剣の鎖 - Chain of Memories - 第四十九話









 時間は前後し、言峰綺礼が英雄王ギルガメッシュに対し令呪を使用する約二時間前。夕闇の中、下山していく柳洞寺に住まう人々を見送っていた綺礼の目に、階段を上り来る少女が一人映った。
 色素の落ちた金砂の髪。伏し目がちのくすんだ黄金の瞳。戦場に馳せる際に身に着ける甲冑は今はなく、漆黒のドレスに身を彩った可憐な少女が、銀の髪のなお幼い少女を抱え現れた。

 擦れ違う僧達と少女。けれど、夢遊病者のような足取りと虚ろな目をした僧達は彼女の存在を無視し石段を降りていく。

「ほう、おまえの方が早かったか。それに、目的にものも手に入れてきたようだ」

 綺礼がアルトリアの腕の中で眠るイリヤスフィールに目を滑らせる。静かな呼吸。微かに上下する胸。生きてはいるようだったが、死んでいるかのように動かなかった。

 アルトリアは綺礼の言葉など無視し、そのまま境内を通り抜け、伽藍の縁側にイリヤスフィールを横たわらせた。そして自分もまた、ようやく腰を落ち着けた。

 約半日の行軍だったが、彼女は思いのほか疲弊していた。彼女が完全に目を覚ましたのは今朝方だ。
 その日のうちに行われた数十キロを超える行軍、サーヴァント二騎を相手取る熾烈な争いを経てこうして戻って来てようやく、彼女は安堵の溜め息をつく機会を得た。

 ……もうすぐだ。もうすぐ、求め欲したものに手が届く。

 世界の摂理さえも捻じ曲げる、聖なる杯。遍く全ての祈りを叶える万能の願望器。彼女の祈り……アーサー王の抱いた救済の願いは、その成就を以って完結する。

 頭上の輝ける杯を前にして謳うのだ。あの日、私が救えなかった祖国に救済を。私が守りきれなかった全ての民に平穏を齎してくれ、と。

 ようやく報われる時が来る。手酷い裏切りを被った十年前の戦を経て、この時代にて全てに決着を。

「衛宮、シロウ」

 あの森を後にする直前、向けられた言葉。

『────なら俺が、おまえを救ってやる』

 馬鹿馬鹿しい。たった一人の人間の手でいったい何を救うという。ましてや、サーヴァントですらないマスター風情が、このアルトリアを救うだと……? それもあの衛宮の名を継ぐ者が、このセイバーを救うだと?

 先に裏切ったのはおまえらだ。衛宮切嗣。彼の祈りは本物だった。決して二人の道が交わる事はなかったが、彼の願いだけは本物だった。
 そのやり方に異議を唱えたことがある。余りに卑劣で残虐な、人を人とも思わない殺戮行為。けれど全ては、胸に抱いた祈りの結実の為だ。だからその果てに、アルトリアは切嗣を認めた。聖杯を担うマスターはこの男しかいないと。

 だが。

 最後の最後で、切嗣はアルトリアを裏切った。
 あの男にはわかるまい。ようやく念願だった聖杯を目の前にして、自らの手でその破壊を行った者の慟哭など。希望へと手を伸ばすその瞬間に、信じた者に裏切られ、絶望に叩き落された者の怨嗟など。

 ……決して、判る筈がない。

 だからあの男の名を継ぐあの少年を前にしても、アルトリアは揺るがない。もう何も信じられるものなど存在しない。ただ、聖杯をこの手に。自らの手で掴む。
 誰の助けも必要ない。誰の援護も必要ない。立ち塞がる全てを斬り捨てて、邪魔する全てを斬り伏せて、道の先をひたすらに目指すのみ……

「…………ん」

 渦巻く負の感情を晴らす小さな吐息。傍らに眠っていたイリヤスフィールが目を覚ましたようだ。

「気が付きましたか、イリヤスフィール。状況の説明が必要ですか?」

 銀の髪を揺らしながらふるふると頭を振り、イリヤスフィールは若干高いアルトリアの視線を見上げた。

「いいえ、大丈夫。意識は遮断していたけど、何があったかは全部わかってるから。ここが何処かも、あの森であったことも」

 短時間に幾体ものサーヴァントを取り込んだ弊害か、イリヤスフィールを人足らしめる部分を圧迫しかかった英霊の魂の整理の為にイリヤスフィールは自ら意識を遮断した。
 イリヤスフィールのスペックであれば、最大限まで自己を確立したまま行動できる。けれど今回は余りに時間がなさすぎた。今ようやくその整理が終わり、イリヤスフィールは目覚めたのだ。

「……イリヤスフィール。私は貴方に謝らなければならない事がある」

「お母様の事かしら」

 全てを見透かす少女の瞳に、アルトリアは若干の狼狽を見せた。が、すぐさま平静を取り戻し、ぽつぽつと語りだした。

「はい。如何なる理由があろうとも、貴女の母を殺したのは私だ。たとえそれがマスターの命令であっても、彼女だったものを砕いた私は、貴女に謝らなければならない」

 敵として立ちはだかるものは全て殺意の対象となりうるが、そうでないものに対しては彼女は在りし日の優しさを以って接する。
 アルトリアの身を襲った泥は彼女の全てを呑み尽せてなどいない。彼女から奪い取ったものがあるとすれば、あの清廉な輝きと幾許かの記憶だけ。

 サーヴァントである限り決して逃れられない呪縛を、アルトリアは胸に秘めた誓いだけで払拭した。いや、耐え抜いたというべきか。
 であれば、彼女の鉄の心が決して砕けない理由も判るだろう。この世全ての悪として比してなお、アルトリアの抱いた祈りは尊く眩しいものであるのだから。

 懺悔のように呟いたアルトリア。聖杯の守り手たるアイリスフィールは、厳密に言えば聖杯自体ではない。だからアルトリアの感傷もまた的を射たものではないのだが、そんな違いは些細な違いでしかない。
 アイリスフィールの騎士であったアルトリアが、彼女を守り切れなかったのもまた一つの事実。もっと巧く立ち回れていれば、あの結末は回避できたのかもしれない……

「結構よ、アルトリア。貴女の後悔は、私達に対する侮辱だわ」

「イリヤスフィール……?」

 毅然とした態度で拒絶を口にしたイリヤスフィールに、アルトリアは瞠目した。

「アインツベルンの女はね、元々そういう風に造られているの。お母様だって、全てを納得して冬木に向かった筈だから。
 どんな最期を迎えようとも、聖杯の担い手であるアインツベルンの女には同じ結末しか許されない。そこに違いがあるとすれば、それは祈りが成就したかしなかったかの違いでしかないわ」

 聖杯を求める血族により祀り上げられた白き杯。千年を超える妄執の果て、もはや呪縛にまで成り下がった彼らの悲願が造り上げた受け皿。英霊の魂を自らに満たし、第三魔法へと至る狂気。

 ならばこの少女もまた、同じ覚悟を胸に秘めている……

 そしてアルトリアはまた、自身の祈りの為にこの少女を犠牲にする。アイリスフィールと同じように。だが無為な犠牲はもう出さない。聖杯の成就を為し、我が祈りを叶えて終わらせる事が、せめてもの餞なのだと思って。

 腰掛けていた縁側より飛び降りて、くるりとこちらに振り返るイリヤスフィール。アリトリアに向けて、その細く可憐な掌を差し出した。

「これは……?」

「行きましょう、アルトリア。貴女には、本物の聖杯を見せてあげる」

 促され、騎士は少女の手を取る。懐かしきあの郷愁、彼女の母の手を取った日を思い描いて。







「二人で何処へ行くつもりかね」

 境内を横切り、山門へと向かっていた二人に唐突にかかる静かな声。何かしらの作業をしていたらしい言峰綺礼が、二人の行動に気が付いたようだった。
 重く囁かれた声の方へと振り仰いで、イリヤスフィールもまた固い声で返した。

「決まっているでしょう? 大聖杯のところよ」

「……ほう? 自らあの場所に赴くか」

「勘違いしないで言峰綺礼。たとえ貴方が何の手を下さずとも私はこの地を訪れていた。貴方達が事を急いて私をこの場所に連れて来たお陰で、その時期が少し早まっただけ。ただそれだけの事よ」

 イリヤスフィールの言峰綺礼に向ける視線は冷やかだ。彼女にどんな思惑があるのかは定かではなかったが、綺礼にとっては是非もない。

「ならばおまえは、自らの身を捧げるという事か」

「ええ。天の杯(ヘブンズフィール)の顕現はアインツベルンの悲願だから。私を殺さない限り、貴方が他の如何なる妨害行為を働こうとも、貴方の祈りは叶えてあげるわ」

 聖杯の否定はイリヤスフィール・フォン・アインツベルンという少女自身の否定に繋がる行為。彼女が産み落とされた意味、これまでの生に意味を齎すのは、聖杯の成就しか有り得ない。そのように、冬の聖女は造られる。

 綺礼は内心でほくそ笑む。

「ならば私は好きに動かせて貰う。念の為、紛い物の方も完成に近づけておきたいからな」

「ご自由に。止めはしないわ。ただ一つだけ忠告しておくと、貴方もまた自分の戦いの為の準備をしておきなさい」

「何……?」

 それは、綺礼にとって思いも拠らない言葉だった。彼は此度の戦の参加者ではない。あくまで監督役を仰せつかった中立だ。必要に迫られ動いたことはままあるが、綺礼自身の戦いは既に過去のものの筈だった。

「傍観者を気取るのもいいけど、貴方を狙う者は少なくないわ。
 とりわけ、この聖杯戦争の中で貴方自身が直接手を下した唯一の存在。女が一人いるのを忘れたわけではないでしょう?」

 綺礼はああ……と漏らした。忘れていたわけではない。ないのだが、失念はしていた。

「そういえば、そんな女がいたか」

「……飽きれた。そんな甲斐性なしじゃモテないわよ」

「忠告痛み入るが、あいにくと私はもう女を一人、愛してしまった身でね。今更他の女に恋慕を寄せるほどの情欲を持ち合わせていないのだよ、ユスティーツァ」

「────」

 それは綺礼の鎌かけだったが、イリヤスフィールは僅かに身を固くした。やはりか。何体かのサーヴァントを取り込み、始まりの聖女たるユスティーツァに、この儀式基盤に近づきかけているようだ。

「クク。ならば後はおまえに任せよう。忠告にも素直に従おう。敵対する者を速やかに排除して、私は生まれ来る者に祝福を捧げなければならないのでね」

 それだけを言って、綺礼は夕闇の彼方へと姿を消した。

「ふん。せいぜい足元を掬われないように気をつけなさい。悪に生かされ続ける道化者」

 綺礼の消え去った虚空を見やり、怒りを露にしながらも、イリヤスフィールは手を繋いだアルトリアと共に足早に山門を駆け下りた。






噛み合わない二人/Aria I




/1


 衛宮士郎とバゼット・フラガ・マクレミッツが森を抜け、衛宮の邸宅が構える深山町へと辿り着いた頃には、陽はもう傾いていた。
 夕闇と夜闇の狭間。地平線に赤と青のコントラストが生まれる時間に、二人は傷ついた身体を引き摺りようやく、しっかりと休息出来る場所まで戻ってきた。

 疲労を癒す間もなく、士郎は居間を抜け台所へ向かう。バゼットにはああ言ったが、この数日はアインツベルン城で過ごしていたのだ。食べられる食料が残っているかかなり不安だった。

「……あれ?」

 冷蔵庫を開けてまず気が付いたのは、既に作られた料理が各々ラッピングされ収まっていた事だった。ただどれくらいの日数が経っているかは不明だが、多くは傷んでいた。

「…………桜」

 この料理を作ってくれたのは、間桐桜だ。逆算的に考えて、これらの料理は士郎がアインツベルン城にいた頃に作られたものだろう。その以前であれば士郎が気が付かないわけがないし、丸一日以上留守にしたのはこの三日程だけだからだ。

 つまり、それ以前に行方を眩ませていた桜が一度、この家に帰っていたのだ。士郎とは入れ違いに桜はこの家に戻り、料理を準備しながら士郎の帰りを待っていてくれたのだ。

「……ごめん、ごめんな桜。絶対、絶対助け出すから。この家で、もう一度一緒に飯を食おう」

 呟きは決意。終幕は近い。もはや全ては一つに収束されている。桜もイリヤスフィールもアルトリアも、聖杯の降りる場所に居る筈だ。

「士郎くん? どうかしましたか?」

 ひょっこり居間に顔を出したバゼットの声にびくりと身体を震わせながらも、士郎は何でもないよ、と返す。

「バゼット。あんな事言っといて何なんだけど、使えそうな食材が少ないんだ。ちょっともう一っ走り買出しに行って来るよ」

 森を抜けてここまでの道中、士郎とバゼットは幾つかの会話を交わした。詳しい話は腰を落ち着けてからと互いに了解していたのでその手の話題は上らなかったが、何気ない会話はそれなりに交わしていた。

 その中で実りあるものといえば、互いの呼び方と口調だろうか。頑なにバゼットが敬称での呼び方に抵抗を示すので、仕方なく士郎は普段通りの口調で話すことにした。
 士郎はバゼットに対しても同じように述べたが、バゼット曰く『構いません。これが素ですので』などと言われては答えを濁しておくしかなかった。

「買出しですか。なんなら私が行ってきましょうか?」

「いいよ、自転車使うから。それにバゼットはなんだかこういう事に疎そうな気がするし」

 士郎の何気ない一言にバゼットは、むぅと唸る。

 バゼットは自炊なども嗜んでいたが、その全ては効率を優先してのものだ。見るべきは栄養価と量だけであり、味など二の次。生で食べられれば生で食べるし、火も最低限通せば大抵のものは食べられる。
 更にこの御時世、惣菜や缶詰という実に便利かつ摂取の容易い食品が溢れているので、わざわざ時間をかけてまで美味しいものを作る、などという考え自体がバゼットから失われていた。

 これも殺伐とした任務の多い封印指定の執行者である弊害なのかもしれない。単にバゼットの気質に拠るものかもしれなかったが。

 顔を顰めたバゼットを見やり、士郎は苦笑を零す。

「まあとりあえず買出しは俺が行くから。それまでは適当に寛いでいてくれ」

「ああ、待ってください。では私も少しだけ所用で出掛けたいのですが」

「? 別に構わないけど……」

 結局二人して一度は戻った屋敷をすぐさま後にした。





/2


 時計の針は既に夜の九時を指している。

 士郎の買出し、バゼットの所用。それから調理、夕食、汗を流す為のシャワーと一通りの栄養補給と疲労回復に努めたりとしている間に、もうこんな時間になってしまった。

 後は最大の回復効果があるであろう睡眠を貪りたいところだったが、如何せん状況の把握が終わっていない。張っていた気が抜けたのか、多少の気だるさを感じながらも、二人は居間で顔を突き合わせていた。

 士郎は自室から持ってきた普段着、バゼットは先の外出時に取りに戻っていたという私物であるスーツを着ている。
 ただ今はパンツにブラウスだけでネクタイも締めていない。微かに窺える首筋にどきりとした士郎だったが、状況を鑑みて雑念は頭の隅に追い遣っていた。

「……じゃあ今回の聖杯の降臨場所は柳洞寺になるのか」

「ええ、順当に考えれば。他の場所でも行えないこともないですが、空き地となっている新都中央公園は格が低い。教会は崩壊していますし、わざわざ遠坂邸でことを成そうなどとは思わないでしょう。それこそ遠坂に連なる者でもない限り」

 互いが知りうる限りの情報を共有し、これから向かう場所についての議論に差し掛かっていたのだが、これもほとんど結論が出たも同然だ。
 霊脈としてもっとも格の高い柳洞寺。第一次聖杯戦争から一巡し、この第五次聖杯戦争の決戦の地は件の場所になるだろう。完全なる聖杯の降臨を望むあの少女であれば、これ以外の選択肢などありえない。

「あと問題があるとすれば、戦力か」

「これが一番辛い難題ですね」

 士郎とバゼットはこうして協力関係を結んではいるが、それはあくまで向かう先が同じである事に尽きる。士郎は数多くのものを背負っているが、バゼットは言峰綺礼と一対一で向かい合える状況が作り出せればそれでいい。

 無論、それまでの道程においては最大限の助力を惜しむ気などないのだが、もし仮に。士郎が柳洞寺へと乗り込む前にその状況に遭遇してしまえばそれまで。そこから先は、一人で進まなければならない。

「勝手を言って申し訳ありません、士郎くん。ですが……」

「いや、気にしなくていい。マスターじゃなくなったっていうのに俺の我が侭に付き合って貰うんだ、謝られることなんかない。むしろ俺が感謝したいくらいだよ」

 そうは言っても状況が状況だ。どう転ぶかなんてバゼット自身にもわからない。最悪、自分の目的さえも放棄しても構わないと今では思っている。見えない先を目指して走り続けること。それが今、自分に出来る精一杯であるのだから。

「やはり、なんとかしてセイバーの行方を捜すべきではないですか? それこそ令呪を使ってでも」

 沈痛な面持ちでバゼットが口にする。そう、今最大の問題点。それはサーヴァントの不在だ。相手にはあの英雄王に騎士王という、英霊の中で見ても最強クラスのサーヴァントが二騎も未だ存在している。生身でぶつかって勝ち抜ける相手ではない。

「いや、騎士王……アルトリアに関しては俺がやる。他の誰にも任せない。俺が相手をするって決めたから」

「その意気を私には否定できませんが……騎士王を仮に士郎くんが止めたとしましょう。けれど英雄王をどうするのです?
 あの男は、恐らく本当の意味での最強だ。ならばこちらも最低でもサーヴァントを従えていなければ勝ち目は……」

 バゼットの言葉を遮り、唐突に鳴るコール音。居間に備え付けられた電話が鳴り響いた。

「電話……? こんな時に……藤ねえか?」

「いえ、このタイミング。彼女がまだ諦めていないとすれば、あるいは」

 バゼットのそんな呟きを後ろに聞きながら、士郎は受話器を取った。

「はい、衛宮ですけど」

『あ、やっと繋がった。ちょっともう、何処行ってたのよ。時間ないんだからあんまり手間取らせないでよね』

「……は?」

 いきなり何言ってんだこいつは、と思った士郎だったが、よくよく聞けば何処かで聞いたことのあるような声音だった。

『ちょっと、士郎? 聞いてる?』

「おまえ……まさか遠坂か?」

『そうよ。あれ? 一番初めに言わなかったっけ』

「言ってない、断じて言ってないぞ。一瞬誰か判らなかった。ついでに言えば悪戯電話かと思ってきっちまおうかと思った」

『あら、切らなくて良かったわね。知ってる? 電話越しでも魔術って使えるのよ』

「…………」

 本当か嘘かは士郎には判らなかったが、とりあえず切らなくて良かったと安堵した。もし無視して切っていれば、二度目に出た際に怒鳴りつけられる事になっただろう。それこそもう所構わず罵詈雑言を撒き散らして。

「……で、何か用か? 俺もそこまで暇じゃないんだが」

『こっちも暇じゃないわよ。というかアンタ、自分のサーヴァントわたしのところに置いといていいわけ?』

「────は?」

『何バカみたいな声出してるの。だからアンタのサーヴァント、セイバーは今わたしのところにいるって言ってるの』

 改めて言い直されても士郎にはよく状況が掴めなかった。何故アイツが遠坂のところにいる? 今までずっと遠坂と共にいたのか? 何故? いや、今それはどうでもいい。聞かなければならない事は一つだけだ。

「とおさ……」

『──士郎。これ以上の話を続ける前に、一つだけ答えて』

 言いかけたところになんとも強引に割り込んでくる凛の声。ただその響きが、これまでのそれと違って重く静かだったから、士郎もまた声を強張らせた。

「なんだ、遠坂」

『貴方にはまだ戦う意志が残っているのか。聞きたいことはそれだけよ。イエスかノーで答えて。そしてもしノーなら、貴方の令呪はわたしが貰う』

 つまりそれは、サーヴァントを寄越せという意志。アーチャーを失ってなお、あの少女は戦う事を諦めていない。これから立ち向かう敵が強大であると知っているからこそ、持てる全てを賭けて戦略を練り上げている。

 衛宮士郎に戦う意志がないのならば、それはそれでいい。けれど、わたしはまだ諦めてないから、おまえの令呪を、サーヴァントを寄越せ。戦う意志のない者が持っていていいものではないと。

 士郎は笑った。まだここにも諦めていない人がいた。諦めないでいてくれる人がいた。共に立ち向かえる仲間がいた事に、士郎は小さく笑った。

『……なによ? 気持ち悪い。さっさと答えを聞かせて』

「ああ、悪い。ちょっと嬉しくてさ。ええと、答えか。決まってる。もちろん、イエスだ」

『そう』

 酷くあっけない返事だった。拍子抜けしたと言ってもいい。士郎の知る凛の気性ならそれこそ奪い取ってやるくらいは言ってくるものと覚悟していたが、凛にとって士郎の返事は想定の範囲内。
 むしろそうあって欲しいという願いさえも込められていた気がした。

「そういう遠坂はどうなんだ。まだ戦うのか?」

『そうね。そりゃ士郎がいらないって言えば奪い取って、いざ最終決戦ってつもりだったけど、士郎が戦うのなら、わたしはわたしの目的を果たすだけよ。
 その辺、詳しく話し合わない? 今更サーヴァント持ってないわたしに目くじら立てる必要もないでしょ』

 士郎は凛に対してそんなものを立てたことなど一度としてなかったつもりだが、そこはあえて追求しない。

「じゃあ直接会って話し合わないか。こっちにはバゼットもいる。電話越しじゃ、何かと伝わりにくいだろ」

『そうね。そう出来ればそれが一番良いんだけど、無理。なんといっても、アンタのサーヴァントがアンタに会いたくないって言ってるんだから』

「──────」

 流石に、カチンと来た。あいつは一体何を考えている。あいつは一体何がしたいんだ。あいつなら、今がどういう状況なのか判っているだろうに。

「遠坂、セイバーに代わってくれ」

『え? でも……』

「いいから。早く」

 士郎にしては珍しく低く怒りを滲ませた声音に凛も何かを感じ取ったのか、ちょっとまってと前置いてから一度受話器から離れた。
 遠い場所で声が聴こえる。何やら二人で話し合っているようだった。

『もしもし』

「セイバーか」

 その声を聞いた途端、より声が重くなったのを自分でも感じた。初めに出会った頃から何を考えているか良く判らない奴だったし、それ以上にキレる奴だったから特に思うところもなかったが、今回だけは別だ。はっきり言ってやらなければならない。

「おまえ、一体どういうつもりだ」

『あれ、凛さんから聞いてませんか? ならもう一度言いましょうか。僕は貴方に会いたくない。その言葉の通りですけど』

「ふざけるなッ!」

 受話器の向こうから、小さな悲鳴が聞こえた。凛が余りに大きな士郎の怒声に驚いたようだ。士郎の後ろに座しているバゼットは静かに手にした湯呑みを傾けていた。

「いい加減にしろ。おまえだって状況が判っていないわけじゃないだろう」

『ええ、大体は把握しているつもりです』

「なら判ってくれ。別に俺の事が嫌いならそれでもいい。ただ今はお互いの情報の共有と戦力を整える必要があるだろう。
 その為にはこうして電話越しに話すよりも直接会って話す方が早いし伝わりやすい。その為に……」

『イヤです。貴方に会う気はありません』

「……令呪を使うぞ」

『………………』

 受話器の向こうでセイバーが押し黙る。士郎とて、それで何かが解決するとは思っていない。ただ、この段にまで来てこんな我が侭を言うセイバーに、腸が捩れる思いだった。
 もっと聡明な奴だと思ってた。自分の都合を飲み干して、周りに合わせるくらいの度量は持っていると思っていたのに。

 たっぷり一分近く沈黙が続いただろうか。やおらセイバーが口を開いた。

『それでも、です。僕はまだ、貴方という人を見極めていない』

「……どういう意味だ」

『言葉の通りです。そしてその見極めを行うのはこんな場所じゃない。僕と貴方が次に出会うのは戦場だ』

「…………」

 今度は士郎が黙る。恐らく、これ以上問答を続けたところで答えなんか出ない。セイバーは首を縦に振らない。令呪で無理矢理呼び寄せたとしても同じ。すぐさま出て行く腹積もりだろう。

 残った令呪は二画。この場への召喚。屈服。二画分を使用しても同時に楔より外れては意味がない。恐らく、その辺りまで見越してのものだろう。余計なところで頭はいつも通り回っているみたいだ。

「……わかった。それじゃあもういい。けど最後に一つだけ聞かせてくれ。おまえは俺の敵か味方か」

『貴方は僕のマスターだ。貴方に戦う意志がある限り、僕もまた剣を執る。これ以上の答えが必要ですか?』

「わかった……。じゃあ、また後で会おう」

『ええ、その時を楽しみにしています。では』

 受話器を握り潰さんとばかりに握り締める士郎の向こう、受話器越しに凛の溜め息ともつかぬ悪態を聞きながら話し手が交代する。

『代わったわ。まあ、そういうわけよ。貴方も大概な奴を引き当てたわね』

「……そうみたいだな。今日まで、全く気付かなかったけど」

『じゃあ話を続けたいんだけど。大丈夫? ちゃんと話し聞ける?』

「ああ、大丈……」

 言いかけて、後ろから肩を叩かれた。

「バゼット?」

「代わりましょう、士郎くん。今の貴方ではまともに話を聞けそうにない。私が凛さんと話を纏めておきますから、貴方は涼んでくるといい」

 ほら、と差し出されたバゼットの手を見て、士郎は深呼吸をした。

「悪い、じゃあ後を頼む。そういうわけだから遠坂、後はバゼットに任せる」

『ええ、わかったわ。少し頭を冷やしなさい。二人共』







 その言葉を最後に聞いて、士郎はバゼットに受話器を渡した。そのままふらふらと歩いていき、縁側へと出る。
 少し肌寒い風が頬を撫で、けれど今は心地よかった。身体の内から沸き立つ感情を冷ますには、丁度いい風だった。

「……くそ。アイツの考えなんて、判るもんか」

 想いは言葉にしなければ決して伝わらない。以心伝心など、余程深く繋がっていない限り不可能だ。衛宮士郎とセイバーが出会ってからまだ二週間にも満たないのだ、望むべくもない。

「せめて話してくれさえすれば、俺も答えを返せるのに……」

 だが恐らくは、そういうものじゃないのだ。セイバーが見極めたいものは上辺ではない本質。繕っていない心の奥深くにあるものをこそ、見たいと思っている。

 そしてその際に最も適した場所としてセイバーが思い描いたものが、戦場。数多の血と命が零れていく只中で、想いが重なるその場所で、セイバーは衛宮士郎を見極めようとしている……

「ああ、いいさ。見極めたければ見極めてみろ。俺もおまえを、見極めてやる」

 これまでの道程においてなお、二人は互いを良く知らない。セイバーは未だ衛宮士郎を見極めきれず、衛宮士郎はセイバーの真名さえ知らない。
 だがもし。二人が互いを了解したその時こそ、彼らは本当の意味でのパートナー足り得るのかもしれない……













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