剣の鎖 - Chain of Memories - 第三十六話









「────くっ……!」

 ぬかった。そう思った時には遅すぎた。

 陽はとうに落ち、夜の帳が世界を染め上げる頃。ライダーは唇を固く噛み締めながら疾駆していた。

 柳洞寺より桜を救い出して約一日。桜が最も望み、一際安全だと踏んだ場所へ送り届けた後、彼女は哨戒へと出ていた。彼女の危惧の対象とは、マスターである桜の祖父に他ならない。
 彼の者こそが元凶。間桐桜という人物を作り変え、染め上げた悪意である。そんな者のところへ素直に愛しいマスターを送り届けるほどライダーは無能ではなかった。

 マスターを送り届けた後、彼女はすぐさま主の屋敷へと取って返し見張りに付いた。目視だけではなく、研ぎ澄ませた感覚で零れ落ちる魔力の一滴の音すら聞き分けんとばかりに気を張って監視を続けていた。

 そのかいあってか、間桐邸には動きの一つすら見られなかった。けれど気を抜いてはならない。夜が深まればよりアレは動きやすくなる。これからが本番なのだと意気込んだその時に、ライダーは身体の芯で何かを感じた。

 瞬間、彼女の身体は弾けていた。地を蹴る足は大草原を駆け抜ける豹より速く。人工の迷路と化した街中を正確無比に、ただひたすらに駆け抜けて。

「…………サクラっ!」

 何の変哲も無い衛宮の家。一切の破壊は無く、静寂に覆われた室内。ただ燻ったばかりの魔力の残滓だけがゆらゆらと香っていて。辿り着いたその場所で、居る筈の主が居なくなっていた事にようやく気が付いた。

 元より桜とライダーの繋がりは微弱なもの。それというのも桜側に充分な魔力が貯蓄されていないせいであり、それが故に気付くのが遅れたのだ。
 マスターにとっての危機的状況が、真に深いところまで到達してようやく感知したのでは余りに遅すぎた。

 ……いや、だが間に合う。

 敵が誰かは知らない。マスターかサーヴァントか、あるいは部外者の可能性も捨てきれない。が、間桐邸から衛宮邸までの距離とライダーの速度との概算から、そう遠くまで行っていないと推測できる。

「……サクラ。教えて下さい。貴女は今どこに」

 研ぎ澄ます。鋭利な刃物を想起させる程に高められた集中力で以って魔力の網を四方へ伸ばす。さながら蜘蛛の網の如く、逃げ去ろうとする獲物をその糸で絡め取れ。糸に触れたが最後、もう二度と逃がさない────

「見つけたっ──!!」

 巻き起こる風。紫紺の髪は風の中で踊り、暗い夜空を淡い光となって疾駆する。目標までの最短距離を一直線に駆け抜ける。乱立する家屋ですら障害物足り得ないどころか、ライダーにとっては次なる一歩を踏み込む足場として作用して、風すらも置き去りに人気の失せた影絵の街を走り抜けて。

「待ちなさい……!」

 冬木大橋を目前にして、その影に追いついた。
 いや、今なお追い続ける状況にある。というのも、認めた対象が鋼鉄の騎馬に跨っている故だ。傍迷惑な駆動音を鳴り響かせ、手にしたアクセルは止まる所を知らず上がり続けている。

 人工の騎馬に騎乗している影は長身の男。腕の中には少女が眠る。穏やかな眠り。だがその場所は、眠るにして些か危険が過ぎる。居た。桜が居た。ならばもう他の要素など関係ない。この男は敵だと、ライダーは認識した。

 こちらに気付いてか、なお開けられるアクセル。テールライトは夜を切り裂き、新都を目指し駆け抜ける。
 その様を見、ライダーは浅はかと笑い飛ばす。この身が何のクラスであるか、おまえは知らないのか。ならば聞け。我が名はライダー。戦場を駆ける騎馬の上こそ、そのクラスの真骨頂。人の手により創られ、人の手により使役される事を前提とした機械などで、我が身に宿る駿馬に敵うと思うか。

 敵うまい。どころか、そんな木偶では、この足ですら追いつける────!

 音もなく手の中に現れた釘剣を構え、屈めた姿勢は既に人の者とは思えない。獰猛な肉食獣が得物を前にして大地に四肢を突き立てるかの如く深く大地を掴む。タイムロスを覚悟で行われた一連の動作は、これより起こる魔風の予兆。

 勝負はこの橋を抜け切るまでの数十秒。僅か数百メートルの距離間に敵を捉え桜を救い出す。不可能な事ではない。無謀な事ですらない。
 この身はサーヴァント。愛おしい主を救う為、幽世より舞い戻りし泡沫の夢。それが今此処で、主を救い出せずして何とする。大地に深く刻んだ爪痕。人に在らざるヒトの疾走、振り切れるものならば振り切って見せるがいい!







 ライダーが本領を発揮する為に四肢をついた時点で、路上の先を駆ける二輪駆動の機械は裕に三十メートルは距離を離していた。片手で開けたままのアクセルは視線すら傾けずに知り得た追い縋る脅威への対処か、フルスロットルで握られたまま。
 ぐんぐんと跳ね上がるメーターは止まるところを知らない。否、加速し続けなければ追いつかれるという強迫観念がこの時、言峰綺礼の内で確かに芽吹いていた。

 そしてその衝動は現実として昇華する。その差百メートルを間近にして切られるライダーのスタート。溜めに溜めた力の全ては疾走の為の推進力へと変換され、蹴り上げると同時に破砕されたコンクリートの飛沫は時間に置き去りにされたかのように静止する。

 止まった時間の中を、一人の女だけが動いていた。夜に映るのは一枚の影。黒を切り取る紫が、先行する鋼鉄の騎馬に追い縋る。
 空気との摩擦は彼女の髪を焦がし、向かい来る風圧は重力の比ではない。されど大気の壁を突き破り、高速を超えて大地を穿つ。とは大袈裟に過ぎるが、もし何も知らない第三者がその異様なまでの光景を見ていたとしたら、そんな有り得ない情景さえも思い浮かべたのかもしれない。

 疾風が疾風を生み、周りの風景を置き去りにしてなお加速する。この瞬間、世界に刻み込まれるのは自身のみしかないと錯覚し、黒衣の敵へと迫り続ける。
 僅か数秒のうちに詰められた距離は五十メートルに迫る。轟音を唸らせる騎馬は既に全開全速。上がり続けたメーターは振り切れている。しかし、この敵は振り切れない。人の叡智が生んだ高機動の機巧ではあったが、人に拠らざる神の化身の前では霞んで見えた。

 大橋も半ばに差し掛かり、彼我の距離が瞬く間に詰まっていく……その時。前方を走っていた男が動きを見せた。終始アクセルと桜とを手にしていた男が、振り切れたアクセルを放棄して、法衣の裾へと手を伸ばす。
 抜き出された手に掴まれるは四本の剣。片手に持ち得るだけの細身の剣を繰り、撓らせた腕より銀の閃光が放たれた。

 振り抜かれた剣は弓より放たれた矢の如く空を切り裂き風を纏う。前方より放たれた矢と後方より迫るライダー。加速し切った両者であるが故に、ライダーに見える剣のスピードは通常の数倍。それさえも考慮に入れて綺礼は剣を投擲したに違いない。

 だがライダーとて敵からの攻撃を考慮に入れていなかった筈がない。手にした釘剣はその為のもの。攻撃に用いる為ではなく、身を守る──速度を落とさぬが為の防衛手段。

   踏み込む足に一切の加減はなく、より強く踏み締めた一歩を以って自ら剣の渦へと身を投げる。同時に迫る四閃の内の一閃目掛けて短剣を投擲する。剣先と剣先とが接触した瞬間にもう一方の手に担った剣を強く引き寄せる。
 剣と剣とを結ぶ鎖が唸りを上げて迫る三閃のうち二閃を受け止め弾いた。残る一本は手にしたままの剣で以って撃ち払う。

 手繰り寄せた初手に放った剣を掴み取り、障害は消え失せた。遮るものの無くなった視界の先──もう間近まで迫りつつあった鋼鉄の騎馬へと手を伸ばしかけた瞬間に、剣の雨は降り注いだ。

「────っ!?」

 息を呑んだのはライダーだった。開けた筈の視界を遮る銀の閃き。それも頭上より降るそれは、一体いつ放たれたのかすら判らない。
 雨粒は数にして六。恐らくはライダーへと向けて放った四本に次いで頭上へと放たれたであろう剣群は、巧みにライダーの進路を防ぐようにして降り注ぐ。

 片手にハンドル、片手に桜を抱えた状態で、ほとんど間も無く計十本もの剣を放ちきったこの男。本当に人間か。自身の身体能力を余す事無く理解し使役し切らなければそんな凶行には及べまい。
 ライダーは刹那の内に認識を改めた。敵をもうただの人間とは思うまい。目の前にいるのはサーヴァントと同格の存在。全身全霊を以って斃さなければならない強者と見なして相見えよう。その為にはまず、この剣の雨を潜り抜けなければ始まらない────!

 この策を放たれた時点で多少のロスは仕方がないと諦めた。後はいかにして最高速を維持しきるかに掛かっていた。

 迎撃──却下。剣の位置は余りに巧み。先のように瞬間的に全てを捌けない。
 回避──却下。避けていては逃げ切られてしまう。
 突撃──却下。肉体の損傷はそのまま戦況へと影響を及ぼす。

 瞬間的に浮かんだ案の全てを破却する。速度を維持しつつ黒鍵の雨をすり抜ける方法は無い。少なくとも秒にも満たない刹那では思いつけない。

 ならば──と、ライダーは若干速度を落とし、目元を覆う眼帯に手を掛けた。

 解き放たれる魔眼。活動する全てのものを停止させる宝石の瞳。一睨みでただの石くれと化した剣の雨を旋回させた釘剣で打ち払う。同時に、振り切ろうとする鋼鉄の騎馬目掛けて視線を投げた。

 凍れるように睨みつけたのは車道と接地する車輪の一部分。充分な柔軟性を持ち機体を制御する車輪に突然に生まれる硬質な感触。
 その不意な出来事にハンドルを握っていた綺礼は僅かに気を取られた。崩れかけた体勢を無理矢理に立て直す為には減速を余儀なくされ、その隙を、彼の者は見逃さなかった。

 再度目元を覆ったライダーが肉薄する。一部分とはいえ石と化してしまった騎馬では、以前のような速度は維持し切れない。それも足の部分をやられたのだ。どうしようもなく不利に追い込まれた綺礼はそれでもアクセルを開け続ける。
 不安定な機体を巧みに繰るも、片手が塞がっていては制御もままならないのか、徐々に車線の中心よりズレていく。

 減速を余儀なくされ、姿勢の制御すら失ってしまった騎馬に跨り続ける目の前の男は無様でしかない。こうなってしまってはもう勝負も何も無い。いや、そもそもこれは勝負などではない。逃げる者と追う者の戦闘である。
 呆気ない幕切れとはいえ、こうまで梃子摺らせた男は賞賛に値する。縊り殺すのも吝かではないが、今は桜の保護が最優先。よろめきながら左へと流れていくバイクへと遂に追いつき、並走にまで持ち込んだところで──その男の顔を見た。

 嗤っていた。この状況下で、その男は確かに嗤ったのだ。そうして男は──ハンドルを更に左へと切った。

「なっ……!」

 その先は奈落。暗黒が蟠る闇。穏やかな水流が流れゆく未遠川。そう知ってなお、男は繰る腕を止めない。揺れる機体を操作し、急激に開けたアクセルの衝動と車輪の異質感とで浮いた前輪が柵を掴む。斜め上を向いた車体が向かう先。暗黒の夜空目掛けてマシンは飛び立った。

 ライダーの疾走が止まる。急停止による摩擦が接地面との間に火花を散らし闇を彩る。一瞬だけ咲いたその花は、紛うことなく落下していく車体をも照らし出し──

「サクラ────っ!!」

 一も二もなく飛び出そうとした身体を、踏み止まらせた男の怪異。桜を抱えペダルを足場として宙を舞う。落下していった鋼鉄の騎馬が一際大きな水飛沫を上げた時──それは姿を現した。

 夜に眩く黄金の箱舟。添えられたエメラルドが黄金をより鮮やかな煌きへと昇華させ、暗い空を浮遊していた。現代兵器に在らざる神の御品。遥か太古に失われた筈の船が今宵、王に手綱を握られ再び大空を舞う。

 垂直に吹き上がった水飛沫の向こう側──黄金の箱舟に座する一人の男。背を向けたままの男の元へと難なく着地して見せた言峰綺礼とその腕に抱かれた間桐桜。

 一体誰がこんな結末を予期しよう。単独であると思われた神父には仲間がおり、しかもその者はライダーと格を同じくするものであるなどと。
 少なくともライダーには予想も出来なかった。だってそれは、居る筈の無い“八人目”なのだから────

 落ちてゆく雫の狭間、黄金の箱舟が旋回する。高度を増していく船へと攫った少女を横たわらせた綺礼は、橋上で茫然自失とするライダーへと向けて去り際に言葉を放った。

「──去らばだ、騎兵。この少女には聖母となってもらう。悪を孕む、黒の聖杯(ローレライ)にな」

 呪詛の如く、神父の言葉は騎兵の胸を深く斬り抉った。







「……下らん茶番に付き合わせおって。たかだか女一人を攫う為にこの我を足に使うなど笑止千万もいいところだ」

 高度三百メートルを超える上空を進む黄金の箱舟の上で、男は隠す気配も無く不機嫌を露にしていた。

「それについては済まないと思っている。そもそもの話、私一人で事足りると踏んでいたのだが、如何せんあのサーヴァントは思いの他マスターに執心であったらしい」

 自嘲する綺礼へと僅かに投げかけられた王の視線。愉悦を孕んだ綺礼の嘲笑に王は何も応えない。

「だが、仕損じるわけには行かなかったのだ。一度警戒心を抱かせてしまっては、もう二度とこうも対象に近づけない」

「その為に我を同行させ、あまつさえ王の財の使用まで促したか」

「然り。だがな、ギルガメッシュ。おまえとて、私の行動に何の理も無い等とは思ってはいまい? もし思っていたのならば、私の助勢には応じなかっただろう」

 確かに。紅い双眸の男には、この男に力を貸すだけの理由があった。十年前、苦悩の果てに解を得てなお、解へと至る道程を捜し続ける求道者の行く末を、見届けてやると言ったのだ。
 求め欲したものがとうとう手中へと収まる時の歓喜。至上にある喜びは、王にも経験があった。その道程が苦難であればあるほど手に入れたものの輝きは大きくなる。期待に相応しいだけの価値があるものならば、世にこれ以上の快楽もない。

 何一つ持たず、何一つとて手に掬えなかった男が遂に見出した祈りの正体。歪な願いを見届ける為ならば、多少の助勢も甘受しよう。

「まあいい。しかし貴様、この娘を起こす気か?」

 それは眠りから覚ますのか、という問いなどではなく。彼女の内に眠るものへと関与するのかという問いだった。

「いや、私はただ彼女に問うだけだよ。胸に息衝く闇の意味を。閉ざされた心に、僅かばかりの隙間をつくってやるだけだ。後は時間と、彼女自身が闇を外の世界へと連れ出してくれるだろう」

 トリガーを引くのは間桐桜自身に他ならない。自分自身のこめかみに突きつけた銃身より解き放たれる際限の無い悪意の産声は、度し難い世界の破滅と念願であった祈りの成就への狼煙となるだろう。

「……ふん、面白い。貴様は貴様の思うように動けばいい。我も我が欲するままに喰い散らかすだけの事。その道程で重なり合う部分があるのなら、こうして手を貸すのもまた一興だろう。──我をもっと愉しませろ、綺礼」

 深い紅蓮の瞳が眼下を見据える。夜に灯る地上の星は、昨今相次ぐ異常現象のせいか、寡少だ。だが人が営む街を見下ろす王の瞳は、何処か優しげでさえあった。
 そんな瞳がふとある一点を捉えて静止した。暗闇に照らし出される街中にあってなおより深淵なる闇が渦を巻く場所。その場所を、王は良く知っている。

「時に綺礼。その娘を攫うまでは良かったが、そのまま捨て置いて機能するとは思ってはいまいな?」

「無論だ。アインツベルンの用意した正規の器がある以上、現世より解き放たれた英霊の魂は自動的にそちらに収容されるだろう。こちらはあの翁が用意した模造品だ。本物に敵うべくも無い……が」

「偽物には偽物にしかないモノが宿るか。フン、それはな、既に偽物などではない。別物と呼ぶのだ」

 醜悪なものでも見たかのように王は桜を一瞥して視線を虚空に投げた。偽物。贋作。模造品。どれも王にとって度し難い程に下らぬモノであった。
 そんな王の不愉快ぶりを知ってか知らずか、綺礼はなお言葉を続ける。

「何れにせよ、ソレはあちらにはないこちらのアドバンテージだ。放って置けば向こうに納められるのなら、その前にこちらが奪えばいいだけの事。
 そう出来るだけの力がこの器にはある。そして天秤のバランスが崩れてしまえば、後は戦争の終幕を見届けるだけでいい」

「良い読みだ。が、そう巧くいかんだろうさ。白紙の演目である以上は、役者は勝手に踊り続ける事もあるだろう。いつかのように、いつまでもこちらの思惑通りに事が進む筈もあるまい? いや、そうでなくては詰まらん」

 冬木という戦場を監督する立場にある言峰綺礼ではあるが、逐一全てを把握しきれているというわけでもない。好戦的な輩ならば動かぬという読みを外して勝手に闊歩する事もあるだろうし、動いて欲しい時にこそ静観を決め込む事も有り得る。

 使い魔を使役しての監視にも限界がある。そもそも綺礼はそちらの分野はあまり得意ではなかった。一度に使役出来る数も高が知れている。

 街中に潜伏している聖堂教会のスタッフ連中もあてにはしていない。あくまで緊急時の対処と世間への露見を未然に防ぐ程度の役回りでしかないのだから。彼らは決して、言峰綺礼の味方というわけではなかった。

「────そこでだ。まずは一つ、奪ってしまうというのはどうだ。僅かであれ、魂の比重は思いの他期待に沿う結果を及ぼすやもしれん」

 思案顔の綺礼を見やり、王は笑みを形作る。我が意を得たりとばかりに眼下を見るよう促した。

「……なるほど、これはいい。何時ぞやの襲撃の成否、その結果がこんな場面で生きてくるとは。くく……やはりあの時、殺さずにおいて良かったようだ」

 綺礼もまた笑みを零す。遠い地上に咲いた真白の輝きは、綺礼の思惑を思わぬところで叶える事となった。

「存分に戦い命を散らせ。貴様らが散らした数だけ杯は満たされる。あるいは、おまえ達が生き延びた事でさえ、その結末を導く為の解であったのかもしれん。
 ────そうだろう? バゼット・フラガ・マクレミッツ、そしてランサーよ」






因果、そして運命を繰る者/Fuga III




/1


「──ハァ、────ハッ、ハ、くっ……!」

 遥か上空を見上げながら、ライダーは息を切らせ地上を駆ける。天翔ける船は、眼下にいると認識している筈のライダーをまるで無視したまま大空を悠然と推進していく。速度こそ大したものではないが、生身であってはサーヴァントの身体能力ですら届きそうも無い高度にある。

 ライダーにはその高さまで自身を羽ばたかせる手段がある。あるが、それを使うのはあくまでも最後の手段にしたかった。というのも、ライダーの持つ宝具はどれも消費魔力が余りに高く、そう何度も頻発出来るものではないからだ。
 魔女より貰い受けた魔力もランサー戦で使用した石化の魔眼、逃亡の為に使ったもう一つの宝具、そして先程の瞬間的な魔眼の開放でもう残り少なくなってしまっている。

 宝具を使用できて後一度。それ以上の行使はマスターである桜の身を蝕む事となる。通常の魔術師がマスターであったのなら、数日間、相応の疲労感と脱力感に苛まれる程度で済むかもしれないが、彼女の主は違う。
 従者の魔力行使は直接主の身を蝕み、足りないと解ればその命ですら食い散らかされるだろう。

 そんな光景は望んでいない。見たくも無い。となれば、こうして地上よりの追跡で見失わない事に終始し、何れは着地する瞬間でこそ決着を着けなければならなかった。

 黄金の箱舟は悠然と新都の奥へと進んでいく。大橋からは遠く離れ、気がつけば街の中心地へと迫っていく。喧騒こそ無いが、雑多としたビル群が立ち並ぶ区画に入った時点で若干距離を離されている。
 一直線に空をゆく船と、迷路と化した地上をゆく者とではどんなに足掻こうとも決定的にスピードが違う。

 見失ってはいけない。先のように、もう一度桜を捕捉出来るとは限らない。この機を逃せば、消息を掴む術を失ってしまうかもしれない。
 徐々に離されていく焦燥に動悸は早まる。光点にしか見えない星を見上げ、地上を這う蛇を嘲笑う。

 かくも遠き悠久なる空。
 世界を覆う暗黒から、輝く星を見失わない事に終始した結果──

「よぉ。こんなところでまた会うとはな」

 ──その存在に気が付いた時には、致命的な距離まで詰め寄られていた。







 対峙したのは広い空間だった。雑然と聳える細々とした木々が乱立し、葦の短い草花が一面を覆い尽くす広場。十年の歳月の間、人の手がほとんど加えられる事なく捨て置かれた新都の中心点たる公園で、二騎のサーヴァントは互いの姿を目視した。

「ランサー……」

 痩躯の槍兵と、その傍にはマスターたるバゼットの姿も窺えた。
 昨夜、あの柳洞寺での戦いの後から拠点にて体力の回復、傷の治療、今後の展望を語り尽くした彼らが今宵、哨戒へと出ていたのはただの偶然でしかなかった。
 連日連夜の戦闘行為はそう誰もが望むものではない。だからこそ、そんな中飛び出してくるかもしれない獲物に狙いを定め、一匹でも狩り獲れれば御の字という腹積もりではあったのだが。

「ハ。こいつは良い。てめえとこうして見えるのは三度目か。一度目は見逃した。二度目は討ち漏らした。そして三度。そろそろ決着を着けるのも、悪くはないだろう?」

 中空に翳された獣の腕が紅い牙を掴み取る。小競り合いにはもう飽きた。そろそろ赤い赤い血が飲みたいと、その槍も疼きを鳴動として主に伝える。
 今にも飛び出しそうなランサーを横目に、ライダーは彼を見てなどいなかった。

「……退きなさい、ランサー。今は貴方に、構っている暇などないのです…………っ!」

 ジャラという音と共に具現化を果たす釘剣。全力での投擲をしつつライダーは己も全速でランサーへと肉薄する。
 投げ狙い撃たれた剣へとランサーは穂先を合わせる。点と点とがぶつかり合った瞬間、その力点を微妙にずらして、弾き上げる。最小限の動きで剣を往なした槍兵は、次いで迫っていたライダーへと力の限りの横薙ぎをお見舞いしてやった。

「ギ、……ぁ!」

 赤い閃きを受け止めるもう一方の剣。両手で担われた長尺の獲物と、片手でしか防げなかった短剣とでは勝敗は明らかであった。
 弾かれたライダーは膝をついて着地する。開いた彼我の距離は最初に対峙した時とほとんど変わらない。

「つまんねぇ攻め方するなよ。ソレは昨日見た。同じ手でオレを落とそうなんざ、甘く見てるにも程がある」

 ランサーの言葉は真実であった。焦りの余り、攻め方が単調すぎた。同じ策に二度も引っ掛かるようでは英霊として名を連ねてはいまい。
 ライダーは攻撃の失敗による戦場の突破を出来なかった悔いを胸を過ぎらせるより先に空を見上げた。黒い空にあった黄金の輝きは遥か遠く。消えるか消えないかの瀬戸際まで、その距離を伸ばしていた。

「…………」

 もう、後が無い。この敵を突破できなければ桜を見失う。逃げている時間は無い。回り込む余裕も無い。
 ならばもう、選べる選択肢など、彼女には残されていなかった。

 十メートル余あった間合いを更に遠く開け放つ。百メートルに迫ろうというところでようやくライダーは後退を止め──躊躇もなく、己の首を掻っ切った。

 溢れ出した血飛沫が生き物の如くうねり、中空に陣を形成する。中心に蜘蛛のような生物を象った、禍々しいまでの血の方円。

 完成と同時に放たれる白光。真っ暗闇を照らし上げる洛陽。数瞬の後、彼女は何処からか姿を現した一頭の駿馬に跨っていた。
 その姿は純白よりもなお美しい白。背より広げられた大きな翼は、風を掴むよう。人々の夢の中で生きる有翼馬。現実ではない幻想として在る進化の形。今は既に失われた、いと尊きその存在──

「──天馬(ペガサス)。それが貴女の切り札か」

 呟きと同時、バゼットは驚いた様子もなく、背負っていたラックと呼ばれる筒を大地に転がした。衝撃で開いた蓋の内から転がり出てきたのは、球体。真円を象った鉛色の球体だった。

「ランサー、宝具の使用を許可します。今宵、この場で────サーヴァント・ライダーを討ち斃します」

 赤い牙が主の命令に呼応する。敵が切り札を見せるのなら、こちらも最上の一手を以ってでしか対抗など出来る筈もない。サーヴァント・ランサーが至上の一撃で以ってその一撃を撃ち落して見せよう。

「逃げようなんざ思うなよ、ライダー。もしこれより先オレに背を向けたのなら、戦士として不名誉な傷を背中に刻む事になると思え」

 そんな誇りなどライダーには全く以って興味は無い。が、逃げようなどとは端から思ってなどいなかった。宝具の使用は桜への負担を増大させる。
 けれどもう、後には引けない。今出来る彼女の最上の一手とは、一秒でも早くランサーを消し去り天翔ける船に追い縋る事のみ。

 浮上する天馬。高度を増していく背の上で、騎兵が遂に手綱を取る。単体でさえ相当の戦闘能力を有する天馬の力を最大限に引き出す神の手綱。握り締めたそれを一度撓らせればいかに心優しき天馬であっても、ただの殺戮機巧としてのみ機能する。

 対するランサーは槍の穂先を地に接するギリギリまで深く沈め、自身の身体さえも低く屈めてスタートの合図を心待ちとする。大地を掴んだ足は指の一本一本、筋繊維の一つ一つで噛み締める。最高の瞬間、最大の力を発揮する為に。

 もう一人、ランサーのマスターたるバゼットもまた拳に革手袋を嵌め引き締めた。筒より出でた鉄の球体は何時の間にか彼女の周囲を浮遊しており、その様はまるで惑星を中心として旋回する衛星のようだった。

 呼吸を一つ、一番最初に動きを見せたのはバゼットであった。右の拳を高く掲げ、その少し上で帯電した球体が浮遊する。
 しかしライダーはそれを意に返さない。それもその筈。バゼットは所詮人間だ。いかな手段を講じているのかは定かではないが、一魔術師の能力程度ではそう易々とサーヴァントを傷つけられなどしない。

 やはりこの場で最警戒すべきはランサー。ライダーが手の内を晒した以上は、ランサーもまた切り札を見せる他に無い。迎撃を出し惜しめばどうなるかなど、彼ならば理解していよう。

 天高く昇る有翼馬。際限なく上昇するかとも思われたそれも、超々高度にてとうとう停止する。羽ばたきがより強くなり、ライダーは握り締めた手綱を強く引く。
 本来は、こんな事の為にこの子を使いたくなど無かった。心優しい天馬は人を害す事など望まない。無理矢理な使役も、ライダーの本意などではない。

 でも今は、今だけはその力を貸して欲しい。助けたいと願った人が今危険な状態にあるのだ。自らが辿った不運な道程を、あの優しき少女に歩ませたくなど無い。だから、だから許して欲しい。この手綱を繰る事を。貴方を兵器とする事を。

 天馬が啼いた。そんな主の心を理解して、なお力を貸すのだと。この身を使い、あの敵を打ち倒せ。そうして、共に間桐桜を救いに行くのだと。

「……ありがとう。必ず、共に」

 もう一度天馬が啼いて、騎兵は手綱を強く握り締めた。

 かつて海神より譲り受けた一頭の駿馬。神代より生き続けた彼の者は、既に通常の幻想種としてのランクを逸脱している。本来、魔獣クラスでしかない天馬であるが、この天馬だけが幻獣としての域に達している。
 こと護りに関してだけ言えば、最強の幻想種である竜種にさえ匹敵する。

 今、解き放たれるその真名。

 ライダー自身ではなく、ペガサス自身でもない。真なる宝具は彼女の繰るその手綱。騎乗する全てのものの性能を最大限に発揮する神威の能力。
 天馬の力を最大限にまで引き出し、膨大な魔力の護りは余波だけで敵を討ち滅ぼす力を備える。それは、超々高度よりの突進力と相まって、想像を絶する破壊力を生み出す。

 彼女は謳う。その真名を。この戦いに勝利する為ではなく──この先に待つ、愛おしい主を救い出す為に……!

騎英の手綱(ベルレ・フォーン)────!!」







 天高く、凶つ星が輝きを増大させていく。暗黒に染まる夜を、蒼い月よりもなお輝かしい白光で照らし上げる敵サーヴァントに、ランサーもまた己が最強の一撃で以って応えてみせる。

 ランサーの立つ大地に刻み込まれたルーンの魔法陣。淡い輝きが渦を巻いてランサーを包み込む。
 踏み締めた足は大地に突き立つ剣の如く。下半身は地に根を生やしたまま、上半身は限界まで捩れ狂う。遥か高空を見上げた瞳は、穿つべき的を過つ事無く見据えている。手にした朱槍が、大気より吸い上げた魔力の鳴動を以って発動の時を待ち受ける。

 サーヴァント・ランサーが手にする槍は影の国にて師より譲り受けた至高の一品。世に名を馳せた幾本の槍の中でも、この槍の真名は世界に遍く轟いている。

 真名を知られる事は総じて戦いに不利を被る。切り札の看破、歴史を紐解く事で分かる死因、誰にでも存在する致命的なまでの欠点を知られる事となる。
 けれどランサーはそれを恐れない。戦場で名乗りを上げるのは当然のこと。たとえこの死闘が歴史に刻む銘を持たずとも、これより死にゆく者が名も知らぬ英雄に討たれたとあっては救われず、またこれほど興の醒める最終演舞も他にあるまい。

 故に──此処に謳おう。

「聴けッ! 我が名はクー・フーリン! アルスターが最強の戦士にして、クランの誇る番犬なり!
 神代の怪異メドゥーサよ! この手に掛かる栄誉をその身に刻め! 我が魔槍が、今宵その心臓────貰い受けるッ!!」

 ギチギチと撓りを上げる肢体が、弓の弦のように手にした槍を引き絞る。赤い矢を放つ砲台と化した己が身を以って、天空に座す魔星を突き穿つ。

「────突き穿つ(ゲイ)

 かつて、クー・フーリンの兄弟子が、死闘の果てに残した言葉がある。

 “──その槍は、最も優れた戦士に贈られる誉れ。
    あの輝かしかった学び舎で。おまえこそが、我々の誇りだった──”

 戦士に最も必要なもの。誇り。誇りを失くした戦いは、ただの殺戮でしかない。故に彼は誇りを胸に抱き続ける。彼を尊び、畏怖し、憧憬の念を抱いた全ての者に誇れるように。戦場で散っていった全ての者の誇りとなれるように。

 故に彼は光の御子。輝かしい戦果を手に、胸に誇りを抱き続けた──世に遍く戦士達の誉れなのだ。

死翔の槍(ボルク)────!!」





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 地上へと降る箒星。白い光が長く尾を引いて、暗夜を別つ。垂直落下する魔星は、紛う事無くランサー目掛けて堕ち続ける。
 もしその極光が大地へと到達したのなら、辺り一帯を軽く薙ぎ払うことであろう。何も無い、けれど公園としてあるこの場所を、完全なまでの更地と化して消せない傷痕を刻む事となるであろう。

 けれどそうさせない、煌く星が地上にも一つある。赤い槍は天を衝く流星となりて駆け上がる。

 互いの魔力が遠く吼える。天頂にて街を見下ろす月さえ揺るがす波動の高鳴り。大地を割らんと神鳴る白光と、月すら穿たんと天上へと昇る赤光。二つのいと尊き煌きを、バゼットは余す事無くその瞳に焼き付ける。

 彼女のパートナーであるランサーの放った一撃は、およそ回避出来るものではない。ゲイボルク。幾度躱されようと、必ず相手を貫くという呪いを秘めた魔槍は、決して狙い定めた獲物を逃がさない。
 いかにライダーの宝具が強力無比であろうとも、必ずや仕留めると信じて疑わない。

 ────信じているからこそ、バゼットは自身の切り札を晒すのだ。

 バゼットの右拳の上で浮遊し、帯電していた鉛の塊がカタチを変える。ただの球でしかなかったそれが放電と共に、囁きかけるような優しい口付けと共に、異形の剣へとその姿を変貌させた。
 柄のない剣。柄の部分には透明な球と、その中に刺々しい塊とがあった。底から突き出る短すぎる刀身は短剣の刃のよう。銀の刃紋に刻み込まれた三つのルーンは誓いの証。

 その外見から、およそ剣とは呼べない代物ではあるが、これは紛う事無く剣である。かつて太陽神が所有していたとされる戦神の剣。多くが英雄の死と共に失われた宝具の中で、未だ脈々と伝えられる“現存する”宝具。

 バゼット・フラガ・マクレミッツが秘奥──それは紛れもない、一片の疑いすらなく正真正銘の宝具であった。
 青白い火花が散る。黒の革手袋を焼き焦がす音ともに、バゼットは紡ぐ。

「────“後より出でて先に断つもの(アンサラー)”」

 瞬間と瞬間とが繋がる狭間。ランサー、ライダーの両サーヴァントの真名解放に明らかに遅れる形で、バゼットは己が剣を抜き放つ。
 そもこの剣は、相手の切り札よりも先でも同時でも意味を成さない。後より出でて先に断つ……その異名の通り、相手に先に切り札を切らせる事が発動の最低条件にして必須条件であった。

 もし一対一での戦闘ならば、剣の発動には相応のリスクが伴う。初見の相手ならば尚更に敵が持つ切り札を見切り、合わせて放たなければ真価を発揮できないとあっては、軽々と使用できるものでもない。

 ことバゼットに関して言えば、その危惧は無用といえた。敵がたとえ接近戦で最大の効果を発揮する切り札を持っていたとしても、確実に合わせられるだけの身体能力を有しているからだ。

 彼女が苦手とするものがあるとすれば、切り札を持たぬものか、そも切り札などなくとも地力で勝る相手か。その点で言えば、今回の相手であるライダーは後者に属しよう。もし単体で戦りあえば、善戦は出来ようともいずれ敗北を喫する事になるだろう。

 けれど彼女にはランサーがいる。対等の能力を有するサーヴァント同士ならば、決着は必然的に宝具での凌ぎ合いとなる。今回こそライダーに先手を譲ったが、本来ならば先にランサーが真名を唱える展開こそが理想であった。

 こちらが手の内を見せれば、相手も必然的に最強の手札で以って応じなければならなくなる。そこに、バゼットは自身の剣を合わせる。そうする事で、百パーセント確実に敵を滅し尽くす。

 この聖杯戦争は、バゼットにとっては至上の戦場といえた。単独ではないタッグ戦。実力の拮抗する従者。宝具という確実な切り札。そのどれもが、バゼットの能力を最大限に活かす条件だった。

 白と赤とが衝突を見る瞬間で。地上と空の狭間で。膨大な魔力が絶叫と慟哭を繰り返す絶対なる死地において。

「────“斬り抉る戦神の剣(フラガ・ラック)”」

 静かに。真名は解き放たれた。







 言霊は夜に消えゆく。先の先をゆくランサーの魔槍を追いかけ、刹那の間に抜き去り、蒼き神剣は天を衝く。高速落下していたライダーはその瞬きにではなく、己に生じた異変にこそ驚愕を漏らした。

 解き放たれた筈の真名が、発動した筈の宝具が効力を失っている。今この瞬間、彼女はただ天馬に跨り地に向かって堕ちているとしか思えなかった。膨大であった筈の魔力は何処かへ消え去り、彼女を護るのは天馬が元から有する神秘の力でしかない。

 バゼットの紐解いた剣。其の名は逆光剣フラガラック。ランサーのゲイボルクが因果を繰る魔槍だとするのならば、バゼットのフラガラックは運命を逆転させる神剣。
 彼の剣が斬り抉るのは標的の心臓ではなく、両者相打つという運命こそを斬り捨てる。戦神の剣が真価を発揮したのなら、衝突も激突も実現しない。ただ一方的な殺戮だけが行われる。

 フラガラックの最大の能力は、後攻をとってなお先攻にせしめる超々スピードによる穿孔などではない。その真なる能力とは、自らの攻撃を先に成したものとする事にある。死者にその力は振るえないように。先に倒された者に、反撃の機会はない。

 フラガラックとはその事実を誇張する魔術礼装。
 運命を翻し、相手の切り札をなかったことに(キャンセル)する、時を逆行する概念の呪いだった。

 敵の切り札(エース)を上回る最強の手札(ジョーカー)。時間を武器にした相討無効の神のトリック。究極の迎撃礼装は静かに──天を閃光となりて貫いた。

 ライダーがその事実に気が付いた時には、全てが遅すぎた。胸を抉る最小範囲にして最大威力の致命傷。針の如く収斂された宝具の一撃。真円を描いた小さな必殺の残り香は、後に迫り来た赤い爆撃によって吹き飛ばされた。

 ランサーの放ったゲイボルクが赤い花を夜に咲かせる。かつて怪物として恐れられたメドゥーサを討ち斃す英雄の一槍。フラガラックの貫いた空孔を再度抉る死翔の槍。心臓を貫いた直後に、ライダーの身体の内に荊が咲いた。

 千にも上る無数の棘は騎兵の中で弾け、千切り、貫き、爆散する。暗黒の夜空を彩る有り得ぬ薔薇。赤い血の花が、花火のように咲き誇った。

「────標的の消滅を確認。ライダー、貴女の敗因は先に切り札を見せた事です。切り札を切るのなら、更なる奥の手を用意しておくべきだった」

 何の感慨もなくバゼットは一つだけ吐息を零した。右手を焼き焦がした熱を革手袋ごと捨て去って、もう一度空を見上げた。

 その場所にはもう、何もない。サーヴァントの消滅は人体の死のように醜い痕跡を残さない。生きている限りは傷を負い、血も流すだろう。けれど一度命の火が消えてしまったのなら、残り香すらなく消え去る運命。
 元よりこの時代には存在しない架空の魂。失われても、元あった場所に還るだけなのだから。







「ようやく、一騎討ち取れましたか」

 本当に、ここまでの道程は長く遠いものだった。自身の召喚したランサーを除けば他に六騎。その内のたった一騎を討ち取っただけだというのに、この胸を包む温かなものはなんだろう。
 それはきっと安堵だった。これまで確たる勝利を手に出来なかったが故に、燻っていた彼女の不安。蟠っていた不安は先の一撃により吹き飛んだ。

 ──告白するのなら。この戦いは狂言回しだった。本来、ライダーが宝具を見せた時点でランサーが宝具で対抗する必要性などなかった。相手が手の内を晒したのなら、後はバゼットのみで片をつけられた戦いだった。
 だというのに、リスクを犯してまでランサーが魔槍を放ったのはこの戦いに“もしも”の敗北さえも許されなかったからだ。

 宝具の応酬。因果と運命を繰る宝具を以ってして、もし敵を討ち漏らしたのなら。それは必ずや彼女達の心に影を落とす。バゼットが戦線復帰し、更に最強の手札を二枚切ってなお負けたとあれば、もし生き延びたとしても勝ち残っていける筈もない。

 自らの武器に、自らにこそ絶対たる自信を持つが故の──敗北による心の挫折。

 肉体よりもまず精神が折れてしまう。そうなってしまったら、如何なる手段を用いても屈した脚に立ち上がる力は戻らない。もう二度と立ち向かえない。それだけはどうしても避けなければならなかった。

 ライダーが天馬に騎乗した時点で逃亡を図る可能性もあっただろう。その対抗策としてのゲイボルクでもあったし、挑発でもあった。名乗りでさえ、相手の意識をランサーに集中させる為の狂言だった。

 全ては完全無欠の勝利を手中にし、今後に弾みをつける為の前提戦。

 ランサーにしてみれば面白くない部分もあったのだろうが、おかしな事にこの戦術は彼自身による提案だった。
 というのも、先の柳洞寺戦からマスターたるバゼットに宿る暗澹たる表情がその所以だったのだろう。戦線復帰した第一戦にして足を引っ張る始末。そんな無様を晒した以上は、表情が翳るのもおかしなものではあるまい。
 特に重厚な鎧を着込んでいる彼女であるからこそ、その隙間から覗かせる不安は酷く脆いものに見えた。

 だからこその第二戦。絶対の勝利と不屈の自信を手にすべく、ランサーは自ら進んでピエロを演じたのだ。

 “────ま、か弱いお姫さまを守る騎士ってのも捨てがたいが、ガラじゃねぇだろお互いに。
 オレ達の関係は、やっぱり肩を並べるくらいが丁度良い。だろう? マスター────”

 結果として、彼の目論見は成就した。
 今のバゼットの胸中には確固とした自身が芽生えていた。勝てる。勝てない筈がない。はっきり言ってしまえば、ランサーと共にある限りいかなる強敵が姿を現そうとも負ける気がしない。

 これより以前は伝説としての彼を妄信してきた自分がいたのも否めなかった。けれど今は違う。彼の力を、真髄をこの瞳に焼き付けたからこそ断言できる。
 ──バゼット・フラガ・マクレミッツとクー・フーリンが共にある限り、我らに敗北など有り得ないと。

「気ぃ抜くなよ。敵はまだ多いんだ」

 ニヒルな笑みを携えて、ランサーは諭すように言い、もう一度笑った。

「ええ、分かっています。それに、弾丸を一発消費してしまった。残りは二個。使う相手は慎重に選ばなければいけないわ」

 今宵の一発は決して無駄などではない。完全なる勝利と、絶対たる自信を齎してくれたのだ。残る二発を使う最有力はバーサーカー、そしてセイバーか。最強と最優。相手にとって不足はない。

「戻りましょう。今日はこれ以上の戦闘行為は必要ないでしょうから」

 あいよ、とランサーは相槌を打ち実体より霊体へと戻った。彼女らの去った後、何事もなく、何一つ変わる事もなく草木は凪いでいた。

 彼女たちは知らない。

 遥か上空にて嘲笑う二人の男がいる事を。咽び泣く一人の少女がいる事を。そして──地上には、黒く蟠る闇が生まれた事を、今は未だ誰も知らない。













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