剣の鎖 - Chain of Memories - 第四十六話









 士郎とイリヤスフィールがその場所に駆けつけた時、戦いは既に終局を目指して走り出していた。

 風もかくやという速度で森を駆け抜けるバーサーカー。狂気に彩られた赤い瞳は敵と定めた少女しか映していない。
 対する黒い騎士はしっかりと大地を足で踏み締め、大きく振り上げた剣を振り下ろそうしている瞬間だった。

 秒の間に衝突を見るであろう両者の結末より、士郎の目を奪ったのは騎士の持つ剣。闇に彩られてなお清廉な輝きを放つ彼の剣に、どくんと心臓が跳ね上がる。
 衛宮士郎の知らない何か──裡に存在する何かが共鳴している。血を熱く燃やし、神経が研ぎ澄まされていく。

 そんな中、傍らにあった少女が更に一歩を踏み出して声を荒げた。

「やだ……バーサーカー!!」

 引き摺られていた意識が鎌首を擡げる。これより起こる未来予想図を既に垣間見てしまったかのように、イリヤスフィールの叫びには深い悲しみが込められていた。

 痛烈な叫びに、鈍い色の巨人が反応する。だが、遅い。黒い騎士が手にした剣を振り下ろす。極光を帯びた剣が目の前の敵を殲滅するべく、稲妻を斬る速さで降り抜かれる剣の前にバーサーカーの一撃は遠く届かない。

 その、刹那すら遠い瞬間の狭間でバーサーカーは聞いたのだ。主の叫びを。主の声を。自らにこれから降り注ぐ光の彼方に、失われる命を見て。

 消える。死ぬ。あのか弱き少女を守るべく喚び出された最強の狂戦士が、ただの一撃の前に平伏し消滅の憂き目を見る。

 本当に? あの少女を残したままで? 狂える巨人の制御に血を流しながら、大きなこの手をとった小さな掌を覚えている。触れ合った温もりを覚えている。誰よりも信頼を寄せてくれた少女の心を知っている。

 それが──こんなところで終わる?

 否。

 認めない。そんな結末は認めない。この身はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンを守る為だけに存在するサーヴァント。あの少女を残したまま逝くなど──あってはならないッ!

「────■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!!」

 巨人が吼える。今踏み締めている大地さえ吹き飛ばす絶叫を轟かせて。

 それでも事実は覆られない。振り下ろされる剣。黒い光が尾を引きながら、たった一人のサーヴァントを殺す為に最強の暴力を振るう。バーサーカーには迎撃する術も、回避する時間もない。どれだけ吼えようと、狂おうとも、変えられない運命がある。

 だが。

 そんな運命にこそ否を唱えよう。決まり切った結末など求めていない。ただこの一時、あのサーヴァントを凌駕する力があればいい。あの少女を守り抜く力が欲しい。

 でなければ、あの少女こそが悲運へと身を投げ出されてしまう。

 否。否。否。否。否。否。否。断じて否ッ────!

 そんなものを、このヘラクレスが許容する筈など有り得ない。力を。在りし日の力を。本来持ち得る奇跡を具現化する宝をこの手に。狂戦士のクラスを超越し、英雄ヘラクレスの本領を、今こそこの手に──!

「────なっ!?」

 その光景こそが、奇跡だった。狂戦士というクラスに据えられ、理性を奪われ、数多の宝具さえも剥奪されたヘラクレスが今手にしているその武器こそ、彼の英雄が愛用した最強の武器に他ならない。

 九つ首のヒュドラを仕留めた宝具の中の宝具。英雄ヘラクレスが最も信頼を寄せる宝具を今──有り得ぬ奇跡により引き寄せた。
 全てはあの少女を守る為。全てはあの少女の涙する様など見たくないが為。全ては、この敵を駆逐する為に。

「────“射殺す百頭(ナインライブズ)”────」

 黒い極光が振り抜かれるのと、九つの矢が放たれたのは全くの同時だった。

 一矢で以って放たれた九つの矢。ほぼ同時に放たれた九矢は竜を模した光だった。さながら、討ち取ったヒュドラの具現であるかのように。
 大波となって押し寄せる黒い光に喰らいつく光の竜。暗黒のフレアに対する眩い光竜。両者の鬩ぎ合いは、全くの互角だった。

「ぐっ……バカな。そんなものが、有り得るものか!」

 そう、今目の前の光景こそが有り得ない。完全に狂化しながらも、まるで理性があるかのように宝具を使用したバーサーカーも、ステータスにさえ記載されていない宝具を召喚した事でさえも、有り得てはいけない光景だ。
 それでも、目の前にあるのは現実だ。理性ではなく、本能でもない。強大なまでの“我”が生んだ煌き。全ては偏に守るべき者の為に。

 だが。それは黒い騎士とて同じ。守るべきものがある。信じるべきものがある。貫くべきものがある。そんな偶然が生んだ奇跡などで、駆逐などされてやらない──!

「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 絶叫を以って互角にある白い光を押し潰さんと力を込める。黒く染まった光こそは彼女の心の具現。ただ一途に求め欲した救済を望んだが為に、世界を覆う悪意に犯されてなお抱き続けた一縷の希望。
 少女は決して屈しない。血塗れになろうとも、泥を啜ることになろうとも。全てを甘んじて受け入れ、目指した頂へと辿り着く……

「バァァサァァカァァァァァァァァァ……!」

 少女の絶叫と共に鬩ぎ合っていた光と闇が炸裂する。両者の間にかつてない規模の爆発が生まれ、白とも黒ともつかぬ猛煙を生み出した。

「けほっ、ごほっ。一体、どうなって……」

 士郎達のいた場所まで広がる煙。視界を奪い取られ、これではもう、援護射撃などとてもではないが無理だ。いや、英霊の戦の中でも最大規模に値する両者の戦いへの介入など、初めから不可能だった。

「ダメ、バーサーカー! 避けて!」

 見えない視界の先で少女が叫ぶ。煙る視界の中を疾る風。全身に纏った魔力の風で視界を確保し、未だ存命する巨人へと肉薄する黒い騎士。
 イリヤスフィールの声と第六感でバーサーカーもまた脅威の接近を知り、跳躍するように後退する。同時に、手にした弓の弦を引き再度放たれるヒュドラの矢。

 鎌首を擡げる九体の光の竜。迫る黒い騎士を喰らい尽くそうと巨大な口を開けて中空を疾走する。だが、数瞬の内に自らの肉が喰い千切られると知ってなお、騎士の瞳は怨敵しか見ていなかった。

「…………ガ、ァア!」

 殺到する竜の群れ。腕に、足に、脚に、胴に喰らい付く凶暴な光。甲冑が砕け、ぶちぶちと肉が裂けていく音がする。滴り落ちる血が軌跡を描いていく。それでもなお──黒い騎士の疾走は止まらない。

「………を、…………っ」

 バーサーカーが手にしたものが奇跡であるのなら、今この光景さえも奇跡に等しい。最大級の宝具の一撃をその身に喰らいながら、なお彼女を衝き動かす強迫観念。肉体を凌駕する精神性。絶望よりなお昏く、けれど貴きユメを抱くが為。

「邪魔を、……」

 血を吐きながら止まらない足。最大の一撃を放った余波で、硬直にあるバーサーカー目掛けて振り上げられる剣。誰に向かうでもなく口を出る怨嗟の声。さながら慟哭にも値する悲しき渇望が、死に体に近づく彼女を踏み出される最大の要因。

 ────全ては祖国の為に。その一念こそが、数多を凌駕する信念の剣。

「私の邪魔を、するなァァァァ…………!」

 再度振り下ろされた極光の剣。イリヤスフィールの悲痛な叫びでさえ、あの少女には届かない。周りにあるもの全てを無視してでも邁進していく彼女の体現のように、生まれた黒い光は射線上にあるあらゆるものを飲み込んでいく。

「ハ、……ハァ、……ぁ、っく……!」

 ようやく膝を屈した黒い騎士は、剣を支えになんとか倒れ伏すのだけは免れた。光が去った後、彼女の正面、視線の先には何もなかった。
 立ち並んでいた枯れた木々。盛り上がっていた灰色の土。微かにではあるがあった筈の生物の息遣い。全てが消え去り、虚空だけが開けている。

 そして──狂える戦士の姿さえも。

「そん、な。バーサーカー……死んじゃったの……?」

 十二の命をも消し去った大いなる聖剣の煌き。バーサーカーの強さを知るイリヤスフィールだからこそ、その現実は受け入れ難いものだった。
 あれだけの魔力放出によってなお、周囲の温度が冷えていく。炎を思わせる一撃でありながら、彼女の振り抜いた剣が巻き起こしたのは絶対零度の焔。凍れる炎が、辺りを覆い尽くしていた。

「…………ァ、……っ」

 騎士が立ち上がる。夥しい量の血を甲冑に付着させながら、口元から血を零しながらも立ち上がる。ぐるりと、士郎とイリヤスフィールを仰ぎ見て、頓着も無く大胆に間合いを詰めてきた。

 動けない。イリヤスフィールは喪失から。士郎は血濡れの彼女から視線を外せずに。ぺたりと座り込んだイリヤスフィールを庇うように、どうにか身体を動かした士郎は降り注ぐ見えない視線を仰ぎ見た。

「さあ、イリヤスフィール。私と共に来て頂きます」

 虚空を睨んだまま茫然自失とするイリヤスフィールの手を取る黒い騎士。

「やめろ!」

 差し出された手を遮る士郎の身体。睨む。見下ろされる視線を。強い意志を宿す仮面の奥に。

「邪魔をしないで欲しい。私が求めるのはイリヤスフィールの身柄だけだ。立ち塞がるというのなら、貴方もこの手にかけなければならない」

 黒い騎士の殺意は本物だ。これ以上の邪魔を企てるのなら容赦はしないと。たった今消し飛ばしたバーサーカーと同じ末路を辿る事になるのだと。
 それでも、士郎は揺るがない。歯向かったところで及ばない。殴りかかっても傷一つ負わせられやしない。そう知ってなお、士郎もまた誓いを胸に宿すが為に、この震える少女の肩を抱いた。

「…………」

 その様を見下ろす冷やかな視線。黒い騎士の内心は穏やかならざるものだった。何故誰も彼もが邪魔をする。何故諦め屈しない。
 雨に打たれた子犬のように見上げる視線に、騎士は苛立ちを隠せない。

 それは怒りなどではなく、己の鏡を見ているようだったからだ。同じなのだ、自分もこの男も。信じると誓った何かを守り通す為に一生懸命なだけなのだ。致命的に食い違うのはその何かだけで、根幹に在るものは同じものだ。

 そして、彼は視線に敵意を乗せるだけで、手を振り上げては来なかった。一撃でいい。一振りでいいからこの身に殴打を繰り出してくれれば、反射として斬り捨てられるのに。

 黒く染まったとはいえ、彼女は騎士を体現する者。無抵抗な人間を惨殺するような性根を持ち合わせてはいなかった。

「…………」

 一つ溜め息を零して思考が巡る。仕方が無い。このやり方は幾分卑怯だが、なお残っている騎士の精神に反する残虐非道を行うよりかはマシだろう。

「イリヤスフィール」

 騎士の声にも少女は何も応えない。彼女の中でバーサーカーという存在が、いかに大きなものであったかを物語っていた。
 それでもこの少女の身柄は必要不可欠。是が非でも一緒に来て貰わなければならない。

「イリヤスフィール。私はどうしても聖杯に乞わねばならない祈りがある。その為に、貴女の力を貸して欲しい」

 それでも少女は応えない。ならば。

「私は、聖杯を手中にしなければならない。失ってきた者達の為にも。背いてきた者達の為にも。そして──アイリスフィールの為にも」

「……え?」

 騎士の口にした名前にイリヤスフィールが反応を示した。見上げる視線。鈍い光の降り注ぐ荒野を背に、黒い騎士が立っている。
 その時、彼女の目元を覆っていたヘルムが音を立てて崩れ落ちた。恐らくはバーサーカーとの戦闘時に傷をつけられていたのだろう。

 破砕したヘルムの奥にあった瞳が降り注ぐ。薄い黄金のような色には、確固たる意志の炎が踊っている。崩せない者の意志。強靭な鋼に変えて、何人をも寄せ付けぬ、信念の焔の煌き。

 血に濡れてなお美しい美貌の少女。その表情を見て──イリヤスフィールはああ、と感嘆の息を零した。

「そう、そういう事なのね……」

 この瞬間、イリヤスフィールは全てを理解した。常冬の森より十年前の第四次聖杯戦争に赴いた二人の男女と一人の騎士。魔術師殺しの異名を取る衛宮切嗣をマスターに、その妻にしてアインツベルンの聖杯を頂くアイリスフィール。

 そしてもう一人──最優の名を冠するクラスに座した騎士なる者の王。

 昔日の最終決戦。悲願とした聖杯を目の前にしてマスターに裏切られた、いと気高い幻想を手に執る尊き王。赤き竜を背に、十に及ぶ戦場を不敗で駆け抜けた覇者の名は。

「貴女があのアーサー王。いえ、アルトリア・ペンドラゴン────」

 円卓の騎士を束ねた、王の中の王。ブリテンに君臨した絶対の英雄だった。






騎士王/Waltz VI




/1


 バゼット・フラガ・マクレミッツによる敵戦力の分析結果──基礎ステータスではランサーと比したところで然程の違いは見られない。通常戦闘の観点から鑑みれば、速力で勝るランサーにこそ分が上がる。

 戦術面からの考察を行うならば、比べるにさえ値しない。数多の戦場を潜り抜けてきたランサーの持つ戦士特有の勘の良さ、状況判断能力、思考の瞬発力。どれをとっても、あの男を上回る。

 それでなおこの現状──未だに英雄王を名乗った黄金の男に一矢報いれずにいるのは、偏に奴の持つ宝具の力に他ならない。

 自身は手を下さず歪みより現れる有象無象の武器を矢に見立てて射出する。ただそれだけの能力であるのに、突破出来ない。
 その原因として考えられるのは繰り出される武器の一つ一つが必殺に値する威力を秘めた宝具である点。そして放たれる矢に制限が見られない点が挙げられる。

 奴は正しく王であるのだ。チェスでもそうだが、王は然して強大な力を持っていない。王さえ倒せばチェックメイトだが、その前に立ちはだかる様々な能力を有する兵こそが本当の敵。

 迫る敵軍を蹴散らし、敵陣深くへと侵入しなければ、王の首級は奪えない。

 マスターとサーヴァントが行う戦闘は基本的に戦術に類するものである。万軍に匹敵する力を持とうとも、一個の個体である以上はその枠を抜け出せない。

 ──だが、この男だけは違う。

 英雄王の戦闘方法は戦術ではなく、戦略のそれだ。並み居る兵士を指揮し、敵を圧倒する戦い方……自身を王と仰ぐ無数の剣群を兵と見立てた、たった一人で軍略を展開出来るサーヴァント。

 なるほど、ならば土俵が違いすぎる。一個大隊相手に槍を持った一兵卒が立ち向かったところで敵う道理はない。そもそもの話として、この男に敵対するのならば、こちらも対軍の為の兵法を心得て然るべきだった。

 二人が階下に降りて既に三分。階上より検分した両者の力量と今こうして自らを窮地に晒してまで確かめたデータを元に、バゼットは結論を下した。

 ────この敵は、決して倒せない敵ではない。

 ただ、通常のマスターとサーヴァントを相手にするより幾分骨が折れる結果になるであろう。そうまでして今この敵を打倒しておくべきか否か。
 是非もない。元より挑まれた戦いから逃げるような性根は持ち合わせてはいない。挑まれたのなら正面から受けて立ち、完膚なきまでに屈服させる。

 その為の“戦術”も形を得た。仕掛けるのなら、今……!

「ランサー!」

 縦横無尽に駆け抜ける足を休める事無くその名を呼び、思念を送る。これより行う一挙手一投足を相手に悟られてはならない。

「──────」

 ランサーの返事は無い。無言を肯定としたバゼットは一旦エントランスを退き、階上に放り出していた礼装に手をかけた。
 フラガに連なるバゼットの魔力を込められ、周囲を浮遊するように旋回を始めた球体。作動を確認した後、バゼットは今一度戦場へと舞い降りた。

「フン、そろそろ何かやる気か? 如何せん我も飽きがきていたところだ。やるのならば早くやれ。でなければ、殺してしまうやもしれん!」

 展開される剣群が増加する。もはや霧雨にも似た降り方を始めた剣の全てを回避しきることなど不可能に近い。
 紙一重での回避を続けながら、肉を切らせながらも近づけずに疾走し続ける。

「オラァ! テメェの相手はこのオレだろうがッ!」

 ランサーが吼える。手にした朱槍を旋回させて作り出したルーンによる防護結界で差し向けられた全ての剣を叩き落し、一直線に英雄王目掛けて疾駆する。

 その無謀に王は冷やかに笑った。無策。ただ突撃するだけなどと、野生の猛獣にすら劣る下策だろう。それも仕方が無いことか。所詮は雑兵、主の命で馳せるしか能のない木偶ゆえに。

 王が手を翳し、三十に及ぶ剣をランサー目掛けて殺到させる。さあ、どう出るか。ランサーの足なら回避も不可能ではない。先の結界なら防げもしよう。だが、そこまでだ。その場より先へと踏み込む権利はオマエにはない。

「──第三のマスターが聖杯の誓約に従い、告げる」

「なに……っ!?」

 だからこそ、その声こそが予想の外。振り仰いだ先には拳を握り締めた女が一人。マスターが一人いる。
 腕部に灯る赤い輝きこそは絶対遵守の命令権。サーヴァントを束縛すると同時に、能力の底上げさえも可能にする聖杯より賜れた小さな奇跡。

「下郎……!」

 振り払った手に従い、バゼット目掛けて剣が飛来する。それをギリギリで回避せしめて願いを、祈りを奇跡に込めて吼え上げる。

 この瞬間こそ、英雄王が始めて見せた焦りの瞬間だった。まさしく一瞬の狼狽、令呪の力を知るが故の挙動だった。
 が、正しく一瞬で我を取り戻した王はランサーにこそ着目した。令呪が下せる命令はあくまでサーヴァントに関わるものに限定される。

 ランサーが疾る。三十の剣の半分を回避し、残り半分を左腕を犠牲にしながら敷いたルーンの守護によって叩き落す。
 疾走。疾駆。手にした朱槍に十全の力を込めて。決して突破できなかった防衛ラインを突き抜けて。

 それでも王は揺るがない。

 令呪の有効範囲と使用制限。マスター自身を強化することなど不可能だし、他の物体への干渉すらも出来ない。見るべきはランサー。どのような命令が下されようとも、サーヴァントの挙動にさえ注意すればいい。王の慧眼は、その瞬間を逃さない。

 だから、

「────ランサー、翔べ……!!」

 その命令が招く結果を予測しきる事など出来る筈もなかった。





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「アーサー王……だって?」

 士郎はイリヤスフィールの口にした名前を反芻した。ウーサー・ペンドラゴンの子にしてブリテン……現イギリスにおける最大級の英雄。選定の剣を抜いた瞬間から王として誕生した遍く騎士達の王。
 いつか蘇る王と称され、今なお熱狂と共に“彼”の築き上げた武勲は世に轟いている。この極東の辺境の地、日本でさえその名を知らぬ者は少ない。

 それが、この少女が騎士王? 何かの冗談ではないかと思った。けれど彼女は否定もしなければ肯定もせず、静かにこちらを見下ろすばかりだ。

 士郎の視線が彼女の手にする剣へと滑る。眩い光を放った剣。見る者を魅了する高潔さを持つ聖なる剣。あれが彼のエクスカリバーであるのなら。絶対的な勝利を約束された剣であるのなら、疑う余地など存在しなかった。

「イリヤスフィール。どうか私と共に」

 あくまでも穏やかに彼女は謳う。もう忘我していないイリヤスフィールはじっと金砂の髪の少女を見上げていた。

「イリヤ……?」

 士郎の腕の中を脱し、イリヤスフィールは立ち上がった。

「判ったわ、アルトリア。貴女に従いましょう」

「イリヤ!?」

 それが何を意味するのか判っているのか。その先に待つ運命を知っているのか、イリヤスフィールはもう戸惑いも無く差し出された騎士の手を取った。

「……懐かしいものですね。あの時も、私はアイリスフィールの手を取った」

 冬木へと降り立った直後の事、外の世界へと出たのは初めてだというアイリスフィールのエスコートを買って出たのを記憶している。
 はしゃぐでもなく、静かな道程ではあったが、彼女の咲かせた笑顔を覚えていた。

 そして、その笑顔を裂いたのも、己だと。

 後悔の念は尽きない。仮初のマスターであったとはいえ、アイリスフィールは騎士アルトリアの正真正銘のマスターだった。
 守ると剣に誓いながら果たせなかった無念。ならばせめて、彼女の悲願とした聖杯を手にする事で手向けとしたかった。

 ……その行為がたとえ、彼女の望まない結末を迎えたとしても。

「行きましょう、イリヤスフィール。少々遠い道のりだが、街道へと出れば自動車の一つでも捕まえますから」

 士郎は半ば呆然として彼女らのやり取りを見ていた。胸にあった温もりが離れていってようやく、士郎は張り上げる声を取り戻した。

「まっ────」

「────その手を離せ、セイバー」

 だというのに。上げようとした声を、別の方角から響いた声音が遮った。

「……アーチャー?」

 赤い外套に色を失った頭髪。憮然とした態度に、射抜くように鋭い瞳。紛う事の無い弓兵の立ち姿。衛宮士郎を斬り付け、遠坂凛を裏切ったアーチャーのサーヴァント。

 士郎の疑問の声などあの男には聞こえていない。立ち去ろうとするアルトリアとイリヤスフィールの前に立ちはだかり、決して通さぬと語っていた。

「サーヴァント……またか。まだ、私の邪魔をするのか」

 イリヤスフィールに下がっているよう促し、アルトリアは剣を執った。治癒が働いているのか、バーサーカーとの戦い直後よりは傷が修復されているようだが、全快しているようには見えない。

「セイバー、止めろ。君の望みは、この地の聖杯では叶わない」

 アーチャーは無手のまま、アルトリアは剣を執って対峙する。彼我の距離は十メートル程だろうか。

「いきなり現れたかと思えば、戯言を……。たかがサーヴァントに何が判る。見ていもしないものが、どうして貴様に判る」

「判るさ。見たからな、厭という程に見せ付けられた」

 目を伏せたアーチャーを訝しむアルトリア。

「この地の聖杯は奇跡なんてものを齎さない。生み出されるのは悪意だけだ。世界を覆い尽くす、人の悪意だけが零れ落ちる」

「何を、言っている……?」

「だから諦めてくれ、セイバー。君は良く戦った。国の為を想って戦い、民の為を想って戦った。もういいだろう、死してまで戦う必要など無い。誰も君を、責めはしない」

 アルトリアの胸中に沸いたのは疑念。突如として現れたアーチャーと呼ばれた男が言っている言葉が理解できない。
 願いが叶わない? 生まれるのは悪意だけ? 戦う事を──止めろ?

「何様だ、貴様。私の何を知っている。私の何が、貴様などに判る」

「判るとも。君は私の事など知らないだろうが、私は君の事を良く知っている」

 アルトリアの記憶にこんな男は存在しない。生前彼女に仕えた騎士の中に見た覚えなどないし、この現世ですら相見えた事さえもない。
 一方的にこちらを知るという人物。はっきり言ってしまえば、気味が悪い。

「剣を納めろ、セイバー。これより先へと歩んだところで、君が目にするのは十年前の再来だ。いや、真実を目の当たりにすれば、なお上回る絶望しか残らない」

「黙れッ!」

 一喝して剣を大地に叩きつける。煩わしい。知った風な口を利くその口を閉じろ。全てを悟ったかのようなその目が癪に障る。これより続く道程を阻む、もうすぐ届く聖杯への道を邪魔する者は全て敵だ。

「……どけ、サーヴァント。私は何としても聖杯を手に入れる。貴様の戯言に耳を貸す気など毛頭ない」

「……やはり、口で言ったところで判らんか。君は強情だからな」

 男の手の中に生まれる二対一刀の剣。アルトリアもまた両手に剣を握り締めた。

 アーチャーがこの剣を手にした理由。引き裂かれようとも必ず惹かれ合う干将と莫耶を主武装としているのは、その在り方に共感を覚えたからだ。
 運命によって導かれ、別たれた或る少年と少女。救えなかった少女。もし万が一……この剣のようにもう一度巡り逢う事が出来たのなら、その時こそ本当に君を助けて見せると。この手を差し出したいのだと。

 ──永劫の地獄を経て、少年と少女は再び出逢った。

 少年は心を磨耗し、記憶を薄れさせながらも、少女の事を終ぞ忘れはしなかった。少女は少年の知る彼女ではなかったが……その黒く染め上げられた今の少女を少年は放っておけなかった。

 ならば、理由としてはそれで充分だ。

 押し付けがましい救済。正義を気取った独りよがり。それでもいい。生前散々繰り返してきた事だ。正しいと信じて、間違いなんかじゃないと妄信し続けて。
 今ならば、胸を張って言える気がする。オレは、間違えてなどいなかった。歪で、捻じ曲がっていたが、信じたものだけは間違いなんかじゃなかったと。

 暗い空。遠い雨。消えていく、命の音。死の淵で、差し伸べられた手の温かさを覚えている。見上げた笑顔が綺麗だったから。その笑顔を胸に、走り続けてきたのだ。
 借り物。偽物。自分のものじゃない理想。構うものか。ただ美しいと感じた。理由としてはそれだけだ。自身から零れ落ちたものなどなくとも、走り続けられた証明がある。辿り着いた場所がある。

 だから。今度は君に、今度こそ君に手にして欲しい。

 走って走って、疲れ果てても走り続けてきた。罵られても、石を投げつけられても立ち上がった。胸に抱いた誓いは貴く、穢れなどない。
 その夢こそ、胸を張って誇っていいものなのだと君に伝えたい。

「──行くぞ、セイバー。オレの全力で、おまえを止めてみせる」

「やれるものならやってみるがいい。今の私は些か気が立っている。──容赦など、期待するなッ!」

 懐かしいあの道場での剣戟を想う。
 遠い郷愁。敵わなかった人。憧れた夢。果たせなかった理想。けれど信じ貫いたものを今なお胸に。

 正義の味方(ヒーロー)を夢見た大馬鹿野郎が、剣を手に走り出した。













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