剣の鎖 - Chain of Memories - 第四十五話









 吼え猛る声は木々を嘶かせ、振るう斬撃は大地を砕いて余りある。だというに、目の前の敵は屈しない。いかな膂力で打ち込もうとも、涼やかな表情のままで全てを迎撃せしめてくる。

 完全なまでに理性を剥奪されたバーサーカーの猛威は、天災に等しい。触れるものすべてを薙ぎ払い、近づくもの全てを圧殺する。それが、この相手には互角にまで持ち込まれている……

 アインツベルン城より幾分離れた林の中に、猛獣の声が木霊する。対峙する敵に強制的に戦場を移され、地形的有利まで相手に奪われたバーサーカーは、事ここに至ってなお、守るべき主君の下へと馳せ参じられずにいた。

 巨人は獰猛な眼を湛えたまま、何処かへと姿を消した黒い騎士を窺う。

 姿を眩ませた時点でバーサーカーにとって黒い騎士は倒すべき対象ではない。あくまで彼のサーヴァントの命題は主君を守る事にある。一時とはいえ敵前から逃げ出したのなら、全力疾走で以って城へと帰還するべきなのだ。

 だというのに、鈍色の巨人は敵に一切の背を見せない。理性ではない本能が警告する危機感。この敵に、一瞬でも隙を見せれば殺られると──

 主の命を慮るのなら、今この場で、あの敵は駆逐しなければならない。

 バーサーカーは黒い騎士を、獣並の嗅覚と研ぎ澄まされた感覚で探り当てる。探り当てた空間目掛けて力任せに振るわれる豪腕。枯れ木もろとも土塊を吹き飛ばし、一瞬早く離脱した黒い騎士が急加速で接近してくる。

 反動などないように再度振るわれるバーサーカーの斧剣。迫り来る黒い斬刃と弾け合い極大の火花を散らす。斬り返しで叩き込もうとした斬撃を、騎士はその小柄な体躯を活かし離脱で以って回避する。

 飛沫となって跳ね上がる灰色の土の中、好機と見た黒い騎士は滑り込むようにバーサーカーの間合いの内側へ入り込み──渾身の斬り上げを見舞った。

 盛大な血煙を上げてバーサーカーは戦慄いた。ゼロ距離からの一撃は、確実にバーサーカーの命を零した。

 断末魔の悲鳴を聴き、黒い騎士は携えた剣を僅かに下げた。あるいはこの一瞬の勝利の確信が──最大の油断だったのだろう。

「…………っな!?」

 猛々しい叫び声を空に上げながら、死していく身をなお動かしてバーサーカーは腕を振るう。そんな余力など残さず殺した仇敵が見せた凶行……騎士が最小限とはいえ反応できたのは奇跡でなければ天性の超抜能力によるものだ。

「ぐっ……がッ……っ!」

 立てた剣に左腕を十字に添えただけの防御行動。盾と呼ぶには足りないそれを、巨人は無きものとして吹き飛ばした。
 宙を疾走した騎士は居並ぶ木々を圧し折り、地を滑ってなお止まらず、ようやく一際大きな巨木に反動を塞き止められた。

 ────しくじった。

 ごぽりと赤い血を吐きながら、内心で悪態を衝く。殺してなお死なぬ存在。今回のバーサーカーの能力とはまさにその類のものであると理解した。
 いや、気付くのが遅すぎる。あの一撃を防げただけでも僥倖だが、受けたダメージは余りに大きい。自然治癒は働いていても、完治までには早くとも一分。そんな猶予を与えてくれる相手では、ない。

 疾風の如く襲い来る巨人を視界に収めながら、黒い騎士は剣を支えに立ち上がる。肋骨の数本は持っていかれたが、幸いにしてこの身はサーヴァント。受肉を果たそうとも根幹までは変えられない。
 まだ動く。まだやれる。一度で殺せぬというのなら、死ぬまで殺し尽くしてやろう。こんなところで諦めるには、我が大望はなお尊い。

 このような辺境の地での戦に身を投じてまで願った切なる祈り。十年前に裏切られた悲願を、今度こそ成し遂げる。もう邪魔をする存在(マスター)はいない。この身一つで残る全てのサーヴァントを殲滅し、今一度聖杯へと至るのだ。

「だからっ……!」

 ……邪魔をするな!

 手にした剣に収束する魔力の渦。吹き荒れる風は色を失った金糸の髪を揺らし、大気までをもざわつかせる。高く振り上げた剣は黒く染め上げられ、闇色の光を放出する。
 黒い騎士の行動が齎す結果に感づいたのか、バーサーカーが最速よりなお加速して迫り来る。絶叫を響かせて狂える英雄が牙を擡げる。

 いいだろう、受けて立つ。この一撃で以って、その命の全てを散らし上げる。

 収束し、膨張していく黒い光。漆黒のフレアと化した刀身から溢れ出る極光は全てを消し飛ばす最強の幻想。
 人々の想いを束ね、人々の意思によって形作られた究極の剣。美しいという形容すら穢れとなる尊き聖剣が、唯一つの夢を胸に抱いた少女の感情さえも飲み込んで爆発する。

 祖国を救うという祈り。誰しもに否定され、間違っていると言われても。従えた家臣に裏切られようとも。戦うと決めた。守ると決めた。覚悟を以って、あの選定の剣を引き抜いたのだ。

 たとえ嘲られようと、呪いの言葉を吐き捨てられようと、後の世に非難を浴びせられようとも。救済こそが全て。滅びを迎えた我が祖国を救う為に、無念のうちに死んでいった者達に報いる為に……!

「ウォォォォォォォォォォォォ……!」

 少女はその手に剣を執った。悲願を果たすまで、彼女の歩みは止められない。






胸に抱いた理想/Waltz V




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 もうもうと猛る炎を向こうに、久方振りに邂逅を果たした騎士と少女は対面する。サーヴァントに有るまじき不忠を行い、マスターの元を離れた筈の騎士が、自ら姿を見せた。あまつさえ、主の窮地を救ったのだ。

「アレと対峙するのならば完膚なきまでに消し去らなければ意味がない。今は未だ完全ではないが為ならではの処方だが」

 アーチャーは手にしていた黒檀の弓を消失させてそう嘯いた。脅威は去ったと見ての行動だろう。
 そんなアーチャーを見つめる凛の表情は、言いようもなかった。怒鳴ればいいのか、感謝すればいいのか、喜べばいいのか……自らの感情の行き場をなくしてしまったように半ば呆然としていた。

「先に言っておくが。君を助けたのはついでに過ぎん。私の用は、この先にある」

 その一言が、凛の意識を引っ張り起こした。

「……貴方はまだ、衛宮くんを付け狙うのね」

「…………」

 凛は既に、全てを了解していた。一時的に去ったとはいえ、彼女らの繋がりは断たれていない。アーチャーのいなくなった間にも、凛は夢を見続けた。或る騎士の辿った軌跡を追想し続けた。
 悲しい記憶。虚しい想い出。掲げた大望を終ぞ叶える事無く、自ら世界の奴隷となった不世出の英雄。その先が、生前叶わなかったユメを果たせる場所だと信じ、全てを差し出しても結局何一つ得られなかった果ての姿。

 ……いや。得たものならばある。酷く歪な答え。怨嗟と憎悪に染まった復讐心。自らの否定という、この上ない八つ当たり。

 もう成ってしまったモノは戻らない。そう知ってなお、一縷の希望に縋りつく磨耗した心を携えて。目の前の騎士は──再び現世に舞い戻った。

 別にその行いを否定する気は凛にはない。したければすればいい。当事者達の問題だ。誰かの報復に付き合ってやるほど暇じゃない。

 ただその前に、一個の英霊である前に、アーチャーは遠坂凛のサーヴァントなのだ。彼女の目的は聖杯の奪取。その悲願を達するまでは、この手に赤い令呪がある限りは、貴方は私に従う義務がある。

 こうして目の前に現れたのが運の尽きだ。掲げた右手に燦然と輝く二画の令呪。その一画を消費してでも、屈服させる……

「いや、状況が変わった。今の私の目的は、衛宮士郎ではない」

 そう思った矢先にぶつけられた言葉に、凛は困惑の声を漏らす他になかった。

 だってそうだろう。衛宮士郎を殺す為だけに、否定する為だけにこの男は凛の召喚に応じたのだ。聖杯になど興味はなく、自らの手であの少年を惨殺する為だけに幽世より舞い戻ったのだ。それが、状況が変わった……?

「どういうことよ……?」

「ようやく全てが繋がった。私の記憶を垣間見た君が知っているかどうかは知らないが、この聖杯戦争は私の知るそれとは大きなズレが生じている」

 言ってアーチャーが視線を傾けた先にいるのはセイバーのサーヴァント。消耗が激しいのか、膝をついたまま静かにアーチャーを見据えてくる、紅玉の瞳。

「フン、まさか貴様がそのような姿で、しかもあの男に召喚されるなどとは、全く想像もしていなかったよ──英雄王」

「……いつから気が付いていた?」

「違和感は初めからあった。衛宮士郎が喚べるサーヴァントは唯一人しか存在しない。半人前が、しかも不完全な召喚陣を用いての強制召喚。
 しかしその触媒となる上で最上級のものを持っていたが為に、あの男とあの少女の出逢いは必然の筈だった」

 言外にアーチャーは謳う。オマエは本来この場に存在していいサーヴァントではない。本来あるべき聖杯戦争に喚ばれるべきは全く別のサーヴァントであった筈だと。

「まあ、君の正体に気が付いたのはごく最近の事だ。教会墓地での一戦から胸につっかえていたものが、あの男を目視してようやく確信に至った」

 ああ、なるほど。とセイバーは思った。つまり、この赤い騎士はセイバーである英雄王を知らないが、アーチャーである、本来あるべき英雄王の方は知っていたのだ。両者の相違と共通項。どちらかを知る者ならば、思い至ったところで不思議はない。

「そう、本来ならば衛宮士郎はサーヴァントを召喚出来なかった筈だ。ズレの元である彼女が、今なお独力で現界している以上は」

 発端があるとすれば十年前。衛宮切嗣が令呪を以って騎士王(セイバー)に聖杯の破壊を命じて終局を迎える筈だった戦いを、何処かでボタンを掛け違い、今の状況を生んでいる。真相を知るのは当事者達だけであろう。

 そしてあってはならない存在がもう一つ。力も縁もなく、触媒すら適していない状態で衛宮士郎の召喚は成功を見る筈がない。あの夜、アーチャーに土蔵に追い詰められた時点で衛宮士郎の命運は尽きていた筈だった。

「…………」

 だというのに、この少年は現れた。理由を知る術などアーチャーには存在しない。が、こうして喚ばれ、契約上は今なおあの男と繋がっているこの黄金の少年こそが、あってはならない規格外。

 イレギュラー中のイレギュラー。此度の戦に参戦する全ての者の中で、一際華美な異彩を放つ異端存在──

「……私にしてみれば、今では貴様の存在さえも憂慮に値しない。何故喚ばれたのか、何故応えたのか……その問いを見つけ出すのは、私ではない」

「じゃあ貴方は、一体何を目指すというの?」

 唯一つの願望。切望した自己の否定さえをも上回る、この男の磨耗しきった心に残された未練。それは……

「私はね、凛。生前多くのものを取り零してきた。掬い上げたと思った掌の隙間から、多くの命を零してきたんだ」

 誰かの為に。誰もが救われますように。そんな……人が一度は夢見る無謀なユメを、この男は信じ続けて実践し続けてきた。
 けれどその過程で得られたのは現実という無慈悲な壁。全てを救うことなんて出来る筈がない。幾つかの命を犠牲にするからこそ救いがあると、目にしたくない現実をずっと見せ付けられてきた。

 何度も。何度も。何度も。何度も。それこそ網膜に焼き付くくらいに見せられた。ただ誰もが笑っていて欲しいだけなのに。ただ悲しみに沈む涙が、一つでも多く減ればいいと思い続けてきただけなのに。

 現実は無慈悲に、無感情に男の心の隙間を衝いてくる。

「だから私は選択したのだ。多くを救う為に僅かばかりには犠牲になって貰う。全てを救えないのなら、せめて多くの命が救われるようにと、絶望の中で泣き叫ぶ誰かを殺し続けてきた」

 人の命に貴賎などない。同胞も、友人も恋人も。その他大勢の見知らぬ他人と比したところで、同じ一つの命に変わりはない。
 だから秤にかけて殺してきた。たくさんの見知らぬ誰かを救う為に、良く見知った誰かを犠牲にする。傾いた天秤から多くの命を掬い上げる為に、もう片方の軽い皿の命には消えて貰った。

 きっと、とても大切な誰かを犠牲にした。今ではもう、思い返すことさえ出来ないが。

「そして辿り着いたのがこの姿だ。より多くの誰かを救えると信じ、世界の奴隷となった名も無き英雄の成れの果て」

 果ての世界で、男はより多くの死を見せ付けられた。守護者となった男は人の命など救わない。ただ全てが終わった後で、その後始末を押し付けられるだけだった。
 泣いて助けを請う誰かの首を刎ね飛ばし、すすり泣く幼子を惨殺する。自滅していく人間を殺して殺して殺し尽くす。
 後はその、繰り返し。延々と。延々と。永劫にも感じられた地獄の中で、男は人の死を見続けた。見せ付けられた。

 幾度地獄に立ったのかは定かではない。時間の感覚などない座の果てで、そんな事を考える事すら馬鹿馬鹿しい。
 故にその存在は守護者とは名ばかりの掃除屋だ。散らかった塵を片付ける為に、永遠の地獄を渡り歩く……

「そんな地獄を見せ付けられて、正気など保ち続けられる筈もないだろう? 成したかった事の真逆の行為を延々とさせられ続け、見せられ続け……そんなものに耐えられる程、オレの心は強くない」

 熱く燃え滾る血潮を糧に回る命の歯車。けれど、その心は繊細な硝子だった。理想に向かって邁進しなければならないという想いの中で、いつも何処かで、否定をし続ける自分が居た。

 もういいじゃないか、良くやった。走り続けてきたんだ、だからもう、立ち止まったっていいだろう? 誰もそれを咎めなどしない。
 人の千倍、万倍の努力を重ねて辿り着いた凡人の極地。先の見えない山の頂で、そんな暗い囁きを聞いた。

 男はそれに否を唱え、ここまで走り続けてきた。硝子の心をすり減らし、在りし日に夢見たものが何だったのかさえ、失念してでさえ。

「だけど今、ようやく思い出した。オレの救いたかったもの。もしあの時、あの少女に救いを与えられていれば、この手を差し伸べられていたのなら、こんな結末は招かなかったのだと」

 真円を描いた月が見下ろす静かな夜。暗い土蔵の中に差し込む月明かり。粒子のように鮮やかな光が溢れる中で、一際美しく見えた立ち姿。
 紺碧の装束と、銀色の甲冑。透き通る金糸の髪と聖緑の瞳に見下ろされ、少年と少女は運命に出逢った。

 忘れもしない、ただ一つの奇跡。磨耗し失われた多くの記憶の中で、今なお胸に焼き付いて離れない尊いもの。この世の何よりも美しいと感じた、あの夜の出来事をアーチャーは胸の奥底に大切に、大切に仕舞い込んでいた。

「全てが違ってしまったこの世界で、あの少女に手を差し伸べる行為が正しいのかどうかは判らない。だけど、あの時出来なかった未練を果たせるのならば……あんな、姿を見せ続けられるくらいなら」

 ────オレは、永劫の奴隷でも構わない。

 赤い騎士の下した決断。最後の最後まで、自分自身ではなく誰かの為を謳い上げたその姿は正しく──あの少年の成長した姿に違いなかった。





/2


「アーチャー……貴方は……」

 どんな顔をして向き合えばいいのか判らなかった。アーチャーの決断は凛とは決して相容れない。自らでも、凛でもなく、その知らない少女の為に剣を執ると言ったアーチャーの征く道は、二人をもう二度と交わらせない。

 その意味するところは、遠坂凛の聖杯戦争に終わりを告げるものでしかない。

 こんな中途半端で終わる戦いは決して認めていいものではない。十年もの歳月を苦難と共に過ごしてきたのは何の為だ。父に託された想いは何だったのか。これまでの研鑽は、こんなところで手離してもいいものだったのか?

 手には未だ赤い輝き。絶対遵守の命令権。この楔からは、サーヴァントである限り決して逃れられはしない……

「────判ったわ。好きになさい」

 だけど少女は、自らの内に沸いた疑問に否と答えた。

「凛……。いいのか、それで。君には私を縛る権利がある。私には君に従う義務がある。君の家系の悲願は聖杯の奪取だろう。それを、諦めてしまっていいのか?」

「良くない。良くないわよ、ええ。でも間違えないで。わたしの、遠坂の目指すものは聖杯なんかじゃない。その先にあるものよ。聖杯はその道へと至る為の手段に過ぎないの。だから絶対に必要不可欠なものってわけじゃない」

「それでも、だ。その目指したものへと至れる道を手離していいのかと聞いている」

「ああ、もうっ!」

 ずんずんと大股にアーチャーへと歩み寄って、凛はずいっと下からアーチャーの目を覗き込む。灰色の瞳。何も映していない瞳。でも今は、その枯れた瞳に火が灯っている。強い意志が宿っている。

「いい、アンタはわたしのサーヴァント。マスターであるわたしの命令は絶対よ。わたしがいいって言ったらいいの。アンタだってそうしたいんでしょう?」

 鼻先に指を衝き付けられてアーチャーは一歩たじろいだ。こうなってはもう恐らく何を言っても聞いてくれない。経験から知っている。

「もう一度だけ聞くが……本当にいいんだな?」

「ええ。だけど約束しなさい。その人をちゃんと救うって。もう未練なんて残して化けて出ないように、ちゃんと全てに決着を着けて来るって」

 凛は聖杯戦争の脱落を差し出すのだ、それで失敗しましたでは許される筈もない。やるのなら果たして来いと。全てを投げ打ってでも手を差し伸べて来いと。

「──────」

 ああ、そうだった。この少女は、いつだってこうだった。華やかに、盛大に。自らの信を決して曲げない、強い人だったのだと。
 ならば自分も、この少女に恥じない自分で在り続けないと。

 とん、とアーチャーの胸に手を当てられた。甲冑越しにでも感じる温かなもの。向けられた言葉と、添えられた掌は、この上ない──激励の証だった。

 だから、

「────ありがとう、遠坂」

 最高の相棒に、最高の笑顔で応えた。







 そうして、別れの時間が来る。遠くから響いていた剣戟の音と、つい先程垣間見た光の嵐はさほど時間が残されていないのだと告げていた。

 背を向ける赤い騎士から凛は距離を取る。もうかける言葉など無い。さよならも、ありがとうも全部詰め込んだ。後はもう、見送ることしか出来ない。

「アーチャー」

 その去り際に、これまで沈黙を保ってきたセイバーが口を開いた。傾けられる視線。立ち上がったセイバーの赤い双眸と目があった。

「アーチャー、一つだけ教えて欲しい。貴方の抱いたものは愚昧なる者が見る理想(ユメ)か、それとも儚くも尊い者が抱く祈り(ユメ)なのか」

「…………」

 互いが互いの視線をぶつけ合ったまま流れる時間。十秒足らずの交錯の後、アーチャーはふっと笑いを零した。

「……それを私に聞いたところで意味はない。私はもう、その抱いたものに背を向けたのだから。どうしても問い質したいと言うのなら、今なおそれを胸に抱き続けるあの男に聞けばいい。
 あるいは、貴様が奴に召喚された意味があるとするのなら、その辺りにあるのかもしれんがな」

 それ以上の言葉はなく、風に透けるように消えていく赤い後姿。その姿を目に焼き付けるように、刻み込むように凛は長い時間凝視していた。
 胸の前で右手の甲を握り締めた左手。二人を繋ぐ絆を包み込むように、強く、強く、そしてしっかりと握り締めていた。

 ──ごめんなさい、お父さま。わたしは、言い付けを守れませんでした。

 心の中で小さく呟いた。聖杯への道を自ら断ち切ったこの行為は、魔術師としては失格だろう。でも、遠坂凛としては間違いではないと言い切れる。
 そうだ、別にこれで理への道が閉ざされたわけじゃない。また別の道を探し、この身一つで至って見せよう。幸いにも大師父の残した試練もある。探せば幾らでもやりようはあるだろう。

 そう、わたしは遠坂凛。こんなところで挫ける心なんて持ち合わせていない。

「終わっちゃったか……。全く、面倒なサーヴァントを引き当てたもんだわ」

 それでも、感慨くらいはある。でもそれ以上に清々しい。だから空に向かってこの言葉を贈ろう。

「頑張りなさい」

 信じたものの為に。守ると誓ったものの為に。貫くと心に決めたものの為に……

「それで、これからどうするつもりですか?」

 振り仰いだ先には騎士の英霊の姿。先程までの痛々しい姿ではなく、あるべき活力を取り戻した姿で。

「そういう貴方こそ……なに、なんで回復してるわけ?」

「さあ、それは僕にも。貴女とアーチャーが話をしている間に唐突に、流れ込んでくる魔力が増えたんです。それも、召喚からこれまでのように微々たるものじゃない、僕が僕である為に必要充分な魔力量で」

 確かに、以前よりもセイバーに漲る魔力が増えている感がある。今ならば制限などなく戦い抜けるとでも言うように。

「……なら、アインツベルンのマスターであるあの子が何かしたんでしょうね。士郎にはそんな能力はないし。出来るとすればイリヤスフィールしかいない」

 もう少し早ければあの黒いライダーに苦戦することもなかったのだが……と呟いたところで後の祭りだった。しかし何れにせよこれで目的は達した。この結果が相手の意図したものかどうかは定かではないが、凛達が森に踏み込んだ理由が消えたのだ。

「それで、話を戻しますけど。アーチャーのマスター、貴女はもうこの戦いから降りるのですか?」

 サーヴァントの自由を許可した時点で続行できる問題ではなくなっている。セイバーと仮初の契約を結んだのはアーチャーが戻るまでの繋ぎであったし、セイバーにしてみても充分な魔力が得られるのならば凛と組む理由がなくなっている。

 ギアスによって結ばれた二人の契約……利害の一致が果たせないのであれば、仮初の契約もまた用を成さなくなる。

「降りないわよ、少なくとも今はまだ」

 だからこそ、セイバーは凛の発言を訝しんだ。

「確かに聖杯への到達権は失ったようなものだけど、まだ全部が終わったわけじゃない。綺礼に一矢報いていないし、行方の知れない桜も気に掛かる。
 遠坂凛のマスターとしての聖杯戦争は終わったけれど、わたし自身の戦いはまだ続いているもの」

 戦う意志。逃げは無い。誰に強制されるでもなく無謀極まる戦いに身を投じようとしている少女。綺礼と桜。どちらを対象としようとも、避けては通れない障害として立ちはだかる男がいる。

 英雄王。

 前回の戦いから生存する彼のサーヴァントの目的は依然として知れないが、綺礼の周りにいることだけは確かだ。かち合う可能性は充分にある。

「ならば僕も、貴女の戦いに付き合うとしましょう」

 だから、その言葉こそがおかしなものだった。

「一応聞くけど、どうして? わたし達にはもう一致する利害が無い。契約の履行が成されないのなら、私に付き従う理由なんてないと思うけど」

「それこそどうでもいい理由でしょう。貴女に付き合うのは僕の意思だ。僕は見極めなければならない。その為には、一人で動くよりも貴女の傍にいる方が達しやすいと踏んだだけです」

 それに。と前置いてセイバーは続けた。

「少なくとも、一番最後に結んだ契約と、先程の宝石の借りは返さないといけないですからね」

 朗らかに笑う。戦士の見せる笑みではない、年相応の柔らかな笑みだった。

「そう。じゃあもう少しだけ付き合ってくれる? 互いの目的の為に」

「ええ。目指すものは違うけれど、目指す場所が同じであるのなら」

 そして。あの少年もまたその場所へと必ず辿り着く。巡り会う必然が呼ぶもの。その時こそが答えを出す刻限。

 あの夜──未熟な魔術師に喚ばれた意味を、捜し求めた解を導く為に。相克する想いを胸に、黄金の少年は一足早く、その場所へと踏み出した。













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