剣の鎖 - Chain of Memories - 第四十七話









「──第三のマスターが聖杯の誓約に従い、告げる」

 そう口にした瞬間、ランサーに向いていた敵意がこちらへと投げかけられた。敵はサーヴァント。令呪の強制力は誰よりも熟知している筈だ。
 けれど男の注意を引けたのは本当に束の間だった。射出された剣を首の皮一枚の差で躱しきったところで、男の注意は再度ランサーへと向いた。

『────ランサー。私に貴方の全てを預けてくれますか?』

 その信頼に応えるように、ランサーは捨て身で以って今まで踏み込めさえしなかった男の間合いへと肉薄する。
 斬り抉られた左腕。血飛沫を上げながら、機能を失った腕を庇う素振りすら見せず、右腕一本に固く握り締めた魔槍で命を獲るべく踏み込んだ。

 あの間合い。あの距離ではゲイボルクを発動させる事など出来ない。常時発動型ではないランサーの宝具が真価を発揮する為には溜めが必要になる。
 それこそ秒にも満たない刹那ではあるが、あの男を目の前にして足を止められるほどランサーは愚鈍ではないし、男も隙を逃すほど阿呆ではない。

 なればこそ、ランサーの判断は正しい。宝具を使う間がないのなら、命を燃やして更なる一歩を踏み込んで刺し貫けばいい。さながら相打ち覚悟の特攻。身を差し出す代わりに相手の命を頂くという至極単純な戦闘方法。

 けれど男はそれを鵜呑みにはしてくれない。バゼットが口にした令呪を起動させる呪文を聞いたからだ。
 マスターとサーヴァントが真に協力関係にあるのなら、令呪は束縛ではなく強化の意味を付与できる。それこそ令呪などなくとも互いを信の置けるパートナーだと自覚し合った今の二人に、バゼットの所有する三画の令呪はこの上ない武器になる。

 だからこそ男の判断もまた正しい。令呪が作用するのはあくまでサーヴァントに関わる事象に限られる。なればマスターの存在など度外視し、放たれる文言により何らかの強化を施されるであろうランサーにこそ注意を払う。

 ──ああ、全く以ってオマエの判断は正しい。そして正し過ぎるが故に、計算通りだ。

 バゼットの腕に描かれた令呪が発光し発動する。男は唯一つ、見誤った。バゼットの口にした言葉は、必ずしも口にしなければならないものではない。
 他者に対する命令である以上、口頭にて命令を告げるのは当たり前の事であり、令呪もまたその基準に該当する。

 だが、バゼットが謳ったのはその前口上。今から令呪を発動します、とわざわざ相手に知らしめる効果しか持たない、ただの宣言に過ぎないのだ。

 バゼットが口を開いてからこの間僅かに二秒。流石にあの男も、そこまで頭が回りきらなかったらしい。
 いや、そう仕向ける為の工作は幾重にも張り巡らせてきた。必要以上に長引かせてきた戦闘。常に自分が優位にいると思わせてきた。この敵は逃げ回るしか能のない奴らなのだと了解させた。そして考える暇を与えない為の特攻。

 布石は全て出揃った。周到な準備が作り出す絶対の好機。戦闘を開始して初めて男に油断が生じる。

 男がこの瞬間──思い浮かべられる最善の行動、目の前にいるランサーに注意を払うしかなくなるこの瞬間こそを、待っていた……!

「────ランサー、翔べ……!」

 バゼットの腕を奔り抜ける熱い律動。絶対命令権の一画を消費し、言葉は力を得て空間を走り抜ける。ランサーの身に降りかかる超常現象。信頼を託した主からの後押しを背に、ランサーは跳躍した。

 令呪の発動からサーヴァントへと影響を及ぼすコンマ以下の時間の中。バゼットの言葉を正しく認識し、刹那すら遠い瞬間の間隙さえも見逃すまいとしていた双眸より、男の視界よりランサーが唐突に消失する。
 否、男はバゼットの口にした命令を一字一句違う事無く聞き届けていた。消えた。消える筈のないサーヴァントの消失は、令呪の力に拠るものと。

 翔べ。

 そう命令されたランサーは本人の意思など関係なく翔んだ、翔ばされたのだ。ならば目を向けるべきは上空……!

「────!?」

 だから、男の困惑は当然だった。ランサーの姿が、ない。翔べと命じられた筈のランサーの姿が、あるべき場所に存在しない。
 見上げた上空には高い天井があるだけで、青い痩躯は有り得ない。

 一秒。男が瞬間的に巡らせた思考の行方は、己の認識が間違っていたのだと痛烈な理解を齎した。
 察知は直感によるもの。視覚でも聴覚でもなく、自らに差し向けられた膨大な殺気が、これより降る死の予感を抱かせた。

 ……後ろ、だとっ!?

 そう。ランサーが跳躍したのは上空でも左右でも後方ですらなく、空間。男の目の前にあったランサーの姿は告げられた命令に従い、男の背後へと跳躍したのだ。

 全ては計算通り。決して逃しはしない間合い。一瞬であろうと男は上へと振り仰いだ。その一瞬は、ランサーが槍を繰り出すには充分過ぎる時間だった。

「…………ガッ、は、ァ!!」

 男の身体を貫く朱い魔槍。上がる血飛沫。ゲイボルクの呪いこそ発動していないが、確実にその身体を貫いた。
 誤算があったとすれば、確実に心臓を刺し貫く軌道を取った筈の槍が、男の足掻きでその脇へとずれた事くらいか。だが充分に致命傷。ランサーに焦りは無い。策は失敗を前提にして築き上げられている……

「離れろ、下郎がッ……!」

 突如として現れた滝の如く真上より降る無数の剣の雨を、ランサーは後退して躱そうとする。
 渾身の一撃を放った反動。槍を引き抜くという通常の回避よりも一動作多く行わなければならなかった事と、現れた剣群の数が多過ぎた為に腕に脚にと多少の被弾を被ったが、構わない。

 ────既にオマエはチェックメイトだ。

「おのれ、貴様らァ……!」

 男が初めて見せた憤怒の表情。鬼の形相を向けられて、ランサーは口元を歪めてやった。

「ああ、怒ってるところ悪いが、後ろ見てみな」

「なに────」

 振り仰いだ瞬間、渾身の右ストレートが男の顔面へと炸裂した。目一杯の加速と硬化のルーン。バゼットの全体重と鍛錬を上乗せさせた一撃だ。並の人間なら脳漿を撒き散らしながら飛び散り、人の形など留めていない。

 なお踏み止まった男目掛けて、容赦もなく振り上げられる足。予期すらしていなかったマスターの猛攻に男は反応すら残せない。撃ち込んだ拳を反動に身体を回転させ、回し蹴りの要領で撃ち落される踵落とし。

 振り抜かれた足は確実に男の頬へとめり込んで、固い床へと叩きつけた。陸に打ち揚げられた魚のように男の身体が跳ねる。
 一際大きな衝撃音の中に掻き消された男の呻き声。不遜を誇っていた男がようやく、沈黙した。






続く世界/waltz VII




/1


 静まり返った瓦礫のエントランスホール。その中央には伏した黄金の髪の英雄王。少し離れた場所にランサーが位置取り、たった今敵をマットに沈めたバゼットが一足でランサーの元へと参じた。

「ランサー、傷は?」

「おう。左腕はイカれたが、脚と右腕はまだ動く。少しばかり多く魔力貰うぜ」

 突き刺さっていた剣の何本かを引き抜きながら、平然とランサーは口にした。直後にバゼットより吸い上げられる多大な魔力。表面上の目立った傷──左腕を除いて──は補修修復されていった。

「残念だけれど、貴方の傷の完治を待つ時間はありません。ランサー、確実に仕留めて下さい」

 あいよ、と頷いてランサーは英雄王へと歩み寄る。

 バゼットの組み上げた戦術はほぼ完遂された。令呪の戦術的使用。たった三度しか使えない命令権の一つを消費してまで行った必勝の策なのだ。ここで討ち漏らしたでは話にならない。

 敵は確実に殲滅する。封印指定の魔術師が相手ならば刻印が無事なら他の全てを切り裂いても構わない。化物が相手なら塵一つ残さず木っ端微塵。サーヴァントが相手ならば、完全な消滅を確認してこその勝利である。

 そのトドメにはランサーの一刺し以上に有効な手は無い。サーヴァント現界の核たる心臓を確実に貫き、体内に千の棘をばら撒く一撃必殺の槍。
 魔槍ゲイボルクの呪いを以って、この敵との戦いに決着を────

 そう思った矢先。英雄王を中心として風が吹き上げた。

「ランサー!」

 バカな……そう思うよりも先にバゼットは叫んだ。舌打ちをして必殺の構えをとるランサー。朱い槍に魔力が集中し、鎌首を擡げ……

「アアアアアアアアァァァァァァァァァ……!!」

 聞いたことも無い絶叫。耳朶を突き破りかねない咆哮を響かせて、英雄王から剣が放たれる。
 制限も統制もないただ撃ち出すだけのデタラメな一斉掃射。十や二十ではない。それこそ千に迫る宝具の雨が一斉に解き放たれる。周囲の全てを貫かんと繰り出される剣の大嵐を前に、彼女らに逃げ場など用意されていなかった。

 縦横無尽に剣が翔ける。突き刺さる。乱れ飛ぶ。現代の戦場に飛び交う銃弾の如く、なお巨大な鋼の刃が城さえも崩壊させんと数多を蹂躙し尽くす。

「よくも、我を虚仮にしてくれたな、貴様らァァァ……!」

 エントランスホールの中心に吹き荒ぶ風の柱。頭蓋より血を流し、それでなお頂く英雄王の立ち姿。先程までの黒の現代装束ではない、黄金に彩られた甲冑を身に纏って。
 手には奇妙な形をした剣を持っていた。円柱のような三つの刃を互い違いに回転させ、描かれた幾何学模様が赤い発光を続けている。良く見れば、その剣ならざる剣こそが嵐の発生源だった。

 血走った英雄王の眼が捉える二人の姿。二人が同時に、二重に張り巡らせたルーンの防護結界。全てを遮断は出来なかったのか、それとも展開が遅れたのか傷だらけの体を晒していた。

「くっ……バカな……」

 事ここに至り、ようやく悪態をつく時間を得た。ランサーに腹を貫かれ、バゼットの渾身の拳と蹴りを喰らってなお、立ち上がる力があるなどと……。
 侮っていたのは、私達の方なのか。英雄の王とされるこの男の底力……底の深さを見誤った。

「特に女。貴様、よくも男子を、この我を足蹴にしてくれたな……!」

 男の頬にはくっきりと痕が残っている。バゼットを射殺さんばかりに凝視する。余程腹に据えかねたのか、更なる暴風を引き起こして英雄王は狂乱する。

「もはや貴様らは生きて帰さぬ。四肢を砕き、頭蓋を絞り出し、許しを乞わせてもなお足りぬ。塵屑となるまで引き裂いて、それでなお我の腹が治まるとは思えん……!」

 金切り音が高く高く積み上げられていく。撒き散らされた数多の剣を吹き飛ばし、瓦礫を粉微塵と化しながら、黄金の大嵐となった英雄王が哄笑を響かせる。

 ────それを、バゼットはチャンスと見て取った。

 これまで全く反応を示さなかったフラガラックが鳴いている。王の手にする奇怪な剣に最強の迎撃礼装が呼応している。

 バゼットの魔術礼装は相手の切り札にこそ反応する。英雄王がこれまで繰り出していた剣群は少なくともあの男にとっては切り札足りえなかった。並み居るサーヴァントでさえ恐怖を覚えるあの剣の雨を、あの男は絶対のものとして見ていなかった。

 男にとって宝具の射出は単なる通常攻撃。ランサーが槍を振るう程の自然さで、数多の武器を撃ち出し続けていた。
 その事実はバゼットを驚愕させて余りあったが、嘆く時間などなかった。

 それでも誰であろうとサーヴァントである限り切り札は持っている。自身が絶対の信頼を寄せる必殺の宝具。男にとってのそれこそが──あの剣。
 降り注ぐ宝具の雨を攻略した今は、ようやく引き出したあの切り札の迎撃にこそ全力を挙げるべき……!

「────“後より出でて先に断つ(アンサラー)”」

 痛んだ身体を引き摺り立ち上がる。旋回していた球体がバゼットの右拳の上で停滞し、変形していく。
 敵を貫く刃を覗かせた究極のカウンターが帯電し、発動の時を静かに待つ。

「フン。今更何をしようが無駄だ。この剣に対抗しうる宝具など有り得ない。世界を斬り裂いた創生の剣ぞ」

 英雄王の口上などまるで無視し、バゼットは神経を研ぎ澄ませていく。タイミングは一瞬だ。獲るべきは先の先ではなく後の先。奴が宝具を放った直後に──フラガラックをぶち込む。

 吹き上がる風が収束していく。否、英雄王の手にした剣に吸い込まれ、更なる風を産み落とす。もはや目も開けられぬ程に渦巻いた暴風。それでも二人は確かに目を見開いたままエントランスの中央で対峙する。

「終わりだ、死ね。天地乖離す(エヌマ)────」

 男が手にした剣を掲げる。まだ早い。その真名を放ち終わった直後。生と死の狭間で唱えるべきこそがバゼットの持つ魔術礼装の真名。
 どくんと心臓の跳ねた先で男の顔が愉悦に歪む。腕が動く。まだだ。まだ早い。

「────開闢の星(エリシュ)

 今。この瞬間こそが、発動の時……!

「“斬り抉る戦神の剣(フラガ・ラック)────ぁ……”」

 バゼットは見た。見てしまった。己が真名を放った瞬間。英雄王が乖離剣を振り抜いた瞬間の後。現れたその、見覚えのある球体を。

 今まさに撃ち出そうとしている、撃ち出したフラガラック。それが、相手の背後に浮遊している。その意味するところを理解して、バゼットの脳裏は白紙になった。

 男が最後に表情を歪めた正体。あれは、全てを知っていたのだ。バゼットが持つ礼装の能力と、齎す結果を。
 だから男もまた、己の蔵よりその球体を取り出した。バゼットのフラガラックとは似て非なる原形の宝具。千にも上る財を手中にする王の蔵に、この武器が納められていない道理などない。

 両者が迎撃礼装を持つならば、取り合うのは後の後。一番最後の攻撃権を取得した者にこそ軍配が上がる。
 王は自らの最強剣を振りかざし、バゼットの礼装の使用を促した。そしてその一瞬後に仕込みを済ませておいた原形のフラガラックを放つ算段……

 ああ……ならばあの男は狂乱などしていなかった。

 忘我したように振る舞い、その底では途轍もなく冷静で冷徹だった。底冷えのする冷笑を獰猛な笑みの裏に隠し通し、この瞬間こそを待っていた。
 獲物が罠にかかる瞬間を。勝ち誇った顔が、絶望にとって変えられる瞬間を。

 ただ、隙はあった。あの歪な笑み。あの意味を察していられれば、この結末は無かったのかもしれないのに……。

 バゼットは己が敗北を悟った。本来有り得る筈のないフラガラックの撃ち合い。その結末は、カウンターにカウンターを合わせたあの男にこそ軍配が上がる。
 それどころかバゼットのフラガラックはキャンセルされ、攻撃権を失う筈だった乖離剣の猛威がその身を襲う。

 男の言の通りに、バゼットの肉体は断絶される。心臓を貫かれた直後、四肢を吹き飛ばされ跡形もなく。

 一瞬が永遠に引き伸ばされた中で、バゼットは長く、これより身に降りかかる業火をじっと見つめていた。渦巻く赤い風。中心を奔る一条の閃光。時間がスローになる。体感時間が実際の時間の数倍になっている。
 脳裏を埋め尽くした失策への後悔と、共に戦場を馳せた戦友への懺悔を綯い交ぜにした表情で、その結末を受け入れた。

 顔に降りかかる返り血。生温く、粘つく人の生存機能が彼女の顔を穢していく。眼球さえ覆うほどの夥しい血量。噴水か、豪雨を思わせる赤いシトネの中で、バゼットは奇妙な感覚に囚われた。

 おかしい。血を噴き出したのなら、その対象は既に死んでいなければならない。フラガラックとはそういうものだ。
 バゼットが使えば、それこそ最大限まで凝縮された、レーザーじみた一撃で息の根を止められる。軌道を逸らされたのなら話は別だが、通常、後から血を零すなどという無様はありえない。

「あ、れ……?」

 声が出せた事が意外だった。遠く何処かに置き去りにしていた精神が肉体を認識する。動く。四肢はついたまま。意識さえ追いつけば、それこそ数瞬前と同じように稼動出来る。ただ今は、現状に頭が追いつかなかった。

 止まることのない金切り音が向こうで響いている。つまり英雄王は健在で、それならばバゼットは死んでいなければおかしい。でも生きている……

「……ごっ、……っ」

 ぴしゃ、と更なる血を顔に浴びた。もうどれだけ浴びようと変わらないが、その、おかしな現状に、目を丸くした。

「ワリ。汚した」

「え……なん、で……え、ぇ、……?」

 見上げれば、見慣れた顔があった。口元を臓腑より零した血で汚した顔。額に浮かぶ玉の汗。辛そうな表情。すこし視線を下げて、小さく声を上げてしまった。

「ラン、サー……。なん、で。貴方、そこに……」

「なんでっつわれてもなぁ……。気付いたらこうしてた」

「そんな……。だって、私、負けて……それで、死んで……」

「そんなことあるか。死んでねぇ。アンタはまだちゃんと地に足つけて生きてる」

 ようやく。バゼットは認識した。身体を包む温かなもの。それは血なんかじゃない。ランサー自身の温もりだった。今バゼットは、ランサーの腕の中にいた。

「……雑兵が。フン、最後に気概を見せたか」

 肩越しに見る英雄王の姿。一体どうしてそんな事になったのか、肩と腹の二箇所に風穴が開いていた。黄金の甲冑から零れる血は赤い。
 バゼットは震える腕でランサーの背中に手を回した。滑る赤い血。一面を染め上げた赤い血液が、彼の身体に開いた穴から濁々と流れ落ちてきた。

 その時。古城の全体が激しく震動した。元より瓦礫と化していたエントランスホールに更なる崩壊の音色が木霊する。
 先の英雄王の財宝の一斉掃射か、あの奇怪な剣が巻き起こした破壊の為か。どちらにせよ崩れ落ちるまでそう時間がありそうにはなかった。

「忌々しい……。が、覚えておくぞ、クランの猛犬(クー・フーリン)。我にここまでの傷を負わせた貴様の名を」

「そうかい。そりゃ、とんでもない光栄だ」

 ランサーの軽口を聞き届け、英雄王は巨大な門扉より姿を消す。勝者がどちらかなど判ずるまでも無い。そう知るからこそあの男は去ったのだ。

 男の気配が完全に消えて気が抜けたのか、バゼットを抱きかかえていた屈強な腕から力が抜けて、よろめくように倒れ伏した。

「ランサー!」

 呼び声に反応は無い。けれど力強い目を向けてくれた。震える手で血塗れの手を取る。冷たい。命が零れていくように、段々と掌から体温が抜け落ちていく。

 ランサーの身体は見るに耐えないものと化していた。心臓付近に穿たれた大穴からはごぽごぽと血が吹き出ており、その度にえづくように喉より呻きを漏らす。
 仰向けに倒れている為、その背を見ることは叶わないが、恐らくもっと酷い状況になっている筈だ。乖離剣による一撃をその一身で受け止めたのだとしたら。

「なんで、……なんでこんな、……そ、それより、な、治します。治しますから!」

 狼狽を抑えることなど出来る筈もない。憧れの英雄が自分を庇い、血塗れで伏しているのだ。それも自分の読みの甘さが招いた結果で。
 耳に飾りつけたルーン石のピアスを引き千切る程の勢いで取り外し、バゼットは最大の傷口である胸の穿孔へと押し当てた。秘爪で刻んだ治癒のルーンが輝き出したが、血は止まらなかった。

「もう止まらねぇ……。無駄だろう……」

「いやだ……止めます……っ! 絶対に止めてみせる……!」

 治癒のルーンを発動しながら、自らに残る魔力を総動員してランサーへと流し込む。エーテルで編まれているサーヴァントの原動力は魔力。可能な限り多くの魔力を流し込めば、自己治癒力の増大に繋がる筈。

「止まれ、止まれ、止まれ、止まれぇ……!」

 悲痛な叫びを上げながら、押し当てた治癒の効果を期待する。送り出す魔力を増やす。魔力など枯れ果ててもいい。この命さえも持っていけ。彼を助けるためならば、なんだって差し出してもいい……!

「止まれ、止まれ、止まれ、止まってぇ……!!」

 バゼットの哀切を裏切るように、ランサーの血は決して止まらない。傷口は決して塞がらない。

「もういい。アンタがここで死んだら、オレが身体張った意味がなくなるだろ」

「なんで、なんでそんなこと……! ふざけるな、ふざけるなふざけるなふざけるな! 私が治す、治すから! 貴方はただじっとしていればそれでいい! これは、マスターとしての命令だ……!」

 もはやバゼット自身、何を言っているのか判らない。ただ治すと。ただ癒すと。絶対に彼を助けて見せるのだという一心だった。

 その一方で、崩壊の足音は一歩、また一歩と近づいてくる。周りに降り注ぐのは巨大な岩塊。一つ落ちる度に盛大な埃を巻き上げて積み上げられていく。

「状況を鑑みろ。今一番何をするべきか、アンタなら判るだろう」

「貴方を治すことだ……!」

 違う。もう判ってる。ランサーの傷は癒せない。どれだけ魔力を送り込もうとも、ルーンを刻もうと、壊れた砂時計から零れていく砂は止められない。

 バゼットとランサーは敗北した。生存が勝者の条件だというのなら、この結果は紛れも無い敗北だ。そしてサーヴァントを失いかけているバゼットの取るべき最善の行動はこの場からの離脱。
 崩壊を始めた城の中で、死して行くサーヴァントに付き合い命を散らす必要など無い。聖杯戦争より脱落したバゼットは一魔術師として自身の生存を優先するべきなのだ。

 理性では理解している。その選択こそが最善だと。それでも……!

「いやだ……! 貴方を見捨てて逃げるなど……!」

 感情が爆発する。幼い頃、この英雄に憧れた。逢える筈もない本の中でしか知らなかった英雄に、聖杯戦争という儀式の場で、奇跡に拠って巡り逢ったこの男を捨てていくなど出来ない。

「ねえ……だって、だってまだ返してない。……まだ届いていないでしょう? 一緒に行くって、勝ち抜くって決めたじゃない。それが、それが……」

 思い返すのは苦難の日々。たくさん迷惑をかけた。たくさん心配をかけた。だから。だからこれからそれを返すのだと。共に聖杯の頂へと至ろうと。貴方が望んだ戦場を共に戦友として駆け抜けようと。

 誓い合ったのではなかったか……

「泣くなよ、バゼット」

「え……?」

 ランサーが微笑み、震える指でバゼットの目元を拭う。そこでようやく、自分は泣いていたのだと理解した。

「なあ。今だから聞くけどアンタ、一体何を迷ってる?」

「……ぇ? なにを言って……」

「オレはこんな性格だからよ。一々相手の気性に文句つける気なんか更々ないんだが、アンタ……オレを喚び出す前からずっと抱えてるもんあるだろ」

「それは……」

 ないと言えば嘘になる。見透かされていたのは恥ずかしかったが、ランサーの言葉は真実だった。バゼットにはずっと抱え続けてきた悩みがある。答えの出ない問いが。判らなかった問いがある。

 そして──問い質したかった人が今、目の前にいる。

「逆に聞きますが……貴方はあの時、何故あの予言に従ったのですか?」

「何の話だ、そりゃ」

 クー・フーリンが赤枝の騎士となる前の話。ドルイドにより語られた栄光と破滅を同時に齎す予言。同年代の子らは皆恐れをなして成そうとしなかった武者立ちを、この男だけは脇目も振らずに行った。

 それこそ否定する王にさえ反逆してでも、彼はその日に一人前の戦士になりたかったらしい。

 この問いは、以前別の男にも投げかけたことがあった。その時の答えは確か“それが彼の運命なのだと知っていたからだ”と、男は答えた筈だ。
 少年は栄光に目が眩んだわけでも、破滅が見えていなかったわけでもない。その日に戦士となり、最高の栄誉を手にし非業の死を迎える。それは、最初から定まっていた事で、あの少年はそれを知っていたのだと。

 けれど、今はその当事者たる少年だった男が目の前にいる。自分自身が抱え続けている迷い。その正体を晴らす何かがそこにある気がしていた。

「ああ……そんなことか」

 ランサーは何でもないように言ってから、

「そりゃオマエ、さっさと戦士になりたかっただけだ」

 何故そんな下らない事を聞くんだとばかりに軽い口調で言ってのけた。

「……は?」

「だからよ、その日に戦士になるチャンスがあったんだ。オレはどうしても一人前の戦士になりたかった。早くなりたかった。だから予言されたその日に武者立ちを行ったんだ。……王の反対を押し切ってでもな」

「……たったそれだけの理由で、ですか?」

「おう」

「予言の内容は? ちゃんと確認しましたか? 栄光はあるけれど、破滅さえも予言されていたのよ?」

「そんなもん知らん。破滅ったって人間生きてりゃいつか死ぬだろ。遅いか早いか、それだけの違いでしかない」

 バゼットはもう唖然とする他になかった。ただ早く戦士になりたかった一心でセタンタはあの日に戦士の誓いを交わした。
 栄光も破滅も知ったことではない。この期を逃せば次がいつになるか判らないから、その日にチャンスがあったから、駆け出したのだ。ハシバミの木より降りて、これから始まる違う世界を夢見ながら。胸を躍らせながら。

「……迷うくらいなら走れよ、バゼット」

「え?」

「道の行き先なんか誰にも判りゃしねぇんだ。とりあえず走って駆け抜けてみて、岐路になったら少しだけ立ち止まればいい。違うなと思ったら振り返ってみればいい」

「────」

「さっきも言ったが、人間なんてのはいつか死ぬ。今日死ぬかもしれないし、明日死ぬかもしれない。なら迷うなんざ時間の無駄だろ。とりあえず走ってみて、疲れたのなら休めばいい。体力有り余ってるくせに楽してたら腐っちまう」

 だからさ。と前置いて、

「走れよ、バゼット。世界は続いている。アンタの知らないものがまだまだ沢山ある。迷ってる時間なんかないだろ。全てを見て回るのには、時間は幾らあっても足りないものなんだからな」

 朗らかに笑った。

 胸を刺す想いがした。何でもなく投げかけられたランサーの言葉に、少し抱えていたものが軽くなった気がした。

 靄がかかっていた視界が晴れていく。そうだ。私はいつも迷っていた。自分自身の弱さから逃げ出して、見ないようにして、向き合う事をしなかった。
 一歩を踏み出すのが怖かった。そこに足場があるのかなんて判らないし、今よりも酷い状況があるとしたら、踏み込みたくなどない。

 だから、立ち止まった。進まなければ変わらない。今がたとえ迷いを生んでも、これ以上の災いは降りかからない。臭いものには蓋をして、目に映るものだけを真実だと思い込んできた。

 ……でもそれは、間違いだった。

 たとえ踏み出した先が闇だって、ならば明るく照らせばいい。苦難しかないとしても、立ち上がればいい。
 たったそれだけの事だ。人には困難に打ち克つ力がある。前へ進む力がある。自分自身は持ち得ないと思っていたその力は、きっと私にだってある。

 ただ変わろうとしなかっただけだ。変化を恐れていただけだ。

 それでもあの辺境の港町を飛び出してまで、求めたものは何だったのか? それこそ、ただ停滞して腐り落ちていくのが厭で飛び出したのではなかったか?

 あの時の気持ち。これから開かれる新しい世界に胸を高鳴らせ、想いを馳せていた初心を思い出せ。

 その先が望んでいたものでは、夢見ていたものと違っていたからといって、立ち止まり続けたのは誰だった?

 ────他ならない、私自身ではないか……。

 ああ、とバゼットは悲しみではない涙を零した。

「……そうですね、ランサー。貴方の言うとおりだ。世界はこんなにも広く開けているというのに。私が居た場所は、見ていた場所は余りに狭窄な世界だった」

 この身体には大地を掴む足がある。前へと踏み出す足がある。この足がある限り、何処へだって渡っていける。

「ありがとう、ランサー。貴方のお陰で、私はようやく踏み出せそうだ」

「────ハ。そうかい、そいつは良かった。なら今すぐ踏み出してくれ。こんなところで終わる気はないんだろう……?」

 差し迫る崩壊。崩れ往く命の音。続いている世界に踏み出す為には、一刻も早くこの場を立ち去らねばならない。

「ランサー……私は…………っ!」

 胸に込み上げてくる熱い想い。吐露してしまいたい言葉。掴んだこの手を離したくなどない。けれど、離さなければならない。
 せっかく答えをくれたこの男の想いを裏切ることのないように。この男が守ってくれたものを誇れるように。バゼットは踏み出さなければならない。

 震動が大きくなり、外壁にさえも巨大な亀裂が刻まれる。天井はとうにひび割れ、いつ完全な崩落が起こるかわからない。いよいよ、残された時間は少なくなっていた。

「行け、バゼット」

「…………っ! いやだ、消えるなっ! 生きろっ! 私と共に……っ!!」

 口にしてはならない言葉を吐露する。血に塗れた掌を強く、強く握り締めて。もう無理だとわかっていても、言いたかった。言わずにはいられなかった。消えて欲しくなどない。死んで欲しくなどない。
 やっと歩き出す決意が出来たのだ。だから一緒に、貴方と一緒に歩きたいのに……

「さっさと行けぇぇ、バゼットォ!」

「くぁ……、っ、ラン、サァァ……!!」

 背を向けて走り出す。青い従者を残したまま。降りしきる瓦礫の雨を掻い潜り、外へと通じる竪穴目掛けて走り出す。
 胸に去来する全ての想いを振り払って、ただひたすらに外を目指して走る。立ち止まれない。もう二度と、立ち止まったりなんかしない。

 行けと言ってくれた。世界は続いていて、まだ見ぬ世界が待っていると。ならばもう、振り返ることなど出来ない。己を省みず行けと言ってくれたパートナーの信頼に背くことだけはもう、したくなかったから。

 外界へと走り抜けた直後、大規模な崩落が背後で起こる。背の高い古城が音を立てて崩れていく。

「ラン、さぁ……」

 その様を見ながら、バゼットは膝を付く。強く握り締めた左腕にはもう、二人を繋ぐ絆がない。血が滲み出るほど抱いた左腕にはずっと守り通してくれた証がない。奪い取られそうになって、でも繋ぎ合わせてくれた令呪が、ない。

「うわあああああぁぁぁああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 その意味するところを察し、バゼットは空に向かって慟哭した。

 この世の悲しみを全て詰め込んで。裂けるほど声を張り上げて。流れ落ちる涙を気にも掛けずに。
 ただ、叫び続けた。ありったけの感謝と愛を込めて。抱き続けた感情の全てを曝け出して。親愛なるその名を響かせて……

 さながら、身を挺して送り出してくれた最高の相棒に捧げる追悼の詩のように。

 ────バゼットは生まれて初めて、声を上げて空に泣いた。













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