剣の鎖 - Chain of Memories - 第四十三話









 暗闇の中にいた。何故自分がこんな場所にいるのか判らなくて首を捻ってみた。けどやっぱり判らないままで、仕方がないからとりあえず歩く事に決めた。
 ヒタヒタと足を動かす。なんだか動きが悪い。水か何かが足元にあるようだった。一歩を踏み出す度にびちゃり、と音がして、少し気持ち悪くなる。そういえば、なんだか鼻を衝く匂いがこの暗闇には充満しているようだ。

 それでも、このまま真っ暗闇の中に居続けるのは怖くて、なんとか抜け出そうとひたすらに歩いた。

 ヒタ、ヒタ、びちゃり。ヒタ、ヒタ、びちゃり。

 足首に絡み付く水。深さはなくても鬱陶しい。なんでこんな場所が水浸しになっているのかなんて事は判りそうにもなかったから、せめて履く物が欲しかった。そういえば、なんで裸足なんだろうか。

 考えても判る筈もない。だから歩いた。ひたすらに。でも、終わらない。歩いても歩いても暗闇から抜け出せない。一筋の光さえも拝めない。
 怖くなった。もしかしたらこのままずっと出られないんじゃないかと考えてしまって、身体の芯から凍えてしまいそうになるほどの恐怖を感じた。

 走る。走る。走る。息を切らせて。喉を嗄らせて。手足が痛むのも我慢して。浅い水溜りを蹴り上げて。
 ────それでも、出口なんかなかった。

 途端、泥濘に足を取られて転んだ。べちゃり、と全く遠慮の欠片もなくすっ転んで、顔から派手に水溜りに飛び込んだ。

 呻くように喉を鳴らして、開いた口の隙間から水が流れ込む。ぬちゃり、と気持ちの悪い感触が口内を蹂躙した。
 粘つきぬめる液体。咀嚼して、糸を引く。後に残ったのは錆び付いた鉄の味。これは、水なんかじゃない。喉を潤す水などではなく、人を動かす潤滑油(けつえき)だ……。

 血溜まりの中から四肢をついて起き上がる。髪も、顔も、服も、素肌さえも血塗れだ。自分自身の血ではない、誰かも知らない人の血。
 先の見えない暗闇に嫌気が差したのか、後ろを振り返ってしまった。そして、その光景を見た。

 歩いた道は血塗れだった。くねくねと蛇のようにのたくりながら、これまでの■が歩いてきた道を顕すように、真っ赤だった。
 そうしてもう一度前を見る。ああ、やっぱり。さっきまでなかった道があった。赤い赤い血の道が。果てのない暗闇の中に、ただ一筋の朱色の軌跡が描かれていた。

 理解した。これは、■が歩いてきた道で、■が歩いていく道だ。始まりにはきっと、眩い光があったのかもしれない。けれどいつしか闇に覆われて、今では完全な暗黒だけに支配された■の心象風景。

 赤い血の道は終わる事のない煉獄の連鎖。果てのない絶望を体現した、血色の世界。

 多くを望んだ事なんてない。ただ人並みの幸福が欲しかっただけ。この世界を照らし上げる太陽は必要ない。目指していける一条の光だけが欲しかった。もう手に入る筈もないそれを、夢見なかったことはない。

 座り込み、膝まで血塗れになったまま、空を見上げて声もなく泣いた。決して折れまいと耐えてきた心を砕いて、痛みを無くして過ごしてきた半生を振り返るように、溜め込んだ鬱屈を吐き出すように慟哭した。

 誰も見ていない■だけの世界。この場所ならば、この行為さえも許される。誰も■を咎めるものはいないから、枯れ果てた筈の涙を零して泣き続けた。

 空さえも黒い世界。暗黒の太陽に支配された世界の中心で、少女は小さく、本当に小さな声で、誰に呼びかけるでもなく呟いた。溜めに溜めたその一言を。言えなかった、伝えたかったたった一つの言霊を。

「────助けて、姉さん……」






葛藤/Waltz III




/1


「ああ、もう。鬱陶しいわね。どうなってんのよこの森」

 遠坂凛と、仮初の契約を結んだセイバーが灰色の森を行く。教会での一戦のせいでろくに戦えないまでに魔力の落ちたセイバーに魔力を取り戻させる為、二人はアインツベルンの城を目指していた。

 柳洞寺での夜、衛宮士郎はイリヤスフィールに連れて行かれた。ならばこの冬木におけるアインツベルンの拠点である森深くの古城にいる可能性が極めて高かった。

 外来ではなく、また士郎のように突発的な参戦者でもない彼女ら──御三家はそれぞれの拠点を冬木に所有している。内外共に住処の知れ渡る不利を差し置いても、格の高い地脈を押さえた工房というのは有利になる。

 故に御三家の者達は自らの拠点を絶対の要塞として聖杯戦争を運営していく。外来との差は、初めから仕組まれていると言ってもいい。
 その点を鑑みても、アインツベルンのマスターがこの森の城を使用していないという可能性は低い。なんらかの事情か、あえて裏を掻くつもりでもなければ最高の拠点たるこの場所を手放しはしない筈。

 そんな算段から、凛とセイバーは鬱屈とした森を延々と歩き続けていた。

「ったく、もうちょい近い場所に建てなさいよね。歩くこっちの身にもなれってのよ」

「はは、まさしく相手の思惑通りなんじゃないですか。疲弊した人間は少なからず思考の巡りも悪くなる。サーヴァントにダメージは与えられなくとも、マスターには充分に効果のある道のりだ」

 朗らかに笑ってはいるが、セイバーの歩みは酷く遅い。魔術的強化を施していない凛にさえ時たま遅れる牛歩の歩み。幾ら表面上を装っても、魔力不足は深刻なようだった。

「それにしても変よね。これまで全く向こうから干渉がないなんて」

 森の入り口付近にあった結界も、何の役割も果たしていなかった。見たところ侵入者を感知して何らかのアクションを起こす類のもののようだったが、素通り出来てしまった。
 自動発動型の結界ではないのだろうが、こうもすんなりと入れてしまうのも考え物だ。こちらを歓迎しているのか、妨害に値しないと踏んだのか、はたまたこちらに気を割く余裕さえない何かが起こっているのか……

「でも、向こうは侵入には気付いているんですよね」

「ここはもうアインツベルンの庭だしね。気付いていない方がおかしい場所よ。だからこそトラップの一つや二つはあると思っていたんだけれど……」

 少なくとも視界にそれらしきものはない。これまでの道程にも何一つなかった。強いて言うなら、このまるで変わらない風景か。
 確かに目的地に近づいているという感覚はあるが、こうも似た景色ばかりだと同じところをぐるぐると回っているのではないかと疑ってしまう。

 それでも幻覚の類はないと断言できる。魔術的要因がまるでないからだ。微かな残り香さえ感じられないし、近辺でここ数日間のうちに魔術が使われた形跡はなかった。

「ま、ないならないで結構だけど。あんな化物みたいなサーヴァント連れてるんだから、罠なんか必要ないって高括ってるのかもね」

 確かにバーサーカーのサーヴァントは強力だ。もし今襲われでもすれば、逃げの一手しかない。逃げ切れる筈もないだろうが。

「今思えばこれって結構な賭けよね。アンタは士郎にしてみれば裏切り者だし、あの生意気そうな小娘にとってわたし達はただの敵でしかないんだから」

「それは判りきっていた事でしょう。貴女のサーヴァントも行方知れずですからね、今襲撃を受けたら、たとえアサシンが真っ向勝負を挑んできても勝てるかどうか判りません」

「言ってくれるじゃない、裏切り者」

「別に。ただ事実を述べただけですよ、見捨てられたマスター」

 どちらともなく睨み合う。どちらともなく溜め息をついて、歩き続けた。
 悪態でもつかなければやってられない。森に入って既にどれだけの時間が過ぎたかも判らない。黙々と、延々と灰色の大地を踏み、灰色の木々を避け、灰色の空を見上げて歩き続ける。

 それから数十分。少しばかり開けた場所に出た。丁度円形に刳り貫かれたような広場。幾許かは見通しの良い場所だったが、休憩をしている時間などない。目的地はそう遠くない筈だからと、そのまま通り過ぎようとした時────

「止まってください」

 セイバーが凛を制止した。

「なに? 特に何も感じな──……っ!」

 言い終わるよりも早く、凛もようやく察知して飛び退いた。広場の外れ、枯れた木々を背に、何かが立っていた。いや、立っているという形容が正しいのかすら判らない。なぜならソレは、人のカタチなどしていなかったからだ。

「なによ、あれ……」

「…………」

 奇妙なモノだった。たゆたうように揺れている無形の闇。そんな形容が似合いそうな黒いモノ。強いて形として表すのなら海月のそれに近い。
 全てを飲み込む暗黒に、赤のラインを彩った海月。今まで見たこともない、知りもしない何かだった。

 ソレは何もせず佇んでいる。目らしきものは見当たらなかったが、何故か、こちらをじっと窺っているように見えた。
 ワケのわからない存在の突然の登場に凛もセイバーも動けない。敵か味方か。そもそも意思があるのかすら判らないのだからどうしようもない。

 正体不明の存在と相対した時、相手の一挙手一投足を見逃さない事が肝要だ。僅かなリアクションから、最善の行動を導き出す為に。
 黒い海月の足の部分、裾のようなモノがうねる。垣間見えた内部もまた黒く染まり、正体を計るには足らない。

 ゆらゆらと揺れる海月がどんな行動に出るのかと身構えていた凛とセイバーを余所に、ソレは突如としてカタチを無くして拉げた。上から圧縮されてぐちゃりと大地に広がって、黒い水溜りが出来た。

「何なのよ……? まさかアインツベルンの使い魔ってわけじゃなさそうだし、ていうか何がしたいの、これ」

 凛の困惑は当然だった。いきなり音も気配もなく現れたかと思えば何もせず、どころかカタチさえも失って動かなくなった奇妙な物体なのだから。

 広がった黒い水溜りをセイバーは醒めた目で見ていた。彼自身はコレが何であるかを知らない。凛同様、得体の知れない何かだと認識していた。
 今の彼の中には彼自身が知り得ない記憶の断片があった。恐らくはあの時、教会で対峙した結果として得たもの。同一存在が同じ空間に存在しているという矛盾。属性の違いはあれど、彼らは唯一無二の神ならざる人である。

 たとえ世界がその在り方を肯定しようとも、彼ら自身が許さない。朱は交わりなお赤く染まる。
 英霊の座に存在しない記憶を持つあの男が経験した記憶の欠片。自らを染め上げようとした“悪意”の存在を、セイバーは知らず理解していた。

「何にしても、係わり合いにならない方が良さそうね。何もして来ないのなら、このまま迂回して先を急ぎましょう」

 凛の言葉に反応したのか、それともただの偶然か。動きを失くした海月だったものが、突如として跳ねた。びくん、と小さな水溜りに小波を起こし、蠢いていく。
 流水は立ち昇り、かつてあった姿とはまるで違う──凛の知る形骸へと変貌した。

「うそ……アンタは……」

 無形より成った有形。麗しの美貌。大きく露出した肌。長く美しい髪を振り乱し、手にした武器を撓らせた。

「……ライダー」

 黒く染め上げられた賓客。間桐桜の──失われた筈のサーヴァントだった。





/2


 壁の如く展開された無数の剣群が、主の命により吹き荒ぶ。予期せぬ闖入者目掛けて殺到する。

 既に硬化、早駆けのルーンを身体の随所に刻んでいたバゼットは、極限まで身を低くし強化された身体能力を以って降り注ぐ剣の雨を掻い潜る。
 所詮は魔術師と踏んでいたのか、バゼットのマスターに有るまじき行動に虚を衝かれた男は接敵された直後、すれ違い様に撃ち出された一撃を、舌打ちと共に呼び出した盾で防ぎ切る。

 バゼットはそのまま疾走を止める事無く、士郎とイリヤスフィール、そして初撃を迎撃し終えたランサーの元へと駆け抜けた。

「チィ。なんてデタラメな攻撃手段だ、矢避けの加護もろくに役立ちゃしねぇ」

 遠隔射撃に対する超直感。ランサーの持つ矢避けの加護をして、男の掃射には意味を成さない。ランサーは持ち前の勘の良さと俊敏さで十に及ぶ剣を迎撃し終えていた。

「しかし必ず隙はあります。ランサー、ともかく時間を稼いで下さい」

「あいよ」

 決して相性の良い相手ではなかったが、ランサーはそれ以上の愚痴もなく階下へと跳躍した。幸いにもこの空間はランサーが戦闘能力を発揮する場としては適していた。欲を言えばもっと広ければ良かったが、室内という点を鑑みれば充分に許容範囲だ。

 ランサーが男と対峙するのを見届けた後、バゼットはとうとう膝を折った士郎と、柳眉を寄せて支えるイリヤスフィールとを睥睨した。

「アインツベルン。彼の傷の程度は?」

「……単に魔力を消費しすぎただけよ。底をつきかけてた上に無理矢理に魔術を行使したから、ちょっと身体にもガタがきてるけど。
 それと。私の名前はイリヤスフィールよ、協会の魔術師さん」

「失礼、イリヤスフィール。私はバゼット・フラガ・マクレミッツです」

 挨拶もそこそこに、ごほ、と血を吐いた士郎を一瞥して、バゼットは頭の中で算段を積み上げていく。
 今この場で、この二人を倒すのは造作もない。セイバーとバーサーカーのマスターである二人を亡き者にしてしまえば、まだ続いている聖杯戦争が途轍もなく優位になる。

 本来彼らのサーヴァントに差し向けようとしていたバゼットの魔術礼装を他のサーヴァントに向けられるのならば、容易に残りの敵を駆逐出来るだろう。

 ────が。

 既に戦闘の始まった階下に視線を滑らせる。イレギュラーのサーヴァント。それを残したままで、最強のサーヴァントである二騎を退場させてしまっていいものか。
 無論、ランサーがこの場であの男を倒してくれれば最上だが、そう容易くいくような相手ではなさそうだ。

 それに何故かいないバーサーカーのサーヴァントの存在と、代々アインツベルンの用意する黄金の杯についても気に掛かる……。更に言えば、ここはまさしくアインツベルンの工房だ。何かあると勘繰るべき……。

「…………」

 以前思案した聖杯戦争の面倒な箇所に、ここに来てぶつかった。最終的な勝者にならなければ、ここで最強を打倒しても何ら意味を成さない。
 倒した敵の数ではなく、最後に地に足をつけて立っている者こそが勝者なのだから。

「イリヤスフィール、取引です。聖杯に最も近い貴女ならばあのイレギュラーについても多少は知っている筈でしょう。知り得る全てを教えなさい。そうすれば、この場では貴方達への危害を加えないと約束します」

 この場はこれでいい。もし彼らがこの戦闘区域を脱出し果せたとしても、次対峙する結果となろうとも、既に情報を得ている彼らを打倒するのはそう難しくはない。ならば今は、宣誓したとおりにあの得体の知れないイレギュラーの排除を優先するべきだ。

 イリヤスフィールは明らかに上からの物言いに憤懣やるかたない面持ちであったが、痛んだ士郎をこれ以上の危険に晒すのは巧くはない。それにバーサーカーもあの黒い騎士との戦闘からまだ帰らない。

 目の前の女魔術師の位階はかなりの高位だ。それでもイリヤスフィールだけならばやり様があったが、士郎を抱えていて、且つこの至近距離からでは相手の初手の方が明らかに速いだろう。ここは話に乗っておく方が吉か……

「判ったわ。けど、過度の期待はしないで。貴女があのサーヴァントを追って来たのだとすれば、さして変わらないでしょうから」

 前置いて、イリヤスフィールは知り得る限りの事情を話した。十年前の聖杯戦争の生き残り。受肉を果たしたサーヴァント。この場を訪れた目的。そして、もう一人のイレギュラーの存在を。

「……イレギュラーが二人も。バカな……そんな存在が、これまで身を隠し続けてきたというのか」

「単純に言って、イレギュラー二人は相当に手強いわ。私のバーサーカーが遅れを取る相手だし、今戦ってるあの男……存在自体が並のサーヴァントのレベルじゃない」

 と、その時、階下で一際大きな衝突が生まれた。

「チッ。イリヤスフィール、残念ながら私達に貴方達を庇う余裕などなさそうだわ」

 言って、バゼットは背負っていた銀色の筒を転がした。

「そんな事まで頼んだ覚えはないわ。ただ、お礼は言っておくわ。ありがとう、貴女達が来なければ、シロウは死んでいたかもしれない」

「…………」

 バゼットは奇妙な心地だった。敵に恐怖され、味方にさえ畏怖されてきたバゼットの半生において、こんなにも真っ直ぐな感謝を伝えられた事はかつてなかった。
 それも、時を置けばまた敵同士になるという相手からの賞賛だ。なんとなくむず痒く、行き場を失くした視線が宙を彷徨った。

「と、ともかく。これより先の貴女達に関して、私は関与しない。自らの身は自分でなんとかしなさい」

「そうさせて貰うわ。せめて邪魔にならないように、退くのが関の山だけど。ただ、気をつけることね。時に敗走は負けじゃないわ」

「肝に銘じておきましょう。……しかし、私達とて何の策もなく敵地に乗り込んだのではない事を、打倒を以って証明しましょう」

 革手袋引き締め直したバゼットが階下へと躍り出るのを見届けて、イリヤスフィールは士郎に肩を貸しながらエントランスホールを後にした。





/3


 気持ちの悪い感触が口内を蹂躙し、曖昧で朦朧としていた意識が徐々にではあるが回復してきた。

「シロウ、大丈夫?」

 真横には心配そうなイリヤスフィールの顔。ああ、俺はまた守れなかったのかと思わずにはいられなかった。

「ああ、大丈夫……」

「また嘘ばっかり。シロウ、確か言った筈よね。身を超えた魔術は術者に還るって。今のシロウの状態がまさにそれよ。全然魔力持ってないくせに、あんな宝具をばんばん投影してたらすぐガス欠になっちゃうのは当たり前じゃない……」

 どうやらイリヤスフィールは怒っている様だった。ただ、別に間違った事をしたとは思っていない。ああしなければならなかった。身を切り崩してでも投影を行わなければならなったのだ。でなければ、イリヤスフィールはあの男に連れ去られ、士郎は串刺しで倒れていただろうから。

「……うん、わかってるよ。シロウは私を守ってくれたんだって。でも、だからこそ、約束を果たしてくれなきゃイヤなんだから」

 ああ、そうだ。この少女と約束したんだ。守ると。そして死なないと。だというのにこの体たらく。身の丈を超えた魔術を理解しても、今度は動かすだけの魔力が足りないなんてのは、もう笑い話でしかない。

「悪い、イリヤ。もう大丈夫だから。今度はもっと、上手くやるから……」

 言った途端、ばちーんと小気味良い音が耳元で鳴った。よろめいて、尻餅をつく。何が起こったのか判らなくて、どうにか動いた手で頬を擦る。熱い。熱を帯びた頬が、じんじんと痛み出した頃にようやくイリヤスフィールに叩かれたのだと理解した。

「イリヤ────」

「んもぅ! 本当にシロウはわかってない! 今のままじゃ何度繰り返したって同じ結果にしかならないんだから!」

 紡ごうとした言葉を遮られて、ふうふうと肩で息をするイリヤスフィールを士郎は目を丸くしたまま見ていた。

「士郎の本質はあんな魔術なんかじゃない。あんな出来合いの剣を投影する事なんかじゃないの。士郎に出来るのはたった一つだけ。今行使してる魔術はそこから零れ落ちたものでしかないの」

「イリヤ……?」

 士郎を柳洞寺から救出した夜、イリヤスフィールは士郎の内側へと触れていた。本来触れてはならない部分に、イリヤスフィールは触れてしまったのだ。
 わざとではない。ただ治癒を行う為の前段階で、傷の程度を調べる過程でイリヤスフィールという存在の特異性と、両者にとって縁のあるものが偶然に繋がっただけ。無論イリヤスフィールはそれが何であるのかを知らないし、ただ知ってはならない事を知ってしまったという事実だけを心に残していた。

「シロウにはもっと力がある。言い方を変えれば、シロウはまだ自分の本当の力を認識していないだけ。けど、今のシロウじゃその力を引き出せない。だから、ね……?」

 何がだからなのか判らず、士郎はぼんやりとイリヤスフィールを見上げていた。そっぽを向いて、若干頬を赤らめたように見えるイリヤスフィールは小さく息を吐き、士郎へと向き直った。

「だから私が、その手助けをしてあげる……」

「──────っ!?」

 士郎が驚愕に身を強張らせるのと、唇に柔らかなものが触れたのはほぼ同時だった。目の前には目を閉じたイリヤスフィールの顔。距離はなく、唇と唇が触れ合っていた。

「──っ? ……んっ。────っ!?」

 士郎の困惑を余所に、イリヤスフィールの舌がシロウの口内を蹂躙する。未だ残っていた血を舐め取るように、妖しく、蠱惑的に蠢いていた。
 頬に添えられた掌は温かく、頭がぼうっとしてくる。どこか甘く、どこか酸味のある味が口の中に広がってゆき、無意識にイリヤスフィールにその身を委ねていた。

 行き場をなくした士郎の手は空中でわたわたと動くばかりで、イリヤスフィールにはされるがまま。全く予期すらしていなかったイリヤスフィールの暴挙に、士郎は結局最後まで抵抗らしき抵抗を出来なかった。

 たっぷり一分ほどキスを交し合った後、イリヤスフィールは長い息を吐きながら士郎の唇から口を離した。零れた唾液が糸を引き、妖艶さを感じさせた。

「イリ、ヤ……なにを……」

「言ったでしょ、もう。私がシロウの手助けをしてあげるって。感じない? 私から流れる魔力を」

「えぁ……?」

 妙な言葉を口にしながら、士郎は己の内側へと意識を向けた。いや、向けずとも理解できた。さっきまで空っぽに近かった魔力が、今は十全に満たされている。どころか、余りあるほどだ。

「これは……」

「私とシロウの間にパスを繋いだわ。本当はもっと濃密な粘膜接触か、入念な準備をした儀式が必要なんだけど、そこはそれ、私は特別製なの」

 イリヤスフィールは厳密には魔術師ではない。魔術という式を用いて奇跡を体現する従来の魔術師とは違い、イリヤスフィールは“本人の保有魔力内で実現可能な奇跡”を、過程を省略して結果だけを導くことが可能だった。

 その為、他の魔術師が積む研鑽など必要なく、ただ思うだけで魔術を形に出来る。

 その特異性こそがアインツベルンの創造せし生きた聖杯──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンの持つ、小さな奇跡の形だった。

 しかし士郎にはそれを理解するだけの知識はなく、イリヤスフィールもまた説明を省いた為、なんだか知らないけどイリヤのお陰でパスが繋がり、身体に魔力が満ちているとだけ了解した。

「すごい。これなら、さっき程度の投影じゃ血を吐く必要性すらない。投影の十や二十はものの数じゃなさそうだ」

「だからね、シロウ。シロウの魔術はそうじゃないって……ああ、そうね。私が言っても伝わらないか」

 何やらぶつぶつと呟く少女を余所に、士郎は勢い込んで立ち上がった。元々外傷はほとんどない。単純な魔力不足から昏倒に陥りかけていた為、こうして魔力さえ満たされればほとんど完治したも同然だ。

「でもこんな事出来るのなら、もっと早くに教えてくれれば良かったのに」

 そんな士郎の全く空気を読まない発言に、イリヤスフィールはじと目を向けた。

「シロウのバカ」

「?」

 ワケが判らないと首を捻る士郎から、少女はそっぽを向いた。

「ほんと、シロウにはデリカシーがないんだから。これはあくまで簡易的な措置。強引な手段なの。正規の手順を踏んでないの。私だってその、……本当は、ちゃんと……」

 段々と弱々しくなるイリヤスフィールの口調。顔まで真っ赤になっていた。ようやく、彼女の言わんとしていた事を理解できた士郎は、

「え、……ぁ、ぅ、その……」

 口を濁すしかなかった。







 気まずい沈黙もそう長くは続けていられない。ここはまだ戦場の只中だ。士郎は無理矢理話題を切り替えることにした。

「も、戻ろう、イリヤ。今なら援護くらいは出来るだろう」

「ダメよ」

 しかし士郎の提案は、打って変わった少女の一言にばっさりと斬り捨てられた。

「こういう言い方は酷だけど、私達は馴れ合いで聖杯戦争をやってるわけじゃない。確かに今のシロウならあの二人の援護くらいなら出来るだろうけど、それだけよ。その後、この戦いを生き抜いた後には、あの二人はまた敵になるわ」

「だから、見捨てろって言うのか?」

「そうじゃない。せめて自分達の足場を固めてからにしようって言ってるの」

 つまりイリヤスフィールは自らの戦力であるバーサーカーの元へと行くべきだと言っているのだ。士郎に引き止められた先程と今とでは状況が違う。
 優先すべきは自分自身。他人を気にかけるなんてことは、自らがしっかりとした足場に立ってからでないと迷惑だ。

「………………」

 イリヤスフィールの言わんとするところは、士郎とて理解していた。だが、本当にそれでいいのか?
 救われておきながら、助けられておきながら、その好意に背を向けるのは──

 ──アイツが救ってきた人達と、同じじゃないか……

 見返りが欲しいわけじゃない。感謝して欲しいわけでもない。ただ救われてくれればいいと、想い続けて実践してきたあの男。ただその最期に……助けた人に裏切られた気持ちだけは、士郎にも判らない……

 だから。

「イリヤ。俺は────」

 言いかけたその時、イリヤスフィールが神妙な顔つきで外へと振り仰いだ。

「イリヤ……!?」

 士郎の問いかけになど答えず、イリヤスフィールは駆け出した。ただ事ではない表情をしたまま、向かう先はエントランスではない。ここは二階だから、外へ出るとしてもホールを通らなければならないと思っていたのだが、イリヤスフィールは構う事無く廊下を奥へと走り去っていく。

「……ちくしょう!」

 逡巡の暇などない。追うべきは守ると決めた少女だ。この身一つに抱えられる数なんて高が知れている。全てを救うことなんて出来ないと判ってる。だからその中で取捨選択を迫られる。

 何を守り、何を殺すか。

 そんな現実は認めないと強がってみても、結局こうして振り回されている自分自身が少しだけ、厭になった。













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