸惑った。突き立てた剣が、一つの絆しか断ち切れなければ、不利益を被る事になる。全てを断ち切ってしまってはなお困窮する。
 間桐桜が望む形で機能する為には彼女自身の意思がいる。だから彼女を、この戦いからまだ降ろすわけにはいかなかった。契約を切るわけにはいかなかった。戦う必要性が失われてしまえば、彼女はただの人と成る。それでは、ダメだ。

「……欲張り過ぎた結果、というやつかしら。そうね、結局私には欲したものを手に入れられない。昔からそうだったもの」

 ただ、平穏に暮らしたかった。ただ自分の国で緩やかな時の流れに身を任せて生きていけたのなら、それで充分だった。
 けれど運命はそれを許さない。美の女神の掌の上で踊らされる人生。国を追われ、大事な人を無残に殺し、縋った男にすら蹴落とされた。英雄が憎い。神が憎い。運命が憎い。

 人は彼女を魔女と嘲り蔑む。だからその通りに振舞った。おまえ達が私を魔女と呼ぶのなら、私はその通りになってやろう。どこまでも悪辣に。どこまでも辛辣に。果ての無い外道に堕ちて、貴様達の平穏すら脅かそう。

 打ち立てた十字架は数知れず。けれどこうして幽世より顕世へと舞い戻った彼女は最後の一線だけは頑なに守り続けた。

「宗一郎……様」

 運命を呪い続けた彼女が目の当たりにした、奇跡。この人と共に在りたいと、願い続けられる運命に歓喜した。けれど今はこうして一人、血に塗れるばかり。
 ……あの夜を思い出す。彼と出会ったあの夜の事。無感情な瞳だったけれど、優しく包んでくれたあの掌の優しさが忘れられない。

「は、ぁ。そう、私はまだ、終わっていない。まだ、夢を見続けていたい」

 死に体でありながら、千切れたフードの奥の瞳の輝きは消えていない。偶然とはいえ、彼女が転移で行き着いた先は冬木で四つしかない高度な霊脈の内が一つ、新都にある中央公園だった。地脈は未だ彼女の操作化にある。この場所に留まれば、数刻程で傷も癒しきれるだろう。

 そうして、あの人の所へ戻ろう。それから、もう一度この戦いに臨もう。まだ折れない心が、彼女を強く奮い立たせる。
 ただ共に在りたいと。永遠には続かなくとも、少しで長く彼と共に歩み続けたいと願う心はまさしく、純然たる少女のもの。
 一体誰が、その無垢な願いを踏みにじれるだろう。

 そうして彼女は一冊の本を取り出した。ライダーの元マスターより奪い取った、偽物の令呪。本の所有者をマスターと定める代替品。
 その拘束力の不安定さ故に反旗を許した。まさかあのタイミングでライダーが牙を剥くなどとどうして予期出来ようか。

 けれどそれもいい。手に入れたものはみんな掌より零れ落ちていってしまったけれど、まだ取り戻せるだけの時間はある。偽物がダメなら、本物を奪い取ればいい。
 ならばこの書はもう不要。仮にも令呪を称するのならば、最後にその在り方を体現して見せろと、復讐の呪詛を風に謳おうとした時。

 暗闇を突き破る銀色が、手の中の令呪を奪い去り、地に磔にした。

「────ふん? この無なる場所に何が転がっているかと思えば。クク、まさかサーヴァントとはな。塵か何かかと思ったぞ」

 何が起きたのかすら解らずに上げられた顔が目視したもの。月下────冴え渡る青白い光の中に、在り得ざる黄金を視た。

「あ、ぁ、ぁぁっ……」

 呻きにも似たキャスターの声音を掻き消して、黄金は高らかに謳う。煉獄の炎を凝縮した双眸で、黒く蹲る魔女を嘲る。

「貴様が此処に居るという事は……勝敗は決したか。どちらが勝とうが我には関係の無い事だが、ふん。逃げ果せるとは何事か。貴様も英霊の末席に名を連ねる者であるのなら、最期くらいは華々しく散るべきであろう」

 だがまあ、それもいい。と何の関心すらないかのように男は視線を空へと投げかける。蒼い月が緋い瞳に見初められて色を失くしていく。

 そんな男をただ、魔女は見つめる。理解不能。理解不能。理解不能。この男は、この男は何者だ。纏う気配は人間のそれではない。まるでサーヴァントのような茫洋とした立ち姿でありながら、けれど確固として彼は此処に在る。
 人では在り得ず、またサーヴァントですら在り得ない。ならばこれは、まるで彼女が憎悪した存在に等しい……

「我にその名を向けるとは何事ぞ。そうも早死にしたいか、不運の王女」

 彼女がそれを認識したのは、己の腕を貫かれてからだった。虚空より迸った白銀の光輝はただ一振りの剣だった。なんら豪奢な装丁のなされていない純粋なる剣が誇るのは、この王の手にあるという絶対的な忠誠心。
 数ある剣群より自身を引き抜いた王の裁定に配慮を成し、一直線に標的を貫く栄誉に身を浸す。

「ひぁ…………あああああああああああああぁ!」

 だくだくと吐き出される血流は灰色の荒野を染め上げる。魔女の悲鳴は夜の帳を切り裂いて余りある。

「……詰まらん。我が宝物をその穢らわしい血で染める事とて不愉快だ。しかし……おまえはそうではないだろう?」

 男の言葉はキャスターへと向けられたものではない。虚空。闇しかないその場所へと向けられた男の視線をなぞり、キャスターもまた黒色の空を見て。闇よりもなお昏い漆黒が在る事を理解した。

「………………そん、な」

 虚ろな存在感。キャスターをして感知させなかった漆黒は黄金の傍で立ちつくす。その者が立つ場所にだけ、月光の煌きさえ届かない。黄金のような神々しさはなく、この場所に淀む負の想念のように穢れておらず。
 それでも黒く、黒く、なお黒く。けれど清廉さを漂わせる雰囲気は心と身体の位相がずれているのではないかと錯覚する。穢れなき純白に比する清廉なる純黒。そんな形容こそが相応しい少女の姿。

 在り得ない。在り得ない。在り得ない。

 それは居てはならない影。既に過去の産物と化した亡霊だ。この街に集う異端者の誰よりも此度の聖杯戦争の戦局を把握しているキャスターにとって、目の前に立つ二人は有り得てはいけない存在だった。

 キャスターは驚愕と共に、絶望すら享受した。この二人を相手取っては、恐れ戦いたあのバーサーカーですら塵芥。黄金と漆黒が共に在る限り、このイレギュラーを倒せる者など存在しない。
 胸の奥で散りつく希望を諦めた。やはりこういう運命こそが、私には相応しいのだと甘受する。脳裏に染み付いた想い人の顔を描きながら、魔女は静かに瞳を閉じた。

 男は嗤う。その潔さを良しとして、己が言葉で、正義を謳う。

「さて。これまで続いた第一幕もそろそろ終わる。次なるステージの幕を開ける為に、貴様の断末魔は相応しかろう。
 悦べ、女。彼の剣は、我の蔵にもない一品だ。その昏き輝きに血を捧げ、聖杯への道となる事を誇りとしろ」

 哄笑を高らかに夜に響かせて。男は最期の撃鉄を撃ち落す。

「さあ、殺せ。おまえの信ずるもの為に。おまえの欲するもの為に。聖なる剣を、英霊の返り血で染め上げろ。
 そうする事でしか、おまえの願いは叶わないのだからな────」

 ────“騎士王(セイバー)”────

 揺らめいた漆黒の手の中に在る剣は、人々の想念によって編まれた奇跡の具現。如何な暗闇が覆い包もうとも、根底に流れる輝きまでは奪い去れない。
 存在してはならない少女は、夢を見続ける。自らを育んだ故郷を救いたいという無垢なる願いと、王足るものとしての決意と、騎士足るものの誇りだけを支えとして、煉獄より続く奈落を彷徨する。

 運命の歯車は、誰もが与り知らぬ場所で、静かに廻り続ける。













web拍手・感想などあればコチラからお願いします






back   next







()