剣の鎖 - Chain of Memories - 第三十四話









「どうぞ」

「ああ、これはどうも、ご丁寧に。わざわざすみません」

 差し出されたティーカップに注がれているのは薫り高い紅茶だった。そっと伸ばした指先でカップを持ち上げ、僅かに揺らして立ち昇る甘い芳香を鼻腔に感じる。並の紅茶党ではここまで格式の高いものを手に入れられまい。

 ともすれば、目の前の少女はこの紅い液体に並々ならぬ関心を寄せ、気高い誇りを抱いているのだと理解せずにはいられない。そして同じように、敵と思しき者をも丁重に持て成すだけの優雅さまでをも併せ持つのだと。

 時を遡る事約半刻。日付の変わる前の出来事にして、今ではもう昨日の出来事である柳洞寺での一戦。その最後に取り交わされた言葉こそが今の状況を作り出したと仮定して問題ないだろう。

 弓の騎士が確固たる意思を以って遠坂凛より離反した後、ぽつりとその場に残っていた剣の騎士より告げられた提案。その真意を問い質す為だけに、遠坂邸を舞台とした今宵の宴席は用意されたのだ。

 降りた沈黙は長く堆積する。そも今の状況は何処かおかしい。両者は共にマスター、サーヴァント共に健在であるというに、互いに一方を欠くという有り得ぬ展開。
 更に言うのならば、凛の行動がおかしな状況の中で最たるおかしさだ。自身のサーヴァントを欠いた状況下で、敵のサーヴァントを自らの屋敷に招き入れるなどと、過去を顧みてもそんな愚かしい行動に出たマスターは他にいまい。

 ゆっくりと傾けられたティーカップから滑り落ちる温かな紅茶。喉元を過ぎ去る時に残されていく芳醇な香りは筆舌に尽くし難く。戻されたカップがソーサーを叩く音を皮切りとして、宴席は幕を開けた。

「さて。まずは美味しい紅茶を持て成して頂いて有難う御座いました」

「気にしなくていいわ。客人を持て成すのは、館の主人の務めですから」

 今の凛からは少女の面影を感じない。一魔術師としての側面か、あるいは遠坂の名を継ぐ頭首としての顔が前面へと押し出ているように思えた。

「それは光栄の至り。ボク達のような招かれざる賓人にまで尽くしてくれる貴女の度量は大したものだ。ただそれが、虚勢でなければいいんですけど」

「どういう意味かしら」

「考えが至らぬ貴女でもないでしょう? 今この状況に、おかしな点が一つもないとお思いで? あるいは、それほどまでに鈍いというのならば、世に稀なる傑物とさえ思えてしまいますが」

 それがわからぬ凛ではない。今この状況は、テーブルを挟んで喉元に剣を突き付けられているのと変わらない。未だ衛宮士郎と切れていないセイバーからしてみれば、遠坂凛は同じ聖杯戦争の参加者に過ぎず、同時に殺害の対象に他ならないのだ。
 ここでもし彼が剣を執るのならば、凛が如何に優秀な魔術師とはいえ英霊であるセイバーに敵うべくもなくその首を切り落とされるだろう。だというのに、彼女はどこまでも優雅ささえ窺わさせる風体を崩さずに、紅茶に口をつけていた。

「残念だけれど、そこまでわたしは大物ではないわね。判っているわよ、今の状況の危うさが。瞬き一つ、紅茶が喉を通り過ぎる瞬間にさえ、この首は繋がる胴を失いかねないという事態だってことくらい」

「そう理解しながら、何故そう余裕で構えていられるのですか?」

 凛の口にしていたカップがテーブルへと戻される。閉じられていた瞳が緩やかに眼前の金髪紅眼の少年を見据えると同時に、空気が僅かに震えだした。

「簡単よ。これはわたしが未だ戦う事を諦めていないっていう意思の確認。その為にこの舞台を整えた。そしてある種の賭けよ。自分の命をチップとした、聖杯を頂く戦争へのチケット獲得戦」

 自らの駒は去り、なお戦い続けるというのならば新たな駒が必要となる。マスターだけで勝ち抜けるような戦いではない事を凛自身が誰よりも理解し、また腕に燦然と輝く契約の証が失われていない以上、戦いより降りるわけにもいかない。
 だからこその賭け。見失ったチケットを探し出すよりも、チケット自らが持ちかけてきた提案にこそ賭けたのだ。

「貴女はもっと堅実なタイプかとも思っていたのですが。どうやら違うらしい。全く、だから人は面白い。
 だけれど、全く疑わなかったのですか? ボクが虚言を弄し、貴女の背後を取る為にこうした提案を持ちかけた可能性に」

「有り得ないわね」

 呆れにも似た諦観と共に凛は断言した。裏打ちされた真実があるかのように。

「貴方が衛宮くんに何を触媒として喚び出されたのかは知らない。けどマスターとサーヴァントってのはね、結局似た者同士が惹き合うの。余程強い縁の物ならまあ……そういう理を覆すかもしれないけどね。
 でも貴方と衛宮くんはそうじゃない。そんなに数多く顔を鉢合わせてはないけれど、それでもそうじゃないって思える程度には貴方の事、見てきたから」

「……それはまた。喜んでいいのか悲しむべきなのか、判別が付き難いですね」

「確かに難しいわ。だって、貴方がそれだけ読めない人物で、危険な存在だって思えたから監視してたようなものだもの。
 更に言うのなら、そんな面倒な手筈を踏む必要ないしね。衛宮くんなら嫌いそうな手段でも、貴方だけなら即座に及ぶでしょうし。それこそ、柳洞寺からバーサーカーが去った直後にでも断行すれば良かった。そうせずこうして向かい合っているというのが、貴方はわたしに危害を加えないっていう証明でもあるから」

 再度沈黙が降り積もる。無音の静寂に木霊するのは陶器が擦れ合う音と、時を刻む針の音だけ。と、そんな無音を嘲笑う、忍び笑いが室内に生まれた。

「くく、ははは。そんな理由で敵サーヴァントを自らの懐へと招き入れたと? 危険だと思っていながら、こうして迎え入れたと? そしてこの僅かな期間でそれまでを読み切る思慮の深さと闘争への覚悟。
 そう、そうか。なら貴女とならば、ボクも手を組める」

 金髪の少年は断言する。この少女は面白いと。自らと共に聖杯へと臨む資格があると。

「……嬉しい答えだけれど。わたしはまだ、貴方の真意を聞いていない。聞かなければ、手を組む事さえままならない。
 わたしに資格があるというのなら、貴方が衛宮くんを見限った理由をしかと聞く権利がある筈よ」

 あの夜。あの刻。イリヤスフィールがセイバーに視線を向けた意味。セイバーがイリヤスフィールへの視線に込めた想い。そして、去り際に主へと傾けた視線の価値とは。

「────いいえ。そんなものはありませんよ、アーチャーのマスター」

「なん、ですって」

「ボク達がこの場で顔を突き合わせているのも、こんな会話をしているのも、ただの打算でしかない。貴女はサーヴァントを見失い、ボクはマスターを見失った。
 喩えるのなら、片翼を失った鳥だ。でもボクには、その羽がなくても飛ぶだけの力がまだ残されている」

 サーヴァントが現界に必要なのはマスターからの魔力提供である。衛宮士郎からは微々たるものしか流れ込んでは来ないが、一滴でも零れ落ちるのならば事足りる。今なお契約の切れていないセイバーと、サーヴァントがなくば戦い抜けない凛とでは、前提とされる土台が違う。
 ならばセイバーが凛に持ち掛けた提案の意味とは一体何なのか。

「欲しいものがあった。そしてそれを貴女が持っていると踏んだ。その対価として、ボクは貴女に戦力を提供する。ね、簡単でしょう?」

 それは何の答えにもなっていない。遠坂凛の持つものが欲しくても、衛宮士郎と訣別する理由にはならない。二つはイコールでは繋がらないのだ。
 ただ打算の意味は理解できた。欲するものを手に入れる為に己もまた相手が欲するものを差し出す。しかしそれだけでは、天秤の釣り合いは取れない。

「貴方がわたしの何が欲しいのかは知らないけれど、なら最低限、対等な条件下で交渉して欲しいものね。欲したものを渡した瞬間に殺されるかもしれないなんていうのは、穏やかじゃないもの」

 マスターとサーヴァントの関係は主従である。力関係ではサーヴァントに軍配が上がるというのに、彼らがマスターに付き従う最大の理由は令呪にある。
 何人たりとも覆す事の出来ない三つの絶対命令権。サーヴァントは願いを叶える為に召喚に応じ、その祈りを得るまでは、マスターに逆らう事を許されない。現界の楔であり供給源でもあるマスターを易々とは断ち切れないし、裏切りの報復は自らの死に他ならないのだから。

 その前提ならば、今の二人にはその縛りは存在しない。遠坂凛の持つ令呪はアーチャーを律するものであり、セイバーを縛れるのは衛宮士郎のみ。ならば単純な力量差こそがこの場での優位を左右する。

 それでもセイバーが無理矢理に凛より自らが欲するものを奪い取らないのは彼なりの矜持ゆえか、あるいはそうする事では得られないものであると仮定できる。仮定が成立するのなら、立場上はほぼ互角と言えるだろう。だが覆せない力量差がある以上は手の内を曝け出すのは巧くない。

 いつまで続けるのかは知らないが、凛が戦い抜くには絶対的にサーヴァントの存在が必要不可欠。何処かへと消え去った赤い騎士の背中を追う為にも、今はセイバーを律する手段が必要だった。

「だからわたしからの要求は一つ。────貴方に契約(ギアス)を掛けさせて貰う」

 ギアスとは、強制とも呼ばれる呪いの中でも最上級に属する魔術である。令呪ほどの多様性はなくとも、両者の同意があった上で掛けられたギアスの強制力は相当なものになる。それこそ、サーヴァントを律する事すら不可能ではない程に。

 他人の契約に干渉する事は熟練の魔術師でも難しい。けれど対象の同意と元からある契約には触れずに据え置いて、上から更なる契約を掛ける分には凛ほどの力量ならばなんら問題はない。
 詰まるところ、凛の要求は期間内、自らのサーヴァントとなれという事だ。ギアスはその為の手段。目的はギアスという呪いによる擬似令呪の作成、仮初の主従関係の本当の意味での成立だった。

「……いいでしょう。但し、承諾出来かねない契約内容ならば一言に伏しますが」

 思考すらなくセイバーは受諾の意を示した。そもそも彼にとってみればその程度許容範囲内なのだ。単身でも戦いに臨める身でありながら、こうしてわざわざ凛の元に居るという事は、多少の無理は承服するという意思の表れでもあるのだから。

「ま、そうでしょうね。貴方がさっき言ったように、わたし達が組むとするのなら打算以外の何物でない。自分の不利を嫌い、相手の有利を阻害する。そのくらいの割り切りがある方が気が楽よ」

「ええ。じゃあさっそく儀式を行ってください」

 セイバーが口を噤んだ事を確認した後、凛はゆっくりと左腕を垂直に翳した。彼女の細腕に描かれた魔術刻印が淡い輝きを帯び起動する。
 じゃあ始めるから。と前置きして、凛は呪を紡ぎ始めた。

「一つ。わたしに従う事」

「承諾します。但し、彼我の利益が合致する間だけとする」

「二つ。わたしの命令に背かない事」

「承諾します。但し、ボク自身を害する類のもの、余りに非常識なものは許諾しかねます」

「三つ。私に危害を加えない事」

「承諾します。但し、一つ目の契約が続く限りであるならば」

「最後に。────わたしを、信頼出来る?」

 それは、セイバーにとっては思いもよらぬ契約内容であったらしい。彼らしくもない間の抜けた顔を呆然と晒すこと実に十数秒。脳内でリフレインした言葉の意味の理解へと、漸く至り、

「────ええ。貴女が信頼してくれる分くらいには、ボクも貴女を信頼しましょう。我が名に賭けて」

 微笑と共に胸の前に右の拳を掲げる。
 同時に生まれる契約成就の光。程よく広い室内を埋め尽くす白光が瞬いた後、視界に戻ったのは何の変わりもない風景。凛にもセイバーにも外見上全く変化は見られないが、確かに契約は完了した。
 此処に、聖杯の寄る辺に従わず、異端なる主従が一つ生まれ落ちた。

「じゃあこれで契約は完了っと。今夜は色々と疲れたけど、まだやらなきゃいけない事が残っててね。悪いけど、付き合って貰うわよセイバー」

 魔術刻印の収束と共に凛は安堵の息を漏らす。これで凛は戦う手段を得た。赤い騎士を追う力を味方につけた。いや、味方かどうかはさておいて、確かに組まれた契約と誓約は果たされるべきものであろう。
 だからもう気兼ねなど必要ない。自らの手足の延長として、サーヴァントという使い魔を使役し尽くす。

「それは構いませんけど。それよりボクの要求に答えるのが先────」

「そんなの後よ、後。簡単な探し物なんだからちょっと付き合ってくれればいいわ。二度手間になったのは、まあ……確かに面倒なんだけどね」

「……まったく。いきなり前途多難だ。で、その探し物とは?」

 呆れ顔のセイバーはそれでもそれ以上の追及をしない。彼が欲するものは今すぐに必要というものでもないし、彼女の動向こそが今最たる注目点なのだ。
 以前の主とは違い、利発的な面を持つこの少女ならば下らない戯言を謳う事もそうあるまい。もし本当に聞く価値もないものならば、一笑に伏せばいい。行動は話を聞いてからでも遅くはなかった。

 そして少女の紡いだ言葉は、確かに意味を持ったものであった。

「サーヴァント・ライダーのマスターにして始まりの御三家の一つである間桐の嫡男。三日前から消息不明なままの────間桐慎二を確保する」






切なる祈り/Fuga I




/1


 気が付けば、血に塗れた身体はいつも通りの色をしていた。身体的な異常もなく、至って健康。まるで先の夜の出来事が夢であったかのような錯覚をしてしまう程の、まるで変わらない自分。

 違うところがあるとすれば、そう──立っている場所だ。

 広々とした柳洞寺の境内でもなく、自宅の庭先でもない。
 弧を描いた地平線。真っ平らな赤茶けた大地には何一つ存在せず、延々と乾いた土だけが続いていた。吹き荒んだ風は埃を孕んで視界を奪う。鼻腔を擽るのは古び錆び付いた鉄の匂い。

 ああ。俺はこの場所を知っている。

 そうして、自分の立っている場所を理解した。現実ではない虚構。有り得る筈のない世界の狭間。脳が見せる人の幻。泡沫のユメに連なる、知る筈もない景観。此処は何時か夢に見た、何もない砂漠だった。

 ならば進むべき方向も知っている。世界の中心にして発端。結界式の中心点。この光景を生み出した原因。何をも失くした心の残骸。
 つまり此処は、或る騎士の辿り着いた境地だったのだ。

 だから待っているヤツが誰かなんて考えるまでもない。以前は阻まれた強烈な向かい風を突っ切って、ようやくその男の後ろ姿を目視した。
 交わされる言葉なんてない。視線すら交えない。ただ互いは互いを意識したまま突っ立って、何をするでもなく風の中に身を晒し続けた。

 唐突に、男が嗤う。表情は窺えずとも、嗤ったのだと理解した。同時に生まれた空を埋め尽くす剣群。どれもが錆び付き既に剣としての意義を失くしてしまったかのような空虚さながら、確固として剣の形を保ち続けた誇るべき剣群だった。

 空中に出現した十字架は間も無く大地に降り注ぐ。そこで理解した。ああ、そうだ。衛宮士郎は、あの赤い騎士に負けたのだ。力量の問題ではない。衝き付けられた現実という名の罪状に、何一つ言い返せずに敗れたのだ。
 これから犯していく罪。一方的に差し向けられる罰。その様をまるで実体験を伴ったかのような鮮明さで目の当たりにしたのだ。

 だというのに、何も言えなかった。何も言い返せなかった。ただ否定の心を露にし、現実より背けた瞳では、あの赤い騎士の強固な悪意に立ち向かえない。だから、切り裂かれ、貫かれ、血に塗れ。この様となったのだ。

 降り注いだ剣群は士郎の身体を貫き大地に突き立つ。傾きなど一切なく、天を真っ直ぐに見据えて聳え立つ。後には、血塗れの男が一人立っているだけだった。
 世界がぐらりと揺らいだ時、衛宮士郎は何も出来ずに崩れ落ちる。歪んだ視界。赤い荒野が傾いていく。

 空より降り注いだ鋼の檻の中で最後に垣間見たものは、遠く過ぎ去っていく赤い背中だった。







「ぅ……ぁ────っ」

 淀みきった意識が緩慢に浮上する。瞼は自分が思うよりも断然重く鈍い。ようやく細め開いた眼ではあったが、視界は不鮮明なままだ。意識と現実との結合が巧くいっていないらしい。待つ事数秒。晴れ始めた視界は、見た事もない場所を映していた。

 疑問の声も声帯からは零れない。身体全体の機能がまだ完全に回復していない。それでも開いた眼で、どうにか自分の置かれた状況を理解しようと努める。

 豪奢な装丁の室内。調度の一つ一つには埃の一つとてなく完璧に行き届いている。きっと眼も見張りたくなるような高価なそれらが無数に配置されているとあっては、ここはどこぞの金持ちが居を構える豪邸に違いない。
 窓に掛けられたカーテンが淡い光に照らされている。どうやら既に夜は明け陽は昇っているらしい。

 次いで自分の横たわっているベッドに目を向ける。天蓋つきとはまた豪勢。余裕で沈み込むこの弾力はなんだ。自宅にある自分の布団を思い浮かべて、こんなにも格式高い寝具があるのかと思わずにはいられない。

 結局自分が何故こんな場違いな場所に居るのかが理解できず、昨夜の出来事を思い浮かべようとして────

「ぅ─────うぅん……」

 誰かの吐息が零れる音を聞いた。

 確認しようとして身動ぎした身体に激痛が走る。その痛みでようやく思い出した。胴を袈裟に切り裂いた斬撃を。血飛沫の狭間から垣間見た、あの、暗澹たる苦悶の顔を。抑え切れぬ憤怒の顔を。
 同時に、意識の断線する直前に見た少女の姿までをも鮮烈に思い出した。

「……イリヤ」

 床にぺたっと座り込んだまま、ベッドに縋り付くように眠り扱けている少女は士郎の声にも気付かない。少女は穏やかな吐息とは裏腹に表情には何か違うものが宿っているように思えた。それが何か解らないまま、けれど痛む身体を堪えて少女へと手を伸ばした。

「ぅん……。…………ぁ、シロ──ぅ?」

「ああ、おはようイリヤ。起こすのは悪いかとも思ったんだけど────」

「シロウ!」

「ちょ……、イリ、いで、いででででで!」

 目が覚めたかと思いきや、いきなり飛び掛ってきたイリヤスフィールに士郎は為す術もなく抱きつかれ──というよりもボディプレス──士郎の苦痛に歪む表情を見て、はっと我に返ったイリヤスフィールは身を引いた。

「ご、ごめんねシロウ。だってシロウが中々目を覚まさないから……」

 申し訳なさからか、悲しみに沈む少女の姿を見やり、士郎はそっとイリヤスフィールの頭を撫でて首を振った。

「いいんだ、イリヤ。悪いのは俺の方だ。むしろまず最初に、感謝を伝えるべきだった」

 あの夜の事は忘れられない。断線していく意識の中、遠ざかっていく赤い騎士の姿を。傍らに座した少女の見せた、沈痛な面持ちを。
 バラバラな意識は中々巧く繋がらない。だからまずは自らを救ってくれた少女に感謝を伝えないと。

「良いのよシロウ、そんな事気にしなくて。それより、身体は大丈夫?」

「ん……大丈夫、と言いたいところだけど」

 具に自分の身体を解析する。意識はもう大丈夫のようだが、外面が思いの他酷い状態にある。ぐるぐると巻きつけられた真白の包帯にはまだ赤い斑点が染みている。胸に刻み込まれた傷は癒えていない。血も僅かに足りてはいまい。今立ち上がろうとすれば眩暈に襲われるのは目に見えている。

「治癒の術式は今も動いてるけど、余りに酷い状況過ぎたわ。現代医学では処置が追いつかない程に深い傷だった」

 それでも今なお存命しているという事は、イリヤスフィールによる治癒が施されたのだろう。彼女の魔術師としての力量は知れないが、今の士郎を鑑みれば相応の実力を持っていると思われた。
 そして、そんな彼女の力を以ってしても、士郎の傷を完全に癒すのは不可能であったらしい。

「もっと早く治癒を施していればこうはならなかった。アーチャーに斬られてすぐに逃げ果せていれば……。原因はシロウにはないわ。悪いのは、シロウのサーヴァント……セイバーよ」

「……そういえばアイツ。いるのか?」

「いないわ。わたし達が柳洞寺から去る時にも、彼は追いかけて来なかったもの」

 それは。その意味するところは。

「シロウ。貴方は貴方のサーヴァントに見捨てられたのよ」







「……そうか」

 事の顛末を聞き届け、深い溜め息を零して理解に至る。
 アーチャーに斬られた後の事は無我夢中で判然としない。身に余る魔術を何度も駆使した結果か、血を失いすぎた代償か。ただ我武者羅に、手にした剣を振り抜いていたばかりだった。

 結局抵抗虚しく膝を付き、最後にはイリヤスフィールに助けられるに至った。その間、セイバーには士郎を救うチャンスがあっただろう。なくともマスターをみすみす死なせるサーヴァントも珍しい筈だ。余程の不和でもない限り、楔を失うのは良しとはしまい。そうする事で失うのは、自身の祈りの成就なのだから。

 けれどセイバーは動かなかった。士郎が必死の抵抗をしている最中も、膝を付き大地に伏した時も、イリヤスフィールが士郎を助けた時も。
 セイバーの思惑は余人には知れない。が、イリヤスフィールが割って入らなければ士郎は絶命していただろう。結果として残ったのは、忘我しながらも奮戦した主を見捨てた不義の騎士という汚名のみ。

「シロウ。シロウはこれから、どうするの?」

 右腕を翳して手の甲を見た。そこには未だ、二画の令呪が赤く燃えている。セイバーが何故士郎を見限ったのかは解らない。けれど契約は切れておらず、それはつまり──あの誓いもまた健在という事だ。

「戦うよ。この腕に令呪がある限り、まだ俺は負けたわけじゃない。手に掴んだものは何もない。むしろ昨日の戦いは、戦う理由を増やしてくれた」

 争いを止める事。イリヤスフィールを戦わせたくない事。間桐桜の救出。消えたセイバーの思惑を知る事。
 そして何より──アーチャー(あのヤロウ)に一言言ってやらなければ気が済まない。

「言いたい放題言われた。抵抗も反撃も出来なかった。完膚なきまでに負かされた。けど俺はまだ生きてる。なら言い返してやらないと。
 アイツが赤い丘(そこ)で待っているというのなら、今度はこっちから出向いてやる」

 だから。こんな場所で寝ている場合じゃないんだ。

「ぐっ、……あぁっ!」

「ダメよシロウ! 動ける身体じゃないんだから……!」

 無理矢理に起こした身体に激痛が走る。痛みは鈍化していた精神を活性化し、なお痛烈な衝撃を伴い全身を駆け抜ける。けれど、もう倒れ伏す事は許されない。二度も無様に地に這い蹲っては、赤い騎士に立ち向かう資格すら失いかねない。
 いや、たとえ這い蹲ろうとも士郎は前に進むだろう。衛宮士郎を叩き潰したいのなら、その心こそを圧し折らなければ意味がない。

 挫けぬ心、折れぬ理想を宿す限り。衛宮士郎は何度だって立ち上がって見せると。

「悪い、イリヤ。でも、本当に寝てられる場合じゃないんだ。俺にはまだ、やらなきゃいけない事があるんだから」

「だからって……! そんな身体で、サーヴァントも失って、どうして戦おうとなんかするのよ! 解らない。解らない判らない分からないわかんないっ!」

 だだを捏ねるイリヤスフィールの姿は、外見相応の少女であった。戦う力を失くした士郎を気遣うというよりも、その先、無力なままで立ち向かって、結局は失われてしまう他の何かに脅えるように。

「もう失いたくなんかないのに……。誰もわたしを理解してくれない。誰もわかってくれない。あの時だってそう……わたしはずっと待ってた。待っていたのに、キリツグは来てくれなかったんだから……!」

 その名は、士郎の脳髄を衝撃で満たしていった。脳裏に蘇るのは、柳洞寺で対峙した槍の騎士のマスターであった女魔術師の発言。
 十年前の聖杯戦争。衛宮切嗣はセイバーのマスターとして参戦し、聖杯の目の前まで勝ち進み。そして。そして。その後は。

「バカか、俺は。今頃気付くなんて」

 点と点とが線で結ばれる。
 いつかイリヤスフィールは言った。切嗣に嘘を吐かれたと。いつか衛宮士郎は言った。切嗣には、その約束を守れなかった理由があったと。
 なんて愚かしい。切嗣がイリヤスフィールとの約束を果たせなかったのは、衛宮士郎の存在ゆえであったのだと今頃になって気が付いた。

 土着の魔術師ではない切嗣は十年前に冬木の街を訪れ聖杯戦争に臨んだ。しかし結局聖杯には至れず、大火災に見舞われた終結の地で一人の子供を拾ったのだ。
 それからの事は、士郎にも思い返せる幸福な日々。だからこそ理解する。イリヤスフィールにとって衛宮切嗣はとても大切な存在で、そしてその人を奪い取ったのは、他ならぬ自分自身であると。

「もう、いやなの……」

 彼女の頬を伝う温かなものは士郎へと還る咎。
 十年の歳月は少女にとって長すぎた。胸に刻み込まれた約束は果たされる事なく、それでも日々は延々と繰り返される。そしていつしか、少女は幼心に気付いたのだ。

 “キリツグはもう、帰ってこない”

 裏切られた。待っていたのに。ずっと。ずっとずっと待っていたのに。どれだけ待っても恋焦がれた男は来ないのだと無心のままに理解して。
 胸に空いた寂寞を埋めるには、復讐という感情に縋るしかなかった。怨念で取り繕った心でも、空虚に満たされた心でも、衛宮切嗣という男への想念を忘れずに留め置くには、そうする事しか出来なかったのだ。

 それを悪いと誰が笑えよう。たとえ誰もが笑おうと、衛宮士郎は笑ってはいけない。原因が自分にあるからではない。あの男に救われた自分であるから、彼女の復讐を妨げてはいけない。

 ────切嗣は悪くない。恨まれるのならあの日、衛宮士郎として蘇生したこの俺なのだと。

 怨嗟に満たされた復讐心。矛先であった切嗣亡き今、その想いを受け止められるのは士郎しかいない。
 少女には士郎を断ずる権利がある。帰る場所を違えた男の末路。その男の死を看取った自身の責任。少女から幸福な時間を奪い去った罪は、深き咎として士郎を処断して余りあると理解して。

「でも、ごめん。俺にはイリヤの願いを叶えてあげる事は、出来ない」

 けれど彼は、それすら受け入れられないと口にした。

「俺にはまだやらなきゃいけない事がある。果たさなきゃならない誓いがある。だからイリヤの復讐に応えてやれない。
 ────それが、俺が切嗣に誓った約束だから」

 安心したと安堵を零して目を閉じた男との約束。それを果たす為には、こんな所で死ぬわけにはいかない。自らの我侭でしかないこの意思を貫き通すとあの縁側で誓い、成し遂げる事でこそあの男の遺志に応えてやれるのだと信じて。

 すすり泣く少女の目を真っ直ぐに見据えて、士郎は確固たる意思を紡いだ。それでもなお少女が士郎を断ずると言うのなら、仕方がない。精一杯の抵抗はせざるを得ないと覚悟を決めた直後に。少女は睨むように士郎の瞳を覗き込んだ。

「ばか。バカバカバカ! 本当、呆れるほどのバカよシロウは! 勝手に覚悟を決めて、こっちの想いは置き去りで。考えなしに振り返らずに進んでいくただのバカ!」

 目の前で喚き散らされては流石の士郎も開いた口が塞がらない。ただただ少女の罵詈雑言に付き合わされて、不意に顔を背けたイリヤスフィールの呟きさえも聞き届けた。

「……本当、バカだよシロウ。でもシロウはやっぱり、キリツグ(とうさま)の息子だよ」

 振り向いた少女は確かに微笑みを湛えていた。そのまますとん、と身体を起こしていた士郎の膝元へと座り込み、細く白い両腕を士郎の首へと回した。

「イリヤ、痛っ、いたいって」

「我慢しなさい、男の子でしょ。それよりも。分かったわ、シロウ。今は貴方の事を殺さないであげる。
 代わりに一つ約束して。絶対に死なないって。もうわたしの前から誰かが居なくなるなんて事、絶対にイヤなんだから」

 額を擦り合わせて見つめてくるイリヤスフィールの紅の瞳。憂いを帯びていながらも真摯な視線から、どうして目を背ける事が出来ようか。
 少女の心を満たしてはやれない。ならばその、切なる祈りくらいは叶えてやれなくて何が正義の味方か。父の遺志を継いだ息子として、たった一人の少女の想いなど、背負って見せる。

「ああ、わかった。俺は死なない。生き延びて。生き延びて約束を果たすよ。切嗣との約束も、イリヤとの約束も」

 満面の笑みで抱きついてくる少女を受け止める。
 復讐という憎しみで繕った心の奥底────深海よりも深いところで、イリヤスフィールはやはり切嗣を憎み切れていないのだと確信する。そうするしかなかった。そうする事でしか、耐えられなかったのだ。

「イリヤ。俺の知る切嗣は、娘を見捨てるような酷い人間じゃなかった。きっと切嗣は、イリヤの事を愛していたと思う」

 イリヤスフィールが父と呼んだ切嗣を憎み切れないように、切嗣もまた娘を捨て切れなかったのだと思いたい。
 士郎の罪は拭えずとも、度々国外へと赴いてた切嗣の行動も今思えばイリヤスフィールを迎えに行っていたのだと。だけれど祈りは叶わず、しかし安息のうちに息を引き取った彼の想いは確かに士郎の裡に息づいている。

 だから、切嗣の果たせなかった約束を叶えてみせる。切嗣の代わりなどではなく、士郎として。イリヤスフィールと交わした想いを誓いとして。

 ただ今は──この少女の泣き顔を覆い隠す為に、この胸を貸してあげたい。













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