剣の鎖 - Chain of Memories - 第三十七話









 空に生まれた大きな星と、地上に咲いた輝きが未だ健在であった頃。星空の下、遥か彼方より、黄金の箱舟に搭乗した二人の男が粛々とその光景を眺めていた。

 地を揺るがし、天を震わせるサーヴァント同士の死闘。かつて、黄金の杯の降臨を見た地で、衝突は行われている。世界を包む紅蓮の炎。黒く燃ゆる空。消えていく命の音。惨劇と呼ぶ他ない決死の闘技場。その舞台の上でまた演舞は繰り広げられている。

 ふと、言峰綺礼は当時の事を思い出した。あの戦いの中────言峰綺礼は確かに死んだのだと。

 宿敵と認めた衛宮切嗣との初対面にして最後の決闘。勝敗の判定は難しい。当時を思えば綺礼は確かに敗北を喫した。背後より寸分違わず心臓の中心を射ち貫かれ絶命した。だというのに、十年ののち、生き残っているのは自分自身の方だという滑稽さに苦笑さえ浮かんでしまう。

 胸を深く抑え付ける。今、綺礼を動かすもの。人としての機能を再現し続けるもの。それこそ、すぐ傍で眠る少女の心臓にあるモノより零れ落ちた残滓に他ならない。
 見たわけではない。証拠などない。けれど理解する。音と音が響き合うように、黒い衝動が溶け合ってゆく。胎動のように、静かにその存在を認識させてくる。

 ならば祈ろう──十年前、その生誕を否定されたモノの産声に。
 そして問い殺そう──言峰綺礼の生まれた意味を。たとえ相手が、神と称される悪意であろうとも。

「────さあ、開幕の時だ。これも好だろう。慈悲を以って、その閉ざされた外殻(ココロ)(ひら)いて見せよう」

 桜を眠りへと誘った火が吹き消される。霧となった残り香が夜空に消えて、夢遊病者のような朦朧とした意識の中で桜は半身を起こした。

「あ、れ……」

 当然、桜には状況の認識など出来る筈もない。記憶があるとすればほんの半刻ほど前まで衛宮邸に居たという事だけ。だから自分が今どうしてこんな空の上から街を見下ろしているのかなんていう現実には及びも付かないのは仕方の無いことだった。

「目が覚めたかね、間桐桜。今君にはどうしてこんな場所に居るのか、どうして眠っていたのかすら解らないだろう。けれどその説明は後だ。時間がないのでな、とりあえずあちらを見て欲しい」

 そうして綺礼が指差した方角──それは今まさに互いの最大戦力が解き放たれようとしている戦場だった。夜霧を晴らす真昼の洛陽。存在の規模を示すかの如く、自身の煌きを誇る両サーヴァントの決闘場へと、桜は無意識のうちに視線を向けていた。

「君の視力では、あの場所で何が起こっているのか目視出来ないかもしれない。しかし──感じるだろう。己へと繋がる絆の鳴動。身体に宿った聖痕の疼きと共に」

 赤い令呪が蠢いていた。どくどくと魔力の波が唸りを上げる。サーヴァントに繋がる楔がギチギチと締め上げられる。

「……や」

 桜とライダーを結ぶ鎖。契約の証が限界まで伸びて軋みの声を上げている。その先へ行ってはダメだ。これ以上は無理だ。その光と光が交わる場所は、貴女にとっての死に場所なのだと訴える。

「やだ……」

 ライダー。彼女は召喚よりこの日まで、いつも桜の身を案じていてくれた。地獄と呼んで差し支えないのないあの蟲倉で、疲弊した桜を労ってくれたのは彼女だけだった。祖父は塵でも見るかのように見下して、兄は玩具のように弄んだ。けれどライダーだけは、桜の味方だった。

「やだよぅ……」

 ただ根本的な救出を行えなかったのは、祖父の狡猾さを理解しているからに過ぎない。早計な手段に訴えたところで本当の意味での救いはないのだから。
 だから待った。桜を救える時を。煉獄より解放できるその日を。今日まで終ぞその日は訪れなかったけれど、今もライダーは桜を救い出す為に戦ってくれている。

「やめて、ライダー……!」

 ライダーの戦う理由を少しながら知っているからこそ桜は叫んだ。ライダーの向かう先は死地。その場所に挑んでいる理由は何だ。決まっている。桜。間桐桜が、此処にいるからなのだ。
 その場所に彼女を送り込んでいる自身の不甲斐無さが呪わしい。何も出来ず、こうして見ている事しか出来ない自分自身をどうして悲嘆せずにいられようか。

 どうしようもなく、理解できてしまう。ライダーは負ける。逸る心は桜の身を案じてのもの。充分な心構えもなく切り札を切ったライダーでは、万端を期してきたあの主従に勝てる筈もない。

「やだ、やだやだやだやだやだ……! ライダーッ……!!」

 どんなに叫んでも声は届かない。どんなに祈ってもその結末は揺るがない。伸ばした手は何も掴めず、令呪の力を以ってしても、既に取り返しようなどない刹那すら遠い瞬きは、地平の彼方へと沈みゆく夕日のように呆気なく闇に閉ざされた。

「────ぁ、……っ」

 音もなく、二人を結ぶ鎖が断ち切られた。

 ぐらりと傾いた視界。歪んで見える星の瞬き。一際大きく打った心臓の鼓動。中心に渦巻いた黒い想念が、たった今消え堕ちた巨星の気配に反応する。奪え。喰らえ。呑み込め。失われていく魂の蜃気楼に、黒い情念が手を伸ばす。

「間桐桜。君を護ると誓いを立てたサーヴァントがたった今消えた。けれどその魂は未だ在るべき場所へは還らない。
 この戦にくべられた英霊の魂は生贄として杯の底で時を待つ。それを良しとするのか。彼女の魂は、誰とも知らぬ者の祈りの成就の礎として使われ消え去るのだ。君はそれで本当に良いのか……?」

 桜は何も応えない。ただ呆然と、光の消え去った虚空を滲んだ視界で見据えていた。桜色の唇からは、淡い吐息が零れ落ちるだけ。人形のような蒼白の表情は、絶望を表して余りある。
 微かに生まれた心の隙間へ、罅割れた殻の内へと、言峰綺礼は手を衝き入れる。

「もし良しと出来ないのなら、望まないのであれば欲せ。欲望の赴くままに喰らい、渇望を潤すために飲み尽くせ。
 君にはその権利と──そうするだけの力があるのだから」

 神父の言葉は、毒のように桜の心へと浸透する。決して割れる筈のなかったココロに刻まれた傷口からゆっくりと、巨岩を貫く水の一滴の如く沁み入ってゆく。

「ぁ……」

 自身を抱きしめて桜は蹲る。背筋を駆け抜ける悪寒から逃げるように。。目の前の光景から目を背けようとするように。

 ライダーを討ち倒したあの二人に咎はない。これは戦争。殺し合いだ。彼女達は敵と認めた相手を、その実力で屠り去っただけ。
 咎が下るのは、今こうして囚われの身にある桜自身にこそであろう。自分がもう少し警戒していれば。もう少し魔術師らしく振舞えてさえ居れば。こんな結末はなかったのかもしれない。

「だ、……め──っ、……」

 だからあの二人を恨むのは筋違い。復讐の矛先を向けるのは違う。だというのに。心の中心で、黒い憎悪が渦巻いていく。竜巻のように、天高く感情が溢れ出して来る。
 憎め。憎め憎め憎め憎め。憎悪を増して殺意に変えろ。奪われたのなら奪い取れ。殺したのなら当然、殺される覚悟すらある筈だ。故に喰らえ。故に望め。神父も言っただろう、君にはその資格があると。

「ぃ……ゃ」

 解き放て。十年の歳月、燻り続けた悪意の篝火を。大きく大きく花咲かせ、世界を呑み込む呪いの生誕に祝福を。子を慈しむ母のように大いなる慈愛を以って、憎悪の灯火を滾らせろ……!

「────あっ……あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁああああっ…………!」

 遠吠えにも似た慟哭の最中、間桐桜は意識を手離した。良心の呵責か、あるいは自責の念から無意識に逃れる為か。いずれにせよ、ソレはトリガーに違いなかった。
 言峰綺礼の心臓が大きく拍動する。零れ堕ちた悪意の残滓が、夜に散りゆく英霊の魂を喰らう瞬間を確かに垣間見た。

 その光景に綺礼はほくそ笑む。今宵こそが彼にとっての第五次聖杯戦争の開幕だった。長く遠い求道の果て、ようやく真実のカタチを識る事が出来る。その歓喜、その狂気にも似た祈りを前に、道徳から除外された言峰綺礼だけが哄笑せずにはいられなかった。







 傍らで嗤う綺礼を尻目に、王はただ眼下を見据えている。彼は知る。世界を呪う悪意が解き放たれれば、この世界は死滅する。抑止力すら働くまい。人の悪意による人の駆逐。自らに還る咎では、世界は動かない。

 あるいは、そうさせぬ為の己か。十年前、その悪意を飲み干した王であるが故に、この世界に繋ぎ止められた真実がもし抑止力によるものだとすれば……?

「下らぬ。我は我に他ならず、他の誰にも干渉させん。たとえ相手が、世界や神であろうとも」

 彼の者こそは英雄王。世界の全てを背負う絶対者。強大なまでの自我は、他を寄せ付けぬ強さである。
 だからこそ詰まらない。この身が受肉を果たした意味が、世の席巻にあるのなら、結局生まれ出ずるモノは敵でしかない。良いように使われる。使役されるなんて無様は、何物に変えられぬ恥辱であった。

「我は我の赴くままに。あの悪意すら玩具としよう。歴史が語るように、世は押し並べて創造の前に破壊が付き物だ。この醜悪な世界を再創生するのであれば、一度更地にしてしまうのも悪くはない」

 誰かに使われるなど真っ平だ。英雄王はあくまで己の意思で創生を執り行う。世界を満たす有象無象を一つ一つ虱潰していては途方もない時間が掛かる。ならば手っ取り早い手段に訴えるだけの事。
 その為には──アレは都合の良い道具に過ぎない。

「……せいぜい足掻けよ、雑種共。生まれ落ちれば止められん。歯止めを掛けるのなら、その前だ」

 無様に、滑稽に足掻く者を見る痛快さ。それすらも悦とする王にとって、この戦いすら余興に過ぎない。年を経ることのなくなった肉体。永遠に朽ちぬ魂。輪廻より解き放たれた王にとって、愉悦こそが全てであった。

 だがふと思う時がある。かつて朋友と呼んだ一人の男の死と共に生まれた恐怖。生あるものには絶対なる死が最期に待つ。その滅びを恐れ、回避する為に求め欲した。
 だけれど、世界を探して回り、ようやく手に掴んだ不老不死の妙薬を蛇にくれてやったのは、何故だったか。今その悠久の彼方に望んだ超越を手にしているというのに、胸が高鳴らないのは何故なのか。

 “────この僕の亡き後に、誰が君を理解するのだ? 誰が君と共に歩むのだ? 朋友よ……これより始まる君の孤独を偲べば、僕は泣かずにはいられない……”

 夜に生まれた歪曲の狭間より、鈍色の鎖が顔を覗かせた。じゃらりと音を立てて、王はその鎖をしっかりと握り締めた。

「生涯の朋友よ……貴様はこの時こそを憂いたのか」

 永遠に続く孤独。他の誰にも理解されず、他の誰にも理解させない。絶対であるが故の孤独。孤高の王は、死に勝る孤独の恐怖を知ってしまったからこそ、あの妙薬を手離したのではなかったか。
 朋友と共にあった輝かしくも尊い日々。脆くも儚く散っていったあの男の言葉に、想いに報いる為に、王は自ら永遠を手離したのではなかったか……?

 今はもうそれを知る由もない。ただ記憶の水底で黄金の日々は静かに眠り続けている。生涯唯一人と定めた朋友は今なお王と共に在る。
 手にした鎖がその証。絶対たる王が至宝の剣よりなお信頼するこの鎖こそが、あの男が生きた証だ。

 孤独であれ。孤高であれ。王たるものは絶対でなければならない。揺らぎなど無用。その迷いこそ、あの男に対する侮辱であろう。
 王は孤高に在り続ける。馴れ合いなど必要ない。覇道は家臣を連れ歩くには狭すぎる。王の背中を夢見て、半ばで朽ちていく弱者は要らぬ。我に比肩したいと欲するのならば、せめてこの高みにまで上り詰めて見せろ。でなければ、我が道を征く王の朋友は務まらぬ。

「……尤も、そんな輩はいまいがな。彼の征服王ですら足りぬ。故に──我が朋友は天上天下、遍く世界に唯一人だけで充分に過ぎるのだ」

 能面のような表情にようやく笑みを浮かび上がらせる。見下した街並みを、なお検めるように見やってから、王は船の手綱を強く引いた。
 黄金の箱舟が空を渡ってゆく。船上で王が最後に見せた微笑みは、快楽より齎される歓喜の微笑などではなく、そんな瑣末事に心囚われた自身に還る自嘲の笑みであった。






行方/Fuga IV




/1


 夜も既に深く染まり、日付もとうに変わろうかという頃合。彼女──遠坂凛は昼間と変わる事無くリビングのソファーに腰掛けていた。

 間桐慎二に詰問してから裕に十時間は過ぎている。それからの事は記憶に易い。時に柔和に、時に憤怒さえ交えて詰問というより拷問に近い尋問で以って間桐慎二より知り得る限りの情報を引き出した凛は、情報の整理と今後の展望に全力を挙げていた。
 昨夜からの睡眠時間も少ない。途中で仮眠を挟みつつ、この圧倒的なまでに不利に置かれた現状を打破する一手を模索する事に終始していた。

 当の慎二はといえば、余りに過酷な凛の口撃に耐えたはいいものの、疲弊に疲弊しきっていた。粗方の情報を聞き出した時点で帰っても良いという凛の発言を拒否したのは、おそらく現状を理解出来る程度の思考は残っていたという事だろう。

 今外界に放り出されるという事は、葱を背負った鴨が俎板の上に自ら足を運ぶようなものだ。凛の家の中であれば安全とは言い難いものの、命の危険には晒されにくい。あれで中々危機回避能力はあるらしい。今は別室にて眠り扱けている。良い身分だ。

 さておいて、間桐慎二より聞き出した中で最たるものといえば、ライダーの本当のマスターが桜であった事だろう。慎二がマスターである可能性は否定出来ていた凛でも、この可能性は考えなかった。いや、目を逸らしていたという方が正しいか。
 間桐の現頭首は未だ存命しているという認識があったのも拍車をかけたのだろうが、やはり大きなウェイトを占めていたのは凛の桜に対する感情だった。

「ああ……ホント、バカね。そんな事、気づいて当然だっていうのに」

 背凭れに身体を預け天を仰いだ。掻き上げた髪が指の隙間をすり抜けて視界を覆う。この暗闇のように、これからの展開に光明を見出せない。
 セイバーに取り付けたギアスによる契約も、本来の令呪程の万能性はない。あくまでセイバーが凛の意思に反した場合、その行動を妨げるという程度でしかないのだ。本物の令呪のようにサーヴァントの一時的な強化、強制召喚、絶対服従などは行える筈もない。

 それでも、今のセイバーは凛に協力的だ。どのような心情の変化があったかは定かではないが、あれほど執心していた衛宮士郎への忠誠心はなりを潜めている。あるいは、今の状態が本性か。
 何れにせよ、何時までも手元において置ける駒ではないのは確かだ。一度宿主を裏切ったという事実がある以上、二度目がないとは言い切れない。最低限の運用方法で活路を探す必要性があった。

 整理すると、現状で凛がやらなければならない事は大別して二つ。一つは正規のサーヴァント──アーチャーとの接触。二つ目は桜の行方の捜索。
 最終目的である聖杯戦争の勝者になるという命題にしても、これらを解決し乗り越えた先にしかないものだ。いや、後者の方は捨て置いても問題はないのだが、そんな真似が出来るのであれば彼女は遠坂凛ではなくなってしまう。

 それに慎二より聞き出した情報の中から得られた疑問もある。

「キャスターが桜を攫った理由……目的。ただの人質って可能性もなくはないんだけど。なんだか腑に落ちないのよね」

 鮮血神殿の展開された学校での一件ではその役割を充分に果たしたし、セイバーより聞き及んだ柳洞寺での一戦でもキャスターは桜を人質として扱ったという。
 事実より導き出されるのはやはり人質としての利用だろう。が、やはり何かが違う。ただ人質として扱うのなら、学校で一悶着起こしてまで攫うとは思えない。

 自身の手に落ちたのだと凛に見せ付ける意図もあったのかもしれないが、結果としてあの場で事を起こしてしまったが故に魔女は貧乏籤を引いてしまった。リスクを承知で、且つそれ以上の利用価値が桜にはあった……少なくともキャスターには。

「……わっかんないわね。ま、判ったところで何がどうなるってもんでもないんだけど」

 結局のところ、桜の安否に理由は関係がない。セイバー、慎二から得た情報と凛が事前に掴んでいた情報並びに推論を交えるのなら、あの夜、桜はライダーに救出されたと見るべきだ。
 キャスターの消息も不明な現状では楽観視は出来ないが、魔女を貫いた光というのがライダーならば可能性はある。

 ただどちらにしても消息を掴む手掛かりがない以上、打てる手とてないのだが。

 アーチャーにしても同じだ。凛の思惑を知ってか知らずか、アーチャーの足取りが全く掴めない。令呪とレイラインの繋がりがある以上、マスターとサーヴァントは互いを認識出来る筈だというのに。
 余程遠くまで離れているか地脈の乱れた場所に隠れているか、あるいは凛に行方を掴ませない程度にパスを操作しているのかもしれない。

「いっその事、こっちからもパス切ってやろうかしら」

 無駄だろうな、と凛は思う。弓兵のクラスには単独行動のスキルがある。アーチャーのそれはそれほど高くはないが、数日分程度は自由に動けるだろう。もしそんな差し迫る状況に追い込もうものなら、今のアーチャーの起こす行動など簡単に読める。

 衛宮士郎の殺害。それも手段を問わずに、だ。

 士郎を餌にして誘き出すという方法もあるにはあるが、現状では難しい。彼は恐らくアインツベルンの領域にいるだろう。行く手を遮るのはバーサーカー。一度セイバーとバーサーカーの戦いは見ている。単独での戦闘では余りに分が悪い。
 賭けにしては大博打過ぎる。柳洞寺での二の舞か、なお悪化さえしかねない。

 状況は千日手。こちらから起こすリアクションに限り、求めるだけの結果を望めそうもない事だけは、この半日程で理解した。
 それでも何かしなければならない。待ちに回るなんて考えは一切ない。結果は行動の後にこそある。全てが終わった後で、あの時こうしておけば良かったなんていう後悔だけはしたくないから。

「何か良い案でも思い浮かびましたか」

 やおら街に繰り出そうかというその時に、澄んだ声音が木霊した。

「セイバー。何処行ってたの」

「ちょっと見回りに。何もありませんでしたけどね。あ、雨降ってきましたよ、外」

 セイバーは微笑をつくり、一切の汚れなどない黄金の髪の一束を摘む。少し雨に降られたのか、雫が一滴絨毯に零れ落ちた。
 凛はセイバーがソファーに腰掛けるのを待って、窓の外を見た。とっくに陽の落ちた外界は闇に沈んでいる。庭に植えられた木々が風に鳴いている。茫洋とした街並みを見やる凛の視界の先で、窓ガラスを雨粒が叩いていた。

「それで、考えは纏まりましたか?」

「全然。貴方達から集めた情報を整理してみても、何の手掛かりも出てこない。余計な疑問が増えるばかりで疲れたわ」

 大層に溜め息をついて、凛は外へと向けていた視線を目の前の少年へと戻した。

「そっちは? ただぶらぶらする為に外出てたワケでもないでしょう」

「いえ、本当にただの散歩です。あえて言うのなら、外の空気を吸いたかったというべきでしょうか。この場所のそれは、酷く淀んでいるように思えるので」

 心外だわ、と凛は嘯いて、けれど道理だとも思った。
 魔術師の家は基本的に、物理的にも霊的にも閉塞している。地脈として流れる魔力を集める為の入り口は設けられていても、逃がす為の出口はないのだ。不用意に出口を用意していては、折角掻き集めた魔力も霧散してしまう。それでは意味がない。

「ま、それは仕方がないわ。魔術師なんてものを生き方としている以上はね。来るものは拒み、去るものは逃がさない。それが鉄則だし。
 あー、じゃあ衛宮くんの家はそうじゃなかったってこと?」

「ええ。あの家にそんな概念はありません。結界らしいものはありましたが、それ以外は全く手を加えられていない。
 一般的な他の家屋と見比べても劣らない……どころか、より開かれているという印象を持ちましたね」

「そんなの魔術師の家じゃないわ。ま、彼の能力と性格を見るからに、全く魔術師然としていないのは判ってたけどね」

 投影なんていう燃費も効率も悪い魔術を主武装としている時点で、衛宮士郎には魔術師としての知識が足りていないのは見て取れる。悪いのは彼ではない。彼に指南した、衛宮切嗣という男こそが悪いのだ。

「……そういえば。セイバーのわたしに対する要求って何?」

 ふと蘇った疑問。昼間は慎二への詰問で大幅に時間を割かれたし、夜は夜で凛は自身の考えを纏める事に没頭し、セイバーは何時の間にかいなくなっていた。そのせいで忘れかけていた事柄がようやく思い出された。

「ああ、ちゃんと覚えていてくれたんですね。良かった、忘れられているんじゃないかと思っていたので」

「実際忘れかけてたんだけどね。ま、それはおいといて。で、その要求って? わたしは既に貴方に対価を掛けているから、貴方からの要求に応えないと完全な契約の受理にならないし」

「そんなに大層なものじゃありません。貴女という人物にではなく、“遠坂”という名前にこそ用があるだけです」

 セイバーの意味するところを理解できず、釈然としないながらも凛が続きを促そうとした時に、少年は赤い双眸を不満げに外へと投げていた。

「……本当、間の悪い。これでまたお預けか」

「そうみたいね。だけどまあ、わたしにとってはラッキーな部分もあるかもね。お客さんの出方次第だけど」

 そうして二人は席を立った。同時に感知した気配は、この屋敷へと無断で踏み入ったもののそれだった。当然、一般人などという楽観は有り得ない。この時期に遠坂の家を訪れるものなど、知れている。
 何よりも。正面からの来訪でない時点で相手の意思だけは確認できた。







 庭先へと躍り出た二人を出迎えたのはぱらぱらと舞う雨粒。淑やかに降る雨を意にも返さず、凛とセイバーは庭の片隅にある物陰を見据えている。室内灯どころか街灯の明かりすら届かない黒、夜さえも塗り潰す闇の中に、幻覚を見た。
 じくじくとカタチを得る無形の影はやがて見た事もない誰かの姿へと変態した……そんな錯覚を経て、暗闇よりひょっこりと顔を覗かせたのは皺枯れた老人だった。

「お初にお目にかかる、と言えばいいかの。儂の名を知っておるかや遠坂の小倅。知らぬのなら名乗ろう。
 ──間桐臓硯。慎二と桜の祖父に当たる者じゃ」

 奇異な笑みとも取れない笑みを浮かべた老人の名乗りを受けて、凛の表情は強張った。慎二からも目の前の人物に関する情報はそれ程多く聞かされていない。が、まさに聞かされていないからこそ警戒して余りある人物だと認識していた。

「……ご丁寧にどうも。確かもう隠居したって話だけど。わざわざこんな場所まで出張るなんて、どうやら噂も当てにならないようね」

「ほぉ。突然の侵入者に驚かぬとは、肝も座っておる。彼奴めの娘にしては中々に見所があるの」

 凛の挑発を柳に風と受け流し、軋るような笑い声を上げる臓硯。聖杯戦争の宿敵である遠坂の屋敷に踏み込んでいるというのに、傍にはセイバーのサーヴァントが在るというに、臓硯はどこか余裕を垣間見せていた。
 臓硯の手にしていた杖が大地を叩く。挨拶はこれで終わりだとばかりに笑い声は息を潜めた。

「さて。無礼は詫びよう。
 我が家と遠坂との間に交わされた不可侵条約に背いてまで儂が訪れた理由……それをまず話さねばなるまい。時間とてそれ程ないのでな、用件だけ早急に伝えたい」

 打って変わった老人の態度に凛は僅かに気圧された。他人を見下すような先のやり取りから比べれば、今の老人は別人のような冷静さと威厳に満ちていたからだ。

「……それで、その用件というのは?」

「うむ────桜の事じゃ」

 凛の身体が一層強張る。依然として行方の知れない桜の手掛かり……情報を齎そうという主が間桐の頭首なれば、捨て置くわけにもいかなかった。が、こちらの手の内、胸の内を曝け出すのを躊躇われたのもまた事実だった。

「桜が、どうかした?」

「隠さんでもよい。主も知っておろう、数日前にキャスターに桜が攫われたという事を」

 流石にその程度の情報は得ているか。ならば猫を被る必要性もあるまいと、凛は居住まいを但し冷やかに臓硯を見やる。彼女の心に在るのは既に、どれだけ多くの情報を引き出せるかという損得勘定だけだった。

「そうね。それは知っているけど」

「ならば話が早い。あれから桜はまだ家に戻っておらんのじゃ。いや、一度救い出されたのは知っておるのだが。その後、また連れ去られたらしい」

「────なっ!?」

 脳を側頭部から思い切り殴られたような衝撃。足掛かりを得たと思いきや、それは朗報と共に凶兆までも伴っていた。しかし凛には話が見えない。臓硯の話し方は、何か引っかかる部分があった。

「連れ去られたらしい、ってまた酷く曖昧な情報ね。情報の出所は? 家に戻っていないだけじゃないの? ──あるいは攫った奴に心当たりがあるとでも?」

「ふむ、そう急き立てて老体に鞭打つでない。知り得たのはほんの少し前の事。情報源はライダーが消滅したという事実からじゃ」

 凛は再度息を呑んだ。確かに、自らの家の者が喚び寄せたサーヴァントの消滅はマスターの危機を知らせて余りある。
 単純に推測を巡らせるのなら、敵のサーヴァントに挑みかかったライダーは返り討ちに遭い、桜は敵の手中に収まったというところか。

「ここまで言えば判るじゃろう。古くからの盟友である遠坂に助力を願いたい」

 真摯な視線を傾ける臓硯の落ち窪んだ瞳を、凛は細めた眼で見つめている。凛には未だ臓硯の真意が見えない。雨粒が降り注ぐ中、わざわざ出向いた理由としては充分に足るが、敵と言って過言ではない遠坂に頭を垂れるにしては、些か弱すぎはしないか。

 魔術師の世界では全てが等価交換。助力を欲するのならば、それは貸しとなる。相手の最悪を想像するのなら、桜を救い出す代わりに今回の聖杯戦争から手を引けと言われたとしてもおかしくはない。
 分相応不相応は別にして、対価は契約に比する。希う以上は、相手の要求に最大限応じなければならないのだから。……あるいは、臓硯が間桐桜に想像しうる要求以上の価値を見出しているとしたら?

「……そんなもの、受けると思ってるわけ? 貴方の考えは知らないけど、わたしには貴方に助力するだけの理由はないわ。
 間桐桜と遠坂凛には──もう何の関連もないのだから」

 それは精一杯の強がりか、あるいは鎌掛けか。何れにせよ凛には臓硯に手を貸すだけの理由がない。情報を求めていても、どこか陰のあるこの老人と手を取り合うというのは早計に過ぎるように感じられた。

「……ふむ、そうか。大切な孫が攫われて、助け出す術など持たない老人の希う戯言じゃからのぅ。
 いや、ならば仕方がない。今宵は出直すとしよう」

 庭先を横切って、正門へと歩んでいく臓硯。押しかけておいて、あっさりと手を引いた異様には少々毒気を抜かれたが、きっとこの判断に間違いはない。
 臓硯の言動に不自然な部分がある以上、踏み込む先は罠があると思って掛からなければ文字通り足元から掬われかねない。

「……ところで。その桜を攫ったヤツに、心当たりはあるの?」

 だというに、そんな質問を投げかけてしまった。心の奥底で、やはり間桐桜を諦めきれない遠坂凛がいる事を、きっと誰よりも凛自身が理解していたから。

 助力を得られなかった以上、後は去るのみと背を向けていた臓硯の足が止まる。ゆっくりと、発条仕掛けの機械のように振り向いた臓硯は、

「────言峰綺礼。此度の監督役じゃ」

 そんな、嘘みたいな冗談を闇に残して消え去った。













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