剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十話









「ええ。はい、……はい。そうですね、ではその手筈で。判りました、では──ああ、ちょっと待ってください」

 どれくらいの時間、縁側に出ていたのかは冷えた頭でも判らなかったが、士郎が居間に戻るとまだバゼットは凛と電話の最中にあった。
 いや、もうほとんど話し終えていたのか、こちらに気付いたバゼットは受話器を差し出してきた。

「話は纏まりました。内容については後で話します。今は彼女と」

 バゼットから差し出された受話器を受け取る。士郎にしてみればもう凛と話すようなこともなかったが、何故か、謝っておかなければならない気がした。

「もしもし」

『士郎。どう、少しは落ち着いた?』

「ああ、悪い。ついカッとなった。もう大丈夫だから」

 確かに状況は深刻だ。けど頭に血を昇らせたところで何一つとして解決はしない。ならば冷静に、どんな状況下であろうと客観的な考えが出来るくらいに頭を冷やしておいた方がいい。
 今なお士郎とセイバーの間にある軋轢にも似た隔たりは、もはや戦場の中でしか塞がらない。次なる邂逅の時こそ、全てに答えを出す時。

『こっちもこっちで反省してるのかしてないのか判んない体だけど、まあ安心しなさい。アンタの代わりに手綱は握っておくから』

「助かる。遠坂に任せておけば大丈夫そうだ」

 どういう意味よそれ? と聞き返されたところで素直に言うわけがない。自分の思い通りにならない事があれば相手の首根っこを引っ掴んでも引っ張っていく奴だ、セイバーが拒絶したところで彼女の剣幕には敵うまい。

 そんな場面を想像して笑ってしまった。

『ちょっとアンタ、ほんとに大丈夫? 一人でくすくす笑ってられるとこっちとしても気になるんだけど』

「いやいや、大丈夫だから。じゃあ、そんなに時間もないんだろ。早めに休もう」

『そうね。だけど、一つだけ聞かせて。アイツは、アーチャーは最期に何か言ってた?』

「…………」

 凛とアーチャーの間にあるもの。それこそが信頼だ。一度は剣を向けてなお主に反逆の意思を垣間見せたアーチャーだが、その最期は確かに、アイツは遠坂凛の騎士だった。向いた先が少し違うだけで、それだけはきっと間違いない。

「いや、特には。けど──笑ってた。安心したって顔してた」

 衛宮士郎の口にした言葉に安堵の息をついて、顔を綻ばせた気がした。五年前、あの縁側で衛宮切嗣が士郎の言葉に同じ想いを抱いたように。

 だから、胸を張って前に進もう。違えない気持ちがある。託された想いがある。決して折れない信念がある。だから、前へ。
 これまで衛宮士郎を支えてくれた全てに感謝を告げて、決着をつけに行くのだ。

『そっか。──ぃよし! じゃあもう寝ましょう。お互い結構疲れてるだろうから。詳しい話はバゼットに聞いておいて。じゃあ、また後で会いましょう』

「ああ、また後で。おやすみ、遠坂」

『ええ。お休みなさい、士郎』

 受話器を置いて会話を終える。最後に気持ちの良い声が聞けた。

「それにしてもあいつ……いつの間に俺のこと名前で呼ぶようになったんだ……」

 益体もない思考を切り上げて振り返る。座したまま士郎を待つバゼットの姿を認め、士郎もまた腰を落とした。

「さて。では時間もありませんから手短に話しましょう」

「ああ、頼む」






届かない想い/Aria II




/1


「はぁ……ったく。これ以上余計な心労負わせないでよね、わたしだってそんなに余裕ないんだから」

 つい先程まで手にしていた受話器を置き、凛はテーブルの上にある盤面に視線を落としている少年を睨んだ。

「それに関してはすみません。けど、僕とあの人はまだ会うわけにはいかないんだ。今会えば、どちらにとっても良くない未来しか生まれない」

 そんな良く判らない事を言って、セイバーはテーブルの上のチェスの駒に手を伸ばした。
 ことん、と黒いナイトが白のポーンを倒すさまを見やりながら、凛もまたセイバーの向かいに腰掛けた。

「まあ良いわ。アンタらの確執なんてわたしは知ったことじゃないし。ちゃんと戦力として数えられればそれで充分よ」

「そこはもちろん。あのマスターが聖杯を前にしてどんな結末を望むかは……まあ大体判りますが、僕としても別にアレは収集の対象には入らない。
 僕が欲するものはその過程で得られるであろう、もっと別のものですから」

「つまりは、それがアンタの願い。召喚に応じた理由ってわけ」

 言いながら凛もまた白の駒を盤面上から動かした。セイバーは何も答えず、盤面だけを見ていた。

「あれ、これ負けてますよね」

「そうね。わたしの勝ち」

 その結果はセイバー自身、意外だったらしい。この手の玩具に手を出して以来、初めて負けたからだ。
 まあ、負けてしまったものは仕方がない。原因の追究をしようとして止めた。無駄だ。思考を邪魔したものがあった。それだけでしかない。

「じゃあさっと作戦概要を確認して早めに休みましょ。残された時間は六時間を切ってるから」

 凛の言葉に、セイバーは頷いた。







 決戦の場所は柳洞寺。凛の話では柳洞寺には受け皿となる聖杯以外にもう一つ、大聖杯と呼ばれるものがあるらしい。この聖杯戦争の魔術基盤。発端とも呼べる存在が、その場所には眠っている。

 現在確認できる敵戦力は言峰綺礼、アルトリア、ギルガメッシュの三名。敵の手に落ちたイリヤスフィールと間桐桜を含めて計五名。だが後者は少なからず敵ではない。明確な敵意がない限り、手出しはしてこないと考えられ、むしろ救出すべき対象である。

 つまり、相手取るべき敵は前者である三人。各個撃破が出来れば最良だが、聖杯を担うイリヤスフィールが向こうにある以上、悠長に構えていられる時間はなかった。
 これまで消滅した──消滅を確認した──サーヴァントは五騎。下手を打てばセイバー以外のサーヴァントは消滅している可能性がある。もはやいつ聖杯が降臨してもおかしくない状況だ。

 よって、休息にかける時間は六時間。今日の夜が明ける前に乗り込み決着をつける事でバゼットと凛は合意した。
 現在、まだ聖杯降臨の予兆は見られないが、もし何かしらの動きがあれば開始時間は早まる可能性はある。が、出来る限りの休息は必要不可欠。凛、もしくはバゼットの意志なくしてこの突入時刻は動かさない。それまでは休息に徹するように。

 そして最重要である、戦う相手。先程言ったように、各個撃破を出来ればいいが恐らく不可能。進軍方法、各々の戦う理由などが挙げられるが、最たるものは向こうにもし同時に襲い掛かられれば全滅が必死であるからだ。
 最低でもアルトリアとギルガメッシュは分断しなくてはならない。

 よって、言峰綺礼をバゼット、アルトリアを衛宮士郎、ギルガメッシュをセイバーが受け持ち、凛がイリヤスフィールと間桐桜の救出を行う。

 作戦概要は以上であり、これらはあくまで予定でしかない。現場では常に不測の事態が起こる可能性がある。結局は各々のその時の判断に委ねるしかない。

「────と、以上が打ち合わせた計画の全容です。何か質問は?」

 バゼットが話し終わるまで一切口を挟む事無く聞いていた士郎が小さく溜め息をついた。

「いや、俺からは特にない」

「そうですか。では逆に私から質問しましょう。士郎くん、勝算はありますか?」

「──────」

 計画の中で最も無茶な部分、それは士郎の受け持ちだ。相手はあの騎士王、アーサー王なのだ。これまでバーサーカーとアーチャーを撃破している強者。
 二騎ものサーヴァントが彼女に挑み、結果その命を散らせた。覆しようのない事実としてあるその成果。衛宮士郎で、アルトリアを止められるのか? それがバゼットの抱いた疑問だった。

「この際ですからはっきり言いましょう。貴方の実力はどれだけ高く見積もってもサーヴァントには届かない。それどころか私にさえ及ばない。
 貴方の魔術の特異性も多少は知っています。可能性の芽がない事もないですが、相手はそんな小細工で立ち向かえる相手ではない。それこそ、魔術を発動する前に斬り捨てられるかもしれない」

 むしろその可能性の方が高いだろう。衛宮士郎はアルトリアに啖呵を切った。その時点でもう敵として認識されている筈。見敵必殺。有り得ない話ではない。

「凛さんも同じ疑問を抱いていました。士郎くんの意気込みを買い、なんとか押し切りましたがやはり変更も考慮すべきかもしれない。
 せめて私か凛さんのどちらかと組んでなら、あるいは。……いや、それでも厳しい」

 バゼットは敵を決して過小評価しない。サーヴァントの相手を務められるのはサーヴァントだけ。その理屈を超えられる手段をバゼットは持っていたが、今はもう失われた。最後のフラガラック、未使用であったそれも今頃は瓦礫の下敷きだろう。

 生身の一魔術師として騎士王に立ち向かうとすれば、バゼットでさえ勝率は一割にも満たない。切り札を失ったバゼットが究極的に正攻法を得手とする騎士を相手取る場合、単純なスペック勝負になる。
 直接的な面識はなくとも、セイバーのクラスである事などを鑑みれば、押し切られての敗北が一番想像し易い結末だ。

「意地や覚悟だけで勝てる相手ではないことは、直接彼女の戦いを見た貴方の方が理解しやすい筈だ。
 それでも──貴方の決意は変わりませんか?」

「…………」

 押し黙る士郎。勝算なんて、ない。バーサーカーが敗れたのはともかく、アーチャーが敗北した時点で衛宮士郎に勝機はない。
 衛宮士郎の可能性の一つがあの赤い弓兵であるのなら、その高みにさえ届いていない士郎にアルトリアを打倒する術など持ち得ないのは当然の帰結。

 アーチャーは持てる全てを曝け出し、命さえも燃やし尽くしたというのに騎士王を止められなかった。ならば、衛宮士郎が彼女に勝利し得る可能性の芽など、何処を探しても在る筈がない。

 それでも。

「無茶だってのは承知してる。無謀だってのも判ってるつもりだ。だけど任せて欲しい。俺はアイツを救いたい。俺がアイツと戦わなきゃ、いけないんだ」

 イリヤスフィールは言った。見届けろと。自らの身を危険に晒してまであの戦いを見せた事には意味がある筈だ。
 アーチャーは無言でなお語った。ムカつく奴だし、気に食わないのは今も変わらない。けれどあの戦いを見て、あの背中を見て理解した。アイツの本心。アイツの想い。

 最後に安堵したあの男に託されたものを捨ててはいけない。衛宮士郎は、もう胸に抱いたものに背を向けてはいけないのだ。
 だから立ち向かう。震える手足を抑え付け、逃げろと警告する直感を捻じ伏せて、ただ前に。信念を貫いて。

 バゼットを見つめる士郎。決して曲げないという強い意思を瞳に宿し、睨むようにその瞳を見つめていた。
 そんな士郎を見やり、バゼットは溜め息をついた。殊更、わざとらしく大きく。

「……凛さんの言うとおりですね。これはもう、何を言っても聞きそうにない」

「え?」

 やれやれといった顔で柳眉を寄せるバゼット。士郎はぽかんとしたまま状況が理解できずにいた。

「先程士郎くんの意気を買い凛さんを押し切った、と言いましたがあれは嘘です。逆に押し切られました。曰く、“──あのバカに何を言っても聞きはしない。好きなようにさせればいい”だそうです」

「────」

「ええ。ならば貴方の好きなようにやるといい。その為のバックアップは惜しみません。その代わり、貴方は騎士王との戦いだけに集中しなさい。他の事、イリヤスフィールや間桐桜の事は凛さんに全て任せて」

 それは、この上ない激励。遠坂凛という少女の屈折した優しさがバゼットを諭し、バゼットもまた理解を示してくれた。ならば、後は……

「ああ、ありがとう。俺はアルトリアの相手だけを考える事に専念する」

 人の掌に掬える量など高が知れている。けれど今は、こんなにも頼もしい仲間がいる。余計なことは考えず、信頼を。遠坂凛という強い少女を信じて、衛宮士郎は自らの精一杯を行うだけだ。

「ならばこれで話は終わりです。早く休息を取りましょう。体力切れで敗れた、というのは笑い話にもなりませんからね」

「わかった。寝る場所は客間の方を好きに使ってくれ。どの部屋も空いてるから」

「ありがとうございます」

 言って二人は立ち上がる。次に会うのは六時間後。戦いを前にした時だ。

「ではお先に失礼します。士郎くんも早めに休むように」

 恭しく礼を取り、バゼットは居間を辞した。まったくもって無駄がない。休むと決めた以上はその行動は迅速だった。

「さて、と」

 一人きりになった居間で士郎が呟いた。このまま自室へ戻って眠るのもいいが、その前にやっておきたい事があった。
 その為に、士郎は縁側へと足を向けた。





/2


 間桐桜が目を覚ました時、自分が一体何処にいるのか判らなかった。軋むベッドから身を起こして辺りを睥睨する。闇。真っ暗闇しかない狭苦しい部屋の中。鼻を衝く異臭が立ち込めていたが、桜はさして気にした様子もなくぼんやりとしていた。

 それでも彼女は状況が理解できなかった。何か怖い夢を見ていて、何処か別の風景を見ていたような感じ。背中には冷たい汗が浮かんでおり、少し肌寒い。

 ベッドから降りて自らの足で立つ。

 ああ、本当に自分は何故こんな場所に居るのだろう? 私の居場所はこんなところじゃないのに。

「……帰らなきゃ」

 ふらりと彼女の足は誘われていく。いまだ朦朧とした意識のまま、桜を衝き動かす感情に素直に頷いて。

 足元には粘ついた水が流れている。暗いトンネル。排水溝じみた汚泥の中を、間桐桜は一心不乱に駆け抜ける。帰らなきゃいけない。戻らなきゃいけない。ここは私の居場所じゃない。私は、あの場所に帰りたい。

 ……何処へ?

 判らない。けど、走る。きっと待ってるから。突然居なくなった私を捜して、あの人はずっと帰りを待ち侘びてくれているから。
 だからまず最初に、ごめんなさいを言わないと。心配かけてごめんなさい、突然居なくなってごめんなさい。けれどもう大丈夫ですから、と笑うのだ。

 唐突に開けた視界。けれどそこもまた闇色。いや、先程よりも幾分明るい天然の暗闇だった。
 星空の見下ろす未遠川の河口に桜は居た。全く以って何故こんな場所に居たのか判らなかったが、ここまで来れば進むべき方向もわかりやすい。薄汚れた衣服のまま、桜は更に歩を進めた。

 河川敷を超え、町の中へ。夜もすっかり暮れているこの時間、行き交う人などいない。新都で発生した昏睡事件、学校での事件、教会の倒壊など良くない事件が立て続けに起きているこの街に、わざわざこんな時間に繰り出そうとする者もそうはいなかった。

 新都の方へ行けばまた話も違うだろうが、桜が向かうのは深山町。閑静な住宅街と一昔前の装いを残す商店街くらいしか目ぼしいもののない町だ。今時の若者が好みそうなものは何一つとしてない。

 けれど桜にとっては、大切な町だった。あの人がいるから。あの人の家に行って、あの人の為に料理を振舞う。
 辛い想い出も多いけれど、あの人がいるから、私はまだ人でいられる──

「…………はぁ、っく……!?」

 十字路に差し掛かった辺りで、唐突に桜の身体が跳ねた。痙攣を起こしたように四肢が震え、立っていられなくなって膝をついた。

「は、ぁ、うっ……あぁ……っ!」

 ……入ってくる。知らない何かが、この身体の中に入ってくる。間桐桜という自我を押し潰し、許容量を超えた何かが、有無を言わせず浸食していく。
 胸を掻き抱くようにして蹲り、桜は我が身を襲った突然の衝動に堪え続ける。点滅する視界、耳鳴り、震える手足。全てに堪え、治まる時を静かに待ち続けた。

 胸に沸いた黒い感情。世の全てを否定したくなる悪意の声を聞きながら、それでも間桐桜は耐え続ける。もういいじゃないか、素直になれという囁きさえも無視し続けた。
 だって、あと少しなのだ。あと少し。この坂道の先に、あの人が待っていてくれるから。

「はぁ、はぁ、はぁ、……は、ぁ……」

 ようやく落ち着きを取り戻した身体を起こす。額に浮かんだ玉の汗がぽたりと道路に染みを作り、がくがくと震える足を近場の塀を支えにして立ち上がる。
 そしてそのまま、這うように前に進む。ぐにゃぐにゃに歪む視界に卒倒しそうな眩暈を覚えても、足だけは止めなかった。牛歩の歩みでも、もう少し。もう少しだからと自分に言い聞かせて。

「…………ぁ」

 ここまで駆けて来たよりもなお時間をかけ、桜はようやく屋敷の前まで辿り着いた。もう完全にふらふらで足元さえ覚束ない様子。でも、こんな姿をあの人に見せるわけにはいかない。
 塀を支えに背筋を伸ばす。震える膝を抑え付け、大きく深呼吸。額にびっしりと浮かんだ汗も拭き取って、最後に笑顔の練習。私は笑ってなきゃいけない。いつも通りに、あの人に心配をかけないように。

 それだけ苦心してなお他人から見れば見るに耐えない、蒼褪めた顔をしていた桜だが、本人はまるで気付いていない。いつも通りに振舞えていると自分を騙し、入り口に手をかけたところで、その人の姿を目視した。

「せんぱい……」

 門から顔だけをひょっこりと覗かせ庭の方へと視線を向ける。縁側を横切り、土蔵の方へと向かう一人の男。
 毅然とした表情、何かを決意した顔つきで、庭に下りていく家主の姿を認め、ようやく桜は微笑んだ。

 居てくれた。ちゃんと待っていてくれた。この家で、この場所で、彼は間桐桜の帰りを待っていてくれた。
 嬉しくて涙が出そうになった。けど頑張って堪えて、先に謝りに行こうと思った。

「あ、れ……?」

 けど、足が動かない。石のように動いてくれない。この門を潜って、ちょっと庭を横切ればもうあの人に気付いて貰えるのに。何故。なんで? そんな事は判らない。けど、必死になって踏み出そうとしてももう、その門を潜る事は出来なかった。

 そんな桜の姿を余所に、士郎は庭を横切っていく。間桐桜から離れていく。待って。行かないで。叫び上げたい気持ちだったが、もはや声すら喉を出ない。

 離れていく。遠ざかっていく。間桐桜から、衛宮士郎が離れていってしまう。それは、間桐桜にとって、なにものにも代え難い苦痛だった。

「──やはり、ここに居たか、間桐桜」

 そして背中にその声音を聞いた。重く冷たく、悩める者の苦悶の声。けれどようやく喜びを見出した、甘美を秘めた音色だった。

「諦めたまえ、間桐桜。おまえの事など、あの男は見ていない」

「なに、を……」

 搾り出した声。振り仰いだ首。細く鋭利に輝きながら、月さえも嗤う夜の中で、その男は歪に口元を歪ませている。

「そのままの意味だ。あの男にとって、おまえなど眼中に無い。もはやいなくなったおまえなど失念して、あの男は別の女の元へと向かおうとしている」

「そんな……」

 嘘だ。そんなこと、ある筈が無い。彼は私を待ってくれている。だからおまえは嘘を吐いている。そもそもの元凶の言葉など、誰が信じてやるものか。

「嘘ではない。おまえがいなくなってから、あの男が何をしていたか教えてやろう。あの男はな、別の女のところに居た。
 その証明として、一度行方を眩ませたおまえがこの屋敷に戻った時、あの男はいなかっただろう?」

「────」

 否定したかった。けれど、それは事実だ。桜はライダーに助け出され、この屋敷で主の帰りを待ち続けた。でも家主は帰ってこなかった。ずっと待っていたのに。料理を拵えて、寒い家の中でずっと、待っていたのに。

 そして、この男に攫われた。もしあの時、彼が居てくれたのなら、今の自分はなかったかもしれないのに……

「だめっ……!」

 胸の内に沸いたドス黒い感情。負の感情に包まれる実感を振り払うように桜は我が身を掻き抱いた。

「素直になれ、間桐桜。今おまえの中に渦巻いているものを“是”とし、感情の赴くままに理性を殺し、欲しいものを欲しいと叫べばいい。欲望のままに。奪われたものなら奪い返せばいいだけだ。
 何故ならそれは──人としてとても正しい在り方だ」

「や、だっ……!」

 男の言葉が胸を刺す。傷口を抉り開くように、ゆっくりゆっくりナイフが突き刺さる。見てはいけないものを見てしまう。目を背けていなければ立っていられないものを、直視させられてしまう。

「は、ぁ。た、たすけ……せん、ぱ……」

 苦しげに呻く桜。それでもなお涙を堪え、咽喉もと過ぎた情念を飲み干そうとする少女を見やりながら、言峰綺礼は月に嗤う。
 確かに強い。この心は、外からは決して砕けない。ならば自ら、その心を曝け出せ。最後の一押し。奈落へと叩き堕とす言霊を。

 ……さあ、切開の時だ。

「────目を背けるな、間桐桜。その闇を見ろ。そして己が名を思い出せ」

「やだっ。やだやだやだやだやだ……! いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」

 絶命の遠吠えに似た叫びを上げて、桜は糸が切れたように倒れ伏した。その少女を冷めた目で見つめる綺礼。

 ……失敗か。

 内心で呟いて、落胆している自分に気が付いた。間桐桜は壊れていない。最後に一欠片残った良心を守る為に、桜は自ら意識を遮断した。言峰綺礼の言葉では、間桐桜は砕けなかった。
 ならばなんと脆くも強い心の在り方か。この少女が壊れ狂う姿を見てみたかったと思う自分がいたけれどもう、時間がそれを許さない。

 失敗に終わったが、予定には変更も狂いも無い。その為の黄金の杯だ。この女はこのまま捨て置いても良かったが、そうもいかないか。英霊を喰らったこの少女にまだ、使い道がある。

 最後の絶叫に気付き誰かが出てくるまでそれほど時間も無い。綺礼は意識を失っている桜を抱え、尋常ならざるスピードで姿を消した。





/3


 明らかに女の人の悲鳴を聞いた気がして、家を飛び出してみたが、そこにはなにもなかった。静まり返る夜の帳。細く薄い月だけが煌々と輝いている。人の息遣いなどなく、閑散としていた。

「気のせいか……? 疲れてるのかな」

 首を捻りながらも士郎は土蔵へと戻った。何れにせよ、今は余計な事に感けている暇はない。衛宮士郎がアルトリアに対抗する手段を見出さねばならない。
 古臭い匂い、薄い暗闇の中心に座し、己を見つめる。衛宮士郎が長く鍛錬を行ってきたこの場所で、より深く埋没する。

 自己の深奥、未だ意識さえ出来ていない場所へと手を伸ばす。衛宮士郎では、固有結界を展開できない。少なくとも今のままでは。アーチャーに出来る事は衛宮士郎に出来なければおかしい。
 ならばまだ先がある。自分でさえ知らない暗闇の先。その場所へと至らなければ、あの少女を救うなど夢物語に等しい。

「────、────っ」

 身体が熱い。かつて感じていた熱した鉄針を背中に突き刺すイメージによく似ている。衛宮士郎の魔術回路には己のものじゃない魔力が溢れている。
 イリヤスフィール。彼女から流れてくる膨大な魔力は士郎に害がないレベルで堰き止められ、全く活かして切れていない。

 衛宮士郎が認識している魔術回路は二つ。足りない。この程度の回路で、固有結界を展開するなんて不可能だ。回路の数が増せばその分貯蓄できる魔力量が増え、一度に使用できる魔力量も増加する。
 ならば、衛宮士郎には先がある。目視できないその壁の向こう側へ、手を伸ばせ……!

「くっ……、は、ぁ…………うぅ!」

 熱い。溶ける。衛宮士郎という剣が熔解していく。開いたイリヤスフィールとのパスの先から流れ込んでくる膨大な魔力が身体の中を氾濫し暴走する。
 抑え付けるのではなく、受け入れろ。流れを作り、水で満たせ。この身体にはそれだけのキャパシティがある筈なのだ。無い筈が無い。アーチャーに出来て、衛宮士郎に出来ない事など、有り得ない……!

「はぁああ……っ!!」

 跳ね上がる心臓を抑え付け、なお深い部分に手を触れる。キィキィと囀る刃の音。無限に重なりあった刃が擦れ合い啼いている。
 気持ちが悪い。自分の中身がこんなものだったなんて、おぞましくて吐き気がする。

 だけど士郎は笑ってやった。丁度いいじゃないか。剣。この身が剣だなんて、とても洒落てる。おぞましくも美しい鋼の造形物。
 肉は鋼鉄であり血は熱だ。二つは交じり合い、時に柔軟に時に強靭に成り代わり、柔肌よりもなお硬質。これより立ち向かう敵を思えば、それぐらいが丁度いい。

 剣であれ。無限を集めて一つと束ねる、剣製の剣であれ。

「っ……あぁ……」

 姿勢を崩し手をつく。溢れ出た汗が地面を濡らし、荒い呼吸が白く煙る。そのまま横になり、呼吸を整える。ひんやりとした大地が火照った身体に心地よい。
 身体の中を満たす充足感。頭の頂点から足の爪先までを熱い魔力が満たしているような気分だ。

 解放された二十七の魔術回路。作られ打ち捨てられていた回路に火が灯る。以前、腕を壊した時、イリヤスフィールに治療して貰ったことを思い出す。
 行ったことはほとんど同じ。単に今まで意識できなかったものを意識し、風を通したに過ぎない。本来衛宮士郎が持ち得る魔術回路なのだから、身体に影響を及ぼすフィードバックもあろう筈が無い。

 ただ、身体を包むこの熱だけはそう簡単に引いてくれそうにはなかった。力技で抉じ開けたせいだろう。だが、止むを得ない選択だ。これでようやくスタート地点に立てた。後は己の全力をぶつけるだけだ。

「待ってろよ……すぐに、行くから」

 誰に対しての呟きだったのかは定かではなく、士郎はそのまま静かに意識を手離した。
 その最後に脳裏を過ぎった言葉。衛宮士郎を顕す、たった一つの言霊を静かに、胸に刻みつけて。

 ────身体は剣で出来ている。













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