剣の鎖 - Chain of Memories - 第三十五話









「はい、あーん」

「いや、ちょっと待ってくれイリヤ。飯くらい自分で食えるから、わざわざそんな事しなくても……」

「いいから! 怪我人は大人しく言う事聞いて安静にしてなさい!」

 士郎は無理矢理口の中に捻じ込まれたスプーン一杯分のライスをなんとか咀嚼して事無きを得たと思ったのも束の間、嬉々として掲げられた銀のそれには次なるライスが鎮座ましましていた。

 約半日ぶりとなる食事は確かに空腹感と虚脱感を満たしてくれる。施された治癒の魔術は肉体の損傷は癒しても、体機能の低下までは解消してはくれない。栄養の摂取は人の生活には必要不可欠な要素であり、また肉体の回復力にも影響を与えるだろう。だから空腹を満たす事は決して悪い事ではないのだが。

「あーん」

 と、このように病人を看病する看護師、あるいは仲睦まじい恋人のようにせっせと世話を焼いてくれるイリヤスフィールの過剰な愛が心に痛い。決して嫌なわけではないのだが、要するに気恥ずかしいのだ。
 身近に姉としてあった女性にはこうした側面はなかったし、あるとしても酒の勢いで絡んでくる程度であった。更にはこうまで自分に対し親身になってくれる女性というものと縁遠かったせいか、どういう顔をして向き合えばいいのか判らなかった。

 だからせめて、気恥ずかしさを悟られないようにする事だけで精一杯であった。

「どう、美味しい?」

「ああ、美味い。イリヤが作ったのか?」

「違うわ。セラが作ってくれたの」

 セラ、というのはいつか聞いたイリヤスフィール付きの侍従の事であろう。一度部屋を出て、再度戻ってきたイリヤスフィールは台車を手繰り、その上に積まれた豪奢な料理をぞろぞろとテーブルに並べるなり先のような行為に臨んだのだ。
 さておいて、今食べたものがどこの料理かは知らないが、外国のものであるのは確かだろう。丹念に作られたそれらは相手の事を考えて作られている。細部にまで手の凝った様を見れば一目瞭然だ。
 ……ただ、怪我人が食べるような料理の種類と量ではないが。

「ご馳走様でした」

「はい、お粗末さまでした。じゃあシロウ、ちゃんと寝ないとダメだよ」

 それでも身体は栄養を欲しているらしかった。思った以上に相当美味かったというのあるが、やはり身体は素直だ。少しでも早く回復しようと貪欲に理性が拒否しかねない量を平らげてしまったのだから。

 食事を終え、起こしていた身体をベッドへと戻す。緩やかに倒れ伏した身体は再度起き上がる事を拒むように動かない。こんな身体ではどうしようもない。助ける側が、助けを必要としていては本末転倒だ。
 だから今は休息に徹する。少しで早く傷を癒し、戦線へと復帰する為に。

 士郎が横たわったのを確認してから、イリヤスフィールは微笑を湛えて再度ちゃんと寝ているように言いつけ部屋を出て行った。その最後に小さな欠伸を漏らしたのは、無意識だろう。けれど恐らくは昨夜は士郎の容態を付きっきりで看ていたのであろうから、当然といえば当然だ。
 そんな少女にこれ以上の負担をかけるのも忍びない。今はただ頭を巡らせる事に没頭しよう。

 結局のところ、今すぐこの場所を辞するという士郎の考えは却下された。イリヤスフィールが食事を取りに部屋を出た隙に無理を押して立ち上がった足は、痺れたように感覚を失くし膝から崩れ落ちた。がっくりと手足を付いて、次いで眩暈にまで襲われた。胸の傷は身体全体にまで浸透し、たかだか半日では回復しきれていなかった。

 その様を部屋へと戻ったイリヤスフィールに目撃され、烈火の如く憤怒し、今ではベッドに縛り付けられているというわけだ。
 今の状態ではどうしようもないと解るほどに、士郎は思いのほか疲弊していた。それも当然、本来ならば死んでいる筈の命なのだ。たとえ魔術師であろうとも、数日は身動きすら出来ない筈の傷を負ってなお半日で目を覚まし、且つ人目を盗んで逃げだそうとするなど不可解にも程がある。

 如何に治癒を施されようと、それ以外の何かが士郎に働いているとしか思えない。傷を癒しているのはイリヤスフィールの手腕だが、命を繋ぎ止めたのはもっと別の何か──理を超越したものでなければ割に合わない。

 何はともあれ、それでも早く行動に出たかった。とりわけ最優先すべきことといえば──やはり間桐桜の事であろう。

 柳洞寺で桜を発見できたのも束の間、極光が瞬いた直後には魔女諸共に消失していた。死んではいないと思う……が、無事だとも思えない。そも魔女が桜を攫った理由と価値、意味さえも士郎には解らなかった。
 理由などどうでもいい。攫われたというのなら奪い返せばいい。捕まったというのなら救い出すだけだ。一刻も早く。心は急いて、けれど身体は休息を求めていた。






動き出す悪意/Fuga II




/1


 彼が目を覚ましたのは、陽も頂点を過ぎ去った頃合だった。ぼやけた視界を鮮明とする為か、強く瞼を擦り瞬きを繰り返す。そうして晴れた視界に映し出されたのは、見た事もない部屋だった。

「どこだよ、此処……」

 胡乱な頭で周囲を見渡す。アンティーク調の調度品。綺麗に掃除された赤い絨毯。洋式を主として組まれた室内は明らかに外観すらも洋館であると思わせる。
 ふと目を窓の方へと向ければ、どこか見慣れた風景であるように思えた。通い慣れた道に見飽きた森林。整然と建てられた家屋の数々は、意識せずとも目に留めっていた名も知らない誰かの館だった。

 その光景を知っている。この場所は、いつもいつも見上げていた場所だ。目の前の舗装された道路を下り、僅かに進んだ先には住み慣れた家があるのだろう。そうするのなら、この家は────

「おはよう。いえ、それとももう、こんにちわかしら。間桐くん」

 その時。音もなく開かれた扉から、黒髪の少女が姿を現した。

「遠、坂────!」

 横たわっていたらしいソファーから転がり落ちる程の衝撃で慎二は跳ね起きた。何故。何故この女が。何故この女の家に僕はいるんだ。僕は確か、学校の屋上でコイツと向き合っていて……。

「…………ぁ?」

 それから。それから後の、記憶が、ない。

「どうかした? 鳩が豆鉄砲食らったような顔して」

「遠坂。今日は、いつだ。何月何日何時何分だ」

「……? 二月八日だけど。時刻は十二時ちょい過ぎってところね」

 凛の言葉に慎二は愕然とした。自身が認識している最後の日付は二月五日。実に三日も前の事である。しかし慎二にとってみればそれは昨日……いや、ほんの数時間前の事である様にしか思えなかった。

 ならばまずは疑ってかかる。目の前の女が嘘を吐いていると。だがそうするメリットが存在しない。日付を偽って得をするような場面が想像できないし、そもそもこの女がそんな下らない嘘を吐く筈もない。

 だとすれば、一体……?

「混乱しているようね。仕方がないから、順を追って説明してあげるわ。始めは……わたしと貴方が学校の屋上で会った辺りからでいいかしら」

 頷く他に、慎二が選べる選択肢などなかった。







「────」

 頭が真っ白になった。遠坂凛の言葉は間桐慎二を揺さぶって余りある。
 凛が話した内容は、あくまで凛の主観と自身が体験した事実に過ぎない。だから柳洞寺の一室で眠りこけていた慎二を発見する以前、屋上での対峙からの空白期間に何があったのかは判らなかった。

 身体上の異常や魔術的呪縛が施されていないところを見れば、捨て置かれていたのだろうと凛は推察する。そも魔女が欲したのはライダーという戦力であり、全く役にも立たないマスターなど生かしておく必要とてなかった筈。
 事実として生きている以上は何も言えないが、マスターからの強制か、あるいは街中からの略奪の延長線上として見ればいいだけの事。死んでいれば意味もないが、生きている慎二には価値がある。

「で、おまえ僕をどうする気だ」

 ようやく冷静さを取り戻した慎二は睨みつける眼光に怒気を灯す。目の前の女がただの救出が目的で慎二を自宅まで連れ込んだ可能性は低すぎる。長らく敵対してきた間桐への人質か、あるいは。

「ふぅん、まだ回る頭は残っていたようね。ま、その方が楽でいいんだけれど。
 貴方がマスターになれた不可思議はこの際置いておくとして、それでも貴方がマスターとしてわたしの前に姿を露にしたのもまた事実。要するに──」

「捕虜か。ハン、そんな生温い事言ってるからダメなんだよ、おまえは。僕はまだ負けちゃいない。僕にはまだ……」

「まだ? 貴方に一体、何が残っているというの?」

 ない。ある筈の、出来損ないより奪い取った令呪()がない。ない、ないないないないないないないないないっ!?
 得てから片時も手離した事のないアレがなければ、間桐慎二は一マスターとして機能しない。サーヴァントを従えられない。つまり、魔術師では、ない。

「おまえっ……! アレをどこにやった!? どうせおまえが奪い取ったんだろう!?」

 激怒する慎二を目の前にし、けれど凛は動じない。テーブルを挟んで仁王立つ慎二を冷やかな目で見つめながら、真実だけを訥々と語った。

「貴方が何の事を言っているのかさっぱりだけど。わたしが貴方を見つけた時と今の格好は全くの同じ。持っているものも、服以外で身に着けているものはなかったわ。奪い取ったというのなら、それはわたしじゃなくキャスターでしょうね」

 思えば簡単な事だった。慎二より奪い取った偽臣の書を繰りライダーを統べたのなら、間桐慎二に興味を失くしたのも頷ける。体のいい人質か、殺すのも億劫なだけであったのかもしれない。

 ともかく、今の慎二はそこいらにいる一般人にすぎなかった。それでも、かつてサーヴァントを統べていたという事実がある以上はマスターとして振舞ってしまった他のマスター連中には敵として認識される。
 今此処で遠坂邸を放り出され偶々他のマスターと出会おうものなら問答無用で殺されようとも文句は言えない。それを思えば、凛の処置は寛大とも言えた。敵地より救出し、拘束するでもなくこうして面と向かってくれているのだから。

 ただそれを素直に呑み込めない慎二がいるのもまた事実だった。そもそもの話、慎二が魔術師を目指した理由は何であったか。

「そろそろ吼え飽きたかしら。暴れたければ暴れてもいいわ。でも此処はわたしの家。魔術師の工房がどういうものであるのかぐらいは、流石に知っているんでしょう? それとも説明が必要?」

 ギチリと音が噛み締められる。歯軋りが雑音を生み出して、慎二は脱力するようにソファーへと腰を落とし項垂れた。
 この瞬間、彼は敗北を悟ったに違いない。戦わずして敗北を喫したのだ。

「解ったのなら教えなさい。────貴方の知る限りの事を」





/2


 遡る事約半日。

 未だ空に月を頂き、闇夜を照らし出していた頃合。その下で、知られざる一つの戦いが終幕へと加速していた瞬間へと巻き戻る。

 青い槍兵に瀕死の重症を負わされ、魔女の力添えにより以前以上の力を取り戻したのも束の間。必殺を期して発動した筈の宝具はあっさりと破り去られ、死を享受する暇すらなく命の灯火が吹き消されようとした刹那。

 一帯を染め上げた眩き白光はランサーの必死の腕を鈍らせ、ライダーに回避の時間を与えた。偶然としか呼びようのないその間隙を、ライダーは好機と捉えた。
 擬似的とはいえあの瞬間、ライダーはキャスターとの繋がりを持っていた。サーヴァントには主の危機を察する能力がある。故に察したのだ。あの光はキャスターの手によるものではなく、キャスターを脅かすものだと。

 正式な主従関係を結んでいる者同士が知覚したのなら、自らの戦場を放棄しようとも主を助けに向かうべきであろう。
 しかしライダーはこの瞬間──主の討伐を決意した。

 元より無理矢理に取り交わされた契約だ。この先、魔女が蛇に囁きかけた夢物語を実現する保証はないし、たとえ至ろうともライダーをただの駒として使い捨てる可能性もあるだろう。むしろその可能性の方が高く思える。

 ライダーが最優先する事柄は真なる主の生存だ。かつて怪物として恐れられ、畏怖の対象にして英雄の礎となった彼女の生前。彼女が主の呼び声に応じたのは、凄惨な己の結末に否を唱えたからである。
 何もそれを無かった事にしてくれなどとは望まない。ただ──己のような悲運を辿る者はもう、いて欲しくないと切に祈るばかり。

 だからもう、させない。そんな運命は許さない。神々の掌で踊らされたかつての自身のように、卑小な己の弱さに打ち負かされた過去のように、不実の結末など望みはしない。
 掴み取るのは僅かな幸福。誰もが持っている小さな陽だまりを大切に出来るのなら、それでいいと。

 だからこそ彼女は真なる主の召喚に応じたのだ。己と同じ結末を辿る“可能性”を持つその人を守り抜く為に。悲惨な化物へと変貌させない為に。

 その為ならば、リスクさえも背負ってみせる。ランサーより距離を取ったライダーは四肢を大地に衝き立てた刹那、新たなる極光が瞬いて。ライダーは自身を光の矢へと変えて翔け抜けた。

 救うべき間桐桜(マスター)の元へ。斃すべき魔女(サーヴァント)の元へ。







 彼女が意識を取り戻したのは、夜空を真横に翔ける流星の上だった。

「気がつきましたか、サクラ」

 穏やかなライダーの声音に今自分が置かれている状況をなんとか理解しようと試みたけれど、鈍い痛みが頭を過ぎ去り顔を顰めただけだった。

「大丈夫です、サクラ。貴女は私が守ります。貴女の大切に思うものも」

 ライダーの腕が温かい。魔性でありながらも実在する彼女の温もりを肌で感じ取り、口元に浮かんだ微笑はきっと、安堵の形にして彼女への返答だった。

 胡乱な意識のまま空を見た。過ぎ去っていく星々の煌きは、変わらない。そう、間桐桜が夢見ているものもきっと、変わらない何かに違いない。欲しいものはある。抱き締めたいものもあった。
 けれど、今のままでいい。この時がずっとずっと続いていくのなら、それ以上に望むものなどない。深い暗闇の底で見つけた淡い光。温かな光の傍にあれるのなら、こんな深海の中でさえ生きていける。

 表と裏の接地面。メビウスの如く連なるその輪の中で、ただ温もりを。光を。夢見ていたい。
 薄れていく意識の中、思い描いたのはそんなちっぽけなユメのカタチ。

「ごめんね……ありがとう、ライダー」

 最後に。謝罪と感謝を残して桜は意識を手離した。





/3


 次に桜が目を覚ましたのは、色の欠片もない自室でも、あの薄暗い蟲倉でもなかった。此処は、そう──桜が何よりも大切にしたい場所だった。

「先輩の、家……。そっか、ライダー……」

 騎兵は言った。彼女自身だけではなく、彼女が大切に思うものをも守り抜くと。その最たるものがこの場所だ。
 桜は自分の住処に安堵を見出せない。あの場所は、恐怖と暴力と絶望だけが渦を巻く現実の奈落だ。
 家の扉の前に立つ度、今でも少し躊躇する。心の折れていた以前は無感情のまま素通り出来たあの扉も、この場所の温かさを知ってしまった今は以前と同じように通り抜けられなくなっていた。

 その先に在る絶望にはもう慣れた。その先に待つ苦痛にはもう慣れた。ただその昏い行いが、あの人にばれてしまうのが怖かった。

 ────わたしは、先輩の傍にいられるほど綺麗な人じゃないんです。

 汚れて汚れて穢されて。貶められたこの身体。どれだけ貴方を欲しても、それを知られるのが怖かった。距離を置かれるのが怖かった。真っ暗闇に射し込む小さな光。それを見失ってしまったら、もう間桐桜は生きられない。

 だから彼女は今を守る。近づけなくてもいい。届かなくてもいい。この関係がずっとずっと続いて行くのなら、それだけで充分だと。

「ありがとう、ライダー。この場所に連れて来てくれて」

 でも、そんな儚いユメさえも届かない。この場所に居続けられる筈もない。今だってきっと何処かから見ているに決まっている。
 間桐臓硯。あの蟲が、こんな身勝手を許す筈など有り得ない。ほら、今にも影から這い出した闇が、しわがれた老人を形作る──

「………………」

 けれど異変は起こらなかった。障子を挟んだ向こう側、広い世界に射す柔らかな光。小鳥達の囀りだけが残響していた。

 おかしい。あの老人が桜が攫われた事を知らない筈がない。自ら行動を起こす事はなくとも、こうして再び自由を得た今ならば警告の一つでも残しに現れてもおかしくはない。それともただ単に桜が屋敷へと戻るのを待っているのだろうか。

 だとすれば今すぐにでも帰らなければ。一分一秒でも早く。でなければ身体に刻まれる咎が重く大きくなるだけなのだから。
 逆らえない。歯向かえない。許しがなければ呼吸さえもままならない。そんな半生を過ごしてきた間桐桜が初めて──反抗の意思を瞳に宿した。

 この場所にいたい。あの人は戦う決意をした。もしかしたら今なお戦い続けているかもしれない。傍で支えてあげる事なんて出来ない。遠くで見ている事さえ許されない。ならばせめて、この帰る場所だけはわたしが守りたい。

 いつか言ってくれたご馳走様のお返しに、お帰りなさいを言ってあげたい。非日常の狭間において、変わる事のない日常で在り続けたい。

 間桐桜は立ち上がった。ご飯の準備をしないと。いつ帰ってきてもすぐに食べられるように、食べやすくて保存の利くものにしようかなどと考えながら、しっかりとした足取りで厨房へと赴いた。







 それからどれ程の時間が過ぎただろう。冷蔵庫にあった食材を使い出来る限り手の込んだものを作ったのはきっともう何時間も前の事。とっくに冷めてしまったけれど、温め直せばすぐにでも美味しく食べられる筈だから大丈夫だと思う。

 ひんやりとした畳の上に座布団を敷いて、その上に座り続けて何時間が経ったのか。ふと見上げた時計はコッチコッチと正しく時間を刻み付けている。確か目を覚ましたのは十二時を少し過ぎた辺りだったから、かれこれ六時間は過ぎている。

「先輩、遅いな。早く帰って来ないと、お料理が冷めちゃいます」

 とっくに冷え切ってしまった料理の数々は室温に近い。冬でもそれなりに暖かな冬木において、今日という日は普段よりも大分寒かった。暖房器も入れず、厚着の一つもせず。じっと。ただじっと桜は家主が帰ってくるのを待っていた。

 視線を落としてテーブルの上を見た。閑散として何も置かれていないテーブル。その場所に自分が作った料理を並べて、あの人がそれを美味しいと言って食べてくれる。つい先日まであった確かな陽だまり。それが壊れたのは、何故だったか。

 その時。機械的な音が、室内で木霊した。

「あ……チャイムの、音?」

 先輩だ。先輩が帰ってきたんだ。間桐桜は立ち上がる足に力を込めた。一刻も早く鍵を開けてあげないと。そうしないと、先輩が自分の家に入れない。
 どこか虚ろとした瞳の桜は幽鬼のような足取りで玄関へと急いた。心は逸って、おかしな事実に気が付かない。家主が自分の家のチャイムを鳴らすだろうか。たとえ鍵が掛かっていても、開ける為の鍵を持っていない筈もないというのに。

 だけれど桜もそれほど愚かではなかった。鍵を開けようとしてふと目をやった引き戸の奥──闇に照らされた夜を切り取るなお黒い影は、愛しい人のそれではないという事に気が付いた。影は随分と長身のようだった。

「…………」

 僅かな黙考。その間にもう一度機械音が響いた。
 待ち望んだ家主ではない。が、その家主を尋ねて来たであろう客人をそのまま帰してしまうのは忍びない。この家を預かる者として、丁重に今家主である衛宮士郎は不在である事を伝える義務があると、桜は思い。

 その扉を、開けてしまった。

 がらりと開かれた扉から現れたのは、確信していた通り背の高い男だった。黒いコートのような服と、胸で燦然と輝く金のロザリオ。神父であるようだったが、一際桜の目を惹いたのは、その瞳。
 黒く渦を巻いた眼球に宿るのは闇。世に望むものなどないと諦めにも似た達観を帯びた悟りの瞳孔。ただその最奥に、輝かしいものを見つけたような希望が燻っていた。

「あの、この家の家主は今、不在で」

 姿を見せても何一つ語らず、挨拶すらなく佇む男に気圧されたのか、桜はたどたどしい言葉でだがしっかりと伝えたかった事を口にした。
 桜を見据えていた男の表情に、唐突に苦悶が宿る。男は胸を掻き毟るように呻きを漏らした。

「だ、大丈夫ですか!?」

 駆け寄ろうとする桜を手で制し、男は崩れ落ちかけた足に踏ん張りを利かせて踏み止まった。蠕動にも似た短い呼吸を数度繰り返した後、努めて冷静に口を開いた。

「──失礼。無様なところを見せてしまった」

「い、いえ。それで、あの」

「ああ、そうだった。家主である衛宮士郎はまだ帰っていないという事だったかな」

 はい、と小さく漏らした少女を一瞥した後、男はふむと頷いた。

「そういえば、まだ名乗っていなかったな。失礼。夜分遅くに申し訳ない。私は新都にある教会で神父を務めている言峰綺礼という者だ」

 はあ、と桜は息を漏らした。新都にある教会の事は桜も知っている。踏み入るどころか近づいた事すら一度としてなかったがその存在だけは知っていた。

「それで、その神父さんが、何の御用でしょうか」

「いや何。実を言うと家主である衛宮士郎には今日のところは用はないのだ。用件があるのは君だよ、間桐桜」

「────え?」

 驚きを口にしたところで、ぐらりと世界が傾いていく実感が浮かび上がった。足元が不確かで、上と下の区別が付かない。薄らいでいく意識。消え始めた視界の先で、嗤う神父の顔を見た。

「……修めただけの魔術も、存外思わぬところで役に立つ。それにしてもまさか、こうも簡単に堕ちるとはな」

 神父は桜を眠りへと誘った魔術の火を吹き消して、ぐったりと倒れ伏した桜へと歩み寄った。

「……此処に来るまでは半信半疑であったが、目の前にして確信したよ。間桐桜──おまえは私の祈りを叶えるモノだ」

 抉り出すかのように握り締めた胸の奥で、蠢動する黒い心臓。呼んでいる。響き合っている。この心臓と、彼女の心臓は似て非なるものであると。

 思い起こすのは十年前。あの戦いの最後、宿敵と認めた衛宮切嗣が見た聖杯の奥底に、綺礼の望みは確かに“居た”。
 いつか、黄金の男に言った。望むものなどないと。この世の中に、綺礼の望みを叶えるものなどないと。それもその筈。未だ生まれ出でていないものをどうして在ると断言出来ようか。

 これから生まれるモノこそ、綺礼の祈りを叶える唯一にして無二のもの。綺礼自身は何もしない。ただその生誕を祝福し、賛美を謳い、出でた者の生き様をしかと見届けるだけ。そうする事で知る事が出来る。

 ───望まれず生まれた者に意義を問おう。

 永遠にも思えた半生の苦悩の果てに遂に見出される回答に祝福を。終わりゆく世界の果てで、言峰綺礼だけが謳い続けよう。
 故に望む。その誕生を。その産声を。その礎に、この少女の肢体を捧げよう。

「天にまします我らの父よ────」

 そうして紡がれた言葉は主への祈り。
 瞳を閉じて、少女の身体を抱き起こしながら、敬虔なる信徒のように言峰綺礼は祈りを捧げる。誰しもの胸に響く神の歌。清廉なる歌声が、暗闇に溶けていく。

「────神の導きに、この巡り会いにこそ感謝を。アーメン」

 くつくつと嗤う神父は、胸のロザリオを握り締めていた。













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